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中二病だと思っていたら本物だった件について

眠眠

MINSAN出版



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 第一話

 俺の名前は黒田曜。今日から新学期。正直、気分は乗っていない。なんでかって?
 俺は小学生の頃から、どんな名医にも治せない不治の病を患っていた。
 ――そう、厨二病である。俺の邪気眼が疼いてきやがった。
 いや、これは病気じゃない。なんか見えない敵と戦う癖がついてしまったんだ。今日から俺は高校二年生。小学生の頃は、一緒に見えない敵と戦う友達がいた。今は俺だけ。
 本当は直したいけど頭が勝手にこいつを今殴ったらどうなるのかとシュミレーションしているそうすると勝手に体が動くんだ。まあ別に学校でもやっていけて友達もそこそこいるからいいんだけど。そうこう考えているうちに、校門に到着した。門の前には教師が立っている。やばい今こいつを殺す方法を何百通りと思いついてしまったそこから一番スマートなやり方で…。
「おはようございます」
「ハッ……ワンツー下からくぐって電柱引きちぎりの大きな一振りでフィニッシュよよし決まった」
「……」
くそまたやってしまった。出てくるんじゃねえ中二病が。
 周囲がざわつく。「なにあいつ」「その癖直せよw」「また黒田がやってるよ草」その時、俺の目に一人の男が飛び込んできた。 
「ハッ! 時よ止まれ! ただ鎮静するがよい!」
 見ない顔だ転校生か?でも白髪の男で容姿端麗。そんな男が、見えない敵と戦っている、もったいない。素振りとかじゃなくて時を止めるのはレベル高い。こいつは絶対俺と同じ中二病だ。
 初めて高校で、自分の同類と出会った。正直キツイが、親近感を持たざるおえなかった。そして声をかけざるおえなかった。
「君、ちょっといい?」
「え⁉ 君は……俺のことを知っているのか? 別世界から来たこの俺を!」
「え、お、おう。俺も別世界出身なんだ。名前は?」
「クロノス。回収対象だったが神の観測者を倒そうとしている」
「あ、実は俺もそうなんだ、神の観測とか嫌気が指してね」
「本当か?それじゃあ共に行こう」
 俺が言うのもなんだが。こいつ、かなり重症だな。でもそれは俺はこいつを逃してはいけないそんな気がした。俺にはこいつしかいない。話を合わせるしかない。
「別世界にいくには準備が必要なんだ、待ち合わせはここ、夜の12時にここで」
「お、おう……当たり前だ」
 こいつ大丈夫かマジで重症だ。でも気が合うから仲良くしないと、12時か遅いけど友達になるチャンスだ。
――この時、黒田曜はまだ知る由もなかった。クロノスが本物の超能力者で本当に別世界からやってきたことを。――
時は過ぎ深夜十二時。眠いな、よしついたぞ。にしてもあいつは頭がおかしいのか。
「おーい、ここだ」
 振り向いた俺の目に映ったのは――宇宙船だった。……は?なるほど、クロノスは金持ちなのか。そういうことか。こんなカッコいい乗り物に乗れるなんて、俺はラッキーだ。
「よし、来たな。神の観測者を倒しに行くぞ」
「おう」
 宇宙船が発射した。本当に飛んだ。驚いた。
「まさか本当に飛ぶとは……お前、相当な金持ちだな」
「何を言っている。もっと緊張感を持て。――おお着いたぞここだ」
 降り立った場所は、見知らぬ大地だった。見たことのない草、建物、そして――見知らぬ敵。これが、神の観測者。これ夢じゃないよな。夢であってほしかった。頬をつねる。痛い。ああ終わったどうしよう本当におかしいだろ。ふざけんなよ。どういうことだ。まじで。とにかくこのことをクロノスに言わないと命が危ない。
「なあ、クロノス。」
「なんだ?」
「俺……実は普通の地球人なんだ」
「?????」
「申し訳ないけど、俺何もできない」
「は?ふざけんなよ俺1人で倒す、そこでじっとしとけ」
 クロノスはそう言って、空へ飛んでいってしまった。どうしよう申し訳ないことした。なんかできることないかな。そうだ一発だけ殴っておこう。よしいくぞ。
「せーの、おりゃあああああ!」
その時神の観測者が倒れた。
「……え?」
クロノスが手こずっていた敵を、ワンパンで、なんの能力もない、ただの中二病のこの俺が。

 第二話

――前回までのおさらい――
中二病をこじらせたまま中学二年生になった黒田曜。 見えない敵と戦い続けてきた彼は、ある日、本物の超能力者クロノスと出会い、異世界へ連れて行かれる。そこで現れたのは、世界を監視する存在――神の観測者。だが曜は、ただの凡人でありながら、その神を殴り倒してしまう。

 俺、黒田曜は今、草むらに座り込んでいた。さっきまで暴れていた怪獣――神の観測者とやらは、俺の一撃で沈黙している。
「……え、死んだ?」
 近づいて確認したが、動かない。超能力者でクロノスを手こずらせていた存在が、俺の右ストレートで終わった。
「えまじか?もしかして俺強い?神展開きました!」
 何者でもなかった俺が何者かになれたそんな気がした。嬉しすぎて、あたりを駆け回った。
「おーい、クロノス倒したぞー」
 返事はない。まだ怒ってんのかな。
「最高だ。俺は今日神を倒したんだ」
 その瞬間だった。――空が、割れた。
「うわっ⁉」
 冗談ではなく、本当に割れた。ガラスが砕けるみたいに、空間がヒビ割れて、そこから“何か”が覗いている。
「……視線?」
 見られている。いや、観測されている感じだ。
「おーい! 黒田曜!」
背後から声がした。振り向くと、そこにクロノスが立っていた。さっきまでの余裕は消え、顔色が悪い。
「お前……無事か?」
「いや、あのさあおまえあんなのに手こずってたの?ハッハッハ俺ワンパンで倒しちゃってさあ」
 クロノスはため息をついた。
「……やっぱりな。観測者を倒したか」
「倒したっていうか、殴ったら倒れた」
「それが一番まずい」
「え?」
 クロノスは空を指差した。
「今、上位存在が様子を見に来てる」
「お母さんが勉強してるか部屋覗きにくるみたいな感じで?」
「違う。バグ確認だ」
「やめろ、急にIT用語使うな」
 クロノスは淡々と説明を始めた。
「この世界は、複数の次元に分かれている。
 神の観測者は、その名の通り“世界が予定通り進んでいるか”を確認する組織みたいなものだ」
「組織にしては怪獣みたいで知性なくない?」
「デザイン担当の創造神が悪趣味なんだ」
 知らねえよ。
「で、その観測者を“本来存在しない力”で倒した存在が現れた。
 ――それがお前だ」
「いや、俺ただの地球人だから」
「それが問題なんだ」
 クロノスは俺をじっと見た。
「能力者でも、神族でもない凡人が、神のシステムを破壊した。
 上は絶対に放置しない」
「つまり?」
「観察対象になった」
「大丈夫、視線感じるの得意な方なんで」
 空間のヒビが、じわじわ広がっている。
「ここにいたらどうなる?」
「最悪、修正される」
「修正って何」
「存在ごと削除」
「えやばいって」
 クロノスは俺の肩を掴んだ。
「一旦戻るぞ。元の世界に」
「戻れるの⁉」
「俺の船ならな」
 次の瞬間、景色が歪んだ。気づけば、夜の校門前だった。いつもの風景。自販機。チャリ置き場。
「……帰ってきた」
「今はな」
 クロノスは空を見上げる。
「向こうはまだ様子見だ。だが、お前はもう“普通の人生”から外れた」
「え、俺のサクセスストーリはどうなる?」
「問題ないミステイクストーリーだ」
 俺は少し黙ってから聞いた。
「なあ、クロノス。お前、なんで神の観測者を倒そうとしてたんだ?」
 クロノスは一瞬、言葉に詰まった。
「……目的がある」
「世界を救う系?」
「結果的には、そう見えるかもしれない」
「へえ、かっこいいな」
 彼は笑った。でもその笑いは、どこか冷たい。
「俺は“秩序”が嫌いなんだ。最初から決められた運命、管理された世界……そういうのを、全部ひっくり返したい」
「それ、ヒーローか悪役か紙一重だぞ」
「どっちでもいい」
 クロノスは俺を見る。
「お前は、どうする?」
「え?」
「このまま何も知らずに生きることもできる。だが――もう観測された」
 俺は思い出した。毎日、見えない敵と戦っていたことを。誰にも理解されず、それでも拳を振り続けていたことを。
「……正直さ」
 俺は頭を掻いた。
「よく分かんねぇけど、殴っていいなら、もう一回くらい殴ってみたい」
 クロノスは一瞬、驚いた顔をして――笑った。
「やっぱり、お前は面白いな」
 空のヒビは、まだ消えていない。観測者たちは、こちらを見ている。神を殴った凡人の日常は、どうやら、もう戻らないらしい。

第三話 少女の直観

 朝。目覚ましが鳴った。
「……学校か」
 昨日、神を殴った。空が割れた。存在削除の危機にもなった。――それなのに、今日は普通に登校である。
「いや、神様頼むよ世界、切り替え早すぎだろ、あ俺神殺したんだった」
 制服に袖を通しながら、拳を見る。特に変わったところはない。
「……夢だったのか?」
 頬をつねる。痛い。
「はい現実」
 校門に着くと、見慣れた風景。生徒のざわめき、先生の挨拶、どうでもいい日常。
「神とか観測者とか、ここではマジで関係ない顔してやがるな」
 教室に入る。
「黒田、おはよー、今日は戦ってないんだね」
 クラスメイトの声。普通だ。世界は普通だ。――いや、一人だけ普通じゃないやつがいた。
「……」
 窓際の席。女子。茶髪。表情は不安気な顔でこちらを見ている。宮坂ユイ。大人しい性格でクラスでは目立たないが、なぜか印象に残るタイプ。俺とはほとんど話したことがない。……なのに。目が、合った。ユイは一瞬だけ、眉をひそめた。
「?」
 なんだ今の。気のせいか?出席が始まる。
「黒田曜」
「はい」
 立ち上がった瞬間――机が、ズズッと後ろに動いた。
「……?」
 静まり返る教室。
「あ、ごめん。足引っかけた」
 嘘だ。そんな感覚はなかった。俺はそっと机を見る。脚の一本が、床にめり込んでいる。
「……」
 見なかったことにした。休み時間。
「なあ、黒田」
 後ろから声。振り向くと、クロノスがいた。今日はちゃんと“地球人モード”だ。
「お前、力が漏れてる」
「いや、俺何もしてない」
「それが問題だ」
「最悪の言い方するな」
 クロノスは小声で続けた。
「神を殴った影響で、身体が世界の基準からズレてる。無意識の動作が、全部“過剰”だ」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
「意識して力を抜け」
「一番難しいやつじゃん」
 その時だった。
「すいません、黒田さん」
 か細い声がした。さっきの女子――宮坂ユイだ。
「……何?」
「さっき、机」
「え?」
「動いてましたよね」
 心臓が跳ねた。
「気のせいじゃない?」
「気のせいじゃないです」
 即答だった。ユイは俺をじっと見る。
「……黒田さん、変です」
「今さら⁉」
 思わず声が裏返った。
「昨日までと、雰囲気が違います」
 クロノスが一歩前に出ようとした瞬間、ユイの視線が、クロノスに向いた。
「……そっちの人も」
 クロノスが固まる。
「見られてる」
 ユイは、確信したように言った。
「今日、ずっと変な感じがするの。空気が、重いっていうか……誰かに見られてるみたいで」
 なぜ観測されていることが分かる。
「黒田さん」
 ユイは一歩近づいた。
「昨日、何かありましたよね」
 俺は一瞬、答えに詰まった。昨日のこと。神。観測者。世界の異常。全部、言えるわけがない。
「……転んだ」
「嘘」
「え?」
「嘘つくの下手です」
 ユイはため息をついた。
「まあいいです。でも覚えといてください」
 彼女は小さく笑った。
「――黒田さん、普通じゃない」
 そう言って、席に戻っていった。俺はしばらく動けなかった。
「……なあ、クロノス」
「言うな」
「もうバレ始めてない?」
「始まってる」
 クロノスは窓の外を見る。青空。何もない空。――いや、俺には分かる。見られている。
「黒田」
 クロノスが静かに言った。
「次は、仲間になるかもしれない」
「え?」
「今の彼女……観測に“気づき始めている”たまにいるだ普通の人間なのに神感がつよい人」
「霊感みたいな感じでか」 
俺は苦笑した。
「俺、普通の学校生活送りたいだけなんだけどな」
「残念だな」
 クロノスは淡々と言う。
「お前はもう、物語の中心だ」
 チャイムが鳴った。
 日常は続く。だが、確実に歪み始めている。神を殴った凡人の周りに、世界は静かに集まり始めていた。

第四話

5時間目が終わり放課後になった。俺は教室で鞄を閉めていた。
「……なあクロノス」
「なんだ」
「今日一日、ずっと背中がムズムズする」
「正常だ」
「正常の基準どうなってんだよ」
 クロノスは窓の外を見ていた。夕方の空。オレンジ色。平和そのもの。――なのに。
「来る」
 その一言で、空気が変わった。
「え、何が」
「観測者だ」
 次の瞬間。世界が、沈んだ。音が遠のき、教室の輪郭が歪む。まるで現実が、水の中に沈んだみたいに。
「……っ」
 頭が痛い。
「黒田さん!」
 声がした。宮坂ユイだ。彼女は胸を押さえて、机に手をついていた。
「……なに、これ……」
 彼女の足元の影が、揺れた。いや、違う。影の中から、何かが浮き上がってくる。
の形をしている。でも、顔がない。輪郭が、世界と噛み合っていない。
「……観測者」
 クロノスが低く言った。
「校内に出るとか、マナー悪すぎだろ」
 俺は前に出た。
「待て」
 クロノスが腕を掴む。
「狙いは、お前じゃない」
「……は?」
 観測者の“視線”が、一直線に向いた。――宮坂ユイ。
「修正対象、特定」
 ノイズ混じりの声が、直接頭に響く。
「個体名:宮坂ユイ誤差発生源:高位調律適性」
「……調律?」
 ユイが顔を上げた。
「なに、それ……私?」
 クロノスが舌打ちする。
「チッ……やっぱりか」
「説明しろ!」
「後だ!」
 観測者が一歩踏み出した。床が、きしまずに割れる。
「修正を開始する」
「させるかよ!」
 俺は地面を蹴った。勝てない。それは分かってる。でも――
「クロノス!」
「……二秒だ!」
 クロノスが言う。時間が、わずかに遅れる。完全停止じゃない。ズレるだけ。十分だ。観測者の動き、床の亀裂、ユイとの距離。
「――ここだ!」
 俺は、観測者の“進路”に割り込んだ。拳を振る。当たらない。でも、それでいい。
観測者の動線が狂い、ユイに伸びていた“光”が空を切る。
「……妨害確認」
「うるせぇ!」
 衝撃が来た。壁に叩きつけられる。
「ぐっ……!」
 痛い。でも、まだ動ける。
「黒田さん!」
 ユイの声。振り向くと、彼女が震えていた。
「……私、なんで」
 クロノスが、静かに言った。
「お前はな」
 観測者を睨みながら。
「世界を“直す側”の素質を持っている」
「……え?」
「医者、巫女、修復者……そういう血筋が、ごく稀に残っている」
 観測者が、再び手を伸ばす。
「目覚める前に、修正する」
「ふざけんな」
 俺は立ち上がった。足が震える。でも、頭は妙に冷えている。
「なあクロノス」
「なんだ」
「殴ればいいんだよな」
「……正確には」
「時間を稼げばいい」
 俺は笑った。
「得意分野だ」もう一度、踏み込む。無数のシミュレーションが頭を回る。――ここで死なない未来。――ユイが消えない未来。それだけでいい。
「修正不可」
 観測者の声が、わずかに乱れた。
「観測継続に移行」
 次の瞬間。世界が、元に戻った。教室。夕焼け。誰も気づいていない。観測者の姿は、消えていた。ユイは、へたり込んでいた。
「……生きてる?」
 俺は言った。
「生きてる」
 クロノスが頷く。
「今回はな」
 ユイは、俺たちを見た。
「……ねえ」
「ん?」
「私、狙われてましたよね」
「まあ」
「修正、とか言ってたよね」
「言ってたな」
 少し、間があった。
「……怖い」
 正直な声だった。俺は少し考えてから言った。
「そりゃそうだ」
 一歩、前に出る。
「でもさ」
 拳を握る。
「修正されるくらいなら、一緒に勘違いしてやろうぜ」
 ユイは、一瞬きょとんとして――小さく笑った。
「……変な人」
「今さらだろ」
 クロノスは、空を見上げた。
「修正は失敗した。だが、観測は続く」
 つまり。――まだ終わっていない。神を殴った凡人の周りに、予定外の少女が、もう一人加わった。物語は、静かに次の段階へ進み始めている。

