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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。
第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
みたいな話があったみたい
第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)
第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
人生のあと残った時間を費やすっていうのが
第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)
第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
そのとき初めて、ものすごい実感した
第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
みたいな(笑)
第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから
第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)
第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
そこをちゃんと見極めてたのは偉いと
第10話 どうなんですかね?
結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです
第11話 まかない食い放題!
生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの
第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
じゃあ、○円くださいって言って(笑)
第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか
第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない
第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね
第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
それが「あなたが社長ですから、
これ、サインしてください」って、突然
第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど
第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね
第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね
第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
お客さんって、すごいなとずっと思ってた
第21話 朝来た瞬間から、
自分でやりたいことを自己決定していくっていう
第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの
第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)
第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
「なんかあんまり」って思ってたけど
第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ
第26話 仕事してるとき、
自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)
第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな
第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから
第29話 塾すら近所だからさ、
全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの
第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです
第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか
第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう
第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
けど、それ以来ずっとこの界隈で
第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
駒沢でオープン
第35話 山梨の人は東京に出ると
中央線沿線に住む人が多いんですけど、
高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて
第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
頼れるのは家族みたいなのはあったのかも
第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた
第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ
第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって
第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
落ちたけど、コーヒーは飲みます
第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
声かけられて、そういうのなんか憧れるよね
第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは
第43話 …どっからか来てるのかな。
常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね
第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
後ろから人生を逆算してるから
第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)
