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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。
第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
みたいな話があったみたい
第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)
第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
人生のあと残った時間を費やすっていうのが
第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)
第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
そのとき初めて、ものすごい実感した
第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
みたいな(笑)
第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから
第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)
第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
そこをちゃんと見極めてたのは偉いと
第10話 どうなんですかね?
結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです
第11話 まかない食い放題!
生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの
第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
じゃあ、○円くださいって言って(笑)
第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか
第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない
第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね
第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
それが「あなたが社長ですから、
これ、サインしてください」って、突然
第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど
第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね
第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね
第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
お客さんって、すごいなとずっと思ってた
第21話 朝来た瞬間から、
自分でやりたいことを自己決定していくっていう
第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの
第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)
第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
「なんかあんまり」って思ってたけど
第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ
第26話 仕事してるとき、
自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)
第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな
第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから
第29話 塾すら近所だからさ、
全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの
第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです
第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか
第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう
第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
けど、それ以来ずっとこの界隈で
第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
駒沢でオープン
第35話 山梨の人は東京に出ると
中央線沿線に住む人が多いんですけど、
高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて
第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
頼れるのは家族みたいなのはあったのかも
第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた
第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ
第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって
第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
落ちたけど、コーヒーは飲みます
第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
声かけられて、そういうのなんか憧れるよね
第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは
第43話 …どっからか来てるのかな。
常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね
第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
後ろから人生を逆算してるから
第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)
第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです
第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど
第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
おっしゃって。「どうしよう」って(笑)
第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)
第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
ことが尊いともあんまり思ってないんですけど
第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね
第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
過ごしています
第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)
話し手 60代女性
聞き手 梅川久惠
生まれたのは柿の木坂。祖父母の家があってそこで父と母は同居してたから、結婚して。2年ぐらいいたのかな。母と姑とあまりうまくいかなくて、ちょっと色々とあって、横浜に独立したわけ。
祖母も私が生まれたら、もう私のことすっごい可愛がって。ほんとになんでも上手で、丁寧で。だから私はもうすっかりおばあちゃん子で。
母は弟が独立してから生まれて、初めて自分の子って感じがしたって。
私はちっとも帰らないで。だって私、3〜4歳ぐらいの、割と捷(はしこ)くて、白雪姫のかるたに、「母は継母怖い人」っていうのがあるのを自分のことだと思って。お母さんが迎えに来たのに「母は継母怖い人」って言ったんだって。で、母は玄関で帰ったって。いま思えばなんてことでしょうって思うけど。
…そう言ったって、帰らないわけにいかないじゃない。父が夜迎えに来て、「じゃあお父さんを駅まで見送りに行こう」って、電車が来たらさっと抱いて連れ帰られたことがあって。いまでもそのシーンは覚えてる。裏切られたっていうか、なんていうの。「なにこのこれは、この事態は」みたいな感じ。…覚えてる。
でも帰っちゃえば、子どもだからすぐに忘れてお隣のお友達と遊んだりするんだけど、いれば帰りたくないわけ。
そりゃそうよ。だって考えたら母はまだ24、5で未熟だしさ、なんか弟のことで手いっぱいだしさ。
祖母のところでは祖母がさ、もう何時間でも付き合ってくれて、絶対に子どもはそっちの方がいいじゃない。
でも、ほら、お行儀とかしつけとか、しっかりしてたから、そういう心配は母はなかったんだろうけれども。
──じゃ、柿の木坂で生まれて横浜に行って。
うん。母方の祖父母や親戚、けっこう東横線沿線にいたの。横浜からもっとずっと磯子の方に。だから、結婚してからもどうしても多摩川沿いに住む。
それがあって、あたし、いまのところにすごく引っ越したかったんだと思うのね。
大井競馬場のところに八潮団地っていうのがあって、そこに結婚してから、30くらいのときにマンションを買って、20年以上いたのかな、なんか通勤に便利だったのよね。埋め立て地なんだけど、人工の公園があって。
けっこう便利で引っ越せなかったんだけど、でも人工的な場所なんで、最終的にはどっか落ち着いたところに引っ越したいなと思ってて。で、駒沢公園近くのマンションが売りに出てるの、広告に出て。ここに住みたい! ここ!
