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コーカサス地方
フィールドワーク

清水正弘

深呼吸出版



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★ 目 次

ディアスポラへの追慕からはじまる
フィールドワークへの道程
松岡正剛さんが見るコーカサス

文明のゆりかご
神秘学の巨人達とコーカサス
神秘学の巨人達とコーカサス2
マルコポーロとアルメニア

◆ ジョージア編

ジョージアの豆知識
百万本のバラ
ジョージアンダンスの特徴
多声音楽ポリフォニー
ジョージアの食(代表的なもの)

拝火教(ゾロアスター教)への思慕
ユダヤ人ディアスポラの聖地
大学(日本語教室)訪問
ジョージア軍用道路
カズベキのゲルゲティ三位一体教会

首都トビリシの歴史概観
野外博物館
トビリシの教会群・メテヒ教会
至聖三者大聖堂
シオニ大聖堂

ジョージア国立博物館
メイダニ広場&メイダンバザール
ソロラキ地区
レグフタケビの滝
ジョージアの母像

キャラバンサライ
温泉の街トビリシ
ベルリンの壁
トビリシの市場
市内のユニークな歴史建築群

ジョージアのスポーツ
スターリンとジョージアの関係
旧都・ムツヘタ
 スヴェティツホヴェリ聖堂
 シヴァリ聖堂
ウプリスツィケ洞窟都市遺跡
ジョージアの手工芸品など

◆ アルメニア編

アルメニアについての基礎知識
聖山アララット山

アララト山と対峙する
メソポタミアの素戔嗚尊
「ノアの箱舟の木片」
エチミジアン大聖堂
アルメニアの楔形文字粘土板

ズヴァルトノッツ遺跡
ゲガルド修道院
セヴァン湖と修道院
ホル・ヴィラップ修道院
異教のガルニ寺院

アルメニア最高峰・アラガツ
国境越え資料

◆ トルコ編

イスタンブールと山田寅次郎
ボスポラス海峡の暁光
メルバーナ教団博物館
グランバザール
ギョベックリ・テペ遺跡

ディアスポラへの追慕からはじまる

その山は、圧倒的な迫力をもって眼前に屹立していた。アルメニアの首都エレヴァンのホテルの屋上に昇り、夜明け前から西方角を注視していた。どうしても、この山が暁光に染まる瞬間に出逢いたかったのである。頂上付近には降雪があり、白銀の峰が黄金色に染まっていくのである。その神々しいまでの夜明けの光景の前では、紀元前から多くの信仰者が静かに頭を垂れてきたことであろう。その山の名は聖山アララト。単に地理的なランドマークではなく、多層的な意味を帯びた「聖なる山」である。

標高5137m、山頂は現在のトルコ東部に位置する。旧約聖書の「創世記」では、人類を破滅に追いやる大洪水が発生した際、一部の選ばれた人間と動物がノアの箱舟に乗り、とある山の山麓へ辿り着いたとされるが、その山と推定されるのがアララト山なのだ。アルメニアは西暦301年、世界で初めてキリスト教を国教と定めた国だ。ノアの箱舟伝説は、アルメニア人の宗教意識の中で単なる物語ではなく、「選ばれし民と地」を裏づける根拠として今なお強い影響力を持ち続けている。
 
エレヴァンの西方エチミアジンには国教化と同じ301年、世界初の教会が設立された。このエチミアジン教会は、アルメニア人にとって最大級の聖地である。教会の宝物殿には、ノアの箱舟の一部とされる木片も納められている。その木片の前では、信者らしき参拝者が静かに佇み、神話世界への静かな想いを馳せている。また近くには十字架に磔になったキリストの脇腹を刺したと伝えられる槍先も展示されている。多くの巡礼見学者は展示物の前では黙して語ることなく、慈悲に満ちた表情で歩みを進めていた。そんな巡礼見学者をみていると、考古学的な信憑性の如何を問う前に、世界中のキリスト教徒からの原点回帰への深い眼差しが、聖山アララトへと注がれていることに注視すべきであろう。

私が初めてアルメニアに接したのは、学生時代にアジアを放浪した際、シンガポールで「アルメニアン教会」を紹介された時である。1835年の創建、シンガポールで最も古いキリスト教の教会と聞いた。当時は、アルメニアが世界のどこにあるのかも想像がつかなかったが、その教会の面影は心に刻まれ、やがて今回の訪問にもつながる興味関心へとつながった。なぜ、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス地方にある小国の教会が、19世紀に東南アジアにまで進出していたのか。調べていくと、アルメニアは欧州と中央アジア、西南アジアの中間点に位置し、交易活動の盛んな歴史的背景のあることが浮かんだ。13世紀のヴェネチア商人であるマルコポーロが語った「東方見聞録」もアルメニアの記述から始まっている。シルクロード交易の時代を中心に、人や物、思想、表現、そして信仰などが行き交ったスクランブル交差点だったのだ。
 
その地に生きたアルメニア人は、ディアスポラ(離散の民)というキーワードでも語られる。商活動による世界各地への移民に加え、20世紀初頭にはオスマン帝国による虐殺を伴う弾圧が起き、難民として離散した。ディアスポラとしてのアルメニア人は、文化や習俗の異なる土地で小さなコミュニティを構築し、精神的支柱としてアルメニアン教会を設立していった。アララト山の神聖なる姿とノアの箱舟伝説に守護されながら、信仰上のアイデンティティを継承していったのだ。現地で案内してくれた30歳代の女性も、精神的な悩みが生じた際には、静かに聖山アララトと対峙する時間をつくったり、近くのアルメニア教会に参詣したりすると言っていた。
 
私はインドのチベット難民とも長くつくあってきている。彼らも祖国から政治的ディアスポラとなって半世紀以上が経過している。祖国を失った彼らの精神的支柱はダライ・ラマ14世を軸とするチベット仏教である。現代日本においては、悩みの解決に信仰的行為ではなくITなどの活用が推奨されている。ただ、アルメニアのキリスト教徒や、難民であるチベット仏教徒らが浮かべる安寧の表情の源泉に触れると、信仰的行為の奥深さに改めて感銘を覚えるのである。そんな奥深い信仰世界の背景を探るとともに、世界三大長寿のエリアと言われるコーカサスの諸文化(食・住など庶民文化を中心とした)へのフィールドワークを、2025年9月~10月にかけて実施したのである。

2025年11月17日中国新聞(洗心欄)

フィールドワークへの道程
(出発前に記述したもの)

念願であったコーカサス地方(ジョージア・アルメニア)へのフィールドワークへの道のりを述べてみたい。今回は、タイ航空にてバンコック・イスタンブールを経由し、その後はターキッシュ航空にてジョージアの首都トビリシへとアプローチするルートとなった。総日数は、19日間。大学時代の探検部仲間(法政大学の探検部OBではあるが)との2人旅である。(※彼はトルコやタイにて延泊し総日数1ケ月の旅となる)彼とは、昨年ヒマラヤの秘境ムスタンを伴に歩いてきた。そして毎年一回は海外フィールドワークを伴にしようと約束していたのである。来年はインドの信仰地探訪かロシアの仏教圏カルムイク共和国(仏教最西漸圏)などが候補に挙がっている。
 
さて、コーカサスへの思慕は、ディアスポラへの追慕とともに、とある一冊の本からはじまったのである。それは、長寿食研究者の家森幸男先生著の『長寿食・世界探検記』である。予防医学である東洋医学への関心を深め、鍼灸師資格を取得した頃にこの本を読み、世界の長寿食文化圏への関心がさらに深まっていったのである。世界三大長寿圏の一つ、パキスタン北部のフンザには小計10回程度すでに訪問している。他の二つは、エクアドルのビルカバンバ地方と今回フィールドワークするコーカサス地方である。三つともに共通するのは、(高地であること)、(自然に恵まれた環境)、(健康的な食生活)などが挙げられている。長寿圏の文化・歴史背景を調べていくほどに、これらの長寿圏への思慕の念が一層強くなっていったのである。
 
昨今の日本でも、健康長寿(ウェルビーイング的長寿)についての見直しが進められている。人間にとっての(真の幸福的人生)とはなんぞや?という壮大な課題には、フンザやブータン、北欧諸国への訪問時にも思考を重ねてきた。コーカサスへも、『いつかは調査に行くぞ』と思っていたら、とんでもない(ご縁)が舞い降りてきたのである。なんと、高校時代の同級生がJICA(独立行政法人国際協力機構)の活動にて、このコーカサス地方の一国・ジョージアへ赴任されたのである。彼女とは高校時代以来において再会してはいないのだが、息子さんやお父さんが広島へ来られた際に宮島をご案内したりした。また、彼女の妹さんが教える大学の特別講座のインタビューを受けたりと、これまでもご縁がどこかで繋がっていたのである。その彼女からリアルタイムな現地事情や情報などを入手することができ、また現地訪問時には久方ぶり(ウン十年?)の再会もできそうなのである。

※ 地図上にて(グルジア)と表記されているのが現在のジョージア国である。また、地図右上では、カルムイク共和国の位置も識別できる。

特にジョージア滞在中には、食文化や舞踏芸能・芸術などにも接してきたいと願っている。特に、(食)は長寿食文化や乳製品、そして(飲)は、ワインの多産地でもある。
(※下記は長寿食の研究者の記述より抜粋)

カスピ海ヨーグルトを発見

もう1か所、世界の長寿地域として知られていたコーカサス地方を訪れたのも1986年のことでした。コーカサス地方の中でも当時ジョージアにはセンテナリアン(100歳以上の人)が多いことで有名でした。私たちはこの地区でも一番長寿の人が多いと言われていた、オセチア地区のジャワ村を訪ねて健診をしました。ここは、ジョージアの中でも、オセチア語を話し、独自の文化を持つ村です。村にはホテルも何もなく、私たち健診チームもテント暮らしで健診を続けました。肉料理は、シシカバブ(ぶつ切りにした羊肉などの串焼き)や、牛や羊などの、茹で肉や蒸した肉などを香辛料で味付けした料理が中心です。また、ここにも牛の胃などに果物を加えて発酵させた汁を牛乳に混ぜて固めた、フレッシュチーズがありました。
 
海からは離れていますが、近くの川で獲れるマスに似た淡水魚もよく食べられていました。さらに注目すべきは、食卓にどっさりと出される野菜や果物の多さです。ワイン発祥の地と呼ばれるだけあり、ブドウやプルーンなどは非常に豊富です。プルーンをつぶして作った砂糖の入らない「ツケマリ」というジャムも、調味料として使われていました。そして、なんといっても特徴的なのは、毎食、どんぶりのような器になみなみとサーブされる自家製ヨーグルトです。各家庭で、牛を飼ってヨーグルトを作り、それぞれに家庭の味があるようでした。
 
この時のヨーグルトを私たちが日本に持ち帰ったことで、後に、「カスピ海ヨーグルト」として日本でも大ブームとなりました。現地のお年寄りたちと一緒に食事をして驚いたのは、現地の方たちは、ブドウなどの果物の皮や種もまるごと食べてしまうのです。皮には食物繊維が豊富ですし、種にはコレステロール値を下げる不飽和脂肪酸が入っているので大変よい食べ方なのですが、私たちもその食べ方を真似したら、たちまち下痢をしてしまいました。現地の方は日常的に飲んでいるヨーグルトに免疫力を高める作用があるから大丈夫なのでしょう。実際の尿の分析では、塩分摂取量は、1日14グラムと当時の日本の平均値よりもかなり高い値でした。
 
しかし、日本と違うのは、カリウムを含む野菜や果物、ヨーグルトなどを多くとっているので、ナト/カリ比(ナトリウムに対するカリウムの比率)が低く、塩の害が打ち消されているということです。また、肉の摂取量は多いのに、コレステロール値が高くなかったのですが、これは、肉を、焼いたり蒸したりして、脂を落として「賢い食べ方」をしていたせいだと思います。また、魚も摂っているので血圧を下げる効果のあるタウリンも多いことがわかりました。
 
ジョージアではお酒は長寿の源と考えられており、実によくお酒を飲みます。「タマダ」と呼ばれる長老が乾杯の発声を執り行い、乾杯用には牛の角のカップが使われます。机の上に置くとこぼれてしまうのでなみなみと注つがれたワインを必ず飲み干すこととなります。こうして、みんなで食卓を囲みワインを飲んで盛り上がって歌われる歌は、複数の人たちがそれぞれのリズムと旋律をうたう「ポリフォニー」と呼ばれる独特な合唱です。これは無形文化遺産にも指定されています。
 
ワインやブドウに含まれるレスベラトロールというポリフェノールには大豆に含まれるイソフラボンと同様の女性ホルモンに似た作用があることがわかっています。大豆を多く摂取する地域は長寿であると第1回の連載でお話ししましたが、コーカサスでは、このレスベラトロールも長寿に一役買っていたのでしょう。また、「ポリフォニー」で音程を違えて歌うことも認知症予防に役立っていたと思われます。

コーカサスから日本へ。ゾロアスター教から仏教へ

私が尊崇する数少ない人生の先達の一人・松岡正剛さんの著作に、次のような一節がある。これは、コーカサスと日本仏教との関連性について記述された貴重な文章である。

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黒海とカスピ海の間

「アジア・ユーラシアから仏教が日本に来るまで」

なぜ日本仏教は語りにくいのか、難しいのか。この後、末木さんや福家長吏から詳しくお話をうかがいますが、その前に私がいくつか露払いをしておこうかなと思います。簡単に言うと、アジアが大きいのですね。インド半島があり、東南アジアがあって、今、非常に話題になっている黒海とカスピ海がある。

その周辺でスキタイ、フン族、ゲルマン系の部族など、多くの部族が動いていましたが、それぞれの「契約」、すなわちいろんな約束事が違う。(中略)そこから少し下のところにチグリス・ユーフラテス川があって、ペルシア湾に出る。

この中でとくに重要なのが、黒海とカスピ海の間、はっきりとはしませんがそのあたりに半遊牧、半農耕の民族がおそらくいたと思われます。それが後々アーリアと呼ばれます。アーリア民族というのはいまひとつよくわかりませんが、おそらくこれだろうかと言われている人たちがいる。

アーリア民族の子孫とされる民族もたくさんある。ただし、それらの民族の言葉がみんな違う。信仰も違うし、契約の仕方も違う。だからたいへんわかりにくいんです。のちにナチスがアーリアこそが自分たちの祖であるとして、アーリア主義を主張しましたね。

そのようにはっきりしないことは多いのですが、ともかく、黒海とカスピ海の間に前アーリアと呼ばれるべき母集団がいたというふうに私は思っています。この母集団は、「アフラ」という光の神を主神とする非常に強い信仰を持っていました。ところが、この母集団がやがてインド系とイラン系に分かれていくんですね。

その際に、イランに向かった集団がアフラをそのまま主神とし、これを「アフラ・マズダ」と呼び始めます。これがのちにゾロアスター教になっていくわけです。その一方、インドに向かった集団は、同じ「アフラ」を主神とするわけにいかないので、これを「アスラ」と呼んで闇の神にしてしまいます。

これが「アシュラ」、つまり興福寺のあの阿修羅像のルーツになっていく。このように、元は同じアフラであった神が分派し、変容して、それに伴い信仰の「ルル三条」もイラン系とインド系で大きく変わっていくわけです。

こういう分派と変容は、仏教の歴史においても何度も起こっています。日本に来てからも、南都六宗だって、天台だって真言だって、禅だって、いろいろと分かれていったわけです。分かれていけば、戒律や信仰のシステムが違っていくのは当たり前です。ただ、仏教でも他の宗教でも、あるいはアジアの歴史を捉える場合でも、元の元は何だったのかを知る必要がある。

文明のゆりかご

隣接する『文明のゆりかごゾーン』

黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス地方は、『文明のゆりかごゾーン』と呼ばれるメソポタミア地方に隣接しているのである。紀元前4000年以降になると、現在のイラクを流れるチグリス川、ユーフラテス川の流域に住んでいたシュメール人が、人類史上初めて食糧の余剰生産に成功する。この出来事が人々の定住をうながし、やがて最初の文明が誕生する。

メソポタミアとはギリシャ語で「川の間の土地」を意味する。その南に広がる肥沃な大地は、灌漑によってさらに農業生産力を高めていった。農作物の余剰は人口増加をうながし、やがて一つの社会を生み出したのである。そこには書記、教師、大工、 石工、 陶工といった職能集団が現れ、宗教的、あるいは政治的指導者によって統治されるようになるのである。
 
紀元前3500年頃になると、この社会は技術や芸術に彩られた宗教都市へと発展をとげた。紀元前2330年頃、シュメールのすぐ北側に世界初の帝国が誕生する。これがアッカドである。歴史に名を残す最初の王サルゴン率いるアッカド人は、有能なシュメール人と交わり、模倣し、ついには彼らを凌駕する。サルゴンは50年以上にわたって統治者として君臨し、孫の代まで続く盤石の王朝を築き上げた。孫のナラムシンは反乱を鎮圧すると、自ら神と称するようになった。
 
だが、ナラムシンが世を去ると、王朝はもろくも崩れ去り、彼への信仰も霧消した。その後、メソポタミアの都市国家が勢力を回復する。やがてその一つ、バビロンを首都とする王国が台頭し、アッカドに匹敵する帝国に成長する。他の都市国家はまたもや強国の影を身を潜めることになったのだ。紀元前1792年にバビロン王に即位したのがアモリ人の支配者ハンムラビだ。ハンムラビは勇猛な戦士にして賢明な統治者だった。

シュメールやアッカドをはじめ、征服した土地の伝統を尊重するが、敵に対してはとことん冷酷で、歯向かう都市は容赦なく破壊した。一方で、全領土に共通の法典を整備し、帝国の統一を成しとげ、安定した王権を築いた。そのハンムラビ王朝もわずか数世代で終わりを告げる。度重なる反乱によって衰退し、ハンムラビに勝るとも劣らぬ非情な外敵、ヒッタイトとアッシリアに屈したのである。
 
その後、紀元前7世紀につかの間の復興を果たし、エルサレムで起きた反乱を鎮圧したが、やがて現在のイランからやって来たペルシャ人に征服されてしまうのである。ペルシャは、地中海沿岸勢力の侵入を退けて1000年以上にわたって繁栄し、後世まで長く続く足跡を残した。中でも、軍事戦略に優れたキュロス大王やダレイオス1世に導かれたアケメネス朝の時代は200年以上にも及んだ。だが、そんなペルシャもギリシャの都市国家との長きにわたる抗争の後、紀元前330年、マケドニアのアレクサンドロス大王の手に落ちる。

アレクサンドロスの死後、その帝国は臣下の将軍たちによって3つに分割されてしまうのである。そのうちの一つが、セレウコス朝であり、その後もアルサケス朝(パルティア)、ササン朝などがペルシャの地に覇を唱えたのである。セレウコス朝とパルティアはローマとの戦いで衰退し滅んだが、ササン朝はカスピ海とペルシャ湾に挟まれた領土を死守し、紀元651年にイスラム勢力に滅ぼされるまで続くことになる。
 
このように、特にコーカサス地方の南部にあたるメソポタミア地域を中心に古代より諸文明の発生エリアとなっているのである。このメソポタミア文明を支えたのが、チグリス・ユーフラテス川である。この大河の源流域の一つにあたるのが、コーカサス地域といってもいいのである。
 

神秘学の巨人達とコーカサス

『西欧の闇に息づく、隠された知の系譜』とも称せられる、神秘学世界。コーカサス地方というのは、この神秘学世界における巨人達と、大きな関係性があるのである。その背景には、コーカサス地方の地政学的背景もあると考えられている。文明の十字路として古代よりヒトやモノが行き交い、また民族・宗教・文化の交差点でもあった。異文化や多宗教が混在しながら、共生や離合を繰り返す歴史の中で、欧州一辺倒ではない『伝統知』や『在来知』からの智慧がうまれる土壌が育成されていたのかもしれない。コーカサスと因縁のある、神秘学の巨人の一人を紹介しよう。

