ある聖金曜日、ブラジル南部の州都ポルト・アレグレのランドマークたる高層ビルの一三階から、一人の若い女性が投身自殺をした。現場に立ち会い、身投げを目撃した社会階級、職業、性別を別とする七人の面々。その悲劇的出来事が彼らの人生にいかなる影響を及ぼすのだろうか?
「この世界に誰一人として不要な人間など存在しない」そうした作家の人間愛に満ち溢れる言葉の具現化たる本作品。七人の目撃者はもちろん、作中に登場する人物は全てが主人公である点も見逃せない。作品の舞台こそ、二〇世紀初頭のブラジルだが、一読すれば、時代、国籍、人種が異なろうとも、人間の持つ本質部分に何ら変わりがないことに気づかされるだろう。つまり読者一人一人もまた、本作品の登場人物且つ主人公なのだ。
作家第一期の作品群の集大成にして、先の『十字路』の発展、完成形、さらには第二期の『時と風』へと繋がる“人間絵巻き”たる一大交響詩の幕がここに切って落とされる。
〈訳者紹介〉
伊藤奈希砂(いとう なぎさ)
1967年、大阪府生まれ。ブラジル国フルミネンセ連邦大学に留学後、京都外国語大学大学院修了。
専攻:ブラジル文学
現在、大東文化大学講師、桜美林大学講師、翻訳家。
著書:『ブラジル文学事典』(彩流社)、『社会の鏡としてのブラジル文学』(国際語学社)、『ブラジル文学序論』(国際語学社)など、著書多数。
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“残るは沈黙だ”
ハムレット
“私は水の中に石を一つ投げ入れた
三〇〇年後
かのアルデバラン星の
幼き王女がそれに驚いた……”
マリオ・キンターナ
『残るは沈黙』主要登場人物
第一部 聖金曜日
第一章 石が一つ、湖に落ちた
第二章 ルビーの指輪
第三章 “チチャロ”
第四章 “セッチ”
第五章 足早に夜が訪れる
第六章 五月の暑い日々
第七章 アパショナータ
第八章 サンチアーゴ家
第九章 聖職禄受給者の屋敷
第一〇章 聖金曜日の行列が通り過ぎる
第一一章 風
第一二章 カエル
第一三章 静物
第一四章 醜い小鳥よ、さらばだ
第一五章 夜想曲
第一六章 丘
第一七章 手紙
第一八章 妄想
第一九章 男にとっての職業
第二〇章 苦い茶
第二一章 州高等裁判所判事と死
第二二章 パンヤの木
第二部 聖土曜日
第一章 夢と塔
第二章 アコーディオンの調べ
第三章 溢れんばかりの小川の水
第四章 ある日の午睡の時間に
第五章 「セッチ・メーイス、起きなさい!」
第六章 ハレルヤ!
第七章 ユダ
第八章 下宿屋の小部屋
第九章 他愛のない朝課
第一〇章 子供たち
第一一章 双眼鏡
第一二章 メヌエット
第一三章 目に見えぬ会食者たち
第一四章 ジュッカ
第一五章 芳しき香り立つ小休止
第一六章 美容院
第一七章 鳩舎
第一八章 ならず者たち
第一九章 解剖学の問題点
第二〇章 スキャンダル
第二一章 対話
第二二章 忠実なる犬
第二三章 天頂にある太陽
第二四章 掛け違えのボタン
第二五章 相反する者たち同士の愛
第二六章 逃避
第二七章 玩具売り場
第二八章 原っぱ
第二九章 トカゲのごとく日向ぼっこをしながら
第三〇章 静寂
第三一章 牧神の昼下がり
第三二章 審問
第三三章 身振り
第三四章 エピソード
第三五章 勝利
第三六章 二つの林檎
第三七章 何も起こらなかった
第三八章 赤い薔薇
第三九章 スケルツオ
第四〇章 仮面の騎士
第四一章 劇場
第四二章 夜
第四三章 亡き王女のためのパヴァーヌ
第四四章 幕間
第四五章 交響曲
ジョアーナ・カレフスカ:一八歳、ポーランド移民者の娘、ディスカウントストアー“ロージャス・アメリカーナス”の玩具売り場店員
“チチャロ”:元植字工
アンジェリーリオ(セッチ・メーイス):一一歳の新聞売りの少年
シィメーノ・ルストーザ:元州高等裁判所判事
【サンチィアーゴ家】
トニオ(アントニオ)・サンチィアーゴ:四〇数歳、作家
リヴィア:サンチィアーゴの妻
ノーラ:二〇歳、サンチィアーゴの長女
リタ:一五歳、サンチィアーゴの次女
ジル(ジルベルト):一八歳、サンチィアーゴの息子、医学生
ロベルト:二四歳、新聞記者、ノーラの恋人
【バヘイロ家】
アリスチィーデス・バヘイロ:五二歳、企業家、弁護士、元州議会議員
ヴェロニカ・バヘイロ:アリスチィーデスの妻
エウゼビオ・モンターニャ:聖職禄受給者、ヴェロニカの父
アウローラ:アリスチィーデスの娘
アウレーリオ:アリスチィーデスの息子
キム(ジョアキン)・バヘイロ:七四歳、アリスチィーデスの父、元地方行政官
マルセーロ:三二歳、アリスチーデスの弟
モエマ:二一歳、アリスチィーデスの愛人
【ペトラ家】
ノリヴァル・ペトラ:商売人
リンダ:三三歳、ノリヴァルの妻
チィルダ(マチィルダ):一七歳、ノリヴァルの姪
ジュッカ:四五歳、ノリヴァルの幼馴染み、商売上の片腕
【レゼンジ家】
ベルナルド・レゼンジ:四五歳、作曲家、指揮者
マリーナ:三八歳、レゼンジの妻
ジィシィーニャ(エウリージィセ):レゼンジの娘
それは緑色の色彩を帯びていた。時折、空を描いた絵画で、それに似た色合いを目にすることがある。それは北欧の湖に似た、混じりっ気のない水晶のごとく目に突き刺さるような透き通った、冷え冷えとした緑色で、さらに言えば、この地球上のものとは思えぬ、遥か過去から呼び起こされた澄み渡った完璧とも言える緑色だった。私たちは一枚の絵画の前で立ち止まり、それを凝視する。もしそこに有り得ない色彩を発見したら、それは作者の空想の産物だと考え、次の作品へと進む。
しかしながら現実に、聖金曜日の日暮れ時の地平線はその緑色と見紛う程、そっくりな色合いに染まっていた。その日は生暖かく、風もなかった。秋は街並みに新たな色彩を運んで来ていた。モイーニョス・デ・ヴェント地区に立ち並ぶ屋敷の壁を覆い尽くす蔓草の葉は赤錆のような色に染まっている。公園のプラタナスの木々はすでに落葉が始まっている。日差しは蜜のような甘美な色合いを帯びている。地平線は徐々にその姿を消し去って行く。至る所に植えられたパンヤの木々は一斉に花を開き始める。全ての物の輪郭は四月の光を浴びて、柔らかく目に映る。中空には眠気を催させる気怠い空気が漂っている。風景はある種の成熟に向かって進んでいるようで、人類はようやく天と地に平安が訪れたと考えるようになる。地球上の生き物と自然の間に随意的な合意と相互且つ無条件の承諾がなされた今、穏やかな調和に満たされるのだった。
日中、賑やかな巡礼者たちがひっきりなしに教会を訪れた。夕刻になるに従い、教会の内部に垂れ込める赤紫掛かった色調はその周りを取り巻く風景へと徐々に広がって行き、やがてはグアイーバ湾の対岸に聳える山々にまで及ぶ。水面も、影も、藤色の砂塵に霞む屋根も、遥か遠景に至るまで全てが全て赤紫色に染まって行く。注意深い観察者なら往来を歩いている人々の顔や手までもが瞬く間に消え行くスミレ色の反射光を受け、深紫色に染まっていることに気づくであろう。
太陽が没した直後、街の中心広場は一分ばかりの僅かな時間だが、何とも奇妙な美しさを呈する。街灯はまだ灯されていない。ネオン・ガスの灯った広告板は歩道沿いに停車している自動車の車蓋に色取り取りの閃光を放っている。西の方角を見ている者は凍るような緑色に染まった地平線と対称を成す家屋や尖塔、丸屋根、電柱、電線、鉄筋ビル等のシルエットたる深紫色を帯びた塊を目にするであろう。遠くで、車のクラクションが鳴り響く。稀に消え入りそうな人々の声が聞こえて来る。通行人らは自らが抱える用事のことも、目的のことも忘れ、この瞬間、自分たちは一枚の絵の中の要素に過ぎないのではと言う印象を受ける。急ぐでもなく、黙したままゆったりと進んで行く。そう、空中に漂うように軽やかな足取りで歩いて行くのだった。
しかし、そのような長閑な光景が続いたのは僅か一分足らずだった。ガス灯が一斉に灯る。突然、予期せぬ出来事が起こったのである。まさにその時、一人の若い娘がインペリオ・ビルの一三階から飛び降りたのだった。娘の体は空中で一回転し、乾いた鋭い音を立てて足先から道路の敷石の上に叩き付けられた。その衝撃音はピストルの銃声のように辺りに響き渡った。そうした身の毛もよだつ惨事が起こり、数秒が過ぎる。その瞬間、その通りの一角に偶然、居合わせた人々はショックのあまり、いきなり呼吸が停止してしまったかのように思われた。人々は“落下したモノ”の方へと走り寄って行く。“それ”を取り巻く野次馬の数が徐々に増えて行く。しかし誰一人として、敢えてその体に触れる者はいなかった。野次馬たちは一様に戸惑いの表情を浮かべ、様々な動作を交えながら思い思いに言葉を口にしていたため、辺りは混乱に満ちていた。数分が経過し、ようやく救急車が到着した。そこから降りて来た医師は娘の体の上に屈み込むと、その女がすでに事切れていることを確認した。
遺体は死体保管所へと運ばれて行った。野次馬たちは少しずつ掃けて行く。そのニュースは瞬く間にありとあらゆる方向に広まって行った。その娘さんは誰なのか? 人々は口々にその疑問を口にしたが、誰一人として確かなことを知っている者はいなかった。
少し後になって、警察が発表したところに拠れば、その娘の名はジョアーナ・カレフスカ。一八歳のポーランド移民者の娘で、ディスカウントストアーの店員だったと言うことだ。
時を置かずに夜は青色の大筆をもって、空と街にたなびく残照を塗り潰してしまった。映画館のファサードはキラキラと輝いている。あの中央広場でも、あたかも何事もなかったかのように人々は生を営み続けるのだった。
州高等裁判所判事を引退したドトール[“博士”の意]・シィメーノ・ルストーザは夕食を摂る習慣がなかった。齢六〇を前にして、衛生と健康の問題に特別な気配りを持っていた。ボリシェビキ革命と並んで世界で最も危惧すべきことは他でもない、脳溢血だ。よってドトール・ルストーザはリオのある雑誌に記事を投稿するぐらいに留め、仕事量を極めて控え目にしていた。そうした記事で、彼は現代人が過食である点を論述していた。発見したのだが、人類の中にあって、偉人たちの多くは夜にカロリー過多の食事を摂ることはない。彼らが摂るそれは粗食で、果実を主としたものである。ルストーザも節食節酒を常とし、果物に対して特別なこだわりを持っていた。さらにビタミンの特性についても論述した、ブラジル初の非専門家だろう。当時、その物質について、ほとんどの医者はその存在すら知らなかったのである。
毎日、午後六時に、ドトール・ルストーザは梨を二個と黒葡萄を一房食べる。聖金曜日の夕暮れ時も、コンチネンタル・ビルの一四階にあるアパートで、彼はいつもと同じようにそうした食事を済ませたばかりだった。楊枝を一本、取り出し、黙ったまま窓辺へと歩み寄って行く。まだ口の中に葡萄の味が残っている。それによって威厳の片鱗すら感じられないものの、奇妙なほど心地の良い連想が頭に浮かんだのだった。“葡萄、ワイン、バッカス、ローマの酒神祭、ワイン園、葡萄の葉、アダムとイブ、裸の女、葡萄を摘み取る頑健な百姓娘……、健康的な田舎娘、カシィーアスでのとある日曜日、林檎のように艶やかで、赤く色づいた尻を……”。そうとも、レストランの使用人に明日以降、葡萄の代わりに林檎を持って来るよう頼むとしよう。葡萄の旬は終わりつつある。もはや、その味は以前のように瑞々しさがなく、僅かに酸っぱい。胸焼けを感じる……。その場合、最良なのは重炭酸ソーダを一服飲むことだ。
広場の樹木を眺めている間、ドトール・ルストーザはぼんやりと時計の鎖を弄くり回していた。彼は短躯で、肩幅が広く、撫で肩だった。脂肪は均等に分配されることなく、特に臀部と仙骨、尾骨部、腹部、それに頰の部分にたっぷりと付いていた。残りの部分に関して言えば、どちらかというと痩せ型で、ひ弱な印象を受けた。腕や太腿、それに脚は細く、手は子供のそれのように極めて小さく、弱々しかった。肌はすでに瑞々しさを失い、吹き出物ができていた。特に額やテラテラと光る鼻、それに髭が黒々と密生する顎の部分の肌はその傾向が顕著だった。頭は菓子屋が用いる材料を使用することを強要された彫刻家によって、マジパン[アーモンドをすりつぶし、砂糖などを混ぜて半固形状にしたもの]で造形されたのではと思えてならない。そうした忌むべき状況に復讐すべく、彫刻家のその作品には風刺的な色合いが付与されていた。彼はいつも右手の人差し指に大きなルビーが嵌め込まれた指輪をつけていた。冬など寒い日などは、それを手袋の上からつけた。会話の場面で口にする一節を際立たせたい考える時はいつも、指輪が嵌められた指を激しく振った。そうすることで、一語一語がパチパチと赤い火花を散らせることになるのだから。
ドトール・ルストーザは西の方角に視線を上げた。「何と、美しい!」と、心の中で叫んだ。しかし、そこにいかなる情熱も込められていなかった。なぜなら黄昏時の美しさが魂まで浸透して来ていなかったからだ。それは青く、濁った目の表面に留まっていた。「何と、美しい!」。彼は今のような光景を目にした際、そのように言うのが慣例だと知っていた。芸術的、文学的事柄を論じる際、常に公認の美学、あるいは彼自身が“評決の世紀”とみなしているものによって導かれるのである。師範たちや古典作家たち、真の意味で偉大なる賢人たちに触れることによって、何が永遠で、何が一時的か、あるいは何が良いもので、何が悪いものかを見分ける術を学んだ。人類史上の大傑作、たとえばミケランジェロによる〈ダビデ〉、ダ・ヴィンチによる〈ジョコンダ[モナリザの別称]〉、ホメロスによる〈オデュセイア〉、ギリシャ悲劇などの高尚たる作品群をいかに鑑賞すべきかも心得ていた。近代芸術を驚愕的且つ忌むべき一語で評するなら、“ボリシェビズム的”芸術と言えよう。
「何と、美しい!」と、口ごちた。あたかも今日のような、日没の美しい光景を前にして感動することこそ、審美的且つ市民的義務だということを自ら得心するかのように、その二語を繰り返し口に出して言った。もし自分の横に他所者がいたとしたら、こう言うのは確実だ。「ドトール、ポルト・アレグレの空は世界で一番、美しいですな!」(そもそも肩書きのない人間をこのアパートに連れ込むという仮定を想像することすら、無駄だが……)。
下方の通りへと目をやる。何と沢山の人々が歩いていることだろう……。恐らく巡礼者たちだろう。そう言うこの私も、今日の午後、教会を訪れるべく、そこを歩いていた。ロザリオ教会の中で天に召されたキリスト像を前に、祈りを捧げるため数分間滞在した。私見だが、この世は宗教と法律無くして、人は生きることができない。しかしながら、十字架に架けられたキリストの体にキスをするため身を屈めることは決して良いこととは思えない。よってキスをする行為はあくまでも象徴的意味合いを込めて、心の中だけで行われるべきなのだ。一度として宗教に対して不信感を覚えたことはない。稀にミサに足を運んだ。しかし教会に対して、心から敬意を払っていた。教会こそ伝統であり、階級制度であり、秩序なのだ。「ドトール、儀式の示唆に富む荘厳さ、祭壇に舞う鳩をご覧なさい……」。教会では信徒たちが静かに行き交う中にあって、自分は目を半開きにして良心の糾明に努めるのだった。それを終えた後、心軽やかに午後の光の方へと足を踏み出した。生暖かい日差しを満喫しながら、ゆっくりと歩いて行った。玩具屋のショーウインドーに群がる子供の集団を目にし、僅かに、ほんの僅かだが、思いがけず郷愁を感じた。指輪を嵌めた方の手で一人の女の子の頭を撫でた。一瞬だが、ルビーが長い金髪の上でキラキラと輝いた。しかしその女の子は笑顔で、その愛撫から逃れた。私は歩き続けた。何と言うことだ! 今のままの状態で生きる方が良い。独り身だが、自由だ。これまで課されるであろう法外とも言える責任について考えるにつけ、真剣に結婚について考えたことが一度としてなかった。嵩張る出費に、社会的責任、それに子供たち、全くもって糞喰らえだ! 絶対に私は嫌だ! 伴侶を得るよりも一人で生きていく方がずっと良い。
そして今、アパートの窓辺に佇み、人々の往来の激しい通りを見つめながら、ドトール・ルストーザはまるで自分が完全に地上から切り離されているように感じていた。「お前はロビンソン・クルーソーよりもずっと孤独な生活を送っている。なぜなら少なくとも、そのデフォー[Daniel Defoe(1660-1731):イギリスの著作家、ジャーナリスト]が創り出した英雄には“フライデー”という名の黒人従僕がいたのだから……」。いつの日だったか、リオ・パルドに住む友人がこの私のことをそのように書いたことがあった。良くできたジョークだ! 実際のところ、この私は無人島にいるロビンソン・クルーソーみたいなものだ。比喩的な意味において人間というものは理念と確信の中に閉じ籠るべきだし、本来の意味においてはますます攻撃的且つ危険度を増す世界に対して、自宅、あるいは個人所有の城、あるいは正当防衛たる態度に逃げ込むべきなのだ。そのように思ってはいたものの、シィメーノ・ルストーザは自分自身を厭世家だとは考えていなかった。そのようなことはない、と身振りさえした。皆は私がそのようでないことを知っている。これまで幾人かの若者たちに彼らが進むべき道を指し示して来たし、今日では彼らは大学を卒業し、ある者は弁護士となり、またある者は田舎の街で診療所を開業している。幾つかの慈善施設に月々、定期的に金を寄付している。ルストーザに関して言えば、次のように要約することができる。彼は集団を好むタイプの人間ではない。だからと言って社会生活の有用性や、友人の存在、その利便性、さらには時々感じる、その魅力について否定する訳ではない。たとえば人間関係は時として、平土間席のごとく非常に有益なものである。知識を開陳する者もいれば、教訓を垂れる者も、バンドリン[スペイン・ポルトガル起源の、ギターから派生した、四コース八弦の複弦楽器]を演奏する者も、硬貨のコレクションを見せびらかす者もいる……。それにもし友人、あるいは他所者がいなかったとしたら、例の高価な指輪や、高貴な音楽が大半を占めるレコード・コレクションはいかなる役割を果たすと言うのか? しかし“開陳する”、“見せびらかす”、“示す”等の動詞は“与える”、“分ける”、“寄付する”等の動詞と比べて意味の上で極めて異なる。しかしながら、友人というものは時として、都合の悪いものを提供するのも事実である。それは突如として、不快の根源たる“嘆願者”へとその姿を変えることがあるのだ。“嘆願者”らは我々の所有するモノや、金を奪って行く。さらに我々が有する内なる調和や、一連の行動を阻害する傾向があるのだ(ああ! フランス語法だ……)。結局のところ、友人というものは肉体的、精神的財産を脅かす存在なのだ。財産か……。それは引退判事のお気に入りの言葉の一つだった。資本、準備金、積立、資産、担保等はものの量や、重さ、堅牢さを表わす記号的シンボルにして、安全や、繁栄、信望をもたらす言葉でもあることから、彼が好んで口にしたり、あるいは書き付けたりする語彙だった。
私が隠遁者であることは何の疑いもない。小説や、哲学的作品を通して、強者というものは孤独を好む人物を指して言うことを知った(ルナン[Joseph Ernest Renan(1823-1892):フランスの宗教史家、哲学者]や、ヴァルガス・ヴィラ[José Maria Vargas Vila(1860-1933):コロンビアの作家]、あるいは、ルイ・バルボーザ[Ruy Barbosa de Oliveira(1849-1923):ブラジルの政治家]あたりが、そうか?)。隠遁者は無傷のまま自らの人格を維持することができるし(ニーチェのように)、いかなる外的影響から逃げおおせることも可能である。そうした理由から、サン・ガブリエル司法区の判事を勤めていた時代、いかなる社会的親交を結ぶことを避けた。皆に対して、とても親切に振る舞ったが、常に一定の距離を置いていた。「ドトール、おはようございます」。「おはよう」。そこにいかなる親密さはない。人々は私のことを虚栄心が強く、自惚れ屋で、変わり者だと陰口を叩いていた。しかしながら、この判事である私を傷つける人を避けたかったと言うだけのことだった。政党とも、コロネル[地方の有力者]たちとも、政治的ボスたちからも、一定の距離を置いた。汚れないように……。しかしながら口の中で感じる、この酸っぱい味はどうしたものか?
窓辺を離れ、緑翡翠色の柔らかい絨毯(そいつは一コント二〇〇ミル・レイスの代物だったが、一括払いで購入した)が敷き詰められた書斎を横切って行った。そして浴室に入って行くと、電気を点けた。何のために浴室に入って来たのか、その理由をしばし忘れ、洗面台の鏡に映る自分の姿を物思いに耽りつつ真剣な眼差しで見つめていた。しかし、その理由を直ぐさま思い出し、コップに水を満たすと、そこに歯磨き液を数滴垂らした。その乳白色の液を口に含むと頭を上げ、両手を腰に当てて、音楽的な音でうがいをした。小鳥の囀りのようだ……。〈ランメルモールのルチア〉[Lucia di Lammermoor:カエターノ・ドニゼッティが1835年に作曲したイタリア語オペラ]……。偉大なる歌い手たちが次々と姿を消して行くという、近代オペラ界で興味深い現象が起きている。カルーソー[Enrico Caruso(1873-1921):イタリアのテノール歌手]はどこに行ってしまったのか? ティッタ・ルッフォ[Titta Ruffo(1877-1953):イタリアのバリトン歌手]は? パッティ[Adelina Patti(1843-1919):スペインのマドリード出身のソプラノ歌手]は? ベル・カント[イタリアで一八世紀に成立した歌唱法]に一体、何が起こったと言うのか?
引退判事の心がプリマ・ドンナの立つ舞台に釘づけとなる抽象的とも言える、夢想の瞬間があった。不意に液体が喉に侵入して来た。ルストーザは吐き気を催し、気分悪そうに身を捩ると、口の中にある液体を床に吐き出した。幾ばくかの間、咳き込み、咳払いをし、何度も「ぺっ、ぺっ」と唾を吐き出した。それが収まるとゼイゼイと喘いだ。喉がヒリヒリと痛み、目から涙が流れ落ちた。洗面台の端を両手で掴み、体を前のめりにした。呼吸が普段通りの落ち着きを取り戻し、再び全てが良好だと感じられるようになると、〈アルレチィーノのセレナーデ〉を口ずさみながらドトール・ルストーザは鏡に顔を近づけると、細心の注意を払って鼻にできた吹き出物を潰した。両手をさっと洗い、横目で鏡に映る自分の姿に一瞥をくれると書斎へと戻って行った。安楽椅子の上に置かれたバンドリンを手に取ると、果敢にも幾つかのコードを爪弾いた。四〇歳を過ぎてから、サン・ガブリエルに住む書記官兼セレナーデ作曲家からその楽器の弾き方の手ほどきを受けた。バンドリンは孤独を癒す、良き伴侶のようなものだ。ドトール・ルストーザはその楽器が個人的、職業的尊厳をぶち壊すものとは思っていなかった。伝記を愛読する読者は歴史上のほとんど全ての偉人らが少なからず欠点を持っていて、気晴らしの時間、言うなれば“アグロンのバイオリン”[本職以外の特技、趣味、好きの横好きの意]を楽しんでいた、ということを知っている。それで彼の場合はその“バイオリン”がバンドリンであったのだ。心の中で引退判事は自身の人格に付与された鷹揚ともいえる特徴に、軽微な罪の意識に、あるいは少年のごとき悪戯にユーモア溢れる誇りを感じていた。バンドリンは自分の暗く、地味な生活に刺激を与えるピリリと辛い調味料のようなものであり、黒く、重々しい雰囲気のフロックコートに騒々しい色合いたる、黄色の小さな花を添えるようなものなのだ。バンドリンを演奏することにより(誰もが感知できるよう演奏に集中した)、その行為に多かれ少なかれスポーツ的、世俗的要素を感じる。バンドリンを演奏する行為は民主主義的謙遜を表わす上で非常に有効である。その行為は自分が世界に向かってウインクをしながら、小声で囁くようなものなのだ。「友人たちよ、とどのつまり、私は他の人たち同様、肉と骨からできている生き物なのですよ……」、と。何という対比だろう! バンドリンと司法文学。書斎の壁に林立する本棚を埋め尽くす本を眺めた。心ここに在らずという具合に弦を爪弾きながら、引退判事は父親的な優しさを込めて三冊組の書籍の緑色の背表紙を凝視するために、その対比を忘れた。“私の”本、“私の”著書。
ドトール・ルストーザは職を退くことを申し出た。自分が年老いたことを、あるいは人生に疲れ果てたことを感じたからではない。その理由たるや、司法文学の執筆に没頭したかったからだった。自費で書籍を数冊、出版した。と言うのも、皆さんもご存知の通り、出版社というものは詐欺まがいで、利得ばかり主張するからだ。ドトール・シィメーノ・ルストーザの作品は人々に購入され、読まれ、閲覧され、賞賛を受けている。すでに海外でさえ、人々の口の端に上っている。
引退判事は右足を椅子の上に載せて、バンドリンの胴の部分を太腿で支え、ナポリ民謡のメロディーを弾き始めた。その様は恋人の家の窓の下で歌を歌う、一人の男を連想させた。そうした考えに彼は興奮さえ覚えた。その男は子羊のごときビブラートの効いた、哀願するような声でナポリの漁師たちの歌を口ずさみ始める。歌詞の中に“マリンコリーナ[malincolina「憂鬱」]”という語がある。ポルトガル語では“メランコリーア[melancolia]”だ。「ドトール、イタリア語とポルトガル語は親戚のような言葉だというのに、“マリンコリーナ”とは実に興味深いですね……」。ラテン系の言語……。質素にして美しい、ラシィオの最後の一輪花……。ビラック[Olavo Brás Martins dos Guimarães Bilac(1865-1918):ブラジル高踏派の詩人]か……。戦争の銃撃……。
忘れっぽい指は弦を弾き続ける。しかし聞き取ることのできない神秘的ともいえる命令が下されたかのように指がはたと止まった。今日は聖金曜日だ。こんな風に過ごすのは良くないのでは……。全くもって不敬だとも。ドトール・ルストーザはバンドリンを放り出すと、再び窓辺へと歩み寄って行った。今、脳裏に反響しているのはマンドリン曲の溢れんばかりの音と、もうもうと煙を吐くヴェスヴィオ火山を背に、ナポリ湾に集う漁師たちの声だった……。ポンペイの遺跡……。ローマ……。ああ! いつも夢に見ながら、これまで一度として果たしたことのないヨーロッパ旅行! 引退判事は肉体に備わる目でポルト・アレグレの空を凝視していたが、精神のそれは絵葉書の風景に釘づけだった。永遠に溶けることのない雪に覆われたアルプス山脈……。パリ……。コモ湖……。シチリア……。ナポリの漁師たちは姿を消し、今、ドトール・ルストーザが目にし、耳にしているものはシチリアーナ[ルネッサンス音楽末期から初期バロック音楽に遡る舞曲の一つ]を高らかに歌う、頰髭をたくわえたテノール歌手だった。絵葉書の風景はオペラが演じられている舞台に変わった。音楽だ! 不滅の音楽だ! 何と心地が良いことだろう……。シィメーノ・ルストーザは“メロテラピーア[音楽療法]”の効能を信じていた(最初、自分がその“メロテラピーア”という言葉の創作者だと信じていたがその後、カンジィド編纂の辞書[Novo Dicionário da Língua Portuguesa:カンジィド・デ・フィゲイレードによって、1899年に出版された辞書]にその言葉を発見し、それが過ちであることに気がついたのだった)。音楽は神経を穏やかに落ち着かせ、人生における全ての不快感を忘れさせる力を有している。しかしながらその際、必要なのはオペラ、主としてオペラ音楽でなければならない。彼にとってヴェルディは神のごとき存在だった。気取った連中と言えば、ベートーベンやドビュッシー、ストラビンスキー、それに彼らと同種の音楽家等が挙げられる。「ドトール、そういった連中の音楽はイタリア的な甘美なメロディー、つまり気さくで、歌うのに適した透明感のあるメロディーとは無縁ですよね」。自分はオペラの一服なくして寝入ることができない……。そう、アリアやプレリュード、インテルメッツォが繰り広げられるオペラなくしては……。
宵の星を見上げるや、今晩は〈イル・トロヴァトーレ〉[Il Trovatore:ヴェルディが作曲した四幕からなるオペラ]全曲のレコードを聴こう。しかし再び神聖なる日に敬意を示さなければならないことを思い出し、それを諦めて、音楽なしで床に入ることにした。
空に星がキラキラと瞬いている。引退判事のルビーも青白い指の上で閃光を放っている。しかし……。もし小さな音でレコードをかけたとしたら? 現代においてはもうそれ程、厳格ではない……。ラジオ局は一日中、不敬な音楽を流しているし、映画館は低俗な映画を上映している。そうであるなら、自分は崇高なるヴェルディのミサ曲のレコードを聴くことだってできよう。神聖なる音楽はこの自分を持ち上げ、その魂を天へと誘ってくれる。宗教というものは実に強大な存在だ。突然、胸の内に言い知れぬ高揚感が募り、“コヘイオ・ド・ポーヴォ”紙に掲載する記事を書いてはどうかと思った。その記事では、今日の巡礼について、宗教の復興について、戦争がもたらすであろう結末について、共産主義的プロパガンダの影響下における慣習の崩壊について語ろう。さらに信仰の厚かった良き時代への回帰(何と崇高な話題だろう!)について語ろう。信仰を胸に“法が支配する帝国”への回帰を果たさなければならない、と述べることにしよう。全てが元あるべき場所に戻らなければならない、と。加えて、社会主義について、平等たるプロレタリア階級の地位回復についても言及しよう。「ドトール、『私たちの間に常に貧しい者がいる』と、キリストはおっしゃられていますよ」。その通りだとも、宗教熱が煮えたぎる、偉大なる日の到来が近づきつつあるのだ。息絶えた救世主の血まみれの体にキスをする淑女たちの歪んだ顔を、やがてこの自分も目にすることになるだろう。
窓から身を乗り出し、頭を左の方へと巡らせた丁度、その瞬間、引退判事はあるものを目にし、さっと血の気が引き、狼狽を感じた。隣のビルの窓から女性の二本の脚が飛び出しているではないか! 趣味の悪い、何かの冗談だろう……。「お嬢さん、気をつけて!」と、叫びたかった。しかしながら、その二本の脚はすっと姿を消した。ドトール・ルストーザが非難の文句をぶつぶつと呟いていると、再び女性の痩せ細った二本の脚が現われた。今度は先程とは異なり、その行為にある種の性急さが感じられた。心臓が不規則な鼓動を刻み、胃の辺りが冷たくなる。一分余りの茫然自失の状態の後、驚愕と混乱、そして恐怖感に襲われる中、シィメーノ・ルストーザはその女が中空に身を投げ、その体が中途で宙返りし下に落ちて行くのを目撃したのだった……。引退判事は目を閉じ、身をすくませ、唇をぎゅっと引き結んで、決して耳にしたくないあの音が聞こえて来るのをじっと待っていた。瞬く間に数秒が過ぎる。“ドシィーン!”。下方の通りから、奇妙ともいえる大きな音が聞こえて来た。きっとあの不幸な女の頭は敷石に激しくぶつかり、粉々に砕け散ってしまっただろう……。
激しく喘ぎ、こめかみ辺りがドクンドクンと脈打ち、乾き切った唇を半ば開きドトール・ルストーザは後退ると、どっと椅子に崩れ落ちた。事件を目撃してしまった……。目の前の壁に架けられ、金縁の額に収められた一枚の絵を痴呆のように凝視し始める。それは昔の太った貴婦人を描いた、油絵の肖像画だった。豊かな、滑らかな髪の持ち主のその貴婦人は流し目をしている。黒いドレスを身にまとい、首許にあずけられた手に開いた扇子を持っている。ドトール・ルストーザは絵の中に描かれたその人物をじっと見つめていた。その人物は引退判事をじっと見つめている。時と死の神秘を超越し、ルストーザは母親の声を耳にした。
「何と野蛮なことでしょう!」
自殺、あるいは犯罪だろうか? 一般人であるよりも判事の血の方が騒ぎ始め、じっと考えを巡らせた。まだ四肢の先が冷たい。引退判事は何か驚愕に値する出来事に直面した際、常に四肢の先が冷たくなった。未だ体の震えが止まらず、水を一杯飲むためにキッチンへと向かった。「何とも野蛮なことだ!」。不快にも開け放たれた冷蔵庫から放たれる氷のように冷たい風を胸許に受け、そう呟いた。冷たい水が喉を伝い、胃袋へと流れ落ちて行く。引退判事は酷い寒さに身を震わせながら書斎へと戻って行った。必要だったものは冷たい水ではなく、温かいコーヒーだったのだ。何とも馬鹿げている! 全くもって馬鹿げている! 再び窓辺へと近づいて行き、下方を見やった。通りの中程に黒々とした染みが蠢いているのが見える。彼は未だ恐怖に震えていたが、自殺者(あるいは、“犠牲者”か。精査せずに決めつけることは禁物だ!)を取り巻く、それらの人々を言い当てる正確な言葉を持ち合わせていた。彼らは“通りすがりの通行人”だ。あの女性はきっと亡くなっているだろう。あの高さから転落したのだから、助かる見込みは全くない。
下方に白い救急車の車蓋が見える。サイレンの音が悲嘆に暮れる唸り声のように辺りに響き渡り、その音を聞くドトール・ルストーザはまるでパルカ[生死を司る三人の女神]の声を耳にしているように思われてならなかった。両脚の関節が痛み、再び腰を下ろす。少しずつではあるが心の落ち着きを取り戻して行った。無駄だと思いながらも、その“悲しむべき出来事”がどのように起こったのかを思い出そうとした。未だ茫然自失の状態から逃れられず、物事をはっきりと観察することができない。ああ! 目撃証拠の何と不確かなことか……。しかし恐らく犯罪ではなく、自殺だろう。きっと言い古された話だろう。ほとんど報われることのない愛、あるいは誘惑に起因する自殺に違いない。いずれにせよ、今の時代の不道徳によって引き起こされた自殺だ。記事に、そのことについても言及することにしよう。いいや、駄目だ。そのように行為の遂行理由を勝手に決めつけて公表すべきではない。それは最悪な手本だとも、最悪の……。
しかし地面に直撃して骨が砕ける音が執拗に耳の中に残っている。恐ろしく、全くもって信じられないことだ。それによって、私の夜の時間が完全に損なわれてしまった。
引退判事は再び腰を下ろし、幾ばくの時間、不動の姿勢を保っていた。その後、胸に善人にして判事であるがゆえ、冷ややかな怒りが込み上げて来た。罪や、暴力、それに無秩序に対する激しい怒りだった。なぜそのような怒りを覚えたかと言うと、あの自殺(犯罪)が聖金曜日を、隣のビルに住む家族たちを、社会を、教会を軽視しているからだ。世界は確実に悪い方向へ向かって行っている。
救急車のサイレンは唸り続けているものの、その音は徐々に遠ざかって行った。「不吉な音だ」。引退判事は再び母の肖像画を見やりつつ、そう評した。子供のような指の上で、忘れ去られたかのようにルビーがキラキラと輝いていた。
その男はほっそりとした体躯で、どことなく疲れた雰囲気を漂わせていた。広場では彼はとても知られた存在だった。何年も前からその広場をうろつき廻り、毎日、夕暮れ時から明け方まで近隣の喫茶室を渡り歩くか、歩道を足を引き摺りながら歩くか、ベンチに腰を下ろして過ごすのが、その男の日課だった。時々、一晩中、ただ煙草を吸い、ぼんやりと周りを見て考えごとをしながら、誰とも一言も話さずに過ごすこともあった。マスコミ関係の人々はその男のことを“チチャロ”と呼んでいた。なぜならその男はすでに死んでいるのだが、そのことを自覚していないと言われていたからである。スペイン風邪に罹患し、一九一八年に死亡し、その亡骸はすでに埋葬され、肉体は蛆虫に喰い尽くされているというのに、それに全く気づいていないと言うことだった。そうした語り草を耳にしても、その男はただ肩をすくめただけだった。笑いもしなかったし、怒りもしなかった。結局のところ考えるに、名前といっても他のどの語と同様、一つの言葉に過ぎないのだ。もし自分の名前が“テレフォーネ[電話]”、あるいは“カショーホ[犬]”と登録されたとしても、“ジョアン”や“ペドロ”、“リオ・ブランコ男爵”等の名前と何ら変わりがない……。別に大したことではない。どこの誰が、この俺が本当に死んでいるかどうかなんて分かるだろうか? 多分、全ての人々はすでに死んでいて、幽霊として人生を送っている、この俺と同じ、“チチャロ”に過ぎないのだろう。時々、世界が広大な幽霊屋敷だと思えることがあった。とりわけ真夜中に喫茶室が閉まり、静寂の中、靴の踵が敷石を打つ、“ポク、テ、ポク”……“ポク、テ、ポク”……“ポク、テ、ポク”という音を響かせ人影が行き交う時など、そう感じるのだった。しかしだからと言って、それも別段、大したことではない。
ベンチに腰を下ろし、チチャロは目の前を通り過ぎて行く生き物たちを眺めていた。また夜がやって来た……。もう少ししたら、電灯が灯されるだろう。人々は映画館へと足を踏み入れ始めるだろう。何とも愚かなことだ……。大の大人が銀幕を所狭しとドタバタと走り廻り、外国語を話すアニメーションに面白味を感じるなんて……。俺は演劇の方が好きだ。しかし今日では、演劇もめっきり少なくなってしまった。俺の時代の良きものはどんどんなくなって行っている……。
チチャロは両手をポケットに突っ込み、煙草の吸い止しを一本取り出すと唇に咥えた。マッチを探す。見つからない。自分の横のベンチに腰を下ろしたばかりの男の方を見た。一目でその男が知り合いだと分かった。通りを挟んで反対側のビルに住んでいる、かなり年配の太った老人だった。毎晩、涼みに広場にやって来る。いつもきちんとした身なりをしており、シャツのカラーは目が痛いほど真っ白で、オーデコロンの香りを漂わせていた。
「火を貸してくれんかね」
チチャロは知り合いであれ、あるいはそうでない人であれ、まるで自分がこの広場の主人、“住人”でもあるかのように、その話し方は誰に対しても横柄だった。つまり優越感を感じていたのである。この俺は騎馬に跨る将軍の彫像よりも、あれらの大きなビルよりも、あるいは広場に植えられている木々よりも、ずっと昔からここに存在しているのだ。
老人はマッチを手渡すや、直ぐさま話し掛けて来た。その声はひびの入った竹のようだった。
「今日の行列は凄いですな……。昨年はそれほどでもありませんでしたがね……」
チチャロは黙ったままだった。煙草に火を点けている間、横目でその老人を観察していた。
「あなたは行かれないのですか?」と、太った老人が尋ねた。
「どこへ?」
「聖金曜日の行進にですよ」
「いいや」
「カトリック教徒ではないのですか?」
「いかなる宗教をも信じとらん……」
「ああ」
男はマッチ箱を老人に返した。相手はそれを受け取ると、何やらぶつぶつと呟きながらそれをポケットにしまった。チチャロはさらに注意深く、その老人をしげしげと観察した。「まるで手入れの行き届いた子豚のようだ」。そう、結論づけた。何とも可笑しい。皺くちゃで、二日余り剃っていないであろう髭で陰のできた老人の顔は厳粛で、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。面白い。老人の爪はピカピカに磨かれている。隣のベンチに座る相手の足許を見やる。キラキラと輝くエナメル靴を履いている。握りの部分が金製の細いステッキは丸々太った股の間に挟まれている。チチャロは手入れのされていない自分の指の方に目をやった。爪は黒く、薄汚れている。しかし大したことではない。誰に対しても俺は嫉妬を覚えることはない。咳が喉許に込み上がって来るのを感じた。他の者たちが慢性の喘息を患っていないことだけが、何とも羨ましい。咳が出始めた。体を前に折り曲げ、咳の発作のためブルブルと震えた。
太った老人は本能的にその男から顔を背けた。その瞳には狼狽の光が浮かんでいる。一瞬だが、ベンチから立ち上がるかのように見えた……。しかし、その場に留まった。チチャロはポケットから汚れたハンカチを取り出すと、僅かに震えながらそれで口を覆い隠し、ニコチンで褐色に変色した灰色の口髭を拭った。わざと膨らませているかのような大きな鼻は普段と比べて、ずっと紫色掛かっていた。眼窩の奥に収められた灰色の小さな目は咳の発作のため潤んでいて、まさに死んだ魚のような光を放っていた。
「あなたは煙草を吸うのをお止めになった方がよろしいですよ」と、太った老人は忠告した。
「もし煙草が巷で言われているようにとても悪いものだとしたら、俺の親父は九〇歳まで生きられなかっただろうよ。一日に三〇本、煙草を吸っていたのだからな……。それも、クレオールの葉っぱを藁で巻いた強烈の奴をな」
「私には叔父がいるのですが……」
老人は再び話し始めた。しかしチチャロはその老人の話に全く興味がなかった。
すでに聞き手が意識して耳を傾けていないにも関わらず、弾丸のように次から次へと言葉を繰り出す老人を余所に、その男は自らの思考に身を委ねていた。この咳のおかげで、俺は年金生活を送る羽目になった。何とも忌々しい新米の医者どもめ! 結核だと……。結核に罹ったのは、俺の叔母の方だ……。医者どもは勉強もせず、授業中はサッカーに興じ、踊り、美人コンテストを企画し……。そしてキリスト教信者の背中に耳を当てるや直ぐさま、「結核だ」と、宣うたのだ(子豚は全身を揺すって笑っている。チチャロはぼんやりとその老人を見やった)何れにせよ、その物語が俺を年金生活に入ることを容易たらしめたのは間違いない。俺は仕事が好きだった。しかしすでに疲労が蓄積していて、背中と胸の辺りに痛みが走っていた。三〇年に及ぶ新聞社の作業場での、植字工としての業務は決して容易なことではなかった。二〇回目の冬が終わる頃まで活字箱に囲まれて働き、その間、活版印刷用の文字に付着した黒い埃を食み、指や、顔、それに肺を真っ黒に汚したのだった(結核患者はお前の母ちゃんの方だ、聞いているか?)仕事を辞めるまでの一〇年間は鋳造植字工として働いた。その仕事は活字箱から文字を選ぶ仕事に比べると面白味に欠けていたが、より清潔な仕事で、給金もずっと良かった。
チチャロは今、心の中で機械がカチャカチャと鳴る音を聞いていた。鋳造植字工として働いていた頃が懐かしい……。俺はその機械に“マルガリーダ”という名を付けていた。
名前も所詮、他の語と同様、一つの言葉に過ぎない。マルガリーダか……。そいつはまさに人のようだった。その機械に嫉妬を覚えることさえあったのだから。今ではそのマルガリーダは人相の悪い、バナナの房ぐらいの大きな手をしたスエーデン人の鋳造植字工の手に渡っている……。しかし俺は毎晩、マルガリーダに会いに行っている。何よりもまず新聞社の作業場を見に行って、その匂いを嗅がずして眠ることができなかったからだ。そこを毎晩、明け方に訪れた。俺が働いていた時代の人間はほとんどいなかったが、そこで働いている全ての連中とは顔見知りだった。チチャロ、どんな具合だい? おいチチャロ、これどう思う? 連中は俺に新しい母型を、改良された点を、馬鹿げた点等を、全て見せてくれた。俺は機械から機械へと、デスクからデスクへと歩き廻った。それら全てが懐かしい……。熱せられた紙の匂い、それに鉛が溶ける匂いが好きだった。印刷機から吐き出されたばかりの、未だインクの瑞々しい匂いのする最新の新聞を脇に抱えずして家に帰ることはなかった。記事の見出しに目を通して、初めて眠りに就けるのだから。その職業によって、俺は夜昼逆転の生活を送るようになった。俺が死んだ後はそれら全てのルーチンは夜のままだろうか、あるいは昼か……。だが、そんなことは大したことではない。
「……方法は第二の自然作用のようなものです」
竹にひびの入ったような声で、老人は話し続けている。
「それで、もし我々が行き過ぎた行為を冒さなければ、墓場まで……」
チチャロはぼんやりと頭を縦に振った。
間があった。太った老人は時計の鎖に付いたメダルを一頻り弄んだ後、尋ねた。
「あなたは何歳ですか?」
チチャロは自分の年齢を口にすることに嫌悪感を覚えた。
「俺はもう五〇におさらばした。それが六年前のことだ」
「あなたは、私が何歳だと思いますか?」
チチャロは興味なさそうに、相手が何歳なのか値踏みするため老人の方を見やった。
「六〇かね?」
そうポツリと言った。
「六八歳です! そんな風に見えませんよね。そう思いませんか? 皆さんはそう言うのですよ。私は規則正しい生活を送っていますから」
老人は活気づいた。そして杖を振り上げると、ある一点を指した。
「緑色の電気が灯っている窓が見えますか?」
チチャロは目を上げた。
「ああ」
「私はあそこに住んでいるのです。ルストーザ博士の隣人です? その博士をご存知ですか?」
「いいや」
「非常に学識のある方です」
老人はきつい締め付けから逃れるためか、カラーと顎の下についた贅肉の間に人差し指を入れた。
「私は婿と住んでいます」
その婿の名と肩書きを告げた。
「ご存知ですか?」
チチャロは片側にペッと唾を吐いた。
「いいや」
だからと言って、大したことじゃない。自らの思考の中に留まり続ける。全くもって大したことじゃない。再び記憶の真っ只中に迷い込んで行く。長い沈黙の後、弱々しい呻き声を上げ、老人は立ち上がった。捲り上がった半ズボンを下げるため少しばかり身を屈めた。そして帽子のつばを指で触れると、足を引き摺ってモザイク模様の石が敷き詰められた歩道を杖の先で突きながら、立ち去って行った。チチャロはその老人を頭から追い出した。通りの反対側に聳える背の高いビル群をぼんやりとした敵意をもって眺めた。ああいった建物は好きではない。出しゃばり以外の何物でもない。いわゆる成り上がりの権化なのだ。昔の建物はずっと美しかったし、荘重な雰囲気を漂わせていて、歴史もあった。俺はこの広場が大きくなって行く様を見て来た。面白いのは時の経過と共に、この広場がますます新しくなって行き、同時にますます古びて行くことだった。
もちろんこの俺だって石でできている訳ではない。その同じ場所に新しい家を建てるために古い家が取り壊されることもある。しかし頭や、心臓や、肝臓を取り替えることは不可能なのだ……。
街灯が灯った。チチャロはガス灯の古き良き時代を思い出した……。目の前のビルの内の一つの高みから、それが何だか分からないが、何かが落ちてくるのを目撃したのは、まさにその瞬間だった。カバンだろうか、マネキンだろうか、それとも人間だろうか? 物がぶつかる大きな音が聞こえた……。機械仕掛けのようにさっと立ち上がる。それが何なのか見に行こうかと考えた……。通りの中程に向かって人々が駆けて行く。行くべきか、あるいは行かないべきか? いずれにせよ直に何が起こったのか全てが分かるだろう。野獣のように匂いを敏感に嗅ぎつける男と知り合いだから。奴はこちらが何も尋ねなくとも、いつだって話しにやって来る。行かなくとも良い。大したことではない。きっと自殺だろう。“そいつ”は女性だろう。今に始まったことじゃあないし、それで最後でもない。様々な事件が思い出される……。鋳造植字工として働いていた時分、俺は一体、幾つの自殺に関する記事の文字組みをしたことか! 今日では新聞社はそうした事件を頻繁に報じなくなった(広場は混乱に満ちている。人々は駆け廻り、興奮した声があちこちで上がる)チチャロは思い出した……。剃刀でザックリと手首を切ったフランス人の男。浴室に子供を閉じ込めガス栓を開いた女……。シアヌレット服用による自殺等、数え上げたら切りがない。
今、起こっている自殺の記事の文字組みをするかのように、チチャロの指は太腿の上でタイプを打つようにパタパタと動き始めた。かつての鋳造植字工の頭の中では、溶けた鉛で熱せられた腹のマルガリーダが金属質な声で俺に語り掛けて来る。チチャロの指はリズミカルにパラパタと動き続ける。薄汚れた口髭の下で唇は笑みのため開かれていた。
アンジェリーリオは一一歳だった。午前中に学校に行き、午後には新聞の売り子をやっていた。その少年の肩は骨張っていて、曲がり、くる病を患っているのは一見して分かった。肉の付いていない痩せ細った首には長い年月、通りを駆け廻っているため塵や埃がこびり付いていた。薄紫色掛かった黄色い小さな顔に、何とも釣り合いが取れていない程、大きな栗色の目がくっ付いている。その目にはもはや子供のような無邪気さはなく、経験を積んだ大人のような陰険且つ狡猾な光が宿っていた。アンジェリーリオはどことなくエルフのような、そうサシィ[ブラジルの民話に登場する、一本足で赤い頭巾を被りパイプを咥えた妖精]と言うよりも恐らく、パック[シェークスピアの〈真夏の夜の夢〉に登場する妖精](黄金色の髪だった)と血縁があるのでは思われる節があった。少年の動作は小鳥のそれのように生き生きとしていた。その声は時には甲高く、またある時には嗄れていて、金切り声で言葉を発するや、その語尾は喉の奥に押し潰されるように尻切れトンボとなった。小さく、尖った歯を剥き出しにして笑う様は、常に人を騙してやろうというような悪意が込められていた。
独特の理由から、アンジェリーリオの母親は息子のことを“セッチ・メーイス[“七ヶ月”の意。正しくは、セッチ・メーゼス]”と呼んでいた。新聞の他の売り子たちの間では、単純に“セッチ”というあだ名で通っていたが……。その少年から新聞や雑誌をいつも購入する大部分の人々に対して、半分は真面目に、半分はからかいの意味を込めて、少年は“私の顧客様”という称号を与えていた。
アンジェリーリオの売り子としての縄張りはアンドラーダス通りと広場、そしてその周辺だった。時々、仕事に取り掛かる時間に遅れたり、あるいは少しばかり散歩をしたいと思った時などは“インデペンデンシィア”行きの路面電車に乗り、サンタ・カーザの手前で降りる。そして新聞の名を叫びながら、アンドラーダス通りを下って行くのだった。
その日の夕暮れ時、セッチは広場の歩道の方へと通りを横切っていた。脇の下に今日最後の“タルジ”紙を抱えていた。ズボンの外にほとんどシャツを出してはいるが、腹の辺りの部分がめくれ上がり露出している。ポケットに収められたニッケル硬貨が重い。“グローボ”紙の発売日だったから、今日の売り上げはたんまりあった。セッチは空を飛ぶ飛行機をいつも探しながら歩く癖があった。飛行機を、それも赤色と緑色の光を点滅させて夜空を飛んで行く飛行機を見るのが好きだった。頭を上げる。そして目に入ったのは、インペリオ・ビルの高みから落ちて来る“あるもの”だった。その“あるもの”の影が迫って来る……。呆気に取られてセッチは歩道に後退りし、身を縮こまらせて、目を閉じた。一陣の風が体の側を吹き抜けるように感じた。そして、大きな音が響き渡った。目を開けてみると、通りに一人の女性が倒れていた。きっと死んでいるだろう。しかし突然、誰かに突き飛ばされ、側溝にうつ伏せに倒れた。ニッケル硬貨がポケットからこぼれ落ち、地面にコロコロと転がった。セッチは駆ける人々の足の間を縫うように、狂ったように硬貨を掻き集め始めた……。
ノリヴァル・ペトラは食前酒の代金を支払うとテーブルから立ち上がり、バールの扉の方へと歩いて行った。丁度、歩道へと降り立った瞬間、一人の女がこちらに近づいて来るのを目にした。その場に立ち止まり、直立姿勢をとり、そちらをじっと見つめる。その見知らぬ女はショーウインドーの光に照らされた明るみを横切る。小麦色の肌で、漆黒の大きな目をしている。ノリヴァルは鼻腔を膨らませ、彼女の香水の匂いを嗅いだ。「アルページュだ」。こちらに一瞥をくれるのを待ったが、その女はそれをやらなかった。黒々とした欲望を漲らせて、その女の張りのある尻を舐めるように見つめた。その脚は思ったよりもずっと優美で、すらりとしているかもしれない、と結論づけた。その女のことを忘れる。それとは他の性質の事柄が心配でならなかったからだ。俺の人生は非常に厄介な状態にある。様々な物事が極度の緊張状態にあり、次から次へと醜聞が持ち上がる。体裁を保ち続けるのは、もう不可能だ。蓋をしなければならない穴が無数にある。他人に服を着せるために聖人の服を剥ぎ取るといった大昔のゲームをやるのは、すでに現実的ではない。ノリヴァルは最後の切り札を出す決意をしていた。手許に残っている最後の証券類を手放し、支払い拒否の瀬戸際にある約束手形の支払いに充てようと考えていた。債権者には明日の午前中に、登記所にそれらの証券類を持って行くと知らせてあった。明日か……。明日は聖土曜日だ。それで、この俺がユダなのだろう。通りの方を指差し、今日の演題は……。お前は福音を聞きたいのか? 我々はペトラに約束手形の支払いを要求する……。遅かれ早かれ其奴らはドツボに嵌るだろう。ざまあみやがれ。ハレルヤ!
ノリヴァルはまだ子供だった頃の、大昔のある土曜日のことを思い出した。その日、俺はアルモニア広場でカエサル顔の一人のユダヤ人を焼き殺すのを手伝っていた。そのグループの一員であったジュッカはいつもそうであるように怯えた様子で始終、こんな風に言い続けていた。「ノリ、帰ろうよ。警察がやって来るかもしれないよ」。そうとも、証券類を売り捌く男こそ、忠実なる番犬である、そのジュッカだ。
往来を歩く、先程とは別の一人の女を目にし、一瞬ではあるが商売のことを忘れた。俺の好みのタイプだ。そう、ノリヴァルは思った。一八歳か、二〇歳ぐらいか、良い身体つきをしてやがる……。
緑色の洋服を身にまとった娘がショーウインドーの明るみに足を踏み入れた。気取った雰囲気を漂わせ、大股で、足早且つ確固とした足取りで歩いて行く。絹のブラウスの下で、小ぶりな胸が半球のゼラチンのように歩調に合わせてゆらゆらと揺れている。ノリヴァルはその娘が目の前を通り過ぎる時、じっとその顔を凝視し、熱っぽい視線を送った。あの小悪魔はどこのどいつだろう? 気取った仕草でネクタイに手をやる。その見知らぬ女の後についていこうかと思ったが、直ぐさまその考えを却下した。夕食の時間までに家に帰らなければならない。リンダは俺抜きで食事の席につくことはない。加えて俺自身、遅刻する者には我慢ならない。人生において、時間が全てなのだ。自分自身、規則正しい人間であることに誇りを感じている。ルーチンを毛嫌いするのと同じ情熱を持って、秩序を愛している。別れの一瞥をその娘に送ると、自らの視界からその姿を消し去った。
大股で通りを横切り、車が駐車してある広場の方向へと歩いて行った。習慣的とも言える急ぎ足で歩を進めて行く。全速力で進む以外、俺はどうすることもできないのだ。優柔不断な人間や、のろまな人間、“思慮深い人間”と呼ばれている人々には辟易していた。ちっぽけな取引きや、中々、利益が上がらない利幅の薄い商売、日銭を稼ぐことに奔走する小売人たち、それにちんけな手数料等を憎悪していた。壮観とも言える、予期せぬ出来事に日々、魅了されて生きて来た。自らの直感や、運というものを信じていた。商売上の成功というものは大胆さに裏打ちされた“予測”のいかんで決まると確信していた。些細な取引きを提示されようものなら、「それは、ポルトガル人向きのものだ」と、答えたものだ。ちっぽけで、危険の伴わない、ゆったり、のんびりとした、ありとあらゆるものに対して、息苦しささえ感じるのだった。貧困に喘いで生活している連中がいるが、俺には奴らのことが全く理解することができない。高級な服や、高価な香水、上等な食事が好きだ(親愛なる舶来物のワイン君!)ほとんど毎年、車を買い換えて来た。当然のことながら、最新のモデルを所望した。既婚の男というものは、車一台切りで生活できるはずがないと考えていた。
説明に窮する感覚、そう不吉な予感に囚われ、広場の角のところで立ち止まった。その感覚が心臓の辺りか、あるいは胃の辺りか、はたまた頭の辺りか、一体、どこで感じているものなのか分からなかった。それは学生の時分、試験の前夜に感じた感覚に酷似したものだった。
煙草に火を点ける。アンバサダーか……。モンテビデオに住んでいる友人がそれを五缶送って寄越した。モンテビデオか……。半ば不愉快な気分で、ノリヴァルは再び、今、直面している問題に思いを馳せた。それはたった二語に集約された考えであり、ここ最近の一週間、恐ろしい程、頻繁に魂に去来したものだった。“牢屋”か、それとも“逃亡”か。そうとも、俺が直面している状況はその“牢屋”か、“逃亡”か、どちらを選択するべきかというジレンマに立たされていると要約することができた。その他の選択肢はない。親類や、裕福な友人たちに援助を請おうと奔走したが、それも全て不首尾に終わった。
突如として、怒りが胸に沸々と込み上げて来て、マッチ棒を遠くに投げ捨てた。「不可能だ」。そう、心の中で呟いた。もし牢屋に放り込まれるようなことになったら、羞恥と悲しみでおっ死んじまうだろう。矯正施設の様を想像する。そこは嫌悪と、馬鹿らしさと、驚愕以外の何ものでもない! 死んだ方が数千倍ましだ。しかし、死ぬという選択肢はない……。何か他の解決策を見つけねば。そうせねば、そうとも、そうだとも! イライラした様子で煙を吐き出した。煙草の燃え止しが下唇にくっ付いている。ノリヴァルは一瞬だが、どのような醜聞を自分が被るのかを想像した。「知っているかい? ペトラが逮捕されたぞ」。連中はクラブや、ポーカーの輪で、その出来事について色々とコメントするだろう。それに工業センターの友人たちも、ビール仲間も同様だ。それらの人々の多くはきちんと理解してくれるだろう。しかし大部分の連中はここぞとばかりに、俺のことを誹謗中傷するだろう。腰抜けどもめ! そうこうする内に、全ての醜聞が暴露される。新聞に、訴訟、デマ、誇張された作り話……。そのような状況に置かれた人間にとって、唯一の救済策は“逃げる”ことだ。ウルグアイ、あるいはチリに亡命する。あるいは地獄にな! ここポルト・アレグレにはいられない。牢屋から解放されたとしても、破産した後、どのようにして生活すれば良いと言うのか? この俺は職を求めて奔走するという屈辱に耐え得る人間ではない……。
歩き続ける。借金額がいかほどになっているのか、心の中で計算してみようとした。秩序と、自らが信奉する方法論に対する愛情は有能な帳簿係の選出においても、“真の意味で傑出した”(ジュッカはそう評した)経理部門の組織作りにおいても、如実に表われていた。帳簿が正確無比で、経理操作も完璧であったにも関わらず、データそのものが間違っていたのである。よって、はじき出された数字は現実では有り得ない状況にあることを示していた。それはまさに架空記帳だった。ノリヴァルは今現在、どれほどの額の借金を抱えているのか知らなかった。少なくとも七〇〇コント以下では事業を建て直すことは到底、不可能だという、漠然とした考えを持っていた。
今一つ、さらに心の内から遠ざけようとしていたことがあった。何とかしてそれを忘れようと努力するのだが、最後には心配と自責の念から自分の心がそれに占拠されるのだった。証券……、それらは元々、俺のものではなく、信用されて預かっているものだった。そうした証券を必要だからという理由で、持ち主の許可を得ずに少しずつ売却して行った。「それは窃盗だ!」。心の中で誰かが叫んだ。ノリヴァルは叫んだ者の顔を“見た”。憤怒で顔を真っ赤に染めたマンフレッド叔父貴だ。いつだって、誰も頼んでもいないのに助言や、訓戒を与える、あのマンフレッド・ペトラ叔父貴だ。闇両替商のペトラ叔父貴。誰一人として、あの叔父貴が汚い取引きに身を染めているのか知らないとは……。
ベージュ色のリンカーンの前で立ち止まった。映画館の玄関口を見やる。まだネオンが灯されていなかったため、庇の上に設えられた文字を読むことができなかった。妻と姪っ子を映画に連れて行ってやらねば……。俺も息抜きが必要だ。可哀想なリンダ! 奴はどうなってしまうのだろう? 妻は今、俺が置かれている状況を知らない。俺は最後の最後まで全てを隠しておこうと思っている。後になって、海外から手紙を書いて事情を説明した方がずっとやり易い。妻もきっと理解してくれるだろう。
ノリヴァルは周りを見廻した。昔の広場がどんな感じだったかを思い出す。大学の予科に通っていた頃、自分がそこを歩いている姿を目にする。吸い殻を投げ捨て、靴の先で揉み消すと物思いに耽り始めた。
「やあ、老ノリヴァル!」
ノリヴァルはさっと頭を上げた。側を通り掛かった知人の姿を認めると、叫んだ。
「やあ! 林檎付きの鴨料理、いつ食べに行くかい?」
知人は立ち止まらず、顔を巡らすと、叫び返した。
「いつだって良いぞ」
食い意地を張っていた頃が懐かしい。ノリヴァルはフロリッパ[サンタ・カタリーナ州の州都フロリアノポリスの略名。ここでは売春を斡旋する家の女主人の愛称名]の屋敷で、友人たちや“女の子たち”と楽しんだ、決して忘れることができない晩餐会のことを思い出した。アルゼンチン産の雉に、フランス産のワイン。最後に行った宴会では、四コント出費した。「人生は短い、だから大いに楽しまなければならない」。常軌を逸した行動を批難する人々に俺はいつもそのように言っていた。学生時代の思い出の中で、幾何学式や、化学式、世界史のフレーズ、名称等とない混ぜになって、英語で読んだフレデリック・フィッツジェラルドの詩句の一節が記憶の中に生き生きと残っている。英語の原文は覚えていないが、アルフレッド神父が鼻に掛かった声で翻訳してくれた文章は今でもはっきりと覚えている。
“人生は夏の日のごとし。そう、光陰矢のごとしである。太陽は眩い光を放ち、やがてはそれも消え失せ、足早に夜が訪れる”
そうとも、人生は夏の日のようなものなのだ。日差しは長くは続かない。だから大いに楽しまなければならないのだ!
ボタフォゴ通りに住んでいた少女の許を訪ねた、ある晩のことを思い出した。いいや……。リンダを映画に連れて行った方が良い。可哀想に! モンテビデオから全てを説明した、心のこもった手紙を送れば良いだろう。その後、人生を建て直す。出費を抑え、車は一台切りで満足し、服もそれほど沢山買わない……。
しかし実際のところ、ノリヴァルは未だそれほど深刻に“逃亡”計画を練っていた訳ではなかった。突如として他の解決策が思いつく可能性だってある。そこいらの犯罪者のように逃げなければならないという強迫観念に対して、ぼんやりとだが腹立たしさを感じていた。この俺様、ノリヴァル・ペトラがそんなことできようか!
インペリオ・ビルの上階から女性が飛び降りるのを目撃したのは、まさにその瞬間だった。目に見えない鉤爪で心臓と喉許を鷲掴みされたかのように呼吸が止まった。魅入られたかのように、女の体が落下する様を目で追う。足先から落ちて来るそれを目にし、ぞっとした。異常とも言える大きな音が聞こえ、吐き気を伴った痛々しいばかりの身震いに苛まれた。しばしの間、何が起こったのかきちんと理解することができなかった。苦く、ネバネバした唾液が口の中に溢れて来るのを感じる。興奮と同時に戸惑いを覚え、その場に立ち尽くしていた。一体、誰だろう? 知り合いか? その場から逃げ去る気分で通りの中程に向かって走って行った。我々は恐れを催させる人やものから離れる代わりに、逆に近づいて行くことがある。嫌々ながら亡骸から二メートルばかり離れたところで立ち止まった。血を見るのは恐ろしい。見知らぬ女性の遺体の方に目をやる。蒼白な顔に、ガラスのような両目はかっと見開かれている。しかし幸いにもいかなる血の滴りも見られない。亡骸は実に奇妙な状態であった。その女性は捲れ上がることなく、きちんと服を下ろし、体の脇に腕を真っ直ぐ伸ばし、言うなれば実に行儀の良い姿勢を保っていた。その様はまるで眠るために静かに横たわっているように思われた。その女性と一度も会ったことがないことを確認するため、時間を掛けてじっくりとその顔を見つめた。身を翻すと茫然自失の体たらくで歩き始めた。俺は死の光景に立ち会うことを憎悪していたし、そういった状況に直面するのも敢えて避けていた。自分は決して死ぬことはないと言わんばかりに常々、振舞っていた。通夜にも足を運ばなかったし、病人を見舞うこともなかった。乞食に物乞いをされた時など僅かに苛立ちを覚えつつ、過度ともいえる施しを与えた。死や、貧困、汚物、血、悪臭等、それら全てがこの俺の目、鼻、思考から遠く離れた場所にあるべきなのだ。
ノリヴァルは車の方には戻らず、再びバールの方へと足を向けた。周りでは人々は駆け回り、盛んに会話が交わされている。自殺のニュースは速やかに人々の許に届き、ほとんど全ての人々は“例のものを見る”ために食事の席を立つだろう。
「ボーイ!」
ノリヴァルは帽子を脱ぎ、それを椅子の上に放り投げると、そう叫んだ。
誰も姿を現わさない。
「ボーイ!」
皆は自殺した女のことが気になってしょうがないのだろう。バールは閑散としていた。ノリヴァルは数分待たねばならなかった。ようやく従業員が姿を現わすとカクテルを一杯注文した。
「マティーニですか?」
「いいや、シャンペーンを頼む」
「人生は夏の日のごとし」と、アルフレッド神父がノリヴァルの心の中で語り掛けて来た。さらに「足早に夜が訪れる」、と。
「おい! 舶来物のシャンペーンだぞ。分かったか?」
激しい耳鳴りがする。さらに頭に、腕、脚が痛い。手は微かに震えている。最悪だ……。ノリヴァルはあの轟くような大きな音が何処から発せられたのか分からなかった。どうして血が流れていなかったのだろう? 頸辺りを棍棒で殴りつけられた男のようにゆっくりと頭を振った。シャワーを浴びていて、不意に耳に水が入った時に感じる感覚に似ている。ガラス器に閉じ込められているかのように、くぐもった物音が耳許に届く。
事件についてコメントを交わしながら、人々がバールに入って来た。キャッシャー担当の赤ら顔で、白髪混じりのイタリア人の女性が客と話をしている。
「一方の足は靴を履いていたのだが、他方の足は靴が脱げていたのだ」
客の男は平土間席に集う観客に視線を送るように周りを見廻しながら、大声で言った。
「奴さんは目をかっと見開いていて、全てを目にしているように思えたよ。あんな亡骸はこれまで見たことがない。頭は全く無傷のようだったしな」
「片方の靴は脱いでいたってことかしら?」と、イタリア人従業員が尋ねた。
「恐らく靴の踵が地面にぶつかった時、二つの内の一つは遠くに飛んで行ったのだろうよ。その女は足から落っこちたのだからな。あんなのは、今まで一度として見たことがない……」
赤ら顔の女は身震いした。
しばらくするとボーイはカクテルを運んで来た。ノリヴァルは盃を掴むと口許に持って行き、一気にそれを飲み干した。
「もう一杯、頼む!」
息もつく暇もなく、そう言った。
「待った。二杯、いっぺんに持って来てくれ」
人生は夏の日のごとし、だ。心配するのは馬鹿者だけだ。マンフレッド叔父貴なんて糞喰らえだ。道徳を説く連中も地獄に落ちろ。足早に夜がやって来るのだ。少なくともあの女は勇気がある。彼女は意を決し、身投げしたのだ。ドシィン! 体中の骨は全部、バラバラに砕け散ってしまっただろう。しかし奇妙にも血を一滴も流さなかった……。
ノリヴァルは悪寒を感じた。席の横に吊られた鏡で自分の姿を見やる。想像していたほど蒼白顔ではない。しかし耳は真っ赤で、燃えるように熱い。
あの女は勇気があった……。一体、誰だろう? あの顔はこれまで一度として見たことがない。きっと処女喪失とかいう、言い古されたストーリーだろう。頭の中に次から次へと様々な名前や、顔つき、場面が浮かんでは、消えて行った。俺は良心の呵責など感じない。感じるべきではないのだ。夏の日の終わりに漆黒の夜がやって来る。良心なんていうものは馬鹿者のためのものだ。あるいは臆病者のためのものだとも。俺は臆病者ではない。自殺したからといって、何ら解決にはならない。あの女は一瞬だが、気弱な気持ちになってしまったのだろう……。
さらに二杯、カクテルが運ばれて来た。その内の一杯の中身をごくりと飲んだ。力を込めてクリスタル製の柄を握り締める。しかし……。もしインペリオ・ビルの最上階から身投げする行為を臆病だと断じるなら一体、他のどの行為が勇敢だと言えるのだろうか。俺には分からない。恐らくあの女は気が狂っていたのだろう……。
もう一口飲む。いずれにせよ男であれ、女であれ、あのようなことをする権利はない。自らの命を絶ち、人生から逃避する。逃避する、か。モンテビデオへか、サンチアーゴへか、あるいは地獄へか! 自殺現場に群がっていたあの物見高い連中に、この俺が被告席に座っている様や、矯正施設に収容されている姿を見せるようなことは絶対にあってはならない。面会は日曜日に行われ、菓子や、果物が差し入れられる……。決めたぞ。モンテビデオに逃げよう。ジュッカは証券類を売り払ってくれるし、全ての段取りを整えてくれる。偉大なる友たるジュッカ……。あの大きな子供のような純朴な仕草、誠実にして献身的な態度、類い稀な才能……。俺はジュッカのことが好きだ。三杯目の盃を飲み干す。ふわふわと軽やかに空を飛んでいるような気分だ。亡くなったあの女のことが気の毒でならない。亡くなっていないと言える者など、どこにいよう? もし生きていたとしたら、それこそ奇跡だ……。奇跡のみがあの女を救うことができるのだ……。そしてこの俺も、だ。「私は聖母マリア様のことを信じています。ですから、どうか私に災いが降り掛からないようご守護ください」。車を九〇キロでぶっ飛ばそう。そうすれば月曜日には、モンテビデオに着いていることになる。
「もう一杯、頼む! おい! ボーイ! お代わりを頼む」
舌がネバネバしているように感じ、声は嗄れていた。まるで舌がもつれてしまっているかのようだ。給仕が空いたグラスを下げた。ノリヴァルは彼にチップを大盤振る舞いしてやろうと考えた。人は貧困に苦しんで生きるべきではない。人生は夏の日のごとしであり、足早に夜が訪れるのだから。
救急車のサイレンが長々と響き渡っている。ノリヴァルは四杯目のカクテルを飲み始めた。自殺した女のことを考えた。血の気が失せた顔、眩いばかりの金髪、見開かれた目等、次々に思い出される。妻や、姪っ子のことが懐かしい……。万端整ったら、ウルグアイから彼女らに送金しよう。俺はいつだって上手くやってのける……。皆もそう言っている。何人に告げることなく、夜が明ける。ジュッカだけがそれを知っている。奴が俺との別離に涙を流すことに、五〇〇ミル・レイス賭けても良い。奴は寛大な心の持ち主だ。さらばだ、ジュッカ! 後に残った人たちの世話を頼む。さらばだ! サイレンの唸り声が遠くで聞こえる……。
再び、あの亡くなった女のことを考えた。すると目に涙が溢れて来た。
新聞はジョアーナ・カレフスカ事件に多くの紙面を割かなかった。しかしながら街中のほとんど全ての人々は口伝てで、その事件の詳細について語り合っていた。
「その若い女はすんでのところで、バヘイロ博士の車の上に落っこちそうだったらしい」
アリスチィーデス・バヘイロは“保守派階級”と呼ばれる社会集団に所属していた。彼は“地方保険会社”の取締役の一人であり、有力な弁護士事務所のトップを担っていて、様々な工業分野に興味を持っていた。そして、その名は一般企業や、慈善団体を取り扱った新聞記事に頻繁に現われた。あるいは記事の署名や、銀行や製造業の報告書の執筆者名、祝宴の招待客リスト、さらには著名人リストにも、その名がしばしば見られた。彼の人格面には未だロマンチックな魅力の片鱗が垣間見られた。それは州議会議員として、議会で行った演説が熱狂的とも言える議論を生み、往来でその演説の中にあって、人々の心を最も揺り動かせた一節が声高に繰り返し、叫ばれた時分に培われたものだった。当時、新聞は彼のことを“与党議員団の青年ダルタニャン[アレクサンドル・デュマ作〈三銃士〉の主人公の名]”、あるいは“共和党のミラボー[Honoré Gabriel Riqueti, Count of Mirabeau(1749-1791):フランス革命初期の中心的指導者]”と呼んでいた。彼の好戦的な仕草や、機知に富んだ言葉、大言壮語な雄弁ぶりを巡って様々な物語や逸話、伝説が生み出された。一度ならずも、アリスチィーデスは決闘に巻き込まれたことがあった。実際には決して行われることのない、いつもお決まりの両者の仲介者によって協議された “名誉ある合意”によって、幕引きが行われる決闘であったが。そして、その旨は正式な議事録に記録された。和平合意がなされると、アリスチィーデスは兄弟愛に満ちた感情が迸る演説において、互いが被った侮辱を忘れるように仕向けた上、寛大にも政敵の方に手を差し出した。傍聴人らは感動して拍手を送る。こうして若きマスケット銃兵の伝説に輝かしい一章が加わるのだった。今日でも、街や、州全体を通して、アリスチィーデス・バヘイロ博士の演説の文言を僅かばかりの懐かしさを覚え、空で何度も繰り返し口にする多くの年老いた信奉家たちがいる。たとえばガスパール・ダ・シルヴェイラ・マルチンス[Gaspar da Silveira Martins(1835-1901):ブラジルの著名な行政官。帝政期に上院議員を務める]の棺を前にして、バヘイロ博士が演説した有名な文言がある。
“稲妻の力が護民官たる死者の体に宿っておりました。それにより、あなた様の言葉には漲る力が吹き込まれているのです。この棺の前に跪き、旗印のことも、秘めたる情熱も忘れ、我らは守護神にして英雄たる、あなた様の額に接吻いたします。なぜならば皆さん、ガスパール・マルチンス氏はいかなる政党にも属していませんでした。彼こそ、ここリオ・グランデの、ブラジルの、人類の一員だったのです!”
