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駒沢の生活史[13話]

駒沢こもれびプロジェクト




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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。

駒沢の生活史


第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
    みたいな話があったみたい

第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)

第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
    人生のあと残った時間を費やすっていうのが

第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
    駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)

第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
    そのとき初めて、ものすごい実感した

第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
    みたいな(笑)

第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから

第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)

第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
    そこをちゃんと見極めてたのは偉いと

第10話 どうなんですかね?
     結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです

第11話 まかない食い放題!
     生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの

第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
     じゃあ、○円くださいって言って(笑)

第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
     親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか

第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
     ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない

第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね

第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
     それが「あなたが社長ですから、
     これ、サインしてください」って、突然

第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど

第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね

第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね


第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
     お客さんって、すごいなとずっと思ってた

第21話 朝来た瞬間から、
     自分でやりたいことを自己決定していくっていう

第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの

第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)

第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
     「なんかあんまり」って思ってたけど


第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
     あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ

第26話 仕事してるとき、
     自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)

第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな

第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから

第29話 塾すら近所だからさ、
     全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの


第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
     私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです

第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
     「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか

第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
     プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう

第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
     けど、それ以来ずっとこの界隈で

第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
     駒沢でオープン

第35話 山梨の人は東京に出ると
     中央線沿線に住む人が多いんですけど、
     高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて

第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
     頼れるのは家族みたいなのはあったのかも

第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた

第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
     大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ

第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって

第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
     落ちたけど、コーヒーは飲みます

第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
     声かけられて、そういうのなんか憧れるよね

第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは

第43話 …どっからか来てるのかな。
     常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね

第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
     後ろから人生を逆算してるから

第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
     いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)

第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
     そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです

第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
     あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど

第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
     おっしゃって。「どうしよう」って(笑)

第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)

第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
     ことが尊いともあんまり思ってないんですけど

第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね

第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
     本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
     過ごしています

第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)


















もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか

話し手 80代男性
聞き手  沼部幸博


 町内会の盆踊り大会は、毎年8月3、4日に曜日にかかわらず緑泉公園で開かれています。

 私たちの子どもの頃の盆踊りは、地元の商店の方たちが夜店を出していて、若い店員さん達はみんな地方から丁稚奉公に来ているから、ちょっとしたボーナスがもらえる機会だったみたいです。
 だけどそういうの、いまはまったくなくなっちゃって。

 でもね、昨日の盆踊りの打ち上げ会で、定番の炭坑節とか東京音頭の他に、マツケンサンバとかポップスとか、そういうのをどんどん取り入れたらどうかっていう意見が出た。
 ところがある人が「僕は違う!」って言い出した。
 「この街に昔からあるものをやるのがいちばん大切なんだ」って。

 ──昔からあるもの?

 「いまのやり方はどのくらい歴史があるわからないけど、ずうっと繋がってきたはず」「ここで流行(はやり)を入れても100年後にそれが続いているとは思わない」「だからこの盆踊りは、いままで繋がってきたものをそのまま大切に続けて行くのがいいんだ」と。

 ──地元の年長の方ですね。

 それが最近、駒沢に引っ越して来られた若いお父さん。子どもはまだ3歳の女の子さん。
 僕、若い方がそんな意識を持っていたことにびっくりした。報道などでの現代の若者像と根本的に違う。

 ──町会のお仕事との出会いは?

 ちょうど20年前のサラリーマン定年のときに病気になり、そこの東京医療センターで治してもらった。退院後ブラブラしていたら、町の人から「暇なんだったら手伝ってよ!」と(笑)。
 それが入り口。町会の仕事はやっぱり面白い。

 ──駒沢のお住まいは奥様のご実家ですね。

 僕の生まれは目黒区の碑文谷(ひもんや)で昭和17年。戦争で父の田舎の長野県安曇野に疎開し、戦後、小学2年生のときに松陰神社に戻って来ました。

 松陰神社の家には結婚してからもしばらく住んでいましたが、駒沢の義理の父が戦争で全盲になっていて、年々家内の実家が大変になってきた。
 それで、僕一人っ子だったんですが、家を継ぐことは一切考えず、家内の家へ入っちゃったんです。家内の姓は継いでいませんが……。

 ──それまで他の場所に住むことは考えました?

