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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。
第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
みたいな話があったみたい
第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)
第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
人生のあと残った時間を費やすっていうのが
第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)
第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
そのとき初めて、ものすごい実感した
第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
みたいな(笑)
第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから
第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)
第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
そこをちゃんと見極めてたのは偉いと
第10話 どうなんですかね?
結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです
第11話 まかない食い放題!
生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの
第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
じゃあ、○円くださいって言って(笑)
第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか
第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない
第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね
第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
それが「あなたが社長ですから、
これ、サインしてください」って、突然
第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど
第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね
第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね
第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
お客さんって、すごいなとずっと思ってた
第21話 朝来た瞬間から、
自分でやりたいことを自己決定していくっていう
第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの
第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)
第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
「なんかあんまり」って思ってたけど
第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ
第26話 仕事してるとき、
自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)
第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな
第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから
第29話 塾すら近所だからさ、
全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの
第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです
第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか
第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう
第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
けど、それ以来ずっとこの界隈で
第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
駒沢でオープン
第35話 山梨の人は東京に出ると
中央線沿線に住む人が多いんですけど、
高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて
第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
頼れるのは家族みたいなのはあったのかも
第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた
第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ
第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって
第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
落ちたけど、コーヒーは飲みます
第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
声かけられて、そういうのなんか憧れるよね
第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは
第43話 …どっからか来てるのかな。
常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね
第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
後ろから人生を逆算してるから
第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)
第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです
第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど
