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駒沢の生活史[25話]

駒沢こもれびプロジェクト




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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。

駒沢の生活史


第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
    みたいな話があったみたい

第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)

第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
    人生のあと残った時間を費やすっていうのが

第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
    駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)

第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
    そのとき初めて、ものすごい実感した

第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
    みたいな(笑)

第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから

第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)

第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
    そこをちゃんと見極めてたのは偉いと

第10話 どうなんですかね?
     結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです

第11話 まかない食い放題!
     生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの

第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
     じゃあ、○円くださいって言って(笑)

第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
     親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか

第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
     ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない

第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね

第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
     それが「あなたが社長ですから、
     これ、サインしてください」って、突然

第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど

第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね

第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね


第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
     お客さんって、すごいなとずっと思ってた

第21話 朝来た瞬間から、
     自分でやりたいことを自己決定していくっていう

第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの

第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)

第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
     「なんかあんまり」って思ってたけど


第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
     あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ

第26話 仕事してるとき、
     自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)

第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな

第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから

第29話 塾すら近所だからさ、
     全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの


第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
     私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです

第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
     「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか

第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
     プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう

第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
     けど、それ以来ずっとこの界隈で

第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
     駒沢でオープン

第35話 山梨の人は東京に出ると
     中央線沿線に住む人が多いんですけど、
     高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて

第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
     頼れるのは家族みたいなのはあったのかも

第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた

第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
     大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ

第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって

第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
     落ちたけど、コーヒーは飲みます

第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
     声かけられて、そういうのなんか憧れるよね

第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは

第43話 …どっからか来てるのかな。
     常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね

第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
     後ろから人生を逆算してるから

第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
     いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)

第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
     そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです

第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
     あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど

第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
     おっしゃって。「どうしよう」って(笑)

第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)

第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
     ことが尊いともあんまり思ってないんですけど

第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね

第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
     本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
     過ごしています

第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)


















ぶどう狩りができるんです。
あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ

話し手 70代女性
聞き手  宮坂友介


 ——お生まれはどちらなんですか。

 私は宮崎。
 宮崎市の中心部に近い街。車で5分10分というところで、空港からも10分あれば帰ってこれる場所。田舎ですけどのんびりしたところです。遊ぶところもないから。自然はありますけどね。青島海岸とか。部活ですかね、中学校から。部活に入って仲間と楽しい時間を過ごすとかそんな少女時代でしたね。

 バレーボールをずっとやって、東京の専門学校に行ってからもたまたまその学校のチームが強かったので、やらないかって。なんかバレーボールしかやってなかったかもしれない(笑)。
 専門学校で資格を取らなきゃいけないから、それが約束で宮崎を出たので。資格を取れなかったら、父がすぐに呼び戻すと(笑)。

 ——そういう条件付きで東京に出ていいよっていうお話だったんですか。

 そうですね。東京はもうずいぶん時代の先を行ってましたよね。地方ってそうじゃなかったんで、その生まれたエリアで、家族が近いところで暮らすっていう、なんか父のイメージにはめられて、ふふふ。
 当時は夜中のラジオを聞いて、東京ってすごいところだなっていうぐらいしか情報がなかったです。ただ東京に遊びに行きたいとかっていうような理由では宮崎を出してくれなかったんで。

 まだ本当にもう高校を出たら普通に、例えば父が就職先として用意してたのが地元の銀行、そこにお願いしてるからそこに就職するんだよ、と。姉がそうだったんですけど。

 ——うんうん。

 当時たまたま見た雑誌、もういまないですよね、「蛍雪時代」という学校紹介が載っている雑誌があって。
 そういうのを眺めてるときに、ちょうど母が心臓系の病気で入退院の繰り返し。そうした事情があったので自分でなにか資格を持つんだったら、医療系の資格がいいかなって思って看護師だったら私でも取れるかなと思って、上京してきたんです(笑)。

 父がたまたま医療の保険点数などを管理する会社の事務をやってたみたいなので、調べたらしいんですね、受験する学校を。宮崎の県立高等看護学院と東京の受験先、必ず受かるのが条件で、東京の専門学校も受験するという、そんな感じ。

 父が、どんなところだ? 合格通知が届いたけど、書類とかが届いて、親のサインがいるじゃないですか。そして、たまたま母方のおじがその病院の近くに住んでいたこともあり、私が帰ったときには入学手続きを全部してあって、東京の学校に行ってこいって言われて、えー、本当にいいの? やった! なんて感じで(笑)。

列車は22時間かかる頃なので、
頭で計算するととんでもなく遠いと思って

 実は学校創立に宮崎出身の方が深く関わっていたことも調べていたようです。

 その学校を卒業して、少し働いたら、宮崎に帰ってくるという条件で東京に来たんです。でも地元に帰ったらあの時代は親族がすすめるお見合い話ですよ、すぐ結婚です。それが嫌で嫌で(笑)。