 いいえ、それが結構面白くて、町内の人に聞いても、世田谷で育っちゃうと他に住もうと言う人はあんまりいない。
 はっきりわかりませんけど、なんかいろんな意味で住みやすいんですね。

ですから、親父とご飯を食べた記憶がないんです(笑)

 人目をあまり気にしない自分の性格に生活環境が合っていたし、親父の仕事関係の方々、大学時代の恩師、いろんな就職先の職場仲間など、良い人たちにすごく恵まれてきたんです。世田谷はそんなところ。

 ──お父様のお仕事関係と言いますと?

 あまり人に話したことないんですが、親父は芸能関係で、黒澤組という映画監督のスタッフの一員でした。

 監督がつくった映画の6割ぐらいは父の録音技師としての担当でした。親父はもう仕事に入ると時間感覚がまったくなくなっちゃう。ですから、親父とご飯を食べた記憶がないんです(笑)。僕が起きてるときは親父はいなくて、朝は疲れてまだ寝てる(笑)。
 なんて言うんですか、いい意味でいい加減(笑)。

 だから僕はそういう生活の芸能界が嫌で、会社勤めがいいと思った。で、あてもなく就職しようとしたら……。

 親父は昔の人で高校に行ってないんです。中学卒業と同時に就職したんですが、すぐ兵隊にとられて。そういう経験してるから、せめて僕だけは大学に行かせたいと思っていた。
 ちょうど僕の世代ってけっこう同じような親の願いがあります。

 でも僕は大学には行かないと考えて勝手に就職を決めていた。それがバレちゃった。
 もう、すっごい怒られました(笑)。

 ──どうされました?

 でもすぐ受験はしなくて、たまたま松陰神社の住まいのすぐそばの元教職の方に相談してみた。
 で、まず「どういう学問が好きなの?」って聞かれた。

 僕は小さいときから旅行が好きで、それで地理学、ジオグラフィーに興味があったのでそう答えた。
 地理学っていうのは、ただどの場所になにがあるのかだけじゃなく、ずっとその場所にいることでわかるものを掴む学問です。
 たとえば、ある街に一日いると「ああ、ここはこういう街なんだ」ってわかる。

 「街」って、意外と違う地域に行っても同じようなものが結構あるんです。たとえば青森県の田舎に行っても九州の田舎に行っても、方言など言葉は違うんだけど、街並みはなぜかすごく似ている。これは「どんな小さな街にも都市科学がある」って言ったらいいんですかね。

 とにかく僕はそういうのが好きだったので、元教職の方の紹介で五反田の立正大学に進んだ。実は地理学でのトップは東大で、その次は私学の立正だったんです。

 そこの学部長が田中啓爾(たなかけいじ)先生で、小学校や中学校の「地理の教科書」の日本地図の監修者です。世界的にも有名な方で、モノの見方が違うんです。

 田中先生は「地理学、ジオグラフィそのものはまだ学問として確定していなくて、宗教地理や経済地理などもあってあまりにも範囲が広すぎる。だからノーベル賞でも、この分野の受賞者が出ていない」と言う。
 たとえば文学、物理学とかは分野がきちんと決まっていて目標をもって発展して行くからノーベル賞受賞の機会があるけれど、地理学はそれが定まっていなくて先がぼんやりしている。

 でも僕は、人がいて街が成り立ち、なにかの環境変化で街が変わるという経済地理がめちゃくちゃ面白いと思った。
 まぁ、変わり者です(笑)。

 ──大学での授業はどのような?。

 経済地理の教授、すっごい教え方をするんですよ。とくに街の調査。

 「君たち、調査はどこに行っても良いよ。でも必ず、まずそこでお年寄りに話を聞けよ」
 「はい。で、なにをですか?」
 「この辺に遊郭はなかったかって」
 「ええっ!」
 「遊郭があったってことは、そこに男が集まったから街が発展してきたんだよ」

 こんなこと、まず普通は大学で教えないですよ(笑)。
 その教授は僕ら若い学生3、4人くらいをあちこち連れて行き、いろいろ教えてくれた。それがほんとに楽しくてね。

 ──卒論はどんなテーマですか?

