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魔鏡殺人事件

小林猫太

いぬねこ出版



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魔鏡殺人事件

「魔鏡はご存知ですか」
「マキョウ?」
 楠見知彦くすみともひこに問われて、カウンターの奥に座る天道任てんどうあたるは、膝の上に広げた分厚い本からようやく視線を上げた。それ迄幾度も当たり障りのない話題を振ってはいたものの、都度つど生返事で先を濁されていた楠見は、パッと朝顔が開いたような表情になると、半ば慌てて言葉を継いだ。未だ二十代の若い刑事である。相手の警戒心を解くための何時いつもの手続きは、天道には全く無意味なようであった。
「魔法の『』に『かがみ』です。魔鏡」
「でしょうね。僕は人外魔境に詳しい探検家には見えない筈ですから」
 下目黒の路地裏に古くから建つ古書店『紙枕堂ししんどう』の、お世辞にも明るいとは言えない店内である。物好きな父親から後を継いだ天道は、多少はマシになるかと自宅の一部屋を取り崩し、店を奥へと広げて、道路に面した一角を喫茶スペースに改装しているため、以前と較べれば幾らかなりとも光量は多いのである。只やはり背の高い書棚の並ぶ店内は薄暗い。もっともそれが良いのだと頻繁に顔を見せる常連も少なくはない。
 楠見は常連では無い。それどころか、一人で此処ここに来たのは初めてである。そもそも客ですらない。客のような風情ふぜいで現れはしたものの、書物を見繕みつくろいに来たわけでも、茶を飲みに立ち寄ったわけでも無い事くらいはたたずまいで判る。楠見は警視庁捜査一課の刑事である。少し前に天道が図らずも関わる事になった事件で顔見知りになった青年である。
 歳は二十代後半、天道よりも少し下でしかないが、仔犬を思わせる童顔の所為せいで、知らぬ人の目には一回りも違うように見えるかも知れない。濃紺の背広が一張羅いっちょうらに見えて似合っていない。
「魔鏡というのは、鏡面に平行線に近い光を当てると、反射先の投影面に背面の図柄を映し出す銅鏡の事です。確かに魔法のようですが、制作過程の結果として生ずる単純な光学的トリックに過ぎません。日本には漢の時代の中国から技術が持ち込まれ、国内の古墳から数多く出土される三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょうなどは魔鏡の性質を備えているとされていますね」
 立板に水の如く語る天道を、楠見は悪気のない口調で押し留めた。
「いえ、そのくらいは知っています。一応調べましたから」
 天道が不本意そうに片眉を上げて見せるのを、楠見は無視して続けた。
「でも、どうしてそんな事知ってるんです」
「だってカッコいいじゃありませんか、魔鏡。響きからして」
 天道は微笑を浮かべながら言った。楠見は思わず溜息をついた。
 しばし、沈黙があった。それに耐えきれなくなったように、楠見が訊く。
「それだけなのですか」
「それだけというのは」
「何かこう、別の意味合いというか……」
 歯切れが悪い。自分でも何を尋ねに来ているのかが良く判っていないのかも知れない。天道は楠見の上司である捜査一課長を思い浮かべた。あれほど威信とか沽券とかに拘らない管理職も珍しいと思う。使えるものは何であろうと遠慮なく使う、という公務員らしからぬ成果主義者とも考えられるが。
「魔鏡は英語で言えばそのままマジック・ミラーという事になるのですけれどもね」と、天道はおもむろに語り始めた。「召喚魔法の術式において、魔物の像を出現させる為のスクリーンとして使われる道具の呼称でもあるのです。実際には余計なものが映り込んでしまう本物の鏡ではなく、水を張った盆などを用いるのが一般的とされていますね」
