NO NUKES
C O N T E N T S ● E R I S Vol. 46
ジョニ・ミッチェルとジャズについての考察
『ジョニズ・ジャズ』を聴きながら ……………………………………… 小川隆夫
ソングライター・ファイル 第27回
ジョニ・ミッチェル その屹立した独創性 ……………………………… 萩原健太
音楽の未来を探して 第23回
成熟を続ける陳明章の月琴民謡祭 ………………………………………… 北中正和
僕の書いたライナーノーツ 第2回
カメ、フィル・スペクターを語りおろす ………………………………… 亀渕昭信
ブロードウェイまで12時間と45分 第39回
環大西洋的観点を内包した〝ヴードゥー・オペラ〟
…………………………………………………………………………… 水口正裕
僕のリズムを聞いとくれ(Oye Como Va) 第34回
バッド・バニーに続くカロルGの快進撃
…………………………………………………………………………… 岡本郁生
オレに言わせりゃクラシック 第29回
アメリカ文化と音楽の危機をみつめて
…………………………………………………………………………… 能地祐子
Gジャン放浪記 第29回
フォークが道をやってくる 第3話「フォークの業と因果」
…………………………………………………………………………… 高田 漣
ピーター・バラカンの読むラジオ 第43回
今年のぼくの映画祭から
……………………………………………………………… ピーター・バラカン
誰の二番目でもなく 第18回
ジョン・マーティン
…………………………………………………………………………… 天辰保文
旧聞ゴメン 第38回
なんでエーゴで唄うのか …………………………………………………… 鷲巣 功
執筆者紹介
編集後記 ………………………………………………………………………… 萩原健太
『ERIS』はBCCKS(ブックス)のエディタで本を編集、製作しています。BCCKS(https://bccks.jp/)は誰でもウェブ上で無料で電子書籍や紙の本をつくれて、マルチデバイスで発行、販売ができるサービスです。主要な電子書籍ストアにも配本できます。自分の本が無料で簡単につくれますので、是非チャレンジして下さい。また、ユニークで楽しい様々な電子書籍を読むこともできます。登録も簡単です。
reconsideration
『ジョニズ・ジャズ』を聴きながら
小川隆夫
渋谷、ブラックホーク、ジョニ・ミッチェル
ジョニ・ミッチェルのレコードを初めて(本気で)聴いた日のことは、いまでもはっきり覚えている。日にちではなく、情景のことをだが。聴いたレコードは『ブルー』(リプリーズ)で、場所は渋谷にあった「ブラックホーク」。最初はジャズ喫茶として通っていたが、1960年代末から徐々にロック喫茶に移行し、このレコードを聴いたときは完全なロック喫茶になっていた。レコード係(といえばいいのか)の松平維秋さんが、渋谷のヤマハで買ってくる新譜(輸入盤)の到着を、その日も店で待っていた。そして、戻ってきて最初にかけたレコードがこれだった。調べてみると、アメリカでの発売は71年6月22日。ヤマハに入荷するのは2週間後ぐらいだから、新譜として買ってきたのなら7月の初旬にこのレコードを聴いたことになる。
71年であることは間違いない。ぼくはこの年から、渋谷で父親がやっていた医院に住み始めたからだ。生まれ(は病院だが)も育ちもこの道玄坂から横の路地を入ったところの医院に61年まで住んでいた。環境が悪いということで世田谷に引っ越したが、父親は渋谷のこの診療所に通っていた。夜は誰もいなくなるので、早く実家から出たかったぼくは、大学2年に進級できたことを理由に、「誰もいないのは物騒」と理由をつけ、ここでひとり住まいを始めた。
道玄坂を渡れば、右に「ジニアス」、左に「デュエット」、手前には「麗郷」がある。突き当って、いまでいう東急本店通りを右に行けば、ぼくが毎日のように通っていた「discland JARO」もある。
このころは、大学でジャズ・バンド、高校時代の友人や、そのころ知り合った音楽仲間とロック・バンドを組んで、あちらこちらのディスコに出ていた。百軒店の「BYG」も入り浸りの状態だったし、毎週木曜夜は、公演通りを下った突き当り地下の「ステーション70」にも出るようになった。
そして、「ブラックホーク」では、ペンタングル、フェアポート・コンヴェンション、トレイダー・ホーンといったブリティッシュ・フォークを聴き、そのころから松平さんはCSN&Yやジェイムス・テイラーなどのレコードもかけるようになった。そうした流れの中で、ジョニ・ミッチェルの新譜も購入したのだろう。
フォーク的な佇まいの中に…
話が逸れすぎた。ジョニ・ミッチェルとジャズである。『ブルー』を聴いたころのぼくは、六本木にあった「アン・ミュージック・スクール」でギターと楽理を習っていた。それもあって、テレビの歌謡番組などを観ながら、流れてくる音楽に合わせてソロを弾いたり、歌謡曲だがジャズ的な和音のつけ方などを遊び半分で楽しんでいた。その癖がついていたので、ジャズのレコードは当然として、ロックやフォークといった曲でもそうした遊びをやっていた。
それで、ジョニの『ブルー』である。この時期の彼女は典型的なフォーク・シンガーだったが、1曲目の「オール・アイ・ウォント」からしてテンション・コードが使われていて、従来のフォーク・シンガーとは曲作りがまったく違うことに驚かされた。Ebmaj7やAbmaj7を開放弦混じりで鳴らすアプローチは、聴いていたジャズ・ギタリストにはない奏法で、これは目から鱗だった。ラストのギター・コードなど、単純だがテンション・ノートを加えた和音が新鮮に響いた。これは同じ時期に熱心に聴いていたジェイムス・テイラーやサポート・メンバーのダニー・コーチマーのギターにも認められることで、ぼくはこうしたアプローチを聴いて、ジョニに興味を持つようになった。
そういうわけで、あるとき、彼女の大ヒット作『青春の光と影(Clouds)』(リプリーズ)を「ブラックホーク」でリクエストしてみた。『ブルー』を聴く前からこのタイトル曲はヒットしていたから知っていた。ただし、聴き流していただけだったから、ちょっと真剣に聴いてみようと思ったのだ。この時点で「ブラックホーク」にジョニのレコードはこれら2枚しかなかった。だから、このレコードを聴くしかなかったのだが。
ジョニがデビュー作『ジョニ・ミッチェル(Song To A Seagull)』(リプリーズ)に続いて発表したこのアルバムでは、ジュディ・コリンズでヒットしたタイトル曲がジョニらしいメロディとヴォーカルで好きだったが(『ジョニズ・ジャズ』では2000年リリースの『ある愛の考察~青春の光と影(Both Sides Now)』収録の再録音ヴァージョンが聴ける)、聴き方を変えてみたら、 冒頭に収められた「ティン・エンジェル」や「ザット・ソング・アバウト・ザ・ミッドウェイ」にジャズ的な響きのあることがわかった。とはいってもフォーク/シンガー・ソングライター色の濃い時代に残した作品なので、ジャズの要素は目立たない形でちりばめられていたにすぎない。
前者のコード進行は、イントロからしてそれまでのフォークに比べるとかなり異色な響きを伴っている。これは、変則チューニングを用いた効果と思われた。こじつけをいわせてもらえば、ブルージーなメロディを持つ後者ではジャズ・ヴォーカル風の味わいが認められる。といっても、サラリと聴いてしまえばいつものジョニ節だ。あら探しをする感覚で聴けば、そうした要素が認められる、ということである。
ジャズ・ミュージシャンとの本格的な関わり
それから何年も経ち、『ミンガス』(アサイラム、79年)でジャズ・ファンの前にジョニが登場する。ジャズ・ベースの巨匠、チャールズ・ミンガスとの共同制作で始まったプロジェクトだが、途中でジョニが方向転換し、ジャコ・パストリアス(エレクトリック・ベース)、ハービー・ハンコック(ピアノ)、ウェイン・ショーター(テナー、ソプラノ・サックス)、ピーター・アースキン(ドラムス)、ドン・アライアス(パーカッション)といった、ジャズやフュージョン・ファンには夢のような顔合わせのオールスター・バンドがバックを固めていた。
ここにいたって、ジャズ・ファンがジョニの存在を意識するようになった。ところが、これは突然の思いつきとは違う。一部のジャズ・ファンからは注目されていたが、彼女はこれ以前から魅力的なジャズ・ミュージシャンをサポート・メンバーに起用し、いくつもの作品を残していた。
4作目の『ブルー』までは弾き語りのイメージが強かった。ジョニがバック・バンドを従えて本格的なレコーディングを始めたのは、アサイラムに移って72年に発表した次作『バラにおくる(For the Roses)』からだ。バックには、トム・スコット(各リード楽器)とウィルトン・フェルダー(エレクトリック・ベース)という、西海岸のジャズ/フュージョン・シーンで大活躍しているふたりが加わり、ジョニのヴォーカルにこれまでとは違うサウンドを加えている。このアルバムでは、かつての恋人だったジェイムス・テイラーのヘロイン中毒を題材とした「コールド・ブルー・スティール」にジャズ的な歌唱が認められる。『ジョニズ・ジャズ』にはこれ1曲しか収録されていないが、このアルバムからジョニはジャズに接近していく。
このあとの作品も、基本的にはジャズ系のミュージシャンが起用され、ジョニの音楽に多彩な色彩感を加えている。とはいっても、全体の響きがジャジーになるわけではない。彼らが示すソロにジャズの要素があるというだけで終わっていた。そこに大きな変化をもたらしたのがジャコ・パストリアスだ。
彼がジョニのレコーディングに初めて参加したのは(9曲中4曲)76年の『逃避行(Hejira)』(アサイラム)である。「コヨーテ」と「黒いカラス」に認められるグルーヴ感溢れるベース・ワークがジョニの歌に勢いをつける。この年に彼も初アルバムの『ジャコ・パストリアス』(コロンビア)を録音しているし、直前からウェザー・リポートに参加したことで、それらに通じるサウンドとジョニのヴォーカルが合体した印象を受ける。
「逃避行」は『ジョニズ・ジャズ』では79年録音『シャドウズ・アンド・ライト』のライヴ・ヴァージョンが収められているが、幻想的なタイトル・トラックでも、ジャコのベースは唸りを上げる。ジョニとの相性が抜群であることをこのトラックは示している。彼女の歌はフォークの域を超え、ジャンルわけをするのが難しい。とはいっても、ジョニのヴォーカルはデビュー時と変わっていない。ここに至って、そのヴォーカルに最適なバックのサウンドが見つかったということだろう。
「旅はなぐさめ(Refuge Of The Roads)」は、ジャズ・バラードに通じるジョニのヴォーカルがストリング・オーケストラをバックに聴ける(2002年『トラヴェローグ』での再演版)。アレンジャーのクレジットはないが、オーケストレーションは、この時代のフランク・シナトラのそれと共通する。中盤に登場する鳥のさえずりのようなソプラノ・サックス・ソロを吹くのはウェイン・ショーターだ。また、元のオリジナル盤『逃避行』ではジョン・ゲランのブラシによる4ビートが効果的な「ブルー・モーテル・ルーム」もジョニのジャズ志向を示す曲になっていた。
そのサウンドをさらに魅力的にしたのが続く2枚組LPで発売された『ドンファンのじゃじゃ馬娘(Don Juan's Reckless Daughter)』(アサイラム、77年)である。アルバムではジャコとの繋がりで、ウェザー・リポートから、ウェイン・ショーターはじめ、マノロ・バドレーナ、アレックス・アクーニャが起用され、ウェザー・リポートに近しいアイアート・モレイラ(以上パーカッション)も迎えられている(参加する曲はまちまちだが)。ショーターが登場する「パプリカ・プレインズ」はサイド2を占める16分以上の大曲で、ストリング・オーケストラをバックにジョニがスケールの大きな歌を聴かせる。ここでは、彼女が弾くピアノ・インプロビゼーションに、ジャズ界の鬼才として知られるアレンジャーのマイケル・ギブスがオーケストレーションをオーバーダブしている。ジョニがジャズにポップ・ロックの要素を加えるようになったのがこのアルバムからだった。
ジャズ・ファンを驚かせた『ミンガス』
先に触れた『ミンガス』がこれに続く。『ジョニズ・ジャズ』では、このアルバムで紹介された「ゴッド・マスト・ビー・ア・ブーギ・マン」(79年のライヴ盤より)、「ア・チェアー・イン・ザ・スカイ」「スウィート・サッカー・ダンス」(初期別ヴァージョン/オルタネイト)、「デ・モインのおしゃれ賭博師(The Dry Cleaner From Des Moines)」が聴ける。ジャズ・ファンの間でいちばん有名になった「グッドバイ・ポーク・パイ・ハット」は、アルバム・ヴァージョンではなく79年のライヴ版が収録されている。こちらはマイケル・ブレッカーの唸るようなテナー・サックス・ソロとジャコの超絶的ベース・ワークが聴衆を盛り上げる。
この曲は、尊敬するモダン・テナーの巨匠、レスター・ヤングをミンガスが追悼したものだ。彼のオリジナル・ヴァージョンは59年に6重奏団で吹き込んだ『ミンガス・アー・アム』(コロンビア)で発表され、その後も何度か録音されている。『ミンガス』の初期構想では、この曲をジョニとミンガスとで再現する予定だったのだろう。英国のフォーク・シンガー、ジューン・テイバーはヴィン・ドノフリオのつけた歌詞を歌い、この歌詞で綾戸智恵も録音している。ジョニのヴァージョンは彼女自身の作詞で、ヤングの人生と音楽が紹介されている。なお、タイトルにある〝ポーク・パイ・ハット〟は、独特のフチがある平らな円筒形の帽子のことで、ヤングのトレードマークだった。
ジョニの作詞作曲による「ゴッド・マスト・ビー・ア・ブーギ・マン」では冒頭からジャコのベースが登場し、抜群の雰囲気を醸し出す。ミンガスが書いた「ア・チェアー・イン・ザ・スカイ」でも、ジャコの低音部を強調したベース・ワークがジョニのヴォーカルと一体感を示す。これまたミンガス作の「スウィート・サッカー・ダンス」は、この時期のフュージョン的なヴォーカルに繋がる面白さがあるし、「デ・モインのおしゃれ賭博師」(ミンガス作)では、ジャコをはじめ、バンドの躍動的な演奏に乗って、ジョニがハスキーなヴォイスで縦横無尽に歌ってみせる。ここではバックのサウンドがウェザー・リポート的であることにも注目したい。
ところで、ジョニは74年の6作目『コート・アンド・スパーク』(アサイラム)を発表したあと、アルバムに参加したフュージョン・バンドのLAエクスプレスとツアーをしている。そのときに『マイルズ・オブ・アイルズ』(同)が残される。トム・スコット、ロベン・フォード(ギター)、ラリー・ナッシュ(キーボード)、マックス・ベネット(ベース)、ジョン・ゲラン(ドラムス)によるフュージョン・サウンドがジョニの歌と自然な融合を果たし、創造的な音楽を彼女が追求するには、通常のフォーク/ロック系の伴奏では難しいことを証明した。
ライヴ作ではそれに続く80年のアルバム『シャドウズ・アンド・ライト』(アサイラム)がジャズ・ファンをあっと驚かせた。前年9月にカリフォルニア州のサンタ・バーバラ・ボウルで実況録音されたこの2枚組には、マイケル・ブレッカー、パット・メセニー、ライル・メイズ、ジャコ・パストリアス、ドン・アライアス、ザ・パースエイジョンズが結集し、ジョニの歌もさることながら、バックのパフォーマンスにも大きな注目が集まった。
この模様は間もなくライヴ映像作品としても発売され、ジョニの歌と合わせて、ジャズ/フュージョン界の人気者/スターたちによる、先端を行く演奏に高評価が寄せられた。それまでのスタジオ録音でもその傾向は認められていたが、この作品ではいつにも増してジャズ/フュージョン色が強くなり、ジョニのイメージを一新させた。とはいえ、彼女の場合は、弾き語りであろうと、バックにバンドがつき、それがどんなサウンドであろうと、以前と変わらぬヴォーカル・スタイルを聴かせる。最初からこうしたサウンドに親和性があったということだ。用いる和音やコード進行もありきたりのフォークとは異なっていたし、そうした資質がこのグループで最高の形となって示されていた。『ジョニズ・ジャズ』に収録されたこのときのライヴ・ヴァージョンは「逃避行」「ゴッド・マスト・ビー・ア・ブーギ・マン」「グッドバイ・ポーク・パイ・ハット」の3曲で、これらについては先に紹介している。
ジャズを愛し、ジャズに愛されたジョニ
このアルバムに続いて吹き込まれたのが『ワイルド・シングス・ラン・ファスト』(ゲフィン)だった。スタジオ録音でいうなら、79年の『ミンガス』に続く3年ぶりの新作に当たる。ここからベースはジャコに代わってラリー・クラインになる。彼とジョニはこのレコーディングを機に12年間にわたって生活をともにし、その後も親友づき合いをしてきた。常に音楽的な前進を念頭に置いてきたジョニは、80年代に入って次なるサウンドを求める。このアルバムはその出発点だった。アサイラムからゲフィンに移籍し、心機一転を図ったのも、音楽的にさらなる変化を求めたからだ。
それに併せ、バックにラリー・ウィリアムス、ラッセル・フェランテ(以上キーボード)、スティーヴ・ルカサー(ギター)、ジョン・ゲラン(ドラムス)、ヴィニー・カリウタ(ドラムス)、ドン・アライアス(パーカッション)など、名うてのロック・ミュージシャンやスタジオ・ミュージシャンを集め、これまで以上に完璧なサウンドを作るようになった。
このアルバムからは、未発表デモの「ムーン・アット・ザ・ウィンドウ」と「ビー・クール」、アルバム収録の「ユー・ドリーム・フラット・タイアズ」、スタジオ・ライヴ録音の「ラヴ」を聴くことができる。2曲のデモでは、初期のジョニが弾いていたようなギターにジャコ的な音使いのラリー・クラインのベースが絡み、ジョニならではの世界が綴られている。前者で彼女が用いるのはDマイナー用に調整された変則チューニングだ。通常はE、A、D、G、B、E(6弦→1弦)のところを彼女はD、A、C、F、G、Cに変えている。これで独特のテンション・ノートを聴かせるが、これは音楽仲間のニール・ヤングに教わったものかもしれない。
そしてこれらをバンドのサウンドとして発展させたのがアルバム収録の「ユー・ドリーム・フラット・タイアズ」だ。ただし、デモ・ヴァージョンで収録された「ムーン・アット・ザ・ウィンドウ」は、ジョン・ゲランのスネア・ブラシがスウィングするアルバム収録ヴァージョンのほうがよかった。
ジョニが残したアルバムの中では、スタンダード・チューンを取り上げた2000年の『ある愛の考察~青春の光と影』(リプリーズ)がもっともジャズ的な内容である。『ジョニズ・ジャズ』で聴けるのは、スタンダードの「カムズ・ラヴ」「アット・ラスト」「ユーアー・マイ・スリル」「サムタイムス・アイム・ハッピー」で、これらはストリングスも含むオーケストラをバックにジョニがジャジーな歌を聴かせる。
こうした歌を披露する前兆は、98年に録音した前作『テイミング・ザ・タイガー』(リプリーズ)の「ステイン・イン・タッチ」や「ザ・クレイジー・クライズ・オブ・ラヴ」でも認められた。後者に聴くウェイン・ショーターのソプラノ・サックスがジョニの歌に彩りを沿える。
同じ98年には、ハービー・ハンコック(ピアノ)が発表した『ガーシュインズ・ワールド』(ヴァーヴ)にジョニが「ザ・マン・アイ・ラヴ」で参加し、ウェイン・ショーターのテナー・サックス・ソロとハンコックのピアノ・ソロがフィーチャーされる中、ジョニが達者なジャズ・シンガーぶりを発揮する。いつもの彼女とまったく違う歌い方と表現に驚いたひとも多いだろう。
2007年のハンコック作品『リヴァー~ジョニ・ミッチェルへのオマージュ』はジョニの曲をさまざまなシンガーが歌うトリビュート企画で、彼女も「ティー・リーフの予言」に参加している。このアルバムを聴くと、ジョニの楽曲がジャズに向いていることがよくわかる。独特のコード進行や和音がジャズにアダプトさせやすいということだろう。
そのジョニが2015年に脳動脈瘤(brain aneurysm rupture)で倒れ、九死に一生を得たのは記憶に新しい。多くのひとは再起不能を覚悟した。ところが、彼女は不死鳥のように甦り、22年の「ニューポート・フォーク・フェスティヴァル」にサプライズ出演したのである。以後もマイペースの活動を続けているのは喜ばしい限りだ。
新たな感動を与えてくれる『ジョニズ・ジャズ』は、ジョニ・ミッチェルによる長年の音楽的探求とジャズへの深い愛情が結実した集大成だ。いまなお創作の情熱を失わず、音楽界に豊かな足跡を刻み続ける彼女の姿は、多くのファンに希望と勇気を届けるに違いない。
プリンス / サイン・オブ・ザ・タイムズ: スーパー・デラックス・エディション (2020)
(ワーナーミュージック WPZR-30884~92=8CD+DVD)
プリンスの『サイン・オブ・ザ・タイムズ』(ワーナー・ブラザース)が2020年に8CD+DVDのスーパー・デラックス・エディションで登場した。そのDVDに、87年の大晦日、プリンスが所有するペイズリー・パーク・スタジオでのライヴが収録されている。これにより、プリンスとマイルスの共演がついに公式に発表された。ゲストで短い時間のパフォーマンスだが、後方からプリンスと腕を組んでマイルスが出てくるシーンだけで感動してしまう。これ以上の聴きものがCD4の4曲目に収録された未発表曲「キャン・アイ・プレイ・ウィズ・ユー?」だ。冒頭からミュートをつけたマイルスがプリンスのヴォーカルにオブリガートをつける。オーヴァーダビングだろうが、一体感が素晴らしい。中盤では、短いながらマイルスがリリカルなソロを聴かせる。この時期のプリンスの音楽に耳を傾けると、マイルスが追求していたパフォーマンスと共通していたことがわかる。両者が醸し出すサウンドはほとんど同一といっていい。それを思うにつけても、きちんとした形の共演作を残してほしかった。
連載
Songwriter File
第27回
ジョニ・ミッチェル
その屹立した独創性
萩原健太
ジョニ・ミッチェル、充実のボックス・セット『ジョニズ・ジャズ』のリリースに合わせた巻頭記事を小川隆夫さんに執筆していただいた今号の『エリス』。ということで、それに合わせ、ぼくの連載『ソングライター・ファイル』でもジョニ・ミッチェルを取り上げることにした。
非凡な〝ソングライター〟として
ジョニ・ミッチェルの場合、やはり基本的にはシンガー・ソングライターで。自分のために曲を書いて自分で歌う、と。そういうタイプのアーティストなわけだけれど。かつて1960年代、ぼくがこの人の名前を知ったのはまずソングライターとして。ぼくは今、ぎりぎり60代という年齢。たぶん同じ世代の洋楽ファンの方はほぼ同じ体験をなさっていることと思う。
最初にジョニ・ミッチェルという名前を意識したのは確か69年。中学2年生のころだ。おなじみのフォーク・シンガー、ジュディ・コリンズがヒットさせていたシングル「青春の光と影(Both Sides Now)」の作者としてだった。もともとジュディ・コリンズは67年のアルバム『野生の花(Wildflowers)』でいち早くこの曲をカヴァー。翌68年にシングル・カットされて全米8位にランクするヒットを記録して。このとき日本でも確か「光と影」という邦題で国内盤シングルが出ていたと思う。けど、ぼくはそのときにはまったくスルーしていて。
結局、手に入れたのはその後、69年にホール・バートレット監督の映画『Changes』が〝青春の光と影〟という邦題の下で公開された際、その挿入歌に採用されたことで、邦題を変え、ジャケットも変更した日本盤シングルが改めて発売になったとき。もちろんこの段階ですでにジョニ・ミッチェル自身もデビューしていたし、本曲を収録したセカンド・アルバム『青春の光と影(Clouds)』も、まあ、もちろんぼくは気づいていなかったものの、現実にはちゃんと日本盤も出ていた時期だ。でも、そんなものにまったく耳を向けていなかったぼくは、とにかくジュディ・コリンズのヴァージョンで本曲を知った。で、ハマった。後になって知ったことだが、コード解釈などもかなりいじったポップなアレンジがほどこされていたこともあり、作者であるジョニさんはジュディ・コリンズ・ヴァージョンをずいぶんと嫌っていたらしい。とはいえ、これがぼくにとってのジョニ・ミッチェル作品初体験。雲を、愛を、人生を、文字通りボス・サイズ、〝両面〟から眺めながら綴った歌詞も含め、思春期の入口にあった心が静かに震えたものだ。懐かしい。
次はCSNYか。クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの「ウッドストック」。これにもハマった。ニール・ヤングが繰り出すイントロのギター・リフから最高だった。3カポ「Em」のフォームで4弦をハマリング・オンしつつ、6弦と3弦の開放音やブルーノートと巧みに交錯させたイントロに導かれて歌い出すスティーヴン・スティルスのソウルフルなヴォーカル。スリリングなブレイク。とてつもなくかっこいいバンド・サウンドだった。そしてその作者がまたジョニ・ミッチェッルだと知って驚いた。ジュディ・コリンズの「青春の光と影」とはまるで違う〝新時代ロック〟的快感がここにはあった。もちろん、こちらもまだジョニ・ミッチェルのオリジナル・ヴァージョンなど聞いたこともなかった段階ではあったのだけれど、グレアム・ナッシュのファルセットをトップに据えた緊迫感びしびしの必殺コーラス〝We are stardust, we are golden…〟という詩的な表現もたまらなかった。