 商店経済。

 旧玉電(玉川電鉄)の渋谷から三軒茶屋・二子玉川まで、三軒茶屋から下高井戸まで、全部の駅周辺に、どんな商店がどのくらいあるかを全部調べた。

 そうしたら、各商店街がまったく同じパターンだった。商店街には魚屋さん、乾物屋さん、八百屋さん、駄菓子屋さんなどが必ず1軒から2軒づつあるんです。
 で、結果的にわかったのが、その商店街構成のキーが「お風呂屋さん」(笑)。

人と人との繋がりは生きている間だけ、と普通に思っていた

 お風呂屋さんは、商店街からちょっと外れたところにあるんですが、その道筋にいろんなお店ができている。

 そして、とある地方のどこかの街でも、同じようにお風呂屋さんをキーとする商店街の基本パターンがあった。それがすごく面白い(笑)。

 ──お風呂のある家がまだ少ない時代ですね。

 お風呂のある家なんて言ったら、もう俗にいうお大尽さまばっかりでしたから(笑)。
 いまは反対にお風呂屋さんを探すのが大変です。このあたりでは桜新町サザエさん通り新道の吞川のところに1軒だけあります。

 ──いつしか商店街のキーが抜けて、繋がりが切れてしまった。

 人の繋がりも。お風呂屋さんでは大人は大人、子どもは子どものコミュニティがあったんです。だからいまの子たちは可哀想だなぁと思う。

 さらにいま、コンビニの登場で駒沢でも商店街の形態がずいぶん変わりました。全国的にも日本独自の商店がずいぶんなくなっている。

 昔よくあった駄菓子屋さんもなくなり、うちの公園の盆踊り大会のお祭りくらいでしか買い物を経験できなくなっちゃった。毎年子どもたちばかりでなく大人も愉しんでいますね。

 ──それらを卒論にまとめた。

 実は調査途中で卒業となり、まず第一部としてまとめました。それで続きの第二部を後輩につくらせて、ようやく二部作が完成。教授も許してくれました(笑)。

 卒業後は、就職に際して金融だとかなんだとか、ぜんぜんそういうのは意識していなくて、すごくかわいがってくれた叔父からいろいろ教えていただいた。それでペプシコーラのボトラーに就職して、まずいちばん新しいボトラーがある福岡を選んだんです。

 父母もそうでしたが、家は別に気にしないほうで、「自分は自分でちゃんと生活せよ」ということで、東京にいるよりかそっちの方がいいなと思った。
 「石の上でも3年いろよ」と言われたけれど、ボトラーには6年か7年いました(笑)。
 行ってみたら、福岡はその土地のいろんな風習や感覚にすごく江戸的な要素が強かった。

 ただ江戸とは違う武家社会で、人の苦労を買っちゃう人種が多い。だから性格にすごく合っていた。
 ペプシをやめた後は東京へ戻ってきて、別の会社を手伝うところで結婚しました。

 ──奥様との出会いは?

 お見合いです。30歳を越してましたから。

 ──その頃は松陰神社にお住まいで奥様は駒沢ですね。

 うちの親戚が家内と同級生だったんです。僕は30歳になってもブラブラして、なにやってるかわかんないものですから、まわりが「見合いさせよう」ってなって、結婚となりました。

 そう……。実は僕、生みの親は違うんです。

 ──そうなんですか?

 すごい美人だったって話です(笑)。
 親父が戦争に行っちゃって、戦時中に僕が生まれた。そしてその後、疎開してる間になにかあって離婚したみたいです。だから僕には生みと育ての親がいるんです。

 黒澤組の皆さんは、そういう僕の生い立ちまでをちゃんと知っていた。親父を可愛がってくれた黒澤さんもすごいんですけど、あの組織ってものすごく人の繋がりが強い。未だにその繋がりはすごく魅力的です。

 親父が死ぬ前まで、僕は人と人との繋がりは生きている間だけと普通に思っていた。でも親父が死んだとき、僕が代わりにその繋がりを引き継ごうと思った。これは仕事じゃないですね。血縁だから。
 黒沢監督の仕事上の恋人は親父だった。
 親父の葬儀には4日かかっちゃったんですよ(笑)。黒澤組での宴会みたいのが続くわけです。

 でも皆さんもう、ほぼ全員亡くなりました。本当に何十人っていう関係者の方の葬儀に出席させていただきました。僕は親父とはまったく畑違いにいたけれど、みんなから「来てくれてありがとうね」って言われてね。

 ──多くの方を見送られたのですね。

 僕の直接知らない人もいるわけですよ。だけどお知らせが来ると必ず行く。

もう抜け抜けと言いますけど、
奥さんと結婚して、本当に良かったなぁと思う

 みんな黒澤監督は怖いって言ってましたが、ただ白黒はっきりしていただけ。だから表裏がある人は絶対ダメ。合わない。ただ仕事が好きな集団だから、組のスタッフはみんなそのままのハートで動いていた。僕もそういう環境で育ってますから、一般社会に入ってからも余計な気配りが苦手だった。