 卒業後、いまの主人が宮崎に遊びがてら来て、結婚を申し込んでくれて、私もびっくりしましたけど(笑)。で、お見合いして、知らない人と結婚するぐらいならと思って、父も彼が一緒の職場ということで了解してくれたので、主人との結婚に返事をしました。お互い遠方の出身同士なので東京に住むようにと言われていまに至ります。

 主人の出身は青森だから、青森なんかに連れて行くんだったら父は許さないと(笑)。
 要するに、両親とか兄弟がなにかあったときにすぐ帰れる場所に住んでほしいと、昔の人はみんなそう言いますよね。飛行機が苦手で、列車は22時間かかる頃なので、頭で計算するととんでもなく遠いと思って、ふふふ。

 私は5人兄弟ですけど、4人は地元にしっかりいますものね。

 ——じゃあ、お母さんとご主人は職場で知り合う?

 はい、職場です。主人は多忙だったので職住近接で最初は泉岳寺に住みました。私は結婚と同時に離職して。泉岳寺は彼の職場から近かった。病院から30分以内の職住近接でした、当時、本当にハードだったので。

 私も手術室で働いていましたけど、朝の定時の手術があるんですけど、それ終わってご苦労様って言うと、今度、3時、5時ぐらいからまた急患の方とか手術があって。

 子育てもひと段落した40代に入って、保健センターっていうところで何ヶ所かから声をかけてもらったんです。いまがチャンスと思って、パートで仕事を始めて70歳になったのを機にこの前の3月で辞めました(笑)。生まれた赤ちゃんとお母さんの健康をお家に訪問してチェックするような仕事。11年ぐらいお母さんのお話を聞いて来ましたね。

——じゃあつい最近までお勤めされていたんですね。

 そうですね。都内某区の担当エリアを回って。
 とにかく主人は忙しくて家にいなかったので。次女もそう思ってると思うんですけど、幼少期はあの人誰? おいでって言われても、私の後ろに隠れていましたね。主人は本当に家にいなかったので、娘は初め父親として認識もできなかった(笑)。

 ——訪問のお仕事はいつ頃、再スタートしたんですか。

 次女が10歳ぐらいになってから再スタート。それまでは3人の子供達をいかに安全に育てるかと思って子供と共にでした。

 唯一近くにいた叔父の方はもうリタイアして、横浜の方に住まいを求めていったので、うん、自分しかいないと思って。

土日がね、いちばん寂しかった。主人に仕事が入ったりして

 子育て時代はマンションだったので、そのときにマンションでよかったかなと思いましたね。周りに育児中の仲間がいて、うちで食べる? 今日はうちでどうぞ、みたいな、そういう楽しさがあり本当にお世話になりました。

 ——それ、泉岳寺時代ですか。

 それは大井町に行ってから。もちろん泉岳寺でも。だから、泉岳寺は娘一人で、長男が生まれてから大井町。でも、どこに住んでいてもいい方たちに出会えたなと思います。

 同じ環境の方が多く住んでいるマンションでした。もちろん職業は別としてもあの当時はまだご主人たちが本当に仕事が忙しく残業も多く、なにかと仕事のお付き合いもある時代でしたね。

 でも土日がね、いちばん寂しかった。主人に仕事が入ったりして。
 他の家は土日はお父さんがいらっしゃる。

 ——寂しかった。

 リタイア近くになって子供たちの顔を見ては「今日は暇じゃないか?」って主人は娘に。娘は「暇じゃありません。仕事に行かなきゃいけないんです」って(笑)。もう逆転してるんですよね(笑)。

 その頃から時間が流れすぎてね。相手するわけないじゃない(笑)。娘が帰ってこない、帰ってこないと。あのね、20代、30代の子がね、夜の7時8時にうちにいてどうすんのと(笑)。

 私は逆に思って、お友達がいたら食事して来るでしょうし、残業もあるでしょうし。主人の方は「俺はうちで待ってるんだ」って言ってました(笑)。
 ようやく構ってあげようというのか、会いたくなるのか、結構(いま次女がいる)岩手にも何度か行ってきたり。私が一緒には行けないときは一人で行って帰ったり。

 私も駒沢に来てからは、もう本当に自分の時間が持てるようになって。

 ——そうですよね。お母さんは訪問のお仕事をずっと?

