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駒沢の生活史[32話]

駒沢こもれびプロジェクト




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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。

駒沢の生活史


第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
    みたいな話があったみたい

第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)

第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
    人生のあと残った時間を費やすっていうのが

第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
    駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)

第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
    そのとき初めて、ものすごい実感した

第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
    みたいな(笑)

第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから

第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)

第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
    そこをちゃんと見極めてたのは偉いと

第10話 どうなんですかね?
     結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです

第11話 まかない食い放題!
     生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの

第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
     じゃあ、○円くださいって言って(笑)

第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
     親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか

第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
     ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない

第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね

第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
     それが「あなたが社長ですから、
     これ、サインしてください」って、突然

第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど

第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね

第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね


第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
     お客さんって、すごいなとずっと思ってた

第21話 朝来た瞬間から、
     自分でやりたいことを自己決定していくっていう

第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの

第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)

第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
     「なんかあんまり」って思ってたけど


第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
     あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ

第26話 仕事してるとき、
     自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)

第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな

第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから

第29話 塾すら近所だからさ、
     全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの


第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
     私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです

第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
     「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか

第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
     プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう

第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
     けど、それ以来ずっとこの界隈で

第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
     駒沢でオープン

第35話 山梨の人は東京に出ると
     中央線沿線に住む人が多いんですけど、
     高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて

第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
     頼れるのは家族みたいなのはあったのかも

第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた

第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
     大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ

第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって

第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
     落ちたけど、コーヒーは飲みます

第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
     声かけられて、そういうのなんか憧れるよね

第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは

第43話 …どっからか来てるのかな。
     常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね

第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
     後ろから人生を逆算してるから

第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
     いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)

第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
     そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです

第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
     あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど

第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
     おっしゃって。「どうしよう」って(笑)

第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)

第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
     ことが尊いともあんまり思ってないんですけど

第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね

第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
     本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
     過ごしています

第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)


















仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう

話し手 40代女性
聞き手  平塚圭子


 小学校は近所の小学校に普通に通って、でー、2年生からソフトボールをやってて。あの、なんですか、地域のクラブチームみたいので、ソフトボールもあって、なんか子どもの頃から習い事がすごい好きだったんです。
 ソフトボールもやってたし、スイミングもやってたし、公文とかー。

 ま、3年生ぐらいから塾にも通ってー、ピアノもやってー、小学生なのにー、週5、6も忙しくしてるって感じで(笑)。
 そういう意味では、なんか時間の使い方が、もう小学2年生ぐらいからいまも一緒、っていう感じなんですけど。ふふふ。
 なんか、時間貧乏なんですよねぇ、子どもの頃から。

 ——時間貧乏?

 なんか、空いてるともったいない気がしちゃう。なんか、できる気がしちゃうっていうんですかね、埋めたくなっちゃうんですよ、スケジュールを。
 んでー、そんな感じのことをやっていてー、ソフトボールは、実は中学1年生まで続けていてー。小学校6年生のときは、キャプテンとかもやっていて(笑)。
 で、なんとなくそのまま中学に入って、中学は受験したので、私立にいったんですけれども。で、えーとっ、そそ、ソフトボール部に入部してぇー、でー、まっ、結局、1年目で辞めるんですけれども。

 なんかですねぇ、小学校時代から、すごく、なんか繊細な子どもだったんですよね。誰かにいじめられたわけとかでもなくって、小学生の女の子って、すごくなんて言うんですか、こう、ダイレクトになんかを言ったりとか。
 3人いたら2人が仲良くなって、一人で、よくあるじゃないですか。

 そういうのが自分がされてなくても、見るのもなんかすごいショックを受けるタイプで、自分がそうなるのも嫌だったですし。で、小学校時代がすごいなんか生きづらかったんですよ。
 中学に入って、そういう感じがなくなって、すごい友達もみんな仲良くて、楽しくやってたんですけれど。

