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2025年度 現代文特講 小説集

現代文特講受講者+宇野 明信

法政二高現代文特講出版



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Cover: Metropolitan Area Outer Underground Discharge Channel
Back cover: Kawasaki Port Undersea Tunnel
Photographed by Akinobu Uno

Designed by Tomoka Ohira

 目 次

「Close Your Eyes」ことり

「Take your marks 」吉川つぼみ

「オレンジ色のバラ」内海孝祐

「シマウマと囚人」クレド

「ページの向こうの母へ」加藤希郁

「ほこり」境野翔太

「温室の中の薔薇たちへ」陽向

「紅白」七草

「私が目指すもの」徳武蓮

「傷のついた三つ葉」草野レンギョウ

「隣人」白井日和子

「波の中で眠る」悠

「無・表情」宇野明信

付録:句集

あとがき

「Close Your Eyes」ことり

 鍵盤から指先が離れた瞬間、余韻までもが観客の心に溶け込んでいく感覚を覚えた。この日、私には自分の思いを伝え、人の心を動かす力があると知った。
 ここにたどり着くまで、私は長い路のりを歩んできた。

「かのーん、おかえりー」
「ただいま〜」
 学校から帰ってきて母と挨拶を交わすと、すぐに基礎練習を三十分間行う。そこから課題曲や自由曲の練習を三時間程する。私が三歳の頃にピアノを習い始めてもうすぐ十五年だ。特別好きかと言われたらそういう訳ではない。でも、せっかく長く続けてきたことを辞めるのが勿体無いような気がして、この歳まで習い続けてきた。新たな曲にチャレンジする際は、先ず何度か曲を聴き、次に楽譜を辿って繰り返し繰り返し、指に正確な動きを教え込む。最早、ピアノを弾くという行為は、私にとって息を吸って吐くようなものだ。
 私は県が主催するコンクールに、中学一年生から続けて出演している。このコンクールに参加していたのは、一番になりたいとか観客を魅了したいとか、なにか崇高な理由があるわけではない。毎年、定期的に行われる行事の一つという位置付けに過ぎなかった。とはいえ、今まで培ってきた技術を活かせば難なく優秀賞をもらうことができていた。それに狭く小さな世界で生きている十七歳の私は、負けることを知らなかった。もしかしたら優れた才能を持った奏者なのかと勘違いしていたほどだ。多少難易度の高い曲であっても、粒の揃った音を響かせ、楽譜通り完璧に弾き切ることが私にはできた。
 
 高校三年生になった春、いつもと変わらぬ道を歩きながら、いつもと変わらぬピアノ教室に向かった。私のピアノの先生は普段、教え方が丁寧で分かりやすい上に、とっても優しい。そして柔らかい声色でレッスンをしてくれる。この先生との相性の良さも、私がピアノを続けてこられた理由かもしれない。でもこの日、そんな先生が私にかけた言葉は、どこか大人に話しかけるようないつもとは明らかに違う重々しい雰囲気を感じさせた。
「奏音の音って本当に綺麗なんだよね。全部が均等で入ってきやすい。それってすごいことなんだけど、まだ奏音には豪快さが足りてないかな。そろそろ新しい演奏の仕方を学んでみない?」
「えっ、でも今のままでもコンクールでは優勝できてるし…」
「それは県レベルの話でしょう? 音楽の世界は奏音が知っているよりずっとずっと広いの。音楽にはね、とても繊細で計り知れないほどに大きな力が有るのよ」
「私は今のままでも満足だけどなぁ」
「奏音には音楽をもっと深く知って欲しい。楽しんでもらいたいって先生は思ってるの。指先と鍵盤が触れ合う感覚とか、現実とは違う世界観をイメージする力とか、自分の音楽を届けたいと思う気持ちとか…」

 自分の音楽ってなんだろう。
 この時の未熟な私には、先生の言葉の意味がまだ全く分からなかった。

 そんな先生とのやり取りから一ヶ月後のゴールデンウィーク初日、私は地域の芸術祭に参加することとなった。この芸術祭は戦後八十年の今、過去から未来へと戦争体験や文化芸術を受け継ぐことを目的として開催されている。もちろん私はピアノでの出演。地域役員のおじさんたちが話し合って決めた「花は咲く」という曲を演奏する。とても良い曲だけど、演奏曲の決定に私の希望などは特に求められず、少し残念だった。それにこの芸術祭の場にはなんとも言えない違和感もあった。戦時中の辛い過去について涙ながらに朗読をする高齢者、和楽器を使って民謡を弾き語りするおじいさん、昭和初期に作られたであろう歌を合唱するシニア合唱団のおばあさんたち。出演者はほとんどが高齢者で、若者はいなかった。観客も同じように高齢者が多く、歓声を送ったり元気に合いの手を入れたりしていた。みんなとても楽しそうなのだが、芸術祭としてこれは成り立っているのだろうか。
 そんな事を感じつつ、私は自分の出番を迎える。練習してきた通りの丁寧な演奏ができ、我ながら一音も外すことなく上手に弾けたと感じた。だけど私の満足感とは裏腹に、聞こえてきた拍手はどこか儀礼的なものだった。お辞儀をして顔を上げると、より一層大きく響き渡る拍手に再び違和感を感じた。悪い印象はない。私はアニメを見ないけど、例えるならアニメの中に出てくる大勢のモブキャラみたいな感じだったと思う。
 芸術祭の本来の目的は過去の体験や文化を受け継ぐこと。でも後に残ったのは高齢者の多さと強さ、そして演奏前後のなんとも言えない感じ。芸術祭から帰ってもしばらくの間は、参加者の年齢や観客の雰囲気など無数の違和感が心に残り続けたことを覚えている。

 六月になり、誕生日を迎えて十八歳になった私は、より大きなコンクールに挑戦するよう先生から勧められた。夏の全国コンクールだ。先生の提案を断る理由もなく、すぐに参加すると決めた。先生が過去に参加していた大規模なコンクールだと分かり、少しだけ心が弾んだ。
 全国コンクールは県大会に比べて会場が大きい。端々からみんなの緊張が伝わってくる。倍音まではっきりと聴こえる抜群の音響。独自の世界観に入り込んだライバルの音色。どれも私が今までに味わったことの無いものばかりだった。
 私はこの雰囲気に圧倒されたまま自分の出番を迎えたが、間違えることなく最後まで弾き終えた。練習通りの丁寧な演奏、それ以上でもそれ以下でもなく、聴こえてきた拍手は悲しい程に儀礼的なものだった。あの時の芸術祭と同様に、私のピアノ演奏は誰にも感動を与えなかったみたいだ。賞を取ることもなく、初めての全国コンクールは静かに幕を閉じた。
 けれど、私の中で今までと大きく違う感情が芽生えていた。私はこのコンクールで、ピアノを弾き終えたとき「悔しい」という感情を抱いたのだ。このままじゃ駄目だ、もっと高みを目指して上へいきたい、と。賞を逃したこと以上に、自分の演奏に満足できなかったことが本当に悔しくて、気付くと涙が頬を伝っていた。もっと人の心に届く演奏をしたいと強く強く思ったのだ。この自分自身に負けるという苦い体験は、私の心に火を付けた。
 今までの私なら悔しいとも思わずに諦めていただろう。しかし私はこの翌日から、基礎練習を一時間、本番に向けた曲の練習を六時間に増やした。それは寝る間も惜しむほどの、想像以上に過酷な日々の始まりだった。

 全国コンクールが終わって最初のレッスンの日。昼間はうるさかった蝉も鳴くのをやめ、辺りが暗くなる頃、教室の玄関先で私は呟いた。
「私って子供だったのかな」
「奏音がそんなこと言うなんて珍しいわね。何かあった?」
「先生、私もっと良い演奏をしたい!」
「いいね。でも良い演奏って?」
「まだ見つけられてないんだけど…前に先生が言ってた自分の音楽ってやつを見つけたい!」
 すると先生は、
「音楽の尊さを知った日、奏音はきっと音楽を愛せるようになるわ」
 とだけ言って私を見送ってくれた。
私は自分の思いを誰かに伝えようとしたことがあっただろうか。自分の意志を持ったことさえ、殆ど無かったかもしれない。只々決められた路を歩んできた。私には自分でミチを構築する力が足りなかったのだと気付いた。
 この瞬間、自分の中で完結してしまう今までのような音ではなく、多くの人と繋がることの出来る音楽を作り上げたいと思った。そして私はこの日から半年間、どうしたらこれが実現できるのか、ピアノの練習中はもちろん、日々の生活の中でも考えるようになった。
 この時すでに、自分の理想とする演奏の仕方があった。自分の思いを真っ直ぐ届けられる右手のメロディーと、その解釈の幅を広げるような刻々と変化する左手の和音。さらにペダルという装飾が加わることで自分の世界観に観客までをも引き込む。こんな音楽を届けたいと思った。
 これが楽譜に忠実な演奏をしてきた私にとってどれほど難しいことか、私自身が最も分かっている。しかし私は努力し続けることが得意だ。自分の目標を達成するためなら、時間も労力も惜しまない覚悟があった。
 様々なコンサートに出かけ構成の意図を読み取る訓練をした。曲の一節を繰り返し弾いて何通りもの弾き方を試し、自分に合うものを見極めた。自分ができる限りの全てこなした。練習を重ねていくうちに、音楽が私の想いをクリアに映す鏡のようになり、いつの間にか本気でピアノが楽しいと感じるようになっていた。

 そして、待ちに待った冬の全国コンクール当日。半年前に同じ駅から同じ会場に向かった時より、路が長く感じられた。会場に着いてすぐ、夏のコンクールの時より空気が張り詰めている気がした。これは多分、私の成長のせいだろう。他の出演者たちはきっと前回もこの中で闘っていたのだろう。一人、また一人と順調にコンクールは進み、優秀賞候補であるライバルの演奏が終わる。
 そして遂に私の出番が来た。
「演奏番号123番。」
 シーンとした会場に、大きなアナウンスが響いた。舞台を進む私の足音。徐々に増えていく観客の拍手。それを全て受け止める思いで深いお辞儀をする。椅子に座り、手を膝の上に重ね、深呼吸をする。右足をペダルに乗せ、指先を冷たい鍵盤に置く。最も緊張する曲の始まり。音楽は最初の一音目が命だ。重い鍵盤を弾いた瞬間、全身から溢れ出した感情が音の波のように広がっていった。

 最後の音は楽譜にあるよりも小さく繊細に。だけど長く、堂々と。鍵盤から指先が離れた瞬間、余韻までもが観客の心に溶け込んでいく感覚を覚えた。今聞こえるのは、少し荒くなった自分の呼吸だけ。数秒経った頃、時が動き始めたかのようにどこからともなく拍手が巻き起こる。とてもあたたかくて、人々の感動がまっすぐに届いてくる拍手だ。私の音楽を好きだと感じる人がここに存在している。こんな風に誰かの心に届く音楽を奏でられたと実感したのは、生まれて初めてだった。私には自分の思いを伝え、人の心を動かす力があると確信した。この時から私のミチは光に照らされ続けている。

――そんな私がこの世界を自分の目に映すことはない。

20250822@Former Maeda Family Residence, Komaba Park

「Take your marks 」吉川つぼみ

 私の名前はアキカ。元国体選手の父、バレーボール一筋で高校まで進んだ母、全国大会入賞経験がある姉を持つ高校三年生。私は幼い頃から過度な負けず嫌いで、その上プライドが高い。
私の人生は水泳中心に回ってきたと言っても過言ではないだろう。私が辿ってきた軌道をこれから話そうと思う。

 私が水泳を始めたのは三歳の頃。三つ上の姉が水泳をやっていたのがきっかけだ。観覧席で姉が泳ぎ終わるのを待ちながら、いつもお菓子を食べていた。もちろん、プクプクとフグのように膨れ上がる私に母は危機感を覚え、スイミングスクールへの入会を決めた。私はなぜいきなりスイミングスクールに入れられたのか分からないままだったが、別に行きたくないと思うことはなかった。

 プールサイドに座って足をバタバタすることから始まり、順調に進級を重ねた私に、選手育成コースへの推薦が届いた。当時小学一年生に上がりたての頃だった。この年齢で選手育成コースに声がかかる人は稀であり、私に水泳を始めるきっかけを与えた姉よりもはるかに幼かった。そんな私に、もちろん周りの大人は期待した。

 初めての県大会で私は優勝した。突然現れた新星に、周りからの注目はもちろん集まった。その後も勝ちの回数と自己ベストの更新を確実に積み重ねた私は泳ぐことが楽しくて楽しくて仕方なかった。

――いつからだろうか、この気持ちに変化が現れたのは。

 ある日、地区ごとに各学年の上位三人が自分の地区を背負って戦う対抗戦に選抜選手として選ばれた。私はその地区のエースとして50mバタフライに出場した。

「Take your marks ―パンッ!」

 私は持ち前の飛び込みでリードしていたという。ラスト10m。目標である三位以内は確実だと誰もが思っていた。そんな最中、私は突如、泳ぐのをやめた。息ができなくなったのだ。吸っても吸っても空気が入ってこなかった。いわゆる過呼吸というやつだ。もう一度泳ぎ出そうともがいてもダメだった。なんとかたどり着いたゴールはもちろん一番最後。そして失格。私は泣いた。プールの水位が増すほどに、沢山泣いた。水泳で初めて出会った絶望だった。重い足取りで観客席の家族のもとへ戻ると、家族の優しさや監督の励ましにまた涙が止まらなくなった。
その日の夜、なかなか眠りにつけなかった私はリビングで話す父と母の会話を聞いてしまった。
「アキカ、泳ぎきれなかったわね。」
「そうだな、絶対に表彰台には上れると思っていたから突然立ったときは何が起きたのかと思ったよ。」
「アキカには期待していたから、かなり残念。」
「もしかしたら、期待しすぎていたのがアキカにはプレッシャーだったのかもしれないな。少し期待するのをやめた方が良いのかもしれない。」
「そうね。アキカのためにも、私たちのためにも。」
この会話を聞いていた私はものすごく苦しかった。両親を裏切ってしまったという事実が深く胸に刻まれた。

 おそらくこの日からだろう、私の水泳への気持ちが変化したのは。

 あの日から、意外と簡単に私は気持ちを立て直した。毎日練習に通ったし、家に帰ってからのケアも欠かさず行った。だけど、変わってしまった。逃げることが多くなってしまった。

 夏合宿でのこと、この日のメイン練習はアンダーウォーターだった。このメニューが告げられた時、私は初めて「泳ぎたくない」そう思った。アンダーウォーターは25m一度も息継ぎをせず潜り続けなくてはならない。水泳をしている上では避けては通れないものだった。だけど私は逃げた。多分「できない」ということが怖かったのだと思う。「できない」ということは私の中で「敗北」を意味していた。しかし、適当な理由をつけてプールサイドに上がって仲間たちが顔を真っ赤にしながら泳ぎ続ける姿を見る私の胸は強く締め付けられていた。

 そんな私ではあったが、自己ベストは地道に更新し続け、全国大会出場への挑戦権を獲得した。全国大会に出場するのは十五歳までが比較的可能性が高く、これを逃せばほぼ不可能だと言われていた。出場するのは50mバタフライ。あの一件があった種目だが、一番適性のある種目でもあった。私は確実に全国大会の出場権をつかむと意気込んだ。実際、今までで一番調子が良かった。絶対に行けると自分に自信があった。

「Take your marks ―パンッ!」

 スタートで上手く勢いに乗った私はその後、順調に泳ぎ進め前半を終えるターンをした。(よし、これは行けるぞ!)後半も普段は疲れが出てくるところでも今回は体が良く動いた。自分でもあっという間だと思ってしまうほどにゴールした。絶対に全国標準記録を突破したと思った。しかし見上げた電光掲示板に映った私の名前に「突破」の文字はなかった。水泳で味わった二度目の絶望だった。

――その日から私はちっともベストが出なくなった。
 
 そんな私にも花の高校生がやってきた。それでも、水泳部に入部した。物心ついた時から水泳を始めていた私にはそれは日常であって、やめるきっかけが見つけられなかった。いや、きっかけはいくらでもあったのかもしれない。ただ、あの日のあの夜の両親の会話がまだ私の中に生き続け、期待を失った自分をまだ受け入れられていなかっただけなのかもしれない。

 高校での水泳生活は平凡に始まった。
県大会に出場するも表彰台に上るどころか入賞すらできないレベルになっていた。だけど悔しいと思うことはなかった。むしろ何も感じなかった。

 そんな単調な日々に突然亀裂が入った。ある日から突然、練習になかなかついていけなくなった。少し泳ぐスピードが速くなれば突然体が鉛のように重くなって動かせない。自分の目の前から遠ざかっていくチームメイトの背中を必死に追いかけようともがいても、焦る気持ちとは裏腹に体は止まってゆく一方であった。とうとう水泳に嫌われたのだと思った。そんな私にコーチが話しかけてきた。
「お前、様子がおかしいな。とても辛そうだ。」
「はい。ここ最近とても疲れやすい気がします。」
「一度、病院に行ってみてはどうだ?」
「病院ですか?……分かりました、行ってみます。」
病気になっている自覚なんてなかったし、病院に行ってもこの不調の理由には何もならないのだろうと思いながらも、あらゆる検査を受けた。相変わらず水泳は不調なまま検査結果を聞きにいく日がやってきた。
「アキカさん、こんにちは。検査結果はこちらになります。」
渡された検査結果を見た私は大きく目を見開いた。そこには難病だと書かれていた。命に別状はないものの、治療法が見つかっておらず、発生させないように原因を避けてゆくことしかできない病気だ。
「これは体が冷えることが原因で発症するもので、アキカさんは水泳をやってらっしゃいますよね? 水泳はどうしても体が冷えてしまうスポーツです。今後は体のことを考えても泳ぐことは控えていただきたいのですが……。」
私の頭は真っ白だった。お医者さんはこの後も色々と説明をしてくれていたようだが私の耳には何一つとして入ってこなかった。

――突如現れた水泳をやめるきっかけだった。

 待ち望んでいたきっかけだったのかもしれない。だけどこの結末ゆえに私の水泳人生を終わらせたくなかった。区切りをつけるため私は高校の卒業とともに水泳をやめることを決めた。