続いて、『いちご白書(The Strawberry Statement)』だ。日本でも70年代9月に公開されたジェイムス・クネン監督の映画。キム・ダービーとブルース・デイヴィソン主演による大学紛争をテーマにした青春物語だったが、ここでもジョニ・ミッチェル作品が大いに存在感を発揮していた。北米先住民クリー族の血を引くカナダ生まれのシンガー・ソングライター、バフィ・セント=メリーがジョニ・ミッチェル作品をカヴァーした「ザ・サークル・ゲーム」がサウンドトラックに使用されていた。シングル・カットされて全米チャートでは109位、カナダでは76位と地味な戦績どまりだったが、日本では映画のヒットとあいまって大当たり。ラジオの洋楽ヒットチャートなどで上位にランクされていた覚えがある。これまた後になってから知った作者ヴァージョンとはまるで違う、アップテンポのポップ・フォーク系作品へとリアレンジされていたのだけれど。そのキャッチーな手触りが中学生だったぼくの耳をまたまたとらえた。でもって、作者がジョニ・ミッチェルだと知り、なるほど、と。このあたりでぼくの中でジョニさんの存在感が決定的なものになったのだった。
他にもいろいろ調べてみると、トム・ラッシュの「アージ・フォー・ゴーイング」、デイヴ・ヴァン・ロンクの「チェルシーの朝(Chelsea Morning)」、フェアポート・コンヴェンションの「イースタン・レイン」なども彼女の作品で。ぼくにとってだけでなく、こうした楽曲群のソングライターとしてまずジョニは一般の注目を集め、やがて彼女の自身のオリジナル・ヴァージョンの〝深さ〟がシーンに浸透していくことになったわけだ。
幅広い音楽を吸収しながら道を切り開く
今さらではあるが、簡単に彼女のバイオグラフィーをおさらいしておこう。ジョニ・ミッチェルは1943年11月7日、カナダのアルバータ州フォートマクラウド生まれ。本名はロバータ・ジョーン・アンダーソン。カナダ空軍の少尉だった父親と、教師だった母親のもとで育った。第二次世界大戦後、除隊した父親は食料品商に。何度かの転居を繰り返した後、ジョニが11歳のときにサスカチュワン州サスカトゥーンに落ち着いた。当時は絵画への興味が強く、やがてカルガリーにあるアルバータ美術大学へ進学したが、そこでフォーク・ソングと出会い、一気に惹かれていったという。
クラシック・ピアノを学んでいたこともあったが、フォーク・ソングと出会ったことでまずウクレレを弾くようになり、続いてアコースティック・ギターを手にした。ピート・シーガーのソングブックを参考にギターを独学。幼いころにポリオに感染した影響で左手に力が入りにくく、それを補うため、指1本でコードが押さえられる独自のチューニングをいくつも考案したり。それがのちに彼女のトレードマークのひとつになった。
最初は大学のそばのコーヒーハウスやストリートで活動開始。が、伝統的なフォーク・ソングを歌いたいと思っても、先輩格のフォーク・シンガーたちがそれらを自分のレパートリーとして歌っている場合、重複して歌うことができないという不自由な現実に直面し、それならば…ということで、いわゆるフォーク・ソング以外の、エディット・ピアフからマイルス・デイヴィスまで、幅広いジャンルの歌を取り上げるようになった。とともに自分のオリジナル曲も作るように。
そうこうする中で、音楽こそが自分の表現だと確信した彼女はプロの音楽家になる決意を固めトロントに移住した。65年には活動を共にしていた米国人フォーク・シンガー、チャック・ミッチェルと結婚し、カナダを離れてデトロイトへ。この結婚生活は1年半ほどで終わりを迎えたが、以降もジョニはミッチェル姓を名乗り続けることになる。
ジョニはニューヨークに移住。フィラデルフィア、ボストン、ノース・カロライナ州フォートブラッグなどを含む東海岸のさまざまなコーヒーハウスやフォーク・クラブなどに頻繁に出演を続ける中、その独自のソングライティングと革新的なギター・スタイルで徐々に知名度を上げていった。
67年にリプリーズ・レーベルと契約。翌年、デヴィッド・クロスビーのプロデュースの下、ファースト・アルバム『ジョニ・ミッチェル(Song to a Seagull)』をリリースした。このアルバムは全米アルバムズ・チャートで最高189位止まりだったが、先述した通り、彼女の作品は自身のヴァージョンでではなく、まずは他シンガーが取り上げたカヴァー・ヴァージョンで世に広まっていった。
それによって彼女自身のアルバムにも注目が集まるようになり、自らのプロデュースで『青春の光と影』(69年、全米31位)、『レディーズ・オヴ・ザ・キャニオン』(70年、27位)、『ブルー』(71年、15位)、『バラにおくる(For the Roses)』(72年、11位)、『コート・アンド・スパーク』(74年、2位)、初のライヴ・アルバム『マイルズ・オブ・アイルズ』(74年、2位)、『夏草の誘い(The Hissing of Summer Lawns)』(75年、4位)、『逃避行(Hejira)』(76年、13位)…と、着実にアルバム・リリースを重ね、キャロル・キングとともに北米の女性シンガー・ソングライター・シーンを代表する存在としての地位を確立した。
サウンド的にも初期のギターあるいはピアノの弾き語りスタイルだけでなく、トム・スコット、ロベン・フォード、ウィルトン・フェルダー、ジョー・サンプル、ラリー・カールトン、ジャコ・パストリアスらを起用して、より柔軟で緻密なフュージョン~クロスオーヴァー的な音世界をも提示するようになった。そのあたりのことは小川隆夫さんによる今号巻頭の記事をご参照ください。
独自のギター・チューニングが生んだサウンドスケープ
というわけで、本稿ではソングライターとしてのジョニ・ミッチェル、特に初期の作風について振り返っておくことにする。
「私の音楽は、瞬時に心をつかむようにはできていません。私の音楽は、一生着られる上質な布のように、歳月を経ても持ちこたえられるように作られているんです」
彼女はそんなふうに自身の楽曲を解説していた。だからこそ、前述したジュディ・コリンズの「青春の光と影」にせよ、CSNYの「ウッドストック」にせよ、バフィ・セント=メリーの「ザ・サークル・ゲーム」にせよ、ぐっとポップ寄り、あるいはロック寄りのアレンジを加えても楽曲の魅力が揺らぐことがなく、しかも本人のぐっと静謐なオリジナル・ヴァージョンの深みも半端ない、と。そういう離れ業が実現するのだろう。
彼女の作曲、編曲の特色を語る際、絶対に避けては通れないのが先にも触れたギターのオルタネイト・チューニングだ。このあたりには小川さんも巻頭記事で触れていらっしゃるが、いろいろな制約ゆえに編み出さざるを得なかったこの手法が彼女の音楽性にもたらした影響は本当に大きかった。
いちばん多用されているのは6弦すべてを同時に鳴らしたとき、それだけできちんと和音になるタイプの一般的なオープン・チューニングで。オープンD(6弦から1弦に向かって、D→A→D→F#→A→D)系を使っている初期楽曲は「チェルシーの朝」「さぼてんの木(Cactus Tree)」「カリフォルニア」「ビッグ・イエロー・タクシー」など。オープンG(DGDGBD)系は「ザ・サークル・ゲーム」「モーニング・モーガンタウン」など。近年発掘リリースされている本格デビュー前の音源などを聞くと、初期はこのチューニングを多用して曲作りをしていたようだ。「青春の光と影」に関してはオープンD説とオープンG説、両方あります(笑)。
が、ジョニの場合、ここにとどまらない。たとえばCGDFCEなど独自のチューニングを編み出し、「シソタウベル・レーン」「レディーズ・オヴ・ザ・キャニオン」「コヨーテ」などで使われている。ジョニは低音弦をCGDにチューニングして、高いほうの3つの弦をFCEにしたり、FB♭Dにしたり、GBDにしたり、EGCにしたり…。このバリエーションも含め、ジョニは全部で約50種類のオルタネイト・チューニングを使用しているらしい。
これらの独自チューニングが彼女を伝統的なヴォイシングの制約から解き放ち、その楽曲に特有の、オープンで広がりのあるサウンドスケープと、豊かなハーモニー構造、そしてデリケートな旋律の流れを生み出しているわけだ。特定の弦を開放弦として鳴らし続けることでいわゆるハーモニック・ドローンを生成し、メロディの下に持続的な和声的基盤を流し続ける。それが曲全体に連続性と流れを与えて、感情的な共鳴を呼び起こす。「青春の光と影」にせよ「ア・ケイス・オヴ・ユー」にせよ、こうした連続的な響きが内省や切望の感情的な重みを表現する上で大きな役割を果たしている。この奔放なヴォイシング感覚があったからこそ、もともとフォーク畑出身でありながら、やがてジャズ的なモード和声の要素が彼女の音楽に加わっていったのだろう。
それにしても、ほぼ独力でこうしたモード的なハーモニー、柔軟なメロディ・アプローチなどを体得し、ごく自然な形でより複雑な音楽性へと歩みを進めたというのだから、やはりとんでもない才能だった。正式な音楽訓練を欠いていたことも、ここではむしろ功を奏したということか。もちろん、そうやって生まれた画期的なメロディを完璧に歌いこなせる歌唱力と透明な歌声あってこそのことではあるが。
抽象的でありながら直截的な描写
そして、歌詞だ。ジョニが本格的に作曲をするようになったのは65年にアメリカにやってきてからだったそうだが、それまでも詩は書いていたらしい。とはいえ、その詩を音楽と組み合わせることは考えなかったという。が、ボブ・ディランの「寂しき4番街(Positively Fourth Street)」を聞いたとき、私的な詩の力を歌にする方法にようやく目覚めた。
「〝You've got a lot of nerve to say you are my friend〟という一節を聞いたとき、これだ、今、私たちは話しているんだと思いました。私に欠けていたのは、抽象的なイメージと結びついたストレートで直截な表現だったんです」
ニーチェの影響もあったというインタビューを読んだ記憶もあるのだが、きっとあの有名な〝すべての書かれたもののなかで、わたしが愛するのは、血で書かれたものだけだ。血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう〟といったフレーズにも触発されたのだろう。こうして直截的な表現とより抽象的なイメージを巧みに混合させたジョニ・ミッチェルの歌詞世界が完成し、70年代のシンガー・ソングライター・ムーヴメントの象徴としてシーンに大きな影響を与えていくことになった。
視点の揺らぎのようなものすらクリエイティヴな表現へと結びつけてしまうのもジョニならではだ。「青春の光と影」の歌詞はご存じの通り、空を見上げたときの視点と、飛行機から見下ろしたときの視点と、そのふたつを交錯させた1曲。それ発端に、彼女は雲を恋愛や人生の諸相に折り重ね、天使の髪、アイスクリームの城、羽の渓谷といった夢想的な映像をちりばめるのだが。とともに雲は太陽を遮る障害物にもなることを綴り、夢と現実をクールに提示する。物事は〝両側〟から眺めなくてはいけない、というのではなく、〝両側〟から眺めても人生を理解できないとぼくたち聞き手に伝えてみせる。
「ザ・サークル・ゲーム」は同郷、同世代のシンガー・ソングライター仲間、ニール・ヤングが若さの喪失を嘆いた「シュガー・マウンテン」に触発されてジョニが書いた曲だと言われている。ジョニはここで、人間という者は〝時〟という回転木馬に乗った捕われ人だと歌った。トンボを追う少年が、やがて多くの季節を巡り、車を駆る青年へ。そして最後の年が訪れて…。いつまでも捕まえることができない夢を追いながら回り続ける、時、季節、歳月を淡々と描いてみせる。ここでジョニは青春の喪失を嘆いているのではない。歳月の流れに抗うのではなく、その回り続けるゲームに身を任せ、変化を受け入れ、新しい夢と希望を抱く素晴らしさを綴っているわけだ。
「ア・ケイス・オヴ・ユー」も素晴らしい。これも有名な話だが、グレアム・ナッシュだか、レナード・コーエンだか、とにかく当時交際していたパートナーとの失恋直後の感情を凝縮した名曲。〝あなたは私の血の中を流れる聖なるワイン/それはとても苦く、とても甘い/私はあなたをひとケース分飲み干すことだってできる/それでも私は自分の足でしっかり立っている…〟と、ジョニならではの絶妙な描写力で恋の強さと中毒性を象徴的に表現してみせる。〝神のように神聖で悪魔のように罪深い〟といったイメージの対比を用い、聖と俗、愛と依存という二面性を提示。これにより本曲の歌詞は単なる詩的な告白を超えて聞き手自身の物語を投影するものへと昇華するのだった。
ニューポート・フェスでの感動的パフォーマンス
ジョニは21世紀に入ったころからモルジェロンズ病という難病を患い長い闘病生活に。脳動脈瘤にも侵され音楽活動はほぼ休止。が、不屈の意志と厳しいリハビリで徐々に回復し、2018年には生誕75年を祝って仲間が集ったトリビュート・コンサートの客席に久々に姿を現わしたり、自らキュレーターとなって自身の過去音源を改めて整理し直すCD再発プロジェクトに着手したり、少しずつではあるが復活の兆しを見せ始めた。
それでも本格復帰を期待する者から「もう歌わないのか」と問われるたび彼女は小さく首を振り「もうなくなってしまったから…」と答え続けてきた。何がなくなったのか。そう。声だ。彼女の美しく透明な歌声を病魔が奪った。ジョニがかつてのような美しい歌声とともにシーンに復帰することはもうないだろう、と誰もがあきらめるしかなかった。
が、2022年夏、奇跡が起きた。その年の7月に行なわれた米ニューポート・フォーク・フェスティヴァル。グラミーに何度も輝いているカントリー系シンガー・ソングライター、ブランディ・カーライルの助けを借りる形でジョニが感動の復活を遂げたのだ。もともとは出演者未定の「コヨーテ・ジャム」として予告されていた謎のセット。それが当日「ジョニ・ジャム」へ名称変更。ブランディを筆頭に、アリソン・ラッセル、セリース・ヘンダーソン、ワイノナ・ジャッド、カイリーン・キング、ブレイク・ミルズ、テイラー・ゴールドスミス、シューター・ジェニングス、マーカス・マムフォード、ベン・ラッシャー、ハンセロス兄弟、ジョシュ・ニューマン、ルシャス、シスタストリングスら大勢の後輩たちがバックアップする中、ジョニはなんと全13曲のライヴ・セットに参加した。
その日の模様は『ジョニ・ミッチェル・アット・ニューポート』としてCD化もされた。本人の言葉通り、かつての美しい高音ヴォーカルは確かに消えてしまっていたけれど、ブランディをはじめとする後輩たちのリスペクトに満ちたサポートを受けながら、以前とはまったく違う、低音の歌声で新たな魅力をたたえながら新たな表現を聞かせてくれた。
長い闘病の果て、やはり往年の美しい高音ファルセットを失ってしまったブライアン・ウィルソンが、ジェフリー・フォスケットやダリアン・サハナジャら頼もしい後輩たちに助けられながら新たな表現を手に入れたのと同じ。彼女はかつての歌声を失い、しかしそれと引き換えにより赤裸々な説得力を手に入れた。とてつもなく感動的な復活劇だった。
中でもぼくがもっとも感動したのが、「ア・ケイス・オヴ・ユー」だった。先ほど引用したサビの歌詞の最後、そこまでずっとていねいに歌声を重ねつつジョニをリードしてきたブランディがふと歌うのをやめる。そして〝私は自分の足で立っている〟という印象的な一節をあえてジョニひとりの歌声にまかせる。ジョニもまた淡々と、訥々と、少し照れくさげにそれを歌いこなす。歌詞が半世紀前とはまた別の意味をたたえ聞く者の胸を射貫く。観衆も心からの大きな喝采を送る。名曲が歳月を経て、違う時代の空気の下、違う感動をぼくたちに伝えてくれた感動の一瞬。泣けた。
優れたソングライターの作品は、誰が歌っても、あるいは同じシンガーがどの時代に歌っても、それぞれ違う感動を伝えてくれるということ。ジョニ・ミッチェルのニューポートでのパフォーマンスは、そんな名曲を作り上げたソングライターとしての彼女の底力を改めて思い知らせてくれた瞬間でもあった。
ブルース・スプリングスティーン / ネブラスカ '82:エクスパンデッド・エディション (2025)
(Sony Music SICP-31802~6=4CD+BD)
1982年、ブルース・スプリングスティーンが4トラック・マルチ・カセット・レコーダーを使って宅録した『ネブラスカ』。出た当初、米国の暗部を描いたクライム小説やゴシック小説を想起させるダークな感触にたじろいだ1枚ではあったけれど。繰り返し聞き続けるうち、簡素であるがゆえに深い世界観のとりこに。80年代のスプリングスティーン作品中、もしかするとベストな1枚かもしれないとすら思うに至った。そんな名盤を4CD+ブルーレイの5枚組へと拡張したボックス・セットが『ネブラスカ '82』だ。CD1が未発表曲や次作に先送りされた曲のデモなどレア音源集。CD2がEストリート・バンドのメンバーと『ネブラスカ』収録曲をバンド演奏した“エレクトリック・ネブラスカ”。CD3とブルーレイが、今年ニュージャージーのカウント・ベイシー・シアターで行われた『ネブラスカ』全曲演奏無観客ライヴ。これら各種レア音源の後、CD4でようやくオリジナル『ネブラスカ』最新リマスター版が登場。通常とは逆のボックス構成が光る。
連載
travelling and settling
第23回
成熟を続ける陳明章の月琴民謡祭
北中正和
ひさしぶりの台湾紀行
6年ぶりに台湾に行った。
コロナが流行したとき、ITを活用した台湾の水際防御作戦が成功したこと、デジタル担当の閣僚オードリー・タンが脚光を浴びたことは、テレビを見ないぼくでも知っていた。
今回のとんぼ帰り取材でも、6年間に台湾の社会が変貌をとげてきたことは林立するビルの群れの増え方から感じとれた。為替レートも約4円から約5円に上がっていた。変わらないのはぼくばかり、ではなく老いを実感する出来事がさっそく入国時に起こった。
入国の際に書き込む紙のカードがなくなって、スマホ入力方式に代わっていた。これではスマホを使ってない年寄りは旅行できないな、とぼやきながら、簡単に入力したつもりだったが、入管ではねられて、あっちに行けと言われてあせった。ふだんはぼくよりスマホに四苦八苦することが多い妻の理咲が、今回ばかりは、ゲートの向こうで心配そうにこちらを見ている。
結局、パスポート番号の打ち込みミスだとわかったが、入国カードアプリへの入力がまちがっていることに気づくのにしばらく手間取って、QRコードの読み込みからやりなおしているうちに30分くらいかかってしまった。
入国前から取り残され感が一気に高まったのに加えて、空港まで迎えに来てくれた友人に申し訳なかった。
その友人、連珮如は妻の理咲が10年前に取材してからつきあいが続いている素晴らしい中国琵琶奏者だ。台湾だけでなく、中国でも名人に学んだ、古いスタイルの琵琶も弾ける才媛で、台湾では伝統音楽の金曲奨も受賞している。ぼくが東京音楽大学で講師をつとめていたとき、ゲスト講師として呼んで、西荻窪にあった「音や金時」でウードの常味裕司とセッションしてもらったこともあった。
しかし台湾でも古典の琵琶で生計を立てるのは難しいらしく、近年は別の資格をとって、音楽イヴェントなどをプロデュースしながら演奏も続けている。フェイスブックを見たら、9月の台湾大学の入学式という大掛かりなイヴェントにディレクターとして関与していた。そしてすぐまた10月上旬には、Kポップのファン・ミーティングの仕事の打ち合わせで東京に来る予定だと言っていた。
そんなふうに忙しい身なのにたまたまその日だけ空いていたので、わざわざ会いに来てくれたのだ。
遅れを詫びて、旧交を温めあって彼女の車に乗り込み、松山空港から少し北に位置する北投温泉に向かう。しかしぼくが遅れたせいで、大通りはどこも帰宅ラッシュの大渋滞がはじまっており、車がなかなか進まない。9年前に来たときは、空港から20分もしないで北投に着いた気がするが、スマホの地図で見ると、まだ郊外には程遠いところを徐行運転している。
これではタクシーに乗っていても大変だったなと、ますます申し訳なく、身を縮めていたが、彼女は裏道を知っているから大丈夫と気にするふうでもない。妹が北投温泉に住んでいたから、その方面には詳しいんだという。
道は徐々に上り坂になり、だんだん裏道らしく細まってきて、そこもそれなりに車が混んでいたが、渋滞が続くというほどでもなく、40分も走ったころには温泉の硫黄の匂いがしてきた。たぶん北投温泉と同じ大屯山系の東側にある草山温泉郷のあたりを走っているのだろう。山裾をぐるりと遠回りしてくれたわけだ。
ようやくたどり着いた北投の美代温泉飯店は、8年前に投宿したときと同じように古びたたずまいで川の畔に建っていた。西洋風の窓やベランダを持つ建物は築50年ほど。北投温泉郷の中でも、最も風情ある建物のひとつで、受付の応対も、ロビーで伸びきって眠っている猫も、時の流れから取り残されたかのような落ち着きぶりが自分の鏡像を見るようだ。
部屋に荷物を置くと、連珮如は数百メートル坂下の北投温泉博物館までわれわれを乗せて行って下ろし、母親が故宮博物館の近くの家で待っているからと、さっそうと帰って行った。
台湾の略史と言語について
今回の旅の目的は、北投温泉博物館で行なわれている台湾月琴民謡祭の取材だった。閩南語(ビンナン語もしくはミンナン語、通称台湾語、台語)の歌のシンガー・ソングライターとして知られる陳明章が発案し、15回目を迎える今年の民謡祭は、ワークショップやミニ・コンサートも含めて、9月6日からさみだれ的に行なわれていた。26日から28日にかけてがフィナーレだ。
われわれが到着した26日の夕刻には、紅倫会の琉球舞踊と和三弦会の津軽三味線の演奏が温泉博物館の大広間で行なわれていた。両者とも月琴と直接の関係はないが、月琴祭の常連出演者だ。観客は、悠然とした琉球舞踊、情熱的な津軽三味線、どちらにも熱心に聞き入り、琉球舞踊のカチャーシーでは立って踊っていた。最後は陳明章の月琴と和三弦会の渋谷和生の三味線による即興のかけあいでお開きとなった。
温泉学会誌第27号『温泉地域研究』の坂井洋の論文「日本統治期台湾における北投・草山温泉の開発」によれば、北投温泉や草山温泉のあたりは、もともと原住民の居住区で、特に前者は硫黄の産地として知られ、17世紀にはすでに原住民とオランダ人との間で、硫黄の交易がはじまっていた。
北投は原住民ケタガランの言葉で巫女を意味する言葉及びその村の呼称パッタウから閩南語の発音でパッタウに近い北投の文字があてられた。それがいまは国語(北京語、華語など)発音のペイトウと読まれている(YouTubeの「心聲‧新生-北投温泉博物館再発見」などによる)。温泉博物館と中山路をへだてた斜め向かいにある原住民資料館、凱達格蘭文化館の名前は、ケタガランに由来する。この文化館の図書室に今回はじめて入ったが、植民地時代の日本人研究者による原住民調査の復刻など、膨大な資料が公開されており、時間を作ってあらためて研究に訪れてみたいところだ。
いま閩南語(台湾語)と国語(北京語)という書き方をしたが、話を進める前に、少し長くなるが、この説明をしておいたほうがいいだろう。台湾には、もともポリネシア系の原住民が民族ごとに異なる言葉で暮らしていたが、清朝の時代に、大陸の福建省南部から数多くの移民がやってきて、原住民と融和・対立をくりかえしながら、定住していった。その福建省南部出身者が話していたのが閩南語だ。
1895年に台湾を植民地にした日本の総督府は、学校で国語として日本語を強制した。しかし台湾の人々は日常的には主に閩南語で暮らしていた。
太平洋戦争で日本が破れると、中華民国が台湾を支配し、国共内戦に敗れた国民党政権と共に数百万人が新たに台湾にやってきた(外省人という)。国民党政権は、国語をそれまでの日本語からいわゆる中国語(北京語)に変えたが、以前から暮らしていた人たち(本省人という)は日常ではやはり閩南語を使い続けた。人口の上では閩南語話者のほうが多かったにもかかわらず、外省人と本省人の政治的・社会的対立・差別は言葉の位置づけにも及び、閩南語は明に暗に差別的に扱われてきた。
国民党政権の建前は、中国に反攻しての統一だった。しかし大陸との臨戦状態を理由に続いた戒厳令が87年に解かれ、その後、本省人の李登輝が国民党の党首として総統に就任したあたりから外省人と本省人の立場の組み換えが進んだ。台湾の人たちの間で台湾らしさや台湾人という認識が広まりはじめるのは、これ以降のことだ。
経済交流の進展と共に、反中共だったはずの国民党は親中国派になり、台湾の独自性を強調する人たちが独立を視野に入れて民進党に結集した。現在は民進党が政権を握っているが、台湾の独立を牽制するために、中国が海峡で挑発的な軍事演習を行っているのはごぞんじのとおりだ。
近年は、民進党政権が、閩南語の呼称を正式に台湾語に変えようとしていることも、習近平政権をいらだたせている。台湾語という呼称に関しては、原住民の側からも別の意見があるだろう。しかし現実には学校教育での国語(北京語)の徹底もあって、若い人たちの間では閩南語離れが進んでいるらしい。
戦後、台湾のポピュラー音楽では、閩南語の歌は時代遅れの演歌という印象が強かった。戒厳令解除後、ロック世代による台湾語の歌も登場したが(陳明章はその世代)、ポピュラー音楽の主流は一貫して国語(北京語)の歌だ。
北投温泉の概史
話を北投に戻す。
清朝時代には北投の奥地まで開発の手が伸びることはなかったが、95年に台湾を植民地にしてから総督府が支配を奥地にまで広げたため、しばらくはこの峡谷を拠点に、原住民や漢人による抵抗運動が続いた。
硫黄、イグサ、岩石、陶土などを産出する北投で最初に温泉利用をはじめたのは清朝時代に来たドイツ人で、1894年のことだった。日本支配がはじまった翌95年にはさっそく日本の民間業者による温泉宿が3軒営業を開始している。98年には台北陸軍衛戌病院北投分院が設置され、兵士の療養施設として温泉開発が進んだ。
坂井洋は、北投の旅館は「初めから遊興的性格を持っていた」と書いているが、「一旗揚げようとした独身者の男性が多く渡来」したことから、この「遊興」には飲食・歌舞音曲の他、「売春」が含まれていた。それは、1906年に「台湾婦人慈善会」の幹部らが「浴場改良会」を設立すると共に、もとからあった湯瀧とは別の公共浴場を建設し、「風紀的」改良をめざした事実からも伝わってくる。13年には温泉博物館の前身の公共浴場が完成したが、「遊興」がなくなったわけではない。23年の皇太子訪問を機に、北投は行楽地としての性格を打ち出す一方、28年に検番が設けられたことは、当局が夜の歓楽を追認するものだった。