 ──表裏はつくらない。

 そういうことを教えてくれる人が結構いました。
 最近強く感じているのは、本当に僕って、人からすっごい色々教えてもらったから、人生の幸せ感を持っているということ。

 たとえば会社の同僚が教えてくれたすごくいいこと。
 「君が通勤でバスや電車に乗る。そしてもし1週間のうち同じ人に3回会ったら、必ず挨拶するのがルールだよ」と。

 まったくの他人でも「またお会いしましたね」って言う。
 それがすごく印象に残っていて、通勤バスの運転手さんにやってみた。そうすると運転手さんは覚えてくれて、次には向こうから「おはようございます」って言ってくれるようになる。こういうのってすごくいい。日本の文化にもこういうのありますね。

 サラリーマンの定年まで、5つぐらい仕事を替えていろんな方と関わってきましたが、そんな性格なので最後の会社のときも、社長に「送別会、絶対やるから」って言われたんです。でも、「いつかお会いできるかも知れませんので」と言って、丁寧にお断りしました。
 その会社の当時のメンバーとは、散り散りになっても手紙・年賀状や電話でのやりとりでのお付き合いがけっこう長続きしています。

 ──奥様とも仲良しです。

 ええ。
 平気でズケズケものを言っても受けてくれる(笑)。
 でも決まりがあります。「いちばん身近だが、もとは赤の他人同士が夫婦。だから他人さんである奥さんには、できる限り嫌なことは言わない」。

 彼女に対してダメージを与えるようなことは言わない。
 その代わり、「僕にも言わないでね」って(笑)。

 もう抜け抜けと言いますけど、奥さんと結婚して本当に良かったなぁと思う。
 だって結婚して何回仕事を変わっても、「お父さん、お金じゃない」と。
 うちの親父もそうだったけど、やはり仕事は楽しくやりたい。そういう意味ではものすごく奥さんに感謝。いまだに頭が上がりません(笑)。

 ──いまお住まいの駒沢ですが、この辺、昔、沢があったんですか。

 一般的に言う沢じゃないんです。あぜ道で小さな沢があるんです。
 駒ですから馬ですよね。馬を飼うに適した、ようするにブッシュみたいな草原があって、大木はなかった。そして何か所か小さな小川の流れがあったみたいです。
 僕たちが住んでいる駒沢緑泉公園のあたりは畑で地主さんがいた。

 そしてそこの真中(まなか)のように、大地主の真井(さない)さんと中村さんの名前が合併してできたような地名が多いんです。
 この「駒沢こもれびスタジオ」そばの大きな交差点は、真井・中村さんの地所だから「真中の交差点」。

 昔はそこに玉電(玉川電鉄)停留所の「真中駅」があって、その先の「駒沢駅」に切り替え線があり、渋谷から駒沢止まりっていう編成もあった。玉電がそこに着くとバックしてまた渋谷に向かうんです。

 ──実は「真中交差点」、現在は名前が変わって「駒沢大学駅前交差点」です。

 ええっ! いまは真中じゃない?

 ──それがいつの間にか……。

 …………………………(お互い沈黙)。

 ──(気を取り直して)鷹番という地名もありますね。

 江戸城を築いた太田道灌の時代、先ほどのようにこの辺は放牧場で、鷹場もあって鷹狩りをしていたそうです。

 そうそう、東京の人は「三代続かなきゃ江戸っ子とは言わねえんだ」ってよく言いますよね。
 でも僕は「バカ言ってんじゃねぇ!」って。

駒沢という地名、どこかで一回消えてるんですよ。
どうしてかはよくわからないです

 「田舎行ってごらんよ。みんな何十代も続いてんだぞ」
 「江戸なんて、江戸城建築のために関八州(江戸時代の関東八か国の総称)で食えない二男坊、三男坊、四男坊などが、急いでかき集められて住み着いただけなのに、なにが偉そうに江戸っ子だよ!」って。
 するとみんな、すっごい嫌がる(笑)。

