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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。
第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
みたいな話があったみたい
第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)
第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
人生のあと残った時間を費やすっていうのが
第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)
第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
そのとき初めて、ものすごい実感した
第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
みたいな(笑)
第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから
第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)
第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
そこをちゃんと見極めてたのは偉いと
第10話 どうなんですかね?
結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです
第11話 まかない食い放題!
生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの
第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
じゃあ、○円くださいって言って(笑)
第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか
第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない
第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね
第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
それが「あなたが社長ですから、
これ、サインしてください」って、突然
第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど
第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね
第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね
第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
お客さんって、すごいなとずっと思ってた
第21話 朝来た瞬間から、
自分でやりたいことを自己決定していくっていう
第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの
第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)
第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
「なんかあんまり」って思ってたけど
第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ
第26話 仕事してるとき、
自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)
第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな
第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから
第29話 塾すら近所だからさ、
全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの
第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです
第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか
第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう
第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
けど、それ以来ずっとこの界隈で
第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
駒沢でオープン
第35話 山梨の人は東京に出ると
中央線沿線に住む人が多いんですけど、
高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて
第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
頼れるのは家族みたいなのはあったのかも
第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた
第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ
第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって
第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
落ちたけど、コーヒーは飲みます
第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
声かけられて、そういうのなんか憧れるよね
第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは
第43話 …どっからか来てるのかな。
常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね
第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
後ろから人生を逆算してるから
第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)
第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです
第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど
第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
おっしゃって。「どうしよう」って(笑)
第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)
第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