「召喚魔法?」
 予想だにしなかった展開に、楠見は思わず声を裏返らせた。
「召喚魔法と聞くと実体としての魔物が現れると思っている人が大半でしょうが、それは近世の戯曲やそれらを土台としたその後のサブカルチャーの影響でしかないのです。中世の魔導書をどれだけひっくり返しても、そんな事はどこにも書いてありません。召喚の本質は幻視なのですよ。著名な魔術師であるダイアン・フォーチュンはこう言っています。『魔術師は物質のレベルにまで霊を呼び起こすような事はしない。なぜなら、十分な霊視の力を持っているなら、アストラル空間にそれを呼び起こすだけで事足りるからだ』と」
 楠見は最初の内、とんでもない失策に気付いたかのように呆然とした表情で固まっていたのだったが、その顔は次第に泣き出しそうに歪んでいった。
 ですからね、とそれを一顧いっこだにせず天道は続けた。
「白雪姫に出てくる魔法の鏡があるじゃないですか。魔法の鏡、正にマジック・ミラーですね。あれは恐らく何の変哲もない普通の鏡なんです。加齢によって不可逆的に失われていく自身の美に対する不安、それが神経症にまで昂じてしまった女王が、遂に自己防衛の為の幻聴を聴くに至っているだけなんです。幻覚が霊感によるものか、病的な思い込みによる症状なのかなんて、本人にすら区別は出来ませんからね。白雪姫についての話は、きっと何処どこかで小耳に挟んだかしたのでしょう。それが無意識から幻聴の形で引き出されて来たのです。不安に対するカウンター、自己欺瞞に刺さったとげ、自身を脅かす存在として……どうかしましたか」
 苦悶の表情にようやく気付いた天道が問いかけると、楠見は「何の話ですか」と辛うじて口にした。
「だから、魔鏡の話ですよ」天道は平然と言った。「態々わざわざそんな事を訊きに来たというのであれば、Wikipedia辺りの講釈では納得出来ないという事でしょう」
「それはそうなんですが……」
 そうなのである。意味など無いと思われていたものに隠された意味があり、それどころかそれこそが他でもなく一連の出来事の本質であったのが、天道が関わった先の事件なのであり、それを苦もなく暴いて見せたのが天道なのであった。だから楠見は一体何が判っていないのかも判っていないまま、判っていない事が有るはずだという当てずっぽうで送り込まれているのに違いない。
「まあ、部外者においそれと詳細を明かせない事位は判りますがねえ、それにしたって、真逆まさか魔鏡が人を殺したという訳でもないのでしょう?」
 楠見は何故か「うーん」と低く唸って、不意に身体の力が抜けたように、足元の踏み台にどっかと腰を落とした。身体の内側から疲労が噴き出した感だった。
「その、真逆まさか、なんですよ」
勿論もちろん、冗談ですよね」
 流石さすがに楠見を見据えて、天道は言った。
 楠見は顔の下半分だけで微笑した。痙攣を起こしただけのようにも見えた。

 被害者は折原康おりはらやすし、五十八歳。多摩川大学人文学部客員教授。現住所は茨城県結城ゆうき市。板橋区ときわ台にあるマンション七階の自室から転落死しているのを発見された。
「現住所が茨城なのに板橋に住んでた?」
「何でも元々は大阪の大学で教授を務めていた有名な人らしいのですが、突然退職して茨城に移住したんですよ。その後しばらくして多摩川大学に招聘しょうへいされ、ときわ台に部屋を借りて講義のある日はそこに寝泊まりしていたようです」
 一見暗号のように汚い字で書かれた手帳を見ながら楠見は説明した。
「教授なら経済的には余裕があるのだろうけど、なんでまた態々わざわざ。家族は?」
「移住前に離婚しています。子供も含めて、もう何年も会っていないそうです。事件に関係は無さそうです」
