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駒沢の生活史[16話]

駒沢こもれびプロジェクト




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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。

駒沢の生活史


第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
    みたいな話があったみたい

第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)

第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
    人生のあと残った時間を費やすっていうのが

第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
    駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)

第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
    そのとき初めて、ものすごい実感した

第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
    みたいな(笑)

第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから

第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)

第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
    そこをちゃんと見極めてたのは偉いと

第10話 どうなんですかね?
     結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです

第11話 まかない食い放題!
     生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの

第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
     じゃあ、○円くださいって言って(笑)

第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
     親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか

第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
     ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない

第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね

第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
     それが「あなたが社長ですから、
     これ、サインしてください」って、突然

第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど

第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね

第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね


第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
     お客さんって、すごいなとずっと思ってた

第21話 朝来た瞬間から、
     自分でやりたいことを自己決定していくっていう

第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの

第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)

第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
     「なんかあんまり」って思ってたけど


第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
     あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ

第26話 仕事してるとき、
     自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)

第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな

第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから

第29話 塾すら近所だからさ、
     全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの


第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
     私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです

第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
     「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか

第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
     プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう

第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
     けど、それ以来ずっとこの界隈で

第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
     駒沢でオープン

第35話 山梨の人は東京に出ると
     中央線沿線に住む人が多いんですけど、
     高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて

第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
     頼れるのは家族みたいなのはあったのかも

第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた

第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
     大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ

第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって

第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
     落ちたけど、コーヒーは飲みます

第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
     声かけられて、そういうのなんか憧れるよね

第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは

第43話 …どっからか来てるのかな。
     常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね

第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
     後ろから人生を逆算してるから

第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
     いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)

第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
     そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです

第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
     あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど

第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
     おっしゃって。「どうしよう」って(笑)

第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)

第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
     ことが尊いともあんまり思ってないんですけど

第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね

第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
     本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
     過ごしています

第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)


















私がアメリカ行くのは、
おじさんと一緒にっていうつもりで。
それが「あなたが社長ですから、
これ、サインしてください」って、突然

話し手 70代女性
聞き手    匿名


 私、生まれはね、大森なんですけど、すぐ戦争で栃木のほうに疎開しちゃったの。戦争が終わってから、ここ(上馬)に帰ってきた。うちの父が、粉屋だったんですよ、戦争中もそうだったのね、製粉業。大森で工場をやってたんですけど、ここへ引っ越して、機械やなんかは焼け跡から持ってきたりして。

 ──元々やってた工場のものを?

 工場のものを焼け跡から引き取ってきて、父がなんでも自分でやる人だったから、機械も自分でつくって。で、籾をお米にするのに、一升瓶にお米を入れて、棒でこう、つっついて、籾殻を取るような場面がテレビでもたまに出るけど、それをうちの父が機械でやってあげて。

 他のところに頼んだりすると、お米が少し減っちゃうんだって。やってるところで取っちゃうわけ。うちの父が正直もんだから、そのままそっくり持って行くらしいのね。それで、評判が良かったの。みんな父から聞いた話ですけどね。

 私が結婚するまでは、向こうが工場で、こっちが自宅で。私、昭和20年の生まれでしょ。結婚したのが44年。24のときに結婚して、そのときから池上に行っちゃってるから、その後、しばらくしてこの家を建て直したの。

 ──家は建て直したんだ。何歳のときに栃木から来たの?

 もう戦争が終わってすぐじゃない。20年の8月15日。そのあとすぐ帰ってきたんじゃないかな。昔のうちだから、掘っ立て小屋っていうか、大したうちじゃないわよね。庭が広くて鶏も100羽くらい飼ってた。

 ──そんなに(笑)。

 いまそこにあるアパ―トは全部庭だったんだから。鶏は100羽以上飼ってたかもしれない。七面鳥もいたりして(笑)。小学生のときは、卵や鶏の肉も、うちで飼っている鶏を父が絞めて食べたり。

 戦後はそんなもんなの。家とか自分のうちで食べる用に。夜中に泥棒が来て、鶏を盗みに来るようなこともあったのを覚えてる。

 ──子供の頃は。

 そこにある駒沢小学校に、私、最初行ってたの。……それがさ、私は小学校2年の始めまでそこに行ったのね。そのあと、京橋のほうに移ったの。私のおばあちゃんと栃木の田舎で女学校が同じでお友達だったひとが、そこの小学校の教頭先生で、その人に呼ばれて。