 第五話
 
 正直に言うと。あの日から、眠れていない。目を閉じると、教室が歪んで、影が立ち上がって、「修正」という言葉が頭に響く。――夢じゃない。それだけは、はっきり分かる。朝、鏡を見る。
「……いつも通り」
 顔も、声も、何も変わっていない。なのに。胸の奥だけが、ずっと落ち着かない。学校。いつもの教室。いつもの席。黒田曜は、相変わらずだった。
「……ねむ」
 机に突っ伏している。昨日、世界が壊れかけた人とは思えない。でも。近くにいると、安心する。理由は分からない。ただ、そう感じる。
「……なんなんだろ」
 私が彼を見ると、彼はいつも通り、何も考えてなさそうな顔で――突然、立ち上がった。
机が、少しだけ沈む。
「……」
 見えた。見えてしまった。気のせいじゃない。――やっぱり、変だ。昼休み。屋上。三人になった。黒田曜。クロノス。そして、私。
「……で」
 私が切り出す。
「昨日の、あれ」
 二人とも黙った。
「説明、してほしいです」
 黒田は困った顔をした。
「えっと……」
「ごまかすなら、ちゃんと考えてからにしてください」
「……はい」
 クロノスが口を開いた。
「宮坂ユイ」
 呼び捨てだった。
「お前は、普通の人間だ」
「……嘘じゃない?」
「“今は”な」
 嫌な言い方だった。
「世界には」
 クロノスは淡々と話す。
「最初から決められた流れがある。生まれて、成長して、死ぬ」
 空を見る。
「だが、稀にその流れに“違和感”を与える存在が生まれる」
「それが……私?」
「正確には、世界の歪みを感じ取れる存在だ」
 私は、息を呑んだ。
「霊感、みたいな?」
「近いが違う」
 クロノスは首を振る。
「霊感は“見る”力だ。お前のは――」
 一瞬、言葉を選んでから。
「戻したいと感じる力」
 黒田が口を挟む。
「つまり、ユイは優しい」
「雑すぎ」
 でも、少しだけ救われた。
「……でも」
 私は聞いた。
「なんで、狙われるの?」
 クロノスは、少し黙った。
「世界はな」
 静かな声。
「壊れるより、勝手に直される方を嫌う」
 背筋が冷えた。
「だから観測者は、目覚める前に――」
「修正、する」
 私が言うと、クロノスは頷いた。
「……ねえ」
 私は、黒田さんを見た。
「黒田さんは、怖くないの?」
「ん?」
「消されそうになったのに」
 彼は少し考えてから言った。
「怖いよ」
「じゃあ、なんで立ち向かうの」
 黒田さんは、笑った。
「だってさ」
 拳を見つめる。
「勝てなかったとしても、何もしないよりマシじゃん」
 変な人。でも――逃げない人だ。
「……クロノス」
 私は、最後に聞いた。
「あなたは、何者なのですか」
 クロノスは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「俺は」
 短く答える。
「時間を、少しだけずらせる」
「少し?」
「ああ」
 黒田が驚いた顔をする。
「え、それ初耳」
「全部教える気はない」
「ずるくね?」
「そのうち分かる」
 クロノスは、空を見上げた。
「観測者は、これから強くなる」
 淡々と。
「次は、黒田の拳だけじゃ足りない」
 胸が、ぎゅっとなった。
「……じゃあ」
 私は、言った。
「私、何すればいい?」
 二人は、少し驚いた顔をした。クロノスが、答える。
「今は、何もしなくていい」
 そして、続けた。
「だが、感じることだけは、やめるな」
 風が吹いた。屋上の空は、どこまでも青い。でも私は、もう知ってしまった。私は、普通じゃない。そして――普通じゃない二人と、これから一緒にいるということを。世界は、まだ壊れていない。でも、静かに準備を始めている。次は、もっと本気で来る。
そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。

第六話

 場所は、校舎裏。人が来ない。風通しがいい。
「で」
 クロノスが口を開いた。
「対策を立てる」
「いいね」
 俺は頷いた。
「まず結論から言うと、黒田が殴る」
「嫌です」
「早くない?」
 ユイが小さく咳払いをした。
「……ちゃんと話しましょう」
 正論だった。
「まず整理するぞ」
 クロノスは地面に小石を並べ始めた。
「観測者は、神の末端。目的は二つ」
 小石を二つ置く。
「一、修正。二、観測」
「修正が失敗すると?」
 ユイが聞く。
「観測に切り替わる」
「つまり、様子見?」
「正確には」
 クロノスは言い直した。
「対策を学習する」
 嫌な言い方だった。
「で、次は強くなると」
「そうだ」
 俺は腕を組んだ。
「ゲームみたいだな」
「コンティニュー不可だがな」
「最悪だなその仕様」
「次」
 クロノスは別の小石を置く。
「俺の能力について」
「きた」
 俺が身を乗り出す。
「時間停止?」
「違う」
「巻き戻し?」
「違う」
「じゃあ何」
「ズレだ」
 ユイが首を傾げる。
「ズレ?」
「時間を止めてるわけでも、戻してるわけでもない。“世界の進行を、ほんの少し横にずらしてる”」
 ……よく分からない。
「例えるなら?」
「映画だ」
 クロノスは言う。
「一秒二十四コマ。俺は、その中の一コマを、別の列に移す」
「余計分からん」
「つまり」
 ユイが言葉を探しながら言う。
「完全には止められない?」
「正解だ」
 クロノスは頷いた。
「長く使えない。ズラせるのは一瞬。しかも、ズラした分、反動が来る」
「反動?」
「俺が、疲れる」
「それだけ?」
「嘘だと思うなら、使い続けてみるか?」
「やめとく」
 俺は地面の小石を見た。
「じゃあさ」
 一つ拾って、置き直す。
「クロノスは“隙”を作る。俺は、その隙を使う」
「合理的だ」
「で」
 ユイを見る。
「ユイは?」
一瞬、間が空いた。
「……分かんない」
 正直な答えだった。
「でも」
 彼女は続けた。
「来る前、なんとなく分かる気がする」
「それだ」
 クロノスが即答した。
「察知役だ」
「ヒーラーじゃなくて?」
 俺が言うと、クロノスが睨む。
「まだだ」
「ですよねー」
 ユイは少し困ったように笑った。
「私、役に立てる?」
「立つ」
 クロノスは言い切った。
「観測者は、“感じ取られる”ことを嫌う」
「ストーカーかよ」
「近い」
 しばらく沈黙。作戦は、まとまっているようで、まとまっていない。
「結局さ」
 俺が言った。
「次に来たらどうするの」
「逃げる」
 クロノスが即答。
「……え?」
「勝てない可能性が高い」
 ユイの顔色が変わる。
「じゃあ、どうしてるの今まで」
「勝てる時だけ戦ってきた」
「合理的すぎるだろ」
 俺はため息をついた。
「でもさ」
 拳を握る。
「逃げるって決めてると、逃げ遅れる気がするんだよな」
 クロノスは何も言わなかった。代わりに、ユイが言った。
「……私も」
 二人を見る。
「逃げる準備、しておく」
「え?」
「でも、逃げるって決めつけない」
 クロノスは、少しだけ笑った。
「……いい判断だ」
 その時。風が止まった。空は、変わらない。でも――
「……今」
 ユイが呟く。
「見られた」
 俺とクロノスは同時に空を見る。何もない。
「来ない」
 クロノスが言う。
「今日はな」
 俺は息を吐いた。
「対策会議、意味あった?」
「ある」
 クロノスは即答。
「少なくとも」
 一拍置いて。
「次に負ける理由は、減った」
 それ、あんまり安心できないんだけど。でも。こうして話している間にも、世界は学習している。俺たちも、学習するしかない。殴る凡人。時間をずらす男。違和感を感じ取る少女。まだ、勝ち筋は細い。でも――ゼロじゃない。それだけで、今は十分だった。

第七話
 
 違和感は、昼休みの終わり頃だった。理由もなく、胸の奥がざらつく。さっきまで普通だった空気が、急に重くなる。
「……来る」
 ユイが、小さく言った。俺とクロノスは同時に立ち止まる。
「校内?」
 俺が聞く。
「違う……でも、近い」
 クロノスが舌打ちした。
「中途半端な距離だな。観測寄りの個体か」
「弱い?」
「弱いが、厄介」
 嫌な評価だ。場所は、体育館裏。人気はない。コンクリートの壁がむき出しで、音が響く。
「……うわ」
 最初にそれを見たのは、俺だった。空間が、歪んでいる。そこに――人の形をした何かが立っていた。前より、はっきりしている。でも、まだ“完成していない”感じ。
「……観測者、レベル低め」
 クロノスが言う。
「でも」
 ユイが続けた。
「嫌な感じがする」
「正解」
 クロノスが頷く。
「学習型だ」
「最悪じゃん」
「修正対象……未確定」
 観測者の声が、空気を震わせる。
「観測優先……行動開始」
 次の瞬間。
 地面が、滑った。
「うおっ!」
 足元の摩擦が消える。氷の上みたいに、踏ん張りが効かない。
「環境干渉型か!」
 クロノスが叫ぶ。
「黒田、突っ込むな!」
「もう突っ込んでる!」
 俺はバランスを崩しながら前に出る。拳を振る。――当たらない。
「ちっ……」
 距離感が狂う。いつもの感覚が使えない。
「黒田さん!」
 ユイの声。
「左!」
 反射で、体を捻る。
 次の瞬間、さっき俺がいた場所のコンクリートが、削れた。
「……見えてる?」
「分かんないけど、嫌な予感した!」
 十分だ。
「クロノス!」
「ズラす!」
 時間が、ほんの一瞬、滑る。景色がブレる。
「今だ!」
 俺は踏み込んだ。――でも。重い。
「……っ⁉」
 拳が、弾かれる。今までと違う。手応えがない。
「防御特化かよ!」
「学習してる!」
 クロノスの声が荒くなる。
「さっきの動き、もう通らない!」
 観測者が、こちらを見る。
「戦闘データ、取得完了」
「早すぎだろ!」
 その時。
「……下がって!」
 ユイの声が、いつもより強かった。
「来る……大きいの!」
 俺は反射で後退する。次の瞬間、衝撃波。壁が砕け、粉塵が舞う。
「……っ」
 息が詰まる。倒れかけた俺の腕を、クロノスが掴んだ。
「撤退だ!」
「でも――」
「勝てないわけじゃない。だが、今は勝つ意味がない」
 悔しいが、正しい。路地裏。三人で、息を整える。
「……くそ」
 俺は壁にもたれた。
「初めてだな」
「何が」
「楽じゃなかった」
 クロノスは、額の汗を拭う。
「これからは、もっとそうなる」
 ユイは、俯いていた。
「……私が、遅かった」
「何が」
「もっと早く気づいてたら」
 俺は首を振った。
「十分だろ」
「でも」
「でもじゃない」
 言い切った。
「お前がいなかったら、今頃コンクリートの模様になってた」
 ユイは、少し驚いた顔をしてから、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
 その時。遠くで、視線を感じた。振り向く。空の端が、わずかに歪んでいる。
「……観測者」
 クロノスが言った。
「今日のは、テストだ」
「テスト?」
「俺たちが、どこまで対応できるか」
 最悪だ。でも。俺は拳を握った。
「じゃあさ」
 二人を見る。
「次は、テスト勉強だな」
 クロノスが、少しだけ笑った。
「……そうだな」
 ユイも、静かに頷いた。勝てなかった。でも、負けてもいない。それだけで、今は十分だった。次は、もっと厄介になる。――その前に、俺たちは少しだけ、強くならないといけない。

第八話

 その日は、妙に静かだった。ユイが「今日は来ない」と言い、クロノスも「来ないな」と言った。二人が同じことを言う日は、だいたい信用できる。
「……平和だな」
 俺は昼休み、机に突っ伏していた。
「神殺し翌週とは思えない」
「それ基準にするのやめて」
 ユイが呆れた声を出す。
「でも、逆に怖くない?」
「まあな」
 俺は天井を見た。
「嵐の前の静けさってやつ」
 クロノスは、何も言わず窓の外を見ていた。その頃。別の場所。空でも、地上でもない。時間の流れすら、一定ではない場所。円形の空間に、七つの席がある。そのうち、五つが埋まっていた。
「……修正は失敗した」
 淡々とした声。
「対象・宮坂ユイは保護下に移行」
「想定内だ」
 別の声が答える。
「問題は――」
 中央の席に座る存在が、指を組んだ。
「黒田曜」
 名前が、空間に響いた。
「能力を持たない個体が、観測干渉を行っている」
「異常値です」
「排除すべきでは?」
 一瞬、沈黙。やがて、中央の存在が言った。
「いや」
 静かだが、強い声。
「彼は、鍵だ」
「鍵?」
「壊す者と、直す者。そのどちらにも属さない」
 視線が、別の席へ向く。
「……久しいな、クロノスの名を聞くのは」
 その席に座る存在が、笑った。
「まだ生きてたんだ。あいつ」
「知っているのか?」
「当然だ」
 その存在は、少し楽しそうに言った。
「時間を横にずらす男。昔、同じ席に座るはずだった」
 空気が、わずかにざわめく。
「――裏切り者か」
「違うよ」
 その存在は肩をすくめた。
「選ばなかっただけ」
 中央の存在が言った。
「彼は、計画に関与しているか?」
「無自覚に、な」
 短い沈黙。
「……では」
 中央の存在が結論を下す。
「次の段階へ移行する」
「観測者のレベルを?」
「いや」
 その声は、少しだけ冷たくなった。
「人間側の関係性を、揺らす」
「感情を?」
「最も制御しづらく、最も利用しやすい要素だ」
 最後に、こう告げた。
「観測は継続。修正は、まだ先だ」
 空間が、静かに閉じた。
 放課後。校舎裏。
「なあクロノス」
 俺は言った。
「昔、神と仲良かったりした?」
 クロノスは、ぴたりと止まった。
「……誰に聞いた」
「勘」
 ユイが小さく頷く。
「今日、空が変だった」
 クロノスは、少しだけ目を細めた。
「……昔な」
 低い声。
「俺は、向こう側に行く予定だった」
「え」
「時間を扱える人間は、基本的に回収対象だ」
「スカウトかよ」
「断った」
 即答だった。
「なぜ?」
 ユイが聞く。
 クロノスは、しばらく黙ってから言った。
「……管理されるのが、嫌だった」
 俺は笑った。
「分かる」
「お前は分かるな」
「俺、校則ですら無理」
 ユイが吹き出した。でも、すぐ真顔に戻る。
「……じゃあ」
「ん?」
「向こうは、クロノスのことも見てる?」
「ああ」
 クロノスは空を見る。
「今もな」
 その言葉に、背中が少し寒くなった。
「でも」
 俺は言った。
「今さら戻れないだろ」
 クロノスは、俺を見た。
「……ああ」
 静かに、しかしはっきりと。
「戻る気もない」
 夕焼けが、校舎を染める。何も起きない一日。だが――決定は、すでに向こうで下されている。神を殴った凡人は、まだ何も知らない。神々が、次は“感情”を試そうとしていることを。