 あと世田谷について僕も調べてわかったんですけど、駒沢という地名、どこかで一回消えてるんですよ。どうしてかはよくわからないです。

 ──この駒沢のあたりは標高が高いですよね。

 高いです。
 調べてみると、もともとは平らじゃなくて、利便性を考えて土地を削っているんです。東の環七あたりは全部高台を通っていますが、大雨で冠水するのは、西の環八のちょうど東名高速に乗るところ。あそこはいちばん低い。
 そしてこの辺でいちばん高いのは、駒沢給水塔のところ。

 大正時代、渋谷の町に水を供給するために、あそこにできたんです。
 その水源は、どこかというと砧本村。そこには貯水拠点があり、水を砧下浄水所から駒沢給水塔まで押し上げ、そこから渋谷まで高低差を利用して自然に流れて行くようにしました。

 ──砧(きぬた)というと用賀の先ですね。

 玉川の上流で、二子玉川の近くです。いまだに取水してます。

 ──碑文谷生まれとお聞きしましたが、ご先祖様はどちらから移られてきたんですか?

 ご先祖さんどころか、実は安曇野に疎開したものの、自分の親父はもともと正確にどこに住んでたのか聞きそびれています。
 ただ先ほどのように、産みの親はお隣の目黒区の碑文谷にいた。それが僕の実家。碑文谷警察のすぐそばだったという話。だから意外と、碑文谷も世田谷と同じく、いまでも身近な場所。

 おかげさまで、町会の仕事を通して他の町会の方々とお付き合いしたり、警察や消防の人と話すようになった。そしてこの間、世田谷区の警察や消防の方々の数を聞いたら、約1000人ずつだそうです。

 ──1000人ずつ!

 いざ震災が起きたらどうなるか。世田谷区の人口は100万人になろうとしているのに、その責任を1000人が負いきれない。彼らもまず自分の命を大切にしなければいけない。

 だから僕は常に、国も東京都も区も「震災時にそういう方達が助けてくれることは不可能」と言っている。よってボランティアが必要なんです。

 でも神戸(阪神淡路大震災)のときのいちばん悪いやり方は、いろんな東京の大学が学生のボランティア活動を出席単位にしちゃった。あんなことするから、本来のボランティアではない人が増えてしまった。

 ボランティアってなんなのか?
 当時、僕は「ただ困っているだけの人になにかをしてあげるのはボランティアじゃない」と言っていた。
 「なんとか自立したい人に対して援助をするのが本当のボランティア」です。

 日本人はそこを間違えています。なんにもできない人になにかをしてあげても、一生僕らが続けてしてあげられるわけじゃない。

 ちょうど化粧品会社に勤めていたとき、お客様が関西に結構多かったので、震災3日後に自分の車で行って、その後3か月間に5回行くことになりました。

 初回の現場でわかったのは、「なにができるかと自分がなにをすべきかとはぜんぜん違う」ということ。
 あまりの惨状にできることはなく、すべきことはまず募金だった。
 現地で被災してなんとかしなければという気持ちで行動している方なら、生きた金が使えると考えた。

 ──それも自立に対する援助。

 はい。
 あと東日本震災のときによく出てきた日本の言葉。なんだっけ、人の結びつき。助け合うこと……。
 そう、「絆(きずな)」。

 困ったときは人と人との「絆」が大切とか、よくいうけれど、実は僕、あれ大っ嫌いな言葉なんです。

 ──え?

 実は「絆」って、語源は「手綱(てづな)」なんです。手綱を引くとかって、上下の格差ですよね。
 本来こういうとき、上下は関係ないでしょう。

「あ、こんなに親父は弱くなったんだ」と気付いた

 援助は絆を深めることではないんです。
 ちなみに、そのとき、アメリカ軍は「ともだち作戦」と表現していて、たくさん援助をして頂きました。上下のない「ともだち」としての関係。アメリカは日本のことをよく研究してるなと思ったんです。

 つい最近の話ですけれど、先週、緑泉公園を散歩してたら、年の頃70歳くらいの白人の方とお会いして挨拶したんです。向こうも挨拶を返してくれて「賑やかですけれど、なにかあるんですか?」って聞かれたので盆踊りの話をしました。

 その方に「なにでいらしてるんですか?」って聞いたら、アメリカのどっかの州の大学の教授だったらしくて、「禅」のことを勉強したくて三丁目近辺に住み込んでいて、駒沢大学に通ってるんですって。実は盆踊りも広い意味で禅の部類に入るということで、すごく喜んでくれました。