 だから、電車で私通ってたんだよ、小学校。銀座線。すごい混んでた。おばあちゃんが偉かったのかね。私の父母はさ、もう、ほら、工場で仕事が忙しいから。おばあちゃんが、いまで言うと教育ママみたいな感じだね。

私、こんなに一生懸命働いたから、
いま働かなくても食べていけるのかと思って

 ──どうだった? 学校が変わって。

 うーん、私としたら、あんまり好きじゃなかった。最初行ったとき、おばあちゃんのお友達が担任だったのよ、怖ーい先生でね、いまで言ったら、登校拒否。学校を休みたくて行かなくなっちゃった。だから、3ヶ月ぐらい行かなかったんじゃないかな。すぐお腹が痛くなって、休む休むって。

 2年生で京橋に行ってるでしょう。3年生になったら担任の先生が変わったの。優しい女の先生。それから、休まないで通ってた。いまから考えたら、あんなちっちゃい子をね、よく京橋までランドセル背負ってさ、地下鉄乗って行かしたよね。って、地下鉄だけじゃないんだもん。こっから渋谷まで、またやっぱり玉電に乗ったりしたんだ。

 ──それでもおばあちゃんに従って……。

 不思議とおかしいとは思わなかったよね。その当時は。だけどね、京橋とうちってけっこう遠いじゃない。だから、夏休みとかは友達と会わないわけ。 私はここにいるし、田舎だし。

 そういう点ではね、みんなはプール行ったりしてみんなで仲良く遊んでても、私は一人ぼっちで、「なんか……違うな」っていうのはあった。……両親はいつも仕事してたから、私もずいぶん仕事は手伝ったよ。

 ──どんな仕事を?

 うちはきな粉をつくったり、夏は麦茶つくったりしてたから、袋詰めとかやって、お客さんが来たら応対したりとかけっこう忙しい。忙しい家だったよ。だから休みない。子供のときも夏休みだからって別にどっか遊びに行ったりっていうのはないのよね。たまたま父が、車の運転が好きな人だったんだけどね。

 夏休みって言ったら、じゃあ1日ぐらい海に連れて行くかとかって江の島辺りにちょっと車に乗っけてくれて、連れてってくれた。そういう覚えはあるんだけど、夏は夏で麦茶がすごい忙しいでしょ。冬は冬できな粉が忙しい。きな粉はお正月でしょ。だからお休みないの。家内工業だからね。人も何人かは雇っていたけど。

 ──何歳のときから働いてる記憶があるの?

 5年生ぐらいかな。配達なんか、自転車の後ろに積んで、初台のほうまで行ったり。環七なんかないときだから。……若い頃から、うちの仕事を手伝うっていうのが、私はもう決まってたよね。

 いまから思ったら、私、こんなに一生懸命働いたから、いま働かなくても食べていけるのかと思って。人生ってやっぱり、ほら、なんていうの、決まってるっていうか、ね。昔、なんにもしてない人は、いま大変だとかってあるじゃない。そういうこと思うと、私ほんとに働いたからなあと思って。

 ──手伝ってた当時はどんな気持ちだった?

 もうやんなきゃ、手伝わなきゃ、って気持ちなんでしょうね。たまにはね、仕事に行きたいなとか思ったこともあったけど。学校を出るとき先生に「就職しないの?」なんて言われたけどさ、「うちの仕事を手伝わなきゃなんないから」って言ったのよ。生命保険とか銀行とかっていうところの就職口を推薦してくれたけど、私はうちの仕事をしなくちゃいけないから……断った。

 ──じゃあ、ずっともう家業をやるつもりで。

 別に家業を私が一生やるわけじゃなくて、結婚すると思ってるから。だからサラリーマンのところには行きたくなかったのね。結婚相手は商売してる人のところに行きたかった。

いまからやれったらできない。「いまからお前、アメリカ行け」だなんて

 ──どうして?