なんか、自分の育った横浜じゃなく、やっぱり原点が柿の木坂だから、自分の心のふるさとはこっちなんだっていう感じがして。住むことにしました! みたいな。旦那の意見は聞かず(笑)。
犬もいるから、公園ライフ。でも、その犬も引っ越す1ヶ月前に死んだんだけどさ。だから引っ越してから外に出られなくなったの。駒沢公園、犬だらけなんだもん。
結局、半年ぐらいでまた耐えられなくなって、もらう。
──駅だとどこ? 最寄り駅。
駒沢か都立大か自由が丘、どこでも20分以上歩く。駒沢公園に北門出ると外周なわけよ。駒沢公園が庭。いくら駅チカでも、緑もないところとかには住みたくないっていうのがあったんで。私はここに住むために、いままで頑張って働いたんだ(笑)。それだけはなんか、満足。うん。
…その割にはうち、なんか綺麗にしてない(笑)。
──駅まで20分ぐらいで、生活するのにはいいとこなの?
スーパーとかないよ。サンクスネイチャーバスって言って、それに乗っていくと、自由が丘の東急スーパーのすぐ前に停まるから、そこで買い物してまた帰りも乗ってくるっていうことはできる。昔ながらのスーパーみたいなのがあったんだけど、やっぱりみんななくなっちゃって。
でも、いまコンビニでも結構買えるじゃない。いざというときはコンビニはあるので。そういう意味では、すごい便利っていうわけではない。
──じゃあ別にもう深沢、そこから出ていく気もなく。
どう、どうだろう。どうだろうっていうか、ちょっと悩んでる。
父がほら、先を見るタイプで、神奈川県が設立した介護付き有料老人ホームに引っ越したのが、67ぐらいのときで。
子ども達に迷惑かけないで済むし、母が体弱かったから、一戸建ての家で暮らすよりも楽して楽しんだ方がいいっていう決断をしてたので。でも、いま思えば私だってもうその年過ぎてて、よく決断したなって。うん、いま、まだ決断できないよね。
父はそこから仕事に行ってたしね。いわゆる老人ホームじゃなくて、自立型なので。
親戚に散々言われて。「子ども達もいるのに、どうしてそんなところに」とかって。20年ぐらいして、みんな自分が年取ってきたら「懸命な判断だったんだね」って。
それから、父が75ぐらいになったときに、人に貸してた実家を弟と私に住むかって聞いて。でも横浜の洋光台、山の上だからちょっと不便で、決断できなかったら、「75過ぎてね、色々決められなくなるから、だったら売るぞ」って言われて。父が亡くなったときに不動産なかったから、すごい楽だった。そういうことをきちんとやってくれてたのよ。すごいよね。まあ、父の時代よりも私たちの方がもうちょっと若いか。
主人が75になったら決断しようかと思ったけど。ね。まだちょっとね。そのとき、私は70でしょう。離れたくないよね。80ぐらいになっちゃったら、決断するのは嫌だろうなとは思うけどね。父から指標みたいな考え方は教えてもらったな。
両親があそこに入っててくれたから、日常のサポートは一切しないで済んだのね。だから美術館に行きたいとか、そういう文化的なサポートがいっぱいできたのよ。
私がバリバリ仕事してるときは、もう年に1回か2回行けばいいぐらいで。だからたまに行って、エレベーターでいろんな人と一緒になって、母が「うちの娘です」って、「あ、お嬢さんいらしたの」って言われて。「息子みたいなもんですから」って。仕事に忙殺されて息子っていう(笑)。
母は別にぜんぜんそれに価値は思ってない。父は、うん、ちょっと自慢で、M銀行だったじゃない。そこに定期預金をつくりに行って「娘がお宅の銀行で調査役をしてるんです」って。「じゃあ、随分長く働いてらしたんですね」ってお店の人が。「いやいや、まだ30ちょっとですよ」「それはすごい」って言われて、お父さんがすごい鼻ピクピクさせたよって(笑)。