 この事業に関わったことで、いまの産後のママの気持ちなどを知ることができました。
 そんな経験もあり、長女がその後、出産して、ちょっと距離を保ちながら、関われていると思いますよ(笑)。

 あとは娘が育った環境の中で、あんなこと嫌だった、こんなこと嫌だった、そうしたことを前向きに、自分だったらこうしてみようかと工夫して育ててるから。預かってっていうときだけ預かる。母子で週半分以上は顔を見せてくれます。

その育て方の違いを見抜かれていましたね、
はっきり長女には言われました(笑)

 長女は仕事終わりで子供を保育園に迎えに行く、保育園からすぐの我が家でご飯食べて帰る。長女の夫は夕食どき、リモートで仕事のため、終了した頃に帰宅する。自宅は我が家から数分のところで。長女ファミリーも駒沢での生活です。

 いま思うとやはり長女へは厳しく子育てしてしまったんじゃないかと反省してます。それに反して次女と長男の自由さ。「なんなの? 私にはなかった自由さ」と長女に言われましたね。だから親も、経験していくと、あのこと、ちょっと厳しすぎたかなって、じゃあここはゆるくっていうか、もう少し様子を見てみようとかって正直ありました。その育て方の違いを見抜かれていましたね、はっきり長女には言われました(笑)。

 ——そっか、不公平を感じてたのかな。

 そのようです。
 次女は私は大学に行かないからって。アパレルとかメイクアップアーティストとかネイルアーティストとかになるから大丈夫、大学には行かない(笑)。

 姉、兄の受験期は次女の子育てに私が関われなかったからそういう意味で自立的に育ったか、もともと主人と気質が似てるからか。興味があって、やるってなったら、ぱっと入っていくような性格。長女はやっぱりイチからやっていくタイプ。音楽だったらドレミから、文字だったら「あいうえお」から入らないと進んでいけない子だったんで。だからベネッセの教材を与えて、自分で進めて、それを必死でやってましたね。長男は、あまり気持ちを出さなかったのでよくわからなかった。

 なにをやりたいかが見つかってなかったから。「いいんだよ、俺は」って本人は言ってましたけど、いいんだよ、じゃ困るんです(笑)。

 ——まあ、じゃあ兄弟3人みんな割と個性バラバラっていうか、面白いですね。

 各々違いましたね。たぶん長女はやっぱりちゃんと目を届かせてたっていうところで、そういう育ち方かなって。いい悪いは別として。だから割とこう厳しいんですよ、弟、妹に(笑)。

 でもいちばん安心して見ていますよね、長女のことは。暮らしもね、夫と子供に恵まれて良かったです。

 兄弟それぞれの人生、ただつながっていて欲しいと願うだけです。

 ——そうですね。

 仕事してると(子育て)本当大変ですよね。
 いまは孫と一緒にいる時間も多くて。

 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ。緑道に入って最初の十字路を左、あれは区営? 都営アパート?

 かなり大きいですよ。そのもう一つの通りを右に行くと、もう根岸邸が広がるんですけど、農園だったんですけど、いまもやってらっしゃる、ぶどう農園とかいろんなお野菜を育てて。

いい散歩コースです。一回りすると寝るから、ふふふ

 3年か4年前に一角を区の保育園に土地を提供されて、その保育園はその農園のお野菜とかを見れるのかな。秋口かな? ぶどうができるので、朝も早くに整理券をもらいに行って、もらえた人は入場時間が書いてあってその時間に出直して。

 ぶどうは美味しいですよ! シャインマスカットとか巨峰とか、そういう類いのだから、立派なんですよね。ちょっと割高かなと思うけど、しょうがないんですよね、手間賃もあるから。そういうのに参加したり。で、あと、100円野菜もそこでやってらっしゃる、毎日。

 ——この辺で子供を育てるにはいいですね。

 いいと思いますね。コロナのときも、その緑道をずっと都立大の方に散歩に。まだね、1歳ちょっとだったかな、保育園始まったばっかりだったんですけど、コロナで閉鎖になって3ヶ月間。4月に5日間行っただけでお休みになっちゃったんですよ。

 で、7月まで毎日9時になると孫を連れ出して出て行くんですよね。都立大に行く途中にいろんな動物のオブジェが置いてあるんですよ。それでよく遊ばせたりして。あと季節季節でお花が桜とか、周りの方が一緒に植えてたりするのを眺めたりしていい散歩コースです。一回りすると寝るから、ふふふ。

——本当、町と共に育ってる感じですね。

 孫がいなかったらどうしてたんでしょうね(笑)。いま仕事を続けてたかもしれないけど。

 私の周りでも仕事を続けてやってらっしゃる方もいますよ、さすがにやっぱりね、だんだんきつくなって。

 もう渋谷区って坂が多いんですよ、恵比寿にしても。訪問の仕事はもちろん交通機関使っていいんですけど、なんだっけ、サンクスネイチャーじゃなくて、ハチ公バス。ちっちゃいバス。最初バスに慣れない頃、反対周りに乗っちゃったりして、こっちだったのに遠くなっちゃったみたいな(笑)。それからは自分のためにも歩く。健康のために(笑)。