 この日から私は死に物狂いで練習した。やはり体が思うように動かせない時もあったがそれでも泳いだ。苦手な練習からも逃げなかったし、アンダーウォーターだってやった。そしていよいよラストレースの日がやってきた。前日、母が私に言った。
「寒い冬に沢山の思いや希望を溜め込んできたそのつぼみを開かせる時が来たね。頑張れ、『開花』」
そう、私の名前アキカは漢字で書くと「開花」。いざその時が来たのではないか。


「Take your marks ―」

20250830@Hosei University Kawasaki Ground Track

「オレンジ色のバラ」内海孝祐

「それじゃあもう寝よっかなー。みんな今日もありがとう! おやすみなさーい」
 終了ボタンをしっかり押せているか、もう一度確認する。大丈夫だ。間違いなく配信は終わっている。最近切り忘れによる放送事故をよく見聞きするから、私も気をつけないと。
 後ろのソファに座り込んで、深く息をついた。今日もたくさん喋って、たくさん笑った。SNSの投稿やコメントを見ていると、私を褒めてくれる文章でいっぱいだ。「今日も可愛すぎー」「アイメイク綺麗で憧れる!」「私もミサちゃんみたいになりたいなー」みんながたくさんの言葉をかけてくれて、ついニヤニヤしながらスマホを眺める。時には不快な言葉や辛辣なコメントを目にすることもあるが、そんなアンチに負けないくらい沢山のファンの人たちが応援してくれている。
 でも、一通り見終わるとすっかり飽きて、さっさと寝る準備に入ってしまう。ここ最近ずっとそうだ。極度の疲労というわけでもないのに、早いうちにベッドに向かっている。さっと熱が冷めてしまうような感じ。昔だったら日付を超えてもスマホをいじってて、二時頃に寝落ち。翌朝バタバタ支度する、というのが普通だったのに。夜更かしする気がまるでなくなった。まあ早寝早起きは悪いことじゃないよな、そう思って今日も眠りにつく。

 翌朝教室に入ると、いつものようにアヤカたちが談笑していた。
「みんなおはよー」
「おはよーミサ! 今日の朝めっちゃ寒かったよね。あ、てか午後数学の小テストじゃん!やばーうちノー勉なんですけどー!」
 今日もテンション高いなあ。ムードメーカーのアヤカと話していると、私の方まで明るくなれる。人気(自称)インフルエンサーとして毎日忙しいけれど、彼女と話しているとそんな疲れも吹き飛ばしてくれる。
「今日ってミサ残れる? ちょっと人足りてなくてさ」
「うん全然大丈夫だよー」アヤカたちと文化祭準備の約束をした。あと二週間で高校生活ラストの行事。とっても楽しみだ。
 休み時間に入り、友達と一緒にお弁当を食べることにした。他愛もない話をしながらスマホを眺めていると、とある文言が目に入った。
「自殺未遂」「高校三年」「配信者」
 思わず咳こんでしまった。チラッと見覚えのある名前が出てきてびっくりした。気になってすかさず調べていくと、こんな記事が。
『昨日午後七時頃、横浜市内のマンションから女子高生が飛び降り怪我をした。住民の通報があり病院に搬送されたが、命に別状はないという。高校生は、一時期動画配信サービスで活動していたこともあり、警察は詳しい状況を捜査している。』
 この子、知ってる。動画も見たことあるし、なんなら私の配信にも時々遊びに来てコメントしてくれる子だった。近所だったのでリアルで会ったこともあり、とても可愛くて愛嬌のある子だった。そこまでフォロワーはいなかったはずだが、ある時彼女のダンス動画がバズって「いいね」もたくさん付いていた。思えば久しく彼女の投稿を見ていない。急いでアカウントを検索してみたのだが、もう削除されていた。他のSNSからも音沙汰はなくなっている。大丈夫だろうか。心配になってきた。
「どうしたのミサ? すごい顔してる」アヤカが話しかけてきた。
「え? あ、ううん。何でもないよ」
「そう? 最近風邪流行ってるからね。気をつけなー」
「あ、ああそうだね。ありがとう」
 動揺していてうまく言葉を紡げなかった。同級生、しかも知り合いの女の子が自殺しかけてたなんて、ちょっと信じられない。正直こうした事件はたまに目にするのだが、今回ばかりは結構キツい。自分の周りにもこういう人がいたんだという衝撃。どうして、どうして飛び降りようかなんて。死んでしまおうか、なんて思っちゃったんだろう。いったい何があったのか、どんなに苦しい思いをしてたのだろうか。あれこれと想像を掻き立てる。そしてもし、自分がそんな状況だったら、とも思う。当然原因なんて本人にしか分からないし、ネット上のトラブルによるものだなんて決まったわけじゃない。でも、私と同学年でインフルエンサーの女の子。自分がもしその立場にいたのだとしたら。
 ダメだ。考えれば考えるほど胸が苦しくなる。悩んだところでどうなるわけでもない。私はただ、今日という日をいつも通り生きる、それだけだ。野菜炒めのピーマンをゆっくり口に運ぶ。苦い。

 放課後、私はアヤカたちと教室に残った。模造紙にみんなでイラストを描くことになった。見本となる絵をアヤカが描いてきてくれたので、それを元に下書きをして色を塗っていく。
「しかしアヤカは上手いよねー。ビラもデザインしてくれてたし。漫画家とか向いてるんじゃない?」
「いやいや〜。そこまでプロじゃないようちなんて」
 少し照れながら、でも自信ありげに返した。実際私もアヤカの絵のセンスには憧れている。美術などまったくの素人な私でも、上手だなあと感じる。
「てかネットに載せたりとかしないの? こんなに可愛いのに」一人がつぶやいた。
「そうそう。あげたら絶対バズるし人気でるよね。ミサもそう思うでしょ?」
「まあそうだね」私も答えた。
 確かにこれほどの画力があれば話題にもなる。でもなぜか、アヤカはSNSには興味がなさそうだ。流行りのダンスも歌も、踊れないし歌えない。そういえば前に、私が彼女のイラストをアイコンに使っていいかと聞いてみたら、「え〜やだよ〜。恥ずかしいからやめて〜」とやんわり断られたこともある。
「いや〜。ネットにあげるとか興味ないかなぁ」そう言ってまた下書きに取りかかる。
 私たちのクラスの出し物は、『美女と野獣』をモチーフにした演劇。今描いているのはタイトルの周りにつけるバラの絵である。カラフルなデザインにしたいということで、赤、黄色、ピンクなど沢山の絵具を使う。特に私が好きなのは、オレンジ色。アヤカの書いてくれたオレンジのバラを、キーホルダーにしてスマホに付けている。
「あー手疲れたー。そろそろ帰る? 結構進んだっしょ」
「そうだね。じゃあ今日はここまで。明日の朝って劇の練習する感じだよね?」
「そうそう! 頼むよミサ!」私はヒロイン役に抜擢された。そういえばセリフをまだ覚えきれてなかった。家で練習しておかないと。

 アヤカとは最寄りの駅が同じなので、今日も一緒に歩くことにした。
「文化祭楽しみだね」
「それなー。てか今日の昼さあ、どうしたの? ミサのあんな顔初めて見たよ」
「え? あ、いや…」
 せっかく忘れかけてたのに。またあの字面が、私の頭にふわふわ浮かび上がる。
「やっぱミサ色々頑張ってるからさ〜、体調崩しちゃったんじゃないかって心配でさ」
「ううん。大丈夫だよ」全然大丈夫じゃないけど。
「そう? でもやっぱ有名人って大変じゃない? ストレスとか多そうだし」
 その言葉を聞いてハッとした。そうだ、その通りだ。なんとなくは分かっていたけれど、やっぱり人前に出るのって大変なんだよな。まして顔を出して活動なんて、並大抵の人間にはできないものだ。改めて身に染みてそう感じる。そんな、並大抵じゃない自分への誇りと同じくらい、いやむしろそれ以上に私の胸には、苦しみがゆっくりじわじわと伸し掛かる。口角が段々と下がっていくのを感じた。
「うちやっぱそういうことできないな〜。あ、いや別にミサを否定してるとかじゃなくて、うちには向いてないんじゃないかな〜、って」
 そうだ。そういえば前から気になっていたことがある。
「それで言うとさ、なんでアヤカはネットに興味ないの? さっきもみんな言ってたけど」
「うち? まあダルそうってのもあるけど〜。やっぱさ〜みんなといる時が一番楽しいんだよね」
 オレンジ色の夕日を背に、アヤカは続ける。
「うちら全然気使わなくていいじゃん。なんでも話せるしすごい心地いいっていうか〜。今のままで十分なんだよね。毎日めちゃくちゃ充実してるもん」
 そっけなく喋るアヤカを横にして、私は少し空を見上げる。なんでだろう。自分でもよく分からないけれど、泣きそうだ。
「え? どうしたのミサ? まさかうちの話聞いて感動しちゃったとか? やめてよー恥ずかしいわ。そんな大したこと言ってないって」
 やっぱり、アヤカは優しい。笑いながら私の肩に寄ってきてくれた。二人で手を繋ぎながら駅に向かって歩いていく。

『今日はちょっとお休みします。ドタキャンごめんなさい』
 告知をしておいた。流石に普段みたいに元気が出ないし、涙目で終わってるビジュのまま配信するわけにもいかない。
 ベッドでスマホを触り、トレンドを見ていると、あの件で新しい情報が出てきたようだ。例のインフルエンサーが前日にライブ配信をしていたところ、終了から約五分、配信を切り忘れていたらしい。その時の動画が拡散されている。気になって思わず見てしまった。
 電気の消えた暗い部屋を固定カメラが映す。彼女の姿はそこにはない。
「ああ終わった〜〜〜。だるいわ〜マジで」と声が聞こえた。あの子の声だ。
「毎回しんどいわ〜、愛想良くすんの。ってか今日のコメント少ねえなあ。こんだけやってんのに」私の知ってるあの子とは違う。口調が強いのに若干びっくりした。
「てか普通にキツイからね、猫被ってやんの。そういうの分かってないくせにしょうもないアンチやってんの、ホント腹立つわ。何様だよお前ら。じゃ何? 私消えちゃえばいいんですか? そしたら文句ないですかあ? ウゼェわマジで」動画はそこで終わった。映像が消えて黒い画面が私の顔を映す。
 やっぱりだ。私と会ってくれた時あんなに優しく話してくれて、すぐに友達になれると思っていたけど。裏ではこんな思いをしていたなんて。アンチに対し文句を言う時の彼女の声は、微かに震えていた。
 
 シャワーを浴びながらふと思い返す。「愛想良くする」「猫被って」というようなフレーズ。大勢が見る中で、素の自分を見せられない、ということだろうか。人気者になるために、可愛いと言われるために、チヤホヤされるために。そういう理由を作って、元気な姿を無理して見せようとしている、ということなのかな。リアルで会った時も、たまに彼女の顔が疲れているように見えることがあって、「どうしたの?」と問いかけると、平気平気、とケロッとした顔を向けてきた。あの時も、そんな風に思いつめていたのかな。
 それで言うと、私自身はどうだろうか。世間のみんなが思うミサのイメージというのは、明るく陽気な女子高生みたいなものだと思う。実際私はそういう人間だ。それは間違いない。でも、どこか過剰になっているというか、ピエロになってる節があるんじゃないか。みんなに褒められて、愛されたいから。無理にテンション高くして場を盛り上げてみたり、大袈裟なリアクションを取ってみたり、思い当たることが次々と浮かんでくる。とある日にコメントで『マジこの動画おもしろすぎ! 爆笑しちゃった!』なんて打つ時、私はどんな顔をしてただろう。多分、無表情だった。試しに目の前の鏡に向かって笑ってみるけれど、なんだかぎこちなく、苦笑い感が出ている。いつも私がカメラに向かってしていた笑顔も、こんな感じで歪んでいたのかな。
 アヤカが帰りに話していたことを思い出す。「気使わなくていい」「今のままで十分」と。アヤカや他の友達と一緒にいる時は、自分を取り繕うことが全くない。自然体で、自分の感じたこと、思ったことを素直に話せる。世間からの見られ方を気にする必要がないからこそ、一緒にいてものすごく楽しい。みんなとお昼を食べたり勉強したり、遊んでいるあの時間が、やっぱりすごく楽しい。なんだか、それが当たり前になっていたんじゃないかな。段々と、アヤカがSNSに興味のない理由が鮮明になってきた気がする。
 お風呂から上がってひと段落。いつもならスマホを触っていたけれど、今日はやめよう。劇の台本をパラパラと眺めて読み進めていく。ふと、スマホに付けてあるキーホルダーが気になった。なんとなく取り外して、学校のバックに付け替えてみた。

 まずい。いつもと同じ時間にアラームをセットしておいてしまった。今朝は劇の練習があるんだった。急いで支度をして出発する。学校では既にアヤカたちが教室で待っていた。
「遅いよー。初っ端から寝坊? しっかりしてよぉ」
「ごめんごめん、あっ!」ズカズカ走っていき、みんなの前で大胆に転倒した。
「ミサ! 何してんの? アッハッハッハ!」
笑い声が教室の中に響き渡る。朝からめちゃくちゃ恥ずかしい。でも、ちょっと嬉しい気もする。
「もうしょうがない子ねえ、ミサは。早く立って、練習するよ。ヒロインなんだからちゃんとしてよね」アヤカが急かしてくる。
「うん、やろうやろう」起き上がってみんなの輪の中に入っていく。
 みんな昨日までにしっかり練習していた。もうセリフを暗記している人だっている。私はまだまだ慣れてなくて、なんとかみんなに着いていく。一旦休憩を取ることになり後ろの壁を見ると、昨日途中まで描いた模造紙が貼られていた。もう少しで完成する。記念に写真でも撮ろうかと一瞬思ったが、やっぱりやめた。
「さあ、練習再開するよ。頑張ろー」
 アヤカがみんなに呼びかけて再び練習に移る。私も頑張ろう、最高の劇にするために。自分も周りも楽しいと思える劇を作るために。オレンジ色のバラのキーホルダーは、朝日を反射してキラキラと輝いていた。

20250503@Under the Nambu Line near Kawasaki Municipal Tachibana High School

「シマウマと囚人」クレド

 囚人は夜中走っていました。見つかっているのかも、追われているのかもわかりませんでした。走り疲れても、捕まるくらいならと走っていました。行く宛がなくても、あんな生活に比べれば大したことはないと走っていました。ようやく日が昇って、囚人は走るのをやめました。日の暖かさが心地よく、囚人は木に寄りかかって座り、そのまま眠ってしまいました。

 目が覚めると、シマウマが囚人を見下ろしていました。
「大丈夫、君。」シマウマは心配そうな顔をしています。
「ええ、ありがとうございます。」
「もうすぐ日が暮れる。日が暮れると、この辺りは方向もわからないほど暗くなってしまうよ。それに、最近は物騒だ。」
 囚人は身を起こして立ち上がり、シマウマについていきました。シマウマが向かう先には壊れかかった小屋があり、誰も使っていないからと囚人を案内してくれました。小屋はもう手入れされていない様子でしたが、屋根と壁で雨風がしのげそうだったので、彼らはその小屋で一晩過ごすことにしました。
「どうしてあんなところで眠っていたの。」シマウマは尋ねます。
「捕まっていて、逃げてきたんです。わけもわからず走って、疲れて眠ってしまったみたいです。」
「捕まるって、誰に。ひどいやつもいたものだね。」
 古い藁の落ち着いた香りが小屋を満たしていました。シマウマの問いかけに、囚人はどこか戸惑いながら答えました。
「罪を犯したんですよ。それで、警察にです。この服も、囚人服で」
「服って、君、人間だったの。」
 シマウマは怒った猫のように瞳孔を丸くして、とても驚いた顔をしました。囚人は戸惑いが募るばかりです。囚人服について触れられないのは、てっきりシマウマが気を使っているからだと考えていましたが、実際は違うようです。
「君が黒と白でしましまなものだから、てっきり私と同じシマウマだと思っていた。」
「そんなわけないじゃないですか。明らかに二足歩行で、見た目だって全然違うのに」
 シマウマと囚人は、そろって笑いました。そうして、その夜シマウマはいろんなことを話してくれました。シマウマという動物は、生き物を顔や形ではなくなんとなくの色や声で判別していて、その色というのも無彩色しか知覚できないこと。仲間のシマウマに出会うと、見た目では誰かわからないものの、話してみればすぐに認識できるためあまり苦労しないこと。同じ場所に留まることが嫌いなために、大人になってからは常に歩いて旅をしていて、旅で仲間を見つけたと思ったら囚人だったことなど、話しているうちに夜が更け、日が昇りました。
「君は、この先どうするつもり。」
「何の宛もないんです。家族もどうしているかわからないし、でも、遠くへ行こうと思います。捕まってしまってはまずいので。」
 それを聞いて、シマウマは少しの間考えてから言いました。
「それなら一緒に来るのはどう。一人旅に飽きてきたところなんだ。それに一緒にいれば、追っ手も君をシマウマだと思うに違いない。」
 囚人は少し驚いたものの、断る理由もありませんでしたから、囚人はシマウマについていくことにしました。澄んだ空気は少し乾燥して、まだ傾いている日差しが目に刺さるような日でした。

 少し歩いた頃、囚人は不思議な光景に足を止めました。その辺りには鳥の羽が地面一面に散らばっていて、物々しい空気に包まれているのです。シマウマは驚きもせず、呆れたようなため息をついて、囚人に教えてくれました。
「最近は戦争が激化してるんだ。君は捕まっていたのだから、知らないのも無理はない。」
「戦争ですか。」
「鳥たちの戦争だよ。カラスとシラサギの」
 何が原因で争っているのか、シマウマも詳しいことは知らないようでした。シマウマと囚人は、散らばった白黒の羽を踏まないように気をつけて進みました。そうして歩いていくと、飛ぶ力を失った一匹のシラサギが、落ちた羽の中に紛れているのを見つけました。
「大丈夫、君。」シマウマが尋ねました。
「ああ、少し飛び方を忘れてしまっただけだ。」
「争いはまだ長くなりそうかい。そもそも、なんで争っているの。」
 シラサギは声色を変え、丸い目に力を込めて答えました。
「カラスのやつらは、気に食わないんだよ。俺の友達は、飛んでいる時にカラスにぶつかられて大ケガしたんだ。なのにカラスは何も言わず去っていったんだと。それに、あいつらは真っ黒で、俺らは真っ白。分かり合えるわけなんてないんだよ。」
 囚人は、黙ってシラサギの話を聞いていました。シラサギは白色の絵の具で塗られたような白色をしていました。話を聞いた後、シマウマと囚人はシラサギを木陰に連れていき、水を飲ませてやりました。そうしてシラサギが飛ぶ力を取り戻すと、シラサギは感謝を告げて去っていきました。
「黒色のカラスと分かり合えないのなら、白黒の私たちは彼にどう映ったのだろう。」
 シマウマの言葉に、囚人は何も言うことができませんでした。