第九話

 それは、偶然に見えるように起きたその日、特別なことは何もなかった。朝は眠くて、授業は長くて、昼休みのパンは売り切れていた。
「……最悪」
 俺は机に突っ伏した。
「世界の危機より、購買の在庫管理どうにかしてほしい」
「優先順位おかしい」
 ユイが小さく笑う。クロノスは、珍しく黙っていた。違和感は、ほんの些細なところから始まった。
「ねえ黒田さん」
 ユイが声をかけてきた。
「今日さ、クロノスと何話してたの?」
「え?」
 思わず顔を上げる。
「いや、別に。次のテスト範囲とか」
「……ふうん」
 それだけだった。それだけなのに。引っかかった。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
 でも、目を合わせてくれなかった。放課後。校舎裏。
「なあクロノス」
 俺は言った。
「ユイ、今日ちょっと変じゃね?」
「……感じているな」
「何を」
「ズレを」
 クロノスは、空を見上げた。
「自然発生じゃない」
「つまり?」
「仕掛けられている」
 嫌な答えだった。
「観測者が?」
「上位層だろう」
 クロノスの声が、低くなる。
「直接手を出さず、人間関係をいじる」
「性格悪すぎだろ」
「効果的だ」
 その頃。ユイは、一人で帰っていた。夕方の道。オレンジ色の空。
「……おかしいな」
 胸の奥が、ざわつく。理由は分からない。ただ、取り残された感じがした。
「黒田さんは……」
 言いかけて、止める。その時。
「――迷ってる?」
 声がした。振り向くと、知らない男が立っていた。年齢不詳。制服でも、スーツでもない。
「……誰ですか」
「通りすがり」
 男は、穏やかに笑った。
「君、感じやすいだろう」
 ユイの背中が、ぞくりとする。
「空気とか。人の気持ちとか」
「……なんで」
「そういう“役割”だからさ」
 男は、空を見上げる。
「世界って、不公平だと思わない?」
「……急に何を」
「選ばれた人が、選ばれなかった人を守る」
 視線が、戻る。
「それって、本当に正しいのかな」
 ユイの胸が、痛んだ。言葉が、刺さる場所だけを正確に突いてくる。
「君は、誰かのために危険に巻き込まれてる」
「……違う」
「本当に?」
 男は、優しく言う。
「君がいなければ、彼らは、もっと自由だったかもしれない」
 ――違う。そう言いたかった。でも。言い切れなかった。
「……考えてみて」
 男は、後ろに下がる。
「選択肢は、いつでもある」
 次の瞬間。そこには、誰もいなかった。
 夜。校舎裏。
「……来たな」
 クロノスが、呟いた。
「何が」
「上位だ」
 俺は、拳を握る。
「ユイは?」
「無事だ。だが――」
 言葉を切る。
「触られた」
 嫌な沈黙。
「なあ」
 俺は言った。
「そいつ、俺にも会いに来る?」
「来ない」
「なんで」
 クロノスは、静かに言った。
「お前は、揺らがない」
「……雑な評価だな」
「最高の評価だ」
 クロノスは、空を睨む。
「だが、宮坂ユイは違う」
 その時、俺は初めて思った。殴れない敵は、こんなにも厄介なんだと。観測者より。神より。人の心を使うやつが。

第十話

 朝。教室はいつも通りだった。チャイム、ざわめき、窓から入る光。――一つだけ、違う。ユイが、俺の方を見なかった。
「……おはよ」
 声をかけると、少し遅れて返ってくる。
「……おはよう」
 それだけ。近いのに、遠い。
「どうした?」
「別に」
 それ以上、話が続かない。クロノスは、気づいている顔だった。気づいているが、何も言わない顔。
 昼休み。いつもの三人のはずが、今日は二人だった。
「……ユイは?」
「図書室」
 クロノスが短く答える。
「珍しいな」
「珍しくないように、された」
 嫌な言い回し。
「……昨日の男?」
「おそらく」
 俺は、パンの袋を丸めた。
「殴れない敵、ほんと厄介」
「だから厄介なんだ」
 放課後。校舎の廊下で、ユイを見つけた。
「ユイ」
 振り向く。でも、少しだけ距離を取る。
「……何?」
「昨日、なんかあった?」
 一瞬、言葉に詰まる。
「……何も」
 嘘だ。分かる。分かるけど、踏み込めない。
「俺さ」
 言葉を探す。
「守るとか、そういうの……」
「やめて」
 ユイが、被せるように言った。
「それ、私が弱い前提でしょ」
 胸が、少し痛んだ。
「……違う」
「違わない」
 ユイは視線を逸らす。
「黒田さんは、平気そうだから」
「え?」
「巻き込まれても、殴って、立って、笑って」
 声が、揺れる。
「私は……そうじゃない」
 沈黙。
「……ごめん」
 それしか言えなかった。
「謝らないで」
 ユイは、静かに言う。
「考えたいだけ」
 そう言って、去っていった。
 校舎裏。
「……失敗した」
 俺は壁にもたれた。
「失敗ではない」
 クロノスが言う。
「予定通りだ」
「は?」
「上位層は、“守る側”と“守られる側”を分断する」
 拳を握る。
「最悪だ」
「だが、ここで焦ると――」
「余計ズレる、だろ」
 クロノスは、少しだけ驚いた顔をした。
「学んでるな」
「伊達に勘違いしてねえ」
 夕方。ユイは、一人で歩いていた。街の音。人の声。――なのに、孤独。
「……私」
 呟く。
「足引っ張ってるのかな」
 その時。風が止まった。空が、少しだけ歪む。
「……来ない」
 でも、見られている。声はない。姿もない。でも、確実に。
「……やめてよ」
 小さく、呟いた。返事はない。ただ、選択肢を置いていった気配だけが残った。
 夜。屋上。三人ではなく、二人。
「……ユイ、戻らないな」
「戻る」
 クロノスが即答。
「だが、その時には――」
「?」
「彼女は一歩、前に出ている」
 俺は空を見上げた。
「それ、いいことか?」
「危険だが、必要だ」
 少し間。
「……なあクロノス」
「なんだ」
「俺、間違ってる?」
 クロノスは、少し考えてから答えた。
「お前は」
 はっきりと言う。
「間違え続けることで、正解に近づく」
「哲学やめろ」
「誉めている」
 風が吹いた。遠くで、ユイの足音がした気がした。振り向くと、誰もいない。でも。戻ってくる。そう、なぜか分かった。ズレは生まれた。だが、まだ決定的じゃない。神たちの思惑は、静かに、しかし確実に効き始めている。次は――このズレが、戦場で試される。

第十一話

 その違和感は、戦闘の直前にいつも来る。胸の奥が、静かに冷える。空気が、必要以上に澄む。
「……来る」
 俺が言うより先に、クロノスが立ち止まった。
「違う」
「え?」
「観測者じゃない」
 ユイが、息を呑む。
「……でも、見られてる」
 その瞬間だった。声がした。耳じゃない。頭の奥に、直接。
『――久しぶりだね、クロノス』
 クロノスの表情が、はっきりと変わった。
「……心操神」
 俺は眉をひそめる。
「なにそれ、メンタル系ラスボス?」
 返事は、笑いだった。
『七神の一角。感情と選択を司る者』
 ユイの胸が、きゅっと締まる。
『安心、不安、信頼、疑念。全部、人を動かすための部品だ』
「……昨日からのズレ」
 クロノスが低く言う。
「お前か」
『そうとも』
 声は、楽しそうだった。
『君たちは、実に分かりやすい』
 空気が、重くなる。
『殴る凡人。時間をずらす逃亡者。そして――』
 一瞬、間。
『直す力を持ちながら、まだ何者でもない少女』
 ユイの喉が鳴る。
「……私に、話しかけないで」
『怖いかい?』
「……怖い」
 正直な声だった。
『いい答えだ』
 心操神は、満足そうに言った。
『恐怖は、最も純度の高い感情だからね』
 俺は一歩前に出た。
「なあ、神様」
『何だい、凡人』
「俺に用は?」
『ほとんどない』
 即答だった。
「ひどくない?」
『君は揺らがない。操る価値がない』
 褒めてるのか?
『だが――』
 声が、少し低くなる。
『周囲が揺れれば、君も揺れる』
 嫌な予感がした。
『試してみよう』
 次の瞬間。地面が、軋んだ。
「……っ」
 空間が、裂ける。そこから、今までよりはっきりとした観測者が現れた。輪郭が安定している。存在感が、重い。
「……レベル、上がってる」
 クロノスが言う。
『学習の成果だ』
 心操神の声。
『今回は、“連携が取れない状態”でどうなるかを観測する』
「性格悪すぎだろ!」
 俺は叫んだ。でも、もう遅い。
「来る!」
 ユイが叫ぶ。だが――一瞬、判断が遅れた。迷い。ユイが前に出るべきか。下がるべきか。その一瞬を、観測者は逃さない。衝撃。
「っ……!」
 俺は咄嗟に割り込んだ。体が宙を舞う。
「黒田!」
 クロノスが時間をずらす。だが、反動で膝をついた。
「……くそ、長く使えない!」
『いいね』
 心操神が言う。
『とてもいいデータだ』
 観測者が、再び動く。今度は――ユイに向けて。
「……!」
 ユイの足が、止まる。怖い。迷う。でも。その瞬間、俺の声が届いた。
「ユイ!」
 振り向く。
「考えるな!」
 拳を握る。
「感じろ!」
 一瞬。ユイの表情が、変わった。
「……来る」
 はっきりと。
「右から、速い」
「了解!」
 俺は、迷わず動いた。ギリギリで、観測者の一撃を逸らす。当たらない。だが――
「……効いてる」
 観測者の動きが、鈍る。
『ほう』
 心操神が、興味深そうに言った。
『まだ、未完成なのに』
 クロノスが歯を食いしばる。
「……黒田」
「なんだ」
「次は、もっと来る」
「だろうな」
 俺は笑った。
「でもさ」
 拳を構える。
「殴れない神が、殴れる奴を試すなよ」
 一瞬、沈黙。
『……やはり』
 心操神は、静かに言った。
『君は、計算外だ』
 その言葉と同時に、観測者が一歩、後退した。撤退。空間が、閉じる。静寂。俺は息を吐いた。
「……勝った?」
「違う」
 クロノスが言う。
「観測された」
 ユイは、震える手を握りしめていた。
「……私、迷った」
「でも」
 俺は言った。
「止まらなかった」
 ユイは、ゆっくり頷いた。遠くで、もう一度だけ声が響いた。
『次は、もっと綺麗に壊してあげる』
 消える気配。俺は空を睨んだ。
「上等だ」
殴れない神。心を操る七神。相手が誰でも、やることは変わらない。間違いながら、進む。それが、凡人の戦い方だ。

第十二話

 しばらく、誰も喋らなかった。風の音だけが、校舎裏を通り抜ける。
「……」
 俺は拳を開いて、閉じた。さっきまで、確かに殴っていた。確かに、避けていた。でも――勝った感じはしない。
「撤退、か」
 クロノスが低く言う。
「負けてはいない。だが、勝ってもいない」
「一番モヤるやつ」
 俺は息を吐いた。ユイは、少し離れたところに座り込んでいた。
「私が、ちゃんとできてたら」
「それ、違う」
 即答した。自分でも驚くくらい、迷いがなかった。
「初戦で完璧だったら、それもう神だろ」
 ユイは、少し目を見開いた。
「……でも」
「でもじゃない」
 俺は続ける。
「迷ったけど、逃げなかった。感じたこと、言葉にした。それで助かった」
 クロノスも頷いた。
「事実だ」
「……本当に?」
「本当だ」
 クロノスは静かに言う。
「今日の戦いで、初めて“役割”が噛み合い始めた」
 ユイは、しばらく黙ってから、ぽつりと呟いた。
「……私」
 声が小さい。
「殴れない」
「知ってる」
「止められない」
「それも知ってる」
「じゃあ、何ができるの」
 俺は答えなかった。クロノスが、代わりに言う。
「選択を遅らせない」
 ユイが顔を上げる。
「感じた瞬間に、それを信じて口に出す」
「それだけ?」
「それが、一番難しい」
 クロノスは続けた。
「心操神は、“迷い”を利用する」
「……」
「だが、お前は」
 ユイを見る。
「迷いながら、選んだ」
 ユイの指先が、少し震えた。俺は、背中を地面につけて寝転んだ。
「なあクロノス」
「なんだ」
「心操神ってさ」
「……ああ」
「ムカつくな」
 クロノスは、少しだけ笑った。
「同感だ」
「昔から?」
「昔からだ」
「じゃあ、あいつ」
 空を見る。
「俺たちのこと、どうしたいんだ」
 クロノスは、すぐには答えなかった。
「……試している」
「何を」
「壊れるか、越えるか」
 嫌な二択だ。ユイが、静かに立ち上がった。
「……私」
 二人を見る。
「まだ、怖い」
「そりゃそうだ」
「でも」
 一歩、前に出る。
「逃げるだけの選択肢は、もう嫌」
 その言葉に、空気が変わった。クロノスは、はっきりと頷いた。
「いい」
 俺は、少し笑った。
「仲間っぽくなってきたな」
「今さら?」
「今さら」
 帰り道。三人並んで歩く。夕焼け。車の音。普通の街。
「……不思議だね」
 ユイが言う。
「世界が壊れかけてるのに、こんなに普通」
「だからこそだろ」
 俺は言った。
「壊れる前に、ちゃんと生きとく」
 クロノスが、ふと足を止めた。
「……次は」
「ん?」
「心操神は、もっと直接的になる」
「脅し?」
「いや」
 静かな声。
「選ばせに来る」
 ユイが、息を呑む。
「選択を、か」
「そうだ」
 俺は拳を握った。
「じゃあさ」
 二人を見る。
「間違えてもいい選択肢、選ぼうぜ」
 クロノスは、少しだけ目を細めた。
「……お前は、本当に」
「凡人だろ?」
「いや」
 一拍置いて。
「厄介な中心人物だ」
 笑った。まだ、勝てない。まだ、分からない。でも。少なくとも今は、三人とも同じ方向を見ている。それだけで、次に来る戦いに立つ理由としては――十分だった。

第十三話

 最初に異変を感じたのは、ユイだった。
「……来る」
 でも、その声は今までと違った。
「観測者じゃない」
 クロノスが、即座に反応する。
「……分かってる」
 空が、静かに歪む。裂け目ではない。開く、という感覚。
「は?」
 俺は思わず言った。
「今日、校舎裏じゃないの?」
 答えはなかった。代わりに――声。
『選択の時間だ』
 心操神。はっきりと、今度は隠す気もなく。
『君たちは、なかなか面白い』
 空間が、書き換えられる。気づけば、俺たちは何もない白い場所に立っていた。
「……神の領域か」
 クロノスが、低く言う。
『正確には、“観測室”だよ』
 姿が、現れた。人型。穏やかな顔。優しげな笑み。――心操神。
『安心して。ここでは争う必要はない』
「それ、信用できる?」
 俺が言うと、神は笑った。
『君は本当に、不思議な個体だ』
 視線が、ユイに向く。
『宮坂ユイ』
 ユイの肩が、強張る。
『君は選べる。このまま力を眠らせ、日常に戻るか』
 次の瞬間、平穏な未来の映像が流れた。普通の学校。普通の友達。普通の人生。
『あるいは』
 映像が変わる。壊れた街。傷つく黒田。倒れるクロノス。
『彼らと進み、必ず誰かを失う未来』
「……やめて」
 ユイの声が震える。
『選択だよ』
 心操神は、優しく言う。
『私は、君を救おうとしている』
 その瞬間。
「――は?」
 俺が、前に出た。
「それ、違うな」
『……?』
「それってさ」
 拳を握る。
「選ばせてるようで、誘導してるだけだろ」
 空気が、わずかに軋んだ。
『誘導?私は感情を尊重して――』
「尊重してねえよ」
 即答した。
「怖い方を、でかく見せてる」
 心操神が、初めて黙った。
「クロノス!」
「分かっている!」
 クロノスが、手を伸ばす。時間が、横にズレた。観測室の構造が、一瞬だけ乱れる。
『……っ』
 心操神が、僅かに眉をひそめた。
「ユイ!」
「……うん!」
 ユイは、目を閉じる。
「この空間……“歪みすぎてる”」
「正解!」
 俺は走った。神に向かって。
『無意味だ。ここでは、君の拳は――』
「意味あるかどうかは!」
 踏み込む。
「殴ってから決める!」
 拳が、当たった。
『――なっ』
 心操神の表情が、崩れる。それは、“想定外”の顔だった。
「なんで当たるか、教えてやる」
 俺は言った。
「お前、心を操れるだけで――」
 もう一発。
「殴られる想定、してねえだろ」
 空間が、砕ける。
『待て……!』
「待たねえ!」
 最後の一撃。――心操神の存在が、崩壊した。白い世界が、消える。俺たちは、校舎裏に立っていた。いつもの夕焼け。でも。空の“圧”が、明らかに違う。
「……やった?」
 俺が言うと、クロノスは静かに頷いた。
「七神の一角が、落ちた」
 ユイは、呆然としていた。
「……神、殺したの?」
「うん」
 俺はあっさり答えた。
「殺した」
 その瞬間――遠くで、何かが動いた。空の向こう。世界の外側。複数の“視線”が、一斉にこちらを向く。
「……始まったな」
 クロノスが言う。
「観測してる場合じゃない」
「神が、動く?」
「ああ」
 低い声。
「次は、本気で殺しに来る」
 俺は拳を開いて、閉じた。
「じゃあさ」
 二人を見る。
「もう一回、勘違いしようぜ」
 ユイは、少し震えながらも、頷いた。
「……うん」
 神を殴った凡人は、ついに――神のルールを、一つ壊した。世界はもう、元には戻らない。