前述の「心聲・新生-北投温泉博物館再発見」によれば、「特殊な職業」が法律によって禁止されたのはようやく1979年のことだ。禁止によって「温泉産業も深刻な打撃を受け、それと共に温泉街の名声も廃れていきました」とあるから、風俗産業の規模がいかに大きかったかが推測できるだろう。
70年代に日本人の海外旅行が急増したとき、男性ばかりの団体が、韓国、台湾、フィリピンに旅行に出かけて顰蹙を買う時期が続いた。売春が隠然とした目的だったからだ。
舞台は北投温泉ではないが、黄春明の『さよなら・再見』(73年刊行)は、台湾の田舎の温泉地に日本人客(『七人の侍』をもじった7名)を案内する台湾人青年の葛藤を描いた名作で、86年に映画化もされている。この作品でも、台湾の青年が最初に提案するのは実は北投温泉だ。そしてこの時点で青年は「一中国人として、私は中国現代史を身辺の現実問題として体験してきた」と考えており、先に言葉についてふれた「台湾人」という意識が希薄だったことがわかる。
月琴音楽祭が行なわれる北投温泉博物館は、前述の公共浴場を修復した英国様式の建築で、1階がレンガ作り、2階が木造。川沿いの崖に建っているので、表通りの中山路に面した入口が2階。階段を下りていくと1階。設立時には東南アジア最大級の室内温泉施設だった。修復された古い浴室などを見ることができるが、浴室は男性用の大と、女性用の小があり、混浴ではなかったようだ。高い天井や列柱は、古代ローマの浴室もかくやという感じで、窓に使われたステンドグラスが美しい光を投げかける。
コンサートなどが行なわれる2階の大広間は畳敷きの和室で、長押も作られ、植民地時代をしのばせる。温泉時代、入浴後の浴客はこの広間でくつろぎ、展望テラスから遠くの山や庭や側を流れる清流を眺めた。
台北の市街中心地から近く、風光明媚なことから、北投温泉は60年代や70年代には低予算の閩南語によるプログラム・ピクチャーのロケ地としてよく使われ、一帯は台湾のハリウッドと呼ばれたこともあったらしい。温泉博物館では、ゆかりのあるそれらの古い映画の上映会も行なわれている。第9回大阪アジアン映画祭などで上映された『おばあちゃんの夢中恋人』(13年製作)は北投で撮影されていた映画へのオマージュだ。
しかし台湾語の映画産業はテレビに押されて斜陽の一途をたどり、「特殊な職業」が禁止された影響もあって、80年代以降、北投温泉自体が低迷期を迎える。公共浴場は手入れが行なわれなくなり、学校の校舎、警察の派出所、映画会社倉庫などに次々に転用され、蔦がからまって荒れた状態が長らく続いていた。それが地元の小学生や市民の発案により、半官半民運営による温泉博物館に生まれ変わったのはようやく98年のことだ。日本の観光地でもそうだが、古い建物の風情を残して観光資源に作り替える作業は台湾各地でも広く行なわれており、これもその一つだった。
一方、草山温泉のほうは、総督府主導で、より健全な保養地をめざし、公園には日本の桜を移植するなど、滞在型・保養型の温泉としての開発が行なわれた。大屯山をはじめとするこのあたりの火山地帯は陽名山と総称されているが、それは国共内戦に敗れて台湾に逃れた蒋介石が、明国の学者・軍人だった王陽明をしのんでつけたからで、50年代からの新しい呼称。一帯には湯気の上がる岩山、カルデラ湖、亜熱帯雨林など多様な自然環境、台北の夜景を見下ろせるスポットなども点在しており、北投同様、観光客でにぎわっている。
空港から宿に向かっているときは、そんな来歴を知るよしもなかったが、それは台湾現代史をさかのぼる夜道でもあったわけだ。
陳明章と月琴民謡祭
月琴民謡祭は、前述のように陳明章が提唱してはじめた音楽祭だ。彼はもともとはアメリカの音楽の影響を受けてシンガー・ソングライターとして活動していた。90年に発表した『現場作品Ⅰ』(録音は89年)は、ギター弾き語りのライヴ・アルバムだが、そのギターを聞いていると、明らかにCS&Nを思わせるような変則チューニングの演奏が出てくる。
その彼が月琴に出会ったのは、陳達の演奏を聞いたのがきっかけだった。
06年、台湾南端の恒春生まれの陳達は、「国立伝統芸術中心」のサイトによれば、「1967年に音楽家の許常恵による民間歌曲採集運動を通して陳達(恒春民謡の歌い手)と恒春民謡が 見出されました。このほかにも台湾音楽の根幹となる歌曲が各地で発見されたのです。2006年の 陳達百歳の冥誕(死後の誕生日)に『失われた恒春半島の歌声─吟遊詩人陳達』と題して発売さ れた書籍(CD付き)は、台湾民族音楽史における重要な足跡の一つとなりました」とある。
陳達は月琴で身近な物語を弾き語りして人気があった人で、体験者によれば、同じ曲でも聞くたびに即興で物語がちがったそうだ。そのあたりは沖縄の民謡歌手、嘉手苅林昌に通じる存在なのかもしれない。陳明章は後に90年のソロ・アルバム『下午的一齣戲』に、台北のレストランで聞いた陳達の思い出に関する曲「紅目達仔」を収録している。
月琴は中国伝来の楽器で、丸い共鳴胴に短いネックを持ち、弦は2コース。単弦のことも複弦のこともある。主にリズムを刻むために使われるが、ハマリングやピックの扱い方でメロディックなリズムを刻むこともできる。
日本でも江戸末期から明治にかけて、明清楽の楽器として流行し、日本の俗曲の伴奏にも用いられたが、日清戦争を機に敵性楽器とされ、人気が衰えた。
陳達の演奏はネットで聞くことができる。「Remembering, Wu Kong Minor, Si Ji Chun, and Gu Bo Pua」というタイトルで公開されている演奏を聞くと、台湾語の歌が理解できなくても、月琴の緊張感のあるリズムやアクロバティックなピックさばきの巧みさに、ギター類をさわったことがある人なら、これが2弦の楽器の演奏かと、たちどころに圧倒されるだろう。もちろん歌も素晴らしい。
アメリカの音楽の影響を強く受けていた陳明章は、その陳達の歌と演奏を聞いて、音楽の台湾らしさとは何かと考えさせられた。それでギターのチューニングを工夫する一方、廃れかけていた月琴にさまざまな改良を加え、現在は6弦の月琴なども弾いている。
是枝裕和監督の映画『幻の光』の音楽を担当して陳明章が来日したとき、渋谷のシネカノンで監督たちと一緒にお茶を飲んだことがある。30年近く前のことだ。そのとき彼は月琴を手にしていたが、それは日本の古道具屋で買ったもので、台湾でもなかなか手に入らない、復興させたいと言っていた。そうなるように祈っていたら、彼が月琴教室をはじめたときの生徒は2、3人だったそう。ところがいまでは孫弟子も含めて千人ほどが月琴を手にしているというから、大変な復興ぶりだ。
08年に台湾で公開され、それまでの台湾映画の興行収入を塗り替えるヒットを記録した映画がある。『海角七号、君想う、国境の南』というタイトルで日本でも公開されたが、その舞台は恒春だ。日本の敗戦で別れ別れになった台湾人女性と日本人男性の恋の物語を縦軸に、ミュージシャンとして成功する夢をあきらめて帰郷して郵便配達夫になっていた青年が町起こしのコンサートに出演するバンドを組んで、あれやこれやの出来事が展開する映画だが、恒春のために編成される地元のバンドの編成には月琴奏者もしっかり組み入れられていた。月琴はそれくらい恒春に縁の深い楽器、そして台湾人なら誰もが知っている楽器として認識されているということだろう。
27日と28日は、夕方から北投温泉博物館の庭を使って「傳承、香火、世代情」台湾民謡新傳音楽会と題された大がかりな無料コンサートが行なわれた。両日とも伝統的な芸能から、オルタナティヴなロックを感じさせるバンドまで、さまざまな形で月琴を使うミュージシャンが10組以上入れ替わり立ち替わり演奏し、9時前後まで賑わった。
民謡や芝居の浄瑠璃のような弾き語りについては、ぼくに報告できる知識がないが、9年前より若手奏者が多かったのが印象的で、観客層も含めて、世代交代が着実に進んでいることがはっきりうかがえた。
陳明章は、自分のバンド福爾摩沙淡水走團だけでなく、おりにふれ出演者と共演する場面があり、大活躍。津軽三味線奏者の車谷建太が加わった走唱團については、以前紹介したことがあるのでくり返さないが、28日にも演奏した「撼山河」は走唱團の疾走感が津軽三味線のリズムによって加速される曲で、彼らの定番曲のひとつになっている。会場への到着が遅れて、陳明章の息子の陳言祐の演奏が聞けなかったのが悔やまれるが、彼はふだんからアヴァンギャルドなギターや月琴を演奏しているので、次世代の月琴の可能性を切り開いていってくれることだろう。
25年の金曲奨の最優秀原住民アルバム賞を受賞したパイワン人の戴曉君は、以前から月琴を弾き語りする曲もあったので、出場は自然なことだった。しかし途中、一部カラオケを使ったことには、音楽祭の性格からすると、賛否が分かれた。
ぼくには農村武装青年、裝咖人といったオルタナティヴなグループが、月琴をまじえたアンサンブルで出演していたのがおもしろかった。
農村武装青年といういかめしい名前のグループは、台湾中西部の彰化出身の阿達(本名江育達)と女性のチェロ奏者俐君を中心にしたグループで、環境問題や農村地帯の生活に根ざした台湾語の歌をうたってきた。アルバム『根 Kin』では月琴の弾き語りで陳達の「思想起」をレコーディングしたこともあり(歌詞は異なるかもしれない)、月琴を意識的に演奏してきたグループだ。
彼らには、子供のころ学校に連れて行ってくれた母親(祖母、叔母?)の台湾語訛りが恥ずかしかった自分が、いまかつての母親のような立場で子供に話しかけているという巡り合わせをうたって、言葉と文化の伝承に光を当てる「阿母的話」のような曲もある。これは若者の間で台湾語が話せる人が減ってきていることを意識して作った歌だろう。28日には、月琴、チェロ、エレクトリック・ベース、打楽器という編成の演奏にのせて、低音の渋い歌を聞かせた。
台湾南東部の国立東華大学の学生たちによって結成された裝咖人は伝統音楽の北管の要素を取り入れた台湾語のロックで知られるバンドだ。北管は、台湾光華雑誌によれば、「清の時代に移住してきた閩南人とともに台湾に伝わり(中略)、京劇、崑曲、西秦戯が台湾風に変化し、音楽と演劇を合わせた舞台芸術」となったもの。今も台湾の祭礼や冠婚葬祭で上演され、舞台では各社打楽器、二胡、ソナー(チャルメラ様の管楽器)などが派手に打ち鳴らされ、演奏される。
裝咖人の歌手の張嘉祥は小説家としても注目され、『夜官巡場』は小説とCDの両方で発表されているが、物語は、張嘉祥の故郷火燒庄(現・豐收村)を舞台に、伝説の神々や精霊がくりひろげる物語と現実が混在するマジック・リアリズム的な作品のようだ。北管風のソナーとシンバルの連打からはじまるアルバムは、朗読の部分も含めオーソドックスなルーツ・ロックという感じで、陳明章の「恋恋風塵」に影響を受けた作ったという「花巷」、2・28事件に言及した「林秀媚」のような歌も入っている。2・28事件は国民党に対して、47年に起こった反乱で、国民党はその後本省人に対して過酷な弾圧を行なった。
28日の裝咖人の演奏は月琴を交えた編成で、アルバムよりずっとゆったりした演奏だった。曲によって戴睿駿(Dai Dai)がファルセットで北管風の歌を加えた。上演曲の内容によるのだろう、途中僧侶が登場して念仏を唱える曲もあった。
ふだん生祥楽隊で客家語の歌を聞かせる林生祥は、28日には一人で出演し、裝咖人とも共演していた。彼の楽器は6弦の月琴ギターで、伝統的というよりロックの感覚をうまく生かした演奏だった。それもまた月琴の可能性を広げるものだろう。
民謡祭のリーダーとして
陳明章は28日に月琴民謡祭について、こんな話をしてくれた。
「52歳で体を壊したとき、自分ができることを若い人たちに教えたいと思って、月琴教室をはじめた。2年くらい教えたら、学生も上達してきた。発表できる舞台があるともっと成長するだろう。それで民謡祭をやろうと思った。台湾で月琴は廃れていく楽器と思われていたので、それで認知度も上げられるだろうと」
彼は北投の生まれで、いまも住んでいるから、近くでやりたいというのもあった。
「温泉博物館は歴史の長い美しい建物で、庭もあってイヴェントをやるのに適している。博物館も協力的だ。音楽祭そのもののテーマは変らないが、毎年画家にちがうテーマのビジュアルを作ってもらって雰囲気を変えている。豪華な出演者にも出てもらっているが、みんなお金じゃなくて、出演できることを光栄に思ってくれていることがうれしい。中秋節に近いときに開催しているのは、満月も丸いし、月琴も丸いからね」
民謡祭の将来についても夢は膨らんでいる。
「まだ15回目で若いお祭り。これからも発展していってほしい。祭りの運営は弟子たちがボランティアでやっているので、彼らがいつまでやってくれるかにもかかっている。最初のころの弟子はもう50歳代になってきたけど、ごらんのように最近は若いメンバーも増えてきた。今年はこれまでになく若い観客も多かった。最初の頃に出演してくれた先生たちが、亡くなる前に若い人たちにいろんなことを伝えてくれて、バトンタッチしてくれたのもこの民謡祭をやってよかったことのひとつだ。いつの日か自分の劇場や舞台を作ってそこでやれればいいなという夢も持っている」
シンガー・ソングライターだった彼が台湾の音楽界で最初に注目されたのは、ホウ・シャオシェン監督の87年の名作『恋恋風塵』の音楽を担当して、ナント国際映画祭で音楽賞を受賞したことによってだった。アルバムも出していないほとんど無名の彼の音楽を、監督と共通の友人が推薦してくれたことで、音楽担当が実現したのがすごい出会いだ。
89年には黒名単工作室の『抓狂歌』に参加。87年の戒厳令解除後の台湾社会を象徴するかのようなこのミクスチャー・アルバムで彼は閩南語の歌やラップを担当した。国民党政府を批判する曲もあったので、戒厳令が続いていたら出せなかったアルバムだが、『恋恋風塵』の成功もあったので、大丈夫だろうと思ったと陳明章は語っていた。このアルバムは台湾のポップ・ミュージック新時代の幕開けを告げた作品として評価が高く、黒名単工作室は発表から40年後の19年に金曲奨で特別貢献賞を受賞している。
彼が90年12月に発表した初のソロ・アルバム『下午的一齣戲』は、黒名単工作室のメンバーで、後にBabooというグループを結成し、プロデューサーとしても成功する林暐哲と、Babooを経ていまは映画音楽で活躍している李欣芸の二人がプロデュースした。
そのアルバムには素晴らしい曲がいくつも入っているが、月琴音楽祭がらみで聞いておきたいのは名曲「再會吧!北投」(さよなら、北投)だ。
時は79年。「特殊な職業」が禁止されて1年という前書きが歌詞カードにあり、40歳のホステスと24歳の男性客が酒を飲む場面でうたわれる歌という設定だ。CDでは陳明章ではなく、藩麗麗が美しい声でうたっている。
冷たい雨の降る春の夜、寂れかけた温泉街で、結婚して町を出る女性を別の女性が祝っている。ぼくの言葉の能力では解釈が正確ではないかもしれないが、客の相手をしなければならない語り手(年増の女性)と、町から出て行く女性を対照的に描いてあるのだろう。彼女は花嫁を祝って別れの紹興酒を飲みましょうと誘う。
あなたは冷たい畳の上で眠ることはない、身の上を明かすことはない、というくだりが訳ありだ。3分しか酔えない結婚式という表現もせつない。町に残る年増の女性は、寂れた北投を象徴しているのだろう。途中、男の声が、日本人客たちがやって来たよ、彼らは内縁の妻と楽しい夜を過ごすよ、という語りを入れるが、それは主人公たちに関係があるのだろうか、それとも彼女たちに聞こえる町の情景描写なのか。いろんな解釈が頭の中で渦巻く。藩麗麗によるこの曲のカラオケのようなクリップがYouTubeにあり、北投の光景も少し出てくる。そのうら寂れた映像もこの歌にぴったりだ。
「再會吧!北投」は陳明章にとっては流しが盛んだった子供のころの記憶につながる思い入れ深い曲なのだろう。ホウ・シャオシェンの映画の脚本や自分でメガホンを取った映画『父桑』などでおなじみの呉念真が作・演出し、陳明章が音楽を担当した閩南語の音楽劇『再會吧!北投』は何度も上演され、スタジオとライヴの両方でアルバムも出ている。
陳明章によると、陽名山に米軍基地があって、北投温泉まで遊びに来る兵隊が多く、斜陽と言われた時期もそれなりに賑わっていたらしい。室内で三味線や台湾の伝統楽器を弾く芸妓だけでなく、街でギターやアコーディオンを弾き語りする流しの歌手がたくさん活動するようになったのもその時期だ (台湾では流しは「ナカシ」と呼ばれている)。彼も「骨まで愛して」の閩南語ヴァージョンをうたっていた時期がある。
陳明章が作詞作曲した「流浪到淡水」は、そんな流しへのオマージュ。この歌は97年に、盲目の流しの歌手コンビ、金門王と李炳輝がうたい、キリンビールのCMに使われて大ヒットした。縁があってもなくてもみんな友だち、焼酎で乾杯しようとうたわれるこの歌は、いまでは閩南語歌謡としてばかりでなく、台湾の歌謡曲のスタンダードだ。
金門王は亡くなってしまったが、李炳輝は75歳のいまも現役で流しを続けており、27日には月琴民謡祭に登場。衰えた声を陳明章に助けられながらこの歌をうたった。「正統的」な伝統音楽だけでなく、そんな光景を目撃できるのも、映画音楽から民主化運動の応援歌まで間口の広い活動を続けてきた陳明章が主宰する月琴民謡祭ならでは。
陳明章の多岐にわたる活躍ぶりは、ここでは紹介しきれないので、興味を持たれた方は彼を追った林正盛監督による記録映画『撼山河 撼向世界』を探してごらんになるようにおすすめしたい。
Mulatu Astatke / Mulatu Plays Mulatu (2025)
(Strut 482CD)
エチオ・ジャズの創始者で、いまなお精力的に活動を続けるムラトゥ・アスタトゥケが12年ぶりにスタジオ録音の新作を発表。唯一無二な彼の作品をロンドンとアディスアベバのミュージシャンによって現代的な演奏で再演したもの。プロデュースはUCLAで教鞭をとるデクスター・ストーリー。もともとこの地域の音楽に興味を持って学術的な研究をしながら、アルバムも発表していた人だ。このアルバムではエチオピア独特の5音階の演歌的メロディが、クール・ジャズからスピリチュアル・ジャズにいたる和音、アンビエントな響き、ラテン的なリズムなどをまじえて展開され、マシンコやクラールといった伝統楽器の土煙のような音が緻密にからむ。深く沈むような感覚と浮遊感が共存する音楽。
連載
第2回
カメ、フィル・スペクターを語りおろす
亀渕昭信
76年のウォール・オブ・サウンド推論
「僕の書いたライナーノーツ」、2回目にしてもう変化球を投げちゃった。今回はライナーノーツではなく、1976年(昭和51年)12月の創刊号及び1977年1月の第2号と、2回に分けて掲載された「スペクターさんちのフィル君 このごろなんだかヘンよ…」という、カメ、語りおろしの原稿であります。
実は「『エリス』、次回はどうしよう。もうダメか…」と悩んでいると、前回に続いて、またまた健太編集長から、「♪昔々カメさんが 語り下ろしたエッセイに フィル・スペクターのこと 書いたでしょ 面白かったの覚えてる…♪」と助け船。
ありがたや…フィル・スペクターのこと、あっちこっちで書いたことあるから。でも、僕自身が読んで面白かったのは、木崎義二編集長『POP-SICLE』(ポプシクル)の創刊号で、木崎さんとお喋りしたヤツ。それを早速、本棚から引っ張り出して読んでみた。
面白かった。面白かったが、いま読んでみると、やたら間違いが目に付いた。そりゃそうだ、半世紀近く昔のものだもんね。Philles(フィレス)レーベルが、「フィルス」になっていたり、Doréレーベルを「ドア」と言っていたり…。Doréというのは、レーベルの共同経営者ルー・ベデルの息子の名前からとられたなんてことを知ったのは、まだまだ先のことでした。そんな、のちになって知ったことは、当然ながら、なにも反映されていない。
みっともないし、恥ずかしいし、「こんなものじゃまずいでしょ?」。またまた編集長にお伺いを立てたら、「読み方などは〝註〟をつけて、訂正すれば良い。それよりも、当時の音楽事情を理解するためにも、なるべくオリジナルの形で掲載しよう」と言ってくれ、もっとありがたかったのは、ささっと、雑誌のPDF原稿をワードに変換してくれちゃった。
そういえば、テディ・ベアーズの大ヒット「To Know Him Is To Love Him」も、持ち込まれたデモ・テープのバックにストリングを加えようというプランがあったという。でも、「いや、オリジナルでいこう」と決めたのが、doréレーベルの共同経営者であったルー・ベデルだったというエピソードもありました。
で、なにが書かれているかというと、「フィル・スペクターはアレンジャーやエンジニアそれに優秀なスタジオ・ミュージシャンの力があったからこそ、あの「音(The Wall Of Sound)」を作ることが出来た。一番の功労者は、アレンジャーのジャック・ニッチェではないだろうか。彼が編曲を担当した「Philles #106 / He's A rebel」が、Wall Of Soundの始まりである」という、当時としては、なかなか大胆な推論。
全体、誤りの多い、へったくそな文章であるけれど、とりあえず、お品は保たれているようなので、ホッとした。城山三郎先生の名フレーズ「粗にして野だが卑ではない」みたいな感じ…って、カメ、それはホメ過ぎ、自画自賛、みっともないでしょ!
木崎義二さんのこと
そうそう、大事なことを書いておきます。『POP-SICLE』の編集長、木崎義二さんのこと。
木崎さんは僕がラジオ・音楽業界に入るきっかけを作ってくれた恩人の一人、ハタチの頃からのおつきあいだ。1960年代前後、木崎さんは、音楽雑誌やレコード・ライナーノーツに洋楽関連の記事や情報を提供する音楽ライターをやっていらした。特にアメリカン・ポップス音楽に関するトレンドに詳しく、僕は、レコード屋さん関連の知人を通じてお知り合いになることが出来た。
1960年代はじめ、木崎さん、ラジオ関東(現ラジオ日本)で、音楽番組のDJをやってたし、テレビでもフジテレビの午後帯に編成されていた──これが当時では珍しい洋楽MTVをメインで紹介する番組。大橋巨泉総合司会で、スタジオ参加の視聴者が新しいダンス・ステップを踊ったりと 〝Dick Clark's Amerikan Bandstand〟をリスペクトした、あるいはパクった、でも…ユニークなテレビ番組「ビートポップス」のレギュラーメンバーでもあった。
ちなみに、この番組で巨泉さんが放った駄洒落「牛も知ってるカウシルズ」(ザ・カウシルズ、1967年の大ヒット「雨に消えた初恋」由来)は、日本洋楽史に残るギャグとなりました。
同時期、木崎さんはラジオ関西でもDJをやっていて、当時大阪の若者たちの一部に大受けしていたアングラ・ソングを、オープンリール・テープに録音して、僕が制作を担当していた「オールナイトニッポン」に届けてくれた。
この音源、ほかの局にはなく、しばらくの間は「オールナイトニッポン」独占のよう形になり、おかげさま、番組の知名度、グングン上がったもんでした。その曲こそ、ご存知、「帰って来たヨッパライ」、ザ・フォーク・クルセダーズであります。
そして木崎さんは、音楽雑誌を2つも創刊した編集者でもありました。最初は1965年に発刊された『ティーンビート』。タイトル通り、エルヴィス・プレスリーから、ビートルズをはじめとするイギリスのビート・グループまで、ポップスならなんでもござれ。けっこう筋が通った男っぽい音楽雑誌だったが、若い女性に圧倒的に支持されたライバル誌の『ミュージック・ライフ』に敵わず、数年後、残念ながら廃刊となった。『ティーンビート』は通好みの少年音楽ファンたち、本誌の編集を担当してくださっている宇田さんは、『ミュージック・ライフ』より『ティーンビート』がお好き。『ティーンビート』はビルボード誌のチャート、『ミュージッ・ライフ』はキャッシュ・ボックスのチャートが載っていたなんてことを覚えているんです。
さて出版業界、単行本は勿論だが、雑誌を定期的に発行しようとすると、いつだって資金繰りは大変だ。まして、ネットなどない時代、書店と出版社をつなぐ、いわゆる出版取り次ぎ会社の世話にならないと全国の本屋さんに配本出来ない時代は、新規の出版社にとっては想像を絶する難行苦行だっただろう。庶民文化の根源をなすカルチャー、映画、レコード、そして「雑誌・書籍」。インターネットの進歩により、その縛りはゆるくなったとはいえ、いまだってフィジカルな商品の発売は、金銭的なことを含め、大変に労力のいる仕事だ。
しかし木崎さんは、再び、挑戦した。1976年、今度は取り次ぎを通さず、自らが書店に直販するという形で、『POP-SICLE』を創刊した。毎号、いつもスレスレギリギリ、でも負けなかった。だが健康には勝てなかった。
結果、発行は1983年まで続いたが、身体を壊し、やむなく休刊せざるをえなくなった。木崎さん、本当に身体の芯からポップスがお好きな方なのだ。熱心な洋楽ポップス・ファンにとっては伝説の雑誌となっている『ティーンビート』に『POP-SICLE』。その編集長、木崎義二さん、正に「洋楽ポップスの伝道者」といっても過言ではないだろう。
ということで、1976年、『POP-SICLE』12月号(創刊号)に掲載された「スペクターさんちのフィル君、このごろなんだかヘンよ…」という、カメ、語りおろしの原稿…というか、木崎さんがカメの自宅に来てくださって、対談したものを木崎さんが書き起こしてくれたもので、ヘタな喋りですいません。腹を立てず、どうかゆったりした気分で最後までお読みくだされ!
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スペクターさんちのフィル君 このごろなんだかヘンよ…(上) 亀渕昭信
「POP-SICLE」創刊号(1976年12月)より
過去15年以上にわたって、ぼくらヒット・ソング・ファンの〝神様〟であった天オフィル・スペクターに、最近ちょっとした異変が起きている。ワーナー・スペクターを設立したあたりから、突然姿を消してしまったのだ。少しずつは活動しているようだが、どうも、昔ほどの元気がない。天才フィル君どうしたの? 狂気のプロデューサー、スペクター先生も、ここに至って力尽きたのだろうか?