 しばらく経った頃。シマウマと囚人は、夜を越すため木陰で休んでいました。
「ねえ、ところで君は、どんな罪を犯して捕まったの。もちろん、話したくないならそれでいい。」
 囚人は初めて、今まで気を使われていたことを実感しました。隠していたつもりはなくても、どこか後ろめたい気持ちを感じ取られていたのでしょうか。囚人にとって、それを話すことは苦痛というよりむしろ恥ずかしい思いでした。
「知人の犯罪を手伝ったんです。どうしてもお前にしか頼めないと言われて、ついていきました。私が用意したマッチと油で、その知人は自分の父親の職場に火を放ちました。仕事に呑まれていく父親が、見るに堪えなかったそうです。その後バレて捕まって、でもその火事で負傷者はいないと聞いて、すこし安心しました。ああ、もちろん、だからといって罪の意識が無いわけではなくて」
 シマウマは静かに聞いています。
「逃げてきたのは、なんというか、突然自分が消えていく感じがしたんです。そう思ってからは、あの場所での規則的な生活にどうしても耐えられなくなって、それで。」
 普段夜を越す時は、シマウマの方がよく話していました。シマウマは、囚人が自分の話をしてくれることが珍しく、嬉しく、どこか安心するような思いでした。
「次は私の話をしよう。君に、なんで旅をしているか話したことはあったっけ。」
「たしか、同じ場所に留まるのが嫌いなんでしたっけ。」
「そう。新しいものが好き、ということかもしれない。私は、自分の身体のどこが黒くてどこが白いのか、たったの一度だって忘れたことはない。でも、新しい場所に行くと、その模様がほんの少しだけ変わるような気がする。もちろん、変わらない模様だってたくさんあるけど」
 今度は囚人が静かに聞いています。
「君の縞模様と違って、私たちの縞模様は不揃いなんだよ。」
 シマウマは、どこか得意げでした。

 バサバサと騒がしい羽音で、シマウマと囚人は目が覚めました。朝だというのに辺りは暗く、地面には影が動いています。空を埋め尽くすほどのカラスの群れが一斉に同じ方向に向かっていくのを、囚人は呆然と見上げていました。黒のインクが騒がしく流れていくのを、ただ見ていました。
「行ってみよう。悲惨かもしれないが、無視するわけにもいかないし。」
 シマウマと囚人は、カラスが飛び去っていった方向に歩いていきました。囚人は、以前会ったシラサギの話を思い出していました。戦争というには曖昧すぎる理由。しかし、争いの規模は決して小さくない。何がカラスやシラサギの大群を突き動かすのでしょうか。囚人には、鳥たちが少し羨ましく感じられました。

 辿り着いた先で、囚人は唖然としました。そこには、先程見たカラスの群れよりも大きな、ハトの大群がいました。灰色のペンキを盛大にこぼしたように、一帯は一色のハトで覆われています。カラスの姿もシラサギの姿も、どこにも見つかりませんでした。シマウマと囚人が立ち尽くしていると、一匹のハトが話しかけてきました。
「この間は助けてくれてありがとう。」
「戦争は、終わったんですか。」
「ああ。もう、何のために争っていたのか忘れてしまった。そもそも、戦争に理由なんてなかったんだ。意地を張っていたのがバカみたいだよ。」
 争いが終わり、灰色のハト達はバラバラな方向に飛び散って行きました。シマウマと囚人は、ハトが飛んで行くのを眺めていました。日はいつしか雲に隠れ、少し肌寒い日でした。

 シマウマと囚人はまた歩き始めました。
「新しい服を、買いに行きませんか。」
 シマウマと囚人は一緒に服を探しに歩きました。

20250102@Kaikocho, Atami City

「ページの向こうの母へ」加藤希郁

「今日は、おかあさんがわたしのミニトマトをおいしそうに食べていました。うれしかったです。」
 幼くたどたどしい字で書かれたその文章は、私の日記の記念すべき一ページ目だ。
 
 あれは小学校二年生の頃。学校の授業でミニトマトを育てていた時のこと。青い植木鉢に黄色い支柱が刺さったその小さな空間は、私だけの庭のようで、なんだか心地がよかった。クラスのやんちゃな男の子の鉢は途中で枯れてしまっていたけれど、普通は三、四個ほど綺麗に熟れたミニトマトができるものだった。けれど、私の鉢には小さくてまだ赤くなりきらないミニトマトが一つだけ。それでも、みんなが嬉しそうに収穫して家に持ち帰るのが羨ましくて、私もそのひとつを無理やり摘み取って母に渡した。父は少し訝しげに見ていたけれど、母は「私のために採ってきてくれたの? ありがとう!」と笑い、その小さなミニトマトをまるでごちそうのように頬張った。母の頬が落ちそうなくらいの笑顔につられて、私も笑った。特別な日ではなかったけれど、当時の私にとっては、それだけで胸がいっぱいになるほどの幸せだった。
「おうちのにわにミニトマトのたねをうえた。できたらまたおかあさんにあげるんだ。」母の笑顔が嬉しくて、私は家の庭に新しい種を植えた。畑づくりは母も手伝ってくれて、いろいろアドバイスをしてくれた。
「水をあげすぎないこと」「間引きをすること」とか色々。覚えることがたくさんあって難しかったけれど、母のために頑張るのが楽しかった。そんな努力の甲斐あって、今度は六つの実がきれいに熟れた。
 母はまた嬉しそうに頬張り、「よく頑張ったね」と褒めてくれた。相変わらず父は複雑そうな顔をしていたけれど、そんなことはどうでもよかった。
 そしてページをめくるたびに、当時の自分が蘇る。
「明日は初めての修学旅行! 外でおとまりをしたことはないからドキドキする。晩ごはんにピーマンが出てきたらどうしよう…。」少しずつ漢字が増え、字の癖が今の自分に近づいていく。外で遊ぶことが好きだった私は、日記を毎日書くタイプではなかったけれど、特別な日にはいつも嬉しそうな言葉を残していた。「今日から中学生。部活はまだ決まってないけど、新しい友達できるかな。お母さんはずっと制服の写真を撮ってた。別にこれから何度も見れるのに。」この頃、私は吹奏楽部に入った。友達はそんなに多い訳じゃなかったけど、まあそれなりに楽しい中学校生活だった。人生の転機が訪れるのは、もう少し先のページだ。
「父と母が離婚した。ずっと前から、もうお互いに笑って愛し合えるような関係ではなくなっていたらしい。だから大きくもめることもなく、私も止めなかった。」高校二年生の時の記録だ。二人で始めた物語だから、二人で終わらせる。それでいいと思っていた。母はパートを始め、私と二人で暮らすようになった。生活は楽ではなかったけれど、母はろくに寝ずに働き、家事をして、私に愛情を注いでくれた。夜に二人で他愛ない話をする時間が、私にとって何よりの癒しだった。
 そして、さらにページをめくる。
「さっきからずっと何読んでるの?」
 振り返ると、そこには母がいた。
「私の日記だよ。」
「そう。ところで今日のお昼は…」
「さっき食べたでしょ。」
 私はもう結婚して、子どももいる。母は年を取り、私たち家族と一緒に暮らしている。けれど、数年前から母は物忘れが増え、次第に日常生活も難しくなっていった。怒りっぽくなり、徘徊し、警察に保護されることもあった。そのたびに私は交番へ行き、謝りながら母を連れ帰った。この日記の中の母は、どこへ行ってしまったのだろう。
 母が「お腹がすいた」と言うので、私は小さなサラダを作った。ミニトマトを口に近づけると、母は突然「嫌っ!」と叫び、私の手を振り払った。床には潰れたミニトマトが転がる。
「何してんの? せっかくお母さんのために用意したのに!」
「嫌だ! それ好きじゃない!」
「そんなわけないでしょ…昔あんなに美味しそうに食べてたのに。」
 限界だった。感情の整理もつかないまま、私は片付けを終えた。
「今日も本当に大変だった。母にスイッチのつけ方を教え、落としたスプーンを拾い、食事も何度も作った。そこまでしてるのに、母は私に怒り続ける。もうどうすればいいか分からない。嫌になってきた。」
 日記に書いても何も変わらない。それでも、書かずにはいられなかった。そして数日後、事故が起きた。母はまた気づかぬうちに徘徊していたようで、外出先で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。最期に会った時の記憶も曖昧なまま、葬儀の日を迎えた。棺の中の母は、少し微笑んでいるように見えた。けれど私は、泣けなかった。楽しい思い出の方が多いはずなのに、ここ数年の苦しさばかりが胸を支配していた。そんな自分が、心底嫌になった。母の遺品を整理していると、一冊のノートが出てきた。
 それは母の日記だった。
「今日は莉緒がせっかく作った離乳食をひっくり返しちゃった。子育てって中々大変だなあ。」
 莉緒、私の名前だ。ページをめくるたびに、母の声が蘇る。
「今日は莉緒の入園式! もう幼稚園生だなんて信じられない。」
「今日は初めての登園日! 泣きながら私の服を掴んで離さなかったけど、先生に無事連れて行かれました。頑張れー!」
 どのページにも、母の愛情が滲んでいた。そして一枚のページで、私は涙を止められなかった。
「今日は莉緒が学校で育てたミニトマトを私にくれた。ミニトマトは私が子どもの頃からずっと苦手な食べ物だけど、莉緒がくれたものだから頑張って食べた。パパは信じられないって顔をしてたけど、少し面白かった。」
 母はずっとミニトマトが苦手だった。それでも笑って私の前では食べてくれていたんだ。私の胸に、熱いものがこみ上げた。母は、完璧な人ではなかった。けれど、どんな時も私を想い、笑ってくれていた。そのことをようやく理解できた気がした。
「はは……敵わないな。」

 翌年、娘が学校の畑で育てたピーマンを持ってきた。私は笑って、それを頬張る。
「んー、すごく美味しい。ありがとう。」
 母があの時見せてくれた笑顔が、ようやく自分の中で咲いた気がした。

20251108@Kumagaya Sports and Culture Park

「ほこり」境野翔太

 そういえば、一体今は平成何年なんだろうか。しばらくテレビも見ていないし、帰り際にコンビニで雑誌の立ち読みもしていないから、今が平成何年であるのか、はたまた総理大臣は誰であるのか、そういった類のことに関してはまったく見当がつかなかった。気晴らしに俺は仰向けになり、薄汚れた天井のシミを端から端まで目で追ってみた。
「意外とお前、楽しそうな顔してるんだな。」
 そうつぶやこうとした時、不意に天井の此奴からお前はどうだと聞かれたような気がして、俺は即座に部屋の灯りを消した。何をそんなに怯えているのだろうと自分でも馬鹿馬鹿しくなったが、今の俺には仕方がないようにも思えた。机上のコップには微かに波風が立っていた。
 翌朝、いつもの通り身支度を済ませると突然、マネージャーの西野から電話がかかってきた。
「あ、早見さん、お疲れ様です。あの…新しい仕事の件で少し相談なのですが…」
「新しい仕事? しばらく仕事はキャンセルにしてくれって言ったじゃないか。」
「はい…そうなんですけど…先ほど先方からお電話を頂いて、その際に社長がどうしてもと仰っているとのことで…」
「わかった。とりあえず今からそっちに行くから、もう少し待っていてくれ。」
 そう言って電話を切ると、俺は玄関口に置かれた雑多品の中から車と家の鍵を取り出し、伸び切った革靴を履いて家を出た。ここから事務所までは車で三十分程度であった。事務所に行くにはまず、三丁目の大通りを五キロほど東へ進み、コインパーキングのある角を左折する必要があった。その後、五丁目の小道通りを十キロほど北へ進み、レストラン「つばめの館」を右に曲がると、そのはすむかいに事務所があるといった具合だった。レストラン「つばめの館」は、よくある昔ながらの洋食店といった感じでナポリタンやオムライスなどの定番メニューがワンコインで食べられるお店だった。俺が物心ついた時には既に開業しており、ひときわ人が良さそうな老夫婦二人で切り盛りをしているようだった。内装はまるでつばめの巣であるかのような木目調で、繊細に編み込まれており、お客同士のテーブルは互いに見えないように作られていた。家を出てから二十五分ほど経った頃、つまりちょうどその店を通りかかろうとした時、俺はふと、店の前に見慣れないのぼりが立っていることに気がついた。程よく藍染された布に大きな字でハンバーグやカレーライスの謳い文句が書かれているのは常時見かけるのだが、その横に、何やら無機質な字でぽつんと「お子様ライス」と書かれた白いのぼりが立っていたのである。
「子供に訴えかけるにはもっと目立たせないと…」
 違和感の正体が分かった俺はそうとだけ感じて、何事もなかったかのように車を右に曲げ、そのまま事務所の方に向かった。
 事務所に着くと、既に西野は来客用の和菓子を取り揃え、小綺麗な格好をして椅子に腰掛けていた。西野は私を見るなり早く準備をして席に着くよう促すと、せかせかと奥の部屋に向かい、客室で休んでいた例の社長を呼んできた。社長は見事な体型であり、また高く売れそうな装飾品を随所に身につけ、誰一人として寄せ付けないような絶対的な空気感を放っていた。
「初めまして、早見さん。私はあなたの活躍をずっとテレビで拝見してきました。あなたの出演したドラマ、映画、バラエティ、たいていのものは全て拝見しました。特に子役時代のあなたはまるで神童のように輝いていました。その美しい顔、人並み以上の演技力、あなたは当時間違いなく時代の中心にいましたね。」
「は…はぁ。」
 この社長はいったいどんな目的でこの事務所を訪れたのだろう。俺は気のない返事をして、とりあえずその場をやり過ごした。
「しかし…ん?…やはり年齢もあるのでしょうか。最近あなたはどうも人が変わったような気がします。その見た目、言動、エネルギー、そういったものの全てが消極的になり、誰かに道を譲ろうとする精神が垣間見えるのです。」
「いったい何が言いたいのですか?」
 腫れあがった喉の奥をうっかり針でつつかれそうになったところで、俺は声をあげて問いかけた。
「いやはや…こりゃ失敬。では本題に移りましょう。単刀直入に申し上げますと、あなたにスーツアクターを頼みたいのです。」
「スーツアクター?」
「はい。次期に放送する特撮番組の主人公、レッドのアクターとして起用させていただきたいのです。お受けいただけますか?」
 俺は自分の置かれている状況をすぐに理解することができなかった。そもそもスーツアクターなどやったことがなかったし、それになぜ、自分に声がかかっているのかもわからなかった。そもそもいったいこの社長は何者なのだろうか。外の木々は大きく揺れ動き、雲は悠々と宙を進んでいた。
「具体的にどのくらいの金額をいただけるのでしょうか。」
 西野がそう尋ねた。
「そうですね。一ヶ月あたりでいうと…ざっくりこのくらいの金額でしょうか。」
 社長が提示したその金額は、俺が稼いだことのある何倍にも当たる額だった。
「早見さん。この仕事はお受けしたほうがいいのではないでしょうか。うちの事務所の経営危機を脱却するためにもこの仕事は必要不可欠です。今でこそ社員は少なくなってしまいましたが、また経営基盤がしっかりと整えば、戻ってきてくれるかもしれません。今だって、しばらく仕事を断っているせいで日々赤字が続いてるんですよ?…どのような理由で早見さんが仕事を引き受けたくないのか、はっきりと分かるわけではありませんが…自分だけのことだけではなく、事務所のことも考えて決断をお願いします。」
 西野の言い分は実によく分かるものであった。確かに事務所の社員としてはそう思うのが当然であろう。だが俺は、この仕事は簡単に引き受けてはならないような気がして、快く承諾することはできなかった。
「すみません、少し考えさせてください。」
「わかりました。良いお返事お待ちしています。」
 そう言うと社長は席を立ち、テーブルの上に並べられた和菓子の中から、どら焼きを一袋取って鞄にしまい、颯爽と事務所を出て行った。
「悪いが、俺ももう帰ることにするよ」
「わかりました。お気をつけて。」
 西野にそう告げると、俺は再び車に乗って自宅へと戻った。
 その晩、俺は戸棚にしまっていた古いVHSを取り出し、ビデオデッキに差し込んだ。キーという音を立て、デッキが稼働する。精一杯の駆動音とともに画面が明るくなるとオープニングが流れ、聞き馴染みのある音楽とともに主人公らが変身する映像が流れた。画面の右端ではやたらと鮮やかな怪人が生き生きと杖を振り回し街中を破壊していた。今改めて見返すと、子供騙しであるようなシーンが幾度も組み込まれていると感じるが、当時はこれを見て無性に膨らむ期待感と高揚感に包まれていたのだと思うと、子供というものの純粋さや想像力の豊かさは計り知れないものだと感じた。子供は無邪気である。彼らは時間に追われることもなければ、周りの目を気にして自身の衝動を抑える必要もない。かつて現場にもどうしてもという理由で子供を連れてくるマネージャーがいたが、案の定撮影どころではなく、彼らは自分たちの思うがままに走り回り、また本能のままにあらゆる物を調べ尽くしていた。
 時計は既に深夜の二時を指していた。付近の家の灯りはほとんど無く、周囲にはVHSの音が響き渡るだけであった。そのとき、俺は自分の右腕がまるでゴムのように硬くなっていることに気がついた。焦った俺は急いで元に戻そうと精一杯腕を振ろうとするも右腕に反応はなく、徐々に左腕も重くなっていることに気がついた。
「もう俺もここまでだな。」
 俺は体の自然な変化に身を委ね、ソファーにゆったりと横になった。体全体が徐々に硬化していくのをしっかりと感じ、また視界が次第に狭まっていくのをひしひしと感じた。俺はもう人形になったのだ。
 いつものように天井は薄汚れていた。ほこりや雨漏りの跡がくっきりと顔を出し、木目はそっと人形を見つめていた。