ことが尊いともあんまり思ってないんですけど
第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね
第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
過ごしています
第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)
話し手 30代男性
聞き手 鎌田芙実
老舗のお坊ちゃんじゃないですけど、そんなことを言われながら、のびのびと過ごして(笑)。伊賀上野ってお城の城下町として栄えた町で、昔からやってる商店が軒を連ねていて、その中でもとくに歴史あるお店でした。市内では知られた老舗の和菓子屋さんという感じ。小中高は、好きなことを思うままにやらせてもらったというか。例えばですけど、ずっと中高と吹奏楽をやってて。そういうのに打ち込んだりとか。いまは休止してますけど、7〜8年ぐらい前までは社会人吹奏楽団でホルン吹いてて、割としっかりやってました。
──じゃあ、地元のことを思い出すってなると、おうちのことと、あとは音楽のこととかを思い出す。
そうですね。自分の家族も、祖母は能の謡をやってたり、母はペルーの民族楽器をやってたり、父はギター、妹はベースといった感じで、音楽が好きな家族だったので。あとは、地元に「上野天神祭」というお祭りがあって、だんじりが全部で9基くらい、町ごとのだんじりに町内の大人子どもが乗り込んで、みんなで「だんじり囃子」を奏でるんです。田舎の年に一度のビッグイベントだったので、地元の思い出としては色濃く残ってますね。
──そこから大学で東京に出られて、そのときから家を継ごうとかは考えられてたんですか。
うーん、そうですね。両親には「大学でやりたいこと見つけなさい」って送り出されたんですけど、やっぱりその、すごい古い家なので。創業400年ってなかなかないですよね。なので、自然と意識せざるを得ないですよね。親はそんなに強要はしないですけど、やっぱりじいちゃんばあちゃんには「次の代はお前が継ぐんやで」みたいなことは幼い頃から言われ続けてきたんで。自然となんかそうなのかな、みたいな。それがやりたいとかじゃなくて、そういう道なのかなあ、って漠然と思ってた。それで大学出てから、就活せずにお菓子の専門学校に入って和菓子の勉強をして、お菓子のキャリアがスタートしたんです。
──ちなみに、進路を選ぶときに、お菓子以外の選択肢ってあったんですか。
大学で専攻してたのが考古学。遺跡の発掘とか。歴史とか好きなんで、それを続けるっていう道もあったかもしれないですし、普通に一般企業っていう選択もあるしなーみたいな。そんなに深く考えてなかったっていうか。
実際入ってみて、割と自分はふわふわっとした感じで入ったんですけど、考古学ってどの大学も学科の定員が少ないんですよ。少数精鋭なところがあって。なので、集まってくる人ってそれだけガチな人が多いんですよ。「この大学の〇〇教授のもとで学びたかった」とか、「〇〇地域の研究ができるからこの大学を選んだ」とか。
で、意識低く入学した自分は周りの熱気に結構やられちゃって(笑)。大学では学業よりも吹奏楽とか音楽の方に引き続きのめり込んでたんで、途中まではサボり気味というか。けど、卒論はすごい楽しかった。
──どんなことを書かれたんですか。
えっとね、磨製石斧の、ちょっと込み入った話ですけど(笑)。昔の石器って、基本的には石を割って、それを磨いて製作する。その石の材質の研究をしてました。それぞれの石器に適した石って、採れる場所が決まってるんですよ。例えば勾玉に使われる翡翠とか。あれは富山県と新潟県の県境付近でしか採れない。それが例えば関東平野で出てきたら、要はそこで交流していた可能性があるということになる。そういう、磨製石斧の石材からみた地域交流をテーマに研究してました。フィールドワークであちこち歩きまわって、楽しかったですね。
──全国、石のある場所に向かって。
関東平野で出土する磨製石斧の中に、宝石みたいにキラキラ光るものが混ざってたんですけど、それが「蛇紋岩」という岩石でできているぞって、これまでの研究で言われてきたんです。ただ、自分の授業を受け持ってくれてた岩石のスペシャリストの先生が、「俺これ蛇紋岩じゃないと思うんだよ」って。先生曰く、北陸の一部でしか産出されない「透閃石岩」っていう石だと思うと。だからそれ調べてみてって(笑)。
関東各地の埋蔵文化財センターに、これまでに発掘された磨製石斧が保管されてるので、そのデータを取らせてもらって。さらに北陸に出向いて、富山とか新潟とか、磨製石斧製作遺跡の石斧のデータを取らせてもらって、関東の石斧のデータと比較してどうかとか…。込み入った話で申し訳ないです(笑)。
──いやいや、面白いです。最終的に結果は出たんですか。
結論として言っていいのかな。とりあえず、従来言われていた蛇紋岩ではなさそうだというところまでは言えた。どうやら従来の通説は怪しいぞ、っていう。もしかすると、もっと広く、ダイナミックに当時の地域間交流があったのかもしれない。
──のめり込まれてたんですね。
そうですね(笑)。卒論のテーマがハマったのかな。最初はまあ先生が言うし、決めるのもめんどくさいからそれに乗っかろうって感じだったんですけど、なんかとんでもないパンドラの箱を開けてしまったような…。とりあえず、同期の誰よりもいちばん足を使ってデータ取ってたと思う。
──専門学校はまた場所が移る。
専門学校はここから近いんですけど、上野毛に「日本菓子専門学校」という製菓専門学校があって、そこですね。なんか専門学校のときの思い出があんまり…(笑)。平日は普通に学校行ってバイトして。土日は、吹奏楽の社会人団体で楽器吹いて、あとはもうお酒飲んで寝たいなー、みたいな、ダラダラした生活でしたね(笑)。お菓子づくりにのめり込むわけでもなくて。なんとなく19代目、跡取りにならなきゃいけない存在っていう、レールがずーっと子どもの頃から引かれてるんです。その上を歩いてる感じですよね。
──ご両親は自由にしていいよと言いつつ、レールは感じてた。
父母よりもやっぱ祖父母ですね。じいちゃんが17代目で、ばあちゃんが女将。二人の意思がとにかく強い。家族としては仲良かったですよ。けど、17代目女将に「私はこの家を守るために嫁いできたんや、私の人生はこの家を守るために捧げたんや、あんたわかってんのか?」みたいなこと言われたり(笑)。代々続くこの「家」、この「暖簾」を守ってきたっていう思いがすごい強いから、それに従うのか抗うのか、プレッシャーはずっと感じてた。うん。結論、自分の人生って、このレールから降りるの? 降りないの? っていう。そこに集約されますね。
──2本の分かれ目のどっちに行くかでもう、すごい変わる感じ。
うん。降りたいなーって思ってもがいたこともあるし。けどやっぱり、守らなきゃいけないのかなみたいな、ずっとそこの葛藤で、右往左往。
──葛藤の時期もあった。
そうですね。ぜんぜん好きなことはさせてもらってたし、いろんなことやってたんですけど、家業を継がなければならない立場は変わらないので。和菓子の業界で働くって、結構大変だと思います。長時間重労働で、そのくせ給与水準が低い。「実家のこと継ぐんやでー」って言われて、ふわーっとまあそれでいいかみたいな感じで、いざ足を踏み入れるととんでもない世界(笑)。
心の底から「和菓子の職人になりたい!」っていう仕事への憧れや強い思いがそんなになかった。で、いざ入ってみて、「あっ、この業界やばいなー…」みたいな(笑)。「これから俺この世界で生きていくの?」っていう葛藤がありましたね。
──ご実家で暮らしてるときは、そのやばさみたいなのは感じていた?