 なんかサラリーマンっていうのは面白くないなと思って。結局、自分も仕事したかったんだね。旦那さんと一緒に仕事をするっていうような、そういうのが望みだった。うちがこういう仕事してたから、結局そうなったんじゃないかな。たまたまね、おじさんみたいな人がいたから。あたしにしたら、サラリーマンじゃなくてよかった。

 20歳のときにおじさんと会ってるんだけど、結婚は24だった。だって、おじさんは大学を出てから、大阪に修行に行ったじゃない。2年行って、帰ってきてから結婚したの。それで、もうこの、この何十年も経っちゃったけどね。今年は結婚54年目かな。そうそう、長い。

 でも、途中にアメリカ行ったりしてるからさ、別々に暮らしてたけどね。おじさんみたいな人だから、ほんとになんか、自分の思ったように、よく動いたっていうか。普通はそんなアメリカまで行こうなんて思わないでしょ、普通。その辺のちっちゃいガラス工場がね……。でも、だから良かったんじゃない。幸せもんだったよね。よく言えば。

 ──おじさんが大阪から戻ってきて、結婚して。で、池上に移って。

 そのタイミングで工場を建て直したんだよね、おじさんが。それまでは、なんか昔の、それこそあばら屋じゃないけどさ、掘っ建て小屋みたいな工場だった。Uさんが住んでて。その隣のところにあった建物をお母さんが私たちのために直してくれて。

 だから、結婚して最初に池上に住んだの。それで、しばらく、何年か経ってからおじさんが工場を建て直して、3階建てにして、我々が住んでるうちも一緒に建て直したの。

 で、その後、池上の他に茨城のほうにも工場ができて。どんどん大きくしたよね、おじさんがね。考えたらほんといろんなことがあったよね。でも、それが人生っていったらおかしいけど、おじさんは色々そういう風にあっちゃこっちゃ発展するのが好きだったから。

 ──その頃に楽しかったことある? 大変なことばかりだった?(笑)

 大変なことばっかりだったね......でも、本当にいつもいつも大変だったけど、まあよく乗り越えてっていうか、うん、生きてこれたよね。

 ──生きてこれた。

 ん、そういう感じがする。いまからやれったらできない。「いまからお前、アメリカ行け」だなんて。取引先のオープニングセレモニーがあって、アメリカに行ったんだ。そのときに会社をつくった。弁護士さんと事務所に行って、いろいろ手続きして、そうしたら、その会社の社長は私なのよ。それ、そのとき言われてんのね、あなたが社長ですっつうの。

 私がアメリカ行くっていうのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。だいたい奥さんっていうのはそうじゃない。旦那についていくって感じでしょ。それが、「あなたが社長ですから、これ、サインしてください」って、突然。

「あー、なんでこんな遠くまで来ちゃったんだ」って、いつも私思ってた

 ──突然。

 でもしょうがない。いましょうがないから、暫定の社長で。でも、行く前に社長を探してたのよ。候補が2人か3人ぐらいいたのかな。結局ダメで、最後一人残ったんだけど、その人もダメになったの。いざとなったら行かないよね。しょうがないから私が社長になっちゃったね。もう悩んだよ、私。本当に病気になっちゃうような感じだった。

 それで、一回東京へ帰ってきたじゃない。で、また行かなきゃなんなくなったわけ。そんときにKさんっていう女の通訳が秘書だったんで、その人と私が一緒にアメリカ行って、仮オフィスをつくって。

 そこでコピー機を買ったりさ、事務所の一応形をつくって、Kさんっていう人が英語できた人だからね、手紙も書いたりとかしてくれて、交渉もみんなやってくれたわけ。私はいればいいって感じだよね、英語もできないんだから。

 そしたら、そのKさんが、なんていうの、もう「私が社長よ」っていうぐらいになっちゃって。なんか手紙出すんでもさ、自分が社長みたいに出したり、誰か来ても私をないがしろにしたりみたいな感じになって、私それも悩んじゃったの。どうしようか、どうしようかと思って。それで一回日本に帰ったの。私はもうほんとに悩んじゃって、「私、もうアメリカなんかいけない」っていう感じで、うん、どうしよう、どうしようって感じだった。