親孝行でも孫は見せられなかったけど。
なんとなく母はぼけてるし、でも、父も、なんていうのかな、割とディレッタントっていうか化学屋さんだったし。バケガク。だからなんか、会社の中で出世するっていう、そういう感じではないわけね。
でも、自分なりのものはある感じなので。なんだろうね。びっくりしたのは、もう90近くなってからよ。放送大学で心理学を勉強したいって。自分を見つめ直したいっていうか、自分史を書きたいとか言っちゃって。そういう感じで、いろいろ興味がすごいある人で、俳句とか、カメラもやってたし。あたしはお父さん似なのね。ほんとに。
──ルーツが垣間見えるね。
そう、あとは、祖母。
いま、私が不器用ながらも手芸とかちょっとやるのが好きなのは、小さいときにずっと祖母のところで、もうそれこそ、なんでもやらせてくれたのね。
棒針で編むとか、刺繍もやったし、お料理も包丁も持たせてくれて。だから、ずっとやってなくても、ちょっとやりたいなっていう気持ちが強いとか。料理だけは好きとか、そういうのに繋がってんだろうな。着物もよく着せてくれてたんで。
あと、歌舞伎にも連れてってくれて。3歳になる前くらいに、私が絶対一緒に行くって我を張って。じゃあって行ったら、かぶりついたっていう。
叔母の膝の上に座って、それからずっと歌舞伎に行ってたよ。叔母がまたすごい教養の高い人で、いろんなこと知ってるから、「これはね、いまこういうシーンなのよ」とか、全部話してくれる。すっごいガイドがいるわけ。小学校に行って、学校が忙しくなってからあんまり行けなくなっちゃったけど。
だから三つ子の魂っていうかさ、そういう教養の部分を、叔母と祖母が全部。
でも、祖母と母の仲が悪いから、けっこう大変だったんだけど(笑)。両方に気遣い。
祖母のとこに夏休みとかずっと行ったりしてると、「お母さんはいつもなにしてるんだい」とか言われて、ぼーっとテレビ見てるような、じゃあまずいな。で、「よく知らない」とか「なんかしてんじゃない」とか。
そうすると、祖母が母に「ぼーっとした子だね。お母さんなにしてるか、よく知らないとか言ってるよ」って言ったとか。母は、私がわきまえてるんだなと思ったらしいけど。
言っちゃいけないこととか。人の気持ちを裏読みするのがすごく得意なの(笑)。だからたまに悪用するの。あからさまに攻撃しないで。なんか優しく言ってるようで、人がグサッとするような。言われたか言われてないかわかんないうちに。こう、ずんってくるようなことを言うの得意なの(笑)。
──昔、家をいろいろ探して「狭いけど深沢にした」って人がいて、今回この話があって、やっぱりそんなに魅力的なところなんだなっていうか。
そうだね。うん。でも、もう20年経つじゃない。引っ越してきたときは、周りは普通の住宅で、しかも100坪とか大きなうちもある住宅街が、道の向こう側とかいっぱいだったんだけど、どんどん老人ホームになって。この20年ですごい変わった。みるみる5年目…10年目ぐらいからかな。変わってきたね。
考えたら、もういまのとこにも20年住んじゃったんだと思って。前のとこも20年ぐらい住んだらそろそろ変わろうかって思いつつ、みたいな感じだったじゃない。…変わらないけど、とか言って。
──20年前といまとで、住まいを変えるか変えないかの違いってなに?
やっぱり、ほら、満足。ここはなんかやむを得ず、うん、もうちょっと年を取って一人で暮らしていけないなとか、そういう状況で変わることはあっても、終の棲家だとは思っているんだけど。
だけど、ほら、父を見てるから、終の棲家に固執するのもよくないなっていうのはあるから。いつかは出るかもしれないけど、基本的に、私の終の棲家はここ、みたいのはある。公園とくっついてるし。ノーパークノーライフ。
──横浜のお家の周りにもあった?