第十四話

 世界の外側。時間も空間も意味を失った場所に、六つの“意思”が集まっていた。円卓はない。席もない。ただ、存在が並んでいる。
「――心操神が消えた」
 最初に口を開いたのは、重く、揺るぎのない声だった。
「確認した」
「事実だ」
「ありえない」
 否定と肯定が、同時に重なる。
「七神の一角が、人間に殺された」
 沈黙。それは、神にとって事故ではない。前例の破壊だった。
「……問題は一つではない」
 別の声。
「誰がやったか、ではない」
「何が可能になったか、だ」
 空間に、映像が浮かぶ。白い観測室。崩壊する心操神。拳を振るう――黒田曜。
「この凡人」
「異常だが」
「だが、不要だ」
 即断だった。
「破壊因子ではあるが、再現性がない」
「偶発」
「排除は、後回しでいい」
 議論は早い。冷たい。
「時間操作個体――クロノス」
「逸脱者」
「管理拒否」
「危険度は高いが、単体では世界を揺るがさない」
「監視継続」
 結論が落ちる。そして――映像が、切り替わった。宮坂ユイ。怯え、迷い、それでも“感じている”姿。
「……この個体だ」
 空気が、わずかに変わる。
「高位調律適性」
「未覚醒」
「だが、世界修復に不可欠」
「稀れ血だな」
 六神の視線が、一点に集まる。
「壊す者は代替が効く」
「操る者も、失われた」
「だが――」
 一拍。
「直す者は、代替が効かない」
 その言葉は、議論ではなく、決定だった。
「宮坂ユイは、必要だ」
「保護する」
「回収する」
「あるいは――覚醒を促す」
 淡々と、人間の人生が仕分けられる。
「では、他の二人は?」
 問いが投げられる。一瞬の沈黙。
「放置でいい」
 冷酷な結論。
「感情的価値が高い分、彼女の“触媒”になる」
「壊れるなら、それまで」
「生き残るなら、都合がいい」
 それが、神の合理だった。
「観測は終了」
「次は、介入段階」
「――六神が、動く」
 空間が、閉じる。同時刻。校舎裏。
「……寒くない?」
 ユイが、腕をさすった。
「寒いな」
 俺は答えた。
「神一体殺した後だし」
「基準がおかしい」
 クロノスは、空を見ていた。
「……来るな」
「何が」
「選別だ」
 俺は眉をひそめた。
「嫌な言い方」
「神は、必要なものしか見ない」
 ユイが、不安そうに聞く。
「……私は?」
 クロノスは、少し黙ってから答えた。
「お前は、必要だと思われている」
「じゃあ、二人は?」
 俺は笑った。
「不用品?」
「……ああ」
 クロノスは、静かに言った。
「今のところはな」
 俺は拳を握った。
「じゃあさ」
 二人を見る。
「必要とか不要とか、勝手に決めるなって話だよな」
 ユイは、少しだけ笑った。
「……うん」
 空は、変わらず青い。でももう、観測は終わった。次に来るのは、救済でも、裁きでもない。――回収だ。神を殴った凡人は、神にとって「不要」。世界を直す少女は、神にとって「必須」。その歪んだ基準が、次の戦いを呼び寄せる。

第十五話

 最初に、音が消えた。風も、虫の声も、遠くの車の走行音も。まるで、世界の再生ボタンを一時停止したみたいに。
「……来た」
 クロノスの声が、今までで一番低かった。
「六神の中でも、最初に動くやつだ」
「第一神?」
 俺が聞く。
「報復担当」
 嫌な肩書きだ。空が、落ちてきた。比喩じゃない。重力が逆転する感覚。
「うわっ……!」
 地面が軋み、校舎の壁に亀裂が走る。そして。“それ”は、立っていた。巨大でもない。派手でもない。ただ、圧倒的に“上”だった。
「――回収を開始する」
 感情のない声。目は、ユイだけを見ている。
「……あなたが」
 ユイが震えながら言う。
「神……?」
「肯定」
「……私を、どうするの」
「保護する」
 その言葉に、俺は思わず笑った。
「誘拐だろ、それ」
 第一神が、初めて俺を見る。
「……不要因子」
「はいはい」
 拳を握る。
「じゃあさ」
 一歩、前に出る。
「俺から倒してみろよ」
 ――次の瞬間。俺は、地面にめり込んでいた。
「がっ……!」
 殴られた感触すらない。ただ、存在の階層が違う。
「黒田!」
 クロノスが叫ぶ。
「時間を――」
 クロノスが能力を発動させる。時間が、ズレる。だが。第一神は、ズレたまま動いた。
「……っ⁉」
 クロノスの顔色が、一気に悪くなる。
「無意味だ」
 第一神が言う。
「時間操作は、我々の管理領域だ」
 クロノスが、膝をつく。
「……くそ」
 初めて見る、完全な劣勢。
「……やめて」
 ユイが、前に出た。
「二人に、これ以上しないで」
 第一神は、頷いた。
「了承」
 その言葉が、逆に恐ろしかった。
「宮坂ユイ」
 名を呼ばれる。
「君は、世界修復に必要だ」
「……私は」
 ユイは、俺を見る。クロノスを見る。
「……行きたくない」
 その一言で、胸が締めつけられた。
「だが、行く」
 第一神が言う。
「選択権はない」
 空間が、裂ける。いや、別の世界が、口を開ける。白でも黒でもない。整いすぎた世界。
「ユイ!」
 俺は立ち上がろうとする。体が、動かない。
「ユイ!」
 手を伸ばす。届かない。
「……黒田さん」
 ユイが、微笑った。怖いのに。泣きそうなのに。
「……待ってて」
 その瞬間。第一神の手が、ユイの肩に触れた。光。次の瞬間――ユイの姿が、消えた。静寂。音が、戻る。風が吹き、校舎の亀裂が、ゆっくりと塞がっていく。何事もなかったように。「……」
 俺は、しばらく動けなかった。拳を、握る。震えている。
「……連れて、行かれた」
 クロノスが、苦しそうに言う。
「完全敗北だ」
「……」
「だが」
 クロノスは、立ち上がる。
「まだ終わりじゃない」
 俺は、顔を上げた。
「取り返せる?」
「可能性はある」
「なら」
 歯を食いしばる。
「行くしかねえだろ」
 クロノスは、俺を見た。
「……相手は神だ」
「知ってる」
 拳を開く。
「でもさ」
 ゆっくり、握り直す。
「俺、神を殴ったことあるんだよ」
 クロノスは、ほんの一瞬だけ、笑った。遠く。別の世界。整えられた空間の中で、ユイは、静かに立っていた。
「……ここは」
 第一神の声が、背後から響く。
「君の居場所だ」
 ユイは、拳を握る。怖い。でも。待つだけじゃない。彼女は、まだ知らない。神々が、“不要”と切り捨てた凡人が――この世界を、本気で壊しに来ることを。

第十六話

 ユイがいなくなってから、世界は妙に静かだった。音はある。人もいる。でも――足りない。
「……なあ」
 俺は、校舎裏で空を見上げながら言った。
「神ってさ」
「なんだ」
 クロノスは、地面に座って何かを組み立てていた。見たことのない装置だ。
「全員倒せば、終わるのか?」
 クロノスの手が、止まった。
「……簡単に言うな」
「簡単じゃないのは分かってる」
 拳を握る。
「でも、他に方法ある?」
 クロノスは、しばらく黙っていた。
「……ない」
 静かな答えだった。
「第一神が動いた以上、“交渉”は成立しない」
「じゃあさ」
 俺は言った。
「六神、全員倒す」
 空気が、張りつめる。
「……本気か」
「本気」
 即答だった。
「ユイを連れ去った。それだけで、理由は十分だろ」
 クロノスは、俺をじっと見た。
「相手は、世界の基盤だ」
「知ってる」
「勝てる保証はない」
「保証があったら、神殴る奴いねえよ」
 クロノスは、小さく息を吐いた。
「……変わったな」
「どこが」
「目的が、自分じゃなくなった」
 俺は、一瞬だけ言葉に詰まった。そして――気づいた。
「ああ」
 ぽつりと、言う。
「そうか」
 胸の奥が、少しだけ痛む。
「俺さ」
 拳を見る。
「ユイがいなくなってから、ずっとムカついてて」
「……」
「怖いし、不安だし、正直、勝てる気もしねえ」
 一歩、前に出る。
「でも」
 声が、低くなる。
「あいつが神に囲われてると思うと、耐えられねえ」
 クロノスの目が、わずかに見開かれた。
「それは――」
「分かってる」
 苦笑する。
「恋愛感情だろ」
 言葉にした瞬間、妙にしっくり来た。
「今さらかよって話だけどさ」
 クロノスは、しばらく何も言わなかった。やがて、立ち上がる。
「……なら、行くしかないな」
「え?」
「俺も、あいつを返してもらう」
 クロノスの声は、静かだが強かった。
「理由は違うが、目的は同じだ」
「クロノスも?」
「ああ」
 視線を逸らす。
「……借りがある」
 それ以上は、言わなかった。
「で、どうやって行くんだよ」
「別世界だぞ」
 クロノスは、装置を持ち上げた。
「世界を跨ぐ」
「雑だな」
「お前が言うな」
 空間が、歪む。今までの“ズレ”とは違う。明確な移動だ。
「注意しろ」
 クロノスが言う。
「向こうは、俺たちを“不要”と判断している」
「最高だな」
 俺は笑った。
「必要とされてない場所に、殴り込みってわけだ」
 クロノスも、わずかに笑った。
「黒田」
「ん」
「戻れない可能性が高い」
「分かってる」
 一歩、踏み出す。
「でもさ」
 拳を握る。
「ユイ、待ってるって言ったんだ」
 だから――
「行く」
 空間が、完全に開く。向こう側には、整いすぎた世界が広がっていた。神の領域。管理された秩序。
「……ここか」
 クロノスが言う。
「六神の世界」
 俺は、一歩、足を踏み入れた。
「じゃあ、決まりだな」
「何が」
「六神全部倒して、ユイを取り返す」
 クロノスは、ゆっくり頷いた。
「無謀だ」
「凡人だからな」
「だが」
 一拍置いて。
「……悪くない」
 二人で、前を向く。神々が作った世界に、不要と切り捨てられた二人が入っていく。理由は一つ。大事なものを、取り返すため。神を殴った凡人は、今度は――世界そのものを、相手にする。

第十七話

 ここには、痛みがない。寒くも、暑くもない。空気は澄んでいて、呼吸が楽。――楽すぎる。
「……」
 私は、白い床の上に立っていた。靴は汚れない。影も、揺れない。完璧に整えられた世界。
「落ち着いたかい」
 声がする。振り向くと、神がいた。第一神とは違う。もっと柔らかく、穏やかな存在。
「怖がらなくていい」
 微笑む。
「君は、守られている」
「……ここは」
「保護領域だ」
 神は言った。
「君のような存在が、傷つかないための場所」
 胸が、少しだけ軽くなる。
「……黒田さんは?」
「不要因子は、排除されるか、放置される」
 淡々とした答え。心が、ちくりとした。
「クロノスは?」
「逸脱者だ」
「……」
 それ以上、聞けなかった。別の神が、前に出る。声は、静かで、理知的だった。
「宮坂ユイ」
 名前を呼ばれる。
「君の力は、世界にとって必要不可欠だ」
「……私の、力?」
「そう」
 空間に、映像が浮かぶ。壊れた街。崩れた建物。泣く人々。次の瞬間。それが、元に戻る。
「……」
 息を呑む。
「君が目覚めれば、世界は、こんなふうに救われる」
「でも」
 私は、声を絞り出す。
「それは……私が選んだことじゃない」
 神は、少しだけ首を傾げた。
「選択?」
「……うん」
「選択は、必要ない」
 はっきりと言った。
「君は、役割を果たすために生まれた」
 胸が、重くなる。
「役割……」
「覚醒すれば、迷いも、恐怖も消える」
「……消えたら」
 私は聞いた。
「私、私でいられる?」
 一瞬、間があった。神は、穏やかに答える。
「それは、重要ではない」
 その言葉で、はっきり分かった。――ここは、優しい牢獄だ。別の神が、手を伸ばす。
「君の中には、“修復の核”がある」
 胸の奥が、熱くなる。
「抵抗しないで」
「……っ」
 頭の中に、何かが流れ込んでくる。壊れたもの。歪んだもの。それを“戻したい”衝動。
「……やめて」
 声が震える。
「怖い?」
「……怖い」
「それは、覚醒前の反応だ」
 神は、優しく言う。
「すぐ、慣れる」
 ――慣れたくない。その瞬間。胸の奥に、別の感覚が走った。不器用で、雑で、全然整っていない感覚。
「……黒田さん」
 名前が、自然に出た。神たちの動きが、一瞬、止まる。
「……ノイズか」
「まだ、残っているな」
 私は、気づいた。この世界は、整いすぎている。だから――間違いがない。でも。間違いだらけだった世界で、私は確かに生きていた。
「……私」
 小さく、でもはっきり言う。
「直したいものは、自分で決めたい」
 空気が、張りつめた。
「それは、危険だ」
「管理できない」
「心操神の二の舞になる」
 その名前で、胸がざわつく。
「……あの神」
 私は顔を上げる。
「殺されたんだよね」
 沈黙。それが、答えだった。
「じゃあ」
 拳を、ぎゅっと握る。
「私、覚醒するなら――」
 胸の奥が、熱を帯びる。
「自分の意思で、する」
 神たちの視線が、一斉に鋭くなる。
「……未熟だ」
「だが」
「興味深い」
 最初の神が、言った。
「ならば、時間を与えよう」
 白い世界が、揺らぐ。
「覚醒は、避けられない」
「だが、方法は、君に任せる」
 その言葉は、譲歩であり、試験だった。神たちが、距離を取る。私は、その場に座り込んだ。
「……」
 怖い。でも。胸の奥で、確かに何かが“目を覚ました”。それは、神が見せた理想でも、役割でもない。雑で、未完成で、人間くさい衝動。――待ってて。誰に向けた言葉か、分かっていた。神は、私を覚醒させようとしている。でも、私は――神の思い通りには、目覚めない。

