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駒沢の生活史[17話]

駒沢こもれびプロジェクト




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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。

駒沢の生活史


第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
    みたいな話があったみたい

第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)

第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
    人生のあと残った時間を費やすっていうのが

第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
    駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)

第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
    そのとき初めて、ものすごい実感した

第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
    みたいな(笑)

第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから

第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)

第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
    そこをちゃんと見極めてたのは偉いと

第10話 どうなんですかね?
     結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです

第11話 まかない食い放題!
     生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの

第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
     じゃあ、○円くださいって言って(笑)

第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
     親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか

第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
     ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない

第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね

第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
     それが「あなたが社長ですから、
     これ、サインしてください」って、突然

第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど

第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね

第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね


第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
     お客さんって、すごいなとずっと思ってた

第21話 朝来た瞬間から、
     自分でやりたいことを自己決定していくっていう

第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの

第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)

第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
     「なんかあんまり」って思ってたけど


第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
     あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ

第26話 仕事してるとき、
     自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)

第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな

第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから

第29話 塾すら近所だからさ、
     全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの


第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
     私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです

第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
     「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか

第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
     プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう

第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
     けど、それ以来ずっとこの界隈で

第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
     駒沢でオープン

第35話 山梨の人は東京に出ると
     中央線沿線に住む人が多いんですけど、
     高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて

第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
     頼れるのは家族みたいなのはあったのかも

第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた

第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
     大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ

第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって

第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
     落ちたけど、コーヒーは飲みます

第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
     声かけられて、そういうのなんか憧れるよね

第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは

第43話 …どっからか来てるのかな。
     常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね

第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
     後ろから人生を逆算してるから

第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
     いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)

第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
     そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです

第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
     あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど

第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
     おっしゃって。「どうしよう」って(笑)

第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)

第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
     ことが尊いともあんまり思ってないんですけど

第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね

第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
     本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
     過ごしています

第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)


















だから、だからだと思うんだけど、
私は、できるだけ自分を出さないってことをしてきた

話し手 70代男性
聞き手    林賢


 ──奥沢にはどれくらい住まれていましたか?

 1997年から18年間住んでいましたね。1995年1月に、関西は阪神淡路大震災に見舞われました。当時、会長だった父が今後直面する危機に備えて、会社の主要機能の分散化を決断しました。私が創業家メンバーであるため、東京への異動指示は早かったですね。地震の直後でした。

 ──危機管理対策の一環だったのですね。

 そう、危機管理ですね。あの震災は1月17日だったでしょ。父の指示は絶対だから。5月のGWの前には、もう、阪急電車の沿線の桜を見ながら新大阪駅に向かっていました。東京の住まいが決まるまでの間は、単身でウィクリーマンションのようなところに引っ越してましたね。

 当初は東京への単身赴任を考えていたのですが、会長から「家族もみんな一緒に行かないと、東京の得意先や社員は、どうせすぐ大阪に帰るだろうと思ってなかなか信用してもらえないぞ」と助言がありました。

 子どもの学期の途中だったので、転校先を探しに探してようやく決めましたが、その間は白金のホテルに炊飯器を持ち込んで、しばらく家族で住んでいたんですよ。そうこうしているうちに姉夫婦の白金の自宅のそばに空き家があって、そこをしばらく借りることになったんです。

 家の土地探しは最初、多摩川を超えたところも探していたんだけど、やっぱり品川にある会社のことも考えて、なにがあっても歩いていける場所っていうことで奥沢に決めました。そして設計を頼んで、新築するのに2年程かかってしまい、結局、引っ越したのは1997年でした。

 子ども達の学校探しも大変だった。同じ頃に妻が骨折してしまって。車いす生活がだいぶ続いた。買い物やらなんやらで車いすを押してスーパーマーケットへ行ったりしてけっこうたいへんだったという思い出がありますね。