G・I グルジェフ

ギリシャ系の父とアルメニア系の母のもとに当時ロシア領であったアルメニアに生まれ、東洋を長く遍歴したのちに西洋で活動した神秘学の巨人の一人である。欧米の文学者と芸術家への影響、心理学の特定の分野への影響、いわゆる精神世界や心身統合的セラピーの領域への影響など、一般に「ワーク」として知られる精神的/実存的な取り組みの主導者として、および著述家・舞踏作家・作曲家として知られている。彼の生涯を振り返ると、当時はロシア領だったアルメニアのアレクサンドロポル(現在のギュムリ)に1866年ごろに生まれている。グルジエフの自伝的著作での記述によると、父からギルガメシュ叙事詩を聞かされたことが「失われた古代の叡智」への関心のひとつのきっかけとなった。
 
ロシア、ペルシャ、トルコが国境を接し、宗教と民族が混交するこの地で少年時代を送るなか、グルジエフはいくつかの不思議な現象を目撃し、それはやがて人間の生の意味をめぐる探求への衝動になった。少年時代をカルス(トルコ北東部の都市)で過ごした後、ジョージア(グルジア)での一時期を経て、エジプトから始めて「東方」へと旅立っていく。グルジエフは友人とアルメニアの古都アニの廃墟で、伝説的な教団の実在を示唆する古文書を掘り出し、これがアジアとオリエントの辺境をめぐる長い旅の最初のきっかけとなった。エジプト、アビシニア、メソポタミア、小アジア、ペルシャ、中央アジア、ゴビ砂漠周辺、パミール、インド、セイロンなど。
 
それらの地域を、「真理の探求者たち」を名乗るグループの他のメンバーらと探索した後、1902年から1904年までチベットに滞在した。中央アジアの奥地などへの探検行をくりかえし、古代的名叡智の痕跡や隠された教えの源泉を求めて、遺跡の発掘にあたったり、隠された僧院や精神的な共同体をめぐったりし、さらには伝承・象徴・音楽・舞踏などの研究にもあたった。その後はタシケント周辺で人間精神の謎を解き明かすことを目的とする実験的究明に取り組んだ後、1911年ごろからサンクト・ペテルスブルグとモスクワを拠点とするようになる。ここに至るまでのあいだにグルジェフは3度にわたって撃たれ、死に瀕(ひん)している。1度目は1896年にクレタ島で、2度目は1902年にチベットで、3度目は1904年の末にトランスコーカサス地方でである。
 
1度目の被弾のときは、昏睡状態のまま同胞によってエルサレムに運ばれ、そこで回復した。2度目に被弾したときは、仲間たちによって、タクラマカン砂漠の西端、ヤンギサールからそれほど遠くないところに運ばれ、そこで回復した。3度目に被弾したときは、ふたたびヤンギサールからそれほど遠くないところにある、2度目に被弾した場所に運ばれている。グルジェフにとって、清澄な苦しみを通じての浄化の場を象徴するその地で、体を回復させるとともに、精神の決定的な転機を迎えたと言われている。
 
グルジエフが語るには、この放浪の時代に好んで動乱の地にみずからを置いたのは、人間の集団心理の異常性をめぐる謎の解明を目指してのことであった。グルジエフは、ここにおいて、みずからの探求の目標が二つになったと語っている。人間にとっての生きることの意味と目的をあらゆる側面から究明し、それを正確に理解すること。そして、人々を容易に「集団催眠」の支配下に陥れる要因としての「外部からの影響への弱さ」を人々から取り除くための手段なり方法なりをどんな代償を払ってでも見つけること、が最も重要なことであると。

神秘学の巨人達とコーカサス 2

マダム・プラヴァッツキー

ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーは、近代神智学を創唱した人物で、神智学協会の設立者のひとりである。1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて生誕。父方はユグノー(プロテスタントのフランス系)の血を引くドイツ系、母方はロシア人である。1848年、アルメニアのエリヴァン地方副知事の職にあり、20歳以上も年上であったニキフォル・ブラヴァツキー将軍と結婚したが、長続きせず数ヶ月で家を出て何度も住まいを変えていく。ここからが、彼女の世界放浪への旅の始まりであるが、その後における彼女とコーカサス(主に北カフカス)との関係性についてみてみよう。
 
彼女の幼少期は、様々な民族と宗教が混在するロシア帝国の南方を転々と放浪する生活をしている。特にアストラハンで遊牧民のカルムィク人とそのチベット仏教に出会っていたことは、彼女のその後の人生に少なくない影響を及ぼしたと考えられている。彼女の母エレーナ・ガンは,転居を繰り返す放浪生活に耐えがたい疲弊を感じていたが、その一方で西欧文明とは異なる生活の中にインスピレーションを見出し、「異郷」を舞台とした一連の小説を発表している。時に、1820–1830年代のロシア文壇を風靡したロマン主義は、「カフカスもの」と称されるロシア南方を舞台とした小説を輩出していた。エレーナ・ガンの創作も,この潮流に棹差すものだったのであり、1838年に彼女が発表した、カルムィクを舞台とする小説「ウトバーラ」もまたロシアのオリエンタリズムが生み出した作品の一つといえる。
 
マダム・プラヴァッツキーは、幼少のころから当時のロシア領であったカフカス(コーカサス)ゾーンにおける、キリスト教以外の宗教や文化の背景に接してきたのである。当時のヨーロッパのロマン主義文学は,西欧文明社会の因習や制約にとらわれない「野生」や「神秘」に触れる場として、オリエントを重要な舞台としていた。一方、ロシアのロマン主義の文人たちは内なるアジアに目を向けた。それがカフカス(コーカサス)エリアだったのである。「コーカサスもの」と呼ばれるオリエント表象の嚆矢となったのは、1821年に発表されたプーシキンの『コーカサスの虜』であった。
 
首都ペテルブルグで展開される「ヨーロッパ文明社会」の虚飾に飽いたロシアの知識人たちは、コーカサスに未知の世界と新しい可能性を見出そうと試みた。ロシアのオリエンタリズムの端的な特殊性は、ヨーロッパでもなければアジアでもないロシアの位置づけにあるといえよう。帝国の陸続きの領内にアジアを内包し、膨張してきたロシアには、ヨーロッパ的自己とアジア的他者を隔てる明確な境界が存在しない。こうしたあいまいな状況の中で、非キリスト教的文明圏に生きる遊牧民や山岳民をアジア的「他者」として、ヨーロッパ的「自己」に対峙させていったのが、コーカサスものの小説であった。
 
マダム・プラヴァッツキーが設立した神智学協会も、「偉大な魂」(マハトマ)による古代の智慧の開示を通じて諸宗教の対立を超えた「古代の智慧」「根源的な神的叡智」への回帰をめざしていた。その思想は、キリスト教・仏教・ヒンドゥー教・古代エジプトの宗教をはじめ、様々な宗教や神秘主義思想を折衷したものである。このように、当時のロシア社会においてのカフカス(コーカサス)は、近代の欧州における矛盾や限界に対する、解決の糸口的存在でもあったのだろう。マダム・プラヴァッツキーが1875年にアメリカで設立した神智学協会はその後、オルコット大佐らによってインドに進出して活動をしている。インドでは、英文機関誌『The Theosophist』を創刊し、1879年にはボンベイにても積極的な講演活動を行ったり、日本にも招来されたりしている。この日本への招来により、明治の日本仏教は新たな展開をしていくのである。鈴木大拙の妻は神智学協会員である。インドでは、ヒンドゥー教を含む諸宗教の融合を目指し、古代インドの文化を再認識させる運動を展開し、アニー・ベザントの入会によってさらに発展していくのである。

マルコポーロとアルメニア

13世紀に存在した、後に大旅行家(商人ではあったが)として評価されるマルコポーロ。その代表作は、『東方見聞録』である。意外に知られていないが、この紀行文の冒頭には、アルメニアとジョージアが記述されている。その旅は1271年に始まる。この1271年というのは、日本においては鎌倉時代である。フビライ・ハンが率いるモンゴル帝国(国号を「元」と改称)が日本に対して朝貢を要求した年である。鎌倉幕府がそれが拒否したことから、モンゴル帝国は日本への対応を急転回させ、元寇の危機が現実味を帯び始めるのである。
 
マルコポーロと父親、叔父の大旅行は、最初はヴェネツィア出航に始まって、アドリア海と地中海をわたり、エルサレム→アッコン→小アルメニア→バグダードに入る。ここまでで、マルコはテュルコマニア(今のアルメニア)の絨毯に目を見張っているという記述もある。そして、カフカス山脈の付近でキリスト教・ユダヤ教・イスラーム・仏教などが混在しているのを感じて、びっくりしている。(※この時代にコーカサスエリアにても『仏教』が伝搬していることは注目に値する)当時世界を席巻したモンゴル帝国の帝王、フビライの宗教的寛容がこんなところまで及んでいるのに驚いている。
 
ついで、進路を南にとってクルディスタンからアララト山あたりを過ぎていくのである。ここはノアの洪水伝説があったところで、マルコもそのことに触れている。また、アゼルバイジャンの「黒い油=油井」についての噂も記載されている。おそらくや、ゾロアスター教についても情報を得ていたはずであろう。ここからは、いまのイラクのモスルをへてバグダード(バウダック)に入っていくのである。このマルコポーロが17歳の時に出立した大旅行には前節的イントロがあるのを忘れてはならない。マルコの父・ニコロと叔父・マテオによるヴェネティアから当時のモンゴル帝国の首都までの交易旅である。ニコロとマテオの東方旅行は商売の旅である。当時の交易商人の多くは街道で塩や毛皮や奴隷を主要商品として交換することにしていた。ただ、ニコロとマテオ兄弟は、村落やイスラーム都市に入り込み、金や宝石や香辛料を交易するのが得意だったようである。そのほうが運搬する荷物が軽く、捌きやすかったからだと推測されている。ただ、兄弟が金や宝石や香辛料を交易していたことが、後の時代のヨーロッパ人へ、『東方』への憧憬を生み出してもいる。

前述のように、コーカサス(アルメニア・ジョージア)は、世界の名著『東方見聞録』の冒頭に登場しているのである。当時のイタリア商人にとっては、アドリア海からコンスタンティノープル(現イスタンブール)を経て、黒海を渡りコーカサスへと入るルートは確立されていたのだろう。それだけに、コーカサス地方は欧州エリアと中央アジア、そして中国大陸との接点として考えられていたのであろう。では、なぜ、ヴェネチア商人がコーカサスに出没していたのか、、。
 モンゴル帝国の成立と時を同じくして、コーカサスではもう一つ新しい国際的要素が加わったのである。黒海では1260年以降、ジェノアとビザンティン皇帝ミカエル・パレオロゴスとの条約によりジェノアの商船隊の黒海乗り入れが実現したのである。またジュチ・ウルスのモンケテムル・ハンとも条約が結ばれ、クリミア半島のカッファを中心に活発な商業活動が行われた。さらに内陸に向かってはタナ(アゾフ)が最も主要な港であったが、タナとアブハジアのスフム(スフミ)との間には40ほどのジェノア商館が置かれていた。カッファのコンスルは、アディゲ(チェルケス) 人と協定を結んで、市民の保護を確保していた。ジェノア商人はカスピ海にも商船隊を配備していた。
 
彼らがコーカサスにもたらした商品は、木綿、ビロード、錦、絨毯、木綿糸、ヴェネチア・グラス、石鹸、乳香、刀剣、塩、米、 芥子、生姜などである。コーカサスの主要商品は塩干魚、イクラ、狐・テン等の毛皮、小麦、蜜蠟、ワイン、果物、柘植などの木材、ナメシ皮、特に奴隷であった。商人と一緒にやってきたのは、カトリックの伝道団であった。トビリシには常駐の地方本部があり、ダゲスタンにおいても宣教活動が見られた。これらは地元の東方正教系やキリスト単性説系のキリスト教徒の改宗を当て込んだものであったが、14世紀にはモンゴル人の改宗を見込んで首都にスルタニヤ司教区が置かれていた。商人と宣教師もイルハンの首都と行在所に旅する人々の一部であった。しかし彼らの活動は、モンゴル人が平和を保障したから生じたのではない。「パクス・モンゴリカ」は、広域政権によって移動や生産活動のリスクが少なくなったのではなく、むしろ大ハンと世界各地のハンの宮廷という強大なマーケットが誕生し、それに見合ったハイ・リターンがあったからである。

★ マルコポーロは、1271年にヴェネチアを出発し、17年かけてモンゴル帝国に達している。
★ 『東方見聞録』によると、マルコポーロの父と叔父は、1271年以前にもアジアを東へ向かい、クビライとも謁見していると書かれている。すなわち、ジェノアやヴェネチアの商人らによって、13世紀にはすでに東方交易が盛んに行われていたのである。

ジョージアの豆知識

2015年国名呼称を変更している。それまでの呼称・「グルジア」から『ジョージア』になっている。ワインの発祥国の有力候補地でもあり、長寿食の要素とされているカスピ海ヨーグルトの故郷でもある。ロシアとの国境となる大コーカサス山脈でトレッキングや登山などでも知られている。さらに、古代より諸民族が共生(一時は争いもあったが)してきた文明の十字路的位置にある。
 面積は日本の5分の1で約7万平方km。人口は約430万人。民族分布はジョージア系が80%以上、そのほかにアゼルバイジャン系、アルメニア系、ロシア系などである。北部のロシアとの国境地帯には、標高5000m級の大コーカサス山脈が展開している。それが自然の障壁となり、ロシアからの脅威を防いでもいる。その 国土の多くは山岳地帯に属しており、標高の高い北部は万年雪や氷河もみられる。ただ、国の西部は黒海に面しており比較的温暖な気候でもある。
 
緯度的に言えば、日本の青森ぐらいの位置にあり、日本と同じく四季の移ろい変化もある。9月の平均気温は20℃。最高気温は25℃、最低は15℃。日本(東京)の10月くらいに相当する。
10月の東京と比べての相違点は、降雨量と湿度である。トビリシの9月の平均降雨量は23ミリ程度、湿度は4%程度である。現地のガイダンスなどを見てみると、年間で一般的な屋外観光活動のためにトビリシを訪問する最適な時期は、6月上旬から9月下旬とされている。
 
宗教的には、4世紀初頭に当時のジョージア国王がキリスト教の洗礼を受け、現在も国民の大半が東方正教会系ジョージア正教会に属している。ただ、東部のアゼルバイジャン系住民や北部の北コーカサスの諸民族集団などはイスラーム教徒が多い。隣国のアゼルバイジャンはイスラム国家であり、コーカサス山脈の北部にあるロシア・チェチェン共和国もイスラム教徒が多くを占めている。言語的には、公用語はジョージア語。ロシアや中東諸国の言語とも違った独特の言語系統をなす。 紀元前からある古い言語といわれ、無形文化遺産にも登録されている。30代以上を中心にある程度ロシア語を話せる人も多い。
 
産業的には、ワイン用のブドウや食肉、チーズの生産など農業・畜産業が中心で、ワインやミネラルウォーターの国外輸出も盛んである。また近年は都市部ではIT産業やサービス業従事者が増加している。2022年の統計においては、国民1人あたりのGDPは6,671USDで世界第112位であり、 平均月収は約530USDとされている。文化・スポーツ面では、格闘技世界に著名な人物を輩出している。レスリングやラグビーといった屈強な身体を活かしたスポーツが盛んで、日本の大相撲界でも栃ノ心関など活躍した力士もいる。

百万本のバラ

ジョージアの国民的画家・ピロスマニ

加藤登紀子さんのヒット曲として知られる「百万本のバラ」。この歌詞のモデルと言われるのが、ジョージアの国民的画家ニコ・ピロスマニ(1862~1918年)である。「百万本のバラ」の歌詞をご存知だろうか。フランス人の女優マルガリータと出会った貧乏画家のピロスマニが愛する気持ちを示すため、彼女が泊まるホテル前の広場を真っ赤なバラで埋め尽くした。だが、それは悲恋に終わる。ロシアの詩人アンドレイ・ヴォズネセンスキーが書いたこの恋の物語、真偽のほどは定かでない。ジョージア国立美術館には、ピロスマニの作品が約150点が所蔵されている。ピロスマニは、存命中は貧しく、作品は板に描かれたものや店の看板用に描かれたものもある。
 
しかし、今やジョージアの5ラリ札に彼の絵が載るほどで、緑あふれる公園の中に建つ、2011年に改装された美術館の大きな部屋を彼の作品が占めている。昔のジョージアの風景を想像できる農民の静かな生活、動物や家族を素朴なタッチで表現した作風は独特で必見だ。そして、そのうちの1点が、タイトルもそのままの「女優マルガリータ」。ピロスマニのマドンナは純白に描かれ、花束を手にしていた。彼女の周りを飛ぶ金の鳥は彼の恋心を表しているようで輝いて見えるのだ。
 
ピロスマニの絵は、画才・ピカソも絶賛したのである。死後グルジアでは国民的画家として愛されるようになったほか、ロシアをはじめとした各国でも有名である。ただし、ソビエト連邦においては、大粛清から第二次世界大戦、ヨシフ・スターリンの死までの15年の間、すなわち、1939年から1953年にかけ、彼に関する出版物は一切出されなかった。山口昌男は著書『知の即興空間』のなかで、ソビエト連邦の美術史家、エラスト・クズネツォフ(ロシア語版)によるピロスマニ評を紹介している。クズネツォフは『ニコ・ピロスマニ』(レニングラード、1983年)の序文において、ピロスマニは目に見える存在を描こうとしたのではなく、「描く対象の象徴や記号というべき」存在を描こうとしたと論じたうえで、ピロスマニの民族的手法について次のように指摘している。 「ピロスマニの世界においてはっきりと表されているのは、民俗芸術の伝統である。庶民的・民俗絵画はステレオタイプの多用ということで特徴づけることができる。事実、この民俗的手法は殆ど自動的に行われる。」—エラスト・クズネツォフ
 
クズネツォフはまた、ピロスマニがほかのプリミティブ派同様に人間と自然の間に境界線を引かなかったこと、また、彼の描く動物は人間の眼と類似していることに言及したうえで、ライオン、鹿、キリンを描いた作品は自身の自画像として制作されたものであり、彼の内面・感情をこれら動物をつうじて直截的に表した、と主張している。彼の国内外での評価にもかかわらず、研究においては困難も多い。理由の一つには、ピロスマニや彼の作品に関する情報について知るのに、推定や証言に依らざるをえないことがある。また、彼の死後数10年間のジョージアにおける政治的状況は、生前のピロスマニを知る人々へのインタビューを困難にさせた。これにくわえ、彼に関する文献・論文の大半がグルジア語ないしロシア語でしか出版されてこなかったことが、ジョージア国外での研究を難しくさせている。
 
その生涯は映画化もされ、ソ連(グルジア)では1969年にギオルギ・シェンゲラヤ(ロシア語版)による伝記映画『放浪の画家ピロスマニ』が、1985年にはセルゲイ・パラジャーノフによるドキュメンタリー映画『ピロスマニのアラベスク』が公開された。またソ連では、1991年に生誕125周年を記念する肖像入り切手が発行された。独立後のジョージアで発行されている5ラリ紙幣にも、その肖像が使用されている。ジョージアワインのピロスマニ銘柄の陶器瓶の模様にも彼の絵が採用されているものがある。2011年刊行『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ』では日本在住のジョージア人による評価が述べられており、遺伝学者アレクサンドレ・レジャヴァはピロスマニについて「人々をいつくしむ愛の象徴」と言及している。

ジョージアンダンスの特徴

ジョージアンダンスは地域ごとにスタイルが異なる民族舞踊で、多様性のある文化を反映しているといわれている。ダンサーたちの衣装も地域ごとに特徴が異なり、中世の民族衣装をまといながら踊るのである。また、ジョージアンダンスには男女ごとに意味があると言われている。女性は優雅さと美しさを表し、男性は勇気や名誉を表現している。男性ダンサーはジャンプやターン、高速スピンをメインに踊る。男性が履いているブロックシューズの補助なしでつま先で踊るといった独創的なテクニックを持っている。一方で、女性は白鳥が滑るようなダンスが特徴である。ジョージアンダンスにはさまざまな種類があるが、(カズベグリ)は有名なスタイルの1つである。カズベグリはジョージアのコーカサス山脈にある地域発祥のダンスで、冒頭から大ジャンプを披露してくれる。

山岳地帯の荒々しい寒さを表現するために創作された踊りで、勢いと厳格な雰囲気の動きとステップで表現するのである。おもに男性ダンサーによって演じられており、高速スピンや足技がみどころでもある。他にも意味深いジョージアンダンスがある。ジョージアンダンスは主に16種類のスタイルがある。(カルトゥリ)(ホルミ)(アジャルリ)(パルサ)(カンジュルリ)(ケヴスルリ)(ムトゥルリ)(シムド)などなどである。このように、ジョージアンダンスには地域によってさまざまな種類が存在し、演出やストーリーの違いも楽しめるのである。