 そういえば最近、車の免許の更新のお知らせが来てるんですけど。一応受けますけど(笑)。
 もうみんなにやめたら? ってね。まだやれるけどって。

——でも、その頃から免許をお持ちって進歩的だったっていうか、若いときからお持ちだったんですね。

 そうですね、高校を卒業して、専門学校の合格発表が出るまでは実際、実務はできない。とりあえず実習期間が4月から。試験が終わってから、卒業式終わったあと、寮だったんですけど撤退しなきゃいけないので、帰るしかないんです、実家に。宮崎に。
 また上京後は寮に入る予定だったんで、お家を借りることもないので、じゃあ帰って遊んでるしかないかと思って帰った。帰ったときに1ヶ月半、もうちょっとかなあ、2ヶ月ぐらい時間があったので免許取ろうと思って。

「俺は死にたくない」って言いながら、練習に付き合ってくれて。
それで乗れるようになった

 それは父がなぜか免許だけは取った方がいいと。しばらく東京で働いたあと宮崎に戻ってきたときのためにということだと思うんですけど、免許を取らせてくれた。お金も払ってくれたんで、じゃあいまチャンスだと思って。
 東京での運転はやっぱさすがにすぐにはしませんでした、怖くて。だから次女がお腹にいるときにこれはいよいよと、上の二人の手を繋いで、買い物して荷物を運ぶとなると車なしでは無理かなあと。

 10年ぐらいペーパードライバーでしたけどね。でも大井埠頭に行って毎朝主人が見てくれて(笑)。「俺は死にたくない」って言いながら練習に付き合ってくれて。それで乗れるようになった。

 ——へえ。

 あの当時の大井埠頭はほんとに誰もいなかったですからね。車は一台も走ってなかったし、早朝なんかは。
 子供達には外に出ないようにって言って、ちょっと練習に行ってくる。4時半から5時とかね。6時前には帰ってきて、お弁当つくってみたいな日々。

 ——すごいスケジュール。

 東京で運転すると思わなかったんで。でも、事情が事情だと。誰も頼れないと。

 ——そっか。やっぱ3人いるとそうなるか。

 無鉄砲ですよね、3人って(笑)。

 大変でしたよ。それもね、だから仕事に活きましたよね、3人の子育てを経験してるから。せっかく近くにいらっしゃるんだからもう少しお母さんを頼りなさいとか。ダメダメと言ってないで、きっと親御さん喜んでやってくださるわよとかね。
 そういうアドバイスもできたし、一人で頑張っていると辛くなるだけで、いいことなんてないかもよ、ということを言えた。大した仕事じゃないんですけど、私に関して言うと、ふふふ。

 出産後のお母さんたちの話を聞いて、これはちょっと、と感じたことを伝えればいいだけのお仕事なんで。ぎこちない人とか見てると、ちょっと伝えた方がいいかなと思って。やっぱ確実になにかがありますね。

 そういう意味では、私自身がいろんな方にお世話になった分、いろんな方を見て、いろんなことを学んだかなということかなと思います。だからコミュニティがあればなんとかやれてきたので。駒沢に来てからは仕事もしてたので、隣の方、向かいの方、そんな感じですよね、お知り合いっていうのはね。うん、そうですね。でも、もう自分の習慣なので、それほど困ることはないかな。

 ——うんうん。

 朝通る保育園とか学校に行く子たちについ声かけちゃうから、いけないなとか思いながら、「いってらっしゃい」とか(笑)。でも、同じ保育園の子達だったら顔を覚えててくれる。

 主人がすごい散歩が好きなんで、そこでちょっと見つけた場所に行ってみない? とか言ったりして。結構歩きますよ、日体大の方とか。この暑いときは無理ですけどね。私がもう怠慢になって、最近付き合わないですけど(笑)。

——2人で歩いてたんですね。

 そうすると、やっぱりその世田谷のね、まだ民家がいっぱいあったりしますでしょう。民家園とか。だから、そういう意味で、駒沢はやっぱり育った環境と近いものを感じてるところもあるのかもね。

 街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
 「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
 
 「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。

 まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。

 メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
 結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。

 話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
 話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
 音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。

 届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
 もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
 最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。

 併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
 本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
 挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。

 ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
 オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。

 私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
 そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。

 ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
 他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。

 私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
 駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。

西村佳哲(2025年7月31日)

駒沢の生活史[25話]

2025年11月11日 発行 初版

発行:駒沢こもれびプロジェクト

「今日の駒沢」
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