しかし一方で、言葉に流されることを良しとしない、他の年老いた政治屋たちもいた。彼らは煙草を刻みながら、物静かに懐疑的雰囲気を漂わせつつ、半ば目を閉じてブツブツと呟くのだった。
「バヘイロだって? 奴のことはよく知っているとも。何でも古い一族出の質の悪い奴だ。全くもって恥知らずの日和見主義者だとも。いつも政府側についておったよ」
アリスチィーデスは一九一六年に、聖職禄受給者であったエウゼビオ・モンターニャの一人娘と結婚した。義父は堅実な商売人で、アソーレス諸島の街を創設した直系一族の末裔だった。その義父が亡くなると、アリスチィーデスは彼の財産や、株、“地方保険会社”の地位、そしてデュッケ・デ・カシィーアス通りにある、彩色タイルで色取られた有名な屋敷を相続した。その屋敷は郷土史の中で半ば皮肉を込めて“聖職禄受給者の城”と命名されており、人々の間で知られていた。
街の中にあって、バヘイロ家は古株にして、なくてはならない存在だった。時折、一族の名声は騒動、あるいは醜聞の臭いのする事柄や、家人による目も当てられぬ事件によって、地の底に陥ることもあった。しかしそれも時を経て、“お城”での狂宴であるとか、子息によるアバンチュールだとか、あるいは前代議士による物議を醸す商取引きという理由で、元の状態に復した。バヘイロ博士の敵たちは(政界に身を置くことによって、数多の敵を持つことになった。さらに財政的、社会的隆盛を極めるに従い、その数は顕著に増えた)博士に関する醜聞や、笑い話を吹聴した。妻の母方がカングスー男爵の血筋にあり、その子孫であったことから、夫である博士のことを“男爵の孫”と人々は呼んだ。アリスチィーデスの金の匂いを嗅ぎつける鋭い嗅覚と、利幅の大きい商売に対する貪欲さを皮肉って常々、奴は“不正取引き”を臭わせる偽りの事業を営んでいるとか、あるいは実入りの良い専売権を牛耳っているといったニュースが飛び交った。クラブや、取引き所、あるいはカフェの仲間内で、博士に対して罵詈雑言を浴びせるのには事欠かなかった。皆は悪意を込めて、「アリスチィーデスのように賭けよう。きっと奴はすでにそこに首を突っ込んでいるに違いないから」などと、口々に皮肉った。
ヴェロニカ・バヘイロは皆の称賛を欲しいままにし、羨望の的たる女性だった。女性社交界に気品溢れる人物の象徴としてキラ星のごとく登場し、その上品な仕草や、洗練された嗜好は一つの基準と見なされていた。高貴で、慎ましやかな瀟洒とも言える服を身にまとい、品のあるローマの貴婦人のごとき雰囲気を醸し出していた。誰一人として、夫人が街の通りを歩いているのを見かけた者はいなかった。買い物をするため、極めて稀に市街地を訪れるのだが、決して車から降りることはなかった。車が店の前に停まると、店員が対応のため姿を現わした。彼らは皆、興奮した面持ちで最上の気配りを忘れなかった。「はい、ヴェロニカ夫人。当店に足をお運びになっていただき、光栄の至りです。何なりとお申しつけください」。婦人服調整師や店長が品物の品質を強調したい時には、「ヴェロニカ夫人がこれと同じものをお買い求められました……」、あるいは「昨日、ヴェロニカ夫人がこちらの品物をご覧になって、とてもお気に入りになりました……」と言うのが、常だった。また、もしある女性が自身を賓客と思わせたいという雰囲気が見受けられた場合には、さり気ない調子を努め、「そうですね……。昨日、ヴェロニカ・バヘイロさんにお話ししたばかりなのですが……」と言い、会話に引き込むのだった。
“聖職禄受給者の城”に関して、そこに足繁く通ったことを自慢できる者はほとんどいなかったが、馬鹿げた話が巷で語られていた。その大邸宅は古臭く、陰気な華麗さに彩られている、と言う。加えて、陰鬱な空気に支配されており、故人らの肖像画がずらりと飾られている、と言うことだった。しかしながら、別の人々はビロードと金箔がふんだんに用いられた、ケバケバしい趣味の家具類が設えられている、とも断言している。黒色の大理石張りの巨大な浴室には大きな鏡が何枚も吊り下げられていて、蛇口から吹き出る水は公共広場にある装飾が施された噴水のごとく実にカラフルである、と。その“城”の住人たちに対して、悪意を持つ者たちは仔細に渡る、荒唐無稽な作り話をまことしやかに囁き合っていた。バヘイロの家族は昼食時にはフランス語を、夕食時には英語を話す。食事中、ヴェロニカが男爵の生涯について講義し、揃いの服を身にまとった召使が料理を給仕している間、食堂は堅苦しく、荘重な静寂が漂っている。夕食後、娘のアウローラがピアノに向かい、クラシック曲を演奏し、その演奏が終わると、家族の皆は劇場にいるがごとく拍手を送る、と言うことであった。
しかし、そうした揶揄の奥底にあるものは不承不承の称賛であり、ヴェロニカ・バヘイロに対する秘密裏の敬意であり、ヴェロニカと親密になりたいという願望と、それに彼女のことを模倣したいという熱望の表われだと言えた。ヴェロニカのことを冷笑しようとする者たちでさえ、その女性が折り紙つきの血筋の持ち主であって、決して珍妙に陥ることなく着飾る術を知っていることを否定することはできなかった。だからと言って、完全に屈服することなく、常にヴェロニカを称賛する言葉を添えるのを忘れなかった。こんな感じにだ。「子供たちは母親の血筋を受け継いでいませんな」、と。さらには、「アウローラは頭が弱く、味も素っ気もないし……。アウレーリオは……。彼奴は大馬鹿者だ!」と、言う具合に。
アリスチィーデスについて、彼の政治的見解を口にする際の優柔不断さに反感を抱く者たちも、あるいは商売上の倫理観欠如を非難する者たちも、ある種の価値を認めてはいた。アリスチィーデスは個人的につき合う分には魅力的な男であった。ゆったりとした雰囲気に、人を包み込むような、加えて重々しい、心地良く響く声の持ち主で、対話者の話にじっと耳を傾ける仕草等は称賛に値した。常々、相手に対する自然なフランクさや、仲間であり、同時に兄でもあるかのような態度に、誰もが気楽さを覚えるのだった。分け隔てのない誠実さを持って、誰であれ同じように接した。それは相手が博士であれ、黒人であれ、金持ちであれ、通りにたむろする乞食であれ、決して変わることはなかった。
最近のことだが、バヘイロ家がゴシップのネタを提供した。それはアリスチィーデスの父親であるジョアキン・バヘイロが田舎を出て、息子とその嫁と同居するというニュースが人々の耳目を集めた時のことであった。彼の父親は共和党の老カウディーリョ[地方政治のボス]で、“コロネル[土地の顔役]・キム”と呼び慣らされていて、一人の男として、あるいは政治家として、陰鬱な歴史の一ページを飾った御仁であった。サンタ・マルタ郡の行政長官をほぼ三〇年に渡って務め、真の封建領主のごとく振舞っていた、と言うことだ。残虐な行為に手を染め、職権を乱用し、判事や検事を脅迫し、陪審員を支配下に置き、選挙においては不正行為を主導した。用心棒に囲まれて暮らし、数多の殺人を命じた。三〇年革命[ミナス・ジェライス州、パライーバ州、リオ・グランデ・ド・スル州が主導した武装蜂起]後、コロネル・キムの政治的威光に陰りが見え始めた。万策を尽くして、アリスチィーデスはもはや老いぼれ“男爵”の脅迫に怯えることのなくなった、その不毛の土地サンタ・マルタから父を引き離そうとした。新生サンタ・マルタは空港や、下水道網整備のため土地を譲渡し、連邦政府の守備部隊を受け入れた。そして老キムの話によれば、市長は“優れた、精気漲る若者たち”に、この街を委ねる、と言ったそうだ。
そのような紆余曲折の人生を経て、現在、キム・バヘイロは今や目立たないが勇猛にして、頑固な、仕事と義務に対して狂信的とも言える男たちの集合体の象徴たる、イグレージャ通りに聳え立つ、彩色タイルで彩られた荘重な屋敷の住人の一人となったのだった。
モンターニャ家の面々は川縁に建てられた粗末な小屋で、貧相な馬具屋を営み始めた。幾多の変遷を経た後、彼らは小規模ながら食料雑貨を扱う商人となり、やがてはホベリオ師と呼ばれる、富裕な大穀物商まで輩出するに至った。ホベリオ師は街に壮麗な大邸宅を建てたばかりか、彼の血筋を受け継ぐ最上の花を開花させたのでだった。その花こそエウゼビオで、後に三〇の建物と数百に上る価値ある株を所有し、商売に対して卓越した観察眼を備えた“聖職禄受給者モンターニャ”となるのだった。
カングスー男爵の血が混ざることにより、聖職禄受給者の家名に新たな品格が加えられたのである。エウゼビオがその男爵の娘と結婚した当時、彼の全ての農場が抵当に入れられていたこともあり、悪意のある人々は口々に「高貴な爵位を持つ者と無記名債務を持つ者が結婚した」と、囁き合っていた。その結婚の結果として、ヴェロニカが生まれたのだった。彼女はアソーレス人特有の勇猛果敢とも言える頑固さと、高貴な祖先らが有した誇り高き尊大さを受け継いでいるように思われた。
一九三二年、聖職禄受給者が亡くなってから二年後、大邸宅に全くもって奇妙な要素が加わった。それはアリスチィーデスの一番下の弟であるマルセーロだった。彼は陰気な男で、宗教にのめり込んでいて、自分には修道士になる天命があると言い、ほとんど獰猛といえるほど聖書の預言者に熱を上げていた。
そのような全てがその大邸宅に小説的な威光を付与し、それによって数多の伝説や逸話、それに象徴を生み出す豊かな根源と成ったのである。そして、その大邸宅に住む住人たちを巡って、根も葉もない様々な中傷や憶測、幻想が生み出されたのだった。
しかし本当のところ、デュッケ・デ・カシィーアス通りにある、その彩色タイルで色取られた屋敷の中で何が起こっているのか、正確に知る者は誰一人としていなかった。その屋敷の古参の住人たちは、その通りの名をイグレージャ通りと頑なまでに呼び続けている。
その聖金曜日の日暮れ時、アリスチィーデス・バヘイロは六時少し前に愛人宅を後にした。玄関口で待たせてあった車に乗り込むと(運転手は昔からの使用人で、全幅の信頼を寄せていた)、運転手に言った。
「アレイショ、自宅までやってくれ。プライア通りを通って行ってくれ。坂を上がって、ゆっくりと進んで行くんだぞ、分かったか?」
自宅に急いで帰る必要はない。アリスチィーデスはじっと考え込んでいた。思考を整え、最近起こったことを熟考し、生み出された困難な状況について考える必要がある。自分にとってあの罪の意識は不快であり、同時にその意識により自分自身を貶め、屈服させられているような感覚さえ覚えた。自身の封建的且つ専横的性格からして、違反者の役割を担うことや、被告人の地位に甘んじることなどできない。とどのつまり一人の男が働き、何年もの間、自らの独立を、最善を尽くして生きる権利を勝ち取るために努力するのだ。
通りの車道に不規則に敷かれた石の上を僅かに車体を揺らしながら、車は葬列を組むように進んで行った。街が始まる地点の川岸に沿って建ち並ぶ、古びた家々の上に夜の帳が徐々に降りて行く。ほぼ二〇〇年前に、聖職禄受給者モンターニャの祖先たちがあの地区に掘っ建て小屋を建てたのだ。アリスチィーデスはそれらの祖先たちの顔を想像した。目は半ば斜視で、顎は突き出ていて、そこに我の強さが窺われる。さらに、口はきっと引き結ばれていたに違いない。亡くなった義父の顔を思い出しながら、頭の中で彼らの顔つきを描いて行った。きっと彼らは歩くにしても、話すにしても、ゆったりとしていたのだろう。苛つくほど用心深く、野暮で、想像力を欠いた人々だったのだろう。働き者で、辛抱強く、ラバのように強情だったに違いない……。アリスチィーデスは車窓越しに郊外の景色を眺めた。子供たちが走り廻り、薄暗い石板敷きの歩道を人影が通り過ぎて行く。カフェや小さな食料品店の戸口から漏れる光で、あちこちに四角形の光溜まりができていた。
後、数分で再びヴェロニカと顔を合わせなければならない。昔は家に帰ることに喜びや安らぎ、それに包み込まれるような保護を感じていた。しかし今では、何となく押し潰されそうな、場違いの場所に迷い込んでしまったような感覚に襲われる。そう、あたかも通夜をしている、見知らぬ人の家に足を踏み入れてしまったかのような。ヴェロニカは氷のような冷ややかな雰囲気を漂わせていた。自分とモエマとの関係を知って以来、彼女は私のことを軽蔑するようになった。そのような状況に陥ってしまったこと自体、信じられなかった。二〇数年に渡る結婚生活の間、アリスチィーデスは一時的なアバンチュールに身を投じたことが一度ならずも何度かあった。そのいくつかは不倫相手の名が公になり、大スキャンダルになってしまったことさえある。そうであっても、ヴェロニカは一度として、それらを知ることはなかった。しかし今回のモエマとの関係は一過性の気紛れというよりも、何かより強い感情を抱いている。そして、あのことが起こったのだ……。
アリスチィーデスがあの酷い夜のことが忘れることができなかった。その日の夜、平静さを保つのに最大の努力を傾けつつ、妻は例の話題に触れたのだった……。邪な喜びを抱き、最も忌み嫌い、恐れていることに敢えて目を向けさせる、不可思議な魔力に取り憑かれ、その時の場面を再度、目にしていた。その日の晩、妻が発する言葉に憤怒の感情が含まれていることが分かった。ヴェロニカの唇は――聖職禄受給者の唇は薄く、常に非難の言葉を発するか、あるいは厳格な表情で相手を見据える準備が整っていた――苦々しい不平や、憎悪の叫びの奔流を辛うじて堰き止めているダムの堤のようだった。妻は“夫婦別居”という言葉をいかなる感情も混えずに冷ややかに発した。夫婦別居……。しかしながら……、夫婦別居とは……。ヴェロニカは気が狂ってしまっているに違いない。二人が置かれている現在のような状況下で、どうしたらそれが可能だと言えるのか……。“夫婦別居”などしたら、途轍もなく大きなスキャンダルを引き起こすことになる。妻も、この自分も、子供たちも、皆が甚大な被害を被るのは自明の理だ。それに中傷者らに好餌を与えることになるし、敵たちの冷笑と喜びを与える理由にも成りかねない。いずれにせよ、妻は社会における自らの立場を考慮に入れなければならない。この自分に関して言えば、商売上だけではなく、政治的にも、名門としての家名を汚すことがないよう配慮する必要があるのだ。いつの日か、州政府において高位のポストに就くという願望を昔から抱き続けている。夫婦別居なんて糞喰らえだ。その上、感情面でさえも大いなる厄災となるだろう。アリスチィーデスは屋敷を支配する雰囲気が、昔の時代を彷彿させる匂いが、安楽椅子が、日々繰り返されるルーチンが好きだった。台所の黒人お手伝いたちにさえも愛着を感じていた。里子たちも、洗濯女たちも、代子たちも、被保護者たちも、何世代にも渡ってつき合って来たモンターニャ家の人々も、全てが全て好きだったのである。あれら全ては――人々や、屋敷に設えられた家具類、絵画の類、器具、匂いや、物音に至るまで――アリスチィーデスの心に心地良い安らぎをもたらす集合体だった。私は家庭を愛している。家庭の外に、すでに妻が自分に与えることのできないものを求めているのに過ぎない。包み隠さず言うなら、妻がこれまで一度として私に強烈な満足感を与えてくれなかったもの、つまり燃えたぎる愛や、放縦な愛、若々しさに満ちた愛、肉欲に溺れることを恥としない、快楽に完全に身を任せる愛を家の外で探し求めていたのだ。
だが、夫婦別居とは! 幸いにも弟のマルセーロが仲裁に入ってくれて、その解決策が無分別であることを義姉に納得させた。弟が仲裁に入ったのは私の味方をしたからではなく、カトリック教徒としてその夫婦別居というものは許されないという理由からだった。
ああ! 全くもって、ここ二週間は拷問のようだった! アリスチィーデスは自宅に居ながら、自分自身が好ましからざる客、あるいは侵入者のような感覚を覚えずにはいられなかった。聖職禄受給者の肖像画さえも自分に対して、非難の視線を注いでいるように思われた。ヴェロニカは最低限必要な言葉のみしか口にしなかったし、一秒ですら夫の顔に視線を注ぐこともなかった。両者は表面上、以前のままであり続けるよう取り決めが行われた。しかし寝室は別となった。つまり現実的には二人の見知らぬ者同士が一軒の屋根の下で暮らしていることと同じだった。
マルセーロの執拗さに負けて、アリスチィーデスは妻の前で即刻、モエマとは手を切る約束をした。ヴェロニカは墓に閉じこもってでもいるかのように、いかなる感情をも顔に表わさず、黙ったままだった。その時、アリスチィーデスは妻を永久に失ったと悟ったのだった。
そうした居心地が悪く、道義的軋轢がのし掛かる環境の渦中に、今現在、私はいるのだ。
車はアンドラーダス通りに入って行った。アリスチィーデスはモエマのことを考えた。奴は“ブゥーテ・ドゥ・ディアブラ[美しい悪魔]”だ(脳裏に稲妻のごとくブールバール[大通り]を描いた小説の一節が浮かんだ)あの娘は小悪魔のように美しく、若々しい。
最近、アリスチィーデスがやりおおせた官能に満ちたアバンチュールは単に、一時的逃避に過ぎなかった。女性歌手や、うら若い召使、それに既婚の女性等がそのお相手だった。よって深刻なものでも、心を奪われるものでも、危険を伴うものでもなかった。そして今、五〇代に入って(それは五月の暑い日が続く頃のことで、その物語を知った友人たちは私のことをからかった)、モエマが姿を現わした。精神を刺激する強壮剤のごとき、あるいは血をたぎらせる刺激剤のごとき存在こそ、そのモエマだった。彼女が私の人生に姿を現わしたのはまさに私自身、商売や、様々な計画、野心、あるいは取るに足らない悪習に気を揉み、相対的な意味での安らぎの中で、年を取ることをすでに諦めていた頃だった。人生の中で自分が夢見ていた全てのものを、あるいはほとんど全てのものを手に入れていた。財政的にも豊かで、皆が羨むような地位にあり、その意味で適度に幸福だと言えた……。しかしながら、モエマだけがこの私に再びあの喜びを……(心の中においてさえ、その言葉を用いるのが憚られるが。そして、そのような私のことを酷く感傷的な男だと思うかもしれないが)、そう“愛”の喜びをもたらしてくれたのであった。どうしてそれが駄目なのか? 心の中で、自らが置かれている状況が馬鹿げていると思えば思うほど、その現実から逃げ出すことができなくなった。私はモエマの肉体の虜となったのだった。しかし、ただ彼女の肉体に溺れているだけなのか? 自らの心に渦巻く感情を徹底的に分析した。その感情は何かこう、単なる肉欲以外の何ものかが潜んでいるように思われてならなかった。それは新しく芽生えた優しさと言えようか、あるいは、もうこれから先、二度と持つことはないと考えていた、ある種の熱狂的な有頂天とでも言えようか、まさにそう言ったものだった。時折、もし狂気の沙汰とも言える今のような状況に身を置かなかったら、あるいは、もし娘と言っても、相応の年齢の女に恋い焦がれる老人のごとく、愚行を重ねることがなかったとしたら、と自問自答することがあった。そうした考えは終わりのない一種の自己批判と言えた。しかしながらモエマの魅力をそれほど感じることはない。彼女は礼儀正しく、優しく、高貴な感受性の持ち主である。決して馬鹿な女ではない。ある種の教養さえ身に付けている。あるいは、私はモエマを欲する余り、彼女のことを過大評価しているのだろうか? 性行為の巧みさと知能の高さとを混同しているのだろうか?
しかし単純な事実として、モエマは私が自宅で未だかつて受けたことのないような種類の愛撫をやってのける。私はヴェロニカのことを称賛している、そうとも、彼女のことを尊重しているし、愛してさえいるのだ。しかしモエマのそれとは別の方法で、だが。妻の支えや、助言、それに同伴は必要だ。なぜなら結局のところ、我々は共に年老いて行くのだから。モエマ……。ヴェロニカ……。彼女たちが演じる二つの世界の両方が私には必要なのだ。
「左に曲がってくれ」と、運転手に向かって叫んだ。
「そして、インペリオ・ビルの前を通ってくれ」
帰宅をなるったけ遅らせたかった。ヴェロニカは強情な女だ。日々、妻の顔に一つのサイン――それがどれだけ間接的なものであれ――、つまり軟化、あるいは赦しのサインが見られるのをじっと待っていた。しかしながら彼女は依然として、変わらず憎悪の表情を浮かべ続けていた。しかし……。それは憎悪ではない。それよりも、もっと悪いものだ。軽蔑だ。嫌悪だ。彼女が実際に口を開き、全てをぶちまけて、私自身に荒々しい反応を引き起こさせるよう仕向けてくれた方がずっとましだ。なぜなら突き詰めると、今のような状況に陥るに至ったのは、妻の方にも少しばかり責任があるからだ。妻はいつも冷ややかだった。我々が結婚した当初においても、それが礼儀と節度の境界を越えようが、越えまいが、妻は過度な愛撫をすることを決して許さなかった。全てが全てが抑制され、ヴェールに覆われていて、恥じらいの空気が漂っていた。そうした夫婦間の営みを見ていると、妻自身がその行為自体を拒否していて、結婚生活においてその行為こそ、最も忌むべきもので、いかなる清浄さも持たないものであるということを理解させたいと仕向けているように感じられた。アリスチィーデスは再び、いつも自分自身に対して行なっている言い訳を脳裏に呼び起こした。我々は結婚して二〇数年になるが、今日の今日まで私は妻の裸の姿を見たことがない。
車の詰め物が施された背もたれに体を寄り掛からせ、アリスチィーデスは心の中で黒々と渦巻く、ありとあらゆる自責の念を追い払おうとした。ここ数日間、何百回となく、自分に愛人がいるという事実を正当化するため、ありとあらゆる理由を心の中で列挙した。畜生め! 信心家ぶり、厳粛な雰囲気を漂わせていた、あの聖職禄受給者モンターニャでさえも三〇年もの間、ガゾーメトロ[1928年に竣工されたガス発電所]の近くに建てた家に妾を囲っていたではないか。まだ妻の存命中に、そうだったのだ! 互いに手紙の類いは交わさなかったが、暗黙且つ秘密裏の手段を持って、連絡を取り合っていた。妻たちは夫たちよりも早く年老いる。そして夫たちは愛人を囲うことになる。それがほとんど一つの伝統と言えた。人間という種族の血の中に脈々と流れ、受け継がれて来たことなのだ。愛人を囲うという行為は(ここでは、アリスチィーデスは自らの推論にほとんどユーモアとも言える調子を帯びさせていた)木靴や、ライスプディング、一連の悪習、習慣、道具類、そして迷信等と共に、ポルトガル人の祖先たちから受け継いだものなのだ。その後、生理学上、一人の男が一人以上の女を所有できるということが知られるようになったのである……。そういったことを考えるのと同時に、アリスチィーデスはそれらの考えが決して今、自分が置かれている状況を打破することも、少なくとも自責の念を和らげることも叶わないという、悲痛な思いに囚われるのだった。
帽子を脱ぎ、ハンカチで額を拭った。ハンカチ(それはモエマ自身が使っていたものだ)に染み込んだ香水の香りが車中全体に漂う。アリスチィーデスはモエマがしてくれた愛撫を一つ一つ反芻していた。彼女の髪はアザミのような野性味を帯びた香りがした。それは馬鹿げたことにサンタ・マルタで、一五歳の時分、つき合っていた遥か昔の恋人のことを、灯油の大型ランプのことを、さらにはよく耳にした小夜曲のことを思い出させた。モエマ……。黄金色の産毛の生えた、あの弾力のある、熱く、すべすべした肌……。アリスチィーデスが彼女の中で最も称賛しているのは、生命力と若々しさがその身体中から溢れ出している点だった。その娘は光と熱気を放出しているようにさえ思われた。それら全てが、この自分を興奮の坩堝へと投げ込み、いかなる恐れも消し去る、一種の陶酔状態にさせるのだった。
二一歳か。娘のアウローラと同い年だ。娘のことを考える。近頃、彼女の様子がおかしい。何か知ったのだろうか? 彼女も母親と同じように私のことを憎み、軽蔑するようになるのだろうか? アリスチィーデスはその考えを頭から追い払おうとした。とどのつまり、アウローラはことの当事者でもないし、私のことをとやかく言える立場の人間でもないのだ。それに決してことが勃発した、その理由を理解することもできないだろう。アウローラにせよ、マルセーロにせよ、これまでの人生において、妻というものを娶ったことがないのだから、知る由もないのだ。アリスチィーデスは娘のことを忘れ、全思考を弟の方へと向けた。奴のお陰で大災難に見舞われるのを回避することができた。だからと言って、弟の存在が家の雰囲気を良くすることに貢献した訳ではない。弟は言うなれば、あの馬鹿げた合意の、あの決して擁護することのできない状況の保証人なのだ。さらには生命の宿った、永久に朽ちることのない道義心であり、監視する目であり、私の目や、心の前に常に提示される警告でもあるのだ。ピューリタニズムを旨とし、聖職者こそ、自らの天職であると信じ込んでいるマルセーロが、あたかも人生たるものを熟知しているかのように……。もう二度とモエマの家には戻らない、全てを終わらせると言って、彼に嘘を付いた。弟は神について、神の御業について、私に説いて聞かせた。私は神を信じている。理屈の上では、私はカトリック教徒だ。少なくとも振りだけはそのようにしている。そうすることによって、この自分が尊敬に値する人物であるというレッテルが貼られ、友にするにしても最適であると見なされ、社会生活を送る上で強い助けとなり、弁護士としての職を得ることにもなった……。一度として、真剣に罪を巡る問題について検討を加えたことはなかった。不愉快、あるいは危険を伴う事柄から目を逸らす者のように、そうした類いの検討をすることなく、これまで生きて来たのだ。もっと後になって、歳を取ったら多分、魂の救済について考えることもあるだろう。しかし今の所はそれに対して、大きな不安がないというのが事実である。
車は広場の歩道に沿って、通りをスルスルと進んで行く。アリスチィーデスはぼんやりと外を眺めていた。突然、大きな物音がした。運転手は車を停車させた。
「どうしたのだ?」と、アリスチィーデスは尋ねた。
頭を巡らせることなく、アレイショは答えた。
「女が落ちて来ました。どこに落ちたのかは分かりませんが」
運転手はそう言うと、車の外に飛び出して行った。アリスチィーデスは車窓を通して、外を見やった。人々が駆けて来るのが見える……。自分も車から降りた。車の前輪の三メートル程先の地面に一人の女が横たわっているのが見えた。不快で、体を身震いさせた。横たわっている女の方の方に一瞥をくれ、それがモエマだと認めた……。
「屋上から飛び降りたみたいだぞ……」と、誰かが言った。
「屋上ではないぞ……。一三階からだ」と、別の誰かが訂正した。
アリスチィーデスは亡骸をじっと見つめていた……。どこで、どこのどいつが、あそこに横たわる亡骸と同じような表情を浮かべていたのを目にしたのだろう? 一瞬だが、記憶の奥底をひっくり返し、その答えを探した。二三年革命[リオ・グランデ・ド・スル州で十一ヶ月に渡って起こった武装蜂起]の時だ。私が所属していた分遣隊が冬のある明け方に、斬首された金髪の一人の若者を発見した。霜で頭髪は硬く凍っていて、喉笛はかっ切られており、血はすでに凝固していた。顔は真っ白で、その緑色の目はかっと見開かれ、ガラス玉のようだった……。
自分の横で、運転手はぶつぶつと呟いている。
「奴さん、男への当てつけだと賭けても良い」
アリスチィーデスは僅かではあるが喘いでいた。不可思議且つ言葉で言い表わせない理由から、自分自身にその自殺の“責任”があると考えていた。自ら説明できない感覚に胸が支配されている。もうすでに女の方を見てはいなかった。なぜなら人々が自分の前に群れを成して集まっていたからだった。人々の声が騒々しさを増す。半ば目眩を感じつつ車へと戻って行った。
「あの女を知っているかい?」と、運転手に尋ねた。
「いいえ、知りません。きっと、あのビルで働いているお手伝いでしょう。あの様子では……」
アリスチィーデスは車に乗り込むと、憔悴し切った様子でシートにどっと倒れ込んだ。
「アレイショ、車を出してくれ……」
軽くクラクションを鳴らしながら、車が動き始めた。通りは人で溢れ返っていて中々、車が通り抜けるための道が開かなかった。
アリスチィーデスはその自殺した女の姿を網膜に焼き付けた。その女の顔に、モエマのそれが認められた。通りに横たわっているあの女はモエマだ。あそこに彼女を横たわらせたままにしておくことに自責の念を感じる。自分には、その自殺の責任があるのだ。突如として、自分には体があると、今更ながら発見したかのように、疲労感に加え、老いを感じた。私の家が、私のスリッパが、私の椅子が、私の友人たちが欲しい。心を開くことのできる友人が。頭の中で、そのような友人がいるかどうか探した。誰もいない。私を取り囲み、微笑み掛け、願い事をし、直接にしろ、間接にしろ、この私に依存している数十人の人間たちの中に、私自身、心を開くことのできる人間は誰一人としていない。あそこなら、どうだろう……。告解室こそ唯一、心を開くことのできる場所だ。少なくとも自分自身の心情を吐露することができるだろう。
アリスチィーデスは黒々とした考えに身を委ねた。自分の車から僅か数歩の所に、それもこの自分がまさにその場所を通り過ぎようとした瞬間に、あの娘が落下して来たことは何かの知らせか、あるいは何らかの警告に違いない。聖金曜日である今日、モエマ宅を訪問したことは弟と交わした約束を違えたばかりか、ある意味で聖なる日を見くびっていることにもなりかねない。
車は坂を上って行く。アリスチィーデスはその居心地の悪い考えを頭から追い出そうとした。見知らぬ女の自殺によって、これほど多くの馬鹿げたことを考えるなんて信じられない……。しかし……、あの娘は一体、誰だろう? モエマのような娘……、アウローラのような……、そう私の娘かもしれない……、あるいは……(憎むべき考えが脳裏に去来した)愛人か。それ以上、考えたくない。もし、眠ることができたら……。そうとも、眠ることこそ、唯一の救済策なのだ。誰とも話すことなく、自室へと引きこもる。鎮静剤を一錠飲んで……。眠るのだ……。
全ての家人たちが家の中を歩き廻っているにはいるが、家はもぬけの殻のような雰囲気だろう。今の今となって、子供たちとこの自分がいかに疎遠であったのかに気づいた。奴らのことをほとんど何も知らない……。ヴェロニカと語り合うことはもはや叶わない。マルセーロは一人の友人から、監督官に姿を変えた。父親として、もはや猛獣の金切り声に似た身の毛もよだつ咳払いを家中のあちこちで上げ、病を患う老ライオンのごとく、巣穴たる自室に引きこもるのだ。
車はイグレージャ通りに入って行った。突如として、アリスチィーデスは大昔の、もうすでにほとんど忘れ去られていた不思議な出来事ではあるが、危険に直面した時に感じた、一種の快楽のようなものを感じた。自分が参戦した革命のことを思い出す。明け方に行われる戦闘を前に気分が鬱々としていたが、一旦、交戦状態になると、自分の中に新たな力が、興奮が、ほとんど野蛮とも言える誇りが沸き起こって来たのだった。
そういった心の昂りを胸に、アリスチィーデス・バヘイラは聖職禄受給者の屋敷に入って行ったのだった。
マリーナはグランデ・ホテルのバルコニーから身を乗り出し、広場を眺めていた。この時間帯が好きだ。ボタフォゴにある自宅では毎日、夕暮れ時に湾の水面を眺めるのが習慣だった。しかしリオ・デ・ジャネイロでは黄昏時は短く、夜が突如として山々の背から飛び出すかのように、瞬く間に街を覆い尽くしてしまう。ここはリオとは全く違う。空を染める、あれほど多くの色彩を見たことがないわ……。何とリオ・グランデの日没は緩やかなんでしょう!
夫を呼ぼうかと考えた。きっと無駄だわ。あの人は今、この瞬間の美しさを愛でるようなタイプではないもの。あの人は芸術家としてのキャリアや、栄光、名前について言及していないものに注意を払うことは決してないわ。新聞や雑誌などが、あの人の写った写真に付けるキャプションに異常なまでに執着しているように思えてならない。“私生活における指揮者レゼンジ”。“レンズに向かって微笑む、著名な作曲家ベルナルド・レゼンジ”。“ファンにサインをするブラジルのストコフスキー[Leopold Antoni Stanislaw Boleslawowicz Stokowski(1882-1977):イギリス生まれの二〇世紀における大指揮者。音の魔術師の異名を持つ]”。
マリーナはその場を離れた。この時間帯は心地良い眠気を、少しばかり物悲しい、打ち捨てられたような気怠さを、それに三八歳になる今、私の心に頻繁に去来する精神状態に酷似したものを感じる。それは一種の意欲の喪失とも言え、ほとんど享楽的とも言える弛緩であり、静寂と孤独への願望と言い表わすこともできよう。私は自分らしく生きているとは言えない。生きるがままに生きているに過ぎない。何一つとして計画もない。希望を抱くこともない。娘の死後、自分にとって、人生はその意味を全て失い、空っぽになってしまったのだ。だからと言って、私自身、死を望んだり、自分を責め苛んだり、じわじわと自分を死に追いやることを望んでいる訳ではない。もし自身が乞い、望む何らかの奇跡が起こったとしたら、人生の車輪を後戻りさせて、妊娠初期の兆候を発見した日に戻って、そこから再び人生をやり直せるように懇願するだろう。そうなれば私にとって、時間はいつ果てることのない祝宴の様相を呈し始めることになるだろう。マリーナは夢にまで見る人形を一つすら買い与えてもらえないような、実に貧しい幼少時代を送った。その時代、彼女に与えられたものは、空想と布製の醜い魔女の人形だけだった。しかしながらジィシィーニャが生まれることによって、そうした全ての埋め合わせがなされたのだった。マリーナはその生命の宿る人形で遊ぶようになった。その人形に服を着せ、それが自分に微笑み掛け、歩き方を学ぶ様を目にし、「ママ」とたどたどしく言うのを耳にした……。それは成長して行き、自分の考えを表現するようになり、願望を持つようになり、人目を引く色のとても大きな目で物事を観察するようになったのだった……。十二歳になると、ジィシィーニャは厳粛且つ思慮深げな雰囲気を持つ娘となった。父親がピアノでベートーベンの曲を演奏するのに耳を傾け、中でも特にメヌエットと〈アパショナータ〉[ベートーベンのピアノソナタ第二三番へ短調〈熱情〉]”が好きだった。黙ったまま、半ば恐れ慄いているかのようにじっと音楽に聞き入っている。それはあたかも神秘的な出来事を目の前にしているかのようで、目は父親の手に釘づけだった。あの素早く動き回る指はメロディーそのもののようだわ……。
広場の生い茂る木々の上に、マリーナは娘の顔を認めた。その顔はありありと、はっきりとしていて、現実味を帯びていたいたため、身震いすら感じられた。ジィシィーニャは私をじっと見つめている、耳を澄ませて……。突如として身の毛がよだち、腕をさすった。迫り来る危険――空気中にその存在を感知した――を前に身を縮こまらせた。何か恐ろしいことが起こるのでは……。でも、それを目にしたくはない。この場から逃げ去り、全ての記憶を消し去り、叫び、笑い、誰かとお話しをして、そのイメージを遠ざけたい。しかしその場に留まり続けた。新たな苦悩に苛まれ、そのシーンが目の前で再現された。ジィシィーニャが棺の中に横たわっている。その顔はロウのように真っ白で、唇は紫色で、鼻はつんと尖っている。ああ神様、あそこに横たわっている、あの子の体はどうでしょう! もう立派な娘だと言ってもおかしくないわ……。マリーナは腕の肉に爪を食い込ませ、目を閉じた。閉じられた瞼の下で涙がはらはらと流れ落ちた。
死によってもたらされた表情を浮かべて、娘が私の心の中に姿を現わすのは耐え難いことだ。しかし、いつだって娘は生気に溢れ返り、生き生きとした姿で、私の目の前に立つ。彼女が実際に生きていて、その小さな体の中に熱い血潮が通い、この世界の輝きがその目に生気を与えているということを信じるべきであり、また信じる必要があるのだ。彼女が飛び跳ね、歌い、あれこれ問い掛け、叫び、猫の後について走り廻り、ピアノの鍵盤を叩き、叩き、叩き続ける様を想像した。マリーナは無我夢中に自らの腕をポンポンと叩いた。ジィシィーニャが死んでしまったと考えるのは、まさに裏切り行為なのだ。それは娘を今一度、殺すことであり、何度も何度も殺すこと同じことなのだから。娘がここから遠く離れたリオの墓地に、一人ぼっちで埋葬されているという事実を認めることは、実に恐ろしい……。マリーナは自らの思考と戦っていた。ジィシィーニャが這い這いをし始めた日のことを思い出そうとした。色取り取りの模様が描かれた(格子縞模様だったかしら、それとも花柄だったかしら)リノリウムの床の上を這い廻る子犬のように娘は体を動かし、ひとしきり動き廻った後に、その動きを止め、黄金色に輝く湖のほとりにちょこんと腰を下ろし、二つの円らな目で私の方を見上げていたわ。その目には驚いたような、同時にいたずらっぽい色が浮かんでいた。マリーナは目を閉じ続けていた。通りの物音がぼんやりと意識に届く。この自分が再び捕まえようとしている、あの失われた世界から聞こえて来る物音のようだわ。一瞬だが両腕をもたせ掛けているバルコニーの欄干の感触も、足が踏んでいるモザイク模様の床の感触も感じられなくなった。まるで時の流れの外にあって、空中に吊り下げられているような感じがするわ……。奇跡的とも言える一瞬ではあったが(それは数秒のことかしら、それとも数分のことかしら?)、私は生後六ヶ月のジィシィーニャを両腕に搔き抱いていた。赤子は目がほとんど見えないため、がむしゃらに母親の乳首を探している。マリーナは娘の濡れた、熱い唇が乳首に吸い付くのを感じ、痛々しいほど心地の良い身震いに襲われた。
愛撫に対する生暖かい欲求を胸に、現実へと引き戻された。しかし、それは苦悶に満ちた欲求なのだ。それにより欲求不満と苦痛がもたらされる。なぜならその欲求を感じているこの瞬間にも、今生きている世界で、私自身が望んでいるような愛撫をすることができる者は誰一人としていないということが分かっているからだ。ジィシィーニャは死んでしまった。それ以外に重要なことなど、何一つとして存在しない。
いいや、違う。必ずしも私の思考は否定的とは限らない。現実に抵抗しようとすることだってある。想像を働かせ、ジィシィーニャが世界のどこかで生き続けていると考えるように努めることだってある。ジィシィーニャが好きだったものは――モーツアルトの音楽や、虹、星、それに人形――死に絶えてはいない。何度も姿を現わし、目にすることも、耳にすることも、触ることもできるのだ。どのようにしたら、ジィシィーニャが完全に死んでしまったと言えようか? ある意味、ジィシィーニャは〈アパショナータ〉の旋律の中で、空を染める色の中で(特にあの黄昏時の色に染まる地平線の中で)、ショーウインドーに並ぶ、彼女がお気に入りだった全ての人形たちの中で生き続けているのだ。そんな風にありとあらゆる場所をあの子が私と歩き廻っていると想像するのだ。時々、ベルナルドは私が独りで話しをしている様を目にし、ギョッとした。娘に小声で尋ねることさえあったのだ。こんな風に……。
「ジィシィーニャ、あのお花、どう思う?」
甘く、感傷的な愚行だわ……。
そうとも。私は抵抗すべきなのだ。屈服してしまうのは最悪だ。それこそ裏切りだ、それも恐ろしい裏切りだわ。誰よりも、私、マリーナが娘のジィシィーニャは未だ私の横を歩いていると信じなければならないのだ。ああ……。少なくともベルナルドがそんな私を助けてくれたら、どれほど素晴らしいだろう。何年も間、私はあの男――いつの日だったか、恥ずかしくなるほど溺愛するようになった――の影として付き従う以外のことをしなかった。それからずっと後になって、人生は私により深い経験を、ベルナルドに自身の内面に秘められた高潔さを明らかにする機会を授けたのだった。さらにずっと後になって、私は夫が高潔どころかエゴの塊であり、虚栄心にに満ちた凡庸な人間に過ぎないということに気がついた。
マリーナは夜気を吸い込んだ。枯葉を焼く匂いがする。ノーヴァ・フリブルゴ[リオ・デ・ジャネイロ州にある町の名]の通りを心の中で描く。夕暮れに映える焚き火の光が見える。遠くで、犬が鳴いている。青色のガラスのような空に宵の星が瞬いている。しかし、それら全ては遥か彼方に、取り返しがつかないほど彼方にあるのだ……。
もう少しすると、ベルナルドは大声を上げるだろう。「マリーナ、私のネクタイはどこだ? 私のチョッキをどこにしまったんだ? 私のタイピンは?」。精力を漲らせ、横柄とも言える確信を持って、夫は“私の”という所有格を頻繁に用いる。この世界は自分に拍手を送るためだけに創られているとでも思っているのだろうか。で、この私は何百人もの女たちが溜息をつくような素晴らしい男と一緒に生活できることを天に感謝し、その男に仕え、その男を賞賛するのが当たり前だと考えているようだ。
幾ばくかの期間、マリーナはジィシィーニャが父親の精神に有益な影響を与える可能性があるという希望を抱いていた。それによって、夫の中で微睡んでいた感情が目覚め、人や、事物をより深く理解するようになるのでは、と考えたのだった。結局のところ、人生はそのように浪費するにはあまりにも深刻過ぎたのである。しかしながらベルナルドはジィシィーヤが将来、有名なピアニストになると考えていた。ピアノレッスンを始め、娘に関して途方も無い計画を策定し、彼女に輝かしいキャリアを予見し、いつの日かジィシィーニャと共演して、チャイコフスキーのピアノ協奏曲を大オーケストラで指揮してやると言うのを殊の外、好んでいた。そのような幻想を抱いていたのであった。実際のところ――それがなかったのだが――、娘の中にピアニストとしての天分を見い出していたのである。娘は感受性が強く、繊細で、音楽を鑑賞することはできたが、それに対して特別な解釈を加える能力は備わっていなかった。だからと言って、モーツアルトや、ベートーベンの曲を聴いて、感動のあまり涙を流すことの妨げにはならなかった。ベルナルドにとって、娘の死はほとんど演技がかった苦悩を爆発させる格好の理由となった。娘を失った父親というだけではない。自らがその成功を夢にまで見たソリストを失った、オーケストラの指揮者でもあったのだった。将来を嘱望された大ピアニストが永久にこの世から消え去ってしまったのである。娘の死から数週間後のこと、ある演奏会でベルナルド・レゼンジはラベルの〈亡き女王のためのパヴァーヌ〉を指揮している最中、娘の死を思い出して目に涙を湛えていた。
もう何千回となるが、マリーナは今、夫に対して自らが抱いている感情を分析してみようとした。彼にうんざりしているのか? いいや。問題はそれほど単純なことではない。複雑なニュアンスを含み、定義づけるのに困難な輪郭を有しているのだ。一つだけ明らかなことがある。ノーヴァ・フリブルゴで夫と過ごしたある夏の頃ほど、彼のことを愛していないということだ。当時、私は二〇歳で、好奇心旺盛で、無知だった。夫は背が高く、人目を引く容姿で、ロマンチックな雰囲気を漂わせ、身振りも、言葉使いも演技がかっていて、これから先に待ち構えている未来に対する名声と栄光に飢えていた……。ベルナルドに対して私が感じていたのは、憐れみとない混ぜとなった母性的感情――それは冷ややかな義務感からというよりも、本能的に息子の世話をする母親的な感情に似通っていた――と、同棲の習慣を通して身に付いた、同伴者に対する穏やかとも言える愛着だった。なぜ夫を見捨てるのを戸惑っているのか? 時々、そう自分に問い掛けることがあった。そうした迷いの気持ちの奥底に、臆病な感情や、世界との関係を断ち切ることへの、あるいは新たな生活を始めることへの恐れの気持ちが渦巻いているのではなかろうか? 亡くなった娘の存在を通して、あるいは、ある時期に、私たち夫婦がその娘に全精力を込めて注いだ愛情と希望に関する思い出を通して、私は僅かばかり夫に愛情を感じているに過ぎない。そうした全ての理由と感情が入り混じることによって、言わばぼんやりとした、はっきりとしない意識の輪郭が形成されているのだ。そのような精神状態にいかなる名をつけて呼べば良いのか、あるいはどのように探し求めれば良いのかさえも、私には皆目、見当が付かない。なぜならば、そのようなことは全くもって無意味だからだ。決してベルナルドを見捨てる勇気など、この私にはない。そうした生気の抜けた決断の奥底には恐らく、四五歳にもなるのに未だ完全に大人になり切っていないあの男に対して、少しばかりの同情心があるからだろう。
マリーナが嫉妬心を抱くのを止めて、もう何年にもなる。ベルナルドは崇拝者の女性たちに囲まれて過ごして来た。彼女は夫がこれまでやってのけた、ほとんど全ての色恋沙汰を知っている。当てこすりと母親的な寛容さ、それらと同時に荒唐無稽とも言える憎しみが雑然と混ざり合い、夫の束の間の恋を“擁護”したのだった。それらの乱痴気騒ぎや、色恋沙汰が終わると、ベルナルドは後悔の念を胸に悪態をつきつつ、目を充血させて、眉間に皺を寄せて、数多の改心を誓う言葉を口に、自分の許に戻って来ることは百も承知だった。
「なあ、マリーナ、私は少しばかりこの気が散り過ぎる社会生活から退散することにするよ。例の交響曲を書き上げる必要があるのだ。主題は見つかったと思う。君は刃物の研ぎ師が奏でる、あの音楽を知っているかい?」
私は黙ったまま夫の話に耳を傾けていた。夫を落胆させるような言葉も、あるいは勇気づけるような偽善的な言葉も、一切口にしなかった。鎮静剤を一錠飲んで、我慢強くじっと夫の話を聞いていた。他の景色にベルナルドの視線を向けさせる望みは潰えたのだ。夫が空っぽで、無意味の、くだらない男だと思えてならなかった。夫は――誰も、それを否定することはないが――メロディーを生み出すためのある種の能力を身に付け、人生において好機と運、それもとても大きな幸運を手に入れた。その一方で、勝利を収めるための肯定的な要素として、彼の無知が用いられた。その勝利によって、自らの理解を超える大胆不敵さと、無分別さを身につける結果となった。そうしてベルナルド・レゼンジはブラジルきってのセレブへとのし上がったのだった。
マリーナは通りとの遠近感が失われた地平線をじっと見つめていた。その地平線はかつてヴァン・ゴッホの絵画で一度切りだが目にした、奇妙な緑色に染まっていた。全くもって常軌を逸した、非現実的な色合いだわ。狂気の沙汰としか思えない美しい光景を目の前にすると必ずと言って良いほど、心がいたく傷つけられる。心の中で鳴り響く、〈アパショナータ〉の最初の旋律に耳を傾け始める。そのソナタの導入部分は気高い感情の爆発であり、何かこう奇想天外な暴露がなされるためにカーテンがさっと開かれるような感じがした。そうとも、ジィシィーニャは生き続けていて、あの地平線を同じように眺めているのだ……。マリーナは再び、空中に吊り下げられているような感じがした。旋律が、空が、娘のイメージが同じ面に存在し、同じ世界に属し、走馬灯の影絵の一部を成しているのだ。
ベルナルドの声によって夢想から覚された。
「夕食に出掛けるのに、君は服を着替えないのかい?」
寝室の中から夫はそのように尋ねた。
マリーナは体のどこかの部分を引っ掻かれたような痛みを覚え、夫の方へと振り返った。
「直ぐに準備するわ」
バルコニーを後にする前に今一度、周りを――空を、木々を、広場を――目にしたいと思った。もう二度と目にすることのない世界に別れを告げるのを望んでいるかのように……。まさにその時である。隣のビルの高みから“なにか”が落ちるのがちらりと見えたのは。それが人間、それも女性であることが直感的に分かった……。体が萎えて、心臓が突然、パタリとその鼓動を止めてしまったかのように感じられた。マリーナは息苦しさを覚え、本能的に手を喉許に押し当てた。声を発することもできず、それが横たわるあそこ、あそこの地面に目が釘づけだった……。これまで、悪夢を見ているように見受けられる人々を目撃したことがある。そういった人々は一様に、全てを見ようと目を見開いているのだが、指一本動かすことも、一語として言葉を発することもできない。
ベルナルドはネクタイを結び、自作の〈ブラジル組曲〉の一節を口ずさみながらバルコニーまで歩み寄って来た。マリーナは不動の姿勢のままだった。夫が目の前にいることにより、声が甦って来るように感じられた。今、自分が目にしたことを語るために口を開いた。が、しかし不可思議な理由から、ベルナルドがそれを共有するのに値しない人物であるかのように、その“秘密”を胸の中にしまっておくことにした。偉大な作曲家にとって、一人の無名の女の死にいかなる重要性があるというのか? あの人にとって、ジィシィーニャの死が何だっていうのだろうか? マリーナは黙ったままじっと見つめ続けていた。人々が駆け寄り、その見知らぬ女性の周りに人集りができている……。
「一体、あれは何なんだい?」と、ベルナルドが尋ねた。
夫の方を見ずに、マリーナはのろのろと答えた。
「女の人があのビルの内の一つから飛び降りたのよ……」
「上の方の階からかい?」
マリーナは「そうだ」という具合に、頭を縦に振った。
「何て馬鹿げたことをしでかしたんだ!」
ベルナルドはそう評した。
「きっと自殺だろう。何て馬鹿げたことを!」
この私のことを侮辱しているように思えてならない。世界がとても良好で、あるいは全てが順風満帆に行っている時に、どこのどいつが敢えて自殺なんてするだろう? とりわけ一日の穏やかなこの時間帯に、人生において麗しく、栄光に満ちたこの時間帯に、そんなことをやってのけるとは、全くもって無分別としか言いようがない。同情の余地すらない。ベルナルドは興味なさそうに事故現場を見やりながら、ネクタイを結び続けていた。ネクタイを結び終わるや、「チッ、チッ」と舌を鳴らし――妻に対して、その件に関して、自分がどのように感じているのか、いかに動揺しているのかを伝えるために、何らかの合図を送らねば――、寝室へと引き上げて行った。
鏡に近づいて行き、たっぷり時間を掛けて自身の姿を観察した。面長で、美しさは若い頃と比べれば減じてはいるが、少しばかり威厳の備わった面構えだな。肌は艶のない小麦色で、目は漆黒で、飛び出していて、涙袋は日増しに大きく、目立つようになって来ている。ベルナルドは分厚い唇をした口の周りに丸括弧のごとくへばり付いている皺をかき消そうと、開いた手で顔をさすった。一歩、後ずさる。結局のところ、私のような年齢で、この私のように自身の姿を自慢できる人間はほとんどいないだろう。側頭部に白いものが混じった髪は黒々とした長髪の中にあって、見事なコントラストを成し――皆が、私にそう言っていたが――、独特な魅力を醸し出している。しかし、この額は……。苦々しい気持ちでそれを見やる。髪が少なくなるに従い、ますます額が後退して行っている。髪がなくなり、禿げになってしまうことは実に恐ろしい。それを解決してくれる医者はどこかにいまいか? 奇跡ともいえる手術を受け、ビタミン剤を含め、その他の風変わりな療法も試してみたが、抜け毛を解決する救済策は見つからなかった。
腹部の贅肉を吸い取る手術も受けたし、胸許の筋肉を増強させる施術も受けた。夕食にはレタスとトマトのサラダを食し、脂肪分は一切、摂取しなかった。しかしながら腰のラインもまた、心配の種だ。
「マリーナ、こっちに来ないかい?」
ベルナルドは椅子の背に掛けてある外套を掴むと、それに袖を通した。自殺のことを考える。頭の中に好奇心の影がひたひたと入り込んで来る。どこかの気狂い女だろう……。言い古されている例の物語だろう、不幸な恋だとか……。そうした考えに微笑んだ。もしあのような出来事がリオで起こったなら、不幸な女が一体誰なのか知ろうと気を揉み、不安に苛まれていただろう。
マリーナは寝室に入って来た。熱があるような感じがする。手は冷たく、汗ばんでいた。
「自殺だろうか?」
背広の胸ポケットのハンカチの位置を直しながら、ベルナルドはそう尋ねた。
マリーナは肩をすくめた。声の調子を変えず、ベッドの上にある新聞を掴み上げるとベルナルドは言った。
「今日の新聞記事を切り取って、ノートに貼るのを忘れないでくれよ。とても好意的な記事だよ。少しばかり短いがね。でも、悪くはないよ」
再び記事に目を通し始める。
“明日、聖土曜日にサン・ペドロ劇場にて、教育庁の協賛の下、音楽中央協会が企画するシリーズ物の最後の演奏会が開催される。その演奏会のため、特別にリオ・デ・ジャネイロで契約されたブラジルの著名なマエストロ、ベルナルド・レゼンジ氏が指揮者として登場する。明日の演奏会のプログラムはベートーベンの交響曲を始め、古今の作曲家の作品が織り交ぜられた選りすぐりのものである。著名なる作曲家ベルナルド・レゼンジ氏の手になる〈ブラジル組曲〉が、ここポルト・アレグレにおいて初演ということもあり、その好機に浴することができるのは光栄の至りである”
マリーナは受話器を取り上げた。
「もしもし! こちらは四〇三号室です」
半ば震える声で、そう電話口に向かって告げた。
「あそこの広場で何が起こったか、教えていただけますか?」
守衛の声が返って来る。
「一人の女性がインペリオ・ビルから飛び降りたようです」
「その方がどなたかご存知ですか?」
「いいえ、奥様。誰も知らないのです」
「ありがとう」
マリーナは受話器を元の位置に戻すと、再び鏡の前に立っている夫の方を見やった。
「出掛けるかい?」
「あなた一人で行って頂戴」
「夕食をここに持って来させようか?」
いかなる熱意も込めず、そう尋ねた。
「ありがとう。でも、私は夕食は止めておくわ」
ベルナルドはそれ以上、無理強いはしなかった。鏡に映る自分自身の姿を見つめている。
「私は少しばかり太ったかな?」
「いいえ、ベルナルド。そんなことはないわ。安心して」
ベルナルドは部屋で食事を摂るのが嫌いだった。レストランで人々に見られ、指を差され、批評されるのが好きだったのである。そうされることによって、気分が良くなるのだった。
最後に自分の姿に一瞥をくれると、寝室を出て行った。
「あんな高いところから飛び降りるなんて、何て勇気があるんでしょう」
そう、マリーナは考えた。
「人生がもっと単純で、それほど酷いものじゃなかったら、あんなことをするのは難しいでしょう。さほど重要ではなく、決定的な決心でないのなら敢えて、あのようなことをやってのけることは決してないでしょう」
電気を消し、ベッドに横になった。外はほとんど夜の闇が広がっている。救急車のサイレンの呻き声が空気を裂き、ここまで聞こえて来る。マリーナは恐怖に駆られ、喉許が締め付けられるような気分で、その音にじっと耳を澄ませていた。心臓がドクンドクンと普段では到底感じられないほど強く脈打つのを感じる。きっと、もう亡骸は運ばれて行っただろう……。その亡くなった女の顔を想像する……。きっと若い娘だろう(年老いた女は滅多に自殺などはしないから)……。多分、可愛らしい女の子だろう……。徐々にではあるが、その見知らぬ女性の顔が娘のジィシィーニャのそれと重なり合って行った。娘があそこのバルコニーの窓から数メートルのところにある通りに横たわっていている。見知らぬ人々に取り囲まれて、独りぼっちで……。再びあの恐ろしい音が耳許に蘇って来る……。何とも言葉で表現し難い、大きな衝突音が。ジィシィーニャの全身の骨はバラバラに砕け散ってしまっただろう……。マリーナの目に涙が溢れ出て来た。全てを忘れ去ろうと思い、目を閉じる。窓を通して、通りの街灯の弱々しい光が入り込んで来る。クラクションの音が一つ、また一つと鳴り響く。人々が上げる混乱に満ちたざわめき声が聞こえる……。
救急車はジィシィーニャの亡骸を運び去って行った。死体保管所の冷たいベッドに横たわる娘の姿が見える。独りぼっちで、見知らぬ人々に囲まれて……。
自らの心臓が脈打つ音が聞こえる。今の今ほど世界の孤独を、人生の無意味さをこれほど激しく感じたことはなかった。
一羽の燕が小塔に設えられた風見鶏の矢に止まり、窓に嵌め込まれた錬鉄の格子、あるいはコロニアル風の大型ランプと同様、屋敷の装飾要素の一つでもあるかのように、しばらくそこで不動の姿勢のまま羽根を休めていた。やがてそこから素早く飛び立つと空中に線を描き、庭に生えたポプラの樹の間を通り抜け、電話線の上に止まった。その燕の小さな目はスペイン伝道団様式のその家屋を凝視しているように思われた。屋敷の白壁は午後のオレンジ色の光を浴びていた。
最も大きな窓の格子の後方に女の影が現われた。ノーラは戸外を見やり、そこに燕がいるのを見つけた。一瞬ではあるが、女の子の目と燕のそれは求愛でもするかのように見つめ合った。燕だわ! きっと群れから逸れてしまったのでしょう。少なくとも、もしあの燕が進むべき道を知っていたら、私ならこんな風に叫ぶでしょう。
「ねえ、他の燕たちはあっちの方向に飛んで行ったわよ……。さようなら! よろしくと伝えておいてね……。でも、よろしくって誰に伝えるのかしら?」
そのように考えることによって、ノーラは気分が良くなった。なぜならそうした物語を作ることによって、詩や、音楽の一節、石版画の登場人物を想像できるからだ。燕との声なき対話は半分は真実で、半分はでっち上げだ。私は自分の役を演じ、同時にその演技を目にしている。女優として、そして観客として二役をこなすことはとても楽しいわ。
燕は尻尾を動かした。私が幼かった頃――ノーラは思い出した――、燕たちはフロックコートを着ていて、羽根の下に夏を携えていると考えていたわ。
ノーラはキスをするように口をすぼめ、唇が小鳥の黒い羽毛に触れるのを想像した。海風の新鮮で、塩辛い味がするわ。身を翻すと居間を横切り、黄色の花が活けられた花瓶が置かれた廊下で立ち止まった。書斎の扉が開いている。ノーラはその中に、窓の側の安楽椅子に腰を下ろす父の姿を認めた。
トニオ・サンチィアーゴは気怠い眠気に身を任せ目を閉じたまま、数多の顔が集う不可思議な地域から奏でられるメロディーの輪郭を追いかけていた。いくつかの顔は現実世界のもので、大多数の顔は自身の小説世界のもので、それ以外は今まで一度も見たことのない顔だった。時折、薄目を開け、日没が近づくにつれ、新たな色彩に染まり行く地平線を見やった。今、街の後方の地平線すれすれの混じりっ気のない青い空は薔薇色と赤紫色、それに金粉を撒き散らしたかのような黄金色の色合いを帯びている。家々や影は濃淡入り混じる、すみれ色に染まっている。川面のある部分は鏡のようにキラキラと輝いていて、他の部分は青鈍色がかった灰色をしていている。あちらに暗い箇所が、こちらに明るい箇所がある。さざ波が立っている部分もあれば、滑らかで穏やかな部分もある。川面には島々や、ホテイアオイ[ミズアオイ科の水生の多年草]、ボート、ブイ、ヨットが浮かんでいる……。トニオはその光景を描写することのできる言葉を探していた。もし私が画家だったら、絵筆を持つ指は熱く燃えたぎり、移ろい変わり行く地平線の色合いをキャンバスに描き止めるだろう。そうとも、全ての芸術家は基本的に未だ子供なのだ。子供は世界を見やり、こう言う。
「僕もあの空と同じような空を、この庭に咲いている花々と同じような花を、あそこを歩いて行く人々と同じような人を作ることができるよ」
また、自信たっぷりに叫ぶ子供たちも、中にはいる。
「僕は今の世界よりも、もっと美しい世界を作ることができるよ!」
幾たびも芸術が人生を超越する理由こそ、そこにあるのだ。シュールリアリストであれ、キュービストであれ、その他、諸々の主義、主張者であれ、結局のところ例外なく皆、頭のおかしい子供なのだ。
「僕は違った世界を作ることができるよ」
ノーラは鏡の下の小さなテーブルの上に置いてあった本を落とした。トニオは頭を巡らすと、娘が本を元の位置に戻し、花瓶に生けられた黄色のマーガレットの花の位置を整える様をじっと見ていた。早婚のメリットだ――そう、トニオは考えた。私はまだ四〇を少し越えたばかりなのに、すでに二〇歳の娘がいる。ぼんやりとした自己陶酔に浸り、娘を凝視している内に我を忘れた。あのちっちゃな生き物の身に起こったことが、実に興味深い。妻のリヴィアが妊娠した時、我々、夫婦は頻繁にこれから授かるであろう娘の顔を想像していた。つまり娘を授かるという確信があったのだった。我々は小麦色の肌で、丸顔、漆黒の瞳、半ば上を向いた鼻の女の子が欲しいと考えていた。私はその女の子の顔つきを紙に描きさえした。妊娠九ヶ月が過ぎた後も逐一、娘の姿を描き続けながら、彼女に対するイメージを温め続けた。そして我々が天使の誕生を望んでいると思われないためにも、娘の欠点すら想像したのだった。実際、娘のノーラは私が紙に描き付けた絵が生命を宿し、そのまま大きくなったものであった。その類似は身体面だけに止まらなかった。精神面も、私自身が欲していた特徴の多くを備えていた。優しく、生き生きとしていて、思い遣りがあり、元気一杯だ。ノーラは想像力が豊かで、人生を魅力あるものと見ている。それに所作が演技がかっている。だからと言って、そのわざとらしい調子が悪いとは全く思えない。あそこで、娘は詰まらなそうな仕草で花を生け直している。しかし花瓶の前に鏡があり、ノーラはそこに一枚の絵の額縁の中に収まっているかのように自身の姿を見ているのだ。そうしたことが娘にとって喜びであり、そのような取るに足らない些細な事柄が生きることの楽しさ、驚きを高めて行くのだった。そのことについて、ノーラと私は幾度となく議論したことがある。最も驚くべきことは、自身の演技がかった部分を揶揄するのに彼女自身、十分な悪意を持っているということだった。ロマンスや、空想的状況に身を投じたいという願望を決して隠そうとしなかった。しかし、そうしたことが空想時以外に、完璧なまでに思慮分別を備え、常にユーモアのセンスを持つことの妨げになることはなかった。時々、トニオはノーラが自分が執筆した本の中の登場人物の一人であると思うことがあった。自分の小説の中の登場人物に対して、自分が有しているであろう支配権と同じものを彼女にも行使したいと考えることが多々あったのだ。何ということだ! 我々、二人の間に――今や、ノーラは年頃の女性だ――、人生、それに世界が聳え、立ち塞がっている。そうした問題は何もノーラだけに限ったものではない。難しい年齢になったリタにしても同じことが言える。それにいっぱしの男に成長し、様々な不安を持つようになったジルも詮索好き且つ夢想家のごとき雰囲気を持って、人や物を観察するようになっている。
今、トニオは心の中でジルとリタをしげしげと見つめている。二人は極めて透明であって、同時に極めて深遠でもある。しかしながら、そうした謎にある種の魅力を感じる。なぜなら毎時間、驚きが訪れるからだ。問い掛けや、心配そうな仕草、知ることへの、生きることへの、発見することへの熱望……。トニオはそうした人格形成の様を感動の目を持って観察していた。不可思議ともいえる、そのプロセスに干渉したかったが、そうすることへの恐れの方が勝った。小説家はしばしば父親と対立するものである。父親というものは、ある時は一族の長たることを望み、またある時は同い年の仲間たることを望む。とどのつまり、作家であるよりも、家長であるよりも、あるいは同士であるよりも、強大たる人生と本能がそこに存在する。それら二つに対して最終的な分析を加えると――父親や、小説家が欲するとも、欲せずとも――、自身の大半を各人の魂の修練に向かわせることとなるのだ。
トニオは立ち上がった。午前中はメモ書きを認めて過ごした。新作の小説を書き始めることを決心していた。頭の中を様々なテーマがひらひらと飛び廻る。戦争のことを忘れよう、そして世界中に大災害のいかなる兆しがあろうとも、人生の基本的な輪郭は決して変わることはないと納得しよう。しかしながら、生気のない問いの形を成して、一つの疑問が心に浮かぶ。“戦争ドラマが文学で扱う全てのドラマを矮小化し、消滅させるようなことがあったとしたら、一人の人間、あるいはある人間たちの集団を扱う物語にいかなる関心を植え付けることができようか? 日常生活の古臭く、憂鬱とも言える問題を足蹴にすることは、果たして正しいことなのか?”。他方において、自身の精神は解毒剤を生み出すのである。“独裁者や、ありとあらゆる暴力、戦争のずっと上に、より強大で、不滅である、あるものが存在する。それこそ人々が生き残らなければならない、信じなければならない、自身を刷新しなければならないといった意志である”。さらに、人間特有のドラマというものがある。それは全時代通有のものであり、それぞれの人間の精神に宿り、各々の人生の中に極めてシンプルな形をとって存在するのである。加えて我々の魂は奇妙とも言える、数多の脇道を有している。我々は子供たちの虐殺のニュースを耳にしたり、読んだりすることができる。それによって、大なり小なり衝撃を受けるものだ。しかしながら次の瞬間には、その出来事をすっかり忘れてしまい、何事もなかったかのように生き続けるのである。しかしながら、もし往来で尊敬している友人の一人が挨拶することを拒んだとしたら、我々は動揺した気分で帰宅し、まんじりともせずベッドで転げ回って、その“出来事”こそ、まさに大惨事だと考え、その日の夜を過ごすことになる。
人生は続かなければならない。そう、トニオは考えた。“人生”という言葉は私の心に常々、考えずともノーラや、ジル、リタのイメージをもたらす。彼らが住するであろう世界について考える必要がある。彼らを助け、何らかの形で彼らのお膳立てをし、少なくとも彼らに勇気と希望を与えることが不可欠なのだ。
トニオはあてどなく書斎の中を歩き廻り始めた。この部屋が好きだ。書物の声なき同伴は何とも心地良く、心を落ち着かせることか。戸棚を開けた時など、ナフタリンが発する臭いと木材の甘酸っぱい香りが混ざり合った、紙の乾いた匂いを吸い込むことに異常とも言える程の快感を覚えた。トニオは家具や、絵画、その他の家の中にある、ありとあらゆるものに愛情を感じていた。彼にとって、この家は一人の人間のように思えてならなかった。同時に母親であって、要塞でもあった。家の中にある其々のものには歴史があり、家族が過ごした人生の瞬間、瞬間、つまり歓喜に満ち溢れた時期や、苦悩に打ち沈んだ時期、希望に胸を膨らませた時期、苦々しい失意のどん底に打ち沈んだ時期の出来事を物語るのである。絵画の中の人物さえも、この私が抱く感情も、人生も知り尽くしている友人のような存在に思われた。そして時折、彼らは私に話し掛け、質問を投げ掛け、アイデアを提案したりした。たとえば、あそこの壁に架けられてあるヴァン・ゴッホの手による〈アルマンド・ロランの肖像画〉の複製画などは、その良い例であろう。その絵は緑色の背景に若々しく、誠実そうな顔つきの男が描かれている。その夢見人のごとき瞳はその男が生きた別の時代、あるいは別の世界の経験を持って、絵の外を見ているようだ。別の壁にはセザンヌの複製画が架けられてある。その絵には秘められた魅力がある。恐らく単純なものの持つ美しさや、花が生けられた花瓶と、素朴なテーブルの上に置かれた三つの林檎の中にあるであろう、奥深く、人間的な詩趣を示唆しているのだろう。実際のところ、この家の住人はトニオと妻と子供たちだけではない。絵画の中の人物たちも、その住人であると言えた。ルノワールの少女……、それにドガのバレリーナ。マネの闘牛士。サンチィアーゴ家の人々の想像するところによれば彼らは皆、“生命の宿る人”であって、家庭の諸問題に、家族が抱く喜びや、不安に首を突っ込む存在だった。マントルピースの上には、中国人の小像がどっしりと鎮座している。それは幸福を司る布袋様の像で、竹の節を切って作られたものだった。頭は禿げ上がり、太鼓腹で、衣服を何もまとっておらず、乳首も丸出しで、膨よかな頰に、二重顎、巨大な垂れ下がった耳の、艶やかな顔の口許には満面の笑みを浮かべている。トニオはその彫像の前で立ち止まり、考えを巡らせた。彼があのように笑みを絶やさずいられるのは、何かを“知っている”からだろう。それは一体、何だろう?
ノーラが書斎の中に入って来た。
「お父さん、郵便物の返信に、今の時間をお使いにならない?」
トニオは抗弁するような仕草をし、腕時計を覗き込むと、生気のない目を上げ娘を見やった。
「ここ一時間以内に、街の方に降りて行かねばならない……」
「でも、お父さん、一時間もあれば、街を破壊することだってできるわ!」
ノーラがそんな風に言うのは何とも興味深い……。多分、何も感じることも、考えることもなく、そのような言葉を口にしているのだろう。新聞や、ラジオが日々の糧のごとく報じている死や、貧困、それに災害について読んだり、耳にしたりした結果、自然と口の端に上がったのだろう。結局のところ、それら全ての事柄は――集団銃殺や、爆撃による女、子供の死等――血の通った人間的意味合いを失い、実際的な事柄とは程遠いものとなり、純然たる理論的、技巧的価値しか持たない言葉の羅列に成り下がるのである。
「そうだね……」
トニオは不承不承にそう言うと、ふっと溜息を漏らし、再び安楽椅子にどっかと腰を下ろした。ノーラは執務机に座ると、今日届いた書簡の封を切り始めた。手紙が五通に、新聞の切り抜きが数点、それにリオの文芸雑誌からの質問状が一点であった。
トニオは物思いに耽っていた。いかなるものが届いたのかは分かり切っている。私の著書に対する批評が掲載された切り抜きだろう。時宜を得ない賛辞、あるいは悪意に満ちた批判か、極めて稀にだが分別のある批評が寄せられることもある。質問を投げ掛けるか、あるいは助言を嘆願する読者たちからの手紙。説明要求やら、脅迫等々……。時々、そうした全てのものが自分にとって刺激と感じられることもあったが、また別の時には、不愉快以外の何物でもなかった。これから耳にするであろう事柄に不愉快さを覚えつつ、今一度、自分自身が小説家であることに面倒臭さを感じたのだった。これまで多くの著書を執筆し、数多の登場人物を創造し、様々な精神構造や、筋書きを生み出して来た、大作家アントニオ・サンチィアーゴは自らに課された役柄を演じることに、自らが有する信念、あるいは懐疑、自らが創造した物語、それに登場人物に対して責任を取ることに困難さと、居心地の悪さを感じていた。しばしば笑顔を振りまき、愛想よく、愚鈍ともいえる態度に身を任せることがあった。それは生温い波に打たれるがまま、丸々太った布袋様から発せられている、おめでたい宿命論に身を任せているようなものだった。しかしまた別の時には、すっくと立ち上がったかと思うと、文章を書き起こし、返答し、活発に動き廻り、部族(トゥリーボ)のため世界構築に精進し、集落防御に傾注し、将来、部外者に対しても有用となるであろう、未来の収穫に向けて種蒔きをするのだった……。
手紙の封を切り、それらを一通一通、注意深く積み重ねている間、ノーラは時折、父親の方をちらちらと盗み見していた。眠っているのかしら? 夕暮れ時の光がトニオの頭を照らし、所々、銀色を帯び、キラキラと輝いていた。もしあの白髪を染めたとしたら、私の兄弟だと言ってもおかしくないわ。突如として優しい気分になり、この時間の穏やかで、奥行きのある美しさを肌で感じた。
本で埋まった書架へ、絵画へと順に視線を巡らし、父親と手紙の束の上に置かれた彼の手を交互にまじまじと観察し、自分が彼の娘であることに、作家トニオ・サンチィアーゴの秘書であることに一瞬ではあるが、大きな喜びを感じた。通りを歩いている自分自身の姿が見える。人々の囁き声が聞こえて来る。私の方を指差しているわ。あそこを歩いているのは誰か、知っているかい? そうとも、作家の娘さんだよ……。彼の秘書だと言うことだ……。そうなの? 何て素敵なんでしょう!
電話が鳴った。ノーラは僅かに身震いし、電話を取りに行こうかと考え、立ち上がる仕草をした。しかしリタの姿が廊下にちらりと見えたため、この場に留まることにした。
リタは受話器を取り上げると耳許へもって行った。青色の目は何を見るでもなく、中空をじっと睨んでいる。眉間には皺がより、顔が徐々に紅潮して行った。
「どなたですか? もしもし! どなた? 私の父ですって? ねえ、あなたは恥というものをお知りにならないの。父は既婚者で、若い娘がいるのよ。今、話しているのが、その娘よ。もうこれ以上、私の父を煩わせることはお止めください、聞いていらっしゃる?」
トニオは目を開いた。ノーラは廊下の方へと駆けて行った。
「電話をこっちによこしなさい!」
そう叫ぶと、妹の手から受話器を奪い取った。
「もしもし! もしもし!」
電話はすでに切れていた。
「リタ、あんたは何て馬鹿げたことを考えているの!」
リタは何らかの過ちを犯した、そう鏡を割ってしまったか、あるいは炭で壁に落書きをしてしまった者のような表情を浮かべ、ノーラの方を見やった。
「あの女はお父さんに何を欲しているのかしら?」
胸を喘がせて、リタはそう尋ねた。
その小さな胸は上下している。リタは卵形の顔で、顎はつんと尖っていて、髪は栗色で、目は真っ青だった。
「あなたはその女の人が私たちの素敵なお父さんを奪うとでも思っているのかしら?」
その問いに対する唯一の答えでもあるかのようにリタは身を翻すと、階段を駆け上がって行った。廊下の突き当たりで全てを耳にしていたリヴィア夫人は編み物から目を上げると、微笑み、再びそれに視線を戻した。
ノーラは執務机へと戻って行った。トニオは僅かに興味を覚え、娘の方に一瞥をくれた。
「あの女よ……」
父親は同意の唸り声を上げた。
「リタはユーモアのセンスが全くないわ。結局のところ、あの気の毒な人は私たちの注意を引きたいだけじゃあないかしら……。お父さんはそうお思いにならない?」
「もちろん、そうだとも……」
その女は自ら名乗ることを頑なに拒み、毎週金曜日に電話を掛けて来た。小説を書いてくれと、それも現実に起こった恋愛談に基づいた小説を執筆して、その作品の登場人物に自分自身を仕立てて欲しいとしつこくせがんでいた。そうしたその女の嘆願の中には、安っぽい文学への愛着と性的な恋愛沙汰を単純に望む気持ちがない混ぜとなっていた。子供たちはそうした話に気づき、何日もの間、トニオは特にジルとノーラの嘲りの対象となり、リタはますます父親のことを不信に満ちた嫉妬心をもって凝視するようになったのだった。時々、ノーラは電話口でギラリと光る眼鏡を掛けた、几帳面で、有能且つ慎み深く、ほとんど非人間的とも言える意地の悪い秘書を演じることに喜びを感じていた。
「奥様、伝言をお伝えしておきます。もし可能でしたら、お会いすることもできます。全くその通りでございます。では、失礼します」
トニオは今、黄昏を眺めていた。地平線は瑞々しい黄金色から銅色を帯びた、くすんだ黄金色へと少しずつその色合いを変えて行った。折悪しく、街に行かなければならない。編集者との打ち合わせの約束などしなければ良かった。自分が欲しているのは、ここに留まり続けることだ。身動き一つせず、考え、思い出し、想像することだ。あるいは誰に遠慮をするでもなく微睡む中、家の中の物音に耳を傾けるのだ……。上階ではリタがピアノを弾いている。ノーラは小声で歌を歌っている。リヴィアは台所で、お手伝いにあれこれと指示を与えている。居間ではラジオが鳴っている。時折、外で物売りが手を「パン、パン」と叩く……。子供たちの声が聞こえる……。「奥様、柿はいかがですか?……。新鮮な卵は?……」。「お隣さん、私にめぐんでくれるような古着はありませんか?」。トニオは家中を歩き廻ることも好きだった。夢遊病者のごとく、生気のない夢想の延長線上にでもあるかのように、家中を徘徊した。心に快い匂いや、イメージを探し求めて、あちこち足を運んだ。たとえ目隠しをしていても、常に自分が家のどこにいるのか分かった。鼻腔に入り込んで来る匂いが、それぞれのものがどこと結びついているのか、そのイメージを脳裏に届けるのである。張り出し屋根の付いたテラスに足を踏み入れると独特の匂いを放つ、浮彫りが施された黒色の木製家具があり、果物皿には葡萄や、林檎や、パイナップル等が盛られていて、甘く、野性味を帯びた香りが辺り一面を満たしていることに気づく。もし上階に向かったなら、まず浴室の湿った、爽やかな匂いが鼻につく。歯磨き粉や、石鹸、ゴムホースの匂いだ。子供たちの部屋はそれぞれ固有の匂いがある。ラベンダーの香水だろうか? ジルだ。マニキュア液だろうか? ノーラだ。アザミだろうか? リタだ。さらに風があった。風の匂いによって、トニオはそれが海由来のものなのか、湖由来のものなのか、あるいは田舎の原野由来のものなのかを言い当てることができた。春になるとオレンジの木に咲いた花の香りと、隣家の果樹園の檸檬の匂いが風に運ばれて来る。トニオの“旅”はいつも安楽椅子で終わった。そこで再び亡霊たちの襲撃を受けるのである。思考の中に浮かぶ様々な顔。決して途切れることのない行列……。何ということだ! 黄昏が魅惑的な色合いのゲームを約束している今、直ぐにでも街に降りて行かなければならないとは……。
「どうして、質問状に取り掛からないの?」と、ノーラが尋ねた。
「それを別の日に回すことはできないだろうか?」
「でも、お父さん。これはあちら様がやるように命じていることよ!」
「分かったよ、分かったとも」
ノーラはメモパッドと鉛筆を掴むと、タイプされた質問用紙に視線を落とし、言った。
「最初の質問は“なぜ、あなたはものを書くのか?”、よ」
トニオは眉を吊り上げ、細目になるとしばし考えを巡らせた。ジルと同じ癖だわ。そうノーラは思った。あの悲しげな目つきなんか、全く同じだわ……。
「こんな風に書いてくれ……。“書くことが好きだから書いているし、書くことが自分の仕事だから書いている”、と。どうだい?」
「決して高尚とは言えないけど……。でも、真理のように思えるわ……」
「そんなこと、誰が分かる?……」
「二つ目の質問は“もしあなたが自分自身を小説の中の登場人物として描かなければならないとしたら、どのような言葉をもって描写するか?”、よ」
意欲を喪失させるような気怠さの波がどっと押し寄せて来て、トニオは欠伸をした。自分自身のことについて語るのは何とも困難なことであって、息をも詰まることだ。幾度となく自分自身が何者であるか定義づけ、自己分析をしようと試みた。寛大に、あるいは極度なまでに厳格さをもって、それをやってはみた。
ノーラは鉛筆の先を噛みながら、じっと待っていた。
トニオは意を決し、口を開いた。
「こんな風に頼む……。“彼は怪物だ。半分は異教徒であって、半分はキリスト教徒である。本性においては個人主義者であり、理性においては社会主義者である。哲学的思考能力は? 全くない。非常に研ぎ澄まされた五感を持ち、形や色、音、匂いを殊の外好み、それらの要素が織り成す融合を満喫する。そうした呑気ともいえる気晴らしの中で犯すであろう、過誤や罪悪をくだくだと考えながら生活するほど、病的とは言えない。それに、そうした単なる気晴らし以外に、他にいかなる気晴らしも存在しないと納得するほど、浅はかでもない”。これで、どうだろう?」
ノーラは父親の言葉を速記している。紙はアラビア文字にも似た走り書きで埋まっていた。
「とても素晴らしいわ……。で、続きは?」
「“彼は世界を無気力で味づけされた好奇心、それに慈愛と混ざり合った悪意をもって眺めている。寛大にして、暴力に対して恐れを抱いている。近しい者たちの思想と表現の自由に対して、聖なる敬意を常々、抱いている。行動よりも熟考を好み、自らの肉体がある場所にはほとんど不在である。予言者というよりも、むしろ詩人のごとく、人生を見、解釈している。表現の明快さ、簡潔さを愛し、大言壮語や、演技がかった所作を好まない。外見的には冷たく、保守的で、計算高い人間に見えるが、中身は……、感傷的でロマンチストであり、涙を流すことと同様に、大笑いすることも恥だと感じている。ロマンチストとして、特に人類とそれを巡る問題に心を寄せている。極めて無知で、一般的な観念に精通しているようには見えない。しかしながら、彼には奇跡的ともいえる直観力とカラフルともいえる想像力が備わっているように思われる。死を巡る問題を前に、その態度には当惑が認められる。神秘を認知し、子供じみたことを口にするために、偉大なる静寂が破られることが適当ではないと考えている”。何てこった! もう、うんざりだ。そう思わないかい?」
ノーラはメモから目を上げると、微笑んだ。
「私が唯一、知りたいことは、お父さん自身がその定義づけに同意しているかどうかということよ」
トニオは頭を手で撫でた。油絵と夢の世界から、アルマンド・ロランが尋問者のような眼差しでこちらをじっと見つめている。中国の神様は微笑み掛けている。多くの眼差しにまじまじと見つめられているため、トニオは半ば当惑した気分に襲われていた。
「まあまあかな……。お前も知っての通り……。我々は何一つとして知っちゃあいないし、不確実な真実、あるいは暫定的な真実と戦いながら生きているのだよ……」
「あるいは、一過性の真実よね……」
「その通り」
トニオは立ち上がると、暖炉まで歩いて行き、布袋様の禿頭を撫でた。
「しかし我々は一つの概念、あるいは一つの形式の中に、人格を押し込めることはできない。もちろん、人生も然りだ!」
「先に進みましょうか?」
トニオは安楽椅子の肘置きに腰掛け、続きを待った。ノーラが読み上げる。
「作家は芸術による芸術を創造すべきだと考えるか?」
「その質問がされると思ったよ……。“一個人として言うと、そのような法も、責務も、掟もあるはずはないと思う……。全てが個人の気質、あるいは各個人の流儀、あるいはものの見方、感じ方の問題だと考える”」
ノーラの目にわずかながら悪意ともいえる光が輝いた。
「ああ! 博士、結構ですわ。何と独創的なお考えなのでしょう!」
「皮肉かい?……。それじゃあ、君はクビだ」
ノーラは演技がかったように鉛筆をテーブルの上に放り投げると、ついと立ち上がった。そして尊大な仕草で頭を反り返らせた。栗色の髪に突如として日の光が当たり、ブロンズ色にキラキラと輝いた。
「暇乞いをしたいのは、この私の方よ!」
幾ばくかの間、ノーラは自分自身が舞台に立っているよう想像した。
「そうなれば、私はこの質問状から解放されることになる」
トニオは肩をすくめながら、そう言った。
しかしながら娘は再び腰を下ろすと、声音を変えて言った。
「お父さん、私たちは時間を無駄にしているわ。さあ! “芸術愛による芸術”、よ」
「あるいはローレンスが言っているように、自己愛による芸術か?……」
「そのお仲間の名前、どういった綴りかしら?」
トニオは一字一字、アルファベット読みし、さらに先を続けた。
「そのごた混ぜの鍋に歪んだスプーンを突っ込むことが許されるとしら、こう言おう。“人生愛による芸術だ。絵を描き、音楽を作曲し、小説、あるいは詩を書き、彫刻を彫る。とどのつまり、彼らはありとあらゆる芸術の形を実践しているのだ。人生を模倣することを、訂正することを、理解することを、拡大することを、あるいは所有することを望み、官能的に、より広義の手段方法をもって、芸術を実践しているように私自身、思う。そして、忘れてはならないことは、そこには例外なく、常に神秘というものが存在していると言うことだ”」
速記をすべく父親の言葉を端折りながら、ノーラは紙に走り書きをしている。記号に、記号、そしてまた記号だ。そう、トニオは思った。それらの記号を通して、精神はますます現実から遠退いて行く。しかしながら、アルマンド・ロランはこう尋ねているようだ。“何が現実だと言うのだ? 君か? 私か? 老布袋様か? あの靴紐を結んでいるバレリーナか? 真実だって? あるいは食料雑貨店の男か?”、と。
ノーラは次の質問を読んだ。
「小説家の役割とは、いかなるものであるべきか?」
「“何よりも先ず、人間というものは持続と幸福になることを望む、特に持続を強く望む、と考える。大部分の者たちにとって、この地上の世界での持続のみが問題ではなく、‘別の人生’における持続、つまり時を超えて、永遠に持続することこそ問題なのだ。小説家の主な役割とは、生き残りを賭けた戦いに身を投じる、さらには幸福を享受するために戦う、人間の物語を語ることだと信じている……”」
ノーラは生気に溢れた光を宿す目を上げると、質問状に書かれていない質問をした。
「でも、お父さん……、語るだけなの? 道を指し示すことも、批評することもなく?」
トニオは微笑んだ。
「今、お前の口から出たその質問をしたのは、誰だか知っているかい?」
「誰?」
「ロベルトだよ」
ノーラは「イエス」か、あるいは「ノー」か、どちらを言うべきか分からない者のような雰囲気を漂わせ、片方に頭を傾げた。
「まあ、良いわ……。で、答えは?」
「まあ、作家というものはもちろん、カメラのように公正であることはできない。しかし一体、誰が写真機が吐き出す‘証言’こそ公正だ、と断言しただろう? 我々が有する人や、風景に対するヴィジョンが、写真が提供するそれと一致しないことが、何度あるだろう? お前も知っている通り……。作家が単純にテーマや、登場人物の選択、あるいは純粋な意味での場面配置において、‘公正’でありたい、完全に客観的でありたいと考えても、結局のところ、人生や、世界、人々について自らの‘意見’を付与していることになってしまうのだ」
ノーラは次の質問に移った。
「あなたの小説にこめられたメッセージはいかなるものか? 簡潔にお願いします」
トニオは一瞬、考えを巡らせた後に口を開いた。
「もし私の作品にメッセージがあるとしたら大体、次のように要約することができる。“人生とは、生きる価値のある冒険だということだ。我々は人生そのものを善行と美の行為へと姿を変えつつ、自分自身はもとより、冒険を共にする仲間たちにとって、常により威厳のある、最良のものへと変え、寛容さと、勇気、理解、共助の精神を持って生きて行く術を知らなければならない。我々一人一人が人類という集団の一部であるということを意識しつつ、個々が有する性向を無頓着に満足させることに傾注するあまり、社会的均衡を損なうことを回避した上で、本能に従わなければならない。世界で起こっている一連の出来事は神秘そのものである。最終的な分析によれば、それら全てが神経系システムの問題だと解釈することができる”」
トニオは外套のポケットに両手を突っ込むと、書斎の中を歩き回り始めた。
「ノーラ、その紙を破いてくれ。私がそのようなことを書かなければならないことの代償とは一体、何だろう……。小説そのものが、私自身のメッセージだとも! 新聞などで、私の心の内奥に横たわる事柄をあれこれと議論、詮索されることにうんざりしているのだよ。時々、邪とも言える好奇心に満ちた観客を前に、ほとんど衣装を付けず、舞台に立たされているような感覚に襲われるのだ」
ノーラは目を真ん丸に見開いた。
「でも、お父さん、それはお父さん自身のキャラクターでもってやっていることと同じじゃあないかしら?」
「違うとも。この世に存在しない、あるいは未だかつて存在しなかった架空の人物を小説の中で扱っているのだよ」
「でも、この手紙でお父さんが書いていることは、それとは違うわ。ちょっと聞いてみて……」
ノーラはそれを読んだ。
「“私は全ての登場人物について知っているような気がする。彼らは私が住んでいる通りに住んでいて、私が足を運ぶダンスパーティーに出掛けては、私と会話を交わす。何を発見したと思う? あのフローラ[花の女神]こそ、私自身なのだ。彼女は私が考えていることと寸分違わぬ同じ考えを持ち、私が口にする言葉と全く同じ言葉を話し、その人生は私の人生と非常に似通っているように思われる”」
トニオはぼんやりと耳を傾けていた。ノーラが読み終わると、先を続けた。
「それで、人というものは哲学の手引書、あるいはモーセの十戒、五芒星、あるいは価値あるもののように振舞うことはできない、と言うことだ。何よりも先ず、我々は真の意味で、矛盾の束なのだよ。お前の友人のロベルトは政治的・経済的システムの中に、人生や、人、願望を組み込みたいと考えているようだが。奴らは私が左か、右なのか尋ね続けているのだ……。だが、私が欲していることは、ここにいることだ」
トニオは安楽椅子の背もたれをポンポンと叩いた。
「ここ、この場所だ」
何か秘密でも囁くような声音で続ける。
「私は疲れてしまったのだよ、分かるかい? 要約するとだな、私は私自身の人生を私のやり方で、私の神経、願望、夢に従って、生きたいのだよ。私はノンポリの人間だ。人生に対する私の貢献と言えば、これだ。物語を語ることだ」
ノーラは黙ったまま耳を傾けていた。お父さんは私と議論している訳ではない。書簡や、新聞記事を通して、口頭で父を詰問している人々と議論を交わしているのだ。話したいだけ、話させてあげよう。時々、私はその“年寄り”が自らの思考の中で持ち続け、固執している数多の事柄を捨て去ることができるよう、敵対者の論拠まで持ち出すことがあった。他方で父親というよりも、むしろ兄弟と思える父に、僅かばかりうんざりさせられることもあるが、それに奇妙な喜びを感じていたことも事実だ。
「お父さん、あなたは全くもって“年寄り”よ。フカフカの安楽椅子にご執心で、平和そのものの様子でのんびりと寛いでいるなんて……」
「“年寄り”だって?」
トニオはくるりと身を翻し、ダッと走ったかと思うと、暖炉の前にあるソファーの上を飛び越えた。ノーラはドッと笑った。父親は挑むように娘の方に頭を巡らせた。
「それこそ、まさに“ご老人”がするようなことよ。急に走り出したり、無駄にピョンピョンと飛び跳ねたりね」
そう言いながら、父親の許に駆け寄ると両手で頭を掴み、額にチュッと音を立ててキスをした。そこには口紅の赤い跡が残った。
「質問状はまさに悲劇的だ。ノーラ、そいつを破り捨ててくれ。雑誌の方には、質問に答えることができない、と手紙を書いてくれ。私が病気だとか、家出したとか、死んだとか、何でも良いから適当な理由を考えてくれ」
夢遊病者のようにリタが階段を降りて来た。その様は空中に漂っているようで、心ここに在らずといった感じで、しずしずと歩を進めている。この家の中で、あるいはこの世界の中で一体、何が変わってしまったと言うの? いいや……。この胸の内で、だ。私は恋している。今までにないほど愛することの切なさを感じている。ああ、神様! でも、なぜ、それがよりによって不幸で、絶望的な愛でなければならなかったの?(リタはあたかもその階段が永遠に続くのを望むかのように、あるいは階段の上だけで、例のあのことを考えることができるかのようにゆっくりとした足取りで降りて来た)実際、自分が愛している時は全てが幸せに思える。でも、なぜ私の身にだけにあのようなことが起こったのかしら? 愛する者の誰もが、私が感じたようなこと――あの脱力感、あの熱にうなされた時に感じる火照るような震え、さらには、とりわけパーティーの前夜に感じるような期待感――を同じように感じるのかしら? パーティーですって! 手術の前夜の方が相応しいわ。前もって感じる恐れだわ……。これからやって来ることに対する恐れ、痛みへの恐れだ。リタは扁桃腺を摘除した時のことを思い出した。その手術の前夜、何千回となく手術のことを思い悩み、始終、悪夢にうなされて過ごした。そうであったから疲労困憊の状態で目覚め、頭は空っぽだった。でも、そうじゃない……。愛は扁桃腺や、虫垂の摘出手術、あるいはその他の諸々の手術と違わなければならない……。
リタは立ち止まると階段に腰掛け、膝の上に両肘を置き、両手で頬杖をついた。でも、あの苦悩の中には何か快感めいたものがある。ああ、神様! よりによって、なぜ彼なの? どのようにすれば、十五歳の娘が自分の父親よりも年寄りの男性に夢中になれるのかしら? 少なくともこの自分のことを知らない、あるいはこの自分のことを一度として目にしたことのない男のことを……。幼子のイエス様、どうしてなの? 聖テレジィーニャ様、どうして?