実家にいたころは、感じないというか、そもそもそんなこと考えもしなかったですね(笑)。この世界に入ってからです。
和菓子の世界って参入障壁はそれほど高いとは思わないんですけど、歴史や伝統が重んじられるところがあって、なかなか代謝が起こりにくい業界なんだと思うんですよね。バブル以前の、つくれば売れる薄利多売のビジネスモデルをいまだに続けてるところも少なくない。家族経営に頼った中小零細がほとんどなので、急速な時代の変化に対応する体力やノウハウもない。結果、働き方も時代錯誤というか、しんどくなりがちなんです。
リーマンショックや東日本大震災、そしてコロナショックがあって、価値観が急速に変わっていって。あと、家業を継ぐことを考えると大きな問題がもう一つあって、それが地方の衰退。自分の地元、伊賀上野もほんとに山の中にあって、どうしようもない田舎で。自分が子どものころはまだよかったんですよ。土日になったら城下町のメインストリートに周辺地域の人が集まってきて買い物したり、観光バスでツアー客がたくさんやってきてお土産を買ってったり。子どものころの実家の様子ってそういうイメージなんですけど、いまはもうほとんどシャッター街で、日中でも人はまばら。
そんなしんどい業界と、衰退していく地元。自分が地元に戻って家業を継いで、これって将来どうなるの? みたいな。
──業界と、地元と。
敷かれたレールをそのまま進むと、その2つの大きい壁が。で、それを気にせず無視して進んだところで、その先は真っ暗になってる。とくに2012年の震災後ですね。そっからの田舎の変化っていうのは結構激しかったですよね。帰省するたびにどんどんどんどん廃れていってる。
──就職は、最初からご実家にされたんでしたっけ。
いや、実家には一度も入ってないんです。専門学校を卒業して、その後駒沢にある和菓子屋さんの工場に就職して。そこで4年半くらい、真摯にお菓子づくりをされてるところだったので色々勉強させていただいて。で、製造以外のノウハウも身につけなきゃダメだなーと思って、次に老舗の和菓子メーカーに転職して、そこで製造をやりつつ商品の企画開発だったり、色々勉強させてもらって…みたいな感じですね。
──製造と商品開発をやられて、この辺が好きとかありますか?