 初めて、ま、いじめってものを経験するんですよ、1年生のときに。
 それが、友達じゃなくて、ソフトボールなんですけれども。
 もう、その時点で、えと、ソフトボール歴6年目なんですよね。

 ——長いですよね。

 なので、正直すごい上手かったんです(笑)。同じ年齢の子とかからすると。1つ2つ上の先輩とかよりもぜんぜん、もう歴も長くて、できたんです。なので、あのー、監督とかコーチにも、ま、結構気に入られててですね、本当はやらなきゃいけないルールとかも、私だけ特別になんかやらなくていいよって、言われちゃったりとか。
 で、1個上の先輩たちが面白くないっていうことで。

 それで、初めて、いじめられるっていうのを経験して、なんか、キャッチボールとかしても、私だけわざと変な方に投げられて、取りにいつも拾いに行くとか。
 あからさまに、わたしだけ、呼ばれて、1個上の先輩が、みんななんか集まって言われるとか。
 そういうのがあって、ま、ちょっと嫌なってたんですよね。
 で、そんな折に、ただ、なんかすごく、それでも頑張んなきゃみたいに思うタイプだったので、練習はいっぱいやっていて、夏の合宿で軽井沢に行くっていうのがあったんです。
 で、合宿先の軽井沢で練習していて、練習しすぎの骨折をするんですよ(笑)。

 疲労骨折っていうのがあるんですけど、右、右上腕をポキっと折れて、あのレフトからキャッチャーに遠投とした瞬間に、腕がなんか逆向きにプヨってなって。
 でも、なにが起こったのかもわからなくて、なんかおかしいけど、でも戻らなきゃって言って、私なんかまたあの配置に着こうとしたんですけど。
 でも、なんかさすがにコーチがなんかおかしいから戻ってこいって言われて。そしたらだんだんすごい痛くなってきて、折れてたっていう。

世の中のためになる公共性のある仕事がしたいなーって

 ——(息を呑む)

 ……そうなんですよ。山の中だったので、病院に行くにも救急車が来るにもすごい時間かかるし、救急車も山道ガタンゴトンしながら。
 それで、もうやっと病院行ってそのときは親が車で迎えに来てくれて、そのまま東京に帰るんですけれど。それがきっかけでいじめられたっていうのもあって、もうすっかり行きたくなくなってしまって。

 なんか、それもなかなか親に言い出すこともできなかったんですよね。
 なんで嫌なのかも親もわからないけど、私がとにかく学校にも行きたくないって言って、嫌がっていて、なんか時間が経って、話せて、で、親から顧問の先生に言ってもらって。
 でも、それからしばらくは、学校でもやっぱり先輩とかに、廊下で出くわしちゃったりすると、ほんとに嫌でしたけど。
 で、またそこで、なんか変な頑張り屋を発揮してしまって。それで、ソフトボールをやめたのに、やっぱまたなんかやらないとなって、いうふうになって、また腕を結局使う、剣道を始めるっていう。

 ——ストイック(笑)。

 そうなんですよ、そうなんですよ。
 それで、今度、剣道部に入部して、高校3年生までずっとやってました。
 それすごい楽しかったですねー。中高エスカレーターだったので、もうずっと同じ仲間たちとやってたっていうか。

 でも、そのときの剣道部の同級生の友達は、もうほんと、6年間ずっと仲良くて。
 大学受験の予備校も、もうみんなずっと同じとこに行ってましたし、それこそ遊んだりっていうのもすごいいつも一緒に週3〜4遊んでいて、部活やって遊んで、予備校に行ってるか、いつもみんな一緒に遊んでいて。

 なんかそうですね、高校生のときは私立の東京の女子校、中高一貫の女子校とか男子校って。すごい。なんかその、合コンとかが昔からあったんですよ。お互いで。
 もう、そういうのがすごい楽しくて、高校時代はもうとにかく部活やって遊んで、合コンして勉強してみたい、そんな感じでしたね。

 大学もまたそれは、高校のとき仲良かった子たちは、ぜんぜん違う大学にみんな行ったので、一人も知ってる子はいなかったですけれども、またそれは、すごい楽しい大学時代を過ごし、ほとんど勉強してなかった。
 もうほんと、飲み会と合コンとか、そういうのばっかりで。あと、旅行したりとか。
 でも、そのときの友達がもういまでもずっとなんか親友って、続いているっていう感じですね。

 ………それで、社会人になって、またそれはそれで、なんかすごい同期とかも楽しくって。
 500人同期がいるんです。

 ——500人同期っ!