 ──たいへんな時期を過ごされていたんですね。

 たまたま縁あって求めた土地が自由ヶ丘の駅と奥沢駅のちょうど中間ぐらいで、どっちの駅にも歩いて5分かかるか、かからへんかぐらいだったけど、あそこは住みたい町というか、実際住みやすかったね。交通の便も良かったね。ただあそこ、線路3本に挟まれている所なんですよ。便利なところやけれども踏み切りがたくさんある町で(笑)。なかなかこれは不便と言えば、不便なところでね(笑)。

私が行く散髪屋さんなんて、大蛇祭の間はお店を休みにしてたから

 ──散歩とかされましたか? そんな時間はなかったですか?

 ワンちゃんがいたけど。犬を連れての散歩は私一人で行っていたから家族で行くことはなかったなぁ。
 なんだろうな。うん~。

 ごくごく平凡に普通に暮らしていたという感じだね。そういえば奥沢っていうとちょうどね。そう、神社があるんですよ。「奥沢神社」。うちのすぐ近くで、うちの並びみたいなところだったけど、初詣のときに参拝の人で列ができるやないですか。その列はうちの前まで続くぐらいでね。

 ──そんなに。

 「奥沢神社」のあの辺は、昔は田園地帯で、お祭りって言うたら、みんな収穫祭としてやるもので、9月にやる夏祭で、祀られているのはダイジャなんです。昔からダイジャ祭って言って、有名なんですよ。

 ──ダイジャー?!

 「大蛇祭」って例大祭なんだけど。その時期になるとニュースでも流れたりしたけど、藁で編んだ大蛇が入口の鳥居に巻き付けてあったんだけど。毎年、祭りのときには大蛇を新しくして厄除けの「大蛇お練り」があり、賑やかなお祭りでしたね。

 境内は狭いのですが、けっこうみんな盛り上がっていました。古い町だから私が行く散髪屋さんなんて、「大蛇祭」の間はお店を休みにしてたから、もう町をあげてのお祭りですね。やっぱり古い慣習が残っていて良い町だったね。

 ──奥沢から会社まで歩けましたか?

 歩ける距離というのは大事な要素でしたね。会社までは歩いて1時間45分程度はかかりました。もちろん早足で歩けば、もうちょっと早く着くのだろうけど。

 東京の地震もいろいろ噂もされていたし、会長は「なにがあっても会社に行けるエリアでないといかん」というんでね。ここならなんとか歩けたんです。

 ──それもあって奥沢を選ばれたのですね。

 そうですね。いまでこそね、ある程度「ナビ」なしで走れるようになったけど、位置関係とかがわからないと、いざというときに運転できない。
 そんなことでは、どうしようもないなと思っていたので、東京に来てからは、奥沢から会社までけっこう歩いて行ったり、自分で車も運転して通勤していましたね。

 ──趣味はありますか?

 特段の趣味はないね(笑)。父が言っていたのは「いちばん好きなことやるのが趣味やとすれば、わしは仕事が趣味や」と。私も、趣味と言えるほどのものはなにもないですけどねぇ。町歩きはよくしましたね。とくに東京に来て食べるものは美味しいから。とくに私は蕎麦好きなので、いまだとスマホで片手になるのでしょうけど、当時はポケット地図でしたね。

 楽しいやないですか。知らんところを歩くのは楽しいしね。

ひとつ間違えたら会社は潰れていたかもわからへんところを、
すごくいい形でバトンを渡せたよね

 地図片手に歩いて蕎麦食べて、帰りは電車乗って帰ってくるとか。そんなことはやっていましたねぇ。あれは趣味とは言わんやろうけども。けっこう、東京に来た頃は地理がいまひとつわからないので、そんなことをやっていましたね。

 蕎麦屋の特集本は、いくらでもありますからね。今度ここはどうかなぁ、ここへ行ってみようかなぁ、とか思案して。蕎麦屋が遠くても、行くのはもう電車で行ってしまうとすぐなので、遠いところやったら途中まで電車で行って、あとは出来るだけ歩いて行くようにしていましたね。巣鴨から上野まで歩いて美味しい蕎麦屋へいくとか、奥沢から荻窪まで歩いていって蕎麦を食うとかも。

 ──仕事と生活って切り離せないですね。その後、仕事のほうではどうでしたか?