「専門は」
「専門?」
「折原教授のですよ」
「え、ああ、歴史学です。確か中世日本史だったかと」
「日本史ねえ……で、魔鏡か……」
 何やら考えながら、喫茶スペースに移動した楠見の前に、天道は珈琲の注がれたカップを置いた。楠見が一応恐縮してみせた。
「ああ、済みません」
「代金は払う気が有ったらでいい。無ければ僕のおごりです」
 楠見は伸ばしかけていた手を止めたが、結局カップを持ち上げて口に運んだ。表情が少しやわらぐ。
「……美味しいですね」
「ウチは本の品揃えより珈琲の方が評判が良いですからね。何方どちらも通向けなんだ」
 それで、と促されて、楠見は状況の説明を続ける。
「先週の日曜日、午前十時二十分頃です。在室していた階下の住人が窓ガラスが激しく割れる音を聞き付け、思わず窓の外を見ると、人間らしき物体が落下して行くのを目撃しました。その直前、上の階で叫び声や家具が倒れたような激しい音を聞いています。住人が窓を開けて下を見ると、被害者が地面に倒れて血を流しているのを発見し、その場で一一〇番通報しました。マンションのある通りには交番があり、三分後には警官が到着、被害者の死亡を確認しています。そして……」
 と、楠見は一旦言葉を切って、目を上げると天道を見た。
「被害者の傍らには青銅製の鏡が落ちていました」
「それが魔鏡?」
「魔鏡です」
 まるで怪談でも語るようなその口調に、天道は歪んだ苦笑を浮かべた。
「魔鏡といえども、魔神が現れて格闘したりはしませんよ。部屋には他に誰か居たんでしょう。其奴そいつが……」
「ところがですね」と、楠見は天道が言い終わらぬ内に割って入った。「部屋のドアは内側から施錠されていました。鍵は被害者のポケットから発見されました。騒ぎを聞きつけてさま何人かの住人が外に出て来ましたが、誰一人不審な人物を目撃していません。つまり……」
 そこで今度は天道が先に言った。
「密室、というわけですか」
「ええ」
 楠見は神妙な顔付きで答えた。
「状況からして犯人は合鍵を持つ人物ではないか、或いは施錠した後に階下に降りて被害者のポケットに鍵を入れたのではないか、という推理は極めて可能性が薄いのです。そのタイミングで誰も部外者を見ていないなどという事が有るだろうかと」
成程なるほど。それで犯人は魔鏡だと」
「そうは言っていません。真逆まさかと言ったじゃないですか」
「その真逆まさかだと言ったのはは君です」
 ノートブックパソコンを開いて何やら調べ物をしていた天道は、ハハハハハと笑ったかと思うと、徐に真顔になって、「しかしですねえ」と向き直った。
「それは本当に魔鏡なのですか」
 魔鏡ですよ、と楠見は少しムキになったように答えた。童顔なので尚更なおさらそう見える。
「その方面に詳しい八島やしま大学の浅木あさぎ教授に見てもらったのですが、そんなに古いものではないにせよ、魔鏡である事は間違いないと。実際に光を当ててもみたのです。ですが出来が悪いのか摩耗しているのか、何かぼんやりと陰影が映る事は映るのですが、判然としませんでしたけれど」
「魔鏡の投影像は背面の模様と決まっているのですよ。鏡面研磨の過程で生じる、厚みの差による凹凸おうとつが原理なのですから」
 天道が言うと、楠見は矢張やはりそんな事は判っていると言わんばかりに眉を寄せた。
「ええ、それが見えないんですよ。上から別の背面が被せられているんです」
「ああ、二重魔鏡」
 二重魔鏡とは本来の鏡の背面に別の背面を張り合わせる事によって、隠された紋様が浮かび上がるように作られた物である。