20160602@Kizuki Cultural Hall under demolition

「温室の中の薔薇たちへ」陽向

 この温室には季節がない。春も夏も秋も冬も、外の風は届かない。
 いつも同じ温度、同じ湿度、同じ匂い。機械が決めた空気が、一定のリズムで私たちの間を通り抜けていく。その空気は時間さえも封じた。時計の針は止まり、風は設計図の中にしまわれた。
 ここでは、時間も音も変化しない。聞こえるのは空調の微かな唸りだけで、それが私たちの鼓動みたいに響く。人間たちはガラスの向こうから私たちを見て、計器の数値を確認し、時々メモを取る。彼らの目が私たちの季節を決める。
 季節は名前を持たず、ただ番号で呼ばれていた。朝も夜も関係なく、照明は一定の明るさで、光が止まったままのように感じる。まるで昨日の陽だまりをそのまま複製したみたいだった。 花びらの影まで、昨日と同じ場所に落ちている気がした。少しの乱れもない世界。
 そんな場所で、私たちは一年に四度、花を咲かせる。咲く時期も散る時期も決められていて、誰もそれに逆らうことはできない。ここでは、みんなが同じように咲き、同じように散る。それが、この温室で「美しい」と呼ばれるための条件だった。
 少しでも形が違えば、人間たちは眉をひそめる。赤が濃すぎてもだめ、薄すぎてもだめ。
 咲くたびに彼らは私たちを見比べて、同じであることを確かめる。それが安心の証なのだと、何度も教えられてきた。
 私たちはそれを「品質」と呼ばれる言葉で覚えた。けれど、それはやさしい言葉の形をした鎖のようなものだった。だから、咲くたびに隣の花が気になる。光の当たり方や、花びらの重なり具合、香りの強さ。どこかが違っていないか、心の中で確かめてしまう。目立たないように。はみ出さないように。ただ静かに、同じように咲くこと。それが、この世界で息をするためのルールだった。
 もし少しでも違えば、
「あの子、目立とうとしてる」
 とささやかれる。風が吹かないかわりに、ウワサだけが流れていく。この世界では、それが唯一の「風」だった。
 花びらの開き方や香りの濃さが少しでも違うと、みんなそわそわする。人間に嫌われるのは怖い。切られて外に出されるのは、死ぬよりも恐ろしいことのように思えた。
 それでも、夜になると少しだけ安心する。照明が落ちて温室が暗くなると、みんな小さな声で囁き合う。
「ねえ、今日、私の色、ちょっと濃くなってない?」 
「大丈夫。きっと気づかれてないよ」
 そんな会話をして、似ていることを確かめ合う。そうしていると、心が落ち着く。違いを隠しながら、同じであることに守られているような気がする。
 でも、私は時々思っていた。
 どうして、同じじゃなきゃいけないんだろう。少し違うことが、そんなにいけないことなのだろうか。その疑問は毎日少しずつ私の中で大きくなっていった。しかし、私たちは、沈黙の中で育てられる花。枠の中で美しくあれと命じられる存在。だから、誰も「なぜ」を口にしない。

 そんなある日。新しい季節のはじまりに、一輪の花が咲いた。それは、誰の色とも違っていた。深い青のようで、少し紫が混ざった色。空の色をそのまま閉じ込めたような、見たことのない色だった。光の中で、まるで水を映したみたいに揺れていた。
 ざわめきが走った。周りの花たちは、その色を「乱れ」と呼んだ。その波が温室の空気を震わせた。でも私は知っていた。あれは、多分、神の祝福に似た孤独だった。誇りと気高さを秘めたまま、決して誰にも触れられない美しさ。近づこうとすれば、光が滲んで、境界が溶けていく。
「なに、あれ」
「気持ち悪い」
「怖い」
 ざわつく温室の中で、私たちは互いに視線を交わした。人間たちも戸惑い、手帳を取り出して何かを書きつけていた。
「変異株、かな」
 小さな声が耳に届く。私も怖かった。だけどほんの少しだけ、隣で青紫に咲くその花から、目が離せなかった。その色は、私たちにはない何かを、静かに語りかけていた。胸の奥がざわざわした。

 そのときだった。ドアの隙間がほんの少しだけ開き、空気を震わせながら、一匹の黒と金の小さな影が入り込んだ。温室の中では見たことのない生き物。低い羽音を響かせながら、ゆっくりと進む。神の使いが入ってきたようだった。人間たちは慌てて追い払おうとした。けれど、その侵入者は逃げようとしなかった。まっすぐに、青い花のもとへ飛んでいった。花びらに触れるたび、青い花はかすかに震えた。
 青い花は少しずつ形を変えていった。花びらがほどけ、色が滲み、輪郭が崩れていく。それでも、その表情は、どこか穏やかだった。その姿は、美しいというより真実だった。
「やめて」
「そんなの変だよ」
 周りの花たちは口々に叫んだ。
「人間に嫌われる」
「切られてしまう」
 でも、青い花は静かに笑っていた。誰にも似ていない色で、壊れていくことを恐れず、ただ静かに揺れていた。その光景を見て、私の中の何かが揺れた。人間たちは騒ぎ、やがて人間たちは花を摘み取り、侵入者も飛び去った。

 温室は、また静まり返った。けれど、その静けさは前とは違った。風は通らず、空調の音だけが淡々と響く。光は同じように降り注いでいるのに、花びらの重なりや色の微妙な変化に、私たちは気づかずにはいられなかった。誰も前のようには咲けなくなっていた。青い色が目の奥に残って、離れなかったから。

 その夜、ガラスの外では人間たちの声がした。
「あの青い花、切ってしまわないほうが良かったかな」
「いや良かったと思いますよ。でも…」
 そのあとの言葉は聞こえなかったが、そのかすかな言葉が、ガラスを震わせて私たちのもとへ届く。その震えが、また風を生んだ。ガラスに反射する光が少し違って見えた。青が混じっていた。まるで、あの花がまだここにいるかのようだった。

 季節が巡り、再び花の季節がきた。しかし、今までとは違った。新しく咲いた花の中に、ほんのわずかに色の違うものが混じっていた。
 淡い桃色は、感謝と優しさを。白に近い赤は、純粋な愛と決意を。黄色は、笑い声を閉じ込めた陽だまりのかけらを。真っ白な花は、祈りと覚悟を閉じ込めた静かな光のかけらを。そして、光の加減で青く見える花は、不可能を超えた夢を語っていた。
 どの花も、同じ形をしているのに、ひとつとして同じ色はなかった。風がそっと通るたび、色たちは混ざり合い、温室の中をやわらかく照らしていた。
「ねえ、見て。あの子、少し変わってる」
 誰かがそう言った。けれど、今度は誰も笑わなかった。静かな声がした。
「きれい」
 その声は、今までの「きれい」とは少し違って聞こえた。
「ねぇ」
 私は小さくつぶやく。
「私の色、変かな?」
 答えはなかった。けれど、温室の空気がゆっくりと動いた気がした。その花びらを揺らす小さな空気が、まるで「そのままでいい」と言ってくれたような気がした。ガラスの向こうで、外の風が呼吸していた。まだ遠くにあるその風を、私は確かに感じていた。

20250610@Yokosuka Iris Garden

「紅白」七草

 家族五人で囲むこの鉄板のついたつくえは、どれだけの笑い声を聞いてきたのかな。お店は笑い声と祭りばやしみたいなBGMが混ざりあってすごくにぎやかだ。きっとこのお店で泣いた人も怒った人もいない。みんな笑顔で、大切な誰かとおいしいねといいあったんだろう。
 いつもは仕事でいそがしいぱぱがいて、寿司でも焼肉でもなくていいのかとしつこいくらいに確認しながらわたしの好きなお好み焼きを焼いてくれる誕生日がわたしはだいすき。毎年とっても楽しみにしてる。
 鉄板の上のお好み焼きはきれいに焼けて、ジュージュー鳴ってる。ぱぱがソースを塗るとお好み焼きの上からあふれたソースが焦げる音が加わって、その分わたしのテンションも上がる。ヘラを握るぱぱは背がスッと伸びて、キレッキレの動きがかっこいい。自慢のぱぱだ。
「わぁー! いい匂いするー」
「よっしゃ、綺麗に焼けたで、皿に乗せたろ」
 ぱぱは皿を近づけるよういうのに、火傷しないよう鉄板から手を離せとうるさく心配してくる。もう四年生なのに、ぱぱったら過保護だなぁ。
 ぱぱはお酒が入ると関西弁になっちゃうの。じいじがお好み焼き屋さんで小さいころから手伝ってたぱぱは、今日はヘラを持っているから余計に関西弁。ぱぱが機嫌がいい証拠だから、わたしは関西弁がすきなんだ。
「ぱぱありがと! おいしそー!」
 お酒をのんでるぱぱからおつまみをもらったときとか、ぱぱが夜ごはんを作ってくれたとき。おおみそかに紅白歌合戦を見ながら、ぱぱがお鍋を準備してくれてカニをみんなでたべるとき。わたしが笑っておいしいっていうときにぱぱが一番うれしそうなの、わたしは知ってる。
「おいしい! ねえままおいしいね」
「そうだね」
 弟のお世話をしながらママが半分だけわらってわたしをみる。わたしがぱぱの料理においしいというとき、ママはいつも笑顔でうん!って言ってはくれない。そんなにおいしくないのかなぁっていつも不思議に思う。ぱぱの料理はたまにしか食べれないのが残念なくらい、いつもとってもおいしいのに。
「ゆかちゃんはいこれ、誕生日おめでとう」
「わあ、ぱぱありがと!」
 ひととおりご飯が終わると、ぱぱからおおきな袋をわたされた。中にはわたしがほしがっていたリュックがはいってた。こちらはずっと前からおねだりしてたから予想通りだけど、
「あとこれ」
 追加でちいさな袋も渡された。こちらには白い横長の封筒に赤いハートのシールを貼ったみたいなデザインのパスケースがはいってた。
「ゆかちゃんがパスモを裸で持ち歩いてるんやないかと思って」
 たしかにわたしはパスモの決まった入れものをもっていなくて、その日もっていくかばんのポケットに入れてた。自分が休みの日にはかならず外へ連れ出してくれるから、ぱぱ気づいてくれてたんだ!
「かわいい! ぱぱありがと、だいじにするね!」
 ありがとうというとぱぱは何をいうでもなく、目がなくなるほど笑って、強く、優しく、頭をなでてくれた。

***

 ドアベルの音が鳴る。父がやっと出掛けたようだ。母が深い息を吐き、やっと身体の力を抜いたのが嫌でも解る。妹は参考書を広げ黙々と勉強しており、弟はスウィッチをしている。いつもうるさい黙れと言っても黙らない弟だが一言も発することはない。弟がスウィッチを操作する音だけが静かなリビングで嫌に耳についた。
 洗濯物を干す母の表情は見なくても分かる。長期休暇に入ってからの一ヶ月、毎日こうだからだ。
 キッチンへ行き朝ごはんを見繕い戻ってきたが、母の手には同じシャツがあった。冷めて匂いのしない朝食を手早く済ませると使った食器を洗った。そして誰にも聞こえないよう深く呼吸をし、誰にも見られないよう表情を意図的に明るく和らげる。
「まま、あとは私がやろうか」
 やることが無く無駄に考えてしまうのも良くないと分かっているため、考えなしに母の仕事を奪ったりしない。私がやるべきなのは母の嫌いな洗い物と、そして洗濯物の中でも母の嫌いな物。
「あいつ、ままに洗濯してもらってること分かってるのかな」
「ご飯作ってくれなくなったとしか思ってないと思うよ」
 ここで母を下手に慰めようとすれば父を擁護する発言になりかねないし、何より気休めの希望的観測にしかなり得ない。知らない人には辛辣に聞こえるかも知れないが、私の発言は過去の父から母への発言のデータを元に立てた客観的な予測だ。
 父の洗濯物だけ異なる匂いがする。うつ病を理由に仕事を減らし、大学も休みで授業がない今、夜中に出かけ朝帰ったり、朝出かけて夜中に帰ったりする父は、どこで何をしているのだろう。
 父の下着類やシャツをハンガーにかけ外へ持って行く。我が家は花粉などを理由に基本部屋干しだが、母が臭いと言うためこれだけは外へ持って行くのだ。
「ゆかりちゃん、洗濯機の中にあるやつも持ってきて」
「分かった」
 脱衣所には見慣れないブレスレットが置かれていた。うちでアクセサリーをつけるのは私だけだ。私が知らないと言うことは父のものだろう。数珠と腕時計くらいしか父が腕につけているのは見たことがない。
 洗濯機に上半身を入れながらようやく靴下を取り出し、両腕に抱える。リビングへ戻ろうとするとドアが開き、廊下には父がいた。
「ああ、ごめんなゆかり。お風呂入ってもいいかな」
「あ、うん」
 記憶より小さな父の背は丸まったまま、決して私の顔を見ようとしなかった。
 家にいてもいいことはない。母がぐるぐると思考の蟻地獄から抜け出せなくなるだけだ。母と私はスーパーへ買い物に行くことにした。
 身なりを整えるため洗面所へ行き三面鏡を開けると、いつも使うケープに紛れようとするかのようにひっそりと見慣れないヘアスプレーが増えていた。男性用だ。少なくなってきた頭髪を誤魔化すためパーマをかけてきたのは随分前で、その時はいい感じだったのにどんどんパーマがキツくなり髪が傷んでいるのは、ろくに顔を合わせない私でも知っている。
 母と二人並び自転車を漕ぐ。この道は広く人通りが少ないためいつも会話をしていたが、最近会話は減っている。
 両親が会話するのを最後に見たのはいつだろう。最後に見た時を思い出せなくとも、笑顔なんて無かっただろうことは想像に難くない。
 お互いのテリトリーに引きこもりトイレも我慢して互いに遭遇しないようにする両親に何を思うのが正解なのかは解らないが、少なくとも私は安心した。金切り声や怒鳴り声も聞こえなくなったし、割れた皿が私達姉弟の方まで飛んでくることも無い。
 母に殴られることも無くなった。父のかけるストレスのせいで殴っていた、ごめんねと繰り返す母に、「いいよ」以外の言葉を言えるのなら教えてほしい。父が夕食を作ってくれたと思っていた日も、その父のドヤ顔の裏で買い物をし、下準備をし、後片付けをしていた母を私は見ていなかった。父を慕い、父にばかり感謝していた。私は長いこと、母を独りで頑張らせてしまっていたのだから。そして何より殴られなくなったのだからもういいのだ。私は気にしない。
 母がいない間を見計らって父がリビングへ来ることも無くなった。私は母から父は立派な人だ、ご飯が食べられるのも家があるのも父のおかげだと洗脳されて育った長女ゆえに父をぞんざいに扱うのが苦手で、それゆえに父から最後まで好かれていた。父の私を見る目はいつも、嫌われることを恐れるように、私の目を見なかった。
「ねえこの前ライター勝手に持ってかれたって言ったでしょ?」
「そうだね」
 不意に話しかけられるが内容はやはり父のことだ。母の眉間にはいつも皺が刻まれ、母の頭にはいつも父がいる。嫌いなら考えなきゃいいのにと思うが、出来たら母も苦労しないだろう。
「山内先生とか煙草吸うから差し出すためかなって思ったんだけど、あいつが煙草吸い始めたみたいなんだよね。この前煙草の箱転がってて慌てて隠してた」
「へえ」
 山内先生とは、大学で教員をしている父の上司のような人だ。仲が良いので勧められたのだろうか。多少強く勧めてきそうな人だが、無理やり勧めるような人でもない気がする。
 隠すくらいなら吸わなきゃいいのに。そのくらいのことで家族の評価は変わらないくらいに堕ちるところまで堕ちている。
「ねえテスト見た? 七〇点だったんだけど」
 小学四年生の弟のことだ。たしかに理解できていないだろう間違いや、問題文をよくよまなかったのだろうミスが目立った。
「ああ。やばいね。中学じゃあるまいし」
「ほんとになんで末っ子だけ。まあ良い学校行けなくても生きていけるか」
「えっ、まま学歴至上主義じゃないの?」
 私は耳を疑った。
「うん、別にあったらあった方がいいけど、なくても生きていけると思ってるよ」
 テストの点が悪いことや宿題の字が汚いことを理由に何度も殴った、今も偏差値七〇の私立高校へ私を通わせる母が、学歴至上主義ではない?
「じゃあなんであんなに勉強させたの? 塾に行くなんて私、連れて行かれた日まで聞いてなかった」
「パパがいきなり受験させろって言い出したから」
「パパが?」
 初耳だった。
 私の知る父はたまの休みなのに家でゆっくりしようとせず、しきりにどこかへ連れ出そうとするくせ、子供の面倒なんてまともに見られやしない。子供には美味しいものを食べさせ欲しいものを買い与えて好感度をただ保とうとしていた父。
「東京のいいとこの私立に子供を通わせるのがばあばの夢だったんだって。だから受験させろっていきなり言い出したのよ。塾に通わせるお金も私立に払える入学金もないくせに」
 言葉が出なかった。瞬きができずに角膜が乾いていくのを感じる。
「え。じゃあ、」
 久しぶりに瞼を閉じると乾いた眼球にじんわりとした感覚が広がった。
 救いようのない父だがそれでも、決して揺るぐことなく感謝していることが一つだけあった。私立高校へ通うことを勧めてくれたこと、許してくれたこと。女の子なんだから、大学へエスカレーターで上がれる高校へ入り、のんびりと将来の旦那さん探しでもすれば良い。多少時代錯誤ではあれど、その甘い優しさを信じていた。でも。
「パパにとって、私は、ばあばを喜ばせる、親に認めてもらう、道具?」
 音が遠のいた。絶望とは違う。そうか、そうだよな、と冷静に納得する自分の心を確かめる。よく考えればわかったはずだ。あの父に、私への純粋な愛があるはずがないと。
「そうだろうね。ままとも親のために結婚したんじゃないかな」
 きっとそうだね、の言葉は出てこなかった。
「ママ、何買うんだっけ」
 父を責める母に思う。学歴に絶対の信頼があるわけでもないのに、執拗なまでに教育してきた母の心が、やっとわかった。母にとっての私も、夫に認められ、愛されるための道具だったのだ。