リタは立ち上がると、まるで自分の足音によって、あの切なく、同時に心地良い思考が追い払われてしまうのを恐れるかのように爪先立って、のろのろと階段を降り続けた。夢うつつのまま、指が軽く手摺りに触れる。書斎から声が聞こえる。お父さん……、それにノーラだわ……。もし彼らが知ったとしたら……。リタはその単純とも言える考えに顔を真っ赤に染めた。猛烈な熱さで顔と耳がむず痒い。身体全体を縮こめる。私は不幸だ、それもとても不幸だ。階段の半ばで立ち止まり、黄色の花が生けられた花瓶の上に吊られた鏡に映る自分の姿を見つめた。まるで家の中に闇が垂れ込め、台所に泥棒が潜んでいて、自分自身、何が起こっているのか確かめに行かなければならないかのように、心臓はより強く鼓動を刻んだ。私は可愛くないわ。リタは鏡に映る自分の姿を見つめながら、そうひとりごちた。鏡がその点を否定することを望みつつ、明確な確信があった訳ではないが、そう考えたのだった。しかし自らの思考の中にいる誰かが優しげな雰囲気を漂わせ、こう言った。“可愛くないだって? それ程ではないよ。私はその鼻は大嫌いだけど、君のその青い目はとても可愛らしいと思うよ。青色か、あるいはスミレ色かな? あるいは灰色かな? その魔女のような顎は……、好きではないな……”。リタは右目の瞼が震え始めるのを感じた。アブを追い払うために、馬がお尻の肉をブルブルと震わせる様を幾度となく目にしたことを思い出した。
居間に入って行くと、ソファーに置かれた色取り取りのクッションの間に身を投げた。以前は幸せだった。そうではあったが、以前のようになりたい訳ではない。今では心に安らぎがないし、勉強もきちんとできていない。もしこのような状態が続いたら落第してしまうだろう。酷く寒いためか体を縮こませると、両腕で膝を抱え込み、両手を絡み合わせた。顔をクッションに埋め、両目を閉じた。農場の匂いがする。脳裏には劇場に、舞台、“彼の”両手の動きに注意を払う音楽家たちの姿が浮かんだ。どのようにすれば、一度として話したこともなく、声さえも聞いたことのない人を愛することができるのだろう? お互い姿を見たこともない人を……。既婚の男性を……。何と言うことでしょう! 全てはあの最初の演奏会から始まった。自分は全くもって、それに行きたくなかった……。しかし皆で出掛けた。そして彼が両腕を振り上げ、音楽が始まると、まるで魔法にでもかかったかのように何ものかに喉を締め付けられるのを感じ、座席から体が浮き上がり、劇場の中を飛んでいるような気分に襲われた。曲が終わると拍手喝采が起こり、彼は聴衆に感謝すべくお辞儀をした。こめかみ辺りに白いものが混じった髪や、落ち着き払った態度、体の脇に降ろされた美しい手を見ている内に、自分はこれまで彼のことを知らなかったのだが、ずっと昔から彼のことに恋い焦がれていることに気がついた。気違いじみていると思わない? 一晩中、彼のことを考えた。そして、他の演奏会が行われる度に彼への愛が……、あの絶望的な愛がますます募って行くのだった。
リタはクッションに顔を押し付けた。自分が不幸であると感じた。同時に少しばかりではあるが、その不幸であるという感覚を持つことを誇らしく思った。最悪なのは彼がリオに帰ってしまうということだ。新聞が報じるところによれば……、飛行機で……愛妻を伴って……リオに戻る……。もう二度と会えないのだ! 永久に。リタはソファーから飛び上がった。心の中では、愛してやまないオーケストラがワルツを演奏している。リタは爪先立ち、両腕を振り上げて踊り始めた。ペチコートを身にまとったバレリーナのようだわ。まるで白鳥か、白百合のように純白で、華奢だ……。湖のシーンだ……。平土間席では、暗闇に人々の顔が蠢き、無数の目は注意深く舞台を見つめている……。そのさらに先にはオーケストラが鎮座している……。禿頭のファゴット吹き……、太っちょのフルート奏者……、そして彼が、“彼の”両腕が、“彼の”両手が……、ワルツを指揮している……。リタはくるくると安楽椅子の周りを回りながら窓辺へと近づいて行った。突然、夕方の悲しげな風景が目に飛び込んで来た。その瞬間、音楽も、ダンスも、あの不意に心を襲った歓喜も、全てが全て消え去ったのだった。ただ“彼の”イメージだけが残っている。彼は今、私の横にいて、窓の側に佇み、ペトロポリス地区の丘を、シャレー風の家屋を含む家々の赤い屋根を、グロリア地区や、パルテノン地区の小山を、炎のような真っ赤な縁取りが施された、ピンク色の綿のような奇妙な形をした雲を眺めている……。
リタは爪先立って廊下まで歩いて行った。書斎の扉の前を通り掛かった時、父親がソファーに寝転び、ノーラと話している姿がチラリと見えた。ヒソヒソと囁く声が聞こえる。廊下の扉の側で立ち止まり、テーブルの近くに腰を下ろし編み物をしている母親を見やった。母親の指は素早く動き、時折、床に転がっている緑色の糸玉が目に見えない猫が戯れついているかのように飛び跳ねた。突然、リタはある恐ろしい考えに取り憑かれた。自分が“彼”と一緒に飛行機に乗っている様を想像する。新聞はやがてニュースを報じる。“作家トニオ・サンチィアーゴのご令嬢が駆け落ちした”。何て恥ずかしいことでしょう……、全くもって恥晒しだわ……。それらのことが実際に起こったかのように顔を赤らめた。後悔の念を胸にリタは母親の許に駆け寄ると、彼女の顔中にキスの雨を降らせた。息が詰まりそうになり、甘美な驚きを覚え、リヴィアは娘をじっと見つめていた。
「ねえ、あなた、どんな動物に噛まれたの?」
リタは母親の足許に跪くと、彼女の膝に顔を隠し、わっと泣き出した。嗚咽で体がブルブルと震える。リヴィアは落ち着いた様子で編み物を置いた。最近のリタは何だかおかしい。しかし母親はそれが大したことではないと分かっていた。十五歳の時のノーラのことがはっきりと思い出される。
「青い目ちゃん、一体、どうしたと言うの? どうしたの? お母さんに話してご覧」
リタは顔を隠したまま啜り泣き続けていた。それは年頃の娘ならではのことだわ。そのようにリヴィアは結論づけ、娘のブロンズ色の髪を撫でながら微笑んでいた。
ジルが帰宅した時、五時を少し回っていた。帽子掛けに帽子をかけると、一瞥すらくれず廊下の鏡の前を通り越し、書斎へと入って行った。
「やあ、父さん。やあ、ノーラ」
物思いに耽る様子で、安楽椅子の一つに腰を下ろした。偶然目に入った本を手に取ると、それを開いた。見て見ぬ振りをしつつ、息子のことをじっと観察していたトニオは彼が心ここに在らずの状態だと見て取った。
「何か新しいニュースがあるかい?」と、トニオは尋ねた。
ジルは頭を上げた。
「僕が知っている限り……、別に何もないよ」
あいつは肖像画の中のアルマンド・ロランと同じような大きく、夢見人のような茶色の目をしている。そう、トニオは思った。慈愛を込めて世界を眺める者の目だ。あの細長く、横広がりの鼻でさえ、表情の調和も、甘いマスクも損なうことはない。その顔つきが一歩も譲らない強情さ、あるいは戦いに挑む強い決意を表わしている時でさえ、そこには男らしい甘さがそこはかとなく漂っていた。
ジルは本を閉じ、立ち上がると、黙ったまま書斎を後にした。
「我らのピグマリオン[ギリシャ神話に登場するキプロスの王]には心配事があるようだ……」
そう、トニオは呟いた。ノーラは声を上げて笑った。ジルの感傷的とも言える物語は今や、家族の“話題”の的だった。彼は医学を学んでいて、形成外科を専門にしようと考えていた。いつ何時も絵を描くことが好きで、子供の頃から、目についた複製画に口髭を付けたり、手に入れた肖像画の顔に修正を加えたり、書き直したりすることにご執心だった。ある日のこと、鷲の嘴のような鉤鼻の、ある若い女性の手術の執刀を担当したスピルマン博士の助手を務めたことがあった。術後に職業上の関心から、その患者を訪ねるようになった。それは同情の気持ちがロマンチックに混ざり合った、職業的関心だと言えようか。そのようにトニオは理解していた。顔の整形は驚嘆すべき結果をもたらした。鳥の嘴のような鼻は美しい丸鼻へと姿を変えた。醜い小鳥は好感の持てる娘に生まれ変わったのである。陰鬱だった顔は若々しい光を取り戻した。やがてジルはその患者に恋するようになった。彼はそうした物語を夕食の際、皆に語って聞かせた。家族のメンバー同士が秘密を持つべきではない。それがサンチィアーゴ家の取り決めだったからだ。もし家族一人一人が城塞で囲まれた街、あるいは孤島であったとしたら、どのようにして互いに助け合うことができようか? ジルがその物語を語り終えると、リヴィアとトニオは意味ありげに目配せをした。ノーラの瞳には皮肉な光が宿っている。リタはほとんど恍惚とした様子で、眠りながら話しているように「ジル、何て素晴らしいんでしょう!」と、言った。半ば気兼ねを感じ、ジルはナイフの先でテーブルクロスを引っ掻き始めた。そこに描かれていたものは鉤鼻だった。ナプキンで急いでそれを隠す。トニオはその事件に関心があることを示すべく、いくつか質問をした。
「その娘さんの名前は?」
「チィルダだよ」
「何歳だい?」
「一七歳」
「でも、あなたにはその子、歳を取り過ぎていないかしら?」と、ノーラが尋ねた。
リタが自分の席からバネのように立ち上がった。
「何て馬鹿げているの! 年齢なんて全く問題じゃないわ……」
唇を噛み締め、顔はテーブルの中央に置かれたセラミック製の皿に盛られた柿とほとんど見紛う色に染まっていた。
トニオとノーラは最後の手紙に辿り着いていた。それはアラカジュの郵便局員からのもので、アントニオ・サンチィアーゴの作品に対して手短且つ辛辣な評価を述べた後、次のような文面で締め括られていた。
“あなたの作品は善よりも悪をもたらします。なぜなら、破廉恥且つ不必要なリアリズムに満ちているからです。作品の形態面にしろ、内容面にしろ、いずれも傑出しているとは言い難いです。あなたが過度に称賛を受けていることを見るにつけ、加えて誰かが真実を述べる必要があることから、私はこのようなことを申し上げている次第であります”
手紙の送り主のフルネームに、住所が全てがきちんと書き付けられてある。そこには侮蔑を込めて、「私は匿名のマントに身を包んで、告発を行う輩ではない」と、言っているかのようだった。
「返事を書く?」と、ノーラが尋ねた。
「もちろん。こう書いてくれ……。“拝啓。あなた様がおっしゃる通りです。私は低能な人間です。敬具”」
トニオは始終、横になって両腕を組み、ソファーの背もたれの上に両脚を投げ出している。ノーラは切り抜きの一つをつまみ上げた。
「お父さんの最新の小説に関する覚書だわ。“ガゼッタ・ナシィオナル”誌に掲載された書評よ」
「批評家は何て言っている?」
ノーラはその切り抜きにざっと目を通すと、内容を要約した。
「〈動乱〉は見事なまでに失敗作ですって……」
「ああ……」
「……いくつか評価に値する美点もあると思われるが、書き過ぎる嫌いがあることは否定できない……。一年に一冊という、その執筆リズムがあなたの小説の質の高さに悪影響を及ぼしているように考えられる。どう?」
「素晴らしい」
「最も可笑しな点は“あなた”は年に一冊、小説を書くことができないというのに、“彼”は毎週、三冊の小説について意見を述べることができるということよ……」
トニオはハエを追い払うように「シッ、シッ」と、手を振った。
ノーラは別の切り抜きを手に取った。
「“時”の評論家は、お父さんの作品は読んでいて心地良く、読みやすく、流暢な言葉遣いが鏤められたものだと思っているようだわ……。しかし悪い点として、過度なまでの明瞭さであることは否めない、とも述べている。彼がどのように述べているか、読んで見るわね。“当然のことながら、アントニオ・サンチィアーゴ氏は心を掴んだ大衆読者を失いたくないのだろう。そうしたことから平易さを模索するあまり、浅はかとも言える明瞭さが作品に適用されるようになったのである”」
そこまで言うと間を置き、さらに自らの裁量で次のように言葉を継いだ。
「次回の小説では、ほんの少し不明瞭さを求む。そうでしょ?」
トニオは口許に笑みを漏らした。
「もし作家が語るべき物語があるなら、なるったけ多くの人々がそれを読み、理解できるように明瞭な言葉を用いて、それを語らない理由が一体、どこにあるのか、私にはどうしても分からない。私は神秘主義者らの尊大且つ貴族的とも言える欲求を共有するつもりは毛頭ない……。深遠さの印象を持たせるために、水を濁らせる策略は実に不誠実だと思う。いいや、ノーラ。人生はもう十分に複雑なのだよ……。だから我々は芸術的複雑さを創造すべきではないのだ。私は文学的謎を作りだす気質に欠けているのだよ」
「どうしてお父さんは批評に対して抗弁しないの? 書簡や、記事の中で……」
「そうする価値がないからだよ」
「それじゃあ、価値のあるものって何かしら?」
「物語を語り続けることだ」
ノーラは俯き、再び読み始めた。
「……。客観性への愛ゆえにアントニオ・サンチィアーゴ氏は“決して”深遠には成り得ないのである」
「“便器だって深い”……。どこのどいつがそんな風に言ったのか思い出せないが……」
ノーラは笑った。父親の顔を愉快な気分で眺めた。父はあれこれと趣向を変えて遊んでいるのだ。それこそ、父がたとえそれが極めて深刻なものであったとしても、人生にまつわる様々な問題を扱う際に取る手法なのだ。それらの問題を小説的視点でじっと観察する。しかし心の奥底では多分、表情に表われているよりもずっと、それらの問題に危惧を感じているのだろう。父は静寂漂う空想世界に、そう彼独自の世界に潜り込んで生きている。そのことによって、残りの家族にある意味、嫉妬の気持ちを起こさせることとなった。しかしながらトニオは多くの時間を家族のために割いた。子供たちの年齢に合わせて行動していたし、彼らともよく遊んだ。最もつき合いやすい、愛想の良い仲間のごとく、取るに足らない、非常に地味な事柄に対しても興味を示した。深刻な問題で心がいっぱいの日などは、トニオは塔の部屋へと上って行き、一時間中、そこに一人切りで過ごした。その部屋には、家族の皆が不安に駆られるような重苦しい静寂が垂れ込めていた。しかし日が暮れ、リヴィアと子供たちが上階の方で足音を耳にし、その直後、階段の手摺りに手を置きながら階下に滑るように降りて来るトニオの姿を認めると、皆は一様に胸を撫で下ろした。それが全てが上手く行き、問題が解決したことを家族に示す、彼流のやり方であったからだ。
たとえ気掛かりな、あるいは悲しい気分の時であっても、家の中の平穏且つ幸せな空気を損なわないように、トニオは家族に穏やかな顔つきで、いつもと変わらない雰囲気で接するように努めていた。しかしながら、彼の心の中で常に渦巻いていた心配事こそ、家族の皆が満足しているかどうか、何か欲しているものはないかどうか、あるいは何か他のものを欲していないかどうかを知ることであった。そうした問い掛けを家庭の外においてもすることがしばしばあった。それは作家として、あるいは一人の人間として、自分自身が社会集団の福祉に貢献しているかどうかという問い掛けだった。
ノーラは父親が抱える、それらの全ての問題を知っていた。今では刺し槍を喰らいながらも、そのような父の穏やかで、物静かなやり方が面白いと思っていた。そうとも、まさに刺し槍だ。彼はおとなしく、同時に強い雄牛みたいなものだわ……。まあ! 自分の父親のことを雄牛にたとえる娘が世界のどこにいるのでしょう?
トニオは両肘に体を預け、体を少しばかり起こし、言った。
「だが、私が何よりもまず欲していることが物語を語るということを、彼らはまだ気づいていないのだろうか? 私は一度として、世界を救済したいとか、宗教を打ち立てたいとか、あるいは哲学的システムを構築したいとか言った覚えはない。そうだよね? もちろん、言っちゃあいない。その通りだ。なぜ雌鶏が卵を産むのか、全くその理由と同じ理由で私はものを書いているのだ。生物学的必然性によってね」
「お父さん! 本当に同じ理由なの?」
トニオは横目で相手を見た。
「その通りだ……、大体のところはね。雌鶏は人生を救済するために卵を産む、あるいは政治的、社会的、宗教的理由で卵を産むと言うことだってできないかい?」
「そんなこと誰が分かるの? でも、お父さん自身、自分が生み出した“産物”に……ごめんなさい……作品にメッセージがあると言うことを否定しないのね」
トニオはソファーの外へと足を投げ出すと立ち上がった。
「もちろん! 結局のところ、私は人間という生き物なのだよ。作品に込められたメッセージは極めてシンプルなものに限られている。傷つけるな、干渉するな、邪魔をするな、協力しろ、理解しろ、そしてでき得る限り美と善良さを作り出せ、だ。無関心で、自己中心的な怪物になることこそ、私が最も望んでいないことだ。これが私自身、作家として心掛けている原則の大根幹となるものだ」
腕時計を見やると「ヒュッ」と口笛を吹き鳴らした。
「街に着くのに、後五分しかない。じゃあね」
急いで廊下の方へと歩いて行った。
「リヴィア!」
妻がトニオの許にやって来た。
「私のために夕食を待っている必要はないからね。街の方で何か入り用なものがあるかい?」
「いいえ。でも、あなたが車を運転している時、余所見をしたり、月の世界に行かないように気をつけていただきたいわ。電柱にぶつかるか、あるいは人をはねてしまう可能性があるから」
いつもの忠告だ。トニオは妻の額にキスをすると、帽子を掴み、玄関を潜り、家の前に停められてある車に乗り込んだ。
五分後、街の中心に到着した。広場沿いの歩道に設けられた駐車スペースは全て埋まっていた。トニオはインペリオ・ビルの前にずらりと停められている長蛇の車列から、一台の車が動き始めるのを目にし、別の通りに車を停めようと決心した。その空きスペースに駐車しようとアクセルを踏み込んだ。多大な難儀を強いられ、幾度となく不手際なハンドル捌きの末、ようやく車を狭いスペースに捩じ込むことに成功した。エンジンを切り、偉大な任務を完遂したかのようにホッと安堵の溜息を漏らした。そこにいる今、自分がやりたいことはと言えば、目の前を通り過ぎて行く人々を眺めながら、車の中に留まることだった。自分にとって、あの全ての人々は小説の登場人物なのだ。まさにこの瞬間、その小説の一節の中で生きているのだ。彼ら一人一人は夢を、心配事を、激しい欲望を背負い込んでいるのだ。トニオが最も好奇心がそそられてやまない点は、極めて原始的な人間でさえも持ち得る、各人の魂に宿る神秘だった。人々は他人についてだけでなく、自分自身についてもほとんど何も知らない。恐らくそれこそ、人生をより困難なものに、不確実なものに、同時に魅惑的なものにしている要因だろう。トニオにとって小説を書くことは他人の、あるいは特に自分自身の中に宿る何ものかを発見する行為なのだ。人間という生き物に対して興味を抱いていたし(時折、自分自身の神秘主義を忌む姿勢や、人的接触において、さらに今一歩、踏み込むことを阻害する臆病さが原因で、そうした興味が損なわれることもあったが)、加えて、他人の自由に対して迷信的とも言える敬意を払っていた。現実の人生において、他人の個人的問題に干渉することを忌み嫌っていたが、そのことは作家として、彼がジィアーボ・レンゴ[ブラジルの子供の遊び。鬼ごっこの一種]のごとき無分別さを備える妨げとはならなかった。一人の人間としては半ば不安を抱きつつも、愛情のこもった眼差しで他人を眺めていた。それは父親が息子を何らかの儀式に連れて行き、そこで息子が何か悪さをしないだろうか、その場に相応しくない言葉を吐かないだろうか、置物を壊さないだろうか、ご婦人の衣装を破らないだろうかと始終、心配する様と似通っていた。しかしながら他方で、父親として、子供たちの良い素行を望んでいるにも関わらず、ありとあらゆる悪戯――置物を壊したり、ガラスを割ったり、半裸で、憤慨した淑女を目にすること――を笑い飛ばすような寛容さも備えていた。もし仮に一人の人間として、社会集団の一員として、他人に対して親密で、思い遣りがあって、寛容で、穏健たれと望み、支離滅裂さや憎悪、愛、狂気、無秩序、犯罪等がこの世には存在しないと認識し続けたとしたら、小説で扱うべき要素はなくなってしまうだろう。自分は物語を書くのが好きなのだ。それこそ、時と空間に人生を拡大する、それに恐らく、四次元世界に人生を投影するための手段なのだ。
トニオは力を振り絞って車のドアを開き、水に体を完全に没する前にその水温を測る優柔不断な海水浴客のように、そろそろと左足を車外に出した。約束の時間に遅れているのだから、急がねばならない。車から離れ、ドアを閉じると外套のボタンを留め、通りの反対側のクラブの方へと目を向けた。ジョアーナ・カレフスカが飛び降りたのは、まさにその瞬間だった……。無分別にも最初、トニオは何が起こったのか理解することができなかった。なぜならその若い娘の体が地面に打ち付けられ、それと同時に激しい衝突音が耳に飛び込んで来た、まさにその瞬間、彼の視線はその女性の体にのみ釘づけだったからである。最初の数秒、トニオの心の中に映し出されたシーンは概ね次のような言葉で言い表わすことができる。“通りの中程で、痩せぎすの一人の若い女が片手を頭の高さに上げ、拳銃をぶっ放し、布の人形のようにそろそろと仰向けに倒れた”、である。しかしながら、それら全ては何とも馬鹿げている、とトニオは思った。その発砲音は空気銃からのもので、それら全ては人々をたぶらかす演技に過ぎないと言う者もいるだろう。あるいは……、あるいは……。しかし人々はその見知らぬ女の方へと駆けて行った。トニオもまた歩を進めた……。
亡骸から数歩のところで足を止めた。
「どうしたというのだ?」
トニオの横にいた一人の男が尋ねた。
別の男が答える。
「インペリオ・ビルの屋上から飛び降りたのだ」
ショックが冷めやらぬ中、トニオはその場面から沸き起こる恐怖感を味わっていた。胸許を拳骨でガツンと殴られたような気分と吐き気、血の気がさっと引くような悪寒、さらには四肢が萎えて行くような感覚に襲われる。幾ばくかの間、その見知らぬ女の顔つきをまじまじと見つめていた。その女の身体中の骨はバラバラに砕け散っているだろうと考えるにつけ、いかんともしがたい痛々しいショックに苛まれ、その場から後退りし、一人の男とぶつかり、よろめきながら群衆を押し退け、そこから這い出した。最初に目についた喫茶室に入り、テーブルに就くと、ほとんど何を考えるでもなく、痛み始めた頭の圧迫を緩めるべく帽子を頭の後方へと押しやった。蒸気船に乗っていて船酔いしているような気分だ。あの蛮行を目撃することで、私は全くもって途方に暮れている。未だ脳裏に驚くほど鮮明に、あの娘の姿が焼き付いている。あの見開かれた両目に宿る恐怖の色、歯が覗いていない口の開き具合……。突如として大地が大地震に揺り動かされたかのように、トニオは今、まさにこの瞬間、人生の有する悲劇的本性をひしひしと実感した。家で日がな一日、秋の日差しが丘や、川辺や、街で戯れる様を眺めながら過ごした。人生は平和そのものだった。心配事や、懸念、疑問はあったものの、括弧付きの心地の良い平静さに満ちた一日だった……。そして今、あの女性の自殺はこの世界は様々なドラマや、苦悩、暴力、不幸、狂気に満ち溢れているのだと、私に告げているように思われてならない。燃えるように熱い額を冷たい手で撫でながら、トニオは今一度、あの衝突音を耳にし、その時の場面を再構築してみようと……、あの奇妙な物音を理解しようと……、なぜ、あの音が拳銃の発砲音のように思えたのか、その理由を知ろうとした。あの女は誰だろう? どうして自殺なんかしたのだろう? これまで、あの女を一度として見た覚えはない。しかし後悔の念が湧き上がって来る……。後悔の念といっても、何に対する後悔か? 恐らく人生に対する、何らかの不敬な態度、あるいは他人に対する友好的とは言えない何らかの振る舞いだろう。自殺の理由が何であれ、この私自身も罪の一端を担っているのだ。様々な状況や、人々、無理解、悲惨さが、あの自殺した娘のような精神状態に陥らせ、行為に走らせることを防ぐべく、私自身、自らの言葉や、執筆した本、勝ち得た名声をもって、いかなることをしたのだろうか? あるいは社会をより良くするために、私自身、何をしたのだろうか? そのように感じるのと同時に、自身の中で、批判的感覚を備えた別の自分が――そのドラマを前にしてさほど傷ついていない自分が――一冊の本や、一つの言葉、あるいは一つの身振りが染色体に影響を及ぼすことも、人類の分泌腺を変えることもないと告げていた。宿命と呼ばれるものがあるのだ。この世界の中で、自身のありとあらゆる示唆をもって人生を制御できる者がいるというのか?
だが、全くもって無駄だ……。体はあの地面に打ち付けられた衝撃を感じている。あの強烈な印象から脱する手段が何一つとして思いつかない。あの自殺した女のことを自分は知らない、あの事件は自分とは無関係だと利己的に考えたところで、どうすることもできない……。
喫茶室のドアを通して、トニオはぼんやりと往来を眺めていた。人々が入って来て、興奮した様子で事件について批評している。もし私が家にいたとしたら、五分遅く、ここに到着していたとしたら、あるいは他の場所に駐車していたとしたら……、あれを目撃せずに済んだだろう……。気の毒な女の子だ。子供たちのことを思い出し、彼らと一緒に居たいと思った。席を立ち、喫茶室を出て行った。通りの中程に人集りができている。トニオは歩道の側に立ち止まると、本能的にインペリオ・ビルの高みを見やった。ビルの上には穏やかな空が広がっていた。
アリスチィーデスは帽子を手に玄関ホールに足を踏み入れた時、息子と鉢合わせした。
「おやまあ……。お前は出掛けるのかい、それとも今、帰って来たところなのかい?」
それほど興味を示さず、アリスチィーデスはそう尋ねた。
「これから出掛けるところだよ。友人と夕食をする約束をしているんだ」
アリスチィーデスは帽子掛けに帽子をかけた。アウレーリオに自殺の件を話そうかと考えたが奇妙な抑止力を感じ、それを止めた。その出来事を叙述する言葉が空々しい嘘の語調を帯びるか、あるいは自身が考えていることをそのまま口に出してしまうか、いずれかだということを知っていたからである。
「なあ、お前、私は今先、一人の女を殺したばかりなんだよ」
「お父さんの車を貸してくれるかい?」と、アウレーリオ。
「お前のはどうしたんだい?」
「路面電車にぶつかって、バンパーが潰れちゃったんだよ」
アリスチィーデスは息子と面と向かって立った。奴は私より上背で、肩幅が広く――外套の肩当てにより、それがさらに強調されている――、髪の毛は黒色で、長く、艶々していた。アリスチィーデスが思うに、そうした特徴により、息子にある種、ジゴロ[女に養われて生活る男、ひも]のような雰囲気を付与されていた。顔には幼少時代の悪戯の痕跡が残っている。それは左目の瞼に始まり、斜めに眉毛全体を横切り、額の上、三センチまで達し、小麦色の肌の上に白々とした傷跡を残していた。息子がこれまでやってのけた恋愛沙汰、あるいはスポーツにまつわる冒険に対して、アリスチィーデスはある種の誇りの気持ちと同時に、理解を感じていた。当然のことながらアウレーリオがもっと思慮分別があって、慎み深かったら良いと考えてはいたが、今のように人生を謳歌し、怖いもの知らずの態度の息子が好ましいと思えたし、叔父のように沈痛な様子で考えに耽る息子の様を目にすることも悪くはないと考えていた。ヴェロニカはと言えば、そのような息子のことを理解することができなかったが。妻自身、カンングスー男爵の曽孫ともあろうものが、サッカークラブに出入りしたり、そうした球技の試合や、安っぽいアバンチュールに熱を上げたりすべきではないと考えていた。
「友達との約束は何時だい?」
「ヘデンサォンに、今日の三時だよ」
「じゃあ、私の車で行きなさい。だが、アレイショに夕食に行っても良いと言ったがな。彼が必要かい?」
アウレーリオは白い歯を剥き出しにして――尖った犬歯が覗いている――、言った。
「ひょっとして、お父さんは僕が不具だと思っているの?」
「もちろん、そうじゃない。だが用心するに越したことはないということだ……」
アリスチィーデスはそのような言葉を口にしたことを直ぐさま後悔した。自分は本質部分において迷信的な人間ではあるが、息子に対して特別な愛情を抱いていたことも事実である。自分がそんな風ではないと納得しようとすればするほど、息子がこの家においてお気に入りの存在であることを再認識させられるのだった。無愛想で、愛情の乏しい娘のアウローラは母方の尊大さを受け継ぎ、無関心且つ上から目線の態度を遵守している。父親に対して、彼女はある種、余所余所しい態度で接する。それがなぜなのか、未だ分からないが。
鏡の前でアウレーリオは帽子の被り具合を整えると、つばを目許まで引き下げた。
「お父さん……」
「何だい?」
「馬鹿げたことを言うんだけど……」
「お前がそう言ったこととは別のことを口にしたら、奇跡だろうよ」
アウレーリオは振り向いた。
「お父さんたち、バヘイロ家の人間たちは自分たちが勇敢であることを誇りにしているよね……」
「それで?」
「じいちゃんはいつも一族の自慢話をしていたし……。そのじいちゃん自身、何とか言う革命に参戦し、勇猛果敢に戦ったとか……。またじいちゃんの父親が相手が何人かも分からない悪漢たちと戦ったとか……、某叔父は麻酔なしで片脚を切断したとか……」
「それがどうしたと言うんだい?」
アウレーリオは父親の側に近づいて来ると、ダブルの上着のボタンの内の一つを掴んだ(奴の子供の時分からの癖だ。そう思い、胸が熱くなった)。
「でも、僕がお父さんにお願いすることに、お父さん自身が神経を使うことはないということを保証するよ」
「金かい?」
「違うよ」
「新車が欲しいと?」
「僕自身が心配していることは、とても馬鹿げたことなんだ。背骨が折れたパイロットのニュースを読んで以来、そのことをずっと考えているんだよ……。お父さんには不具になるってことを話したよね……」
アウレーリオの目は虚ろのままだった。その目は笑い話を語っているか、あるいはサッカーの試合の模様を実況しているかのようだった。
「そんなこと、直ぐに忘れてしまいなさい」
「その通りだね。もしいつの日か、僕が災難に見舞われて、不具になったとしたら……。たとえば両脚を負傷して……、麻痺してしまうか……、あるいはびっこを引くようになったとしたら……」
「何とも馬鹿げている!」
「ねえ、バヘイロ博士、僕にモルフィネ注射をたんまり打つか、別の世界に階段なしでぶっ飛べる、何らかの薬を処方してくれるよう、医者に頼んでくれよ……。約束してくれる?」
アリスチィーデスは眉間に皺を寄せた。アウレーリオが飛行機から飛び降りる様を想像した。あたかも自殺するかのように……。骨はバラバラに砕け散る。頭はかち割れる。優しさの入り混じった怒りが込み上げて来た。
「まあ……。そうだなあ……。しかし……」
適当な言葉が見つからない。息子が今、口にした言葉を耳にすることで喉が詰まってしまったのだった。
「お前は何ということを考えているのだ? それ以外にやることはないと言うのか?」
アウレーリオはニッと笑った。
「それじゃあ、一〇〇ミル・レイスくれないかい?」
アリスチィーデスはポケットに手を入れた。
「金をねだるのに、実に素晴らしい方法だ……。ますます磨きがかかって来ておるな!……」
息子に二〇〇ミル・レイス札を一枚手渡した。アウレーリオはそれをポケットに突っ込むと、表面的且つ素早く、スポーツ的とも言える愛情を込めて父親の肩をポンポンと叩くと、出掛けて行った。
アリスチィーデスは小部屋の中程に立ち尽くし、思考に耽っていた。息子があんなことを話すなんて、何とも奇妙なことだ……。自殺のことを考えた。激しい衝突音と血の気の失せた女の顔を思い出す……。再び亡くなった女の顔にモエマのそれが重なり合った。ほどなくして、病院でアウレーリオに、それも体が麻痺した息子に付き添っている自分の姿が脳裏に浮かんだ……。何ということだ! 奴は何ともずる賢い!
心ここに在らずという雰囲気を漂わせ、アリスチィーデスは鏡を見やった。しかしそこに映る自分の姿を見てはいなかった。体が踏みしだかれたかのようで、頭がズキズキと痛む。愛撫が欲しい。娘がこの私をキスと愛情のこもった言葉で迎えてくれたら、どれほど素晴らしいだろう。彼女を膝の上に座らせて……、会話を楽しむ。恐らく彼女に打ち明け話をするだろう。しかし無関心で、無愛想なアウローラを、あいつの尊大な態度を思い出すにつけ、暴力に訴えたい気分になる。力を込めて扉を開け、馬に跨ったまま部屋に押し入り、雄叫びを上げて主人のごとく命令を下す。台所にいる黒人のお手伝いは混乱して、たじたじだ。妻や娘、そして他の全ての女どもに主人としての権威を押し付けるのだ。
しかしながらアウレーリオの言葉が頭から離れなかった。最悪なのはそれらの言葉が軽率であればあるほど、ことが起こる可能性に怯え、強い不安に苛まれることになる。悲劇的とも言える、予見が頭にもたげて来るのだ。アウレーリオは民間航空会社に身を置いていた。すでにA試験とB試験はパスし、現在はC試験に向けて準備中だ。その試験も一ヶ月延期だと言うことだ。というのも、ある日の午後、航空法に従わず、規定より低空を飛行し、あわや恋人たちの家の屋根を掠めそうになったということだった。ヴェロニカは態度や、言葉で自らの感情を表わすのを忌み嫌っていたが、いつも心穏やかでなかったことは確かだ。妻は息子が航空会社に入社することに反対していたのだから。アリスチィーデスは息子の就職について、何ら異論を挟まなかった。その職が男性的であるという理由以外に、息子は純粋な意味において、良いセンスを持っていると考えていた。いかなる異議申立ても、無駄であると考えていた。なぜなら息子は誰にも従わない質だったからだ。それに結局のところ、男というものは常に危険を冒す必要があると考えていたからでもある。老キムは当初、飛行機や潜水艦などの近代兵器に対して、良い印象を持っていなかった。
「わしは空を飛ぶ鳥でも、水の中を泳ぐ魚でもない。男というものは徒歩、あるいは馬を駆って戦うべきなのだ」
しかし最後の最後に、老キムは裁定を下した。
「奴に飛ばさせてやれ。いずれにせよ、ちっぽけな革命も長いこと起こっていないし、若い連中は戦争を知らずに育っている訳だからな」
アリスチィーデスは扉を開け、客間へと入って行った。そこには誰もいなかった。誰もいないだって? とんでもない。コンソールテーブルの上方に、カングスー男爵の全身を描いた巨大な肖像画が架けられてあった。男爵はテーブルの傍らで直立の姿勢で、右手は椅子の背を掴み、左手は羊皮紙を握り締めていた。ジョゼ・マリア・リーバス・メンデス男爵は屈強な男だったのだろう。額は僅かに狭いものの、その表情には尊大さが見て取れる。目は少しばかり斜視で、頬骨が突き出ている。それらの特徴は男爵がインディオの血筋を受け継いでいることを物語っていた(ヴェロニカはそのように言われることを嫌っていた)。その肖像画が表わしているものは知性溢れる男の顔つきではなく、勇猛果敢にして、毅然とした態度の男の姿であった。男爵の家系がシャルータ族、あるいはタペー族から派生しており、一族は戦地に掘っ建て小屋を建てるインディオの集落から集落へと移動していたことに、アリスチィーデスは一片の疑問も抱いていなかった。よって男爵は高貴な出とも、確たる家柄の出身でもないと、いつもそう結論づけていた。なぜヴェロニカは高貴とは程遠い、未開人の血が流れていることを隠そうとするのだろうか? その肖像の目は何一つとして語り掛けて来ない。恐らくその肖像画を描いた画家の能力不足によるものか、あるいは絵の具が発する光彩を奪い去った時の経過によるものだろう。あるいは男爵の目そのものが元々、深みも輝きもない薄暗い湖のようなものだったのかもしれない。しかしながら、アリスチィーデスにとって現実問題として、その客間にその存在をありありと表わす人物こそ、聖職者禄受給者に他ならなかったのだ。古いブロンズ製の額に収められ、あそこの壁に架けられた肖像画こそ、聖職者禄受給者そのものなのだ。まるで生きて、あそこにいるようだ。アリスチィーデスは記憶の中に、彼の姿をありありと思い出すことができた。
屋敷の客間は一九世紀半ばの、目に見えて、実際に手で触ることのできる記憶の宝庫なのだ。それはモンターニャ家の繁栄振りを物語っている。彼らの一途な性格と穀物の卸売りの成功のお陰で、下町から山手に移り住むことができ、高い社会的地位も獲得することになったのである。その客間の中で最も新しいものはといえば、ここ五〇年の歳月である。屋敷の扉には、頑ななまでに彫刻が残っており、窓にはワイン色の緞帳が吊り下げられている。その緞帳はカーペット同様、激しく擦り切れている。それらのものが皆に、未だ生命を帯びた、過去のある種の権威を思い起こさせるのだ。ナイフを用いてハマベブドウを細工して作られた家具類は荘重にして、悲愴感漂う美しさに欠けてはいたが、堅固さ、安定感、それに重々しさを醸し出していた。客間はどちらかというと、屋敷の中にあって、使用頻度がそれほど高くない場所だった。それゆえ淀んだ静寂と博物館のごとき独特な匂いが漂っていた。年月を経るに従い改装が施され、年代物ではない彩色タイルに、心地の良い生活を送るために不可欠な道具類が設えられた他のどの部屋の匂いや、生き生きとした新鮮な色合いとも、その客間は異なり、コントラストを成していた。ヴェロニカは現代物の、ケバケバしい芸術品を屋敷に持ち込むことを拒んでいた。とはいえ、寝室やその他の部屋に設えられた家具類は真新しく、外見は重々しく、地味で、そのスタイルはわずかに祖先が暮らしていた昔のポルトガルを彷彿させるものであった。
アリスチィーデスは物音を立てずに客間を横切って行った。うなじ辺りに聖職者禄受給者の視線を感じる。その視線は輝きを帯びながらも、同時に陰気なものだった。義父が未だ存命中だった頃、彼との関係は実に好奇心がそそられるものであった。自分にとってそれは、僅かばかりの苛立ちと腹立たしさを帯びた、尊崇と称賛が入り混じったものだ。何年にも渡る同居生活であったにも関わらず、二人の間に真の意味での親密さというものは一度として存在しなかった。義父は我々二人の間に老主人と召使の間に介在するがごとき恭しさと、目には見えないものの、敵意が込められた、規律を遵守せよと言わんばかりの雰囲気さえも醸し出していた。自由を望むいかなる試みをくじかせるかのように、義父は私のことを常に“ドトール”と、またある時は“アリスチィーデスさん”と呼んだ。僅かばかりの皮相感を帯びた敬意をもって、私のことを扱った。それは商売上のモラル――自らに与えられた職務を果たし、早起きをし、日中働き、義務を果たし、綺麗な文字を書き、皆から尊敬される人間であり、倹約家で、誠実で、勤勉である、そのモラル――に従って、人を評価する人間が下した、無能者に向けられた皮肉と受け取れた。二人が議論をしたり、意見の不一致が起こった時など、義父は喘息持ち特有な声でこう言うのが常だった。
「わしはきちんと学を修めてはいないが、わしが思うに……」
あるいはこんな風にも言ったりした。
「ドトールである君なら知らねばならん……」
アリスチィーデスは義父と一緒にいて、完全な意味で気楽な気分になることは、一度としてなかった。彼の死後になってようやく、当家の、家族の、あるいは人生の主であるという感覚が芽生えたのだった。今、この瞬間、帝政時代に聖職者禄受給者であった義父が、郡の施政官たちのために舞踏会(ロウソクが灯された巨大なシャンデリアがギラギラと輝いている)を催した客間を横切って行っている。アリスチィーデスは聖職者禄受給者の飼い猫の吐息の音を耳にしたように感じた。
書斎へと足を踏み入れて行った。電気は点いていない。屋敷内の物音に耳を澄ませるために数秒、立ち止まった。何も聞こえない。ヴェロニカはどこにいるのだろうか? 召使たちは? 住人たちがその中で迷ってしまうほど、この屋敷は巨大だった。荒野にいる時にやるように、叫び声を上げたい衝動に駆られる。
「おーーーい、皆んな!」
しかしながら、自殺した女のことが頭に執拗にこびり付いているように思われ、もし自分が大声で叫んだとしたら、亡霊たちを目覚めさせてしまうのではないかと考えた。生命の唯一の痕跡があるとすれば、微かに鼻腔に入り込んでくる食べ物の匂いぐらいだった。いいや、駄目だ……。どんな食べ物だって、喉を通らない。それは自殺した女の引き裂かれた肉体をまざまざと目にすることになるのだから。私に必要なものは休息であり、例の考えを消し去ってしまうほどの、質の高い睡眠なのだ。モエマにヴェロニカ……。彼女たちは明日にまで持ち越せる問題だ。今、このような状態では議論すること自体、叶わない。
私は急激に年老いて行っている。電灯を点す。そこにあるもの全ては――本が収められた書架や安楽椅子、カーテン、絵画、絨毯等――友人の抱擁のように、私を包み込んでくれる。アリスチィーデスは邪悪な記憶が入り込んで来るのを防ぐかのように扉を閉めた。そして安楽椅子に身を投げ出すと、チョッキのボタンを外し、目を半開きにし、まるで激しい運動を終えたばかりかのようにハアハアと喘いだ。再びモエマのことで頭が一杯になる。ハンカチや外套の襟に染み込み、鼻腔の中に入り込んで来た、あの娘の香水の匂いをどのようにしたら忘れることができよう? 自分のこの年齢にして、人生の頂点にある、この自分の身に全てが全てきっちりと定義づけられ、堅固にして、穏やかで、安定しているこの自分の身に、あのようなことが起こるなんて、何とも信じ難い……。恐らく、問題自体は思っているほど深刻なものではないのだろう。きっと時の経過と共に、全ての辻褄が合うようになるだろう。しかしながらあの女だが、まさかあんな風に自らの命を絶つなんて、非常に馬鹿げている。すんでのところで私の車の上にぶつかるところだったし、そうなれば全てがさらに悪化していたことだろう。心の奥底で、アリスチィーデスはそのような厄介ごとを降りかからせる自らの運命が呪わしいものだと考えていた。事実、私はあの自殺とは何ら関係はない。彼女は自らの意思に従って、自殺したのだ(判断力の喪失? どこの誰が、あれが本当に自殺であると実証できようか? なぜ犯罪であると言えないのか?)きっと恋愛絡みの事件だろう……。陰鬱な考えが頭をよぎる。もしアウレーリオがその件に絡んでいたとしたら? 彼奴はいつも女の子たちとそこいらをほっつき歩き廻っている……。いいや、きっと違うだろう。あまりにも偶然の一致が起こり過ぎているのだ。目を閉じ、例の事件の場面を再構築しようとした。あの瞬間、自分が考えていたこと、激しい衝突音、車が急停車する。その後、運転手アレイショの声。あの娘の顔を思い出そうと神経を集中する。あの女を一度として見たことがない。彼女と知り合いでないことは確実だ。例の考えを頭から追い払おうとした……。多分、マルセーロが正しいのだろう。私は人生をより穏やかな気持ちを持って過ごす必要があるのだ。どんな些細なことをするにも、事前にじっくりと考えを巡らせなければならないのだ。科学が全てのことを説明してくれる訳ではない。人々はがむしゃらに幸福と心の安らぎを求める。いつの日か、当惑や苦悩の瞬間が訪れると、神、あるいは未知なる存在を前にして、我々は突如として、自分が見捨てられた、破壊し尽くされたと感じるのだ。より深みのある人生を生きなければならない。魂についても考えねばならないのだ。でも、どのようにして? 心の中で一つの声がそう尋ねた。もしこの香水の香りが女性の肉体、あるいは温もりを有していると思われるなら、どうすれば良いのか? モエマの思い出はマルセーロが口にした全ての言葉よりも熱く、堅固なものなのだ。自分自身、そのことを否定しようと努めるものの、次の日になり、自殺に対する印象が薄れ、再び古い道程を辿ることは分かり切っている。再び、モエマの許を訪れるようになるだろう。ヴェロニカがいるにも関わらず、だ。マルセーロとの約束があるにも関わらず、魂、それに神、全てを全て裏切ることになるにも関わらず、だ。唯一の救済策は眠ることだ。別のことを考えることだ。日曜日には、私の持ち馬が大レースに出場する。トラックを疾走する“パンペイロ”の勇姿を、旗のようにはためく緑色のシャツを着たジョッキーの姿を目にするのだ。脳裏にはボンバッシャ[リオ・グランデ・ド・スル州の牧童が履く、足首以外が太いズボン]を履き、薄手のポンチョをはおり、首に緑色のネッカチーフを巻き付けた、自らの姿が浮かんでいた……。そこは荒野で……、二三年革命[1923年、リオ・グランデ・ド・スル州で勃発した反体制革命]の冬のある朝だった。馬上から、道端に横たわる一体の亡骸を見やった。金髪で、目玉が飛び出し、顔が霜で覆われた青年の遺体だった。再びアリスチィーデスは通りの中程に横たわる、自殺した女の姿を思い出した……。
扉がノックされる。
「どうぞ」
青白い顔で、漆黒の大きな目をした痩せぎすの給仕係のムラータ[黒人と白人の混血の女性]の娘が書斎に入って来た。アリスチィーデスは振り返った。
「ヴェロニカ夫人が夕食を給仕しても良いか、尋ねて来るようにおっしゃられました」
「我が娘よ、良いとも」
その“我が娘”という言葉が真心からつい口に出てしまった。父親然とした口調でありながら、その奥底にあるものは女性に媚びを売るという偽りの気持ちだった。
「マルセーロは在宅かい?」
「いいえ、いらっしゃいません。マルセーロさんは聖金曜日の行列にお出掛けになりました」
「アウローラはもう帰って来たかい?」
「はい、お戻りです。アウレーリオさんは夕食を外で取られるということで、外出なさいました」
「それは知っているよ……。夕食の準備をするように言っておくれ」
ムラータの娘は戸口へと歩いて行った。純粋の意味での習慣から、いつもと同じ考えを込めてその娘の脚を見やった。
しかし何とも恐ろしいことだ……。今晩はいかなる女も欲するだけの力が、この私にはないということか。全ての脚は壊れやすく、腐敗しやすい象徴……、腐敗しやすい肉体、砕け散る骨の象徴のように思われた。何も口にすることはできない。しかしながら食卓につき、そこにいて、晩餐の席の主催者である態度を示さなければならない……。家長たる聖職者禄受給者の席を占めねばならないのだ……。これから起こるであろうことを想像してみる……。アウローラは夕食の大部分の時間、洋服について語るだろう。何某がハリウッド張りの衣装を買ったとか、ジィジィがブエノス・アイレスのモデルを招待したとか、ロシーニャは私が以前より太ったとか、それについてお父さんはどう思うかとか……。ヴェロニカは冷ややかな態度を崩さず、この私に始終、一瞥すらくれないだろう。サラダが欲しいかどうか尋ねたり、誰それが電話を寄越したとか言うために、極めて稀に口を開くだけだろう……。少なくとも、老キムが夕食のために降りて来てくれたら! しかし父は自らの隠れ家に身を潜める方を望むだろう。夜中、一度として階下に降りて来たためしがない。恐らく、自室で食事をとる方が良いと考えているのだろう。なぜなら息子の嫁と関係を持てば、老人特有の頑固さを振りかざし、彼女と敵対することになるだろうから。父はヴェロニカのことを“見栄っ張り”と思っていた。あれこれと小言を漏らしたり、皮肉たっぷりの眼差しで、彼女の洋服や赤いマニキュアが塗られた爪をジロジロと見ていた。わざとスープを音を立てて啜り、食器類や、ナイフや、スプーンや、フォークについて、あれこれと批評を加えるのだった。老キムにとって、心に安らぎを覚えるものこそ田舎生活であり、半ば自分流ともいえる質実剛健な生活であった。なぜこの小ちゃな皿は金細工や花柄が施されているのか? このナイフや、フォーク、スプーンが銀製である理由は? 我が家ではいつも花崗岩で作られた食器を使っていたし、子供たちは丸々太って、成長したものだ。それに父のあの偏執狂振りといったら……。チョッキのポケットに忍び込ませた鴨の羽根でできた楊枝で、黒ずみ、所々こびりついた食べ物のカスをほじくり出す……。研がれたナイフと言えば、老キムの例のやつだ。煙草を刻む同じナイフで、あるいは攻撃、防御用の武器として、チョッキのポケットに突っ込まれていた同じナイフで、老キムは時々、肉を切り分けた。そしてしばしばヴェロニカを挑発するように、別のナイフを研ぐためにそのナイフを使った。
アリスチィーデスは歓喜とも、苦悩とも言えぬ気持ちを抱きつつ、ヴェロニカの物言わぬ反応を観察していた。義父に対して、寛容たれと努めるよう、きちんと教育された妻の忍耐力を見るにつけ、そこにうんざりした気分や、冷ややかな嫌悪、軽蔑、無言の非難が見て取れた。キムは自分自身を変えるには、歳を取り過ぎているというのが口癖だった。父は田舎生活のありとあらゆる習慣をここに持ち込んで来ていた。それら全てはあきらかに、父が住んでいた街の見せかけの輝きに過ぎなかったが、アリスチィーデスはある種の感慨をもって、それらを評価していた。悪意に満ちた笑みを少しばかり口許に浮かべ、キムは複雑怪奇なデザート――女々しい男のごとき菓子類や、都会風ゼラチン菓子等――を食するのを拒否した。彼にとってすでに七四の齢を数えようとも、ライスとフェイジャオン[豆を煮込んだ料理]、肉とミルク以外のものは、いかなる救いもないと考えていたからだ。食事の締めに、いつも深皿にミルクをなみなみと注ぎ、そこに刻んだサツマイモと煮たマルメロ、それにキャッサバの粉を入れて飲んだ。
老キムはいかにも美味そうに、騒々しい音を立てて食べ物を口に放り込み、「もし食べ物が気に入らないなら、ここから出て行け」とでも言わんばかりに、時折、目を上げた。アリスチィーデスが思うに、マルセーロの存在が食卓を囲む人々の雰囲気を改善させることにはならなかった。キムとマルセーロの間には、長きに渡って穿たれた大きな溝があった。父が息子のことをきちんと理解することは、これまで決してなかった。粗野とも言えるユーモアを交えて時々、こんな風に言ったものだ。
「この信心深い男はわしの息子じゃない。おっ死んだ妻の何らかの悪戯に違いないわ」
アリスチィーデスはマルセーロが父に対して忍耐を示し、受け入れ、注意を払っていることを示そうと努力していることを見て、感じ、理解していた。しかし父とマルセーロとの間に横たわる問題の解決策はないというのが、彼自身の見立てだった。マルセーロがやることのできる最良のこととは、父のことを忘れることなのだ。
アリスチィーデスは立ち上がり、チョッキのボタンを留めた。「きっと夕食は葬式のように違いない」、そう考えた。召使の娘が再び戸口に姿を現わした。
「ドトール、お食事の準備が整いました」
アウレーリオは車を停め、聖金曜日の行列が通り過ぎるのを待たねばならなかった。その日は暗い夜だった。荘厳とも言える葬列を眺めるにつけ、それが象徴的な意味合いのものであるにも関わらず、本物の葬列を実際に目にしているように思えてならなかった。その後、火の灯された松明に、聖歌隊の一群、人影が続き、眼前を通り過ぎて行く。それら全てのものに対して、僅かばかり不快感を覚えた。そうした光景に“大きな”感銘を受けている訳ではなかったが、無意識の内に帽子を取った。習慣からか? 敬意からか? 袋叩きに遭うのが怖いからか? その理由は分からなかったが、そんなことはどうでも良かった。アウレーリオは良心の糾明をするような質ではなかったし、彼の中にあるものは主として、単純にして、本能に根ざした生きることへの渇望であり、いかに肉体的表現をすべきか、快楽を表出すべきか、行動に表わすべきか、あるいは自らの意思を表明すべきかという苦悩であった。健康にも恵まれているし、学位も取得した。父のオフィスで“働いている”し、そこで目を通すこともなく書類にサインをし、労働の対価として取るに値しない給料をもらっていることを正当化しようと奔走している。社会生活を送るにあたって、博士の学位は人目を引く、派手な色のネクタイのようなものなのだ。アウレーリオの中で、肉体と精神の間で暗黙の合意がなされていた。よって、“あのような贖罪の宗教行事”を目にしたとしても、それを二の次に考えるのが常だった。もし仮にそれらのことを思い出すことがあったとしても、マルセーロ叔父さんがこの自分に対して生き方を変え、魂の行き先を深刻に考える必要があると執拗に言い募ることによってなされることに過ぎない。魂があろうと、なかろうと、事実として言えることは、この自分は宗教など微塵も必要ないということだ。そのように、アウレーリオは結論づけていた。「僕は偽善者ではない」と言うのが口癖だった。皆は、この僕がいかなる聖人でもないということを知っている。僕の人生は明瞭なのだ(“ほとんど”明瞭だ、と心の中にいる、もう一人の自分が付け加えた)女も、仕立ての良い服も、車も、スポーツも好きだ。いつの日か、自らを養うために働く義務を負うことになったとしたら、退屈で死んでしまうだろう。ほんの少しの時間、オフィスで過ごすだけで、世界の不在を感じ、苦悩に苛まれる。椅子の座部に触れていると、まるで炭火の上に置かれた鉄の椅子に腰掛けているような、何とも耐え難い感覚を催されるのだった。勤務時間中、ほとんどの時間、電話をしたり、約束を取り付けたり、友人たちと会話に興じて過ごす。仕事に対するユーモアとも言える定義づけは、次のような言葉で言い表わすことができよう。
“人間というものが働くために作られていない理由こそ、働けば働くほど疲れ果ててしまうということにある”
聖金曜日の行列はゆっくりと通り過ぎて行く。松明の火に照らされる人々の顔を見やる。ある者たちは顔見知りで、またある者たちはぼんやりとだが、見覚えのある面々だった。しかしながら大部分は初めて見る人々だった。時折、自分が非常に困難な状態にある時に目にした、男や女の顔が群衆の中に混じっているのが認められた。何という悪党どもだ! 心の中でそう叫んだ。たとえば今、あそこを通り過ぎて行くレミジィオなどは、小麦取引きでスキャンダルを起こした張本人だ。アウレーリオはニンマリと笑った。ああ言った種類の善意を、どのようにしたら信じることができようか? 奴のごとき種類の人間は他にも存在する……。もしあの行列に参加している者たち全てが真の意味で信心深かったとしたら、街を取り巻く道徳的空気はより良いものになっているだろう。しかし彼らにとって、その道徳的空気の何が重要だというのか?
アウレーリオは耐えられなくなって来た。というのも、行列が想像していたものよりずっと長かったからだ。車を停めている場所から行列を見ない訳にはいかない。行列が通り過ぎるまで待っている以外に方法はないのだ。そういった訳で、じっと待った。松明の光に照らされた人々の顔は悪魔、あるいは死神のような形相だった。全く意に反するのだが、行列が醸し出す雰囲気に染まって行く。埋葬はいつだって埋葬だ。死ぬということは極めて自然なことだ。しかし葬式や、亡骸、墓地を見るのが好きな者はいない。何とも忌々しい! 全くもって不快だ。死ぬのは一度切りだ。死ぬ方が不具になるより数千倍ましだ。しかしながら……。
“ヴェロニカ[イエス・キリストが十字架を背負って刑場に向かう途中、顔を拭う布を捧げた聖女]”が歌い始める。その悲嘆に暮れた歌声は通りを満たし、屋根が連なる上に広がる空へと昇って行く。アウレーリオははっきりと困惑を覚えた。軽い居心地の悪さがじわじわと心の中に広がって行く。あそこを通り過ぎて行く人々は皆、この僕がどのような気分で過ごしているのか、あるいは何を考えているのか全てお見通しで、こちらに非難と不信の視線を向けているように思われてならない。彼らの祈りの文句はまさにこんな風に言っているのだ。
「彼奴は父親の愛人宅に行く。彼奴は父の愛人の愛人だ。父親は罪を犯し、息子は罪を犯し、皆が罪を犯す。父親は罪を犯し、息子は罪を犯し、皆が罪を犯す」
アウレーリオはそうした考えに反発しようと努めながら、煙草に火を点けた。人生は素晴らしい。キリストは何世紀も前に死んだ。それは彼の罪ではない。我々人類を救済するために死んだのだ。公教要理の授業の時のアロンソ神父の声が記憶の中でわんわんとこだまする。大罪とは……。アロンソ神父は角張った、半ば緑色を帯びた顔つきで、目は情熱でギラギラと輝き、非常に大きな手をした御仁だった。中等課程……。礼拝堂……。初めての聖体拝領……。授業……。塀の後ろに隠れて、煙草を吸う生徒たち……。アウレーリオは苛々した様子で力を込めてふぅーっと煙を吐き出した。
行列が終わるのを目にするのは大きな喜びだ。車を発進させる。モエマはその記憶を消し去ってくれるだろう。彼女と過ごすであろう時間を前もって反芻する。過去の喜悦の時間を噛みしめる。とどのつまり、あの状況こそ、世界で最も好都合なものなのだ。老父が費用を払い、歓喜の時を過ごし、彼自身、その愛人を独占しているという幻想を抱く……。そして、その息子もちゃっかりと恩恵を享受する。
アウレーリオは九〇キロで車をぶっ飛ばしたい衝動に駆られた。交通ルールなんて糞喰らえだ! 飛行機のことを考える。それが懐かしく思えてならない。今日のような夜に飛行機で空に舞い上がり、上空から街を見下ろし、海まで飛んで行って、果敢にも波がうねる水面ギリギリまで高度を下げたとしたら、実に爽快だろう。いつの日になるか分からないが、老キムが飛行機に乗り込んで来る様を想像する。昔の人たちは英雄たちの偉業について語ることが好きなのだ。丘陵を走り抜け、混戦を制した英雄たちも、空中戦において戦闘機を駆り、沈着冷静に敵機を撃墜した英雄たちもいただろう。勇気には様々な種類がある。白兵戦に身を投じる勇気、潜水艦に乗り込む勇気、素手で敵に対峙する勇気、スパイ活動に身を挺する勇気、それに生きるための勇気さえある……。ここにはモエマがいる。全ての人間は死すべき運命にある。ソクラテスは人間だ。それゆえ彼も死すべき運命にあるのだ(論理学の授業のことを思い出す。先生は顎鬚を生やし、鼻眼鏡を掛け、腰の曲がった神経質な短躯の奴だった)この僕、アウレーリオは人間だ。それゆえ死すべき運命にある。どのようにすれば、真っ当な人生を送ることができるのだろうか? 戦争を経験した後だが……。人々は一体、どうなってしまうのだろう? さらなる喪失か? さらなる狂気か? いずれにせよ、全ての人々は金や愛を手にするために奔走している。忌むべきことこそ、打ち負かされて、足蹴にされることなのだ。自分には殉教者になる資質はない。アルヴォレード通りに入ると、車をすっ飛ばす……。二分後にはモエマをこの両腕で抱き締めていることだろう。マリネされた魚料理を食し、上等なポルトガルのワインを飲むのだ。デザートは桃のコンポートだ。そしてキス、沢山のキスだ。
マルセーロは大聖堂の地下納骨堂から出て来て、歩道へと足を踏みだそうとした瞬間、その場ではたと足を止め、四散して行く人々の群れをぼんやりと見やった。悲しい気分だった。ある時期、見捨てられ、孤児のように過ごした頃に感じたような悲しさだった。実の父親を埋葬したばかりかのように、全てが過ぎ去って行った。自分が探し求めて止まない唯一のものこそ、身を守る場所、安全な港、救済、そして心の安らぎだった。しかし心の内を満たす唯一のものは(いかほどの富や、充足感があろうとも)、ほぼ二〇年前に母が他界すると同時に人生にぽっかりと穴が穿たれ、それによって心を支配する空虚な気持ちだった。友人が死に、埋葬された。棺に納められた血塗れの亡骸を目にした。今やこの地上は凍てつく砂漠へと姿を変え、いかなる希望もない。そうした考えにマルセーロは悪寒を覚え、心の潤いが失われて行くように感じられるのだった。そうした罪深い感覚を消し去るためにも戦う必要がある。なぜなら明日は聖土曜日だからだ。キリストが復活を遂げ、この世に生を受けることになる……。自分は抵抗しなければならない。しかし実際のところは抵抗していない。なるがままに身を任せているだけだ。私は苦しみたい。苦しむ必要があるのだ。ここ数週間の戦いは私に苛立たしい疲労をもたらした。今では断食によって押し潰されそうだ。一日中、何一つとして口にしなかったし、水さえ飲まなかった。体力が徐々に失われて行くのを感じ、胃に軽い痛みを覚える。そうであっても食欲はなかった。
下街の方に向かって坂を下り始める。自宅に戻り、家族の面々と顔を合わせる気持ちは微塵もない。今日のような夜には、いかなる種類の人間と同伴しようとも、自分の魂に渦巻く苦悩をより深化させることはまず間違いない。“人の子”としての犠牲。彼の死が人類にとっていかなる意味を持つのかという、その奥底に潜んでいる全てのものを理解するためにも、自身の心を広げ、研ぎ澄ますことを望んでいる。後は何らかの方法をもって、ここ数日の間、アリスチィーデス家を襲った危機を前にして、自身が容易なまでに怒りや苛立ちを覚え、暴力に訴えたいという気分に駆られたことへの罪滅ぼしをする必要もある。人間の情欲から発せられる熱く、不快な吐息や、空虚な言葉の陳腐さ、物資に対する粘着性を帯びた飽くなき欲求によって魂が曇ってしまったのだろう。それを受けるのに値しないということは重々承知してはいるが、心が安らげる瞬間が訪れて欲しい。感覚的にいかなる享楽をも伴わない安らぎ、寛ぎなき安らぎ、休息なき安らぎ、自らが受けた傷を弄り回すための安らぎ、さらなる苦悩に苛まれるための安らぎ、そうした瞬間というものが訪れて欲しいのだ。
歴史的な古さが残る地区の通りを夜に、独りで漫ろ歩くのが好きだった。そうした場所は神秘を醸し出すのに好都合な空気が漂っている。慎ましやかとも言える雰囲気と静寂が立ち込める中、何か超自然的なことが起こる準備が着々と進められているように思えてならない。ネオン広告や、光り輝くショーウインドー、虚栄心に取り憑かれた人々で溢れ返る市街地の通りに、いかなる誇りを感じることはない。神を忘れ、放蕩に耽る群衆。物質主義、機械至上主義文明の象徴たる通り。かのイエスは下街のみすぼらしい通りを歩き廻っていた。マルセーロはそう考えた。狭い歩道に沿って歩を進めて行くのは、何とも気分が良い。
街灯に照らされた通りの角で足を止めた。光が体の上に降り注いだが、その目は依然として顔の上部を覆い隠す黒色のフェルト帽のツバの陰に隠れて見えなかった。三二歳の齢を数えるマルセーロはほっそりとした体躯で、少しばかり猫背で、ひょろ長く、繊細な手の持ち主だった。一般の人々がその手を注意深く観察したなら、それが他の体のどの部分より年老いているように思えただろう。細長い指は先端に行くにつれ極端に細くなっており、筋張っていて、生彩に欠け、皺が寄っていた。半ば透明で、艶々した、ロウソクを彷彿させるような白色の細面の顔に、尖った薄墨色のカサカサに乾いた鼻が付いており、鼻腔は大きく広がっていた。時折、口許にほとんど冷酷とも言える表情を浮かべることもあるが始終、唇はきっと結ばれていて、極めて稀に歯並びの良い小さな歯を覗かせるために口を開くこともあった。目はたとえ陽の光が当たっていようとも、夜のごとく陰気な光が宿っており、母親のそれがそうであったように緑色を帯び、白っぽい灰の上でチロチロと燃える熾火のような輝きが認められた。毛髪は禁欲者のそれであり、同時に芸術家のごときものとも言えた。もしその顔に血の気が帯びていたとしたら、その長髪が荒々しく伸びていたとしたら、現実世界に溢れ返る光や熱情がその顔を輝かせていたとしたら、あるいはその鼻腔をピクピクと動かせていたとしたら、カウディーリョ[地方政治のボス、“コロネル”と同義]の仮面を被っているように思われたであろう。
マルセーロは通りの様子を伺っているものの、その目が唯一目にしているものは、自らの思考の中を通り過ぎて行く、聖金曜日の行列のみであった。天に召された主の聖列か……。信者たちが舗道の敷石を踏みしめる足音が聞こえて来る。祈りの詠唱が、ヴェロニカの痛々しげな歎き声が天へと昇って行く。松明の光に照らされた陰気な行列は中世のごとき場面を思い起こさせる。どうか神よ、いつの日かその同じ聖なる松明に点された炎が再び燃え盛り、驕り高ぶった旗印や、不純なる書物、似非の預言者や律法学者を業火の中で焼き尽くされんことを(かき曇った空を切り裂く稲妻のごとく、トニオ・サンチィアーゴの姿が脳裏をよぎった)体が萎えるような気分に襲われてはいたが、突如としてたぎる熱情が、闘争欲が、苦悩と同時に憎悪と歓喜と陶酔が入り混じった感覚が胸中に湧き上がって来た。そうとも、新たなる中世が生え来るべきなのだ……。品性も中身も持たない文明が創り上げた全てのモニュメントを、貪欲さを、分断された希望なき心を打ち捨てた後に、人々は謙虚な気持ちを胸に教会の扉を叩かなければならない。いずれ辻褄を合わせるべく、清算の時がやって来る。まさにそうだとも! 地上に神の王国が打ち立てられる時がやって来るのだ。想像の中では、燃え盛る松明から発せられる光が教会の敵たちの恐れ慄く顔を明々と照らしていた。それにより突如として顔がカッと熱くなり、耳が火照るのを感じた。あの日の夜、私は天に召されたイエスの亡骸が収められた棺を担ぐのを手伝ったのだ。未だその棺の長柄が肩に食い込むのを感じる。イエス御自らの手が何人に対しても敵意がないという仕草をしているように思えてならない。そうした考えに対して、マルセーロは足の爪先から頭の天辺に至る全ての皮膚が粟立った。突然、凍てつく風が吹き付けたかのように松明の火が消えた。再び孤児のごとく打ち捨てられた、あるいは喪に服しているかのような冷ややかな感覚に襲われた。自分が住んでいる家の人々のことを考える。どのようにすれば、アリスチィーデスは“あのようなこと”をやってのけることができようか? 五二歳にもなり、年若い子供たちがいて、それなりの社会的地位を有しているというのに……。幸いにも最悪とも言える危機的局面からは脱することができた。ヴェロニカは思慮分別のある女性だ。夫婦別居することを止めることに同意し、そのような解決策は神の目にも好ましく映らないし、教会と敵対する人々の邪な欲望に好餌を与えるようなものであるということを納得してくれた。しかしながら本当のところは――マルセーロは河岸へと続く通りに足を踏み入れて行った――、たとえそうした合意によって、家の外観が取り繕うことができたとしても、建物自体の基盤が危険に晒されていることには変わりはない。だが恐らく、時が全てを正してくれるだろう。ヴェロニカは過度なまでに気位が高い。マルセーロ自身、アリスチィーデスが誓いの言葉を遵守し、例の愛人から手を引くことを信じてはいなかった。さらに息子のアウレーリオだが……。浅はかで、中身のない、危険な人生を歩んでいる……。何ということだ! 何と彼奴は軽薄で、気紛れで、愚かで、時には粗野でさえあることか。女家庭教師を雇い、特別とも言える配慮を払ったにもかかわらず、母親が息子に与えようとした教育は全くもって役に立つことはなかった。アウローラに関して言えば、ある種、非の打ちどころのない所作を持ち合わせているように見えるが、彼女も同様、頭が空っぽで、虚栄心に満ちていて、人生の深遠なる意味を理解できるだけの能力を持ち合わせていない。マルセーロは聖職禄受給者の屋敷についての考えを頭から追い払おうとした。なぜなら例のイメージが自身の魂を何処へと誘って行くのかをよく知っていたからだった。老キム……。父のことは考えたくない……。よって、通りの様相や行き交う人々、店々の戸口やこじんまりしたショーウインドー、壁などに注意を払おうとしたのだった。しかしながら、そうした全ての場所においても、目には見えないものの、厳然として老キムは存在しているのだった。自分の椅子に腰を下ろし、力強く呼吸し、弛んだ二重の瞼の後ろに隠された、鋭い眼光の目でこちらを睨み付け、ゲジゲジ眉を吊り上げている。マルセーロは苛々するように体を揺すった。これまでありとあらゆることを試みて来た。長年に渡る無理解や離別、声なき敵意があったにも関わらず、強いて父に対して、慈しみの気持ちを注いだのだった。愛に満ち溢れた奇跡のみが、そうした状況を打破できるのだろう。しかしながら息子が示す慈愛の態度に対して、互いが歩み寄るか、あるいは少なくとも老父自身があのようなアイロニーとも、悪意とも取れる雰囲気、つまり借金の支払いが滞った負債者がやって来た際、債権者が漂わせているがごとく雰囲気を漂わせるべきではないのだ。
マルセーロはそうした考えを忘れ去りたかった。戦いが未だ終わっていないことも、あるいはたとえ自分がこの世を去る日においても、その戦いが終わっていないだろうということも重々承知していた。しかし今はそのことから離れ、この現世から少しばかり身を切り離したいと切に思った。今一度、通りに注意を払おうと努めた。この区画は近代化の波に諍い続けている。ここには高層ビルも、電柱も、ネオンガスの広告看板もない。感動的とさえ思われる、田舎の様相を保ち続けている。家々は平屋建てで、いかなる装飾も施されていない。実に質素な佇まいで、一様に落とし窓が設えられている。歩調を緩め、マルセーロはさらに注意深くそれらの家々を観察した。家屋の中に目を向けると――不法にそこに入り込んでいるように思え、軽い罪悪感を覚えた――、黄色の光の中にレースのカーテンや、足の部分に車輪の付いたイグサで作られた家具類、先祖たちの肖像画、小さな置物などが見えた。地下室の換気口から、ひんやりとした湿気を帯びた黴臭い臭いが漂い出ている。時折、戸口や廊下の薄暗い片隅で猫の目がギラギラと輝き、忙しなく動き回っている。夥しい斑点で覆われた壁はひび割れた漆喰塗りで、煉瓦が剥き出しになっていて、それは悪天候により打ち倒された老体の生々しい肉を思わせた。
格子縞のショールで身を包んだ、白い縮れ毛の黒人女が半ば開いた扉から身を乗り出し、通りを眺めている。歩道では子供たちがホーダ[手をつないでクルクル回る遊びの一種]に興じており、彼らが歌うそれはマルセーロが幼少時代に歌っていたものと同じであった。とどのつまり、映画はその陳腐たる影響力をこの界隈に及ぼしている訳ではないということだ。マルセーロはしばしその場に立ち止まり、自らがこれまで歩んで来た人生の二〇年間を後戻りしているような奇妙な錯覚を覚えつつ、ホーダの歌声に耳を傾けていた。子供たちの邪魔をしないように注意深く歩道を下って行き、細長く、せせこましい小部屋で仕事に勤しんでいる靴屋の側で立ち止まった。屈強な胴体に、半袖のランニングシャツを着込んだムラート[白人と黒人の混血の男性]が椅子に腰を下ろし、靴底をハンマーで打ち付けている。光量が極めて乏しい電灯がその小部屋の空間をオレンジ色の物悲しい光で照らしている。床、あるいはテーブルの上には、使い古された靴が所狭しと並べられている。マルセーロにとって、長期間に渡り履き潰された靴が放つ独特な匂いと混ざり合ったなめし革の鼻につく臭いは、人類の発散物そのものであり、決して心地の良い匂いとは言えなかった。しかしながら、目の前に映る光景はどことなく魅力的なものに思われてならなかった。マルセーロは遠慮がちにその光景を観察していた。そうとも、あの男は中世の職工を思い起こさせ、労働の尊さを考えさせられるのだ。日銭を稼ぐために靴底をひたすら叩き続ける靴修繕屋という、何とも取り止めのない事柄の中にも詩と成り得る要素があるのだ。ブルジョア階級による搾取から逃れ、機械の奴隷となることから解放されている。そうした者たちの労働こそ、神の目に美しく、高貴に映ることだろう。
靴屋は顔を上げた。マルセーロはその顔にいかなる親愛の情も浮かんでいないと判断した。そう、「おい、あんちゃん。わしのことを一度として見たことがないのかい?」と、尋ねるがごとき表情がその顔に貼り付いていたのだった。かつて私が窓辺で、他の子供たちが通りのぬかるみや、側溝の水で遊び戯れているのを興味津々且つ羨ましそうに眺めていた際に、サンタ・マルタの子供たちが自分にそんな具合に言ったものだ……。
マルセーロは再び歩き始めた。薄暗く、人気のない横丁に足を踏み入れて行く。ほとんどの窓には光が灯されていない。ますます過去に足を踏み込んで行くような気分になる。なるがまま身を任せよう。神は私がどのように進めば良いのか導いてくれるのだから。そうとも、神こそ私の羅針盤なのだ……。
人気のないそれらの横丁に漂う神秘的な雰囲気はどうだ……。そこには様々なドラマや苦悩、貧困、希望が渦巻いているのが見て取れる。粗暴とも言える赤裸々さや、累々と続く貧困の中に、ほとんど修道院のごとき様相が垣間見られる。それらはまさにアソーレス諸島からの入植者たちのごとき質実剛健な生活振りを、あるいはキリスト教徒的な夢を抱く、清貧とも言える生活振りを彷彿させている。マルセーロは国民性を喪失した映画や、ブラジル国内に入り込んで来ているアメリカの雑誌等が及ぼす影響について考えを巡らせた。そうしたものの影響に対して、これまで以上の力を持って戦う必要がある。家父長制的規律且つ伝統を重んじるポルトガル文明に対して、ある種の魅力を感じてはいる(その文明が“不潔なもの”を含んでいることに加え、極めて貪欲で、私生児が溢れ返り、妾を平気で囲うと言ったことも認知してはいた)総じて、ルシタニア世界の系譜たるや良いものであって、質素にして威厳に満ちたカトリック社会や、ヤンキー、それに巷で台頭して来ているロシア共産党員の不道徳に染まっていない、ありとあらゆるものの礎として機能することができるのである。アメリカの資本主義とロシアの共産主義という相対する勢力が、我々のごとく若い世代の民を打ち倒すという事業を前にして、いかにして手を携え、進んで行くことができると言うのか? 実際問題として、そうした二つの勢力の構成員たちがブラジル中に散らばり、各々の思想がペストのごとく流布して行っている。
今一度、マルセーロの心の内に焔が灯った。それは一瞬、光り輝いたかと思うと、再び消えた。川から吹いて来た風のせいだろうか? いいや、過去から吹いて来たそよ風のせいだ。マルセーロ・バヘイロの思考はサンタ・マルタへと飛び去って行った。一九二三年の乾燥した寒風が吹きすさぶ日のことだ。故郷のことを考えたり、記憶の糸を辿る際には決まって、革命が起こった、冬のその日に誘われるのが常だった。自分は一二歳で、客間の窓辺に佇み、額を冷たい窓ガラスに押し付け、絶え間なく吹き付ける強風に吹かれて葉が落ち、丸裸になった広場の木々をじっと見つめている。鉛色の空に向かって聳える教会の尖塔が見える。ベッドの中で、痩せ細って行っている母のことを悲しげに考える。息子や、お父さんはどこだい? 革命に参加しているよ。緑色のネッカチーフを首に巻き付け、黒色のポンチョを被り、腰にはサーベルを帯びているんだ。お父さんは革命に参加しているのだよ。その冬の日は邪悪な風がヒュウヒュウと音を立てて吹いていた。お母さんを殺したのは、その風だ。でも、そうではなかった……。ある日のこと、だれかが耳許でひそひそと囁いた。「お前のかあさんを殺した張本人こそ、迷惑千万たるキムだ」。あの日の朝、寒風を身にまとい(その風は馬や、湿った革、藁煙草の臭いがした)、父は家に入って来た(泥まみれの拍車付きのブーツで地面に線を描きながら)郡全体に今や、誰一人として連邦主義革命に対する賛同者はいなかった。ある者がこう嘆願した。「キムさん、大声で話してくれるな。あんたの奥さんは具合が良くないのだ。マルセーロや、お父さんに祝福してくれるようお願いしなさい」。父に対して自分が抱いていた恐れは……。懐疑に満ちた恐れとでも言えようか……。あるいは心の奥底に秘められた憎悪とでも言えようか? 脂肪分が失われ、カサカサした手は煙草のヤニの臭いがして、それは苦味を帯びた味だった。血の臭いだろうか? 小学校では生徒たちが口々にこう言ったものだ。「お前の父ちゃんはならず者だ。ジョアン・ダ・オラリィーアの首をはねるよう命じたのは何を隠そう、お前の父ちゃんだからな」。あの苦味を帯びた味は血のそれに違いない……。
マルセーロはそのような思い出を頭から追い出そうとした。ほとんど二〇年という歳月が経過した今日においても、恐れと嫌悪がない混ぜとなった、あの奇妙な感情に打ち勝つことができない。精神的意味合いで父との距離を詰めようとするいかなる行為は――長い間、自分自身、そう思っていたことだが――母に対する思い出への背信行為に相当すると考えていた。粗野で、専横且つ身勝手で、始終、自宅に愛人を連れ込むことさえした夫に対して、母がその所業にどれだけ黙したまま耐え忍んでいたにせよ、私自身、そのことを忘れたくとも決して忘れることができなかった。
マルセーロは灰色がかった無味乾燥の家庭環境の中にあって、母親のスカートに掴まり、同年代の男の子たちと戯れることもなく、ほとんどいつも四枚の壁に囲まれた空間に閉じこもっていた。
ある日のこと、父が大声を張り上げてこんな風に叫んだことがあった。
「ジョゼッフェ、こいつは女々しい奴になり下がっとる。こいつを馬の背に括り付けて野に放す必要があるとも」
対しては母は、こんな風に答えた。
「いいえキム、マルセリーニョは私のものよ。あなたはアリスチィーデスを自分好みに育ててもらっても結構よ。でも、マルセリーニョは私のものだから、絶対に駄目」
敢えて夫に逆らったのはそれっ切りだった。
そして今、そうした全てのことを考えながら、マルセーロはその当時、心に描いていた夫婦生活について思い起こそうと努めていた。五歳から十二歳の間、実際に家で起こったこと、耳にしたことを通じて、結婚に対してとても奇妙な考えを持つに至ったのだった(その考えが何と頑なに私の心を掴んで離さないことか!)特にあの陰気とも言える冬の後、その漠然とも言える考え、つまり“夫”と“妻”という言葉の意味するところを自らの言葉をもって定義づける必要性に駆られたのだ。それについて、私は次のように書き留めざるを得なかった。そうした禁忌とも言える言葉の羅列が心に浮かんだことに対する恐れに打ち勝つことを敢えてするなら、こんな感じになる。
“夫とは――勇猛果敢にして、常に命じる立場にあり、戦いに赴き、女たちを後ろに従えて歩き、ヤニや汗の臭いを漂わせ、地面に痰を吐き、大声で喚き散らすものである。
妻とは――苦しみ、従順にして、黙したまま泣き暮れて待つ。日銭を稼ぎ、子供を産み、そしてニコリとも笑わない”
何とも“勇猛果敢”とも言える忍耐力だろう! そう、マルセーロは考えた。たとえ息子と二人切りで、夫が長い間横たわることのない巨大なダブルベッドに添い寝していた時でさえ、声を噛み殺しては啜り泣き、涙が頰を流れ落ちるに任せ、枕を濡らす母の姿がそこにあったのだから。ある革命が勃発した冬の間、毎日、夕暮れ時になると決まって、祈祷室にロウソクを灯し、「家長の命をお護りください」と、守護聖人コンセイサォンに請い願った。同時に魂に安らぎを与える言葉すら掛けられず、死出のロウソクを手に握らせてくれる者も誰一人としていない、」原野で不慮の死を遂げた人々に対して、さらに他の家々で戦いに赴いた主人や息子たちなどのことに想いを馳せては、家人の帰還を待ちわび、苦悩に臥せっている女たちのためにも祈りを捧げるのだった。マルセーロはユラユラと揺れるロウソクの光を浴び、色づけされた聖コンセイサォンの陶器の聖像の顔を喰い入るように見つめる母の姿をありありと思い出した。その聖像の口許に浮かぶ含み笑いは、とどのつまり、最後の最後には全てが上首尾に終わるということを言わんとしているようだと常々、思ったものだった。その善意に満ちた微笑みは人々に勇気と希望を与えているのだ。しかしながら母の顔は沈痛に満ち、青ざめていた。頬はこけ、顎は角張っていた。明るい色合いの瞳には驚愕の光が宿っている。何とお母さんの手は紫色掛かっていて、骨張っていることだろう! まるで死人の手のようだ! 風が戸と窓の隙間から入り込んで来て、寒さと恐れで歯をカチカチと鳴らす者のように、ガラス窓をガタガタと揺らした。
マルセーロは川の方へと歩いて行った。私が犯した過ちといえば――思い出に浸りながら考えた――、自らに課された、真の意味での天命に背を向けたことだ。常々、私は神父になりたいと思っていた。息子よ、お前はスータン[カトリック聖職者の平服]なぞ着るものではない。バヘイロ神父なぞ冗談ではないぞ! 父は私に法学を学ぶよう強いた。兄のアリスチィーデスは大学を卒え、勝利と栄誉の保証された職業に就き、その道を歩んで行った……。
マルセーロはもし自分が修道院に入っていたとしたら、そこでの生活はいかなるものであっただろうかと考えた。恐らく、孤独と心の安らぎに満ちたものだっただろう。神とのより完璧な一体化を目指し、瞑想に耽っていたことだろう。しかし多分、エゴから自らの魂の救済のみに腐心していただろう。他人のことを考える必要がある。穀物畑は広大にして、そこで働く者は余りにも少ないのだから。教会は劇的且つ美しい時を紡ぎ出す。戦いのラッパが高らかに鳴り響いた。なぜなら神の城塞の中にさえ、怨敵が紛れ込んでいるからだ。アリスチィーデスを始め、その他の数多くの者たちは邪悪なカトリック信徒なのだ。つまり彼らにとって、信仰は見せ掛けに過ぎず、仮に自らの懐が痛まない限りにおいては、ありとあらゆる考えに安易に迎合する輩なのだ。今や妥協している時ではない。そうとも、自己犠牲を捧げる時なのだ。教会は新たな殉教者を求めている。カタコンベへと舞い戻る時が到来したのだ。
松明の火が再びマルセーロの魂を明々と照らした。しかしその炎も今や冷ややかであった。というのも、胃の入り口辺りに滞留する白く、凍てつく部分が体の節々までどんどん広がりを見せることで、徐々に身体中の力が萎えて行き、その勢いに合わせて体が軽くなり、何とも名状し難い心地の良い倦怠感に襲われたからだった。
マルセーロは川の方へと一瞥をくれた。通りを横切り、水際の踏み固められた、こんもりと盛り上がった場所に立ち止まった。自らを取り巻く夜が突如として深まって行くように思われた。徐々に星々がその輝きを増し、街と世界の上空には無数の光の点が明滅している。穏やかな川面には浮きブイの赤色の光が瞬いている。カーブを描くベーラス海岸に沿って、黄色の灯りが連なり、どこまでも延びて行っている。グアイーバ湾を挟んで対岸にあるペドラス・ブランカス地区の光は青みを帯びた銀色の光を放っている。近くの通りから路面電車が通り過ぎる轟音が聞こえて来る。そのけたたましい音が中空に溶け込むと、以前よりもさらに深く思われる静寂が辺りを包んだ。
マルセーロは帽子を脱いだ。風が優しく髪の毛を掻き乱した。あの冬の日に吹いていた風は……。母は苦悩に打ち沈んでいた……。「あんたのとこの親父はならず者だ。気の毒な妻をじわじわと殺しているのだからね」。グラッサ叔母さんの声だ。「私にとって慰めとなるのは、奴がいずれ地獄に堕ちることだわ。神は悪党どもに罰をお与えになるもの」。広場の木々を揺らす風。死に絶えた世界の音とイメージ……。
頭を上げ、マルセーロは星々の瞬きに目を据えた。体は麻痺しているかのようで、この瞬間、人々の声も地上に満ち溢れる物音も何一つとして耳に届かなかった。人生のことも、自らの中で渦巻く苦悩も全てを忘れた。星々さえも実際に目に映らなかった。ただ顔に吹き付ける風を感じるのみだった。しかしその風も今、この瞬間、この場所で吹いているものではなかった。それがいつなのかは分からないが、他の時代の、過去の時代の丘々に吹き付ける風だった。田舎の墓地に立つ十字架の間をヒューヒューと唸り声を上げて吹き抜ける風だった。
“ここにジョセファ・ヌーネスは永眠す。貴女のために祈り給え”
母に、あるいは斬首された者たちに吹き付ける風だ……。マルセーロは地に足がついていないように感じていた。自らの肉体が(あるいは魂か?)尖って行き、尖塔と形を成し、祈祷を捧げるために重ねられた手は投げ矢のように、あるいは光線のように形が変わって行くように感じられた。そして光り輝く御顔の神の許へと昇って行くように思われた。
手から帽子が滑り落ち、風がそれを川へと引き摺って行った。
まさにその瞬間、“セッチ”ことアンジェリィーリオもまた空を見上げていた。空に浮かぶ三日月を眺めている内に、口の中に生唾が溢れ出て来た。西瓜を一切れ食べたいなあ……。八時からアンジェリィーリオは家に帰るのが怖くて、何をするでもなく川辺を歩いていた。お母さんが僕の話を信じてくれないのは明らかだ。何度も説明すべき話をあれこれと思い描いていたが……。
「お母さん、インペリオ・ビルの屋上から飛び降りた女のせいなんだよ。人々はあちこちへと走り廻り、その内の誰かに突き飛ばされて僕は転んでしまったんだよ。お金がポケットから転がり落ちて、それを拾おうと僕は屈み込んだんだけど……。その時、一人の男の子が走り寄って来て、二ミル・レイス硬貨を引っ掴むと逃げて行ったんだ。他の硬貨は側溝の中に落ちちゃったんだよ。三ミル・レイスもね」
しかし“セッチ”はどうしたって、母が信じてくれないことは分かっていた。きっとスリッパでしこたまぶたれるだろう。最良なのは家に帰らないことだ。最悪なのは日が暮れ、空腹でお腹がグウグウと鳴っていることだ。
もしスリッパで叩かれるぐらいだけだったら、それほど悪かあない。そう考えながら少年は歩き続けた。でも、もしお父さんがいたら、鞭でこっ酷くぶたれるだろう。バシッ! バシッ! アンジェリィーリオはお尻の方へと両手を持って行った。
「お父さん、女の人が飛び降り自殺をして、僕は誰かに突き飛ばされたんだよ……」
何を言ったって無駄だ。なぜなら僕は時々、嘘を付くから……。時々だって? いいや、ほとんど常に、だ。
星がいくつか川に落ちて来たかのように思われた。黒々とした島々は錨を下ろした船のようだ。明かりが一つ、また一つと灯って行く。ある場所で――ええっ! 一体、どこで?――、心臓の鼓動に似た音を立てて、ガソリンが夜にトクトクと耳障りな音を立てて注がれている。
“セッチ”は路面電車の線路の上を歩いて行った(サーカスだ。綱渡りの少女と年老いた曲芸師)時折、河岸に係留された小舟を眺めるために立ち止まった。僕自身、今まさに欲していることはカヌーを手に入れ、島々の方へと舳先を向け、魚を釣り、果物を食い、小鳥を仕留め、泳ぐことだ。薪や果物を積んでいる荷船の方へと目をやる。それらの船には人々が住んでいる。その内の一艘の中から聞こえて来るのは、ハーモニカの音色だろうか? “セッチ”はじっと耳を澄ませた……。あのメロディーは知っている……。それに合わせて小声で歌った。そして再び歩き出した。
川岸に立ち並ぶ家屋の大部分は扉を閉ざし、窓には明かりが灯っていなかった。それらは工場であったり、店舗であったり、事務所、あるいは倉庫だった。“セッチ”は壁に貼り付けられたいくつかの看板の文字を判読することができた。さらに遠方には、一本の煙突が対空砲のごとく空に向かって聳え立っている。ドン! ドン! ナチスの戦闘機が火を吹いて、墜落する。すごいぞ、老砲兵!