 90年代後半って、失われた20年と言われる時代が続きましたよね。

 その頃、ちょうど前々社長の叔父が、出張先で突然に亡くなられ、1989年には、あとを受けて兄が社長に就任し、それと同時にバブルがはじけていく。
 私がちょうど役員にならせていただいたのが同じタイミングで、最初は情報システム担当でしたが、東京へ来てからは、だんだんと営業の仕事に移ってきましたね。

 最近、兄とする話ですが、このごろの会社の業績はなかなか好調じゃないですか。

 ──そうですね。

 次にバトンを受けた現社長(甥)がよく頑張って会社を成長軌道に乗せ、いまは新たな局面に入りつつあるという姿を見ていて、私らの時代は会社を成長させることはできなかったけれど。

 なんていうのかな、ひとつ間違えたら会社は潰れていたかもわからへんところを、すごくいい形でバトンを渡せたよね、と話していたりもした。

 ──はい。

 物流や情報システムが大きく変わり、それに伴って通販やネットビジネスが台頭してきて、流通3段階が音を立てて崩れていく中で、うちの会社がいちばんの強みとしていた卸売店の体制を、抜本的につくり変えていかなきゃならない。そんな時代だったわけですよね。単に景気が悪いっていうだけじゃなくて、いろんなことが変わっていく時代だった。

 とりわけ、うちの会社が強みとしていた販売の組織やビジネスのあり方が大きく変わっていく時代を迎えて、これまでのやり方が成り立たなくなってくる時代の変革期でした。

 ──はい。

 そこの舵取りをひとつ間違っていたら会社は潰れていたかもわからないっていう、やっぱり、いま振り返ってみれば、なんか、そういう時代だったのかな。

 ただ健全な形で、こうして会社の力をそんなに棄損(きそん)することなく、次の時代に託せたっていうのは、自画自賛だけど「褒められてええんちがうか~」とか「会社を成長させることは出来ひんかったけど、少しは会社に貢献できたかなぁ」と二人で話していたりもしました。

 ──なんかすごく(嫌な)たいへんな、お仕事もされていたような気もしますが……。

 流通の仕組みを変えていく仕事の中で、うちでは首を吊った人はいなかったけれども、他社さんの流通改革では、首吊った人が何人かいたっていう話をきいたからね。

やっぱり、卸売店に対する思い入れっていうのは半端じゃなかった。
尋常じゃなかった

 うちの卸売店網をつくり直していく過程では、命を落とす人はいなかったけれども、逆にカミソリを送ってきた人はいたんですよ。

 私は、改革の折衝役に当たっていたわけで、矢面というか、全国に60からある卸売店にひとつひとつねぇ、現地まで行って話し込んでいきましたよ。

 ──たいへんなことでしたね。

 卸売店だけじゃなくて、銀行とも交渉・説得していく話をしなきゃいけないから。債権者は銀行とうちの会社ですから。銀行にも引導を渡さなきゃいけない。卸売店の借り入れっていうのは半端なく大きかったですから。

 ──そういう時代の先頭に立って、されていたのですよね。

 まぁ。ほんとに卸売店が事業の根幹でしたからねぇ。長年その体制に甘えてきたっていうのもある。うちの痛みを伴う構造改革をしなければならなかった部分そのもの。

 つまり、卸売店の倉庫にさえモノを移しておけば、うちの売り上げが成り立ったわけですから、つくったものを100パーセント売り上げに変えることが出来るという、こんな仕組みをよく会長たちはつくったな~みたいなことでしたね。