第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです
第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど
第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
おっしゃって。「どうしよう」って(笑)
第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)
第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
ことが尊いともあんまり思ってないんですけど
第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね
第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
過ごしています
第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)
話し手 50代女性
聞き手 浅利雅士
貧しい家で、母は、裕福な家庭からお嫁に来て苦労したからか、私がちっちゃいときから言っていたのが「もし結婚して、女が一人になったときにでも、子どもを育てられるようになにか職を手につけなさい」ってことでした。僻地で働き口を探すのも大変だからっていうのもあったんですけどね。それをずっと聞いて育ちました。
それで、ちっちゃいときに、父から教育テレビしか見せてもらったことがなくて、その頃、教育番組に、お話お姉さんの番組があったんですよ。
──ほう。
で、お話お姉さんが、すごく上手にお話と、本の読み聞かせをしてくれるコーナーがあって、声が綺麗で…。あんなふうになりたいなと思ったのがきっかけで保母さんになりたいと思ったんです。
高校に入り、進学どうするかってときに、父も母も一生懸命働いていたけれど大学進学の余裕がなかったので「じゃあ働きながら学校に通おう」って決めて担任の先生に相談しました。その当時…群馬の富岡製糸工場に似たのが愛知県にあったんです。
──はい。
で、そこに就職しつつ、夜間もある短大があったので、そこに入ることが決まって。で、2交代制で働いて、授業を受けて。そんなことをしながら3年で卒業したんです。
そしたら父にね、「新潟帰ってきても就職先がないから東京行け」って言われて。「新潟に帰ろうと思ってたのになんで東京なのかな」って思ったけれど、あんまり父に歯向かうこともできないから、東京来たんですよ。
で、東京来たら、板橋の方の保育園に就職して、で、なぜか東京の人と結婚することになって(笑)。
──なぜか(笑)。
主人の仕事の関係で埼玉に行って、それで、子どもが2人、下の子が3歳ぐらいのときかな、「世田谷区の方に引っ越すぞ」って言われて、そこから始まりですね。
本当は保育士をやるつもりはなくて、世田谷に来たんだから、もっと違う仕事に就こうかと思ったんですね。でも、とりあえずちょっと就職してみようと思って、色々と電話で保育園を探して。でも保育士になろうと思わなかったから、給食のおばちゃんで働き始めたんです。そこで働いてたときに「正規になる」っていう話をいただいて、うーん、まぁこれも運命の波だなって。この波に乗ってみようかなと思って正規になったのがきっかけでいまに至ります。
──へええ。
そうなんですよ。だから、人生波に乗るっていうのもあるのかなって思う。ほほほほほほ(笑)。わかんないけど、あまり逆らわずに(笑)。
──そうなんですね(笑)。ところで、お父さんは色々とお話してくださるタイプの方だったんですね。
いや、もう、父はね、ものすごい頭のいい人で、それこそ、村が僻地で、本当に働く場所がなかったんです。働くって言ったら、農業とか、あと若い人たちは土木会社とか、あと役場とかね、まぁ決まったようなところしかなくって。父が村の人たちの為になんとかしなくてはと考えて、父の知り合いの方が持ってる畑の一角に温泉の源泉が出るところがあったんですね。
そこで父がその知り合いに「もし役場に掛け合ってボーリングしてもいいよってことになったら、温泉場をつくるっていう企画に協力してくれるか」って説得して、役場に懸命に掛け合ったんです。当時の役場が予算を立て、10年かけて温泉場が完成したんです。いい温泉が出て、いまでも結構賑わってますけど。うん、山奥ですがすごくいい温泉なんですよ。
──そうなんですね。
そうそうそう、そんな父の元に育ったわけで。母も、村の人たちのために一生懸命働く人だから、なんかそういう両親なので反抗っていうのはできないわけです。反抗はしたけどね、裏で。裏で色々と、内緒で。いま言えないですけどね(笑)。反抗はしました。色々しました。
──(笑)
だけど、両親の前では絶対そういう姿は見せないっていうのが、うん、なんていうか、長女の性(さが)っていうんですかね。ええ、だから弟はなんか、「姉ちゃんずるい」って言ってました。やっぱり尊敬する人はって聞かれたら、いまはもう亡くなった父だし、まだ元気でいる母ですね。
近いうち新潟へ帰り、畑で野菜をつくっている母の元、小作のように私がこう動き回れば、やっと親孝行ができるんじゃないかなっていう風に思っています。いま、将来の夢のひとつがそれなんですけどね。農家を手伝うっていう夢があって。
──新潟の。
そうそう、自分の孫が東京に、すぐ近くにいるんだけど。孫の世話とかって、ほんとはすればいいんだけどね、それ以上に自分の実家がどうなっていくのかが気になるから(笑)。そこですね、いちばん。
世田谷の、いま住んでる場所がどうとかよりも、私は育った土地への思いが強いですね。人によっては大人になって住んだところがね、自分の思い出の場所になるかもしれないし、人それぞれですよね。
──うんうんうん。
でも、世田谷は、なんて言うんですかね、のどかなところっていう部分では、なんか似てるなぁと思います。ほっとできるっていうんですかね。ガヤガヤっていうのがないっていうんですか。ほっとできるっていう場所だなっていうのは、こうなんていうんだろう…、似てますね。砧公園、馬事公苑や駒沢公園は木や花や自然もまだ残ってるし。そうそう。
──いらした頃は、もっと緑豊かでしたか。
ええ、緑豊かでしたね。こんなこと言ったら申し訳ないけれど、埼玉からこっち越してきたときに、「世田谷の三軒茶屋って、もんのすごい都会なんだろうな」って思って駅を降りたら、なんて言うんですか、昔のなんか、うちのふるさとの街みたいな感じのところだったから。「えー、三軒茶屋ってこういうところなんだ!」と思って。
世田谷のイメージがね、ちょっとね、崩れたことがあったんですよ(笑)。だから逆に、すんなり馴染めたのかなっていう、感じはありますよね。
──世田谷に来られたのは、どれくらい、30年ぐらい前?