そのへんの疑問や、栄光への道程と前壊の軌跡を、フィル同様、天才か狂気かのカメカメにしゃべってもらった。しかも、亀渕宅で家庭料理をごちそうになりながら、というオマケつき。しめしめ、次号もこのテでいこう。可愛い奥さん、ごちそうさま! (文責 木崎)
スペクターとの出会い
フィル・スペクターに関しては、山ほど話があるんだけど、話の順序として、彼との出会いからいこうか。ぼくがはじめてフィル・スペクターを知ったのは、ビルボードでね、新人紹介のところでテディ・ベアズ(註1)が出ていたんだ。そのなかにフィルがいたんだねェ、なぜか。それからしばらくしてインぺリアルのきたないLP(註2)が出て、うむ、これか、という感じだった。「To Know Him Is To Love Him」は確かキングで発売されたけど、まず新鮮だな、と思ったね。
メロディもよかったけど歌詞も覚えやすかった。ついでに言えば英語の勉強もできた。ヒット・ソングのなかでは、とくに新鮮な曲だったなあ。
フィルはドア・レーベル(註3)からインベリアルに移って、その後、フィル・ハーヴェイやスペクターズ・スリーなどもやっていたけど、どっちかというと日本では知られなかったし、ぼくはそれからしばらくたって、今度はプロデューサーとして知ったわけだ。それからいろいろバイオグラフィみたいなものを調べてみると、歌手、プロデューサ一以外に、作曲もするんだな、と見直したね。たとえばレイバー&ストーラー(註4)の共作に彼の名前がクレジットされていたりしていて、フムフム、こんなに古い人なのかと思ったりして……。
レイ・ピータースンの「Corrina, Corrina」もオヤっという曲だったが、ぼくが一番驚いたのはカーティス・リーだったね。あの「Pretty Little Angel Eyes」を聴いた時に、ああ、いい曲だな、プロの創ったヒット曲だな、と思った。フィルのなかでは一番印象に残っているレコードだよ。もっとも、作曲はトミー・ボイスとカーティス・リー自身の共作だったけど。それから、パリス・シスターズが好きでねェ。「I Love How You Love Me」ね、モコ・オリーブ・ビーバー(註5)っていうくらいで…。
フィルの音はだんだん変わってきたね、シャレてきた。もうこの頃にはフィルズ・サウンドを創るきっかけみたいなものができていて、ワインで言えば、醸造と言うか、発酵している時だったと思うんだ。この時代がだいたい1959年、60年、61年頃で、彼は既にヒッチャキになってレコードを創っていた。売れるレコードもあったけれど、売れないレコードもずいぶんあった。彼の場合は売れないレコードの方が多かったね。作曲家と言っても、彼はサイドの方で「Spanish Harlem」(注:beべン・E・キングの出世作)にしてもジェリー・レイバー(註6)が中心で、フィルは目立たなかった。
でも、この頃からぼくはフィル・スペクターに非常に興味を持つようになったね。コニー・フランシスの「Second-Hand Love」なんかも、意外にいい曲でね。昔からあったポール・アンカ調の曲で、当時としては面期的なヒット・ソングだった。ハンク・ハンターとフィルの合作だったかな。テリー・デイ(ご存知、テリー・メルチャーの前身)の「Be A Soldier」、これは最悪だったけど、とにかく、この時代の音が完成されて、フィルズ・サウンドができあがったんだよ。
ここで大事なのは、この頃の友達と言うか、音楽仲間がフィルと一緒に育っていって、のちのちまでフィルのバック・アップをしたということだね。これは見逃せない事実だと思う。
たとえばテリー・デイにしても、後年、フィルに力を貸しているし、亡くなってしまったボビー・ダーリンもそうだろうし、レイバー&ストーラー(註7)も、スナッフィ・ギャレット(註8)、レオン・ラッセルなども、なんらかの形でフィルズ・サウンドのよき協力者となったわけだ。
【註】
1 テディ・ベアズ:日本では概ね、テディ・ベアーズ(The Teddy Bears)と表記される。
2 きたないLP:とても安っぽいジャケット・デザインだったので、こう言ったのかも。
3 ドア・レーベル:Doré Records. 本来はドリーと読む。
4 レイバー&ストーラー:Jerry Leiber & Mike Stoller。レイバーはリーバーと読む。高名なソングライター・コンビ(註6、7も同様)。
5 モコ・オリーブ・ビーバー:正確にはモコ・ビーバー・オリーブ。日本の女性ヴォーカル・トリオ。69年「I Love How You Love Me」のカヴァー、邦題「わすれたいのに」がヒットした。
8 スナッフィ・ギャレット:Snuff Garrett. 米西海岸を中心に活躍した大物プロデューサー。通常はスナッフと呼ばれ、スナッフィと表記されることはあまりない。
フィルズ時代到来
こうして、いよいよフィルズ時代が来たんだねェ。待望と言おうか。イヨ! 待ってました、と言おうか。フィルズがスタートしたのは、1961年だけど、彼はこのフィルズ(註9)で、プロデューサーとして、大きくクローズ・アップされるわけだ。
まず「There's No Other」(ザ・クリスタルズ)が紹介されて、でも、この曲はあまりいい曲ではなかったな。一瞬、ツマンナイ歌だな、と思った。ただ、当時、61年から62年にかけてはインディ・レーベルが流行った時代で、こまかいレーベルがボコボコ出てきて、RCA、コロムビア、聞いたことがない、という感じだったね。現在はディストリビューターがビシッと発達しているけど、その頃のアメリカのレコード業界はメチャクチャと言うか、群雄割拠と言うか、売れそうなマイナー・レーベルどんどんもってらっしゃい。人のレコードでも売れるんなら売っちゃうよ、という時代だった。だから、ディック・クラークの「アメリカン・バンドスタンド」で、1曲ガーンと曲がかかると、ガバーと人気が出て、さあ、そのレコードを頂戴、てな状態でガボーと配給網ができちゃった。たとえばスワンとか、カメオ・パークウェイ、チャレンジ、チャンセラーなど、ガバガバ出てきたもんね。そのなかのひとつがフィルズだったわけだ。
このレーベルは擢んでて将来有名になってくるレーベルだったんだけど、結局、当時は他のマイナーと同じだったんだ。で、ぼくがなんでフィルズだけにとくに興味を持ったかと言えば、フィルが社長だったからかな。もっとも、当時はレスター・シルなんかとまだ一緒にやっていて、その後フィルが株を買って全部自分のものにしたんだけど、一瞬ツウの好きそうな、面白いレーベルだなと思ったね。それからぼくとフィルズのつき合いがはじまった。いわゆるフィルズ・ファンになっていったんだ。
それからあと、レコードをどんどん聴き込んでいって、いろいろ話したいことはあるけれども、彼の一番のすばらしさは、よくウォール・オブ・サウンドって言うけど、そのサウンドを発明と言うか、発見と言うか、創造したところにあるんだね。その時点で彼のすばらしさは終ったんじゃないかな。これは極言すればの話だけど…。
それから、もうひとつの才能はアーティストを見つけだしたことだね。これは非常に大事なことだし、絶対忘れてはならない。今、フィル・スペクターは、と聞かれると、〝音の壁を創った人〟と言われるけど。タレント創りでも才能あった人だったよ。
でも、「Uptown」(注:フィルズ3枚目のシングルで、ザ・クリスタルズの歌)あたりでは、まだ完全にフィルズ・サウンドはできあがっていなかった。マラカスなどを使ったりして、フィル・スペクターらしいな、というところはあったけれど。「He Hit Me」(ザ・クリスタルズ3枚目のシングル)もちょっとタンマ、という感じだったし、やっぱりフィルズ#106の「He's A Rebel」(ザ・クリスタルズ)あたりから、来るな、という印象を持つようになったね。
ぼくはこの頃からフイルズ・サウンドが誕生したと思うんだ。「Uptown」でその気配を感じさせた彼は、「He's A Rebel」ではフッきれたようで、本当の音の壁になってきた。エコーをかける時も、あの有名なゴールドスター・スタジオのエンジニアのラリー・レヴィンのうしろに立っていて、このくらいのエコーかい、いや、もうちょい上げて、そこだ! てな具合で、できあがったのが結局、音の壁なんだよ。
じゃあ、なんで106番がフィルズにとって記念すべき盤かと言えば、ここからアレンジャーが変わっているんだ。つまり、この盤からジャック・ニッチェがアレンジしているんだね。106からA面は全部ジャックになっている。フィル自からのアレンジもあったけど、彼のはB面専門というスタイルで、どっちかっていうと、売れる曲じゃあなかったような気がするなあ。
ぼくは思うんだけど、先程も言ったように、エコーの音を、ここだ、ときめたり、もうメチャクチャだけど、ようしもう1回ダビングしてみよう、音を重ねちゃおう。それを決定したところに、フイル・スペクタ―の偉大さがあったんじゃないかな。そう、確かに彼は偉かった。だけど、106以降のA面アレンジをほとんどやったジャック・ニッチェも偉かった。もしかするとフィルよりもジャックの方がもっと偉かったかもしれないぜ。
結論めいて言えば、今あるフィル・スペクター神話というのは、フィルズの106でつくられた神話だと思うんだ。そこから延々と続いているのでチョット違うんじゃない、と言う気がしないでもないんだ。107の「Zip-A-Dee-Doo-Dah」(ボブ・B・ソックスとザ・ブルージーンズ)からは、ジャック・ニッチェの神話であるべきなんだよ。
【註】
9 フィルズ:Philles Records. フィル・スペクターとレスター・シルが設立したレコード・レーベル。2人の名を合わせたレーベル名なので「フィレス」と読むのが正しいが、今も米国人でさえ「フィルズ」と発音する人もいる。以下も「フィルズ」で通していますが、「フィレス」としてお読みください。
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スペクターさんちのフィル君 このごろなんだかヘンよ…(下) 亀渕昭信
「POP-SICLE」第2号(1977年1月)より
フィルズ・サウンド躍進の秘密
ジャック・ニッチェの代わりにフィル・スペクター神話は生まれたけど、ジャックくんは可哀そうだったねェ。アイツこそ恵まれない天才アレンジャーだよ。
まあ、それはともかく、普通優秀なプロデューサーっていうのは、例えば今人気のあるリチャード・ペリーとか、スティーヴ・バリっているよねェ。そういう人たちは、A&Rというか、自分が何をすべきか知っている。彼らが一番求めているのは、売れるレコードを作ること、ヒットするサウンドを作ることだと知っている。
リチャード・ペリーは、リンゴ・スター、ニルスンなど、アーティストは違っても、その人に合った音を見つけ、合ったアレンジャーを捜してきて、合った曲をあてがい、ヒット曲を作っている。もっとも、自分が作ったり、ニルスンが作る場合もあるけど…。
また。スティーヴ・バリにしても、グラス・ルーツの時にやっていた頃に比べると、最近のシェールとは違うよね。例えば、ション・セバスチャンの「ウェルカム・バック」などは、完全に違った音を作っている。合った音を見つけ、合ったアレンジャーを捜し、合った作曲家を捜して、いわゆるコーディネイターの役割を果たしているんだよ。やっぱり、これがプロデューサーだと思う。
ところが、フィル・スペクターは違ってた。彼のやりかたは、エコーはここ、アレンジャーはジャック・ニッチェ、お前しかいない。バックのタイコはハル・ブレインで決まり! キーボード、レオン・ラッセル、ドン・ランディ、ニノ・テンポ、お前たち来い! とワァーと集めて、ダーッ、ダン! とやって、このメンバーじゃなきゃやらない。そこにアーティストをぶち込んだ形なんだねェ。どんなアーティストをプロデュースしても、同じ形でしか録音しなかった。この辺にフィルの限界があった気がする。また、そう決めたところに彼の偉大さがあったとも言えるね。
ところが、フィルの崩壊もそこにあった。だから、ジャック・ニッチェも恵まれないところがあって、この人が作るサウンドは、どこへいってもフィルズ・サウンドになっちゃうわけだよ。可哀想そうにねェ。クレイジー・ホースの時はちょっと違っていたかな。この時はピアノ弾きに徹していたけど、最近のシェールの中で、スティーヴ・バリがプロデュースしたジャック・ニッチェの音は、またフィルズ・サウンドになっちゃってる。やっぱり、フィルズ・サウンドはジャック・ニッチェ・サウンドなんだよ。
もうひとつ、結論としては不明確すぎて、はっきり言えないけど、フィルズのレーベルのすごいところは、ヒット率100パーセントと言われるほどのレーベルであったことだろうね。本当は100パーセントではないかもしれないが、軌道に乗ってからは80パーセント以上だった。これは一重に寡作だったからだよ。つまり、リリース枚数が極端に少なかった。ということに要因していると思う。例えば、カメオ・パークウェイなどは、いい時は60~70パーセントのヒット率だったけれど、だんだん手を広げて、あれもこれもとやっているうちに、リリース枚数が1ヵ月に20枚にもなっちやって、ヒットは2枚しかない、ということになっちゃった。これでは1割だよね。
ところが、フィルズは最後まで、うちは1ヵ月に1枚、年間12枚のシングル、てな具合にガチっと決めちゃった。だから、そのうち8枚もヒットすれば大変なもんだった。パーセンテイジの確率が非常に高かったわけだ。
当時のヒット曲はほとんどそうだったかもしれないけど、ヒットした曲のイントロに限って言えば、フィルズは強烈な魅力を持っていたね。頭の10秒、20秒でキマった。これはビートルズやローリング・ストーンズにも言える。ヒット曲というのはイントロダクションが、とっても大事だと思うんだ。このイントロを考える人は、通常、アレンジャーなんだよ。そういう意味でも、ジャック・ニッチェの力ってのは大きかったんじゃないかなあ。
「ビー・マイ・ベイビー」も、中味なんか全然知らなくても、イントロのダンジャジャン、という音を聴けば、あっ! 「ビー・マイ・ベイビー」だ、とすぐわかっちゃう。ジャック・ニッチェはフィルズをやめて、外のアレンジをやってもイントロはすごく凝っているわけ。だから、フィルズの時代も「イントロはこう行きましょうか」「オー、それでいいよ」ってな具合にやってたと推測できるんだ。推測だから不明確だけど……。
フィルは商才があったが、ジャック・ニッチェは商才がなかった。その辺がしかないピアノ弾きになっちゃった原因じゃないかな。
結局、フィル・スペクターが全盛を誇っていたのはライチャス以前で、ライチャス・ブラザーズともめはじめた頃はもうヤバかった。
ロネッツの「ウォーキン・イン・ザ・レイン」の頃からは中ヒットになってしまったし、ライチャスが1964年に「ユーヴ・ロスト・ザット・ラヴィン・フィーリン」を出した時、裁判ざたになってしまった。「ソウル・アンド・インスピレーション」もヴァーヴでつくったくらいだった。
でも、1966年の「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」(アイク&ティナ・ターナー)はよかったなあ。このアレンジもシャック・ニッチェなんだ。だから、ぼくはジャックの才能が好きでねェ。この雑誌を読む人も賛同すると思うよ。
…かくして崩壊
というわけで、1965年、フィルズはビートルズとスライドして消えちゃった。つまり、音が古くなってしまった、固定化されちゃったんだね。
前にも言ったように一つの枠の中へアーティストを放り込んで行くわけだから、当然それに合わないアーティストも出てきたわけだ。彼はそこに気が付かなかった。結局、アーティストの才能をそれ以上延ばせず、裁判ざたあり、金の溜まりすぎあり、でいろいろあってフィルズの崩壊が当然のようにやってきた。
時期的にみても一番いい時に終ったような気がするよ。あれ以上やっていたらライチャスはドロドロ、ロネッツは落ち目、新グループはイギリス勢に押されて出てこない。65年とはそんな年だった。フィルズは1年間ぐらい休業すべきだったんだよ。65年のフィルズは、64年、63年に比べるとヒットの確率がガクンと落っこちていたもんね。
アメリカって国はヒット・ソングの本場だけど、それを研究するようなマニアは少ないんだ。つまり、極端にいえば、日本では五木ひろしや都はるみを研究するヤツなんていない。ましてやロビー和田(注:西城秀樹のディレクター)を研究するヤツなんていないよね。そうした歌謡曲界のプロデューサー/ディレクターまで研究する人は専門家であって、一般のファンはおよびではない。
ところか、イギリスって国は変なところでね。妙に熱心な人がいる国っていうか、その点は日本も似たところがあるけど。昔から貴族のジャズ・マニアがいて、てめえでシャズ・バンド呼んでコンサートを開いたり、ブルーズ・マニアがいてシコシコ研究したり、とにかく、そんな連中がウジャウジャいるんだ。そういう意味ではフィル・スペクターは魅力ある人間だった。今でもフィルズのレコード発売が一番多いのはイギリスなんだよ。で、イギリスでの人気がアメリカに逆輸入されて、フィル・スペクター神話が生まれたと言える。
例えば、フィルズが登場して、64年頃まで連続ヒットを飛ばしていた頃、アメリカの業界誌あたりは、
「フィルズ・レコードの社長は、ティーンの頃からテディ・ベアズ(註1参照)というグループで歌っていて、そのうちレコード制作に入り、ティーンエイジ・ミリオネアーになった」と彼を紹介した。これがイギリスに渡って、グチャグチャ研究するヤツが出てきて、それがアメリカに戻っていった。すると今度はウォール・オブ・サウンドをつくった男フィル・スペクターと神話化され、ますます大きくなって帰ってきた。その神話をもっと大きくしたのがビートルズだと思うんだ。
ビートルズとフィルの関係
ビートルズの連中もアマチュア時代からフィルの音が好きだった。ビートルズのオーディションのテーブなんか聴くと、エヴァリーのマネをしたりして、妙に一生懸命頑張ってるじゃない。そのなかでフィルズの音なんかもかなり意識したところがあるんだ。厚みのあるサウンドを出そうと必至になっていたのがよくわかるわけ。
たまたまロネッツなんかの公演でフィル・スペクターが一緒にイギリスへ行った時、ビートルズに出逢った。そして、1964年、ビートルズがはじめてアメリカ公演に行く時、フィルは同じ飛行機のファースト・クラスで乗り合わせ、酔っぱらって、ジョン・レノンなんかと意気投合している。それから正式のつきあい、というかインティメイトなつきあいがはじまったんだね。ところが、ビートルズは『レット・イット・ビー』あたりでスッタモンダやって、以後、メンバー個々にフィルとつきあうようになった。でも長続きはしなかった。
この問題点のひとつはフィルの性格にあったと思う。まあ、逢ったことがないから、想像、推測なんだけど、彼はものすごい躁鬱があるんじゃないかな。天才か狂気かの紙一重で、月水金が「ウツ」だったら、火木土は「ソウ」ってなぐあいで(ウチの旦那もそうだ、とカメの奥さんの声あり)。だから調子のいい時はものすごくよくって、悪い時は全然ダメ、大ジャンキー大会でひっくり返ってる。
『イージー・ライダー』ではチョイ役だったけれど、マリワナの密売人で出て来たでしょ。あの役なんて、ピッタンコだね。僕はあの映画を3回も見たけど、ホント、見るたびにピッタンコっていう感じだね。そんなわけで天才か狂気かになってしまう。まあ、今の彼はと言えば狂気の方だね。最近は姿まで見せなくなってしまったもん。
最初に言ったように、彼のウォール・オブ・サウンドをつくった#106までは、本当に天才だったと思うけど、それから先のフィル・スペクターの見るべき業績はないと思うんだ。
例えば『レット・イット・ビー』がフィル・スペクターの最高傑作かっていうと、そんなことは絶対ない。ビートルズ側から言えば、彼らにとって、フィルの参加はマイナスだったと思うね。ファンであり、大尊敬するフィル・スペクターにプロデュースしてもらった、まではよかったが、プラスどころか、それがポール・マッカートニーともめる原因の一つになってしまった。映画を見てもわかるように、もっとナマ音の方がいい、あまりいじくらない方か、かえっていい、その方がビートルズらしいってね。
ビートルズ・ファンのなかには、あの映画でもっとケンカする感じを出すべきだった、という人もいる。「レット・イット・ビー」にしろ、「ロング・アンド・ワインディング・ロード」にしろ、弦を使ってきれいにしちゃったあたりは、レコード・セールス面では役立ったけど、本当は、ビートルズの末期的で惨めな姿をもっとリアルに客に見せるべきだったと思う。それが本来のビートルズのやり方だったはずだよ。あの映画はケンカのシーンに終始すべきだった。「レット・イット・ビー」も、本当はポールがピアノだけで歌う、ポールのソロ・ナンバーであったはずなんだ。だから、あんなにきれいに仕上げなくてもよかったんだよ。あのようなフィル・スタイルのテクニックは、ビートルズにとって必要なかったんじゃないかな。別にここでフィルの味方をするわけでも、ビートルズの味方をするわけでもないけど、公平なジャッジをすれば、フィルがビートルズのプロデュースをしたのは、フィルもビートルズもうれしかったかもしれないけど、僕のようなファンにとっては“ウム?”っていう感じだった。
ビートルズと別れて…
ビートルズとフィルのつきあいはそれで終りを迎えてしまうわけだけど、フィルはその前の69年にチェックメイツ・リミテッドのプロデュースもしている。例の「ラヴ・イズ・オール・ウィ・ハフ・トゥ・ギウ」。これもまあまあの曲だったな。どうしてそうなったかといえば、ジャック・ニッチェがアレンジしていなかったから…とこればっかりじゃしょうがないけど。
ただ、その後もめぼしい仕事もやっているね。ジョン・レノンのプラスティック・オノ・バンドとか、ジョージ・ハリスンの「マイ・スウィート・ロード」など。それからずーっと来て、アルバムのなかの曲とか、いろいろプロデュースはしていた。でも、あまり成功はしなかった。
なかには「ブラック・パール」(ソニー・チャールズ&チェックメイツ・リミテッド)みたいにヒットした曲もあるけど、この曲などはフィルの腕だろうね。曲はよかったけど、大ヒットにはならなかったなあ。
じゃ、なんでジョン・レノンやショージ・ハリスンの歌がヒットしたかと言えば、ズバリ、ジョン、そして、ジョージのレコードだったからさ。彼らのレコードならどんな曲だってヒットしたもんね、当時は。ぼくがプロデュースしたとしてもヒットしていたと思うよ。
その外では奥さんだったロニー・スペクターの「トライ・サム・バイ・サム」にしても、ワーナー・スペクターをつくって(74年)からの、シェールやダーレン・ラヴなど、全部失敗に終っている。可哀そうに。つまり、いつまでも自分の箱のなかでやらせようとしたからだよ。その箱に入りきらなかった人が、ジョン・レノンであり、ジョージ・ハリスンだったんだ。そうすると、箱に入らなかった人たちはデッカイから、絶対ヒットしたけど、箱に入っちゃった人たちは小さすぎたから、大ヒットにつながらなかった。そういうところにフィル・スペクターの限界があったんじゃないかと思う。
彼を誰かほかの人にたとえたら、エジソンみたいなもんだね。つまり、エジソンが電球を発明したと言えばエジソンの名前は残るけれど、だからどうだってんだ、ということだね。エジソンは立派だ、エジソンがいなければ電球はなかった、でもゴクローさん、というわけなんだよ、今となっちゃあ。そりゃあ、教科書にはのっかる。そして彼が現在も輝ける人かと言うと、確かにその通り。この人がいなければ電球はなかったんだから。だからといって、今、エジソンがもてはやされるかと言えば、そうではない。今やエジソンは人気がないわけだ。つまり、過去の人なんだ。フィル・スペクターの今の状態も、このエジソンと同じなんだよ。
ただし、エジソンのつくった電球はいろんな形に利用されている。そのためにテレビも見られれば、テープ・レコーダーもできたように、フィルズ・サウンドも、なるほど、こういったレコードのつくり方、プロデュースのしかたがあるんだ、あるいはアレンジのしかた、ミュージシャンの使い方があるんだ、ということを教えてくれた、その点が重要だと思う。
スターづくりの名人、フィル
それから話は前後するけど、フィルはやっぱりスターづくりの名人だった。当時、バックでやっていたソニー・ボノにしてもシェールにしてもスターになったし、レオン・ラッセルも、ニノ・テンポも、バハ・マリンバ・バンドのジュリアス・ウェクターも、ハル・ブレインも、ラリー・ネクテルも、ジャック・ニッチェも当然そうだし、ズラッとスターになってしまった。
これは、フィル・スペクターがお前来い、と言って集めた人たちだからね。彼はやっぱり耳がよかったんだよ。
1958年から61年にかけて、ニューヨークのテイン・パン・アレーやロサンゼルスのスタジオでもまれているうちに、フィルはこのいい耳をつくったんだろうね。つまり、「ヒット・ソングとはこういうものだ」、という耳が彼にはあった。
レオン・ラッセルなんかはスーパースターになっちゃったもんねェ。みんな一流になった。バック・アップした人たちも立派だったけど、それを発見したフィルの功績も大きかった。
レコーディング・ミュージシャンも、それまではスタジオ・ミュージシャンを使っていたけど、フィルはアレンジからヴァイオリン、ギター、タイコに至るまで、全部自分で指名して、レコードをつくった。それを最初にやったのがフィルだった。彼はそういう点でも立派だった。
フィルのつくったそうしたサウンドはトゥモローズ・サウンドと言われたけれど、今ではイエスタデイズ・サウンドになっちゃっている。でも、今でも生きているような気がする。例えばリンゴの「フォトグラフ」もフィルのプロデュースではないし、リチャード・ペリーだったけど、ちゃんとフィルズの音になっていた。もっともアレンジはジャック・ニッチェだったなあ、そういえば。この曲なんかは完全にウォール・オブ・サウンドだったね。キイが半テンボずつ、ジャジャーンジャーン、なんて上がっていくところなんかも。でも逆に、フィルさんはこればっかりやっていたからいけなかったのかも知れないぜ。
親愛なるフィル・スペクター殿へ
さて、最後に現在のフィルについて言わせてもらえば、彼がはたして現代のサウンドをつくれるか、その辺が疑問だね。例えば、ビー・シーズみたいに「トゥ・ラヴ・サムバディ」なんて歌っていたのが、突然ソウルを歌い出すみたいには、フィルはコロコロ変わることなんてできないと思う。残念なことに。それがまた彼のすばらしいところでもある。
だから、これはちょっと形容がおかしいかもしれないけれど、マリリン・モンローにしてもジミ・ヘンドリックスにしても、そのほかジャニス・ジョプリン、ブライアン・ジョーンズ、ジム・モリスンなど、最盛期に死んだアーティストは、しあわせだと思う。ぼくらは一般人だから、いつ死んでもいいけど(いえ、イケマセン、とカメの奥さんは言いたそう)、タレントとか、そういった凄い人が落ちぶれていく姿って、一番よくないような気がする。
生きているんだったら最盛期でブツっと仕事をやめて、億万長者ののままで、あとは利子で食っている生活を送るべきだね。たまにゲストでテレビに出るとか、ニッコリ笑って、時々、大学のロックン・ロールの講義に出てくるとか、そういうふうになって欲しかったね。わが愛するフィル・スペクター先生は。
冗談でレコードをつくるのもケッコウだけど、ファンとしては冗談でつくるのではなく、真剣にレコードをつくってヒットさせて欲しい。つまりフィルのレコードというのは、ヒットするためにあった、という印象をぼくらは持っているわけなんだから。だから、彼がワーナー・スペクターを設立して、レコードがヒットしないと、ぼくらは淋しいんだよ。早い話が、ぼくのアイドルがヒットも出さずにヨボヨボになってくると、テメエもヨボヨボになっちゃったみたいで、悲しくなってきちゃうよ。尊敬したのが間違いだったんじゃないかと思っちゃう。これじゃ、いけない。アイドルはいつまでたってもアイドルでいてくれなくては困るわけだ。そう彼に言いたいね。
ボディガードつきのすばらしい家に住んで、印税で食っているのもいい、自分の生活を大事にしながら、なにをやってもかまわないけど、レコードをつくるんなら、絶対ヒットするというレコートができるまで、表に出ないで欲しい。
例えば、誰か違う名前でプロテュースして、大ヒットしたら、じつは俺だった、なんて言いながら姿を見せてもらいたいよ。それまでは、いつまでもぼくらは待っているから…。
Jack Nitzsche / Dance To The Hits Of The Beatles (1964)
ジャック・ニッチェ楽団 / ビートルズでサーフィンを踊ろう
(日本ビクター S-JET-7486=LP)
1964年春先、ビートルズ旋風が巻き起こった米音楽業界。それにあやかってひと儲けなんていう音盤がやたら発売された。これもそんな1枚。フランク・シナトラのプロデューサーとして名を上げた元人気歌手ジミー・ボーエン。彼はニッチェの初アルバム『Lonely Surfer』も制作したが、2人ともシングル・ヒットを生み出す手だれ。ビートルズのオケ物ならこのタイミングしかないと、いつものレッキング・クルーとジョニー・ヴァイダー弦楽団を招集、シングル感覚でアルバムを作ちゃった。ジャックにとってはこんな仕事、朝飯前。ビートルズ・ナンバーをパパッと編曲。ついでに自分流のFab4風な曲を2曲書き下ろす。これでいっチョ上がりの12曲。ラストの「Beatle Mania」なんて曲はもうそのまんま。大滝さんだってビックラ・ポンだ。ところが伏兵現る。ビートルズ・インスト物、ストリングスをより生かしたホリーリッジ・ストリングス盤が市場を席巻。ニッチェ盤、ほんとニッチになっちゃった。ちなみに日本盤のライナーノーツは木崎義二さん。それにしてもなんちゅう邦題や。
連載
NYミュージカル・シーンの音楽的動向
第39回
環大西洋的観点を内包した
“ヴードゥー・オペラ”
水口正裕
すでに〝旧聞〟になりつつありますが、現地時間6月9日にニューヨークで発表された2024/2025シーズンのトニー賞は、近年のブロードウェイの流れを象徴する結果となって印象的でした。まあ、1本も観ていないので内容については云々できないのですが、作品の由来と言うか軸足の置き所と言うか、それが特徴的で。
なにしろ、多くのカテゴリーで受賞したのが、近未来の韓国が舞台の元々は韓国で生まれた『メイビー・ハッピー・エンディング』(Maybe Happy Ending)と、キューバで往年の名ミュージシャンたちが一同に会してアルバムを作り上げるまでの姿を捉えた同名ドキュメンタリー映画の裏話とも言える『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(Buena Vista Social Club)の2作。両者共10部門で候補になり、前者が、ミュージカル作品賞、楽曲賞、脚本賞、演出賞、主演男優賞、装置デザイン賞の6部門で、後者が、編曲賞、振付賞、助演女優賞、音響デザイン賞の4部門に加えてノミネーションとは別枠で特別賞を受賞。〝オルタナティヴ〟とでも呼びたくなるミュージカル2本が、シーズンを総括する意味合いの強いトニー賞をほぼ独占した、という印象。
こうした、従来のブロードウェイ・ミュージカルとは一線を画す作品が複数トニー賞で支持を集めるという現象が最初に現れたのは、ジュリー・アンドリューズの主演女優賞辞退宣言が話題になった95/96シーズン。『レント』(Rent)と『ノイズ/ファンク』(Bring In 'Da Noise, Bring In 'Da Funk)が登場した時で、オフから〝突然〟現れた新鮮なスタッフとキャストによるその2作がミュージカルの主要部門で集中的に受賞しました(本誌38号で詳述)。時は巡って、あれから約30年。当時の〝オルタナティヴ〟もいつしか主流の一部になり、オフからの移行作がトニー賞を受賞するのは、すでに常態になっていると言ってもいい。ただ今回は、そうしたこととは少し状況が違っているようにも映ります。なにしろ前記の2作とも軸足が合衆国の外にあるし。逆に言うと、従来のアメリカン・ミュージカルはコロナ禍以降、調子を取り戻しきれていないようで。
語られる機会の少ない『マリー・クリスティーン』という充実作
ところで、20世紀最後のシーズン、1999/2000のトニー賞も95/96シーズンとは少し違ったニュアンスで、なかなかに〝オルタナティヴ〟感が強かった。
このシーズンの最大の話題作は『アイーダ』(Aida)。大ヒット『ライオン・キング』(The Lion King)に続くエルトン・ジョン作曲(作詞ティム・ライス)によるディズニーの、それも同社のヒット・アニメーションを原作としない意欲作でしたが、これがトニー賞でミュージカル作品賞の候補に入らなかった。その〝ほどほど〟な出来から言って、賞獲りについてはどっちに転んでもおかしくないと思ってはいましたが(とはいえ楽曲賞は獲るのですが)、同作を押し退けて作品賞の候補となった4作品を見ると、それまでとは違った方向に選考が振れている感があって、ある意味「なるほど」と思いました。