多声音楽ポリフォニー

音楽・芸能分野では、ポリフォニーとよばれる(多声音楽)などの伝統芸能が数多く残されている。お祝い事のときには民族衣装「チョハ」を着ることもある。ポリフォニーとは、中世後期からルネサンス期にかけて西洋音楽で発展し、バロック時代にはフーガなどの形式で頂点を迎えた音声発出法である。複数の独立した旋律が同時に進行する音楽といわれ、複数の旋律が互いに絡み合いながら、独自のメロディを持つのが特徴といわれている。
 
最近になり、この多声音楽の精神分野における諸効能が注目されはじめている。内面的調和と多層的思考の促進法としての効果があるとされはじめているのである。ポリフォニー音楽は、複数の声部が独立しながらも全体として調和していく。この構造は、聴く者の心に「多様なものが共存できる」という安心感や柔軟性を育むともいわれている。それはすなわち、単一の主旋律に支配されない「多層的な思考」や「多面的な感受性」を促す効果でもある。
 
異なる感情(喜びと哀しみ、緊張と安らぎなど)が同時に存在することを肯定する心の状態を導くともされている。ポリフォニーでは、複数の旋律が絡み合い、最終的に全体としてひとつの世界を形成していく。これは、心の中のバラバラな思考や感情が、音の流れによって整理・統合されるプロセスにも似ているのである。混沌の中に秩序を見出す体験は、すなわち精神的カタルシスをもたらすのであろう。複数の旋律が交錯する中で生まれる不協和や緊張は、やがて調和に向かって収束していく。この「緊張と解放」の流れは、人間の心に自然な快感や浄化感を与えるともいわれるのである。すなわち、「多様な声の共存を通して、心の調和・瞑想・共感・統合をもたらす働き」だと言えるだろう。

ジョージアの食(代表的なもの)

ハチャプリ: ხაჭაპური  ハチャプリは、ジョージア語で「ハチャ(チーズ)」と「プリ(パン)」を組み合わせた言葉で、チーズ入りのパン全般を指す。ジョージアの家庭料理として親しまれており、各家庭で様々なレシピが存在する。一般的には、小麦粉、塩、ドライイースト、水(または牛乳、ヨーグルト)をこねて生地を作り、チーズを包んで焼いたり、揚げたりして作られる。

シュクメルリ:შქმერული、  ジョージアの郷土料理で、鶏肉をニンニクとクリームで煮込んだ料理である。

ヒンカリ:ხინკალი  大きな水餃子のような料理です。小麦粉の皮で肉や野菜を包んで茹で、茹でた皮の中に残る肉汁の美味しさが特徴である。

ハチャプリ
シュクメルリ
ヒンカリ

拝火教(ゾロアスター教)への思慕

拝火教の寺院アタシュガー

ここには、必ず訪れてみたかった。管理を任された隣りの個人宅が不在であり、小一時間待っていた。殆ど諦めかけた時、管理家人が犬の散歩から帰宅して、交渉の末にようやく中に入れたのである。ここでは、幸運の神・ゾロアスターに救われたのである。そう、ここは拝火教(ゾロアスター教)の宗教遺構アタシュガーである。この古代のゾロアスター教の火の神殿は、ペルシャ語で「火の場所」を意味している。曲面のペルスパックスの屋根に保護された控えめなレンガの構造物である。トビリシで最も古い現存する宗教建築の一つであり、一般的にササン朝時代(224-651年)に建てられたと考えられている。
 
この時期はゾロアスター教の繁栄によって特徴づけられ、アタシュガーは果樹の木から灯された香り高い火で知られる重要な精神的中心地として機能していた。「世界で最も北にあるゾロアスター教の火の神殿」として、その独自の宗教的重要性を強調している。トビリシがペルシャ人とトルコのムスリムの間で激しい戦争の中で、寺院は一時的にモスクとして機能していた。ノルウェー政府は、その歴史的および文化的重要性を認識し、2007年にアタシュガーの修復プロジェクトを進めたのである。古代より、トビリシは東西文化・宗教・物質・人々が行き交う多面的な十字路であった。旧市街地には、ジョージア正教会、ユダヤ教シナゴーグ、モスクなどの他にも、拝火教の古代宗教遺跡も残されている。
 
トビリシのアタシュガーは、ベツレヘムの神聖な母なる神の教会からわずか100メートル東に位置し、ジョージアの豊かで多様な宗教の歴史を証明する存在である。アテシュガーとも呼ばれるこの古代のゾロアスター教の火の神殿は、かつてその神聖な壁の中で行われた神聖な儀式の一端を垣間見せている。母なるジョージア像の北東の歴史的な斜面に隠れたアタシュガーは、曲面のペルスパックスの屋根に保護された控えめなレンガの構造物である。トビリシで最も古い現存する宗教建築の一つとして、現代の建築に巧みに隠れ、ジョージアの首都の歴史的な部分に位置している。
 
その正確な建設日が歴史に包まれている一方で、アタシュガーは一般的にササン朝時代(224-651年)に建てられたと考えられている。この時期はゾロアスター教の繁栄によって特徴づけられ、アタシュガーは果樹の木から灯された香り高い火で知られる重要な精神的中心地として機能していた。「世界で最も北にあるゾロアスター教の火の神殿」としての主張は、その独自の宗教的重要性を強調している。歴史的変化に対するアタシュガーのレジリエンスは驚くべきものである。トビリシがペルシャ人とトルコのムスリムの間で激しい戦争の中で手を変えた際、寺院は一時的にモスクとして機能していた。その後、倉庫や居住空間に転用されましたが、これらの変遷にもかかわらず、アタシュガーの精神的な本質は残り、ジョージアの国家的重要文化財のリストに名を連ねることができたのである。ノルウェー政府は、その歴史的および文化的重要性を認識し、2007年にアタシュガーの修復プロジェクトに参加した。これらの努力のおかげで、アタシュガーは今日、ジョージアの豊かな宗教の歴史の象徴として立ち、ゾロアスター教の遺産を探求したい訪問者を迎える準備が整っている。

ゾロアスター教について

東南イランは、ヤズド市に代表される地域だが、ここには、約1万人のゾロアスター教とよばれる古代宗教の信者がいる。この宗教の基盤は、相対立するが均衡が保たれているふたつの力、すなわち善と悪の概念にある。人間はこのふたつの概念のはざまにあり、善と悪の両方に等しく魅せられながら、同時にまた、そのいっぽうの選択を決定する。この二元的な概念は、多くの哲学的体系のなかに見られるが、ゾロアスター教においては、きわめて重要な宗教的要素になっている。古代帝国が統治していたころ、この宗教はゾロアスター(ザラシュストラともよばれる)によって基礎がつくられた。その教えは、ササン朝ペルシア (4世紀~7世紀)の時代に編纂された教典ゼンド-アベスタに記されている。
 
この時代にゾロアスター教は国家宗教となったが、アラビア人による征服にともなって、人びとはイスラム教に改宗させられた。こんにちゾロアスター教徒はパルシー教徒とよばれ、ひじょうに狭い地域に住んでいる。パルシー教徒によれば、アフラ・マズダ(オルムズドともいう)が善の象徴で、アーリマン(最初はアングロ・マイニュとよばれた)が悪の象徴となる。全世界は、このふたつの永遠に相対立する力――生と死、真実と虚偽、多産と不毛、火と煙、創造と破壊などの戦場であり、ゾロアスター教は善への道を見つける手助けとなるもので、この考え方は次のような文句にあらわされている。「フクマテム、フクテム、フバレステム」(「よい思想、よいことば、よい行為」)。このように人間はアーリマンならびにその悪霊の手から、絶えずその身を清めなければならないという。
 
ゾロアスター教徒は火を善の象徴と考えており、パルシー教徒の社会では、神聖な火が絶やされることがない。パルシー教徒たちは一般に白装束に身を固め、 昔は魔術師として知られていた僧侶に導かれている。パルシー教徒はまた、家々の石油ランプの灯を絶やすことがない。彼らは火を崇拝する者ともよばれるが、これらの宗教的慣例や慣習は単なる象徴的なものにすぎない。パルシー教徒はまた、水を善神の象徴とも考えている。したがって、あらゆる水源地、 小川や川などをひじょうに尊んでいる。長年のあいだに、牛の尿で死体を清めるなどの注目すべきさまざまな宗教的慣習がパルシー教徒のあいだに生まれたが、パルシー教徒はおそらく、その珍しい埋葬方法でもっともよく知られているだろう。
 
パルシー教徒が死ぬと、女たちが死体の安置室に入ってきて、神聖な火と水の前でやむことなく祈りながら翌日までその状態が続けられる。その後、死体は牛の尿のまじった溶液で清められ、丘のうえにある塔のある建物、ダクマ(「沈黙の塔」のへりに運ばれる。死体は、深い穴のうえにおかれた大型の粗末な焼き網のうえにのせられ、ハゲタカなどの腐肉を食う鳥にさらされる。このような鳥が死体の肉を食いあさった後、残った骨が焼かれる。 全に焼かれた骨は下の穴のなかに落とされるが、その穴のなかには、先にこの世を去ったパルシー教徒の骨が積まれている。ダクマは、パルシー教徒が不浄なものと考えている番人によって管理されている。その宗教的信仰によって、パルシー教徒は回教徒から異教徒あつかいを受けていて、恵まれない孤立少数集団を形成している。
 
パルシー教徒の社会生活は、回教徒のそれとははなはだ異なっている。パルシー教徒は一夫多妻制を拒み、一夫一婦制を厳格に維持している。また、祭礼もイスラム教徒が認めているものとは著しく異なっており、火が重要な役割をはたしている。パルシー教徒は現在約10万人ほどいて、そのほとんどがインドのボンベイならびにその周辺、パキスタンのカラチなどに住んでいる。彼らはペルシアのイスラム教徒の迫害をのがれた商人たちの子孫で、ボンベイやカラチに定着し、現在富裕な社会を形成している。インド亜大陸のパルシー教徒は、イランのパルシー教徒の場合ほどゾロアスター教を信奉していないが、各寺には灯が絶やされることがない。何年も前、ボンベイである男が寺の灯を消してパルシー教徒を大いにあわてさせたことがあった。それ以来、火を燃やし続ける暗室はしっかりと監視されることになり、非パルシー教徒の侵入は不可能になった。キュロス、ダリウスといった皇帝の治世には、イランに相当数の人口をもつクルド人が、そういった寺の番人に選ばれていた。

ユダヤ人ディアスポラの聖地

ジョージアの首都トビリシは、東西文明の接点として、様々な宗教が混在してきた歴史を有している。ユダヤ人が最初にトビリシに住み着いた際に創設されたシナゴーグを訪れた。現在トビリシには、写真のセファルディック・シナゴーグを含む2つの現役のシナゴーグで残っている。セファルディックは、伝統的なジョージアとユダヤの建築様式を融合させた赤レンガの大シナゴーグである。19世紀後半にトビリシに移住したアハルツィヒのユダヤ人たちによるもので、1895年から1903年にかけて建設している。このため、この場所は「アハルツィヒの人々のシナゴーグ」という別名も持っている。このシナゴーグは、毎日約1000人の訪問者を引き寄せている。世界的ディアスポラでもあるユダヤ人にとって、コーカサス地方における精神的オアシスなのだろう。
 
多文化共生のジョージアの灯台的存在でもあるユダヤ人ディアスポラは、ユダヤ人が最初にトビリシに住み着いたのは、この都市が創設された時に遡る。その象徴でもある赤レンガの大シナゴーグは、伝統的なジョージアとユダヤの建築様式を融合させた2階建てで、エルサレムに向かって南を向いており、ユダヤの習慣を尊重している。そのエクレクティックなスタイルは、19世紀後半にトビリシに移住したアハルツィヒのユダヤ人たちによるものである。シナゴーグは2009年に重要な修復を受け、構造的および文化的要素が慎重に保存された。祈りと祝祭のホール、そして伝統的な女性用ギャラリーを備えている。
 
祈りのホールの中心には「テバ」があり、ラビが祈りの際に立つ場所である。入り口の反対側には、約150年の歴史を持つアロン・ハコデシュがあり、この神聖な空間にはトーラーが収められ、シナゴーグの宗教的意義を強調している。一方、コジェヴェンヌイ・トゥピク通り13にある小さなシナゴーグも同様に歴史的に重要で、都市のユダヤ遺産の活気あるタペストリーに貢献している。

大学(日本語教室)訪問

ジョージアの首都トビリシでの貴重な体験リポートである。トビリシ在住の高校時代同級生・小西さんが、日本語を教えておられるトビリシ自由大学へお招き頂いた。日本語学科の学生さんらと、とても貴重で有意義な懇親時間をつくって頂いた。若い学生さんたちの、諸分野への向学心や日本への好奇心の厚さと深さに、改めて感銘を受けたのである。自国の歴史や文化に対する関心と知識の豊富さ、そして自国の未来への希望と期待への成熟さにも感心したのである。
 
改めて人と人との出会いのご縁に感謝すると同時に、頂いたご縁をより一層太い糸へと紡いでいきたいと強く思う。彼ら彼女らが来日した時には、広島の世界遺産(宮島や原爆関連地)から、中山間地域や瀬戸内海沿岸での庶民生活地を紹介したいと思っている。また、古事記に関心のある学生さんもいたので、出雲地方など神話関連地も案内したい。

ジョージア軍用道路

アナヌリ教会

17世紀、軍事的に重要な拠点であったため、丘の上に造られた要塞の内側に建てられ

た教会。頑強な要塞の壁と門をくぐると2つの教会が見えてくる。内部には18世紀の

火事で影響を受けつつも残るフレスコ画や外壁の浮彫彫刻を見ることができる。
教会の眼下には、青い湖面をたたえたジンバリ貯水池が広がっている。

ジョージア軍用道路とは、首都トビリシからロシア連邦の北オセチア共和国の首都ウラジカフカス (Vladikavkaz)まで続く南北全長約210kmの道のことを指す。古来からヨーロッパと西アジアを結ぶ陸路の交易路として、多くの商人が行き交っていた街道を、1799年に帝政ロシアが中近東へ進出する軍事目的で整備したことで「軍用道路」と呼ばれるようになったのである。軍用道路という名称から物々しいイメージが湧いてしまうが、ジョージアの首都トビリシからロシアとの国境手前のカズベキ村までの軍用道路のドライブ中には、車窓から見る絶景が連続するのである。19世紀初頭に、カルトゥリ-カヘティ王国が、ロシア帝国の庇護を受けたことによりこの道路の建設が始まっている。その後、この道はロシアの作家プーシキンやレールモントフの「現代の英雄」などの文学の舞台となったのである。トビリシから約120キロ、車で約2時間の場所には、ソヴィエト時代からスキーリゾートとして栄えたグダウリスキー場 (標高2196m)もあり、ヨーロッパからの観光客も訪れている。
 
現在、ジョージアとロシアとの間には、領土問題があり政治的にはそこまで関係性はよくない。しかし、この軍用道路を使ってみて感じるのは、大型トラックの往来数の多さである。頻繁に両国を結ぶ交通網が巡らされているようにも感じる。政治的には疎遠のようだが、経済的な結びつきはまだまだ色濃いものを感じざるを得ない。ジョージアの現政権は、EU加盟時期を遅らせる方針であるとも聞いている。やはり多層的地政学の舞台でもある。また、グダウリから十字架峠の間にあるのが、ロシア-グルジア友好記念塔 (The Russo-Georgian friendship monument)である。壁画展望台となっており、1983年にロシアがグルジアとの友好200周年を記念して建設されている。(※グルジアは当時の名称)正面に向かって左手側はジョージア、右側はロシアの諸文化・習俗が描かれている。

カズベキのゲルゲティ三位一体教会

正式名称は、ツミンダ・サメバ教会と呼ばれている。14世紀に建立されたツミンダ・サメバ教会と標高5000m級の山が連なる大コーカサス山脈を背景にした光景は、神々しさを感じさせられる。クヴェミムタ山(Kvemi-Mta)の山頂に立つ14世紀建立の教会である。1827年、ロシアの作家プーシキンはこの教会を訪れた際、その美しさを詩「Monastery on the Kazbek」に残している。 「日の光に照らされ、まるで雲に支えられて空中に浮かんでいるように見えた」と詠んでいる。私が訪れた日は、残念ながら曇り空であったので、教会の背後を飾るカズベキ山を見ることは出来なかった。それでも、聖三位一体教会の内部は幽玄な空気感が漂っており、プーシキンの詠んだ詩の如く、空中に浮かんでいる気分を味わうことが出来たのである。
 
天国に一番近い教会とも称されるこの建築は、国内最高峰のカズベキ山をバックに凛と立つ現役の教会である。創建当時、モンゴルとの戦争で経済的に厳しかったことから、シンプルなデザインをしている。その後、他国からの侵略のたびに宗教芸術や宝物を隠す場所としても用いられた隠れた重要拠点でもあった。信仰の自由が絶たれた旧ソ連支配時代にもジョージア正教の教会として存続し、ジョージア人の心の拠り所ともなった場所である。ゲルゲティ氷河へ続く道の入り口にある展望台が絶景スポットとして知られている。青空とカズベキ山の稜線を背景に聳える教会は、天国の名に相応しい圧倒的な美しさを誇っている。壁の上に残された人型の彫刻は、この教会を建設した建築家と考えられている。質素ながら厳かな内部に足を踏み入れると、その歴史が心と体に染み入るようである。

※ 内部では露出が多い服は禁止。女性は持参か貸し出しのスカーフを着用必須とされている。
カズベキ中心街から3.3kmで、道はあるもののアップダウンがあるので、4輪駆動車やタクシーによるアプローチとなる。

カズベキ山

天国に近い山と呼ばれるカズベキ山は、成層火山で標高は5047m。ジョージアでは三番目に高く(シュハラ山とジャンガ山の次)である。コーカサス山脈では7番目の高山で、コーカサスの火山としてはエルブルス山に次いで2番目に高いといわれている。カズベキ山の山頂はジョージアのステパンツミンダの街の西にあり、古来ここから眺める景色は山が近く、秀麗だといわれている。1979年、カズベキ山の周辺は当時のソ連政府によって「カズベギ自然公園」に指定されていて、コーカサス地方独特の植物が多く生えている。カズベキ山はテレク川に削られており、この山の東側にあるテレク川に沿ってジョージア軍用道路が開通しており、ロシアのウラジカフカスからジョージアトビリシへ通じている。
 
古代から、神々から火を盗んで人々に与えたプロメーテウスの伝説が伝わっており、ジョージアではアミラニ(Amirani)の伝説になっている。彼はその罪でカズベキ山の標高4000メートルの洞窟に幽閉されたされたといわれて、そこはジョージア正教会の草庵となっている。そこには、かつてアブラハムのテントがあったり、イエスの飼い葉おけがあったという伝説が残されている。世界百名山は諸説あるが、深田久弥は彼の世界百名山ではカズベキ山を第一に挙げているのである。ソ連侵攻の折、ここにあるマリア様のアイコン(イコン)が燃やされそうになったが、マリア様の手から不思議な光が放たれ、兵士たちがおびえて難を逃れたという伝説がある。

このイコンに祈ると病が治るといわれ「奇跡を起こすマリア」としてジョージアでも信仰を集めているそうである。山麓の街・ステパンツミンダにはジョージアの作家であるアレクサンドル・カズベギ(Alexander Kazbegi)の像と博物館がある。ジョージアは、長い歴史の中でペルシア、オスマントルコといったイスラム王朝に支配された年月が長かったのにも関わらずキリスト教を守り続けてきた。

首都トビリシの歴史概観

ロシア支配時代には、プーシキンやトルストイなどロシア帝国の著名な作家や芸術家たちが、この街に滞在している。また、神秘学実践者の一人である、グルジェフもこの街のオペラハウスなどにて、舞踏公演などもしている。今回のフィールドワークに同行した友人は、文学をこよなく愛する人物であるので、トビリシ滞在は彼にとって魅惑のひと時となったのである。トビリシ中心街は、長らく町の中心として機能してきた旧市街のすぐ北側、ムトゥクヴァリ川の西岸に広がっている。平地の面積は限られており、すぐ西に聳えるムタツミンダ山の斜面に住宅街が広がる坂の町だ。中心街の心臓部がリバティースクエア。「自由広場」や「独立広場」とも呼ばれるこの場所が、100万人の人口を有するジョージアの首都のど真ん中にあたる。
 