 最初の3ヶ月はずっと研修なんですね。そこに3ヶ月間合宿状態で。みんな同期だけでいて、その間に毎日みんなで飲み行ったりとかしていて、もう、楽しく過ごしていて(笑)。その後も一緒にみんなでスノボーに行ったりとか、旅行に行ったりとかして。まま、いつも週末には遊んでいて。

 仕事は、ただ、エンジニアにはむいてなかったんですよね。
 元々理系でもないですし。コーディングとかもよくわかんないので、なんでわたし、その職業を選んだかなって、いまでも思いますけど。一応システムエンジニアをやっていて。
 ただエンジニアがやりたかったんじゃなくって、なんかこう、世の中のためになる公共性のある仕事がしたいなーって思って。やるんだったらインパクトが大きい方がいいし。
 じゃあ、その業界のいちばん大きいところ行こうっていう風に思って選んだんですけど。
 ただ、なんかありがちですけど、あまりに大きすぎて。なので、もちろん社会的な意義はあるんですけれど。もうほんとに歯車中の歯車なんですよ。

ゴールまでの道のりが見えちゃった感じが。そういうのが結構苦手なんですよ

 ──おっきすぎる。

 おっきすぎるので、っていうのもあるし、エンジニア向いてないというか、楽しくないので、ただ、なんか、人と、すごくおっきな仕組みなので、すごいたくさんの人と調整をして物事を進めるっていうのは、やっぱり楽しかった。うん、ただ、エンジニア無理だなっていうふうに思っていて、で、それで、ただ、なんか、成績っていうのかな、評価は、すごいずっと、いつもよくて、仕事のですね、で、そしたら、何年目だったっけな、5年目くらいに、えーと、当時、なんかSIの業界で、制度をつくろうみたいなのが、ちょうどあって。

 国内だけで製造、開発するとコストが高くなっちゃうので、開発の一部をインドとか中国とかに採択するんですけど。

 そのときに、言語とか文化の違いとか、開発プロセスの進め方が違うので、はい、そこの橋渡しになる人を。それを、この人材を育成しよう、つくろうっていうのが、当時、時代の波的にあって。
 で、初めてインドのグループ会社に、何年次以下の若手から、なんか一旦50人送るみたいなのに全社で選ばれてインドに行ったんです。

 もう、インドもまたすごい楽しくてですね。
 もうなんか毎週末もインドのいろんなとこに旅行に行って、いろんなもの食べたりとかして、もうだいたいその仕事の目を盗んでは遊んで楽しんでる感じなんですけど(笑)。
 もうほんと楽しくって、で、それで、帰ってから、なんとなく、こう、全体の与えられた業務をやるじゃなくって、ちょっと、こう、新しいチャレンジをすることに楽しいなって、思うようになって。
 で、またちょっと違うことがやりたいなって思ってたら、今度、なんか中国の仕事をさせてもらえることになって、えっと、なんか新規事業ですね、やるっていう風になりそれを、中国市場に参入しようと。

 中国でやるには、その国内の企業と一緒にやる必要があって、なのでそのやりたい新規事業を一緒にやる会社を、と、合弁会社をつくるっていうのがミッションで行って、で、中国って本当、とにかく白酒(バイジュウ)とかを、宴席でいっぱい、とにかく飲んで宴席がもうビジネスみたいな感じなんですよね。