その4作をタイトルのアルファベット順に言うと…。
オフからオンに移った、既成録音楽曲による自称〝ダンス・プレイ〟の『コンタクト』(Contact)。やはりオフから来た、ストレート・プレイと見紛うような地味な印象の、しかも授賞式時点ではすでにクローズしていた『ジェイムズ・ジョイスのザ・デッド』(James Joyce's The Dead)。様々なタイプのスウィング・ミュージックを歌とダンスとバンド演奏で見せていく、趣味性の強いレヴュー『スウィング』(Swing)。1920年代に書かれた都会的な詩を原作にした退廃的雰囲気の『ワイルド・パーティ』(The Wild Party)。『スウィング』を除く3作には、元が非営利組織の製作という共通点もありました。
そして、この顔ぶれの中から最終的にミュージカル作品賞を獲るのが『コンタクト』。すなわち、オリジナル楽曲を持たないどころか、出演者による歌もなく、音楽が生演奏ですらない(そのため演奏家組合から抗議を受けた)作品だという、質的にはともかく、ジャンルの概念を持ち出すと物議を醸しかねない結果となるのであります(ちなみに、同作のサウンドトラック的アルバムがあり、その中の1曲に出演者ボイド・ゲインズの歌声が入っていますが、実際の舞台で流れていたディーン・マーティン版が権利関係で収録できなかったための臨時措置だと思われます)。
もう1つ、このシーズンの珍しい事例を付け加えておくと、候補の1作『ワイルド・パーティ』と同名の…と言うか、原作を同じくする別スタッフによる別のミュージカルがオフ・ブロードウェイにも同時期に登場。描かれているのは表向き華やかでありながら直後の破滅を匂わせる大恐慌前夜のニューヨークで、その設定が20世紀末の舞台化に相応しいという判断がたまたまシンクロしたのかどうか。両作とも見どころのある舞台だったので、それなりに楽しめはしたのですが、劇場の外に漂う落ち着かない雰囲気と通底するような内容の作品がダブルで登場したことに心がざわついた記憶もあります。
そう言えば、1999年から2000年に変わる時には「Y2K問題」別名「2000年問題」または「ミレニアム・バグ」というヤツが世界的に取り沙汰されました。古いコンピュータが誤動作を起こす可能性があると言われ、例えば、年を跨ぐ日の航空機での移動が敬遠されたりして。実際、2000年元旦に到着予定の(今や存在しない)ノースウェスト航空の東京→ニューヨーク直行便は乗客が少ないためキャンセルになり、乗り継ぎ便に振り替えられました。それでも観劇予定日の夕方にはマンハッタンに着いて夜公演に間に合ったので問題なかったのですが。
その2000年1月の渡米で再見したのが『マリー・クリスティーン』(Marie Christine)。リンカーン・センターのヴィヴィアン・ボーモント劇場に登場した新作ミュージカルで、前年11月に続いての観劇でした。「時を置いて2度観て、2度とも感動した。内容の深さと表現の見事さに。」とは当時の感想。これもまた〝オルタナティヴ〟な感触を持つ作品の1つでしたから、流れから言ってトニー賞ミュージカル作品賞の候補の一角に入ってもおかしくなかった。まあ、『コンタクト』もリンカーン・センター作品でしたから、重複を避けたのでしょう。限定公演で上演期間が短かったことも作品賞候補にならなかった一因かもしれません(プレヴュー開始1999年10月8日、正式オープン同年12月2日、クローズ翌2000年1月9日)。
そんなこともあって語られる機会も少ない『マリー・クリスティーン』が今回のメイン・テーマ。…と言いつつ本誌13号で語っていたりもするのですが(笑)、その時は同作の楽曲作者マイケル・ジョン・ラキウザについて書いた中で少し触れただけ。それも10年も前のこと。ここらで改めて語らせていただいてもバチは当たりますまい(古い言い回しで恐縮です)。
奴隷海岸→ハイチ→ニューオーリンズ
実は、前号の原稿を書き上げた時点で、次は『マリー・クリスティーン』を中心にしようと考えていたのですが、それを見透かしたようにアマゾンが推してきた本がある。この春に出た『ブラック・カルチャー』という岩波新書。おそらく同新書のシリーズ「アメリカ合衆国史」①~④を買った経歴からのセレクトだと思いますが、驚くべき慧眼(笑)。と言うのも、同書で詳述されている「ヴードゥー」が『マリー・クリスティーン』の肝になっているからです。著者は「フランス語圏文学・環大西洋文化研究者」である中村隆之。
サブタイトルに「大西洋を旅する声と音」とある『ブラック・カルチャー』。その狙いは、「環大西洋の観点を導入」して「アフリカ大陸、ヨーロッパ大陸、南北アメリカ大陸における関係性のなかで、ブラック・カルチャーを捉える」というところにある(「 」内は同書から引用)。で、ヴードゥーのことは、その第三章「アメリカスに渡ったアフリカの声と音」に書かれています。〝アメリカス〟というのは北米と中南米を合わせた(カリブ海を含む)アメリカ大陸全体を指す語です。
アフリカから奴隷としてアメリカスに強制的に連れて来られた人たちの宗教は、到着地を支配していた西欧からの侵略者たちが信奉する各種キリスト教の影響を受けていくわけですが、同書によれば、「アフリカから持ち込んだ」「精神文化を人々がそう簡単に手放すはず」もなく、「なかでもアフリカの文化的要素が強く残った」のが、西アフリカのベナン湾(ベニン湾)沿岸で「捕虜となり売買された」人たちの場合。彼らは「ハイチ、ニューオーリンズ、キューバ、ブラジルなどに多く連行され、キリスト教と習合しながらアフリカ的要素の強い信仰を発展させ」た、とのこと。で、その内の1つがハイチとニューオーリンズのヴードゥーである、と。ちなみに、ベナン湾(ベニン湾)沿岸はその歴史的事実から〝奴隷海岸〟と呼ばれます。
『マリー・クリスティーン』の主人公マリー・クリスティーンはニューオーリンズ生まれ。同じ名を持つその亡母はハイチ伝来のヴードゥーの巫女的存在。ぴたりとハマります。
設定だけでなく、ヴードゥーが音楽的にも物語的にも同作を特徴づけます。音楽の面ではトーキング・ドラム的パーカッションや女性たちのコール&レスポンスのコーラスとして、物語の上では母から娘に受け継がれる呪術として、舞台に現れてくる。
中で最初に目に着いたのが、舞台下手袖に組まれた高い足場の上で叩かれるパーカッションの印象的な使われ方。そこから即座にヴードゥーのトーキング・ドラムを連想したのは、直前に平岡正明の評論『黒い神』(毎日新聞社、1999年)を読んでいたせい。
東ドイツの小説家アンナ・ゼーガースの『ハイチの宴』にある「はるか遠くの山あいから聞こえてくるニグロの太鼓の鋭い連打」(初見昇訳)という描写について、平岡は「これはトーキング・ドラムだったと思っている」と書きます。続けて、「ハイチの黒人奴隷はダホメ王国から拉致されてきた。そこではダホメ社会の習俗、宗教が解体されぬままに生き残り、山岳地帯の森の中に逃げ込んだ逃亡奴隷たちはトーキング・ドラムの通信を解することができた」とし、太鼓の音をヴードゥー由来のトーキング・ドラムによる同胞への呼びかけだと推測します。そしてそれは、18世紀にイギリス軍の後押しを受けるハイチ王党派を倒し、ナポレオンの命を受けたフランス軍とも渡り合った黒人革命指導者トゥーサン・ルヴェルチュール(またはトゥサン・ルヴェチ)の反乱の呼びかけだ、とも。
この平岡説をそのまま受け入れて書いた観劇当時の『マリー・クリスティーン』の感想に次のような箇所があります(一部編集)。
〝反乱を呼びかける森の中からのドラム〟を連想させるパーカッションの演奏に導かれるように(霊的存在として)現れるマリー・クリスティーンの母は、おそらく、ハイチから連れてこられた奴隷だったに違いない。彼女はハイチで、「アフリカの大地からひき剥がされカリブ海および南米に移植された後の植民地の現実にあって呪殺宗教に転化したのだろう」(『黒い神』)ヴードゥーの秘法と、トゥーサン・ルヴェルチュールの反乱の記憶を先祖から受け継いだ。
そのヴードゥーの秘法と反乱の記憶をまるごと抱えてアメリカに生まれたのが、マリー・クリスティーンだった。西欧的価値観から独立した、生まれながらの異邦人として…。
マリー・クリスティーンの母が「ハイチから連れてこられた奴隷だった」というのは勇み足。マリー・クリスティーン自身がニューオーリンズの裕福な家に生まれていることからして、母親はハイチで自由の身になってから渡米したか、そのまた母がハイチで奴隷だった可能性が高い。
それはそれとして、その他の分析はどうか。ハイチの太鼓の連打からヴードゥー→黒人革命と連想した扇動的な平岡説に乗っかっての若気の到り的飛躍はないだろうか…と書いた当時から思わないでもなかったのですが、四半世紀を経ての最新研究『ブラック・カルチャー』を読んで、それほど違ってはいなかったようだと楽観的に納得。もっとも、同書内で著者も故平岡正明の名を「ブラック・ミュージック理解の先達」として挙げているぐらいですから、そもそも中村氏のヴードゥー考証は『黒い神』の平岡説を補強するためだった可能性もある。…とまで言うと我田引水が過ぎますでしょうか(笑)。
〝異邦人〟グラシエラ・ダニエルの「環大西洋の観点」
『マリー・クリスティーン』のストーリーはエウリピデス作のギリシア悲劇『メディア』の物語を自由に翻案したもの、とプログラムに書かれています(脚本も楽曲作者のマイケル・ジョン・ラキウザが執筆)。
異国からやって来た男に恋をした王女メディアは、苦難に陥っている彼を助けるために〝薬草術〟を駆使し、果ては自身の兄弟を殺すことまでするが、結婚の後、男が他の女のために自分を裏切ったと知るや、秘術を尽くして復讐に転じ、最後は男との間に生まれた2人の子も殺す。
大筋はほぼこのまま、舞台を19世紀末のニューオーリンズ、そしてシカゴに移し替えて描いたのが『マリー・クリスティーン』。メディアの〝薬草術〟がマリー・クリスティーンのヴードゥーの秘術になるわけです。
1894年。ニューオーリンズの郊外で若い娘マリー・クリスティーンはダンテ・キーズという白人の船乗りと出会う。女性として、アフリカの血を持つ者として、南部の因習に支配されている今の環境から抜け出したいと思っていた彼女は、巧みに声をかけてくるダンテに自分の人生を託そうと考える。しかし、父亡き後の家の実権を握る2人の兄は白人との結婚を許さない。苦労の末に確保した父の遺産を、なぜ再び白人に分け与えなければならないのだ、というのが彼らの主張(マリーの相続した遺産は兄が管理していた)。そんな兄の1人を殺してまでダンテと共にシカゴに出たマリー・クリスティーンは、5年後には2人の息子の母親になっている。ところが、政界への野心に燃えるダンテの心はすでに彼女の元にはない。白人の有力者の娘と結婚の約束をしているダンテから、幼い息子たちを引き渡すよう要求されるマリー・クリスティーン。頑なに拒んでいたが、ダンテの差し向けた強面の男たちが現れるに及んで、ついに子供たちを残して去っていくかに見えた。が…。
舞台となる19世紀末のアメリカ(合衆国)は、(先に触れた岩波文庫「アメリカ合衆国史」シリーズの②『南北戦争の時代』にある当該箇所を要約すると)権力を握る西欧からの移民とその子孫たちが、南北戦争の傷跡による(今日まで続く)分断の火種を抱えながらも、人種主義による安価な労働力を下支えにしつつ国内の産業を発展させ、同時に先住民の土地も収奪し尽くし、早くも新たな移民の選別を始めている時期。言い換えると、差別主義、一握りの資本家の台頭、政治の腐敗、経済格差の拡大、といったキーワードで表現される(その延長線上に今があると言われれば納得してしまう)時代です。そんな中、マリー・クリスティーンのたどるニューオーリンズからシカゴへという道筋は、南部の元奴隷たちが食い扶持を求めて北部の工業都市へ移っていくという、近代化の過程で起こる労働力の移動とシンクロします(20年後にルイ・アームストロングが同じ道をたどることも思い浮かんだりしますが)。
そうした時代にあって、自らの背景となるコミュニティをあらかじめ失っているマリー・クリスティーンの孤独な戦いは、男たちへの復讐という表向きの様相を超えて、個人の尊厳を取り戻すための反逆のように映ります。あるいは、多くの人々をないがしろにしながら近代化していく世界への呪詛、とか。それはマリー・クリスティーンの姿を借りた亡き母親の行為のようでもあり…。
そんな空気を音楽面で醸成しているのが、前述したように、1つはトーキング・ドラムを連想させるパーカッションであり、もう1つがヴードゥーの儀式を思わせる女性たちのコーラスです。コーラスはギリシア劇のコロスを模してもいます。神の時代の物語とアフリカ伝来の口頭伝承のダブル・イメージ。監獄で翌日の死刑を待つマリー・クリスティーンが周りの女囚たち(のコーラス)に促され、自身の行ないを回想して(歌として)語る、という全体の構成そのものがヴードゥーの儀式のようでもあります。
そうしたアフリカ的な響きをイメージの根底に置きつつ、ジャズはもちろんクラシカルな作風までの広がりを持つマイケル・ジョン・ラキウザの楽曲については、上演時ニューヨーク・タイムズが「正真正銘のオペラ」だと論評していたこともあり、ガーシュウィンの『ポーギーとベス』(Porgy And Bess)を〝フォーク・オペラ〟と呼ぶなら、こちらは〝ヴードゥー・オペラ〟だな、と思ったりしました。主演のオードラ・マクドナルドをはじめとする〝歌える〟キャストの充実ぶりは、質的にも量的にもオペラと呼ぶに相応しいものでしたし(あくまでスタイルの話で、オペラの方がミュージカルより上と言っているわけではありません)。
ここでラキウザと組んでいるのはグラシエラ・ダニエル。
前号で採り上げた『ラグタイム』(Ragtime)や、それ以前の『ワンス・オン・ディス・アイランド』(Once On This Island)でスティーヴン・フラハーティ(作曲)×リン・アーレンズ(作詞)のコンビと組んでいた演出家/振付家。そもそも、この作品はダニエルと照明デザインのジュールズ・フィッシャーがプロデュースしたワークショップから始まっています。
グラシエラ・ダニエルはアルゼンチン出身。母国での彼女の少女時代をモデルにして書かれた『アヌンシアの庭』(The Garden Of Anuncia)というミュージカルが2023年秋に、やはりラキウザ(作曲・作詞・脚本)とのコンビでリンカーン・センターのオフ劇場ミッツィ・E・ニューハウスで上演されましたが、内容は第二次世界大戦後のフアン・ペロンによる軍事政権下に暮らす三世代の女性たちの物語でした。遡って2006年、同じくミッツィ・E・ニューハウスで上演されたラキウザ&ダニエルによる『ベルナルダ・アルバ』(Bernarda Alba)が描いたのはフランコ独裁政権時代のスペインで抑圧されて生きる女性たち。どちらからも『マリー・クリスティーン』に通じるテーマが感じられます。そして、そこからは〝異邦人〟グラシエラ・ダニエルの(『ブラック・カルチャー』の中村論考に通じる)「環大西洋の観点」が浮かび上がってくるようです。
『マリー・クリスティーン』という四半世紀前の作品が今なお心に深く残るのは、そうした、作者たちの、〝世界〟に対する一貫した関心の抱き方やアプローチの仕方が魅力的であり、ある種の核心を突いているからなのだろうと考えます。
ぼんやりした予告とNYの2025年秋
ところで、ラキウザとダニエルが最初に組んだ1994年作品『ハロー・アゲイン』(Hello Again)もミッツィ・E・ニューハウスでの上演でした。その『ハロー・アゲイン』から『アヌンシアの庭』に到るラキウザ&ダニエルによる〝オルタナティヴ〟な作品群をプロデュースしてきたのが、芸術監督アンドレ・ビショップ時代のリンカーン・センター・シアターです。
70年代から80年代にかけて疲弊し低迷していたアメリカン・ミュージカル復活のきっかけを作ったのが1987年にブロードウェイに登場した改訂版『エニシング・ゴーズ』(Anything Goes)のヒットではないか、という推論を本誌36号に書きました。同作は、開店休業状態だったリンカーン・センターの演劇部門(現リンカーン・センター・シアター)が再始動するにあたり、それまでほとんど作ってこなかったミュージカルの制作に積極的に関わるようになった第1号作品でもあります。それが他の非営利演劇組織のミュージカル作りに好影響を及ぼした、というのが推論の中身。
その〝新路線〟をリンカーン・センターに敷いて軌道に乗せたのはシカゴのグッドマン劇場から引き抜かれた芸術監督グレゴリー・モッシャーですが、それを1992年から引き継いでさらなる成果を上げたのがアンドレ・ビショップ。オフ・ブロードウェイの非営利組織プレイライツ・ホライズンズの芸術監督だった人で、スティーヴン・ソンドハイムの『日曜日にジョージと公園で』(Sunday In The Park With George)の初期ヴァージョンを同組織が製作した1983年はビショップが芸術監督だつた時代(リンカーン・センター版『エニシング・ゴーズ』より前!)。
そのアンドレ・ビショップが今年(2025年)6月でリンカーン・センター・シアターの芸術監督を退きました。どうやらコロナ禍を乗り越えた後に訪れた時代の変わり目のようで、他の組織でも首脳陣の交代が相次いでいるらしい。この機会にニューヨークの非営利演劇組織の成果と今後の課題というお題で一席うかがいたいところですが、すでに今回の予定字数を超過。
なので最後は、グレゴリー・モッシャーの跡を継いだリンカーン・センターの新芸術監督リア・デベッソネの就任第1作『ラグタイム』リヴァイヴァルの感想を(はなはだ簡単ではございますが)語らせていただいて締めたいと思います。幸いにも、この原稿を書いている途中で久しぶりにニューヨークに行くことができたもので。冒頭で触れた『メイビー・ハッピー・エンディング』や『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』も観ました。音楽好きなら興味を持つであろう後者は、今回のテーマ「環大西洋の観点」を想起させる充実作で…って話はブログに書きましたので読んでみてください。
https://misoppa.wordpress.com/2025/09/29/the-chronicle-of-broadway-and-me1086buena-vista-social-club/
さて、ミュージカル『ラグタイム』ですが、脚本上の特徴は、20世紀初頭のアメリカ合衆国に生きる人々をざっくり3つのグループ(WASP系の先行移民/アフリカからの強制移民/ユダヤ系を中心とする降着移民)に分けたところにあります。そうやって合衆国内の対立と宥和のドラマをダイナミックに描こうとしている。
1998年の初演については、WASP一家の目線を軸に描かれているせいもあり、〝対立〟の先に〝宥和〟があるのがアメリカであるという〝楽観〟の気配を感じて違和感があった、というような意味のことを前号で書きました。
リンカーン・センターの新芸術監督リア・デベッソネが自ら演出した今回のリヴァイヴァルでは、登場する3つのグループに対する視線が、より俯瞰的で均等になったように感じます。そして、全体が芝居(虚構)であることが(さりげなく)強調されている。別の言い方をすると、舞台上で起こる過去の出来事が〝今のアメリカ〟にそのまま反映されていることをはっきりと意識してノスタルジー感なしに演出されている。ICEが跋扈する今の感覚で過去を現在と地続きで捉え直していると言ってもいい。結果、〝対立〟の溝の深さが実感を伴い、その深刻さを前に消え入りそうな〝宥和〟が、諦めてはならない微かな希望として観客と共有される。そんな空気が劇場にあったように(極東の〝異邦人〟も)感じました。まさに時代と共にある舞台。飛んで観てよかった。
連載内シリーズ私家版「平成ブロードウェイ物語」、第12話の幕をもって、20世紀が終了します。
Maybe Happy Ending: Original Broadway Cast Recording (2025)
(Ghostlight Records 791558461954)
本編で書いた2024/2025シーズンのトニー賞ミュージカル作品賞受賞作。韓国出身のヒュー・パク(発案・作詞・脚本)がアメリカ人ウィル・アロンソン(作曲・脚本)と共に書き、韓国のソウルで2016年に初演された。当初から韓国語版と英語版が作られいたというから、アメリカでの上演は想定に入っていたのだろう。近未来の物語でありながら楽曲は1940~1950年代ジャズ・ソング風味。前提として、主人公のアンドロイド(人型ロボット)のオーナー(人間)が古いアメリカのジャズ好きで、そのレコード・コレクションが主人公のもとに残されているという設定がある。音楽的な印象としては映画『La La Land』に近く、ただノスタルジックなだけではないという作品全体の空気感も似ている。画期的なミュージカルというわけではないが、混乱を極める状況下のアメリカ人の心を捉える何かがここにあるのだろう。
連載
第34回
バッド・バニーに続くカロルGの快進撃
岡本郁生
プエルトリコで全31回のコロシアム・コンサート
ラテン音楽界での今年最大の出来事は、先ごろ行われたバッド・バニーのプエルトリコ公演ということになるだろう。
本誌44号でも取り上げたバッド・バニーは、1994年プエルトリコ生まれの男性シンガー。10年ほど前からシングル・リリースを始め、2018年に『X 100pre(ポル・シエンプレ)』でアルバム・デビュー。レゲトン/ラテン・トラップの旗手として大いに注目を集めるようになった。20年に発表した3枚目のアルバム『ウルティモ・ツアー・デル・ムンド』で、全編スペイン語による作品であるにもかかわらず全米アルバム・チャート1位に輝き、その後も出すたびに1位を獲得。特に22年の『ウン・ベラノ・シン・ティ』ではなんと13週連続、そして今年初頭に発表された6枚目『デビ・ティラル・マス・フォトス』では4週連続チャート1位と、すでに全米(というか全世界)規模で、押しも押されもせぬスーパースターとなっているのである(日本ではほとんど話題にもなりませんが…)。
そのバッド・バニーが、7月半ばから9月半ばまで行なったのが、故郷プエルトリコでの全31回という大規模コンサート「ノ・メ・キエロ・イル・デ・アキ(俺はここを離れたくない)」である。この時期プエルトリコはハリケーン・シーズンであり、例年、観光客が減ってしまうそうだが、今年はこのコンサートが合計60万人超を動員し、4億ドル(約590億円)という経済効果をもたらしたと報じられている。会場は首都サンフアンにある〝エル・チョリ(El Choli)〟ことホセ・ミゲル・アグレロ・コロシアムで、キャパは1万9500人。ざっと計算して1日平均2万人…。連日パンパンの超満員だったことがわかる。最終の追加公演のみアマゾン・プライムで生中継されたが、3時間半の長丁場、プエルトリコの伝統を受け継ぎながら自らの現在の立ち位置もしっかりと示した素晴らしいコンサートで、最後にはサルサのスター、マーク・アンソニーも登場。バッド・バニーが現在のプエルトリコ音楽界(ひいてはラテン音楽界の)の最重要人物であり、このコンサートが歴史に残るものであることを印象づけた。
彼はこのあと世界ツアーを行う予定だが、米国本土での公演を行わないと述べたことが米メディアでは話題になっている。9月18日付朝日新聞によれば、「バッド・バニーさんは『米国では何度もパフォーマンスをしてきたし、どれも成功だった。米国に住んでいるラテン系の人たちとつながれることも楽しんできた』と語った。そのうえで『ただ、ICEが(公演会場の)外にいるかもしれないといった問題がある。我々が非常に心配していることだ』と話した。」とのこと。
そんな中で、来年2月に行われるNFLのスーパーボウルのハーフタイム・ショウのヘッドライナーをつとめることが発表されたのだが、実はそのあと、彼が出演することに対して右派からの反対の声が起こり、現在、各方面を巻き込んだ大騒動に発展しているのだ。この件に関しては、今後も注意深く見守っていきたいと思う。
ま、それはともかく。今回ご紹介するのはこのバッド・バニーとも共演経験のある、いまノリに乗っているコロンビアのスター、カロルG(ジー:Karol G)である。
カロルGという破格の才能
カロルGは、本名、カロリナ・ヒラルド・ナバロ(Carolina Giraldo Navarro)。1991年2月14日、南米コロンビアのメデジン生まれだ。
14歳のとき、「Xファクター」(イギリスのTVオーディション番組)のコロンビア版「エル・ファクターX」に出演。同時に、ジャスティン・ビーバーのようにネットで〝発見される〟ことを夢見て、アリシア・キーズやローリン・ヒルのカヴァーをYouTubeに投稿していたという。その結果、コロンビアのフラミンゴ・レコードとプエルトリコのダイアモンド・ミュージックと契約を結び、このときから〝カロルG〟と名乗るようになった(2006年5月16日のこと)。そしてすぐに、コロンビアの港町カルタヘナ(シャキーラの出身地としても知られる)で行われたプエルトリコのレゲトン・スター、ドン・オマールの前座をつとめ、直後のキンセアニェラ(ラテン・アメリカで一般的な、女性の15歳の誕生日を祝う儀式)のパーティでは、なんとJ・バルビンと共演しているということだから、当時すでに、いわゆるアイドル的な人気を獲得していたのだろう。
その後、何曲かをリリースしたあと、地元のアンティオキア大学に進学。音楽を専攻し、バック・コーラスをつとめながら自らの楽曲もリリース。この時期、マイアミでユニバーサル・レコードと接触するものの、「女性はレゲトンのジャンルでは成功できない」という理由から契約は拒否されている。
これを受けて、父親がマネージャーとなり、コロンビア国内で大学やクラブ、フェスなどに積極的に出演する方向に転換。これが知名度アップにつながって、2013年にはプエルトリコのレゲトン・スター、ニッキー・ジャムとのコラボ曲「アモール・デ・ドス」につながった。
しかし、南米ではなかなか思うようにキャリアが進まないため、心機一転、2014年にニューヨークへ移住。おばさんのもとで暮らしながら、(詳細は不明だがおそらく音楽以外の)仕事を始めた。どうしていいかわからず途方に暮れていた彼女は、あるとき地下鉄で通勤中に、音楽ビジネスのコースや資格取得の広告を目にしたという。これを何かの兆しと感じた彼女は、音楽ビジネスのクラスを受講することを決意。これがきっかけとなって、音楽への情熱が再燃し、14年に発表した「リコス・ベソス」がコロンビアでヒットを記録することになる。こうして16年には、今度はユニバーサル・ミュージック・ラティーノと契約。J・バルビン、マルマら同郷のスターたちをゲストに迎えた「+57」(コロンビアの国際電話の国番号から)がスマッシュ・ヒットとなった。
翌17年には、前述のとおり、バッド・バニーとのコラボ曲「アオラ・メ・ジャマ」を発表。ミュージック・ヴィデオはYouTubeで10億回以上再生され、全米ホット・ラテン・ソング・チャートで10位となる大ヒットを記録した。ちなみにこの曲はバッド・バニーにとってもキャリア最初期の作品であり、初めてのトップ10ヒットである。この曲がリード・シングルとなった彼女のデビュー・アルバム『アンストッパブル』はラテン・アルバム・チャートで初登場2位を獲得し、第19回ラテン・グラミーの〈新人賞〉を受賞。音楽サイト「Allmusic」では、「ラテン・トラップ・ムーブメントにおける女性アーティストによる最初の確固たる作品」と評され、ビルボード・ラテン・ミュージック・アワードの〈年間最優秀女性アーティスト〉にノミネートされることになった。
さらに、18年には、J・バルビンとニッキー・ジャムをフィーチャーした「ミ・カマ(リミックス)」がホット・ラテン・ソング・チャートで6位、プエルトリコのラッパー、アヌエルAAとのコラボ曲「クルパブレス」も同チャート8位とヒット。続く19年には、このころから付き合い始めたというアヌエルAA(21年に関係は解消)との「セクレト」をリリース、セカンド・アルバム『オーシャン』を発表すると、さらに、アヌエルAA、ダディ・ヤンキー、オスナ、J・バルビンとのコラボで「チナ」をリリース。シャギーの「イット・ワズント・ミー」をサンプリングしたこの曲はホット・ラテン・ソング・チャート初登場2位となり結果的に1位を獲得、次いでニッキー・ミナージとの「トゥサ」もヒットした。
こうなるともう勢いは止まらず、出す曲出す曲がヒット。20年、コロナ禍の中で発表したジョナス・ブラザーズとのコラボ曲「X」は彼らのドキュメンタリー映画のエンド・クレジットにも使われるヒットとなったが、この年に発表した「ビチョタ(Bichota)」が彼女にとっては非常に大きな意味を持つ楽曲となった。
「ビチョタ」は造語で、もともとプエルトリコで使われる「ビチョテ(bichote)」という言葉から来たもの。麻薬の売人、ギャングのボスなどを意味するが、カロルGはこれを拡大解釈して(?)女性に焦点を当てた肯定的な言葉に変容させ、「強い女性」「女性らしい力」「女性的なエネルギー」を意味する言葉として使っている。彼女自身の言葉によれば、「セクシーで、軽薄で、大胆で、強く、力強く感じられる瞬間であり、ある意味で個人的なモチベーションと自信につながる。私たちは皆、心の中ではスーパー・ビチョタなの。世界中の人々にも見てもらえるように信じて努力することが大切」ということで、これ以降、この言葉は彼女自身のニックネームとなり、さらに、自己のレーベルの名前にもなっている。
21年にはこの曲を含む3作目の『KG0516』(初めて契約を結んだ5月16日から取ったもの)を発表し、22年の4作目『マニャナ・セラ・ボニート』からは、コロンビアの先輩、シャキーラとの共演「TQG」が全米シングル・チャート7位。アルバム自体も、女性アーティストによるスペイン語アルバムとして史上初めて全米アルバム・チャート1位を獲得し、第25回ラテン・グラミー、第66回グラミー賞ともに、〈アーバン・ミュージック・アルバム賞〉を受賞した。
レゲトンに収まらない自由な視界
彼女の最大の特徴といえば、何といっても、その深みのある歌声だといえる。ものすごく特徴のある声というわけではないが、あっさりとしながらもグイっと胸を直撃するような声なのだ。そして、軽やかな色気があって、どこか妙にひっかかるような記憶を残す。ちなみに彼女の腕には、自分の顔のほか、リアーナとセレーナの顔のタトゥーが入っているそうだ。
さらにもうひとつの大きな特徴が、ミュージック・ヴィデオである。その肉感的な肢体を惜しげもなく晒すような作りのヴィデオが多く、日本人の感覚からするとかなり〝引いてしまう〟ようなものだと思うが、マチスモ(男性優位主義)の伝統が強いラテン社会においては、以前から見られたタイプのものである。しかし、2010年代に入り、#MeToo運動などの高まりにも連動して、ラテン社会でも意識がかなり変わってきた。そんな中で彼女のヴィデオは相変わらずそのようなテイストのものも多い。だが、これは、〝男の目線に媚びる〟ものではなく、前述の〝ビチョタ〟をキーワードに、〝女性らしさ〟や〝強さ〟をさらに強調するものであるように感じられる。この感覚が、女性たちの圧倒的な共感を呼んでいるのではないだろうか。
さて、24年には、ネットフリックスのミニ・シリーズ、コロンビアを代表する俳優ソフィア・ベルガラが麻薬カルテルの女ボスを演じた「グリセルダ」に出演したカロルG。今年6月にリリースしたのが5枚目となる最新アルバムの『トロピコケタ』である。
彼女自身が「私を表すものすべて」と表現するとおり、このアルバムは、おそらく彼女自身がこれまでに聞いて、触れて、吸収してきたすべてのものが収められたものになっている。一般的にはレゲトン/ラテン・トラップのアーティストとしてとらえられるが、特に最近の楽曲ではその枠にとらわれない幅広いレパートリーを聞かせているとおり、特定のジャンルには収まりきらない広がりを持つ、そんな彼女ならではの、あらゆる雑多な楽曲たちが詰め込まれているのだ。
まず1曲目からして、メキシコの歌姫タリアの「ピエル・モレナ」を聞いている…という設定でスタートするのだが、そこから、スロウなチャチャチャの「イボニー・ボニタ」、テクノ・メレンゲの「パパシト」、レゲトンの「ラティーナ・フォーレヴァ」、さらに「ケアレス・ウィスパー」のクンビア・カヴァー(笑)、ラテン・ポップ、バチャタ、ビートルズの「アンド・アイ・ラヴ・ハー」をバックにしたトーク…と続き、ラストのタイトル曲はペレス・プラドの「マンボNo 5」をサンプリング(「あ~、うっ!」付き)したパーティ・チューンという全20曲!