リバティー・スクエアから北にのびる大通りがルスタヴェリ通りである。ロシア帝国統治時代に整備された美しい通りには国会議事堂や各種美術館が点在しており、政治的にも文化的にもトビリシの顔として機能している。ルスタヴェリ通りをさらに北に行くと、昔ながらの民家が残るヴェラ地区に至る。 落ち着いた雰囲気が人気で、 外国人の居住地としても人気のエリアだ。中心街の見どころの多くはルスタヴェリ通り沿いに点在しているものの、大通りを外れるとローカルな雰囲気が色濃く残っているのも面白い。ムタツミンダ山の斜面にひらけた裏ルスタヴェリはレトロで瀟酒な雰囲気の建物が多く残っている。
 
トビリシ中心街が現在の姿に整備されたのは、約200年前の19世紀初頭のことである。ジョージア東部がロシア帝国の保護となったことをきっかけに、それまでの町の中心であった旧市街から都市機能が移されたのだ。長らくペルシア帝国の支配下にあったトビリシがロシア帝国の支配下となると、帝国政府はトビリシの地理的な重要性に注目し、コーカサス地域の中心都市として整備することを決定する。町はロシア語風に「ティフリス」と改称され、旧市街の北端からのびる大通りが新たに整備される。ロシア帝国調の優雅で巨大な建物が並ぶ 「ガローヴィン通り」と名付けられたこの通りが、現在のルスタヴェリ通りのことだ。近代都市として生まれ変わったトピリシは順調に発展を続け、1850年代には南コーカサス地域の交易と政治の中心として返り咲く。プーシキンやトルストイなどロシア帝国の著名な作家や芸術家が多くこの町に滞在し、文化・芸術面の発展も一気に進んだのである。
 
1917年に起こったロシア革命によってロシア帝国が滅亡すると、数100年ぶりにジョージア独立のチャンスが訪れる。翌1918年5月26日に「グルジア民主共和国」として晴れて独立国となり、ドイツなどヨーロッパ方面の国々に接近する独自の外交を展開した。しかしながらグルジア民主共和国の独立は3年も続かなかった。1921年にロシア帝国に変わって権力の座に就いていたソヴィエト赤軍がトビリシに侵攻し陥落。以降70年間ソヴィエト社会主義邦(ソ連)の統治下に入ることとなる。たった3年弱の独立だったとはいえ、ジョージアの人々にとって自身の手は、つかの間のグルジア民主共和国の政で独立を勝ち取った誇りは現在にも息づいている。グルジア民主共和国が成立した5月26日は独立記念日として祝日となっている。1991年にソ連が崩壊しジョージア国が独立すると、トビリシは国の中心としての機能を取り戻す。中心街は独立後のバラ革命など様々な出来事の舞台となり、この国の歴史に名を刻み続けている。

野外博物館

ここは、ツーリストはあまり訪れない場所である。ただ、民俗学的関心のある方には必見の場所である。トビリシ中心部からでも、車で約20分程度の距離にあり、眺めのいい山麓部に位置している。ジョージアの各地方における、伝統的家屋や家具、食器、ワイン製造に使う道具などが、広大な敷地の中で展示されている。各地地方の家屋には、素人っぽいおばさんやおじさんがいて、それでも親切丁寧に家屋の中を説明してくれるのである。 
 
そのなんともいえない素朴さが、この野外博物館の最大の魅力でもあると感じたのである。また、この敷地の中には、他のエリアで発掘された、中世時代のキリスト教教会跡も野外展示されている。その展示物の中で、とても気になった石像様のものがあった。この野外博物館の最大の魅力は、ジョージアの全国各地の伝統家屋や民具を集めた「生活文化の野外展示」であるということである。
 
約50ヘクタールの広大な敷地内に、14の地方(カヘティ、スヴァネティ、イメレティ、トゥシェティ、アジャリアなど)を代表する家屋や建物が再現されており、まるで「歩いてジョージアを縦断」しているような体験ができるのである。伝統家屋群からは、各地域の建築文化がわかると同時に、地域ごとの気候・地形・民族・信仰の違いが反映された内容を見学することができるのである。
 
たとえば、スヴァネティ地方の石造りの塔屋(要塞的な家屋)や、アジャリア地方の高床式木造建築、そして、カヘティ地方のワイン貯蔵庫「マラニ(Marani)」、山岳地帯の羊飼い小屋や祈祷所なども見ることができる。建築だけでなく、内部の生活道具、織物、陶器、宗教具などが当時のまま展示されており、ジョージアの民俗的暮らしを体感できるのである。
 
また、丘の上に位置するため、トビリシ市街とクラ川の流域が一望でき、自然景観と伝統建築の融合が美しく感じられる。この野外博物館は、民族学者ジョルジ・チャイトゼ(Giorgi Chitaia)が1960年代に構想したもので、「ジョージア文化の多様性を一ヶ所で保存・継承する」という理念のもとに設立されている。つまり、観光施設でありながらも、学術的・文化遺産的価値の高いエスノグラフィック拠点となっているのである。

トビリシの教会群・メテヒ教会

メテヒ教会は、シオニ大聖堂と青の修道院と並んで、ジョージア黄金時代を生き延びた三大建造物の一つである。この中で、メテヒ教会だけが古代のデザイン要素、特に当時非常に人気があった精巧な石の彫刻を今も残している。対照的に、教会の内部はより現代的な様相を呈している。オリジナルの内装の細部は残っておらず、今日では、壁は灰色で簡素な雰囲気で、尖頭アーチが並んでいる。古代のフレスコ画は残ってはいないが、内部に収められているいくつかのイコンは特に興味深いもので、「メテヒの十万人の殉教者」、聖シュシャニクのイコン、そしてトビリシのアボのイコンなどがある。
 
このメテヒ教会は、5世紀に建築されたと伝えられている。しかし、1235年に来襲したモンゴル軍によって破壊されたのである。その後、1289年にデメトレ2世の命を受け再建されている。15世紀には、メテヒは再びペルシャ軍の手によって甚大な被害を受けたのである。16世紀と17世紀には、地元の支配者たちが幾度となく修復工事を行い、最終的にこの聖地が今日まで存続するに至ったのである。19世紀には、教会の防壁の一部が取り壊された。1819年までに教会は刑務所として再利用され、1921年以降もNKVD(内務人民委員部)の支配下に置かれていた。ロシアの作家ゴーリキはここに幽閉されていたこともある。また、ソ連時代には劇場として使用されていたこともある。ソビエト時代には刑務所の建物が解体され、教会も取り壊しの危機に直面している。1937年、著名なジョージア人芸術家ディミトリ・シェワルナゼは、ベリヤによるメテヒ教会の破壊命令に公然と反対した。抵抗の果てにシェワルナゼは逮捕され、後に処刑されたが、彼の犠牲によってメテヒ教会は救われたのである。
 
このように長年にわたり、この建物は博物館や劇場など様々な用途で利用されてきた。1988年、全面的な修復工事を経てジョージア正教会に返還され、以来活発な礼拝の場として機能している。その後も教会は内紛などの影響もあり、幾度も破壊されだがそのたびに修復されているのである。メテヒ教会は、約15m×20mと控えめな規模ながら、建築的に印象的な建物である。ほぼ正方形の平面に堂々とそびえ立ち、中央には円錐形の屋根を頂部とする円塔がそびえ立っている。教会は多数本の頑丈な柱によって支えられている。教会の東側の壁には、次のような碑文が刻まれている。
「ヘラクレイオス王は武力で敵からこの要塞を奪取した…」
 
メテヒ教会は、シオニ大聖堂と青の修道院と並んで、ジョージア黄金時代を生き延びた三大建造物の一つである。この中で、メテヒ教会だけが古代のデザイン要素、特に当時非常に人気があった精巧な石の彫刻を今も残している。対照的に、教会の内部はより現代的な様相を呈している。オリジナルの内装の細部は残っていない。内部に収められているいくつかのイコンは特に興味深いもので、「メテヒの十万人の殉教者」、聖シュシャニクのイコン、そしてトビリシのアボのイコンなどがある。

トビリシの至聖三者大聖堂

一般的にはサメバ大聖堂として知られるこの大聖堂は、街の中で最も印象的で象徴的なランドマークの一つである。この巨大な大聖堂は歴史的なアヴラバリ地区に位置し、101メートルの高さに達する独特の金色のドームで市のスカイラインを支配している。大聖堂の建設は1995年に始まり、2004年に完成したため、ジョージアで最も新しい大聖堂である。この大聖堂は、ジョージア正教会の創立から1500年を記念して建設され、ジョージア正教会の主要な中心として機能している。美しいフレスコ画、印象的な内部、そして素晴らしい音響で知られている。一度に最大15,000人を収容できるため、世界で最も大きな正教会の大聖堂の一つといわれている。

聖堂のグルジア語名である「ツミンダ・サメバ」(ジョージア語: წმინდა სამება)は、至聖三者を意味する。ジョージア語名から片仮名で転写して「ツミンダ・サメバ大聖堂」「サメバ大聖堂」とも呼ばれる。 コーカサス一帯において最大の宗教的建築物であり、世界の正教会の中でも最大の聖堂の一つに数えられる。宗教的な重要性に加えて、サメバ大聖堂は伝統的なジョージア様式と現代的なスタイルを融合させた建築物でもある。大聖堂の外観は精巧な彫刻やモザイクで飾られ、内部には美しく華やかなシャンデリア、そして見事なステンドグラスの窓がある。日中の訪問もいいが、できれば早朝(日の出前)か、夜間訪問をお勧めする。夜間は、素晴らしいライトアップ光景が展開している。

シオニ大聖堂

シオニ大聖堂は、トビリシの旧市街の中心に位置する歴史的なジョージア正教の大聖堂である。聖地の特定の場所にちなんで教会に名前を付けるという中世のジョージアの伝統に従い、シオニ大聖堂にはエルサレムのシオン山の名前が付けられている。ジョージアにある同じ名前の他の教会と区別するために、一般に「トビリシ シオニ」と呼ばれている。この大聖堂は6世紀から7世紀にかけて最初に建てられている。その後、外国の侵略者によって破壊され、幾度か再建されている。現在の構造は13世紀のものを基にしており、17世紀から19世紀にかけていくつかの改修が行われてもいる。この大聖堂は、トビリシの歴史を通じて重要な宗教的および文化的中心として機能しており、その内部は美しいフレスコ画、アイコン、モザイクで飾られている。4世紀にジョージアにキリスト教をもたらしたとされる聖ニノの有名な十字架も見ることができる。
 
祭壇の左側には、崇拝されているブドウの木の十字架が置かれている。伝承によると、これは4世紀初頭にコーカサスでキリスト教を説いたカッパドキアの女性、聖ニノによって鋳造されたとされている。聖遺物箱自体は、14世紀初頭に ヴァフタング3世によって寄贈されたものである。シオニ大聖堂は、ジョージア併合に関するロシア帝国の宣言文が初めて発表された場所でもある。1802年4月12日、ジョージアにおけるロシア軍総司令官カール・フォン・クノリング将軍は、ジョージア貴族を大聖堂に招集したが、大聖堂はロシア軍に包囲された。貴族たちはロシア帝国の王冠への宣誓を強制され、これに異議を唱えた者は拘留されたのである。そのシオニ大聖堂はソビエト時代にも機能し続け、1980年から1983年にかけて部分的に改修されたのである。シオニ大聖堂は、クラ(ムクトゥヴァリ)川の左岸に位置しており、徒歩または公共交通機関で簡単にアクセスできる。ジョージアの歴史、建築、宗教に興味がある方には必見のスポットである。

ジョージア国立博物館

トビリシには、幾つかの博物館や美術館などの施設がある。その中でも最大級の国立サイモンジャナシアジョージア国立博物館である。ジョージアの歴史や文化を体系的にまとめた博物館には、古人類の化石や古代金銀器や宗教的遺物2008年の南オセアチア戦争の記録まで。なんと、アフリカ以外で人類が存在した最古の記録である180万年前の人類の化石も展示されている。さらに3階は東洋美術館となっており、中国や日本の展示もある。東アジアとコーカサス(ジョージア)との関係性がよくわかるしかけとなっている。そして、4階には旧ソビエト時代の悲しい歴史遺物が展示されている。ジョージアにおけるソ連支配の70年間を、当時の政府関係者の個人ファイルや命令書、映像のドキュメンタリー、処刑に使われた列車などを通して学ぶことができるのである。

メイダニ広場&メイダンバザール

旧トビリシの中心に位置するメイダニ広場は、歴史、文化、現代生活が交差する活気に満ちた中心地である。古代のバザールとしての始まりから、今日の賑やかなハブへと成長したこの広場は、長い間、あらゆる人々が集まる場所であった。何世紀も前、商人たちは広場に集まり、香り高いスパイスから豪華な絹まで、さまざまな商品を取引したのである。8,000年以上にわたるワイン造りの歴史を持つメイダニ広場は、ワイン愛好家のための寄り合い所ともなっていたのである。多様な文化が交わる中で、広場はアイデアのるつぼへと進化し、創造性と革新を育んできたのだろう。
 
時が経つにつれ、賑やかな市場からトビリシの社交シーンの活気ある中心地へと変貌を遂げたのである。今日、古代のバザールの精神はメイダニ広場に息づいており、その表面の下に隠れている。地下市場に足を踏み入れると、地元の魅力が詰まった宝の山を発見することでだろう。ベンダーたちは、絶品のワイン、豊かな風味の蜂蜜、伝統的な土産物、その他のジョージアの特産品を誇らしげに提供してくれている。賑やかな広場を散策したり、地下バザールを探索したりする際には、メイダニ広場の物語ある過去に思いを馳せるひとときを持ちたい。一歩一歩が歴史の響きの上を歩むことになり、かつて商人たちが取引をし、ワインで自由に交流する、多文化の万華鏡が交差した場所を感じることができるだろう。古いものと新しいものが魅力的に融合する様子を体験し、メイダニ広場の豊かなタペストリーが訪れる人々や地元の人々に魔法をかけ続ける様子を楽しみたいものである。


メイダンバザール

旧市街にある、まるで時間が止まったかのような雰囲気を残すメイダン・バザール。このバザールは、数世紀にわたり東方や西方からの商人を引き寄せ、賑わいの絶えなかった場所である。17世紀後半の記述には、アルメニア人、ギリシャ人、ユダヤ人、ペルシャ人、インド人、トルコ人、モスクワ人などが行き交う様子が伺える。このエリアは、歴史と文化の迷宮と言えるだろう。伝統的な粘土製食器の隣りには、天然ハチミツ、各種お茶、ジャムなどの地元産品が溢れている。バザール内を歩いていると、何世紀にも跨るスパーンでの、東西文化結節点タイムトリップを味わうことが出来るのだ。
 
メイダンバザールは、古いトビリシの古代地区に位置する注目すべきランドマークで、時間が止まったかのような場所である。過去の魅力とエキゾチックさが現在の活気と見事に融合している。数世紀にわたりコーカサス全体で尊敬されてきた市場であり、東方の隅々から商人を引き寄せ、彼らの屋台は地元の職人の工房の間にひっそりと佇んでいる。17世紀後半、フランスの宝石商で旅行者のジャン・シャルダンは、このバザールの豊かな多様性に驚嘆し、アルメニア人、ギリシャ人、ユダヤ人、ペルシャ人、インド人、トルコ人、モスクワ人、そしてヨーロッパ人の存在を指摘している。
 
今日、元の屋台はもはや存在しないが、古いメイダンの精神は今も息づいている。古いものと新しいものの交響曲であり、伝統的なジョージア料理を味わったり、数多くのアンティークを見たり、地元のアートを楽しんだり、贅沢なジョージアワインを堪能したりできる場所である。このバザールは、それ自体が体験であるだけでなく、リケ公園、ムトクヴァリ川、メテキ橋、メテキ教会、そして壮大なナリカラ要塞などの地元の名所の素晴らしい景色も提供してくれる。広場の地下ショッピングエリアは、歴史と魅力の迷宮である。このエリアには、さまざまなジョージアワインや伝統的な粘土製食器が揃っている。棚には、天然ハチミツ、チュルチヘラ、各種お茶、ジャムなどの地元産品が溢れている。
 
アート愛好家は、オリジナルの金細工、ジョージア製の人形、その他の手作りのお土産を見て購入できる。職人や商人はこの地域に足跡を残し、今もなお「シルバーストリート」、「ゴールドスミスストリート」、「アイアンストリート」、「ブレッドスクエア」、「ワインライズ」といった名付けられた通りが存在している。ジョージア国家観光局と地元企業ニューラウトの共同努力のおかげで、メイダンバザールは復活を遂げ、ジョージアの文化的および歴史的遺産の活気あるショーケースとして再確立された。名高いジョージアワイン、地元のチーズ、スナック食品「チャルケラ」、さらには博物館の展示品のコピーに至るまで、さまざまな本物のジョージア製品を提供しているメイダンバザールは、トビリシ滞在必見の訪問先である。

ソロラキ地区

『時を遡ることができるゾーン』とも称せられる、トビリシ旧市街の魅力的な一角である。狭い石畳の通りと伝統的で印象的な建築工法が特徴で、街そのものが生きた博物館として機能しているように思えるのだ。この地区は、伝統的なジョージア様式のみならずアールヌーボーや新古典主義まで、多様な建築・美術スタイルが混在している。山の斜面に据えられた、緩やかに曲がりくねった路地を歩きながら、精巧な彫刻や繊細な鍛鉄細工、華やかなバルコニーで飾られた美しいファサードが鑑賞できるのである。ソロラキ地区は、ジョージアの多文化精神を証明する地区でもある。何世紀にもわたり、この地域はアルメニア人、ユダヤ人、ギリシャ人、ロシア人など多様な住民の家となってきたのである。ムタツミンダ山のふもとに位置しており、曲がりくねった通りを歩きながら、精巧な彫刻や繊細な鍛鉄細工、華やかなバルコニーで飾られた美しいファサードを鑑賞することができる。
 
トビリシ旧市街の「静かな心臓」とも呼ばれるこの地区は、ナリカラ要塞の西麓、リバティ広場(自由広場)から徒歩圏にある旧住宅街である。19世紀末〜20世紀初頭にかけて、トビリシの知識人・商人・芸術家たちが暮らした高級住宅街でもあった。最大の魅力は、通りを歩くだけで目に入る美しいアールヌーボー様式やネオクラシック建築の数々である。木製の彫刻バルコニー、装飾タイル、鉄の螺旋階段などが特徴で、時代の重みをまといながらも詩的な佇まいとなっている。ファサードに葡萄の蔓がからむ家や色褪せた水色や薄緑の漆喰壁、そして芸術家のアトリエ兼カフェなどなど・・。「崩れゆく美」を感じさせる風景が多く、写真家にも人気の地区である。また、ソロラキ地区は、若いアーティストやデザイナーが移り住む再生地区としても注目されている。古い邸宅をリノベーションしたギャラリー、アトリエ、カフェ、ワインバーが点在している。
 
また、文化と信仰の交差点としても注目されている。ソロラキ周辺には、ジョージア正教会の古い教会をはじめ、イスラム・ユダヤ教・アルメニア教会など、多宗教共存のトビリシの歴史を物語る建物が集中しているのである。坂道を登れば、ジョージアの母像(Kartlis Deda)やナリカラ要塞にも歩いてのアクセスが可能である。このように、観光地というよりも、ソロラキ地区は日常と歴史が共存する生活圏である。朝はパン屋の香りが漂い、昼は子どもたちの声、夜は窓辺の灯りが街を柔らかく包みこむのである。ホテルよりもゲストハウスやアパート滞在が似合う地区であり、長期滞在者が「トビリシで一番心が落ち着く場所」と語るのもこの界隈なのである。