 次の年に私が、もうなんとか行かなきゃなんない、覚悟決めなきゃなんない、っていうときに、おじさんが、「お前ね、いつでもね、いやだったらね、いつでも帰ってきていいんだよ。会社なんかどうでもいいんだから、いつでも帰っておいで」って言ったのね。それを聞いて、「そっか、帰ってきていいんだったらいいや」と思った。それで私も行く気になっていったの。それが3月10日頃だった。

 その頃にはもうおじさんがJさんを新しい秘書に決めてたの。Kさんは呼ばないで私一人で行って、そのときにJさんと旦那のBさんが、空港に迎えに来てくれたわけ。それで一緒にオフィスまで来て、オフィスのすぐそばにアパート借りたのよ。

 ──うん。

 取引先のすぐそばにオフィスつくったのね。ちっちゃいとこだった。なにもやることないんだよね。ほら、まだ仮オフィスでこれから立ち上げるってとこだから。毎日毎日あの入口のとこに立っちゃさ、「あー、なんでこんな遠くまで来ちゃったんだ」って、いつも私思ってた。「こんな遠くまで来ちゃって、もう帰るのも大変だな」なんて思いながら過ごしてたわけ。

 そうこうしてるうちに、もう4月。土地を買ったり、工場を直したりしてっていうのも始まっちゃってるから、私がもう一回帰って、そのときに、NとKくんを連れて来たわけ。アメリカに。で、2人は一生懸命工場をやるためにいろいろ働いたんだね。わけわかんないにしても。そのときに、Jさんの旦那のBさんっていう人がすごくいい人で、もうなんでも手伝ってくれたの。あんないい人いないぐらい。日本語もちょっとはできるし、うん、なにしろ、本当にいい人だったのね、それで助かったっていうのもあるよ。

 なんだかんだで工場ができたし、機械も搬入したりとかして、どんどん工場を立ち上げられるってことになって、あれは10月だったかな、オープニングセレモニーをやるっていうんですよ。

ベッドルームが3つぐらいあって、そこに社長と私たちも泊まったの。
なにしろうまくいったのよ

 ……その前に、まず一人雇ったんだ。なにしろ人事がいちばん重要だって、取引先の人もいろいろアドバイスしてくれて雇って、次に営業の人を雇って、いろいろ始められるように立ち上げをしてたわけ。

 それで、オープニングのときにお客さんをいっぱい呼んで、160人ぐらい呼んだのかな。市長も呼んだりして。で、あとは取引先の人とか、たくさん来てくれて。あの当時けっこう派手にやったよね。それで、そのセレモニーの後はお祝いをするっていうんで、その地域でいちばんのホテルの貴賓室みたいなお客さんを呼ぶようなところを借りて、鼓笛隊を呼んだりしてお祝いしてっていうのもやったんだよ。

 取引先の社長も来てくれて、そこに泊まってもらって。一軒家みたいな、しゃれた建物があったのね、ベッドルームが3つぐらいあって、そこに社長と私たちもそこに泊まったの。なにしろうまくいったのよ。

 ──うん、うん。

 それで、工場を立ち上げて稼働してね。そのあと大きな機械を買ったでしょう。あれだって何億もするような大変な機械だったんだよ。

 よくあたしが、あそこにいられたなと思ってね。市の公聴会とか、私が行かなきゃなんないんだよね。この会社が新しく工場をつくるけどいいか悪いかとかって話すのよ。なにかって言うと、そこに私が行くわけ。そんなことわかんないのに。……わかんないんだよ(笑)。一緒にJさんとか連れてっても、あの人たちだってね、そんななんでもかんでもわかるわけでもないじゃない。そのうち、経理のPさんが一緒に行ってくれて。そういうことが何回もあったもん。いま思えば、あたしなんかがよく図々しくね、行ってたもんだなと思ってね。大したもんだよね。

 ──大したもんだよ。

 いきなり出来ないよね、普通の人はね。そういうこともありました。よく私も頑張ったなと思って。いちばん驚いたのは、取引先でO社とV社って2社あったじゃない。昨日はO社のセールスで来てたのに、翌日になったら、私は今度V社ですって訪問してきて(笑)。同じ人がもう違う会社で働いちゃってるの。

 そんなの別にね、驚くことじゃないのよ。なんだか知らないけど、いつの間にか、そんなの驚きもしないようになっちゃってたわね。「そういうことですか」って感じでね。会社行くたんびに思ってたんだもん。「今日はどんな問題が起こるのかな」って思いながら会社行ってたから、安心したってことはなかったね。……ねえ、まあでも、いまから思ったらね、楽しかったなと思うね。