「キリストの架刑像が隠された『キリシタン魔鏡』などが有名ですが、実際の信仰に用いられたという記録は有りません。抑もキリスト教は偶像崇拝を禁じていますからねえ。教会の十字架やキリスト像は単なる象徴であって信仰の対象ではない。例え隠れキリシタンであっても、象徴に過ぎないものを隠蔽する必要なんて無い訳です。キリスト信仰の本質とは何の関係も無いのですからね。だから僕は、ある種の工芸品として作られたんじゃないかと思いますね。宗教画と同質の」
 楠見は、はあ、とだけ言って、手にしていた薄い紙束を天道に差し出した。時折始まる彼の蘊蓄うんちくには未だに慣れなかった。
 楠見が片手間にまとめたのであろう、雑な手書きも混じった見るからに適当な資料には、くだんの魔鏡の写真があった。二重魔鏡には季節の風景等が彫られている事が多いが、背面にはやはり葉を落とす紅葉の枝と、角が幾重にも枝分かれした一頭の雄鹿が表されていた。所々に赤い色が見えるのは、本来は何方もが鮮やかな赤で彩色されていたのであろう。遠景として不規則な稜線の山があり、奇妙な位置に大文字焼きの如く何かの印が付けられている。小さくて判別は困難だが、右三つ巴の家紋のように見える。
 天道は何故か一瞬、微かにふっと笑ったようであったが、その表情には次第に不審な影が落ちて来た。
「僕は最近、これを何処どこかで見たような気がしますね」
「えっ、何処でですか」
 楠見が勇んで問い正すのを、天道は「いや自信はないのですが」と受け流した。
「似たような物は幾らでも有るでしょうから。知り合いの古美術商に確認してみます。多分、彼絡みの記憶だ」
「そんな都合の良い知り合いが?」
 楠見が疑わし気に言うのを、天道はあきれ顔で一蹴した。
「何を言ってるんです。古本屋だって同じ古物商ですよ。組合にだって入っている。それから楠見君は、最近の折原教授がどんな研究をしていたかを調べて下さい。いや、楠見君でなくても良いですけれども」
「それって、事件と関係があるんですか」
 馬鹿にされたとでも思ったのか、楠見は唇を突き出して不満そうに訊き返した。
 天道はそれには答えず、視線を落として更に資料を捲った。折原教授の部屋の写真である。問題の窓には半分閉じられたまま、曲がったレールから外れたカーテンがぶら下がっており、下辺が床近くまである大きな窓ガラスは完全に割れて、枠に沿って残骸が残っているだけだ。眺望優先なのであろう、ベランダのような空間はなく、落下防止の手摺りが腰程の高さに取り付けられている。死体の写真は素早く飛ばした。
「折原さんは前日、マンションの管理人にガス漏れを訴えた、とありますね。これは」
「ああ、それですか。管理人に聴き込みをしたのですが、朝早く電話をしてきて、異臭がするからガスが漏れているに違いない、調べてくれと言ったらしいんです。それでガス会社を呼んだのですが、何処にも問題は無かったというんですね。他の住人からはそんな訴えは後にも先にも無いといいますし」
 楠見は気の無い口調で淡々と言った。
「どうも家賃を二ヶ月滞納しているらしく、管理人が言うにはケチを付けて引き延ばそうとしてるんじゃないかって」
「それならばもっと他にありそうなものですがね。調べれば直ぐ判るような嘘なんて」
「犯罪者なんて案外そんなものですよ」
「折原さんは被害者でしょう」
「嘘の話ですよ。嘘つきは泥棒の始まりって言うじゃないですか。泥棒は犯罪です」
 楠見の判ったような判らないような詭弁に、天道は諦めて資料に戻った。
 魔鏡の投影像の写真もあった。確かに魔鏡にしては不鮮明過ぎる像であった。元は直線や曲線と思われる濃淡が、或る部分では高い密度で、又或る部分ではやけに広い間隔で並んでいる。天道はある種の騙し絵を見る時のように目を細めた。やがて「ははあ」と止めていた息を吐いた。
「どうしたんです」と、しびれを切らしたように楠見が訊いた。「偶然ひょっとして、何か判ったんですか」