レグフタケビの滝

レグフタケビ峡谷は、トビリシの有名な硫黄水の発祥地として知られている。そこに、落差22メートルのレグフタケビの滝がある。ムタツミンダ山脈からの水流が、レグフタケビの滝として滝壺に流れ落ちている。滝への道沿いには可愛らしい橋とベンチがあり、トビリシの古い家々のパノラマビューも楽しめる。レグフタケビという名前は、この谷の過去を証明するもので、「レグヒ」はジョージア語で「イチジク」を意味している。この谷はかつてイチジクの木々で飾られており、その名残りをカフェなどで提供される干しイチジクやイチジクジャムの味わえる。19世紀には、この近くにトビリシ植物園が設立されている。なんとこの植物園の中には、サイズは小ぶりだが日本庭園もある。
 
9月には、ジョージア全土で美味しい熟したイチジクを味わうチャンスも訪れる。季節に関係なく、レグフタケビを訪れることは価値がある。その美しさは夕暮れ時に劇的に増し、街灯が灯ると滝に神秘的な光を投げかけ、思い出に残る写真や動画の完璧な背景を作り出してくれる。滝はアバノトゥバニに位置しており、旧市街の古い地区で、伝統的にレグフタケビ峡谷によって主要な都市から隔てられている。歴史を通じて、ツァブキシスケビ、ソロラキスケビ、ダバカナなど、さまざまな名前で知られており、それぞれが豊かな過去の一部を持っている。2012年に改修を経て以来、滝は旧トビリシの都市景観の中で自然の壮麗さを見せ続け、訪れる人々や地元の人々を魅了している。

滝への散策道

ジョージアの母像

ソロラキの丘の頂に立ち、魅力的なトビリシの市街を見下ろすのは、ジョージアの母、カルトリス・デダの像である。この高さ20メートルのアルミニウム製の像は、1958年にトビリシの1500周年を記念して建立された。強さ、ホスピタリティ、そしてレジリエンスの精神を体現する都市の愛されるシンボルとなっている。カルトリス・デダは、単なる印象的な芸術作品以上の存在である。彼女は、広げた腕の中に力強いメッセージを抱えている。一方の手には剣を持ち、ジョージアの独立と主権を守るための強い決意を象徴している。もう一方の手にはワインの杯を持ち、訪れる人々を温かく迎える国の名高いホスピタリティを表している。この像のモットーとするのは『友にはワインの盃を差し出して歓待し、敵には剣で立ち向かう』である。
 
ジョージアの母の像の基部に上ると、トビリシの息をのむようなパノラマビューが訪れる人々を待っている。活気に満ちたこの街は、古代の名所、現代の建築、そして曲がりくねったクラ川が織りなすタペストリーのように広がり、周囲の山々に囲まれている。カルトリス・デダの前に立つと、ジョージアの人々の豊かな歴史と不屈の精神を振り返るひとときを持ちたいものである。ジョージアの母は、国の揺るぎない強さとホスピタリティを思い出させる存在として高く立ち、トビリシとその住民を愛情深いまなざしで見守っているのである。

キャラバンサライ

キャラバンサライとは、ペルシャ語とトルコ語に由来し、伝統的に旅行商人のための休息所を指している。まさにトビリシは東西文明の結節点的重要性を兼ね備えてきた街である。さまざまなモノやヒトが、この街を行き交っていたのである。その移動する人々の宿となっていたのが、キャラバン・サライである。私の大学生時代。京都のとある場所に『キャラバン・サライ』という名の喫茶店があった。所属していた探検部の先輩がそこでアルバイトをしていたこともあり、また、その名前に惹きつけられてよく通っていた。社会人時代には、シルクロード沿いの国々にて、このキャラバンサライ(隊商宿)跡を訪ねるプログラムを実施してきたものである。一番印象に残っていたのは、トルコ南部にあったキャラバンサライと、中国・新疆ウイグル自治区のカシュガルでの隊商宿跡であった。とくにトルコのキャラバンサライは、往時の状態を出来る限り残存させていたので、感慨ひとしおであった。
 
崩壊していた隊商宿にも訪れたことがある。それは、1980年代にタクラマカン砂漠を4輪駆動車にて横断した際である。当時の中国の辺境部は、ほとんど手つかずの状況であった。幻の都市・楼蘭の近くにあるミーラン遺跡でのことである。その日は、アルキン山脈中でルートを見失い、敦煌への途上にミーラン遺跡内で野宿となったのである。そして、崩壊していた隊商宿の一角にて寝袋だけで一夜を明かしたのである。この時ほど、昔日のシルクロードを旅する隊商達と同じ気分を味わったことはなかったと思う。それだけに、シルクロード(ローマ~長安)沿いに存在していた、すべての隊商宿を我が目で確認してみたいのである。
 
トビリシのキャラバンサライは、シオニ通り8番地にひっそりと佇み、都市の波乱に満ちた過去と活気ある現在を織り交ぜた建築の物語を体現している。リフォームが現代的に施されており、また同じ建物内に博物館やワイン博物館などのスペースもある近代的建築物となっている。1984年に大規模な改修を経て、キャラバンサライはイオセブ・グリシャシビリ・トビリシ歴史博物館となっている。現在、博物館は3つの階にわたってジョージアの文化的宝物を多数収蔵している。1階では、歴史的な楽器、民族衣装、伝統的な器具を備えたトビリシの伝統的な家の再現に没入できる。2階はさまざまな展示のためのスペースを提供している。キャラバンサライの最も魅力的な特徴は、ロストム王の時代に遡る古代の地下室である。ここでは、ゲオルギアのワイン造りの歴史を8000年にわたって旅することができるワイン博物館となっている。考古学的コレクションから応用民芸、青銅器時代の遺物から現代のジョージアのアーティストの傑作まで、キャラバンサライはトビリシの中心にある真の文化的タイムカプセルでもある。今回は昼と夜と2回にわたり訪問した。特に夜には館内が幻想的にシャンデリア・ライトアップがされており、これまた感銘を受けたのである。

温泉の街トビリシ

収穫祭の集い

トビリシは意外にも温泉の街なのである。特にアバノトゥバニ地区は、ジョージアのトビリシの中心に位置する歴史的な地区で、治療効果のある硫黄温泉で知られている。この魅力的なエリアは、都市の文化的な織り成す重要な部分であり、何世紀にもわたって訪問者を魅了してきた古代の癒しの伝統を体験したい旅行者にとって必見の目的地である。ナリカラ要塞のふもとに位置するこの地区は、狭く曲がりくねった通りと特徴的なレンガドームの浴場が特徴である。これらの建築的な宝石群は、トビリシが創設された5世紀に遡るジョージア社会における入浴文化の重要性を証明しているのである。ヴァフタン・ゴルガサリ王が狩りの最中に温泉を発見し、その驚くべき治療特性により市をその周りに設立することを決めたと言われている。
 
今日のアバノトゥバニ地区は、観光客がその癒しの硫黄温泉を体験するために集まる、活気に満ちたウェルネスとリラクゼーションの中心地として残っている。硫黄を豊富に含む水は、皮膚の状態を和らげ、関節の痛みを軽減し、全体的なリラクゼーションを促進するなど、多くの健康効果があると信じられている。有名な浴場の他にも、アバノトゥバニ地区には絵のように美しいジュマモスク、そしてミツクヴァリ川を見下ろす岩の高台に位置する象徴的なメテキ教会など、素晴らしいランドマークもある。
 
そしてこの温泉街を訪れた際には、なんとも幸運の女神に導かれていた。この界隈にて、例年は10月に開催される収穫祭を体験する事ができたのである。前倒し開催の背景には、10月4日にある選挙という事情があるらしいが、異邦人には千載一遇の機会を頂いた。トビリシの収穫祭には、ブドウ収穫を祝う伝統的なルトヴェリ(Rtveli)と、首都の多様性と歴史を祝うトビリソバ(Tbilisoba)の2つがある。ルトヴェリは9月下旬から10月上旬にかけてブドウ畑で行われ、ワイン造りの伝統を体験できる。一方、トビリソバは10月にトビリシ市内で開催され、伝統音楽やダンス、美食が楽しめる文化的なお祭りである。
 
トビリシという街の名前の語源は「暖かい場所」という意味だそうである。7世紀ごろに建てられたトルコ式のお風呂「ハマム」のある温泉街が街中にある。ナリカラ要塞の丘の麓には足元あたりにあり、雰囲気は日本の温泉街といった感じである。中でも、旧市街にあるNo5という店は、最も有名な温泉の一つであり、地元の市民にも人気だそうである。24時間営業で値段も5ラリと安めなローカル感ある温泉らしい。そして、温泉街の中でシンボルマーク的建物が、ジュマモスクである。このモスクの建築様式は、イスラムとジョージアのデザイン要素が独自に融合したもので、何世紀にもわたりトビリシの多様なコミュニティの団結の象徴となっている。ジュマモスク、別名(金曜日のモスク)は、16世紀にさかのぼる豊かな歴史を持っている。年月が経つにつれ、何度も破壊され再建されてきたが、各々の再建はトビリシに住む人々のレジリエンスと決意を反映している。モスクの最も際立った特徴の一つはその包括性である。
 
世界のほとんどのモスクとは異なり、ジュマモスクはスンニ派とシーア派のムスリムの両方を歓迎し、トビリシの多文化的アイデンティティを定義する調和の精神を体現している。内部に足を踏み入れると、モスクの穏やかな雰囲気が訪問者を包み込み、賑やかな街の中で平和な避難所を提供してくれる。壁を飾る美しいカリグラフィーに感嘆し、伝統的なジョージアの職人技を示す華やかな木製バルコニーを見上げてみたくなる。祈りのために訪れるにせよ、モスクの建築美を鑑賞するために訪れるにせよ、ジュマモスクは、違いによってしばしば分断される世界における団結と寛容の力を思い起こさせる感動的な場所である。この神聖な空間に浸透する調和の精神を反映するためのひとときを持ち、訪問者自身の人生における多様性の美を祝うインスピレーションを得ることになるだろう。

ベルリンの壁

言うまでもないが、この壁は1961年8月13日、市民の西ベルリンへの脱出を防止するため、ドイツ民主共和国(東ドイツ)政府が東西ベルリンの周囲に築いた防壁である。長く東西冷戦の象徴とされたが、1989年に市民の手によって開放されている。1989年11月9日、東ドイツ政府が東ドイツ国民の西ドイツへの出国の自由を認めた。それを受けて、多くの市民が東西ドイツ分断の象徴であったベルリンの壁に殺到し、ハンマーを振るい、今や無用となった壁は崩壊したのである。この年に連続して起こった東欧革命の最後をかざる大事件であったのである。

その結果、12月にアメリカのブッシュ(父)大統領とソ連のゴルバチョフ最高会議議長兼党書記長の米ソ首脳はマルタ会談で冷戦の終結を宣言したのである。その崩壊させたベルリンの壁の一部が、トビリシ市内の公園に展示されている。現在、EUとロシアの駆け引きに翻弄されているジョージアにとって、このベルリンの壁の持つ意味と意義は大きなものがあると感じている。

トビリシの市場

やはり、どの国を訪問しても、このような庶民的市場の雰囲気が一番気に入っている。どの国でも、庶民的市場はその国の経済的状況のみならず、人情や風情といった(情の揺らぎ)といったものが感じ取られるのである。その(情の揺らぎ)というものは、ガイドブックには掲載されることはない。そして、ビジター各自の触覚で感じ取っていくものである。混沌のトビリシの市場は、内・屋外ともに星の数ほどの商店や露店がごちゃごちゃに点在している。市場エリアの雰囲気は完全に旧ソ連時代の空気感が残っている。地元の人が通う食堂や場末の飲み屋が点在し、ディープなローカル感に浸ることができるのである。
 
マルジャ二シュヴィリという地区では、約200年ほど前のロシア帝国統治時代に、ドイツ人系移民により拓かれたという風変わりな歴史を有している。ドイツ南西部のスワビア地方からの移民が初めてトビリシの町にやって来ている。彼らは1820年までにムトゥクヴァリ川の東岸地域に集落を築き、新しいトビリシという意味の「ノイ・ティフリス」 (Neu-Tiflis) と名付けたのである。時は流れ、ジョージアがソ連の支配下にあった第二次世界大戦中に、ナチスドイツとソ連が敵国となったことで、ノイ・ティフリス地区のドイツ系住民たちは全てシベリアなどに送還されることとなったのである。ドイツ風の建物はすべて破壊され、教会も取り壊された。更地となったノイ・ティフリスにはジョージア人住民が居住するようになり、著名な映画監督にちなんで地区名が「マルジャニシュヴィリ」と改称されたのである。
 
トビリシで暮らしていると日本との大きな時間の差を感じることがある。それは、朝が遅いということである。町が機能しはじめるのは朝10時を回ってからなのである。ホテルでも朝食は8時からが普通であるようだ。いっぽうで、 庶民の市場の朝は早い。野菜や果物を専門的に取り扱う場所ということもあり、朝7時頃には郊外から新鮮な作物を積んだトラックがクラクションを鳴らしはじめ、市場の男たちの怒号が飛び交うらしい。 トビリシの市場については、ちょっと悲しいニュースもある。

2024年8月、衝撃的なニュースが報じられた。トビリシ中央市場の大部分を占めるデゼルテル・バザールが閉鎖され、近代的なショッピングセンターが建設されるというものだ。ソ連時代から何10年にもわたってトビリシ市民の台所として機能してきたバザールは、混沌とした雰囲気と埃っぽさに満ち溢れた活気が最大の魅力であったし、旅行者にとっては飾らないトビリシの良さが感じられる場所でもあった。現時点では閉鎖の詳細な日やどこのエリアまでが閉鎖の対象となるのかはっきりしていないが、もはや時間の問題であろう。混沌と安寧が同居する庶民の市場なだけに、その空気感だけは残してほしいものである。「デゼルテル・バザール」の語源はDeserter(脱走兵)バザールらしく、ロシアから脱走してきた兵隊が持ってきた武器などを売ったのが始まりとのことらしい。

市内のユニークな歴史建築群

高校同級生Kさんの教え子だったリカさんに、トビリシ市内の歴史建築群を案内してもらった。市街地の中にある、中庭構造(入り口は狭いが中に入ると広い中庭となっている)の集合住宅風家屋群である。この中庭構造の家屋群は、ヒマラヤの国ネパールの首都カトマンズにも多く存在している。
トビリシでも、カトマンズでも、この構造による家屋群は現在も活用されている。カトマンズで聞いた時には、『外敵の侵入を狭い入り口で防ぎ、大家族や親族一族などで中庭を共有しながら生活する』ということであった。トビリシでも、おそらくや同じような環境下で、この住居構造は継承されてきたのだろうと思う。

ジョージアのスポーツ

ジョージアは格闘技が盛んな国である。大相撲の力士にも、この国出身者が活躍した事もある。街中を歩いていても、鍛え上げた筋肉と体幹の若者を多く見かける。年配者にも、その痕跡が伺える後ろ姿がある。バスにも格闘技の告知デザインが描かれ、街中には多くのトレーニングジムがある。また、この国ではラグビーも盛んな競技であり、サッカーでは欧州リーグで活躍している有名選手(クラヴァツヘリア)も輩出している。

スターリンとジョージアの関係

ソ連時代の独裁者としてその名を知られるスターリン。確かに彼の風貌は、純粋・白系ロシア人とは言えない。どちらかと言えば、中央アジア系の顔つきである。彼は、現在のジョージアの領土内にて生を受けている。農業の集約化や工業化で国力を伸ばし、第2時世界大戦を勝利に導いたスターリン。一方で、強固な独裁体制の中で行った「大粛清」では、250〜1000万人が命を落としたと推定されている。
 
ヨセフ・ベサリオニス・ゼ・ジュガシヴィリとしてゴリに生まれた彼は、裕福でこそないものの、非常に優秀な成績を収める学生であった。その後徐々に社会主義思想に傾倒し、21歳のときには、革命家としてロシア転覆を計画する。自身をスターリン、ロシア語で「鋼鉄」と名乗ったスターリンは、39歳で転機を迎えるのである。レーニンによるロシア革命により要職につき、権力を拡大していったのである。46歳のときレーニンが没し、ソ連の最高権力者となるに至るのである。国力増強、戦勝を経て、冷戦の東側を率いたスターリンは、74歳で激動の生涯に幕を閉じている。脳卒中とも陰謀とも言われる死の真相は闇の中とされている。
 
出身地であるジョージアは、彼の故郷であると同時に、独裁者としての過去という二つの側面から、複雑なものとして捉えられている。ジョージアの人々にとって、スターリンは愛憎半ばする人物と言えるだろう。ソ連の指導者となった後のスターリンは、ジョージアを含む多くの地域で、独裁的な政治体制を敷いたのである。スターリンの時代のジョージアは、ソ連の一部として、政治的な自由や民族文化の発展が制限されていた。スターリンによる大粛清では、多くのジョージア人が犠牲になっているのである。スターリンの死後、ジョージアではスターリン崇拝が衰退し、独立運動が活発化していくのである。ジョージアでは、スターリンは現在でも複雑な評価を受けているといえるだろう。ジョージア出身の偉大な指導者として、またソ連を勝利に導いた英雄として評価する声もあるのは確かである。その一方で、抑圧的な政治体制を敷き、多くのジョージア人を苦しめた独裁者として批判する声も根強くあるのだ。スターリンの死後、ジョージアはソ連からの独立を目指す動きが活発化し、1991年に独立を果たしている。ゴリというスターリン出身地には、スターリン博物館などがある。
 
博物館では、彼の人生を時系列順に追うことができるが、ジョージアへの赤軍侵攻と大粛清には言及されていない。屋外にはそのまま移設してきた生家や、ヤルタ会談への往来に用いた車両があり、中を見学することができる。世界に唯一とも言われるのが、公然と立つスターリン像である。2010年までゴリの中心街にもあったようだが、警察の監視のもと、メディアの報道にストップをかけて撤去されている。本館には写真、肖像画、彫像、手紙などの遺品等が飾られている。また、博物館奥のスペースには、スターリンのデスマスク(死後、顔の型をとったもの)もある。

ムツヘタ

ムツヘタは、トビリシの北20キロメートルに位置する、ジョージアで最も古くから人が住んでいる都市の一つであり、重要な文化的および宗教的中心地である。この街は、アラグビ川とムトクヴァリ川の合流点に位置し、緑豊かな丘に囲まれており、自然環境にも恵まれている。

ムツヘタは紀元前3千年紀にさかのぼる豊かな歴史を持ち、紀元前3世紀から紀元後5世紀まで、東ジョージア王国イベリアの首都として機能していた。現在、訪問者は、6世紀に遡るユネスコ世界遺産のジョヴァリ修道院や、4世紀の教会の跡地に11世紀に建てられたユネスコ世界遺産のスヴェティツホヴェリ大聖堂など、数多くの歴史的な名所を探索することができる。

歴史的な重要性に加えて、ムツヘタは自然の美しさや、近くの山々でのハイキングやアラグビ川でのラフティングなどのアウトドア活動でも知られている。ムツヘタでは、ハチャプリやヒンカリなどの伝統的なジョージア料理を味わい、地元のバザールで手作りの工芸品やお土産を購入することもできる。豊かな歴史、見事な建築、そして自然の美しさを兼ね備えたムツヘタは、ジョージアを訪れる旅行者にとって必見の目的地である。

スヴェティツホヴェリ大聖堂(Svetitskhoveli Cathedral)

この聖堂が特別キリスト教信者の信仰心を集める理由が、「外衣の伝説」にあるといわれている。発端はキリストが処刑された際、キリストの磔の時に居合わせたエリアス(キリストの上衣を抱きしめたまま亡くなって離せなかったシドニアの兄)が亡骸のローブをローマ兵から買い取りこの地に持ち帰ったことといわれている。これを妹シドニアに渡すと、彼女は喜びのあまり亡くなってしまう。ローブは彼女の手から離れなかったため、キリストの上衣と共にシドニアも埋葬されることになったのである。

その後、彼女の墓から生えた大きな杉の木が生えてきた。教会を建てるために木を切り倒すよう命じた聖ニノは、この木をもとに7本の柱を作らせたのである。この柱は不思議な力を持ち、ひとりでに空中に浮き上がったのである。聖ニノが一晩祈ると地上に戻り、その7本目の柱からは、人々の病を癒す聖水が流れ出したといわれている。

これらの柱を中心として建てられたのが、スヴェティツホヴェリ大聖堂の前身である木造教会なのだと伝えられている。その後もこの柱はいくつもの奇跡を起こし、ジョージアの人々の信仰心を集めている。この伝説から、聖堂は「命を与える柱」という意味で「スヴェティツホヴェリ」と名付けられた。伝説が人々の中に受け継がれてきたことが伺われる。