第十八話

 別世界の空は、動いていた。雲じゃない。空そのものが、ゆっくりと形を変えている。
「……気持ち悪」
 俺が言うと、クロノスは頷いた。
「神の領域だ。環境そのものが、能力の一部」
「チートかよ」
「神だからな」
 足元は、石でも土でもない。概念みたいな床だ。
「なあ」
 俺は拳を握る。
「ユイは、どのへんだ?」
「まだ遠い」
 クロノスの声が、少し硬い。
「だが――近づいている」
 その瞬間。空が、裂けた。上から降りてきたのは、人型の神。翼はない。光も派手じゃない。ただ――存在が、重い。
「……来たな」
 クロノスが低く言う。
「第六神の一柱」
 神は、俺たちを見下ろした。
「不要因子二名。侵入を確認」
 声は、淡々としている。
「回収対象は、含まれていない」
「知ってるよ」
 俺は一歩前に出た。
「だから、奪いに来た」
 神は、首を傾げる。
「理解不能」
「だろうな」
 拳を構える。
「恋愛感情って、神の辞書にないだろ」
 一瞬、神の視線が俺に向いた。
「……感情値、異常」
「褒め言葉だ」
 神が、指を鳴らした。次の瞬間。地形が、反転した。
「……っ⁉」
 上下の感覚が狂う。
「重力操作か!」
 クロノスが叫ぶ。
「違う!」
 俺は空中で体を捻る。
「位置の定義を書き換えてる!」
 足が、突然“地面”を踏む。だが、その地面は――さっきまで空だった場所だ。
「……なるほど」
 クロノスが歯を食いしばる。
「空間認識系の神か」
「厄介だな!」
 神が、腕を振る。距離が、縮む。瞬間移動じゃない。世界の方が、神に合わせて動く。
「黒田!」
「分かってる!」
 俺は、飛び込む。――拳が、当たらない。いや。
「……ズレてる」
 当たる直前で、世界が避けてる。
「学習速度が速い!」
 クロノスが、時間を横にずらす。一瞬、景色がブレる。
「今だ!」
 俺は、踏み込んだ。拳が、神の頬をかすめる。ピシッ、と音がした。神の顔に、ひび。
「……?」
 神が、自分の頬に触れる。
「損傷、確認」
 その声に、初めて感情が混じった。
「……神、殴れるじゃん」
 俺は笑った。
「やっぱりさ」
 拳を構える。
「壊れないと思ってるやつほど、殴られると脆い」
 神の周囲が、歪む。
「警戒レベル、引き上げ」
 空間が、牙を剥く。無数の“地面”が、刃のように立ち上がる。
「クロノス!」
「限界近い!」
 時間のズレが、不安定になる。
「……一発だ」
 俺は、息を整える。シミュレーションが、頭を駆け巡る。勝ち筋は――薄い。でも。
「なあ、神様」
 俺は言った。
「一つだけ、教えてやるよ」
 踏み込む。
「俺、世界に合わせて動いたことないんだ」
 世界が歪む前に、歪む場所を殴る。拳が、空間そのものを叩いた。――砕けた。
「……っ⁉」
 神の身体が、後退する。完全撃破じゃない。でも。
「……侵入者」
 神は、距離を取る。
「想定外」
 それだけ言って、空間の向こうへ退いた。静寂。俺は、息を吐いた。
「……勝った?」
「違う」
 クロノスが言う。
「通用するって、証明しただけだ」
「十分だろ」
 拳を握る。
「ユイのとこまで、道は続いてる」
 遠く。白い世界の奥で。ユイが、胸を押さえた。
「……今の」
 何かが、確かに“揺れた”。まだ覚醒じゃない。でも。誰かが、本気で来ている。それだけは、はっきり分かった。

第十九話

 別世界は、静かすぎた。さっきまで動いていた空が、今は完全に止まっている。
「……嫌な沈黙だな」
 俺が言う。
「同感だ」
 クロノスは、すでに警戒態勢だった。
「単独神が退いた直後に、この静けさは――」
「増援?」
「連携だ」
 嫌な単語が出た。空間が、二重に割れた。一つではない。重なり合う裂け目。そこから現れたのは、二柱の神。一柱は、先ほどの空間認識神。そして、もう一柱――
「……情報量が多い」
 俺は、思わず呟いた。形が、定まっていない。輪郭が、常に揺れている。
「第二神」
 クロノスが言う。
「因果干渉系だ」
「因果?」
「結果と原因を、入れ替える神」
 最悪だ。
「侵入者、再確認」
 空間認識神。
「対処方法、更新」
 因果神が、静かに言う。
「殴られる前に、殴られた結果を配置すればいい」
「……何言ってるか分かんねえ」
「分からなくていい」
 クロノスが言う。
「理解した瞬間、負ける」
 次の瞬間。――衝撃が来た。
「がっ……!」
 殴られていない。でも、吹き飛ばされた結果だけが発生した。
「黒田!」
 クロノスが叫ぶ。俺は地面を転がりながら、歯を食いしばる。
「……原因、どこだ」
 答えは、ない。殴られた“過去”が、今に配置されている。
「これが、神の連携かよ……!」
 クロノスが、時間を横にずらす。一瞬、世界がブレる。
「今だ!」
 俺は、踏み込む。だが――拳を振る前に、腕が砕ける感覚。
「――っ!」
 因果神が、淡々と告げる。
「未来の損傷を、現在に適用した」
「チートの重ね掛けじゃねえか……!」
 俺は、膝をついた。初めてだ。明確に、勝てない。
「撤退だ!」
 クロノスが叫ぶ。
「無理だ!」
 空間認識神が、退路を潰す。因果神が、結果を積み上げる。詰みかけている。その時――胸の奥が、ざわっとした。
「……?」
 遠く。白い世界のさらに奥。ユイが、胸を押さえていた。
「……近い」
 覚醒じゃない。でも。存在が、揺れている。
「クロノス!」
 俺は、歯を食いしばって立ち上がる。
「一つだけ、ズラせるか!」
「……命削るぞ!」
「いい!」
 クロノスの目が、覚悟を決める。時間が、今までで一番大きく横にズレた。世界が、悲鳴を上げる。
「今だァッ!!」
 俺は、殴った。神じゃない。神同士の“連携点”を。空間認識が因果に触れる、その瞬間。――ズレ。
「……っ⁉」
 因果神の声が、初めて乱れる。
「因果干渉、破綻」
 連携が、崩れた。完全勝利じゃない。でも――
「……撤退」
 空間が、閉じる。二柱の神が、消えた。静寂。俺は、その場に倒れ込んだ。
「……無理だろ、これ」
「無理だ」
 クロノスは、はっきり言った。
「だが」
 一歩、俺の横に立つ。
「六神は、連携しないとお前を止められない」
「褒めてる?」
「事実だ」
 遠くで。ユイが、小さく息を吐いた。
「……まだ、早い」
 覚醒は、まだ。でも。神の世界は、確実に不安定になり始めている。六神は、理解した。不要因子二名は――放置できる存在ではないと。

第二十話

 嫌な予感は、だいたい当たる。別世界の空が、重く沈んでいた。
「……追ってきてるな」
 俺が言うと、クロノスは短く頷いた。
「しかも、速い」
 足元の概念床が、微かに震える。――神だ。しかも、一柱じゃない。
「黒田」
 クロノスが、俺を見る。
「次に来る攻撃、正面から受けるな」
「受けねえよ、できるならな」
 軽口を叩いたが、正直、余裕はなかった。その瞬間。世界が、折れた。
「――っ!」
 空間が、紙みたいに畳まれる。逃げ場がない。
「来るぞ!」
 俺が叫ぶより早く、クロノスが前に出た。
「時間操作――」
 その言葉の途中で、クロノスの動きが止まった。
「……?」
 俺は、嫌なものを見た。クロノスの影が、遅れて動いている。
「……代償が、来たな」
 苦しそうに、クロノスが呟く。
「おい、待て」
「聞け、黒田」
 クロノスは、俺を見ない。
「時間を弄るたびに、俺は“本来いるはずの時間”からズレる」
「それ、前も言ってたろ」
「今回は、ズレすぎた」
 空間が、完全に閉じる。神の攻撃が、降ってくる。
「だったら撤退だ!」
「間に合わない」
 クロノスは、はっきり言った。
「……俺が止める」
「何言って――」
 クロノスが、最後の時間操作を発動した。今までよりも、
 深く、無理やり。時間が、悲鳴を上げる。世界が、歪む。
「黒田!」
 クロノスが、叫ぶ。
「この“今”から、一歩も動くな!」
「は⁉」
「動いたら、お前もズレる!」
 意味が分からない。だが――クロノスの顔を見て、分かった。これは、命令じゃない。別れだ。
「クロノス!」
 俺が叫んだ瞬間。クロノスの身体が、時間のノイズに溶けた。
「……な」
 消えた。血も、爆発もない。ただ、いなかったことになったみたいに。次の瞬間、神の攻撃が止まった。空間が、元に戻る。まるで、クロノスという存在が“介在していなかった”かのように。
「……ふざけんなよ」
 拳が、震える。
「勝手に決めて、勝手に消えんな……!」
 返事はない。時間は、何事もなかったように流れている。俺だけが、取り残された。しばらく、動けなかった。でも。立ち上がる。
「……分かったよ」
 拳を握る。
「ここからは、俺一人だな」
 怖い。正直、めちゃくちゃ怖い。でも――
「ユイ、待ってろ」
 声に出す。
「クロノスがいなくても、俺は行く」
 神の世界の奥が、微かに揺れた。遠く。白い世界の中で、ユイが胸を押さえる。
「……今の」
 何かが、確実に“欠けた”。それは、守ってくれていた存在。でも同時に――新しい歪みが、生まれた。神は気づいている。もう一人になった凡人は、弱くなったはずなのに。なのに。なぜか、前より危険になっていることに。

第二十一話


 静かだった。静かすぎて、嫌な予感しかしない。クロノスが消えてから、この世界は露骨に変わった。空が、動かない。地面が、拒絶している。
「……来たか」
 俺は、足を止めた。目の前――光の壁。いや、壁じゃない。“通さない”という意思だ。触れた瞬間、腕の感覚が消えかけた。
「……これが、神の本気防衛かよ」
 一歩踏み出すたび、世界が“正しい位置”に戻そうとする。殴れる距離に、ならない。その奥に――見えた。白い空間。整えられた中枢。ユイが、いる。
「……見えてる」
 確かに、視線が合った気がした。
「ユイ!」
 叫ぶ。声は、届かない。距離は、数十メートルもない。なのに。無限に遠い。空間が、揺れた。声が、重なって響く。
『侵入者、確認』
『最終防衛段階に移行』
『これ以上の接近を、許可しない』
 三つ。――三神の“影”。姿は、完全には現れない。必要ないからだ。近づかせなければいい。
「……逃げ回ってるだけで、勝った気になるなよ」
 俺は、拳を構える。世界が、軋んだ。
『無意味』
『到達不能』
『凡人』
 言葉が、突き刺さる。
「知ってる」
 一歩、踏み出す。弾かれる。膝が、地面に叩きつけられた。
「……っ」
 痛みはある。でも、それ以上に――
「……届かねえ」
 初めてだ。殴る相手が、“そこにいるのに殴れない”。
『力は評価する』
『だが、到達には至らない』
『ここが、限界だ』
 視界の端で、ユイが、こちらを見ている。何かを言おうとして――光に遮られる。
「やめろ……!」
 拳を、地面に叩きつける。何度も。世界は、びくともしない。息が、荒くなる。頭の中で、シミュレーションが回る。全部――失敗。
「……クロノス」
 名前が、自然に出た。返事は、ない。当たり前だ。ここには、俺しかいない。
『撤退を推奨』
『これ以上は、存在の損耗が大きい』
 神の声が、妙に“親切”に聞こえた。
「……うるせえ」
 立ち上がる。足が、震えている。
「奪うって決めたんだ」
 一歩。また、弾かれる。視界が、白くなる。
「……っ、くそ」
 倒れそうになるのを、必死で堪える。
『――これが』
『神と人の差だ』
 その言葉で、胸が、冷たくなった。でも。次の瞬間。ユイが、口を開いた。声は、届かない。でも。分かった。はっきりと。――「来ないで」。その表情で、全部理解した。ここで無理をすれば、ユイが“壊される”。
「……っ」
 歯を、食いしばる。拳を、下ろす。
「……分かったよ」
 声が、震えた。
「今回は、退く」
 世界が、わずかに緩んだ。神の防衛が、それを“正解”として認識したからだ。その瞬間。怒りが、確定した。――覚えてろ。俺は、この距離を。この無力さを。この、“届かない”感覚を。背を向ける。光の壁の向こうで、ユイが、小さく頷いた。――待ってる。そう、言っているように見えた。世界が、閉じる。俺は、再び別世界の外縁に立っていた。
「……次は」
 拳を、強く握る。
「この世界ごと、殴れるくらいじゃないと足りねえな」
 神は、勝ったと思っている。完全封鎖。完璧な防衛。でも。凡人は、“完璧”を覚えた。次に来るときは――もう、逃げない。

第二十二話

 静かな場所だった。神の世界の外縁。中枢からも、防衛網からも、ほんの少しだけ外れた“余白”。
「……ここなら、来る」
 確信があった。理由は単純だ。神は、余白を嫌う。完璧に管理できない場所。曖昧で、境界が定まらない場所。――そこに、必ず手を伸ばしてくる。案の定だった。
「侵入者」
 背後から、声。振り向かない。
「単独行動。仲間の消失を確認」
「いちいち報告しなくていい」
 俺は、拳をぶら下げたまま言った。
「来たってことはさ」
 振り返る。
「ここ、神にとっても邪魔なんだろ」
 姿を現したのは、第三神。姿は、人に近い。だが、影が不自然に“遅れる”。
「……分析能力、高」
「凡人の取り柄だ」
 神が、一歩踏み出す。圧。でも、以前より冷静に見えた。
「……なるほど」
 俺は、呟いた。
「お前さ」
 踏み込む。
「自分が殴られる想定、まだ甘い」
 拳を振る。――当たらない。が、避け方が見えた。
「今の、“避けた”よな」
 神が、眉をひそめる。
「当然だ」
「違う」
 俺は言う。
「避ける必要があるってことは、当たったらマズいって理解してるってことだ」
 一瞬。神の動きが、わずかに遅れた。
「……そこだ」
 俺は、殴らなかった。殴る“前”の位置を殴った。拳が、空間を打つ。――歪み。
「……っ⁉」
 神の身体が、半歩、ズレる。
「やっぱりな」
 息を吐く。
「神ってさ」
 構え直す。
「自分を中心に世界が動く前提で設計されてる」
 踏み込む。
「だから」
 拳を、低く。
「世界が先に壊れると、対処が遅れる」
 神が、距離を取る。初めて――明確な警戒。
「……危険因子、再評価」
「今さらだ」
 俺は、笑った。
「もう覚えた」
 シミュレーションが、頭の中で回る。百。千。一万。全部、神が“嫌がる動き”。勝てない。でも。
「……殺せなくても」
 拳を、固める。
「通れる」
 神が、能力を発動する。空間が、俺を排除しようとする。だが。排除される“方向”が、読める。
「遅い」
 身体が、勝手に動く。避ける。潜る。殴らない。ズラす。次の瞬間。神の攻撃が、自分の作った歪みに引っかかった。
「……?」
 神が、理解できずに固まる。
「答え合わせな」
 俺は、言った。
「神は強い」
 一歩、前に出る。
「でも」
 拳を、止める。
「凡人は、“癖”を覚える」
 拳は、振るわない。必要ない。もう、道筋が見えたから。神は、後退した。
「……撤退」
 空間が、閉じる。一人になる。息が、荒い。でも――笑った。
「……なるほどな」
 拳を見下ろす。
「世界を殴るんじゃない」
 視線を上げる。
「世界が“神を守ろうとする瞬間”を殴るんだ」
 遠く。白い中枢で、ユイが、胸を押さえた。
「……今の」
 何かが、確実に近づいた。覚醒じゃない。でも。誰かが、迎えに来る方法を見つけた。神は、まだ理解していない。凡人が見つけた“勝ち筋”が、神の数を前提にしていないことを。