横浜はね、普通の住宅地だったけど、でも昔だからさ、お庭広いんで70平米くらい。でももうほら、草むしりとか、戸建てだと絶対できないわ。マンションに暮らしててもさ、仕事のとき、掃除できなくて人を雇ってたぐらいだから。
掃除、大嫌いなのよ。あとほら、家を綺麗に飾り付けるってことができなくて。だから、学生時代の同居人同士みたいな暮らしだよ。うちは。
なんかね、唯一トイレが広いのね。広いトイレの横に綺麗な中間の飾り棚があって、そこだけは綺麗になってて、壁にも絵が描いてあって。だからなんかもらうと、これはトイレに飾ろう。申し訳ないけど、トイレに飾ります。
でも壁に絵とかかかってんだけどね。なんかおしゃれじゃないっていうか。
人が来るってなったら、そこら辺にポトポト置いてあるものをどっかにぎゅっと押し込んで(笑)。
植木が好きで、ジャングルになってる、うち。しかもなんか拾ってくるの。いちばん最初は八潮にいたときに、ゴミ捨て場にシャコバサボテンとかなんかいくつか置いてあって、可哀想じゃんと思って拾ってきたの。そのシャコバサボテンがいますっごい大きくなって、株分けどんどんできるからあれは。
なんか、花ってさ、多年草が少なくて、咲き終わって捨てるってのは嫌なの。なんかこう、命を捨てちゃうみたいな感じで、だから、ずっと生き残るものが好きなのよ。
父がやっぱりそういうの好きっていうか、私が子供の頃は、チューリップとか、バラとかすごいやってて。そのうち仕事が忙しくなって、やんなくなったけど。退職して椿を集め始めて。で、実家は椿林になってて。
なんかちょっと枯らしたりするじゃないですか。いろいろ枯らしちゃって、「私、下手なんだ」って父に言ったら、「別にいいんだよ」って。「そこの場所に合う合わないがあるから、枯らしちゃったら、その植物はこっちには合わないんだなって思えばいいんだよ」って言ってくれたら、すごい気が楽になって。
うちの父、剪定がうまくて、ちゃんと全部いろんなものがかっこよくなってたんだけど、あそこらへんいまいちで。なんかにょきにょきにょきって。だから、ジャングルっぽくなる。
…でも、結構、親の影響受けてる。
私はなんかさ、自分がそういう親の影響を受けてるってうすうす感じて、自分が誰か人に対して影響を与えるのが怖くて、子どもが欲しくないと思ったので。だからほら、周りからなんか気遣って、いやいやいや、あえてつくんなかったんですよ、みたいなところがあって。
なんだろうね、なんか影響与えるの嫌だなって。与えちゃうじゃない。どうしても。こうでしょ、みたいなのあるじゃない。子どもだと余計与えそうじゃないですか。なんかそこの歯止めが効かなそうでやだと。それはある。
でも、自分はけっこう恩恵を受けてるのよね(笑)。
なんかあたし、身内に対してはそういうふうにガーって言っちゃいそうな感じが。うちと外を切り分けるっていうか。だからうちの旦那には、言いたいこと言ってる。
──受け止めてくれてるわけでしょ。
なんかこの頃、受け止めてないと思うよ。ざるのように流してる(笑)。ざるの穴がどんどん大きくなってる。そう。いま、明日の予定を言っても覚えてない。だから朝に言ってる。でも自分でも最近覚えてられないっていうか。なんか色々ありすぎて。
フルートもやってるしね。もうすごいよ。30年近く。いちばん忙しいときに始めたの。なんかストレス解消。ほんとの。
会社の一緒によく遊ぶ、2歳ぐらい年下の男性が独身で変わり者で、フルートを始めたのがカッコ良かったの。彼に「最初に買ったやつ」を貸してもらって、彼が習ってた怪しいお爺さん先生に2年ぐらい習ってた。
で、やっぱりちゃんと村松のレッスンセンターに通おうと思って、いまの先生に。いや、ほんとに、先生との出会いもあると思うんです。いやになっちゃうなってことない。
私が2年ぐらい続けてたから、母が「そんなに続けてるんだったら、フルート買ってあげるわ」って。それで銀座の山野楽器に見に行ったの。そしたら「ちょうどキャンセルになった村松のSRってフルートがあります」って出してくれて。吹いてみたら、「あ、この音いい!」って思って買ったんだけど、それが村松といえばこれっていうので、その当時、4年待ちだったんだって。
村松のレッスンセンターに変わって、フルート歴はまだ2年ぐらいで、SR持ってるって書いといたら、最初のレッスンのときに先生が「話題になってたのよ。まさか習う前に買うのを申し込む人いるのかって」。だからずっとやりなさいっていうこと。