カラフルなフレスコ画が隅々まで描かれた柱は、聖堂の見どころの一つでもあるが、浮きあがったといわれる柱は、今は囲われておりみることができないのが残念である。それ以外にも、トビリシに遷都した5世紀の国王・ヴァフタング1世の墓や、ペルシアに対抗してジョージア東部の再独立と統一を成し遂げた18世紀の国王・エレクレ2世の墓も見どころである。

元のスヴェティツホヴェリ大聖堂は4世紀にさかのぼるが、現在の構造は11世紀にバグラト3世によって建設されている。この大聖堂は、何世紀にもわたっていくつかの修復や追加が行われ、17世紀には大規模な改修が行われている。大聖堂の外観は精巧な彫刻や装飾が施されており、内部は美しいフレスコ画、モザイク、その他の芸術作品で飾られている。大聖堂のハイライトは聖十字架の礼拝堂で、そこには真の十字架の一部が含まれていると伝えられている。

この大聖堂には、トビリシを創設したとされるバフタング・ゴルガサリ王を含む多くのジョージアの王や女王の墓もある。大聖堂は美しい庭に囲まれており、訪問者は周囲の山々や近くのムトクヴァリ川とアラグヴィ川の合流点の素晴らしい景色を楽しむことができるのである。

浮いた柱を囲む柱(写真提供・Ms Yumi Konichi)
オリジナルの十字架(写真提供・Ms Yumi Konichi)
浮いた柱の絵(写真提供・Ms Yumi Konichi)

ジュワリ修道院

6世紀(586-604建)に建立されている。ジュワリとは十字架の意味。伝説によれば、現在ジュワリ修道院が建っている丘に異教徒の神殿があったが、聖ニノがその場所に大きな木製の十字架を立てたと言う。その場所に小さな教会を経て、6世紀に現在の形の教会が建てられている。教会の中には、大きな十字架が立っており、入口の上部には天使が十字架を支えている浮彫細工(The Ascent of the Cross)がある。また、十字架型(cross-type)の教会として初めて建築された教会で、後に建てられた十字架型教会の見本になっている。

ムツヘタから車で15分の距離にある。ジョージアで最も神聖な場所の一つに数えられるこの教会は、現在も重要な式典に使われることがあるなど、その貴重性を失っていない。キリスト教を国教に定めたミリアン3世が十字架を立てた教会としても知られており、十字架は置き換えられているものの、当時から残る土台が残されている。また、建物全体を上から見ると十字架の形をしており、この様式はその後いくつかの修道院でお手本にされている。

入り口に天使と十字架をかたどった紋章があるが、こうした紋章がジョージアで初めて置かれたのがこの修道院なのである。さらに上には、建設を指示した国王がキリストにひざまずく姿を描いた紋章が飾られている。中からは、色が異なる2本の川が合流する地形を眺めることができる。西向きのため、夕方には美しい夕陽も望むことが出来る。

ウプリスツィヘ洞窟都市遺跡

ウプリスツィヘ(Uplistsikhe)は「主の要塞」という意味であり、ジョージアのシダ・カルトリ地域に位置する古代の洞窟都市である。

この町の創設は紀元前6世紀にさかのぼり、シルクロード沿いの重要な貿易と文化の中心地であったである。ウプリスツィヘヘは、ムトクヴァリ川を見下ろす岩山に築かれ、複雑な洞窟とトンネルのネットワークで構成されている。

この町は支配階級の住居として、また礼拝と学びの中心地として機能していた。ウプリスツィヘを訪れる観光客は、主要な洞窟寺院、王宮、円形劇場など、複合体のさまざまな部分を探検することができる。

また、10世紀にさかのぼる聖母被昇天教会を含む、いくつかの岩をくり抜いて作られた教会もある。この複合体は約8ヘクタールの面積をカバーしている。ウプリスツィヘはゴリの町の東約10キロメートルに位置し、車や公共交通機関でアクセス可能である。

町は年間を通じて訪問者に開放されているが、最も訪れるのに適した時期は春と秋で、天候が穏やかであるのがその理由である。

訪問者は歩きやすい靴を履き、洞窟内の急な登りや狭い通路に備える必要がある。また、ウプリスツィヘヘの歴史的および文化的な重要性を尊重し、服装や行動に関するルールや習慣を守ることも重要である。

ジョージアの手工芸品など

◆ ジョージアの手工芸

ジョージアは、深い文化遺産を持つ国であり、何世代にもわたる民間伝承を体現する独特の工芸品で知られている。これらの工芸品は、国の芸術的遺産を垣間見るだけでなく、ユニークな文化芸術を探求したい旅行者にとっての魅力ともなっている。

◆ 陶器の本質

ジョージアの最も古い工芸の一つである陶器は、人々の日常生活や儀式と絡み合った歴史を反映している。ジョージアの陶器は、その形やデザインが独特で、実用的な物から洗練されたアート作品まで多岐にわたる。古代の町シュロシャは陶器で有名で、職人たちは代々受け継がれてきた技術を用いている。これらの技術は、地元で見つかる粘土を手で成形し、伝統的な窯で焼成するもので、何世代にもわたって変わらないプロセスである。サイズや用途が異なる陶器製品は、土の色合いと耐久性が特徴で、一部の作品は数リットルの容量を持っている。

◆ 木工:時を刻む伝統

ジョージアの木工は単なる技術ではなく、国の歴史とライフスタイルの物語である。ジョージアの大工は、自然や宗教的なモチーフからインスピレーションを得て、複雑なデザインを作り出す技術で知られている。この技術は、家庭用家具から宗教的な工芸品まで幅広い製品を含んでいる。ジョージアの木工の顕著な例は、正教会の聖域と本堂を分ける装飾的に彫刻された木製のスクリーンである複雑な教会のイコノスタシスの制作である。これらのイコノスタシスは、詳細な宗教的なシーンや人物で飾られており、ジョージアの木工職人の卓越した技術を示している。
さらに、伝統的なジョージアの家屋「ダルバジ」も木工技術の一例である。これらの家は、機能的であるだけでなく、ジョージアの建築の美的魅力を高める独特に彫刻された木製のバルコニーやベランダを特徴としている。木工のこれらの要素は、ジョージア文化におけるこの技術の重要な役割と、宗教的および日常生活への貢献を示している。

◆ テキスタイルアートの活力

ジョージアのテキスタイルアートは、国の豊かな文化のタペストリーを鮮やかに表現している。この手工芸のセグメントには、カーペット織り、刺繍、伝統的な衣服が含まれ、それぞれが鮮やかな色彩と複雑なパターンで特徴づけられている。ジョージアのカーペットは、通常ウールで作られ、その耐久性と独特のデザインで知られている。これらは単なる芸術的表現ではなく、物語や伝統を伝えるものでもある。刺繍の技術は、伝統的に女性の手工芸として知られ、ジョージアの民族衣装を作り出す際に重要な役割を果たしている。この民族衣装は地域ごとに異なり、国の多様な文化的アイデンティティの万華鏡を提供している。

◆ 金属加工

ジョージアの金属加工は、古代からのルーツを持ち、国の民間伝承の重要な側面として残っている。この技術には、ジュエリー、宗教的アイコン、家庭用器具などの製作が含まれる。ジョージアの金属加工職人は、特に複雑なフィリグリー細工で知られており、これは銀や金のねじれた糸を用いた繊細な金属アートの一形態である。この技術を用いて作られたジュエリーは、職人の技術の証であるだけでない。ジョージアの文化的および歴史的な物語を反映しており、文化観光にとって重要な関心のポイントとなっている。

◆ 陶芸:ジョージアの土の芸術

ジョージアの陶器は、陶芸とは異なり、より精巧なデザインと釉薬技術を特徴としている。この技術は特に食器や装飾品の製作に見られ、鮮やかな色合いと複雑な模様で称賛されている。ゴリの町は陶器工房で有名で、職人たちは古くからの技術を使い続けている。これらの陶器は、伝統的なジョージアのモチーフで飾られ、観光客にとって人気のあるお土産となり、ジョージア文化の一部を体現している。

◆ クロワゾネエナメルの技術

クロワゾネエナメルは、ジョージアの手工芸のユニークな側面であり、その歴史はビザンチン時代にさかのぼる。この技法は、金属に色ガラスを融合させ、鮮やかで詳細なアート作品を作り出す。ジョージアのクロワゾネエナメルは、特に宗教的なアーティファクトやジュエリーに使用されることで知られる。パターンには宗教的および自然にインスパイアされたテーマがしばしば取り入れられている。クロワゾネエナメルの技術は、ジョージアの芸術的遺産を反映するだけでなく、古代の芸術形式に興味を持つ人々にとっても大きな魅力となっている。

◆ 現代ジョージアの手工芸:伝統と革新の融合

現代のジョージアでは、手工芸がルネッサンスを迎えており、伝統的な技法と現代的なデザインが融合している。この復活は、特にトビリシのような都市部で顕著であり、職人やデザイナーが協力して、世界的な観客にアピールする製品を作り出している。これらの現代的な工芸品は、伝統的な技法に根ざしながらも、現代の好みや用途に合わせて適応されており、本物でありながら現代的な土産を求める観光客の間で人気を集めている。

◆ ジョージアの手工芸品は、古代のシュロシャの陶器から現代のトビリシのデザインまで、国の豊かな文化的風景を旅する機会を提供してくれる。これらの工芸品は単なる製品ではなく、物語が織り込まれ、彫刻され、塗られた具体的な形である。旅行者やアート愛好家にとって、ジョージアの手工芸品を探求することは、国の歴史、人々、伝統とつながるユニークな機会を提供してくれる。古代の遺産の守護者として、ジョージアの職人たちは魅了し、インスピレーションを与え続けており、彼らの工芸品はジョージアの文化とアートの必見の側面となっている。

アルメニアについての基礎知識・聖山アララット山

ノアの箱船とアララット山を関連付ける諸説は古代から存在しているが、その真否は明らかになっていない。ただ、考古学的真否のいかんよりも、なぜこの山が伝説の舞台として崇められたのかを、わが目で確認したいと思うのである。(※アララット山に関しては下記のNational Geographic記事2010年と2023年を参照)

★ 自然と気候

国土の90%が標高1,000m以上と山がちな地形で、乾燥した草原地帯が多い。内陸国で海には面していないが、琵琶湖の2倍もの面積を誇るセヴァン湖を有する。首都エレバンは他の街に比べ比較的温暖で日照時間が長い。首都エレバンの9月の平均気温は、最高気温26度・最低気温12℃程度である。そして、なんといっても、首都エレヴァンからも聖山アララット山が遠望できるのである。

★ 宗教

4世紀初頭に成立した世界でもっとも古いキリスト教教会の一つ、アルメニア使徒教会に国民の90%以上が属する。 また北部には19世紀にロシア帝国から迫害を逃れ移住してきたロシア正教の分派 「モロカン派」の人びとが住む村もある。比率とすれば、アルメニア正教が92.6%、その他キリスト教諸宗派3.9%、その他 2.4%、無宗教 1.1%となっている。

★ 言語

公用語はアルメニア語で、 5世紀初頭に発明されたとされる独自のアルメニア文字を使用する。インド・ヨーロッパ語族に属すがほかのどの言語とも似ておらず、独立の一語派をなす。 学校でロシア語を習うため、 国民の多くがある程度のロシア語を話せる。

★ 産業

農業や牧畜 ダイヤモンドなどの宝石加工業のほか、近年はIT産業に力を入れている。 1人あたりのGDPは6,583USD で世界第121位、 平均月収は約540USD。若年層の失業率は20%を超えており問題となっていたが、ロシアのウクライナ侵攻以後、ロシアからの移住者やロシア系IT企業が拠点をアルメニアに移すケースが増加。GDPは20%以上上昇し、ITやサービス業をはじめ新しい職業の選択肢が増えるなど、 失業率は改善しつつある。

★ 行政

11の地方行政区分に分かれているが、 全人口の3分の1以上を首都が抱える。 2023年のナゴルノカラバフ共和国解体によりアゼルバイジャンとの紛争は一応終結し、2025年8月には、アメリカのトランプ仲介により、両国首脳が会談している。

★ 文化

歴史ある修道院が多く、 ゲガルド修道院など3カ所の世界遺産を擁する。 修道院などに必ずあるのが「ハチュカル」。 十字架や独特の紋様を刻んだ石碑だ。 世界最古のリード楽器の一つ伝統楽器 「ドゥドゥク」 も有名。 また、チェス強豪国としてもで知られている。
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● アララット山(参照・National Geographic記事2010年)

キリスト教福音派の探検隊が、トルコのアララト山の積雪と噴火堆積物の下からノアの箱舟の残骸を見つけたと発表した。ただし、箱舟は過去にも何度かその残骸や痕跡が発見されたとの報告があり、今回もその類であるとして多くの考古学者や歴史学者は真剣に取り合っていない。「箱舟を探しに行った探検隊が手ぶらで帰ってきたという話は一度も聞いたことがない」と、アメリカ、ニューヨーク州のストーニーブルック大学で中東を専門に研究する考古学者ポール・ジマンスキ(Paul Zimansky)氏は言う。

トルコと中国の共同探検隊「Noah's Ark Ministries International」は4月26日、拠点とする香港で今回の発見を発表した。「100%とは断言できないが、99.9%の確率で箱舟だと確信している」と、探検隊に同行した映像作家の楊永祥(Yeung Wing-cheung)氏は英国紙「Daily Mail」に話している。探検隊の話によると、2007年から2008年にかけてアララト山の山頂付近(標高およそ4000メートル地点)で巨大な木造の部屋7室が見つかり、2009年10月に撮影スタッフを連れて映像に収めたという。

ノアの箱舟がたどり着いた最終地点がトルコのアララト山だと信じているキリスト教徒は多い。箱舟とは旧約聖書に記されている話の1つ。神が起こした大洪水で人間をはじめすべての生き物が死に絶えてしまうが、ノアとその一族、地上のあらゆる動物種の1対のつがいだけはノアが造ったこの箱舟に乗って助かる。

探検隊の一員であるマンファイ・ユエン(Man-fai Yuen)氏は声明で、「見つかった木造の構造体はいくつかの部屋に分かれており、歴史的な記録と構造が一致していた」と述べている。発見場所から持ち帰った木片の年代を放射性炭素年代測定法で推定したところ、約4800年前と判明した。聖書に記されたノアの洪水が起きた時期とほぼ一致する。なお、発見場所は公表されていない。聖書を文字通りに解釈する学者の中にも、今回の新発見に対し懐疑的な人物がいる。創造説の枠組で生物学を追及するテネシー州ブライアン大学生命起源研究センター(Center for Origins Research)で所長を務める生物学者トッド・ウッド氏だ。

神が約6000年前に何もないところから地球を創造し、さまざまな生命を生み出したという創造説の支持者である同氏は次のように話す。「創世記を受け入れるのならば、放射性炭素年代測定法自体を解釈し直さないと。この方法では天地創造の6000年前より古い年代が算出されることも多いからだ」。

放射性炭素年代測定では、放射性同位体である炭素14を測定して有機体の年代を推定する。炭素14は時間経過と共に一定の割合で崩壊するため、年代特定の指標となる。この方法で測定できるのは通常、約6万年前まで、地球の誕生は約46億年前と考えるのが一般的だ。「放射性炭素年代測定法を全面的に見直し、最大6000年前の枠内に限定する必要がある。より古い結果が出ないようにするのだ。また、本当に約4800年前の木片であるならば、“見直す前の”測定法では数万年前という結果が出ていなければおかしい。

この木片が箱舟の残骸である可能性についてはかなり懐疑的だ。木片の年代があまりにも最近すぎる」。ウッド氏は箱舟が見つかることはないだろうと考えている。「洪水の後、最初の材木として使われたからだ。箱舟を降りると、そこには1本の木も生えていないとしたら、家は何で建てたらいいのか。目の前に木造の巨大な舟がある。となれば、それを使おうとするはずだ。箱舟は基本的に建築資材としてばらばらにされ、再利用されてしまったと考えられる」。

今回の発見に学者らが懐疑的になる理由はもう1つある。旧約聖書の第1巻にあたる創世記では、ノアの箱舟がトルコのどの山頂に漂着したか一切書かれていないのである。「今回の発見は発想自体がおかしい。旧約聖書では箱舟はトルコ東部に栄えたウラルトゥ王国のどこかにたどり着いたとされている。だが、アララト山とウラルトゥを関連づけたのは後知恵にすぎない」と、米テネシー州のヴァンダービルト大学の教授でユダヤと聖書を研究するジャック・サスーン氏は言う。

前出のジマンスキ氏もこの意見に賛成だ。「紀元前10世紀まで、アララト山と箱舟は何も関係がなかった」と指摘する。また、約4000年前にトルコで大洪水が起きたという地質学的証拠もないと付け加えている。「探検隊は私たちとはまったく別の次元で調査している。考古学、歴史学、地質学に基づく記録にはまったく関心が払われていない」。

探検隊がアララト山で本当に木造構造物かボートを発見していたとしても、その正体については説明できるという。「例えば、初期のキリスト教徒が、箱舟が漂着した場所として記念に建造した祭壇の可能性もある」とジマンスキ氏は推測する。「だがこの推測でも4000年前には該当しない。その頃は聖書もまだ書かれていなかったのだから」。

聖書を研究するサスーン氏は、箱舟の話は歴史的な事実が語られたというよりは寓話的な意図で書かれたものだとみている。「人間が邪悪さのために罰せられるというシナリオを描くことで、人々が好ましい状態でいることが神の意思であると意識付けしようとしていた」。探検隊のWebサイトによると、トルコ政府は箱舟の発見場所を世界遺産に指定するよう国連のユネスコに申請する予定だという。世界遺産は、文化や自然の面で特別な意義を持つ場所に与えられる称号である。

だが、「トルコ政府からの公式な依頼はない」と、ユネスコの広報担当ロニ・アメラン(Roni Amelan)氏は電子メールでの取材に対してコメントしている。「登録に至るまでは長い年月が必要だ。右から左というわけにはいかない」。
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(参照・National Geographic記事2023年)

旧約聖書の中でも、特に魅力的でよく知られているのが「ノアの箱舟」の物語だ。神は、自ら創造した人間に怒りを覚え、すべてを一掃すべく大洪水を起こした。しかし、族長ノアとその家族は、地上のあらゆる動物のつがいとともに巨大な木造の舟に乗り込み、その大洪水を生き延びた。聖書には歴史的事実が正確に記述されていると考える人々にとって、同じく魅力的なのが、箱舟の考古学的な証拠探しだ。信仰心のあつい人々の中には、箱舟の到達地とされるトルコ東部のアララト山などをくまなく探す人もいる。

その一人が、英国の弁護士で政治家のジェームズ・ブライスだ。1876年、アララト山に登ったブライスは、「あらゆる条件に一致する」木片を見つけ、箱舟の一部だと主張した。その後も箱舟の「発見」は続く。1940年代には、ある検眼士がアララト山中の岩石層の中に箱舟を見つけたと報告した。2000年代始めにも、福音派の牧師たちが頂上付近で石化した木片を見つけたと主張している。(参考記事:「アララト山でノアの箱舟を発見?」)

この山の斜面で、たくさんの人々が箱舟探しに挑戦してきた。創世記には、箱舟が西アジアのこの山地にたどり着いたと書かれているが、厳密な場所はまだ特定されていない。しかし、箱舟探しに対する学者の反応は概して冷ややかだ。「まともな考古学者なら、箱舟探しなどはしません」と米ノースカロライナ大学チャペルヒル校の考古学者で、ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラー(探求者)でもあるジョディ・マグネス氏は断言する。

「考古学は宝探しではないのです」と氏は言う。「考古学の目的は、特定の対象を探すことではありません。考古学は、研究課題を設定し、それを発掘によって解明する科学なのです」

大洪水は事実だったのか

大洪水を生き延びた人々の話は、ヘブライ語聖書(旧約聖書)よりも古くから存在する。ヘブライ語聖書の最も古い部分が書かれたのは紀元前8世紀頃と考えられているが、超自然的な神の命令でもたらされた洪水が文明を滅ぼすという記述は、メソポタミアの複数の史料からも見つかっている。その一つが、紀元前2千年紀(紀元前2000年~前1001年)初期に書かれたとされるギルガメシュ叙事詩だ。また、近年解読された紀元前1750年頃のバビロニアの粘土板には、楔形文字で箱舟の作り方が書かれていた。