 昔のうちにもいろんな人が出入りしていて、銀座の有名なクラブのセカンドママが泊まりに来たことがあったし、そこのお姉さんたちが自らツケの回収をしてたこともありました。僕は家で「この綺麗な姉ちゃんは誰かな?」と思ったりしてました(笑)。

 他にも女優さんや男優さんが来たり、南海ホークスの名監督や国鉄スワローズの有名投手もいましたよ。駒沢には野球場があったじゃないですか。うちに寄ってから試合に行くんです(笑)。

 ──お父様に会いに来ている。

 うちの親父、戦争では現地の後方にいる衛生兵がいちばんいいって言っていた。子どもの頃、松陰神社の家の中に、なんでメスや注射器がいっぱいあるのかなと不思議だったけれど、その残りだったらしい。

 それである日、傷病兵さんって言うんですか、昔よく渋谷などの駅前にいた人。その人が家にいるんです。で、戦争中フィリピンあたりで盲腸になったけど、軍医さんがいなくて親父が……。それで助かったんだって。すごい親父だなと思っていた。

 でも僕は就職のときとかに、「世の中でいちばん尊敬する人は誰ですか?」と聞かれても、好きな作家とかお世話になった医師とかの名を答えていた。
 しかしある日、とあるきっかけで「親父」と答えるようになった。恥ずかしくもなく、本当に言い切れた。

 ──どういうきっかけですか?

 具体的にはありませんが、背景に長い間の小さなことの積み重ねがあった。親父はその都度本当に、良いこと、悪いことをちゃんと教えてくれていた。ただ若いときはまだそれがわからなかった。

 それがどんどん積み上がって来た頃、ある出来事でちゃんと僕を見てくれていたんだと気付いた。
 それは親父と喧嘩して僕が勝ったこと。

 ──え?

 平手打ちの喧嘩です。

 ──打ち返して勝ってしまった?

 そう。だって言葉じゃ絶対叶わないですよ(笑)。
 でも後で、「僕はなんてことをしたんだろう」と思った。

 そしていけないことだけど手が出せたことで 「あ、こんなに親父は弱くなったんだ」と気付いた。
 ただ、これはやってみなきゃわからなかった(笑)。

 周りに聞いてみると、ある程度、歳がいくと親子の力が逆になるので、男にはそういう対決の時期がけっこうある。

 僕にとって良い悪いは別として、喧嘩できたことはすごく嬉しかった。
 そこで親父がそれだけ、いままで僕を真剣に見てくれていたことがはっきりとわかった。

 勝ったのは自分にとってマイナスだけど、それがわかったのは逆にプラスとなった。
 そしてそこから、親父を本当に尊敬できたんです。

 ──勝ったのはいつ頃ですか?

 20代後半です。
 そうしてようやくきちんと「いちばん尊敬する人は親父!」と言えるようになったのに、しばらくして亡くなってしまった。
 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないかと思うことがあります。

 実は僕、小児麻痺やがんを乗り越えましたが、4年前に左足を骨折して、プレートとボルト8本を入れ、その翌年に今度、右足の脛にすべってころんでヒビを入れ、一昨年、大腿骨を折って人工骨になったんです。主治医の先生に「あんた化け物だ」って言われた(笑)。

 ──満身創痍。

 ええ。
 それでずっと駒沢病院の外科にお世話になったのですが、リハビリの先生からも「あんたすごいね!」「僕らはお手伝いできるけど、治すのはあんたの気持ちだから」と。
 でもそれは小児麻痺やがんのときもそうだったし、僕にとって当たり前のこと。

 先ほどのボランティアの話と同じ。医療は治そうとする人のためにある。
 僕は医療で病気を止めて頂いたら、治すのは自分の力だという信念を持っている。

 そしてこれまでいろんなものを体に受けて来たから、困難なときに自分になにができるか、またなにをしてもらったら嬉しいかも常に考えて来られた。

 そんな人生ですが、すっごく楽しんでます(笑)。

 街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
 「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
 
 「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。

 まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。

 メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
 結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。

 話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
 話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
 音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。

 届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
 もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
 最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。

 併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
 本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
 挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。

 ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
 オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。

 私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
 そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。

 ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
 他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。

 私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
 駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。

西村佳哲(2025年7月31日)

駒沢の生活史[13話]

2025年11月11日 発行 初版

発行:駒沢こもれびプロジェクト

「今日の駒沢」
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