「何も」と、然し、天道は飄々ひょうひょうと否定した。「これだけで判る位なら、僕は儲からない古本屋なんぞしちゃあいないですよ。ただ、推測は出来る。それが果たして妥当な推測かどうかを、僕と楠見君で調べようというのじゃないですか。いや、楠見君でなくとも良いのですが」
「それはもう判りました」と、楠見は冷ややかに言った。そして天道が無言で珈琲カップを片付けようとするのを見て、慌てて残りを飲み干すと、軽くせながら続けた。「それで、その推測というのは何ですか」
 天道は冗談めかした風ですらなく、至って真顔で答えた。
「僕の推測通りなら、犯人は他でもない、魔鏡ですよ」

結城ゆうき家埋蔵金というものがあります」
『紙枕堂』を再訪した楠見知彦が、喫茶スペースの椅子に座るなり、天道任は挨拶もおざなりにそう切り出した。
「かつての下総国しもうさのくに、今の千葉県北部と茨城県の南西部辺りですね、そこを治めていた結城朝光ともみつが、奥州藤原氏討伐の恩賞として藤原氏の蓄財を譲り受けたものを、結城家が関ヶ原合戦後に越前へ転封となった際、十七代晴朝はるともが再興を期して彼の地に隠したと伝えられているのです。その額、現在に換算して数千億とも。日本三大埋蔵金の一つと言われていますが、有名な徳川埋蔵金等と比べると、極めて信憑性が高いのです。というのも、江戸時代に今の結城市のとある井戸から大量の棒金が見つかったという瓦版が残っているのですね。家康が結城家を封じたのも藤原氏の財宝目当てだった可能性が有りますし、倹約を謳った徳川吉宗ですら発掘を試みたという記録が残っている程です」
 楠見は途中で口を挟む事も出来ずに、ただ茫然と天道の声を聞いていた。話ではなく、声であった。全く意味が判らなかったからである。
「実際結城市近辺の井戸という井戸は過去にあまねく掘り返されているのです。しかしそれ程の量の財宝を井戸などに分散して隠すものでしょうか。井戸で発見された棒金は、探索の注意を井戸に向ける為のフェイクだったのではないか。本筋の隠し場所は、いざというときの為に、ずっと何者かが密かに言い伝えていたのではないか。或いはそれは既に発見されて、別の場所に隠し直されているのではないか。家康は早々に結城家の埋蔵金発掘を禁じる令を出しました。探しても無かった物ならば、何故探してはならぬとしたのでしょう。結城家転封後の領地を天領、即ち幕府の直轄地としたのは何故でしょう」
「あの……何の事です?」
 天道が間を置いたので、楠見はようやくそう口にした。
「何のって、君が調べてくれたんじゃないですか。折原教授は専ら西関東周辺の歴史遺構を現地調査していたと。しか屡々しばしば福井県にも出掛けている。結城家に執着していたのは瞭然です。いや寧ろ福井で何かを見つけたのが発端だったかも知れません。文化的には関西に近い」
 天道は呆れたように楠見を見た。
態々わざわざ大学を辞めて、態々結城市に居を構えたのですよ。そして態々自宅を残したまま、態々部屋を借りて今の大学に通っているのです。埋蔵金探しの為と考えるのに、左程さほどの無理はないと思いますがね。離婚されるのも無理ない、とも言えるし、金に困るのも無理ない、とも言えますが」
 楠見は「はあ」と答えたきり固まってしまった。
「幕末に代々幕府の御用鉄砲鍛冶であった国友一貫斎くにともいっかんさい、この人はわば平賀源内のような発明家で、望遠鏡を自作して天体観測をしたり、日本最古の飛行機の設計図を記したりした人なのですが、彼が徳川斉昭なりあきに魔鏡を献上したという記録が残っています。しかし現物は行方不明です」
 今度は何だ、とばかりに楠見は口を半開きにして目を見張った。