そうそう、息子がね、3歳のときだから、いま、32年前ぐらいですね。
──息子さんは、じゃあ、ずっと世田谷で。
あ、そうですね。保育園、小学校、中学校と全部ここで、高校は他のとこ行って、っていう。娘も小学校4年で転校して世田谷小学校、中学校と行って。埼玉にも何年間かいたけれども、やっぱりここが地元って言います。
いまだに娘は世田谷の私のすぐそばに嫁いだから、近くなんですけどね、息子はね、息子はよくわかんない(笑)。
──よくわかんない(笑)。
よくわかんない(笑)。ふっふっふっふ(笑)、たまに帰ってくる。
──帰ってはいらっしゃるんですね。
帰って、帰ってはきます(笑)。
…そうですね、私は、保育士だった頃、いろんな失敗もして、お子さんたちに申し訳ないなと思うこともたくさんありました。でもこの日本や世界をこれから支えていくような、各ご家庭の大事なお子さんを保育させていただくっていう仕事は、かけがえのないっていうか、責任重大な仕事をさせてもらっている、という自負はありましたね。
だから、仕事をしてるときとかっていうのは、一切、家のこととかって、私、すごい薄情なのかもしれないんですけど、子どもたちがちっちゃいときも、ほんとに仕事してるとき、子どものこと、思い出したことってないんです、ふっふっふっふ(笑)。
なんかあればね、電話かかってくるだろうしってね。もう子どもたちにしたらかなりひどい母親で育てたんだけど、もう本当、口に出しては言えないですが…。
──かなり保育士の仕事に集中されていたんですね。
そうですね。うん、だから娘はね、私があまり仕事の方にばっかり向いてるから、ものすごい寂しい思いを、保育園のときも、小学校、中学校のときもずっとしてたって、二十歳になってからこぼしてましたよ。
──それぐらいになってから、やっと。
「そういう気持ちわかってた!?」って、すっごく怒られて。ふっふっふっふ(笑)。怒られちゃった(笑)。
そう、あたしも、ほんと、それこそ仕事に没頭してたから、夜も遅くなっちゃうしね。そうすると、子どもたちは友だちのお父さんお母さんに「おい、ご飯食べに行くか」って連れてってもらったりして。うちの娘と息子は人様の手で育ってるんです、ほっほっほっほ(笑)、ほーんとにもう。主人はもう、家事だとか、家のことはほとんどしない。昔の人ってそうなのかわかんないけどね。だから、人様の手で育ったんだよって、子ども2人にはずっと言ってます。本当にありがたかったねって。
おじいちゃん、おばあちゃんが遠くて、手伝ってもらえない環境ってあるじゃないですか。そういう方は、ワンオペだとかってなってしまうと本当精神的に苦しいですから。いまのお父さん、お母さんたちは、仲良くなった方と協力し合って助けあっていますね。人と繋がることは簡単ではないけれど、大切なことだと思います。
──そうですね。
友だちでも誰でもあれなんだけれども、ちょっと、手伝ってくれるだとかね。息抜きができる、なんでも話せるような人がいるっていうのは、生きていくうちには大事ですよね、と思いますね。だから、結局人なんだなと思って。結局、人が助け合ってこう生きていかなきゃいけないから…。
で、私のこれからは、新潟の方の実家にもときどき行ったり来たりして、ちょっと温泉のことでも手伝ったりとかが夢ですね。
──本当、新潟は存在として大きいんですね。
おっきいですね。だから、皆さん休みがちょっとあれば、温泉いこうかとかそういうのってあるじゃないですか。私は、ちょっと休みがあれば新潟に帰ろうと思う。
だから子どもたち連れて、もう新潟帰るよって言って、田んぼの田植えから稲刈りから、あとジャガイモ掘りだのさつまいもだのと、いっぱいあるんですよ、仕事が。それを手伝わせるんですよ。そんなだから、うちの息子は田植えできますよ。
──毎年行ってらっしゃったんですか。
そう、ずっと行ってて。子どもたちが高校とかになると、自分の時間っていうのが必要になってくるじゃないですか。そうなったら行かないときもあったけれども、だいぶ大きくなるまで、息子は高校生ぐらいまで手伝ってましたよね。おじいちゃんを手伝って。
──じゃ、結構わーって、仕事して、で、新潟行ってと。
そうなんですよ、新潟行ったとしても、遊びに帰るっていう風な感覚じゃないですよね。手伝いに行く。あ、手伝いに行くって感じじゃない、仕事しに行くって感じ。
でも、別にそれが嫌じゃなくて生きるパワーをもらえるんです。うーん……親の存在が大きかったのかもしれないし。いちばんはそれかもしんないですね。
──お母様はまだご健在で。
そうですね。来年88歳か。父は92で亡くなったんですけど。
──あれですね、結構長生きというか。
そうですね、そう、母が、もうね、しっかり三度三度とご飯つくって食べさせてくれて。いや、だからね、ほんとに生きるためには食がね、どれだけ大事かっていうのはわかりますよね。
でもね、本当、ここは畑があるじゃないですか、保育園。うまくつくってあげたいなって思いながらも、なかなかうまくいかなくて。でも子どもたちとは「苗植えるよー」「やるやる!」「やろうやろう!」なんて言いながら畑に行くんです。やっぱりそういう自然に触れられるっていう機会がね、少しでもあれば…っていう風に思いますよね。
そういう体験ってとっても大事じゃないですか。カブトムシでもなんでも、こう、生きてるものを世話するのもそうだし、お散歩もそうだけれども、自然の中でどう感じるかっていうのは、やっぱり子どもたちにも体験してもらいたいなっていう風に思いますよね。
──体験ですか。