──いろんなもの引き当ててるね。
そうそうそう。だから、私のモットーは、天の声には素直に聞くって。
会社を辞めるときも、ほんとに、いまは辞めどきだなって。勇気はいったけど辞めて、早稲田大学に行って、それからカウンセラーの道、進めたし。
信頼する人に言われたことは一応やってみるとか、自分がこれは天の声だなって思ったときにはやってみるっていうのは、そういう気持ちには素直になろうかなって。それをうまく言えないから天の声って言ってるんだけど。自分的にはね、なんていうの、こう、降りてくるなって感じがしたら、素直にやるって。
できるかな、できないかなって考えないでやっちゃって、できなかったら撤退すればいいし。悩んでるの時間の無駄だよね。もう、なんか60過ぎたら悩んでたって。
でも、結構ポンポン無駄なものは捨てちゃうみたいな。ほら、なんかどうでもいい付き合いしないって。
私、都市銀行にいたからエリートが多いじゃない、いわゆる。あんなにいっぱいエリートがいるのに、私が仲良くなってるのはみんなアウトローなの(笑)。別に出世してとか、社長なんとか派がどうのこうのとか、つまんないじゃないね。ゲテモノ好きですってのはそれよ。なんかちょっと個性があって、変わった人が好きなの。
で、いまの旦那になっちゃったみたい。若いときはいいけどさ、だんだんすごいから。なんか変わり方がよほど変わってるなとか思っちゃうけど。
──でもだから馬が合ってるかもしれないしね。
馬っていうか、たぶんあの人じゃなきゃ私とやっていけなかった。「君の人生なんだから、僕に頼らないでよね」みたいなとこ、あるんだよね。きっと、頼るって言ってギャーギャー支配されそうだってことで(笑)。
なんかそういう、普通の役割みたいなのをお互いにないから、だから結婚したんだと思うんだけど。
結婚するのにあたって、身構えてた。あの頃はまだ、そういう時代だったじゃない。
──家に入って支えてね、みたいなね。
どんなにいい人でも、ちょっとそういうところがあったから。絶対それはできないと思ったから。そうすると、そういうこと期待しない、変わった人に(笑)。
なんかね、ちょっとずつ先に行ってて、ダブルインカム・ノーキッズってのが、流行ったでしょ。その言葉が流行る前からそうなってた。5年ぐらい進んでる。
──天の声には逆らわないって、名言だよね。
ふふ。でもそれも45ぐらいからだよね。その前はなんかけっこう抗ってたし。「なんで昇格が男性より遅いんですか。彼と私のパフォーマンスのどこが違うんですか」って上司に迫ってたから。どこが足りないんだっていうさ、差別するなみたいな感じのところはあったから。
銀行の大きなシステムをつくるのは面白かった。
銀行とオンラインが日中やって、夜にその準備作業に立ち会ってなくって、なんか起きたときに、翌日まで間に合わないじゃない。だから順番で立ち会ったりして。夜中に電話かかってきて、やだなとか言うじゃない。主人が「かかってこない方がいいのか」「君を飛ばされた方がいいのか」って。
そういう意味では、ちゃんと仕事を真っ当にやる、責任持ってやるっていうことに対しては賛同してるから、夜中に帰ってこようが、夜中に呼び出されていこうが、なんでお前が行くんだみたいなことは言わない。
そこの理解があるっていうのは、技術職だから彼も。結婚した頃なんか1週間ぐらい帰ってこなくて、そのままアメリカに1ヶ月の予定で行ったのが3ヶ月帰ってこない。課長が「申し訳ありません。ご主人はもう1ヶ月遅れます」って。
3回目に、11月ぐらいだったのかな。「12月になります」って言われて「いつのですか、来年ですか」って聞いたことがあった。
そしたら、旦那が夜、国際電話で「なに言ったの? すぐ帰れって。帰ったばっかりの人がまたすぐ来たんだよ」って(笑)。でも、うちの旦那にも、「仕事でやりたい、面白いからほっといてくれって言うんだったら、そう言って」って言ってたんだけど、「そんなことないよ。帰りたいよ」っていうし。
本当はそう、どうだったのかよくわかんない。私は言いたいこと、思ったこと全部言うけど、向こうは全部言ってない、元から。
…両方で言ったら成り立たないか。
──ご主人の話も聞いてみたいわ。
でもきっとね、なに言ってるかわかんないと思うよ。なに考えてるかわかんないっていうか。うん、なんていうんだろう、自分の思ってることをそんなに主張したりしても、しょうがないっていう感じが。
…あるよ、なんか。ぜんぜんタイプが違うから。そう、だから、いま興味持ってることに対して、すごい喋るけど、こう、集中したら。