こういった洪水の伝説は事実に基づいているのだろうか。「7500年ほど前の黒海地域に大きな洪水があったという地質学的な証拠は、確かにあるようです」と、米ジョージ・ワシントン大学の考古学者で、同じくナショナル ジオグラフィックのエクスプローラーであるエリック・クライン氏は話す。しかし、この洪水の規模についての科学者の見解は一致していないうえ、洪水伝説の記述が実際のできごとに着想を得たものかどうかも歴史家の間で議論が分かれている。さまざまな場所や時代で起きた洪水が、自然に世界の口承あるいは文字で書かれた伝説に組み込まれたと考えるほうが妥当だろう。

さらに厄介なのは、ヘブライ語聖書に記されたノアの箱舟の到達地についての解釈が定まらないことだ。創世記には、箱舟は「アララトの山地にたどり着いた」とあるが、これは現在アララト山と呼ばれている一つの山を指すのではなく、今のアルメニアやトルコ東部およびイラン北西部にまたがる山々の総称だ。当時、その一帯はウラルトゥ王国の支配下にあった。「当時の近東地方の中で、正確にどこを指しているのかを突き止める方法はありません」とマグネス氏は言う。

アララト山と対峙する

言葉を失った、、。
『ノアの方舟伝説地』・アララト山の暁光。

アルメニアの首都・エレバンにて宿泊したホテルの屋上からである。トルコ領内にあるアララト山は、隣国アルメニアの首都エレバンから、この距離感で眺められるのだ。アララト山は、ギルガメッシュ叙事詩にも登場する古代メソポタミアの洪水物語(ノアの方舟の原型)に登場する山である。

ノアの方舟の漂着地として知られている。ノアの方舟の物語はギルガメッシュ叙事詩から着想を得ている。アララト山はメソポタミア世界で語られていた洪水伝説に関連していると考えられている。ギルガメッシュ叙事詩とは、紀元前3000年~2600年頃に栄えたシュメール文明の神話である。ウタナピシュティムという人物が神の予言を受けて巨大な方舟を作り、大洪水から生き延びる物語が描かれている。

このギルガメッシュ叙事詩の洪水物語は、旧約聖書のノアの方舟の物語の原型になったと考えられている。聖書の創世記には、ノアの方舟が「アララトの山地」に漂着したと記されている。
アララト山は、現在のトルコ東部に位置する山で、トルコ最高峰でもあり、トルコ語では「アール山(Ağrı Dağı)」と呼ばれている。アルメニアでは国の象徴であり、アルメニア正教の聖地とされている山であり、標高は5137mである。

メソポタミアの素戔嗚尊

大洪水の記述のある『ギルガメシュ叙事詩』
第11の粘土板

古代叙事詩・ギルガメッシュにみる『大洪水伝説』とアララット

ギルガメッシュ叙事詩は、世界最古の物語でありシュメール人が残した英雄叙事詩(神話)である。ウルク第1王朝時代の実在の王ギルガメシュを主人公に、シュメール語で物語られていた伝承が語られている。その後のメソポタミアのバビロニア、アッシリア、ヒッタイトなどの諸民族のことばに翻訳され、楔形文字で粘土板に書かれたものが残されている。

人類最古の物語であり、メソポタミア文明を代表する文学であるが、特にこの中に『旧約聖書』の大洪水(ノアの箱船)の話の原型が含まれていることが判明し、キリスト教世界に衝撃を与えたのである。

ギルガメシュ叙事詩のあらすじ

主人公ギルガメシュはウルクの王。英雄であると共に暴君であり、都の乙女たちを奪い去るという悪業で住民に恐れられていた。ウルクの人びとが神々に訴えると、大地の女神アルルは粘土からエンキドゥという野獣のような猛者を造り上げた。

ギルガメシュとエンキドゥは長い間取っ組み合った末、互いに相手の力を認め、抱き合う。ここに二英雄の友情が生まれた。二人は連れだって遠くの森に住む恐ろしい森番フンババを倒した。ウルクに帰ると女神イシュタルがギルガメシュの英姿に魅せられて誘惑する。

ギルガメシュがその誘いを断ると、怒ったイシュタルは天の神アヌに強要して、天の牛を送ってウルクを滅ぼそうとする。ギルガメシュとエンキドゥ今度も力を合わせて戦い、天の牛に打ち勝つことができた。しかし神々はエンキドゥにフンババと天の牛を殺した償いに死を宣告、エンキドゥはギルガメシュに見守られて息を引き取る。

苦難の末に尋ね当てたウトナピシュティムは「大洪水」が起こり、四角い船を作って危機から逃れたことを物語る。最後にギルガメシュに、海底にある永遠の若さを保つ植物のことを教える。ギルガメシュは海に潜ってその植物をとり、喜び勇んでウルクへの帰途につくが、とある泉でホコリを落とそうと水浴びしている間に蛇がやって来てその植物を食べてしまった。失望したギルガメシュは疲れ切ってウルクにたどりつき、その後はどのようにくらしたことだろうか。

『旧約聖書』よりも古い世界最古の物語

「創世記」に記された大洪水とノアの箱舟の物語が常識となっている西欧の人たちにとって、アッシリア版の「大洪水」物語の発見がセンセーショナルな出来事であったのは当然である。聖書の世界がそれほど常識化していないわれわれにとってさえ、このような劇的なストーリーと同じものが一度は忘れられた文字で書かれた遠古の書板から現われ出たということは驚くべきことであろう。

『旧約聖書』では「大洪水」とノアの箱舟の話は「創世記」6・5~9・17までに述べられている。大洪水の考古学的証拠としては、シュルッパク(現在のファラ)、ウルク(現在のワルカ)、およびニネヴェなどで、洪水によってできたと考えられる沖積世地層が発見されている。
しかし、時期的には一致していない。これらの事実から推定されることは、下メソポタミア全体にわたるほどではなく局地的であったであろうが、ある時期にかなり大きな洪水があったことはたしかで、その記憶が長く伝承に残されたのであろう。

※参考文献・矢島文夫『ギルガメッシュ叙事詩』

「ノアの箱舟の木片」

アルメニアという国は、人類の誕生と成長が語られた果てしなき神話「創世紀」の舞台である。古のキリスト教の痕跡が現在に残る世界屈指の不思議な国とも言えるだろう。その原点とも言える場所が、アルメニア教会総本山・エチミジアン大聖堂である。宝物館はその敷地内にある。

エチミジアン大聖堂は、アルメニアの首都エレヴァンの西20kmの場所にある。「エチミアジン」とは「神の唯一の子(キリスト)が降りた」という意味である。キリストが黄金の小槌で地上を打つ夢を見た聖グレゴリウスが、そのお告げに従いこの地に教会を建てたと伝えられている。

ここは「世界最初の公式の教会」ともいわれ、世界遺産にも登録されている。聖書を読んだことがなくても「大洪水とノアの方舟伝説」は聞いたことがあるという人が多いと思う。旧約聖書によると、「地上の人々の悪行を見た神が、人を創造したことを後悔し、すべてを洗い流すため大洪水を起こした」と記述されている。

しかし、神の好意を得たノアの一族と神が選んだ動物ひとつがいだけが生き残った、という内容となっている。このような大洪水やノアの方舟伝説は、単なる神話や伝承と捉えられることが多い。しかし、エチミジアン大聖堂の宝物館には、リアルな「ノアの方舟」のかけらが展示されているのである。

額縁の真ん中には十字架、その後ろにある茶色い木片のようなものが、アララト山に漂着したという「ノアの方舟」の一部だといわれている。

この教会にては、必ず見学したいものがもう1つある。「ロンギヌスの槍」である。ロンギヌスの槍はイエスが十字架に掛けられて亡くなった時、兵士ロンギヌスがその死を確かめるためイエスのわき腹を刺したという槍である。

ロンギヌスは目が不自由であったが、イエスの血が目に入り視力が戻ったことから改心し、後に聖人として扱われるようになったといわれてる。この槍もノアの箱舟の木片も、真贋のほどは定かではないが、民間伝説として長年にわたり伝説化していることだけは事実であろう。

この聖なる槍「ロンギヌス」は、アニメ「エヴァンゲリオン」などにも登場する。エチミアジン大聖堂の宝物館にある「ノアの方舟」の木片かけらのすぐ側に展示されている。

エチミジアン大聖堂

世界で最初のキリスト教大聖堂・エチミジアンである。

そのエチミジアン大聖堂では、付属のゲヴォルキア神学校を訪れたかったのである。だが、通常では解禁されていない。現地パートナーが交渉してくれて、特別に内部を見学させてもらう事が出来た。女性職員さんによるガイダンス付きという僥倖であった。

神学校は全寮制となっており、聖書をはじめ神話、伝説、そして各種古代言語なども学習されると聞いた。この神学校は、アルメニア使徒教会の最高学府であり、これまでも著名な神学者や宗教家を輩出している。

1874年に完成したこの神学校は、アルメニア最古の大学としても広く認められている。1917年、アルメニア人虐殺の生存者の避難所となったため、神学校は閉鎖の危機に瀕した。その後、再開に向けた努力はソビエト当局によって何度も妨害され、1945年まで再開は延期されていたのである。

アルメニアの楔形文字粘土板

楔形(くさびがた)文字・文字の誕生

シュメール人の最大の功績は文字の発明だろう。紀元前3300年頃、商取引において在庫や売買の記録をつけたり、 羊の頭数を管理したりする手段として、ブッラという中身をくりぬいた柔らかい粘土製の玉が用いられるようになった。

トークンという鋭い小型粘土製の計算具を粘土玉に押し付け、押印痕の深さによって量を示すという仕組みだ。その後この記録方法は、取引する品物を簡単な絵で表した象形文字を粘土板に刻む方法へと発展する。数世紀を経てシュメール人はこれらの象形文字を組み合わせることにより、より複雑な情報を表現する方法を編み出した。

たとえば、水と口の象形文字を組み合わせて、「飲む」という動作を表すといった具合だ。時の経過とともに抽象を表現できるようになくさびり、音を表す文字も生まれた。これらの文字は楔形あしに削った葦で書かれたため、楔形文字(右)と呼ばれている。 楔形文字を表す英語「cuneiform」の語源は、楔を意味するラテン語だ。

18世紀にアッカドやバビロニア、アッシリアなどメソポタミア文明の古代王国の遺跡から次々と楔形文字の粘土板が発見されている。その楔形文字の解読が進み、シュメール人の英雄物語である『ギルガメッシュ叙事詩』の内容も明らかになったのである。ウルク文化期(紀元前3200年)にシュメール人によって絵文字としての古拙文字が発明されたのが、楔形文字の始まりとされている。

紀元前3200年とは、日本では縄文時代であり、欧州ではドルメンなどの巨石文明勃興期である。青銅器時代末期(紀元前2000年)には、約400文字(ヒッタイト語楔形文字)から約200文字(アッカド語楔形文字)に進化していく。アルメニアは、地政学的にも古代よりメソポタミアやバビロニアなどからの影響を色濃く受けたゾーンに属している。その結果、アルメニア各地の遺構からは、写真のような楔形文字の粘土版が多く発掘されているのである。

ズヴァルトノッツ遺跡

ズヴァルトノッツ アルメニア語で「警戒する力の神殿」または「天使の神殿」と訳されるこの驚異的な建造物は、エレバンからわずか10キロメートル、その名を冠した国際空港の近く、ヴァガルシャパト(別名エチミアジン)へ続く道沿いにある。

西暦7世紀、カトリコス・ネルセス世の教皇在位中に建立されたこの神殿は、かつて歴史上注目すべき瞬間に立ち会っている。ビザンチン帝国皇帝コンスタンス世自らが奉献式に参列したのである。皇帝はその壮麗さに感銘を受け、コンスタンティノープルに複製を建立したいと願ったが、残念ながらその夢は叶わなかったのである。

ズヴァルトノツは、当時存在したどのキリスト教会とも一線を画していた。その建築設計は画期的であった。典型的なバシリカ建築ではなく、この神殿は円形構造で建てられ、円筒形のボリュームが3層に段々に広がり、その頂部には巨大な球状のドームが据えられていた。

内部では、壁は対称的な十字形の柱の配置によって支えられ、完璧な等脚十字を形成していた。学者や歴史家はしばしば、ズヴァルトノツの構成は同時代のキリスト教建築よりも、古代バビロニアのジッグラトとの共通点が多いと述べている。

寺院の配置は、中心から放射状に広がる極端な対称性によって特徴づけられている。各層の壁には無数の窓が並び、内部に自然光が溢れ、ドームは空に向かって開かれた複雑なアーチの上に幽玄に浮かんでいるように見える。

この開放的な空間と上方へと伸びる動きは、この建造物にまるで別世界のオーラを与えている。ズヴァルトノツの輝かしい建築様式は、アルメニア建築に消えることのない足跡を残し、その後数世紀にわたって他の教会の設計に影響を与えたのである。

廃墟と化した今もなお、ズヴァルトノツは荘厳さと類まれな美しさを語りかけている。その断片は雄弁であり、石は歴史を息づかせているかのようである。古代アルメニアの装飾が精巧に刻まれた、今も残る柱を眺め、かつてこの建物全体がこれほど壮麗に彩られていた様子を想像してほしい。

繊細な模様で縁取られたコーニス、装飾モチーフが織り込まれた窓、ブドウの蔓やザクロの枝、そして精巧に緻密な幾何学模様で飾られた寺院の壁。まさに石に刻まれた傑作であった。かつて、預言者、使徒、福音伝道者を描いた彫刻群、いわば「肖像画ギャラリー」が存在していた。一部の学者は、その中には神殿建設に貢献した篤志家や寄進者の顔が、神聖な石に永遠に刻まれていたと考えている。

隣接するズヴァルトノツ博物館は必見である。寺院の遺跡の裏手、総主教宮殿と居住区の遺跡のすぐ右手にひっそりと佇むこの博物館には、魅力的な遺物が数多く収蔵されている。中には、人物彫刻、寺院のモザイクの破片、かつて神聖な時間を計っていた古代の日時計など、貴重な品々が展示されている。

ズヴァルトノツの建設者たちは、灰色、黒、紫褐色、赤みがかった凝灰岩といった火山岩のパレットを用いて作業を行い、それぞれの色合いが建造物に深みと個性を与えたのである。寺院のまさに中央には、狭い階段でアクセスできる神秘的な窪みがある。一説によると、かつてここにはアルメニアキリスト教の守護聖人である聖グレゴリウス・イルミネータの聖遺物が安置されていたと言われている。

ズヴァルトノツの建設は641年近くにわたっている。西暦643年から652年にかけて着工され、断続的に工事が進められ、最終的に300年に完成している。970年以上にわたり、この神殿は信仰と建築の輝きの象徴として君臨してきたのである。しかし、973年以降に大地震が発生し、優美なアーチとドームは地震の力に耐えることができなかったのである。

時が経ち、遺跡の上には広大な土砂の山が形成され、そこから数多くの巨大な塔の先端が今も空に向かってそびえ立っている。かつての面影を、かすかに残しているのである。発掘は1901年までらなかったのである。その時になって初めて、埋もれていた驚異の秘密が明らかになり、ズヴァルトノツの驚くべき遺産が明らかになった。発掘者たちは、卓越した職人技で精巧に彫刻された浅浮彫や華麗な建築装飾の断片、そして鮮やかなモザイクの破片を発見したのである。

博物館

ゲガルド修道院

アルメニアには「ロンギヌスの槍」が収められていたという岩窟修道院が存在する。世界遺産のゲガルト修道院である。「ゲガルト」とは「槍」の意味。現在の修道院は13世紀に建てられたが、起源は4世紀に遡る。

教会堂や僧房は、機械のない時代に天然の巨岩の内部をくりぬいて造られており、多大な労力がかけられた。岩山と一体化したような造りになっており、手作業とは信じられないほど精巧な装飾が施されている。天井からは光が差し込み、とても幻想的な雰囲気を醸し出している。

また、この地に太古から湧き出る水は「聖水」とされ、今も人々の信仰を集めている。世界中の聖地に共通しているのは、自然条件として「巨石と水」という説もある。そこに人々の「祈り」が重なることでその場所が「聖地」化するのであろうか。とすると、ゲガルト修道院はまさにその条件がピッタリと当てはまるのである。伝説の「聖槍ロンギヌス」が保管されていたとしてもおかしくないような聖なる場所である。

ゲガルド修道院は、アザト川渓谷の崖に彫り込まれた驚異的な修道院群である。初期の建造物は元の形では残っていないが、現在の岩窟聖域群は中世の修道院建築の稀有な例となっているのである。

聖なる槍「ロンギヌスの槍」がエチミアジンに移されるまで5世紀もの間保管されていたカトギケ大聖堂は、その幾何学的な調和(正方形の中に十字が刻まれている)で特に注目に値する。近くには聖なる泉が流れており、癒しの力を持つと信じられている。アザト川沿いには、古き良き教会、古墳、ハチュカル(十字架の彫刻)、そびえ立つ崖などがあり、歴史と自然の両方の驚異を堪能できるのである。

セヴァン湖とセヴァナヴァンク修道院

アルメニアにある息をのむほど美しい観光地で、アルメニア最大の湖であるセヴァン湖の西岸にある丘に建つ歴史的な修道院である。もともとは湖に浮かぶ島だった場所が、水位低下により陸地とつながり半島となったのである。そこを訪れて修道院へと続く階段を登ると、湖と周囲の山々を背景にした素晴らしいパノラマが広がるのである。

セヴァン湖 (Lake Sevan)は、アルメニア最大の湖であり、標高約1,900mに位置し、その美しい水は「アルメニアの目」とも称されている。また、内陸国アルメニアにとって珍しい淡水魚や食用ザリガニの生息地であり、貴重な水産資源ともなっているのである。首都エレバンからも近く、多くの市民が訪れる憩いの場にもなっている。

セヴァナヴァンク修道院 (Sevanavank Monastery)は、歴史的な建造物であり、9世紀に建てられた歴史ある修道院である。シンプルな建築デザインと、壁に施された美しい十字架の彫刻である「カチカル」が特徴である。修道院へは石段を登る必要があり、その頂からはセヴァン湖の壮大な景色を堪能でる絶景ポイントでもある。

ホル・ヴィラップ修道院

ノアの方舟が漂着した場所として有名な美しいアララト山を望む修道院である。その歴史は4世紀にまで遡り、キリスト教の布教に勤めていた聖グレゴリウスが、13年もの間、教会の地下牢に捕われていた場所として知られている。最終的に、アルメニア王ティリダテス3世が、キリストの奇跡を体験し、301年にキリスト教がアルメニアの国教として定められたのである。それだけに、アルメニアのキリスト教を知るうえで重要な場所なのである。

「ホルヴィラップ」とは「深い井戸(穴)」という意味。3世紀末にアルメニアでキリスト教を国教化した聖グレゴリウスが幽閉された穴が残り、そこに7世紀に礼拝堂が建てられ、その後増設された。祭壇の横の階段からは今もその穴に降りることができるが、狭くて蒸し暑く、とても人が何年も過ごせるような場所とは思えない。

伝説では、ある女性が密かにこの穴に毎朝パンを投げ入れたおかげで、聖グレゴリウスは生き延びることができたとか。その後、彼を幽閉していた当時のアルメニア統治者トゥルダト3世が重い病気にかかり、「彼を穴から出せば病気が治る」という夢のお告げにより穴から出したところ病気が完治した。この出来事がきっかけでキリスト教が受容され、301年にアルメニアが世界で初めてキリスト教を国教としたという。この教会は、世界最古のキリスト教国家誕生のきっかけとなった貴重な場所なのだ。

また、修道院周辺にある葡萄畑とともに展開するアララット山の雄姿は、アルメニアを象徴するかのような絶景景観である。さらに、修道院のある丘からは、直下にトルコとの国境緩衝地帯が見える。鉄条網が道沿いに張り巡らされている。その鉄条網も対面側は、クルド人の居住地区と聞いた。トルコによるクルド人への圧政を逃れて、アルメニア側にも避難している。

その避難民の家族が経営する、野畑沿いのパンづくり店でも一服させてもらい、伝統的パンづくりを動画撮影させてもらった。ホルヴィラップ教会とアララト山の組み合わせは、歴史・宗教的観点からもアルメニアの象徴的な風景といえる。