 たぶんそれもあって、私が選ばれたんだと思うんですけど(笑)。
 それで、もう毎日、白酒を飲んで、言語も英語もあまり通じないんですよね、やっぱり。
 なので、片言の中国語を覚えたりしていて、なんとか一緒に合弁会社をつくって事業の共同開発をスタートして、じゃあ、もう私は帰る、ってなって。

 で、転職をしたんですよ。なんかそのときに、そういう物事をつくるとか、ちょっと一つ上のレイヤーのことが楽しくなって。
 経営とかに興味を持つんですけど、ただ、あの会社、すごくおっきいので経営企画部とか、そういうのにいくには、すごい細かい決まり、人事上の、人事制度上の決まりがあるんですよ。で、私は到底すぐに行けなかったので、だったら外で経験した方が早いなと思って、何年後にこういう職員になってとか、なんか、すごくゴールまでの道のりが見えちゃった感じが。そういうのが結構苦手なんですよ。

 ——先が見える。

 見えすぎちゃう。なので、チャレンジしたくなって。
 で、いまの会社のコンサルの方に行ったんですよね。

 ただ、行ったら行ったで、はい、本当に忙しくて、うん、忙しいし、ちょっとやな感じの女性の先輩が。で、当たっちゃってですね。
 なんかすごい机バンバン叩かれながらも、なんかキーキー怒られて。さすがに私もちょっと初めて病みかけてですね。

 当時、オンラインとかなかったので、毎日会社行ってたので、毎朝、電車で会社に行くたびに、電車の中でも自然と涙が出てくるみたいな感じになり。
 で、先にその人辞めたんですけど、そしたら、いまの仕事にも繋がるような業務を、たまたまそこで引っ張ってくれた人がいて。

 その人としばらく一緒に仕事してて、4人ぐらいのチームでやってたんですけれど、そしたら、同じ仕事で、別のコンサルファームでやらないかって引き抜きがあって、チームごとそっちに移籍した。

 そっちはなんか同じコンサルファームなんですけど、仕事内容は自分たちがいままでやってた内容をやってるんですけど。割と自由な社風で、楽しくとかやっていて、ずっと同じメンバーで。で、チームもちょっとだけ大きくなって。

 で、そしたら今度、コンサルファームのその看板、名前がなくても、自分たちでクライアントをこの領域であれば一定取れるかなっていう、ちょっと自信がついてきて、それで起業するんですよね。チームごと、また。

一人の親として、そんなことを仕事としてやってられないなっていう限界が自分の中できて

 ——こう、ぽんぽん。

 なんか、そうなんです。
 で、……チームごと起業して、ただ、またその起業した1年目に色々問題が起きて、やっぱ起業して仕事はただ、取れてたんですよ。

 ただ、やっぱ起業するってことは、大きい会社だったら発生するはずの間接費用とかがあまりかからないので、そうすると自分たちの報酬に還元できる分が多くなるじゃないですか。なので、ちょっと一緒に始めて社長っていう形になった人は、ま、ちょっと人が変わったというか、元からそういう人だったのかもわかんないですけど、
 もうなんかすごい……お金の亡者んなったというか、そんな感じになっちゃったんですよね。

 本来の姿が現れたのかもしれないですけど。
 それで、みんなはそんなにお給料変えなかったんですけど、その人だけもうどんどん何千万ってすごい上げて、自分だけ。

 おかしい状況になってたんですよね。それで、もう起業して半年目で半分辞めたんです。
 ずっと一緒にやってたチームの半分が辞めて、ただ、私、その当時にちょうどAを妊娠した頃で、それで、やっぱりなんか嫌なんだけど、辞めれなかったんですよね。

 本当に、起業してると、企業勤めじゃないので働き方もすごい自由ですし、子どもいるとすごい助かる部分もあって。で、あとは、急になんかネガティブな理由でやめると、転職とかもちょっと大変なので、で、そういう、安定的に得られていたお給料がなくなるっていうのは、独身だったら、たぶん、「もうやめる!」みたいな感じで、感情優先で辞めてたと思うんですけど。