そう。うん。でも、ちょっと一定のルールあるっていうか、なんか。
…なんだろ。きっとルールはあるんだと思うけど。
──ちょっとこう、2人の生活を覗き見たい気がする。どんな感じなんだろう。
普通のっていったらおかしいけど、みなさんどういう生活してるのかなと思うよ、私。うち、ちょっと変わってるだろうなって思うんだけどさ。ほかのうちはどうしてんだろう。
でも、向かい合ってるのかどうかわかんないよね。「ざるになってきたな」みたいなところはあるけど、跳ね返しはしない。なんかそもそも、お互いがそうしてる場合もあるだろうし、そこがこう、ざるんなってないとうまくいかないんだろうね、ある程度。
5年に一回ぐらい、本気で「別れてやる」って思ってたことはあるよ。なんかね、犬が死ぬときとか病気になったときの考え方がすごい違うわけ、緊急事態のときの。そこがすごい折り合わなくて、子どもがいなくてよかったなって思った。子どもが病気になったりしたときの考え方がぜんぜん違うと、すごい大変でしょ。
でも、まぁまぁ、もういいやって、ここまで来たのに。別れてもいいけど、別れなくてもおんなじかなって。いちいちそこに真剣に、もうこのマンション売ってどっか探そうとかって。
でも、もうそれはやめた。やめたってちゃんと落とし込んでないと、またむくむくってするから、やめたんだよねって。みんなそうじゃないの。
っていうのはね。ほら、私の友達も、旦那さんに経済的には頼っている人がけっこう多い。それは仕方がないなって思うじゃない。
うち、違うからさ。逆になにか、ちゃんとトリガーがないと切れてもいいっていうところがあるじゃない。しかも子どももいないから、そういう責任がないから、ちゃんと自分たちで思ってないと。でも、なんか、そう、何年かに一度思うのは私だけで。
──ご主人にとっては、たぶん、一緒の生活が居心地いいんだろうね。
どうなんだろう。なんか、あんまりコロコロ変えたり、変わったりすることを好まないっていうか。「なにもそんなことでいちいち別れる、別れないって考えないでいいんじゃないの」みたいなとこがあるんだと思う。
居心地がいいかどうかわからないよ。「僕だって我慢してるよ」とか言われるから、ちょっと。あまりにも言い募ると。
──言える相手でよかったね。
そうじゃなきゃ、きっととっくに「さよなら~」になってたと思うんだ。最初から思ってること言えない相手とは結婚しなかった。
いや、なんかほら、すごい憧れる人とかいるじゃない。で、なんか私、男っぽい九州男児みたいな人好きなんだよ、実は。うん。絶対結婚はできない。
ぶつかるって。だってほら、「俺についてこい」(笑)。
私は私の人生いきます、みたいな。あなたに責任をとってほしいとは思ってません、みたいな。憧れと一緒に暮らすって違うよね。
そこをちゃんと見極めてたのは偉いと。
──褒めてあげなきゃいけない。やっぱり覗きたいわ。
二人(笑)。
街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。
まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。
メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。
話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。
届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。
併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。
ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。
私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。
ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。
私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。
西村佳哲(2025年7月31日)
2025年11月11日 発行 初版
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