体験。やっぱりこう、土とか、匂いとかね、草の香りだとか、いろんな匂いがするから。子どもたちって、ほんとになんでも興味を示すじゃないですか。
──はい。
あれはね、本当にいいことだなと思います。花をそこらに活けても、「なんの花?」とかね、「なんかいい匂いがするね」とか「甘い香りがするね」とか…。やっぱり生活の中でみんなが感じることってたくさんあると思うんですけどね…。あとは、ほんとに、どんな人と出会うかっていうことが大事だから。
──ちなみに、保育士さんになられてからのことをもう少し聞いてもいいですか。板橋が最初で、その後また埼玉に行って。
2年ほど埼玉でも正規の保育士にはならなくて、非常勤みたいな形で働いてたんですよ。そうこうするうちに東京に来たから。それでいまの保育園の前身の保育園に入って。で、当時の園長先生っていうのが保育のことに関してはうるさく言わなくて、職員たちがやりたいなって思う仕事を、活動とか、やりたいことを全部やらせてくれてたんですね。
で、私としてみれば、板橋の保育園っていうのは、まぁ園長先生がすごくどんと、男性の方でどんと構えてたから、もうひとつひとつなにをするにも、園長先生に意思決定を仰いでからやるって、子どもたちの活動も全部だったから。逆にこんな自由な保育園ってあるんだと思って、カルチャーショックでしたね、そのときは。
──うんうん。
でもあれですよね。よく保護者の方で見学に来られる、例えば「来年入園させたいから見学させてください」っていう方が、すごく子どもたちがのびのびとしてるから、「自由な保育園ですね」「自由に子どもたちはできていいですね」って言ってくださるんだけども、自由って、それ、そうじゃないんですよって言うんですよ。
子どもたちも、保育園の中のルールっていうのがあって、そのルールの中でどうやったら自分たちがこう面白く、遊びを展開できるかとかを考えたりとかしているので。生活も、部屋の使い方さえちゃんと決めとけば、子どもは自分で行ってご飯を食べたいときに食べるし、昼寝の時間だなと思えば着替えて寝るし。
だから、環境を整えてあげれば、子どもたちが自分で考えて行動できる。それこそ「自主的な保育」ってことなんだろうなって。子どもがどういうことがやりたいかっていうのを、職員たちがうまく聞き取って、それを実現できるような環境をどう整えていくかっていうことになるんでしょうけどね。うん。
──いまのお話、すごく素敵だなって思いながら聞かせてもらいました。どうやってそういう考えに至ったんですか。
それこそ私たち、私が若かりし頃って真逆の保育してたんですよ。
──へえぇ、真逆ですか。
はい。それこそ、子ども主体じゃなくて、大人主体の保育っていうんですか。大人が、例えば、「今日はこれで遊んでね」って、こんな大きな箱に入った、ブロックとか入った箱を2つぐらいこう持ってきて、「今日はこれで遊ぶよ」って大人が決めてたんですよ。子どもが選ぶんじゃなくて。
で、もう散歩に行くのなら「帽子かぶった?」「靴下履いた?」とか、もうことごとく声かけて。で、声をかけるのが保育士の仕事だって、役割だって思い込んでて、そう言われて勉強して。
だけど、当時の園長が「そういう保育っていうのは、真逆だよ。子どもが自分でやろうとするとかね、自分で話そうとするとか、子どもが自ら育つ力があるのに、大人がその上から止めたりするのは、保育じゃないよね」と皆に投げかけてくれて…。
それが「あ、自分たちの保育を変えなきゃいけないんだ」っていうきっかけだったんですよね。みんなでね、語り合ったり。だから若いときは、家庭があるのに、夜の10時11時ぐらいまで喋ってて(笑)。そんなこともね、ずっとずっとやってたんですよ(笑)。
──それでお子さんが寂しかったって。
寂しかったって、ふっふっふっふ(笑)。どうしようもない、ほんと、家があるのにね(笑)。家もありますよ。ほんとほんと。旦那さんもいるけど。うん。でも、人生の何割が仕事なんだろうと思うぐらいです。いま思えば懐かしいです。
街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。
まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。
メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。
話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。
届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。
併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。
ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。
私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。
ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。
私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。
西村佳哲(2025年7月31日)
2025年11月11日 発行 初版
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