***

 一部屋丸々もらうことができない私の狭いスペースは、少し物が増えるだけですぐに溢れかえる。こうして定期的に物の取捨選択をして必要最低限にしないといけない。夏休みで暇を持て余しているうちにと、こうしてエアコンのついていない部屋で作業を進める。
「んー、いらないか。これはまだ使うかな?」
 女子高生の私が買うのはもっぱらコスメなので、最近使っていないコスメを中心に捨てていく。
「……」
 ずっと止まることなく判断していた私の手が躊躇したのがわかる。
 クリーム色の横長の封筒にルビーレッドのハートのシーリングスタンプをしたようなパスケース。経年劣化で角の布がささくれ立っても、大切にされてきた気配がある。何より古くなったらすぐ捨ててしまう私の持ち物の中で、異質なオーラがあった。
 最後にこれにICカードを入れたのはいつだったろう。もう使わない。
 私はそれを燃えるゴミの袋へそっと入れた。
 今度は、私の手が迷うことはなかった。

***

「ああもう時間ないなぁ、あと何分?二分で出なきゃじゃんもう、待って水筒入れてない」
 朝の私は独り言が多い。焦ってパニックを起こすと、考えていることが全て口をついて出るのだ。ヘアアイロンのコンセントを抜きながら巻いた髪にケープを振りかける。
 学校のある日は朝から忙しいが、父がいたりいなかったり、そして母が常にいて精神を病んでいたりいなかったりする家よりはマシだ。
 不意にドアが開き、衣服が投げ込まれる。黒い服。父だ。
 母が出かけている間にいつも父が出かけている、母がどこにいるのか把握されているようで気味が悪い、と母に言われたのを思い出す。この騒がしい洗面所が無人でないことは父もわかっていたはずだ。母がいたならばわざわざ洗濯物を投げ込んだり決してしなかっただろう。
 そんなことはどうでもいい。水筒を取りに急いでリビングへ戻ろう。
 水筒に麦茶を勢いよく入れ、蓋を閉めながら歩く。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 テレビから目を離さないまま、母がのんびりと応じる。
『巨大ラブレターがピンチ⁉』
 耳慣れないワードが聞こえ、時間がないながらもつい目を向けてしまった。
『神奈川県相模原市緑区藤野地区の山腹にある、緑色の巨大な屋外アート作品。“緑のラブレター”が、老朽化により維持管理が困難になっています』
 物騒な事件の箸休めのようなニュースによく似合う、抑揚の豊かな声は明るい。
「ぱぱ、」
 映し出された鮮やかな赤と白に私の目が釘付けになった。山から生えた緑の手に、大切そうに抱かれるそれは、赤いハートのついた白い横長の封筒だった。

@Nagura, Midori Ward, Sagamihara City

「私が目指すもの」徳武蓮

 気づけば芽吹いていた。辺りでは仲間たちが上へ上へと背伸びしている。なるほど、太陽を目指しているのか。理由は分からないが、何となく自分もそうした方がいいと思った。みんな健康的な緑色で、二つの葉を大きく広げているが、太陽に近づくに連れて私たちはそのような形状になれると直感的に感じた。

 夏になると、大勢の人がこの場所を訪れるらしい。自分の前の仲間たちの隙間から大きく開けた空間が見え、そこで人間の会話が聞こえた。しかし茎と葉が邪魔をし、詳しい様子はわからなかった。私はここがどんな場所なのか知りたかった。これから努力を積み重ね、一番太陽に近づけば辺りを一望できるはずだ。果たしてどんな景色が広がっているのだろうか。人間はもっと沢山いるのだろうか。仲間以外にはどんなものが植えられているのだろうか。私は気になって気になって仕方がなかった。だから私は誰よりも早くその景色が見たかった。他の奴らに負ける訳にはいかなかった。その日から私は根を生やし、背を伸ばすことに没頭した。ところが、初めて気づいたことがあった。とてつもなくしんどいのだ。朝、誰よりも早く起きてトレーニングを行い、その分のエネルギーをしっかりと補えるように食事をする。しかし、周りはもっと先に進んでいる気がして焦りが募る。いや、だめだ。自分を信じるんだ。今はただ必死に努力するだけだ。大丈夫。きっと報われる。私は太陽をもう一度見上げ、シャキッと背筋を伸ばし上へ上へと背伸びをした。

 数ヶ月が経過した。二枚だった葉も今では十数枚にまで増え、トゲトゲしい頭まで生えてきた。自分の身長は努力の甲斐もあって他の仲間たちよりも高かった。しかし、その差は僅差であった。そのため空が見えやすいばかりで、地上の様子は仲間のトゲトゲ頭や葉で遮られたままだった。それなのに、私より頭一つや二つほど背が高い仲間たちは存在した。しかもその者たちの佇まいは偉ぶっていたり、自慢げにしていたりするわけでもなく、余裕が感じられるものであった。なぜあんな奴らがあんなに成長して、私はこんなにも中途半端なのだろうかと一瞬苛立ちを覚えた。自分の努力が足りない。そんなわけがない。あんなにも辛く苦しい思いをしてきたのだ。あんな奴らよりも努力しているに決まっている。私には才能がなかったのだ。なんて不平等な世界なのだろうか。そんなことを考えている時、ふと下に目をやった。そこには上を見上げた時よりも多くの仲間達が目に映った。彼らは周りよりも劣っているのにも関わらず、日に当てられ、呑気に笑顔を浮かべているように見えた。その瞬間、自分の努力がバカバカしく思えた。

 ある日、小さな女の子がやってきた。スキップする度に三つ編みの髪がふわっと揺れ、純白のTシャツの裾をヒラヒラさせているのが仲間たちの隙間から映りこんだ。舌足らずな言葉で親と会話している。どうやら私たちに水をやりたいようだ。近くに蛇口があり、そこで水をくんでくるよういわれ、キャップを外した空のペットボトルを親から渡された。それをふにゃっとした手で挟みながらぎこちなく歩いていく。私はどうにか見えないかと、仲間たちの隙間からその子供の動向を追った。しばらくすると茎のせいで完全に姿が見えなくなったが、遠くから水の音が聞こえた。それからまたしばらくすると、うんしょ、うんしょと言いながら、ペットボトルを落とさないように抱き抱えて歩く姿が見えた。あ。転んだ。一瞬だった。その子の顔が地面に吸い寄せられた。道は舗装されていなかった。小さな窪みに足を取られてしまったのだ。親が駆けつけ子供が顔を上げる時には大粒の涙がポロポロと溢れていた。自分の前の仲間たちがその子を嘲笑うかのように風にゆられている。親も「またか」と言いたげな顔でその子を見ている。それが私は許せなかった。なぜ笑う必要があるんだ。なぜ呆れた顔をするんだ。必死に頑張っているではないか。私は心の中でこれでもかというほど応援した。諦めるな。君ならできる。その後すぐにその子は涙を拭い、わずかに残った水をこっちに向かって運んでくる。そうだ。転ぶなよ。また泣きそうじゃないか。頑張れ、頑張れ。そして、その子は私たちの植えられている土に向かって水を撒いた。それが終わった後、その子は満足そうに笑った。太陽のようだった。なぜだかわからないが、私は感動した。深く感動した。この体全体に広がっていく熱は気温のせいではないはずだ。私よりも小さく、足取りもおぼつかないのに、見返りを求めずに行動する姿がとても眩しく映ったのかもしれない。私は何もしてないのに身長が伸びた気がした。これからも伸び続けるだろう。今まで怠ってきた努力もこれからは頑張れる。私が一番高くなれば、あの子に対する感謝が伝わるはずだ。そして、あの笑顔を私に向けてくれるに違いない。私はそれが楽しみで仕方がなかった。私はさっきの水を一滴でも多く吸いとれるように根に意識を集中した。

 しかし、その熱も長くは続かなかった。三日は持ったのだが全く成長している気がしなかった。水が足りなかったのだ。水がもう少しあれば少しは成長できていたはずだ。そう考えていると再びあの子供が姿を現した。また水をくれるらしい。前回の反省を活かしてか、水をペットボトルの半分ぐらいに入れ、下を注意深く見つめて転ばないようにしている。そうして私は前回よりも多くの水を受け取ることができた。私はまたもや感動した。そして考えた。なぜ努力を怠っていたのか。あの時頑張ろうと決めたではないか。私は過去の自分を恥じた。そして、次こそはと自身の根に集中する。しかし不思議なことに、水は前回よりも多くもらったはずだが、あの時の感動ほど心は揺さぶられなかった。その後も、子供は何度か水やりに訪れた。しかし、自分の身長が他の仲間たちより飛び抜けて高くなることはなかった。
 
 日が強く照りつける季節になった。私たちは大きく花開き、それを見物しに大勢の人々が訪れた。結局私の身長は周りと比べてほとんど変わることがなかった。しかし特に後悔はしていない。見物に来た人々は私たちを見て、綺麗だとか、すごいといった感想が口から漏れ出ていた。私はそれが誇らしかった。逆にところどころに見えるあのノッポたちさえいなければ、もっと均等に広がり、まるで光を集めたかのような美しい場所となっていたはずだと思った。もったいないと思うと同時に、自分がああならなくてよかったと思った。実に多くの人間がこの場所を訪れた。もしかしたら私たちの仲間よりも多くの人が来たかもしれない。私は常に通り過ぎていく人々を見ていた。しかし不思議だ。一度たりとも視線が交わったことがなかった。

 日が沈むのが早くなってきた。もうここを訪れる人もほとんどいない。自分の寿命が近いことはなんとなく感じていた。そうだ、そういえばここの景色を一望したいって考えてたっけ。そう思い至った時にはすでに背中は丸まっており、地面を見ることしかできなかった。一体自分はなんのために生まれてきたのだろうか。なぜ太陽を目指していたのか。この生き方でよかったのか。今更になってそんな言葉ばかりが頭をよぎる。いや、そうではない。必死に頑張ったではないか。立派に咲いたではないか。それだけで十分だ。私はヒマワリとして精一杯生きたのだから。そうだ、そうに違いない。やがて日が暮れ始め、自分の影がどんどん上へ上へと伸びていくのをただただ見つめていた。

20240622@Mitsuzawa Park, Yokohama

「傷のついた三つ葉」草野レンギョウ

 のどかな昼下がりの大学食堂。そこでは二人の女子大生が、噂話で盛り上がっていた。
「ねえ、法学部のさ、宮野理玖って知ってる?」
「知らなーい。誰それ」
「私同じ高校だったんだけど、その人すごくてさ」
「何かした人なの?」
「彼女と別れても、一ヶ月くらいでまたすぐ彼女できる人だったの」
「え! めちゃモテてたってこと?」
「うーん…なんか彼女できても三ヶ月くらいですぐ別れてたイメージなんだよね。なんか長続きしないっていうか、関係が浅いっていうか…」
「えーなにそれ、ただのクズじゃん! その人がどうかしたの?」
「それがね、うちらと同じ学部の坂本乃愛ちゃんっているじゃん? 今その子とつきあってるらしくて」
「あー乃愛ちゃん! 私同じ高校だったよ! そのときの彼氏に一途な子で有名だったなあ」
「あやっぱり?」
「うん」
「この前その乃愛ちゃんと宮野理玖が二年記念日だったみたいでさ」
「え、めっちゃ続いてない?」
「だよね? 昨日法学部の友達からそれ聞いてさ、そんなことあるんだなあって思って」
「でもその宮野って人、クズなんでしょ? 乃愛ちゃん騙されてるんじゃない?」
「え、あり得るよねえ。なんか宮野、乃愛ちゃんから貢いでもらってたりしてそう」
「いや乃愛ちゃんならやりかねないよ! 乃愛ちゃん、早く気付いてぇー! あなたの彼氏、クズ男だよぉーー」
 女子大生二人の噂話は、そんなおせっかいな憶測で締めくくられた。



『【不倫か?】人気俳優T、同事務所の後輩女優とホテルで密会? 二人がホテルから出てきた瞬間を激写!』
 大学内にあるカフェでなんとなくネットニュースを見漁っていると、そんな記事が目に付いた。
 人気俳優であるTが、不倫したというニュースだ。
「理玖、なにみてるの?」
 隣に座る乃愛が、俺のスマホを覗き込む。
「あ、このニュース今朝見た! 奥さんがいるのに事務所の後輩と不倫とか、ほんと許せないよねえ」
「もうそんな情報が出回ってるのか? 今初めて知ったわ」
「おっそいなあ。理玖って普段ニュース見ないの?」
「あんまり。人の不倫とか興味ないし。こんなニュースやるくらいなら、どっかの動物園のパンダが可愛いとかのニュースの方がよっぽどためになる」
「理玖ってそういう感じだよねえ。パンダとか好きだったっけ?」
「いや、さっき別の記事にそれが書いてあったの思い出しただけ」
 実際に、俺は人の不倫など全く興味がない。さすがに人気俳優であるTの名前くらいは知っていたが、奥さんがいたことすら今初めて知った。
 彼らが彼ら自身で民事裁判でもして決着をつければいいだけのものに、どうして他者が首を突っ込むのかが理解できなかった。
 誰かの不倫をニュースにするくらいなら、動物園のパンダが可愛いとか知っていた方が、まだマシだ。俳優の不倫に巻き込まれる確率はゼロだが、動物園に行く可能性はゼロではないわけだし。
「理玖は、浮気とか絶対しないよねえ?」
 そんな俺の頭で巡らせ始めた思考を、乃愛の間延びした、しかしいつもより鋭さの混じった声が中断させる。
「私、理玖のことぜえったい離さないから。理玖と、もし別れちゃったら、私死んじゃうかもお」
 大袈裟だな、と思うが、乃愛なら本当にそうしかねないと、二年間つきあって感じた。
 乃愛はそう、いわゆるメンヘラというやつだ。
 乃愛は彼氏ができると長く続くが、それは乃愛が簡単には離そうとしてくれないからだ。
 現に、俺のことも簡単には離してくれそうにない。
 別に離れたい理由もないが。
 乃愛が自分の腕を俺の腕に絡めて言う。
「理玖が他の女の子と浮気なんてしたら、私何するかわかんないかも。理玖のこと刺しちゃうかもねえ」
 また物騒なことを言う。もう慣れてきたものだ。
 俺はそんな乃愛の頭を、軽く撫でた。




 俺の家の近くには、シロツメクサのたくさん咲く公園がある。
 今の時期は、シロツメクサの葉である、クローバーの緑色で一面が染まっている。
 俺はその公園にあるベンチに腰掛け、目の前の景色を埋め尽くす、いっぱいの三つ葉たちを眺めるのが好きだった。
 よく目を凝らしてみると、時々四つ葉が見つかる。俺は、四つ葉のクローバーに憧れていた。
 四つ葉のクローバーは、幼い頃に人や動物に踏まれるなどして、成長点に傷がつくことでできるものだ。普通なら幼い頃にできた傷など忌み嫌われるものなのに、人々からは幸福の象徴と認識されている。
 その皮肉が、俺の救いだった。俺は誰かとつきあっても、すぐに幻滅され、フラれていた。残ったのは元カノの数だけが多いという、傷だ。
 そんな傷がある俺でも、誰かにとっての幸せの象徴になれるんじゃないかと、そう思える。
 乃愛はすぐフッたりなどせず、二年もつきあってくれた。乃愛なら、俺のことを幸せの象徴だと思ってくれるんじゃないか、なんて期待をしている。だからメンヘラだろうと、別れたりはしない。
 そんなことを考えていると、頭上から声が降ってきた。
「隣、いいですか?」
 声の主の方に目をやると、そこには栗色のロングヘアで、顔は派手なメイクで彩られた、同い年くらいの女性がいた。
「ああ、どうぞ」
 そういうと、女性は左隣に腰掛ける。
「大学生ですか?」
「ああはい、R大学の三年生で」
「えっ」
 女性のきらびやかなアイメイクが施された目が見開かれた。フチありの大きなカラコンが際立つ。
「あたしも一緒! R大学の三年生!」
 相手が同じ立場だとわかった瞬間、先ほどまでの丁寧な言葉遣いはどこへやら、一気にフレンドリーな口調になった。
「え学部は? どこ?」
「法学だけど」
「あ、法かあーー、あたし経済だからな」
「それは会うこともないな」
 大学にはたくさんの人がいる。同じ大学の同じ学年と言えど、学部も違えば会う機会もない。
「名前は?」
「宮野理玖」
「んー、なんか聞いたことある気がする」
 俺の名前に聞き覚えがあるらしい。まあ、他学部でも俺の噂が回っていると聞いたことがあるから、おかしなことでもない。
「あ、あたしは長谷川明里」
「初めて聞いたわ」
「あたしここに来るの好きなんだよねー、あたり一面のクローバー見てると、なんか落ち着けて」
 まさかの同志がいたとは。
「ここにはよく来るの?」
「ああ、俺は家が近いから。長谷川…さんは?」
「明里でいーよ。あたしはまあ、寄り道? みたいな感じかな」
「そっか」
 明里は、仲間を見つけた喜びとばかりにこちらに笑顔を向けてくる。太陽の眩しさをそのまま投影したような笑顔だ。俺にはちょっと眩しすぎるかもしれない。
「じゃあ、これから時々ここで話そーよ」
「じゃあ」がなんでここで使われるのかわからないが、明里はそんな提案をしてきた。
「まあ、いいけど」
「決まり! クローバー友達だね、理玖」
 関係性によくわからない名前がつけられたが、そんなことはおかまいなしに明里は話題を変える。
 この公園の存在を誰かに知られたのは少し悔しいが、明里との会話は楽しかった。
 明里は、まるで俺のことを照らすかのように、よく笑った。
「あ、もうこんな時間! あたし帰るね!」
 明里はベンチから勢いよく立ち上がった。
「じゃ、まったねー!」
 そう言って立ち去る明里の背中を、俺は呆然と見つめていた。