何を考えるでもなく、アンジェリィーリオは今晩三度目となる自宅へと近づいて行った。入るべきが、あるいは止しておくべきか。分からない。分かっていることは、遅くなればなるほど状況が悪くなって行くということだ。
もし竿と釣り針があったら、夜中、釣りをして、倉庫の中のどれかに潜り込んで眠るのだが。次の日の朝に、三、四匹の魚を持って家に帰り、こう言うのだ。
「昼ご飯にこいつを持って来たよ」
そうすれば、お母さんは全てを忘れてしまうだろう。
“セッチ”は石ころを一個摑み上げると、川の沖に向かって投げた。耳をそばだてる。ボチャン! ポケットに両手を突っ込み、最初の角を曲がった。工場の壁に沿って歩いて行く。裸足の下で、灰色の地面に散らばった炭がバチバチと音を立てて鳴る。家に近づくにつれ、“セッチ”は身体中に恐怖感が募って行き、軽く喉許を締め付けられ、指先にむず痒さを感じた。通りは人気がなかった。遠くの操車場で電車が警笛を鳴らした。その苦しげな汽笛は夜の闇に長々と鳴り響いて行った。“セッチ”は歩調を緩めた。胃がグウグウと鳴る。パンと温かいコーヒー、それにソーセージが一本。バシッ! バシッ!
「この恥知らずのクソッタレめ!」
「でも、お父さん。奴らが僕を突き飛ばしてお金をぶちまけたんだよ……」
街の方に戻って行って、広場のベンチの下で眠った方が良い。あるいは“コヘイオ・ド・ポーヴォ”紙の階段の脇で眠った方が良いとも。一瞬ではあるが、そうした考えが胸に去来した。でも僕は疲れているし、家が、ベッドが必要なんだ。
曲がり角に一人の男が姿を現わした。“セッチ”は立ち止まった。その男は一瞬、歩を止め、吸殻を捨てると再び歩き始めた。アンジェリィーリオは口の中がむず痒く感じた。その男の姿が遠ざかって行くのを認めると、走り寄って煙草の吸殻を拾い、口に咥えた。吸殻を吸い込み、鼻からフウーッと煙を吐き出すと、自分がいっぱしの男のように思え、勇気が湧き上がって来た。しばしの間、吸殻を親指と人差し指の間に挟み、歯の間からしきりに唾を吐いた。そして計画を立て始めた。まず初めに家がどのような様子か見に行く……。家の明かりが点いているかどうかを確認する。もし明かりが灯っていたら、音を立てないように忍び足でゆっくりと家へと近づいて行こう。扉をノックする。お母さんが玄関にやって来て扉を開けたら、こう言うことにしよう。
「僕、車に轢かれちゃったんだ」
その自らに降り掛かった災難が真実であると半ば納得させるかのようにびっこを引き始めた。泣きながら告げた方が良いだろう。泣くことは簡単だ。一ミル・レイスをせしめるために、日に三度、四度となく泣いたものだ。啜り泣きながら人の側に近づいて行くと、そいつはこんな風に尋ねるのだ。
「おい、どうしたって言うんだ?」
そうすると僕はこんな風に答える。
「僕……、お母さんにぶん殴られちゃう。偽物の一ミル・レイス硬貨を摑まされちゃったんだ」
ほぼいつものことだが、男はチョッキのポケットに手を突っ込み、ニッケル硬貨を一枚取り出すや、こう言うのだ。
「さあ受け取りなさい。泣くんじゃない」
泣くことはいとも簡単だ。ただ目をつむって、呻き声を上げて、口許を歪め、肩を震わせるだけのことだもの。唯一の救いとなるためにも、この僕のことをお母さんに可哀想と思わせるためにも、間髪入れず泣くことが必要だ。
家がチラリと見えた。戸の隙間から一筋の光が漏れ出ている。アンジェリィーリオは煙草の吸殻を遠くに投げ捨てた。お母さんが僕の臭い吐息に気づき、煙草を吸っていたことが発覚してしまうのではないか……。何てこった! 何度も唾をペッペッと吐き、指の先に臭いがしないかどうかを確かめた上で、ズボンで指を拭った。潅木に覆われた巨大な沼地の側にある大きな荒地に、黒々と影を伸ばす家に目を留めた。“セッチ”は電柱の陰にしゃがみ込み、口笛をヒューっと吹き鳴らし、待った。誰も姿を見せない。辺りに静寂が戻り、その静けさを打ち破るかのようにカエルが鳴き始めた。それ以外、いかなる音もしない。電車が再び警笛を鳴らした。“セッチ”はブルっと体を震わせた。数歩前に進み、家から数メートルのところで立ち止まった。叫び声を上げ、玄関に走り寄ろうと決めた……。
「お母さん!」
沼地の方へと突進して行った。数秒後に立ち止まり、後ろを振り返り、家の方を見た。玄関の扉が開け放たれ、四角に切り取られた光の中に一つの影が浮かび上がっていた。男の声が聞こえた。
「アンジェリィーリオ!」
一瞬、間があり、再びより強い調子で叫ぶ声がした。
「アンジェリィーリオ!」
“セッチ”は身を隠していた沼地の陰から姿を現わすと、叫んだ。
「お父さん!」
男の影が進み出た。
「この恥知らずめ、さっさと家に入りやがれ!」
その男はこちらに向かって走り出した。アンジェリィーリオはどうするものかと躊躇していた。パンとコーヒー、それにソーセージが食べたい。ベッドで眠りたい。でも鞭打ちも、叱責も、殴打されるのもごめんだ……。行くべきか、あるいは止すべきか? 行こう……。いいや、僕は行かない。でも……、もし行ったとしたら? 畜生め!
声を荒げて、男の人影が“セッチ”の方へと近づいて来た。
「この恥知らずの、ならず者の、売女の……」
下卑た言葉が夜の闇を満たした。そんな訳であるから、アンジェリィーリオは絶望的とも言える決心をし、沼の奥へと脱兎のごとく走り出した。
「こいつめ、止まりやがれ!」
アンジェリィーリオはミニチュアの“ジャングル”へと分け入って行った。濡れそぼった草に足を踏み入れるや、泥の中に沈み込んだ。踵まで冷たい水が達し、脚や膝に水が飛び散り、ズボンの裾から水が侵入して来た。“セッチ”は夜間、その沼に対して常々抱いていた恐れをすっかり忘れていた。小さな機関車のように息急き切って、立ち止まることなく駆けている内に、一本の枝が顔を引っ掻いた。喉が焼けるように熱い。心臓は不規則な鼓動を刻んでいる。それにも関わらず、アンジェリィーリオは後ろを振り返ることなく、またその先に何があるのかも顧みることもなく走り続けた。心の中で声が囁いた。
「沼には蛇がいるぞ」
身体中に悪寒が走った。外套の袖で目の汚れを拭った。物が見えるようになるまで長い時間、目を擦った。茂みの間に小さな光溜まりがあった。それは弱々しい月明かりがあたることによってできた青白い斑点だった。アンジェリィーリオは茂みの方へと近づいて行った。うずくまったまま二歩ほど前進し、辺りをじっと見やる……。遠くに父親の姿を認めた。彼奴から逃げおおせるのは至難の業だ……。今となっては失ったお金に加えて、夜遅く帰宅したこと、さらにはずぶ濡れで、泥だらけになったことで拳骨を喰らうことになるだろう。
父親の声がした。
「おい、そこから出て来い。お前はびしょ濡れじゃないか。とっとと家に帰ろう!」
“セッチ”はその場にじっと立ち尽くしていた。寒さで体をブルブルと震わせ、胸辺りに痛みを感じていた。自分が隠れている場所を悟られないためにも、咳をすることさできないことが分かるにつけ、喉許辺りに酷いくすぐったさが込み上げて来た。咳の発作を両手を口に当てて堪える。
「アン・ジェ・リィー・リオ!」
父親が叫んだ。温かいコーヒーとパン。そして拳骨……。しこたま拳骨で打ちのめされる。明日には僕は病気になり、新聞を売りに出掛けることはない。何て素晴らしいことだ! 原っぱでサッカーをやる……。
今では、一匹のカエルが間近でケロケロと鳴いている。ブリキ缶を叩くかのような奇妙な鳴き声だ。アンジェリィーリオは不安げに暗闇の中に視線を走らせた。カエルは大嫌いだ。吐き気を催すし、怖くもあった。敢えて手でカエルを掴んだこともなかった。冷んやりとした、毒のある……。そう、彼奴は蛇と同じようなものなのだ。でも、奴はどこにいるのだろう? “セッチ”は身をすくめた。おどおどと視線をあちらへこちらへと巡らす。突然、何かがピョンと飛び跳ねるのを目にした。奴だ……。奴に違いない。そいつは動きを止めると少しばかり鳴き声を上げ、二回ばかりピョンピョンと飛び跳ねた。再びケロケロと鳴き出す。こちらに近づいて来る。其奴は今、明るい場所にいた。巨大な奴だ。身体中が痺れ、微動だにできず、目を真ん丸に見開いて、“セッチ”はふいごのように頰を膨らませたり、すぼめたりするそのおぞましい生き物を凝視していた。身体中の筋肉を硬直させ、目はそのカエルに釘づけで、耳をじっと澄ませていた。其奴はもう一飛びした。アンジェリィーリオは後ずさった。もし叫び声を上げたなら、事態はさらに悪化するだろう。だから黙したままだった。カエルが沼地の地面をバチャバチャと音を立てる音に耳を澄ませた。“セッチ”の心臓も、あたかも奴が胸の中でピョンピョンと飛び跳ねているかのように、肋骨の間でトクントクンと鼓動を刻んでいた。遠くの方で父親が何やら叫んでいる。電車が再び警笛を鳴らした。体がブルブルと震え、凍りつくように寒い。アンジェリィーリオは柔らかくて、冷たい、そう徐々にこちらに近づいて来て、やがては首許に飛び付き、外套の袖から体の中に入り込み、腕を伝い上がり、ベトベトとしていて、毒を持った蛇のように這い上がって来る彼奴が近づいて来るのをじっと待っていた。
しかし間髪置かずして、「ワッ!」と叫び声を上げた。
そこは凹凸がなく、雲母でキラキラと輝き、いかなる特徴をも持たないファサードの最近建てられた家屋であった。窓がずらりと並び、そこには緑色のブラインドが設えられている。通りを挟んで反対側には、少年院とその大壁を目にすることができた。
その日の夜のこの時間、廊下の帽子掛けに茶色のフェルト帽が一つかけられているのが見える。それはアウレーリオの帽子であった……。川から吹き付ける風が窓のブラインドをユラユラと揺らしている。光の灯る、人気のないキッチンのテーブルの上には、未だ食事が給仕されたままだった。二枚の皿と二組のフォークとナイフのセット。大皿には食べ残された魚料理が、盃には飲み残しの赤ワイン。ワインサーバーは倒れている。テーブルクロスの上にはパン屑が散らばっている。一枚のナプキンには赤い口紅が付いている。灰皿には五本の吸殻が残されている。
幾許かの間、その静物たる空間には絶対的ともいえる静寂が支配していた。しかし突如として、その静寂を破るかのように寝室から女の声が聞こえて来た。
「アウレーリオ、お行儀良くして頂戴!」
続いて、軽薄且つ下卑た男の笑い声がした。
「モエマ、馬鹿なことを言うんじゃない」
所々、小さな叫び声を挟み、モエマは切れ切れで神経質そうな笑い声を上げた。その叫び声は半ば抗議のようであり、半ば歓喜が含まれていた。
その後、再び静寂が降りた。風は窓に掛けられたブラインドをユラユラと揺すり続けた。
ノリヴァルとリンダは連れ立って、九時半に映画に出掛けた。通りや広場を眺めながら、ノリヴァルは再び自殺のことを思い出していた。このように映画を観る段になって、自らが現在直面している事柄や、それに対する思惑……、つまり債務不履行や……、高飛び、そして次の日に直面することを余儀なくされる諸問題等が脳裏に去来するとは――そのようなことは非常に稀なことであったが――、実に興味深い。
妻の腕を取った。リンダは背が高く、栄養が行き届いた体つきで、街中でかつて評判を博した美しさの痕跡を未だその顔に留めていた(美女コンテスト。雑誌の表紙には、カラーのポートレート。“哲学クラブの女王”の称号)三三年の齢を経て、体に付いた脂肪により、少しばかり老けたが、ほとんど既婚のご婦人と言わしめる貫禄を醸し出していた。かつて“とても愛らしい”と人々の口端に上った要素が、今では“重厚且つ大人の美しさに満ちている”と人々に賞賛せしめるものへと姿を変えていた。妻自身、そうしたことをわきまえていて、物悲しくも幸福な気分を感じていた。ノリヴァルが妻である私が着飾ることに多大な喜びを抱くだけに留まらず、その夫自身も垢抜けた服を身に付けることを好んでいる点を知るにつけ、喜びを感じずにはいられなかった。寛いだ雰囲気を漂わせ、自分自身を“哲学者”だと公言して止まず、皺くちゃの服に、薄汚いシャツ、髭、あるいは髪を伸ばし、手入れの施されていない爪の男のことをリンダは忌み嫌っていた。通りやサロンにおいて、新しい洋服を見せびらかしたり、冬には高価な毛皮のコートに身を包み、常々、宝石で彩られた指を目にすること以外の興奮などどこにあろうか。香水をこよなく愛しており、鏡台の上にずらりと並べられたフランス製の香水で満たされた五つのフラスコを前にして、外出の際、今日はどの香水を使おうかと、あれこれ迷うことに純然たる快感を感じるのだった。友人たちに語るところによれば、「いつも目を閉じて、偶然手に取った香水を使うことにしているのよ」と、言うことだった。
夫婦が進んで行く歩道は人々で溢れ返っていた。その歩道のずっと先には、映画館から出て来る観客をじっと見つめる人々の短い行列が伸びている。「あそこはまるで生垣のようだわ」。そうリンダは考えた。「目が、それも品のない目つきで私の方をジロジロと凝視する目が群がる生垣だわ」。それはよくあることだが、自分が通りを一人で歩いている際、通りすがりの人々の自分に対する批評を耳にする。「何とも良い体つきだ……。あの一片でも食してみたいものだ……。なあ、良いだろ?」。実際、私につき合うようにと仄めかす言葉を囁き掛ける男たちもいた……。私は当然のことながら憤慨して、何とかやり返してやりたいと思うのだが、半ば怯えたような雰囲気を醸し出しつつ、知らぬ振りを決め込み、そして先に言った憤慨の中に、自らに対する誇りの感情を加えて、虚栄心と歓喜を醸成させるのだった。
ノリヴァルは妻と連れ立って外出した際には、憤懣やり切れない状態で男たちが群れる中を通り過ぎなければならなかった。ある日のこと、一人の若者の外套の襟首を掴みそうになった(この野郎、女を一度も見たことがないのか?)と言うのも、其奴が俺の妻のことをジロジロと執拗に見つめていたからだった。
「女が落っこちて来たのは、あそこだ」
インペリオ・ビルの前を通り過ぎる時、ノリヴァルはそう言い、群衆が行き交う通りの方を指差した。
「あそこなの?」
リンダはさして興味なさそうに、そう返した。彼女の目の前を通り過ぎて行く女が被っている帽子に目が釘づけだったからだ。何と恐ろしいことでしょう! その帽子は少なくとも五〇〇ミル・レイスはするでしょう。昨日、“マダム・ルーシェ”のショーウインドーで、それと似た帽子を見たのですもの。
「チィルダはどこだい?」
後ろを振り返り、ノリヴァルはそう尋ねた。視線から、その姪っ子の姿が消えていたからだった。しかし直ぐ様、群衆の中に赤色の染みを見い出した。その染みはジル・サンチィアーゴに伴われ、我々の姿を探すチィルダだった。
「先に行きなさい」と、ノリヴァルは叫んだ。
二人の若者たちは叔父のその言葉に従った。
「あの子たちのつき合いはどんな風になるのかしら?」
そうリンダは自身に問うた。姪のことをそんな風に考えるなんて、この私自身、あの子に対して過保護過ぎるのでしょうね。明日の演奏会のことを前もって思い描き、楽しんでおきましょう。リオから初お目見えしたモデルの服を着て行こう。そう言えば、イルマに電話を掛けなくっちゃ……。
チィルダとジルを見やり、ノリヴァルはその姪っ子がもっと年齢が行っていて、成熟している男性、しかも短期間の内に結婚できるような経済力のある、人生に確固たる地位を確立している男性を選んでくれたら、どれほど良いだろうと考えていた(遅々として進まず、長い年月を要する取引きほどアホらしいものはない)もしチィルダが将来を約束された相手と婚約していたら、俺はもっと心安らかにウルグアイに旅立つことができると言うのに……。そうした考えが電光石火のごとく一筋の線を描き、水面へと嘴から急降下するカワセミのように心の中を横切って行った。
チィルダは奇妙とも言える混乱に満ちた感情を胸に、ぐっと顎を上げて歩いていた。幸福と不幸を同時に感じ、むず痒い陽気な気分を味わいつつも、恐怖と羞恥、それに満足感に打ち震えることなんてあり得るかしら……? そうだわ、神経が昂ぶるような興奮を覚えるような満足感、それに走り、飛び廻りたい願望で心が震えているのだわ。そんな風なのに他方で、笑い、笑い転げるために、あるいは悲しみで声を上げて泣くために身を隠したい……。誇りと優しさ、不信を抱きつつ、チィルダはジルとのつき合いを楽しみ、苦しんでいた。不安と同時に歓喜を感じつつも、そして他の若者たちが自分の顔をジロジロと見るにつけ、恐れを抱いているのだった。もし彼らが薄ら笑いを浮かべているとしたら、こんな風に考えた。「きっと私の鼻のことをからかっているのだわ……」。そう考えると、この場から逃げ去り、両手で顔を覆い隠したい気分になる。でも、何て馬鹿げていることでしょう! 手術によって鼻も、顔も、魂だって新しいものになったじゃない。いいや、魂はそれほど真新しいものになった訳ではないわ。内気で、物怖じする、古き魂は未だそのままだもの。お陰様で全てが全てではないにしろ、私は生まれ変わったのだ。でも、一部分、あるいは時によって昔と変わらず、そのままだった……。最悪なのは今の自分はかつての自分ではなく、鷲鼻のような鼻ではないということを完全に納得することができていないことだった。それにより、鼻の軟骨部分にわずかな痛みを未だ感じていた。突如として鼻が崩れ落ち、以前よりも酷い状態になり、ブヨブヨとした形を持たない塊になる可能性はないのかと、手術を担当した医師に自らの不安な気持ちをぶつけ、幾度となく尋ねた。
「映画は気に入ったかしら?」と、チィルダはジルに尋ねた。
「それほど良いとは思わなかったよ。で、君はどうだったの……?」
チィルダは返答を決めかね、肩をすくめた。
ジルは愛情いっぱいの気持ちで、同時に守護者のごとく彼女を腕に抱き締めたいと思っていた。この群衆の中から、人々の視線から、欲望、そして背信が渦巻く空間から、彼女の手を引いて救い出したかったのだ。なぜならこの世界に蔓延る危険を自分自身、“知っていて”、彼女が人生におけるありとあらゆる誤った道を歩むのを阻止することを心から願っていたからだった。
「明日、演奏会に行く?」と、チィルダ。
「行くとも。父がボックス席を持っているからね。で、君は?」
「多分ね」
ジルは恋人の方を盗み見た。「彼女の目は未だおどおどしているな」。そう、ジルは結論づけた。我々はモノを見、感じる……。物事を忘れるために多大な時間を過ごすことになる。「心理的な意味で、彼女はまだトゥカーノ[オオハシ]の鼻を持っているのだ」。その表現が気に入った。父のことを考える。それを父に話してみよう。
チィルダは恋人が自分の方を奇妙な目つきでじっと見つめていると思った。いつの日か、ジルが私のことをうんざりした目つきで見るようになったら怖い。なぜならスピルマン博士が私の鼻を手術する“前”から、ジルは私のことを知っているからだ。彼が私のことを好きになることはないわ。決してそのようなことはない。絶対に、誓って。そう自分自身に向かって言った。そして鬱々とした沈黙の中に閉じこもった。
二人は波のように蠢く“人垣”に沿って歩き続けた。光が煌々と灯るカフェの前を通り過ぎる。すると、そこから蓄音機から流れる音楽と人々のざわめき声が聞こえて来た。チィルダは依然として黙ったままだった。ジルは奇妙に思い、尋ねた。
「君は一体、どうしたんだい?」
「私が? 何もないわ」
「何もないのか」
もし少なくとも彼女の手を取り、優しく撫でることができたとしたら……。話すだけでは、何ともならない。それに僕は気の利いた話し方を知らない。抱擁するか、あるいは手を握るか、またあるいはキスをすれば全てが解決する。
ジルは彼女の方を横目で見やった。自分の目はうっとりと彼女の鼻に釘づけとなった――鼻筋がすっと通っていて、わずかばかり上を向いた鼻。脳裏に彼女のかつての鼻の姿が浮かんだ。どのようにすれば単に鼻が変わるだけで、顔全体の印象が変わるのだろう? 口許までも印象が変わり、目には以前とは異なる光が輝いている……。全くもって驚嘆に値する!
もし彼が私と結婚したら――チィルダは考えた――、きっと酷いことになるわ……。私たちが喧嘩をしようものなら、彼は私の顔に昔の鼻を見い出すことになるでしょう。最悪なのは、ジルは常々、私が今、どのようかではなく、かつてどのようであったかを“垣間見る”ことだ。そうしたことを考えるにつけ、ますます不快感が募り、沈黙の沼に沈むのだった。
「君はきっと何かあるはずだ……。きっと僕が知らない内に、君を傷つけたに違いない。一体、どうしちゃったんだい?」
チィルダは「そんなことはない」という具合に頭を横に振った。ジルは辛抱強く、ホッと嘆息を漏らした。
「良いとも、君は話したくないということだね……」
二人は一瞬立ち止まると、後方を見やった。ノリヴァル夫妻の足取りが緩慢なため、私たち二人はこうして店のショーウインドーの前で待たされる羽目になる……。ジルはぼんやりとそこに陳列されている商品を見ていた。一瞬だが、ショーウインドーに映る自分の顔つきに父の輪郭――眉毛が吊り上がり、瞳には悲しげな光が宿り、捉えどころのない表情が浮かんでいる――が認められた。チィルダはといえば、ショーウインドーの奥に架けられた鏡に映る自分の姿にギョッとしていた。本能的に身をすくめ、そこから逃れたい気分になった。しかしながらクリスタルの鏡面に映っているのは、かつての自分とは別の自分の姿であった。そう、“新しい”私の姿だ。顔はキラキラと輝き、私に微笑み掛けている。かつてのチィルダは、そう学校で女の子たちから“醜い小鳥ちゃん”と呼ばれていた私は、とうの昔に死んでしまったのだ。葬り去られたのだ。「彼女のために祈れ! 彼女のために祈れ!”」。チィルダは鏡に映る自分に向かって微笑み掛けた。そんなチィルダを見て、ジルは全てを悟った。しかし敢えて何も言わず、見て見ぬ振りをした。
夫妻がこちらへと近づいて来た。ノリヴァルは興味深そうにショーウインドーの中を覗き込んだ。七面鳥のスライス肉、パイ、ロシア風サラダ、そして豚足(フロリッパの屋敷での狂宴だ……。アルゼンチンの雉料理に……、大量のワイン……)
「リンダ、君は分かるかい? 私は口の中に唾が溢れて来て堪らないのだよ。ここでちょっとした夜食を摂らないかい?」
「まあノリヴァル、でも、こんな……、そう、あまりにもこんな場所で、どうかしら……」
リンダは薄暗く、着飾った人々がほとんどいない、それに自分のことを羨望の眼差しでジロジロと見られるようなカフェやレストランに足を踏み入れることに気兼ねを感じていた。誰か顔見知りの人に、自分がそのような決して趣味が良いとは言えない場所にいることを見咎められたとしたら、全くもって好ましくないわ……。
「止しておきましょう、ノリヴァル。さあ帰りましょう」
「待てよ。何か持ち帰りのものを買って行きたいのだから」
ノリヴァルは妻の腕を取ると、そのレストランに入って行き、七面鳥のスライス肉を大量にと、次々に食べ物を買い求め始めた。
「あのサラダはどうだい? それを五人前、頼む……。そうだ! 次はパイを物色しようか……、そいつは揚げたてかい? エビか、チキンかどっちにする?」
「ノリヴァル、買い過ぎよ!」
妻は叫んだ。ノリヴァルは満足気に微笑んでいる。
「次は上質なワインがあるかどうか見てみよう。でも舶来ものじゃなきゃな。ブルゴーニュ産のワインはあるかい? そいつじゃないよ。シャブリだって? ちょっと見せてくれ」
対応に出た店員のことを全く知らなかったが、まるで旧知の友でもあるかのように愛情のこもった親しさを滲み出しつつ、ノリヴァルは接していた。その店員にたっぷりとチップを渡すと、大きな包みを腕に抱え、レストランを後にした。リンダが唯一望んでいたことは道中、知り合いと顔を合わせないということだった。ノリヴァルはそのようなことを一顧だにしていないようだが……。
二人は通りを横切って行った。自動車の傍らまで来ると、ノリヴァルはジルの腕をほとんど暴力的とも言える親しさを込めて掴み、命令以上の何物でもないような口調で自宅へと招待した。
「さあ、車に乗って。私の家で何か食べようじゃないか」
ジルは十時前には自宅に帰り、解剖学の問題に取り組まねばならないと言って、その招待を断った。
「遠慮することはないぞ。食事の後で、君を家まで送り届けてやるから」と、ノリヴァルはさらに言い募った。
「ありがとうございます。どうぞお構いなく」
ノリヴァルは今一度、家に寄って行くように勧めた。対してジルは礼節を尽くしつつも断固として頭を横に振った。
夫妻は車に乗り込んだ。ジルはチィルダの手を握った。二人は目が合った。
「それじゃあ」と、ジル。
チィルダは不安の眼差しでジルのことをじっと見つめていた。常々、私は二人の別離について考えている。時折、他の人たちが私が側にいることを忌み嫌い、私のことを避け、別れの言葉を口にするのではないかという気分にさせられることがあった。そんな時、私は自らの顔から、人々から、私の鼻から逃れようと懸命になるのだ……。
ジルは微笑んだ。もう少し彼女をここに留まらせ、その手を握り締めていたい。チィルダの側にいると自分は少しばかり医者であって、少しばかり兄であるような気分になる。自分が彼女に傾ける優しさの中にはもちろん欲望が含まれているのは事実だが――しかし、それは暴力的なものとも、緊急を要するものとも程遠いが――、自らの心臓の鼓動を、仕草を、言葉を変えさせるほどのものではなかった。
「明日の朝、電話するよ。明日は土曜日だね……。明日の午後、何をするかその時に打ち合わせをしよう」
チィルダは半ば夢うつつの中、ゆっくりと頭を縦に振った。それと同時に、もっと自分が力強く頭を振り、彼の言葉をもっと嬉しそうに受け止めたとしたら、私に掛けられた魔法が解けるのではないかと考えた。
「ジル、分かったわ。あなたからの電話を待っているわね」
しかしながら、別の声が自分に囁き掛けて来た。
「彼は電話を寄越すことはないだろう。君たちは離れ離れになるのだ。醜い小鳥よ、さらばだ。もう永久に会うことはないだろうとも」
チィルダは車に乗り込んだ。ジルはドアを閉めた。車内に一瞥をくれると、ふいに息子を喜ばせるためにピエロに扮しようと試みる、父親のごとき慈愛の発作に襲われ、車の窓越しに自らの鼻を押し付け、劇画ちっくにそれをペシャンコに潰した。
それを見たチィルダは真顔だった。「彼はあれをわざとやっているのだわ……。私の鼻をからかうために」。魂を寒々と凍らせ、シートに深々と沈み込んだ。
ジルは満足感と憂鬱な気分を胸に、遠ざかりつつある車を目で追いながら歩道の端に立ち尽くしていた。
ベルナルドは早めに床に就いた。土曜の偉大とも言える夜のために、休養を取っておく必要があったからだ。平土間席の観客たちの心に決して忘れ去ることのできない記憶を刻み付けたいものだと考えていた。午前中、組曲のリハーサルに当てられていた。執政官は人々が演奏会に詰め掛けるであろうと請け合っていた。前例を見ない、セレナーデとなるだろう。セレナーデ……。その“セレナーデ”という言葉が、サン・パウロでイタリア・オペラを上演していた頃のことを苦々しく思い出させた。
「電気を消さないかい?」と、ベルナルドは妻に問うた。
心臓の辺りに黒色の鷲の刺繍が施されたロシア製のシルクのパジャマに袖を通し、ベッドに横になって早二〇分が経過していた。どうしても眠ることができない。少しばかり興奮気味なのだろう。きっと夕食時にコーヒーを飲んだのがいけなかったのだ……。あるいは純粋な意味で気分が昂ぶっているからか……。だが、何ということだ! 私はベテランじゃないか……。観客で埋まる客席……。ブエノス・アイレス……、サンチィアーゴ等、数多の地で数々の演奏会をこなして来ているではないか……。
小さな丸テーブルで雑誌をめくっていたマリーナは鷹揚に部屋の電灯を消しに行った。
「さあ、おやすみになれるかどうかお試しになって」
往来から差し込んで来る光が部屋に立ち込める影を青白く染めている。壁の方に体を向けるとベルナルドは目を閉じた。心の中で組曲の最初のフレーズが鳴り響き始める。全てのバイオリンが一斉にフーガを奏でる。なぜそのフレーズを耳にすると、パォン・ジ・アスーカル[リオ・デ・ジャネイロのグワナバラ湾に聳え立つ巨大な奇岩]のイメージが頭に浮かぶのだろうか? 何とも説明し難い、奇妙とも言える考えだ。その組曲を作曲する際、パォン・ジ・アスーカルのことを考えたことなど一度としてなかったのに。幾許かの時間――それが数秒なのか、数分なのか、あるいは数時間なのか言うことはできないが――、傑出されたオーケストラによって演奏される〈ブラジル組曲〉に耳を澄ませていた。今日のリハーサルの時のようにじっと耳をそば立てていた。コンガが鳴り響く場面に差し掛かると二度、演奏を止めねばならなかった。というのも、大破綻を来たしたからだ。無能な演奏家たちによる音楽は全くもって地獄だ! その瞬間、メロディーは消え失せ(どのようにすれば? いつ?)、ベルナルドはイカライ海岸、あるいはナポレス海岸に佇んでいるように思われた。そこで“中国の若き……”のくだりは、ジョアン・セバスチィアォン・ド・リオ・デ・ジャネイロの剽窃だと言って、何者かが私に国歌の旋律を変える必要性を訴え掛けている。突如としてベルナルドの視界からグアナバラ湾の景色が消え去った。灰色且つ霧のような靄が広がり、ぼんやりとだが馴染み深い何物かが視界を覆ったのだった。私はどこにいるのか? 私は何者なのか? これは一体、何なんだ? まるで一枚の壁のようだ……。リオの自宅か? 記憶を手繰ろうとした……。灰色掛かった平原に響き渡る、くぐもったラッパの音が聞こえる……。ようやく思い出したぞ……。ホテルだ……。マリーナが私の横に横たわっているのだ……。胸許が締め付けられるのを感じる。私は起きているべきだ。なぜなら今のような状態は悪夢だからだ……。私は知っている……。そう言えば今日、夜の帳がまさに降りようとしている時、一人の女性がビルの高みから飛び降りた……。私は腕を上げることができるということを知っている。
力を振り絞った。腕が上がったと思った。その腕の様を見るために目の高さまで持って行く。しかし何も見えない。妻を呼びたい。というのも、その投身自殺をした女が私の胸の上にのし掛かり、私を窒息させようとしているかのようだからだ……。こう、声を大にして言いたい。「君は人違いをしている。私は作曲家のベルナルド・レゼンジだ……。私は気が狂っているのでも、眠っているのでもない。完全に覚醒しているのだ……。それを確かめたいのか? 国歌は“イピランガが静けき岸は聞きにけり”という出だしで始まる……。国歌はそんな感じだ」。国歌を口ずさもうとしたが、いかなる音も耳には届かなかった……。「マリーナ!」と、妻の名を叫んだ。しかし妻は黙したままだった。今一度、ひび割れたようなラッパの音が鳴り響く……。私は知っているのだ……。我々は今、ポルト・アレグレにいる……。明日は演奏会の最終日だ……。それらが分かっていることこそ、私が夢うつつの状態でないということの証だ。脚を動かそうと絶望的ともいえる力を振り絞る。無駄だった。諦めた。私はこのまま死ぬのだ。助かる見込みはないのだ。忘却の時が訪れる。眠りか、死か? 突如としてある種の安らぎを感じる中、自らの生命が立ち戻り、体が動くように感じた。叫び声を上げる。マリーナは体をブルっと震わせ、ベッドに腰を下ろした。
「ベルナルド、どうしたの?」
羞恥と苦悩に苛まれつつ、当惑するような目つきで妻の方を見やった。
「悪夢を見たようだ」と、ベルナルドは呟いた。
「あなたはぐっすりと眠っていらっしゃったわよ……」
ベルナルドは低い唸り声を上げるとクッションを胸に押し当て、左手をベッド枠に触れ(何ともその冷たさが心地良い)、右手をマリーナの枕に置き、うつ伏せになった。
「きっと、あなたは食べ過ぎになられたのよ……」
「まあまあ、マリーナ。君はこの僕が今晩、何も食べていないということを知っているじゃないか……」
唇を枕カバーに押し当て、わずかばかり涎を垂らしながら、声をくぐもらせてそう言った。グリーン・サラダとコーヒー。
今やラヴェルの〈亡き王女のためのパヴァーヌ〉がベルスーズ[揺りかごの揺れを思わせる八分の六拍子、子守唄]のリズムを刻みながら、私を揺すり寝かし付けようとしている。眠気を覚え、飛び去る鳥のように軽やかとも言える郷愁がそっと胸を過ぎった。ジィシィーニャが生きていたら一五歳になっていただろう。私は娘を記憶に留め続けるために、何らかの曲を作曲すべきだろう。きっとラヴェルに感化されたのだろうと、人々は口にするだろう。馬鹿馬鹿しい。もしラヴェルがドビュッシーの模倣者でなかったとしたら、一体、何者だろう? ドビュッシーとは何者か? ベルナルドは自身への問い掛けに対する答えを出さなかった。頭の中に別のイメージが、別の音が去来して、再び魂が遠く彼方へと、混乱したイメージと音に満ちた世界へと、忘却と安らぎに支配された世界へと運ばれて行った。
一方、マリーナはどうしても眠れずにいた。未だ先程起こった自殺のことと、亡くなった娘のことを考え続けていたからだった。その二つを関連づけて考えるのは止そう。自殺した女の顔を実際に目にした方がずっと良かったわ。もしそうしていたら、娘の顔つきをその自殺した女の顔に重ね合わせて考えるようなことはないだろうから。そうすることにより、ジィシィーニャが再び命を落としたのではないということが納得できるし、あの子が新たな苦悩に苛まれることもない……。自殺した女が流した血が未だ歩道の石畳の上に広がっているに違いないと考えるにつけ、もし今、自分がベッドを飛び出し、エレベーターで階下へ降り、ホテルを抜け出し、通りの中程まで歩を踏み出せば、娘の血の中に自らの指を潜り込ませることができるのでないかという奇妙な気分に襲われた。でも……、どうしてそんな気狂いじみた、恐ろしいことを考えているのかしら?
マリーナは床を離れ、裸足のまま寝室の中を歩き廻り始めた。もしこのまま眠らなかったとしたら明日、どのような気分に陥るのかよく分かっている。右目の上部は間断なく痛み、頭の中は空っぽで、イライラした気分に苛まれ、指が小刻みに痙攣し、体には力が入らない……。目の下のくま、それに顔の皺もより深刻な状態となる。そして人生がより悲しく、目的なきものと目に映るのだ……。
煙草に火を点け、ベッドの側に腰を下ろす。そしてリオに戻った時の自らが辿るであろう人生についてあれこれと想像を巡らせた。相も変わらず空虚と人間的暖かさに欠けた生活。ベルナルドの友人たち。彼らのやること、なすこと、話すことについて考えた。音楽界、劇場のボックス席、新聞記事、ラジオのスタジオ放送等、私自身はそうした人の輪から抜け出す必要がある。狭量にして、貧弱な精神の持ち主たるベルナルドの大部分の友人たちが、どのようにすれば芸術たる“音楽”を創作し、演奏するのか、私にはどうしても理解することができない。夫の場合、どうであろうか考えてみる……。恐らく夫自身でさえ、真の意味で音楽を愛しているとは言えないだろう。ベルナルドにとって(あるいは他の多くの音楽家にとって)、音楽は手段であり、目的ではないのだ。彼が享受する栄光や人気、社会的成功を切り離したとしたら、音楽が持つ価値は微々たるものとなるだろう。
マリーナは自宅で催された批評家やら、作曲家、演奏家等が集う会合の様を思い出した。そこに集う人々は幼少期において、それが邪悪であると思われてはいなかったイノセンスが含有した名声を勝ち取っては、捨てているのだった。神よ、人の嫉みほど醜いものはありません! 何と繊細な花の衣を身にまとっていることでしょう!
マリーナはその集いの場面、場面を今一度、じっくりと思い返してみた。自宅の居間……、グランドピアノ……、壁にずらりと並んだサイン付きの肖像(トスカニーニやチト・シッパ、グリーグ、ヴィラ・ロボス等々)……。実に精巧に作られたベートーベンのデスマスク……。部屋の四隅に集う小グループ……。定評のある識者や教師らに贈られる古いメダル……。指揮者の言葉にほだされ、これからデビューを果たすであろう歌姫たち……。音楽、それに作曲家たちに洗練さ且つ奇抜とも言える革新的な解釈を探し求める芸術家の卵たち。「ブライロフスキーは金細工師だ……」。「ホロヴィッツは鍛冶屋だ……」。「モーツアルトにしてみれば、トスカニーニは……」。「まあ君、君がブルーノ・ウオルターの演奏を聴いていないとは、何たることだ」。「ストラヴィンスキーが〈春の祭典〉に付与した色彩豊かさに注意を向けていないとは、どうしたことだろう……?」。「ストラヴィンスキーは馬鹿者だ……」。「ブラームスは?」。「奴は視点も、ニュアンスのいずれも持ち得ない輩だ。ドロドロの油が流れ落ちる滝みたいなものだ……」。そういった若者たちは一様に、自らが“音楽の主”だと考えている。其奴らはほとんどいつも東洋風の座り方、つまり“体育座り”をして、地べたに腰を下ろす。ドビュッシーやラヴェルを殊の外好み、セルジュ・リファールやニンジンスキーを語る際など、失神せんばかりだ。マリーナが考えるに、あるいはそうした事柄を邪な気持ちで観察するにつけ、そうした集まりが虚栄心に満ち、心が不安定な人々の見本市であるように思えてならなかった。そこに集う人々はボヘミアン的且つ独創的感性を持ちたいという願望、あるいはブルジョア的感性から逃れたい願望があるよう見て取れた。また、その時々の流行のようなものがあるようだった。たとえばバッハの時代とか……。突如として、そのバッハたる御人を発掘したかのごとく、各人はその御人を分類づけ、解釈しようと躍起になる。その作曲家のトッカータやフーガ、プレリュードの一節を口ずさむ。誰かがピアノに向かう。こうしてバッハを巡る乱痴気騒ぎが始まるのだ(輪の中でダジャレ好きな男が言うに、“バッカス祭り”だ)その後、バッハは老いぼれの偏執狂、冷徹な数学者と成り下がり、彼に代わってプロコフィエフ波が押し寄せて来る。マリーナは“音楽の主たち”が一六世紀や、一七世紀の芸術家たちが打ち立てたものを粉砕しながら、時代時代を股に掛けて闊歩する熱狂振りを思い出した。スカラッティ王国に続いて、ドュカスとストラヴィンスキー王国が誕生する。そうした全ての集いの中にあって、マリーナは単に“指揮者の妻”、“サンドイッチを作る妻”、“飲み物を掻き混ぜる妻”、“時折、ソファーに身を沈め、ショパンに対する賛辞を垂れる御人たち(かのショパンでさえ、酔っ払っていない時にそれらを耳にしたとしたら嫌悪するだろう)にコーヒーを給仕する妻”に過ぎなかった。どのようにすれば、そういった連中たちはあれ程までも“人工的に”なれるのだろう? その連中たちの各人の所作、顔つき、目配り等をじっと観察している内に、マリーナは大文字でデカデカと記された“私”という言葉が目に飛び込んで来た。あちらでも、こちらでも、“私”という言葉が頻繁に飛び交っている。狂乱的とも言える虚栄心、名声に対する渇望、それに相手を蹴落としてやろうと考える悪意が不協和音となって、何とも信じ難いイノセンスと混ざり合っている。そうした恥知らずの“芸術家たち”は果たして人と言えるだろうか? 一日の二四時間、そうした輩たちは仮面を外すことなく、いかなる謙虚な態度も取ることなく、単純とも言える日常の些事を口にしたり、考えたりするのだろうか? マリーナはその問いの答えを知っていた。もちろん、連中はそんなことをしやしない。突き詰めれば、連中は月末の支払いに対してさえも、自らの虚栄心を肥え太らせるために日々、奔走している“気の毒な”輩に過ぎないのだ。最も奇妙なことは、我が家に足繁く訪れる人々の中に、二、三人ではあるが誠実で、不毛とも言える仕草や言葉、それに根拠を持ち得ない言葉遊びの中から、何ものかを導き出そうと腐心する精神の持ち主がいると言うことだ。
マリーナは灰皿の底で煙草を揉み消した。まるで寒さに震える者のように胸の前で両腕を組み、何かおかしなことが起こるのではないかと期待するかのような仕草で窓辺を見やった。階下の通りから聞こえて来る物音は少しずつではあるが、少なくなって来ている。寝室の中はほとんど絶望的とも言える静寂が漂っている。ベルナルドはベッドの端から片方の手をダラリと垂らし、寝入っている。マリーナは薄暗がりに浮かぶ夫の顔をじっと見つめた。一瞬だが、婚約した頃に胸に抱いた熱情を思い出そうとした。無駄なことだ。ベルナルドはすっかり変わってしまった。彼は以前とは全くの別人なのだ。全てが全て取り替えしがつかないほど変わってしまった。確実に言えることは、これから先、人々の賞賛を集め、それによって勝ち得る栄光のために奔走すること以外の人生を夫自身が送ることはないということだ。これまで何度も自らの脳裏に去来したことだが、「もし夫が今のままで幸せであるなら、夫が生来、歩むと決められたその道から外れるよう、私自身、仕向ける権利などどこにあろうか?」ということだ。
マリーナはフッと嘆息を漏らした。いずれにせよ私の人生は空虚で、無味乾燥な空洞なのだ。それをどのようにして埋めようか? 誰かを養子に迎えようか? 社会に貢献する事業に身を呈してはどうか? でも、いつも私の側にはベルナルドがいる。滅多にあることではないが、一日の内で“指揮者”が私のことを必要とする時間がある。「マリーナ、我が分身よ! 新聞の切り抜きはどこだい?」。「マリーナ、僕のシャツはどこだい?」。「そう、あの乗車券はもう予約したかい?」。「ねえ君、僕の職が滞りなく行えるよう気をつけねば!」。
マリーナはこれから先、あるいは夫婦の先にいかなる光も見い出すことはないだろうということを確信していた。再び娘のことを、先程目撃した身投げのことを考えた。四肢がバラバラになり死んだ、その二人がこの寝室の中にいる。その二人の体には、同じ顔つきの頭がくっ付いている。体が完全に縮こまってしまう程の震えを覚える。再び煙草に火を点けた。時計の蛍光の文字盤と針を見やる。二四時一〇分だ。窓辺の方を凝視し続ける。でも……、私は一体、何を待ち続けているのだろう? 光り輝く夜明けだろうか? あるいは何らかの奇跡か? また、あるいは眠気か? 目の見えない人がそのような問いをする際やるように、マリーナは肩を揺すった。
眠気が一向に訪れず、マリーナは黙したまま一人、夜を徹していることに諦めを感じつつ、深い夜の闇に身を漂わせ、二人の亡者たちと共に立て続けに煙草に火を点した。
ジルはバスを降りると、自宅の方向へと通りを上がり始めた。ペトロポリス地区に聳えるこの丘は自分にとって、“感傷的な”丘だと言えた。その丘に立つと安堵感と抱擁感、さらには自由を感じるからだ。丘の上に広がる空はさらに広大且つ深みを帯びているように思われる。市街地の通りの上に青白い光を放つ星々は、その丘の上ではさらなる強い光をもって輝くのだ。それらは青みを帯びた銀色の炎となって、寝静まった谷間に軒を連ねる家々の上でピカピカと瞬いている。
荒地や庭々ではコオロギがコロコロと鳴いている。その鳴き声は鋭く、か細かった。それを耳にするとなぜか、ジルはいつも星々の瞬きを想起したものだ。この地区に夜の帳が下りると、常に犬の遠吠えが聞こえる……。そして今、秋になり、海の方から吹き付けて来る風は密やかではあるが、我々に身震いをもたらし、消え入りそうな程度ではあるが、冬の色合いを運んで来る。
ジルは歩調を早めた。この世界に“トゥリーボ[部族、種族の意]”の面々が集う、夜一〇時のお茶会を阻害するものは何もない。父はその“家族の儀式”を夜に焚き火を囲み、その日の偉業や、歩んだ道程、屠った獣、新たな発見について語り合う原始人の集いにたとえていた。リタは学校でのエピソードや、クラスメートとのいざこざ、教師たちに対する所見、授業中に起こった寓話的とも言える出来事等について開陳した。当て擦りを好むノーラは往来での出来事、美容院や店々、洋服屋での様々な場面について語った。そうした全てのことを耳にするにつけ、ジルは口許に笑みを浮かべずにはいられなかった。姉は物事を上手に風刺するセンスや、様々な人々や彼らが置かれた状況の滑稽さを見い出す鋭い観察眼を有していて、そうした事柄を劇で演じるかのように、シンプルな逸話として語る驚嘆すべき才能があった。父は自分が話すより、相手の話に耳を傾けることを好んだ。時々、心ここに在らずといった状態に陥り、父が一体、何を考えているのか、果たして何に思いを馳せているのか理解しかねることがあった。時折、次回に執筆する小説の登場人物を“創出する”ために、幾人かの人物像について俎上に上げるか、作品で扱うべきテーマや草案の可否について熟考しているようだった。家族の皆が父の考えに対して自由に批評を加えたり、その提案に対して賛否を表明する権利を有していたが、ジルが考えるに、父は心の底で何人もの意見を受け付けない、ありとあらゆる影響を受けない、常に自身が考えていることを自分自身が最も理解していると考えているように目に映った。愛情を込めて母親のことを考えた。母は全ての川の支流――つまり夫や子供たち、友人たちといった――が注ぎ込む湖のような存在だった。母自身の目の色のように紺碧で、穏やかで、何人であっても受け入れる湖であったのだ。皆を包み込む温かい水を湛え、その水面を覗き込む者が水底を見通せるほど透明な湖なのだ。この家において理想と言えることは――オレンジの皮を蹴りながらジルは結論づけた――、“トゥリーボ”の集いにおいては、何でも自由に、気兼ねすることなく口にすることができ、どんな考えでも、心配事でも露呈することができ、心の奥底に渦巻く問題を家族皆で共有することができるということなのだ。ではどの程度、この自分は率直に心情を吐露しているのだろうか? そうした考えに耽っている内に、ジルは意識することなく歩調を緩めていた。“常に”心の内にある全てを語ることなど可能であろうか? それには疑問がある……。自分とは別の人々であっても恐らく、自らの内に渦巻く懸念を全てぶちまけることなどできはしないだろう。この自分に関して言えば、未だ心の解放を留保して、秘密を心の奥底にしまい込み、自らのそれを露呈することに恥ずかしさを覚えるという理由だけではなく、“トゥリーボ”の集いにおいてですら、どうしても開示することができない事柄があった。自分には心の内に渦巻く問題を開陳することができない、何とも不可思議な理由があるのだ……。それはただ単に、それらを言葉で言い表わすことができない、それらを公にすることに我慢ならない、それらを口の端に上らせることに絶対的な抵抗を感じるといった、何ものかがあるのだ。いつの日か父と膝を突き合わせて、自分の心の内にたぎる不安について語り合う必要がある。いつか、そんな日も来るだろう。きっと父は全て理解してくれるだろう……。というのも、父は全てを言葉で言い表わし、明瞭に話す術を持ち合わせているのだから。
ジルは街角で立ち止まった。いつの間にか丘の天辺に辿り着いていた。自宅が夜空に聳え立つ、亡霊のように目に映った。中庭の電灯は消えている。しかし書斎の窓からは光が漏れ出ている。ジルは舐めるように尖塔を眺めた。かつてここに居を構えていたサンチィアーゴ家の人々が命名した名がその尖塔に付けられていた。ジルは愛情を込めて、それをしげしげと見やった。夜の集いの楽しさを前もって味合う。母が常々言っているように、最良の集いというものは、それが行われるのを今か今かとはやる気持ち抑えて待たせるものを言う。恐らくそれには一理あるだろう……。しかしそうは言っても、家族が集う夜更けの集いであれ、その他のパーティであれ、素晴らしいものであることには変わりがない。時折、ジルは両親の許を去り、自らの人生を歩まざる日が訪れることを考えたりした。たとえ自分が結婚したからといって、あの尖塔に住み続けることだってできるではないか……。家族の集いでの、今の恋人のチィルダの様子を想像する。ノーラの恋人であるロベルトのことをあれこれと考えることも理に叶っている。リタにやがて婚約者が現われるということを、そうなることによって新たに三つの顔が加わることを想像してみる。数多くの見知らぬ人々が集うことによって、今現在のような家族の平安が保つことができようか? しかし結婚することによって生まれた子供たちがその会合に加わって初めて、未来的展望が開けるのだ……。彼らは床を這い廻り、絨毯に大きな染みを作り、本棚から無残にもビリビリに破り散らかすために本を引き摺り落としては、レコードを粉々に粉砕してしまうだろう。例えば愛聴盤のチャイコフスキーの〈ピアノ協奏曲第一番〉のレコードなど、その格好の餌食となるだろう。そうしたサンチィアーゴ家の新たな世代のことを考えるにつけ、ジルは将来、自らに授かるであろう子供について考えてみた。四つん這いで階段を這い上がって来る、丸々太った金髪の幼子の姿が目に映る……。その子の鼻は鷲の嘴のような形である――それはチィルダが整形手術をする前の鼻だった――ことを認め、気が滅入る。そうした考えに背を向けるように、そう愛する女性に対する裏切りとも言える考えに背を向けるように、尖塔の方へとほとんど駆けるような足取りで走り寄って行った。
ジルの歩む足音は差掛け屋根に設えられた白亜のアーチにコツコツと反響していた。躊躇することなく、速やかに呼び鈴を鳴らす(リタは性急且つ嗜みを込めて、二度呼び鈴を鳴らす。ノーラの場合は救助しそこなった遭難者のごとく神経質且つけたたましく、ドラマチックともいえる程、五度呼び鈴を鳴らす)召使が扉を開けにやって来た。その召使の名はオルランシィアで、反り返った鼻をしていて、仕草も歩調もゆったりとしており、眼鏡を掛けていた。ジルが三歳の頃からサンチィアーゴ家で働いていた。
「オルタ、夜の集いはもう始まっているかい?」
「いいえ」
そう吐き捨てるように言った。全てにおいて深刻そのものだ。我が家での一五年にも及ぶ仕事において、彼女が歌ったり、笑い声を上げたりするのを耳にした者は誰一人としていない。常に必要不可欠な言葉を口にするだけだった。時折、口許に笑みを浮かべるか、あるいは眠たげな雰囲気を醸し出すこともなくはなかったが……。それは部分的にではあるが、“子供たち”に向ける友好の印として、“象”に対する異常ともいえる愛情を持っていた。彼女の居室には、装飾品として、あるいは壁に吊るすもの、絵画、それに様々な色彩や形、大きさの訳の分からない“象”の物品が所狭しと置かれていた。
ジルは帽子掛けに帽子をかけると、家族がすでに集っているであろう書斎の方へと歩いて行った。
「こんばんは!」
直ぐさま、何か普通でないことが起こったのではないかと感じた。母はいつものように編み物をしているが、今日の母はそれに集中することができず、何か他のものに気を取られているように思われた。眉間に皺を寄せているし、口許には普段目にすることのない表情を浮かべていた。ソファーの上で体を丸め、目をかっと見開き、父の方をじっと凝視しているリタは苺色のクッションを胸に押し当てている。すでに火の消えた暖炉の側に陣取っているノーラもまた、リタ同様、白い紙を両手で掴んだ父の方をじっと見つめている。
「大佐殿、一体どうしたというのです?」と、ジルは尋ねた。
“大佐”とは、子供たちが父親に与えた愛称だった。その敬称は特別な場合、特に父が何らかの障害に見舞われるか、何らかの問題を議論する際に用いられた。トニオはその問い掛けに答える前に一瞬だが、息子の方へと一瞥をくれた。
「今日、インペリオ・ビルの屋上から身投げした女性のことを耳にしたかい?」
「うん、聞いたよ……。でも、それがどうしたというの?」
「私はその女性が飛び降りるのを目撃したのだ」
ジルは眉間に皺を寄せた。
「お父さんはその様を目の当たりにしたの? きっと凄惨なシーンだっただろうね……」
トニオは頭を「うんうん」という具合にゆっくりと振った。ジルは父に対して、もの問いたげな視線を向けつつ、椅子に腰を下ろした。
「警察に電話して、被害者の名を尋ねたのだが……。ジョアーナ・カレフスカという名前だと言うことだ。その同じ名が記された手紙がここにある……。お前も私が言わんとしていることが分かるだろうが……。私はそのことをすっかり忘れていたのだ」
「でも、お父さんはその女性と知り合いだったの?」
驚いた様子でリタは父と兄の顔を交互に見やった。
「その女性の名を耳にした時、全く見知らぬ者の名とは思えなかったのだ……。家に帰って来ると、ノーラにその女性の名、ジョアーナ・カレフスカという名をどこかで耳にしたか、あるいは目にしたことがないかどうか尋ねてみた。ノーラは書簡、通信文等を保管してある棚を探し、この手紙を持って来たのだ……。そのジョアーナ・カレフスカという女性は自殺をする六日前に、これを私の許に送り付けて来ていたのだよ」
トニオは手にしている紙をジルに手渡した。ジルはそれを読み始めた。
“親愛なるアントニオ・サンチィアーゴ様
私はロージャス・アメリカーナスで働いている不幸な女です。私はあなた様の作品に登場する人物に似ていると思えてならないのです。私が考えていることは、かのルシィアと全く同じです。それに私が置かれている状況は、彼女のそれと全く同じなのです。もしあなた様が私の人生がいかなるものなのかをお知りになったら、とても素晴らしい作品が、奇想天外とも思える作品が執筆できると思います。この私にわずかばかりの歓喜をお与えになりたいと思われるなら、上記の店にお入りになって、右の奥にある玩具売り場で働いている私の許に御越しください。私は金髪で、どちらかというと中肉中背で、ブルーの目をしています。店長はむやみにお客様と話すことを禁じていますが、もしあなた様が玩具をお買い求めになりたいという仕草をなさったら、私たちは言葉を交わすことができます。私はあなた様にお話ししたいことが沢山あります。ここ最近、辛いことばかりです。ですから、それらを清算するために何かやってしまいそうです。あなた様だけがこの私を救うことができるのです。どうか私に会いに来てください。
忠実なる不幸な下僕
ジョアーナ・カレフスカ”
その手紙は手書きで、くっきりとした文字で、幼さの残る文体で書かれていた。ジルはそれを父に返した。
「それで、お父さんはこれに返信したの?」
トニオはぼんやりとした目つきで再び手紙を見やりつつ、頭を横に振った。
「いいや、返信していないのだ」
ノーラが弟の側に近づいて来て、口を開いた。
「私がしくじっちゃったのよ。その書簡に対する返信はもっと後でも良いかなと思って……。先延ばし、先延ばしにしていたの……」
トニオは口を挟んだ。
「いいや、ノーラ、それは違う。責任は全て私にあるのだよ。私はその手紙の内容が馬鹿らしいと思ったのだ。何かの悪戯か、冗談だと考えたのだ。その女性の名前そのものが偽名だと思っていたのだ」
静寂が降りた。リヴィアは編み物から目を上げ、深刻そのものの顔つきの四人の顔を見た。皆、悲痛な目つきをしている。ジョアーナ・カレフスカに手を下した人々だわ。そう考え、口許に笑みを浮かべた。そうした苦悩に沈んだ人々の魂を救済するために何かをせねば。
「オルテンシィア!」と、リヴィアは叫んだ。
リタは身震いをした。ノーラは生き生きとした目つきで母の方を見やった。父はというと、何か大きな音を耳にした者のようにしかめ面だった。程なくして、扉によって四角に象られた空間に召使の姿が現われた。
「お茶を給仕して頂戴」
そう女主人は召使に命じた。ジルは半ば口を開き、何を考えるでもなく天井を凝視していた。
「それで、あなたは……」
視線を逸らすことなく、リヴィアは尋ねた。
「あなたはその娘さんに何らかのことをすることができたと考えているのかしら……。その悲劇的な出来事を回避するために……、何らかのことを?」
トニオはイエスとも、ノーとも言えないという仕草をした。妻が口を差し挟む前に何かを言わねば。
「でも、そのジョアーナ・カレフスカという娘さんは本当にロージャス・アメリカーナスで働いていたの? 警察があなたに告げたのが、そのジョアーナ・カレフスカという名前だったの?」
夫が話したことが全て誤りに過ぎないのではないかと思いつつも、一抹の不安を抱いていたのも事実である。
「全くもって何の疑いもないよ」
そうトニオは断言した。
「警察の連中が私に提供してくれた情報は一点の曇りもないものだ。通りの中程に横たわっていた、その若い女性の外見は手紙の中に描かれていたものと完全に一致する。どちらかというと瘦せぎすで、金髪で、瞳は明るいブルーだったが……」
あたかも足許の絨毯の上にその女が横たわっているかのように、その姿を今、この瞬間も、まざまざと目にしているような錯覚に襲われていた。
お茶の給仕をすべく、オルテンシィアは車輪付きのテーブルを押して書斎に入って来た。リヴィアが皆にお茶を入れ始める。彼女は家族の皆の好み、つまり砂糖の分量やミルクの有無、水を足すかどうか等を熟知していた。その場を支配している心配事に関しても、敏感に察知していた(あるいは薄々感じていたと言えようか)言うなれば、“部族”の各人が花の活けられた花瓶を前にして、家具類の新たな配置を前にして、昼食時にエキゾチックな柄の食器を前にして、あるいはあらゆるニュースを前にした際、彼らがいかなる反応を示すのかを言い当てることができた……。
およそ五分間、書斎の中では四つの手がそれを飲むでもなく、お茶をかき混ぜていた。人々の顔つきはと言えば、一様に良好な変化が見られなかった。皆、揃って、悲壮とも言える表情を浮かべ続けていた。「で、どうするおつもり?」と、リタが尋ねると、お茶の味を確かめるべくスプーンを口許へと持って行った。トニオは手紙の一節を繰り返すに留めた。
「“ですから、それらを清算するために何かやってしまいそうです。あなた様だけがこの私を救うことができるのです”」
「でもお父さん。お父さんは一体、何ができるとお思いかしら?」と、ノーラ。
「そんなこと誰にも分からんよ。だが、とても沢山のことができるようにも思われる……」
「でも、お父さんは“救世軍”の兵士ではないわ」
ジルもその意見に同意すべく、頭を縦に振った。
「お父さんの意見について、僕も賛成しかねるな。我々は皆、少しばかり……、あるいは少なくとも、成すべきことを果たす必要があると思うんだ」
リヴィアは父と同じ雰囲気、同じ声音、同じ感情を持って、息子の方をじっと見つめていた。リタは自らの胸の内に渦巻く苦々しい感情を少しばかり和らげようと、お茶にさらにもう一杯、砂糖を投じた。
リヴィアは自らの考えを述べた。
「まあまあ、毎日、そのような内容の手紙が一ダース余り届くわ。もしそれら全てに返事を出していたとしたら……、お父さんがやるべきことをやれなくなってしまうわ。だってお父さん自身の人生ですもの。それが損なわれるとしたら、いかがなものでしょう?」
心の奥底で妻が言うことはもっともなことだとトニオは考え、女性が持つ独特な実利的とも言える考え方は素晴らしいと思った。妻のリヴィアはより良い感性を持って、正義と良心を損なうことなく、人生の様々な事柄と対峙することができるのだ。しかしながら、リヴィアは実際にその娘がビルから飛び降りるのを自らの目で目撃した訳ではない。それゆえ感情を吐露することなく、冷徹な視点でその出来事を観察することができるのだろう。そうした事を考えながらトニオはぼんやりと、その味を味合うこともなくお茶を啜っていた。
ノーラは父の方を凝視しながら、その日の午後の出来事に対して明快且つある種のユーモアを持って、不遜とも言える答えを導き出せるような、安寧且つ自信に満ち溢れた人など、どこにいようかと自問自答をしていた。
リタはない混ぜとなった感情を胸に抱き、心の中で苦闘を繰り広げていた。どのようにすれば、そのうら若き娘があのような高みから身を投げ、地面にその身を叩き付けるという勇気が湧くのだろうか……。それによって、実にロマンチックとも言える美しさが付与されているのは、なぜなのか……。手紙、父へ、あるいは家族に対する訴え(この自分が学校での出来事を語るがごとく)、とどのつまり、ある意味において、目の前に突き出されたその現実とも言える人生ドラマに巻き込まれているのだわ。驚嘆に彩られた心の高揚感は、ビスケットを激しく咀嚼する、その仕草に如実に表われていた。その仕草が目に余るほど激しかったため、母親が窘めた。
「リタ、もっとゆっくりお食べなさい。そんな風じゃあ、喉に詰まらせてしまうわ」
ジルは両手を膝に当て、体を前のめりにさせ、絨毯のアラベスク模様をじっっと見つめていた。父親の精神状態は手に取るように分かる。僕自身もお父さん同様、身投げした娘に対して好感を抱いている。突如として、偶然にも、込み入った問題の解決策を見い出したかのように、あることを思い出した……。
「その身投げについて、往来で人々がどんな風にコメントを交わしているか、お父さんは知っているの?」
トニオは「知らない」と言う具合に、頭を横に振った。
「いいや、知らない。人々は何て言っているのだい?」
「どうやら自殺ではないようだって」
「だが、どうしたらあれが自殺じゃないと言えるのだ? 何か書き置きでもあったのかい?」
「お父さんはその書き置きを見たとでも言うの?」
「見たかと言うと……、いいや見てはいない。警察官が電話越しに事件のあらましを語ってくれたに過ぎない……」
「書き置きがあったとして、それはカレフスカ本人が認めたものと言えるだろうか?」
そんなことは誰にも分からないという具合に、トニオは肩をすくめた。ジルは再び話し始めた。
「人々はそれは自殺ではなく、何らかの事件だとコメントしているよ……」
リタは歯と歯の間にビスケットを挟んだまま、それを咀嚼するのを止めた。ノーラは手紙に綴られた、行間に込められた新たな意味合いを発見しようとするかのように、再びそれを手に取った。
「だが、それを事件と判断するための根拠はどこにあるのだろう?」
トニオは半ば懐疑的にそう尋ねた。
「お父さんはその娘さんが地面に落ちてくる様を目撃したのだよね、そうでしょ?」
「そうとも。私はその娘さんの両足が地面に叩き付けられる、その瞬間を目撃したのだ」
「どんな風に、その娘さんは落ちて来たの?」
「足からだ……、姿勢を微動だに変えずにな」
ジルはついと立ち上がった。ここ書斎の中で、それもお茶の時間に、ある種の言葉を発することに不快感を覚えていた。しかしながらすでにその話題に口を突っ込んでしまった以上、最後まで言わねばならない。
「お父さんは血を見たの?」
「いいや」
「まさに、その通りだったみたいだね。その娘さんはすでに死んだ状態で落ちて来た、と皆は言っているよ……。誰かに投げ落とされたって。娘さんが落下してから数秒後に、最初に現場に駆け付けた男性がその亡骸に触れたところ、すでに冷たくなっていたと言うことだよ。彼女はすでに死後硬直した状態で落ちて来た為、出血がなかったと言うことだよ」
リタは口許にカップを持って行こうとしていたものの、あたかもそのカップに自殺した女の血がなみなみと注がれているかのように思われ、一瞬ではあるが躊躇して、その手を止めた。
「それに対して、お父さんの意見はどうかな?」
トニオは煙草に火を点けた。
「どう言うべきか、分からないな……。恐らく人々の仮説は多分に小説的な要素を含んでいるように思われるが」
リヴィアはテーブルにカップを置くと、微笑んだ。
「ここに集う全員の中で、その出来事に対する小説的解釈に異を唱えることができる者は小説家である、あなただけよね……」
「犯罪に巻き込まれたにせよ、自ら命を絶ったにせよ、その女性は自らの身に何か良くないことが起こるのではないかと考えていて、私のことを信頼していたということだ……。その上で、私に訴えかけたのだ。対して、この私はいつもそうであったように何も考えるでもなく、その手紙に返信することもなく、保管庫にしまってしまうように命じたのだ」
リヴィアはゆっくりと頭を横に振った。
「でも、よりによって、なぜあなたじゃなければならなかったのかしら? あなたが救いの手でも差し伸べてくれるとでも思ったのかしら? どうして警察署長や……あるいは、たとえば聖職者とかじゃなかったのかしら……?」
トニオは肩をすくめた。
「お前も知っての通り、一般大衆は得てして、小説家を作品に登場する英傑と混同する嫌いがある。読者たちは大なり小なり、“乙女を救った若者”に対して、コンプレックスのようなものを覚えるものだ。おぼろげながら彼らは、作者が作中に登場する人物たちの運命をいとも簡単に変えることができるかのように、この世界で実際に生きている人々のそれを同様に変えることができると想像するものだ。しかしながら、そうした考えこそ大きな誤りであって……。なぜなら私が扱う小説の登場人物の運命であってさえも、絶対的とも言える方法を持って操ることができるという訳ではないのだから」
ノーラはロベルトのことを考えていた。彼はその出来事に気を揉んでいることでしょう! 世の中の底辺で生き、頼るべきものを持たない人々の苦悩を自らの肉体に受け入れているのですもの。名もなき浮浪者に対しても、赤貧の労働者に対しても、往来を闊歩するならず者に対しても、彼は兄弟のごとく、旧友のごとく、あるいは同胞のごとく扱うのだから。社会の不正に対して憤懣やるかたないのだ。ノーラはロベルトがジョアーナ・カレフスカの死に対してどのように考えているのか、正確に言い当てることができると思った。新聞社の編集室にこもり、前髪を目に垂らし、次から次へと煙草に火を点けては、大きく判読し難い文字で、それも罫線と罫線の間に収まることのない乱雑とも言える、均整とか、優美さとは無縁な文字で紙面を埋め尽くしていることだろう。それらの文字の集合体の文章こそ、これまで確立されて来た常識や、現行の法則、世俗的なしきたりなどに対する異議申し立てなのだ。そうした全ての事柄にも関わらず――紙に書き付ける力強い文字、強烈な思想、心の中で渦巻く反逆精神の持ち主ではあったが――、外見は穏やかな雰囲気を漂わせ、はにかみの仕草をし、“良き出自の息子”というような顔つきをしていた。
ジルはチィルダのことを考えていた。彼女がサンチィアーゴ家のお茶の席に集い、そこでお茶を啜っている様を想像した。家族の誰かが欲せずして彼女を傷つけ、そう何気なく危険とも言える言葉を口にしたら、どうしようと自分は危惧している。
「鼻……、嘴……、鷲……、トゥカーノ[オオハシ]……、醜い……、醜い動物のような……、整形手術……」
再びソファーに身を縮こまらせ、リタは自殺について思いを巡らせていた。何とも困難とも言えることをしてのけたのでしょう……。私には想像すらできないわ。私はピストルの引き金に指を掛ける勇気さえ無いのですもの……。屋上に向かって、階段を上ることさえ恐ろしいわ……。でも、自らが命を絶とうという間際、諦めと悲哀を抱くことに、彼女が何らかの快感を覚えていたことは間違いないわ。“彼の”部屋の真ん前の通りに落ちるように、そうグランデ・ホテルの屋上から身を投げたとしたら……。その愛する人と家族へ、全てを語った書き置きを残して、それをやってのけたとしたら……。見ず知らずの人々に囲まれて、通りに屍を晒したとしたら……。次の日には新聞はこぞって、そのニュースを報じるでしょう。屋敷の尖塔には、金色の房縁りが施された黒布が吊るされるだろう。白亜の棺……。リタは体がゾクゾクした。数多の花……。喪章を腕に付けた学院を卒業したばかりの女子生徒たち……。棺の傍らには、無精髭を伸ばしたお父さんが佇んでいる……。お母さんは絶望に打ち拉がれている。リオにおいては、父は皆から拍手喝采をもって迎えられ、無邪気に、陽気そのものだった(しかし……、例の手紙は? 迷い込んだ手紙だ……。例の郵便物だ……)埋葬を終えた後、尖塔は悲しみに包まれる。全ての窓は閉ざされている。ラジオも蓄音機も沈黙したままだ。家族の誰一人として口をきく者はいない。花瓶には花が生けられていない。沈痛に沈む人々の顔。夜ともなると、かつては愛らしい部屋が並んでいた屋敷の廊下を亡霊が徘徊する。その亡霊は両親に、兄弟たちに語り掛けるのだが、誰一人としてその声を耳にする者はいない。彼らにキスをしようとするのだが、それも無駄に終わる……。かつて自分自身がこの家の一員であったことに懐かしさを感じることだろう。何と死とは悲しいものだ!