 それができなくなってそれで、ま、しばらく続けて、でも、なんか、状況はどんどん悪化してったんですよね。その、社長が、どんどん、なんか、ヤバい感じになっていって。

 で、さすがにちょっとこれは、なんか、ま、一人の親として、そんなことを仕事としてやってられないなっていう限界が自分の中できて、で、それが、でも、ちょっとあまり長くない間にやめようって決めて、で、そのときに、今度、Bの妊娠をしていって、で、それで、生まれたあとはもう戻らないつもりで育休に入るんですよね。

 ——なるほど、そういうことがあったんですね。

 生まれたあとの大変さもちょっと、やっぱり2人のキャラも結構違ったので、Aはほんとに長時間寝ないし、あとはもう、なんか哺乳力もすごい弱かったので、一回にもうほんと飲めないんですよ。

 でも、すぐ疲れて「ぷっ」て寝ちゃって、で、いっぱい飲んでくれないし、泣くし。で、一人目ってオムツ変えるタイミングとか、ちょっと汚れたとか、もうすぐ替えなきゃみたいに1日中オムツ替えてた気がするんですよね。で、ノートとかも産院でもらって、何時になにやったって書くじゃないですか、いまでもとってありますけど、全部もうなんか埋まってるっていうくらい常になんかやってたんですよね。

 ちょっとおしっこついたらもうすぐ替えなきゃみたいな感じで。そんなだったのが、Bはほんとによく飲んで、最初っからよく飲むし、よく寝るし。こっちもちょっとこう、余裕があって、ノートとか早めに書くのやめたんですけれども(笑)。

 ——早々に、それはもう。

 ハハハ、ハハハ。
 それで、ちょっと余裕が、生まれてすぐに余裕があったのもあったんで。
 で、産後1週間で私、転職活動を始めたんですよ。
 もともと、やろうと思ってたんですけど、あまりに寝るんで、時間があるんで「ちょっと、もうやろうかっな」みたいな感じで。

 当時、別に育休中ってことも面接とかで言わないので、なにも気づかれずに普通のたぶん転職と思われて、内定までやってましたけど、ぜんぜん育休入った直後だったっていう。それでいまの会社、あと純粋に転職したのは2回目。久しぶりの転職活動だったんですよね。で、いま入ったら、またすごい楽しくて。

 最近の悩みは、楽しすぎて、なんですかね、こう、とにかく働きたいんですよ。自分としても。でも、やっぱり母親なので、っていうのと、母親として捻出しないといけない時間と、でも、これやったらもっと仕事こういう風にできるのにって思ってて、やりたいって思う時間と、その葛藤ですね、ほんとに。

なんかほんとにずっと楽しい気はします

 ——なんかこう、ずっと、楽しさがついてきてるっていうか。

 その、小学校中学校くらいがすごく繊細でいった感じで、傷ついてばっかりいた時期で。それ以降は、なんかほんとにずっと楽しい気はします。

 昔はあんなに繊細で。それこそ小学校のときに。すごい勉強はできたんですよね。

 勉強が自分の取り柄だったみたいなところもあり、でー、そんなにわがまま言うタイプでもなかったので。担任の先生とかからすると、すごくなんていうんですか、色々。たぶん、頼みやすい、なんで学級委員とかなにかと指名されがちだったんですよ。

 ただ、目立つのが本当に苦手で。なんか、その、目立ちたいがために勉強してるとか、なんか言ってるとかいうタイプじゃなかったので、注目されるのがほんとに嫌だったんですよね。恥ずかしくてしょうがなかった。人前に出るのも。で、6年生のときに、全校生徒の前で、はい、新年のお正月明けの最初の日に、6年生の、その選ばれた一人が、皆の前で、なんかこう、今年の抱負みたいのを言うっていうのはあったんで。で、それを先生から頼まれてしまって。本当に嫌すぎてもう壇上で喋るわけでですよ。