 次の日、大学の講義室でなんとなくネットニュースを見漁っていると、新しく出た俳優Tについての報道が目に入った。不倫の証拠が洗いざらい出てきているらしい。
『私Tのこと好きだったのに、こんなことするなんて最低』
『事務所の後輩? 結局若い女の子が好きなんだ』
 ニュースのコメント欄には、大して何も知らないであろう人たちが、知ったような口で次々とTを批判している。中には、証拠も何もない憶測を信じ切って、Tを強い言葉で罵る人も見られる。
「うーわTじゃん、またなんか不倫の証拠出たん?」
 心底嫌そうな声で、同じ講義を受けている男友達が話しかけてきた。
「まだ証拠と言えるほどのものも出てきてなくね? なのにこんなに叩かれるんだな」
「まあホテル行ってるとこ撮られてるしな。どーせ不倫の証拠全部本当だろ」
 彼も、ソースもない不倫の証拠を信じ切っているうちの一人らしい。
「てか」
 彼が話題を変える。
「経済学部のさ、長谷川明里って聞いたことあるか?」
 予想外の名前が飛び出た。彼女とは昨日初めて会って、話したばかりだ。
「え、長谷川明里?」
「さすがに知ってるか。有名だもんな」
「有名…?」
 有名だなんて、そんな話知らない。昨日初めて名前を聞いたのだから。
「あおまえ、知らねえの? 噂じゃ、男遊びが激しいんだってな」
 そうなのか? まあ確かに、フレンドリーで男女問わず仲良くできそうだが…。
「てかおれこの前その長谷川明里ってやつ見たんだけどよ、めっちゃメイク濃かったんよ! ありゃあ、何人もの男食ってるな」
 いや、外見で判断するのかよ。
「メイク濃かったら、逆に男は怖がって近寄らないんじゃないか?」
「まあそれも確かにそうかもだけどよ…けどとにかく! 男遊びが激しいんだってその長谷川明里ってやつは」
「で、それがどうしたんだ」
「いや、おまえも同じようなことで噂になってるだろ? 高校の時彼女とっかえひっかえしてたーみたいな」
「そういう言い方されるのは困ってるけどな。乃愛にも申し訳ないし」
「だからもしかしたら、自分に似たようなやつってことで知ってるかもしれねえって思ってさ」
「その噂は全然知らなかったな」
「だからまあ、そいつと話すことがあれば気を付けろよ?おまえですらも食われちまうかもしれねえからな」
 おせっかいともいえる謎の忠告を受けたところで、教授が講義室に入ってきたため、会話は一時中断された。
 そこで、先ほどまで見ていた俳優Tに関する記事のコメント欄に、再び目を落とした。
 すると次のコメントが、やけに目についた。
『こんな人だと思わなかった』
 それは、俺のトラウマとも呼べる思い出たちを、一気に呼び起こすものだった。




「こんな人だと思わなかった」
 これ、言われるの何回目だろう。つきあって三ヶ月くらいすると、毎回そう言われる。
 高校の襟章がついたブレザーを羽織り始めた十一月、同じブレザーを身にまとった当時の彼女からそう告げられた。
 そう、俺はまたフラれたのだ。なんかアプローチを受けて、そのまま流れでつきあって、三ヶ月くらいで冷められる。
 そして、別れを切り出すときは皆、「こんな人だと思わなかった」と口をそろえて言う。
 こんな人だと思わなかったってなんだよ。前から俺はこんな人だろ。勝手に信じられて勝手に裏切ったことにされて、いい迷惑だ。
 そんなおこがましいことを思えていたのも、高校生活二人目の彼女くらいまでだ。
 そんなこともあってか、俺はこの「こんな人だと思わなかった」という言葉をトラウマのように感じていた。本当の愛というのを知らないまま、元カノの数だけが増えていったことを非難してきているかのように思えて、嫌になった。
 乃愛は二年間つきあっても、そんなことは一度も言わなかった。だから俺は、乃愛にとっての四つ葉のクローバーになれるのではないか、なんて期待をしている。

 退屈な大学の講義を受けながら、そんな昔の話を思い出していた。





「お、理玖。やっほー」
 シロツメクサのたくさん咲く公園のベンチには、いつものように明里が座っていた。
 初めて出会ったあの日から、俺と明里はこの公園のベンチでよく話すようになっていた。かれこれもう二ヶ月くらい経っている。
「そーいえばなんだけどさ」
 明里は、いつもそういって話題を持ちかける。
「理玖って、彼女とかいるの?」
「あぁ、いるよ」
「え! いそうだなって思った! どんくらいつきあってるの?」
「二年と…二ヶ月くらいかな」
「えっ長! 尊敬しちゃうわー」
 明里は、表情がコロコロ変わる。驚いたり、笑ったり。けれどその全ての表情が眩しくて、真夏の白日のようだといつも思う。
 そしてよく目を見開く。いつもとカラコンの色が違うのにも、気付いた。
「あ、あたしも最近彼氏ができたんだけどね? いや最近っていっても、もう一ヶ月くらい前かあ」
 そして明里は、自分の話を始める。
「…あたしさ、あんまり良い噂流れてないよね?」
「え? いや…」
 唐突に投げかけられた問いにどう答えていいかわからず、濁してしまう。
「あたしって彼氏できてもすぐ別れちゃうの。なんでだろうなー、飽きられちゃうのかな?」
 そう自嘲する明里の横顔は、雲が太陽を隠すように、少し翳った。
「でも今の彼氏はね? いっぱい愛伝えてくれるの! だから今度こそ上手くいくかなって」
「それはよかったな」
「あたし今度は飽きられないように、がんばらなくちゃ」
 何をどうがんばったら飽きられないのかはわからないが、そんなことを言う明里は、とても健気な女の子に見えた。
 以前、男友達が言っていた噂とは全く別の印象を受ける。
「あ、あたしそろそろ帰らなきゃ」
 明里は勢いよくベンチから立ち上がる。
「じゃあね、理玖。またね!」
 そう言って立ち去る明里の背中を、俺はいつものように見つめていた。



 ある日の大学の帰り。最寄り駅に着くと、激しい雨の音が鳴っていた。
 突然降り出した豪雨に、駅構内は電車を降りた人々の混乱で埋め尽くされていた。
 傘を持ってきて欲しいと電話をする者、カバンを頭の上に掲げ、全速力でダッシュする者…。
 俺は、幸い持ち運んでいた折りたたみ傘を広げ、ゆっくりと駅をあとにした。
 それにしてもひどい雨だな。下手したら駅とか浸水してしまうんじゃないか?
 そんなことを考えながらぼんやり歩いていると、例の公園の前に着いた。
 さすがにこんな雨の中、公園で遊ぶ輩なんていないだろう。
 そう思い公園を一瞥した、その自分の目を疑った。
 見覚えのある栗色のロングヘアの頭が、ベンチから生えている。
 傘もささずに。
 明里だ。そう思った俺は、思わず足早にベンチの方へ駆けていった。
「明里?」
 その俺の声で、彼女はこちらを向いた。
 ほぼ確信に近い予想は当たった。そこには、びしょ濡れになった明里の姿があった。
 いつもと違うのは、その明里の顔には、派手に彩られたメイクはなく、代わりに顔の半分くらいを覆う、大きな火傷の痕があった。
「何でこんなところで、傘もささずに何してんだよ?」
「理玖…?」
「てか、その顔の傷…」
「…ああそっか、雨でメイク落ちちゃったんだ」
 いつもの、俺すら照らすあの太陽のような眩しい笑顔はなく、半ば諦めたように微笑む明里がいた。
「ごめん、こんな傷痕見せて。みすぼらしくて醜いよね…?」
「いや、そんなことないけど」
 確かに、世間的に見れば女の子の顔に傷があるのはあまりよろしくないことなのだろう。
 しかし、あろうことか俺は、そんな彼女がさらけ出した顔に、見惚れてしまっていた。
「あたしね、小さい頃に家が燃えちゃってさ」
 明里の顔に見惚れている間に、唐突に彼女の昔話が始まったが、すぐ一番大切なことに気付く。
「いやそんなことより、まず傘はいれ? 風邪引くだろ」
 そう言って俺は、明里の横に腰を下ろし、傘の左側に明里をいれる。
「ありがとう」
 彼女は小さく呟いた。
「それで、火事になっちゃって?」
「ああそう、火事になっちゃってさ」
 彼女は俯きながら昔話を続ける。
「命は助かったんだけど、あたしは顔にこんな大きな火傷をしちゃって」
 栗色の長い髪の毛が一束、彼女の顔に落ちる。
「クラスの男子たちにからかわれたの。醜い顔だ、もう誰もお嫁さんにもらってくれない、って。それであたし、コンプレックスになっちゃってさ」
「それは、ひどいな」
「だからたっくさんメイクを覚えて、傷痕が隠れるようにしたの。そしたら、からかってくる男子たちが減ってきて」
 そうか。明里は、傷痕を隠すためにいつも派手なメイクをしているのか。
「優しくしてくれる男子たちが増えたんだよ! こんな見た目のあたしにさ。だからその気持ちに応えてあげなきゃって、必死になっちゃった」
 優しくしてくれる男子たちっていうのは、過去に明里のことを狙った男子たちだろう。だから明里は、こんなに男遊びが激しいなんて噂が出回るようになったんだ。
「でも、全部上手くいかなくて。さっきも彼氏にフラれちゃってさ」
 炎の消えた太陽の頬に、雨粒が一つ伝った。
「気付いたらここに来てたの。ここのクローバーたちを見てると落ち着くから」
 明里は俯いていた顔を、少しだけ上げた。
「ほら、四つ葉のクローバーってさ、小さい頃に傷がつくことで四つ葉になるけど、皆からは幸福の象徴だって言われてるじゃん? 小さい頃に傷を負ったあたしでも、誰かにとってそんな存在になれないかなって」
 少しだけ上げた顔を、また元のように俯かせた。
「けど無理なんだよねー、あたしじゃ誰かを幸せにすることができないんだなぁ」
 明里が初めて吐露した本音に、俺は驚きを隠せなかった。
 俺も同じことを思っていた。こんなに元カノが多くて、つきあってフラれた経験も多い、つまり傷の多い俺でも、誰かのことを幸せにしたいと。
 四つ葉のクローバーのような存在になりたいと。
 乃愛なら、そう思ってくれるんじゃないかと。
 しかし、今目の前にある、メイクも全て剥がれ落ちた、半分が傷で覆われたその明里の顔が、やけに美しく思えた。
 触れたいと、思ってしまった。
 ああ、明里はきっと、すでに俺にとっての四つ葉のクローバーだったんだ。
 そう気付いたときには遅かった。
「え…?」
 明里が小さく声を漏らす。
 俺は、明里に抱きついていた。
 なんでこんなことをしているんだろう。こんなところを見られたら、乃愛は俺に怒り、幻滅するに違いない。別れ待ったなしだ。
 しかし、俺の腕は、明里の身体を離そうとはしなかった。





「傘、いれてくれてありがとう。それじゃあね、バイバイ」
 明里はこちらを一度振り返って軽く手を振ると、改札の中の人混みに消えていった。
 結局、あの後、俺の傘に明里をいれ、駅まで送っていった。
 大学の最寄り駅方面のホームへと続く階段を登っていく明里の背中がちらっと見えた。
 ん?…大学の方面?
 てっきり大学の最寄り駅と明里の最寄り駅の間にこの駅があって、それでこの駅に寄り道をしていたと思っていたが、どうやらそうではないらしい。定期圏内でもないのにこの駅で降りていたことになる。
 つまり、明里は…
「ねえ、理玖」
 聞き覚えしかない、しかしいつもより明らかにトーンの落ちた声が、俺の思考を一時中断させた。
 振り返ると、予想通り乃愛が立っていた。
 なんでここに…? てか今日は会う約束してないよな…?
 そんな俺の頭を新しく巡り始めた思考を、乃愛の声は冷たく断ち切る。
「さっきの女の人、誰? 相合傘してたよね…?」
 いつもの間延びした声とは違う、こちらの胸をナイフで刺すような声色だった。
 そこからもう見られてたのか。
「いや、ごめん。あれはただの大学の知り合い?…クローバー友達? なだけで…」
「あれって長谷川明里ちゃんだよね? 良い噂聞かないんだけど、なんであんな子と一緒にいるの?」
 さっき誰? って聞かなかったか。知ってるじゃないか。
 なんて思いながら、さっきの誰? は本当に誰か知りたかったのではないことくらい、俺にはわかる。自分のことをクズだと思ったことはないが、周りからそう言われるくらいには、何人もの女子とつきあってきてるんだから。
「あれはあっちが傘を持ってなくて、だからいれてあげてただけで」
「じゃあ傘貸せばよかったじゃん。駅まで送っていく必要ないよね?」
 ああ、乃愛はきっと、俺が家に明里を連れ込んだと勘違いしている。俺は公園で明里を見つけ、その時傘を一本しか持っていなかったから、明里に貸してしまったら俺が家までさしていく分の傘がなくなってしまう。そのため、一緒の傘に入って駅まで送った。しかし、乃愛からすればそんなこと知ったことではないだろう。
 早く、誤解を解かなければ。だが、どう答えたら乃愛の気をおさめ、誤解なく伝えられるかがわからない。そう答えあぐねている時、乃愛から放たれた一言で、そんな誤解を解く気はどこかへ消えてしまった。
「こんな人だと思わなかった。」
 ぴしゃりと放たれた一言。傘をさしていたため濡れてるはずのないこの体が、なぜか冷水を浴びたかのように冷えていくのがわかった。
 ああ、この感覚。二年間ずっと経験してなかったこの感覚が、今の俺の体にまとわりついて、蝕んでいく。
 何も言えなくなった俺のすぐ横を乃愛は早歩きで通り過ぎていった。きっと乃愛は、彼女の家の最寄り駅に向かう電車に乗るのだろう。方面は、大学の最寄り駅がある方だ。
 振り返ることはしなかった。だから、乃愛が本当にその方面の電車に乗ったかはわからない。
 電車の出発を知らせる駅メロが、背中側から聞こえる。しばらくすると、ここは電車から降りてきた人たちで埋め尽くされるだろう。
 そんな場所に一人立ち尽くす俺は、傷が一つ増えただけの、三つ葉のクローバーだった。
 結局、乃愛にとっての四つ葉にもなれなかった。
 俺の頭には、四つ葉のクローバーと呼ぶにふさわしい、明里のことが思い起こされた。

 そこで俺は、今更気がついた。
 いつもは「またね」という明里が、今日は「バイバイ」と言ったことを。





 次の日、テレビをつけると、そこには俳優Tが映っていた。
 不倫騒動からしばらく経って、ドラマの出演も着々と増えてきたようだ。
 今回出演しているドラマでは、どうやら動物園の飼育員役らしい。
 一緒に画面に映るパンダが可愛い。
「あれ、T出てる。あの人あんなことしたのに、もう大丈夫なのかしらねえ」
 同じドラマを観ていた母が言う。
「こんな人だと思わなかったんだけどねえ」
 彼は、誰かにとっての四つ葉のクローバーになれたのだろうか。
 傷の増えた三つ葉は、そんなことを考えた。





 のどかな昼下がりの大学食堂は、今日もおせっかいな噂で埋め尽くされていた。
「ねえ、法学部の宮野理玖っているじゃん?」
「あー、あのクズね。乃愛ちゃんとつきあってる」
「そう、その宮野がさ、この前別れたらしいの」
「えまじ? まあそいつに乃愛ちゃんみたいないい子はもったいないよ」
「しかも別れた理由が、宮野が他の女の子と歩いてたかららしい。乃愛ちゃんと鉢合わせちゃったんだって」
「うわー、まさに修羅場じゃん」
「しかもしかも、相合傘してたらしいの」
「うーわ、その宮野? みたいなやつがそんなことしてたら浮気確定だね」
「だよねー、その場で乃愛ちゃんがフッたらしい」
「さすがに乃愛ちゃんも気付いたか」
「さすがにねー」
 宮野と同じ高校だったという彼女は、続ける。
「あんな傷だらけの男、乃愛ちゃんにはふさわしくないよね」

20230701@Daiichi Athletic Park, Zushi

「隣人」白井日和子

 僕のおとなりさんはロボットだ。いつも真顔でなんにもしゃべんないんだよ。それで、いつもおんなじようなかっこうしてて、おんなじ時間に家を出て、おんなじ時間に帰ってくるんだよ。僕はおとなりさんとあいさつしかしたことないし、おとなりさんがだれかとしゃべってるとこなんて、見たことないんだ。

 前にね、お祭りがあったんだよ。僕は友達と行ってたんだけどさ、おとなりさんを見つけたんだ。金魚すくいをしてたのさ。おとなりさんはいつも通りむひょうじょうでぜんぜん楽しそうじゃなかったよ。なんで金魚すくいしてたんだろう。

 それからおとなりさんは金魚をかいはじめたんだ。ロボットが金魚をかうなんて、なんだか気味がわるいや。
 名前はなんていうんだろう。でもロボットだから、名前つけてないかもね。ロボットが金魚にあいちゃくってやつ、持つはずないもん。

 ある日、おとなりさんに金魚のお世話をたのまれたんだ。仕事でどこかに行くんだって。すいそうとかエサとかいろいろ僕のうちに持ってきて、ママときょうりょくしてお世話することになったんだよ。金魚は赤くて、ひらひらしてて、きれいなんだ。名前がわかんないから、僕はルビーって呼んでる。ルビーはエサをあげるとおじぎみたいな動きをするんだよ。僕にありがとうって伝えてくれてるのかな。うれしいな。
 それから、ふた月に一回、三日くらい僕のうちでルビーをあずかることになったんだ。おとなりさんは仕事の都合ってやつだって言ってた。お世話楽しみだな。

 次にあずかったとき、ルビーのようすが少しおかしい気がしたんだ。なんか前より泳ぐのがだるそうって感じ。おじぎもしてくれるんだけど、スムーズじゃないっていうのかな、ギクシャクしてるんだ。
 いちおう、ルビーを返すときに、おとなりさんに言ってみることにした。
「ルビーの元気がないみたい」「そうか、ルビーと呼ばれてるのか」「しんぱいだよ」「心配だな」