第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
おっしゃって。「どうしよう」って(笑)
第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)
第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
ことが尊いともあんまり思ってないんですけど
第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね
第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
過ごしています
第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)
話し手 30代男性
聞き手 工藤瑞穂
——まず、どこでお生まれになった?
生まれたのは鹿児島の奄美大島なんです。父が奄美の人で、地元の金融機関に勤めてて、母も同じ地元の金融機関で、そこで知り合って結婚して。父が奄美に転勤してたタイミングで僕が生まれた。
3年ごとぐらいに転勤が父はあったので、鹿児島県内をぐるぐるしてたかな。小さい頃の奄美の記憶ってほとんどなくて、記憶があるタイミングは幼稚園から小学校に入ってから。小学校も3つ行ったんですよ。周りの環境が変化すると気遣うな、やりづらいなっていつも思ってた。
——それは嫌でした?
嫌でしたね、正直。やっぱ途中から入ってきた人感があって、すごいやりづらいなって思ったのをおぼろげに覚えてて。
小学校は同級生でみんな入ったからやりやすくて。でも、あんまりいい思い出がないのは、小5、小6で。すごく田舎の方の小学校に転校したときが、やりづらかったですね。みんな生まれたときから知り合いな中にポンって入ったんで、文化が違いすぎて。
成績は良かったので、もう小4から塾に行ってました。塾の中でもすごくいい成績をとってたから、地方の公立小学校に行くと、もう全部やったことある状態なんですね。
担任の先生が、「うちの学校でいちばん優秀なのはこの子だから、この子を見習いなさい」みたいな感じで、連れてきて。でも僕の方が成績よいっていう感じになっちゃって、なんか気まずい感じとか。
あと先生がなんかすごい嫌な感じで、きつく当たって、「お前は馬鹿にしてんだろ」とか言われて、いやー…(笑)。「嫌だな」ってずっと思ってる気がしてましたね。
——塾に通ってたのって、なにか目的があって勉強したんですか。
いやあ(笑)、ぜんぜんなかったです。…両親が「塾入ったら」みたいな感じで、小4の最初に塾の試験を受けたんですね。初っ端から九州でいちばんだったんですよ。そっから県内ではずっと1位から4位ぐらいで推移してて。…なんか塾は居心地良かったんですよね。
なんだろうな、会話がしやすいというか。公立の小学校に行ったときは、勉強してると馬鹿にされるんですよ。いじられるというか。でも、塾にいるとぜんぜんそんなことがなくて。中学受験っていう目標がその頃はありましたけど、みんな頑張ってる空間にいれるから、居心地いいなあ、みたいな。
地方っていうか、そのときの環境の閉塞感がもう苦しくて。親は仕事上やむを得ないっていう感じでもあったので。で、たぶん両親にできる最大限がたぶん塾に行かせるっていうことだったと思うんで、それはすごく理解してました。
その後地元の私立に入学するんですけど、自分の中の次の一歩として、選択肢として、合格しないといけないんだとは感じてましたね。
——その学校に入るときは家族全員で引っ越しですか。
いえ、寮に入ったんですね僕は。
中学から150人かな、同級生が入るんです。100人ぐらいが寮で、50人が自宅から通う。寮はだいたい県外から来てるので。僕も県内でしたけどちょっと離れてたので、寮に入って。
楽しかったですよ。僕はずっとじゃなくて、父親がその後また鹿児島の市内に転勤してきたので、家から通うって途中からなったんですけど。最初の1年だけなんですけどすごい楽しかったですね。寮で一緒に過ごした人たちはすごくいまも仲いいですよ。
——何人部屋ですか。
8人部屋なんですよ。僕が中1のとき入った部屋は7人いたんですけど、中1が3人、中2が2人、中3が2人。だから中1のときの中3って、もうめちゃくちゃ大人に見えて。思春期でぜんぜん体格が違うんですよ。「でか!」って思ったのを覚えてますね。
上下関係がけっこう厳しくて。みんなの共同の浴場があるんですけど、1年はお湯があんまり出ないとこしか使えないみたいなのが決まってたりとか。入るときも、中1だけはちゃんとそれぞれの部屋で名前を言って挨拶しないといけない。緩やかな昭和って感じです(笑)。もう同級生で仲良くなるって感じで、上の学年の先輩たちは仲良くなることはないですね。
——テレビあるんですか?
テレビは週に一回1時間だけ、みんなで見るんですよ。
——番組チョイスは誰がやるんですか。
中3の先輩がやるって決まってて。その頃は宇多田ヒカルとか出てきて全盛期だったんで、いっつも「うたばん」か「HEY!HEY!HEY!」しか見れない感じだったと思います。
——それは先輩の好みだから。
そうそう。あとは寮で朝7時半に点呼があるんですね。寮の舎監っていう人がいて、廊下にバーって全員並んで点呼があるんです。その前に朝の起床音楽っていうのが20分ぐらいから大音量で流れて、それを流せるのも中3なんです。
中1の頃はもう毎日宇多田ヒカルでしたね。「Automatic」と「First love」がもうずっと流れてて。これ聞くと朝って感じがする。
——めっちゃおもしろい(笑)。寮生活のときは、夜はなにするんですか。
寮は夜は義務自習っていうのがあって、自習なんだけど義務なんです。自習室ってのがあって、自分の机があるんですけど。夜は、7時15分から8時45分まで1時間半あって、30分休憩があって、9時15分から10時45分まで、また1時間半の自習があって。だから、平日夜は3時間。で、11時に消灯っていう感じですね。
——もう本当に勉強なんですね。その頃はなにを目指して勉強してたんですか。
別に目指してたのはなかったです。なりたいのもずっととくになかったので。でも、周りは医学部行きたい人がいるから、どっか行くなら東大かなぐらいの漠然さしかなかった。一応、どっちでも行けるように理系のクラスに行って、自分の成績だったらこのくらい、みたいな感じで。
ずっと真ん中よりちょっと上ぐらいで、高1高2ぐらいは。高3で、ちゃんと勉強し始めて、上から2、30番ぐらいだったんで、頑張れば旧帝大の医学部とか行けるかもしれないし、ワンチャン浪人したら、もっといいところも届くかもなとか思ったりとかして。でも、両親は鹿児島に残ってほしいとかがあったみたいで。
別に医学部に強い思いがなくて、官僚になるかとか、慶応のSFC行ったら楽しいのかなとか思って。センターが終わって、母親に言ったら「医学部に行ってからやりたいことをやったらいいじゃないの。やりたいことがあるわけじゃないんだから」と言われて。確かにそうねって思ったのを覚えてます。
——で、最終的にどこに入られて?