第二十三話

 神の世界が、ざわついていた。明確な恐怖ではない。だが――計算が狂い始めたときの音がしている。
「……来るな」
 俺は、拳を下げたまま立っていた。逃げない。隠れない。“通れる”ことを、もう知っているから。空間が、二重に裂ける。同時に現れたのは、二柱の神。一柱は――秩序神。世界を「正しい形」に保つ存在。もう一柱は――観測外神。役割を持たず、他の神を“観測している”存在。
「……二人まとめて、か」
 俺は、息を吐いた。
「神も人手不足なんだな」
『冗談を言う余裕があるのは、今だけだ』
 秩序神が、空間を固定する。逃げ道が、消える。
『排除対象・黒田曜』
『危険度、最高』
「分かってるよ」
 拳を握る。
「だから、ここまで来た」
 観測外神は、じっと俺を見ていた。何も言わない。だが、その視線だけが――妙に、近い。秩序神が、動く。世界が、一瞬で正解に戻される。俺の位置。姿勢。呼吸。全部、“あるべき形”に修正される。
「……っ」
 動けない。
「これが、“神に抗えない”ってやつか」
『抵抗は無意味』
『凡人は、秩序の中で生きろ』
 その言葉で、頭の奥が冷えた。――違う。
「……それ、逆だ」
 小さく言う。
「俺は」
 目を上げる。
「秩序の外で生きてきた」
 次の瞬間。動けた。秩序神の修正が、一瞬、遅れた。
「……今だ」
 俺は、殴った。神じゃない。秩序が“正そうとした瞬間”を。拳が、空間の“継ぎ目”に入る。――崩壊。
『……っ⁉』
 秩序神の身体に、亀裂が走る。観測外神が、初めて言葉を発した。
『……美しい』
 ぞくっとした。
「……は?」
『矛盾だ』
 観測外神は、静かに微笑んだ。
『凡人が、秩序を壊す』
『世界にとって、最も興味深い存在だ』
「褒めてる?」
『愛している、と言ってもいい』
 空気が、凍る。
「……重いな」
 俺は苦笑した。
「今、戦闘中なんだけど」
 秩序神が、怒号を上げる。
『黙れ、逸脱者!』
 世界が、完全固定される。だが――固定される“前”に、俺は動いた。シミュレーション通り。一歩。半歩。拳。
「……これで、終わりだ」
 拳が、秩序神の核を打ち抜いた。音はなかった。ただ、世界が軽くなる。秩序神の存在が、崩れ落ちる。
『……秩序が……』
 言葉は、途中で消えた。――神、死亡。静寂。俺は、息を吐いた。
「……一柱、終わり」
 拳を下ろす。観測外神が、拍手した。
『素晴らしい』
「やめろ、そのリアクション」
『君は、神を“攻略”した』
 距離が、縮まる。近すぎる。
『黒田曜』
 名前を呼ばれる。
『私は、君を殺さない』
「……理由は?」
『興味だ』
 即答だった。
『愛だ』
「重いって言ってるだろ」
 でも――逃げなかった。なぜか。
『ユイを、取り戻したいのだろう?』
 胸が、跳ねた。
「……ああ」
『なら、私が手を貸そう』
「は?」
『神の世界には、“味方”など存在しない』
 一歩、近づく。
『だが、例外が生まれた』
 その視線は、敵でも、味方でもない。執着だ。
「……最悪だな」
 俺は、苦笑した。
「神殺して、神に惚れられるとか」
『禁忌だ』
『だからこそ、価値がある』
 空間が、揺れる。遠く。白い中枢で、ユイが、はっきりと“見た”。――一柱が消えたことを。そして。もう一柱が、黒田曜に向けて視線を向けたことを。
「……来る」
 小さく呟く。覚醒じゃない。でも。取り戻される未来が、初めて具体的になった。神を一つ殺した凡人は、もう一つの神に、“選ばれてしまった”。それは、救いでも、呪いでもない。――恋だった。神の世界が、確実に壊れ始める。次は、神が“群れ”で来る。だがもう、後戻りはできない。

第二十四話


 目を開けた瞬間、世界が二重に見えた。
「……っ」
 息を吸うと、肺が痛む。体が、重い。
「……生きてる、か」
 その声を聞いた瞬間、俺は思わず息を吐いた。
「お、起きたな」
「……黒田?」
 クロノスが、ゆっくりと体を起こす。周囲は、神の世界の外縁。だが、時間の歪みはもうない。
「……俺は」
「時間の向こう側に消えた」
「だろうな」
 クロノスは苦笑した。
「で、ここにいるってことは……引き戻されたか」
「まあ、そんな感じ」
「誰にだ」
 その質問に、一瞬、間が空いた。
「……神に」
 クロノスの動きが止まる。
「……どの神だ」
「七神クラス」
 はっきり言う。
「一柱、もう殺した」
「……」
 クロノスは、黙った。数秒。十秒。
「……頭は、無事か?」
「多分」
「夢じゃないな?」
「現実」
 クロノスは、額を押さえた。
「……で」
 低い声。
「残りは?」
「一柱、仲間になった」
 空気が、止まった。
「……は?」
「正確には」
 俺は言い直す。
「惚れられた」
「…………は?」
 クロノスは、完全に言葉を失った。
「待て」
「待たない」
「説明しろ」
「秩序神を殺した」
「そこまでは分かる」
「もう一柱が観測外神で」
「嫌な名前だな」
「そいつが、俺に興味持った」
「嫌な展開だな」
「で、味方」
 クロノスは、深く息を吸った。
「……世界、どこまで壊す気だ」
「俺のせいじゃないだろ」
「半分はお前だ」
 クロノスは、天を仰いだ。
「神は、 “仲間”にならない」
「今なってる」
「それは仲間じゃない」
「じゃあ何だよ」
「不安定要素だ」
 納得しかけた。その時。空間が、静かに歪んだ。
「……来たな」
 クロノスが警戒する。だが、攻撃はない。ただ、“そこにいる”。
『警戒しなくていい』
 声。姿が、現れる。観測外神。相変わらず、距離感が狂っている。
『彼は、完全には戻っていない』
「……分かるのか」
 クロノスが、睨む。
『時間の残滓が、身体に絡みついている』
「……」
『面白い』
 やめてほしい。
「おい」
 俺は割って入る。
「仲間だろ」
『ああ』
 即答。
『少なくとも、君の側だ』
 クロノスが、俺を見る。
「……本気か」
「本気」
「神だぞ」
「知ってる」
「信用できない」
「俺もだ」
 即答した。クロノスは、それで少し黙った。
「……なら」
 視線を、神に向ける。
「条件がある」
『聞こう』
「ユイには、一切触れるな」
『……』
 一瞬、神の表情が変わる。興味から、理解に近いものへ。
『了承する』
「即答かよ」
「いいのか」
『彼女は、“君たちの物語”の核だ』
 ぞっとする言い方だ。
「物語とか言うな」
『事実だ』
 神は、俺を見る。
『黒田曜』
『君は、神の世界を“揺らす”』
「やめろ、期待すんな」
『期待している』
「……重い」
 クロノスは、ゆっくりと立ち上がった。
「状況は最悪だ」
「分かってる」
「だが」
 一拍置く。
「……戦力は、増えた」
 神が、微笑む。
『そういうことだ』
「言っとくが」
 クロノスは、冷たい目で神を見る。
「裏切ったら、時間ごと消す」
『できるなら、試してみろ』
「やめろやめろ」
 俺は、間に入る。
「内ゲバしてる場合じゃない」
 二人が、同時に俺を見る。
「……何だ」
「……何だ」
 声が重なった。
「ユイを、取り返す」
 それだけ言った。沈黙。やがて、クロノスが頷く。
「……ああ」
 神も、頷いた。
『当然だ』
 三人。人間二人と、神一柱。ありえない組み合わせ。だが――神の世界は、もう均衡を失っている。七神の一角は消え、一柱は裏切った。残る神々は、すでに気づいている。これは、観測ではない。――戦争だ。クロノスが、静かに言った。
「次は、逃げられないな」
 俺は、拳を握る。
「望むところだ」
 神が、微笑った。
『……愛しい混沌だ』
「それやめろ」
 こうして。最悪で、最強で、信用ならない仲間が、一人増えた。奪還戦は、次の段階に入る。

第二十五話


 神の世界の、さらに外側。光も闇も意味を失う場所で、会議が開かれていた。
「……秩序神が、消えた」
 低い声。
「確認済み」
「観測外が、逸脱した」
 空気が、冷えた。
「裏切りだ」
「いや」
 別の声が返す。
「想定内だ」
「……?」
「凡人が、神を殺した時点で、均衡は崩れている」
 映像が浮かぶ。拳。歪む世界。黒田曜。
「この人間は、“勝ち方”を覚えた」
「放置すべきではなかった」
「遅い」
 一拍。
「――三神同時で、潰す」
 決定。議論は、もうない。その頃。俺たちは、神の世界の縁を移動していた。
「……嫌な気配が増えたな」
 クロノスが言う。
「会議、終わったな」
「早すぎない?」
「向こうは、もう余裕がない」
 観測外神――いや、今は“仲間”の神が、静かに言った。
『三柱、来る』
「根拠は?」
『会議の結論は、いつも単純だ』
『脅威は、数で潰す』
 次の瞬間。空が、三方向から裂けた。
「……はは」
 思わず、笑った。
「マジで来やがった」
 一柱。破壊神。触れた概念を、消し飛ばす。二柱。因果神。
原因と結果を入れ替える。三柱。封印神。存在そのものを“閉じる”。
「……無理だろ」
 俺が言うと、クロノスは即答した。
「正面はな」
 神が、一歩前に出る。
『逃げる』
「は?」
『勝てる戦いではない』
「お前、前は戦う気満々だっただろ」
『あれは、“恋が楽しかった”だけだ』
「理由が最悪すぎる」
 だが。神の目は、本気だった。
『三神連携は、“世界消去”に近い』
『ここで粘れば、ユイの座標も特定される』
 その一言で、全員の顔色が変わった。
「……撤退だ」
 クロノスが、判断する。
「生き残ることを、最優先にする」
 破壊神が、腕を振る。地平線が、消えた。
「うわっ!」
 封印神が、指を鳴らす。空間が、閉じ始める。
「クロノス!」
「分かってる!」
 クロノスが、時間を“短く”切り取る。刹那。
『今だ』
 観測外神が、世界の隙間を指し示す。
「そんな場所、あるのかよ!」
『今、作った』
「無茶苦茶だ!」
 因果神の攻撃が、背後に迫る。結果だけが、先に落ちてくる。
「っ――!」
 その瞬間。観測外神が、俺の腕を掴んだ。
『死ぬな』
 珍しく、命令形だった。次の瞬間――世界が、折れた。落下。いや、逃亡。気づけば、別の世界の夜空の下だった。星が、遠い。空気が、重い。
「……生きてる?」
 俺が言うと、クロノスは荒い息で頷いた。
「……ギリギリな」
 神は、空を見上げている。
『三神は、追っては来ない』
「理由は?」
『追う価値が、一時的に下がった』
「最悪の安心材料だな」
 クロノスが、拳を握る。
「……完全に、敵に回ったな」
『ああ』
 神が、静かに言う。
『もう、観測ではない』
『殲滅だ』
 俺は、息を吐いた。
「……じゃあさ」
 二人を見る。
「正面から殴れる日まで、逃げ回るしかないな」
 クロノスが、小さく笑った。
「珍しく、まともな判断だ」
 神も、微笑む。
『成長だ』
「うるせえ」
 夜風が、頬を撫でる。だが、背中は冷たい。神の会議は、終わった。次に始まるのは――追撃戦だ。世界が、本気で牙を剥いた。

第二十六話

 夜が明ける前の校舎裏は、静かすぎた。
「……で」
 俺はベンチに腰掛けて言った。
「今の戦力、どうなってる?」
 クロノスは指を折る。
「黒田曜。殴る。考える。通れる」
「雑すぎだろ」
「事実だ」
 次に、視線を横へ。
『観測外神』
「名前で呼べ」
『まだ決めていない』
「不便すぎ」
 神は、肩をすくめた。
『情報・移動・隙間の生成。戦闘能力は限定的』
「つまり?」
『サポート』
「クロノスと被ってね?」
 クロノスが、咳払いをする。
「俺は、もう前みたいには動けない」
「……」
 復活したとはいえ、時間操作は“短距離・短時間”限定。
「ユイは?」
 俺が聞くと、二人とも黙った。
「……まだだな」
 俺は立ち上がる。
「結論」
 拳を握る。
「人が足りない」
『当然だ』
 神が言う。
『神を相手にするには、個体数が必要だ』
「やめろ、その言い方」
 学校に、チャイムが鳴る。――日常が、戻ってくる音。
「……仲間、どう集める」
 クロノスが問う。
「簡単だろ」
 俺は教室の方を見る。
「変なやつを探す」
「基準が曖昧だ」
「神感とか、ズレてる感覚とか」
『合理的だ』
 神が頷く。
『世界に違和感を持つ者は、既に“外側”に片足を置いている』
「……具体的には?」
 俺は笑った。
「クラスに一人はいるだろ」
「変なやつ?」
「そう」
「……自分のことは棚に上げるんだな」
「俺はもう、殿堂入りだ」
 教室。席につくと、いつもの顔ぶれ。でも――
「……」
 視線が、いくつか引っかかる。窓際で、やけに空を見ている男子。保健室帰りが多い女子。授業中、ノートに同じ図形を描き続けるやつ。
「……なあ」
 俺は小声で言う。
「今まで、見えてなかっただけだな」
 クロノスが、頷く。
「観測される側は、同類に気づきやすくなる」
『恋と同じだ』
「黙れ」
 放課後。校門前。
「よし」
 俺は、深呼吸した。
「スカウト開始だ」
「どうやって?」
「話しかける」
「雑」
「凡人だからな」
 神が、少し楽しそうに言う。
『失敗しても、世界は壊れない』
「それ、一番信用できない」
 俺は、一人のクラスメイトに近づく。
「なあ」
「……なに?」
「最近さ」
 一瞬、間を置く。
「世界、変じゃない?」
 相手の目が、わずかに揺れた。――当たりだ。俺は、笑った。
「大丈夫」
 拳を軽く叩く。
「俺もだから」
 夜。屋上。三人で空を見上げる。
「……決めとくか」
 俺が言う。
「何を」
「目的」
 クロノスは、静かに言った。
「ユイを取り戻す」
『それだけではない』
 神が続ける。
『神に、“殴られてもいい理由”を増やす』
「いいな、それ」
 俺は頷く。
「仲間が増えれば、世界も殴りやすい」
「物騒だな」
「青春だろ」
 クロノスが、ため息混じりに笑った。
「……次に集まる仲間は」
 俺は、空を見た。
「男でも女でもいい」
 拳を、開いて閉じる。
「殴られる覚悟があるやつ」
 遠くで、白い世界が、微かに揺れた。ユイは、まだ覚醒しない。だからこそ――時間は、ある。凡人は、仲間を集め始めた。世界を相手にするために。

第二十七話

 昼休みの教室は、うるさい。机を寄せる音。笑い声。購買のパンを巡る小競り合い。――全部、いつも通り。
「……」
 俺は、その“いつも通り”を眺めながら、ふと思った。
「なあ」
 クロノスに、小声で聞く。
「ここにいる全員が、本当に“同じ世界”を見てると思うか?」
「……思わないな」
 即答だった。
『思っている方が、異常だ』
 観測外神が、窓際の影から答える。
「お前、普通に教室に溶け込むな」
『人間社会の観測は、得意分野だ』
「やめろ、その言い方」
 その時。後ろの席から、小さな声がした。
「……また、だ」
 振り向く。そこにいたのは、佐倉リョウ。クラスでは目立たない男子。成績は中の上。部活は幽霊部員。特徴は――いつも、イヤホンを片方だけ外していること。
「……何が?」
 俺が聞くと、リョウは一瞬、ビクッとした。
「え、あ、いや……」
 視線が、無意識に窓の外へ向く。空は、普通の青。でも。リョウの指先が、わずかに震えている。
「……最近さ」
 俺は、軽い調子で言った。
「音、変じゃない?」
 リョウの目が、はっきりと揺れた。
「……やっぱり?」
「やっぱり?」
 言った瞬間、互いに黙る。――当たりだ。屋上。風が強い。
「ここなら、聞こえないだろ」
 俺が言うと、リョウは頷いた。
「……あのさ」
 リョウが、遠慮がちに切り出す。
「黒田って、最近ちょっと……雰囲気変わったよな」
「よく言われる」
「前は、変なやつって感じだったけど」
「今も変だろ」
「今は……」
 言葉を探して。
「世界とズレてる感じ」
 クロノスが、小さく息を吸った。
『鋭い』
 リョウは、俺の顔を見て言った。
「俺さ」
 イヤホンを外す。
「音が聞こえるんだ」
「音?」
「“変な音”」
 空を指す。
「誰もいないのに、ノイズみたいなのが入る」
「……」
「で、気づいた」
 拳を握る。
「そのノイズが強い時、何か起きる」
 事故。急な体調不良。機械の誤作動。全部、“偶然”で片付けられるレベル。でも。
「……偶然じゃない、と思ってる?」
 俺が聞くと、リョウは、はっきり頷いた。
「うん」
 沈黙。風の音。クロノスが、俺にだけ聞こえる声で言う。
「能力じゃない」
「ああ」
「だが――」
「“気づいてる側”だ」
 観測外神も、静かに頷いた。
『世界のズレを、感覚として拾う個体』
『戦えなくても、価値は高い』
「お前の評価基準、たまに怖い」
「……なあ、リョウ」
 俺は、少しだけ真面目な声で言った。
「もしさ」
 一拍。
「世界が、本気でおかしくなったら」
 リョウを見る。
「逃げる?」
 リョウは、少し考えてから答えた。
「……逃げたい」
「正直だな」
「でも」
 視線を上げる。
「理由が分かるなら、知りたい」
 その言葉で、決まった。
「じゃあさ」
 俺は、笑った。
「完全に巻き込む気はない」
「……は?」
「ただ」
 拳を、軽く握る。
「おかしいって思ったら、俺に言え」
 リョウは、一瞬戸惑ってから、頷いた。
「……分かった」
 それだけで、十分だった。屋上を出た後。
「加入?」
 クロノスが聞く。
「仮だな」
『暫定同盟』
「便利な言葉だな」
 俺は、教室へ戻りながら言った。
「戦えなくてもいい」
 窓から見える空。
「世界が変だって言えるやつは、それだけで仲間だ」
 遠く。白い世界で、ユイが、ふと顔を上げた。
「……誰か、増えた」
 まだ覚醒じゃない。でも。世界の外側に立つ人間が、一人、増えた。それは小さな一歩で――確実な、前進だった。