「私のルーツ、幼い頃から聴いていた曲、音楽に夢中になったサウンドに立ち返った」ものではあるが、「最初は、このアルバムで誰をターゲットにしているのか分からなかった。でも、私と同じように、特定のジャンルだけでなく、私たちの音楽を聴いて育ったラテン系の人たち全員に向けたアルバムだと感じている。結局のところ、すべてのジャンルが好きじゃない人も、少なくとも自分と繋がれるジャンルがひとつは見つかるはず」と彼女は語る。
タイトルは「トロピカル」と「コケタ(軽薄な、とか、浮気っぽい)」をかけたもので、ラテン世界のありとあらゆる要素がぶち込まれた遊び心いっぱいのこのアルバムにはぴったりの名前だろう。どこかノスタルジーを感じさせる。色っぽいジャケットも最高だ。
見砂和照と東京キューバンボーイズ / Without You~至福のキューバン・ビート (2025)
(335 Project TCB 2503)
1949年、見砂直照によって結成された東京キューバンボーイズは、折からのマンボ・ブームに乗って一躍スターダムへ駆け上がり、日本のラテン界を牽引。通算300枚以上のアルバムを発表するという金字塔を打ち立てた。80年にいったん解散、90年にはリーダーの見砂が亡くなるが、その後、2005年に息子の和照が父の遺志を受け継ぎ再結成。本作は、スタジオ録音盤としては9年ぶり、再結成20周年を記念する最新アルバムである。収録曲は、これまでステージではあまり披露されてこなかった楽曲が中心とのことで、ペレス・プラド・メドレーはじめアフロ・キューバンやラテン・スタンダードが目白押し。ファン待望、東京キューバンボーイズの不朽の名作といわれる「城ヶ島の雨」と、バンド結成以来のテーマ曲「ウィズアウト・ユー」がボーナス・トラックとして収録されているのも注目だ。キューバンボーイズのアレンジをベースにしながらも、そうそうたるメンバーたちによる生きのいいご機嫌な演奏で、まさに“いまの音”になっているのが素晴らしい。
連載
This Is How I Feel
About Classical Music
第29回
アメリカ文化と音楽の危機をみつめて
能地祐子
あからさまに続く言論への圧力と統制
それにしても今年9月、スティーヴン・コルベア司会の〝ザ・レイト・ショー〟が来年5月で終了することが発表され、続いてジミー・キンメルの〝ジミー・キンメル・ライヴ〟が無期限の放送休止(現在は再開)になったのはショックだった。アメリカは、全米でもっとも大きな影響力を持つコメディアンの口を封じることができる国になったのか。と。遠い日本から様子を眺めるばかりの野次馬とはいえ、近未来SF映画かと思うような、信じられないものを見ているような気持ちになった。
結局、コルベアもキンメルも、全米が見守る中で受けたあからさまな圧力をネタにしてパワーアップ。さらには、この件がきっかけとなり、10月には女優ジェーン・フォンダを先頭とする数百人のハリウッド・スター、コメディアン、製作者らが冷戦時代の言論の自由を訴える抗議運動「修正第1条委員会」を復活させることを宣言、現在のトランプ政権による言論統制や組織的な圧力に対する警告を発した。ベトナム戦争の時代から闘ってきたジェーン・フォンダ様が87歳になった今も、世界はますます悪くなる。さすがにもう、正直、よりよい世の中とは何かと考えるのも面倒くさくなってくる。でも、本号が出る頃には、この原稿を書いていた日が平和だったと思えるようなものすごいことが起きていないとも限らない。これはもう、アメリカだけの話ではなくて、地球全体にいえることなのだろうけれども。
現在のトランプ政権はエンタメや芸術の世界にも、第一次政権の頃とは比べ物にならないほど大きな影響を及ぼしている。読者のみなさまと同じく、子供の頃から〝洋楽っ子〟として育ち、音楽のみならず映画やアートや…、ありとあらゆるアメリカン・カルチャーに夢中になり、文字通り人生が変わるほどの影響を受けてきた者としては心の痛むニュースが続いている。全米ネットワークの人気番組ですら潰されかねないのだから、最初から反体制のスタンスがデフォルトのロックンロールなんて、もう、ダメもダメ。ブルース・スプリングスティーンやニール・ヤングの歌詞やMCすら、いちゃもんをつけられて炎上する世の中だ。ロック・ファンは〝じゃ、俺たちはクラシック音楽でも聴いてろっていうのか?〟とボヤきたくもなることでしょうが。クラシック音楽界も、いろいろ大変ですよ。
米国文化を崩壊させる、第二次トランプ政権
なんといっても衝撃だったのは、アメリカのクラシック界の大黒柱ともいえるケネディ・センター問題。2025年春、実質〝制圧〟に近い形で現政権が主導権を奪取した。同センターは1971年に故ケネディ大統領を記念してワシントンDCのポトマック河畔に建設された文化複合施設。日本でもおなじみの名門ワシントン・ナショナル交響楽団の本拠地でもあるコンサート・ホールをメインに、オペラハウスや中小規模の劇場ホールを擁する。音楽でいえばクラシックを中心にルーツ音楽、フォーク、ポスト・ロック/ポップ…など、ちょっと地味目なジャンルのファンにはおなじみだろう。スミソニアン学術協会と並び、未来のアメリカにとっての文化的な財産となるべき芸術を支援してきた、アメリカン・カルチャーのパトロン的な存在だ。00年代以降のアメリカーナ・ムーヴメントでもケネディ・センターが果たした役割は大きく、今やアメリカーナ、クラシック、ジャズ、ポップ…とジャンルを超えて活躍する鬼才クリス・シーリーにもいち早く注目していた。シーリーがキュレーターとなって開催された新しいアコースティック・サウンドのショーケース公演は、その後のアメリカーナ系の発展に向けてのひとつの道標となった。現在、シーリーは超実験的な管弦楽+マンドリン+歌による組曲『ATTENTION!』を引っ提げて全米各地のオーケストラとの共演を続けているが。この作品のお披露目ツアーでのクライマックスとなったのも、ナショナル響と共演したケネディ・センター公演だった。
ところが。文化や芸術には正解がないのが難しいところ。トランプ大統領からすれば、〝意識高い系〟と揶揄されがちなケネディ・センターの活動はいかにもリベラル派好みの歪んだ価値観だと、以前から快く思っていなかったらしい。第二次トランプ政権が発足するとともに、同センターの大改革に着手。革新的なプログラムを継続させてきた芸術的な手腕を高く評価されていた理事長をはじめ、前政権からの要職を次々と更迭。そして、現職大統領としては初めてのことらしいが、自らが理事長に就任。各セクションにも自身の意向を反映した人材を新たに任命した。当然のことながら、新方針には賛同できないと自ら職を辞した者も多数。その中には、芸術顧問として招かれていたオペラ歌手のルネ・フレミングやベン・フォールズも含まれていた。今後どうなるかはわからないが、現時点では施設名を〝ケネディ・センター〟から〝トランプ・センター〟に変更する提案が法案として出されているらしい。さらには、名門ワシントン・ナショナル・オペラの本拠地でもあるオペラハウスも、メラニア大統領夫人の名前を冠した名称に変更される可能性があるとか。
もともと、どれだけ忙しく活動していてもオーケストラの運営は常に資金が足りない。国や富裕層の援助を必要とし、それでも経営破綻が続く米国のローカル・オーケストラ事情に鑑みれば、ナショナル響の今後についてもいろいろと心配は尽きない。ましてや彼らは大統領就任式の演奏も担当する〝お膝元〟のオーケストラ、政府からのダイレクトな干渉も受けやすいスタンスにある。そんな音楽ファンからの心配の声を受け、現在の音楽監督であるイタリア人指揮者のジャナンドレア・ノセダは、オーケストラは外部からコントロールされることなく今まで通りに活動を続けていくという公式見解を発表しているが。大統領が理事長に就任する前にも、ケネディ・センターでのナショナル響公演に訪れたヴァンス副大統領夫妻が観客からブーイングを浴びるという事件もあったし。いろいろ心配。変わらぬ活躍を続けて、また日本にも来てほしいです。
そして、ケネディ・センターでもっとも有名なイヴェントといえば毎年12月に開催されるケネディ・センター名誉賞。音楽家、舞台人、ハリウッド・スター、テレビタレント…あらゆるジャンルの中から、パフォーミング・アーツを通じてアメリカ文化に貢献してきた功労者を選出するエンタメ界最高の栄誉だ。今年は、ロック界からはキッス、カントリー界からはジョージ・ストレイト、映画界からはシルベスター・スタローンらが受賞。授賞式の模様は、なんと、トランプ大統領自らがホストを務め、全米に中継されるそうだ。2015年にキャロル・キングが受賞した時には、授賞式で晩年のアレサ・フランクリンが「ナチュラル・ウーマン」を熱唱し、バルコニーでパフォーマンスを見ていたオバマ大統領が思わず涙をぬぐうシーンがあった。忘れられない。公民権運動の時代から人々を励まし奮い立たせてきたアレサの歌声に、心を震わせる黒人初の大統領…。新しい時代は確かに始まっている、そう思ってもらい泣きせずにはいられない歴史的な場面だった。あんな場面はもう見られないのだろうか…。
デンクのエッセイと、オブライエン著・村上訳の書籍が鳴らす警鐘
クラシック音楽、とりわけ器楽曲というのはストレートな社会批判をしたり、政治問題をズバリ指摘することができないから安心? 安全? 無難? 無害? ナショナル響が「いつも通り演奏します」と言ったからといって、いつもと同じスコアで演奏されるブラームスやベートーヴェンに演奏者たちの怒りや焦り、悲しみや不安といった〝今〟はまったく反映されていないと言えるだろうか。そんなはずはない。ただし、それは秘密の伝言ゲームのように、伝わる人だけにこっそりと伝えられるものなのだろう。ステージ上で怒りを具体的な言葉として発するのではなく、黙って、音符の上にこっそりと乗せた感情を客席へと投げかける。音楽って、すごい。そんなこともできるのだ。
バッハやアイヴスの名演でもおなじみのピアニストで、作家/エッセイストとしても有名なジェレミー・デンク。ちょうどケネディ・センターを巡るゴタゴタが始まった直後、3月5日付のザ・ニューヨーカー誌の書評ページに、政治や社会とクラシック音楽の関わりをめぐる5冊の音楽書を紹介するデンクの長編エッセイが掲載された。
今年3月といえば、トランプ新時代の混乱の中で人々の不安が急速に高まっていた頃。そんな激動と不確実性の時代に対処する方法のひとつとして、デンクは「私たちを今、こういう時代へと至らしめた問題と、音楽がそれらにどのように影響するかを考えること」があると書いていた。社会と音楽の関わりについてあれこれ考え悩んでいた私には、目からウロコの一文だった。これは音楽に限らず、今、あらゆるジャンルの表現者に共通している思いというか、ある種の使命感なのかもしれないと思った。たとえば、このエッセイを読む少し前、フェイク・ニュースを題材にしたティム・オブライエンの新作長編『虚言の国 アメリカ・ファンタスティカ』が村上春樹の翻訳によって出版された。虚言が蔓延するアメリカのホラ吹き男を主人公にした20年ぶりの新作を出したオブライエンにせよ、その翻訳を手がけた村上にせよ、デンクがエッセイの中で書いているようなことを考えていたのではないかと想像した。単に、個人の想像ですけどね。
そのエッセイでデンクが紹介していた書籍は、作曲家ルイス・モロー・ゴッドシャルクやチャールズ・アイヴスの伝記、2つの大戦と冷戦時代における欧州音楽とアメリカの関係を読み解くノンフィクションなど。不安と混乱で覆い尽くされた現在のアメリカにおける〝分断の時代〟を生きるヒントになるのではないか、という視点で選ばれた5冊だという。どれも非常に興味深い作品だった。どの本も邦訳は出ていなさそうだけど、ふつうに音楽書としても面白くて、なおかつ、現在のアメリカに暮らす音楽家や音楽ファンの視点で読むとさらに考えさせられそうな…。
クラシック音楽というのは、お上品で、金持ち喧嘩せず…みたいな〝教養としての芸術〟的なイメージを抱かれがちだし、こと日本ではそういう側面が強い文化なのかもしれない。けれど、おそらく、時には「さあ、今ここで政府をディスりますよー!」とばかりにエレキ・ギターをかき鳴らして直接的なメッセージをシャウトするロックンロールよりも静かに穏やかに、そして不気味に、より辛辣で強烈なメッセージを突きつけることができる音楽でもある。たしかに、そのメッセージはわかりづらい。「ぶぶ漬けどうどす?」が「早く帰れ」の意味だというくらいに、わかりづらいメッセージではある。けれど、歴史を振り返れば、クラシックの名曲たちの中には「命懸けでわかりづらくする必要があった」メッセージもたくさん隠されている。シュトラウスやシェーンベルク、ショスタコーヴィチ、メシアン、ブリテン…ら、偉大な作曲家たちの作品の中には、国や人種によって迫害された人々の姿が静かに、ひっそりと、しかし激しい怒りをもって記録されている。
そもそもクラシック音楽というのは〝クラシック〟というだけあって、人類が繰り返してきた栄華や、進化や、悲劇や、愚行を見てきた、民族音楽や民謡などと並ぶ最年長の〝音楽ジャンル〟なわけで。とりわけ〝いつか来た道〟と〝誰も想像もしなかった未来〟とがゴチャゴチャに同時進行している2025年の世界にはぴったりな、頼りがいのある音楽ではないだろうか。
デンクいわく、ベートーヴェンやバッハのような古典音楽もあれば、ヒップホップやテクノと同じ世界線を生きる若い作曲家たちの作品もあって、それらが境界線なく共存している現在のクラシック音楽界というのは、自分たちが社会で生きるためのヒントの宝庫だと。たしかに。そう考えると、これからのクラシック音楽は、これまで誰も想像しなかったようなものすごい可能性を秘めたフィールドになっていっても不思議ではない。ケネディ・センターやスミソニアン、さらには多くの音楽関連機関を擁する全米の大学を取り巻く現在の状況を考えると、もはやクラシック音楽もオルタナティヴでパンクなスタンスでなければやっていけない状況にある。いろいろと心配ではあるけれど、同時にとてつもなく革命的なムーブメントや新たな文化発信が起こりそうな期待も抱いてしまう。
ジェレミー・デンクは、2019年に『C.1300 - C.2000』という作品をリリースしている。ギヨーム・ド・マショーからリゲティ・ジェルジュまで、24人の異なる作曲家の音楽を通じて、1300年から2000年まで700年間(!)という長い歴史の中で生まれた音楽表現を描き出してゆく、とてつもなく壮大なコンセプチュアル・アルバム。学者肌で、とことん突き詰めたがりのオタク気質で、そのうえ超絶技巧なデンクならではのアカデミックなアルバム…という印象を持たれる方も多い作品ではあるのかもしれない。が。まさにザ・ニューヨーカー誌に寄せたエッセイのテーマでもある「歴史の中にこそ答えがある」を、彼は自身の音楽表現として続けてきた音楽家だということがよくわかるアルバムでもある。
そのエッセイの最後を、デンクはこんな文章で締めくくっている。
「ショスタコーヴィチは、一見すると愛国的路線と解釈されるものの中に反対意見をエンコーディングするのがうまかった。それは、今、我々みんなが身につけなければならないことなのかもしれない」
不条理と混沌と不穏を極める世界に文句を言うには、もはや1955年生まれのロックンロールだけでは太刀打ちできない。だとすれば、今、政治的な表現や、反抗を体現する器として、クラシック音楽というジャンルを視野に入れることで見えてくるものもあるはず。たとえば、今年、グスターボ・ドゥダメル指揮LAフィルによる作品集でグラミー賞3冠を受賞したメキシコの女性作曲家のガブリエラ・オルティスは、伝統的なラテン音楽などを引用した色彩豊かなオーケストラ・サウンドの中に、紛争や環境問題、差別、デモ活動…といった困難な社会問題も描き入れた作品を次々と発表している。彼女の作品を聴くたび、現代音楽というよりもシンガー・ソングライターに近い視点を持っている作曲家だと痛感する。この連載でもたびたび取り上げているキャロライン・ショウや、巨匠ジョン・アダムズにも同じようなことを感じている。
Teddy Abrams / Preludes (2025)
(New Amsterdam NWAM193-LP=LP)
1987年生まれのカリフォルニア育ち、現在はケンタッキー州ルイヴィルのオーケストラで音楽監督を務める指揮者、ピアニスト、クラリネット奏者、作曲家のテディ・エイブラムス。昨年、作曲と指揮を手がけたユジャ・ワンのピアノ協奏曲でグラミーを受賞している。が、もともとはポスト・クラシカル界隈での活躍で知られ、マイ・モーニング・ジャケットのジム・ジェイムスとのコラボ作も。多才な鬼才、初のソロ作は意外にもピアノ・ソロ。バッハやバルトークなどのクラシカルなカノンにインスピレーションを受けつつ、そこに即興的な刺激や現代っ子らしい語法が加わり、さらにはスフィアン・スティーヴンス人脈のプロデューサー(ゲイブ・カヘイン&ケイシー・フォーバート)の力を借りた魔法チックな音像づくりが実現。静謐でクラシカルな世界感のようでいて、どこかヘンテコ。森の中で、ふと見上げた夜空にUFOがいるような非現実感というか。就寝時におすすめ。
連載
第29回
フォークが道をやってくる
第3話「フォークの業と因果」
高田 漣
前回までのおさらい
ロックンロール(R&R)とロックの《記号変換》から◯◯ロックという拡張子について考察▼フォーク・ロックという記号に着目/固執▼一応の決着を向かえる▼フォーク・デュオ「林亭」のメンバーであり名レコ―ド屋、ハイファイ・レコード・ストアの元店主でもあった大江田信氏登場▼『民謡からみた世界音楽』(細川周平編著)という書籍の存在をご教示頂き〈フォーク〉という記号の迷宮へ▼
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つい先日も某人気グループのメンバーの方に「お父様にどんどん(容姿が)似てきたね。隣で演奏してたら緊張しちゃいました」と冗談を言われました。抗い難い遺伝を憎みつつも、ありがたいお言葉と受け止め「嬉しいような、嬉しくないような」と返答させていただきました。自分が学生時代から愛読している――理解しているとは口が裂けても言えません――グレゴリー・ベイトソン(註1)が述べるように獲得形質は遺伝しない。つまり容姿など体型的な要素は遺伝する可能性がありますが、訓練/鍛錬によって身につけた筋肉などの運動能力はあくまでもその個人にとどまり、子には引き継がれないということです。ですから運動選手に限らず、あらゆる職種――もちろん音楽家もそこに含まれる――のなかで二世三世が誕生するのは〈環境〉によるところが大きいというのは、どなたでも察しがつくことと思います。実際『エリス』前々号の第2話の写真にもあるように、自分自身を振り返ると物心がつくかどうかの子供時代に、楽器と演奏家に囲まれていたという〈環境〉が現在の自分を形成するにあたっていかに重要であったかを痛感いたします。俯瞰してみると実に不憫な子供だと思わざるをえません(笑)。
ところがこの数年、そんな生物学/科学的な視座ではトンデモな言説といわれてしまいそうな〈カルマ/業(karman)〉のような非局所性に満ちた、因果のようなものを感じているのも事実です。
【註1】グレゴリー・ベイトソン(1904~1980)人類学者。著書『精神と自然』『精神の生態学へ』。
話はそれますが――この文章のナラティヴな意味では横道ですが、音楽雑誌『エリス』としてはこっちがメインストリート(本筋/本線)かもしれません――60年代アメリカの新興レーベルであったカーマ・スートラ・レコード(Kama Sutra Records)という記号をラヴィン・スプーンフルのアルバムでみつけたときは、「〈カルマ/業〉なんて記号を使うあたり、さすが〈ヒッピーイズム=インド傾倒〉に溢れたネーミング・センスだな」と独りごちたりしましたが、後にカーマ・スートラ(Kama Sutra)は綴りも違うし、由来となったのが、出自の違う古代インドの社会/文化を伝える意味でも重要な経典であると知り赤面しました。カーマ・スートラ・レコードはMGM傘下のレーベルであると同時に、プロダクション(芸能事務所)としても機能していたといいます。所属アーティストとしては前述のラヴィン・スプーンフルの他に、ド派手な衣装で人気を博したドゥーワップ・グループのシャ・ナ・ナや、ラヴィン・スプーンフルの弟分的存在でもありながら独自の路線を切り開いた愛すべき男たちNRBQ(New Rhythm and Blues Quintet 愛称Q)など魅力的な面々が集っていましたが、現在は暖簾を下ろしてしまっているようで残念です。NRBQは一時期狂ったように聴いていた記憶があります。同時にその時期というのは第2話でお話しした自分のフリー・ジャズ傾倒期でして、当時の自分のバンド名はナチュラル・リズム・アンサンブル(NRE)というもので、これはシカゴ出身のフリージャズ集団アート・アンサンブル・オブ・シカゴとQとをもじったものでした。今思い返すと、屈折というか破綻しているような、でも後にQのドラマーのトム・アドリーノの秘蔵テープの音源盤『ブレイン・ロック』を拝聴した際には、あながち遠くもなかったのかなと思ったりしたものです。話を本線だか横道に戻すとしましょう。
私事ながら今年、はじめての小説『街の彼方の空遠く』を刊行させていただきました。そのプロモーション活動のなかで受けたいくつかのインタビューなどで、父・高田渡の詩世界――実際には父の楽曲の多くは本人作ではない現代詩であるにも関わらず――との連関を尋ねられる機会が多くありました。この点に関しては「関係あるような、ないような」という曖昧な返答で濁していましたが、実を言うとある種の因果を感じないわけでもないのです。これは生前の父からは聞いたことのなかった話なのですが、以前、父の若かりし頃の日記を『マイ・フレンド:高田渡青春日記1966-1969』として書籍化する作業を行っていた際に、どうやらヤング・タカダワタルは自らの家族にまつわる歴史をジョン・スタインベック(註2)のように小説として執筆しようとしていたらしいのです。もちろんその手本として想定されていたのは『怒りの葡萄』(1939)であり、その(一時的な)決意を決めてから同書を近所の書店で注文していることから察するに、ヘンリー・フォンダ主演、名匠ジョン・フォード監督作品の映画版(1940)を観たのではないかと推察されます。あるいは当時傾倒していたボブ・ディラン――後にそのことを改竄して伝えていましたが『マイ・フレンド』のなかではその傾倒ぶりがボブと愛称を連呼することで微笑ましく残っています――の影響があったのかもしれません。この父の〈高田家の波乱の史実小説化計画〉を画策していた時期というのはフォーク・シンガー高田渡誕生前夜で、このスタインベック――というよりも『怒りの葡萄』傾倒経験が後のタカダワタル的なアーティスト像に多大なる影響を与えたことは間違いないと思われます。同時に父のなかでスタインベックという記号は徐々にウディ・ガスリーという記号に同化/収斂していったといえるかもしれません。ちなみに父が『怒りの葡萄』を実際に読破したかについては不明です。
【註2】ジョン・スタインベック(1902~1968)アメリカ文学界の巨人。『怒りの葡萄』でピューリッツァー賞受賞、1962年にノーベル文学賞受賞。
スタインベックの『怒りの葡萄』がアメリカのフォーク・シーンのなかで大きな影響を与えたことは想像にかたくありません。さらにその約20年後に出版されたジャック・ケルアック(註3)『路上』(1957)の2冊が60年代アメリカのカウンターカルチャー(対抗文化)に与えた影響もまた想像にかたくありません。このように育まれた対抗文化的価値観が見事に映像作品へ昇華したのがデニス・ホッパー監督作品『イージー★ライダー』(1969)ですが、その主演がヘンリー・フォンダの息子のピーター・フォンダというのも出来すぎた因果性を感じずにはいられませんね。
『イージー★ライダー』はそのナラティヴな魅力以上に、その後のミュージック・ビデオ全盛を予見するような音楽と映像のコラボレーションも大ヒットの要因として考えられます。ステッペンウルフの「ワイルドでいこう」はもちろんですが、ザ・バンドの至極の名曲「ザ・ウェイト」を同作ではじめて聞いたという方も多かったのではないでしょうか。これは個人的な意見ですがデニス・ホッパー監督作品としては『イージー★ライダー』の大ヒットを受けて制作された次作『ラストムービー』(1971)のほうが遥かに好みです。ジャン=リュック・ゴダールに影響を受けまくったデニス・ホッパーによるメタフィクショナルなこの作品は、全編ペルーロケ。当初メキシコでの撮影を希望していたデニス・ホッパーでありましたが、幾つかの事情で断念せざるをえず、助け舟を出した当時同じく対抗文化の大スターに祭り上げられていた映画監督アレハンドロ・ホドロフスキー(註4)の助言でロケ地はペルーに決定したという逸話が残っています。
当時のデニス・ホッパーの芸能スキャンダル的なトピックとしては、友情出演したピーター・フォンダの当時の彼女だったはずのママス・アンド・パパスのミシェル・フィリップス(彼女も印象的な「銀行家の娘」役で出演)と撮影後に結婚、そして僅か8ヵ月後に離婚しました。
この作品の編集作業は『イージー★ライダー』の撮影で訪れた後に購入したというニューメキシコ州タオスのD・H・ロレンス(註5)が実際に暮らしていたという邸宅で行われました。『イージー★ライダー』のなかでもジャック・ニコルソンがバーボンだかウィスキーだかを飲んで「D・H・ロレンスに乾杯!」と語る名シーンがありますね。『ラストムービー』の編集作業は混乱をきわめ、さらにユニバーサル・ピクチャーズが配給を渋ったためにこの作品は1971年ニューヨークとロスアンゼルスで2週間、サンフランシスコではたった3日だけの上映にとどまり全米公開されることはありませんでした。良くも悪くも時代と寄り添う『イージー★ライダー』と比較して『ラストムービー』は映画愛に満ちた普遍性を持っていると筆者は思いますが皆様はどう思われるでしょう。
これを機に、なかばハリウッドを追放されたかに思えたデニス・ホッパーでありますが、その間もパトリシア・ハイスミス(註6)原作の名作『太陽がいっぱい』の後日譚である『アメリカの友人』(1977、ヴィム・ヴェンダース監督作品)のリプリー役や、フランシス・フォード・コッポラの超大作『地獄の黙示録』(1979)の報道写真家役などで怪演を続けていました。コッポラ作品では『ランブルフィッシュ』(1983)でのダメ親父役も印象的ではありましたが、なんといってもデニス・ホッパーが大舞台に完全復活を印象づけたのは、デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(1986)でした。そんなアウトサイダーなイメージの塊のデニス・ホッパーですが熱心な共和党の党員であったことも知られています。それにも関わらず2008年の大統領選では民主党のバラク・オバマを支持したという事実も彼らしい逸話でしょう。今、もしもデニス・ホッパーが生きていたらアメリカという国家に対してどんなことを発言していたのか? 興味が尽きません。
【註3】ジャック・ケルアック(1922~1969)ビート・ジェネレーションの代表的作家。
【註4】アレハンドロ・ホドロフスキー(1922~)チリ出身の映画監督。代表作は『エル・トポ』(1969)、『ホーリー・マウンテン』(1973)
【註5】D・H・ロレンス(1885~1930)イギリス出身の小説家。代表作の『チャタレイ夫人の恋人』(1928)は当初階級問題が主題で検閲にあう。改稿を経て性描写が主題となり、その修正版が発行。60年に無修正版が発行されると、今度は猥褻文書として告訴されたが後に無罪となる。
【註6】パトリシア・ハイスミス(1921~1995)ヒッチコック監督に『見知らぬ乗客』を取上げられ一躍脚光を浴びた小説家。『太陽がいっぱい』を含むリプリー三部作も人気。
さて『イージー★ライダー』の日本版ポスターの印象的な文言「どこにもそれは見つけられなかった」を覚えてらっしゃる、あるいはご存知のかたはいらっしゃるだろうか? この代名詞〈それ〉はその前の文言「アメリカの心を、人間の自由を、旅に求めた男」から推察すると〈自由〉ないしは〈アメリカ(の心)〉ということになりそうです。仮に〈それ〉を〈アメリカ〉と仮定すると、「アメリカという国家」が幻想であったと、あるいは飛躍すると「国家という幻想=アメリカ」がみつけられなかったという解釈が出来そうです。『イージー★ライダー』後のアメリカを考えると、1969年を《断層》として対抗文化が急速に失速することは様々な方が様々な場面でご指摘されていますが、面白いことにスタインベックはそれよりも少し前、萩原健太編集長のご指摘の《断層》=アメリカン・グラフィティの夏1962年に『チャーリーとの旅』という紀行小説を執筆しています。これは愛犬家としても知られたスタインベックが愛犬のチャーリーと全米を旅する物語でありますが、ジャーナリスティックな作風が知られた彼が還暦間近のこの時期になぜ実際にキャンピング・カーを自分で運転し、全米を旅したのか? 本人は冒頭にこう記しています。
「わたしは気がついたのだ、自分の国を知らないと」
この小説のなかで、「ろくに知らないことを書いてきた」と、なかば自虐的にそれまでの自身について語るスタインベックですが、アメリカの葛藤というべき感覚が次の世代へも伝播している、あるいは共時的に響いていたと言えなくもない気がします。前述のベイトソンの邦訳に尽力した我が師匠・佐藤良明(註7)的に書くと、《時代のマインド》ということでしょうか。そして〈フォーク〉という概念を考察する際に避けては通れない〈国家〉〈民族〉〈民衆〉〈大衆〉という記号の持つ意味と暴力性についても思いを馳せずにはいられないのが2025年現在の自分、とも感じます。そしてこれが第2話での18世紀ドイツの哲学者ヨーハン・ゴットフリート・ヘルダー(註8)による〈民謡〉の概念の創出という話と深く関わってきます。この話は次回にじっくり考察していけたらと思っています。
【註7】佐藤良明(1950~)アメリカ文学研究者、翻訳家、東京大学名誉教授、放送大学客員教授。著書『ラバーソウルの弾みかた』(1989)、『佐藤くんと柴田くん』(1995、翻訳家・柴田元幸と共著)。グレゴリー・ベイトソンやトマス・ピンチョンの全小説、ボブ・ディランの翻訳などでも知られる。
【註8】ヨーハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744~1803)、18世紀ドイツの哲学者、文学者。カントに薫陶を受けたヘルダーは若きゲーテに影響を与えたことでも知られる。
さて父の日記『マイ・フレンド』での恐らくもっとも印象的な場面――冒頭から何度も書いては書き直しを続けていますが――は、父がウディと同じくらい影響をうけたピート・シーガーへ手紙を書くシーンではないかと思います。当時すでに亡くなっていたウディとは違い、ご存命だったピート・シーガーは父にとってはまさしくリビング・レジェンドであり憧れの対象でありました。1963年3月13日に書きはじめられたそのノートの冒頭にもこう記されています。