 ──たいへんな時代でしたか。

 いや、まぁ逆にいい時代でしたよ。そういう売上のつくり方ができたわけですから。これは市場が拡大していっているときだったから良かったんですけど、卸売店の倉庫に積み上げられた商品は、卸売店の販売努力により、ほぼ全量が小売店や代理店に出荷することが出来た。

 小売店はうちの仕入れを増やせば、それに連れて販売奨励金も増額する。だから奨励金も、そういう流通3段階が上手く機能していた。

 別に間違ったことはしていないですよ。間違ったことはしてなくても拡大していく。他社メーカーはもう、まったく入る隙間を与えないという営業施策を取れたし、そういう戦略を取ることができた商品力や物流システムや、強力な信頼関係があったということです。

 たまたま流通チャネル担当をやっていたっていうのもあったし、ずっと前からそういう役回りでした。ただね、この改革を実行していくには、誰がいちばんネックになるかって言うたら、会長(父)だったんですよ。

 ──ああ。そうなんですね。

 このような卸売店網をつくってきたのは会長ですから。会長は、もちろん流通3段階がこれからの時代、通用しなくなるという世の中の変化は、充分に理解されていたけれども。やっぱり卸売店に対する思い入れっていうのは半端じゃなかった。尋常じゃなかった。

 ──社員なら皆が知っている血判状ですもんね……。

 そうです。卸売店網をつくってきたのは血判状の世界ですからね。会長に「卸売店の体制をリセットしたい」と言うことを伝えて、腹を括ってもらうこと。これは他の人では出来ないだろうということで、そこはやっぱりちょっと大変な仕事でした……。

自分でつくったものは、自分の息子が壊すって言うから(笑)

 ──改革の先頭を走ってこられたのですけど(会長の説得は)すごいことですね。

 それは創業家の人間でないとできないことですね。会長の前に、卸売店の社長さん方が列をつくりますからねぇ。

 「いまはこんなことをするのか!」ということで、尾山台の会長の家に行かれた卸売店の社長さんは事実、何人もおられましたけれども。そのとき、会長は一切会わなかった。

 ──会わないように、社長とYHさんでされていたってことですか?

 いいえ。会長が「会社でなら会うけれども、家で一人で会わんで!」と腹をくくってくださった。それで、なんとかこの改革を社長(兄)と私で押し進めることができたんです。

 このことは、さっき社長(兄)や私の手柄やって自画自賛で言ったけれども、本当はやっぱり会長の手柄であって、いちばんの立役者は会長だったと、私は思っていますね。

 ──自分で苦労してつくられたものを自分で壊していくってことですよね。

 自分でつくったものは、自分の息子が壊すって言うから(笑)。それでも私たちの改革案を受け入れられたっていうのは、会長の人間として器の大きいところ。経営者として素晴らしいところだったかなというふうに思いますね。

 ──その流通大改革のお仕事が終わった後、次のお仕事はどうでしたか?

 うん。20年前ぐらいかなぁ。この流通3段階の整備を進めると同時に、新しい流通の仕組みをつくっていかなきゃいけないので、メーカーであるうちがユーザーまで配送もするなんていう。そんなことはもう誰も夢にも考えてもいなかった。

 それまで段ボールで卸売店にどんどん放り込んで、それを卸売店が小分けして届けてもらう。こういう流通3段階の物流やったものを、完全に自分の手で全部潰して、卸売店から大量の在庫を引き上げて、そしてユーザー(直の)配送体制に進めていく。

 多くの新会社とシステム、そして機構のような体制を立ち上げていく。そうして新しいこの販売の仕組みを、どんどんと立ち上げては潰し、立ち上げては潰しでした。でも前に進めていかなきゃならない。

 もちろん、これは私がすべて担当したわけではないですが、メーカーとしての新販売会社、新システムの参画に対しては、他のメーカーさんはすごく慎重になりはったんですね。そういうのを、要するに解きほぐしていかなきゃいけないので、そっちのほうもずいぶん仕事としては関わりましたよ。