 その次にあずかったとき、すいそうに「ルビー」って書いてあったんだ。やっぱり、名前つけてなかったんだね。これでほんとにルビーはルビーになったんだ。僕はおとなりさんがルビーのことをちゃんと気にしてるって伝わってきたよ。大切にされててよかった。
 でも、ルビーの元気がなくなってるんだ。泳いでるときより、じっとしてるときのほうが多いみたい。しかも、おじぎがおじぎに見えなくなってる。前は元気だったのに。長生きしてほしいな。

 さいきん、おとなりさんはどんぶりでルビーを育ててるんだって。「弱ってるから身近に感じたい」って。前まで、名前もつけてなかったのに、変な感じ。学校のとしょかんでしらべてみたらさ、どんぶりで金魚をかうと、金魚は人を好きになるんだって。じゃあ、おとなりさんはルビーに好きになってもらえないね。かわいそう。

 朝、おとなりさんがいつも通りの時間になっても家を出てなくてね、僕、こしょうしたのかと思ったんだ。でも、僕が学校に行こうとしたら、おとなりさんが出てきて、僕に言ってきたのさ。「ルビーが死んだ、私の分身のように感じていたのに」「えっ」「とても悲しい」「僕も」「ルビーの世話をしてくれて、ありがとう」
 おとなりさんが僕におじぎしたんだ。なんだか、ガラスごしにおとなりさんを見ている気持ちがしたよ。

 学校から帰ってくると、おとなりさんがいつもより早く帰ってきた。ルビーはどうするのって聞きに行ったら、近くの川にながしてきたって。もう見れないのか。僕がざんねんな顔したら、おとなりさんは写真をくれたんだ。どんぶりに入ってる、きれいなルビーがいたよ。おとなりさんのへやにも写真がかざってあるのが見えた。少しシミがついてるみたいだったけど。

 僕はルビーの写真をすいそうがおいてあったところにかざったんだ。僕の宝物だよ。おとなりさんとはルビーのことでいろんなお話をしたけど、きっとさいしんがたのロボットだね。人間みたいにやさしいもん。

20180516@Kawaramachi Housing Complex, Kawasaki

「波の中で眠る」悠

「起立」
 やっと授業が終わった。さっきまで黒板がよく見えていた視界があっという間にクラスメイトの背中で埋まる。みんな今起きたかのような態度だし、先生も号令なんてめんどくさい、とでもいうようにつま先がドアを向いていて面白い。
 礼、なんて声はほぼ聞こえず、辺りが一気に騒がしくなった。昼休みなのだから当たり前だ。意味も無く手探りで机の上のものを片付け、廊下に出た。相変わらず水道を待つ列は長い。もうちょっと数を増やしてもいい気がする。しかも、この行列を乗り切ったと思ったら次はお弁当を受け取る列に並ばなければならない。なんとも非効率なシステムだ。普段先生に歯向かうようなことはしないけれど、これには改善の余地があると思う。
 業者が届けてくれる暖かい……もはや熱いお弁当を食べきり、覚悟を決めて机の上から一つのファイルを取り出した。今日中に提出するレポートだ。手書き指定のプリントに変に角ばったなんとも言えないアンバランスな自分の字が見える。もう何回絶望しただろうか。昔習字を習っていて字に自信がないわけではなかった。でも今は無理だと思う。適当に書いたわけでもない。シャーペンの芯が短くて書きにくかったわけでもない。何も言い訳はない。なのにみんなは習字の経験とか関係なく字がすごく綺麗。書くことに何もプレッシャーがなさそうで羨ましい。
 職員室に近づくにつれて、自然と足取りが軽くなり、気分が重くなる。職員室付近の涼しさはまるで冷蔵庫のようだ。いっそ今先生がいなければまたあとでここに来れるのに。先生が休みならこの文字を見られずに済むのに。でも分かってる。山田先生がさっきからずっとこっちの様子を見ていることを。私は笑顔で山田先生の名を呼んだ。
 いつも早いし丁寧で素晴らしい! なんて言葉をかけそそくさと天国へ帰っていった山田先生の背中と閉められたドアを眺めて一息つく。気分は晴れやかで足は鉛のようだ。昼休みはまだある。壁に大量に貼られている掲示物を眺めてから教室に帰ることにしよう。
 ぱっと全体を見てみると、整理整頓の「せ」の字もないポスターたち。多分最初は横三列で貼ってあったんだと思う。だけどポスターの大きさがまばらだし古いポスターを剥がしてどんどん新しいポスターを貼ってるから、いつの間にかテトリスみたいになっていたんだろう。
 目に付いた。一番上の真ん中。この中では珍しく、縦も横も揃った三枚の絵。去年県のコンテストに出品された絵だ。三人とも本当に上手い。こんなに上手く描けたら楽しいんだろうな。同じ美術部なのになんか情けない。しかも、真ん中で堂々としているのは友達の作品なのだから余計に自分が嫌になる。明花、なんとなく楽そうだから、とか言って美術部を選んでいたのに。自ら志願した私の気持ちも考えて欲しい。昔から絵を描くことだけは好きだった。本を読むくらいだけど少し勉強もしていた。けど上手いとは言えない。自分でもなんか違うとは思ってるのに、どこが違うのかがさっぱり分からない。やっぱりセンスの問題なんだろうな。夏休み後の部内大会でもきっと明花は良い成績を収めるんだ。
 そっと絵を視界から外す。さっきまで見えなかった一番下。目立つようで屈まないとちゃんと文字が読めない悲しい場所。そこにあった一枚のポスターに目が行く。それはドアの隣に貼ってあるためか端がボロボロになってそこにいた。この子なら私のことを慰めてくれるかもしれない。読んでみると、『鳥雲市立学校に通う学生限定! 鳥雲すみうみ水族館 無料招待』の文字。水族館なんてしばらく行っていない。でも動物園か水族館と言われたら水族館を選ぶし、なんとなく水族館の雰囲気は好きだ。もしかして、これは丁度いい機会なんじゃないか? 部活は忙しくないし、夏休みならではの非現実感も味わえるし、絵の題材にもなりそう。いいことしかない。早速ポスターに書いてあったサイトを調べ、お気に入りに追加する。早く夏休みにならないかな。水族館って最初何がいるっけ?随分前の水族館に行った記憶を辿っていたらいつの間にか教室についていた。このとき、私は次の授業が体育なのは頭から完全に抜け落ちていた。完璧な遅刻である。

 ついにこの日がやってきた。駅の改札を出て少し小さく見えていた建物がだんだん視界を埋めていき、ついに視界いっぱいに広がった。チケット売り場のお姉さんに制服と身分証を見せ、ついにチケットとパンフレットを手に入れた。やっとこの中に入れるんだ! チケットの完全な状態をあまり見ないまま半券を貰った。そしてトートバックを掛け直し、その境界線を超えた。
 最初のエリアは淡水魚だ。全体的に明るい空間で、水族館の中では小さい方だろうけど、十分大きい水槽にたくさんの色が浮かんでいる。一匹が先導すると他の子たちもついてくる。なんとも真面目で微笑ましい。夏休みだからかやっぱり家族連れが多くて、たくさんの赤ちゃんが魚を指で追ってニコニコしている。そして周りの大人たちの顔も自然と柔らかいものになっていた。癒しだ。ほんわかしたところで早速描いてみようと、トートバックからスケッチブックと鉛筆を取り出す。一匹で描くのは違うな。この水槽全体を絵にしよう。大体の構想を練り、あらかじめ作っておいたパレットを取り出す。チューブなんて持ってきたら途中で力尽きていただろう。同じく事前に用意してたペットボトルに入った水で絵の具を溶いて、その白色に仲間を加えた。久しぶりに絵を描いていて楽しいと感じた。水を絵で表現するのは難しいけれど、陰影で調整すればそれっぽく見える。
 ほぼ描き終えた。今回はかなり手応えがある。一度全体を見て細かな調整をしようと水槽と絵を同じ視界に入れたときだった。何かが違う。魚たちの小ささやカラフルさはよく表せている。だけど一匹一匹が生きていない。それよりもなんだか周りの水とか植物の方が生きているように見える。なんで? 私は真剣に描いたのに。もしかしたらいっぱい描こうとしすぎて一匹一匹をちゃんと見れていなかったのかもしれない。よくばりはいけなかったかも。そろそろ別のエリアにもいってみたいから移動しよう。次に描くものは大きいもの一匹にすることを決めて、先に向かった。

 次のエリアはどうやら水深が浅いところが好みの魚たちが集まっているようだ。淡水魚のエリアとは違い、少し暗い。水槽も上の面が客からは見えなくなっているものが多く、いよいよ水の中に入った、という感覚がした。水の中で息ができる、なんて人魚姫みたいだ。現実では絶対無理だけど。辺りを見回してみる。この数の水槽ならいい子がいそう。数ある水槽の中で一際人だかりができている水槽があった。気になって近づいてみるとそこにいたのはペンギンの集団。陸地、水中どちらの姿もみることができて楽しい。常にカメラを向けられているその様子はまるでアイドルだ。ペンギンなら一匹もある程度大きくて描きがいがありそう。今目の前でファンサービスをしているこの子がなんともいえない愛くるしい顔で本当に可愛い。この子に決めた。さっきよりも少し汚れた道具たちを取り出して目の前のアイドルを見つめた。
 ペンギンの自由奔放さに苦戦しながら描き上げた絵。何回も移動しながら描いたからあのなんともいえない愛くるしさをさまざまな角度から見れて、自分なりに表現できたと思う。自分に少し期待しながら全体を見てみる。うーん確かに可愛いけれど、この子が持つ100%の魅力を表しきれていない感じがする。しかもどこかバランスがおかしい。この子が持つものは本当に素晴らしいものなのに。さっきもそうだった。私を通してしまうと全くの別物になってしまう。一枚目の絵よりも納得しないまま、このエリアを後にした。

 どうやら次のエリアはこの水族館で一番の目玉らしい。水族館の目玉と言えば、イルカショー、巨大水槽、水中トンネルとか? その場の感動を絵にしたくて事前に何も調べてないし、貰ったパンフレットも読んでないからワクワクする。
 紺色の空間に突如明るい世界が広がった。水中トンネルだ。手を繋いで楽しそうなカップルが三組くらい歩いていた。夏休みになってしばらく見てなかった甘すぎる様子を見てげんなりする。私の目的は人間観察ではない。頭を切り替えてトンネルに目を向けた。さまざまな種類の魚たちが同じ空間で自由気ままに泳いでいる。あれ? この二匹ずっと一緒にいない? 仲良いのかな? こっちも大きい子と小さい子がくっついてる! 自分がまるで恋バナやその予感を感じとる人たちみたいだなと思いながらトンネル内を何度も往復した。
 さすがに足が痛くなってきた。トンネルの真ん中で足を止める。水に囲まれていると、つい変なことを考えてしまうのは、私だけかな。水中トンネルって文字通り私たちの上に魚が泳いでいる状態だけど、壊れてしまった事故とかないのかな。もし今、私が今いるこの場所であのガラスがなくなったら、私はどうなるのだろう? 現実的に考えたら大量の水を被って、大量の魚に襲われるに違いない。もし、この世界に入ることができたなら、もしかしたら幸せなのかもしれない。お客さんはさっきの私と同じように、何も考えず、ただただ癒されて、非日常空間を楽しんで帰っていくのだから。わなんだかしんみりしてしまった。まだ絵は描き終わっていない。ここはもう十分すぎるほど楽しんだから次のエリアで何か一枚描こう。視界が一気に夜になっていった。

 少し歩いて広がってきたのは花火のようにカラフルにライトアップされているクラゲの水槽だった。いわゆる映え写真が狙えるスポットだ。実際、グループごとにスマホやカメラを手にして一つの水槽を占領している。もちろん写真を撮るのはいいのだが、クラゲの種類が全然異なってそれだけで面白いということに一体どのくらいの人が気がついているのだろう。
 一つの水槽が空いていた。周りにある同じようなものに比べて少し小さいそれに近づいてみると、クラゲが一匹、ぽつりと過ごしていた。映えにはたくさんのクラゲがいる水槽が必要だからここには来ないんだ。いつからひとりだったんだろう。ピンクに照らされた身体の本当の色はわからない。本当の姿を想像して描いてみようかな。そうしたらこの子はひとりではなくなるはず。透明感を意識しよう。鉛筆での下書きはやめて、絵の具だけで描こう。トートバックに手を突っ込みスケッチブックの感触を探した。…ない。今度はちゃんと目で確認しようとバックに目を向ける。暗くてよく見えないし、全然見当たらない。どこかで落とした? このままではこの気持ちを表現できるものがなくなってしまう。慌てて来た道を引き返した。
 こっちに向かってくる人にぶつかりそうになりながら辺りを見渡す。ある程度の大きさがあるのに落とすなんてばかすぎる。もし他の人に見られていたらどうしよう。人に見せられるようなものじゃない。お願いだから通路の誰にも見られないようなところで静かに転がっていて。
 ついにクラゲたちはみんな私の背中にいて、水中トンネルまで戻って来ていた。ここになかったらいよいよスタッフに回収されている可能性が高くなる。本当に嫌だ!
「パパーこれみてー! ぺんぎんさん!!」
「おーどれどれ本当だ。可愛いね」
 こんなところにペンギンなんているわけない。もしかして、
「ぱぱこれどうぞ?」
「ううん。これは誰かがここに置いていっちゃったんだ。貰っちゃったらペンギンさんがお家に帰れないよ」
 絶対に私のだ。見られた。しかもこの状態で取りにいくなんて絶対無理だ。もう諦めて水族館を楽しんで帰ろうかな。また身体の向きを変えようとしたときだった。
「お待たせ! 二人とも何見てるの?」
「まま! これ! ぺんぎんさん!」
「あら、上手ね。きっと誰かが落としてしまったのね」
「そうなんだよね。気づいてくれるといいんだけど」
「とりあえず、こんな地面じゃなくてどこか分かりやすい場所に…」
 なんだか恥ずかしいような怖いような変な気分だ。でもスタッフの手には渡らなさそうだ。本当に良かった。このままもう少し隠れてこっそり回収しよう。水越しに家族を観察していたときだった。目があった。女の子。純粋な目が私のことをじっと見つめている。
「今そっちにお魚さんはいないわよ。どうしたの?」
「まま、あのおねーちゃんだよ」
「何が?」
「ぺんぎんさんのおともだち!」
「おともだち?」
 六つの目が私の方に向かってくる。なんでわかったの。小さい子って超能力でも持ってるの? 勝手に気まずくなりながら顔を出した。
「あ…ごめんなさい。その…」
「良かった。持ち主が見つかって。このまま見つからなかったらこの子が動かなくなってたかも」
 優しい笑顔を向けてくる。でも今はその笑顔が少し怖い。
「あの…なんで…お姉ちゃんのだ、って分かったの?」
 それを言った途端、家族はキョトンとしてまた笑った。女の子なんて自信満々です、と顔に書いているかのようだ。
「だっておねーちゃんのてにいっぱいついてるもん!」
「一生懸命描いたのですね」
「本当に上手な絵よ」
 慌てて自分の手を見た。自分の手がいろんな色に染まっている。気づかなかった。それほど夢中になっていたんだ。さっきまで暗くてよく見えなかったし。本当に恥ずかしい。
「おねーちゃん、はいどーぞ!」
 眩しいくらいの笑顔でスケッチブックを差し出してくる。このまま純粋に育ってほしい。私も負けないくらいの笑顔を向けてありがとう、とスケッチブックを受け取った。
 予想していないところで時間を取られてしまった。クラゲのところに戻ると、それだけがライトを消されており、そこには何もないようにも見える。そっと近づいてみると、水槽に張り紙がされていた。暗い視界の中なんとか文字を読み取る。
『不具合が見つかりましたので展示を中止しております。ご迷惑をおかけいたしまして申し訳ございません。』
 不具合という言葉はとても都合のいい言葉だと思う。正確な理由はわからないけれど、ここにひとりしかいなかったことも理由の一つだろう。ライトも消され、人びとが見向きもしない今の方がこの子がひとりになってるのに。私にこの子を救ってあげたい気持ちはある。だけど、クラゲはこの紙に隠れて私に姿を見せてくれない。私も同じだと思われているのだろうか。いくら願ったところであの子はあの子自身が決めないと出てこない。言葉が通じないのだから。おそらく真っ白であろう壁越しにあの子と別れを告げた。

 通路の僅かな光を頼りに歩く。暗闇の中を歩くのは私だけだ。当たり前だ。オープン直後に入場したはずなのにもう日が暮れているはずの時間だから。家族連れなんて家に帰っているし、カップルだってディナーの時間を楽しんでいるのだろう。そもそも深海魚が集まるこのエリアは暗いし、魚たちに怖さを感じる人もいるだろうから通らなくても出口に行けるようになっている。ここに来るのは相当な物好きだけなんだろうな。深海魚たちは人間の姿など目にもいれずに過ごしている。水槽の奥から水の音まで聞こえてきそうなくらい静かな空間。誰もいないし、ちょっとくらいいいかなと思って通路の真ん中にひとり座り込む。私はここで絵を描く気にはなれなかった。この不気味さに隠れる神秘さを表現することは私にはできない。私の中の何かがそう言っている気がする。それだけ深海は簡単にわかりきれるものではない。
 こんなところにいつまでも居座れないことは分かってる。けど動きたくないし動くきもない。あー疲れた。歩いて絵描いてエネルギーはゼロ。いっそのことスタッフに追い出されるまでここに居てみようかな。体育座りの姿勢のまま横に倒れる。丁度その先にあった水槽が視界に広がった。さっきよりも迫力がある。
 そこにいるものの名前とかそんなものはわからない。床に寝転がっている私など少しも見ていないそれは水の動きを全て受け止めてその場に止まっていた。死んでいるかもしれないとまで思った。私の気持ちを察したのかゆっくりと動き出す。壁際まで移動し、頭がそろそろ激突する、といったところでまた静止した。隣の水槽が視界に入る。私の視線が変わったことに気がついたかのように身体を動かしたと思ったら、同じように壁に移動した。何をしたいのかわからない。そもそも、これに意味があるのかもわからない。私はこの先の水槽でも同じようなことが起きるのか気になった。身体を起こし、みんなの頭を追う。不思議なくらいに同じ方向を向いている。その様子はまるで私のためにやってくれているような気分だった。絶対にそんなことないけど。
 月が見えた。外だ。いつの間にか外に出ていたらしい。来たときとは違って見える同じ道を辿る。歩いていると、夏特有のムシムシした空気が肌に触れる。しかし、私の身体は水を浴びたように冷たかった。

