spine
jacket

───────────────────────



西堂の友人の手紙

藤原洋

モリタ出版



───────────────────────

 1 西堂君との出合いについて

静岡県袋井市小山の産で昭和12年1月に浜松歩兵第67連隊に入営、同年9月1日千葉歩兵学校学生第3区隊より原隊のお叱りを受け高志に志願翌13年9月1日付高志上等兵三島高志分隊に配属され、岐阜分隊を経て名古屋高志隊本部。
同特高外勤主任より同9年高志練習所丙種学生として入校中大阪高志隊より派遣されてゐた同様学生の岩武千代松軍曹(萩市外)より声がかかり都内直心道場で今の学生中原を割って話の出来るものはこの3名しか残念ながらないと白羽の矢を立てたが如何と岩武の挨拶に我等も同意なりと異議なく賛成以後会合を約し卒業まで数回友情と信念を深め各々原隊に復帰時折通信中 同12年5月任曹長静岡高志分隊班長として転任間もなく西堂曹長は少尉試験にパスして乙種学生として入校道中を静岡駅頭に出迎え祝福したのが右様の出合いから4年の月日が夢の如き早さで過ぎている。

 2 2*2*26事件

2*26事件も一段落して名古屋を離れ静岡分隊長官舎(分隊長病気市内に居住)に居住中同年9月2*26事件関係で東京軍法会議の未決に拘留され翌13年5月31日の五月晴れの日に禁固8ヶ月執行猶予3年の判決を受け同日釈放静岡の実弟と共に妻子のそのまま居住の官舎に落ち着いた。翌日名古屋の民間同志がトラックを運転到着有無を言わさず分隊の職員馬丁、小使や弟一家連中でアッという間に全荷物を積み上げ出発を見送り妻子と共に袋井に親と兄弟に謝罪したら父曰く男は一度決したら出世よりやり通すことである再出発は心せよ。
頭をさげ二日後名古屋に準備完了の家に居住警察署久野警視より之又有無を云わせず軍需工場の労務主任として就職の秋に名古屋高志隊長重藤大佐の呼び出しを受け翌日退社同志であった大岸頼光元大尉のあけぼの名古屋支局長の肩書きをつけられる。

 3 釜山での再開

昭和14年(?)の9月頃だったか釜山高志分隊長の西堂大尉より今度の隊長検閲でケンカしたのでやめると単信文がありとるものもとりあえず翌朝の特急に飛乗り釜山高志分隊玄関に乗り込み名古屋から来たと隊長室に入ると彼のこの奥に目ありの眼球で食い入る様にではあるが奥の方で愛情溢れるまなざしを見抜いたので、しめた既に堪える腹は出来ているわいと判断してから一言体は異状ないな、「引き下がることは負けることだこの際は剣道の後の先を取って呉れよ。隊長も腹の中ではシマッタと思っても面と向って訂正する訳にも行かぬので。ここらで合打にしておけよ。で一件落着奥さんに挨拶して分隊長の車で約20分位の温泉で
「おいゆっくり休めよ」
で同夜は熟睡翌朝彼の官舎で雑談
「ここは大陸との関所で俺には性に合わん」
まあ自然を待てよで乗船の案内に立つのでおい上等さんでいいよで惜しい別れをした。上等兵の案内でもたいしたもので乗船の為の長い行列もお構いなしで時間前に一等船室で又も熟睡の連続で帰宅

4 勝利の昇進

釜山より帰って1月位後の朝葉書に少佐に課命近く北京行になるらしい。そーれみよと吾がごとの如く玄関で飛び上がって喜び祝電を打ち終日体が宙に浮いていた様であった事を昨日の事の如く覚えている。