異教のガルニ寺院

異教(キリスト教にとって)の神殿・ガルニ

世界初のキリスト教国・アルメニアに現存する、唯一の異教神殿である。ここは太陽神などを崇める原始宗教の神殿である。ヘレニズムの影響を受けている建築構造は、見る者を圧倒する迫力がある。

この神殿は、紀元1世紀初頭の史料に初めて登場しており、歴史家たちは、アルメニアの太陽神ミフルを祀るため、ティリダテス王の命により建造されたと考えている。風光明媚なコタイク地方に佇むこの印象的な建造物は、調和のとれた対称性、イオニア式の柱、そして繊細な石の彫刻で畏敬の念を抱かせてくれる。

神殿に入るには、高さ30センチの階段を幾つか上らなければならない。なかなか一足一足が進まないのである。途中で休みながら、神殿を見上げると、神殿を取り囲む24本の柱が聳り立つのが目に入る。この24本の柱は、それぞれが一日の時間を象徴しているといわれている。

それらを飾るのは、力強いアトランティスの像、つまり両腕を高く掲げて支える祭壇の重みに耐えながらひざまずく神話上の巨神たちである。玄関ホールを抜けると、かつてミトラ神像が立っていた小さな聖域に足を踏み入れる。古代において、この偶像は神聖な儀式において中心的な役割を果たしていた。特定の時間帯になると、屋根の開口部から太陽光が差し込み、磨かれた石に反射して神像を照らすという。

祭司たちはこれを太陽神自身の顕現と解釈していたと言われている。アルメニアの首都からわずか28キロメートル、ドラマチックなアザト川の渓谷を見下ろすガルニ神殿は、建築の傑作であり、アルメニアに現存する唯一の異教寺院である。風光明媚なコタイク地方に佇むこの印象的な建造物は、完璧なプロポーションである。

調和のとれた対称性、イオニア式の柱、そして繊細な石の彫刻で畏敬の念を抱かせ、目にするすべての訪問者を魅了してくれるのだ。この神殿は、紀元1世紀初頭の史料に初めて登場している。歴史家たちは、アルメニアの太陽神ミフルを祀るため、ティリダテス王の命により建造されたと考えられている。

精巧に切り出された玄武岩で造られたこの建造物は、高さのある複数のブロックを鉄製のクランプとダボで固定しており、当時の卓越した建築技術を物語っている。寺院に入るには、高さ30センチの階段を幾つか上らなければならない。それぞれの階段は、参拝者の歩調を緩め、深い敬意を払うよう意図的に設計されてる。背の高い人でさえ、この神聖な建物の前では頭を下げざるを得ないのである。

これは、神への謙虚さを示すさりげない行為を誘発する為だと言われている。神殿を取り囲む24本の柱は、それぞれが一日の時間を象徴しているといわれている。それらを飾るのは、力強いアトランティスの像、つまり両腕を高く掲げて支える祭壇の重みに耐えながらひざまずく神話上の巨神たちである。

これらのモチーフは、時間、力強さ、そして儀式を融合させ、幾重にも重なる意味を与えているのである。この寺院はヘレニズム様式の影響を強く受けているが、地元の芸術性が細部にまで息吹いている。英雄たちと結び付けられるアカンサスの葉が精巧に彫刻される。

ブドウやザクロといったアルメニア特有のシンボルと織り交ぜられ、豊穣、再生、といった国民的アイデンティティを想起させるのである。玄関ホールを抜けると、かつてミトラ神像が立っていた小さな聖域に足を踏み入れる。古代において、この偶像は神聖な儀式において中心的な役割を果たしていた。

特定の時間帯になると、屋根の開口部から太陽光が差し込み、磨かれた石に反射して神像を照らすのである。祭司たちはこれを太陽神自身の顕現と解釈していたと言われている。

アルメニア最高峰・アラガツ

アラガツ山は、アルメニア北西部にある成層火山である。同国の最高峰で、首都エレバンから約40km北西の地点にあり、安山岩からデーサイトで出来ている。

その4,095 m (13,435 ft)の山体は氷河によって浸蝕されており、鮮新世から更新世にかけての地質年代を示している。しかし、寄生火山と割れ目噴火の跡は山裾の至る方向に残っており、これは非常に多量の溶岩が流れ出た証拠となっている。これらの中には完新世になってから形成されたと考えられている物もあったが、カリウム-アルゴン法による年代測定では更新世中期から後期にかけて起こった物であるとの結果が後に出た。

最も若い山体の年代は精確にはわかっていないが、火山活動は更新世末から紀元前3000年までに抑制されたようである。噴火口と火砕丘による西南西から東北東に約13kmの長さを持つ尾根線は北側の噴火口の外輪を切っており、近い過去に溶岩と火山泥流が流れた証拠になっている。そして、その火山泥流は鮮新世の山頂噴火の特徴であると考えられている。西斜面と南斜面は中石器時代から鉄器時代にかけてのペトログリフの産地となっている。山腹にはビュラカン天文台や中世前期に作られたアンベルド要塞がある。また、山の南東にはアシュタラク、北東にはアパラン、北西にはアルティク、南西にはタリンの町が存在している。

啓蒙者グレゴリオスがアラガツ山で祈りを捧げた時、天からランタンが落ちてきて、彼の下で光を放ち、光り続けているとされている。アルメニア人はその啓蒙者のランタンがそこに未だにあり、純粋な人とその魂のみがその永遠のランタンを見る事が出来ると信じている。そしてそのランタンは彼らアルメニア国民の希望と夢の象徴となっている。

国境越え資料
ジョージア・アルメニア国境越え

□ 陸路にての国境越え

フィールドワーク地をジョージアからアルメニアへと、陸路にて移動した。ジョージアの首都トビリシから一路南下。約1時間強(結構な猛スピード)にて国境到着。検問所は、中国と韓国からの団体さんで大混雑していた。国境での写真撮影は自由にどうぞ、というものである。ジョージア側を出国したら、徒歩にて国境の川に架かる橋を渡りアルメニア側へ。

イミグレは、両国ともに簡素なチェックのみ。荷物のチェックも同様にほぼスルー状態。なんと現地アルメニア側パートナーが、イミグレ窓口横に立っており、係官と和かに談笑していた。まぁ、なんとも穏やかなボーダーライン越えであった。アルメニア側パートナー女性は、エレバン人文大学にて日本語を学んだ方である。

彼女によると、アルメニア人女性と結婚した日本人男性が、最近首都エレバン市内にて『東京』という名の日本食レストランを開店させているそうな。また、彼女の友達アルメニア人女性は、沖縄の日本人男性と結婚して沖縄に住んでいるらしい。意外?(私が知らないだけ)にも、アルメニアと日本との距離感は近づいて来ているのかもしれない。

□ 主要な国境通過地点

ジョージアとアルメニアの間には、主に2つの国境越えポイントがある。主な通過点は、アルメニアの北東部とジョージアの南東部に位置するサダフロ-バグラタシェン国境越えである。2つ目は、アルメニアのバヴラ町とジョージアのニノツミンダ町を結ぶバヴラ-ニノツミンダ国境越えである。

□ 交通手段

ジョージアとアルメニアの国境を越えるためのさまざまな交通手段がある。公共交通機関を利用する旅行者には、トビリシとエレバンを結ぶバスやミニバス(マルシュルトカ)が利用できる。また、共有タクシーは、より早く柔軟な選択肢を求める旅行者に人気がある。自分で運転することを好む方には、国境を車で越えることができるが、国際運転免許証や有効な保険など、必要な書類を持っていることを確認することが重要である。現在、両国間に直接の鉄道接続はない。

□ ビザと税関の要件

ビザの要件は、国籍や訪問の目的によって異なる。旅行前にジョージアとアルメニアのビザ要件について最新の情報を確認することが重要である。税関については、両国ともタバコ、アルコール、通貨などの特定の品目に制限がある。持ち込む品物を申告する準備をし、許可された限度を超えないようにして、国境での問題を避けるようにしたい。

イスタンブールと山田寅次郎

イスタンブールにてのフィールドワーク

山田寅次郎とガラタ塔

528年以降、この場所にはボスポラス海峡を見守る灯台があった。その灯台は、1204年の第4回十字軍遠征により破壊されたのである。その後、1348年にジェノバ人商人により石を積み立てて「イエスの塔」が建造された。この「イエスの塔」が、ガラタ塔の原型といわれている。イスタンブールのガラタ地区は、かつてラテン人商人の自治区であった。

1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを支配した後、ジェノバ人の居留地は廃止されたのである。城壁も取り壊されたが、ガラタ塔はそのまま残されて牢獄として使用されていた。オスマン帝国時代以降、ガラタ塔は度重なる地震や火災での被害を受けながらも、ほぼ100年に一度改修されてきたのである。

1717年よりは、火災監視塔として使われていたが、オスマン帝国末期は特徴的な円錐形の屋根を失った状態で放置されていた。このガラタ塔に、明治30年代にほぼ毎日のように登っていた日本人がいる。その後は、民間親善大使や茶人・経済人としてトルコと日本の交流発展に貢献した山田寅次郎である。

若かりし頃の山田は、オスマン帝国艦船エルトゥールル号の和歌山県沖での遭難生還者への義援金を携えて、トルコへ単身渡航したのである。そしてオスマン帝国に賓客として迎えられ、日本トルコの交易・交流仕事に従事するのである。1904年の日露戦争の際にも、イスタンブールにいたため、ロシアへの諜報活動にも協力したのである。

彼は度々ガラタ塔に登って、黒海からボスポラス海峡を通るロシア黒海艦隊の動向を監視していたのである。結果的には、黒海艦隊は動かず、バルチック艦隊がロシアから派遣され、日本海海戦にて東郷平八郎や秋山真之らが率いた日本海軍に撃破されるのである。『坂の上の雲』の最終章におけるクライマックスの背後には、山田寅次郎のような明治気骨人の活動があったのである。

現代の多くの日本人が、忘却の彼方へ置き忘れてしまった『明治人気骨』。その発露した土地をフィールドワークすることで、気骨の根源を探るリサーチをこれからも続けていこうと思っている。

※なんとこの日のガラタ塔は、プロジェクトマッピングがおこなわれていた。寅次郎さんが見たら、なんと感想を述べられるだろうか・・。

ボスポラス海峡の暁光

このサンライズタイムだけは見逃せなかった。また、早朝の暁光を見る場所にもこだわりがあった。ご存知のように、イスタンブールは古くは、コンスタンティノーブルと呼ばれ、東西文明の結節点であった場所である。

ボスポラス海峡を挟んで、西のヨーロッパ文明と東のアジア文明が対峙し、そして融和しながらの歴史を擁している。

そのボスポラス海峡の夜明け時から暁光を迎えるまでの時間というのは、それこそ東西文明融合の曙的象徴ではないだろうか?

また、太陽の昇ってくる方角には、ウクライナも位置する黒海である。平和と安寧の暁光が波紋の如く広がるよう祈るばかりである。

★ 撮影地は、ボスポラス海峡に架かる橋のど真ん中付近(ヨーロッパとアジアの結節点の中心点)である。

メルバーナ教団博物館

□ スーフィーとはなんぞや

本来のペルシア人の特性は、シーア派のイスラム教徒・イスラム教の各派のなかでももっともオーソドックスでないのなかに顕著に見られ、これがスーフィーの運動にもつながっている。これはイスラム教とはかけ離れた神秘的な運動である。

イスラム教では、アッラーは唯一、絶対不可知の神とされているため、正統派イスラム教徒は、人間と神とが交わる手助けとなるようなこういった神秘的な忘我状態を勧める運動に、寛大な気持ちで対することはほとんどなかった。スーフィー運動は、初期キリスト教の神秘的運動と同じような方法教会の階級制度、聖書にもとづく教義理論のすべてをふりすてるやり方でスタートした。

信仰に対して誠実なキリスト教徒の多くは、 神を凝視することに没頭するために荒野における孤独を求めたのである。 はじめは隠者として、後に修道僧として、 彼らは精神の満足を探し求めたのである。我が身を孤独な状態におき、スーフィー運動の信者たちは貧しい生活をおくり、着るものも簡易な毛の外套一枚だけだった。スーフィーという名前は、ペルシア語のスフ (羊毛)ということばからきたものである。

スーフィーたちは、人間本来の理性は神と交わるうえで障害となる、と考えた。したがって、神秘的な忘我状態、 恍惚感に我が身をおき、この世のものの善悪を認識し、 かねて望みの神とともにある一体感を獲得しようとしたのである。

それ以来、スーフィー運動はその教義基盤で知られるようになった。 神を認識することは、 教義をもとにした信仰とは何ら関係がないとスーフィーたちは信じていたからである。スーフィー運動で用いられた特殊なことばは、イスラム文化世界から借り受けたものである。9世紀にはじまったスーフィー運動は、19世紀に入るとヨーロッパや合衆国に波及した。

この運動は、イラン文化の歴史上大きな位置を占めており、 イランには依然としてたくさんのスーフィー社会が存在している。スーフィー運動はまた、ペルシアの古典的詩歌のなかでも、もっとも美しい作品を生みだす精神的原動力となった。

□ 神秘学とも近似値のある、メヴラーナ旋回舞踏の博物館

古都コンヤを本拠地とするメヴレヴィー教団は、教祖メヴラーナが開いたイスラム教神秘主義の教団である。幾度も体全体を旋回舞踏して天地と一体となるセマーは世界的によく知られている。本拠地のコンヤにも一度訪れたことがある。イスタンブールにあるガラタ・メヴラーナ博物館は、メヴレヴィー教団のイスタンブールの新たな拠点である。

博物館は、1491年に設立され、その後10年ほどの間に大地震に見舞われ損傷してしまうのだが、オスマン帝国によって大規模な修復作業がおこなわれている。それだけ、オスマントルコ帝国にとっても、このイスラム教神秘教団の存在は大きな意味をもっていたのだろう。

現在でも貴重な文化遺産の一つとして残されており、展示品や廟のほかに、建物の1Fの礼拝堂では、毎週日曜日18:00からセマー(旋回舞踏)の見学ができる。建物の横手にある廟には、神秘教団の主要人物の墓などが並んでおり、その墓の形状なども神秘的である。

今回のコーカサス地方フィールドワークにての、主なリサーチの一つに『近代神秘主義・創始者関連地』があった。神智学協会創始者マダム・プラブァツキー、そしてグルジェフワークの創始者G Iグルジェフなどは、コーカサス地方(特にアルメニア)との関係性が強い。

彼らも、トルコの神秘教団には何らか影響を受けていたはずであろう。『神秘』という冠がつけば、現代日本ではどうしても、オカルト的な怪しげ世界と見られてしまいがちである。ただ、もう少し幅広く、かつ奥深い視野でこの世界観を捉えていく作業がもっと求められていくと思っている。

東洋医学の鍼灸師のはしくれとしても、東洋神秘学の一つである『気』の分野を極めようとしている。『気』は、目には見えないが、生命エネルギーの主要要素として捉えられ、武や芸、作法など各種の『道』にもリンクしていく。

メブラーナ旋回舞踏における、神秘主義的エネルギーも、東洋における『気』とも近似値的な不可視世界観であろう。不可視的エネルギーは、祈りなど宗教的行動の源泉でもある。またもっと遡れば、アニミズム的世界観や神話世界においては、この不可視的エネルギーが必須アイテムなのである。

歴史あるメインドアを持つガラタ・メヴレヴィ・ロッジは、ベイオールのイスティクラル通りの端、ガリプ・デデ通りの入り口の左手にある。オスマン帝国時代には、ガラタ・メヴレヴィ・ロッジ、クレカプス・メヴレヴィ・ロッジ、あるいはガリプ・デデ・テッケと呼ばれていた。

1491年に設立され、ガラタ宮殿学校と並んでベイオールにおける最も重要なオスマン帝国時代の建築物を展示している。1975年にはディヴァン文学博物館として公開され、2011年にガラタ・メヴレヴィ・ロッジ博物館として改組されている。

門の上には、スルタン・アブドゥルメジド1世の治世中に行われた改修工事に関する碑文がある。門をくぐると、クルミ材の床が敷かれたセマエリアに出る。セマエリアの奥には、ミフラーブ(祈りの壁龕)と説教壇(説教壇)がある。セマに面したムトリブ・マフフィリ(ロッジ)の前に、イェサリザーデ・ムスタファ・イッゼットによって書かれた「ヤ・ハズラト・エ・マウラナ」と書かれたカリグラフィーパネルがある。

ロッジ(マフフィル)と奥の部屋は、博物館のコレクションからの他の作品を展示するために使用されている。ロッジには、ムスタファ・デュズギュンマンによる大理石模様の展示、カリグラフィーの展示、ヒルイ・シェリフ(預言者ムハンマドの崇高な特徴)のシートの展示、チェレビ・ロッジ、ロイヤル・ロッジ、オスマン帝国軍のバンドと楽器の展示がある。

隣接する墓地には、シェイク・ガリップ(イスマイール・アンカラヴィ)の墓や、ハレット・エフェンディ(クドゥレトゥッラー・デデ)の墓などがある。シェイク・ガリップの墓は、1819 年に建造された鉛張りの屋根が付いた長方形の墓である。

その他、イスマイール・アンカラヴィ(1731 年生)、イサ・デデ(1771 年生)、セリム・デデ(1777 年生)、ガリップ・デデ(1799 年生)、メフメト・ルヒ・デデ(1810 年生)などが埋葬されている。またハレット・エフェンディの墓は1872年に建てられている。

グランバザール・エジプシャンバザール

イスタンブールに来るたびに、この2つのバザールは訪れている。ある一定年齢層以上の方には、映画『ミッドナイト・エキスプレス』はご記憶にあるだろうか。

この映画で描かれていた、イスタンブールのカオス的ワールドの象徴がグランバザールであった。最後に訪れたのはコロナ前であった。今回久しぶりに訪れてみたが、少々がっかりしている。

それは、時代の変化とともに致し方ないことであるが、双方ともに内部整備が行き届いてきており、昔のカオスが消滅しつつあるのだ。

グランバザールは照明ライトが煌々と照らされており、雑然感がほとんど無くなっている。まだ、それぞれのバザールの近くにあるストリートバザールの方が、昔のカオス的雰囲気を残しているのである。

トルコ南東部遺跡・ギョベックリ・テペ

古代文明の定説を覆すかもしれない、トルコ南東部にある遺跡。この場所は、意外とコーカサスにも近い距離にある。その遺跡の事などを3ヶ月でマスターするテレビ講座がNHKのEテレで、10月1日からスタートしている。

これまでの定説では、『文明は農耕や牧畜による定住によって始まり、やがて都市や国家へと発展していった』とされている。アルメニアにもあった楔形文字が代表するメソポタミア文明や、ピラミッドのエジプトなどの都市遺跡文明は、大河の流域に栄えている。

それまでの狩猟採集の生活から脱し、農耕や牧畜によって食料を安定的に得られるようになったことで、人々は組織的な社会を築いていった。これが長らく信じられてきた「文明誕生のシナリオ」であったのだが、トルコ南東部で発掘されたギョベックリ・テペ遺跡は、それを覆す可能性を秘めている。

トルコ語で「太鼓腹の丘」を意味する世界最古の巨大遺跡は、今から1万1000年ほど前のものであり、人類がまだ狩猟採集民として暮らしていた新石器時代前半のものである。この遺跡からは、都市や王といった権力の関与や、文字の痕跡は見つかっていない。

ギョベックリ・テペの発掘が示しているものは、狩猟採集民もまた、社会的に複雑な営みを行っていたという事実だそうだ。古代メソポタミア文明の初期の神殿に匹敵する規模の建造物を、狩猟採集民が築いていたなどとは、これまでの定説を大きく揺るがす事になる。

文明は「定住→農耕・牧畜→都市→国家(権力の発生)」という一本の道を進んできたのではなく、もっと多様で、複線的に展開してきた可能性があるという事か。

イスタンブールからトルコ東部へも足を伸ばしたくなる。ヒッタイト関連遺跡には、必ずフィールドワークする予定をしている。NHK番組では、第二回はメソポタミア、第三回はヒッタイト、第四回はエジプト。それ以外にも黄河文明、マヤ文明などの古代文明が取り上げられるらしい。

コーカサス・フィールドワーク

2025年10月23日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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