それぞれの良さがあって。どっちも好きだけど、どっちもまだまだ苦手かな(笑)。
商品開発は、クライアントの希望に沿うものをつくることが仕事の軸になるけど、やっぱり試作する中で自分の思想みたいなのが入るので。「絶対こういう食感の方がいい!」とか。それをクライアントに「これいいっすね」って喜んでもらえたり、その先にいるお客さんがめちゃくちゃ喜んでくれたりすると、やりがい感じますよね。
製造も、和菓子って極端な加工は施さず、小豆とか米とか自然の素材の特性を引き出してつくる商品なんで、気候とか湿度とかによって品質がぶれちゃうんですよね。それを日々調整するのが面白い。例えばですけど、今日は寒くて水温低いから、小豆の炊き時間を少し伸ばしてみるとか。
毎日同じことの繰り返しではあるんですけど、その中にちょっとした変化があって。それにどう対応するか。もちろんだいたいはマニュアル化されてますけど、マニュアルでは見えないちょっとした変化を感じ取って、いつもよりちょっと良いお菓子がアウトプットできるとめちゃ楽しいですし、それが職人仕事の醍醐味ですね。
──いまはご自身のお店なので、商品開発も製造も両方やられてる。お店を自分で持とうとなったときのお話はどうですか。
せっかく400年以上のブランドがあるので、それを東京に持ってきて、都市型の新しいモデルの和菓子店を自分で立ち上げてみたいなというイメージがあった。いまのうちの会社の社長なんですが、当時から実家の経営をサポートをしてくださっていた方に、あるときふと「こんなこと考えてるんですよー」みたいな話をしたら、なんかすごい話が盛り上がって。そこで一気に「じゃ東京でやってみよう」って。それが2022年の3月のこと。そこから企画書をつくり、がーって準備して、半年ちょっと経った11月に駒沢でオープン。
──半年はすごい早い(笑)。
そう(笑)。ちょうどコロナ明けで、ぜんぜんテナントがなかったんです。目黒、世田谷とか、杉並とか、そのあたりの落ち着いた立地で物件を探してて、ただもう、ほんとに見つからなくて。たまたま、駒沢でいちばん条件に合う物件があって。なんとかそこで契約できて。契約したら、もういよいよやらざるを得ない。…あとはまあ、とにかく進んでった感じですね。
──元々都心でやってみたらいいんじゃないかっていうのが、ずっとあった。
そう。結局「19代目のレール」とどう折り合いをつけるか、たぶん田舎でこれからやるのはもうきつい。業界の体質的に、雇われ職人で続けていくのも長い目で見てしんどいなって。だったら自分でお店を持って新しいやり方を模索するほうが、まだ夢が持てるかなと。都内で長く過ごしてたから東京のマーケットのことはなんとなくわかるので、400年のブランドを活かした、都市型の新しい和菓子店っていうのは、ありなんじゃないか。自分が「19代目」として実家の暖簾を継承しつつ、さっき言ってた諸々の問題をクリアできる手立てとして、これがベターなのかなと。
──どうですか、やってみて。
どうなんでしょうね(笑)。とりあえず、駒沢には馴染めてきてるのかなって思います。やっぱり自分でお店をやるってのは大変だなあと思いますけど、決して手応えを感じてなくはない。リピーターのお客様もしっかりついてくれてますし。百貨店とか催事に色々呼んでいただいたり。そういう感じで、徐々に定着できてると思うし、これからさらにどう成長させていこうかなと。走り出しは、決して悪くはないんじゃないかなぁ、と思います。
──印象深い人とかはいますか。
印象深い人か…。1社目のときの、親方。厳しさもある人でしたけど、やっていくうちに会話しながら、あうんの呼吸で仕事をまわせるようになった。仕事の姿勢、向き合い方を教えてもらったからいまがあるっていうのは正直ありますね。
──2社目では規模が変わって、また違う経験をされて。
2社目はさっき話した通り、製造と商品企画の経験が自分のキャリアの幅や視野を広げてくれました。とはいえ、将来のこととか考えると、なにかと大変な業界。結婚を機に2社目を退職して、一回例のレールから外れようかなと思って、一般のサラリーマンにチャレンジして失敗したり、色々ありましたね。