第二十八話

 放課後の廊下は、昼よりも静かだ。足音が、やけに響く。
「……黒田」
 後ろから、声。振り向くと、保健室常連の女子が立っていた。名前は、三枝ミナ。クラスでは“体弱い人”で通ってる。
「どうした?」
「……さっき、階段で」
 言い淀む。
「誰もいないのに、押された気がして」
 クロノスが、俺の横で一瞬だけ目を細めた。
『ズレが、強い』
 観測外神も、壁際の影から小さく頷く。
「怪我は?」
「ない……でも」
 ミナは、手首を押さえる。
「次は、逃げられない気がする」
 直感だ。根拠はない。でも――こういうのは、当たる。校舎裏。風が止んだ。
「……来る」
 俺が言った瞬間、空気が薄くなる。見えない圧が、背中を押す。
「黒田……?」
「大丈夫」
 ミナを、半歩後ろへ。俺は前に出る。殴る相手はいない。でも、通さない場所は分かる。
「……ここだ」
 床を、軽く踏む。ズレ。見えない何かが、足を取られて“転んだ”。――それだけ。音も、光もない。圧が、消える。
「……今の」
 ミナが、息を呑む。
「何?」
「世界が、一瞬だけ戻った」
 いい表現だ。
「……黒田」
 ミナは、震えながら言った。
「私、普通じゃない?」
 俺は、即答した。
「普通だよ」
「……え?」
「普通の人はさ」
 空を見上げる。
「おかしいって思ったら、口に出す」
 ミナは、しばらく黙って――小さく笑った。
「……じゃあ、私、普通だ」
 帰り道。
「加入?」
 クロノスが聞く。
「仮」
 俺は言う。
「守る対象」
『それは、仲間の定義だ』
「やめろ、急に正論」
 ミナは、少し距離を空けて歩いている。でも、足取りはさっきより軽い。
「……黒田」
「ん?」
「また、変だったら……」
「言え」
 即答。
「俺が行く」
 それだけで、十分だった。夜。屋上。
「気づき系が二人」
 クロノスが整理する。
「戦えないが、“早期警戒”として有効だ」
『神の側から見れば、最も厄介な人種だ』
「理由は?」
『壊す前に、気づかれるから』
 俺は、拳を開く。
「……守るってさ」
 風に乗せて言う。
「殴るより、むずいな」
 クロノスが、静かに頷いた。
「だが」
『意味がある』
 遠く。白い世界で、ユイが、胸を押さえる。
「……誰か、守られた」
 まだ覚醒じゃない。でも。黒田曜は、“取り戻す側”から“守る側”へ、一歩進んだ。

第二十九話

 世界の外側。静寂の奥。六神の残席に、沈黙が落ちていた。
「……人間側の動きに、変化がある」
 声が、淡々と響く。
「戦力増強?」
「否」
「同盟?」
「否」
 映像が、浮かぶ。校舎裏。廊下。屋上。黒田曜が、誰かの“前に立つ”場面。
「……守っている」
 その言葉で、空気がわずかに歪んだ。
「殴るだけの個体が?」
「はい」
「非合理だ」
「だが――」
 別の神が、低く言う。
「危険だ」
 場面が切り替わる。佐倉リョウ。三枝ミナ。どちらも、能力はない。神にとっては、取るに足らない存在。
「排除対象には、該当しない」
「だが、観測値が不安定」
「黒田曜の周囲にいることで、ズレが固定され始めている」
 沈黙。それは、神にとって最悪の兆候だった。
「……なぜだ」
 問いが投げられる。
「守るからだ」
 即答。
「守られる人間は、世界の異常を“他人事”にしない」
「恐怖ではなく、関係として認識する」
「それは――」
 一拍。
「物語化だ」
 その単語に、全員が反応した。
「物語は、制御できない」
「観測できない」
「修正が遅れる」
「心操神が失敗した理由だ」
 場が、ざわつく。
「……黒田曜は、人間同士を“つなげている”」
「それは、神にとっての敵性行為だ」
「殴るより、はるかに」
 結論は、静かに下された。
「――孤立させろ」
「守る対象を、引き剥がす」
「直接排除は不要」
「“守れなかった”という結果を、与えればいい」
 冷たい合理。神の論理。同時刻。放課後の教室。
「……黒田」
 リョウが、小声で言う。
「最近さ」
「ん?」
「俺ら、ちょっと目立ってない?」
 ミナも、頷く。
「先生に呼ばれたり、急に周りが静かになったり……」
 俺は、窓の外を見る。空は、普通だ。でも。
「……来てるな」
「何が?」
「分断」
 クロノスが、低く言う。
「神は、直接は来ない」
『代わりに、環境を動かす』
 観測外神が続ける。
『孤立は、最も人間的な攻撃だ』
 俺は、舌打ちした。
「……殴れねえじゃん」
「だから、厄介なんだ」
 その夜。ユイのいる白い世界で、神の一柱が、静かに呟いた。
「……黒田曜」
「守る者は、必ず選択を迫られる」
「全員は、守れない」
 その言葉に、ユイの胸が、少しだけ痛んだ。覚醒じゃない。でも。黒田曜が、“何かを失う未来”が、はっきり見え始めている。屋上。夜風の中。
「なあ」
 俺は、二人に背を向けて言った。
「これから、俺の近くにいると」
 一拍。
「嫌な目に遭う」
 リョウは、少し考えてから言った。
「……それ、もう遭ってる」
 ミナも、小さく笑う。
「今さら、戻れないです」
 俺は、振り向かなかった。拳を、強く握る。神は気づいた。殴る凡人よりも――守る凡人の方が、ずっと危険だということに。そして次は、必ず“選択”を突きつけてくる。守るか。失うか。物語は、次の段階へ進む。

第三十話


 最初に異変が起きたのは、放課後だった。
「……来た」
 クロノスが、短く言う。校舎の空気が、三方向に引っ張られている。
『分断だ』
 観測外神が、低く告げる。
『三神が、それぞれ別の“守る対象”を狙っている』
 俺は、即座に理解した。
「……リョウと、ミナと」
 一拍。
「俺、か」
 クロノスが、歯を食いしばる。
「選ばせる気だ」
「悪趣味すぎ」
 俺は、拳を握った。
「じゃあさ」
 一歩、前に出る。
「全員、同時に守る」
「無茶だ!」
「凡人だぞ?」
 観測外神が、初めて真剣な声を出した。
『……可能性は、ゼロではない』
「それで十分だ」
 世界が、三つに割れた。校舎裏。保健室。屋上。同時に、三神が顕現する。破壊神。因果神。封印神。
『選択しろ』
 重なる声。
『守れるのは、一人だけだ』
「――しねえよ」
 俺は、地面を踏み鳴らした。ズレを、最大まで広げる。殴らない。走らない。繋ぐ。
「クロノス!」
「分かっている!」
 クロノスが、時間を“短く折る”。世界が、同時刻に重なった。三つの場所が、一つの瞬間に集約される。
『……何をした』
 封印神が、動揺する。
「神はさ」
 俺は、静かに言った。
「一人ずつ見る癖がある」
 踏み込む。
「でも俺は」
 拳を、空間に叩きつける。
「全部、同時に見る」
 最初に崩れたのは、因果神だった。原因と結果が、重なりすぎて破綻する。
『……計算が……』
「計算するからだよ」
 存在が、反転して消滅。――一神、撃破。次に、破壊神。破壊する対象が、定義できない。
「守ってるからな」
 拳が、“壊す前提”を殴る。
『……っ』
 世界ごと、崩れて消える。――二神、撃破。最後に、封印神。
『封印対象、未確定……』
「そりゃそうだ」
 俺は、笑った。
「誰も、切り捨ててない」
 拳を、静かに当てる。封印が、自分自身を閉じた。――三神、沈黙。世界が、元に戻る。校舎。夕焼け。いつもの風。
「……」
 俺は、膝をついた。
「……しんど」
 クロノスが、すぐに駆け寄る。
「生きてるか」
「ギリ」
 観測外神が、遠くから見ていた。
『……美しい』
「それ言うな」
『三神同時撃破は、前例がない』
「作った」
『凡人が』
 少しだけ、神が笑った。リョウとミナは、無事だった。
「……何か、あった?」
「何も」
 俺は言った。
「ちょっと、空気が変だっただけ」
 二人は、それ以上追及しなかった。でも。確かに、守られたことだけは、身体が覚えている。世界の外側。神たちが、ざわつく。
「…三神が、消えた」
「同時に?」
「ありえない」
 沈黙。そして。
「……もう、個別対応では無理だ」
「黒田曜は、“物語の中心”になった」
 神は、初めて“恐怖”を定義した。屋上。夕焼けの中。
「……なあ」
 俺は、空を見て言った。
「守るってさ」
 一拍。
「殴るより、ずっと疲れるな」
 クロノスが、静かに頷く。
「だが」
『最も、神に効く』
 観測外神が、そう締めくくった。三神は倒れた。だが、戦争は終わらない。――次は、神そのものが、形を変える。物語は、完全に次の段階に入った。

第三十一話

 空が、落ちてきた。比喩じゃない。本当に、重さを持って。
「……来た」
 クロノスが、低く言う。観測外神は、いつになく無言だった。そこに現れたのは――最高神。形は、ない。輪郭すら、定まらない。ただ、在るだけで、世界が正しくなっていく存在。
『……三神が、消えた』
 声は、感情を含まない。
『修正が必要だ』
 黒田曜。その名前を呼ばれて、俺は拳を握った。
「殴れるか?」
 自分に問いかける。――答えは、すぐ出た。無理だ。近づけない。思考が、圧縮される。これは、“戦い”じゃない。存在の差だ。
「……下がれ」
 クロノスが、言った。
「え?」
「下がれ、黒田」
 声が、いつもより冷たい。
「通用しない」
「分かってるけど――」
「だからだ」
 クロノスは、後ろにいる人間たちを一瞥した。リョウ。ミナ。他の、協力者たち。全員、動けていない。
『……不要なノイズが多い』
 最高神が、そう告げた瞬間。世界が、“静かに整えられ始めた”。
「……やめろ!」
 俺が叫ぶ。でも。クロノスが、動いた。
「クロノス……?」
 次の瞬間。時間が、切れた。叫びも、恐怖も、“起こる前”で止まる。クロノスは、一人ずつ、彼らに触れた。殴らない。壊さない。時間を、終わらせる。それだけ。音もない。悲鳴もない。ただ――存在が、静かに消えた。
「……クロノス」
 声が、震えた。
「お前……何して……」
「……すまない」
 クロノスは、俺を見なかった。
「だが」
 拳を、強く握る。
「最高神に触れられれば、魂ごと修正される」
「それなら……!」
「それなら?」
 初めて、クロノスが俺を見る。その目は、冷たく、深い。
「お前は、耐えられるか?」
 言葉が、詰まった。――耐えられない。
「……」
「だから」
 クロノスは、淡々と言った。
「俺がやった」
 その瞬間。俺は理解した。クロノスは、“守る”ためなら、切り捨てられる側の人間だ。時間を扱う者の、闇。
『合理的だ』
 最高神が、初めて評価を下す。
『だが――』
 視線が、俺に向いた。
『お前は、まだ残す』
 心臓が、跳ねた。
「……理由は?」
『誤差だ』
『だが、無視できない』
 その瞬間。白い世界の奥で、ユイが強く胸を押さえた。
「……やめて」
 小さな声。最高神の視線が、一瞬だけ揺れた。
『……ほう』
「……今の」
 俺は、歯を食いしばる。
「ユイ……?」
 覚醒じゃない。でも。最高神が、初めて“反応した”。
「……黒田」
 クロノスが、低く言う。
「今は、逃げる」
「……」
「俺のやったことは、後で殴っていい」
 初めて、自嘲気味に笑った。
「だが今は、生きろ」
 観測外神が、世界の隙間を開く。
『急げ』
 最高神は、追わなかった。
『……次は、修正する』
 それだけ告げて、世界から消えた。逃亡の途中。
俺は、何も言えなかった。クロノスも、何も言わなかった。ただ。胸の奥に、重たいものが残った。守れなかった仲間。切り捨てた時間。そして――通用しなかった現実。最高神は現れた。殴れなかった。だが。ユイは、反応した。それだけが、唯一の希望だった。物語は、取り返しのつかない領域へ進む。次はもう、覚悟の話になる。

第三十二話

 最高神は、まだそこにいた。逃げたはずなのに。距離を取ったはずなのに。在るだけで、世界が追いついてくる。
『……逃亡は終了だ』
 声に、感情はない。クロノスが、一歩前に出た。
「黒田」
「分かってる」
 拳を握る。通用しない。それは、もう分かっている。それでも――立たなきゃいけない理由が、そこにいる。白い世界の裂け目。その向こうに、ユイがいる。
「……行くぞ」
 クロノスが、時間を展開する。“止める”んじゃない。“削る”。最高神の行動を、ほんの一瞬だけ遅らせる。
「今だ!」
 俺は、殴った。拳は、当たらなかった。いや――当たったのに、意味がなかった。世界が、正解に戻る。
『無意味だ』
 次の瞬間。圧が、落ちた。殴られたわけじゃない。押し潰された。
「――っ!」
 肺が、空気を忘れる。骨が、悲鳴を上げる。
「黒田!」
 クロノスが、俺を引き戻す。だが――
『時間操作、過剰』
 最高神が、指を動かす。クロノスの時間が、壊れた。
「……っ、ぐ……!」
 膝をつくクロノス。口元から、血。俺も、立てない。瀕死。それが、正確な言葉だった。
『……これで、終わりだ』
 最高神が、歩み寄る。修正。削除。その前に――
「……やめて」
 声が、した。震えている。でも、確かに届いた声。
「……それ以上、壊さないで」
 ユイだった。白い世界の向こう。目は、泣いている。でも、逃げていない。
『……感応値、上昇』
 最高神が、初めて分析を口にする。俺は、必死に声を絞った。
「ユイ……来るな……!」
「来ないよ」
 ユイは、首を振った。
「……でも」
 一歩、前に出る。
「このままじゃ、二人とも死ぬ」
 その瞬間。ユイの足元から、光が、滲んだ。派手じゃない。爆発もしない。ただ――温度が戻る。
「……え?」
 最初に感じたのは、痛みが引く感覚。次に、呼吸ができる。折れていたはずの感覚が、“なかったこと”にされていく。
「……ユイ……?」
 ユイは、驚いた顔で自分の手を見ていた。
「……触ってないのに」
 クロノスの時間が、元に戻り始める。
「……これは……」
 クロノスが、目を見開く。
「修復じゃない」
「え?」
「状態を、“最適だった過去”に戻している」
 最高神が、初めて後ずさった。
『……原初系……』
『回復ではない』
『否定だ』
 ユイは、涙をこぼしながら叫んだ。
「やめて……!」
「これ以上、奪わないで!」
「この人たちは……!」
 一拍。
「私の、大事な人たちなの!」
 その瞬間。光が、世界を満たした。気づけば。最高神は、少し距離を取っていた。
『……覚醒』
 淡々と、だが確実に。
『観測対象・宮坂ユイ』
『優先度、変更』
『……危険』
 それだけ告げて、最高神は、姿を消した。静寂。俺は、仰向けに倒れたまま、天井を見る。
「……生きてる」
 クロノスも、荒い息で笑った。
「……助かったな」
 ユイが、駆け寄ってくる。
「……ごめん」
「なんで?」
「今まで……何もできなくて……」
 俺は、ゆっくり起き上がる。そして――ユイの頭に、軽く手を置いた。
「ありがとう」
「……え」
「生き返った」
 それだけで、十分だった。ユイの能力は、回復じゃない。“そうならなかった可能性”を、現実に引き戻す力。神にとって、最悪の能力。だからこそ。ここで、目覚めた。物語は、もう後戻りしない。最高神は、退いた。だが――次は、本気で消しに来る。それでも。今度は、守る力が、ここにある。