「ぼくは、ピート・シーガーという人に特別の興味をもっています。とくに彼が社会意識のたいへん強い人という事にです」
実は生涯まったく英語には下戸であった高田渡ですが、若気の至り、若さゆえ、翻訳は友人に頼みつつ、果敢にもついにピートに手紙を書き弟子入りを直談判します。丁寧な人柄であったピート・シーガーはそんな父にきちんと返事を書いてくださいました。その手紙は父の宝ものとして日記とともに大事に保管されていました。その返事の内容を翻訳すると、
①あなたは『シング・アウト(Sing Out)』やその他の刊行物、私の録音物で学ぶことができます。
②でもあなたは隣人たち(neighbors and friends)からも多くを学ぶことが可能です。
③もしもあなたが英語を学んだとしたらもう一度聞いてみたいな。
④その間、人々が何度も何度も(again and again)聞きたいと思えるような良い音楽を作ることを学びなさい。
ヤング・タカダワタルはこの返事を大事に胸にしまいながらも、②の回答を拡大解釈しはじめ、自身の発明といえる語法に辿り着きます。若く吸収力がある、柔軟な青春時代であったとはいえ、その速度は凄まじいものがあり、父が師と仰ぎ幾度もその成果を報告していた音楽評論家の三橋一夫さんもその変貌ぶりには驚いていたことが『マイ・フレンド』のなかでも克明に描かれています。その発明とは、添田唖蝉坊らの明治演歌をウディらから覚えたフォーク・ソングのメロディに乗せて歌うというアイデアでありました。この点は父の後輩でもあるなぎら健壱さんも指摘していましたが、明治演歌の詩は知り得たが、旋律は当時なかなか聞く機会がなかったことも大きく影響していると思われます。斯くして《タカダワタル的高田渡》は誕生するわけでありますが、そこには単なる美談だけではない高田渡の屈折した葛藤と工夫があり、やがて昇華されたのでは? と最近に個人的に思うところがあるのですが、それは次回の『フォークが道をやってくる 完結編』でじっくり考察出来ればと思います。
The Byrds / Ballad Of Easy Rider (1969)
(Columbia CS 0042=LP)
史実によるとヒット作であり、後期ザ・バーズを象徴するアルバムとも評される本作ですが、個人的には数多いバーズの作品中最も記憶に残っていない。クラレンス・ホワイトをはじめバンドのメンツ的には申し分ないし、しかも久しぶりのテリー・メルチャーのプロデュースなのに…。その大きな理由の一つとして考えられるのは表題曲が、映画『イージー★ライダー』サントラ盤主題歌のロジャー・マッギンの弾語りバージョンではないことがあったのかもしれません。なんで? と思った記憶だけが残っています。有名な逸話ですが、ディランがこの映画のエンディングを気に入っておらず、作詞のクレジットから外すよう指示したというのも然もありなん。でもこのまま聴かずにいるのはもったいない! しばらくは仕事に向かう道中のドライブ・ミュージックとして再訪してみようと思った次第です。
連載
第43回
今年のぼくの映画祭から
Peter Barakan
ぼくがキュレイターを務めている音楽映画祭(https://pbmff.jp/)は今年で5年目の開催となりました。毎年日本初公開の映画を紹介していますが、限られた上映回数にもかかわらず様々なコストがかかり、更に円安に悩まされて今回はクラウドファンディングを行いました。ありがたいことに多くの方のご支援をいただいて、6本の映画を確保することができました。
そのうちの2本は1970年代に作られたアメリカのルーツ・ミュージックに関するドキュメンタリーです。両方ともレス・ブランク監督の作品で、一つは今年で生誕100年のクリフトン・シュニア(Clifton Chenier)の活動と生活を描いた『Hot Pepper』(邦題は「ルイジアナピリ辛 クリフトン・シュニアの世界)で、もう一つはテックス・メックスの音楽とそれが生まれたメクシコ系テクサス人の背景を紹介した『Chulas Fronteras』(邦題は「テックス・メックス アコーディオン天国)。こちらには登場するアコーディオン奏者の中に今年亡くなったフラコ・ヒメネスが、ちょうどライ・クーダーの『チキン・スキン・ミュージック』に参加した若い頃のカッコいい姿と素晴らしい演奏が含まれています。
他にニュー・オーリンズの伝説のピアニスト、ジェイムズ・ブッカーの生涯と音楽をフィーチャーした『Bayou Maharajah』(2013年、邦題は「ジェイムズ・ブッカー ニュー・オーリンズのピアノ王子)があります。ドクター・ジョンやアラン・トゥーサントなどが天才と褒める彼は極めてエクセントリックな性格で、アルコールやドラッグのことも関係して43歳で他界しましたが、ジャズ、ブルーズ、ファンク、クラシックまで盛り込んだ彼のユニークな演奏は、あれから40年以上経った今も息を飲みます。来年の春に一般公開の予定なので今回は2回だけ上映しました。
今回の映画祭で、偶然の結果ですが、3人の女性シンガーに関するドキュメンタリーを紹介しました。マリアンヌ・フェイスフル、ジャニス・イアン、メイヴィス・ステイプルズはそれぞれジャンルも違いますし、描き方も様々ですが、どの映画もとても印象に残る作品です。
『マリアンヌ・フェイスフル 波乱を越えて』(2017年)は1時間ほどの短めの映画で、フランス人の俳優/監督サンドリーヌ・ボネールのインタヴューに答えて、今年78歳で亡くなったマリアンヌ(英語発音ではマリアンですが、妥協しました…)は自分の起伏の激しいキャリアをフランクに語ります。アイドルのようなデビューのころも、一時期ヘロイン中毒でぼろぼろになった状態から復帰した70年代終盤以降のパワフルな姿の映像も色々あって、これを見ると彼女に対する多くの人の印象がそうとう変わるはずです。
13歳の少女が歌ったメッセージ・ソング
『ジャニス・イアン 沈黙を破る』(2024年)は、個人的に1975年の大ヒット曲「At Seventeen」以外はさほど意識していなかったぼくにとって驚きの作品でした。自分と同い年で現在74歳の彼女は、15歳で人種差別をテーマにした「Society’s Child」という曲を発表しました。白人の女の子と黒人の男の子の恋が周りから否定されるという内容のこの曲は、13歳のとき黒人の多い学校に通っていたジャニスが、バスの中で見かけたカップルの姿がきっかけとなっています。13歳の時点ですでにフォーク・クラブで時々歌っていた彼女は、シャングリ・ラーズのプロデューサーとして知られるシャドウ・モートンに紹介され、彼に聞かせた自作の中から「Society’s Child」が選ばれましたが、録音の際に「歌詞の1行だけ変えればナンバー・ワンのヒットは間違いない」と言われました。〝Come to my door, baby, face is clean and shining black as night〟(ピカピカの真っ黒な顔で私の家に現れたあなた)という冒頭の歌詞です。これからデビューする若者は、おそらく多くの場合、この1行を書き換えるでしょう。でも、ジャニスは若干特殊な背景がありました。父親はニュー・ジャージー州の郊外で養鶏場を営んでいて、多くの黒人を雇っていましたが、まだ始まったばかりの公民権運動に積極的に関わっていて、赤狩りのこの時代にFBIの嫌がらせを継続的に受けていたそうです。
またジャニスがフォーク・クラブで仲間になっていた多くのフォーク・シンガーたちは、みな反体制の立場で、彼らのことを頭に浮かべていたジャニスはシャドウ・モートンの提案を断りました。出来上がったマスターを、録音費用を立て替えてくれたアトランティック・レコードに聞かせたら断られ、他に22社ものレコード会社にも門前払いを食らいました。結果的にジャズのヴァーヴ・レーベルが60年代にフォークやブルーズ寄りのレコードを出すために興したヴァーヴ・フォーキャストから出ることになりました。しかし、異人種の恋がまだ一般のアメリカ社会ではタブーだったこの頃は、どのラジオ局も放送しようとしないわけです。
そこで初期のボブ・ディランのことをいち早く取り上げていたニューヨーク・タイムズの記者ロバート・シェルトンはこの曲を聞いて、テレビ番組を持っていたレナード・バーンスタインと仲のいい共通の友人を通して、バーンスタインにも聞かせました。映画の冒頭シーンではバーンスタインの番組に出演して堂々と「Society’s Child」を歌う少女のようなジャニス・イアンが映ります。この出演後、レコードはチャートをかなり上がって、ビルボードでは14位まで行ったのですが、ラジオのオン・エアは依然としてさほど震わず、イギリスにいたぼくも当時聞いた記憶はありません。
ジャニス、音楽業界の壁と闘う
この映画ではジャニスの妥協しない生き方、そして弱い立場の人に対するエンパシーを表した姿勢が強く伝わってきます。過剰な感情表現をしない淡々とした歌い方はむしろ心に刺さるし、ソングライターとしての素晴らしさを恥ずかしながら初めて意識させられました。「At Seventeen」は新聞で読んだ記事からインスピレイションが沸いた曲でした。傑作曲ですし、それでジャニスを知らない人はいないスターになりますが、次のアルバムを作る段階で準備の時間が不十分で、年末の売り上げと株主への配当金ばかりを意識したレコード会社のプレッシャーで、今一つ納得しきれない作品になったのです。
おまけに大きなコンサートでは、まだ新人に近いビリー・ジョエルに食われてしまったジャニスは音楽業界の現実を突きつけられます。マネジャーに騙されて破産状態に陥ったり、ナシュヴィルに移住して再出発したり、本当に興味の尽きない映画です。因みにタイトルの〝沈黙を破る〟は原題〝Breaking Silence〟の直訳です。1992年のアルバム・タイトルでもありますが、ジャニスがレズビアンであることを公にしたことも意味しています。彼女は男性とも女性とも恋をしていますが、どちらかといえば女性に惹かれる方が多いと語っています。再現映像をかなり使っているため話の筋がとても分かりやすいですが、人によってはその使用が多すぎると感じるかも知れません。
メイヴィス・ステイプルズ、感動のドキュメンタリー
女性シンガー三部作のもう一本は『Mavis!』(2015年、邦題は「メイヴィス・ステイプルズ ゴスペル・ソウルの女王」)です。現在86歳でまだまだ現役のメイヴィスは今年の3月にビルボードライブ東京で相変わらず感動の歌を聞かせました。映画の中であの声の持っている全く嫌みのない色っぽさについて誰かがコメントしていましたが、いいところをついたと思いました。11歳で父親ポップス・ステイプルズ率いる家族のゴスペル・グループでデビューし、早くからポップスより低い声で事実上のリード・ヴォーカルとなった彼女のファンの一人が、若きボブ・ディランでした。映画の中で妙に緊張気味で話すボブがメイヴィスにプロポーズした話は有名ですが、「ちょっとキスしたりしたかな」とメイヴィスが恥ずかしそうに回想します。60年代にツアー中のアトランタでマーティン・ルーサー・キング牧師の教会に出かけ、キング牧師の話に惚れたポップスはディランの「Blowin’ In The Wind」を含むメッセージ・ソングをレパートリーに加える決意をし、60年代後半には黒人のアル・ベルが重役になったスタックス・レコードに移籍した後、ステイプル・シンガーズは黄金時代を迎えます。「Respect Yourself」や「I'll Take You There」などの大ヒットを経て、音楽業界全体の変遷の中で、80年代にはグループとしての活動がまばらになり、メイヴィスはソロ活動に切り替えました。
プリンスがプロデュースしたアルバムがプリンスとレコード会社のごたごたのために宣伝してもらえず売れなかったり、どのレーベルも注目してくれない時期があったり、最終的にLAのインディ・レーベル、Anti-(アンタイ)と契約してからクオリティの高いアルバムを安定した状況で作り続けています。映画の後半ではメイヴィスが子供のころから住んでいるシカゴを拠点とするウィルコのジェフ・トゥウィーディが彼女のレコードをプロデュースし、また父ポップスの遺作となったアルバムを仕上げた話が出ますが、涙なしには見られません。また『ラスト・ワルツ』の撮影でステイプル・シンガーズがザ・バンドと一緒に「ザ・ウェイト」を歌う時に知りあったリーヴォン・ヘルムが癌で弱っていた時期に、彼の家を訪れて一緒に歌うシーンもぐっと来ます。全体を通してメイヴィスはポジティヴなエネルギーの塊として映り、生きるパワー・スポットのように感じました。
今年の映画祭はクラウドファンディングのこともあって詳細が決まるのがぎりぎりでした。もう少し宣伝の時間が欲しかったです。大阪では11月24日から1週間、シネ・ヌーヴォで開催しますが、それを逃すと来年に一般公開されるジェイムズ・ブッカーを除いてなかなかスクリーンでは見られない映画ばかりです。需要があれば来年の音楽映画祭でアンコール上映も可能ですし、個別の上映会も条件次第でぜひやりたいと思います。ご要望などいつでも受け付けますので、ご連絡ください。
Don Was and the Pan-Detroit Ensemble / Groove In The Face Of Adversity (2025)
(Mack Avenue CDMACK 12382)
来日公演に合わせて日本で先行発売されたゴキゲンなアルバムです。ボニー・レイトやローリング・ストーンズなどのプロデューサー、最近はブルー・ノート・レーベルの社長としての存在の方が馴染みなので、ドン・ウォズが元々ミュージシャンだったことを忘れがちですが、ベイシスト兼バンド・リーダーとして彼が呼びかけて結成したこの9人編成のバンドのメンバーは、本人と同様に全員デトロイト出身者です。ドンがプロデュースしてグレイトフル・デッドの曲に特化した2枚のアルバムを出したサックス奏者デイヴ・マクマリーもいます。強いていえばジャズ・ファンク的な内容で、6曲中半分がライヴ、レパートリーにユセフ・ラティーフ、カーティス・メイフィールド、ハンク・ウィリアムズの曲もあります。発売はブルー・ノートではなく、敢えてデトロイトのインディからです。日本の配給はBSMF。
連載
─ Second To None ─
第18回
ジョン・マーティン
天辰保文
ブラックウェル、暴れ馬をジャマイカに送り出す
「ジョンという、大酒飲みで人を怖がらせる、積もり積もった欲求不満を抱えた自滅的なスコットランド人を島に行かせるということは、他人には理解しがたいことだった。しかし私は初期のジョン、詩人で陽気なならず者が恋しかったし、以前のように音楽の道に戻るために自分の中の悪魔と闘える場所に行って欲しかった」。
『アイランダー クリス・ブラックウェル自伝』(クリス・ブラックウェル、ポール・モーリー著、吉成伸幸訳)の中にこういう一節がある。もちろん、クリスは、アイランド・レコードの創始者で、文字通りこれは彼の自伝だ。そしてこの文面からだけでも、彼が思いを綴ったその人物について、漠然とだけど人となりがわかるような気がしてくる。他の人にとっては余り好印象とは言えないかもしれないが、クリスには憎んだり、嫌いになることはできない、むしろ愛おしいような感情さえ抱かせる、そんなスコットランド人、その人物こそが、ジョン・マーティンだった。そしてこの記述からすると、1976年あたりだと推測されるが、ニック・ドレイクの死に加えて、これも親友と呼んではばからないポール・コゾフの死が重なり、ジョンの精神状態は最悪、まるで暗い闇を彷徨っているようだったという。日々の暮らしでの荒れ方も凄まじく、演奏中に倒れ込んだり、観客に悪態をつくこともあった。クリスは、環境を変えることでなんとかそこから救い出したいと、幼少から育ったジャマイカ行きを提案する。青い空に美しい海、カリブ海に浮かぶこの島の自宅をジョンと彼の家族に提供し、気分を変えて立ち直ることを願う。
そのアイディアは功を奏し、しばらくジャマイカで休暇をとった後、ロンドンに戻ったジョンを郊外の農場に落ち着かせ、そこで、自らプロデューサーとして陣頭指揮をとり、レコーディングを始める。ジョンの親友、ダニー・トンプソンからスティーヴ・ウィンウッド、ブルース・ローランド、アンディ・ニューマーク、デイヴ・ペグ等々、手練れのミュージシャンたちもこの穏やかな環境に集められ、大きな池を利用し、庭を野外スタジオへとかえて、野生の動物の鳴き声や近くの電車の音なども気にしない、1枚のアルバムを完成させる。深夜から夜明けにかけての作業は、音楽に魔法のムードをもたらしたという。それが、1977年、クリス自身プロデューサーとしての仕事で最も印象深い1枚だと語る『ワン・ワールド』だった。
ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの『ナッティ・ドレッド』にサード・ワールドの『エチオピアへの道』、スティーヴ・ウィンウッドの『アーク・オブ・ア・ダイバー』にボブ・ディランの『セイヴド』等で知られるトニー・ライトによるジャケット・デザインもそうだが、野心的で一つの宇宙を抱えこむような音楽が繰り広げられ、ジョン・マーティンを代表する1枚となり、初めてチャート入りする。ジャマイカでの休暇による音楽的な影響も見受けられ、ボサノバ調の軽やかなラテン風味にスカのトロンボーン奏者リコが絡み、ストリングスも美しいバラード、「サーティン・サプライズ」などはその一つだった。また、ムーグ・シンセサイザーにサックス、タブラが躍動し、掠れながらも艶っぽい歌声でジョンが、「私は毎日笑顔の見知らぬ人です」と繰り返す「スマイリング・ストレンジャー」も耳を奪った。
表題曲「ワン・ワールド」は、切々とした名バラードだった。「王子様のように生きる人もいれば、女王のように生きる人もいる。ほとんどの人は、私と同じように生きている。それがどんなことを意味するのかは知らない。一つの世界で我々の居場所を築く」と歌う。もちろん、エコープレックスを通して奏でるギター・サウンドは、このアルバムを特徴づけていた。その一つで、アンビエントというか、ブログレッシヴというか、ワールド・ミュージックというか、それらの扉へ手をかけたような革新的な「スモール・アワーズ」では、「きみの愛がなくなるまで愛し続ける、きみの愛が強くなるまで愛し続ける」と、この人の心の襞にも触れる思いがしたものだった。レコード盤のレーベルには、アイランド・レコード特有の昼と夜を思わせるような、ブルーの濃淡の色合いが、A面、B面に施されていた。一気に両方聴くのが勿体なくて、昼と夜に分けてA、B面をじっくり味わったものだ。サウンドとムードによって描かれる特異な表情、宇宙で肉体と精神を遊ばせるようなこの緊張感は、初めて経験する新鮮なものだった。
アイランド初のフォーク/シンガー・ソングライター
ジョン・マーティン、1970年代半ばのこの頃は特にそうだったけれど、もともと、アルコールと薬漬けの日々を重ね、ツアーとパーティの繰り返し、波乱万丈の人生を送った。それもあって、一般的な成功と呼べるものをなかなか手にすることがなかった。ぼくの中での彼に対する印象も、音楽活動のほとんどを暗い闇に身を置いていたような、そんな印象が強い。ただし、音楽関係者の間での評価は圧倒的で、ミュージシャンには彼を尊敬する人も少なくない。最後まで隠し続けられた宝物との異名さえ残したくらいだ。それでいて、余り知られていないかもしれないけれど、文化、芸術、科学、福祉などの分野で英国に多大な貢献をした人に授与されるOBE(大英帝国勲章受賞者)の一人だった。
1948年9月11日、サリー州ニュー・モルデンに生まれ、スコットランドのグラスゴーで過ごしている。高校卒業後に地元のフォーク・クラブで歌い始め、その後ロンドンに出て、アイランド・レコードに迎えられる。ジャマイカのスカ、レゲエだけではなく、フォークやロックのファンにも支持されるようなレーベルを目指すには必要だとクリスが迎えた。若い頃から、その歌声もギター・プレイも強くて激しく、愛とか憎しみ、喜びとか悲しみ、幸せとか痛みといった感情を併せ持つような、重みと深みのある音楽を響かせていた。思うに、音楽への素朴な情熱では誰にも負けず、創意を惜しみなく投じる。そのぶん、我儘で、孤独というか、独りよがりのところも大いにある。だから、厄介な存在感を放ち続けた人だった。
そんなジョン・マーティンの音楽を初めて聴いたのは、いつだったかはっきりとは覚えてはいない。たぶん、1970年代に入って間もない頃で、英国のフォーク・ロック、例えば、フェアポート・コンヴェンション、ペンタングル、スティーライ・スパンなどとその周辺の人たちに、米国の同世代のシンガー・ソングライターたちにも通じるような時代感覚が感じられて聴き始めたのがきっかけだった。その流れの中で出会った一人が、彼だった。もっとも、1967年のファースト・アルバム『ロンドン・カンヴァセイション』のように、後から遡る形で聴くことが多かった。そしてその時は、ボブ・ディランの「くよくよするなよ」をカヴァーしていたり、典型的なフォーク・シンガーとしての認識しか抱けなかった。シタールやフルートが使われていたりするが、基本的にはアコースティック・ギターの弾き語りを軸にしたアルバムだった。歌声も、その後にぼくが親しむようになった頃とは違い、端正で、心をわしづかみするのような個性は感じられなかった。
〝嵐を呼ぶ男〟の足跡
最も早くに親しみを覚えながら聴いたのは、妻のベヴァリー・マーティンとの『ストームブリンガー!』だったと思う。後で知ったことだが、当時は、ジョンよりもベヴァリーのほうが注目され、1965年、16歳で、パーロフォンから「ベイブ・アイム・リーヴィング・ユー」でシングル・デビューしていた。翌66年には、新設されたデラムからキャット・スティーヴンスと共に最初の契約アーティストとして再デビューする。その時のシングルがランディ・ニューマン作「ハッピー・ニュー・イヤー」 で、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ニッキー・ホプキンス等がバックをつとめていた。その後、英国滞在中のポール・サイモンと恋仲になり、ニューヨークへという興味深い話もある。実際、サイモン&ガーファンクルの『ブックエンド』に参加、「フェイキン・イット」で可憐な女性の台詞が挿入されているが、それが彼女だ。また、彼らと一緒に1967年夏のモンタレー・ポップ・フェスティヴァルにも出演している。
そのベヴァリーと結婚後、ジョン&ベヴァリー・マーティンとして、ウッドストックで作ったのが『ストームブリンガー!』だった。後にスティヴン・スティルスとのマナサスやサウザー・ヒルマン・ヒューレー・バンドで活動、また、エリック・アンダースンやトム・ラッシュなど、グリニッチ・ヴィレッジのフォーク・シンガーが、シンガー・ソングライターへと移っていく過程で、いつも彼らのそばにいたキーボード奏者のポール・ハリスを中心に、ハーヴェイ・ブルックス、ビリー・マンディ、ジョン・サイモン、そしてザ・バンドのリヴォン・ヘルムなどが参加、殊に、リヴォンには影響を受け、ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』にも憧れたらしい。
ちなみに、1993年にジョンはそれまでの自作曲を再録音の形でセルフカヴァーしたアルバム『ノー・リトル・ボーイ』の中の「ジャスト・ナウ」で、リヴォンをハーモニー・ヴォーカルに迎えている。
ジョン&ベヴァリー・マーティンとしては、ジョー・ボイドのプロデュースで、もう1枚『ザ・ロード・トゥ・ルイン』を作った。商業的な成功に結び付くことはなかったが、ここで一人のミュージシャンと出会う。後に、生涯の酒飲み友だち、喧嘩友だちとなり、公私ともにジョンには欠かせない存在となるペンタングルのベース奏者、ダニー・トンプソンだ。ともあれ、ベヴァリーが妊娠したこともあり、ジョン・マーティンは、ソロとしての活動を再開する。それが、1971年の『ブレス・ザ・ウェザー』だった。ジョンのギターとダニーのベースを軸にシンプルにレコーディングを始めたというだけあって、アコースティック・サウンドなのに、音の一つ一つに鋭くて、豊かな弾力があって素晴らしい。ジャケットには、天然のくせっ毛というか、巻き髪で、子供っぽく見えるジョンの顔が映っている。孤独の翳りを秘めた歌声に脆い、危い若さのようなものが寄り添い、それがかえっていまもなおぼくは心惹かれる大好きなアルバムだ。
ダニー・トンプソンのダブル・ベースが親友のように寄り添い、そこにリチャード・トンプソン等に加えて、1960年代末英国のアンダーグラウンド・シーンを代表する人たちによる中近東からインドにかけての要素、あるいはジャズ、ブルース、フォークが有機的に交じり合った音楽が披露されている。「シュガー・ランプ」などは、スワンプ、ブルース調の曲で、エレクトリック・ギターが終始歌うあたりも、大西洋を軽々と渡る。ところが、肌触りのようなものが、どう表現していいのかわからないけれど、ぼくが聴いていた米国のシンガー・ソングライターたちとは異質だった。「ウォーク・トゥ・ザ・ウォーター」でのラテンの風景などは新鮮に感じられた。また、「グリスニング・グリンデボーン」のように、エコープレックスを通してアコースティック・ギターを弾き、インストゥルメンタル・ナンバーながらも刺激的な存在感を放つものもある。そのまま熱気をほぐすかのようにスタンダードの「雨にうたえば」が続くあたりも洒落ていた。
そして、1973年の『ソリッド・エアー』があった。フォーク、ジャズ、ロック、ブルースに後のワールド・ミュージックなどの融合という路線は変わらないが、窓枠が俄然広く大きくなり、描かれる音楽には深みが加わった。そしてなによりもそれは、ジョン・マーティンの世界の延長としか呼べないくらいに彼独自のものだった。ダニー・トンプソンと二人だけで簡素ながら濃厚な情緒を描いたかと思えば、他に、リチャード・トンプソン、デイヴ・マタックス、デイヴ・ペグ、サイモン・ニコルなどフェアポート・コンヴェンションのメンバーたちとの呼吸も見事だった。表題作は、麻薬中毒に溺れる親友ニック・ドレイクへの思いを託す。「ぼくは君を愛してるよ、君の友だちにだってなれる。何処までも一緒に行くことができる」と歌い、「君の中でなにが起きているのかわからないけど、君が見つけたものが気に入らないことはわかるよ」とも歌う。ニックは、結局、このアルバム発売から1年と少し経つ1974年11月25日、抗うつ剤の過剰摂取で旅立っていく。また、このアルバムからは、後にエリック・クラプトンが「メイ・ユー・ネヴァー」(『スローハンド』収録)を、またイアン・マシューズが「ザ・マン・イン・ザ・ステーション」(『スティーリン・ホーム』収録)をカヴァーしたこともあり、それも親しみやすさを加えていた。
その4年後には冒頭で触れた再生の『ワン・ワールド』になるのだけど、ぼくはそれ以降、特別な理由があったわけではないけれど、徐々に遠のいていった。エルモア・ジェイムスやエリック・クラプトンの「スカイ・イズ・クライング」、ボビー・チャールズの「ヒーズ・ゴット・オール・ザ・ウィスキー」に「スモール・タウン・トーク」、ランディ・ニューマンの「神の歌」やビリー・ホリデイの「奇妙な果実」などを集めたカヴァー・アルバム『ザ・チャーチ・ウィズ・ワン・ベル』や、フィル・コリンズやデヴィッド・ギルモア、クラプトンなどとの交流から生まれたアルバムも、幾つかあったにもかかわらずだ。いまはもちろん、彼の物語を途中で放棄したことに、後悔しているけれど。
そして、2003年には、悲劇が彼を襲う。膝の裏側に嚢胞が出来て、知らぬうちに悪化、それが原因で足のひざ下を切断するか、あるいは死を選ぶか迫られるのだ。結局、右足を切断、2年ほどの間ベッドに横たわり、時には車椅子で移動するという暮らしを強いられる。経済的にも窮地に陥り、アルバムを完成せざるをえなくなる。鎮痛剤の助けを借りながらレコーディングに入り、アイルランド、英国、米国の各地で録音して完成したのが、2004年、彼の生前最後にレコーディングし、発表されたアルバム『オン・ザ・コブルズ』だった。きっと手術のときに世話になったのだろう、アイルランドの病院の外科医師や看護師たちへの謝辞が記されている。アルバムは、「グッドナイト・アイリーン」で閉じる。1930年代にレッドベリーの歌で吹き込まれ、それ以降フォーク・ソングのスタンダードとされるお馴染みの曲だが、そこでは、再起を励ますかのように、メイヴィス・ステイプルズが優しい歌声を寄せている。
2009年1月29日、ジョン・マーティンは、アイルランドはキルケニーで死去、60歳だった。直接の死因は肺炎だったらしいが、長年に及ぶ薬物とアルコールの乱用が影響していたのは想像に難くない。英国BBCのウェブサイトはトップ記事に彼の訃報を掲載し、その数日後には大英帝国勲章が授章される。本名は、David McGeachyで、ジョン・マーティンという名は、アコースティック・ギターの名器の数々を産み落としてきたブランド、マーティンに由来し、スペルを変えて、MartinをMartynとしたという。何処か奥深い、底深いところから湧いてくるような、縛りだしてくるような歌声は、粗野だったが、色っぽさがあり、ギターで、独特のムードを醸すロマンティックな音楽を響かせて、旅立った。「言葉と音楽の間には場所があり、私の声はそこに住んでいる」、こんな印象的な言葉を残して。
【追記】
原稿をほとんど最後まで書き進めたところで、突然、訃報が飛び込んできたので、追記という形で加えさせてもらうことにした。彼にとって最も重要な音楽仲間であり、酒を飲みながら多くの時間を共有した親しい友、ダニー・トンプソンの旅立ちだ。2025年9月23日、86歳だった。ペンタングルの創設者の一人で、その後、そのダブル・ベースでの多彩な活動で知られるようになるが、ジョンのアルバム、殊にぼくは『ブレス・ザ・ウェザー』での快演が忘れられない。
メイヴィス・ステイプルズ / サッド・アンド・ビューティフル・ワールド (2025)
(Anti-/Silent Trade STCD 0022)
ちょうどジョン・マーティンに関する原稿を書きながら、いろいろ引っ張り出して聴いていたところだった。生前最後に発表したアルバム『オン・ザ・コブルズ』で「グッドナイト・アイリーン」を、メイヴィス・ステイプルズが一緒に歌っている。それもあるけれど、これにしたのはやはり新味をともなった素晴らしい新作だからだ。バディ・ガイにボニー・レイット、デレク・トラックスにジェフ・トゥイーディなどに加え、アイアン・アンド・ワインことサム・ビーム、ブラック・プーマズ、ワクサ・ハッチーことケイティ・クラッチフィールド、ジャスティン・ヴァーノン等々が参加。取り上げた作品も、トム・ウェイツにギリアン・ウェルチ、レナード・コーエンにカーティス・メイフィールド、ケヴィン・モービーにスパークルホース等々、新旧世代を越えて、2025年という不穏な時代に歌わなければならない、大切だと思える歌を、大切だと思える人たちと一緒に響かせているのだ。偉ぶらず、気負わず、理屈っぽさなど一切感じさせずに、目指すところはそれだけなのが、つくづく凄いと思う。
連載
第38回
なんでエーゴで唄うのか?