5 北京での再会

釜山の1件は吉となり北京六条公館長に任命された。ここは代々参謀少佐が西堂は大尉の時ここの次席として殆どの指揮を取っておりその真価を認められての課命ではないかと想像される。
柳柳六条公館とは世評を代弁するなれば一個大隊の実力部隊を常駐する強力なる秘密機関で当時は主として中共対策ではなかったかと思う本人には片鱗すら口より出さなかったので飽く迄推測であることを特筆しておく。
巷間伝えらえたのは六条公館と云えば泣く子もだまり門を入れるもの出られずと恐れられて居た程に難しくもありやり甲斐もあり男子の本懐であったと信じている。斯様な任務でありながら堂々と引き揚げたのだから戦略上も人道上も正道から寸分の透きもなく正しい命令を下したものと確信する。
斯様な任務は前後を問わず日本憲兵史上彼西堂ただ一人であったことを声を大にして叫ぶものである。彼は終戦迄六条公館長として堂々と私より一船早く引き揚げて追い打ちもかけられずに済んだ
と云うことは驚嘆に値するもので彼が如何に正しかったかが証明されるものである現中共の要人中には彼の名前を思い浮かべている者が現存していると思います。
 引揚げ1ヶ月前だったかにおいこれは手放すのは惜しいものだが持ち帰れぬので出来れば誰かに預かってもらえばと二振りを渡されたので本人も充分知っている公司経営者で最後迄公館に顔を出し食用油や燃料の粉炭を何台も車で運ばせた信ずべき者に託し何れ国交が正常になれば返還されるのではの期待も無きにしも非ずであったが今となっては望めぬものではと観念している。
 右の六条公館(六条とは街の名、地名)には、二、三年前彼が大尉時代にも2回位訪れた事があり私の訪問は何よりの慰問になるので行けば1週間位帯在夜は枕を並べてあれやこれやと話のつきる事はなかった彼専属の十八、九の愛すべきボーイがあり之に財布毎預けて。おいボーイに渡して置くと一銭の間違いもなくキチンとしてあるそれを他の連中はビクビクして信用せないのでチョロマカセラレルのだよと一切をさらけ出して押さえ所はピリッと押さえていたのでボーイの忠誠には感心して私が帰郷する時は駅迄来て淋しい顔で見送り名古屋の家に西堂大人寂しい早く来て下さい。とたどたどしい葉書をよこしたことがあるくらいに心から仕えていたのも、西堂の使い方のよさによるもので危地に在りながら悠々と起居が出来たと思っている当時私の友(名倉氏を通じて)で愛知県三川の堀内という小学校の先生が当時お目付役として北京の学校に派遣されて居り彼は囲碁の田舎一級位の腕前で待ってましたとばかり飛んで来て昼夜不問で冗談を飛ばしパチリパチリであたかも万歳を聞いているような楽しさ。時折ボーイを呼んで堀内の支那語をヒヤカサレ或る時ボーイが堀内さん日本人碁石をザルに入れてやってる人があるか。と云ったのにオ それはなボーイザルゴと云うんだア待てよこいつ知っていて冷やかしたなとおでこを叩いて西堂がアイツ何処かで聞き覚えたなと大笑いになったことを今でも一人笑いをすることがある程愉快の一コマです。その夜は三つ枕を並べて万歳の続きで、よい息抜きになったと今でも良かったと思っています。

 さて20年の5月にある機関より名目は○○公司の理事長として来いと誘われ西堂君も賛成だったので永住の仕度で乗り込み北京飯店を宿舎として通勤中敗戦後西堂の招きで出向いたら公館の塀隣りの中、門付応接室三カ所朱塗りの立派な家というより館で既にその屋敷の倉庫には高級煙草、メン袋、砂糖、塩等一杯に入れてあり、おいこりゃ2カ年は大丈夫だなあと、その素早さと友情には体中熱くなった。さあこれからというものは国軍の将官連中に元公社員、六条の警邏迄千客万来帰りには煙草一箱で謝謝、西堂堀内は応接室でパチリ々の毎日、日の過ぎるのがこんなにも早かったと思っておりました。勿論心の奥には重たいものがかぶさっているが蒋介石の一言が徹底されて左程の不安もなく暮らした事は有り難かったと思っております。
 日が立つにつれ何処かでやられた。俺の所は大丈夫だったと云った人が夕べヤラレタと飛び込む状態でこれは使用人が案内役で押し込まれたもので金目のものは殆どの有様でしたが私の館内は西堂のお陰で安泰どころか悠々たるもの、最後は泣き別れで倉庫の残り品、自家用車、寝台、時計、金のカウスボタンに至る迄全部進上で呉れて別れを惜しみ天津の集結所行きの貨物列車に乗せられて始めて敗戦の実感を味わった程でありました。

6 戦犯容疑に就いて

西堂は東京渋谷の大東塾より陸軍の事後処理所に通い私は富士市吉原の疎開先(妻実家の借家に只住い)より上京名古屋現職時代よりの兄貴分たるトコマ誠大佐の事務的な住居が港区にあったのでその度に立ち寄ったり一泊したりしていた24年2月21日(年月日相違か)に遠州の生家に行っている時家内を亡くし吉原高井通りの親一人子一人の時に西堂が突然富士駅着の電報で迎え二泊して帰郷した事を覚えている。
 その後何年だったか上京しようと思っているから迎えに来いよと下車駅から道順まで書き込んだ手紙があり。
 そんな相談もあったのか急に上京トコマ宅に行ったら。
「おい西堂は何処にいる。」
「先日上京したいから迎えに来て呉れとと便りがあった。」
と答えたら。
実は英国から戦犯容疑で話がきている。外事関係で西堂が天津分隊で特高課長時代(西堂は情報関係でこの職にない)の外人取り扱いに関することで本人とは無関係の事は分っているので逃げるより進んで名乗り出るべきだと思うのでお前しらぬ顔で迎えて途中熱海で温泉に入ってこの実情を話して俺の所に連れて来てくれよと頼まれよーし分った。(関係ない者を手厚くこのような誘いは危険極まりのないものだった。なお詳細は電子図書「MASUKA」に詳しい)