目に涙が溢れて来た。涙を隠すために、すでに睡魔が訪れたことを家族に信じ込ませようと目をゴシゴシとこすった。
リヴィアは席を立った。夫のために入浴の支度をしなければならなかったからである。ノーラは安楽椅子の背もたれに身を寄り掛からせて、ロベルトのことを考え続けていた。恐らく彼は大急ぎで、それも時に風化されてしまわない内に、全てを語る必要性に迫られている者のごとく、記事を書いていることだろう。きっとその記事はジョアーナ・カレフスカ、あるいは彼女のように貧しく、絶望に打ち拉がれた、裏切りに満ち溢れた不平等な世界に不慣れな、年端も行かない女性たちに関する記事であることはまず間違いない(彼はそうしたテーマを様々な手法、切り口で幾度となく扱って来たもの)原稿の上に煙草の灰が落ちる。ロベルトの悲しげな顔が目にありありと浮かぶわ! ノーラは彼の側にいたいと思った。彼の髪を優しく愛撫するためではない。彼の邪魔をするためにだ。それは実に狂気じみた喜びだと思った。彼を挑発し、激高させるような“場面”を作り出したい。ドラマッチクにするためにも。その後、演劇ではありがちな和解のシーへと転換して行く。そうした遊びには、何ものにも代え難い面白味があるわ。
リタは自らの墓地に立つ墓標の文言を読んでいた。私の墓は入り口から入って右手の奥、ジョアーナ・カレフスカの墓所の隣、玩具売り場にある。年端も行かない内にこの世から去るなんて、何とも可哀想だわ! イトスギの茂みの中で、一羽の小鳥が悲しげに囀っている。リタは自身が気の毒に思い、自らの脚を愛おしげに撫でた。突如として悔恨の念に駆られ、慈愛とも言える感情の波が押し寄せ、父親にキスをすべくついと立ち上がった。
トニオは首許に娘を寄り掛からせたまま、口許に笑みを浮かべた。
「お前、どうしたと言うんだい?」
「何でもないわ」
「本当に何でもないのかい? じゃあどうして、お前は目に涙を浮かべているのかな?」
リタは顔を父の肩にもたせかけたまま、誰かを愛し、その人を愛すれば愛するほど不幸になると感じていた。
ジルは立ち上がると、窓辺へと歩み寄って行った。三日月は湖上に漂うゴンドラの様なものだと思った。静まり返った丘の高みには星々が輝いている。庭ではコオロギがコロコロと鳴いている。空で瞬く星々、そしてコオロギの歌声……。父に自分が抱えている秘密を打ち明ける必要がある。もうこれ以上、胸の内にしまっておくべきではない。別のイメージを思い描く。月は揺籠だ……。その様な比喩をどこかで目にしたのかもしれない。山々は微睡む。あるいは、こちらを凝視する巨人のようだ。馬鹿げている……。医学部の講義について、もっと真剣に考える必要がある。とどのつまり、社会にとって医者は詩人よりも遥かに有益だ……。あるいは音楽家よりも。しかしこれから数年後、急病人の対応のために、深夜にベッドから飛び起きた時など、ジル・サンチィアーゴ医師は通りの中程につと立ち止まり、空に浮かぶ月を見上げては、それを銀の硬貨、あるいはカンテラ、またあるいは他の馬鹿げたものにたとえているといったことがないとも限らない。今の自分に必要なことは明日を迎えるために、解剖学の要点について学ぶことだ。
「もう寝なさい。ほぼ一一時だ。明日、お前は学校に行かなければならないしね……」と、トニオはリタに言った。
「明日は学校、お休みよ……」
しかし父親は娘の髪にキスをすると、その腕をポンと叩き、膝に腰を下ろしている彼女をそこから降ろさせた。リタは半ば中空をふわふわと歩くかの様な足取りで歩み始めた。ベッドの中では上掛けに包まり、色々と考えることができるわ。自殺のことや、逃避、アバンチュールについてあれこれと想像を巡らせることができるもの。可哀想なジョアーナ! 可哀想なリタ! ベルナルド、さようなら。もう二度とあなたと会うことはないわ。店の奥の、向かって右側にある玩具売り場……。金髪で、青色の目の女の子がいる。そう、この私とそっくりな。
リタは廊下を横切り、薄暗いホールへと入って行った。静まり返った天井に立ち込めるベールに包まれるがごとく、一抹の恐怖が降り立って来た。死について考えた。その場ではたと立ち止まる。
「ノーラ……」
口ごもりながら姉の名を呼んだ。続いてさらに大きな声で同じ名を呼んだ。
「ノーーーラ!」
書斎の方から姉の声が返って来た。
「何?」
「二階の寝室まで一緒に行ってくれないかしら?」
「どうして?」
沈黙の後、リタの声が返って来た。
「私、怖いの」
ノーラはフッと嘆息を漏らすと、欠伸をし、妹の許へと向かった。
ジルは流れ星を見た。「家族が皆、幸せでありますよう」と、願をかけた。しかしチィルダがその中に含まれていないことに気づき、驚いた。何とも奇妙で、気掛かりなことではあるが、時々、今のように彼女の存在が自分の思考から完全に抜け落ちることがあった。ジルは窓辺を離れ、父の側へと戻って来た。
「それでお父さん、この先、何をするつもりなの?」
トニオは立ち上がると、息子と真向かい合った。
「そうだなあ……。私にやるべきことがあるとすれば、その亡くなった娘さんがどこに住んでいるのかを知り、そこで彼女と一緒に暮らしていた人たちがどのような生活を送っているのかを知ることだと思う」
「多分、お父さんなら何らかの援助ができるでしょう……」
「そうとも。私はその娘さんが自殺した理由、それも本当の理由とはいかなるものなのかを知りたいのだよ」
「お父さんはその娘さんが自殺したと確信しているの?」
トニオは一瞬、間を置くと、言葉を継いだ。
「いずれにせよ……、私は知りたいのだ」
煙草の吸殻を灰皿に投げ捨てると、トニオは自分を包み込む青みを帯びた煙をじっと見つめていた。
「お父さん、僕は時々、考えるのだけど、他人に救いの手を差し伸べることに価値があるか、どうかってね。実際的な観点から見れば、その答えは明確だよね。でも、どうして我々はこれほどまでも他人のことを考えてしまうのだろうか?」
「それは自分自身について考えるのと同じことだと思うよ」
「分かっているとも……。我々の思考は常々、他人の思考の中にあるということをね。そうしたことが有益、あるいは不利益なことなのか、弱点なのか、強みなのか、あるいは勇気の証なのか、臆病の証なのか?」
トニオは微笑んだ。
「奇妙なことと思えるだろうが……。私が未だ執筆していない小説がすでに自分以外の人々の中に、そう、これからその作品を手に取って読む人たちの中にすでに存在しているのだ。我々が為し得る多くのもの……。小説や……、彫刻……、音楽などそれらのものは、原稿用紙、キャンバス、石塊、粘土……。それらを創作する人々自身とは別に存在しているのだ。つまり、そうしたものは書き綴られた言葉や、音の結合、あるいはイメージの融合以上のものだと言える。我々が創造したものを人々は完成させるか……、あるいは変質させるかだ。芸術家たちが表出する極めて自己中心的な部分でさえ、意識的であれ、無意識的であれ、そこに他人というものが見え隠れするものだ。つまりある意味において、自分自身は他人ということだ」
「僕はお父さんが言わんとしていることが分かるよ……」
しかし本当の意味で、ジルはそのことをきっちりと理解している訳ではなかった。そこで頭を横に振った。トニオは先を続けた。
「他人に施す善行が全く無駄なことだと得心していたとしても、そうした行為を為そうとする感覚が我々の存在意義に何らかのものを付与し、それを豊かに、強く、完璧なものに成らしめるためのものであると考えたとしても……。お前は他人との関わりを一切排除した世界というものを想像することができるかい?」
「もちろん、そんなことはできっこないよ」
「この世界において、自分が独りぼっちだということを発見した、最初の人間が抱く感覚がいかなるものか、お前は想像したことがあるかい? つまり、はっきりと定義することのできない、名も無き感覚だ……。孤独という概念が存在する以前の、あるいはその感覚について表象する言葉が存在する前の孤独という感覚だ……」
ジルの目は夢想の靄の中に漂うがごとく焦点が定まっていなかった。
「それで、興味深いことだが……」
トニオは続けた。
「家族が皆、お前に、母さん、ノーラ……、リタ……。それらは皆、私にとって他人の一部を成しているのだ。家族でありながら、それとは切り離すことが可能となる考えは……。より緊密な結合が可能と成らしめる考え……、絶対的とも言える相互理解……。時折、そうした思考が私を混乱させるのだ。なぜならば、とどのつまり、人それぞれが一つの世界であり……、島であり……、そう……」
トニオはそこまで口にすると黙り込んだ。ジルの目はキラキラと輝いている。
「僕がこれまでずっと考え続けていたことがそこにあるのだよ。別離の悲しみが……。大佐殿、僕にはそのことがよく分かるよ!」
“大佐殿”というシンプルともいえる言葉が全てを物語っていた。ジル自身の心の奥底に秘め続けられて来た考えを父が言葉をもって表現してのけたことに対する歓喜が、その“大佐殿”という言葉に集約されていたのである。“大佐殿”、その敬称にこそ、敬慕の念が込められていたのだった。
トニオは安楽椅子の肘置きに腰を下ろし、窓辺を見つめていた。
「私はお前たちと共に生活することのできないような天を決して受け入れることはできないだろう……。なぜなら、そうした場合、そこは天というものが存在しないからだ……。私が唯一知りたいことは死後、宇宙のある場所で、あるいはどこであれ、たとえば今日のような集いを、お茶を楽しむ集いを、私が繰り返し営み続けることができるかどうかということだ……」
「自殺が話題に上らないような集いをね……」
「そうとも、いつの日かお前たちは結婚し、そう家族や子供たちといった、今とは別の感傷的な関心事に浸るということは疑う余地がない。私と母さんは年老いて行き、気難しくなり、不愉快で多くの悪習に耽るようになることも自明の理だ……」
「お父さんたちがそのような年寄りになるとは、僕は思わないよ」
「だが同時に……、それが世の中の法則なのだ。次から次へと人が現われ、間断なくそれが続くのだ……。人々、物事が入れ替わり、形を変えて行く……。とどのつまり、全てが正しいのだ」
リヴィアの声が廊下の方から聞こえて来た。
「トニオ、お風呂の準備ができたわよ!」
トニオは息子にウインクした。
「分かったかい? 母さんは我々が心に抱える魂の大問題を解決して欲しいようだ。風呂か! それこそ我々を現実に引き戻すための一撃だとも。さてと軍曹君、また明日な」
「大佐殿、また明日」
父親が書斎を後にすると、ジルは安楽椅子にどっと腰を下ろした。そして今晩、眠りに就くのに少々、時間が掛かりそうだと思った。
浴室に入ると、アリスチィーデスは指先で湯温を計った。余りにも熱過ぎる。その湯温は自分が耐え得る限度をとうに越えていた。しかし熱い風呂に浸かれば、気分が良くなると考えたのだった。身体中に奇妙な寒気が走り、それが骨の髄まで凍らせているように思われてならなかった。ガウンを脱ぎ、それを琺瑯引きのベンチの上に放り投げると、解放感とも、快楽とも、あるいは痛みとも見紛うような呻き声を長々と上げて、少しずつ体を浴槽に沈めて行った。湯が胸にまとわりついて来た。灼熱に熱せられた指輪のような肌の皮膚を見やる。それは毛を毟り取られた鶏のように鳥肌が立っていた。みっしりと肉の付いた腕を湯の中に沈め、顎の部分まで浸かると、頭を浴槽の縁にもたせ掛けた。そしてまるで溺死体のような雰囲気を漂わせつつ、目を閉じた。入浴用の塩から放出される強く、半ば鼻に突く香りが鼻腔まで届く。浴室はアリスチィーデスに新たな自信を蘇らせる効果を備えていた。そこは逃避の場所であり、肉体も、精神も丸裸にする場所でもあった。それがどれほどグロテスクに思われようとも、自身が抱える内なる問題と思うがままに真向かうことができる場所の一つだと言えた。多くの場合、浴室の隅のベンチに腰を下ろし、心の中で演説の内容や、手紙の文言を仮想の秘書に口述筆記させたり、目に見えぬ敵と議論を戦わせたりした。
慌ただしく過ぎ去った今日のことをふと思い出した。夕刻に起こったあの出来事が、この自分の体にも、心にも深い傷跡を残した。だが……。本当に深い傷跡だろうか? アリスチィーデスは「それは違う」と思った。明日になって太陽が登ることによって、死と災難に対する印象は薄らぐことになろう。時の経過と共に、それらのことは完全に消え失せることになろう。しかし、ある一点のことのみは心に残り続けるだろう。その一点とは、モエマのことだ。その娘から身を引くことなど到底できないということは、自分自身よく分かってはいる。同時にその関係によって、自身にもたらされるであろうありとあらゆる諍い、危険を薄々感じてはいた。湯の熱さは愛人の体からむんむんと沸き起こる熱さを如実に連想させる(しかしあの時、自殺した娘の体は氷のように冷たかった)アリスチィーデスは死んだ娘や、妻のヴェロニカ、それに現代社会に通念上、存在する偏見を排し、愛人のモエマのみに意識を集中しようと試みた。そう、全てを脇に押しやって、未だ二〇歳そこそこの小娘に全意識を集中しようとしたのである。モエマは例の自殺が行われたまさにその瞬間、一体何をしていたのだろう? 多分、雑誌のページをめくっていたか……、眠っていたか……、あるいは……。原野の上に影を落とす夏の雲、それも一陣の風によって一瞬にして吹き飛ばされる雲のごとく、アリスチィーデスの心の中を一握りの疑惑がさっと通り過ぎて行った。いいや、あのモエマに限って、そんなことはあり得ない……。あの小娘が欲するもの全てを、この俺は持っている。それに俺自身、性的不能者でもない……。もちろん、口髭を切り揃え、髪をテカテカと輝かせている若い映画俳優と比べるべくもないが。だが、なんとも忌々しい……。
毛むくじゃらで、肉が弛んだ胸許に、二重顎の肉がだらりと垂れ下がっている。太鼓腹が前にせり出している。それも当然のことだ。この俺はアポロンではないのだから……。それに結局のところ……、この俺は齢五二の男なのだ(自室で密かにトレーニングをせねば)片側の脚を曲げた。すると“バシャン”という音と共に、膝が水の上に現われた。自殺したあの娘の体は地面に叩き付けられて、きっと骨はバラバラになったことだろう……。
アリスチィーデスは大儀そうに石鹸を掴むも、その手を浴槽の外にだらりと垂らすに任せた。かのマラー[1743-93:スイス生まれのフランスの政治家。フランス革命を指導]は浴槽の中で殺された。ある一幅の絵画が思い出された。マラーが政治家として手腕を振るった人生模様が次々に脳裏に去来した。議場に響き渡る声が耳に届く。数多の顔、仕草、群衆の姿がありありと目に飛び込んで来る……。過去の時代に生きた人間は、何と興味深いことか! 倫理的道徳観によって糾弾された事柄に対して、ある時は全面的な寛容さをもって、またある時は不敬とも呼ばれる態度をもって臨むことにより、何と我々は忠実に内なる理想や、秘めたる願望、さらに言うと相手を支配したいという願望を持ち続けて来たことか! 「党からの離反、翻意こそ、臆病風がなせるわざだ」と、大衆は口を揃えて言う。それについて、これまで幾度となく自問して来た。「決してそのようなことはない」と、自分自身、得心してはいる。肉体面の気力が不足している訳ではない。その気力とは、他人が持つ力を加味しつつ、危険に立ち向かうことを決断せしむるものである。
革命の頃、気力が僅かばかりだが萎えたまま、戦いに臨むこともあった。始終、臆病風に吹かれつつも、次に何が起こるのかという期待に胸を膨らませていたものだ……。しかし一旦、銃撃戦が始まるや、陶酔とでも言えようか、あるいは野性味を帯びた歓喜とでも言えようか、そうした感覚を胸に、「この自分が打ち倒されることなど決してない」という確信をもって行動した。しかし何とも耐え難いことが一つあった。それは、どんなに勇猛果敢に戦えど、一人の戦士としての戦歴が曖昧となり、英雄と見なされることが良しとされず、いくら数多の敵を討ち倒したとしても、名も無き一戦士の武功と捉えられることだった。俺自身、明確なる証をもって皆から認められ、威光を笠に着ることを好む人間だ。名声や、権力に目がない(浴室で一人、丸裸でいる中、アリスチィーデスは身も心も晒け出していた)もしこの自分と関係を持つ人間が息を潜めて、聞き耳を立てていたとしたら恐ろしいことになると思い、身震いした。だが、それよりもずっと大きな恐れがあるのだ。それは金策が尽きつつあるという恐れであり、現状の生活レベルを落とさざるを得ないという恐れであり、葉巻や贅沢な食事、自動車、リネンの着心地の良いシャツ、クローゼットに埋もれた瀟洒な洋服など、これまでの心地の良い、取るに足らない習慣を控えなければならないという恐れだった。そうした全てのことは大なり小なり、人生を生きて行く上で快適さをもたらすものであり、豊かな、魅力的とも言える人格形成に寄与し、人を光り輝かせ、色彩を付与し、活力を与える外的要素なのである。アリスチィーデスは“ゲーム狂い”であった。それが政治であれ、賭博であれ、競馬であれ、商売であれ、彼にとって全てが全てゲームであって、それらを心から楽しんでいた。それらを一般大衆が抱く、低俗な一攫千金とは露とも考えていなかったし、浪費とさえも思ってはいなかった。ゲームの相手に対して、単純に相手を打ち負かして、金を巻き上げてやりたいと考えたところで、それが彼自身の賭博師としての欲求を満たす一助にすらならなかった。
街には一種の“気”のようなものが取り巻いているのをアリスチィーデスは見逃さなかった。街の連中が語り草にしている、彼に対する尊崇の念を無視することも決してなかった。現し身を持たず、変わり身が激しく、社会的地位のある一人の友人として、人々はこの自分の姿を描いている。そうしたことに少しばかり、あるいは大いに苛立たちを感じることを否定することはできないが……。石鹸を手に握ったまま、アリスチィーデスはそう考えていた。なぜなら彼自身、心の奥底に引っ掛かる、何ものかがあったからである。常々、人々から好かれたい、賞賛されたい、あるいは人気者でありたいと気持ちに囚われていた。だが人生において、そうした状態を維持し続けようとしたら、大衆が抱く願望から目を反らし、友や崇拝者たちを失う覚悟が必要なのである……。それを一瞬たりとも躊躇するようでは駄目だ。自責の念に駆られることなく、それらときっぱりと手を切る必要があるのだ……。なぜなら、それをやったところで、何ら悲しみを伴う訳でもないし、いずれこの世界から消え行く運命にある人間にとって、いかなる悲劇に見舞われる訳でもないからだ。それに、日々の糧を得るために奔走している社会の底辺で蠢く“ろくでなし”と関わりを持つ必要もないからだ。
アリスチィーデスは石鹸で脇の下を洗い始めた。もし過去に戻れたとしても、そう自分が職に就いた初期の時代に戻ることができたとしても、結局のところ、なるがままに行動していただろう。いかなる悔恨の念を抱くこともなく。物事の発端というものはすでに決められているのだ。男にとって職業は一摘みの言葉、あるいは単純な約定以上に重要なものだ。男の人生は血と肉、そして深遠なる感情によって形作られているのだ。モラリストたちよ、地獄に堕ちてしまえ!(陰気且つ物悲しい顔つきのマルセーロの姿が脳裏に浮かんだ)自身が持つ魅力によって大衆を虜にする快感、あるいは勝ち取るに値する勝利を味合う快楽以上のものを俺は知らない。敗北こそ忸怩たる思いだ。弱者や無能者どものは“品位”、“一貫性”、“愛他”、“自己犠牲”、“放棄”等の敗北の言葉をもって、自らを慰めているのだ。そうした受動的態度の中に、致命的とも言える欠陥があるように思えてならない。
「我が同志たちよ!」
議場に我が声が響き渡る……。賞賛の眼差しでひたと自分を見つめる聴衆たち……。愛車パッカードが通り過ぎる際、羨望の眼差しを向ける人々……。モエマ……。アリスチィーデスはゴシゴシと脇の下を擦った。
浴槽に波打つ水と呼吸に合わせて上下する腹を見やった。とどのつまり……。俺は権力を手中に収め続けていたいのだ。自らが何をすべきか理解している。権利だ! 自らの欲求を満たし、幸福をもたらす権利だ!
緑色のタイルが張り巡らされた浴室はクロモリとクリスタルでキラキラと輝き、浴槽から上る湯気が立ち込めている。鏡は曇っている。アリスチィーデスの目もまた、眠気のため靄が掛かり始めた。
アリスチィーデス・バヘイロの公人としての人生はニュース、論説、社会評論、インタビュー記事などを掲載する、市中で流通している新聞を通して、人々の耳目を集めるに至った。一九一四年から四二年に渡って刊行された“フェデラサォン”紙や、“コヘイオ・ド・ポーヴォ”紙の記事に目を通した者は、その御仁の手による、あるいは御仁を取り上げた記事を目にすることになろう。そうした紙面に掲載された記事は、一般大衆の心を突き動かすセンセーショナリズム的色彩が薄れ、口承的、逸話的慣習に裏打ちされたものにすり替えられていることが分かる。なぜならば人々の口から口へと伝えられた聖職禄受給者の花婿に関する口承録こそ、大半が眉唾もので、羨望と純然たる悪意が込められていたからである。そうした掲載物も皆が一旦、精神的紐づけをされたとしたら、異口同音に英雄たる御仁の横顔を絵画的に描き、たとえそれが噓偽りであっても、その魂に極彩の色づけをすることになるのだった。
アリスチィーデス・バヘイロの名が最初に大々的に市中の新聞に報じられたのは、一九一四年の第二下半期のことであった。ポルト・アレグレの学生たちがカエサルの軍団により侵攻を受けたベルギーを擁護して、その侵略者に対して、反旗を翻す決起集会が盛んに開催されていた時期であった。集会が開催される中、一人の夢見人のような風貌で、ボヘミアン的ともいえる蝶ネクタイを付した、長髪の青年が広場のベンチの上に立ち、ドイツ軍とアッティラ[フン族の王。中部ヨーロッパに大帝国をつくり、西ローマ帝国を脅かした]軍団を比較しつつ、即興で熱っぽい演説をやってのけたのだった。そして次のように演説を締め括った。
“現代のフン族の圧政下、小さき英雄たるベルギーは全てを失った。全てを全てをだ。自尊心すらも!”
そこに集う群衆はその演説に魅了され、疎らながらも周りから拍手が起こった。集会を主催する学生たちは肩にその青年を担ぎ上げ、プライア通りが尽きるところまで行進した。こうして、その名もなき演説者の噂が街中に広まって行った。皆はその御仁の名を知りたがった。新聞がその欲求に応えたのだった。
“その青年弁士こそ、サンタ・マルタ出身で、齢二四にして、法学部を卒えたばかりのアリスチィーデス・バヘイロなる者である”
数ヶ月も置かずして、“連邦”の紙面の片隅に、編集部が控えめな調子でその青年の肩書きを付記し、報じた。
“ドトール・アリスチィーデス・バヘイロ。裁判所付きの弁護士。セーハ地区の共和党ボスにして、尊崇に値する同志たる、コロネル・ジョアキン・バヘイロ氏のご子息”
州知事のやり直し選挙を巡る数多くのキャンペーンが張られる中、新聞はアリスチィーデス・バヘイロ署名の様々なコラムや記事をこぞって掲載した。そうした掲載物の中で、アリスチィーデスは、“ここリオ・グランデ州はかの傑出した人物たるドトール・メデイロスのごとく、経験豊富で、絶対的に信頼の置ける人物”の輩出こそ、緊要の課題だ”、と声高に叫んでいた。
一九一五年と二三年の州知事の二度に及ぶ再選挙時に掲載された数十の記事や、演説文書、それに半ダース余りの論戦記事には、アリスチィーデス・バヘイロこそ、共和党の候補者として州議会議員に推挙する資格を有していると論じていた。もちろんその背後には、“政治ボスたる、ジョアキン・バヘイロの封建的とも言える権力”が暗躍していたことは否定することができないが。こうして三〇と僅かばかりの年齢にして、普通の人間なら四〇代、それもその後半にならねば達し得ない地位を手にすることになったのである。
一九一六年、聖職禄受給者たるエウゼビィオ・モンターニャの娘との婚姻を機に、アリスチィーデスは絶大なる社会的影響力と巨万の富を手にすることとなった。弁護士事務所は大いに繁盛した。アズレージョ[彩飾タイル]に彩られた大邸宅の中にあって、若き政治家は自身の足が地に着く思いだった。ついに自らの野望を成し得る魔法のトランポリンを設えることができた、と考えたのである。
一九一七年、最初の息子が生まれた。その三年後、アリスチィーデスが議会の刷新のための選挙で気を揉んでいるまさにその時に、娘のアウローラがこの世に生を受けた。父親としての歓喜が政治家として勝利を勝ち得た誇りとない混ぜとなって、長きに渡って続いた。聖職禄受給者エウゼビィオは婿の選挙結果を受けて、「我が家には議員殿がおる」と、素っ気ない言葉をこぼしたに過ぎなかった。アリスチィーデスはそうした言葉尻りにアイロニーが込められているのか、虚栄心に満ちた満足感が込められているのか、あるいはただ単に事実を事実として述べているだけなのか、知る由もなかった。
やがて波乱に満ちた時が到来した。共和党が反発に転じている時期おいて、アリスチィーデスは演説をしては、論戦を繰り広げ、政治コラム執筆に明け暮れるといった、いつ果てるでもなき多忙な生活を送った。非常に稀なことであったが、彼の名や肖像が紙面に掲載されることもあった。そう言った訳で、アリスチィーデスの演説家、あるいは論客としての名声は確たるものとなったのだった。
ああ! 議会でのあの忘れ難き演説の素晴らしさと言ったら! 出だしの文言に未だうっとりとしてしまう。
“あなた様方をお赦しになるでしょう……。しかしながら、汝らが信奉する党は生きとし生ける矛盾と言えましょう……。親愛なる同胞よ、あなた様方は誤った道を選択されていらっしゃるのです……”
“親愛なる同胞”という表現に込められたアイロニー。熾烈なる論戦に対する歓喜。議長は静粛を求める。傍聴者たちの笑い声。敵対者たちの興奮した面持ち……。何時であれ、アリスチィーデスが感じていたものは傍観者たちの狂おしいばかりの興奮と、口々にする媚びへつらいの言葉であった。
“バヘイロは敵対者に一矢報いたぞ……。奴のあの闘志、あの辛辣な横槍はどうだ……。全くもって有能な奴だ!”
新聞はアリスチィーデスを称して、“与党議員の寵児”、あるいは“共和党一族の末弟”と連呼した。そうした政界とは別に、アリスチィーデスは社会的成功を手中に収めていた。時折、聖職禄受給者の屋敷では、洗礼式や誕生日会、昼食会等を開催するために門戸が開かれた。それによって、アリスチィーデスは交友関係を広げることとなった。ドトールや代議士、判事、政治家、資本家、それに文人たちが集う大広間をあちらへこちらへと闊歩していると、言葉にならない歓喜を感じるのだった。そこに僅かばかりの羨望の念が入り混じっていることは否定できないが。三四歳にして代議士であり……、傑出した弁士で……、さらには金持ちで、気品ある娘を娶った……。二人の子宝に恵まれ……、巨万の富を手にいれた、この自分はどうだ。
「本を執筆する必要がある」。ある日のこと、アリスチィーデスはそう思い立った。本というものは“招待状”、“身分証明書”、あるいは“記念碑”のようなものと成り得る。その内容は人身保護法、あるいは行政法に関するモノグラフであっても良い……。いいや、それでは駄目だ。より自伝的色彩を帯びたものであるべきだろう。文学的夢想を喰み、学生たちが熟読し得るような、あるいは“フランス・アカデミー”において人々が諳んじるような、賞賛に値する演説文句が散りばめられたものであるべきだろう。非凡とも言える追想が綴られたもの……。この私をインタビューする記者たちは、古典的文言が即興的に挟まれた答弁に驚嘆し、時には文学的核心が垣間見られる、我が執筆書のページに言及することさえあるだろう。
一九二二年、ドトール・ボルジェス・デ・メデイロスの再選を巡って、戦いの火蓋が切られた頃、アリスチィーデスはジュリオ・デ・カスチィーリョスの自伝的随想の執筆に没頭していた。各紙はその旨を二段抜きの常套句に満ちた文言を持って報じた。
議会は波乱に満ちていた。野党は反論を声高に叫んだ。「再選は恥ずべき行為だ」、と。対して、「負け犬の遠吠えだ」と、アリスチィーデスが言うに、「我こそは議長に選出されるのに相応しい」と怒号を撒き散らしては、与党、野党の押し合いへし合いが続き、けんけんがくがくの様相を呈していた。
二二年という年について、アリスチィーデスが常々思い起こすことは、バヘイロ家に黒々とした暗雲が垂れ込めたということだ。その年の八月、娘のアウローラが病床に伏し、死の淵を彷徨うこととなった。さらに一族の地位を脅かす事態に晒された。アリスチィーデス自身が“カサドーレス・クラブ”に雇われ、ポルト・アレグレの地にやって来た歌姫との情事にのめり込んだことこそ、その厄災の最たるものであった。併せて、財政的危機にも直面した。アリスチィーデスは純血種の競走馬に多大な額の金を投資したのである。対して、義父はその出費を公然と非難し、全くの無駄金だと断じた。馬を維持管理するには莫大な金が掛かる。何と戦々恐々とした日々だったことか! 議会においては新聞が報じているように、反駁者たちは“暴力行為”に出ることも厭わなかった。娘のアウローラは高熱にうなされ、ベッドでもがき苦しんでいる。夜を徹して、目の下にくまを作りながらも、妻のヴェロニカは娘の病床を片時として離れることはなかった。義父はと言えば、心に抱く不安と悲しみを覆い隠すべく仏頂面を決め込んでいた。その間も、街で最上級のホテルの一室をグラナディーナこと“チィチィーデ”(彼女は小麦色の肌の娘で、半ば嗄れ声で、バニラの香りのする細巻きの煙草を吸っていた)のために借り入れていたため、出費はうなぎ上りに膨らんで行った。何とも波乱に満ちていた時期だったことだろう! アリスチィーデスはそうした不快感を晴らすべく、政敵に対して暴力的とも言える舌戦をもって対峙した。しかし自宅へ戻るや、娘の床の側に跪き、幼子のように泣きじゃくるのだった。
しかしながら、やがて凪の日々が訪れた。アウローラは危機を脱し、快方へと向かって行った。グラナディーナはリオへと帰って行った。アリスチィーデスの飼い馬の内の一頭が大レースで勝利を勝ち取った。こうして全てが全て元の鞘に収まったように思われた。神は偉大なり。この世の中も捨てたものじゃない。ドトール・バヘイロは再び人生の蜜月を謳歌することとなったのである。
しかしながら、政治的情勢は悪化の一途を辿って行った。“党首”を選出する選挙が再び行われることとなった。「我々は搾取されている」と野党側は怒号を上げ、「原野で決着をつけようではないか」と言うこととなった。革命の勃発である。
一九二三年の展望は実に暗澹たるものだった。アリスチィーデスは議会において、虚勢を張るには良い機会が到来したと考えた。そして、「我が党の主張する主義と誉れを議場や弁説のみならず、手に手に武器を携え、原野においても死守しようではないか!」と、宣言したのだった。
妻の絶対的とも言える賞賛を胸に、アリスチィーデスは父が“暫定的軍団”を指揮しているサンタ・マルタに赴いた。老キムは息子を抱擁すると、次のような言葉をもって駅に出迎えに参上した。
“大尉殿、開放同盟の腰抜けどもをあの世に葬り去る時が到来しましたぞ”
こうして親子は原野を逃げ惑う敵兵を追って駆け廻った。そうした従軍は過酷でもあり、同時に魅力的なものでもあった。都会育ちで、規範を重んじる人間たるアリスチィーデスにとって、兵卒の生活に言い知れぬ感興を覚えた。金柵で囲われた土地にずかずかと入り込み、真冬の原野を縦断し、他人の所有物たる家畜を殺し、天幕を張り、小川で沐浴し、無法者たちを指揮統制する……。それら全てが当初、彼にとって実に刺激的なものだったのである。
軍団の首領たる老キムは大牧場を不法占拠し、金と家畜を差し出すよう要求し、非情なる手段を持って私腹を肥やして行った。部下に対しては専横的とも言える態度で接し、どのような些事であろうと、裏切り者に対しては容赦しなかった。アリスチィーデスは当初、そうした父の態度を半ば面白いと思いつつ、寛容な態度でただただ傍観していた。しかしながらやがて、そうした自らの無関心の態度こそが、父の不正蓄財や暴力の片棒を担いでいるのではないかと思える時がやって来たのだった。そうした不快とも言える軋轢から逃れんとするため策を弄して、国境付近で作戦を展開している与党の部隊の一つに派兵されることに成功した。
アリスチィーデスはイビラプイタンの戦いで幸運にも太腿を負傷し、聖職禄受給者の居心地の良い屋敷へ、愛する家族の許へと連れ戻された。しかるべき行為を全力で果たした末、負傷を負った男に対して、正当とも言える敬意と崇拝をもって迎えられたことは言うまでもない。内戦も終盤に差し掛かり、ペドラス—アルタス協定が締結された頃には、太腿の傷は快方へと向かっていた。彼は兄弟たちの間で結ばれた和睦を知るにつけ、感傷的な気分に陥り、様々なコラム記事を執筆しては新聞に投稿した。それを受けて各紙は感動的とも言える大見出しを付して、それらを掲載した。幾星霜を経て、正義を呼び戻そうと願う際、アリスチィーデスは常々、「党に我が血肉を捧げ、奉仕する」という文句を口にしたものだった。
一九二四年、ポルト・アレグレでは〈二三年革命アルバム〉なるものが出版された。そのアルバムの三六ページ目には、栗毛の馬に跨ったアリスチィーデス・バヘイロ中尉の肖像がデカデカと掲載されていた。白色のボンバッシャ[牧童が用いる足首を除いて全体的に太く、ゆったりしたズボン。ニッカボッカ]を履き、肩にシルクのマントを羽織り、顎ヒモ付きのひさしの広い帽子を被り、腰には長剣を帯び、足許はロシア製の上質な革ブーツといった出で立ちであった。その肖像からはカウディーリョ[地方の権力者]の雰囲気がプンプンと漂っていた(因みにそのアルバムのずる賢い編纂者は、「一ページ全面を使用するための代金だ」と言って、彼から一コント・デ・レイスせしめたのだった)それから数年後、アリスチィーデスはその肖像を見るにつけ、当時の懐かしさと羞恥の入り混じった気分に陥り、口許に苦笑いを浮かべるのだった。三〇代への郷愁、芝居がかった態度に対する歯痒さと言ったものである。
ジェトゥーリオ・ヴァルガスの台頭と共に、ここリオ・グランデに新時代が到来した。アリスチィーデスはその旧き友にして、議会での盟友たるヴァルガスに媚びへつらい、あわよくば彼の秘書官の一人に抜擢されれればという、ジリジリとした熱情を胸に抱いていた。しかしながら、そうした思惑も失望に終わり、期待したポストも与えられることもなく、忘恩の極みとでも言おうか、完全に忘れ去られる存在となった。そうした政治的オストラシィズムに煮え湯を飲まされ、取るに足らぬ“職業的”政治家に回帰する羽目になった。再び自伝執筆に着手しようかと考えた。覚書きを走り書きし、章立てを略述するに至ったが……。片や、弁護士事務所の経営は順風満帆だった。義父の聖職禄受給者は危機的とも言える虚脱感に陥り、打ち拉がれたような毎日を送っていた。子供たちはすくすくと成長して行った。屋敷の中においても、それを取り巻く世界においても、平穏無事な生活が続いた。しかしながら当のアリスチィーデスは自らの名が忘却の彼方に押しやられつつあることに耐え難い気持ちを感じていた。そこで妻のヴェロニカを伴い、ブエノス・アイレスに旅立って行った――義父の猛烈な反対に遭った。義父自身、倹約を旨としていたから当然ではあるが……。純血種の馬をさらにもう一頭購入した。そういった訳で、かつて政治家として威厳溢れるアリスチィーデスであったが、今ではその肖像はポルト・アレグレのスポーツ紙を賑わすことになったのである。こうして、ドトール・アリスチィーデス・バヘイロの名は競馬愛好家らの間で耳目を集めることとなった。しばらくの間、聖職禄受給者の婿は競馬や賭け事、それに議論等に計り知れぬほどの情熱を傾けていた。それとは別にポーカーにも入れ込んでいて、クラブで一月も終わりに差し掛かる頃、僅かな掛け金にもかかわらず二〇〇コントもの大金を手にしたのだった。その時の驚きと歓喜と言ったら……。もちろん、多くの中傷者の謗りを受けたが。
そうこうする内に自由同盟のキャンペーンが張られ、アリスチィーデスは真の意味で政治家として返り咲く機会が与えられることとなった。リオ・グランデの各政党は“ジェトゥーリオ・ヴァルガスとジョアン・ペッソーア”の二者を共和政大統領選の候補に推すべく一致団結した。その選挙戦の火蓋を切ったのは他でもない、アリスチィーデス・バヘイロだった。彼は“コヘイオ・ド・ポーヴォ”紙において、実に扇情的な発言を繰り広げたのである。それを機に政治的キャラバン隊が編成され、各地で演説を重ねては、それに対する大舌戦を展開した。当時の新聞はこぞって次のごとく大見出しを掲げて、大々的に報じた。
“大荒野のミラボー[フランスの政治家。革命時に立憲君主制を唱導]のごとく注目に値する雄弁術を駆使する者”
“アリスチィーデス・バヘイロ氏による更なる演説炸裂”
アリスチィーデスは孤軍奮闘した。再びかつての偉大なる時代へと回帰したのである。立ちはだかる敵どもを蹴散らし、群衆と言う名の“怪物”に語り掛けることにより、大いなる耳目を集めることに成功したのだった。“キャラバン”を指揮し、国中を駆け廻った。マナウスの劇場で、レシーフェの広場で演壇に立った。バイーアの旧い教会の階段の上から、アリスチィーデスは“全ての聖人たちが集うこの地上に生きとし生ける我が兄弟たち”に向かって、言葉を投げ掛けた。リオの劇場やサン・パウロのセー広場でも演説した。何と栄光溢れる遠征だったことか!
その後、人民らが選挙投票の不正に対する失望感に苛まれる中、ジョアン・ペッソーアが暗殺され、数ヶ月に渡り、各地で陰謀が画策され、数多の噂がまことしやかに囁かれ、黒々とした期待に満ちた空気が国中に漂って行った。アリスチィーデスは幾度となく、父と諮るべく、サンタ・マルタへと足を運んだ。マトリース広場に面した父の旧い家では、三〇年の冬の間、秘密裏に会合が持たれた。その集まりには地元に駐屯している歩兵隊の軍曹らが黒マントを羽織り、いかにも訳ありそうな雰囲気を漂わせ、顔を見せた。
そうした多忙に見舞われながらもアリスチィーデスは内心、心躍る気分だった。これこそ新たなゲームの始まりだとも。行動は慎重且つ慎み深く、秘密裏に行わなければならない。結果に関して言えることは……、全てを手にするか、あるいは全てを失うかだ。ヴェロニカは夫が組みしている状況を知りながらも、スパルタの淑女のごとき剛毅な態度をもって振舞うことを忘れなかった。
革命決行の日が決まった。九月の終わりに、アリスチィーデスは再びサンタ・マルタに向かうべく乗船した。十月三日の朝方、故郷の地から一レグア[六六〇〇メートル]離れた場所で、小銃と槍で武装した五〇〇に上る騎兵を目にした。こうして“例のこと”がポルト・アレグレで持ち上がることを知るに至ったのである。その同じ日、日暮れと共に軍曹たちは駐屯地で暴動を起こし、将校らを捕縛した。夜になると兵営から眩いばかりの花火が一発、打ち上げられた。それが合図だった。アリスチィーデスは騎兵を率いて出発し、次の日の朝には、意気揚々と静まり返った街へと踏み入って行った。国内の各地の港でも反乱が起こり、どれもが勝利を収めた。
ヴァルガスとその参謀らが最前線で指揮を執るべく乗船し、やがてその一行がサンタ・マルタ近郊を通過した際、アリスチィーデスは随行員に加えられた。一〇月二四日、勝利者と共にリオに侵攻して行った。とうとう“大いなる栄誉”に浴する時が来た、と感じた。今度こそ、これまでの人生で夢見て来た積年の夢が叶うのだ。この俺は重要なポストに就き、そう恐らく、大臣職に任命されるだろう。
一〇月も終わらない内に、アリスチィーデスは義父が死の床にある旨を伝える電報を受け取った。イライラした気分でポルト・アレグレに向けて、取るものも取らず飛行機に飛び乗ったが、自宅に到着してみると丁度、埋葬の儀式が執り行われるところだった。ヴェロニカは気が動転しているようだったが、普段通りの態度を保っていた。葬儀はモンターニャ家の家長に相応しい、地味ではあるが、そこはかとなく荘厳さを漂わせるものであった。その後、吐き気を催す日々が続いた。弔辞の類いだ。何百にも上るお悔やみを伝える葉書き、電報等がが引っ切りなしに舞い込んで来た。七日目の追悼ミサが執り行われた。遺産目録が作成される。義父の妾の後処理が行われる。こうして一ヶ月が経過した。三日、五日、六日と日が過ぎて行った……。アリスチィーデスはと言えば、郷愁に浸りつつ、暫定政府を巡るニュースを報じた新聞記事に目を通していた。組閣が行われて、大臣クラスが選出されている。この度の革命で大して働きのなかった者たちがこぞって良いポストに就いている。アリスチィーデスは死してもなお、自分の足を引っ張り続ける義父の思い出を謗るようになった。再び日陰に甘んじる羽目になってしまった。それも運命だから仕方がない……。
三一年の中頃、最大の株主たるエウゼビィオ・モンターニャの空席を受けて、アリスチィーデス・バヘイロは地方保険機構の取締役に任ぜられた。ブラジルは新たな生を受けて動き始めた。それはアリスチィーデスも同様だった。彼が取締役就任後、様々なキャンペーンが張られ、その際にはマイクを取って演説した。懐かしき、敬愛に値する前総裁、聖職禄受給者の肖像画の除幕式が執り行われた。ある地方紙がアリスチィーデスの最新の写真を掲載した。その写真に映る人物は十七年前、かの広場で英雄たる小国ベルギーに対して熱烈な賛辞を送った、豊かな長髪で、ロマンチックな雰囲気を漂わせていたあの青年とは似ても似つかなかった。かつてと比して、肥満体型で、血色の良い顔に、二重顎で、頰はテラテラと光っている。その顔つきは穏やかな雰囲気を湛えている。加えて、頰髭をたくわえ、頭髪は少しばかり薄いが、カメラのレンズを睨み付けるその目には、それほど強烈ではないにしろ、支配者特有の鋭さが見て取れた。
それに続く数ヶ月間、アリスチィーデスは様々な投機事業に没頭した。彼のことを悪く言う者たち(賭博場や店先、カフェに集う人々)は、「奴は家畜の密売に首を突っ込んでいる」と、謗った。家畜の密売はもちろん、それ以外にも、アリスチィーデスは地方の共同団体が所有する土地を巡って、巧みな脅しをかけて強奪したりと、様々な違法取引きに手を染めていた。併せて、教会におべっかを使うことも忘れてはいなかった。黙想に努めつつ、ドミニク会修道士が主宰するトマス派哲学の講義にも足繁く通った。時にはミサに参列しては、カトリック派閥の様々な団体執行部に接近した。特別の愛情を持って、ゼー・アントニオの愛称で親しまれている、フローレス・ダ・クーニャとの親交も深めていた。彼に巻き煙草や薬草のセットなど、数多の贈り物を贈与した。ある時など、誕生日プレゼントと称して、競走馬を一頭差し出したぐらいだった。
各紙の紙面はアリスチィーデスの名で賑わい続けた。高速道路建設や、税金についてのインタビュー、保険会社や、銀行を巡る様々な報告文書等々、また時には、アリスチィーデス自身が牧畜や政治経済、懐古趣味に陥ったと思われるような逸話的色彩を帯びた人物に関するエピソード、あるいは過去において政治に携わった人物についての自叙伝といった類いの記事を執筆し、投稿した。その時分では、完全にカスティーリョの自伝を書くことを放棄していた。彼の愛すべき人生の営みは人目を避けた、高価とも言える、暫定的な避難所に限定されていた。だからと言って、言い知れぬ高揚感を感じていない訳ではなかったのである。
自由共和党結成を提起する議会が招集された頃、アリスチィーデス・バヘイロはすでに政界から足を洗っていたかのように思われていた。しかし、その議場に招かれた聖職禄受給者の婿は輝かしいばかりの演説をし、新党結成の綱領に対する草案を提示した。議会の中にあって、最も著名たる御仁らについて言及しては、カトリック有権者たちに媚を売り、幾度となく教会に対して敬意を表明した……。そうした姿勢は決して無駄なものではなかった。なぜならそうした有権者たちこそが、新党議員の立候補者たるこの自分への支持票を取りつける最大勢力だったからである。
そうした間にも故郷サンタ・マルタでは、コロネル・キムの威光に陰りが見え始めていた。老父は度重なる取引きの失敗により、いくつかの牧場と財産の一部を失った。“新参者たち”が政治を牛耳り、キム・バヘイロは徐々に忘却の彼方へと追いやられて行ったのだった。執拗に迫った末、アリスチィーデスは父親を義父の死によって、隠居所の空きのできた屋敷に連れて来ることに成功した。
“ディアーリオ・デ・ノティーシア”の社屋の前の広場で、まことしやかに囁かれる噂話の中で、特に人々の関心を集めていたのは、フローレス・ダ・クーニャとアリスチィーデスの反目についてだった。その噂によると、一九三六年のある日のこと、議員団に苛立ちを募らせるクーニャ将軍は怒鳴り声と共に、アリスチィーデスを迎えた、と言うことだった。
「この腰抜けめ!」と、開口一番、クーニャは怒鳴りつけた。
「わしはお前たちに例のあの問題を解決するように命じなかったか?……」
代議士であるアリスチィーデスに憤怒の言葉をぶちまけた。
「しかし将軍……」
「この汚らしい面の馬鹿者め、とっとと失せろ!」
アリスチィーデスは頭を垂れ、官邸の階段をそそくさと降りて行った。丁度、その場を通り掛かった将校が彼の耳許で囁いた。
「あのゼー・アントニオはいけすかん奴だよ」
別の日、議員団は委員会の席上、将軍の許に参上した。歯で葉巻を噛み、首をしゃんと伸ばしているフローレス・ダ・クーニャは半ば憤怒を込めつつも、親愛の言葉を投げ掛けた。
「アリスチィーデス君、具合はどうかな?」
聖職禄受給者の婿はおずおずと口ごもりつつ、「元気です」と答えた。その様はまさに父親に叱られた子供の様であった。和解に持ち込むために真っ向から対峙すべきか、そう思うものの心の奥底では、何人かの仲介を切に願っていた。
サン・パウロで革命が勃発すると、リオ・グランデの唯一とも言える前線で分裂が生じた。それにより昨日までの親しき友人たちが突如として、忌むべき敵へと変貌したのだった。三二日間にも及ぶ悪夢の様な日々を経て、アリスチィーデスは幾度となく演説のマイクを握り、新憲法の必要性を巡るインタビューにも積極的に答えた。一九三四年、新憲法が発布されると、それこそ少しばかりではあるが自らの功績であると考えた。「国民は憲法無くしては生きることができない」。それこそ、アリスチィーデスが後世に贈った文言であった。
アリスチィーデスが政治家として最も困難と言える局面に直面した時期こそ、政界の地平線に禍々しい一個の暗雲が垂れ込めた、一九三七年のことであった。彼自身、リオ・グランデはやがて動乱に包まれることになるだろうと予感していた。かのフローレス・ダ・クーニャという巨星も、やがてその光を失うだろうと考えていた。そのように考えるにつけ、苦悩に満ちた日々が続いた。議会では、各党派は明確な形を取って分裂していた。官邸の“例の男”は憤怒に猛り狂っていた。アリスチィーデスは自身の考えを披歴することが、思慮分別である行動とは思っていなかった。同時にいかなる躊躇を見せることこそ、ゼー・アントニオの不興を買うことになるとも考え、戦々恐々としていた。確たるものを求めていた訳ではないが、父に意見を求めた。老キムは、「頂点に君臨しているあの小男は今回の危機を脱することはできんだろう」と考えていた。さらなる不信感に苛まれた。フローレス・ダ・クーニャに対して、熱愛とも言える賛美を胸中に育んでいたからである。あの人物が自分を魅了して止まないことこそ、地方ボス的厳つい風格に加えて、夢見人の様な雰囲気を備えている点にあった。彼の“広舌”振りも、マスケット銃兵のごとき仕草も好ましく思われた。自らが恋い仰ぐ長であって、友でもあるクーニャと距離を置くという考えを遠ざけたい。しかし一方では、その盟友たるフローレス・ダ・クーニャがこの度の声なき紛争で無傷で終わることなど不可能だと考えていた。そのような折に、幸運にも腹部に痛みを感じたのだった。ある考えが脳裏をよぎった。こうしてアリスチィーデス自身、十二指腸潰瘍を患っていて、緊急手術を要するとの診断書を得ることに成功したのだった。そのニュースをばら撒き、議会に特別許可を要請し――何とも悪意に満ちた、決して相容れぬ批評を与える機会を作ってしまったが――、ブエノス・アイレス行きの飛行機に飛び乗った。
ある日のこと、プラザ・ホテルのロビーに設えられたフカフカの肘掛け椅子に腰を下ろし、フローレス・ダ・クーニャの失脚と国外追放、さらにはウルグアイに亡命した旨を報じるブエノス・アイレスの新聞を読んでいた。アリスチィーデスは即座に意を決した。“ラ・クリティカ”紙のインタビュアーを前に、次の様な答弁をしたのだった。
“これまで長きに渡る、リオ・グランデ長官との関係は不安定且つ不確かなものだった”
さらに彼が意見するところによれば、「ブラジルは独自の軍を持ち、小さな独立国家のごとき体裁の、国家的統一の弊害ともなる州統治に終焉を告げるべきである」、と。加えて、「全ブラジル国民が共和政大統領に無条件の忠誠を誓うべきだ」、と。
その年の終わりまで、アリスチィーデスのブエノス・アイレス滞在は延長された。一九三七年一一月一二日の“ラ・ネーション”紙のインタビューでは、「傑出した人間たちが果たすべき憲法がないとしたら、白紙の紙切れほどの価値もない。バランス感覚を有し、賢明なる政治家たるものや、生きた憲法である」と、答えている。そして不文憲法のイギリスを引き合いに出して、イタリアのムッソリーニやドイツのヒトラーに言及した。
アリスティーデスはクリスマスイブにポルト・アレグレの地に降り立った。“ディアーリオ・デ・ノティーシア”紙の記者が彼にインタビュー試みた。アリスチィーデスは始終、ブエノス・アイレスで述べた通りだと繰り返し、ファシィズムに対して軽く敬意を示しつつ、「いつの日か、あらゆる火急の際の逃げ口と成り得る扉が徐々に開きつつある」、「とどのつまり、それを掲げる若者たちは我々の賞賛を受けるに値すると私は考えている。彼らが極めて短期間の内にやり遂げようとしていることは、いずれにせよ素晴らしいことである。我々は真剣にファシズムについて考えるべきだ」と、述べた。その記者は悪意を込めてアリスチィーデスに、「あなたは緑色のシャツを着るつもりですか?」と、問うた。それに対して、彼は逃げ腰の態度で、「私は忠実な兵士に過ぎない。上司の命に忠実に従うだけだ」と、答えた。
浴室には湯気がもうもうと立ち込め続けている。湯から頭を出して、アリスチィーデス・バヘイロは穏やかに眠りに落ちて行った。
セッチは家族と共に、ナベガンチスとサン・ジョアンの両地区に挟まれた場所に、かろうじて建つ掘っ建て小屋に住んでいた。その家屋はくる病のように傾き、四隅は虫喰いだらけの朽ちかけた戸板が立てられ、湿気を帯びた暗く、重苦しい空気がせせこましい空間に漂っていた。そうした特徴を持つあばら家こそ、そこに住む四人そのものに出で立ちを顕著に表わしているように思われた。床は剥き出しの土間で、壁には空き缶が継ぎ接ぎに張り付けられてあり、家に設えられた数えるほどの粗末な家具類は朽ちかけているよう目に映った。なぜなら最近、この地区を襲った洪水により、大半のものが水没したからだった。陰鬱な雰囲気を醸し出す、煤で黒ずんだ壁に囲まれた空間には、消えることのない悪臭――就寝中にかく汗や、濡れ、汚れ切った衣服が発する臭い、さらにはカビの生えた食べ物や、獣脂で作られたロウソクの臭いがごったに混ざり合い、何とも耐え難い悪臭となって――が満ちていた。夜間、特に冬の時期になると、隣接する沼地の蛙たちの合唱に合わせて、住人たちは「コンコン」と乾いた咳をした。彼らは慢性的な飢え、それもこれから先、決して癒されることのない飢えのため、暗澹たる光――時には熱を帯びた、不信と獣のごとく恐怖に満ちた光――をその眼に宿していた。
セッチの父親は現在、失業中だった。庭の手入れをしたり、棚を修繕したり、あるいは――肉体的に屈強とは言えないが――置き場や、川縁に立ち並ぶ輸出入用の倉庫に荷を運んだりと、取るに足らない“ちっぽけ”な仕事をしては、日々をのらりくらりと過ごしていた。母親は家事をこなしつつ、外では洗濯婦として働いていた。長男は肺病持ちで、そのため学業を断念せざるを得なかった。彼は一日の大半を床に伏して過ごし、郊外の保健所に注射を打ちに行く時のみ、母親に連れられて外出した。
アンジェリーリオは一月の家計の内、五五ミル・レイス分を担っていた。よって、その日の夜に失った三ミル・レイス硬貨がいかに家族にとって大きな損失であったかは想像に難くない。
今はほぼ一一時だった。セッチはベッドカバーの下、素っ裸の状態で、寒さで歯をガチガチ鳴らし震えていた。小さな部屋には、ランプが燻ったオレンジ色の病的とも言える薄暗い光を放っている。隣のベッドでは、兄が苦しげに呼吸をしつつ寝入っていた。眠っている時でさえ、兄の顔には苦悶の表情が貼り付いている。兄は未だ年端も行かない子供ではあるが、髪はボサボサに伸び放題で、栄養失調でガリガリに痩せ細った体躯は、“辛苦を嘗め尽くした”いっぱしの大人のように見受けられた。だらりと垂れ下がった瞼は紫色掛かり、そこに浮き出た血管は地図に紫色に記された川に酷似しているように思われた。隣で寝入っている兄は口を半ば開き、その首筋の骨は目に見えてはっきりと浮き出ている。そうした姿を見ている内に、彼が人間とは別の生き物の肉体から作られた、おどろおどろしい妖怪と類人猿、それにロウ作りの天使像をまぜこぜにした怪物、そう、かのフランケンシュタインのミニチュア版のように思えてならなかった。薄汚れた継ぎ接ぎだらけの上掛けにくるまった兄は顎までそれを引き上げた。そうした光景は実にリアリズムに満ちており、極貧そのものを如実に表わしていて、そう出来の悪い演劇、あるいは劇画で描かれた、極めて質の悪い誇張のようにさえ思われたのだった。
「さあ、お茶を飲みなさい!」
アンジェリーリオは湯気の立つカップを不承不承見やった。今の自分にとって、砂糖抜きのレモンティーは毒物以外の何物でもない。自分が欲しているものは、パンと美味しいコーヒーなのだ。臀部と両手はジリジリと熱く、耳は火がついたかのようだ。父から受けた殴打は想像以上に強いものだった。父は僕を沼から引き摺り出すと、何度も拳骨を喰らわせた。耳を引っ張り、腕を掴んで引き摺り回しては常々、父が口にしている下卑た言葉を浴びせかけられ続けた。その後、家に戻ると、母は僕の服を全てひん剥いて、空のガソリン缶の上に立たせると、カシャッサ[サトウキビの蒸留酒、火酒]で体を拭い始めた。
「この恥知らずめ。もし兄さんのように肺炎に罹ったらどうするの!」
さらに念入りに体をゴシゴシと拭う。
「この悪戯っ子め! 三ミル・レイスを失くした上に、こんな手間をかけさせるなんて。この服しかないって言うのに、全部濡らしちゃって。馬鹿以外の何者でもないわ、あんたは!」
母が体を擦っている間、時折、平手打ちを喰らわしつつ、そうしたことをモゴモゴと口にした。父はと言えば、黙ったままその様を凝視しつつ、じっと腰を下ろし待っていた。寝室では、トゥリピーニャが「コンコン」と咳をしている。
カシャッサの匂いが鼻腔に入り込んで来た。こんな寒々とした冬の夜には、その香りは心地良く感じる。朝早く学校に出掛ける時、母が「体を温めるためよ」と言い、カシャッサを飲ませてくれた。なぜなら服が極めて薄く、外套と言うものを持ち合わせていなかったからだ。セッチはカシャッサが好きだった……。それをぐいっと飲み干し、舌を「チッチッ」と鳴らし、満足気にこの自分もいっぱしの男になったのだと感じては、こう言ったものだった。
「体を温めるためにね」
カシャッサは喉許を流れ落ちる火のようなものだ。
体を拭い終わると母親は合図した。袖捲りをしながら父親が立ち上がった。アンジェリーリオは叫び、泣き喚きながら椅子、テーブルの上をピョンピョンと飛び回り始めた。
「お父さん、殴らないで! 助けて!」
父は手に鞭を持ち、そんな息子を追い掛けた。
今、アンジェリーリオはカップから上がる湯気をじっと見つめていた……。飲んだ方が良いだろう。そうしないと、またぶん殴られるから。ベッドに腰を下ろし、じっと待った。母が口許にスプーンを近づけて来る。セッチはそろそろと口を開けると、しかめ面をしてそれを飲み込んだ。苦くて、熱い。目がギラギラと輝いた。炭で黒く汚れた小さな顔に悲しみの表情が浮かんでいた訳ではない。とどのつまり、自分は両親を騙しているのだという悪意を秘めた確信から来る一種の歓喜を感じ、ガキっぽい雰囲気を漂わせていたのだ……。ぐっとお茶を飲み込んだ。痩せ細った肩をブルっと震わせた。そうした自分の考えに鳥肌が立ったのである。セッチは自然な雰囲気を装いつつ、ずっと中断していた会話の続きをしようと試みた。
「でもお母さん、僕がさっき話した通りなんだよ……」
「さあ口を開けて……」
「女の人が飛び降りて……。そうしたら人々がワッと駆け寄って来て、僕にぶつかって、地面に倒されたんだよ。見てみると、お金がコロコロと転がって行って……。恥知らずのガキがそこに駆け寄るや、一枚の硬貨を掴み、逃げて行っちゃったんだ……。『泥棒、待ちやがれ!』って、僕は叫んだよ。でも、どうしようもなかったんだ……。ニッケル硬貨を拾い集めたんだけど……、その内の一枚が側溝に……、いや二枚かな……」
「アンジェリーリオ、嘘を言うのはおやめなさい。誰が身投げなんてするものですか。さあ飲んで」
そう言うと、カップを息子の口許へと持って行った。今、唯一、気掛かりなことはセッチが兄のように病気になってしまうのではないかと言うことだった。彼女は学校に呼び出された時のことを思い出した。
「あなたの息子さんは退学しなければなりません。肺病を患っていますから」
その後、眼鏡をかけた医者曰く、「息子さんに十分なミルクを与えてやってください。野菜も、肉類も同様です」、と。全くもって笑うに笑えないわ。夫のグラシィリアーノの稼ぎでは、そのようなものの一つだって買うことができないと言うのに。
「お兄さんのように病気に罹らないよう気をつけて、寝室を分けるようにしてください」
そう言われたからといって、どうすれば良いの? トゥリピーニャは最近の洪水以来、咳をし始めたわ。腰位に押し寄せて来る水、止むことのない雨、食料も上掛けも足りない。全てが水没し、濡れてしまった。
「でもお母さん、本当にその女の人は飛び降りたんだよ」
アンジェリーリオはほぼ空になったカップを押しやった。
「それに……」
母親はスプーンの先で息子の言葉を遮った。
「お馬鹿さん、さあお茶の残りを飲んでおしまい」
トゥリピーニャはベッドで体を捩ると咳をした。喉の奥から絞り出されるような嗄れた咳を一つする。きっと苦しいのだろう。母親はそう思った。ミルクに野菜……。どうしたら良いの? セッチのベッドから離れると、もう一人の息子のベッドへと身を屈めた。息はしているようだわ。自分はこの子に何もしてあげられない。保健所で注射を打った後、この子はほんの少しだが良くなる。でも彼に与えるミルクはほぼない……。溜め息をつく。アンジェリーリオの方を振り向く。
「さあ、もう寝なさい。あんたは肺炎になっちまえば良いのよ」
しかし、その様に言ったことを後悔した。神よ、赦し給え。どうか赦し給え。ランプを掴むため、テーブルの方へと歩み寄って行った。セッチはベッドに腰を下ろしたまま目を爛々と輝かせ、ほとんど演劇じみた口調で言った。
「でも、本当に女の人が飛び降りたんだよ」
そう繰り返した。別室から父親の怒声が返って来た。
「黙りやがれ!」
そして呟く様に、「そんなことをやってのける輩は愚か者だけだ」と、付け加えて言った。アンジェリーリオは肩をすくめた。
「僕が言ったことを信じていないんだね? じゃあ良いや」
上掛けの下に体を滑り込ませ、あたかも胎児が羊水に漂うかのごとく、腕がそこから出ないようにギュッと身を縮こまらせた。半ば皺くちゃで、血色が悪く、類人猿のごとき大きな頭に、尖った顔、脚はひょろりと細い。そうした自分の姿を見ていると、まさにこの自分は胎児だと思った。
母親は寝室を出て行った。アンジェリーリオは部屋と部屋とを仕切る板の隙間から光が漏れているのに気づいた。服が地面に落ちる音が聞こえる。セッチは好奇心に駆られ、注意を集中した。何か見えないだろうかと思い、頭を起こした。お母さんの裸の姿を見たい。今まで一度として、それを見たことがない。暗闇で彼の目は爛々と輝いている。「ふっ」と息を吹きかける音がして、ランプの火が消えた。父親は何やら呟いている。その後、家中は水を打ったかの様に静まり返った。戸外ではカエルたちが「ケロケロ」と鳴いている。
アンジェリーリオは思い出した……。あれがビルの上から落ちて来た時のことだ。僕はその女の人のために詩を作りたい……。詩を作るのが好きだ。他の子供たちと詩を作ると、僕がいつだって良いやつを作る。沢山の大人たちが詩を作ってもらうために金を払った。洪水をテーマに四行詩も作った。アゼーニャの犯罪についてもいくつかの詩を作った。今はあの自ら命を絶った女のために何か作ろうと思う。考えを巡らす……。あれこれと試してみる……。やがて頭の中がいっぱいになり、楽曲に合わせて詩句を諳んじ始める。
あのビルの頂から
女の子が身を投げた
あれよこれよと言う間に
マウリーシィオの間近に
それが落ちたのさ
でも僕はマウリーシィオという名じゃない。糞ったれ! でも、何とかなるさ……。狼の子の様に歯を剥き出して笑った。いつの日か、僕の詩がラジオで流れるに違いない。将来を約束された青年。その時には、この僕はハンサムになっているだろう。
咳の発作により、セッチは現実に引き戻された。ベッドがミシミシと音を立てる。自分には理解できないことをお母さんはいつも口にする。アンジェリーリオは上掛けから顔を出し、叫んだ。
「お母さん、でも本当に女の人が飛び降りたんだよ!」
対して父は「黙りやがれ、この糞ガキが!」と、怒鳴りつけた。アンジェリーリオはさらに身を縮こまらせた。差掛け屋根の隙間から、ぼんやりと夜の明かりが差し込んで来る。冬になるとそこから冷たい風が吹き込んで来る……。セッチはカエルのことを考え、ブルッと身震いをした。
再び詩句のことを考え始める。明日になったら、それをロマーリオに書き付けてくれるよう頼もう。詩句を口ずさみながら目を閉じた。
数多の人々が駆け寄り
薄幸な娘は
脚は見る影もなくひしゃげ
目を見開いたまま死んでいた
幾ばくかの間、ハーモニカの伴奏を真似つつ、その詩句を諳んじていた。シンコペーションの効いたメロディーに載ったそれは、啜り泣きのように耳に届いた。沼では、カエルたちがそれに合わせて鳴き声を上げていた。
シィメーノ・ルストーザが本を閉じたのは深夜過ぎのことだった。思考に浸りながらも、半ば注意散漫に、形を成さないぼんやりとした苦悩に苛まれつつ、フィンランドの憲法に目を通していた。上半身をピンと伸ばし、背の高い椅子の背もたれに身を寄り掛からせ、カメラマンのためにポーズを取るかのように不動の姿勢だった。
シャンデリアの灯りは消えていた。小さな電灯が薄暗い執務机の上に丸い光を投げ掛けている。今この瞬間、突如として厄介な存在に気づいた者のように、判事はじっと辺りを包む静寂に耳を澄ましていた。広場に面した窓は全て閉め切られている(裏切り者たる空気の流れ……。肺炎となる危険性……)判事の目は執務室のあちらへこちらへと巡らされた。そこには薄暗がりに浮かぶ見慣れたものがあり、それらは部屋に漂う静寂さえも、より心地の良いものにさせる何かがあった。
ドトール・ルストーザは何か予想だにしないことが起こるのではないかと期待で胸を膨らませる者のように、そうたとえば、予期せぬ訪問者が玄関の扉をノックするのではないかと考える者のように、上半身をピンと伸ばし、椅子に腰を下ろしていた。突然、扉が「コンコン」とノックする音が聞こえた。誰かがノックしている……。一体、誰だろう? もちろん、この自分はこれまで古の書のページに記されている、今や死に絶えた学説を、それらがあたかも非凡なる詩作品の中で扱われているがごとく固持して来た。もし扉を開けたとしても、そこに目にするのは夜の闇以外の何物でもなかろう。いいや、違う。通路は明々と電灯が灯されている。だからもし何か用があるとしたら、呼び鈴を押すだろう。〈鴉〉は美しい詩だ。かのマシャード[ブラジル写実主義時代の作家]が優れた翻訳をしてのけた。学生時代のことを思い出す。ヤマアラシのような髪型で、黒色のマントを羽織り、髑髏を右腕に抱えて(医学部に学んでいた)、下宿屋の自室の椅子の上によじ登り、何やらぶつぶつと呟いていた蒼白顔で、劇画じみた所作のモンティリーニョ曰く、「それで鴉はのたもうた、『決してそのようなことはない』、と」。彼は実利主義者で、ショーペンハウアーの著書を愛読し、ニーチェを崇拝していた。結局、奴さんはどうなったのだろう? 時々、我々は人を見失ってしまう……。多分、奴はもう他界にしているだろう。あるいは奥地で、診療所を営んでいるかもしれない。“奥地”という言葉は、ドトール・ルストーザの脳裏に次のごとく小さな街のイメージを想起させた。朽ちかけた天井のない家々の上に聳え立つ二本の教会の尖塔……。サンタ・マルタ。自分が検事だった時代のことだ……。三五歳の頃だ……。しかしその時代の思い出に栄光も、郷愁も、いかなる感情も持ってはいない。なぜならサンタ・マルタのことを考えただけで、陰鬱な記憶が蘇るだけであったからだ……。しかしながらシィメーノ・ルストーザはいかなる恐れを抱くことなく、それらを享受したのだった。猛り狂う闘牛を前に緋色のカパを振る勇猛果敢な闘牛士のごとく、それらを挑発さえしたのだった。塞ぎかけた傷口を弄くり回しさえしたのだ。詳細が蘇って来る。“嘆くべき事件”が立て続けに起こった年の、この自分に対する人々の言及は全くもって不快以外の何物でもなかった。職業人としての名声が完全に損なわれ、紛争に巻き込まれることはなかったにせよ、人としての尊厳を踏みにじられたのだから。しかし、それから二五年経った今、人生は私にそれに対する埋め合わせをしてくれたのだ。つまり“復讐者”という任務を私自身が引き受けると言う運命を課せられたのだから……。
全ての発端は(何と、あのならず者の顔をはっきり思い出せることか!)人相の悪い、痘痕だらけの鼻に、白っぽい虹彩の目を持つ、一人の浅黒い肌のならず者にあった。其奴はサンタ・マルタの往来で、一人の男を冷酷にも殺した。しかし其奴が行政長官コロネル・キム・バヘイロの用心棒だったため、弁護士たちは誰一人として、法廷でその男を告発する任を引き受ける者はいなかった。誰一人として、郡切っての“ドン”に敢えて逆らう者はいなかったのである……。それは全くもって当然のことだ。陪審員たちは有罪に票を投じる勇気などあるはずもない。
ドトール・ルストーザはある夏の日、そう法廷が休日となる少し前の日に想いを馳せた。北風が吹き、サンタ・マルタの赤土の大地の上には雲がたなびいていた……。
「ドトール・ルストーザ、ボスがあなたをお呼びです……」
喉許が締め付けられるような気がした。心臓がドクドクと激しく鼓動を刻む。平静を装い、毅然とした口調を心掛けつつ、威厳に満ちた表情を保つように努めた。
「私はコロネル・キムと何ら関わりがないが……」
その使者はニヤニヤと笑いながら、私を見た。
「あなたは顔を出された方が良いですよ……。あの方は冗談が通じる人間じゃありませんから」
その日は太陽がじりじりと照りつけていた。ワイシャツのカラーに汗が染み込み、気力が一気に抜けて行く……。汗はネバネバしていて、冷たかった。ルストーザはサンタ・マルタの通りを監督局に向かって、ノロノロと歩いて行った。人相の悪い用心棒たちや、悪名高き郡警察の書記官や警察官たちがぐるになって行った、殺人の様相が脳裏を通り過ぎて行く……。大理石の階段を上って行く……。最初の踊り場に総大司教のブロンズ製の胸像が鎮座している。続いて、野獣の執務室に足を踏み入れる。あれほど冷ややかな光を湛えた目を今まで見たことがない。まさに蛇の目だ。
その専制君主は座るように命じなかった。そして邪悪とも言える笑みを浮かべながら、単刀直入に尋ねた。
「ところで、あんたは本当にテレンシィオを告発するつもりなのか?」
喉はカラカラに乾き切り、脚には力が入らなかった。
「コロネル、それが私の職務ですから」
やっとのことでそう答えることができた。
当のキムは切り刻んだ煙草葉をパーリャ[トウモロコシの皮]に巻く作業に集中していたため目線すらこちらに上げることなく、声音も変えずに言い放った。
「もしあんたがテレンシィオを告発したら、わしはあんたを去勢するように命じるからな」
そしてさっと立ち上がるや、扉の方を指差した。
「このゴロツキめ、さっさとここから失せやがれ!(あるいは“ろくでなし”と言ったかもしれない)」
階段を下りる際、脚がブルブルと震えていた。執務室からあの怪物の叫び声がワンワンと響いていた。
「……奴を去勢してしまえ! 馬を去勢するようにな」
どのようにして階段を下り、人々で溢れ返った中庭を横切って行ったかは皆目、見当がつかない。苦悩に苛まれて一週間を過ごした。下腹部に痛みを感じ、夜には酷い寝汗をかき、恐怖に慄いていた。とうとう絶望的とも言える解決策を講じたのだった。病気になったことにしよう。もうこれ以上、あの独裁者の脅しに晒され続けることは不可能だ。絶対に! 裁判所はこの自分を他の地に移してくれるだろう。そうしてドトール・メデイロスに事情を申し立て、その申し出が受理された。
それから二五年の歳月が流れた。「ドトール、時がそう、時が経過したのだよ……」。
ドトール・ルストーザは不動の姿勢を崩した。執務机の下で足を無為にゴソゴソと擦り付けた。昨日、コロネル・キムを見かけた。彼は脚を引き摺り、猫背で、歯抜けで、老いぼれていた。まさにボロ切れの人生を過ごしていると言った体裁であった。一体、奴は何者なのだろう? 亡霊か、それともこの世を去り、埋葬され、土の下で朽ちかけた残渣なのか? 奴はかつての威光も、富も、地位も全てを全て失ったのだ。墓所まで後一歩という体たらくだ。対してこの私、シィメーノ・ルストーザは未だ社会的上昇を果たしている。法曹界の名声を欲しいままにしている。いくつもの著書を執筆し、人々からはそれらに書かれた文言を引用され、尊崇の念を持って重用されている。自分の名声は州を、国を越えて轟くまでに至った。そう言った理由から、サンタ・マルタのジャッカルこと、かつては皆から恐れられていたコロネル・ジョアキン・バヘイロの抜け殻を見るにつけ、計り知れぬ憐憫の念を覚えるのだった。
「あんたを去勢するように命じるからな!」
むしろ去勢されたのは小男のボス、あんたの方だった訳だ。一瞬ではあるが、ドトール・ルストーザは頭を冷やすべく、自らが浴する栄光に背を向けるように努めた。しかしそれに対して、米一粒ほどの歓喜も感じることはなかった。なぜならこの自分もキム同様、いくら抗ったところで、老いをしみじみと感じているからだった。墓所に埋葬される日もそう遠くはない。静寂に注意を払う……。この建物の中で唯一の生の証と言えば、時折、夜遅く帰宅した住人を載せて上下するエレベーターが立てるゴトゴトという音だけだ。屋外の遥か彼方でクラクションの音が聞こえる。歩道に叩きつけられて、骨が粉々に砕け散った時の音が聞こえて来るようだ……。
突然死……。時折、シィメーノは一人暮らしがもたらす不利益、あるいは孤独が孕む危険性について考えることがあった。朝にお手伝いの女がやって来て、コーヒーを給仕し、ベッドメーキングをする。ある日のこと、彼女は玄関のベルを鳴らす。さらにもう一度。しかし応答がない……。管理人を呼びに行く。「きっとドトールの身に何か起こったに違いない」。管理人は解錠する。部屋の中は静まり返っている。彼らはドトールがベッドに横たわったまま硬直し、死んでいるのを目にする……。そう、すでに冷たくなっているドトールを。
物音がした。判事はブルっと身震いをした。バルコニーに設えられた時計が時を打ったのだった。十二時半か……。チョッキのポケットから懐中時計を取り出す。時計の針を一瞥するが、時間を確認した訳ではなかった。
孤独がますます重くのし掛かって来る。シィメーノにはアレグレッチに甥が一人いた。彼を探すよう頼もうか。結局のところ、連れがいるということはいつだって有益なことだ。彼の教育の面倒だって見てやれることだしな。教育するのに莫大な金が掛かるのは残念なことだ。その点を教育庁の長官に話すこととしよう。そうとも、甥っ子を呼び寄せるというのは良い考えだ。これから先の彼の人生の面倒を私が見てやろう……。ルシィアーノは確か十八歳になっているはずだ……。いや、二〇歳だったか?