 だから最初はなにをやったかっていうと、メーカーによる「〇〇共配」っていう機構を立ち上げたんです。ここでは先の商流には入らないとして、ただし「カタログはつくるので、ぜひ皆さんそのカタログには提供する商品を出品してほしい」ということを言い、決済はもうそれぞれでやってもらったら結構ですから、物流だけは一本化しないといかんので、ということで物流から推進していったんです。

 他メーカーとの交渉だとか、いろんなことをずいぶんやりましたよ。あれも東京に来てからの仕事やったなぁ。

だから、会社って脆いもんやって思っていたんでしょう。きっと

 ──それもやっぱり、全面にYHさんが。

 最初のときね。「〇〇ネット」の立ち上げのときも、私が初代会長でした。さいわい東京に来ていろんな会合で、他メーカーのトップの方と親しくお付き合いをさせていただき、それなりに信頼をいただいて来たということもあると思うのです。

 私がその機構の会長をするのなら、そういう言い方ではなかったかもしれんけれども、「〇〇ネットとの取引をやりましょう」と言ってくださったメーカーさんは何社もありました。

 ──それはYHさんの人格というか。人間的な魅力からだと思いますね。

 一緒にお酒飲んで暴れていたからかな(笑)。

 私はどっちかと言ったら自分を殺しすぎるところがあって、あんまり自分を出さないっていうのは、ある意味、それはいい部分でもあり、なんていうのかな、もうちょっと厚かましく生きてもよかったかなぁ。

 兄弟でずっと会社を経営してきたから。父がいちばん心配していたのは、「兄弟で同じ仕事するっていうのはすごく難しいよ」って言っていて。父と叔父が、そう、兄弟でしたからね。ずっと上手く経営をされて来たやないですか。

 でもやっぱりものすごく、人の見えないところで苦労をされていたのですね。そうなので「経営を兄弟でやっていくことは、たいへん難しいことだということを、君はようわかっときなさいね!」って常日頃から言われてきたんです。

 それで、「言い方が悪いけど、会社を潰すのは兄弟やで」とか「外から潰されるようなことってまずないけど、兄弟が違(たが)えるとか派閥をつくるとか、そんなことになっていったらもう会社っていうのは潰れる道を歩み出すよ」と、こんなふうなことをよく言っていましたね。

 だから、だから、だからだと思うんだけど、私は、できるだけ自分を出さないってことをしてきたっていうのは、そういうことがあるのかもしれない。

 お互いに、こう、どんどん自分たちでギャーギャーやりだしたら、それこそ会長(父)が心配されていたようなことにもならないとも限らんし。

  ──骨肉の争いなんていっぱいありますもんね。

 枚挙にいとまがないぐらいですよね。兄弟で揉めて会社がおかしくなっていったってこと多いよね。だから会社って脆いもんやって思っていたんでしょう。きっと。

 (会長の著書に)たしか「企業として、社会から人や、物や、お金をお預かりして事業をする以上はちゃんと収益を上げて、会社を成長させていくという努力するのは、これは当然のことやけども、だからといってそれが目標やとは思わない。

 やっぱり最後は人と人との繋がり、そしてその信頼関係をつくっていくことによって豊かな人生を築いていく。これが本当に大事なことやというふうに思うよ」って書かれていました。

 ──はい。

 やっぱり人と人との繋がり。そして、正しく仕事をしていくことによって、初めて信頼関係っていうのができてくるんだよね。

 街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
 「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
 
 「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。

 まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。

 メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
 結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。

 話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
 話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
 音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。

 届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
 もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
 最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。

 併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
 本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
 挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。

 ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
 オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。

 私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
 そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。

 ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
 他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。

 私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
 駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。

西村佳哲(2025年7月31日)

駒沢の生活史[17話]

2025年11月11日 発行 初版

発行:駒沢こもれびプロジェクト

「今日の駒沢」
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