鷲巣 功
その男、中学1年生の時から知っている音楽の友達が「アルバムを制作中」というのを知ったのは、だいぶ前だ。「今、この蘇った冒険心を皆さんと分かち合えることに、心から喜びと感動を覚えています。」という言葉と共に、突然その全てが送信されて来たのが今年(2025年)のはじめだった。これに対してのわたしからの返信の締めは、「非常に厳しいヒョーロンカとしても〝秀〟はあげられるよ。『I Love The Way』が気に入った。なんでエーゴで唄うのか。それは大きな疑問だった。これも付け加えておく」である。
以前テレビの映像で台北の町並みを見た事がある。中華系によくあるだいだい色のドギツサはあったが、瞬間的に渋谷の横丁ではないか、と錯覚した。そのくらい店の看板、路上に置かれた行灯などにアルファベット文字が氾濫していたのだ。
わたしは国際会議などに於いて東南アジア、中東、アフリカ諸国などグローバル・サウスなどと響きの良い呼ばれ方で騙されている代表がそれぞれの民族衣装で参列するのを見るのが好きだ。こういう場になぜ日本人は、紋付と羽織袴を着用しないのか、不思議だった。グローバル・サウスと響きの良い呼び方を用いて、欧米が誤魔化そうとしている国々の代表がそれぞれの国家の最高の礼服で来ている。和服にだって礼服はあるし、これこそ全くのオリジナルだ。こんな時じゃないと身に着ける機会もない。どうもわたしたちは欧米に弱いようだ。
先般の選挙では「日本人ファースト」をキャッチフレーズにした、お調子者の神谷宗幣を親分とする、参政党が躍進した。選挙後直後の報道で市民が「外国人が偉そうにしているのが面白くない」と言っているのも見た。確かにその通りだ。しかし、それは欧米の碧眼金髪白人種に限っての事ではないだろうか。この間、訳あって箱根にいたけれど、そこでも「欧米の金髪碧眼白人種」がエラソーにしていた。こういうのはハッキリ言って不愉快である。わたしが2日に1度は出かける世田谷区下北沢の町は、東、東南アジアからの人々が大勢来ている。けれど侮ってはいけない。現地では相当に余裕のある人たちだ。何しろ、海外旅行をしてるんだからね。それはともかくとして、隣を歩く同胞と見えていた人たちが、突然に自分の分らない言葉で喋り出す、このような驚きも日常茶飯事だ。
そういう時のわたし達の対応の仕方ときたら、明らかに「金髪碧眼白人種」へのものとは違う。「俺たちがお前たちを遊ばせてやってんだ」と、やたらにエラソーなのだ。あなたも思い当たる事がある筈だ。こういう「碧眼金髪白人種」への劣等感は明治時代の開国期から始まっていた。国土、気候、歴史などから生活様式はそれぞれ異なる。明治時代の「開国」はそういうところを無視して、我々も欧米と同等の国家、民族となれる、ならなくちゃいけないと勘違いをしたところから、大きな悲劇が始まった。
わたしの知り合いに目上の人間に忖度し、上手にゴマをする事で自分の保身を第一にしながらも、世の中を上手く渡っている男がいる。奴の職業は、「忖度」であり、但し書きには「自身の利になる者へのゴマすり。及び、そうでない者(物)の削除」と書くのが相応しい。日本の昨今の海外に対する態度は奴の生活信条とよく似ている。眼や髪の毛の色が異なる人種にはペコペコしておきながら、近隣の国には威張り散らす、実にイヤーな存在が今の日本だろう。そんな態度を持っていられるのも、あと何年だろうか。
江戸時代にも平戸などからは断片的ではあったものの、欧米の情報は入っていたようだ。しかしそれは完全ではなかった。何しろ欧米には「産業革命以降の動力」があった。それを持てなかった日本の庶民は、まずこれにやられた。加えて服装や髪型も異なっていた。日本の庶民は、次にこれでやられた。そして誰もがそこでこの欧米の風習に倣ってしまったのである。何しろ、「欧米烈強」であるのだ。これは、今に続く「欧米に対する劣等感」の始まりだ。「欧米列強」の普段着は、いま自分たちが毎日身につけている着物よりも、活動的であった。筒型の袖などはその骨頂だ。その上ボタンさえ掛けられれば初めてでもすぐ着られる。何よりも新しくてカッコ良い見栄えだ。髪型だって同じようなもので、庶民はこういうところに弱い。取り敢えず見た目が良ければ、それでいいのだ。理屈なんぞは後から追いてくる。シソーなどというような面倒臭い物は、全くお呼びでない。
動力と外観に始まり、この「欧米烈強」に対する劣等意識は、様々な分野に及んだ。わたし達の大切な文化は「古臭くて格好が宜しく無いものだ」、と誰もが認識しただろう。挙句の果てには、わたし達がずっと、その誕生から育み、そして形になるまでを見守って来た、いわゆる「伝統」的な領域にまで影響を及ぼしたのだ。それが最も顕著だったのが「音楽」だろう。
一方で、自分(鷲巣功)が責任を持って音楽の制作をして、それが番付に入った時には嬉しくて、その番付表ばかり見ていた。しかし印刷物を見ていても順位が変わるものでもなく、じきに飽きた。そうこうするうち「オリジナルな文化」への欲求が臍を曲げて出てきて、その時点で番付に入っているものの題名、そして演者の表記を調べてみたら、その番付表の百位まで全てがカタカナだった。その時点で売り出し中のシングル盤の題名だったのか、演者の名前だったのかどちらかは忘れたが、とにかく30年前頃から日本人芸能者の名前をローマ字で表記するのは進んでいた。
この頃の音楽仲間に「マイキー」と自称し、他人にもそう呼ばせている輩がいた。レゲェのイベント・チラシは殆どがアルファベットで書かれているから、そこに書かれた彼の名前も高名なレゲェ・プロデューサーのマイキー・ドレッドを気取って「MIKEY」となっていた。司会者がそれを「ミッキー」と読んだ。その輩はその場で誤読を指摘していたが、わたしは「そんな事を言うなら『マイキー』とカタカナで書いときゃいいんだよ。どうせ日本語の響きになっちゃうんだから」と、簡単に考えた。自分の名前を、独特に誂えて、読み難く綴るのは、全世界的な流行だ。みな一筋縄では行かない独特の綴りを持ち、その名のもとに活動している。それに目をつけた日本人も倣い始めているようだ。昭和が過ぎて平成の世になるとそれが「格好良い」と日本人に映ったらしく、この国でもそんな具合になって来た。大抵は自分の俗称、あるいは呼んで貰いたい名前をちょっとおかしなローマ字で綴っている。いずれも2020年代の英米調だが、こんな事で自身が国際的になったような勘違いをしてもらっては困るというものだ。
ただし、この場合は、自分(鷲巣功)の手がけた芸能者が「ランキン・タクシー」というカタカナ名前であったのだからあまり大きな事は言えない。しかしながら、このような状況下ではわたし(鷲巣功)も「マイキー事件」を犯す危険がある。
2025年現在、「金髪碧眼欧米白人種」への私たちの崇拝は、このようなところにまで及んでいる。しかしながらこれは、「全ての文字を最後まではっきりと発音すべし」と云う金科玉条の基の日本語では、成立し難いのも事実である。だいたいがこの国の言葉表記はイーカゲンなのだ。文字そのものが中国から入って来ている。それも肝心の中国での読み方がやたらと変化している。しかも、第二次世界大戦後の共産党革命では、実に厄介な「漢字」を捨ててしまったくらいだ。
銀行員の行雄は、修行のために諸国行脚を行なった。
これは中公新書「日本語の発音はどう変わってきたか」で、国文学者の釘貫亨が用いている例文だ。ここで「行」と云う字は「こう」「ゆき」「ぎょう」「あん」「おこ」と五通りに読ませている。基礎漢字の一つである「行」にである。ここには「唐→呉→漢」の三つの読みがあり、更にはこの国独自の読み方の「訓読み」が加わっている。こういう文章をわたしたちは、特に高い教養がなくとも普通に読めるのだ。正に「漢字一字一音の現代中国語を母国語とする中国人」(前出新書より)もビツクリである。ここに現れているように、「開国」時に「欧米列強」の面々が驚いたひとつは、7割を超える庶民の文字識別能力だったそうだ。ザマあ見やがれってんだ。俺たちのジョーシキってのは世界に冠たるモンなのよ。バカにしちゃあいけない。誰だって新聞くらい読めるんだよ。
おっと話を戻す。中国文化の影響は、当時として止むを得なかっただろう。何しろ「開国」時の「欧米列強」と同等、いやそれ以上の存在としてずっと日本に君臨していたのだからね、当時の「中国」は。わたしは昨今このようなことを考えると、どうしても「開国」期、そして第二次世界大戦後のイーカゲン政治の文化的な間違いを指摘するようになって来るのだ。嗚呼、いつもの愚痴が出て来た。それはさて置き、この雑誌『エリス』らしく音楽の方面に話題を持って行かなくてはならない。
厳密ではないけれど、この雑誌『エリス』は、基本的に「洋楽」を主たる対象としている。わたしも生まれてこのかた、本気で相手にして来た音楽は「洋楽」なのである。この国の音楽は何しろ全てが西洋の真似なのだ。あるいは日本でしか通用しない偽物。こういうのに少なくともわたしは夢中になってきたのであり、わたしたちが嫌という程認識させられた「古臭くて格好が宜しく無い」文化は、殊更に「音楽」の世界で圧倒的に不利だったのだ。
また「洋楽」には芸能界お決まりのチヤホヤがなかった事も大きい。本国では露骨な「ヨイショ」があったのだろうが、そこを離れての番付け順位獲得はアーティストの実力のようにも見えた。その手のシガラミのないところでの勝負は、潔く映ったのである。とにかく音楽の魅力で勝ち負けを付ける姿は、意味の分からない歌を聞く者としては同類にも見えたのだ。これが日本の国となると実績のある歌い手の新しいシングル盤が発売になると、それが番付けに入ってくるのは確実で、これがローテイションとなって番付けを動かしていたようにも見える。レコード会社の事情を調べれば、実際のところそうだった。
第二次世界大戦前の各大手レコード会社の組織図で制作、宣伝、販売の領域を見ると、「演歌」は「洋楽」である。これに対して「邦楽」を見ると、まず庶民の歌の象徴として「民謡」があり、その他は「端唄(はうた)」、「浄瑠璃(じょうるり)」「謡(うたい)」などが並ぶ。これは先ほど述べたばかりの「誕生から育み、そして形になるまでを見守って来た大きな〝伝統〟」なのだ。「演歌」は、西洋「欧米列強」の、音階で五線譜に綴れられる。和声の進行も西洋の音楽に準ずるから、明白に「洋楽」だ。この事実を昭和50年代の半ばに知った時、わたしは唖然とせざるを得なかった。「『古臭くて格好のあまり宜しく無い』この国の低次元庶民音楽文化の象徴たる『演歌』が『洋楽』だなんて…」。ここにもわたし(鷲巣功)の「碧眼金髪白人種」への劣等感が滲みでている。
添田知道「演歌の明治大正史」(岩波新書)には、「演歌」は板垣退助の自由民権運動を支えた、という側面も出て来るが、ここでは音楽的な構造上の特徴を述べるに留めた。わたしたち庶民は「欧米列強」に涙の挫折をすると同時に、大切な文化を手放してしまったのである。
わたし(鷲巣功)が幼い頃に、親あるいは周辺から教わったオリジナルな音楽は、何もないというのが本当だ。これは生まれ育ちが静岡県静岡市郊外で郷土の歌と言えるものが「茶摘み歌 八十八夜」と「ちゃっきり節」(鉄道会社の宣伝歌謡。成立は明治以降)という非常に音楽的に貧しい地方であったのと、家では恐ろしい程の近代都市型生活様式、つまり「欧米列強」に恥ずかしくない知見を、子供の頃から強要されたという特殊性も影響しているが、身の周りにいわゆるオリジナルな「民衆の歌」など皆無だった。わたしは20歳を超えてからそれを大いに悔やんだ。今でもその思いは変わっておらず、「本当の庶民の音楽」を過剰に求める自分の現在の姿と無縁ではない。
この国のオリジナルな音楽と言えば、すぐ大昔から宮廷で儀式の時に演奏されていたらしい「雅楽」が挙げられる。しかしながらわたしは中学校の音楽の授業でカンショーした「越天楽」しか知らない。かつて古い和楽器をディジタルのリズムに載せた演奏を生で聞いた経験がある。同じ実演の周りにいた鑑賞者達は妙に有難がっていたし、演奏者自身の真面目な態度も非常に立派ではあった。が、わたしに言わせれば、何にも面白くはなかった。その他では神道のお葬式で雅楽が用いられたのを列席者のひとりとして聞いている程度だ。その時には途中から、生きている鯉の串刺しの方に興味があったのも事実である。このように、「誕生から育み、そして形になるまでを見守って大切にしてきた」日本古来のオリジナルな音楽と、今のわたしとは、全く縁がないのが現状だ。これは多くの庶民、つまり誰にでも当てはまる事だろう。
昨今この国では「伝統」という言葉が特別な幅を効かせている。多くは戦前の手作りを指す、実にイヤぁな言葉だ。この言葉を前にすると、誰でも「ハハアー」と土下座状態になる。更に「伝統」は進歩や変化をしてはいけないらしい。偽りの為政者たちは、「欧米列強」の文化に首までどっぷり浸かっておきながら、いい気なモンである。音楽においても「雅楽」のように機械文明の及ばない、その道を極めた一定の人間しか、その良さが分からないらしい。
どうも「庶民」の文化は、この国にはあんまりお呼びでないようなのだ。2025年10月5日付けの東京新聞には「『庶民』の声は権力者にとって邪魔だ」という内容のコラム記事があった。でもね、この国の労働力となってこの国を支えて来たのは「庶民」なのだ。音楽にだって雅な響きをもたらす「雅楽」とは違う響きが、ずっとあった。世界中を見渡しても「庶民」の拍動が逞しさを感じさせる「音楽」がそこらじゅうにある。これをわたしは「ビート」と呼ぶ。
「庶民」は、いつも貧乏クジしか引かされて来なかった。今も世界各地で繰り広げられている戦争を見て欲しい。そこで常に最前線に立たされて、恨みも何も無い相手を殺す役目を背負わされているのは、常に「庶民」なのだ。国のため、あるいはテンノーヘーカのために殺人をさせられて来たのは、あなたやわたしと同様の「庶民」なのである。オラァ絶対に嫌だね、そんな役割を負わされるのは。読者のみんなも、よおく考えて頂きたい。何の恨みもない他国の人を殺すんだよ。末代まで呪われたって文句は言えないな。あなた、こういう場に国家を背負って、出て行けますか。
江戸時代に町人の文化が栄えた。ここに日本の歴史上初めて労働力以外の形で、公に「庶民」が登場し今につながる「庶民文化」が芽生えたのである。この事はこの国で「庶民」の文化が台頭するきっかけだった。形だけの武士や公家よりも「庶民」である町方のほうが「お金」を持っていて、力があったのだ。ただこの「力」も経済の世界だけのお話で、文化領域では相変わらず「雅楽」の、進歩や変化とは無縁の、昔からの形をなぞるだけの「伝統」感覚で、独自の流派を生み出した。「金」がらみ他の様々な理由で確立された家元制度に胡座をかいたオッショサンが、庶民の民謡を指導する、なんておかしな事が当然だったのである。
音楽で普通に誰もが考えるビートとは、まず時計のように正確である事が要求される。これが情感を表すために早くなったり、遅くなったりする事を認めている、西洋の古典音楽と決定的に違う点だ。先頃観に行った初期のゼップの実写映画(『レッド・ツェッペリン:ビカミング』)の中で、確か華々しく大ヒットした2枚目のアルバムに入っていた小曲「リヴィン・ラヴィン・メイド」が素晴らしい演奏で収録されていたけれど、これはボンゾ(ジョン・ボーナム)の叩き出すビートに他の3人が安心して乗っかっていられたからだ。こういう風に演ってくれるのなら、昔から大嫌いではあるが、全曲を今から聞き直しても良い。ただ今ではその類の正確さは、機械が受け持つ領域になっているので、生身の人間もそれに合わせてしっかりと演奏するだけなのだ。
日本の音楽をディジタル化するのは簡単だ。先に述べた例を持ち出す迄もなく、機械のリズムを走らせてそこに載っかればいいのだ。そもそもが表向きには、ここまで「ビート」が重んじられずに来た。響きとしても新しく感じられるものになるだろうしね。
わたしの大好きな河内音頭でも、ディジタル化が、かつて革新的な関係者達によって、進んだ事がある。これによって、毎年9月後半から翌年音頭期の始まる6月まで毎週必ず行われる会派ごとの稽古は、歌を取り仕切る音頭取りだけがすれば良い事になる。太鼓を使うために必要な練習場所も必要なくなるし、何よりも地方(ぢかた)と呼ばれる三味線、電気ギター、太鼓のリズムを鍛える必要もなくなるのだ。何より人間が一番面倒臭いし、まして相手は河内人、考えただけで気の遠くなるような思いがする。そこからスイッチひとつで解放されるとなれば、ディジタル方式を採用する師匠が居たとしても、おかしな事ではない。でも定着はしなかった。そこに人間の打ち鳴らす「ビート」の面白さがなかったからだ。その辺りに、面倒な河内人は鋭いのだ。
この夏の下北沢駅前で行われた盆踊りを見たところ、ほとんどすべてがカラオケだった。それに気の利かない大太鼓が加わるのだから、踊る方としては「ビート」を楽しむどころではないのだ。これが面白いのにね。
今から10年以上前、わたしは知り合いからある河内音頭会派の練習テープを聞かせて貰って、「これほどのビートがこの世にあるだろうか」と正直に思ったほどに、人間の打ち出す「ビート」に未来を感じている。あの時の感激は今も心の中に大切にとってある。先ほども言ったように、今や音楽はディジタル機械の演奏らしきものを、人間が一生懸命になってコピーする次元になっている。人間が機械以上に打音を時計のように正確に続けるのは無理だ。今後AIの能力がもっと開発されれば、AIが瞬時に判断して行う即興的な演奏も可能になるだろう。そうなったら人間はもう敵いっこない。だけれどもその前に、人間の打ち出す「ビート」と機械に打ち込まれた「ビート」の面白さの違いくらいは、分かっていたい鷲巣功でもある。この男はなかなかにしぶとくて、「合いの手」や「掛け声」には人間しか出来ない、新しい世界があると考えているのも事実なのだ、イエー。
そもそも人間は、ひとりびとりがみんな違うんだ。それを纏めてひとつの塊と考えるのは、大いにナンセンスである。医薬による治療においても、症状が同じだからその対処法が同じとは限らない。だからこそ、もっとみんな勝手に声を出さなきゃね。テレビの娯楽報道番組の街頭インタビューで、これが世論だとばかりに発言するのも結構だが、その前に勝手に声を出さなくちゃね。これこそが「庶民」の声なのだ。世の中を変えるのは、「お上」ではなくて「庶民の声」なのだ。この国では、この「お上の思想」が変に徹底してしまった。敢えて言うのならば、「お上」は、国民の大多数を占める「庶民」のために働く機関なのである。これが本来の行政の姿だろう。
みんな自分を見つめ直そうよ。俺たちは絶対に「碧眼」で「金髪」の「白人種」になんか成れっこないのだよ。自信を持って自分たちのあるがままの姿や考え方でやりゃ良いんだ。そこに新しい「格好良さ」がきっと生まれて来る。それを世界の舞台でちゃんと評価して貰おうじゃないか。これでようやく正しい「開国」が出来るんだ。
わたしは自分の人権を正当に認めて貰いたい。また海外に出た時などに日本人だという事で尊敬もされたい。それは新しい自民党ソーサイが言うように、決してケーザイ的に優位な所に立っているからではなくて、誇りを持って日本人だと言いたいのだ。唯一の核被爆国として、人類の、地球の、お手本になれなくちゃ恥ずかしくないか。そこには「碧眼金髪白人種」へのスーハイも、「欧米列強」からのクツジョクも、「東、東南アジアの近隣に勝手な敵意を抱いて威張りちらす態度」もない。
こんな事を考えている哀れな東洋人が、今日もこの東京の街を歩いている。最初にわたしが「何でエーゴで唄うんだ」と、ソロ・アルバムを自力で完成させた音楽友達に問いかけた質問に対する答えは、まだ何もないのが実情だ。
※冒頭の音楽友達のソロ・アルバムは https://shu-hakamada.com/jp.htmlで聞けます。
映画『レッド・ツエッペリン:ビカミング』 (2025)
別の映画を観に渋谷へ行って、この映画のチラシをもらった。全く知らなかった大嫌いな“ゼップ”の実録だ。ウィリー・ディクスンの「ユー・シュック・ミー」を観たかったら新宿まで出かけた。館は早朝にも関わらずほぼ満員で、グループの人気は証明された。実写の演奏場面に「ユー・シュック・ミー」はなく、それが残念だった。インチキ野郎ジミー・ペイジの話が長くて閉口。唯一好きだったジョン・ポール・ジョーンズの出番は実演部分を含めて、もっとあっていい筈だ。結成時の事を聞きたかった。そのほかにもビル・グレアムの本に書いてあったローディ達の暴行事件や、今でも西新宿のレコード屋に来ても金を払おうとしないペイジ周辺の話とか知りたいことがあったのに、そこまで想像させてくれなかった。総じて、ツッコミ不足の中途半端な映画という印象を持った。お客さん達に年寄りが多かったのは、かつての人気の証明だ。このグループのお陰で地方の町のチンピラまでがロックを演るようになった。直接的なハード・ロックだったけどね。とにかく、やたらと「カッコ良かった」らしいのだ。そういう意味では、恩を感じなきゃ行けないのかな、わたしも。
Profile of Writers──執筆者紹介(50音順)
天辰保文(あまたつ やすふみ)
1949年、福岡県生まれ。音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て独立。著書は、『ゴールド・ラッシュのあとで』や『音が聞こえる』など。
岡本郁生(おかもと いくお)
10月2日に『ゼロから分かる!ラテン音楽入門』(世界文化社)を出版しました。ラテン音楽の最新トレンドから、歴史、楽曲スタイルなどの基本的知識・情報がてんこ盛りの〝総合〟入門書。プレイリスト+動画の二次元コードも記載し、「読んで」「聴いて」「観て」楽しめるガイド本です。よろしくお願いします。
小川隆夫(おがわ たかお)
1950年東京生まれ。音楽ジャーナリスト、整形外科医、ギタリスト。81~83年、ニューヨーク大学大学院留学。帰国後ジャズを中心とした原稿の執筆、インタビュー、翻訳、イヴェント・プロデュースなどを開始。『ブルーノートの真実』(東京キララ社)、『証言で綴る日本のジャズ(1、2)』(駒草出版)、『マイルス・デイヴィスの真実』(講談社+α文庫)など、著書多数。2016年にはエレクトリック・マイルスにオマージュしたバンド、Selim Slive Elementzを結成。2019年8月に2作目『VOICE』(Ultra-Vybe)を発表した。
亀渕昭信(かめぶち あきのぶ)
週に一度、50年代~80年代のPOPSが中心の洋楽ラジオ番組、「亀渕昭信のお宝ポップス」。なんとまもなく放送開始以来12年目。皆さんのお助けでなんとか続けられております。ラジオ番組で12年なんていうのは、掃いて捨てるほどあるけれど、自分にとっては未開の境地。今まで一番長く続いた番組は、ずっと昔担当していた「オールナイトニッポン」、それもたった3年弱。トシのことを考えれば、そろそろラスト・コーナー回るところかしらね。『エリス』もラジオも、のんびり、真剣に…もうちょっと頑張りましょう。
北中正和(きたなか まさかず)
1946年生まれ。『ニューミュージック・マガジン』編集部を経て、世界各地の音楽の研究、紹介、評論にたずさわる。著書に『にほんのうた』『ロック史』『ビートルズ』他。近刊は80歳をこえてなお精力的に活動を続けている巨星の入門書『ボブ・ディラン』(新潮新書)。
公式サイト「wabisabiland」。 http://wabisabiland.music.coocan.jp/
高田 漣(たかだ れん)
音楽家、プロデューサー、作曲家、編曲家、マルチ弦楽器奏者、執筆家。73年、日本を代表するフォークシンガー、高田渡の長男として生まれる。14歳からギターを始め、02年ソロ・デビュー。自身のアルバム発表、音楽活動と並行して、他アーティストのアレンジ及びプロデュース、映画、ドラマ、舞台、CM音楽を多数担当。17年、アルバム『ナイトライダーズ・ブルース』で、第59回日本レコード大賞・優秀アルバムを受賞。ソロ・デビュー20年を迎えた22年に、3年ぶりのアルバム『CONCERT FOR MODERN TIMES』をリリース。
能地祐子(のうじ ゆうこ)
1964年東京生まれ。今年は2度の来日があり、なおかつドキュメンタリー映画『ビバ・マエストロ! 指揮者ドゥダメルの挑戦』もDVD/BD発売されたドゥダメルを多角的に考察した読本『グスターボ・ドゥダメルと21世紀の若き指揮者たち』(DU BOOKS)が、私が編者となって刊行されました。
萩原健太(はぎわら けんた)
本誌でずっと連載させていただいている「ソングライター・ファイル」をまとめた書籍、『グレイト・ソングライター・ファイル』(リットー・ミュージック)を出しました。詳細、ぜひこちらのURLでチェックしてみてください。
https://www.rittor-music.co.jp/product/detail/3124351003/index.php
ピーター・バラカン(Peter Barakan)
1951年生まれ。相変わらずラジオ番組で紹介しきれないほど面白い音楽に毎日のように出会っています。出前DJも続けています。peterbarakan.netのカレンダーでご確認の上、よろしければぜひお出かけください。
水口正裕(みずぐち まさひろ)
1955年生まれ。1988年からブロードウェイ(たまにウェスト・エンド)に通ってきた。国内では歌舞伎、文楽、宝塚歌劇、落語。もちろんミュージカルやプレイも。音楽ライヴにも行きます。ブログ「Misoppa's Band Wagon for Musical Lovers」(https://misoppa.wordpress.com/)で情報発信中。
鷲巣 功(わしず いさお)
「多面的雑音楽制作者」。全人類全時代全地域の音楽を勝手に楽しみ、それに余計なお世話を施す男。ギョーカイ内でのダテに長いキャリア、ムダに多い経験は知る人ぞ知る。知らない人は全く知らない。もう音楽に古い新しいはない、と主張しつつ、どうしても古い物に向いてしまう興味を矯正中。
先日、某新聞のコラムでも取り上げたことなのだが。10月、米ライノ・レコードが6ミリ・オープンリール・テープによる再発に乗り出した。仕様は10号リール、2トラ、サンパチ(38cm/s)。出たのはTレックスの『電気の武者(Electric Warrior)』とイエスの『サード・アルバム(The Yes Album)』。どちらも半世紀以上前、1971年の作品だ。両作品とも世界限定500本。価格は約300ドルだから4万5000円ほどか。しかも再生機器を新たに入手しようとしたら中古でも20万円くらい? 新品で買おうと思ったら、もはや製造から撤退したメーカーが多いこともあって、200万円はするらしい。道楽もここに極まれりって感じだ。アナログLPやカセットテープでの再発が増えてきて、若い世代の間でもインテリアとしての利用も含め好評だとは聞いていたけれど、オープンリール・テープじゃ壁に飾るってわけにもいかないだろうし。
CDの再発にしても、巻頭で取り上げたジョニ・ミッチェル4CD,ジョン・レノン9CD+3ブルーレイ、ボブ・ディラン8CD、ブルース・スプリングスティーン4CD+ブルーレイ、ジミ・ヘンドリックス4CD、ビートルズ8CD、ローリング・ストーンズ4CD+ブルーレイ…。お金もないし、残された時間も限られてきているっていうのにさ。どこまで行っても振り回されっぱなし。まあ、もう覚悟してるけどね。思いきり振り回されてやるって(笑)。
2025年11月20日 発行 初版
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