「ところが数年前、とある大学の准教授がそれを発見したという話が有りました。実はここまでの埋蔵金に関する推察はその教授の触れ込みなのですよ。君も胡散臭いなと思ったでしょう。実際具体的な根拠に乏しかった為、話は半信半疑に受け取られ、当の本人は直後に大学から消えました。出国して海外生活をしているという噂もあります。その後暫くして何者かがオークションに出品した魔鏡が、その時発見された魔境に瓜二つだったのです。魔鏡は五千万円で落札されました。付けられていた名は『山紅葉赤鹿鏡やまもみじせきろくきょう』」
「えっ!」楠見がやっと彼らしい声を発した。「あの鏡ですか!」
「折原教授はそれに賭けたのではないかと思うのですよ。背面の山肌にあった右三つ巴は結城家の家紋ですからねえ、しかもデザインとしては微妙な位置です。埋蔵金の隠し場所が示されていると考えてもあながち妄想とは言えません。一貫斎は松平定信の命で鉄砲技術書を著す程、代々幕府の信頼厚い腹心でも有りました。策謀渦巻く時代ですから、事によると軍事の要として誰よりも重用されていた存在であったかも知れません」
「いやしかし、その事と事件とにどんな関係が。真逆まさか埋蔵金を探させたくない者が居るとでも?」
 ふと我に返ったように楠見が言うと、天道は「なかなか面白い推理ですねえ」と言って笑った。楠見は心外といった顔で唸った。
「密室の謎はさておき、部屋で乱闘があったらしい事は明白ですから」
 すると天道は、涼しい視線を楠見に向けた。
「楠見君はブチ切れて一人で大暴れした事が無いのですか」
「はい?」
 怪しげな話に続いて急に自分の名が出てきたので、楠見は頓狂とんきょうな声を上げたが、ややあって天道の言わんとする所を理解すると、思わず更に高い声になった。
「ではあの騒ぎは彼が一人で起こしていたんですか!」
「他に誰も居ないとすれば一人でしょうね。当たり前の事ですが」
「それはそうですが……しかし」
 煮え切らない風ではあった。
「だから言ったではありませんか、犯人は魔鏡だと。まあ、犯人が居るとすればの話ですがね」
 天道は平然とそう言って先を継いだ。
「折原さんが人として極限まで追い詰められていた事は想像に難く有りません。お金の問題が最たる懸案でしょう。何しろ五千万で動いた物ですから、恐らく相当な借金も有るに違いないですし、自身の半生の意義が掛かってもいた訳です。これで説得力のある証拠を提示出来れば、自分でなくとも他者を動かす事は可能だった。現に、彼が危険なまでのストレスを抱え込んでいたらしい形跡が有ります」
「形跡?」
「前日の異臭騒ぎです。異臭症という病気はご存知ですか。要因が何も無いにも拘らず、自分にだけ異臭が感じられるのです。原因は強度のストレスと言われています。部屋の写真の隅に業務用洗剤のボトルが見えました。多分鏡面の緑青ろくしょうを除去する為に使ったと思われます。あのタイプの主成分はフッ化アンモニウムです。それ自体が特に異臭を発する物ではありませんが、気道粘膜に炎症を起こす危険が指摘されています。元より屋内で使うべき物ではないのです。その影響で嗅覚が過敏になっていて、発症し易い状況になっていたかも知れません」
「それで、何故折原教授は一人で大暴れする事になったんです。結局判らなくて自棄やけを起こしたのですか」
 いえ、と天道は少し憐れんだような表情で、しかしサラッと言った。
「判っちゃったからでしょう。もうお終いだと。あれは偽物ですから」
 楠見は「えっ偽物!」と叫んで言葉を失った。
「何の為にあんな物を作ったのかは判然としませんが、どう考えても悪意の産物です。著名な画家の美術品に山程贋作が存在するのと一緒なんじゃないですかねえ。魔鏡は魔鏡ですが、魔鏡としての出来は悪そうですし。件の大学教授は自身の名前を使ってそれを利用したんでしょう。ま、一言で言えば詐欺って事ですが」
「そうなのですか!」
 言葉の見つからない楠見は辛うじてそう尋ねた。