判事は奇妙且つ真新しい感覚に浸っていた。あそこを照らす光の輪の中で、幾つもの陰鬱な目に、自分が監視されているような気がしてならない。まるでこの私が被告人でもあるかのように……。だが、私は判事だ。被告人諸君よ、私はれっきとした判事なのだ。決して被告人ではない。座り心地が悪かったため、椅子の上で身を捩らせた。
死ぬことは、何でもないことだ。私が最も恐れていることは、生きたまま埋葬されるということだ。それは独り身の者によく有り勝ちなことなのだ。たとえば私が一晩中、強硬症の発作に苦しんでいたとしよう。そのような状況に陥っていることを知る者は誰一人としていない。次の日、医者がやって来て、死亡診断書を認め、部屋から搬出され、墓所へと向かう。棺の中で手足を縛られたまま、ふと目が覚めるといった様を想像した。窒息するような、そう息の詰まるような暗闇の中に、一人取り残されてじわじわと死んで行く恐怖……。管理人に言う。「私が本当に死んでいるかどうかを知ることなく埋葬するのは止めてくれ」、と。
胸が締め付けられた。水を飲むため椅子から立ち上がろうとしたが、光の輪の外には危険が潜んでいると考えた。そう言った訳で微動だにしなかった。死の考えが頭から離れない。自らが埋葬される様が眼前にまざまざと浮かぶ。どのようにして棺をここから降ろすのだろうか? この建物の階段はとても狭い。きっと大きなクレーンに吊るして、降ろすことになるだろう。沢山の花輪が飾られることになるだろう。新聞にはニュースが報じられるだろう。華々しい死亡記事(それらを空恐ろしい気分で、形式上の虚礼に過ぎないものだと考えていた)恐らく墓地では演説が行われるだろう。執政官は“特別な”代表者を派遣し――ハンガリー人の血筋にある大佐とか――、巨大な花輪を贈ることだろう。さらには司法機関の役人たちから贈られた美しい花輪……。そうした後に残るのは、死の恐るべき沈黙だ。
シィメーノは身震いした。眠ることこそ救済だ。寝室に思いを馳せる。私は疲れている。自らを包み込むベッドの、あの柔らかさを思うと心が休まる。しかし、なぜ椅子から立ち上がって、ベッドに横にならないのか? 恐らく寝入ってしまったとしたら、未だかつて感じたことのない死の恐怖に苛まれることになることに気づいているからだろう。
眠気を感じつつも眠ることのできない苦悩の中、判事は執務机の側に座るに任せ、読むでもなく本のページをめくり、時計が半時間、一時間と時を刻む音に耳を澄ませていた……。さらにはランプの光によって、火花を散らすかのようにギラギラと輝くペーパーナイフの刃を凝視していた。そうした眠気を催す光景に目を凝らしている内に、判事は睡魔に耐え切れず、格調高い装飾が施された椅子の背もたれに頭を預けたまま寝入ってしまった。
時計が二時を打った時、シィメーノ・ルストーザは穏やかな寝息を立て、両腕をだらりと垂らし、頭を片側に傾げ、口を開けたまま夢の世界を彷徨っていた。
人気のない広場に、一人の男が歩いていた。チチャロだった。見たところ、行く当てもなく歩を進めているように思われた。そう、今日の明け方は新聞社のオフィスが閉まっており、行き先がなかったのである。週末は糞ったれだ……。俺が出来ることと言えば、自宅に戻り、古新聞を読み返し、眠気が訪れるのを待つぐらいなことだ……。
ちびた葉巻に火を点けるため、街角で立ち止まった。この時間、開いているカフェは一軒切りだ。“パリ”と言う名の店は決して閉まらない。この街の住人たちは鶏のように早く床に就く。チチャロは煙草の煙を吐き出すために、その場に立ち尽くしていた。パンヤの巨木から葉が一枚、枝から離れて帽子の上にはらりと落ちた。チチャロは振り返り、それが何を意味しているのかを悟った。パンヤの木が俺に注意を向けさせるため、にツンツンと突いたのだ。きっとこの俺と話をしたいのだろう。その木とは旧知の間柄だった。もしその木が話し掛けることがあれば、実に様々なことを語ってくれたものだ。たとえば一九二三年一一月一日の出来事。共和政大統領の名の下、州を平定するという目的で当地にやって来た将軍に叛旗を翻すデモが勃発した。突如として雲行きが怪しくなった……。何者かが群衆の中で、赤色のネッカチーフを振りかざしたように思われた。棍棒が振り回され、銃撃が起こった。丁度その時、その騒動とは全く無関係の一人の美しい娘が流れ弾を喰らって落命した。いつだってそんな風だ。罪なき者が命を落とす。世界は滑稽だ。滑稽だが、悲しい(そんなことはどうでも良いが)その後、騎兵隊の一団が坂を下って来る音が聞こえて来た。人々は恐怖の余り、散り散りばらばらに逃げ惑った……。騎兵隊は民衆に向けて襲撃をかけた。騎馬の脚にかかり、腰に銃剣の一突きを受け、全くもって冗談では済まされない。世界がひっくり返るかのように思われた。しかしそうはならなかった。大いなる変革が叫ばれ、各所で純然たる論戦が張られた。あの同じホテルのバルコニーでも、数多くの演説者たちがマイクを取り、声高に演説を繰り広げては数多の誓約をぶちまけた。だからと言って、それがどうなったのか! 風がそれらの言葉を沼地へ、海へ、アフリカへ、あるいは何処ぞとも知らぬ場所へと運んで行ったのである。演説の文言は新聞に掲載された。人々はそれを信じた。民衆はいつだってそれを信じるものだ。しかし全ては以前と何ら変わることなく続いて行った。実際、幾つかのことが変わったかのように思われた。だが、その奥底のさらにその根底部分において、人々の人生は変わることなく、以前と同じように続くのだ。だからと言って、それが重要という訳ではない。
チチャロは長い咳の発作に襲われ、苦悶で顔を歪めた。幾ばくかの時、喉に痰を絡ませて、ゴホゴホと咳き込んでいたが、やがてそれが収まると口から地面に落ちた燃え止しの葉巻を拾い上げ、プカプカと吹かし始めた。通りの方へと目をやる。丁度、あそこに若い女が落ちて来たのだ……。頭を右へ左へと振った。大したことじゃない。それで世界が終わる訳でもない。より良くなる訳でも、悪くなる訳でもない。カヌードスの反乱では、数多の人間が命を落とした。ヨーロッパではこの瞬間、それよりも数多くの人間たちが死んでいる。
チチャロは舐めるように、花盛りのパンヤの木を見やった。広場であの木だけが全てを知っているのだ。何年も微動だにせず、変わることなくそこにいるのだから。その場を離れ、通りを小股でヨタヨタと歩いている内に、あの木はこの俺と同類だ、同志だと結論づけた。「だが、誰も知らない」。そうチチャロは呟いた。「誰も、何一つとして知らない。知ったからと言って、大したことではない」、と続けた。
星々がきらきらと瞬く下で、その木は何やら物思いに耽っているようであった。
トニオは悪夢から目覚めた。眠りの底から、そう命からがら荒れ狂う海の水底から浮かび上がり、すんでのところで溺れ死ぬことを逃れるといった悪夢の中から現実に引き戻されたのだった。ベッドで少し体を起こし、幾ばくかの間、心ここに在らずという体たらくで、自分が今何処にいるのか分からないまま、窓が四角に象る群青色の空をじっと見つめていた。見慣れたものや、家具類――古い模様があしらわれた重厚な衣装箪笥、ベッドの側には、卵形の小さな絨毯が敷かれ、ナイトテーブルの上には、鉄製のランプが置かれてある――に視線を投げ掛けている内に、それらのものが表層世界の中にあり、彼自身も同様にそこにあるという判断力が少しずつではあるが蘇って来た。そして夢は――束の間、その夢の内容を思い出すことはできなかったが――意識下に漆黒の染みを残し、名もなき苦悩を胸中に宿らせた。頭を横に巡らせた。隣のベッドでは、リヴィアが穏やかな寝息を立てて眠っている。トニオは頸の後ろで手を組み、再び横になった。目を閉じ、今一度眠ろうとした。胃の辺りに空腹を訴える軽い痛みを感じる(思考の中では、「きっと癌だ!」と囁くペシィミストの友の姿を描いていた)我慢できなくなり体をひっくり返し、姿勢を変えた。うつ伏せになり、両腕をピンと伸ばし、耳を枕に押し当てて自らの心臓が刻む鈍い鼓動に耳を傾けた。
思考は未だ霞が掛かっているように思われた。そうした中、トニオは昨夜見た夢を再構築しようと試みていた。その夢は捉えどころのないイメージの集積で、順序秩序もなくバラバラで、はっきりとした輪郭すら持たないものであった。それらの多くは理解に苦しむものではあったが、大昔のもののように思われた。あるいは別の人生に属するもののようでもあった。一体、何処が始まりで、何処が終わりなのか? 多分、全てが全て絶叫から始まっているのだろう。体が中空を舞う際、あの身投げした娘が上げた絶叫だ。しかしその声音はノーラのものだった。彼女が未だ幼かった頃、夜の闇に恐れをなして上げた叫び声だ。その叫び声は徐々に井戸の底へと消えて行く。その場面は同時に、あのポルト・アレグレの広場で展開されたものと、サクラメントにあるトニオの生家の中庭で展開されたものと似通っているように思われてならなかった。私は建物(あるいは塔か)から落下する女の姿をはっきりとこの目で見た。その際、自分が取った所作がいかなるものであったかもはっきりと覚えている(自分は奇跡の聖人アントニオで、七歳で行列の中にあって、その聖人の被服を身にまとい……、母との約束を果たそうとしていた……)その女が宙に舞うのを阻止するよう、あるいは彼女が身を投じる以前の場所へと回帰するよう、極めて単純な行動を起こすことは容易なことであっただろう……。彼女を救うために、両手をほんの少し動かすこともできたであろう。しかし心のある部分で、そのようなことなどできるはずもないと思ったからか、あるいは実に興味深いことだが、背徳の念に駆られたからか、そうしたことを一切しなかった。その理由たるや夢の世界であれ、現実の世界であれ、どのように理解すれば良いか全く分からないが……。
トニオは再びベッドに腰掛けた。先程よりもずっと頭が軽く、明快に物事を考えられるようになっていた。眠気は完全に消え失せていた。今の自分にとって唯一の救済策こそ、起き上がることだ。ベッドから足を投げ出すと、闇雲にスリッパを探した。見つからない。だが記憶の奥底で、夢の断片を掻き集めている内にスリッパのことをすっかり忘れてしまった。夢の断片と断片が一向に繋がらない……。道に迷った者がやるように髪の毛を撫でつけた。
身投げした娘がまるで皿が割れるような奇妙な音を立てて地面に落ちたのを思い出した。それは極めて自然なことのように思われた。と言うのも、落下したものこそ、以前はノーラの持ち物であった、リタの大きな人形なのだから。その人形の欠片が通りにぶちまけられたのだ。大勢の人々がそれを見ようと駆け寄って行った……。しかし、この自分は恐怖で体を震わせ、微動だにしなかった。死んだ女を見たくはなかった。突如として、通りに横たわる亡骸こそ、娘たちのあの気の毒な人形であると確信した。通行人たちが私の方を見やり、何やら囁き合っているように思えてならない……。きっと彼らは聖アントニオたる少年の一挙一動で、その人形を救済できることを知っているに違いない……。だが、その少年はそれをやろうとしない。人々は聖人の方に向けて拳を振り上げた。自分はその場から逃げ去りたいが、いかんせん足が鉛のように重く感じられ、聖衣に雁字搦めに縛り付けられている。後悔の念と悲しみのため、わっと泣き出した。喉の奥から絞り出される、押し殺したような泣き声は古の時代から発せられているようで、慈悲に満ちた、幼子のようなものであった。まさにその瞬間、他界した父が姿を現わした。その両手には半ば人形、半ば人間のようなものの欠片が携えられていた。あるいはそれは同時に、リタやノーラ、あるいはジョアーナ・カレフスカの欠片だったかもしれない。しかし父がこちらに近づいて来て、その手に持っているものがスリッパであることに気がついた。
「そこでじっとしていろ、このゴロツキめ! お前にたっぷりと教えてやるわい……」
トニオが走り出すことが出来たのは、丁度その時だった。テラスにあった果物を盛る大皿を割った自分を父がこっぴどく叱りつけようとしているのだ……。
その後……、いや前か?(トニオは小説家の目線で夢を分析し始めていた。夢の中で繰り広げられる時の錯綜は何とも興味深い)その後……、自分は生家を打ち壊す職人たちを見つめながら、サクラメントの地にいた。それが誰なのかはっきりと思い出すことができないが、幾人もの人々が姿を現わし、その面々の声が聞こえて来た。うすぼんやりとしていて、それがいつだったかはっきりとは分からないが、父方の家の瓦礫の中を歩き廻った記憶がある。そう、あちらへこちらへと歩き廻っては、ノーラやリタ、ジョアーナ・カレフスカの人形の砕け散った欠片を探し求めて――指や腕の断片、髪の芯や乳房の部分。今となってトニオは乳房の欠片を掴み上げる際、躊躇したことを思い出した。グッと胸が締め付けられ、それに触れること自体、罪であるような感覚に囚われたのだった。
トニオは立ち上がると、スリッパを探そうと視線をベッドの下へと落とした。それが見つかると足に引っ掛け、ガウンを羽織り、物音を立てないようにそっと寝室から出て行った。家の中は静まり返っていた。廊下には夜明けのか細く、冷ややかな光が差し込んでいた。トニオはリタ、ノーラ、ジルの部屋の扉の前を通り過ぎ、浴室へと入って行った。明かりを灯し、服を脱ぐとシャワーの下に潜り込んだ。いつもやることだが、自らが成し得た事と夢の世界での記憶を比較対照しつつ、シャワーの蛇口を捻った。身を切るような冷たい水が体に降り注ぐことにより、体をブルッと震わせ、瞬時、息を止めた。トニオは一瞬、シャワー室から飛び出したい衝動に駆られたが深呼吸をし、足を踏み鳴らし、その場に留まる努力を自らに課した。こんな時間に、それも氷のように冷たいシャワーを浴びるなんて何とも馬鹿げた考えだ! それを何も考えずやっている私は一体、何者なのか?
毛羽立ったタオルで体をゴシゴシと拭い、服を着ると廊下へと出て行った。一瞬ではあるが決心がつかず、その場で足を止めた。しかしながらすぐさま、塔の方へと足を運んで行った。
トニオはどちらかと言えば、引っ込み思案な少年だった。サクラメントにあるサンチィアーゴ家の屋敷は、人生と熱情が入り乱れた一つの世界だと言えた。一族の家長たる風貌を備えた老レオナルドの周りには息子、娘、その婿と嫁、行かず後家の姉妹たち、近しい、あるいは遠縁の親戚たちが集っていた。訪問者たちに当てがわれる部屋は常に満室だった。サンチィアーゴ家の人々は皆、情に厚く、想像力豊かで、喧騒を好む輩であった。しばしば恋愛沙汰や、政治、闘鶏、あるいは商取引き等を巡り、熱い議論が交わされ、また同時に文学や哲学、夢物語、戦争等についても激論がなされるのが常だった。トニオの父親はラマルティーヌとルソーを信奉していた。祖父は熱狂的な口調で皇帝について語り、その息子の内の一人が、街頭で共和政の是非について演説をぶった際には、トニオは周りを気兼ねして頭を垂れて、黙り込んでいるしかなかった。騎士道物語をこよなく愛し、新たな革命が勃発することを心待ちにしている叔父がいた。冬が訪れると、家族の輪の中で、大声で恋愛小説を朗読する大叔母もいた。彼女は時折、嘆息を漏らすために、あるいは涙を拭うために朗読を中断した。
そのような世界でトニオは自ら積極的に口を開くこともなく、思索に耽って成長して行ったのだった。サンチィアーゴ家の住居は一八五〇年に、想像力に長け、ドンキホーテ張りの仕草の祖父レオナルドの父によって築かれた。曾祖父は地元の教会の鐘楼と同じ高さの塔を屋敷の中心に建てるよう命じた。
「ミンゴッテさん、何のためにそんなものを建てられるのですか?」と、人々は口々に尋ねた。
曾祖父が答えるに、「その塔の上から通りを眺めて、誰がこちらにやって来るか確かめたいのじゃよ。もし其奴が敵なら、ピストルをぶっ放してやる。もし友人なら、寝床の支度とシマハォン茶[瓢箪の容器(クイア)にマテの茶葉を入れて、金属製のストロー(ボンバ)で飲むお茶]を入れる湯を沸かすように命じると言う訳だ」、と。サクラメントでは、サンチィアーゴ家のその屋敷は“塔”と言う名で人々に知られていた。
その塔について、トニオは想像を掻き立てられる幾つかの物語を耳にしたことがあった。先祖の一人が妻の死を悼む余り、二〇年もの間、塔に閉じこもり、階下に降りることも、誰一人として友人を迎えることもなく、通りに一瞥をくれることさえしなかったと言うことだ。彼の亡骸が棺に納められてようやく、その薄暗い部屋を後にしたのだった。人嫌いで、風変わりな大叔父にまつわる物語も人々の口から口へと伝わっていた。その大叔父はしばしば静まり返った塔の部屋に閉じこもり、何時間も、何時間もそこで過ごすと言うことだった。小さな音で口笛を吹き鳴らしながら階下へと降りて来た時、彼の顔は歓喜で輝いていたと言う。その部屋に身を潜め、彼が一体何をしていたのかを知る者は、誰一人としていなかった。
「金の勘定をしているのさ……」と、ある者は断じた。
「いいや、奴さんは何か、人には言えぬ悪癖に耽っているに違いない」と、反駁する者もいた。
ある日のこと、一枚の手書きの紙が置かれたテーブルの上に、仰向けで死んでいる大叔父が見つかった。皆はその紙に書かれてあるものが、彼の遺言だと考えた。しかし、それは一篇のソネットだった。亡骸の側には、詩が書き付けられたいくつもの紙の束が収められたブリキ製の長持ちが置かれてあった。大叔父は“それ”をやるために塔の部屋に閉じこもっていたのだ。誰に何も告げることなく……。
一族にまつわる物語の中で、トニオが大のお気に入りだったものは、叔母グロリアを巡る伝説であった。グロリア叔母さんは優しい声音の持ち主で、そこはかとなく香る上品な物腰の、皺の寄った口許に絶えず笑みを浮かべる、痩せぎすの老婆だった。叔母が一六歳の時、ある大尉と婚約したと言われている。しかし程なくしてパラグアイ戦争が勃発し、婚約者の大尉は槍部隊を率いて戦線へと従軍して行ったのだった。一年後、サクラメントにその大尉は戦線から突如として姿を消した、という知らせがもたらされた。落命したのか? 捕虜となったのか? それを知る者は誰もいなかった。手足を失い帰還した軍曹曰く、大尉が銃弾を受け、倒れた場面を目撃したと言うことだった。しかしながらグロリア叔母は喪に服することを頑として拒んだ。
「あの人はきっと帰って来るわ。私はそのように予感しているのですもの」と口許にはにかみの笑みを浮かべて、そう言った。毎日、午後になると、叔母は塔の物見台へと登り、日が暮れるまで街道を仔細に観察しては、遠くに栗色の顎鬚をたくわえた、あの美しい大尉が馬に跨って姿を現わすのを今か今かと待ち侘びていた。三〇年に亘り、その日課は続けられていたと言う。その後、塔の物見台へと続く階段を登る力がなくなり、頭が呆けてしまい、婚約者とポルトガル国王ドン・セバスチャンとを混同するようになってしまった。トニオは今でも大切に保管されている叔母グロリアの写真を見るにつけ、ほとんど伝説的とも言える、その叔母の甘美に満ちた思い出話を反芻するのだった。いつの日だったか、叔母がショールに包まり、身を縮こまらせてガラス窓の側で噛み煙草を噛みながら、降りしきる九月の雨をじっと見入っている様を思い出すのだった……。
トニオにとって塔は魅惑に満ちた場所だと言えた。湿気を帯び、時の経過を経た円形状の居室にしろ、中空を舞う埃も、幻想的な模様が描かれた四方の壁も、どれを取っても好ましく思われた。そこに設えられた年代物の装飾物(天蓋や、ブロンズ製の縁取りが施された鏡。その鏡に自らの姿を映すのを皆、怖がっていた)や家具類もまた、この世のものとは思えぬ独特な様相を呈していた。トニオが想像するに塔は同時に、海賊の財宝が隠された場所、世を憚る天才の隠れ家、灯台、孤島、気球のごとき存在だと言えた……。ある時には、アフリカの砂漠、ある時には、中国のとある街、またある時には、大海原を漂流する船舶、さらには怪物たちが巣喰う惑星へと姿を変えるのだった。トニオは小説や新聞連載の読み物、古物独特の匂いを放つ黄ばんだペーパーバック等を読むために、その塔に閉じこもった。〈アーサー王と王妃グィネビア〉や〈三銃士〉、〈気球旅行五週間〉等々。
父母に叱責された時や、悲しみに打ち沈み、心配事で胸が張り裂けそうになった時に、その塔にこもり嗚咽し、胸の内に巣喰う怒りを吐き出した。胸中に溢れる懸念を払拭することのできる唯一の場所こそ、まさにその塔だったのだ。よって、そこから降りる時には心は軽く、陽気で、幸せな気分に満ち、生まれ変わったように感じられたものだった……。
だからと言って、必ずしもその隠れ家たる塔に引きこもることが好きだった訳ではない。大部分の時は屋敷での生活、そこに集う人々のことをより良く知りたいと言う強い願望に駆られ、「一体、彼らの心の内はどんな風なのだろう」と、常々考えたりもしていた。いつの日か、予期せぬ時を見計らい、彼らをこの手で掴み取り、心の奥底に横たわる秘密を暴いてやりたい。屋敷が蔵する全てのものに――人にしろ、生き物にしろ、ありとあらゆるものに――愛着を感じていた。塔は何物にも代え難い巨大な具象物であり、同時に抽象物でもあった(ああ! あの頃、何と文法に頭を悩まされたことか!)その塔が具象物である所以とは、それが石や煉瓦、漆喰、材木等、自分が実際に手に取り、噛み、キスをし、破壊することのできるもので造られているからである。人々や動物(家畜)、家具類、部屋に吊られているカーテンもまた具象物であると言える。しかしあの塔はある意味において、抽象物なのだ。なぜなら、そこには自分自身が愛する何かがあり、そうしたものの匂いを嗅ぐことも、キスをすることもできないからだ。たとえばあの円形の部屋で夢見たこと、思い描いた人々や光景などそれら全てが果たして一体、どういったものかは分からない。それらを自分自身は感じることはできるが、実際に目にすることも、手に取ることもできない。しかしそれらは存在しているのだ。そうなのですよ、読者諸君。それらは存在しているのですとも。でも、どのようにそれを説明して良いものか? トニオは全く無意味なものにさえ、愛情を込めて大切に保管する癖があった。そこにはナイフで穴だらけになったキッチンのみすぼらしいテーブルや、“ダンケルク”と呼ばれていた時折、抽斗を開けようものなら、失くしたと思い込んでいた玩具や本などが見つかり、感動を覚えると言った類いの古い家具も含まれていた。そうした全てのものから漂う、特に祖父や父、母の存在によって、トニオ自身、心の安らぎを覚え、守られているような感覚を覚えるのだった。
屋敷は一種の要塞のようなものだった。世界と対峙するサンチィアーゴ一族の砦だ! その要塞の中にあって、トニオは自分が強くなったように感じた。食事時に、午餐室にある巨大なテーブルを見るにつけ、歓喜を覚えたものだ。常々、少なくともそのテーブルを囲んで、一五人もの人々が顔を突き合わせた。上座には髪を短く刈り、口髭をだらりと垂らし、山羊髭をたくわえた祖父が陣取っていた。目の端でテーブルに集う人々を見やっては、口許には笑みを浮かべていた。トニオはスープの大皿から立ち上る湯気越しに浮かぶ、祖父の顔を思い出した。祖母が肉づきの良い腕を伸ばし、木製のスプーンを掴むと、スープを給仕し始める。寸分違わず忘れ難きものはと言えば、祖母がこしらえたデザートのココナッツパウダーが振り掛けられたカンジッカ[粉状のトウモロコシ、砂糖、ココナッツミルク、シナモンを混ぜ合わせて作ったクリーム状の食べ物]だった。
トニオはポルト・アレグレの寄宿学校に入学するため、サクラメントの実家を後にしなければならない日に感じた、押し潰されそうな苦悩を未だ昨日のことのように覚えている。数年が経ち、青年へと成長した彼は休暇を過ごすために帰郷した。屋敷に着くや、息急き切って塔の階段を駆け上がって行った。そこで目にしたものは幻滅だった。かつて、その古き居室は魅力溢れる空間であったが、それら全てが消失していたのだった。浮き彫りが施された木製の収納箱に腰を下ろし、失望感を反芻した。しかしながら、塔に対する魅力を回復するのに数週間を要しなかった。そこに極めて自然な形で灯台や惑星、気球を見い出すことは不可能であったが、依然としてそこに愛着を感じ、友好的な隠れ家であることを再発見したのだった。そして、そこに新たな感覚、多分以前よりも豊潤な感覚を見い出すに至ったのである。そうした“新しい世界”を通して、屋敷に対する愛情は継続して行ったのである。そう、落ち着く、心安らぐ、温かい逃避の場所という、かつての感覚を取り戻したのだった。
荒れ狂った八月のある日のこと、冷酷な寒風が老レオナルドを連れ去って行った。その後、幾年にも渡る過ちや怠慢、浪費が重なり、レオナルドの子供たちは相続された遺産を放棄することになり、最後には屋敷も失う羽目となった。トニオはヨーロッパの大学で学ぶことを保証されていたが食料雑貨店で働くため、高等教育を断念せざるを得なかった。夜、幾度となく“サンチィアーゴ街区”の道端に立ち止まり、懐かしさと悲しみのこもった眼差しで、今や他所の家族が住み暮らす塔の古き窓から漏れる明かりを仰ぎ見た。とある日の明け方、今一度、自分が生まれ育った屋敷のシルエットを凝視している内に、ある決心をした。その決心とは、屋敷のことを忘れ、自らの道を歩むということだった……。それ以降、時を、夢を、人々を、仕事を、本を通して、トニオの人生は別の家族を、別の家を、別の避難場所を探し求めることに全力が注がれた。心の羅針盤は常に北の方角を、塔が見下ろす方角を指していた。幾多の年月を経て、トニオは“家”を建てることが出来た。その家にも塔があった。そして今、明け方の五時に、夜の思い出と夢と時を携えて、今現在の塔に向かって歩んで行ったのだった。
塔の中に、トニオは仕事場を設えた。そこは自分専用の“オフィス”であり、家政婦を含め、家族と知己でない人間は入室禁止の一種の聖域であった。そこは円形の居室で、日の出と日没の方角に面した窓が一つづつ付いていた。家具類と呼べるものはほとんどなく、小さな書き物机に、長椅子、厚手のプリント地の布が掛けられた肘掛け椅子が三脚、大きな地球儀、それに書籍が収められた素朴な作りの棚等、実に質素なものだった。家族にとって、その部屋は魔法が掛かった空間という認識があった。成長したトニオは塔を巡る、幼少時代に抱いた秘密を家族に伝えるよう努めた。ノーラとジルがまだ小さかった頃、トニオは二人を塔の居室へと連れて行き、互いに膝を突き合わせて椅子に腰掛けると、彼らに物語を語って聞かせた。もっと後になって、リタが就寝前に家族が集う会合に加わる番がやって来た。トニオは長椅子に三人の子供たちを並べて座らせると部屋の中程に陣取り、お伽話を語り始めた。物語が最高潮に達した時、多くの場合、妻のリヴィアは部屋の中央に立ち尽くす夫の前に、ライオンのような唸り声を上げ立ち塞がるか、黒色のキモノを身に付けている時には、不吉な巨大な黒鳥が羽根を広げ、幼子たちに襲い掛かるかのように椅子の上に立ったりした。子供たちは目を真ん丸に見開き、不安げな表情を浮かべ、じっと聞き入っていた……。
「ヘンデルとグレーテルは森で道に迷ってしまいました。すると突然、恐ろしい唸り声が聞こえました……。二人は身を縮こまらせ、その唸り声が獣のものか、あるいは道に迷った二人の存在を嗅ぎ付けたお化けが発しているものかと考え、満足に息もすることができませんでした」
主人公たちが魔法使いの毒牙にかかろうとしたその時、トニオはその邪悪な魔法使いが「カラカラ」と笑い声を上げる様を真似した。ノーラの目は涙で溢れている。ジルのそれは悲しみの色を湛え半ば虚ろで、他方、部分的に物語を理解しているリタは何かを問い掛けるような目つきをしつつ、その物語を楽しみ、驚きの表情を浮かべていた。
トニオは子供たちを二つの世界を自由に行き来できるよう教育することに腐心した。彼らをそれぞれ別々に育てて、空想一辺倒で、現実に無頓着という人間に成長させるのは過ちだと考えていた。よって彼らに実践的な事柄を教え込みつつ、徐々にではあるが、人間関係の妙なるものを叩き込み、人生を生きて行く上での多岐に渡る道筋を指し示した。しかし他方で、完全に空想世界を放擲することを認めなかった。最近、子供たちがビタミンや光電気細胞、原子爆弾爆撃機等について語る様を目にするにつけ、大きな興味を覚える。その語り口に大きな幻影が見て取れるのは事実である。自身が思うに、そこには僅かばかりの謎と空想が必要であるのはまず間違いない。塔は空想を司る領域である。そこでトニオは今日までずっと、子供たちに物語を語って来た。そこで、自分は書物を執筆している。時々、家族はそこに集い、各々が抱える問題について議論し合う。それは野菜の値段の高騰に限らず、ジルの学業に関するものであったり、ノーラの最近の恋愛についてだったりもした。家族の間で、塔はありとあらゆる悲しみを癒し、いかなる困難をも解決する力があるという伝説が流布していた。ノーラはイライラしていて、落ち着きがない様子だって? 家族は皆、口を揃えて言う。
「お前には“塔”が必要だとも」
それを受けてノーラは円形の部屋に閉じこもり、長椅子に横たわり、自らが抱える問題について熟考する。やがてそれが悲観的になったり、憂鬱な気分に陥る理由にならないことを得心する。ジルが八方塞がりになっているって? そんな時には塔に身を潜めることによって心の安らぎを覚えるか、何らかの助言を受けることになる。ペトロポリス地区に住むサンチィアーゴ家にとって、円形の部屋を囲む壁には彼らのみが読み、理解できる目に見えない刻印が刻み込まれているのだ。恐らくそれは父が人生で幾多の時を過ごし、語った言葉なのだろう……。
地球儀は次のように語っているように思われる。
「なんと地球は巨大であることか。宇宙はそれよりもさらに大きい」
母の言葉がそれに続く。
「神はそれら全てよりも計り知れぬほど大きな存在なのよ……。あなたたちが小さな存在であるように、あなたたちが抱える問題なんて取るに足らないものなのよ!」
そうした考えこそ、一つの慰めとなるのだ。塔の中には人々に歓喜を与え、世界の美しさと善意をもたらす書籍が蔵されてある。壁に設えられた棚から本を一冊取り出し、どこでも構わない、ページを開くだけで、それらを感じるのに十分なのだ……。ページの中から新たな世界が創造され、良き伴侶となる人間が飛び出して来るのだ。
そうしたことをどこまで、子供たちは信じているのだろうか? 塔の部屋へと続く階段を登りながら、トニオは自身にそう問うた。多分、私が良い気分になるよう、子供たちは信じている振りをしているだけだろう……。
最近、そのような問い掛けをしたのは一度切りではなかった。なぜなら子供たちは自分が語る物語を必要とせず、物語以上に広大で、豊かで、魅力的な人生を享受する登場人物として現実世界を生きているのでは、と嫉妬じみた疑念を抱いているからだった。
作家は塔の小部屋に滑り込むと後ろ手に扉を閉めた。部屋を横切り、日の出の方角に面する窓を開けるため、そちらへと歩を向けた。窓を開け放つと夜明けの身を切るような冷たく、湿り気を帯びた夜気が部屋に勢いよく入り込んで来た。トニオは口の中に苦味を、胃の入り口辺りに空腹のためか、執拗な痛みを感じていた。しかし穏やかな微睡から目覚めた健康そのものの生娘のように新たな朝が瑞々しく、穢れなき真新しい気持ちで目覚めているのだ。丘の背部にユーカリの木立が列を成し、空の彼方に伸びる地平線は明るみ始めている。空に対して、それを奇抜な形にくっきりと切り取るかのように木々が林立している。それはまさに魅惑的とも言える、神秘に満ちた時間なのだ。重なり合う丘々や谷間は陰り、薄靄が立ち込め、空には一条の光が差している。広大な大地に雄鶏の朝を告げる性急な鳴き声が響き渡る。
トニオは窓際の肘掛け椅子に腰を下ろしていた。早朝の瑞々しい空気が新たな思い出を運んで来る。これまで幾度となく夜明けの時に、自らが辿って来た人生について想いを巡らせたものだ。人々の様々な顔貌や、背格好、所作が次々と脳裏を去来して行った。以前、耳にした声が風に乗って聞こえて来たかと思うと、また風と共に耳から遠ざかって行った。
この同じ椅子に何度も、数え切れない程、夜に、日暮れ時に、腰を下ろして時間を過ごしたことだろう。そんな時、半ば夢現のまま、緩やかに流れる川のごとく、思考があるがままにゆったりと流れるに任せた。気紛れな風に吹かれて、あちらへこちらへと漂う真夏の雲のように様々な形を取り、思考がある時はほつれバラバラになったかと思うと、またある時はグッと凝縮されたりもした。しかし今、この夜明けの身を切るような寒々とした静寂の中にあって、トニオは瑞々しい覚醒、それに分析欲が胸中に湧き上がってくるのを感じていた。
最近、取り掛かった作品のことを考える。テーブルの上に置かれた白紙の紙の束を横目で見やる……。それらは夜明けのごとく冷え冷えとしているように思われた。その瞬間、自分には一行すら書く力がない、人間らしい温かさを有する筋書きすら思い浮かばないと考えた。血が通い、肉体的躍動感を帯びた登場人物一人ですら、どうやっても創造することができないのだ。それらは日が暮れ、夜になって始めて“生命を宿す”のである。そう、人々の言葉や思考、あるいは所作、願望、憎悪、思い出がそれぞれのあるべき位置に嵌まり込み、数多の人生模様がこだまとなって我が胸中に響き渡るのだ。しかしながら、それが日中、あるいは別の時間帯であっても、決して頻繁に起こることではないが、今、この自分は自らが抱える諸問題に向かい合い、議論することができるのではと感じている。頭を使ってモノを考える――常々、そう言っていたが……。だが、体全体を駆使することで初めて、良い小説を書くことができるのである。今のような夜が明け行く時間に、物事が、人々が、世界が、人生が、並外れた美点を持つ。同時に何とも言えない不明瞭な輪郭を持つ。そのような時こそ、「今だ」と考えた。トニオは自身の内に未だ薄暗く、半ば微睡んだ部分が存在するのを知っていた。それは暖まり切っておらず、働くことを拒むエンジンのごとく、体が部分的に麻酔がかかっている状態とでも言えようか。そのようにして程なくすると、脳が大まかだが要求に応え、動き始めるのである。様々な考えがほぼ揺るぎなき純粋とも言える状態の中で芽生え、いかなる残渣も持たず、太陽の温もりや全生物たちの肌の温かさ、さらには主として、かつての経験からもたらされる、ある種の官能を剥奪した考えが次から次へと浮かび来るのである。今のような時間は――トニオは結論づけた――それほど好きではないし、世界と自らを結ぶ絆もそれほど強く感じられず、他人や自身が持つ熱情に寄り添い、慮ることなく、自由かつ公平に考えられる状態であるとは思えなかった。
雄鶏の高らかな歌声と時折、訪れる空気を切り裂くような静寂の中、トニオはこれまで辿って来た人生を、その渦中にあって自身がどうであったかを、何を成し得たのかを、さらには何をしようとしていたのかについて考えを巡らせていた……。今から一五年前、文学で身を立てようと強固な決心の下、故郷からこの街に移り住んで来た。常々、職業人としてそれに傾倒し、愛情を込めて、首尾一貫して生きて行くことほど心地良いものは他にはないと思われた。こうしてトニオ自身が抱いて来た全ての願望が成就した。家族を持ち、家を建て、職業的にも成功を収め、社会的知名度を得るに至った。それまでの年月に繰り広げられた数多の闘いはトニオの顔に、意識に“あざ”のごとき印を残した。だからと言って、トニオはそうした運命に不平を漏らすことはなかった。なぜなら全てが全てを安易に手に入れたものではないにしろ、自分自身、実に幸運な人間であると考えていたからだった。少しづつではあるが所有地を入手していかなければならなかった。しかし今や四〇代にして、心穏やかな安心感を持って人生を展望することができる。実に幸せなことだ。いかなる欲求不満も感じない。不満を抑制するということもない。憎悪を抱くこともない。子供たちは長年温め続けて来た夢に従って成長して行っている。リヴィアは自分にとって良き伴侶だ。
しかしながら今、黒々とした心配事が頭をもたげて来たのも事実だった。“戦争”だ。自分はその推移を見守ることができる立場にあるが、その大事件によって、子供たちが自由に生き、冒険に身を投じる機会を奪われることがあったとしたら、それは正当なことではないと考えていた。仮に子供たちのためだけの楽園を構築したとしても、ノーラやリタ、ジルがそれに辟易し、いづれガラスの壁を打ち崩し、嵐が吹き荒れる広大な世界へと逃げ去って行くことは疑う余地はない。過度な干渉は子供たちの道徳性を損なうだけだ。重要なのは、やりたいようにやらせることだ。戦うための武器と盾を与え、運命に身を投じさせるのだ。彼ら一人一人が自らの人生を生きることこそ大事なことだ! それが世界の法なのだから。心の奥、それも真の奥底で――トニオは認識していた――、子供たちと自分を結ぶ臍の緒のごとき絆を切ることに抵抗感を感じていた。全ての暗雲を消し去るためには、未だ胸の内に留保している消えることのない希望、ありとあらゆる事象に対する予感を頼りに行動するのみだ。とどのつまり、“終わり良ければ全て良し”だ。恐らく究極とも言える分析眼を駆使することで、この世界もまた奇跡と幸福、それに安らぎの時へと到達させる“塔”のごときものを有しているということが分かる。トニオは始終、哲学的達観姿勢、手法を持って、世界が含有する劇的とも言える局面を観察して来たが、それにはそのような理由があったからだった。しかしながら瞬間、瞬間、言葉では説明できない、形なき恐れに囚われたり、大災害や大災難、世界の終末の予感が脳裏に去来するということも否定することはできないが……。
宿命や到底、実現不可能な希望によって鋳造された甲冑を身にまとい、トニオは人目を避けて仕事に没頭し、自身を見失い、忘却の彼方へと去り、幸せを享受するのが常だった。自身が創り出す小説の仮想世界の中で、自宅で繰り返し行われる甘美な日課に身を溶かし、友人たち、音楽、書籍と共に過ごすことで、精神面において奇跡とも言える均衡を保ち生活を送って来た。その均衡は時を経るに従って強固なものとなり、経験はますます豊かなものとなって行った。時折、心の内に広がる水面に波紋を広がらせる必要に駆られた際には一つの仕草、一言、一音のみで充分だった。
たとえば今、ここにジョアーナ・カレフスカの事件がある。その娘は自身の内面に広がる湖に身を投じたのである。それによって水面に波紋が広がって行った。自らが向ける視線の先と明け行く空の間に、突如としてトニオは自殺した娘の手紙に書かれてあった文言が浮かび上がって来るのを目にした。
“あなた様だけが私を救うことができるのです。どうか来てください!”
だが彼女のために一体、何ができると言うのか? そう、トニオは自問した。何もない……。その娘は死んでしまったのだから。でも、もし生きていたとしたら? 多くのことができるとは思えない。彼女自身、本当に助けを欲していたのか? 果たして私の助言を受け入れるだけの能力があったのか、それも疑問だ……。
だからと言って、どれほど自身が直面している事柄に背を向けようとも、トニオは罪悪感を覚えずにはいられなかった。ノーラの友人のロベルト(“友人”と言うのは言葉上のことだ。父親としての嫉妬心から“恋人”をそれにすり替えたのだ。口許に笑みを浮かべながらそれを認める)がある日のこと、はにかみながらも断固とした口調で私に言ったことがあった。
「あなたのように世間で名が知れ渡っている人々が、もし世間から見捨てられた人々に対して何もしなかったとしたら一体、誰がそれをすると言うのでしょうか?」
トニオは地平線を凝視していた。ユーカリの木々は黄金色に染まり始めている。太陽は躊躇することなく姿を現わしたかと思うと、その輝きで空を明々と照らし始めた。庭のポプラの木で雀たちが騒々しく鳴き声を上げている。
これまで何もやって来ていないと言うのに、この先、一体、この自分に何ができると言うのか? 人間味溢れる物語を語るのはどうだ? 信仰に縋るか、あるいは何でも良い、一つの政治的学説を信奉したいという気持ちがない訳ではない……。しかしながら特定の政党や宗教団体に身を委ねる絶対的能力が、この自分には欠如している。大事を成し遂げるためには揺るぎない信仰心が不可欠であるということは渋々ながらも認める。もしこの自分に神に対する信仰か、あるいは政治に対する崇拝理念を持ち合わせていたとしたら、自らが執筆する作品を政治的、宗教的信奉に沿ったものへと向かわせることができたであろう。だが、それをやらなかった理由は、私自身、芸術たるものはある特定の宗派や政党の色彩に染まるべきではないと考えていたし、誰一人として無関心が正当化されることが許されない例外的ともいえる瞬間、瞬間を生きているのが、この世界であると自覚していたからだ。世界は病んでいる。人類が生き、美しき、単純とも言える労働に従事し、美と善を探求して行けるよう、この世界を立て直す必要があるのだ。しかしながら……。その立て直しが不可能だとしたら? 人類が決して抗えない法則によって、常に野蛮であり続けなければならないとしたら? トニオは苛立たしげに身を捩ると、より深く肘掛け椅子に身を沈み込ませ目を閉じた。
そのような心の動揺は全くもって無意味だ。何ら解決策を見い出すことができないのだから。唯一の救済策があるとしたら、自らの人生を歩み続けることのみだ。利己主義からか? 臆病風に吹かれたのか? 無関心からか? あるいは怠惰なだけなのか? 再び脳裏にあの娘が身を投げる光景がありありと浮かんで来た(ジョアーナ・カレフスカにノーラ、リタの姿が重なり合う)映画のごとく場面、場面が次々と目紛しく頭の中を通り過ぎて行く――リタの人形が、ロベルトの哀しげな顔が、サクラメントの屋敷が、自殺した娘の手紙が……。
多分、その気の毒な娘を主人公にした小説が書けるだろう。人間味溢れる、思い遣りに満ちた物語を……。しかし、もう一人の自分が大声でがなり立てる。
「お前が欲しているのは、本を書くがための口実を探しているに過ぎないのでは? 世界に蔓延るドラマを楽しんでいると告白したらどうだ。それらを無くして、物語の語り部としての欲求を満たすことができない、と!」
いいや、全くもってその通りではない。自分は救いの手を差し伸ばし、人々に寄り添いたいのだ……。それとも、良心の呵責を少しでも和らげたいためだけなのか? 心の内で、ノーラの“友人”ロベルトが苦々しい皮肉を込めて囁き掛けて来た。
「かの魔法使いトニオ・サンチィアーゴの偉大なる興行の始まりです! ジョアーナ・カレフスカとその家族のための慈善興行で、その収益の内、一〇パーセントは彼らに支払われます。親愛なる観客の皆さん、かの著名な芸術家の演技にとくと注目あれ。収益の一〇パーセントは彼らに支払われるのです!」
トニオは腕を組むと、それを胃の辺りに押し付けた。腹がへった……。階下に降りて行ってコーヒーを沸かそうか……。だが、パン屋がやって来るにはまだ早い。物音を立てたら、他の皆を起こしかねない。行くべきではない。結局のところ、行かないことにした。肘掛け椅子に魅了されたのか。一体、自分は何をしているのだろう?
空に瞬く最後の星が光を失いつつある。トニオはその星に別れを告げるがごとく一瞥をくれた。最愛なる詩人たちの姿が影法師のごとく次々に脳裏に浮かび上がって来た。
秋がアコーディオンを奏でる
我が人生の中庭で
いつもと同じ、古の歌曲を
閉ざされた硝子窓の下方から流れ出でり
自分はかつて、そのアコーディオンが奏でる調べを耳にしたのだろうか? 親しみ深い旋律――半ば気怠く、打ち捨てられたような悲哀に満ちた楽曲だ。かのボルディーニ[ハンガリーの作曲家。弦楽四重奏曲〈ノクターン〉が有名]のごとく――を伴って、その詩句は脳裏に浮かび上がって来るのだった。詩が消え去っても、旋律は残り続ける。それを聞くにつけ、トニオはかつて幾度となく耳にした弦楽四重奏を思い出すのだった。ある日の夜のこと、サン・ペドロ劇場で黒服を身にまとった四人の金髪で、物憂げな雰囲気を漂わせた男たちが秩序だった情熱を弓に込めて、弦を擦り付けている様を思い起こした。
これから先、どのようになって行くのだろうか? 再び、そう自問した。初期の作品と最近のそれとを比較してみた……。明らかに違いがある。自分自身、精神的に成熟していることは疑いの余地がない。容易に頭に浮かぶ言葉を信用しないこと、さらにはいかなる慈悲心を感じることなく自らの肉体を切り刻むことなどナンセンスであること、この二点を学んだ。しかしながら、人生が有する叙情的意味合いや、ある種のドン・キホーテ的な勇気の存在を、さらには良心の呵責を寸分も覚えることなく、人は物事に没頭できること等も同時に知って行った……。成功によって、自分は悪影響を受けたのだろうか? “我が読者諸君”と呼び掛け、彼らに媚びへつらうかのように、彼らが望む通りのものを提供するという危険を冒して来たのではなかろうか?
そうこうする内に全ての者たちは年金をあてにし、暖炉の側に置かれた座り心地の良い椅子やフカフカのスリッパを夢見、パイプをユラユラと燻らせ思い出に浸るといった危険を孕んだ傾向に陥るのが常だ。「私に課せられた義務を果たした……」。そう口にする者たちは一様に、そうした傾向を帯びた雰囲気を漂わせている。そうした者たちは口を揃えて、「我が時代は……、我が年代は……、どうのこうだ……」と言う。
また別の危険を孕んでいることも忘れてはならない。全てを知っている。全てを見た。それゆえ、自分は何ものも信じない。そう仄めかすことを欲する懐疑的な人間との関係を断ち切る態度への誘惑である。反社会的な観察者。一九世紀という時代への愛すべきアイロニー。劇場のボックス席に踏ん反り返り、ぬかるみに手を突っ込むこともなく、上から、遠くから人々を見下し、笑みを浮かべる人間。何と美しく、安楽で、文学的であることか……。そうした誘惑に身を任せ、どこまでそのような危険に身を落としていけば良いのだろうか?
議論に決着をつけるかのようにトニオは椅子の肘掛けをポンと叩くと、すっくと立ち上がった。しかし直ぐさま、他人がそんな自分をじっと観察しているように思われ、自らが取った演技がかった所作を後悔した。後、自分の中に残っているものはいつもながら感じる、ある一定のコントロール下で、人々からまじまじと観察され、愛玩されているという印象のみだった。それは恐らく職業上生え出る“歪み”のようなものかもしれない。自分は小説のことを考え過ぎているのかもしれない……。時折、現実の生き生きとしたドラマに真価を見い出だせないことがあった。そうした場合、彼の魂は自らが創り出した幻想や、純粋な、汚れなき想像的要素を有しない過去の経験や、良く練り込まれた感情、それに濾過された現実味を帯びた物語に埋没するのだった……。
中庭でアコーディオンを奏でる男に、「なあ、兄ちゃん、とっとと失せやがれ! あんたは家を間違っているぞ!」と罵声を浴びせるかのように、トニオは窓から身を乗り出した。僅かばかり太陽が丘の上に姿を現わした。その光は世界に形と色を与えつつ、闇を脅かせて行った。
一八六五年頃のことである。将来、聖職禄受給者となるエウゼビオ・モンターニャは下街の穴ボコだらけの通りで遊び廻っていた。僅か四歳の風貌がパッとしないガキの時分、彼の父親はしばしば地所に建つ食料雑貨店の前に姿を現わし、教会通りに建ち並ぶ家々を仰ぎ見て、毛むくじゃらの胸を掻きながら自身に言って聞かせたものだった。
「いつか、あの上に住んでやるとも」
父はほとんど教養というものを持ち合わせていなかったが商才はあった。暗算をし、物の値段や資本金の利子を一瞥するだけで、取引きで生み出される儲けの額を算定することができた。「坂を上り、大金持ちたちの住む通りにいずれ住みたい」。それが川辺で生まれ育った父親の大きな夢であった。時折、夜に夫が半ば覚醒し、半ば夢現の状態でベッドで転げ回っては何やらブツブツと寝言を言ったりする時などは、妻は哀れみと悲しみの眼差しでそんな彼を見つめていた。
「……アズレージョ[彩色タイル]張りの壁に、花壇の縁にはずらりと彫像が立ち並び……」
ロベーリオ・モンターニャは地味で、頑健な男であった。馬車馬のように働き、ベッドの下に置かれた小振りの樽に金を貯め込み、いかなる悪癖にも手を染めることなく、一度として靴と呼べるものを履いたことがなかった。日の出前に寝床から飛び起き、自宅のある通りに最初のガス灯が点ると同時に床に就くという生活を送っていた。友人たちは誰彼となく、冷やかすように次のように尋ねるのが常だった。
「ロベーリオさんよ、いつになったら我々はあの上に住めるようになるのだろうかね?」
当のロベーリオは馬のごとく黄ばんだ大きな歯を剥き出しにして、それに答えたものだった。
「神様がお望みになられるなら、近い内にな」
その御仁が言う通り、神がそのように欲されたのである。それから二〇年後、富裕となった穀物商ロベーリオ・モンターニャは、庁舎の真隣りの大教会の尖塔が聳え立つ側に屋敷を建てるように命じたのだった。昔から育んで来た夢に忠実だった訳だ。先祖の地であるポルトガルから取り寄せたアズレージョを壁に施し、花壇の縁には通りを睥睨するかのように、四季を象徴する彫像をずらりと配置した。ロベーリオは庭に聳え立つ三本の椰子の木を誇らしげに繰り返し賞賛したものだった。それらの木は水を、大地を求めて、ポルト・アレグレを訪れた旅人たちが地平線に最初に目にするものだった。そして多くの場合、庭に面した屋敷の窓辺から身を乗り出しては豊富な水が湛えられた眺望を、空を、山々を、通りを、原野を眺めながら、これから目にするであろう孫や、曽孫のことを、そう、エウゼビオの子供たち、そのまた子供たちの子供たち、累々と受け継がれて行くであろう子孫のことを考えては、自身がロベーリオ・ダ・ルース・モンターニャと命名され、獅子奮迅して来た人生に対して感謝の念を噛み締めつつ、これまで辿って来た半生を思い起こすのだった。
しかし聖土曜日の明け方、夢の中にも、計画の中にも決して存在し得なかった生き物が、かつてと同じ風景を凝視しているように思われたのだった。その生き物こそアリスチィーデスの父、コロネル・キム・バヘイロだった。
屋敷の台所の井草で編んだ椅子にどっかと腰を下ろし、老キムはかつてはベロニカ付きの召使だったが、今や年金生暮らしで、家中の召使を管理する役割を担う黒人女パウリーニャに付き添われ、その日の朝一番のシマハォン茶を啜っていた。
陶器製の文字盤に青塗料でオランダの風景が描かれたキラキラ輝く掛け時計は、六時二〇分前を指していた。コンロには燃え盛る青み掛かった炎の上に置かれたアルミのヤカンが「ピィーピィー」と音を立てている。
キム・バヘイロは銀製のボンバで茶を啜っている。初めてキムを見た者たちのほとんど全ては彼に対して、“血色の良い好々爺”と言う印象を持った。彼の名のみを知る人々はインディオのようにこんがりと日に焼けた肌で、頭髪は黒々と硬く、頬がぐっと突き出ていて、漆黒の瞳をしていると想像した。しかしながら実際のキム・バヘイロの髪は白く、半ば黄金色掛かっていて、絹糸のように柔らかであった。肌は白く、艶々としていた。太陽がギラギラと照りつける田舎の街で半生を過ごして来た男には、どこをとっても到底見えなかった。その顔貌はどうかと言えば、鉤鼻に加えて、半ば紫色を帯びた赤ら顔で、随所に藍色の細い血管が走っている。二重の垂れ下がった瞼、そう湿ったカーテンの様な瞼の後ろで青色のビー玉のごとき目玉が目紛しく動いている。その御仁の顔つきを一瞥するや親近感を感じつつ、信頼のおける人物との印象を受けただろう。加えてキム自身が生来、有している固有の持ち味に注意が注がれることだろう。瞳には査察官のごとき鋭い光と併せて、皮肉に満ちた色合いが見て取れるだろう。言うなれば、悪ガキのずる賢さと、老人の頑迷さが混ざり合った、年老いた雌キツネのごとき雰囲気が醸し出しているとでも言えようか。白く、糸を解いたように垂れ下がり、ニコチンで毛先が黄ばんだ口髭は歯の少ない、皺だらけの口許を覆っていた。剛毛ともいえる顎髭も口髭同様に白く、ほぼ頬全体を覆っており、太い眉毛と繋がっていて、赤ら顔と青色の瞳を際立たせるのに一役買っていた。キムは黒色の外套を羽織り、黒いフェルト帽を目深に被り、首には明るい色合いの房飾りの付いた茶色の絹のショールを巻き付けていた。その様は通りを歩く時も、家にいる時も同じだった。寝る時だけ、その“ソンブレロ”を脱いだ。部屋にいる時でさえ、その帽子を被ったままであるのを不審に思い、それがなぜなのかと尋ねたとしたら、キムは乾いた声で、この自分に反駁することなど許さないといった確固たる口調で、こう答えたものだった。
「蓋のされた器は悪臭を放たないものだ」
キムは陽の光を受け始め、キラキラと輝く川面をじっと見つめていた。そのような景色は好きではない。わしは田舎育ちの男だ。わしはロデオ会場に引き出された雄牛に過ぎん。常々、そう言っていた。しかし今、このわしが引き出されたのは息子の妻の聖職禄受給者の屋敷という、何とも奇妙なロデオ会場なのだ……。だからと言って、わしに何ができようか? わしは奴の親類でも、友人でもないし、そのポルトガル人の知り合いでさえもない。
コンロの側にしゃがみ込み、黒人女のパウリーニャはヤカンをじっと見つめていた。雄鶏が時を告げる。老キムの脳裏に、格子扉の長柄によじ登った一羽の雄鶏の高らかな鳴き声が響き渡った。サンタ・マルタのわしの大農場の格子扉だ……。幾重にも重なり、広がる緑色の草原の丘……。風がバラモンジンを揺らしている……。牛たちの蹄の音…音。
「その牛を追い立てろ! そっちじゃない! シクッタ、そいつに水をくれてやれ!”」
風がバラモンジンを揺すると、小川の水の生温かい匂いがした。台所で誰かの声がする。
「コロネル、今日は牛を屠殺しますかい?」
牛の首の急所にナイフを突き立てると、そいつの目から徐々に生気が無くなって行き、やがて脚を折り曲げて地に倒れ伏す。その際、キムは両手から牛の温かい血が滴り落ちるのを感じた……。灌木を揺する風、どこまでも続く草原……。
クイアの湯が尽きた。キムはパウリーニャにそれを手渡すと、口を開いた。
「美しい朝だな」
黒人女は唸るように答えた。
「そうですね」
パウリーニャはヤカンの取っ手を掴むとクイアに湯を満たし、目を伏せたままボンバに溜まった茶葉を取り除くべく湯を吸い込んだ。キムは喉に痰が絡み咳払いをした。それはまるで巨大な鳥が金切り声を上げるかのように台所に響き渡った。そしてキムは口をモゴモゴと動かせ、唇を幾度となくへの字に曲げた。そうした所作は緩急ない混ぜの咀嚼というか、歯のない口腔の筋肉の引き攣りとでも言えようか、一種の反芻運動であった。周りを見渡す……。ここの台所は――白色のタイル張りで、何やら文言が刺繍された薄手の綿布が掛けられていて、コンロはガスだ。鍋類はアルミ製で、流しはセメントで塗り固められている――恥知らずとさえ思われた。キムは田舎の台所の様を思い出した。コンロは煉瓦が積み重ねられた原始的なもので、煤の匂いがした。ヤカンは鉄製で、これまた煤まみれで黒ずんでいて年季の入ったものだった。同じシマハォン茶さえも全く別の味がしたものだ。キムは聖職禄受給者の屋敷に漂う雰囲気に馴染むことができなかった。自身が絶対的な権威ある主人でない家に住むということが、どうしても理解できなかったのだ。ここに移り住んだことを後悔していた。それはまさに愚行以外の何ものでもない……。それに対して勿論、わしは抵抗した。その反発も半ば呆けが入った、ささやかな頑迷さの表われに過ぎなかったが……。知らぬ内に生簀に放り込まれ右往左往する馬鹿げた、気の狂った魚たちを見る様に屋敷に集う人々を眺めた。そこで、わしはいつも何とも耐え難い苛立ちを感じつつも、その状況を受け入れている。今、台所にいる黒人女パウリーニャのことを――料理も、家事も、洗濯も、庭の手入れもこなす――息子の嫁や孫たちよりもずっと好ましく感じられた。
黒人女は再びクイアをキムに手渡した。彼はチュッと音を立ててボンバを吸った。シマハォンの馴染み深く、ほろ苦い味にはどこか男味を含んだ粗野な味わいを帯びているように感じられる。藁巻き煙草同様に、牛たちを操り、草原を駆け巡り、選挙を巡る駆け引きに奔走し、農場を管理し、革命に身を投じていた頃を思い出した……。あの頃感じた血のたぎるような気分は凍てつく夜明け、あるいは寒風吹き荒ぶ朝を思い起こさせる。農場の側に放牧されていた雄牛たちのいななき。タイワンセンダンの茂みで囀る小鳥たち。家畜の囲い場の臭い。雌牛の温かい乳房。バケツに迸り出る乳。葉で作ったジョッキ。一体、この世の中はどうなっちまったんだ? 皆が皆、そうした田舎生活を好まないようだが……。ガウーショ[牧童。リオ・グランデ・ド・スル州の住民の総称。その男性]たちは皆、近代的になり、女々しくなり、外人のような衣装を身にまとうようになった。あのアリスチィーデスさえも……。外出時に被るあの馬鹿げたコルク製の帽子はどうだ……。頭にあんな道化のような帽子を被るガウーショがどこにいると言うのだ? だが、アリスチィーデスが正真正銘のガウーショだったことは一度としてない。奴は“ドトール”なのだから……。街暮らしが奴を駄目にした。女々しい駄目男になっちまったのだ。あの愚か者は爪の手入れをしたりする。全てが全て駄目になっちまった。もう革命が起こることもないだろう。政治的闘争もな。全くもってくだらん!
「何とも素晴らしい日だ!」
キムはそう言うと、クイアを手渡した。その声は紙やすりで擦るような弾けるものだった。パウリーニャは喉許で「クックッ」と短く笑い、その言葉に同意すると耳の後ろに挟んだ煙草の吸い止しを取り、それをガスの炎に近づけた。キムは炭火で美味い煙草に火を点ける際に感じた喜びをしみじみと思い出した。ポケットから加工が施されていない煙草の葉の塊を取り出すと、ナイフの刃を引き出し、その塊を刻み始めた。愛情を込めて、注意深くその作業に没頭する。煙草の刻み屑が左の掌にパラパラと落ちて行く。
「レニーニョは昨晩、帰って来なかったわね」と、パウリーニャが言った。
キムは頭を振りながら小声で笑った。
「どこぞやの女としけ込んだのさ」
パウリーニャは美味そうに煙草を吹かした。彼女は褐色を帯びた縮毛で、魚のような目に、角膜は鬱血していた。艶々した丸顔で、ふくよかな胸はすでにだらりと垂れ下がっていた。木の幹のように太い脚はリューマチを患っていた。
「あの丸々太ったガキンチョを抱いてあやしたものさ。それがまるで昨日のことのように思えるわ。今では、そこいらで悪さをするようになるなんてね。一体、誰に似たのかしら?」
キムは目をグリグリと回した。
「あのヒヨッコは目許から何から何までバヘイロ家譲りさ」
キムはこれまでつき合って来た愛人たちのことを思い出した。ムチムチした肉づきの良い脚の女ども。どっしりとした尻のムラータの娘たち。馬具の上で組み伏せて、しな垂れ掛かる中国女たち。小川で水浴びをするカボクラの娘たち。サルスエラ[スペイン起源の軽歌劇団]たちを伴い、ある日のことサンタ・マルタに通り掛かった金髪の貴婦人。
短い沈黙があった。キムは刻んだ煙草の葉を膝の上に載せるとポケットからパーリャ[トウモロコシの皮]を取り出し、それをナイフでなめしつけ始めた。
「で、ところで“彼女”はどんな具合だい?」と、キムが尋ねた。
これまで“ヴェロニカ”という名を一度として口にしたことがなかった。それこそ、その御仁に対する悪意の表われだと言えた。パウリーニャは肩をすくめた。
「いつも不機嫌そのものだわ」
「変わり映えしないってことか?」
黒人女は頭を縦に振った。
「私はそういった人種のことを知っている。モンターニャ家の連中はたとえ飢え死にしようとも、決して敵に背を向けることはないわ」
キムはパーリャの窪みに刻み煙草の葉を載せるとクルクルと巻き始めた。
「見栄っ張りめ! 愛人の一人すら持たない輩だって? どこのどいつだって一人ぐらいの女を囲っているって言うのにな。全くもって腰抜けだ! 男と言うものは“かかあ”以外の女が必要なんだよ」
「老エウゼビオはガゾーメトロ[ガス工場]に中国女を一人囲っていたわ。因みに彼はその女のために大金をぶっ込んだと言うことよ」
「アリスチィーデスは愚か者だ。尻尾を掴まれているのだからな。ああ言ったことは普通、秘密裏にやるものだ。カミさんに発覚したら旦那は開き直って猛り狂い、雄叫びを上げて、それでおしまいだ。カミさんは知らぬを決め込む」
「モンターニャ家の連中はラバより頑固だわ。そう言った血筋だと、私はよく知っているもの」
「愚か者たちめ! 火をくれないか」
パウリーニャはかがみ込むと、煙草を咥えた顔をキムの方へと近づけて行った。キムも同じようにした。しばし二人の煙草の先が触れ合う。キムは自分が何やら“悪事”を働いているようだとぼんやりと感じ、ニッと笑った。そして上半身を起こすと美味そうに煙草を吹かした。
「もし“彼女”がわしのカミさんだったら(そんなのは金輪際、ごめん蒙る)、思い知らせてやるのだがな」
「モンターニャ家の連中は皆、頑固者よ」
「バヘイロはその中でも極め付けだな。なあパウリーニャさんよ、全てのロバは草を喰む。問題なのは奴にどのように餌を与えるか知っているかどうかだ。分かるかい?」
キムは女と馬とを比較することを殊の外、好んでいた。まさに“競り勝った”娘が眼前を通り掛かかろうものなら、「美しい雌馬だ。尻尾をピンと立てている様なぞ、何とも言えん!」と、口にするか、考えたりした。キムの哲学によれば人間のメスは二つの場を担うためにでき上がっていると言うことだった。一つはベッドで、今一つは台所という二つの場だ。女というものは料理ができ、チーズや菓子、腸詰を作る術を知っていなければならない。加えて家事全般を切り盛りし、家長の衣服に気配りする必要があるのだ。さらには子をもうけ、衝動的な愛情の残渣を情婦と分かち合いたいと夫が考えようものなら、夫の機嫌を取る必要があるのだ。ぼんやりとだが一般的に流布する、あるいは彼独自とも言える女性に関する規範は庶民が有する知恵、田舎で言い古されている諺から得たものだった。
“雌鶏と女は散歩をすることを許すことなかれ”
“雌鶏には害虫が付く。女は言い寄られるものだ”
“女と武器、乗馬は決して貸してはならぬ”
“女と猟犬は血統書付きのものを選べ”
“他所者の娘と結婚する。それこそ、その都会の雌馬にとって端縄も、繋ぎ杭も全く無縁だ
ということを思い知らされる羽目となる”
“貞潔で、名家の出の気高い娘を妻として娶る。それはまさに宵の角笛が無鉄砲な女と
結ばれることと同意だ”
ここに身勝手で、嫉妬深い夫がいたとしよう。彼の持つ嫉妬心は相方へのありとあらゆる愛情が消失した後も決して消えることはない。と言うのも、その嫉妬心こそ男性ならではの自尊心、男気、他者を占有したいという虚栄心に満ちた渇望で熟成されているからだ。夫が妻に子種を植え付け、その後、妻が肥え太り、体型を崩し、額の肌がだらりと垂れ下がり、顔は老いさらばえ醜くなる。そうなって、他所で別の女たちの尻を追っかけ、いかなる良心の呵責も、懸念もなく、同じように子をもうけるのは至って自然だと考えている。それこそ、これまで先祖代々受け継がれて来ている法と言うものなのだ。どこにもそれが文面化されている訳ではない。しかし、その法を皆は遵守し、誰一人としてそれに異議を唱える者はいない。
キムは息子の嫁のことを考えていた。彼女はわしが“黒人の溜まり場”に出入りすることを好んでいないということは重々承知している。それを分かっていて敢えて、頻繁に台所に足を運んでいた。ヴェロニカを蔑視する意味で、彼自身、それを良しとは決っして思ってはいなかったが、召使たちにある種の信頼を寄せていた――これまでの政治的、家父長的経験が農業労働者や召使、取るに足らない下層民に対して、過剰な信頼を置かないよう、威厳を持って振る舞うべきだと訴えかけてはいるが。
「今日は聖土曜日よ」と、パウリーニャは鼻からフゥッと吐き出し、窓の外を見やりながらそう告げた。
「サンタ・マルタでわしが法だった頃、連邦主義革命者らのあばらに“ハレルヤ”の弾丸をくれてやれと命じたものだ」
キムは当時のことを思い出し、ニタっと笑った。そして「やれやれ」と言う具合に頭を左右に振った。
時は水を湛えた小川の水流のように過ぎ去って行くものだ。そう、キムは考えた。人は老いて行き、物事は変わり、新しい様式がやって来て、全てがつい昨日起こったことのように思えるのだ。そうだな……。時折、我々は立ち止まると突如として言葉や物音、人の名を耳にしたりする。そうするや否や、三〇年以上前の一連の出来事を思い出したりする。だが、たかが三〇年が何だって言うのだ! 馬鹿馬鹿しい! 時には五〇年以上前のことだって思い出すことだってある……。
パウリーニャの姿が扉を背にくっきりと浮かび上がった。日差しがキラキラと輝く細糸のごとく照らし、黒人女の燠火にかがみ込む頭の輪郭を浮かび上がらせている。黒く、猿のそれのような産毛が耳に生えている。耳か……。キムは革命の真っ只中にいた。九四年のある朝のことを思い出す。このわしは当時、フィルミィーノ・デ・パウラ隊に所属する大尉だった。わしの部隊は前衛を任ぜられ、グメルシィンド・サライーヴァの亡骸が埋葬されたサント・アントニオ墓地の中を進軍して行った……。
「ならず者の遺体を掘り出せ!」と、司令官が命じた。
墓所から亡骸が引き摺り出され、雄叫びと嘲笑が渦巻く街道の道端に運ばれた。キムはその亡骸を凝視していた時のことを思い出した――血の気の失せた蒼白な顔。もじゃもじゃの長い顎髭。首には憎むべき赤色のネッカチーフが巻かれている。そこで自分は考えた。“奴の耳はこの俺様のものだ! 息子たちやその孫たちに見せるために、そいつをサンタ・マルタに持ち帰り、綿を敷き詰めた小箱に納める必要がある……。そして彼らにこう言うのだ。「ならず者の耳を見てご覧」、とな。それを勲章メダルの様に保管しておく……。もしグルメシィンドの頭を切り落としたのは誰かと尋ねられたら、こう言ってやる。「州長官はそいつを知る必要がある……」、とな”
突如として、キムの記憶の場面が変わった。皆がテーブルを囲み、カロヴィの戦いの話をしている。誰が死んで、誰が死ななかったのか?……。そこでわしが皆に尋ねる。「革命から持ち帰ったちょっとした土産物を見てみないかい?」、と。皆は「是非、見てみたい」と、答える。わしは例の小箱を探しに行き、細心の注意を払ってそれを開けると、さらりとこう言う。「グルメシィンド・サライーヴァの耳だ。そいつを切り取ったのは奴の下僕だった、このわしだ」、と。テーブルを囲む皆は「おーっ!」と驚嘆の声を上げる。女たちの一人は気絶する。代母のテレジィーナは胸を喘がせて席を立つ。ヤクザ者はグルメシィンドを崇拝していた……。その日の残りの時間、皆はしかめ面をして過ごしていた。
キムは半ば目を細めて、美味そうに煙草を吹かしていた。今は“連邦”誌のの偉大なる記事の文面が脳裏に去来していた(何とも素晴らしい記事だ!)グルメシィンド死去について報じた記事はこんな感じだった。
“何とも残念至極のことである。アンデスの民のごとく、呪われし汝の亡骸を寛大に覆うこの大地こそ、気の毒でならぬ。その胸糞悪い墓穴に生贄として捧げられた母たち、犯された処女たち、南部の野獣たち、リオ・グランデの野蛮なる暴徒たちの全ての苦悩が汝に降り掛からんことを切に願う次第である”
キムはまさにその紙面を実際に目にしているかのように文字のフォント、紙の色までまざまざと思い起こしていた。
“死した悪党は民衆の憎悪に触れないためにも、はたまた人皮を被った怪物の吐息が勇猛果敢たるガウーショの地の歴史を飾るページに刻まれることがないためにも、地中深く埋葬されることを切に望む”
記事の締め括りはこんな感じだった。
“悪党の記憶は永遠に呪われんことを!”
黒人女パウリーニャの耳が日差しを受け浮かび上がっている……。キムは「フフフッ」と、笑った。あれは九四年のことだが、つい昨日のことのようだ……。時は水底深い小川のごとく流れて行くものだ……。
「どうしてそんな風に黙り込んでいるの?」と、黒人女が尋ねた。
「考え事をしていたのだ……」
「ロバが死んだと考えているのでしょ」
「躾のなっていない女め。お前の母親の頃のことを考えていたのだ!」
パウリーニャは肩を揺すり、胸許を震わせて痙攣するような嗄れ声で笑い始めた。戸口の暗がりに人影が現われた。地下室で就寝していた給仕女がコーヒーを沸かすために台所に姿を現わしたのだった。
「おはようございます」
その給仕女は挨拶した。時計を見ながらパウリーニャは、「もう来ないんじゃないかと思ったわ」と、給仕女を窘めた。
「まあまあ……、どうしてそんなことを仰るの」
娘はコンロの方へと近づいて行った。キムはじっとその娘の脚を凝視し、品定めするように老人独特の舐めるような視線でムラータの豊満な尻をじっと見つめていた。そして煙草を咥えたまますっくと立ち上がると、二歩足を進めて給仕女の尻をポンポンと叩き、軽い足取りで奥内へと続く扉の方へと小股で歩いて行った。
「好色なジジイめ!」と、パウリーニャは叫んだ。
廊下の奥からキムの鋭い咳払いが聞こえて来た。
マルセーロは日が昇り、その光が部屋に差し込み始める前の時間、ランプに火を灯し机に向かっていた。自分は日差しが嫌いだ。太陽が燦々と輝く日より、雨模様の日の方が好ましい。雨は貞節にして、どこか心落ち着かせるものがあり、キリスト教的な謙虚さを持ち合わせている。灰色にかき曇る日は瞑想するのに最適で、修道院生活での出来事を思い起こさせ、生き物を自らの内面奥深くに回帰させるのである。
マルセーロは雑誌“精神”の次号に掲載しようと考えている記事のために走り書きしたメモを再読していた。殴り書きされたメモの内容を提示する主題に沿うように秩序立てて整理し、明瞭化するように努めなければならない。記憶から抹消しようと努めている馬鹿げた事柄が夢に現われて、何とも落ち着かない夜を過ごした。そして今、机に身を屈め、夜着のまま、そのメモに関心を集中しようとしていたが自らの注意力は散漫であった。心に常に留まり続ける心配事がそうさせていたのだ。つまりヴェロニカとアリスチィーデスを巡る問題に全ての関心が向いてしまうのだった。
時折、父の姿が脳裏に去来する。常々、父に対して抱くイメージそのままの姿で彼は現われるのだった。外部世界に渦巻く数多の問題も心から離れない。それは大学の哲学科での諸問題も含まれる。たとえば、学生たちの中に講義をサボタージュするコミュニスト連中がいること。あるいは、忌むべき戦争について、そしてそれによって無益な血が流されることをあたかも他人事のように事もなげに話す連中がいること等々。
マルセーロは自らの手をじっと見つめた。震えている。体が弱っているのだろう。ここ二四時間以上、口にしたのは水だけだから。ベルを鳴らしてエデルヴィーラを呼び、朝食を持って来させようか。しかし昨晩見た夢と潜在的に結び付くあるものが、そのようにするのを妨げていた。女召使の存在は今の自分にとって好ましくない。彼女のネバネバした、汚らしい存在は自分に不快感を与えるからだ。決して良い影響を及ぼさない。もう少し後に他の連中と一緒に朝食を摂るために階下に降りて行こう。あるいは、それも止めておこうか……。だが、身体が萎える感覚は心地良いものではない。何かこう汚れなき、高尚な非物質的なものがあれば良いのだが……。
メモ書きに注意を傾けるように努めた。記事のために大胆とも言えるテーマを選択する必要がある。“汎米主義の諸相”ではどうか……。その題材を公平さと平衡感覚を駆使して検討してみよう。ありとあらゆる観点からそれを観察し、その主義、主張が教会に対していかなる弊害を及ぼすかを主唱する。なぜなら“良き隣人”と言う欺瞞の下、いかに我々、人民に劣等感に満ちた感情を植え付け、狡猾なペテンが人民を不敬な態度であしらい、宗教的感情を逆撫でするものがそこに含まれているかを知る必要があるのだ!
走り書きを読み始める……。それらは思いつくままに書き殴ったものであったため、自らが書き記した文字を判読するのにも苦労を強いられる。とりわけその文面に込められた精神状態を解読し、乱雑に書き散らされたメモに整合性を持たせるのは困難を極めた。
“憎悪すべき近代文明。それこそ保守階級や知識階級による順応主義蔓延の表われである。奴らの関心事こそ、より良い生活を夢見、暴利と貪欲なる快楽の追求に尽きる。奴らは忌むべきヤンキー精神こそ最も崇高なものと信じている。それは言うまでもなく、我々を偽りの進歩へと誘うものである”
恐らく、“忌むべき”という言葉は使わない方が良いだろう。ありとあらゆる分野、領域において、無理解と背信というものが付きものだから。今日のような時代において、用心に用心を重ねることこそ肝要である。
マルセーロは堪らず拳で机を叩いた。しかしながら、その過剰ともいえる用心深さこそが教会そのものを弱体化させていることは疑いの余地が無い。四方八方に幅を効かせている適応主義め! 皆、カタコンベに戻るのが怖いのだ。いいや! ここで、いかなる婉曲表現も使うまい。全ての事柄に真実の名を与えよう。
再びメモを読み始める。
“古きヨーロッパは腐敗しつつある。しかし少なくともそこにはある種のかつての威厳が、これまで培って来た文化の土壌があることは確かである。かたや超工業化を遂げたアメリカ合衆国は成金主義で、低俗且つ露出狂的な文明の礎を築きつつある。アメリカの書物や雑誌の表紙を飾る、どぎつい色彩の衣装を身にまとったカーニバルに浮かれ興じる人々のごとく、取るに足らない表現方法に注目あれ。全てがセロファン紙で溢れ返った表層的には光り輝く、気取ったものに過ぎない(ヤンキー文明ならではの表層的なものを際立たせていると言えようか……。注目あれ! 何よりも先ず、文明という言葉の定義づけを行い、文明と文化の差異を明らかにすべきである)”
“大衆の扇情主義に満ちた欲求を満たさんがために執筆された小説について、ここで言及する――その扇情的ともいえる欲求とは、ラジオや映画、書物や新聞、雑誌などを通して、北米のヤンキーによってもたらされたものだ”
“聖歌隊員を晒しものにするがごとき裸体主義の追求、美女コンテストについても話そう。それはまさに白人女性たちを売り込むための新たな市場開拓を目論む、新境地であろう。かのハリウッドこそ、人々に嫌悪感を抱かせる、下劣極まりたる場所である”
“‘フラッパー’や‘グラマー’、‘セックスアピール’といった低俗の権化たる存在も忘れてはならない。そうした言葉は我らの子供たちでさえ身につけ、最初は無邪気に、その後は邪心をもって繰り返し口にするのが常である。全くもって全てが不快かな、‘セックス’の臭いがしてならない”
マルセーロはこうした率直さが仲間内や教会の友人たちの間で、いかなる反響を及ぼすか認知していた。しかしながら曖昧且つ逃げ口上をもってやって行くにはあまりにも時が逼迫している。両手で頭を抱えると、さらに走り書きに目をやった。
“全てにおいて、北米の精神性の影響が垣間見られる。彼の地からもたらされた文化、あるいは少なくとも映画が発奮材料となっているのか、女性の喫煙習慣奨励など、その影響の最たるものであろう。煙草の灰をトントンと落とし、脚を組み、煙をフーッと吐き出す。顔には化粧を塗りたくり、爪にはマニキュアを施す。浜辺では肢体をこれ見よがしに晒し、そう、まさに裸同然で闊歩している女性たちの行為こそ、恥知らずと言わずして何と言えよう。男たちを魅了するための術策――ぴっちりと肌に張り付き、胸の形がくっきりと浮かび上がるセーターにショートパンツ姿等々。
そうした影響により、離婚問題に至るケースが多い。これも映画によって美化され、助長されていることは間違いない。その証拠として北米では婚姻の神聖さを排除すべく、‘対話’キャンペーンなるものが推進されている。深刻さを帯びた全ての諸問題がこれこそフェアーな解決策だと肩をすくめては、その本質部分が脇へと追いやられているのが実情である。重要な点こそ、ここにある! ‘何ものにも囚われない’といった種類のボヘミアン的精神こそ、邪悪なのだ。その災いの根源たる‘何ものにも囚われない’という思考、その中核にある精神こそ‘自己中心的’なもので、所詮、‘人生は一度切りだ’という痴呆のごとき浅はかさを力説しているのが、映画や演劇なのである”
“混沌たる官能的表象や飲酒習慣、フリーセックス、離婚、女性の絶対的自由等を賞賛する映画や書物、演劇について話そう。映画の作中、登場人物たちがいとも容易に飲酒に耽る様に注目せよ! それはあたかも‘ウイスキー’が生命の源でもあるかのように重要視し、それを飲むことこそ、ある種の儀式でもあるかのように飲酒に耽る。巷でよく言われていることだが、両親に対する敬意の喪失や、金への盲目的信奉、最終目的としての安楽さ追求等も黙過できない点である。それら全てがアメリカ的似非芸術の美として、我々に提示されているのだから。極めて重要なことではあるが‘ヤンキー’による科学至上主義に加えて、世間に広く流布しているウィル・ドゥランやヴァン・ルーン、ヘンリー・トマス等の忌むべき書物こそ欺瞞の権化であることを忘れてはならない”
“全てが全て笑い話となりやすいからか、風刺による、はたまた狂態による嗜好が世界を席巻している。そうした全ては戦後に生まれ出た精神構造、つまり物質至上主義の産物であると言えよう。多人種共生に対するプロテスタント的寛容さこそ、最も危惧すべき案件であると、私自身考える。つまり儀礼や教理に対して、自由を唱えるプロテスタンティズムである。そのイズムこそ声を大にしてアメリカ精神の重用を訴えている。それ自身、現代世界に蔓延る放埒さを厳しく戒めているのにも関わらずである。とどのつまり、その点こそ最も糾弾されるべきことである!”