 いまから思えばね。だって、あんなこと普通できる体験じゃないじゃんね。日本にいたんじゃ、ね。振り返ってみれば、クリスマスのシーズンになったら、もうみんなクリスマスツリーを飾るし、気分がもうルンルンなのよ。クリスマスー♪って感じで、仕事なんかそっちのけになっちゃうじゃない。そういうのも経験したしね。みんなで赤い帽子かぶったり、サンタクロースの服を着たり、アメリカに行ってそういう経験したってことも楽しかったよね。

 ──帰ってきてもう20年。

 早いよねえ。本当に早い。911があって、会社を整理することになってアメリカから引き上げてきて。……まあ行ってみたいっていえば、また行ってみたいけども。ほんとにずっと仕事をしていたって人だよね、私って。

いまから思ったらね、そんな人でしょうがなかったなっていう感じ(笑)

 ──2003年に日本に戻ってから仕事してないでしょ。どんな気持ちだったの。

 もう仕事はしてないけども、母がもう歳を取ってたから、結局母の介護になったんじゃないかな。ちょうど母も私が帰ってくるのを待ってたみたいだったから。それで、最後に介護できた。

 父はね、私がまだアメリカにいる頃だったから。アメリカから年末帰って、こっちでお正月過ごして、それで、向こうに帰らなくちゃいけなかったんだけど、父がもう入院してて、もうちょっと危ないなって感じだったの。で、なんかここにずっといると死ぬの待ってるような感じだなと思ったから帰ったの。

 アメリカに着いたらさ、父が死んだっていう連絡が来たの。で、すぐ翌日、また飛行機のチケットを取って帰ってきた。そういうことあるね、遠くにいっちゃうとね。だからアメリカから帰ってきたときは、本当になんかほっとしたって感じがあるわね、私も。

 だってもう行かなくていいし、帰らなくていいじゃない。会社はもう閉めてきたんだから。だから、そういう点ではもうほっとして。……アメリカの会社を閉めてきたわけでしょ。買掛だの売掛だの財務処理が残ってたから、私と経理のRさんと2人で始末して帰ってきた。うまくね、そういうのをみんな終わらして、それで帰ってきたの私は。いろんなことがあったから、本当に生きた心地がしなかったね。よくあんなんで私、図々しく生きてきたなと思って。こんな話なんてしたってしょうがないからさ。誰にもしないけど。おじさんがいればもっと面白い話ができたかもね。

 ──おじさんのことはどう思っていたの?

 おじさんっていう人は、面白い人、っていうか、難しい人だった、変わってる人だね……。やりたいことやったっていうか。普通だったら、一つの会社に勤めて安定してるかもしれない。おじさんの人生っていうのは、安定はしてないじゃない。波乱万丈っていうの。ほんと、そう思う……。それにくっついていた私も同じだと思うよ。決して安定した生活ではなかった。

 いまから思ったらね、そんな人でしょうがなかったなっていう感じ(笑)。でも、じゃあ別れようとか、そういうことは考えたことはなかった。うちはね、結婚したときにそういう言葉、離婚とかいう言葉を言ってはいけないって言われてたの。

 ──それはおじさんに?

 おじさんが私にそう言ってるわけ。言ったから言えないっていうか、言わなかった。そういうこと言ったら、ほんと、それは最後の言葉。いい加減には言っちゃいけない。だから、それは本当にね、言わなかったよ。どんなに頭に来てもね。……私が大変だったってことはね、それでもいい経験だったなっていうのがいまの私の感想。だって、こんな面白い人生なんてないんじゃないかなと思うもんね。本当ね、おじさんのおかげでね。おかげさまですよ。

 街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
 「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
 
 「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。

 まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。

 メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
 結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。

 話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
 話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
 音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。

 届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
 もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
 最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。

 併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
 本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
 挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。

 ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
 オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。

 私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
 そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。

 ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
 他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。

 私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
 駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。

西村佳哲(2025年7月31日)

駒沢の生活史[16話]

2025年11月11日 発行 初版

発行:駒沢こもれびプロジェクト

「今日の駒沢」
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