鹿児島大学の医学部に入ります。
——じゃあ、お母さんの思いは叶えられて。
はい、みんなハッピー。
——ぜんぜん医学部のことがわからないんですけど、医学部は全員同じことを学ぶんですか。
そうです、全員同じ授業です。大学5年、6年は実習なんですけど、大学1年だけは教養っていって他の学部と同じような授業受けるんです。一部ちょっと医学部独自の授業が。
で、大学2年からは解剖学とかが始まって、試験を受けて。もうひたすら暗記ですよね。大学3年4年ぐらいまでずっと循環器とか消化器とか呼吸器とか、1ヶ月ごとぐらいでいろんな授業があって、毎回試験があって。
その繰り返しが大学4年までやってて、大学5年、6年が実習で、白衣着て、大学病院のいろんな科を回る。
——2年生から実際に解剖やるんですか。
そうです。5人1組で、ご遺体を解剖するんです。自分が亡くなったら自分の体を医学部の授業に使ってくださいって、ボランティアでやる人たちがいるんですよ。我が子が医学部ですごくお世話になったから、親としてっていう人たちがけっこう多いらしいんですね。
あとは、なにかしら自分は罪を犯してしまったから、死ぬときは世の中の役に立ちたいと思ってやる方もいらっしゃる。
そのご遺体を、もう本当ちょっと生々しいですけど、1個1個この筋肉はやっぱりここについてるね、実際体ってこうなってるねっていうのを、本に書いてあるものとちゃんと照らし合わせながら、それぞれを覚えてくっていうか、叩き込んでくって感じ。
——それって純粋に気持ち悪くなかったですか。
最初気持ち悪くなってる人たちもいました。でも、だんだん慣れてくるんですよ。僕は充実してました。本だけじゃなくて、実際こうなってんだ、勉強になるなと思って。すごくよかったですね。いい時間だった。
鹿児島大学の研修をずっと、大学5年、6年ってやってて。
僕、大学4年まではすごい不真面目な学生で、ほとんど学校行かないで、なんとかギリギリ出席と試験だけで進級してきてたんですけど、実習はすごいやりがいがあって楽しくて、医者っていい仕事だなって初めて思ったんですね。
いちばん印象深いエピソードがあって。小児科を回って、実習生一人、患者さんを受け持つんですね。大学病院の小児科なんで、多くが白血病の患者さんなんですけど、僕が受け持ったのは小学生の男の子で、名前も覚えてるんですけど、僕と同じ下の名前だった。
彼がいつも病室のベッドの机の上ですごい勉強してて。「なんでこんな勉強してんの」と聞いたら、「僕、一学期もずっと入院で治療するようにしてたから、二学期に治療が終わって学校行けたら、勉強遅れないように頑張るんだ。ちょっと勉強教えてよ」みたいな感じで教えてたんですね。
医学生だから、その子のカルテ見て実習しているわけですね。どう考えても学校には戻れないし、あと数ヶ月ぐらいだろう。
でも、その子は未来に向かって、すごい頑張ってるんです。
それを見てるときに、自分の無力感というか、やっぱ学生だからなにもできない。医者だからできるっていうわけでもないけど、でも、自分が医者になったら、なんかできるんじゃないのかなって、すごい思って。
こんなにも一生懸命生きている子供がいて、そういう人たちはこんなに一生懸命生きてんのに、僕はもっと一生懸命生きないといけないなってすごい思って。こんなに困ってて、こんなに生きたい人たちがいるんだから、自分はそれが将来できる立場にあるかもしんない。これじゃいけないって、すごい思って。
それで、勉強しようって、ちゃんといい医者になろうって、すごい思ったんですね。それが大きかった。
——その子との関わりはもう研修医のときだけで。
学生のときだけで。うん、その子は実習の少しあとに、実際…亡くなりましたね。はい。
……そういう経験を大学5年生のときとかにしてたんで、このまんまじゃよくないなと思って。
研修医の病院って、マッチングで自由にどこでも行けるんですよ。学生が希望したら試験を受けるんですけど、僕は日本でいちばんちゃんとやっている病院に行こうって思ったんです。
その時代、研修が充実していたのが、駒沢あたりにある病院だったんです。その病院のなにがいいのかもよくわかんないけど、行けばわかるだろう。で、大学6年時に病院の試験を受けて、受かった。
——じゃあ、初めて九州を出る。
そうですね(笑)。東京で、駒沢で一人暮らしをしましたね。2年間、病院の寮に住んでました。病院の敷地内のすぐ隣に寮があって、研修医が住むわけです。
院内ってピッチを持ってて、電話かかってくるんですけど、24時間365日ピッチが繋がるんですよ。
例えば、整形外科に入院患者が50人います。そのとき研修医が5人ってなったら、50人を5で割って10人ずつ研修。3人だったら3で割る、2人だったら2。看護師さんが確認したいときは、全部その研修医に電話がかかって。それはどんなときでも。
僕は神経内科で研修医をスタートしたんですけど、脳梗塞の患者さんとかいろいろいて、夜もずっと電話かかってくるんですよ。対応できないときは上の先生に携帯に電話して、「起こしてすいません、こういうので」って。