 で、親からしても、本当にそう選ばれたって親はすごい嬉しいので、なんとしてもやらせたいので、もう、ただもう、本当に嫌すぎて、その日の朝とか、泣きながらもう絶対行きたくないって言って、布団から出ないでずっといたんですけど、親に布団剥がされながらもうどうしても行けって言われ、言われながらも結局行かなかったんですけど。
 っていうくらいに、ほんとに繊細、恥ずかしがりや、多感、そんな感じだったんですよね。それがなんか年齢を追うごとに随分、なんか図太くなって、恥ずかしがり屋っていうのはまったくなくなって、なんか人間って不思議だなって思うんですけど。
 
 小学生のときとかに、その、すごい恥ずかしがりやで繊細だった時期って、なんか自分の味方があんまりいないような日々だったというか。友達も、なんかね、女の子ってそういう感じだから、本当の友達だと思えなかったりとか。当時はなんかね、親からすると、そこまで私がそんなふうに悩んでるなっていうのはわからなかったりとか、とにかく学校行きなさいって親はやっぱり言うので、なんか親さえも自分の味方じゃないみたいに当時思ってたんですよ。そう、私、大人になって親と話したことあるんですけどそれで、なんか生きるのも嫌だみたいな、いまから考えると、すごい狭い世界の話なんですけど。

 そのくらい、なんか人生が面白くなかったんですけど、なんか、その、中学校、高校とか、社会人になって、やっぱ一緒にすごい楽しめる、友達ができたりとか、それこそ事件があったときとかも、やっぱりそれで支えてくれる先輩もいたりとか。

 なんかそういう感じの人たちが出てきて、うん、ちょっと自分も変わっていった感じはしますね。

結果がわかってることは、別に自分がやらなくてもいいっていう感じがする

 ——楽しさと仲間。

 そうですね。……子どもの頃、自分がそういう感情を抱いていたのに。でも、日々こう、子どもに接していると、やっぱりなんか、アレやりなさい、コレやりなさいみたいになっちゃうんで、ほんとになんか、自分がいちばんの理解者でないといけないのに、なんかそういうのがつい先行しちゃうなー、みたいなやっぱりありますよね。

 ……最近よく思うの、今年ちょうど40歳になったんで、折り返し地点に来た感じがすごいしますよね。

 最近はほんとに。あとはもう、自分がこれだけなんか忙しくしてたりしても、なんかやる気と気力と、体力とかでやれてきたのが最近本当にこの1年ですごい体力の限界感じるようになってきて、ここから本当に健康に気を付けないと、健康第一だなって思うようになりました。
 もう気持ちでも賄えるのはもうちょっと、もう終わったなという風に思って、なんでもちょっと頑張りすぎてやりすぎちゃう傾向があるので。

 いままでも急に倒れて病院に救急車で運ばれるとかって、3回ぐらい経験をしてきたんですよ。なんか元々健康で、あまり病院にはお世話になんないんですけど。そう、急に倒れて。
 そういうのは3回ぐらいあって、そろそろちょっとそれもまずいなっていう風に。

 最近健康だ!と思って、ついにジムに通うようようになったんですけど。
 忙しすぎてジムに行く時間がなくって入会して1ヶ月半たったんですけど。まだ3回しか行けてない。

 会費、垂れ流し状態になってしまって、ふふふふふふふふふ。
 なんか仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
 プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう。
 後回しになっちゃうんですよね、なんでも。ときどき、ふっと、もうなんか考えること無になって。もう一人でカプセルに入りたいみたい。
 なんか、わかってることをやるのがすごい嫌なんですよね。
 結果がわかってることは、別に自分がやらなくてもいいっていう感じがする。

 ちょっと、疲れる人生です(笑)。

 街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
 「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
 
 「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。

 まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。

 メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
 結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。

 話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
 話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
 音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。

 届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
 もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
 最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。

 併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
 本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
 挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。

 ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
 オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。

 私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
 そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。

 ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
 他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。

 私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
 駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。

西村佳哲(2025年7月31日)

駒沢の生活史[32話]

2026年5月1日 発行 初版

発行:駒沢こもれびプロジェクト

「今日の駒沢」
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