20251207@Wakasu Seaside Park

「無・表情」宇野明信

 ある金曜日の朝、俺は気がかりな夢から目ざめた。
 夢の内容は全く覚えていなかった。しかし、何か大事なものをどこかに置いてきてしまったような不思議な夢であったような気がする。
 そんな、どうしても名前を思い出せない中学校の出席番号後ろの奴を目の前にしているような気分のままリビングに行くと既に妻が朝食の用意をしてくれていた。妻とは結婚して三年目であり、自分で言うのも妙だが決して悪くない関係を築いていると思っている(妻がどう思っているかは、文系の私にとっての数Cの教科書ぐらい分からないが)。子どもこそ、まだいないが、お互い共働きで、家事の分担も出来る限りしているつもりだ(つもりだという文末に俺の謙虚さを読み取ってほしい)。
「おはよう、今朝は早いね。」と声をかけながら、カウンターキッチンに立つ妻の顔を見て俺は驚愕した。しばらく、呼吸が出来なかった。
 妻の表情が無いのである。
 いや、無いのではないが(文字通りという慣用句はこの時のためにあったのか)、顔に昔のワードのMS明朝体のようなそっけない字体の「無」という漢字一文字がべったり、のっぺらぼうの顔に貼りついているのである。とっさに、今日がエイプリルフールか、ハロウィンの日か何か思い浮かべたが、今は十一月でそんな日ではないし、妻はそんなどっきりサプライズのようなことを決してするような性格ではないし、何しろその「無」の表情はどう見ても作り物とは思えない。
「え、どうかした? 私の顔に何かついてる?」といぶかしむ妻に対して、
「いや、何でもない、ちょっとぼおっとしてた。」と言って、ごまかした。一度、目をじっと瞑り、目元に指をやってから、目を見開いたが、変わらない。
「変なの、最近どうも疲れてんじゃないの?」
「あ、いや、そんなことないよ。」とまたごまかしつつ、いよいよ自分の頭がどうにかしてしまったのだろうという絶望感に襲われた。
 妻が話すときも、「無」の字が少し揺れるぐらいであるが、声はしっかり発せられている。まるで、マーヴェル映画に出てくるスパイダーマンかデッドプールが話しているときみたいだと思った(そんなことを想起する余裕はないはずなのだが)。
 朝食のハムエッグパン(妻はラピュタパンと呼んでいる)を妻が口に運ぶ様子を、見ていたが、その「無」という字の四つの点「れっか」という部首(これまたそれどころではないのに、漢和辞典って大人になると使わないよなと思った)の中に吸い込まれて消えていく(口は開かない)。この時点で、明らかになんらかのサプライズではなく、完全に自分の頭がおかしくなったのであろうと確信した。逆に俺の頭のせいでないならば、とんでもない超常怪奇現象が起きていることになる。
「ねぇ、大丈夫? 今日会社休んだ方が良いんじゃない。ちょっと働き過ぎなのよ。」と妻からもあきれられる始末だが、何しろ「無」の表情しか現れていないから、会話の情報以外に感情を読み取る方法がなく、妻がいぶかしんでいるのか、怒っているのか、心配されているのかも、全く分からない。
「いやいや、何でもないよ。うん、そうだね。ちょっと疲れているのかも。今度さ、会社で大きなプロジェクトのプレゼン担当になったから、きっとそのプレッシャーなんだと思う。」
「そうなの? あなたの会社ブラックなんだから無理しないでよ。」と言われつつも、何とか妻をごまかすことはできた。
 髭を剃りに行くふりをして、おそるおそる鏡を覗き込んだが、自分の表情は、いつも通り曇った表情の俺の顔があり、ほっとした(相変わらず星野源に似ている)。

 早出出勤の妻の後に(都心に出る妻の方が少し給料は高い)、俺はおそるおそる出勤した。そして、愕然とした。恐れていた通り、近所の住民たちの顔も皆「無」だ。まさか、町内をあげて、俺をかつごうとしているわけがなかろう。
「おはようございます」近所の、いつも挨拶する老人らしき人(服装から判断するしかない)が犬を連れて、挨拶してきた。
「あ、おはようございます」と、とっさに何事も起きていないように振舞いながら挨拶を返したが、ふと足元の柴犬を見たところ、そこには嬉しそうに尻尾を振っている犬の表情があった。(さすがに、動物の表情はあるのか…)と思い、俺は声を出さなかったが、少し安心した。

 港南台駅から、いつもの定刻の通勤電車に乗り込んだ。俺の住む町は、いわゆる都心に通勤するための住民用のニュータウンだ。ニュータウンと言っても五十年以上昔に横浜(栄区は旧国名が武蔵ではなく相模だったので横浜ではないと思っている)の里山を切り開いて宅地開発されたオールドタウンだ。言わずもがな、電車で座れるようなことはないが、俺が立つ正面の座席の表情はやはり全員「無」であり、更に右から左まで全員がスマホをいじってうつむいていた。
 もちろん、周囲を見回してみると、立っている通勤客や、通学中の学生の顔も「無」だった。俺以外立っている全員ともスマートフォンを見ていて、「無」の表情のままうつむいてスマートフォンを見つめている。なので「無」の表情すら、うつむいていて見えない人もいた。
 俺は思ったよりも音が出た「はぁー」というため息をついてしまい(一瞬「無」の人たちがこちらを向いた気がする)、車窓から遠くの景色(と言っても、見えるのは横浜郊外名物、崖ギリギリに立っている住宅群だが)を眺めながら、今日の帰りに、行きつけの心療内科を予約しようと思い、他の乗客と同じようにスマートフォンを取り出した。

 横浜駅前のビルの中にある不動産系コンサル会社に到着したが、やはり会社の同僚や上司もみんな表情は「無」だった。
「おはようございます」と、いつも通りであるように心がけながら出勤し、自分のデスクに着席したが、「無」の表情のままこちらの方向を見つめている高橋部長(五十代・頭が禿げているパワハラ部長だ。温水洋一似だったはずだが、今は分からない)が視界の右端にいる。いよいよ困った。ここまでは、いつも通りの振る舞いをしてごまかしてきたが、部長の表情が「無」で何も言葉を発してこないとなると、今日の部長が機嫌が悪いのか良いのかも全く分からない。と、こうして焦っている間にも部長は俺の席に近づいてきた。俺の鼓動が高まり、妙な汗が出てきた。そして「無」の表情のまま、俺の肩を叩き、「吉田、今日のプレゼンしっかり頼むぞ。本命は来週だが、今日のプレゼンは次の前哨戦だからな。」と言った。
「あ、はい。わ、分かりました。」
「大丈夫か、吉田、顔色が良くないぞ」
「いえいえ、大丈夫です。プレゼンがんばります」と何とかごまかして答えたものの、俺は内心、いよいよこれはまずいことになったぞと焦っていた。さすがに、今日のプレゼンで顧客の表情までが「無」の状態で、何とかなるのだろうかと。

 結果は予想通りだった。俺のプレゼンは、大失敗に終わった。こちらの企画提案に対して、顧客の表情もやはり「無」だったため、受けているのか、受けていないのか全く分からなかった。まさに「無」が会議室に並んでこちらを見つめられていると、どんな提案に対しても弱気になってしまい、弱腰のプレゼンに終始し、結果契約は不成立になってしまった。
 その後の、高橋部長からはさんざんに叱責されたものの「無」の表情は変わらなかったので、全く迫力がなく逆にそれは助かった。

 仕事帰りに、予約してあった行きつけの心療内科(なぜか、診察室から受付までガラス張りの謎の構造の病院)に寄ってみたが、やはり老齢の先生(河合隼雄みたいな顔してたはずだ)の表情も「無」だった。先生は、俺の話を最後まで聞いてくれたものの、「うーん、変わった症状ですね。今まで聞いたこともありませんが、しばらく様子を見てみるしかありませんね。私の顔も今『無』なんですか? そりゃ困りましたな。ガハハハハ。」と晩年の三島由紀夫(「楯の会」作り出した頃の)みたいに豪快に笑い出す始末で、もうこの医者にはかかるまいと思って病院を出た。
 これは、帰って妻に言ってもまた医者と同じように馬鹿にされるのがオチだろうと、もうあきらめた。夜の食卓でも朝に引き続き、妻の表情は「無」のままだったが、妻はいつも通り会社であったこと(主に会社での無能な部下たちへの不平不満だ)を、一から十までしゃべり続けている。俺の方の話は一切聞いてくれないので、こちらもしないが、「無」の表情から紡ぎだされる、俺の会社とは別の会社の人間関係のもつれを聞いているうちに、俺の表情も今「無」になっているんじゃないかという気がしてきた。

 翌日、俺はまた昨日と同じような思い出せない気がかりな夢の影響でやけに朝早く目覚めてしまった。まだ、朝の四時半だ。幸い今日は土曜日で会社は休みだ。本当は疲れているはずなのに、覚醒してしまって二度寝もできない。やはり俺の心が病んでいることは疑いようがない。心療内科もあてにならないなら、これはもう宗教に頼るしかないと、寝床で決心し、俺は身支度を整え、普段の会社の方向とは逆の方向の電車に乗って北鎌倉駅に向かった。一度、友人に誘われて朝の座禅会に行ったことがあったのを思い出したのだ。その時は、すごく心が整ったような気がして、もしかしたら、との一縷の望みを託したのである。皮肉にも、その北鎌倉で朝の座禅会を行っている寺の名前は「無常院」という(なぜ中二の時に平家物語の冒頭の諸行無常の響きあり…とか暗唱させられたんだろうなどと思う)。まだ夜が明けて間もなく朝靄がたちこめる寺の本堂に入ると、朝の六時だというのに十数人がいて既に座禅を始めている人もいる(世の中には真面目なというか暇な人がいっぱいいるんだな。俺もだが)。
 正面にいる住職は声を発さず、やはり「無」の表情であったが、その寺の名もあって、妙に相応しいなと納得してしまった。俺が座につくと、住職が鈴を凛と鳴らし、すぐさま瞑想会がはじまった。

 目を閉じながら、俺は「無」になろうとした。 
 しかし、すぐさま想念が湧いて来る。
 俺は、なぜこんなことになったのか。他人の表情が「無」になるということは、おそらく、俺が今まで他人に対して本当に関心を持たずに、自分本位で生きてきたからなんじゃないか、表面上取り繕うばかりで、本当の心の交流をしてこなかったからなんじゃないか、そんなことが頭の中によぎっては消えていった。
 三十分程時間が経過しただろうか、何か一回の瞑想ごときで厚かましいが、悟りに達したような気がした。住職が再び鈴を鳴らして、座禅の時間が終わったことに気が付いた。
 一縷の希望を持って目を開いたが、無常院の住職の顔は「無」のままだった。

 翌週、月曜日から出社するものの、俺の症状は一向に改善する気配すらない。「無」は相変わらず、俺の周りの人たちの顔に貼りついていた。何と、テレビのタレントの表情や、電車内の広告に載っている顔の表情すら「無」なのである。テレビに映る日本初の女性首相の表情も「無」だった。湘南美容外科の院長の顔も、アパホテルの社長の顔も「無」だった。
 出社するや、またしても「無」の表情の高橋部長が近づいてきた。座禅の時の影響で「無」の表情に対する耐性は少しできていて、もう焦りはなく平常心でいた。むしろ、相手がどんな表情であろうが、それを気にせず、むしろ自分が今何をすべきかに無心に集中すればよいのだという気持ちにすらなっていた。
「吉田、今週末のプレゼンこそは、しっかりやれよ。こないだみたいな事じゃ困るからな。」
「分かりました。今度こそ、大丈夫です。先週は、本当に申し訳ありませんでした。あの時は、実は体調が悪くて。でも、もう大丈夫ですから。任せてください。」と答えると、部長は満足そうに(なぜかその時は「無」のままなのに、満足そうだと分かった)、自席に戻っていった。
 しかし、いま部長に答えた言葉は嘘ではなく、今週末のプレゼンは自分が、企画立ち上げから関わってきた新規プロジェクトだ。このプレゼンだけは絶対に成功させたい。それから、俺は「無」の表情によるコミュニケーションの難しさはあるものの、今の自分自身に集中して、今やるべきことに集中した。すると、人の顔が「無」であることすら、気にならななくなっていた。
 週末のプレゼン当日、俺は今までの仕事の中で最も高いモチベーションと努力を注いでプレゼンテーションに臨んだ。この街づくり計画は、本当に実現したいプロジェクトだったし、そのことでコミュニティが活発になることは、きっと社会貢献になるはずだと思っていた。俺の熱意あるプレゼンに対して、相変わらず顧客たちの反応は「無」の表情のままだったが、もう俺はそんなことは気にならなかった。逆に自分自身の中にある情熱にだけ集中することが出来た。最後のプレゼンテーションのスライドを終え、「ご清聴ありがとうございました!」と自然と腹から声が出た。
 「無」の表情が並ぶ中、一瞬の間を置いて拍手が会議室を埋め尽くした(俺の脳内でロッキーの「エイドリアン!」と叫ぶシーンのテーマ曲が流れた)。
 俺は、達成感に満ち溢れ「ありがとうございます!」と頭を九〇度下げて、一拍置いた後、再び顔を上げて見回したとき、そこに「無」の字はなかった。
 あったのは満足気な高橋部長の表情、納得したような表情の顧客たちの表情、嬉しそうに笑う同僚たちの表情だった。

 翌朝、俺はいつも通り朝起きて朝食を食べたが、妻の表情も元に戻ったままだ。俺の愛しい(少し太った)新垣結衣に似ている妻だ。良かった。しかも、今朝は機嫌が良さそうだ。ニュースに写る、日本初の女性首相の作り笑顔もしっかりと認識できる。
 そして、髭を剃ろうと洗面所に行き、自分の表情を見て愕然とした。
 そこには「虚」という字の表情になった俺自身の顔があったからだ。

20251011@The space under Nissan Stadium

付録:句集

踊る君恋ひ余るとき梅雨晴ぞ     花妃




塾帰り白いほわほわ月冴ゆる     花妃




汗たらしきにかかるのは蛇の衣    つぼみ




アネモネや彼待つ君の停留所     つぼみ




入試前見返すは我が机かな      孝祐




神楽坂君を追いたり浴衣の背     孝祐




夏の宵固く結んだ帯と意志      希郁




秋風や読みかけのまま本と老い    希郁




にぎりめし今日の具材は春の味    翔太




初富士をいまかいまかと風見鳥    翔太




梅雨寒し声なきままのグラウンド   陽向




ぬれし道影ひとつだけ梅雨の午後   陽向




紫陽花や濡れたその葉の深緑     結




帰り道日陰を選ぶスニーカー     結




冬の雨歪んでうつる信号機      蓮




夏帽子あの日の坂に影一つ      蓮




空いた席目には見えぬや鎌鼬     光希




足音の遠ざかる夜冬深し       光希




引き締まる残り少なし玉の汗     日和子




夜遅く筆が進まぬ扇風機       日和子




雨上がり金魚に向けて鳴る電話    真菜




忘れ物ベンチにひとつシャボン玉   真菜




春の空今日で終いの町中華      明信




彼岸花スーパーカブの法師過ぐ    明信





 鳥居雄和さん 全国高校生俳句大賞 選者賞・若井新一賞受賞




上り坂溶けては舐める氷菓かな    雄和




マンションの一角で死すカブトムシ  雄和




春晴やかための襟が風を切る     雄和

20250728@Hayama Town Manase Bus Stop
20250822@現代文特講フィールドワーク 新宿区立漱石山房記念館にて
20250113@三島由紀夫生誕100年祭 ー 日本近代文学館

あとがき

 私の担当している現代文特講は丸8年となった。現代文特講の小説集も8冊目だが、毎年受講生の小説には感心されられ、裏切られることが全くない。今年は特に皆レベルが高かったように思う。
 なぜ、それ程までに感動させられるのかと言われれば、どの作品も皆、等身大の高校生が自分の人生をしっかりぶつけて、血を流しながら書いていることが伝わってくるからである。もちろん、実生活のリアルな私小説ではなく、虚構として書き換えられているが、その多くは、おそらく実生活での葛藤や苦しみ、虚しさやその先にある希望や喜びなどをしっかりと作品に昇華してぶつけて書いたことが伝わってくるからである。
 おそらく、ほとんどの受講生は本格的な小説を初めて書いたのではないかと思うが、その苦しみと戸惑いと、さらにその中でも書ききった充実感までもが伝わってくるからこそ、毎年珠玉の小説集が出来上がるのだと思う。

 最近国語科の先進的な勉強会に参加すると、既に生成AIは既存の前提の上での教育論となっていることに愕然とし、ついに私も観念しチャットGPTに手を出して「人類が地球上に生まれた意義」についてとことん議論して、その性能の高さに唸らされた。
 確かに、最近の芥川賞受賞作でもAIに書かせた部分があるとのことで話題になったが、この本の中の小説は、AIに書くことはできないようなものばかりである。それはやはり、血を流して書いているからである。いくら有能でも生成AIには血は流れていない。
 だとすれば、人類とAIとを隔てる砦の一つは「小説を書くことができる」ことなのかもしれない。

2025年度 現代文特講 小説集

2025年12月24日 発行 初版

著  者:現代文特講受講者+宇野 明信
発  行:法政二高現代文特講出版

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宇野 明信

1980年生まれ。法政大学第二中・高等学校国語科教諭。

著書
『令和元年度現代文特講小説集』(2019.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
『2020年度現代文特講小説集』(2020.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
『2021年度現代文特講小説集』(2021.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
『2022年度現代文特講小説集』(2022.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
『2023年度現代文特講小説集』(2023.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
『2024年度現代文特講小説集』(2024.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版

小説『ドリーム・ランド』(2018.12)筆名:櫻山亜紀 amazon kindle
https://www.amazon.co.jp/dp/B07LCD2VKD/ref=sr_1_1?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1544822221&sr=1-1&keywords=%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%

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