ざっくり言うと、3社目がコンビニのスイーツの商品企画。いかにもサラリーマンというか、おっきい会社の歯車的な感じ。肌に合わずに挫折して退職して、その後1年間だけ京都に行ったんですよ。最近だいぶ流行ってますけど、絞りたてモンブランの店舗の管理運営のお仕事。楽しかったしやりがいもあったんですけど、ちょうどコロナになっちゃって。で、東京に戻ってきて調味料メーカーの営業やったり、けどやっぱりサラリーマンは肌に合わずまた挫折して、結局また和菓子の職人に戻って…。そんな中でさっきの東京出店の話が盛り上がり、じゃあもう独立してみようと。
──大学も東京で、東京での独立はずっと意識にあった。
上京したときはそんなこと1ミリも考えてなかったです。例のレールに乗るか降りるか悩んで、いろんな仕事して、挫折して、違う業種職種に挑戦して、また挫折して…そんなどうしようもない中で、それでも自分がいま持ってる経験、キャリアでなにができるかなーって考えていく中でできあがっていった感じ。
あと、東京に関しては自分のコミュニティがこっちでもうできちゃってるというのもある。地元に帰ってももう知り合い少ないんですよ。なんなら地元で仲良かった友達もみんな東京に来てるし。そういうのもあって、東京のほうが色々動きやすいし、なんでもやりやすい。
──音楽のお知り合いとかも、東京。就職した後もしばらく続けられてた。
結婚する前までですね。吹奏楽って集団で練習しなきゃいけないんで、土日とかに練習日が限られる。趣味としては結構ハードで、いまの仕事をしながら続けるのは難しいですよね…。けど、いつかまたやりたい。趣味と両立できる楽しい仕事にしていきたい。自分だけじゃなくて、働いてくれてる人も含めて、そういう和菓子店にしていきたいですね。
──ご家族はどんなご家族でしたか。2世帯でしたっけ?
そうですね。祖父、祖母、父、母、妹。
──私とかはサラリーマン家庭で、自営業の家の人って自営業するんだなっていうのを、この前話したりしてたんですけど、そういうのって感じます?
実家が自営業だと、自営業へのハードルって低いのかもしれないですね、もしかしたら。地元の近所の海鮮問屋の幼馴染も、いま下北沢で自分でお店持ったりしてます。「商いやってる家の子やから、お店持つんちゃうかな」みたいなことを一緒に話してました。
──お店は、おうちと併設してるところもあれば、そうじゃないとこもあると思うんですけど、どういう感じだったんですか。
もうほんとにね、表に店舗があって奥に母屋が連なる、昔の城下町のつくりそのまんまで、実家の並びの商店はどこもそんな感じ。お店から「ただいま!」って家の中にそのままずどんと入っていくような。古き良き街並みでしたよ。いまは更地が増えてしまったけど。
──おうちでの思い出とかはありますか。
うーん。家帰ってゲームして、テレビ見て(笑)。たまに手伝いもしたけど、積極的に手伝う子でもなかったし。けど、すごいおじいちゃん子で。子どものときからずーっとおじいちゃんに着いてって。じいちゃんがお菓子つくってるのをずーっと見ながら。で、じいちゃんがなんでか知らないですけど、クラシックが好きで、ずーっとクラシックを流しながら和菓子つくってた(笑)。
──そこからクラシックが!
じいちゃんがたぶんナルシストだったんだと思う(笑)。クラシック聞いてる俺かっこいいと思ってたんですよ。すごいクラシックに詳しいわけでもなくて、でもまあ、本当に好きだったんだとは思うんですけどね。大音量で流しながら、お菓子つくって。その影響で自分もクラシック聞くようになって、吹奏楽にはまっていったという。
あとは、年末とかはもうバタバタですね。そのときはほんとに、もう子どもなんか構ってもらえない。「あるもん食べて!」「なんなら手伝え!」って引っ張られて。当時はまだお中元とか、お盆の時期、あとは、節句、お祭りとかかな。朝から深夜まで大人たちがバタバタしてたのが印象的でした。
──普段和菓子が身近にありますけど、食卓ってどんな感じでしたか。
普通やと思います(笑)。ただまあ田舎なので、親戚からもらった新鮮な野菜を切ったやつが食卓にどーんて置いてあったり。鮮度が良いから、シンプルに食べても美味しかったですよね…。東京に来て、いま思うと当時はいいもん食べさせてもらってたんだなって。お魚とかも、地元の馴染みのお魚屋さんが、サザエさんのサブちゃんみたいな感じで玄関から「良いの持ってきましたよー」って。美味しいもん食べてたなっていま思いますね。
──考古学、音楽。お菓子も、ある意味のめり込んでると言えばのめり込んでる?