“多くの危険が‘汎米主義’の背後に潜んでいることを容易に推察できよう。映画やラジオ、書籍、それに印刷物を通して、我々の許に侵入して来る力に対して反旗を翻す必要がある。それをせねば我が国は個性を喪失し、日々、視覚や聴覚を通して‘アメリカ至上主義’にじわじわと取り込まれて行くのだから。毒気に犯された物語や、戦争や犯罪、はたまた到底、実現不可能な冒険を描いた荒唐無稽な物語を掲載した‘子供向けの付録’が折り込まれた新聞の類い(汎米主義こそ毒気に満ちた‘ヤンキー’精神を浸透させるための極めて狡猾な口実なのだ)そうした物語は‘シンジケート’と呼ばれる組織を通してばら撒かれている。奴らの目的は二つある。一つは金儲けである。今一つは映画愛好家やアメリカ書籍の愛読者、それに北アメリカ生産品を買い漁る購買者といった土壌に種を蒔くことである。‘子供向けの付録’に綴られた様々な物語にはいかなる精神性を伴うことも、神の存在を顕わす要素も皆無である”
“‘汎米主義’を推進する。それも良かろう。しかし大前提として信仰の根本義たる‘いかなる見返りをも求めない’隣人愛の精神を持って、自身が常に伝統を重んじるカトリック教徒たることを胸にそれを存続し続けることを常々、欲し、目指さなければならない。加えて南米大陸の平和構築に従事し、内なる敵、魂に巣食う敵、信仰を揺るがす敵と戦い続けなければならないのだ。
しかし実際問題、そうした敵がどこに潜んでいるのだろうか? 恐らくカトリック主義の城塞の中に紛れ込んでいるに違いない。強欲な商人たち、名だけのカトリック教徒たち。そうつまり、心の奥底で偶像崇拝している者たちだ。そうした者たちの汚れた、粘着質の人生において、心から神に信仰を捧げる時間など全くもってない。上辺だけの宗教心をひけらかすだけだ。時折、ミサに足を運ぶことで、神を欺くことを企図している。全てを軽率に行い、‘ヤンキー’精神の流布に励んでいる輩こそ、そういった人間たちなのだ。奴らこそ盲目にして、思慮の浅い人間なのだ。よって彼らにとってブラジルが搾取されようとも歯牙にもかけない”
マルセーロは万年筆を手に取ると白紙の紙を一枚、取り出した。しばし考えを巡らす……。右目の上辺りに鈍痛を感じる。落胆ともいえる感覚を覚えつつも、ある種の閃きが脳裏に浮かぶ。しかしその閃きは不安定且つ心落ち着かないもので、文学的発想に富んだ文章を生み出すような類いのものではなかった。万年筆を放り出した。
ついと立ち上がると太陽を見た。ランプを消す。半ば眩暈を感じつつ執務室から出て行った。そしてベッドに腰を下ろすと、ラジオの方を見やった。朝のニュースを聞くためにラジオをつけようか……。いや、止めておこう。戦争を報じるニュースなぞ耳にしたところで悲しみと嫌悪で心が一杯になるだけだ。世界は崩壊のプロセスを辿っている。そして何よりも最悪なのは戦争により、ボルシェビキに新たな兵器が提供されているということだ。ドイツがロシアとの同盟を継続し続ける方が何千倍も良いというのに。その同盟にはある種の妥当性があるのだ。そう、それは組織立った無神論による同盟とでも言えようか。しかしながら馬鹿げた状況が生み出されつつ、ボルシェビズムにとって好都合なプロパガンダが流布され、ナチスとコミュニズムが手を結び戦いが繰り広げられている。
ヴェロニカのことを、さらには前夜、彼女を引き留めて交わした会話について考えた。今晩、聖土曜日の夜に夫婦連れだって演奏会に行くべきであるとヴェロニカを説得することが、この自分にはできた。そう、夫婦共々並んで、ボックス席に腰を下ろすという目的を遂行するために。そうした場合、互いの囁きを止めることは不可欠となろう。
マルセーロはヴェロニカが抱える家庭問題を解決するためのいかなる糸口も見い出せずにいた。これから先、彼女とアリスチィーデスとの夫婦関係はますます冷えて行くことは明白である。しかしながらアリスチィーデス自身が全身全霊をもって悔悟し、非難の余地なき生活を送ろうと努めるなら、いづれの日にかヴェロニカは全てを忘れ、全てを水に流すことになるだろう。
マルセーロは今一度、この屋敷を去ることを考えた。ここは全くもって奇妙きてれつな場所だ。かつてここを去ろうとした時、ヴェロニカはここに留まってくれと嘆願した。恐らくこの屋敷にあって、この自分が唯一の友だと彼女が考えていたからであろう。自分が侵入者であるかのような印象を受け、実際に不信の眼差しを向けられたり、時には敵意剥き出しの視線が注がれているのを目にするにつけ、恐怖に満ちた古いセミナーリオの小部屋か、あるいは信頼のおける下宿屋に身を置く方が良くはないか。そう考えつつも同時に、神の御業を実現するために、これほど必要とされているこの屋敷を荒廃させて良いものかと考えたりもする。
ここは間断なき問題を抱えている。アウレーリオとアウローラ、この二人も問題の種だ。ある時、マルセーロは残念だが、彼らが全くもって救いようがないという結論に達したことがあった。しかし、そうした考えに反駁を覚えたことも事実である。自らの焦燥感、苛立ちを抑え込み、克服せねばならない。寛大且つ心穏やかな気持ちを持ちたい、そう切望したものだ。怒りに身を任せることがどれほど容易なことであるか思い知らされた。それこそ自らが持つ抑制し難い性分であって、血筋ならではのものだと、当時は片づけはしたが。自制し、諦観と忍耐を持って臨む必要があるのだ。根本においてアウレーリオは決して邪悪な青年ではない。全てが一過性の問題であると信じる。
今一度、自身を魅了する思いと同時に、恐怖に苛まれるという両極端の思いについて再考した。もし甥がベッドに横たわり、命を落とすような悲惨な事件に巻き込まれたとしたら……。それは肉体的にも、もちろん精神的にも恐ろしいことだ。魂を失うより、むしろ片脚や片腕を失った方がどれほどましか。いづれにせよ、そのようなことを考えたところで埒があかない。
アウローラに関しては、じっくりと忍耐強く教育を施す必要があろう。つまりあの軽率さや、彼女にとって最も深刻な関心事たる衣装やパーティー、展覧会に映画等、魂を空虚ならしめるものを滅することこそ重要なのだ。
戸外では太陽が通りを、屋根を、丘を、裏庭をギラギラと輝かせている。マルセーロは窓辺へと近づいて行くと思わず眉間に皺を寄せた。このように光り輝く日は言い知れぬ不快感に苛まれ、危機感の衰えを感じる。夜の方が好ましい。あるいはくすんだ光が差す曇りの日の方が良い。日差しの中に異教徒の尊大さ、あるいは外向性を促す誘いのようなものを感じる。周りを包む雰囲気が暗がりの時の方が魂について、深遠なる意味合いを熟考するのにずっと適している。
マルセーロはあたかもそれ以上、考えに耽ることを避けるかのように部屋の中を歩き廻り始めた。記事の内容に考えを集中することにしよう。しかしいくら邪悪な考えを頭から振り払おうとしても、次から次へと脳裏に堕落した思考が去来した。マリスト会の寄宿学校に通っていた子供の時分、常に罪の意識に付き纏われて生活を送っていた。神に対して、キリストに対して、聖人たちに対して、醜悪な事柄と結び付けて考えたくはないと思っていた。夜の帷が降り、寄宿舎が静まり返ると、邪な考えが頭に入って来ないよう顎の上まで上掛けを引き上げた。しかし、それらはやって来るのだった。サンタ・マルタの実家の庇の上で羽根を休める聖霊の鳩に石を投げ付けることを想像した。十字架に架けられたキリストの姿をまじまじと仔細に観察したりした。そのような思考を止めようと歯軋りした。眠って、全てを忘れようと努力した……。だが無駄だった。聖母マリア、聖アントニオ、学院の女校長、それに寄宿舎の若い尼僧たちに対する邪な考えが脳裏に浮かんだ。全くもって耐え難い! 夜な夜な見る夢の記憶にマルセーロが屈服する時があった。股引きを履いた父が地獄の回廊を伝い、唸り声を上げて駆けて来る。その事が今でもはっきり覚えている唯一のことだった。
ガウンを引っ掴むとそれを身に付け、扉を開け、廊下へと足を踏み出し、浴室へと向かった。そこに滑り込むと扉を閉め、洗面台の蛇口を開き、頭を水で濡らした。すぐさま子どもの頃、ある日の昼下がり、父の牧場にあった泉の側でそれと同じことをやったのを思い出した。水が鼻へ、口へ、耳へと入って来て、所構わず水滴を撒き散らし、息を激しく吐き出した。
牧場での午睡の時間のことだった。
「おい、外で遊んで来い!」と、父が命じた。
マルセーロは行かなかった。日差しがとても強かったからだ。今いるところで古い雑誌のページをめくっている方が良い。ハンモックがギシギシと軋む音が聞こえる。父が眠るために揺らしているのだろう(母は街にある家に戻っていた)茹だるように暑い部屋の中をハエがブンブンと飛び廻っている。一匹の青色のニクバエが窓ガラスにぶつかった。蒸し暑い天気が燃えたぎる大カマドのごとき息吹きを吹き掛ける。草原に満ちる空気は震えているように思われた。
マルセーロは父が「シィーッ」と口にするのを耳にした。突如として、料理人の娘で、一六歳のカボクラ[白人とインディオの混血の女性]のチッカが素足で、物音一つ立てずにこっそりと辺りに目を配らせながら、羞恥と興奮を胸に父の部屋に忍び込んで行った。そして父のハンモックに潜り込んだ。その場で息を殺し、心臓の鼓動を高鳴らせながら、マルセーロは眼前で繰り広げられる全てを見ていた。それらの光景は魅力的とも、苦悩とも、あるいは驚嘆とも言えるもので指一本を動かすだけの勇気もなかった。
マルセーロは頭をゴシゴシと拭った。そうした思い出を記憶から消し去りたい。あれら全ては夢の中でのみ起こるべきことなのだ。ある種の悪意を込めて鏡に映る自らの姿を見やった(鏡とは虚栄心そのものだ)髭を剃る必要がある。頬を手で撫でた。琺瑯引きの小さな戸棚から剃刀と刷毛の入った壺を取り出し、泡を立てるとそれを顔に塗りつけた。憂さ晴らしをする者のようにそれら全てをせかせかとやった。それにもかかわらず、例の忌々しい思い出が再び脳裏に浮かんで来た。マルセーロはかつて何度もそうしたように、確固たる気持ちでそれらの思い出に対峙することにした。大の大人がそうした事柄に対して、少年のようなオドオドしたはにかみを持って真向かうことは理に適ったこととは言えまい。他の全ての問題でも同様だが、そうした問題は勇気に満ちた誠実さを持って観察すべきなのである。すでにいかなる疑問もない。父との関係性を握る鍵は、あの日の午睡時の出来事に見い出すことができるのである。当初、その出来事を精査して、別の説明がそこにないか探し求めはした。しかし道が逸れれば逸れるほど、結局のところいつも同じ道に戻っていることに気づくのだった……。
あの日以来、父のことを犯罪を犯した極悪人と見なし、恐れと嫌悪がない混ぜとなった気持ちで接するようになった。父は常々、愛されるよりも、敬意を払われる人間でありたいと考えていた。よって息子を些細な理由で殴ったし、もし母のスカートに縋り付いていようものなら苛立ちを隠さなかった。父はこの自分を女々しい奴と言わんばかりに扱った。その様は憎悪以外の何ものでもなかった。父のイメージとある種の臭い――馬の汗に生革、煙草のヤニの臭い等――が常に結びついている。それらの臭いは田舎の生活や慣習を表徴するもので、マルセーロ自身が忌み嫌っているものだった(家畜の排泄物や腸詰め、屠殺された血、ダニの駆除薬等の臭い、黒色の石鹸等々……)しかしながら何よりも最悪なのは、父が例のチッカと同じような年齢の少女と性交を繰り返しているのを目撃したことだった。そのことは頭が真っ白になるほどのショックを与えるものだった。それ以来、マルセーロは母に対して嫉妬心に満ちた気兼ねと憐憫、それに不快感が入り混じった感情を抱き、不信と憎悪の眼差しで見るようになった。ある日の夜のこと、まんじりともできず、ベッドの上掛けに潜り込んでいた時、両親の寝室の方から疑わしき物音が聞こえて来て魂が凍るような思いに襲われた。疑いの余地はない。両親はハンモックの中で、“例のあのこと”をやっているのだ。
やがて静寂が訪れた。両親の寝室の扉が開き、父と母が姿を現わした。母はネグリジェ姿で、父は股引きを履いている。二人は食堂へと入って行った。マルセーロはベッドから起き上がり、食堂の方を盗み見た。テーブルに座っている両親が見える。母は蒼白顔で、悲しげな表情を浮かべている。他方、父はと言えば、脂ぎって艶々した唇に、赤ら顔だ。二人はファロッファをまぶしたソーセージを食べている。自分のいる場所からソーセージを咀嚼する音が聞こえて来た。その音は豚たちが餌を貪り食う際に立てる、“ビチャビチャ、ガツガツ”とした音を想起させるものだった……。
その日の夜以来、マルセーロにとって“夫”と“ソーセージ”という言葉には卑猥な意味が含まれることとなった。それゆえ来客時にせよ、食卓を囲んでいる時にせよ、それらの言葉を耳にするとマルセーロは顔を赤らめ、心臓は激しく鼓動を打った。まるで殉教者のような雰囲気を漂わせ、蒼白顔で悲しげな表情を浮かべたネグリジェ姿の母親、そしてソーセージを貪り食う股引き姿の父親……。その二人の姿を決して忘れる事ができない。
ずっと後になって、革命という恐ろしい日々がやって来た。叔母たちが部屋の片隅でヒソヒソと囁き合っている。
「キムはジョセファを殺しちまったそうだ」
夜、ベッドの中で、マルセーロは革命で父の身に起こっていることをあれこれと想像した。父は敵の首をはね、亡骸を踏みつけ、戦いの後にソーセージを食らい、田舎娘たちを天幕に連れ込んでいるのだろうか。
母が他界すると、マルセーロは神学校の寄宿舎に居を移した。そこには友好的な風土が整っていた。神をより身近に感じる事ができた。神と共にあることで心に安らぎが訪れ、人生において自らが辿るべき方向性や目的を見い出すことができた。しかし常々、自身の思考の奥底に決して解くことのできない結び目のごとく、あの日の夜に暴露された身の毛もよだつ光景が留まり続けていた。
マルセーロはぼんやりと顔に剃刀の刃を滑らせていた。今日でさえ、自らの中に渦巻く感情を明確に言い当てることができない。幼少期のあのような出来事、耳にした言葉、受けた印象の上を数多の年月、多くの書籍、幾多の沈思黙考、それに祈りが通り過ぎて行った。父の許を離れた後、父と自分を隔てる距離を縮めようと、あるいは“過去の過ちを改めるよう”愛情のこもった言葉を口にするように努めた。しかしながら実際に父と顔を突き合わせると、かつて抱いた気兼ねや嫌悪に彩られた恐れが再び頭にもたげて来るのだった。十戒には“父を敬え”とある。もちろん、それも重々承知してはいる。しかしながら人間たることを拒否している生き物をどのようにすれば敬い、愛することができるというのか?
そして今、以前と同じあの家で父は部屋に閉じこもり、死が訪れるのを待っている。時遅し、手遅れとなる前に自分は何らかのことをやる必要がある。神父様を父の許に連れて行こうか。愛に満ちた何らかの試みをしてみてはどうか。いつも試みようとするものの結局のところ……。
廊下で足音に続き、いつもの聞き慣れた咳払いが聞こえて来た。それは巣穴へと引っ込む、手負いの猛獣の雄叫びのようであった。しかし仮にそうであったとしても、裏を返せばそれは助けを、慈悲を求める叫びなのだ。そこに未だある種の横柄さや、獰猛さ、非人情さが残ってはいるが……。
セッチは母の叫び声で目を覚ました。
「セッチ・メーイス、起きなさい!」
目を爛々と輝かせ目覚めるや否や、素っ裸のまま素早くベッドから飛び起きた。マンドリンの膨らみのような形をした閉塞症を患った腹部はダラリと垂れ下がっている。
「ミルクを取って来て頂戴。このねぼすけめ。もう六時を回っちゃっているわよ!」
泥まみれで強張り、逆立った髪をボリボリと掻きながらセッチは唇を引き結び、自分が丸裸であることを知らない振りをしつつ扉の方へと歩いて行った。そのような様に対して、母は何と言うのだろう……。
「ちょっと待ちなさい!」と、母が叫んだ。
「この恥知らずめ! あんたは素裸のまま外に出るつもりなの?」
セッチは立ち止まるとくる病の患者のように背を丸めて、しかめ面で言い放った。
「これが俺様のやり方だ!」
ならず者、あるいは気取り屋のごとく体を揺すり、歌うように加えて言った。
「俺はそいつに気づいていなかったのさ……」
「これが俺様のやり方だ」。その文言は悪戯を見咎められ、馬鹿にされたり、疑問に対して抜け道を見い出す際に用いられる常套句だった。今一度、「これが俺様のやり方だ」と呟くと、服を着始めた。
ベッドに腰を下ろすとしばしの間、色取り取りのビー玉を弄んでいた。服を着終わるとセッチは母親の許へと近づいて行った。
「ねえ、お母さんは知ってる? 女の人が本当に身投げをしたんだよ。神様に誓って、それは本当のことなんだ」
「まだ、あんたはそんなくだらない御託を並べ立てているの。誓って、そんなことは絶対ないわ」
「でもお母さん、本当にその女の人は飛び降りたのだから、きっと新聞に載っているよ」
別の部屋から父親の怒声が返って来た。
「この大嘘つきめ、とっとと失せやがれ! ミルクを取って来やがれ!」
セッチは炭が燃え盛るかまどの側で奮闘している母親の方を見やった。お母さんは僕に微笑みかけて欲しい。お父さんが怒り狂っているのは、全く重要ではない。でもお母さんは……。
お母さんを喜ばせることが何かないかな。そう考えながら、片手に空の瓶を持って家を出て行った。もしお金があったら二ミル・レイスの指輪とか、櫛とか、ハンカチをプレゼントすることができるのだけど。でも、びた一文もない……。
太陽を見上げている内に陽気な気分になった。朝露に濡れそぼる草は実に瑞々しい。火花、あるいはガラスの雫のごとく滴り落ちるそれを眺めるために、草っ原を爪先立って歩を進めて行くのは気分が良い。時折、空き瓶で軽技を披露するために立ち止まる。通りをほとんど走るように横切って行く。野良犬が一匹いる。石を掴み上げると左目で狙いを定め、それを投げつける……。「キャン!」。その犬は甲高い鳴き声を上げると脱兎のごとく走り去って行った。
「やったね!」
セッチは喉から絞り出すような声で、そう呟いた。さらに歩き続ける。「一服したいなあ」。吸い殻を探すべく地面を見た。前をドイツ人と思しき一人の男が葉巻を吸いながら歩いている。その煙が欲望を煽るかのように鼻腔に入り込んで来た。もし奴が吸い殻を捨てたら、そいつを拾い上げて吸うことにしよう……。その見知らぬ男の背後について行きながら、そんな風に考えていた。しかしながら両者が道を分かつ瞬間が訪れた。その男は右に曲がったが、セッチは左に曲がらなければならない。一瞬、躊躇した。しかし母のことを、前夜、しこたま喰らった拳骨のことを思い出し、食料雑貨店の方へと駆け出して行った。
「ブリジィドさん、ミルクをおくれ!」
店に入るやいつものようにそう叫び、脂染みて艶々とテカったカウンターの側で立ち止まった。店主の男がからかうような口調で毎度お馴染みの台詞を口にした。
「ミミズ君、元気かい?」
セッチもいつもと同じ挨拶を返す。
「象男さん、元気ですよ」
ブリジィドさんは特に背を向けている時、まるで象のようだと思った。ダブダブのズボンを履いていることで、そう連想させるのだった。太っちょで、ズボンが半ばずり落ちている男を見ると、「象だ」と思った。
ブリジィドはミルクを半リットル手渡し、叫んだ。
「さっさと出て行け!」
セッチはその場に立ち留まっていた。
「あのゴイアバーダ[グアヴァをペースト状にした菓子]の缶詰はいくらだい?」
「どうして、そんなことを知りたいのだい?」
「お母さんに買って行こうと思ってね」
「二ミル・レイスだよ」
「じゃあ一つおくれ」
「金は持っているのだろうな?」
「つけておいてよ」
そう言うや、セッチは平手打ちが飛んで来るのを待ち構える者のように身構えた。
「ミミズ君、うちはつけ払いはやっていないのだよ」
「これが俺様のやり方だ……。そうなのか、知らなかったよ」
「とっとと出て行きな! 母ちゃんが待っているぞ。さあ早く!」
「ブリジィドさん、あなたは女の人が身投げしたニュースを耳にしませんでしたか?」
セッチは話題を変えて、そう尋ねた。店長はカウンターから身を乗り出した。
「どこのどいつだい?」
「インペリオ・ビルの屋上から飛び降りた女の人だよ」
「飛び降りたって?」
セッチは地面に瓶を置くとカウンターににじり寄り、身振り手振りを交えて真剣な口調で話し始めた。
「そうなんです、ブリジィドさん。そのことをお母さんに話したのですが信じてもらえなくて。女の人が落ちて来て、それを見ていた僕は野次馬たちに突き飛ばされてお金をぶちまけてしまって、その内の一枚の硬貨が側溝に落ちて、別の一枚は泥棒のガキがかっさらって行ったんだよ。お母さんは僕を嘘つき呼ばわりしているんだ」
「それでお前は嘘を言っていないってことなのかい?」
「神に誓ってね」
店長は胡散臭そうな目つきでセッチをまじまじと見た。
「誰も飛び降りはせんよ。それは嘘さ」
「嘘なんて、とんでもない。僕はこの目ではっきりと見たんだ。その女の人は赤毛で、目を真ん丸に見開いていたんだよ」
「それはいつのことだい?」
「昨日の夕暮れ時だよ」
「何も聞いちゃあいないな」
「でも事実なんです、ブリジィドさん」
「さあ、行け」
「あのリキュールの瓶の奴はいくらだい?」
「とても高いよ。さあ、行った、行った」
「今日、お金が手に入るんだ」
セッチはそう嘘を言った。
「分かった、分かった……。だが、もう行ってくれ!」
店長はカウンターを離れると、耳の後ろに挟んであった鉛筆を取りテーブルの側へ行くと、茶色の紙に包まれた品物の勘定をし始めた。セッチは瓶を掴むと「これが俺様のやり方だ」と呟き、店を後にした。
乗客を満載した路面電車が次々と通り過ぎて行く。窓ガラスが火花を散らすかのようにキラキラと輝いている。島から果物や野菜を満載した渡し船が到着する。男たちは川辺で薪を積んだり、降ろしたりしている。セッチは歩道に映る自らの影をぼんやりと目をやりながら歩を進めて行った。女の人が落ちるのを誰一人として目撃していない。何てこった! この僕は夢でも見ていたと言うのか。女の人は本当に飛び降りたのだ。新聞はそのニュースを報じているだろうか?
「きっと自殺した女の顔写真が載っているはずだ!」と、セッチは叫んだ。
その場を通り掛かった老婦人が振り返りざま彼に微笑みかけた。セッチは歩を速めた。今日、幸運にも学校がない。売り歩く新聞を受け取りに行くまでの間、少しばかりそこいらをぶらつくことができる。昼食の後、サッカーをやりにグラウンドに行こう。今日はきっと選抜メンバーに選ばれるに違いない。いつもメンバーが一人足りないから。「僕はとっておきの控え選手だ」。そう自分自身に言い聞かせ、自己評価をし、納得していた。黒人の不良仲間や、“カベルードス”と呼ばれる奴らとプレーすることにある種の誇りを感じていた。カベルードスとは“目上の者たち”や“脚や腕に体毛がびっしりと生えた奴ら”、“ラフプレーをする連中”に対して命名された語である。この僕はそんな奴らを相手にドリブルをしてゴールへと切り込んで行く……。
家が遠くにちらちらと見えて来ると、お母さんのことが思い出された。今日、自分にとって唯一の不幸といえば、お母さんの顔に貼り付いたしかめ面だ。おべっかを言ってでもお母さんの機嫌をとらねば。でも、どうすれば良いのだろう? しばし考えを巡らせた。空のマッチ箱を蹴っ飛ばし、工場に林立する煙突の方へと目を向けた。突如としてある考えが頭に浮かんだ。学校で女教師にへつらいたい時など、自分は彼女のために一輪の花を持って行った。それを見た先生は笑い、お礼を言うと、その花を水の入ったコップに生けた。これは名案だ! 夜になったら、お母さんに花を一輪持って行ってあげよう。きっとお母さんは笑い、それを花瓶に入れると、こう言うだろう。
「あんたは良い子ね」
セッチは大急ぎで家の方へと駆けて行った。全てが解決した。お母さんに花を一輪持って行ってあげよう。薔薇が良い、それも真紅の薔薇を。
「これが俺様のやり方だ」
そう呟くと、半リットルのミルク瓶を手に勝ち誇るように家へと入って行った。
チィルダは苦悩に引き裂かれんばかりの感覚を胸に目覚めた。“全て”が夢に過ぎなかったという夢を見たのだった。いかなる手術が行われることもなかった。自分は醜く、大鼻のままで、不幸のどん底にいる。苦悩に苛まれてベッドから飛び起きると、裸足のまま化粧台の鏡の前へと走り寄って行った。ああ! お陰様でそこに映っているのは“新しい顔”で、鼻も前のものとは別物だわ……。未だ夢覚めやらぬまま栗色の髪は乱れ放題で、寝巻きはしわくちゃで、口唇は就寝前に施した口紅がわずかに残ったままであるが、驚嘆で見開いた目で自分の顔をまじまじと見つめた。
すぐさま思考はジルの許へと羽ばたいて行った。あの人がやった行為には、どのような意図が含まれているのだろう? 自動車の窓ガラスに鼻を押し付けた、あの行為だ……。いいや、ジルに限ってそのようなことをするとは決して思えない。それはこの自分からすると全くもって“異質な”ことなのだ。午前中、彼からの電話を待とう。もし電話を寄こさなかったら、この自分を忘れてしまったという証だ。
チィルダはゆるゆると爪先立ってベッドへと戻って行った。床はひんやりと冷たかった。鼻風邪を引いてしまうかもしれないわ。そうならないためにも常に鼻にハンカチーフを当てておかなければ。風邪を引くのは恐ろしい。そうなるとまた鼻が変形してしまって、前みたいな醜い鼻に戻っちゃうかも知れないから。それにもまして、もし風邪を引こうものなら今晩、演奏会に行けなくなるもの。
再びベッドに横になると脚を交差させ、両手をお腹辺りで組み、天井の漆喰の壁を見つめながら思考を巡らせた……。どれほど今晩のことを楽しみにしていることか! 新調の衣装を身にまとい、ボックス席に不動の姿勢のまま腰を下ろし、無関心を装いつつ舞台を見やる。同時に平土間席や他のボックス席に座を占める人々の視線が自分に注がれているのを感じる。そうした人々が口々にする言葉を想像してみる。
「あのお嬢さんは誰だい?」
「あんた知らないの? リンダ・ペトラさんの姪っ子だよ」
「まさか!」
「間違いないわ。顔を形成手術して、美人さんに生まれ変わったのよ」
囁き声が交わされ、頭をあちらへこちらへと廻らせてはこちらに視線を送る……。ボックス席に腰を下ろしている人がこちらを双眼鏡で見ている。
「何とも奇跡のようだわ! 別人かと思ったわ。あなたはご存知かしら? 彼女は医学生で、アントニオ・サンチィアーゴのご子息のジルと結婚するそうよ……」
「サンチィアーゴって、誰だい?」
「未成年には到底、お勧めできない小説を書いている御仁よ」
「ああ……、そうなの……」
チィルダはこれから始まる一日についてあれこれと思案した。いつだって土曜日は好きだ。いつだったか、ある土曜日にジルと知り合った。また別の土曜日に鼻の矯正器具が取り外された。はたまた別の土曜日に矯正された鼻を目の当たりにした。今日は聖土曜日だわ! モーツアルトのハレルヤ唱歌を口ずさみ始める。
再びサン・ペドロ劇場の舞台に上がるオーケストラの様を想像した。新しい服を身にまとい、ジルが横に座っていて、私の手を握っている。幸せだわ! 幸せだわ! しかし全てがその通りになるとは限らない……。自分は完全に幸せだという訳ではない。なぜなら常々、心配事に囚われているのだから……。そう、何か良くないことが起こるのではと気を揉む人のように……。ジルを失う恐れかしら? そうだわ、ジルが醜い小鳥やトカゲのような他の女性と知り合うかも……。それだけではない……。恐らく内心、自分自身、実際のところは今の自分とは全く別の自分ではないかと考える嫌いがあった。
軽く唇を噛むと、大昔、自分が犯した悪行の数々を思い出した。それらはとても邪悪且つ強情で、意地悪く、現実では到底、有り得ないようなものだと思えた。当時、醜い、それも恐ろしいほど醜い女の子たちと知り合いになった。しかし彼女たちは一様にそれを受け入れていて善良で、辛抱強い質だった。
「ハレルヤ! ハレルヤ!」
チィルダはそうした考えを、過去の記憶をできることなら消し去りたいと考えていた。だが、どうしてもできなかったのだ。そして常に最悪なことが目の前に現われ、その場に立ち止まり、動こうとしなかった。それによりほんの一瞬ではあるが、かつて抱いた感情を追憶することとなった。心痛を覚え、喉許が締め付けられ、魂さえも酷く痛め付けられた。両親が他界し孤児となり、叔母の慈悲の許、生活を送る悲しさといったら……。ノリヴァル叔父さんもリンダ叔母さんも決して悪い人間ではなかったし、両者とも忍耐力に欠けていた訳でもない……。しかし彼らは愛情に薄く、恵み、施しを与えるというような雰囲気で私に接していた。そうして学校の授業が終わると……。他の生徒たちの顔に憐憫の情が浮かんでいるのが見て取れた。「あんなに醜くって、悲しげで、可哀想」。しかし大部分の生徒たちは辛辣な言葉をもって、私のことをからかった。
「トゥカーノさん、お元気?」
「奴に突かれないように気をつけろ」
自然史の授業ではこんな風に言われた。
「酷く口が湾曲している鳥は何か? それはチィルダだ」
そうした全てのことにより――チィルダは熟考し、自身を正当化しつつ――自分自身、他人とつき合うことを避け、自分以外の人間に対して不信感を抱き、邪悪な観念さえ付与する羽目になったのだった。人生は悲しく、人々は有害な存在だと考えた。教会に身を置いてもどうしても善良な考えを持つことができなかった。聖人たちに勇気を、慰めを、力を授けてくれるよう祈り、嘆願した。時折、聖母マリア像の鼻に嫉妬心を覚えている自分に驚愕した。そして――身の毛もよだつ恐ろしいことだが――ある日のこと、聖アパレッシーダの聖像にピンを刺したことがあった。
チィルダはそうした思い出を頭から拭い去るかのよう目を閉じた。すっくとベッドから起き上がると鏡の方へと走り寄って行った。「私は全くの別人だ!」。そう心の内で叫んだ。恐る恐る顔を手で撫でる。かつての自分を忘れることだ! 忘れる必要があるのだ!
目に涙がじわじわと浮かんで来た。自らに対する憐憫の涙だ。何て私は可哀想なのでしょう! これまで私が犯した罪の償いをする必要があるわ。良い人間になって、それも非の打ちどころのない善良な人間にならなければ。リンダ叔母さんとノリヴァル叔父さんに会ったら、キスの雨を降らせよう。そう決心した。彼ら二人は善良ですもの……。彼らは私に全てを与えてくれた。叔父さんは手術の費用を払ってくれたし、新しい服も、靴も、ブローチも買ってくれた。二人にキスをしよう! それにジルにも。でも、どうしてジルは未だ私にキスをしてくれないのかしら? 鼻のせい……。いいえ、そんなことは有り得ないわ。彼は私のことが好きだもの。そうですとも、彼は私のことが好きに決まっている。私はそれを知っている……。今晩、ボックス席で私たちは手を握り合って、愛情のこもった何らかの言葉を囁き合う必要があるわ。そのような言葉をこれまで一度として口にしたことがない。いつだって辛い思いをして来たから。で、ジルは……。とても良い人で、辛抱強いわ。時々、私は黙り込み、仏頂面をすることがある。そういう時には彼はこんな風に言う。
「チィルダ、どうしたんだい?」
「私が? 何でもないわ」
可哀想に、ジルは不安に苛まれている。何らかの身振りをして、言葉を紡ぎ出す必要があるわ。今晩、劇場で……。
部屋の扉がノックされた。チィルダは身震いした。
「入っても良いかしら?」
「どうぞ」
リンダ叔母さんだった。叔母は紫色の生地に、金色の巨大なダリアの花があしらわれたキモノに身を包み、部屋に入って来た。顔にはクリームがベタベタと塗りたくられている。
「叔母さん、おはよう!」
リンダはそれには答えなかった。
「私と美容院に行く?」と、叔母が尋ねた。
「時間はもう予約されたのかしら?」
「私の分は予約したわ。髪を整えて、マニキュアをしてもらう必要があるから」
「私も行くと思うわ……。でも午前中、ジルからの電話を待っているの……」
「それじゃあ電話が掛かって来るのをお待ちなさい」
叔母は姪の頭に一瞥をくれた。
「あんたの髪に嫉妬を覚えるわ。どんなやり方にせよちょっと弄ればきちんと整うもの。私もバッサリと切ってしまおうかしら。今まで切らなかったのはノリヴァルが嫌がるから」
リンダは窓を開けた。そして暫しの間、フロレスタ地区に連なる焼けるように真っ赤な屋根を凝視していた。
「何て日かしら!」と、叔母は叫んだ。
「良い天気だわね」
「私は怒っているのよ」
叔母はクリームが顔全体に行き渡るように擦りながら、そう言った。
「仕立て屋が私の服、未だでき上がっていないと言うのよ。彼女によれば五時には仕上がるってことよ。もしでき上がった服が合わなかったら、使いものにならないじゃない」
「叔母さん、きっとピッタリ合うわよ」
一瞬間があり、唐突に叔母は口を開いた。
「チィルダや、私たちはブエノス・アイレスに行くことになりそうよ」
チィルダの顔はパッと輝いた。
「本当に?」
「私たち三人でね」
「そうなの?」
チィルダはムズムズする満足感を覚え、爪先立った。叔母の顔はまるで醜く歪んだピエロのそれのように思われた。でも、そのような喜ばしい知らせを伝えてくれるなんて、何て愛しい人でしょう! ブエノス・アイレス! そこに旅行することができるなんて、夢のようだわ!
「昨晩、あんたの叔父さんがブエノス・アイレスで取引きがあるって言っていたわ……。多分、月末には私たちはあちらへ行くことになりそうよ」
突然、笑みで口許がほころぶ。ある考えが頭に浮かんだ。イルマ・テーレスに電話をしてやろう……。彼女は一、二を争う高慢ちきな友人の一人だった。私とイルマの間には声なき闘争が常々、渦巻いている。もし彼女が新しい服を買ったら、リンダはそれより高価なものを買うまで心穏やかではなかった。ある日のことイルマが電話して来た。
「リンダ、私は最新式のキャデラックを買ったのよ……」
リンダは驚きや嫉妬を微塵も見せず、作り話をした。
「何て偶然でしょう……。ノリヴァルがリンカーンを探すよう言ったばかりですもの」
二人の間で交わされる話題は宝石や、家具、洋服といった類いのものだった……。もちろん社会的成功談も話題として欠かすことができなかったが。
「誰がうちのお茶会にやって来るか、あなたはご存知? あのヴェロニカ・バヘイロさんよ」
勝ち誇るようにリンダは電話機の方へ駆け向けると受話器を取り、ダイヤルを回した。
「もしもし! ドトール・テーレスさんのお宅ですか? もうイルマさんは起きていらっしゃるかしら?……。彼女とお話ししたいのですが……。こちらはリンダ・ペトラです。そうよ……」
しばし間があった。リンダは胸の高鳴りを感じていた。友人の顔を想像する。私の知らせを耳にしたら、きっと彼女は憔悴するだろう。テーレス家の財政状態は芳しくないと言うことだから。
「リンダなの? コモ・ヴァイシュ?[「ご機嫌いかが?」の意]」
たかが三年余りリオに住んでいたからと言って、語尾の“-s”を“シュ”と発音する彼女の妙な癖に辟易していた。リンダはその友人がメニーノ・デウス出身であることを知っていた。何て馬鹿げていることでしょう!
「私は元気よ。あなたはどうなの?」
「でも、あなたがこんな時間に起きているなんて。私はベッドで電話しているのよ。ちょうど召使がココアを持って来たところだわ」
リンダは唇を噛んだ。それら全てがでまかせだと知っていたからだ。
「そうなの、私もベッドで電話しているわ。あなたが今日、サン・ペドロ劇場に足を運ぶかどうか尋ねたくて電話した訳なの」
不快そうな声が返って来た。
「行くと思うわ。でも本当のことを言うと、私たちは今日、演奏するオーケストラが好きじゃないの。あなたもご存知の通り、真の意味でのオーケストラ、それも一〇〇人余りの著名な演奏家たちで構成された大オーケストラの演奏を聴いた後で、ポンコツなオーケストラの演奏なんて、全くもって聴く価値がないでしょ?」
「そうね……」
「テーレスが教育長官からプレゼントでボックス席のチケットをいただいたわ」
「ノリヴァルも受け取ったわ。それで昨日のことだけど、リオからカタログが届いたわ」
間があった。
「リオからですって? そうなの……」
「もしもし、イルマ……。リオと言えば、私とノリヴァルは今年の冬の間、ブエノス・アイレスで過ごすことになりそうなの」
「まさか!」
リンダは勝利を味わった。話し相手が躊躇する様を見て取ったからである。はてさて、彼女はどのようなでまかせや、嘘を組み立てていることだろう。
浴室でノリヴァルは髭を剃り終え、小声で歌を口ずさんでいる……。
上半身裸で革のスリッパを足に引っかけ、ノリヴァルは鏡をまじまじと見つめながら、艶々した赤ら顔を手で撫でていた。昨晩はよく眠れた。寝起きも悪くない。そして今、事務所への出勤時間が、当面の状況に対処すべく奮闘する時間が近づくにつれて、半ば興奮さえ覚えていた。これから先、起こり得る嵐の前の静けさを味わっていた。前夜、眠りに就く前に考えていたことをじっくりと反芻した。他の解決策はない。逃避行する以外、選択肢はない。新聞に名が晒され、ブタ箱に放り込まれるような醜聞を目にすることなど男としてあってはならないことだ。世界は広大にして、ずる賢い人間たちに動かされている。重要なのは、そうした世界に挑むということだ。この地上には美しい女たち、高級車や、ご馳走、劇場、素晴らしい連れ、快楽、どんちゃん騒ぎ等に溢れ返っている。男であるがゆえに、良心の咎めという問題によって、今のような不快な状況を、肉体的苦痛を甘んじて受けなければならないと言うのか? 良心とは一体、何であろう? ジュッカはそれは“自らの肉体を、精神を喰むもの”だと言っていた。まあジュッカ、それはなあ……。
タルカムパウダーを顔にはたくと細心の注意を払って剃刀の刃を洗い、丁寧に水気を拭き取ると金色に光る道具類が収められたビロード製の裏地が施された道具入れにしまった。整理整頓を旨とし、秩序を重んじ、清潔さを保持することを愛していると断言することにいかなる憚りもなかった。そうした自身の愛情に少しでも賛同してくれる女性と出会えたことは幸いだった。この家はまさに宝石だと言えた――床にはワックスがかけられ、家具類はピカピカに磨き込まれていて、絨毯に塵一つ落ちていない。
ノリヴァルは浴室の真ん中辺りに移動し、朝の習慣となっている体操をし始めた。脚の屈伸運動……。手を腰に当てて、「一、二、一、二」。関節が鳴る。再び脳裏に地面に激突する際、女が立てた爆音が蘇って来た。その女の顔は蒼白で――「一、二、一、二」――、目はかっと見開かれていて――「一、二、一、二」。きっとジュッカが全て上手くやってくれるだろう。債権を売り飛ばし、手形を取り戻す。その残り分を――「一、二、一、二」――逃避行の資金に充てる。大したことじゃあない! 手形を取り戻す? しゃがんだまま動きを止め、そして考えた。今日は土曜日だ……。銀行は閉まっている……。明日は日曜日だ。日曜日には、俺はモンテビデオにいる。手形の支払いを拒絶したからといって、それがどうしたと言うのだ。セルバンテス・ホテル。政治的亡命をしたドトール・ノリヴァル。
立ち上がった。胴を屈曲させる。腹部を鍛えるのに良い運動だ。臀部に両手を当てる。まず前に、続いて後ろに、最後に横に体を曲げる。最近、体重が増え過ぎている。「一、二、一、二」。債権の借り分はおよそ一二コントある。その内の五コントをリンダに残すとして……、後の七コントは俺のものだ。手数料分はジュッカにくれてやろう。可哀想なリンダ……。全てを知った時の彼女のショックはいかほどのものか! だが、俺は全て上手くやってのけるさ。五コントぽっちではさほどもたないが……。しばし呼吸を整えるために運動を中断した。両腕をグッと伸ばし、深呼吸をした。爪先立ち、肺に溜めた息を止めた。そしてゆっくりと両腕を垂らして行き、少しづつ息を吐き出した。
もし必要とあらば、リンダは宝石類を処分することだってできる。ブローチやネックレス、指輪等々……。少なくとも母親譲りのものはもちろん例外だが……。そうすれば二〇コントぐらいにはなるはずだ。また家財道具だってある。この家を所有し続ける意味がどこにあるというのだ? ここを離れてアパート・ホテル住まいをする……。その方がずっと安くつく……。アパート・ホテルか……。油で薄汚れたキッチン……。それに口に入れるのも憚られる食べ物。可哀想なリンダ! いいや。最良なのは浴室付きの二部屋ほどある小さなアパートを借りることだ。それが最も良い選択だ。家具類を売り払えば五コント以上になるだろう……。なぜなら、まだ家の中は手つかずだからだ。悲観的に見たとしても、リンダはおおよそ三〇コントぐらいの貯えがあるはずだ。それぐらいあれば、一年程は余裕で暮らして行けるはずだ。債権分の手持ち金の内、五コントも彼女のために残す必要はない。三コントで十分だ。海外で生活する上でいかなることが起こるのか皆目、見当がつかないのだから……。
少しばかり汗をかくために跳躍運動をし始めた。物事をきっちりと清算して、ここを離れ、行動し、生きて行く必要があるのだ。昨晩、あれほど心配で胸が張り裂けそうだった逃避行の計画が今では、次の休日の何とも刺激的な冒険を企てる計画へと変貌していた。脳裏には街道をひた走り、国境を越えてモンテビデオに辿り着く、その様がありありと浮かんでいた。“ドトール・ペトラ。弁護士”。ホテルの宿帳にはそのように署名する。
しばし運動を続ける内に汗をかいて来て息が上がった。スリッパを浴室の隅に脱ぎ捨て、体操ズボンを脱ぐと、シャワーの下へと駆け込み蛇口をひねった。冷たい水を浴びるのは何とも気持ちが良い! 石鹸を掴むと夢中になって体を擦り始めた。石鹸の匂いが鼻腔をくすぐる。何と良い香りだろう! モンテビデオでの予期せぬ様々な出来事について考えを巡らせた……。恐らくそこでは身分を明かさず、ブエノス・アイレスに向かうか、それともその先のチリへと足を伸ばした方が良いだろうか。チリの女どもはアメリカ一の美人揃いだと言うことだ。一人の女性、それもとびっきり極上の美人と知り合い、そして……。
白く、芳しい香りが漂う泡が体を覆った。シャワーから迸り出る水は「シュン、シュン」と囁きに似た調べを奏でている。
五分後、ノリヴァルは寝室にいて、衣装箪笥の前で今日、着て行く服を選んでいた。今日はグレーのジャケットを着て行こう。続いてシャツはどうすべきかしばし考えていた。やはり白色のやつが好ましいだろう。さらに衣装箪笥の扉のクロームメッキが施されたネクタイ掛けに吊るされた数多の数のネクタイを物色し始めた。黄褐色の花があしらわれた赤色のやつが良いだろう。瑞々しい気分でそれらを一つづつ身に付けて行った。ネクタイを結びながら口笛を吹き鳴らし、窓辺へと近づいて行った。何とも素晴らしい日だ! 次のような思考を持って街の方を見やった。
「間抜けな街よ。どれほどの人々が些細な問題のためにイライラし、良心の呵責に苦しんでいることか! 世界に対して大胆たれ。それについてラテン語の名言すらある……。それをここで思い出すことはできないが、鏡に映る自らの姿を見たまえ。良心の呵責などは腰抜けが感じるものだ。言い訳する輩は常々、恐怖に支配されている連中のことだ」
街の中心街の方を見やる。霞んではいるが不思議とキラキラと輝いていた。インペリオ・ビルの尖った威風が目に飛び込んで来る。再び例の投身自殺の件が頭をよぎった。今やいかなる嫌悪感も抱いてはいない。まさにあの時、頭のいかれた女が街の片隅で死のベールに覆われただけのことだ。どうして自らの命を絶つ必要があったのか? どうせ取るに足らないつまらない理由からだろう。そうであっても、生きていることは素晴らしい。フロリッパの屋敷での夜を徹してのどんちゃん騒ぎ、最新型の車、ネクタイ、香水、女たち……。人生は一度切りだ!
鏡の前に戻り、ネクタイの具合を整えた。上着を羽織ると女性がやるように繊細な手つきで注意深く、シルク地の白色のハンカチーフをジャケットのポケットに収めた。妻の化粧台に近づいて行き、様々な香水の残り香に辟易しながらも、これから送る今日という日に最も相応しいと思われる香水“タバ・ブロン”の瓶を手に取った。香水の芳しい香りを嗅ぐだけで勇気と陽気さが湧き上がって来る。良い香りに酔いしれて、一日を過ごせる訳ではないことは重々承知してはいる。人生を目の当たりにすると情熱の半分は失われてしまうのだ。
リンダはこれから身に付ける服を選ぶため部屋に入って来た。妻は未だキモノ姿のままで、顔には白色のクリームが塗りたくられている。夫のノリヴァルがそのような姿を目にするのを好んでいないことを知ってはいた。夫婦はお互い別々の部屋で寝ていた。リンダはそのような服装で、化粧気のない顔で夫の前に姿を現わしたのである。それゆえ目の前にいるノリヴァルの非難がましい視線を避けた。
「リンダ、今日は家で休まないからね」
直ぐさま自らが犯した過ちに気がついた。“昼食をとる”という言葉の代わりに“休む”という言葉を使ってしまった。直ちに言葉の訂正を試みる。
「今日は家で昼食をとらないからね」
リンダは衣装箪笥を開けると、両腕をそこに吊られた服の中に潜り込ませた。
「十時に美容院に行くのに車を寄越してくださらない?」
「十時か……、無理だな。今日、予定がいっぱい詰まっていてね。広場でタクシーを拾ってみてはどうだい?」
「分かったわ」
「これを受け取りなさい」
ノリヴァルは財布に残っていた最後の五〇ミル・レイスの紙幣を取り出した。ジュッカがきっちりと片を付けてくれるさ。そう、信じていた。
「そのお金は宴会のために取っておいて、ノリィ」
妻は顔をこちらに向けることなく、そう言った。そして口調を変えると、「今晩、サン・ペドロ劇場のボックス席を取ってあることをお忘れにならないでね」と、言った。
「そうだね。そのことだが、私の青色の服の仕上がり具合がどうなっているか聞いておいてくれないかい?」
ノリヴァルは腕時計の時間を合わせると、そそくさと部屋を出て行った。
「叔父さん!」
扉の側でチィルダが自分に抱きつき、顔にキスの雨を降らせた。
「どうしたと言うのだ?」
「何でもないわ」
チィルダは叔父と腕を組み、ぴったりと体をもたせかけ食堂の方へと誘って行った。
「もし叔父さんがどれほどのことをこの私にしてくれたか知ったとしたら……」
感情が昂ぶり、喉が詰まった。
「あなたが、叔母さんが私にしてくれた全てのことを……」
ノリヴァルはぐっと胸が締め付けられた。
「何ということを考えているのだ。それもこんな朝の時間に……」
「大したことではないわ。今日は本当に気持ちの良い日ですもの。私は昨晩、悲しい夢を見たわ。でもそれが単なる夢だと分かり、陽気な気分なの」
日差しが食堂の窓から燦々と差し込んで来ている。数多の派手な模様が描かれたリノリウムの床はキラキラと輝いている。鳥籠の中でカナリアが囀っている。通りの物売りの声に混じって、朝の瑞々しい空気が家に入り込んで来た。
「叔父さんは今日、聖土曜日だって知っている?」
「そうだね。ところでユダはどこだい?」
俺こそ、そのユダだ。そうノリヴァルは思った。リンダを裏切り、逃げるのだから……。家族を見捨てて……。
「誰もユダではないわ」と、チィルダは叫んだ。
二人は食卓についた。
「朝ご飯を食べようか? 君の叔母さんはこれからシャワーを浴びるようだから……」
「食べましょう」
チィルダは“良い子”である必要があると感じた。この自分が愛情深く、思い遣りのある人間であることを示さなければ……。先ずは目の前にいる叔父に対してだ。続いて召使に対してである。その愛情、思い遣りの最良の部分はジルに取っておかねば。今日という特別な土曜日は素晴らしいものでなければならない。イエス様が復活されたのだから。ハレルヤ!
ベルを鳴らし召使を呼ぶと、朝食を給仕するように頼んだ。ノリヴァルはじっと姪の方を見つめていた。まだあの新しい顔に慣れていない。まるでお伽話の奇跡のようだ。かつては彼女のことを気の毒に思っていた。それは悪意と嫌悪が入り混じった一種の憐れみと言えた。しかし今では全く違っている。そう、まるで実の娘のようにチィルダのことを愛している。妻のリンダは出産に対する恐れと自らの体型が崩れることを危惧し、子を欲しがらなかった。この自分も確かに子供がいれば、大きな喜びをもたらしてくれるだろうが、同時に手間が掛かるし、頭痛の種になりかねないと考えていた。赤ん坊が小便で絨毯を汚したり、ベビーパウダーやミルク、そのほかの不衛生極まりない臭いで家中が満たされている様を想像したりした。
ノリヴァルはしげしげと姪の顔を観察した。とても可愛らしいし、男を誘惑する小悪魔のような魅力を兼ね備えている。チィルダもまた叔父の方をじっと見つめていた。叔父の健康的で、テラテラと輝く赤ら顔がいつだって好きだ。あの少年のような青い目も、活気に溢れた雰囲気も、常々、パーティーや映画、散策に身を置くことを好む気質のどれをとっても好ましく思われる……。
召使が朝食を給仕した。ノリヴァルは時計を見やる。
「今日は極めて多忙な日になりそうだ」
そう叔父は呟いた。
チィルダは叔父に自らが抱えている不安を打ち明けたかった。きっと彼なら、この自分のことを理解してくれるだろう。ジルに傾けている愛情に関するいくつかの疑問を叔父に話そう。私が孤独であることを……。これから起こるであろう将来のことを……。
ノリヴァルは急いでコーヒーを啜った。青空と、日差しと、家中の人々の喧騒に刺激されてか、カナリアは興奮して甲高い声を張り上げている。通りでは路面電車がけたたましい音を立てて通り過ぎて行く。チィルダはジルから掛かって来るであろう電話のことを考えていた……。この自分は彼からの電話が今か今かと待ち焦がれながら毎朝、同じ苦悩を味わっている。
ノリヴァルは立ち上がると姪の髪を軽く撫で、かつての習慣でもあったが、「可哀想な女の子だ」と、考えた。
「叔父さん、さようなら」
「さようなら」――その別離の言葉に対して、どことなく奇妙且つほとんど苦悩ともいえる感覚を胸にノリヴァルは廊下へと歩み出て行った。扉が半開きの執務室へと一瞥をくれる。その隙間から、革張りの安楽椅子や物書き机、ランプの傘がちらりと見えた。そうしたものや、家そのものにも、いかなる愛着を感じたことがなかった。それら全てを容易に手放すことに心が痛むこともなかった。自分自身、時と場合によって、住処を転々とすることを厭わない性格だったからだ。しかしながらチィルダの思いがけない優しさに触れ、心が震えた。玄関の扉を開ける前、廊下の奥から姪の声が聞こえて来た。
「叔父さん、お幸せにね!」
ノリヴァルは手振りで「じゃあ、行って来るよ」と、姪に合図を送った。何ということだ! あいつは全てを知っているようだ。「お幸せに……」、か。不意に熱い波が打ち寄せて来て胸をグイグイと締め付けた。涙が目に迸り出る。急いでそれを拭うと、意を決して扉を開けた。そして口笛を吹き鳴らしながら足早に庭へと続く階段を降りて行った。
リアシュエーロ通りに面した下宿屋の二三号室で一人の若者が眠っている。鉄枠のベッドの上に、粗末な白い上掛けに包まって寝入っている。その部屋は小さく、ほとんど家具と呼べるものはなかった。貧相なベッドと飾り気のない洗面台、ビデ以外そこにあるものは艶のない松材でできたテーブルが一つと、読み古された背表紙のペーパーバックが数冊収められた簡素な書棚だけであった。
青色の外套が椅子の背に掛けられてある。ズボンは部屋の隅に置かれたトランクの上に無造作に脱ぎ捨てられてある。ベッドの傍らに未だかつて磨かれたことのない、踵が擦り減った靴が置かれてある。その靴はほとんど人間的な顔貌を持っているように思われた。つまり老齢で、辛苦を舐め尽くし、悪天候と失望によって満身創痍の一人の男の表情がありありとそこに浮かんでいた。安っぽいビデの上には、簡素な献辞が添えられたノーラ・サンチィアーゴの写真が置かれてある。
“ロベルトへ、友情を込めて。ノーラ”
その写真の横に鉛筆で書き殴られたメモがある。
“明日、一一時に保険会社のオフィスでドトール・アリスチィーデス・バヘイロ氏にインタビュー。編集長はあちら様と打ち合わせ済み”
テーブルの上にはペンとインク壺、マッチ箱が一つ、小型のナイフ、二本の鍵が束ねられた金属製のリング、ほとんど空の煙草ケース、そして次のような文言が記された手紙の下書きらしきものが載っていた。
“ノーラへ
この手紙は今朝の明け方、三時に認めている。僕自身、我々の関係は全て白紙に戻すべきだという結論に達した。僕は様々な事柄が今日までどのように進んで来たかを理解できずにいる。我々がそれぞれ属している世界は全く異なっているし、これから先、全てが上手く行くとは僕には到底思えない。君が生きている社会の法に拠れば、欲しようと欲せずとも、その法に従うとしたら、互いに一体となりたいと思う二つの生き物は判事か、神父の立会いの下、誓約を交わすか、あるいは地獄的とも言える婚姻届け提出と共に、結婚というプロセスを経て結ばれることになる。そうした法に拠れば、婚姻により(こんなことを以前、君に話したかな)家を築き、家族を組織し、食べ物を与えられるだけの手段の有無に関わらず子供たちを、それも沢山の子供たちを作ることを要求される。さらにたとえ互いに好き合うことがなくなったとしても、残りの人生の全ての時間を共に過ごすことを強いられる。
たとえばある日のこと、夫が妻以外の他の女性を好きになり、彼女を我がものにしたいと思うようになったとしよう。それを妻に告げることも、その女性との関係を公にすることも、今、生きている世界ではモラルの面において認められない。そうであるなら、その関係を隠蔽する必要に迫られる。彼女のために家を建て、夜、そこで一緒に過ごすこともできよう。彼自身、それら全てを隠しおおせる能力があったとしての話だが……。重要なのは社会がそれを認めないということだ。そうした社会の中核にあるのはあくまでも社会的体裁を守り、欺瞞に満ちた生活を送り、馬鹿げたモラルに従い子を作ることなのだ。
でも、僕が君に言いたいことは、君が属する社会階級の中にあって、‘家庭’たるものを維持するだけの財力を僕自身、持ち合わせていないと言うことだ。さらに君が属する世界のモラルを消化できるだけの胃袋も持っていない。時遅しとなる前に、あるいはお互いが後悔の念に駆られる前に全てを終わらせよう。君が悲嘆に暮れることはないと信じている。ただ残念なのは、これまで君に無駄な時間を費やせてしまったと言うことだ。君が僕のことを愛していないとは思わない(‘愛している’という文字を消して、その代わりに‘好きだ’と言う文字に変えて欲しい)時折、君のお父さんが執筆している小説の登場人物のように演じ、振る舞っているのではと考えることがある。
今、外から帰って来て疲労困憊で、苛立った気分だ。世界は何とも馬鹿げていて、悲しみに満ちている。これほど悲惨で、支離滅裂な状態をこれまで一度として目にしたことがない。
今日、広場の片隅で会う約束をした。今すぐにでも全てに決着をつけるのが最良だとも。これから先、僕のことを金輪際、放っておいてくれ”
手紙の結びに“敬具”と書かれてあったが、それは二重線で消され、さらに“さようなら”という文字も消去され、ただ“ロベルト”と署名されていた。目覚まし時計(三回の分割払いだったが支払いが滞っている)は午前八時を指している。ロベルトは眠りを貪っている。その瞼は少しばかり黒ずんでいる。眉毛は濃く、黒々としていて、色白で滑らかな肌の顔には髭がポツポツと生え始めている。そこにはどこか子供染みた、かの“セッチ・メーイス”と遠い親戚の血筋ならではの何ものかがありありと浮かんでいた。
ロベルトはしばし体を揺り動かした。口髭は何か言葉を発するかのように震えた。この御仁はいかなる夢を見ているのだろう?
その時間、ルストーザ判事は画家がお気に入りの作品の仕上げをするがごとく、多大な情熱を込めて髪の毛を染めていた。今少し遅い時間に起床するのが常であったが、明け方の三時にどうしても寝つけず、ベッドから椅子へと移動したのだった。
ピンクに青色の縦縞の入ったフラシ天の寝巻きに身を包み(自身の社会的地位に相応しくない、常軌を逸したものだと思いつつ)、長髪に混じる銀色の髪を探し、見つけてはそれを染めるようにしていた。
今日はそれほど気分が良い訳ではない。背中、それに頭の周りがズキズキと痛む。頭は空っぽで、口の中は苦く、嫌な味がした(舌を出し、顔を鏡の方へと近づけて行った)白苔が生えたように舌が白くなっている。
家政婦がコーヒーと書簡類を盆に載せて家に入って来た。シィメーノ・ルストーザは眼鏡の具合を整えると食堂へと歩いて行った。
「エルタ夫人、おはよう」
「ドトール、おはようございます」
その家政婦は背が高く、痩せぎすで、髷を結っていて、生のソーセージを思わせるような肌の色をしていた。歯は黒ずんでいて、口許には黄金色の産毛が生えていた。
「何かニュースがあるかい?」
無関心を装いつつ判事はそう尋ねると、食卓に腰を下ろした。
「昨日、隣のビルの屋上から若い女の人が飛び降りたと言うことをお聞きになりませんでしたか?」
それはまさにドトール・ルストーザが耳にしたい話題であった。
「エルク夫人、私はその娘さんが落ちて行くのを目撃したのだよ」
寝室へと足を向けていた家政婦は立ち止まり、こちらを振り向いた。
「あなたはそれを見られたのですか?」
ルストーザは重々しく頷くと同時に、コーヒーとミルクをカップに注ぎ入れた。家政婦は驚嘆の眼差しで判事をじっと見つめていた。
「その通りだよ、エルク夫人。私はそれを実際、この目で目撃したのだよ」
夫人はその“目撃した”という言葉を理解できなかったが、ゆっくりと頭を縦に振った。
「私が聞いた話によると、その女の人が落ちて行く時、叫び声を上げていたと言うことです。きっと飛び降りたことを後悔していたのでしょうね」
「エルク夫人、私はいかなる叫び声も耳にしませんでした。私は自分が見たままのことをあなたに話しているのです」
家政婦は両手を腰に当てると、鼻面をグッと前に突き出した。
「それで、ドトール。あなたは彼女が自殺したとお考えですか?」
判事は角型のパンにバターを塗った。
「そうだ、と私は思う。だが……、そのようなことは誰が分かろうか?」
「そうですね……」
家政婦の顔は仮面を貼り付けたがごとく無表情だった。彼女自身、判事のことをよく理解しているとは言えない。しかし理解困難極まりない言葉を用いて話す人間に対して、一応の敬意を払っているのも事実だった。判事はハンサムだ。リオ訛りの独特とも言える、語尾の“ーs”を“シュ”と発音する。
判事は眉をひそめた。教養なき女め!
「皆は、彼女は突き落とされたと言っています……」
「そうなのかい?」
シィメーノ・ルストーザは目を大きく見開いた。
「ビルの守衛は人々がそう言っているのを耳にしたそうです」
判事はカップを口に持って行きかけた手を止めた。ここに是認し得る仮説がある……。“不幸とも言えるあの瞬間”のことを思い出す。そしてそれが犯罪によるものではない、と結論づけた。
「エルタさん……」
「はい……」
「私がその事件を目撃したということを誰にも他言しないでください」
「はい、分かりました」
もし私自身、供述するよう呼び出されたら馬鹿げたことになるのは必至だ。私は揉め事に巻き込まれたくはない。取り調べというものを忌み嫌っている。この自分は常に尋問者であり、これまで一度として尋問されたことなどない。心穏やかでいたい。それこそ重要なことだ。心の安らぎと言えば……。
新聞はどこだ? ああ……。昨日は聖金曜日で祝日だから、今日の朝刊はないのだな……。
エルタ夫人は雑談を今少し、続けたいようであった。
「ところで、ドトール。戦争ですがますます酷いことになっていますね?」
シィメーノ・ルストーザはカップを置くと、眼鏡を取り、ナプキンでレンズを拭いた。そして有無を言わせぬ調子で断言した。
「戦争は野蛮だ」
そう言うと、重要な問題に対して決定的な言葉を持って断じ、それを片づけた人間のような雰囲気を漂わせながらパンを齧り続けた。
八時二〇分にはアリスチィーデスは服を着替え、出掛ける準備が整っていた。事務所に行く前に理髪店に寄らねばならない。自分で髭を剃る習慣が無かったからだ。その点において、他のいくつかの点と同様、自分は保守的な人間なのかもしれない。軽やかに動く理髪師の手に自らの顔を預け、目を閉じたまま剃刀が肌を優しく滑り、その際に“ジョリジョリ”と鳴る気怠い音に耳を傾ける……。
今朝、はっと目を覚ました時、三人の女が自分の脳裏を占めていた。モエマとインペリオ・ビルで自殺した女、そしてヴェロニカの三人だった。前夜に拳骨を喰らったかのように体中が痛かった。ベッドから起き上がって最初にしたことは、アスピリンを一錠と果実塩を一服飲んだことだった。新聞は読みたくなかった。
アリスチィーデスは朝食が給仕されている食堂へと足を踏み入れて行った。
「エデルヴィーラ、メロンを一切れ欲しいのだが」
テーブルにつくと、そう召使に言った。
「コーヒーはブラックで、小さなカップでよろしいでしょうか?」
パウリーニャが象脚を引き摺りながら姿を現わした。
「パウリーニャ、元気かい?」
黒人女は主人の方へと近づいて来ると、次のように告げた。
「レリーニョは昨晩、外泊したようです」
「本当か?」
「彼の部屋を見に行ってください。ベッドのシーツはそのままですから」
アリスチィーデスは苛立つような仕草をした。
「全てにおいて……」
そう呟いた。全くもって感心できない。若い奴らはもっと慎重にならねばと思う。突き詰めて考えれば、彼には楽しむ権利はある。最悪のなのはそれをやり過ぎると言うことだ。外泊する必要性などどこにもない。ヴェロニカのことを考える。
「ヴェロニカはそのことを知っているのか?」
黒人女は肩をすくめた。
「もし奥様が部屋を見に行ったら、きっとお気づきになるでしょうね。でも、私が彼の部屋に先回りして、そこで眠った痕跡を作っておきます」
そう言うと、パウリーニャはノシノシとその場から離れて行った。エデルヴィーラがメロンを一片とコーヒーを運んで来た。アリスチィーデスは僅かな欲情を覚え、その娘の臀部をしげしげと見つめた。しかしそのような自身を嫌悪するかのように、邪な考えを追いやった。とどのつまり、そうした考えを抱くことこそ一種の習慣、それも悪習で、“病気のようなもの”なのだ。エデルヴィーラは嫌悪感を抱かせるムラータなのだ。それと比較するようにモエマのことを考えた。裏庭で咲き誇る黄色のイペーの花に日差しが照りつける。それはまさにモエマの髪を想起させる。花や若者が放つ芳しい香りの全てが、その娘の存在そのものなのだ。モエマのイメージはヴェロニカのそれと、常に重なり合って現われる。アリスチィーデスはぼんやりとコーヒーをかき混ぜた。投身自殺をした娘のことをぼんやりと考えた。その娘の顔つきさえ思い出せない。ただその娘が金髪で、明るい色味の瞳だったことのみ記憶に残っている。その娘の両親がどこに住んでいるか調べさせよう。そして匿名で五〇〇ミル・レイスを封筒に入れて送ろう。恐らく貧しい家族だろう。気の毒なこった……。
メロンをぼんやりと切り分け始めた。そこに砂糖を振りかけると機械的に口に運び始めた。五〇〇ミル・レイスは恐らく、やり過ぎだろう。二〇〇ぐらいが妥当か……。彼女の家族は誰がそれを送り付けたか知る由もない。誰か奇特な人間がやったと考えるだろう。後は名も無き娘が自殺したことによって、私の心を抉るような反響が起こり、改めて人生について考え直し、より厳しい観点から自らがこれまで犯して来た過ちを悟り、今一度、人生を生き直す願望が呼び覚まされることになるだろう……。
再び窓の方を見やった。黄色の花が目に飛び込んで来た。まさにモエマの髪だ。
アウローラが食堂に入って来た。
「おはよう」
「おはよう」
「今日の一〇時に美容院に行くため、車を寄越してくれないかしら?」
「もちろん、大丈夫だよ」
アリスチィーデスは突如として胸に湧き上がる愛情を込めて、娘の方を見やった。食堂に入って来る際、娘は自分にキスをしたそうだった。あるいは優しさを込めて声を掛けたそうだった。しかし実際のところ、アウローラはまるで同じホテルに同宿している者であるかのように振る舞った。その態度にはある種の冷ややかさが見て取れた。彼女はどの辺りまで父親の秘密を知っているのだろうか? アリスチィーデスは自分とモエマの関係を未だヴェロニカが知らない時期の娘の立ち居振る舞いについて思い出そうとした。アウローラは常に洋服やパーティー、くだらない事に全ての関心を注ぎ、愛情溢れる世界とは無縁な女性のように思われた。アリスチィーデスはそんな娘を悲しげに見つめた。彼女がもっと友好的で、思い遣りがあり、心を打ち明けることができる腹心の友のごとき存在だったら、どれほど良いことか。しかしながら……。こうした状況に陥った責任が誰にあると言うのか? 恐らく、ヴェロニカの高慢ちきな教育方針に原因があるのだろう。あるいは私自身、常に子供たちに対して過保護過ぎたのかもしれない。またあるいは、誰のせいでもないかもしれない……。
「コーヒーを飲むかい?」と、アリスチィーデス。
「お茶を頂くわ。もう頼んだから」
そう言うとテーブルの向かいの席に腰を下ろし、窓の方を見やった。彼女の漆黒の瞳にいかなる生気も認められない。顔はクリーム色の卵形で、鼻筋は長く、ツンと尖っている。
父親と娘はしばし黙ったままだった。いつだってお互い共通の話題はない。アリスチィーデスは話すべき話題をあれこれと探した。「今日は天気が良いね」とか、「昨晩はどんな風に過ごしたんだい?」、あるいは「今日、劇場にどんな服を着て行くんだい?」等々。それ以外のことは何も頭に浮かばなかった。
アリスチィーデスは黙ったまま食事を続けた。エデルヴィーラはレモンの輪切りが浮かんだ紅茶を持って来た。アウローラはそれに砂糖を入れず、そのまま飲んだ。私は太りたくないもの。
アリスチィーデスはぐいとコーヒーを飲み干すと席を立ち、黙ったまま食堂を後にした。居間で息子のアウレーリオと鉢合わせした。
「父さん、おはよう」
「息子よ、よく聞きなさい……」
アウレーリオは振り返り、父の言葉の続きを待った。
「お前はもっと用心する必要がある……」
アウレーリオは眉間に皺を寄せた。あの老いぼれは何か知っているのだろうか? いづれにせよ、今の状況に向き合わねばならない。
「用心するって、何に?」
「昨晩、お前は家に帰って来なかったことを知っているぞ。だが、それを咎めている訳ではない。お前と同じ年頃には、わしもそうだった」
アリスチィーデスは口許に笑みを浮かべた。
「お前も知っての通り、わしは信心深い人間ではない。だが、ある事に関しては我々は用心する必要がある……。お前の母さんが知る可能性だってあるしな……」
アウレーリオは靴の先を見つめながら何も言わず、微笑んだ。父は息子の膝をポンポンと叩いた。
「良いとも。さあ、行きなさい」
アウレーリオは父に悪意のこもった一瞥をくれると、身を翻し立ち去って行った。
「奴は何か知っているのだろうか?」
アリスチィーデスは不安げにそう考えた。
毎日、中心街に向かって降りて行く前に、アリスチィーデスは父親のキムの顔を見るのが日課となっていた。今朝は帽子を被り、窓辺の彼専用の安楽椅子に腰を下ろしている父親の姿を認めた。
「コロネル、皆はあんたをどんな具合に扱っているかい?」
父の部屋に入るや、彼が喜ぶことを知ってガウーショ流の慣用句を用いて、そう尋ねた。
「最悪だ」
「父さんは食べ過ぎで気分がすぐれないのですよ」
老父の肩を手で撫でた。
「ここ数日中に……、父さんはきっと……、きっと……」
キムは格言の続きを補った。
「“カラカラ鳥が切り株によじ登る”だろ」
アリスチィーデスは時折、実際のところ父がいかなる人間なのか判断し難く感じ、興味を惹かれることがあった。道徳心などそっちのけで、狡猾さに満ち、意地の悪い行為を成す人間を前にしても、我々を微笑ませずにはいられなかった。どこか愉快とも言える、賞賛の気持ちを父から受けるのであった。
「で、気管支炎の具合はどうです?」
キムは目の端でジロリと息子の方を見ると、話題を変えた。
「アリスチィーデス、わしは帰りたいのだ」
「帰るって、一体どこへ?」
「どこだって良いさ。ここはわしには向かんよ」
「子供染みたことを言うのは止めてください……」
「お前のカミさんはわしのことが嫌いだ……」
「馬鹿なことを!」
「この家でわしがやれることは何一つとしてないのだ」
「父さんはそうした妄想を抱いているだけですよ。ヴェロニカはあなたのお友達じゃあないですか」
「ヴェロニカは一人の人間の友だとも。その人間とは彼女自身だ」
「でも、お父さんはどこに帰りたいのですか? サンタ・マルタですか?」
「サンタ・マルタにわしが帰るのは、当局が役所に蔓延る蛆虫どもを一掃した後だ。あるいは棺を墓地に埋葬する時にだ」
沈黙が降りた。アリスチィーデスは部屋の中を数歩、歩くと窓辺で足を止め、何を見るでもなく外の景色に目をやった。そして父の方へと向き直った。あのようにじわじわと死んで行く人間を目にすることは実に辛い。人生とは数奇なものだ。かつてキム・バヘイロという名を聞くだけで、サンタ・マルタやその周辺地域の人々は誰しも震え上がったものだ。
アリスチィーデスは古き良き時代に思いを馳せた。父は馬に跨り、目を爛々と輝かせていた。アリスチィーデス自身、権力者たるものとはかくあるべきと感じ、官能にも似た感覚を覚えたことは一度だけではなかった。言うなれば、サンタ・マルタはキム・バヘイロが独占する私有地のごときものだったのだ。数多の選挙候補者たちを骨壷に葬り去り、革命時には僅かな期間で幾つもの部隊を次々に組織して行った。
そして今、自分の目の前にいる彼は年老いて皺だらけで、徐々に死への道を歩んで行っている。
「わしはお前の牧場に行くぞ……。差掛け小屋に住んで、そこで日雇い女と余生を送りたい」
アリスチィーデスはそれに対して、答えなかった。そのことこそ、自分がまさに危惧していることだったからである。カンバラーにある牧場で老父が全ての面において命令を下し、管理人といざこざを起こし、自らの都合で労働者たちを馘首したりする。そうならないと、誰が保証できようか? 恐らく、隣人たちとの間で一悶着を起こすのは目に見えている。
「お父さん、ここ二ヶ月余りで冬になります。そんな寒い時期にお父さんはそこで何をしようと言うのですか?」
「鞍の手入れをしたり、縄を結ったり、あるいは腸詰を作ったりするわ。自分が好ましいと思われていない家で朽ち果てて行くより、それの方がずっと良い」
「それはお父さんの妄想ですよ」
そう言うアリスチィーデスの声音には今やはっきりと苛立ちが表われていた。しかし一方でそこには柔らかく、説得力に富んだ友好的なものも含まれていたが。
「ここでは何も不足しているものはありませんよ。でも、ここを一旦離れるとなると、誰がお父さんの面倒を見るのでしょうか?」
「誰もわしの面倒を見る必要なぞない。母の庇護を離れた後、わしは自分のことは自分でやって来た」
アリスチィーデスは「どうにもならない」と言う風に深く溜息をついた。議論をしないことこそ最良だということは重々、承知していた。実際、父が言っていることは老人ならではの“見栄”に過ぎないのだ。心の奥底では、ここを去りたい訳ではないのだ。
「お前はわしの栗毛の馬のことを覚えているかい? あの脚気を患っていた奴だ」
「もちろん、覚えていますとも」
「奴はこのわしに一五年も仕えてくれたんだ。そいつが年老いた時、わしは本当に可哀想だと思った。奴が屈辱を感じないよう頭に銃弾を一発、喰らわしてやったさ。どこに威風堂々とした栗毛の駿馬が荷車や水樽を満載した車を引いていると言うのだ?」
アリスチィーデスは父が話をどこに持って行きたいか分かっていたので黙ったままだった。
「老いぼれは殺してしまうに限る」
「しかし、そんな馬鹿げた比較でご満悦しているお父さんは一体……。お父さんはいかなる屈辱で苦しんでいることも、荷車を引いていることもありませんよ」
老父は窓の外に目をやり、幾度となく呟いた。
「わしは自分が何者であるか知っておる……。知っておる……。知っておるんじゃ……」
「承知しました。それではコロネル、あなたの引っ越しについて具体的に話しましょう。いつ、この家を出たいのですか? 今日ですか?」
キムは息子の方にサッと向き直ると目を閉じた。
「お前もこのわしとの頸城から逃れられないのだな。そうじゃないか?」
「その通りです」
「他の連中はわしの許に神父を寄越したいと考えておる。例の彼女は毎朝、わしが夜中に息を引き取っていないかどうか確かめるためにムラータの娘を寄越す。そしてお前はこのわしをお払い箱にしたいと考えておる……。まさにガキ共の輪遊びの中のウルブ[クロハゲタカ]のような存在こそ、このわしだ。わしの唯一の慰めは馬が痩せ細り、どうしようもない存在に成り果てている姿を目撃していることだ」
「でもお父さん自身がこの家を去りたいと言ったのではなかったですか?」
「わしはお前たちのことをよく知っておる……。良き噴水は異物たるわしを吐き出すのだ」
キムの喉に痰が絡まり、それを切るべく不快な音を立てて咳払いをした。アリスチィーデスは父の部屋から出て行くと、僅かばかりの懐かしさを持って例の栗毛の馬のことを思い出した。
夜の帳が降りると、普段にも増して死者たちのことをキムは考えた。妻のことだとか、兄弟たちのことだとか、血の繋がりのある人々、牛たちや、馬たち、情婦たち、それに日雇い労働者たちに対する記憶がない混ぜとなって、脳裏に浮かんでは消えて行った。暗闇の中、それらについて考えを巡らせていた。もし誰か友人が自分の許を訪ねて来たとしたら――今ではそれは非常に稀なことであったが――、きっとこう尋ねただろう。
「コロネル、あんたはそんな暗闇で何をやっているんだい?」
自分はこう答える。
「奴を待っているのだ」
「奴って?」
「何てこった! お前は知らないのかい? 死だよ」
遅かれ早かれ、奴は必ずやって来る。扉をノックすることもなくな。わしはいかなる恐怖を感じることなく、奴と対峙してやる。代母様、さあ入りたまえ。そして、そこに腰を下ろしてくれ。あんたに一つ頼み事があるのだが……。わしをここから連れ去る時にはさっさと音も立てずにやってくれ。実際、死と対話しながら、あちらの世界へと歩んで行く様を想像した。
「九三年におっ死んだマネッカ・ポルトはどこにいるんだい? マネッカ・ポルト? ちょっと待ってくれ……」
でも、何てこった! 死んじまったら全てが終わりだ。死後には何もない。畜生め! この世の苦悩に満ちた大事業を全て果たした後にまた別の人生が存在することこそ、神の恩恵に違いないだって……。そんなくだらないことを考えるのはマルセーロだけだ……。
今朝、そのマルセーロが部屋の扉口に姿を現わした。キムは“ホスチア[聖体のパン]を授ける神父”がやって来おったと考えた。
「おはよう」
真心を込めて挨拶できない自分を咎めつつ、モゴモゴとそう呟いた。キムもまたそれに対してぼんやりとした口調で、「やあ」と呟いた。その後は父が喉をゴロゴロと鳴らす呼吸音だけが聞こえるという、何とも耐え難い静寂が続いた。青色の瞳は穴が空くほどじっと彼の前に佇む息子に注がれていた。口髭の下の皺だらけのきっと結ばれた口唇が「チッチッ」と舌打ちしている。
「どうしたと言うのだ? 誰かに噛みつかれたのか?」
マルセーロにとって、「お前は厄介な奴だ。何か皮肉な意図を胸の内に隠しているのだろう」という具合で、自分に接する父の習慣はいかなる会話も困難且つ上辺だけのものにしてしまう。それによって二者間に新たな壁が立ちはだかることとなるのだ。
「例の、あのことをお話しに来たのです」
キムは再び喉に痰が絡み咳き込んだ。その不快な音はマルセーロの疲弊した神経を逆撫でた。老父はポケットからハンカチを取り出すと、そこに痰を吐き出し、再び元の場所にしまった。沈黙に耐え切れず、マルセーロは口を開いた。
「覚えていらっしゃらないのですか? ワグナー神父様をここにお連れする旨をあなたにお話ししたじゃあありませんか」
「何のためにだい?」
「私はあなたにその理由を説明しましたよ。神父様もあなたと是非、お話ししたいと仰っています」
「だが、わしは奴と話したくはない」
「しかし昨晩、あなたは会うと約束された」
「わしが? 何一つとして約束なぞしてはいないぞ。きっとわしは呆けているのだろうな。何か口にしたとしても、すぐに忘れてしまう」
裏庭の木々で小鳥たちが騒々しく、陽気な鳴き声を上げている。川の方から船が蒸気を吹き上げるくぐもった音が、下街の通りからはナイフを研ぐ研師が立てる「キィーキィー」という音が聞こえて来る。
マルセーロは父をじっと見つめた。できる限り彼を親しみと愛情を込めた眼差しで見ようと努めた。今や少なくとも終焉が近づいており、父を愛する必要があるのだ。それは自分に課せられた義務なのだ。優しい心を持ち、父がこれまでやって来たこと全てを忘れよう。そう彼が犯した蛮行や粗暴な言動、不品行等、全てを全てだ。程なくして彼の心臓は鼓動を打つのを止め、後には哀れな肉体が腐敗のプロセスになるがままに任せられることとなる。同情心を持て! 同情するのだ! 少なくとも最期の時には父の魂が神の御光に照らさ、その魂が救済される必要があるのだ。しかし、この自分自身の魂の浄化も不可欠だ。そう、常に自分との歩み寄りを、聖体拝領を理解することを頑なに拒み続けている父を愛することによって、我が魂が浄化されるのだ。
キムはポケットから吸い止しの煙草を取り出すと、それを震える指間に挟み火を点けた。そして美味そうに吸い、煙をふうーっと吐き出した。それを見たマルセーロの心に泥だらけのブーツを履き、汗と馬と藁巻き煙草の煙、それに黒色の石鹸の臭いを漂わせる粗暴の権化たる父、キムの姿がありありと浮かんで来た。
「あんたはわしがくたばった後にその神父とやらを連れて来たら良い。そうすれば、わしは何も言うことができないからな。わしのために祈ろうが、墓穴に放り込もうが、焼こうが、あるいはゴミ捨て場に捨てようが、どうしてもらっても結構だ。だが今、この瞬間、いかなる神父とも会うつもりはない。これまで、いつだって神父というものを必要として来なかったからな」
キムは「ふふっ」と笑った。
「いや違うな。選挙の時、少しばかり助人司祭の手を借りたがな……」
マルセーロは父に背を向けると、哀しげな顔つきで黙ったまま部屋を出て行った。息子が扉を閉めるやキムは立ち上がり、物書き机の抽斗を開け、双眼鏡を取り出すと窓辺に陣取った。それは彼にとってここ最近、大のお気に入りの娯楽だった。八時半も過ぎ、双眼鏡で近隣の人々を仔細に観察する。隣家の窓辺へと、中庭へと双眼鏡の焦点を合わせて行く。寝室はどの辺りか。それを探す。時折、ほとんど服を身に付けていない女の姿や、洗濯流しに身を屈め、服をたくし上げ、てムチムチとした太腿丸出しの召使の姿を認めて驚いたりした。半裸の娘は毎朝、鏡の前で体操をするのが日課のようだ。
キムは双眼鏡のピントを調節しながら、裏庭の壁に沿って空き地を、玄関の扉の方向へとそれを向けて行った。そうした探索は呼吸のリズムを活性化させ、禁断の果実を齧るような刺激的な味覚を覚えさせ、若者のようなむず痒さを肌に感じさせ、「俺は悪事を働いているのだ」と言うような背徳感を覚えさせるのだった。
煙草を口に咥えたまま、キムは探索を続けた。突如として服を脱いでいる姿に目が止まった……。動揺して、そこにピントを合わせようとした。ぼんやりとした像が目に結ばれる。まさにそいつは服を脱ぎ捨て、素っ裸になろうとしていた。やがてその姿がはっきりと目に飛び込んで来た。そいつは男だった。
「この恥知らずめ!」
コロネルは憤慨して、そう呟いた。
「開け放たれた窓の前で裸になるなぞ、恥ずかしいと思わんのか?」
ベルナルド・レゼンジは午前中のリハーサルのためにホテルを出た。僅かばかり興奮している。今晩はベートーベンの〈交響曲第五番〉と自作の組曲を指揮する予定だ。きっと記念すべき演奏会になるだろう。だが、心の中に別の心配事がある。今日の午後、クラブで私の信奉者たちがお茶の席を設けている。レナータとの恋の戯れが実に興味深い様相を呈するようになって来ている。ベッドに腰掛け、靴紐を結びながらベルナルドはその娘のことを考えていた。それはこれまでの自らの人生の中で“体験”した最も奇妙なものであった。その娘は斜視の緑色の瞳をしており、蛇のようにうねる体つきをしていた。彼女を目にするといつもアマゾンの伝説に登場する“コブラ・ノラート”を思い出した。その娘は冷たく、毒気を帯びた何かを持っていたが、同時に何とも抗し難い魅力のようなものも持ち合わせていた。こんなにも早急にリオにとんぼ返りしないといけないとは、何とも残念なことだ! 折角のロマンスも呆気なく幕を閉じてしまうとは……。ともあれ、既婚の男性とつき合う小娘など所詮、その恋を真剣に考えているはずもない。当のレナータは今年の冬、リオで過ごすと言い、今の“友情”を継続したいと仄めかしていたが……。
「マリーナ、私のエナメル靴を磨くように言ってくれないかい?」
部屋の中心に設えられた円テーブルの側の椅子に座り、マリーナは心ここに在らずといった様子で煙草を吹かしていた。彼女が答えないので、ベルナルドは再び同じ言葉を繰り返し言った。それに対して妻はただ頭を縦に振っただけだった。
ベルナルドはメヌエットを口笛で吹き鳴らしながらベッドから立ち上がった。その口笛のメロディーはサン・パウロで〈ブラジル組曲〉が初演された夜の記憶が呼び醒ました。ベルナルドのパトロンである資産家の老婦人がその演奏会を後援し、友人、知人で劇場を埋め尽くし、新聞社に広告費用を払い、始終、舞台近くのボックス席の欄干から身を乗り出し、腫れぼったい目で“被後援者”を食い入るように見つめていた。
マリーナはベルナルドの方を見た。夫の女性たちとの恋の秘め事はどんな感じだろう? 彼は上背で、肩幅は広く、その大きな目と分厚い唇はどことなく好色そうに目に映る。広い額はその顔に威厳を付与している。銀髪で覆われた側頭部は頭部全体に新たな魅力を与え、小麦色の肌と見事なコントラストを成している――それはマリーナ自身も同感だと思う。しかし彼の顔を観察する者はその瞳に深みがないこと、表情の豊かさに欠けること、ありふれた顔つきであることに気づくだろう。
シャレー風の実家の前を大股で歩き去る“将来有望な作曲家”を目にした時、マリーナは全くもってノーヴォ・フリブルゴの小娘のように、軽率としか言えない感情を抱いたものだ。あの漆黒で僅かに飛び出た瞳で自分のそれを見つめられ、小麦色で温かい大きな手で腕を握られた時、電撃に撃たれたかのように処女の体に震えが駆け抜けて行った……。そして今、その彼に対してどのように感じているのか考えてみた。
ベルナルドは今、〈交響曲第三番〉の葬送行進曲を口笛で吹き鳴らしている。マリーナは身投げした例の女性と娘のジィシィーニャのことを思い出した。夜中、眠れない時には幾度となく“自身の周り”で亡くなった人々のことを考えた。
ベルナルドは再びメヌエットを吹き鳴らし始めた。その曲は今の彼の精神状態に最も相応しい“テンポ”なのだ。信奉家たちによるクラブでのお茶会。“コブラ・ノラート”のような緑色の瞳と、細っそりとした少し汗ばんだ手(何ということだ! 私は病気なのか?)コパカバーナ。我々はそこで会うことができる。そして連れ立ってカジノへ行く……。ベルナルドはさらに力強く口笛を吹き鳴らした。お茶会の間、年若い女友達たちといかなる会話を交わすかを考えた。ワグナーに関する面白い小話がある。リチャード・ワグナーは“ドイツ機甲師団の草分け的存在”だ。これはとても良い! で、ドビュッシーは? 奴は細密画家、そう……、タボルダはどんな風に言っていたっけ? ビザンチン様式か、あるいはフィレンツェ様式だったか……。思い出せない。ああ! では、バッハは? あいつはあたかも対等であるかのように、数学という言語を用いて神と対話した男だ。それについてどこかで読んだことがあるが、はっきりとは覚えていない。もしそれについて説明を求められたら困ってしまうな……。自分がサインをする姿を想像した。そうした輝かしい姿が脳裏に流れ込んで来ると、いつしか口笛のメヌエットがサンバの軽快なメロディーへと変わって行った。
「マリーナ、君はここで朝食を摂るつもりかい?」
「そうするようにお願いしたわ」
「それじゃあ、また後でね。私は軽くリハーサルに行って来るから。十二時には昼食を摂るために戻って来るよ。燕尾服を準備するよう言うのを忘れないでね」
マリーナは夫の姿を目で追った。入り口の扉が閉まるのを見届けると立ち上がり、バルコニーまで行き、欄干から身を乗り出すと若い女が身投げした場所を食い入るように見つめた。そこに見えるものは骨が粉々に砕け散った娘、ジィシィーニャの姿だった……。朝の光も、通りの喧騒も、あの悲劇を忘れ去った人々を包み込むお祭り色に満ちた色調を持ってしても、それを拭い去ることはできない……。ジィシィーニャが再び死んだという考えが受難の日の夜中、私の心を酷く苛んだのだった。その考えを頭から消し去る必要がある。もし少なくともあの身投げした娘の顔を拝むことができたなら……。でも、あの娘は何という名前だろう? 警察に問い合わせるように、ホテルの支配人に頼んでみてはどうか。何としてもそれを知る必要がある。急いで部屋に戻り、新聞がどこにも見当たらなかったので、電話の受話器を取った……。全てを全て大急ぎで、熱望を込めて無我夢中にやるべきなのだ。あたかも自分が発する言葉や所作、行動が娘を蘇らせ、永久にジィシィーニャを死の世界から奪い去ることができるかのごとく……。
塔での食事の時間、特に朝食時は喧騒に満ちていた。なぜなら多様極まりない話題が互いに交わされること以外に、これから始まる日課への不安から皆が焦燥感に駆られるからだった。トニオは通常、車で出掛ける。子供たちをそれぞれの目的地に送り届けるのを日課としていた。リタは高校へ、ジルは医科大学へ、ノーラは時々ではあるが、何か調べ物をするために図書館へ、あるいは朝の内に買い物に勤しむために市場へといった具合にだ。
しかしその日の聖土曜日の朝、サンチィアーゴ家の面々は平静漂う朝食を摂るべく九時に塔に集っていた。リヴィアの様子をつぶさに観察しほっと胸を撫で下ろした。全てが順調のようだ。恐らくリタはまだ少しばかり心ここに在らずといった状態で、何らかの憂鬱感に囚われているようだ……。しかしそれも年頃ならではのものだし、泣いたり、悲嘆に暮れたりするのは何ら不思議なことではない。リヴィアは幸せだった。何ものかが自分のこの家庭の安らぎを打ち壊しにやって来るのではという危惧を常々、抱きながら生活しているにもかかわらず、自分はとても幸せなのだ。夫と子供たちはいつも街の方にいる。自分は時々ではあるが、何か良くないことが家族の身に起こるのではないかという予感を打ち消そうと、あれこれ思案するのを止めたりした。娘たちに関しては興味深いことだが、さして心配はない。ノーラは元気旺盛で賢く、常に“この世界”にしっかりと足を着けている。リタは決して独りで出歩くことはない。しかしジルやトニオは……。ジルなどは眉間に皺を寄せて、心ここに在らずといった目つきで空を見やり、放心状態のまま考え事をする時があった。通りを横切る時などは全くもって危険だ。で、トニオは? 同じことだ。車で誰かを轢いたりするかもしれない。リヴィアは家族全員が家にいる時のみ安心することができた。家族皆が健康にして、安全で、満足していることを目にした時のみだ。そう言った理由で、彼女は毎晩、神に“部族”全員の守護を祈るのだった。自分が厚かましい“顧客”であるかのように、半ばはにかみながら神に特別の守護があらんことをと嘆願するのだった。さらには二人の守護天使にそれぞれ力を合わせて守護がもたらされるようにとも祈った。
オルテンシィアが大きな青色のポットをお盆に載せてピンと体を伸ばし、厳粛な雰囲気を漂わせて入って来た。ノーラはゴイアバ[グァヴァ]のジャムをパンに塗った。その間、リタは窓ガラスを通して、パルテノン地区の背後に連なる緑色に染まる丘々を、朱色に塗られた家々の屋根を、白色の壁や塀を、縦横無尽に走る黄土色の通りや街道ををじっと見つめていた。ジルは何かを探しているかのように“ガゼッタ”紙の特別号を凝視している。テーブルの上座に陣取るトニオはそこから妻の方に視線を向けていた。妻の瞳の色調から今日の空の色を予測した。それを見れば、わざわざ外を見る必要がない。空が曇っていたら、リヴィアの瞳は澄んだ青色になる。黄昏時の淡い光を受けると、それはスミレ色の色調を帯びる。しかし空が明るく、青色の時には、妻の瞳は鋼のような灰色に染まる。“今日は澄み渡った青空だ”。そう、トニオは結論づけた。
「リタ、あなたが今考えていることに二〇〇ミル・レイス賭けるわ!」
ノーラはそう叫んだ。
「馬鹿馬鹿しい! 私は……、私は何も考えちゃいないわよ。私はただ丘のところにある、あの家を見ていただけよ。鏡に反射して、誰かの姿が目に入ったから」と、リタは吃りながら言い返した。
ノーラは「狡賢い人ね。私はあなたのことを全部知っているわ」と言わんばかりに、意地悪そうに妹にウインクした。リタは眉間に皺を寄せ、顔を曇らせた。
「何なの?」
「何でもないわ」
「さあ、淑女の皆さん! ノーラ、あなたはお茶かしら、それともコーヒーかしら?」と、リヴィア。
「ブラックコーヒーをお願い」
「で、リタ。あなたは?」
「私にはカフェオレを」
リタは考えた。ちょうどこの時間、きっと“彼”も誰か別の女とカフェオレを飲んでいるだろう……。私が知らない女と……。
「今晩、ベートーベンの〈交響曲第五番〉が演奏されるようだよ」
ジルは“芸能欄”の演奏会プログラムを見ながら、そう言った。リタは喉許が締め付けられ、両腕から力が抜け、失神してしまいそうな気分になった。それはまさに降霊術のようにさえ思われた。ノーラが何らかの反応を示しているかどうか確かめるために彼女の方を見やった。当のノーラはぼんやりとした様子でコーヒーをかき混ぜている。
「ジル、昨日の例の出来事について何か記事がないか確かめてくれないかい?」と、トニオは息子に頼んだ。
ジルは「何もない」という具合に頭を横に振った。
「何もないよ。ただ招待が……」
彼はそこまで言うと黙り込んだ。“埋葬”という言葉は、この場では口にすべきではないと思ったからだ。“部族”の間の取り決めによれば、“死”や“病”、“不幸”、“浅ましさ”、“悲しみ”などを連想させるような言葉を食事の場で用いるのはタブーとされていた。トニオはそれを理解しつつ、「うん、うん」と頭を縦に振った。
「そこに住所が書いてあるのかい?」
ジルは通りの名を読み上げた。そこはテレゾポリス地区の薄暗い、陰気な横丁だった。
「あなたたちは未だ例のジョアーナ・カレフスカのことにこだわっているのかしら?」と、リヴィアが尋ねた。
それに対して大きな関心に突き動かされ、リタとノーラは二人して同時に立ち上がると、ジルの肩越しにその新聞記事を読もうとした。それはジョアーナ・カレフスカの埋葬に参列を呼び掛けるもので、彼女の同僚たち“ロージャス・アメリカーナス”の人々によって、それが執り行われると告知されていた。
“入り口を右手に入ったところの玩具売り場で”、そうリタは考えた。可哀想に! 今日はとても色彩豊かで、晴れ渡った美しい日だというのに! こんな日にこの世界では埋葬や戦争が行われているなんて、どうかしているんじゃないかしら? この私も不幸だけれども、陽気な気分なのよ。今日、愛する人と会えるのですもの。舞台袖に行って、その人にサインをもらう予定だもの。リタの目は参列を呼び掛ける記事に記されている黒色の十字架を見つめていた。しかし実際に目にしているのは、ベルナルド・レゼンジが自らの名をサインしている姿であった。
ノーラもまた、こことは別の世界に思いを馳せていた。ロベルト……。彼が口にするであろうことを、例の自殺によって彼がどれほど苦悩しているかを熟知している。彼との再会の時間が近づきつつあることが心配でならない。とても沢山のことを私自身、決断する必要があるわ……。ロベルトが演奏会のために取ったボックス席に同伴するのを快諾してくれたら、どれほど良いでしょう。しかし彼の返事は手に取るように分かる。きっとこうだ……。
「僕のいるべき場所は鶏小屋だ」
お馬鹿さん! 救いようのないほど気の毒な人だわ!