第三十三話

 最高神は、崩れていた。殴ったわけじゃない。切り裂いたわけでもない。ユイの力が、「そうでなかった可能性」を現実に引き戻し、クロノスの時間操作が、「逃げられない瞬間」を固定し、俺の拳が、“世界は一つじゃない”という事実を叩き込んだ。結果。最高神は、初めて“敗北状態”に陥っていた。
『……理解、不能……』
 声が、揺れる。
『人間に、この結末は……』
 俺は、息を吐きながら前に出た。拳を、握る。
「……終わりだな」
 最高神を、殴れる距離。今なら、確実に――とどめが刺せる。ユイが、息を呑む。
「黒田さん……」
 俺は、笑った。
「大丈夫だ」
「もう、終わらせる」
 拳を振り上げた――その瞬間。
「――やめろ!!」
 クロノスの声だった。俺の腕を、時間ごと掴み取る。
「なにして……!」
「刺すな、黒田!!」
 必死だった。今までで、一番。
「なんでだよ!!」
 叫ぶ。
「こいつを殺せば……!」
「それがダメなんだ!!」
 クロノスの声が、震える。そして――真実を、吐いた。
「最高神を殺した者は、次の最高神になる」
 空気が、凍った。
「……は?」
 俺の言葉に、クロノスは目を伏せた。
「神の座は、循環している」
「世界を管理するための、最上位プロセスだ」
「だから」
 一歩、前に出る。
「お前に刺させるわけにはいかなかった」
 理解が、追いつかない。
「……じゃあ今まで」
「利用した」
 即答だった。ユイが、息を止める。
「黒田の“殴る力”」
「ユイの“否定する力”」
「どちらも、神を殺せる位置まで最高神を引きずり下ろすために必要だった」
 俺は、笑った。……乾いた笑いだ。
「最初から?」
「最初からだ」
「神の観測者を倒させたのも」
「七神を削ったのも」
「全部?」
「全部だ」
 クロノスは、俺を見た。その目に、迷いはない。
「俺は」
 静かに言う。
「神になる」
「……ふざけんな」
 拳が、震える。
「じゃあ仲間は」
「切り捨てた」
「ユイは?」
 一瞬だけ、クロノスの視線が揺れた。
「……想定外だった」
「だが、必要だった」
 ユイが、前に出る。
「クロノス……!」
「すまない」
 クロノスは、最高神へ向き直った。
「だが」
「世界を壊すよりは、俺が管理した方がマシだ」
『……理解した……』
 最高神が、かすれた声で言う。
『……次は……お前か……』
 クロノスは、頷いた。
「そうだ」
 そして。時間を、完全に止めた。音が、消える。光が、止まる。世界が、“次の瞬間”へ進めなくなる。クロノスは、静かに手を伸ばし――最高神を、殺した。爆発はない。断末魔もない。ただ。役職が、空いた。次の瞬間。クロノスの身体に、世界そのものが重なった。時間が、彼を中心に回り始める。
『……最高神、交代完了……』
 声が、世界中に響いた。俺は、動けなかった。ユイが、俺の袖を掴む。
「……黒田さん」
「……分かってる」
 声が、低くなる。
「最悪の結末だ」
 クロノス――新たな最高神が、振り返る。その顔は、昔と変わらない。だけど。
「黒田」
 静かに言う。
「お前は、神にならなくていい」
「凡人のままでいろ」
 拳を、俺に向けない。
「それが」
「俺にとって、一番都合がいい」
 そう言って。クロノスは、世界の上位層へ消えた。沈黙。俺は、拳を見下ろす。神は、倒した。でも――勝った気は、しなかった。ユイが、小さく言う。
「……それでも」
「私たちは、生きてる」
 俺は、頷いた。
「……ああ」
 そして、静かに決めた。神を殺した凡人は、今度は神になった友を、殴りに行く。物語は、終わらない。むしろ――ここからが、本当の最終章だ。

第三十四話

 クロノスは、世界の上位層に立ったまま、こちらを見下ろしていた。さっきまでと同じ顔。同じ声。同じ――人間だった頃のまま。
「……」
 俺は、何も言えなかった。ユイが、俺の袖を強く掴む。クロノスが、ふっと笑った。本当に、何でもないことみたいに。
「――うそだよ」
 一瞬、意味が理解できなかった。
「……は?」
 次の言葉は、もっと軽かった。
「全員を服従させてやる」
 空気が、落ちた。
「もちろん――」
 クロノスは、まっすぐ俺を見る。
「おまえもな、黒田」
 その瞬間。世界が、止まった。比喩じゃない。時間でもない。意志が、凍った。ユイの手が、俺の袖から滑り落ちる。
「……え……?」
 声が、遅れて震えた。
「クロノス……?」
 クロノスは、少しだけ首を傾げる。
「勘違いするな」
「利用したのは、事実だ」
「だが」
 一歩、こちらに近づく。距離は縮んでいない。概念だけが、近づいてくる。
「俺は、“管理”じゃ満足しない」
「神も、人間も、世界も」
 指を鳴らす。膝が、勝手に落ちた。
「……っ!」
 俺の体が、言うことを聞かない。殴れない。立てない。意思が、命令に負けている。
「黒田!」
 ユイが叫ぶ。だが、声が途中で詰まる。言葉が、奪われた。クロノスは、静かに告げた。
「安心しろ」
「殺さない」
「壊さない」
 優しい声で。
「従わせるだけだ」
 世界が、それを“正解”として受け入れ始める。空が、頷く。大地が、肯定する。時間が、従う。俺は、歯を食いしばった。
「……ふざけんな……」
 声は、かすれる。それでも。
「……お前が……最高神なら……」
 視界が、滲む。
「……俺は……最低でも、殴りに行く……」
 クロノスは、少しだけ驚いた顔をした。そして――心底、楽しそうに笑った。
「いいね」
「その顔だ」
 指を、俺に向ける。
「じゃあ」
 世界が、命令を待つ。
「抵抗を許可しよう」
「ただし」
 一拍。
「勝てるとは、言ってない」
 クロノスの背後で、世界が完全に“彼のもの”になる。ユイが、必死に俺を見る。声は出ない。でも、目が叫んでいる。――まだ、終わってない。俺は、拳を握った。震えている。恐怖もある。でも。従う気は、なかった。凡人は、神になった友に、服従しない。この世界が相手でも。

第三十五話

 世界が、クロノスのものになっていた。空は命令を待ち、時間は彼の呼吸に合わせて脈打つ。
「さあ」
 クロノスが、穏やかに言う。
「抵抗してみろ」
「……言われなくても」
 俺は、拳を握った。足が、震えている。恐怖だ。でも。支配される感覚よりは、マシだった。
「ユイ」
 横を見る。ユイは、まだ立っている。顔は青い。でも、目は――折れてない。
「……黒田さん」
 小さな声。
「私、分かった」
「何を?」
「クロノスの力」
 ユイは、クロノスを見据えた。
「あの人、否定されることに慣れてない」
 クロノスが、眉をわずかに動かす。
「……面白い分析だ」
「だって」
 ユイは、一歩前に出た。
「今まで全部、“正しかった”でしょ」
「神に反抗しても、最後はあなたの思惑通り」
「だから――」
 胸に手を当てる。
「否定されたことがない」
 クロノスが、指を鳴らす。時間が潰れる。俺の視界が、跳ぶ。
「――っ!」
 気づけば、地面に叩きつけられていた。
「黒田さん!」
 ユイが叫ぶ。でも、クロノスは動かない。
「無駄だ」
「俺にとって、お前たちは過去だ」
 俺は、立ち上がる。膝が、笑ってる。
「……それがさ」
 口の端を上げる。
「一番ムカつく」
 クロノスの“止め”が来る。でも――止まらない。
「な……?」
 クロノスが、目を細めた。
「……なぜ、動ける?」
 俺は、笑った。
「簡単だ」
「お前は、“未来を支配する神”だ」
 一歩、踏み出す。
「でも俺は――」
 拳を、構える。
「今しか見てない凡人だ」
「ユイ、今だ!」
 ユイが、頷く。彼女の能力が、静かに広がる。光はない。音もない。ただ――“そうじゃなかった可能性”が、世界に重なる。クロノスが、息を呑んだ。
「……まさか」
「あなたが」
 ユイは、震える声で言う。
「神にならなかった可能性」
 時間が、揺らぐ。クロノスの背後に、一瞬だけ別の姿が見えた。笑っていた頃のクロノス。迷っていた頃のクロノス。誰かと肩を並べていたクロノス。
「……やめろ」
 初めて、クロノスの声が荒れた。
「それは……必要なかった世界だ」
「違う!」
 ユイが叫ぶ。
「選ばなかっただけ!」
 その隙を、俺は逃さない。シミュレーションは、何万回もやってきた。神を殴る想像も。親友を殴る想像も。
「クロノス!」
 最後の一歩。
「お前は――」
 拳を、振り抜く。
「神になったんじゃない!逃げただけだ!!」
 拳は、時間を超えない。神も、殺せない。でも――クロノス自身には、届いた。衝撃。時間が、砕ける。世界が、止まった。次に動いたのは、クロノスだった。膝をついている。
「……はは」
 乾いた笑い。
「……まさか」
 顔を上げる。
「凡人に、殴られるとはな」
 ユイが、そっと言う。
「……クロノス」
「……大丈夫だ」
 彼は、目を閉じた。
「最高神の座は、俺には重すぎた」
 世界が、彼を手放し始める。
「黒田」
 最後に、俺を見る。
「最後は、思い通りにならなかった」
 小さく笑う。
「……それが、救いだったのかもな」
 光が、消える。クロノスは、神でも人でもない存在として、世界の外へと溶けていった。静寂。風。空は、ただの空だ。
「……終わった?」
 俺が言うと、ユイは首を振った。
「分からない」
「でも」
 俺を見る。
「従わなかった」
 俺は、息を吐いた。
「それで十分だ」
 拳を、開く。凡人は、神にも、親友にも、服従しなかった。それだけで――この世界は、まだ“自由”だった。

最終回

 世界は、静かだった。戦いの音も、神の声も、時間の軋みもない。ただ、“次の管理者が必要だ”という事実だけが残っていた。クロノスはいない。最高神の座は、空白。神の世界は、それを“エラー”として扱えなかった。なぜなら――修正できる存在が、もういないからだ。
「……なあ」
 俺は、空を見上げて言った。
「これ、誰がやるんだ?」
 答えは、最初から分かっていた。
『……黒田曜』
 世界そのものが、名を呼ぶ。
『観測不能』
『否定不能』
『物語生成者』
「……やめろ」
 頭を掻く。
「俺、ただの中二病だぞ」
 ユイが、隣で小さく笑った。
「知ってる」
「毎日、見えない敵と戦ってただけだ」
「知ってる」
「拳振り回して、妄想して、勝手にシミュレーションしてただけだ」
「全部、見てた」
 ユイは、俺の手を握った。
「でも」
 まっすぐ、言う。
「それを、最後までやめなかった」
 世界が、応答する。
『凡人であること』
『否定を受け入れないこと』
『従わないこと』
『それらは、最も安定した統治条件である』
「……皮肉すぎだろ」
 笑うしかなかった。
「中二病が、世界に向いてるってか?」
『物語を信じる者だけが、世界を更新できる』
 次の瞬間。世界が、俺を持ち上げた。王冠はない。玉座もない。ただ、世界の全てが“今”として接続される感覚。時間が、流れない。でも、止まってもいない。
「……なあ、ユイ」
 俺は、震える声で言った。
「俺、神になっちまったらさ」
「うん」
「多分、まともじゃなくなる」
 ユイは、首を振った。
「ならないよ」
「なんで?」
 彼女は、少し考えてから答えた。
「だって」
 手を、強く握る。
「私が、隣にいるから」
 ユイの力が、静かに広がる。回復でも、否定でもない。“この物語を、ここに固定する力”。
『宮坂ユイ』
『最高神の伴侶として、承認』
「……え?」
 ユイが、目を見開く。
「ちょ、ちょっと待って」
「聞いてない」
 俺も慌てる。
「いや、俺も聞いてない!」
 世界は、淡々としている。
『最高神には、“否定できる存在”が必要』
『支配ではなく、物語を終わらせるため』
 ユイは、俺を見る。
「……どうする?」
 俺は、一瞬だけ考えて――笑った。
「中二病の妄想だと思えば、だいたい許せる」
「それ、人生の指針にしていいの?」
「今さらだろ」
 俺は、彼女の手を取った。
「一緒に来るか?」
 ユイは、少しだけ涙ぐんで――頷いた。
「うん」
 こうして。かつて、見えない敵と戦っていた男は、最高神になった。隣には、世界を否定できる少女がいる。支配はしない。服従も求めない。ただ。世界が行き詰まった時、殴って壊せる神として、そこにいる。それが、黒田曜という最高神だ。――元・中二病。――現・世界の管理者。そして。物語は、ここで終わる。……かもしれない。だって。次に世界が壊れる時も、きっと彼はこう言う。「よし」「俺の邪気眼が、疼いてきやがった」

後日談

 春。校庭の桜が、例年通り咲いた。
「……今年、早くない?」
 誰かが言う。
「気のせいだろ」
 別の誰かが笑う。世界は、何事もなかったかのように回っていた。放課後の教室。黒田曜の席は、今日も空いている。
「黒田ってさ」
 女子がひそひそ話す。
「中二病だったよね」
「いや、まだだろ」
「でも最近、急に落ち着いた気しない?」
「逆に怖い」
 そんな噂だけが、残った。本人はもう、ここにはいない。世界の外側。時間も距離も意味を持たない場所で、黒田曜は、あぐらをかいていた。
「……なあ、ユイ」
「なに?」
 ユイは、隣で紅茶を飲んでいる。神の世界なのに、なぜかカップは陶器だ。
「神ってさ」
 一拍。
「意外と暇じゃない?」
「うん」
 即答。
「想像以上に」
「だよな」
 黒田は、頭を掻いた。
「もっとこう、雷とか落とす仕事かと思ってた」
「やらなくていいって、言われたでしょ」
「言われたけど」
 黒田は、遠くの世界を見る。戦争もない。修正も起きていない。少なくとも、今は。
「……平和すぎて、逆に落ち着かねえ」
 ユイは、少し笑った。
「それ」
「人間の頃から言ってた」
「マジ?」
「うん」
 カップを置いて、彼を見る。
「見えない敵と戦ってた頃から」
 黒田は、苦笑した。
「……あの頃の俺に言ったら、信じないだろうな」
「最高神になるって?」
「それもだけど」
 拳を、軽く握る。
「隣に誰かいるってこと」
 ユイは、そっと彼の肩に寄りかかった。
「中二病だった男が、世界の管理者になったんだよ?」
「やめろ、黒歴史を神話にすんな」
「もう神話だよ」
 二人は、しばらく黙った。人間世界。夜。屋上に、一人の少年が立っている。目を閉じて、拳を握りしめる。
「……見えない敵、いるよな」
 誰にも聞こえない声。その瞬間。世界のどこかで、黒田曜がくしゃみをした。
「……お?」
「今、呼ばれた気がする」
 ユイが笑う。
「仕事?」
「多分」
 黒田は、立ち上がる。拳を鳴らす。
「よし」
「邪気眼が疼いてきやがった」
「やめて」
 二人は並んで、世界を見下ろした。守るためでも、支配するためでもない。物語が続く限り、そこにいるために。桜は、今日も咲いている。誰も知らないまま。世界は、ちゃんと生きている。

中二病だと思っていたら本物だった件について

2025年12月26日 発行 初版

著  者:眠眠
発  行:MINSAN出版

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