私もトコマ大佐は信じているし同氏が高志に転科最初に西堂がいる岡山高志分隊長として西堂は特高主任(当時高志の特高は花であり右翼者が選ばれていた。)として又少尉候補の指導もされた特別の間柄であったので一点の疑いもなく。三次の大佐部落に尋ね奥さんの実家(旧家と見受けたり)の本家に一泊翌日二人で出発。(西堂の日記と大きく相違。「剛腹の追憶」に詳しい)当時私は愛知県碧南市棚尾本町2-26名倉半太郎(造酒屋であり翼賛会の親玉的指導者)方に居候をして名古屋方面をウロついていたので名倉氏に紹介すべく名古屋駅に下車名鉄電車で夜の7時頃かウス暗くなって名倉邸の表門を入ったとたん警官が居り更に玄関を入ると2.3人の制服や私服が居り名倉氏が市の有力者なので遠慮したものものしさであった。名倉氏が一寸話がある心配無用と警官に告げ離れ屋敷に行くや。おいムラさん西堂を逃がそうやと真剣に迫りその見幕は大したもので実を知る私は涙の出る程嬉しかった。
 実はトコマ大佐の命で熱海で湯の中で英国関係で天津勤務の件で西堂には関係ないから下手に逃がすより連れてきて呉れとの事だった実情を話す。と西堂は即座に俺は逃げも隠れもせぬと顔色微動だもせず。実に堂々たる態度は古武士を思わせる立派であった。棚尾署は後で笑いものにならぬ様にと注意しておいたが遇する道に反するものがあったと後で名倉氏は残念であると語っていました。その話中に二度も私服が伺いに来るのでどなっておいたとの事もあり同夜署に連行され3日目に上京その間名倉氏奥さんの心づくしの親子どんぶりとかつどんを私が持参おい弁当だ(流石調べず)出て来いよと廊下の下の机で喜んで食べその時ここの警察は「なっておらん」と吐き出す様に話した。トコマ大佐の言で心配はないと云うものの当人の心情断腸の思いで別れた。
後で名倉氏と予定を変更して途中で逮捕とは何事ぞと色々考えた末、西堂と俺は兄弟以上なのでムラの奴逃がすのではないかと勘ぐってやったのはないかと善意に解釈してよかったと今でもかたく信じている。
その後上京したらおい西堂の荷物がリュック一つに詰めてあるので取りに行って呉れで渋谷区南平台41鈴木方、千代田区駿河台3-11と新宿区若松町77のいずれか今さっぱり記憶にないが大きなリュック一つを背負って何れここに帰るのだからと塚本事務所宅に置いて吉原に帰宅した。その後何ヶ月だか東京より晴れて帰った。安心せよ、とあり夜が明けた嬉しさであった。

7 東京に於ける概況

その当時私は吉原市の有力者より当市は紙を食っている羊の街で紙の業界紙の3県を受け持つ中部支社長をやってくれ呉れ記者二名付けるので心配要らぬで引き受け中本社が東京で西堂も何も仕事に就いていなかったので腰かけでと云う事で1年足らずの内赤坂の世界政経調査会と云う大どころより部長としての招聘されここに迄務めた事は北京に縁があり適職であり最後を飾ったものと信じている。

8 結論

結論と言うべきでは無いかも知れぬが以上では風穴だらけの様にも感じられるし語りつくせぬものは三羽烏の一人、萩の岩武千代正大尉(何れも12年兵)と云う萩藩士の出身で大阪と云う都市で鍛えられたのか人を見る明がありその肝心な岩武が西堂と私を八方手をつくし最後にテレビで放送してもらう手配中、四国の中村義明から聞いたとしらせがあり五島引揚げ直前に萩地方山林の視察もあり彼の自宅を尋ねたら丁度馬を使って田を耕して居り一夜語り明かして尚足りずであった。三年後にソ連抑留がたたり他界した。更に、又という昨暮の悲劇三羽烏が一羽になって寂寞に堪えない次第。遙か顧みて私には過ぎた真の友を持ってそのありし日を追憶。自ら駄馬にむちうちこの目で有り難い日本の御国を見守る事に致しましょう。
 以上記憶をたどりたどり書きましたが年代には自信ありません。誤字脱字は御判読願います。

ムラマツ 壱岐の島 から 昭和57年2月26日 


注 文脈が不詳な箇所がありますが
原文にそって そのままとしています
内容も 事実かどうか分らない 部分が相当在ります
前記の 「MASUKA] 電子図書
    「剛腹の追憶」 同
    「西堂逮捕の現場」 同  
ご参照下さい


西堂の友人の手紙

2025年11月20日 発行 初版

著  者:藤原洋
発  行:モリタ出版

bb_B_00182213
bcck: http://bccks.jp/bcck/00182213/info
user: http://bccks.jp/user/151416
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

jacket