僕は、最初10人かそこら受け持ったんですけど、薬の使い方とか、ぜんぜんわからないことだらけで。全部の患者をちゃんと把握しないといけないから、朝4時か5時ぐらいに病棟行って、患者さんの電子カルテを開いて、病名とか飲んでる薬とか全部書き写して、手帳に埋めて。1患者15分か20分ぐらいかかって、3時間ぐらいかけると、一通り全部のカルテを見きれて。
7時ぐらいから、研修医のルーチンで、採血とか点滴を入れる仕事がはじまって、8時からカンファレンスがある。それをずっとやってましたね。
最初の頃は、ぜんぜん患者さんの飲んでる薬とか病態とかが頭に入ってこなくて、最初の2、3週ぐらいは、朝4時か5時に起きて、病棟まで歩いて1分なんで、病棟でメモして、朝7時ぐらいになったら患者さんとか会いに行って。で、いろいろ処置して、夜9時10時ぐらいに寮に戻る。
でも、また電話かかってくるんですよ(笑)。
——そうなんですね(笑)。
でも、すごいよかった。僕らの同期が30人いるんですけど、みんなすごく熱心で一生懸命に頑張ってる感じがすごいよかったです。それが各学年みんないて、上の先生も死ぬほど働いてて、もう、椅子で寝てましたもん。
数年上の先生たちは研修医よりも忙しそう。でもみんな嫌な顔せずに、すごい向上心があって、わかんないこと聞くと教えてくれるし。患者さんに対して一生懸命で、すっごいよかったんですよね。
——休みはあるんですか。
科によってはですね。土日は一応休みなんですけど、受け持ってる患者さんが熱出したとか、状態が悪くなったとか、対応しないといけないですし。土日も朝、患者さん見に行くので。
落ち着いてなんもなければ、午後は休めるんですけど、週2ぐらいは救急外来の当直とかしてるんで、休んでんのか休んでないのかみたいな。そういう時代でした。
——仕事以外の時間って、プライベートの思い出とかありますか。
あんまりないです。…でも、飲み会はたくさんやってました。
病院の近くにある、お寿司屋さんが、夜中もやってるんですよね。名前忘れちゃったな。救命センターで勤務してたときとか、夜中1時とか2時とかになったら、上の先生と、ちょっと一杯飲みに行くか、いきますかとか言って。そっから飲み行って、3時、4時とかに寮に戻って寝て。で、6時に起きて行く。
飲み会に行ってみんなと喋って、もういっつも一緒にいる。それが気晴らしだし、楽しい。
——どんな会話するんですか。
なんか大変だよな。あの先生はとか、誰と誰が付き合ってるとか。
——たしかに院内(カップル)多そう。
すっごい多かったですー。医者と看護師さんのカップルも多かったですし。研修医同士も付き合ってる人たち、最終的に結婚した人も何人もいるし。ずっと一緒にいるので。すっごい楽しかったです、僕は。
——ああ、すごい楽しかったんですね。
最初の1年間とか、とくに自分が成長してる感じ、すっごいありました。すっごい痩せたんです。最初の1ヶ月7、8キロぐらい。忙しすぎてだったんですけど。
でも、すごい楽しかったです。一緒に働いてる。他の先生たちもすごい人もいいし、優秀だし、モチベーションも高いし。楽しかった、過ごしやすかったですね。
その病院に行ってよかったなって、すっごい思ってます。
——覚えてる患者さんとの出来事とかありますか。
ここは患者さんのプライバシーなんで、難しいんですけど。僕が東京に出てきたなって感じたのは、見ている患者さんって、地方だったら、先生の言うことは「はい、そうですね。わかりました」みたいな感じなんです。
でも、東京の患者さんは、家族がインターネット上ですごいいろんなことを調べて、プリントアウトして、「この病気じゃないか」みたいないろんな可能性をたくさん持ってきて。
あとは、すごく患者さんと距離感が近くなると辛いなって思ったのも、研修医のときで。毎日患者さんの顔を見に行ったりすると、すごくしゃべってくれる患者さんもいるわけですね。
しゃべってたら、これはもう本当に僕はよくなかったなって思うんですけど、SNSで友達になってくれない? って言われたんで。僕もそんな大して(SNSを)使ってないからいいかとか思って、いいですよって、友達になったんですね。
すごく仲良くしてて、60代後半ぐらいの女性だったと思うんですけど、娘さんとしゃべったりとかして。で、最終的に亡くなるんですよ。でも、思い入れがありすぎて、やっぱ自分の親みたいな感覚になる。けっこう自分が沈んで、亡くなったとき辛いな、よくないな。
一人の患者さんに感情を込めすぎちゃうと、仕事に支障をきたしちゃって、それで他の患者さん見れませんって、他の患者さんからしたら迷惑じゃないですか。よくないなって思って。
さらに、SNSのアカウントってずっと生きてるんですよ。毎年、その人の誕生日通知が来るんです。亡くなってんのに通知がきて毎回思い出しちゃうんですよね。なんか、親の命日みたいな感覚になって。