「反射像の画像を拡大して、判る限りの濃淡に線を引いてみたのです。どうやら篆書てんしょじゃないかと思うんですね」
 そう言いながら、天道は画像のコピーにペンで上書きした紙を見せた。
「右上の文字は判り易いですね。『木』です。左下は『求』でしょうか。残りの二つがかなり曖昧ですが、右下は『魚』が最も近いのではないか。つまり『◯木求魚』、恐らく『縁木求魚』、『木にりてうおを求む』、無駄な努力をする事の例えです」
 楠見は紙を取り上げて、何度も指でなぞりながら「ああ! ああ!」と呻いた。
「折原さんは気付いてしまったのでしょう。そして絶望に叫び、大暴れした挙句、忌々いまいましい魔境を窓の外に向かって投げ捨てて、自らも身を投げたのではないでしょうか。彼にまだ精神的な余裕があって、背面の意味を考える事が出来ていれば、或いは防げた悲劇かも知れませんが」
「じゃあ天道さん!」と、楠見はようやく持ち前の解読力を発揮した。「真逆まさか最初からあれが偽物だと疑っていたんですか!」
 ええ、と天道は事も無げに肯定した。
「背面の鹿ですがね、角の形がどう見ても日本の鹿ではないんです。ニホンジカはこんなに幾重もの枝分かれはないんですね。恐らくアカシカではないかと思います。最初は赤く塗られてもいたようですし」
「アカシカ? 赤い鹿、ですか?」
 初めて聞くのであろう、楠見は頭の悪そうな質問を投げた。
「北米や中国大陸に分布する鹿でしてね、赤くはないのですが、夏毛はわば赤褐色になるのでそう呼ばれるようです」
 そして天道は、少し間を置いてこう付け加えた。
「中国名では『馬』に『鹿』と書きます」
 楠見は今度こそ口をあんぐりと開けて、声にもならない唸り声を発した。
「そうです。馬鹿、です。ですからねえ楠見君、製作者の悪意は単なる悪意じゃないんですよ。真摯に騙そうとすらしていない。呪いに近いものがある。当人はとうに死んだのに、鏡に残った悪意が人を操っているような気さえしますよ。或いは折原さんと同じように、結城埋蔵金で人生を狂わされた人間の作かも知れませんねえ。この世界には整合性を失う程に歪んだ悪意が彼方此方あちこちに潜んでいるのですよ」
 その時、楠見のスーツのポケットで携帯電話が鳴った。ぼんやりしていた楠見は、ビクッと身体を震わせると、画面を見て慌てて外に飛び出して行ったが、程無ほどなくして戻って来ると手にした電話を天道に差し出した。
久和くわ警視からです」
「僕に?」
 天道は爆弾に触れるような慎重な手付きで楠見の手から電話を取り上げた。そのまま五分間程ほぼ黙って話を聞いているようであったが、最後に「僕がですか?」と電話の相手に問うて通話を終えた。
「全く、警察は民間人を何だと思っているのだろうね楠見君」
 携帯電話を返しながら、天道は不機嫌そうに顔をしかめた。
「俺に言われても困りますよ」
 ここへ及んでやっと素の表情になった楠見が言った。
「警視が一体何の話だったんですか」
「呼び出しですよ」
「何かしたんですか。本庁なら送りましょうか」
 天道は困惑の表情で楠見を見た。
「そうしてくれたら助かるんですがね、生憎あいにく行き先は軽井沢なんです」
 諦めたようにそう告げると、出掛ける準備の為に緩々ゆるゆると立ち上がった。

 正にその頃、軽井沢に建つ英林医科大学研究所、通称『白翅館はくしかん』、別名『白死館』では、狡猾極まる恐るべき犯人が事件の進行を一旦止めて、天道の到着を今や遅しと待ち受けていたのである。

                          〈了〉(『白死館殺人事件』に続く)

魔鏡殺人事件

2025年10月13日 発行 初版

著  者:小林猫太
発  行:いぬねこ出版

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