そうですね。うーん、和菓子にのめり込んでるというより、昔から美味しいもの食べるの好きだったんで。「美味しいものが好き」っていう延長線上で和菓子と向き合ってるって感じですかね。だから、上生菓子みたいな和菓子の細工技術を深めようとかはそんなに興味がなくて。
いまの店に並べてるものも美味しさいちばんで、あとは季節感とか大切に。上生菓子みたいに、そのお菓子一個の芸術的なつくり込みっていうよりは、ショーケースにずらっと並べてみて全体の見た目がどうなるかっていうのはめちゃくちゃ考えますね。大福なんて、ぶっちゃけお餅で包むだけなんで、なんも工夫しないと全部真っ白になっちゃうんですよ。そうじゃなくて、種類ごとにシンプルだけどもなにかひとつふたつ個性を持たせつつ、並べてもきちんと絵になってるというか。そういうのを考えてますね。
その個性の持たせ方として、最近のスイーツにありがちな「見た目重視で斬新に、なんでも乗っけといたらいい」ということではなくて、大前提として、シンプルな美味しさを追求するその中で、味を構成する必要な要素としてしっかり機能していること。その上で、全体的に彩りが良くなるようにっていう風に。そこのバランスの取り方は難しいですね。
コンビニのスイーツとかの開発に関わってみてすごい感じたのは、スイーツが「映え」を追い求めるようになって、足し算でどんどんこの味とこの味を組み合わせたら新作としてウケそうとか。新しいもの、斬新なものを次から次へと要求される。その流行や消費の流れに一度飲み込まれると抜け出すのは大変。とにかく代謝が激しくて、ただただ疲れていく。
だったら堅実に、基本を大事に、シンプルにいちばん美味しく。足し算じゃなくて、引き算なのかなぁ。なるべく無駄なものを削ぎ落として、突き詰めた、長年愛される美味しいものを出したいなと。
──そこは最初のお店つくるときから決めて、6ヶ月でババっと考えた。
そうっすね(笑)。構想はずっと頭の中で描いてたんで、ある程度考えてたから、スッとアウトプットできたのかもしれないですね。
──いつぐらいから頭にあったんでしょうか。
うーん。いろんな職場を転々とするなかで、徐々に徐々に描いていった感じですかね。それぞれの会社の良かったところ悪かったところとか。それこそコンビニスイーツの企画開発の仕事に就いたときに挫折した経験が結構大きいかな。常に新しいものを要求され、ただ消費されていくっていう経験をして、自分のやりたいものづくりはこっちじゃないなって。そこでの気付きは大きかったですね。
とはいえ、見た目や見せ方っていうのは大事な要素なわけで。例えば、京都のモンブランのお店では、集客につながるSNSの使い方、見せ方を、一部ですけど学べた。
──マーケティング視点をすごい持たれてるというか。昔からそういうタイプでした?
うーん。分析したり考えるのがたぶん好きなんだと思うんです。それこそ考古学のときの経験が。資料を集めて分析にかけて、どういう結果が導き出せるか、そういうのをやってたわけですけど。マーケティングも同じだと思います。ものごとをいろんな視点から分析して思考して、どんな推測が立てられるかな、っていう、そういうのを考えるのが好きだった。それこそね、日常的にいろんな食べ物屋を巡ると、ここのお店流行ってるんだなー、なんでだろう? とか。自然と分析しちゃいますね。その分析がいまのお店づくりにうまく反映できているかはわからないですけど(笑)。
──手応えあり?
手応えないことはないです(笑)。
街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。
まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。
メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。
話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。
届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。
併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。
ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。
私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。
ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。
私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。
西村佳哲(2025年7月31日)
2026年5月1日 発行 初版
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