医者はその人の人生をもちろん考えて医療をするけど、気持ちの感情移入をし続けちゃうと、自分がすり減っちゃうなっていうのはすごく思って。そこのバランスを取らないといけないなって、その患者さんとのことで僕は思ったこと。
——難しいだろうなって一般人でも想像がつくんですけど、折り合いってどうやってつけていったんですか。
もちろんその人の社会的背景は知るようにはするんですけど、仕事として向き合う感覚を強めるようにはして。自分の分をわきまえる感じかな。
僕が家族じゃなくて、自分ちは自分ち、よそんちはよそんちみたいな感覚をちゃんと持つように。自分事として捉えちゃいけないんだって。
ドラマだと自分事になるぐらい主人公がやるじゃないですか。研修医の最初の頃って、一人一人の患者さんにそのぐらいの熱量で向き合ってたときはあったんですけど、すり減っていっちゃうなって、自分が。
あくまでその相手は相手の家族がいて、相手は相手の人生があってっていう中で、医者として最善を尽くすっていうこと。自分の親と思って向き合うのはやめようって。
——私は祖母も父も病院で亡くなる瞬間に立ち会って、看護師とか医師の感じを覚えてるんですけど、あの瞬間はどういう向き合い方をしてるのかなって。
自分がずっと見てきた患者さんを看取るときは、やっぱりいろんなことを思います。でもいちばん思うのは、患者さん家族はその後も生きるじゃないですか。患者さん家族が負の感情を持たずにこのあとの時間を過ごしてもらえるためにはどうするか、を思うんですね。
例えば、もっとできたんじゃないかって後悔をする人もいる。でも人によっては、「お母さんはもうすごくよく生きた」と思ってる人もいるし。いろんな感情がある中で、それぞれがいちばんよかったなと、そういう振る舞いをしようと思って。
いまは少しずつ時代が変わってて、主治医だったらもう24時間365日いつでも呼ばれるって時代じゃなくなっていて、自分が受け持ってない患者さんを看取ることって増えて。夜だったら、当直の先生が亡くなった確認をしないと、夜中起こされて医療が疲弊する世の中になってきてて。
僕も自分が受け持ってない患者さんは、本当なにも言わないというか。この人はこういう人生だったんだなって見るぐらいにとどめてますね。
——で、2年間、駒沢に。
本当に駒沢は(笑)、飲み会がだいたい中目か恵比寿だったので、駒沢通りでしたっけ。あの通りをタクシーで戻ってきたりとか。もう、あの辺の記憶しかないんですよ。
近くのお店で宅配頼んで、病院に持ってきてもらって、それをみんなで食べると。
でも、急患がきて患者さんの状態がどうとかで、もうラーメンやご飯がしなしなになっちゃって(笑)。そういう思い出が、僕の駒沢の思い出。
駒沢の生活はすごく楽しかったんですけど、病院もすごく楽しかったし、すごくみんなと仲良くなって、仕事しやすすぎて、ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)。よくないかもなって思ったんで、ちょっと外に出て頑張ってみようかなって思った。
整形外科で3年。医者5年目で起業したので。いま医者13年目なんですけど、医者5年目まではフルタイムの整形外科医で、6年目から10年目ぐらいまでは週2とか週3。直近3年はずっと週1ですね。
僕は人生の中で、私立の学校にいたときもすごい楽しかったですし。駒沢にいたときもすごい楽しくて。うん。で、起業してからいまに至るまでもすごく楽しい。そんな感じかな。
街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。
まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。
メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。
話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。
届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。
併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。
ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。
私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。
ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。
私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。
西村佳哲(2025年7月31日)
2025年11月11日 発行 初版
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