「コーヒーが冷めてしまうわ」と、リヴィア。
二人の娘たちは我に返った。しかしながら各人が抱く不安が払拭された訳ではなかった。実際、この朝食のテーブルに集っているのは五人ではなく、九人であった。サンチィアーゴ家の面々以外に、ロベルト、チィルダ、ベルナルド・レゼンジ、そしてジョアーナ・カレフスカがそこに加わっていた。トニオはその身投げした娘が生きていて、ジャムを塗ったパンを食べている様を“見ていた”。彼女が三人目の娘のごとく……。
「リヴィア、私はその娘について知る必要がある。彼女がなぜ自らの命を絶ったのか、その理由を知りたい」
トニオは妻の目をじっと見つめて、そう言った。
「シャーロック・ホームズさん、それに別に依存はありませんわ。あなたがやりたいようにおやりなさい」
ジルはぐっとコーヒーを飲んだ。
「僕はそれに犯罪の臭いがするなあ」
物思いに耽るよう、ジルはそう言った。
「それは巷で言い古されていることだと思うわ」
母親は控えめな調子で遠回しに言った。リタはある考えが浮かび、椅子から飛び上がった。
「お父さん、そのジョアーナ・カレフスカを主人公にした小説を書いたらどうかしら?」
トニオは微笑んだ。
「それは妙案だ。それをやらない理由は見当たらない」
ジルはすでにその小説を“読み”始めているようだった。
「謎に満ちた語りは物語に悪影響を及ぼすものではない」と、小声で囁く。
「現代的且つドラマチックなシンデレラ」と、ノーラは口を挟んだ。
「王子様の舞踏会に行くことを切望している貧しい娘……」
トニオはついと立ち上がるとテーブルをぐるりと回り、娘たちにキスをした。
「アイデアを提供してくれたことへのキスだ」
トニオは再び腰を下ろすと、説明を加えた。
「興味深いテーマの種がまさにそこにある……」
家族全員が父の話に注意を傾ける。
「我々は皆、多かれ少なかれ“シンデレラが感じる劣等感”と同じようなものに苦悩しているはずだ」
「王子様の舞踏会に行きたいという願望と裏腹に、彼女が抱いている劣等感のこと?」と、ジルが尋ねた。
「まさにその通りだ。私をサクラメントからここに来させたものが、もし人生の好転を望み、職業人としての成功……、いつの日にか王子様の舞踏会で踊りたいという願望でなかったとしたら一体、何なのだろうか?」
テーブルの端でリヴィアが微笑んだ。
「それで、あなたは舞踏会に行くことができたのかしら?」
「お前はそれが叶ったことをよく知っている。舞踏会はまさにここだからな」
家族が腰を下ろしているテーブルをぐるりと囲む仕草をした。
「何とも素晴らしい舞踏会じゃないか!」
「物語に戻りましょう……」と、ノーラ。
「我々は舞踏会の会場に入ることができました……。その後、一体、何が起こるのかしら?」
トニオは眉間に皺を寄せ、しばし思考を巡らせた。そしてその問いに答えた。
「その後は、台所へと戻らなければならないタイムリミットとなる深夜十二時に打ち鳴らされる鐘の音に怯えながら過ごすのだよ」
「その恐怖感は途轍もなく大きいわね!」と、リヴィアが叫んだ。
「大佐殿、そこに一つのテーマが潜んでいるのですね。それに何の疑いもない」と、ジル。
「我々は灰の中に残る燠火から完全に解放されることはない」
トニオは続けて言った。
「そうした理由から、我々は舞踏会を完璧な意味で楽しむことができない。台所を這いずり回る気の毒な人々のことを考え、舞踏会そのものを外側から観察したりする。そうすることによって心痛を覚える。心痛と恐れか……。私には分からない。恐らく良心の呵責のようなものを感じるのかもしれない」
リタは目を真ん丸に見開いた。
「良心の呵責って、一体、何に対して? 踊ることは何の罪でもないわ」
「でも、あなたが踊っている時に他の人の爪先を踏まないように気をつけてね」と、ノーラ。今一度、ロベルトが口にするであろう言葉を思い描いた。
「まだ、シンデレラが階段に残して行った靴の話が残っている。気の毒な人々はその魔法の靴が履けるように自らの足を痛めつけ、ナイフでそれを切ってしまいそうな勢いだ。皆は王子様の“選ばれし者”になりたいのだ」
「そのこととジョアーナ・カレフスカとは、どんな関係があるの?」と、リタが尋ねた。ジルが父に代わって、それに答えた。
「彼女もまた王子様の舞踏会に行くことを夢見るシンデレラだと言うことだ。だが実際は、別のところに行ってしまったけどね……」
午前中に二人の学友と解剖学の理解深化に努めるため死体保管所を訪れることを考えていた。
トニオはパンの中の白い部分を丸めて、指で弄んでいた。
「多分、ジョアーナの両親が移民としてブラジルに渡航して来た場面から物語を書き起こすことになるだろう。まだジョアーナがこの世に誕生していない時代を起点として……」
家族の他の者たちはじっと耳を傾けている。トニオ自身が描くであろうシンデレラの物語を即興で語り始める。程なくして家族全員がそれに加わり、様々な提案をしたり、質問をしたり、あるいは異論を唱えたりする。皆はそれに集中する余り、コーヒーのことも、各人が抱える心配事も、時間も忘れてしまうのだった。徐々に物語に肉体が付与されて行く。しかしながら“部族”一人一人の面々は自らのやり方でヒロイン像を描いている。従って、そこには五通りの全く異なるジョアーナ・カレフスカが存在し、偶然か否かは不明だが、それら全てに昨日、インペリオ・ビルの一三階から身を投げた娘が有する特徴は何一つとして認められなかった。
一〇時少し前にジュッカが姿を現わした。彼は大柄な男で、半ば猫背で、福々しい顔つきをしており、顎髭は伸びるに任せていた。金属製のフレームのメガネを掛けていて、服装に気を使うタイプではなかった。帆布生地の皺くちゃの上着はダブダブで、ズボンは裾が極端に短く、ほとんど踝が見えていて、膝の部分の膨らみが際立っていた。
ジュッカは大股で、ゴロツキのように体を揺すりながらズカズカと事務所に入って来るなり、待合室を横切り、ノックすることなくノリヴァル・ペトラの執務室に足を踏み入れた。そこにはオリーブ色の鋼製の書物机の側の椅子に腰を下ろし、省庁宛の書簡を秘書に口述させている友人の姿があった。
“火曜日の午前中に、あなた様が我が事務所に足をお運びいただくことを低身低頭、嘆願する次第であります。例の打ち合わせの件で……”
ノリヴァルは振り返ると、声音を変えて言った。
「やあ、ジュッカ! ちょっと待っててくれ。あんたと話す必要があるから」
ジュッカは何やらモゴモゴと呟いた。帽子に覆われた前頭部を掻くと、ツバを後ろに引き上げた。紫色のびん革が当たった額は汗でテラテラと光っていた。
「例の打ち合わせの件で……」
ペトラは続けた。
「以上の件、どうぞ宜しくお願い致します……。サラさん、今日はこれぐらいにしておきましょう」
秘書は赤毛で、厚化粧のためか肌が真っ白の娘だった。彼女は立ち上がると執務室を後にする前にふと思い出したかのように、次のように告げた。
「ああ! 工業センターからお電話がありました。月曜日の講演会のテーマが何なのか連絡をいただきたいとのことです」
ノリヴァルはインクの吸い取り紙の束を鉛筆でポンポンと叩きながら、しばし考えた。
「“商業的効力と宣伝”について話すと伝えておいて下さい。講演時間は……、そうだなあ……、大体三〇分位、長くとも三五分位だと言っておいて下さい」
「はい、承知しました」
秘書が扉の取手に手を掛けたその時、ノリヴァルは彼女を呼び止めた。
「サラさん!」
秘書は振り返った。
「妻に花を贈るように手配して下さい。蘭の花をお願いします」
ノリヴァルは椅子の背に体をもたせ掛け、天井をじっと見つめた。ジュッカは口を半ば開いたまま、彼のその様子を凝視していた。常に鼻で息をし、その呼吸音は力強く、鼻毛が鼻腔から出たり入ったりしている。顔つきはどことなく野生味を帯びていて、それにより顔の大きさを際立たせていた。瞳は紫がかった薔薇色であるが、目つきは優しげで子供っぽかった。
秘書が部屋を出て行くとジュッカは三歩進み出て、友人の執務机の前に立った。
「ノリィ、何か俺に用かい?」
太く、よく響く嗄れ声でジュッカは尋ねた。いつものことだが、まるで喧嘩を吹っかけるかのように怒気を帯びた話し方だった。ノリヴァルは黙ったまま友人の顔をしげしげと観察していた。ジュッカは肩の力を抜き、頭に帽子を被ったままじっと待っていた。
「ジュッカ、あんたはなぜ髭を剃らんのだ?」
話し相手は苛立つように手で顔を撫でると言い返した。
「あんたが俺のように六人のガキがいて、奴らのおまんまの為に外を駆けずり廻って働く羽目になることだけを俺に望んでいるのさ」
「ジュッカ、役者ぶるのは止めろよ。それが髭を剃らん理由にはならんよ。鼻をほじるのは止せ。大の大人が……」
「ノリィ、俺をうんざりさせるのは止めろ。一体、何の用なんだ?」
ノリヴァルは穏やかな目つきで友人を査定していた。持論では、身なりが良く、清潔で、きっちりと顔の髭を剃った男は何か取引きを申し出た際、半ば勝利を収めたも同然だと言うことだ。服装に気を使わない、爪が汚れた、黄ばんだシャツに皺だらけの上着を身に付けた奴と好んで話しをする奴なぞ、どこにいるというのだ?
「で、一体、どうしたと言うのだ?」
「まあ、椅子を引いて腰掛けろよ」
「俺は座りたくなどない。さあ早く、言ってしまいな」
まるでノリヴァルの中にある何かが突如として溶解したかのように、彼の表情が変化した。ジュッカはその変化に気がついた。瞬時にして、友人は年老いてしまったようだ。顔の染みが際立ち、黒雲が彼の顔を覆ってしまったかのようだ。ノリヴァルのようなタイプの男にとって、そのような表情を浮かべること自体、非常に稀なことだった。それを目の当たりにしたジュッカは戦慄した。
ノリヴァルは半ば喉を詰まらせながら話し始めた。
「ジュッカ、俺は酷く……悲劇的状況に陥っているのだ」
「馬鹿なことを言うな」と、ジュッカは唸るように言った。
ノリヴァルは視線を落とすと、両手で力を込めて鉛筆を握り締めた。そのため指の関節部分が白くなった。
「だが一体、何があったと言うのだ?」
ジュッカの下唇はワナワナと震えている。瞳には同情と同時に、驚愕の光が宿っている。
友人から目を逸らし、ノリヴァルは引き出しを開け、そこから一二枚の証券を取り出すと、それを机の上にバサリと投げ出した。
「もし今日の午前中、これらの証券を売り飛ばすことができなければ、間違いなく……」
そこまで言うと黙り込んだ。そして、その同じ引き出しから回転式の拳銃を取り出すと、債権の上に置いた。ジュッカは激しく喘ぎ、混乱していた。ノリヴァルはきっぱりとした口調で言った。
「俺はこの銃で頭を撃ち抜く」
ジュッカは気力を振り絞り、怒鳴りつけた。
「馬鹿なことを!」
その言葉は投石機から放たれる巨大な鉄球のごとく口から吐き出された。
「馬鹿な!」
その声は断固としたもので、よく響き渡り、深みを帯びていて、大きな怒気が込められていた。同時にそれは訴え掛けでもあり、脅しとも取れた。
「馬鹿な!」
ノリヴァルが目を上げると、ジュッカはそこに涙が煌めいているのを認めた。
「ノリィ、そんな愚かなことを口にして、どうしたと言うのだ?」
「愚かなことではない。本当のことなのだ」
「あんたは俺をからかっているのか」
ジュッカの首筋の血管がドクドクと波打っている。毛むくじゃらの指は小刻みに震えている。ノリヴァルはゆっくりと頭を振った。
「ジュッカ、俺はあんたに一度として言ったことがないが……。俺は破産しちまったのだよ。もし今日、その手形分を支払わなかったら、奴らは俺のことを訴え、俺は窮地に陥ることになる」
ジュッカは打ちのめされたかのように、しばし黙り込んだ。そして口ごもりながら言った。
「で、あんたの叔父貴は?」
「援助の手を差し伸ばしたくはない」
ジュッカは絶望するように拳銃を見つめた。アヤコ貝の装飾が施された握り手は窓から差し込む光を受けギラギラと輝いている。
ノリヴァルはハンカチで涙を拭うと、心を落ち着け、確固たる口調で言った。
「ジュッカ、俺はあんたを頼りにしている。これまで一度として、こんな無様な失敗をしたことがなかったがな……。この証券を売り捌いてくれ。一枚につき一コントでだ……。実際のところ、それ以上の価値があるがな……。もし相手が値切るなら……、八セントまでなら売っても良い。一二枚の証券、こいつを売り捌いてくれ。だが、正午までに金を持って来てくれ」
ジュッカは未だ拳銃をじっと見つめていた。小麦色に焼けた顔を覆う、半ば勇ましくも、どことなく黄昏時を思わせる雰囲気を漂わせた髭が、これから起こるであろう惨事の予兆を示していた。彼は顎と額を撫でると、ゆっくりと一枚一枚、証券を手に取った……。それを均等に二つに分けると、上着の左右のポケットに収めた。
「俺には当てがある……」
友の方を見ずに、そう言った。
「安心して待ってな」
ノリヴァルは活気づき、口を開いた。
「現金で受け取れるのか?」
「現ナマだとも」
「正午前にか?」
「そうだ」
「何とも頼もしい老獪な戦略家だ!」
ノリヴァルは真っ白で、健康そのものの美しい歯を見せて微笑んだ。自分はその巨大な番犬のことを信用していた。これまで幾度となく、奴は俺の窮地を救ってくれた。この街を、証券取引所を、商取引きにまつわる秘め事を熟知しているのだから。奴はこれまで財を成すことはなかった。なぜなら小心で、あくまでも良心に従って対話するからだ。皆は彼に好意を抱き、常に利用し、その代償を払うといった具合だ。そうした魅力と他者との関係をいとも簡単に結べる能力があれば、ジュッカは金持ちになることができたろう。しかし奴は子供たちと連れ立って映画館に足を運び、シリーズ物の映画を観る方を選んだ。アポロ映画館で、あのような大男がアーモンドを齧りながら、西部劇とかの“主人公”に拍手を送るのだ。街に商機や、割りの良い日銭を求めて出掛ける代わりに、新聞の幼児向けの付録を読み耽ったりする。ジュッカが子供たちと議論する様を見ると可笑しくなる。彼は子供たちと同年齢であるかのように振る舞い、そこに保護者ぶったところが全くない。「お前はこっちで、お前はあっちだ」。四五歳にもなるあの大男がそんな風なんて、全くもって信じられない。ノリヴァルは愛情のこもった目つきでそんな友をじっと見つめた。
ジュッカは身を翻すと、扉の方へと歩いて行った。一瞬、躊躇するかのように立ち止まると、踵を返し、執務机の方に近づいて来るなり拳銃を引っ掴み、不器用な仕草でそれをズボンの後ろポケットに突っ込み、不機嫌そうに呟いた。
「用心のためにな……」
そう口にするや、大型動物がトロットで駆けるかのようにノシノシと執務室を横切ると、扉を開け出て行った。
ノリヴァルは全ての抽斗の中身を確認し、いくつかの書類を破いた。身分証明書を探し、それが見つかるとポケットに滑り込ませた。一瞬だが、半ば茫然自失の状態に陥った。あたかも今、この瞬間になって初めて、これから自分へと伸びるであろう追跡の魔手をはっきりと悟ったかのように……。熱にうなされるような興奮を覚える。気を落ち着かせ、考えを整理し、自分がこれから何をやる必要があるのかを秩序立てて考えるよう努めた。ジュッカが金を持って帰って来たら、後のことは彼に任せることにしよう……。いいや、彼を昼食に誘う方が賢明だ。そうすれば、もっと落ち着いて今の状況について説明することができるから。逃避行のための手筈を整えてくれるよう、彼に頼もう。彼以外の他の者たちには最後まで隠し通す。劇場には、妻と姪を伴って行くことにしよう。帰宅したら、最後の最後になって全てを打ち明け、荷物をまとめて……。そして、おさらばだ。
ノリヴァルは立ち上がった。記憶の糸を辿りながら、モンテビデオやブエノス・アイレスで頼れそうな人々の名前を思い出そうと苦心した。
あの大工業家の名前は何だったろう……。アルゼンチン工業会のあいつだ。カスチーリョ、あるいはトルジィーリョだったか?
電話が鳴った。ノリヴァルは執務机の方へと歩いて行った。突如として背筋がゾッとした。もうすでに訴訟手続きが始まっていて、この自分は警察が血眼になって探している逃亡者なのだ。電話のベルは鳴り続けている。ノリヴァルは用心深く、受話器を上げた。
「もしもし!……。どなたですか?……。どなた? どなたです?」
あくまでも平静を装い、落ち着いた口調で話すように努めた。女性の声が受話器から聞こえて来た。
「やあ、フロリッパ!」
胸を撫で下ろすと、そう叫んだ。
「ところで……、何かニュースがあるかい?」
消え入りそうな声にじっと耳を傾ける。
「あの娘さんのために、私、こうして電話しているの……」
「どの娘さんだい?」
「グロリア地区に住んでいる小麦色の肌の娘さんよ」
「ああ、あの娘さんか……。で、一体、彼女はどう言った用向きなんだい?」
「私の自宅に彼女が来るよう手筈を整えておいたわ。彼女には『あなたに興味を持っている男性がいる』と、話しておいたわ……」
「で、彼女は来るのかい?」
「全て打ち合わせ済みよ。今日の四時に来る予定よ。あなたにとって都合の良い日時なのか分からないけど、それがあなたに彼女を引き合わせる唯一の機会なの……」
「何てこった! フロリッパ……、今日の午後はやらなければならないことが山積みなんだよ……。別の日じゃ、駄目かい?」
「多分、無理だと思うわ。彼女の旦那は旅行中で、いつ帰って来るか分からないそうよ。ですから、直ぐにでもやり取りを決めておいた方が良いと思うわ」
ノリヴァルは受話器のコードを指で弄んでいる。
「分かった。行くことにするよ。四時だね?」
「ノリヴァルさん、少しばかり厄介な取引きをしたわ。その娘さんは真面目な方で、怖がっていたもの……。でも、私の家はとても居心地が良くて、怖がる必要は皆無だと、彼女に伝えておいたから……」
「フロリッパ、あんたは老獪な戦略家だな。じゃあ、そちらに行くことにするよ。四時に落ち合おう」
受話器を元の位置に戻した。今や新たな期待感に胸が踊る。何という午後だ! 素晴らしい! 債権に、逃避行への不安、ジュッカ、それに小麦色の肌の娘……。窓辺へと近づいて行く。事務所は五階にあった。よってそこから川の一部や屋根が連なる様を遠望することができた。黄金色を帯びた日差しが朝の街を煌々と照らしている。茶色の煙が波止場の方角の空にモクモクと吐き出されている。通りからは金属質な物音や、人々の声、クラクションの甲高い音がここまで聞こえて来る。
ノリヴァルは窓辺を離れるとドレッサーの側にしゃがみ込み、下部に設えられた扉を開くと、その中の仕切りに収められたコニャックの瓶と杯を一つ取り出した。杯にコニャックをなみなみと注ぐと、それをぐっと飲み干した。舌をチッチッと鳴らす。そして、瓶を元あった場所に注意深く収めた。その時、奇妙な考えに囚われた。多分、もう二度とここにしゃがみ込んで、あの扉を開けてコニャックの瓶を取り出すことも、それを飲むこともないだろう。そう考えると、何とも形容し難い感覚に襲われるのだった……。
アリスチィーデスは理髪店の匂いが好きだった。調髪剤の潤滑油から発せられる匂いと混り合った生温かく香る、ローションの匂いが実に好ましく思われた。彼のお気に入りの理髪師ゼッカが担当する椅子に腰を下ろし、頭を後ろに反らせ、体をほとんど水平に近い位置に倒すと目を閉じた。顔に芳しい香りの石鹸の泡が塗り付けられ、続いて、剃刀が滑り、マニキュアが施された生温かい指が軽く肌に押し付けられるのを感じる。指が、爪が肌に触れる際、何とも言えずこそばゆくなる……。その瞬間こそ、心地良い平静と芳しき香りに満ちた気怠い忘却の時であるのだ。
髪を切る鋏の音。他の客たちの話し声。噴霧器が立てる「シューッ」という音。それらのどれを取っても、全てが友好的且つ陽気で、心落ち着かせる音だった。
「ドトール、“パンペイロ”は明日のレースで勝つかね、それとも負けるかね?」と、ゼッカが尋ねた。
その理髪師はどちらかと言うとゴロツキのタイプで、縮れ髪で、ボクサーのように鼻が潰れていて、肌は火山地帯の土壌を思わせるようなものだった。
アリスチィーデスはそれに答えるために半目を開けた。
「ジョッキーに拠りけりだな。今のジョッキーは詰めが甘い点が気になる……」
「マルヴィーナは“エスピリーニョ”に一〇、賭けるみたいですぜ」
肌が小麦色にこんがり焼け、女家長のような雰囲気を漂わせたマニキュア師の方にウインクし、ゼッカはそう述べた。彼女は金歯をきらめかせて笑った。
「ドトール、それはゼッカの嘘よ。私は“パンペイロ”のファンですもの」
「私はアルゼンチン産の別の競走馬を探すよう手配しようと考えているところだ」
ゼッカが上唇と鼻の間の髭を剃り始めたため、アリスチィーデスは口を閉じた。理髪師の指は煙草のヤニの臭いがしたが、それに対していかなる不快感も感じなかった。それら全てが儀式の一部だったからである。
「マルヴィーナさん、息子さんは元気かい?」
ゼッカが剃刀を洗っている間、アリスチィーデスはそう尋ねた。
「ドトール、とっても元気ですわ。息子は今、五年生ですの」
「何歳だい?」
「九歳です」
「そうなのか! その歳でもう五年生とは! おめでとう」
マニキュア師の金歯がきらりと輝いた。アリスチィーデスはそうした人々を喜ばせるのが好きだった。彼女を賞賛し、興味を惹きそうな話題を探し、「私もあなたたち側の人間ですよ」と言わんばかりに振る舞うのである。心の奥底には、それぞれ一人一人が有権者であると認識する、政治家としての習慣が未だこびり付いていた。
「で、サッカーの方だが、明日の試合、どのチームが勝つと思うかね?」
ゼッカは剃刀を肌に当てたまま、手を止めた。
「ドトール、何て質問をするのです? インテルが勝つに決まっているじゃないですか。我々はそれを信じて疑いませんよ」
「だが、グレーミオの方もディフェンス陣が強固だと言うじゃないか」
事務所で誰かがそう言っているのを耳にした。ゼッカは歯を剥き出しにして反駁しようとしたが、剃刀を動かし始めるとキッパリと言い放った。
「それはその通りですが、きっとどんちゃん騒ぎになりますぜ……」
隣の椅子では、理髪師と客は昨日の日暮れ時に起こった自殺騒ぎについて議論が交わされていた。
客の爪を磨いていたマルヴィーナが栗色の目を上げ、尋ねた。
「その娘さんがすんでのところ、あなたの車の上に落ちて来たって本当ですか?」
アリスチィーデスは不快な気分になった。その問い掛けがあたかも自分に対する不信感の表われのように思われたからだ。
「その通りだよ」
実際、何が起こったのかを詳細に語って聞かせた。
「何てこった!」と、ゼッカが叫んだ。
「話によれば、父親と着て行く服について言い争いをしたんですって。エレベーターに乗って、屋上から身投げするなんて……。よっぽど彼女は傷ついていたのね」と、マニキュア師が言った。
「それはどうだか! あの自殺には男が絡んでいると思えてならないんだ。それをどうしても頭から拭い去ることができない。ドトール、そうだとは思いませんか?」と、ゼッカ。
「君の意見に私も賛成だ」
アリスチィーデスは共感を示すように自然な口調で、そう呟いた。すると隣席の理髪師が会話に割り込んで来た。
「ゼッカ、その娘はメモ書きを残していたそうだ。ある男が彼女にちょっかいを出して、その後、捨てたそうだ……」
「何て恥知らずな奴だ!」
「馬鹿なのは彼女の方よ。今時、そんなことで身投げする人なんていないわ。もし彼女さえ欲すれば、大金持ちのコロネルには事欠かなかったでしょうし……。あんな高い所から飛び降りるなんて、どんな神経をしているのかしら」と、マルヴィーナはコメントした。
「真っ当な男だったら、そんなことを絶対しないと保証するよ」と、隣席の理髪師は断言した。
ゼッカは自分の顧客に意見を求めるように尋ねた。
「ドトール、一つ教えて下さい。彼女に悪さをした男は訴えられますか?」
「もちろん、訴えられるし、訴えられるべきだ」
「しかし、そうはなりませんよ。いつだってそうですが、金のある奴は何をやっても罰せられることはありませんよ」と、隣席の理髪師は断じた。
奴は社会主義者だ。アリスチィーデスはそれを知っていたが、敢えて何も言わなかった。しかし気分が良くなりたかったので、次のように言った。
「様々な物事は変わりつつある。今では社会主義というものが巷で蔓延り始めている。陪審員の一人として、私はそうした不埒な連中たちに刑の宣告を下さなければならない。そのことに関して、寸分の疑いもない」
時を移さずしてモエマのことを考えた……。丁度その時、騒々しい太った男が店に入って来た。皆の注目はその男に集まる。男は大声でサッカーについて議論し始めると、威嚇するような口調で贔屓のチームの勝利を断言した。
店内は活況に満ち、騒々しくなった。その様を見るにつけ、前代議士は目を細めて微笑んだ。アリスチィーデスはいつもチップを惜しむことはなかった。ゼッカは彼の外套にブラシをかけ、マルヴィーナは帽子を手渡した。
往来は喧騒に満ちていた。ドトール・バヘイロは歩行者たちの間を縫って歩いて行った。あたかも人々が「昨日の自殺を引き起こした張本人があそこに歩いているぞ」と後ろ指を指され、謗るのが耳に飛び込んで来るのを恐れ慄くかのような漠然とした、馬鹿げた感覚を胸に歩を進めて行った。
「馬鹿げている!」
そう自身に呟き掛けた。インペリオ・ビルの前を通り掛かった時、弱視の目であの娘が落ちて来た場所を見上げた。事務所に着くと先ず、秘書に自殺した娘の名前と住所を調べるよう命じた。
ロココ調の重厚な執務机の前に置かれた、浮き彫りが施されたブラジル紫檀材の椅子にどっかと腰を下ろす。すぐさま誰かにしげしげと見つめられている感覚に囚われた。頭を上げる。前面の壁のど真ん中に聖職禄受給者モンターニャの油絵の肖像が吊られてある。それに描かれた義父が険しい目つきで自分をじっと見つめているように思われた。アリスチィーデスはその肖像画から注意を逸そうと、署名する必要のある書類に目を通したり、別件の用事について考えを巡らせたりした。全くもって無駄だった。あそこには厳しく、執拗にして、無情とも言える監督者のごとき目がこちらを睨み付けている。その目にはヴェロニカのそれのような大いなる尊大さが認められたし、同時にアウローラの持つ何とも形容し難いものも見て取れた。アリスチィーデスは旅行について考えた……。数週間、その全ての亡霊たちや、全ての心配事から解放されるべきだ! 一人旅をし……、リオまで飛行機に乗り……、どんな口実を使っても構わない、コパカバーナ・パラセに投宿する。午前中は浜辺で日光浴をし、夜にはルーレットやバカラ、カンビスタ等のギャンブルに興じる。賭博場の様がありありと頭の中に浮かぶ。襟ぐりの深いドレスを身に付け、皆の注目を一身に浴びる金髪の美しい娘がいる。
「あれは一体、誰だい?」と、人々はヒソヒソと囁き合っている。
物知り顔の男が(どこにでも、そう言ったタイプの人間がいるものだ)言う。
「あんた知らないのかい? あの娘はドトール・アリスチィーデス・バヘイロの愛人だよ。あの前代議士のさ」
「ああ、そうなのか……」
その日の朝、“イザドーラ美容室”での話題の中心はジョアーナ・カレフスカの一件についてだった。
「私の夫はそれを目撃したのよ」
誇らしげにリンダは調髪している女美容師にそう言った。
「何とも恐ろしいことだわね。彼女の体は耳をつんざくような音を立てて地面に叩き付けられたそうよ。ノリヴァルはそれをじっと見つめていた。彼のその勇気を想像してご覧なさい」
「彼女の勇気でしょ!」
しかめ面をして、美容師はそう言った。
「でも、どうしてその娘さんは自殺なんてしたの?」
クリームを顔に塗りたくった、太ったご婦人が尋ねた。美容室の隅にある小部屋の中から、それに答えるように嗄れ声が返って来た。
「彼女は結核を患っていて、それに絶望していたと言うことよ。だから自らの命を断つことを選んだのですって」
「私が聞いた話はそれとは違うわ」
美容室の女店主が言い返した。
「その娘さんにはリオに許婚がいたのだけど、その男は別の女性と結婚したと言うことよ。私はその男の家族と知り合いなの。彼の従姉妹がこの店のお客さんですもの」
イザドーラ夫人は背の低い小柄な女性で、異常なほど厚化粧をしていた。弛んだ肌を引き伸ばし、顔の皺を隠すために両耳の後ろ側に絆創膏を貼り付けていた。髪の毛は脱色されていて、かつてはキャバレーで誉めそやされた女王の成れの果てのごとき雰囲気を漂わせていた。緑色がかった目には狡猾な好奇心と、これまでの経験に裏づけられた洞察力の光が見て取れた。
その日、イザドーラはヴェロニカ夫人の娘が来店する予定だったため興奮気味だった。それこそ“当美容室”の栄誉だと言えた。そのことによって、女店主はスキップをするように歩き周り、注意怠りなく振る舞っていたかと思うと、興奮してピョンピョン飛び跳ねては短く歓喜の声を上げ、時構わずして笑い声を上げるのだった。
「ところで、髪の形はお気に入りになりましたか?」
イザドーラはリンダの方へと近づいて行き、手で彼女の髪を撫でると、そう尋ねた。その返答としていつもそうするように、リンダは微笑んだ。続いて、イザドーラは太った婦人の方へと足を向けた。
「もうパンケーキの二番をお試しになりましたか? あなたのようなお肌の方には最適だと思いますよ」
「イザドーラさん、まさに仰る通りですこと」
その年配の女性は唸るようにそう答えた。
アウローラは金縁が施された卵形の鏡の前に腰掛けていた。この美容室の装飾は好きではない。過度なまでに金ピカで、ルイ一五世時代の調度品に、ブロケード地のカーテン。それらを見ていると神経が逆撫でされる。しかしながらここの雰囲気は、イザドーラ夫人の外見からすれば打ってつけだと思えた。
「これで、いかがでしょうか?」と、美容師が尋ねた。
アウローラは自分の髪型に注意を傾け、じっと鏡を見つめていた。
「気に入らないわ」
美容師は溜息をついた。
「では、あなたはどのような髪型をご所望かしら?」
美容師の声には隠し切れないほどの苛立ちが込められていた。
「あなたはもっと愛想良くすべきではないかしら?」
アウローラはイライラした口調で、そう述べた。
「そうすればお金を払いますから。お分かりになって?」
好奇に満ちた視線がアウローラに注がれた。
どれほど憤慨していても、ヴェロニカ・バヘイロの娘はいかなる情熱を込めて話すことはなかった。憤慨ままならぬ時も、彼女は冷ややか且つ色褪せた憤怒、あるいは先入観や、生き生きとした血の通った感情に裏打ちされた思考とは無縁の憤怒を込めて、他人と対峙するのだった。彼女はバヘイロ家の一員である。その事実から来る意識がどこにいようと常について廻った。よって特別ともいえる尊重を持って、人々から待遇を受けるのが当然のこととされていたのだ。彼女と肩を並べる社会階級に属する娘たちは競ってアウローラとの友情を勝ち取ろうとした。他方、彼女におべっかを使う売り子の娘たちの羨望の的であったことも、これまた周知のことだった。
「アウローラさん、ソックスはいかがですか?」
スローパーの若い店員たちが愛想良く、彼女に尋ねる。
様々な店舗で売り子たちはこぞって深々とお辞儀をし、「お嬢様、喜んでご対応させていただきます」と、口々に言うのだった。往来で貧しい娘たちが自分に向ける視線を常々、感じる。憧憬の念と嫉妬心のこもった視線でだ。貴族の血筋など取るに足らないものだ。男爵の物語など、どうだって良い。しかしながら“教育”と“社会契約”と呼ばれる事柄は黙過することができない。自分は“良い家柄”に生まれ、俗っぽさを忌み嫌っている。もしいつの日か分からないが列車、あるいはバスでの旅行を強いられることになったとしたら、極度の苦悩と嫌悪に苛まれて気絶してしまうことだろう。他のことで、この自分を不快な気分にさせることと言えば、公共の場所に足を踏み入れることだ。どうしてこんなくだらない美容室に来てしまったのか、その理由は自分にも分からない……。時として何も考えることなく、このような理不尽なことをしてしまう……。常に的確に行動できるのは、母のみだ。彼女なら美容師を自宅に呼び付けるだろう。目の前の小娘とやり合うのは反吐が出る。それにあいつが使っている香水の臭いは我慢ならない!
「髪をもっと梳き上げて頂戴!」と、アウローラは命じた。
丁度その時、イザドーラ夫人が近づいて来た。
「アウローラお嬢さん、私どもに何か不手際がございましたか?」
男爵の曽孫はそれに答えなかった。夫人は彼女を担当してる美容師を射るような目つきで睨み付け、詫びの文句を口にした。
鏡越しにリンダはアウローラの背中を見つめていた。上手に立ち回って、この自分がバヘイロ家と懇意の関係にあることを他の皆に示したいわ。
「アウローラ、あなたたちご家族は今日、演奏会に行かれるのかしら?」
声を大にしてリンダは尋ねた。返答なし。彼女は当惑して、美容師に何やらモゴモゴと呟いた。きっと彼女には聞こえていないのだわ……。再び試みてみる。
「アウローラ!」
ヴェロニカの娘は振り向き、リンダを認めると儀礼的な笑みを口許に浮かべた。
「おはようございます。あなたがいらっしゃるのを気づきませんでしたわ」
リンダは幸せな気分になった。
「あなたたちは今日、劇場に行かれますのかしら?」
「何て馴れ馴れしいのでしょう!」。アウローラは不快に思いつつも、礼儀正しく答えた。
「行きますとも。で、あなたは行かれますの?」
「ノリヴァルが教育長官からボックス席のチケットをいただきましてね」
その威厳に満ちた言葉が店内に響き渡り、続いて静寂が訪れた。
アウローラは鏡の方に向き直った。実際には誰も権限を与えていないのに、親密さを見せびらかしたがる輩がいるものだ。美容室に来ることによって、あの女はその機会に浴しているのだ。
「ヴェロニカは元気なの?」
リンダは再び口を開いた。
「母は元気よ」
そのぶっきらぼうな言葉には「これ以上、話すことはない」、「とっとと会話を打ち切りたい」というニュアンスがありありと表われていた。鏡越しにリンダは勝ち誇った感情を胸に、美容室に集う面々の反応を伺った。
一方で、アルローラは自分の髪型が気になってならなかった。あの阿呆な美容師は未だ自分が好む髪型に仕上げられずにいる。イライラして仕様がない。全く、一日が台無しになってしまうわ。これじゃあ、演奏会も全く楽しめないじゃない。“それは我が身のみに起こる。その女は拳骨を喰らうのに値する。このあばら屋に身を置くという我が考えもまた……”。
まるで色取り取りの蛇が絡み合うかのように、様々な会話が渾然一体となって店内を飛び交っている。それぞれの言葉は可視化でき得る肉体を有し、それらは鏡の乱反射によって目も眩まんばかりに倍加されるのだった。イザドーラ夫人は二人の顧客相手に自身が最近参加した交霊会の様子の仔細について、大袈裟なまでドラマチックに脚色を加えつつ語っていた。時折、アウローラの方にちらちらと目をやる。彼女もまた自分の話に注意を傾けているかどう確かめるために……。
「私には千里眼の霊媒師と名高い従姉妹がいるのよ」
美容室の店主は口許をぐっと引き締め、目をぐりぐりと回しながら、仰々しい口調でそう言った。シャンプーをしている婦人が「そんなに乱暴にやったら髪の毛が抜けてしまうわ」と、不平をこぼしている。自分の番が来るのを待ちつつ、雑誌のページをめくっているガリガリに痩せた老婦人がさらりと言った。
「灯油を使いなさいよ」
肉づきの良い婦人はそれを聞いて、体全体を揺すって大笑いした。リンダはアウローラのことを考えつつ、憂慮するような、どことなく気兼ねした気分に陥っていた。“灯油”という言葉は品が無く、バヘイロ家の人々が耳にして心地良いものではないだろう。この世には何と無作法な人間がいることでしょう……。
「あの娘さんはインペリオ・ビルの守衛と同棲していたということよ」
シャンプーで頭が泡だらけの女がそう言った。
「私の旦那は警察と懇意だから、例の自殺の件について仔細に渡って知っているわ。その守衛が彼女に嫌気がさして昨日、言い合いになって、彼女に平手打ちを喰らわしたそうよ。それで感情的になったあの娘は自らの命を絶ったということみたいね」
小部屋の中から別の声がした。
「それは作り話よ。あの娘は結核を患っていたのよ」
アウローラは眉間に皺を寄せた。あれら全ては不快極まりないわ。自殺にしろ、店内に漂う香水の臭いにしろ、交わされている会話にしろ、低俗な女性たちにしろ……、全てが全て胸糞が悪くなる。何よりも先ず重要なのは、私の髪型だ。大馬鹿の美容師は未だ上手く調髪できずにいる。
「ノリヴァルが言うには、あの娘さんの外見は悪くなかったらしいわ。明るい小麦色の肌で、髪の毛は栗色で……」
「金髪よ!」
姿は見えないが、別の女性がそう公言した。痩せぎすの老婦人が意見を述べる。
「まるで恋愛小説のようにさえ思えるわ。最近の若い子たちは無分別に振る舞う嫌いがあるわね」
「恋愛小説ですって! 全くそんなことはないわ」と、シャンプー中の女が口を挟んだ。
「人種的に劣っている場合だけど……」
鼻の先から滴り落ちる泡の雫を指で拭うため口を閉じた。イザドーラ夫人は偉ぶるような口調で口を切った。
「人種うんぬんの話ではないわ。私たちは皆、この世で果たすべき責務を担っているのですとも。天国も地獄も、涙溢れる谷間たるこの地上に存在するのですよ……」
そう言うと、気取るようにウインクした。そして自説に同意を求めるかのようにアウローラの方を見やった。
その時、美容師たちが一斉にドライヤーで髪を乾かせ始めた。それは突如として、一機の飛行機が爆音を轟かせて、“イザドーラ美容室”に飛び込んで来たかのようだった。よって交わされる会話は必然的に叫び声となった。鏡はそのような地獄の様を増幅させるのだった。
アウローラは自分の姿を落胆した表情で見つめていた。全くもって今日一日、無駄に過ごしてしまったわ。私は今日、劇場に行かない。絶対に行かない! 劇場なんて糞喰らえだわ! これで決まり!
リンダはイルマに電話しようと考えていた。
「今日、美容室で誰に会ったと思う? アウローラ・バヘイロよ。彼女が私に言ったことを想像してみて……。『リンダ、いつ私の家にお越しになるの? お母さんは、あなたがここ最近、姿を見せないものだからヤキモキしているのよ』。そんな風に彼女は言ったのよ」
イザドーラ夫人はバヘイロ家の娘が座る椅子に近づいて行くと、恭しく彼女に尋ねた。返事なし。私の声が聞こえなかったのかしら。今一度、声を張り上げて尋ねる。
「当美容室をお気に召されましたか?」
真っ白な高い壁に囲まれ、墓碑銘が刻まれた花崗岩、あるいは大理石で造られた四角の墓石に埋め尽くされたその場所は、まるで締め切られた扉がずらりと並ぶ巨大な鳩舎のようだった。墓守の一人が今先、ジョアーナ・カレフスカの棺を受け取ったばかりだった。墓所の入り口辺りで石工が煉瓦を積み上げて、生と死を分つ壁を築き上げていた。
遠くから、トニオ・サンチィアーゴはその様を見つめていた。“ロージャス・アメリカーナス”の幾人かの年若い売り子たち、半ダース余りの隣人たち、それに彼女の許婚といった極僅かな人々が埋葬に参列していた。顎髭が伸び放題で、外套の襟を立てた若き婚約者は頭をうな垂れ、啜り泣いている(その青年の名はペドロで、二三歳になったばかりだと言うことだった)そばかすだらけの蒼白の細面の顔を伝って涙が流れ落ちるものの、それを拭おうともせず立ち尽くしていた。苦悩のためか、その顔にはどことなく劇画を思わせる表情が貼り付いていた。火のような真紅のざんばら髪は日の光を受けてギラギラと輝いている。
トニオはすでにここに来たことを後悔していた。もしそこに実体を伴う何ものかがあれば、忘却の彼方にそれを押しやるように努めるのだが……。しかし眼前で展開されているものは、実体なき“死”なのだ。トニオは“死”を主題とするものを忌み嫌っていた。それを自ら作品で扱う際には、“不快極まりない約定”から一刻も早く解放を望む者のごとく、それをさっさと描き済ますのが常だった。
だが荒涼たる墓地にさえ、心安まる、円熟した美しさが醸し出されている、とトニオは考えていた。この秋の日の光はどうだ! 静謐に満ちた墓地全体に視線を巡らせ、霊廟や墓碑、記念碑、墓石を前にして、大人になった今も、かつてサクラメントの墓地で感じた印象と全く同質のものを持ち続けていることに気づいた。小鳥たちがイトスギの茂みの中で鳴き声を上げている。墓所や彫像の上に広がる大空は僅かに霞がかかった青色だ。辺りは気怠げな光に満ちている。トニオは頭を巡らせ、墓地の下方に広がる街をじっと見つめた。あたかも青く、藤色の色調を帯びた豊かな色合いを木炭画をもって再現しようと、最後の仕上げに取り掛かる画家のように……。ねっとりとした黄金色の朝の光を受け、眼前に広がる風景は琥珀色のカプセルに包まれているような印象を受けた。
トニオの脳裏に再び、ボルディンの夜想曲の調べが甦って来た。目の前に展開される光景に注釈を加えるかのように……。揃って蒼白顔で、光沢を失った雰囲気を漂わせ、着古した服を身にまとったジョアーナ・カレフスカの友人たち、静まり返った墓地、悲しげに霊廟に降り注ぐ秋の日差しが……。トニオは参列する人々の顔に一様にある種の歓びの表情が浮かんでいるのを認めた。穏やかな朝に漂う霞のごとく浮かぶその輪郭はとてもぼんやりとしていて、儚げではあるが……。トニオはふと思い出した。巷に流布している考えによると、ああいった人々にとって“通夜や埋葬といった儀式、死そのものはお祭り騒ぎ”であるということだ。黒人の老人がこんな風に言っていたのを思い出す。
「通夜と埋葬は貧乏人の祭りだ」
事実、死や、それにまつわる全てのものは小説的特性を有しているように思われる。なぜなら誰一人として例外なく、死ぬのは初めての経験で、一度切りのことで、死ぬことは誰にとっても新鮮且つ未経験なことだからだ。多くの男たちは安物の煙草を吹かしている。その大部分は髭が伸び放題だ。そうした男たち、女たちも同様、病的な顔つきをしている。その中の幾人かの顔貌に、トニオは結核の兆しを認めていた。肌の色にしろ、目の輝きにしろ、濃いくまに縁取られた目許にしろ、何とも見るに耐えないものだった……。若い使用人たちが栄養失調や、非衛生さにより顔が蝕まれているにも関わらず、白粉やルージュ、ブランドものの口紅等を用いて、それを少しでも隠そうとする涙ぐましい努力は実に感動的だ。そうした底辺の世界で生きる人々にとっては、トニオのごとき人間が生きる社会的生活圏で当たり前とされていることとは全くもって無縁なのである。
今一度、作家の胸の内に「何かしなければ」、「何か言わなければ」という願望とない混ぜになった自責の念と責任感が湧き上がって来た。どんな身振りでも、どんな言葉でも良い。少なくとも希望を抱かせる何かを、共に助け合うことを約する何かを、より良き日の到来を示めす何かをすべきなのである。しかし実際のところトニオは生気を失い、はにかみに似た羞恥心を感じ、同時に他人同士の親密な関係を邪魔立てするのではと考え、その場に身じろぎ一つせず立ち尽くしていた。
石工が墓所の入り口を閉め終わると、参列者たちはその場から三三五五に散って行った。トニオはジョアーナの許婚の側に近づいて行くと、彼の腕を取った。ペドロは彼に連れられるがまま、墓地の入り口へと歩いて行った。作家はそこに停めてある車までその青年を誘って行った。その見知らぬ男の所作を前にして、その青年が感じている不信感を払拭するのが先決だ。彼に自分が何者であるかを明かし、なぜ彼をここに探しに来たのかを説明する必要がある。聖人の名と合い言葉を繰り返し唱える者のように、彼に他界した女性からの手紙を見せなければならない。
ペドロは外套の袖で涙を拭った。トニオはいかなる慰めの言葉も思いつかなかった。二人は黙ったまま車を走らせた。
ジョアーナの許婚が住むトゥリステーザ地区へと向かう道すがら、トニオは尋ねた。
「なぜ彼女はあのようなことを……したのだろうか?」
トニオはハンドルを握り、道路をじっと見つめている。車はセメント舗装の道路に沿ってスルスルと進んで行く。青年がその問い掛けに答えるのにしばらく間があった。
「あなたは手紙についてご存知ないのですか?」
作家は頭を横に振った。
「それは人伝には聞いた。で、その手紙で彼女は何と言っていたんだい?」
ペドロをそれを話したものかどうか躊躇していた。トニオは道路を凝視しつつ、目の端で彼を観察していた。彼の脳裏は婚約者のイメージで満たされているに違いない。ここで、問い掛けを繰り返すのは無作法だ。なぜならその青年にとって、手紙の中でジョアーナが綴った言葉を赤の他人に語ることが、いかに苦痛であるかを理解していたからだった。
「君宛に彼女は何かメッセージを残さなかったのかい?」
ペドロはポケットから一枚の紙を取り出した。
「それはここにあります。警察にはそれについて何も言いませんでしたが……。これがジョアーナが私に残した形見です」
作家は道路脇に車を停めると、その紙を受け取り、読んだ。
“親愛なるペドロ
これで永遠のお別れとなります。でも、本当に私が愛したのはあなただけです。こんな愚かな私、ジョアーナを赦してください”
トニオは青年を問い詰めるような目つきで見やり、ボソリと呟いた。
「だが、別の手紙の中では……」
一瞬、躊躇したが、先を続けた。
「……彼女は別の男のことを言っていたようだが……」
ペドロは目を逸らしたが、断固とした口調で言った。
「彼女に酷い仕打ちをした……パウロ・エドゥアルド何某のことですね」
そう語る声は嗄れていて、少しばかり鋭く、僅かに憎悪が込められていた。赤鼻の先には黄色い吹き出物ができている。その青年の体からはこれまで蓄積された汗と煙草のヤニが混ざり合った酸っぱい臭いが発せられていた。対話者としての責務を果たすべく、そうした不快とも言える相手の印象を同情と共感をもって超越しなければならない。
「もしそのならず者を見つけたら……、ぶっ殺してやる」と、ペドロは呟いた。
か細く、確固たる口調とは程遠いその言葉は、主人公には決して抜擢されることのない三文役者によって、メロドラマ等で繰り返し口にされるセリフのように思われた。
「そんなことをしても何の解決にもならんよ」と、トニオ。
「その卑劣な奴こそ、全てにおいて自分は加害者だと言い張るのです。ジョアーナを孕ませておいて……。何て彼女は可哀想なんだ……」
ペドロは黙した。トニオは再び車を走り出させ始めた。
「彼女について話してくれ」
「誰についてですって?」
「君の許嫁についてだよ」
「この私ですら何も知らないのです……」
「私は君を助けたいと思っている」
「なぜ?」
「それについてはもう話したはずだ」
相手は黙り込んだ。車は樹冠の茂った狭い道へと入って行った。黄土色の地面には光の断片が散りばめられた瑞々しい影が投影されている。
トニオはポケットからシガレットケースを取り出した。
「吸うかい?」
ペドロはそこから一本抜き取ると、それに火を点け、吸い始めた。
「君のフルネームは?」
トニオは相手の表情の変化に注視しながら、そう尋ねた。“変化なし”、と結論づけた。
「君たちは婚約してからどれ位になるんだい?」
「まだ一年も経っていません」
一匹の犬が庭の中から飛び出して来て車の後を駆け、「ワンワン」と吠えながら数メートル追いかけて来た。赤色の服を着た娘が窓辺で合図を送った。車の前方を矢のように犬が突っ切って行った。
やがてペドロは話し始めた。
「最近のことですが、ジョアーナは何だかおかしかったのです。馬鹿なことばかり話して……。私はベレン・ノーヴァ地区で働いていましたから、彼女と会うのは毎週土曜日だけでした……。それで、全てが起こったのだと思います……。つまり、私が彼女と一緒に居ない時に、そのパウロ・エドゥアルドなる男と出会ったのです。私は機械工です。従兄弟に数ヶ月前、サンタ・マリアで働かないかと誘われました。私はその誘いを受けました。結婚資金を稼ぎたかったからです。そして私が不在の間、ジョアーナはあいつに出会ったのです……」
「君はジョアーナが自殺したと確信しているのかね?」
ペドロは驚いた眼差しで話し手の方を見た。
「しかし……」
「私には腑に落ちない点があるから、こうして君に尋ねているのだ」
「手紙ですか? あれは確かに彼女が書いた文字ですよ。私はそれをよく知っていますから……」
車は川縁に沿って進んで行く。遠くに帆船が白く見える。
「それに、彼女の母親が私に語ったところによれば……。自殺の前夜、ジョアーナが泣きながら彼女の許にやって来て、パウロ・エドゥアルドという男が自分に酷い事をしたと告白したそうです……。さらに自分が妊娠しているということも……。で、次の日、ジョアーナは身投げした……」
「パウロ・エドゥアルドとは一体、何者なんだ?」
パウロは肩をすくめた。風を受けて煙草の灰が外套の襟に落ちた。満開のパンヤの巨木から伸びる枝が道路にしなだれている。その巨木は何とも言えない穏やかな友情のごときものを醸し出しているように思われた。そう感じたトニオは車を降りて、その巨木の陰に寝そべり、緑の丘を、染み一つない空を、帆船を、鳥たちを眺めたいと思った。この世界のことを忘れて……。
「君はパウロ・エドゥアルドなる人物について何を知っているんだい?」
それにこだわり、興味を抱くこと自体、少しばかり馬鹿げていると思いつつも、再び同じ質問を繰り返した。
時折、自分自身、現実世界のジョアーナ・カレフスカのことを言っているのか、あるいは自分がこれから書こうとしている小説の中の登場人物たる、架空の物語の中の彼女のことを言っているのか分からなくなる。
「彼女の同じ職場の友人の一人、レジィーナが私に話してくれたことによれば、そいつはインペリオ・ビルの一室に住んでいるということです」
「ここ最近、君が婚約者に対して感じたことはどんなことだい? たとえば、悲しそうだったとか……、陽気だったとか……、あるいは何か変だったとか……。どんな具合だったかい?」
「ドトール、彼女は明らかにおかしかったのです。心ここに在らずといった状態で、私が話すことにもただぼんやりと聞いているという具合で……。ああ、そうだ!」
突如として、何か重要なことを思い出したかのように後を続けた。
「車や、毛皮のコート、宝石等、そうした馬鹿げたものをこれから所有することになるだろうと言って、贅沢な生活に憧れてているようでした。時々、そうした全てのことに取り憑かれているかのように思われました……。そんな時の彼女は私に怒りを覚えているように感じました」
車はトゥリステーザ地区へと入って行った。庭や果樹園、バンガロー、張り紙がベタベタと貼られた壁……。広場を通り過ぎて行く。
「ジョアーナには父親は?」
「いません。母親だけです」
「いつ、彼女の父親は亡くなったのかい?」
「昨年です。一月か……、二月か、はっきりと覚えていません……」
「原因は何だい?」
ペドロは車の窓から煙草の吸い殻を投げ捨てた。
「毒をあおったそうです」
トニオはさっと話し手の方へと向き直った。
その日の朝、“穴開き銭の会”のメンバーたちは秘密の会合を開くため、ナベガンチス地区の古倉庫に集っていた。その会は五人の少年たちで構成されており、その内の三名だけが定時に姿を現わした。アンジョは恐らく、集合時間に遅れることになると知らせて来た。マィン・セッカは病いのため床に伏せっているということだ。
会の招集をかけたのは“シェッフィ[‘頭領、チーフ‘の意]”だった。彼は丸顔で、灰色の目をした一三歳の少年だった。歯は機関車の排障器のように出っ張っていて、藁色の髪はいつも泥で塗り固められ炭で真っ黒だった。“フォーリャ・デ・タルジ”紙の若い編集者たちは彼に“バラライカ”という呼び名を付けていた。というのも、彼は絶望の淵に立たされた者のごとく、世の中の辛酸を嘗め尽くして生きていたからだった。
「セッチ、お前はまだ払っていないぞ」
歯と歯の間で煙草の吸い殻を噛みながら、シェッフィは文句を垂れた。
「ええっ、お前はまだ払っていないのかい……」
セッチから目を逸らしながら、今一人のメンバーはシェッフィの肩を持った。
「もう言ったじゃないか。俺は今、金がないって」
「どうして親父から強請り取らないんだ?」
「ええっ、強請り取るだって……」
セッチは口をポカンと開いたまま、水溜りをじっと見つめていた。そこには三人のならず者たちが倉庫の腐りかけの梁に腰掛けている姿が映っていた。梁の下方の暗がりから、キクイ虫の臭いがプンプンする。
柱に腕を回して、ミゼーリアは驚いたような眼差しで二人の仲間を見つめている。彼はこの会の中で最年少で、八歳足らずの痩せぎすの少年で、頬は痩け、その目は落ち窪んでいた。口は小さく、唇はヌメヌメとした鮮やかなピンク色だった。あたかも蜜柑の汁をジュルジュルと吸い続けている者であるかのように、鳥の嘴に似た口許は始終、キッと引結ばれていた。顔の皮膚は薄汚い青色で、二本の門歯が失われていたため、彼が笑うと若くして年老いた人間のような雰囲気が漂っていた。ミゼーリアはグループの中にあって、泣きたい時に泣くことができるという特技を持っていたため、皆から重宝がられていた。その泣き様はしゃくり上げては滂沱の涙を滴り落とし、か細く震える声音を交える様などは実にリアルで、人々に憐憫の情を掻き立て、心を切り刻む効果があった。
「それじゃあ、お前はさらに一ヶ月分の借金を負うことになるのだな」
バラライカはセッチを睨み付けながら、そう宣告した。
「昨日、三ミル・レイス失くしちまったんだ。二枚の硬貨は側溝に落ちて、一枚は盗まれちまったんだ……」
「誰が盗んだのだ?」
「コブラ・ヴェルジ[“緑色の蛇”の意]だよ」
「お前は愚か者だ。どうして奴に手を振り上げなかったのだ?」
「ええっ……、奴は俺よりもずっと大男だぜ」
「近くに警官はいなかったのか?」
「いなかったよ」
「どうして奴に石を投げつけてやらなかったのだ?」
ミゼーリアはピンポンの試合で球があちらへこちらへと行き交う様を目で追っている者のように、シェッフィとセッチの顔を交互に見ていた。
セッチは肩をすくめると、水溜りにぺっと唾を吐いた。
「お前は稼いだ金をどうしているのだ?」と、バラライカが尋ねた。
「ええっ……、母ちゃんに渡しているよ」
「彼女はその金をどこにしまっているのだ?」
「箪笥の上の缶の中さ」
「お前は馬鹿だな! それを知っていて、どうしてそこから金を掠め取らないんだ」
セッチは肩をすくめたまま、相手に反駁することもなくじっと水溜りを見つめていた。
「昨晩、俺が失くした金のことで、親父から酷い拳骨を喰らったんだ」
バラライカは半目のまま、股をボリボリと掻いた。
「で、それを俺が信じるかって?」
「信じるって、何を?」
「お前が金を落っことして、失くしちまったということさ……」
「何てこった!」
「お前はその三ミル・レイスを懐に入れたのでは?」
「ふざけるな!」
「その金をせびったと言ってみな。俺がそれほど脳足りんかどうか分かることになるからな」
バラライカは黒く、汚らしい人差し指をセッチの方にぐっと伸ばした。
その時、倉庫の入り口に足音が近づいて来るのを耳にした。
「シイッ!」
シェッフィは皆に静かにするよう命じた。ミゼーリアは眉間に皺を寄せている。三人は息を殺して、身じろぎ一つせずじっと身を潜めていた。足音が止まった。三人の仲間たちは二本の薄汚い足が、続いて細く、黄褐色で、白い縞状の線が入った向こう脛が現われるのを目にした。皆はそれがアンジョの脚だと認めた。やがて会の仲間の胴と頭が現われた。猿のような敏捷さをもって、その新参者はミゼーリアを振り落とさんばかりの勢いで梁の上に飛び乗った。
「皆の者、今日の主役の登場だぜ」
アンジョは到着するや否や、そう叫んだ。彼はこの会の中では新参者であったが、他のメンバーに負けない強い影響力を持っていた。なぜなら、これまで幾度となく会合の後、警察に付き纏われた経験の持ち主だったからだ。彼は一二歳の背の高いムラートで、向こうみずな気質を兼ね備えていた。並外れた大きな頭の持ち主で、顔は丸顔、そこに浮かぶ表情はいかにも悪党そのものだった。あだ名はアンジョ[“天使”の意]で、それが命名された理由は教会から盗みを働くのが常習だったからである。こんなエピソードがある。ある日のこと、聖像の陰に隠れて盗みを働いていた丁度その時、彼を問い詰める声が聞こえた。
「お前はそこで何をしているのだ?」
彼は真面目腐った声で、それに答えた。
「汝は私が天使だと思わぬのか……」
炎のように赤々とした大きな唇に、黒々とした耳といった出立ちのアンジョの柔らかく、深遠に満ちた声音。二つのことが問い掛けをした者たちの注意を惹いた。一つ目はビロードのようにふさふさと生えた黒い睫毛。二つ目は“気品に満ちた人”のごとく伸びる細長い手だった。
バラライカはしかめ面をした。彼はアンジョのことが大嫌いだった。心の奥底では、アンジョに嫉妬心を抱いていた。他のメンバーたちが強請りで金を奪い取ったり、取るに足らない暴力沙汰を起こすのに対して、アンジョは本当の意味での盗みを働いている。セッチは偽の二ミル・レイス硬貨を使った騙しをやったり、ミゼーリアはと言えば、家から一歩も出られない盲目の父や、サンタ・カーザ救護院に出産の手続きのため忙しく出入りしている母に対して、泣き落としで金をせびったりしている……。この自分、バラライカは車中のガラクタや鍵、ラジエーターキャップ、灯火類等をせしめるせこい盗みぐらいしかできない……。
セッチとミゼーリアは到着したばかりのアンジョを憧憬の眼差しで見つめていた。
「誰か煙草を持っていないかい?」
ミゼーリアはポケットからさっと葉巻の吸い止しを取り出すと、彼の方へと差し出した。バラライカは嫌々ながら彼にマッチ箱を放り投げた。アンジョは葉巻に火を点けると、気持ち良さそうに口の中に煙を溜め、それをフーッと吐き出した。
「あんたたちはカイシャ・ダ・アグアの側にある美しい家を知っているかい?」
「家の前に木がある家かい?」
セッチは仲間が言わんとしている家がどれなのか分からないまま、当てずっぽうに言った。
「木だって、そんなものはないぜ」と、アンジョは叫んだ。
「シャレー風の家で、扉は白色、庭に白雪姫の小人たちの彫像が飾ってある家さ」
「ああ、そっか!」
セッチは未だ相手が何を言わんとしているのか分からないまま、相槌を打った。
「その家の地図を手に入れたんだ」
「えっ、何だって?」
バラライカは興味津々で、そう尋ねた。
「地図って?」と、ミゼーリアは金切り声を上げた。
「お前はそれが何か分からないのかい?」
ミゼーリアは驚いたように頭を横に振った。
「馬鹿め!」
シェッフィは彼を窘めた。
「お前はそんなことも知らないのか?」
セッチは実際のところ、その地図がいかなるものであるか知らなかったが、そうミゼーリアに尋ねた。
「地図とは平面図のことだ」
そう、アンジョは種明かしをした。
「木のことかい?」
「お前は馬鹿か。どこに広間や台所、ベランダ、扉があるのかを書き記したヤツだ」
「ああ、そうなのか……」
「で、その地図とやらがあるんだな?」
腹をボリボリと掻きながら、バラライカは尋ねた。アンジョは額を人差し指でポンポンと叩いた。
「ここの中にさ」
シェッフィは川にぺっと唾を吐くと、それをじっと見つめた。唾はポタッと音を立てて落ち、幾重もの小さな同心円となって広がって行った。セッチは少し頭を垂れ、川の彼方に視線を向けていた。遠くに果物や野菜を満載した荷船が一艘、通り過ぎて行く。セッチはそれを目で追った。
「で、それで?」と、バラライカ。
アンジョはふーっと煙を吐き出すと、美しい小麦色の人差し指と親指で葉巻を挟み、どいつがこの大仕事に相応しいか品定めするような目つきで仲間たちを眺めると、自らの計画を語り始めた。
「俺はその家にメッセンジャーを送ったんだ。そいつによると家の住人たちは今、リオにいるそうだ。その別荘には管理人はいないということだ」
そこまで言うと間を置いた。一匹の魚が水音を立てて川から顔を覗かせたかと思うと、すぐさま水面に小波を立てて姿を消した。ミゼーリアとセッチはアンジョの口許を舐めるように凝視していた。
「俺たちは今晩、その家に行くのだ。そして壁を飛び越えて庭に侵入し、敷地の奥へと踏み込んで行く。ミゼーリアは痩せっぽちだから、俺の肩によじ登り……、召使の浴室の丁度、真上に窓があるから、それを少し開いて……、そこから家の中に侵入する。それから横にある窓の鍵を開けるのだ……」
ミゼーリアの心臓は早鐘のように鼓動を打ち、セッチは喉許に渇きを覚えていた。バラライカはと言えば、倉庫の板の割れ目から差し込んで来る一筋の日の光を受けてキラキラ輝く、埃まみれの髪をガシガシと掻いていた。
アンジョは仲間たちに意見を求めるように尋ねた。
「どうだい?」
沈黙が降りた。誰一人として、口を開く者はいなかった。アンジョはイライラした口調で言い放った。
「何と腰抜けの悪党どもだろう!」
「敢えて危険を犯す愚か者はここにはいない……」と、バラライカ。
それに対して、アンジョは反駁した。
「そうなのか。もしあんたたちが俺の計画に乗らないのなら、俺はここを抜けてアハイアル・ダ・バロネーザ地区を根城にしている“ゴゴー”に入ることにするよ」
そう言うと、シャツのポケットに手を突っ込み、薄汚れた紐にお守りのように結え付けられた穴開き硬貨を取り出した。
「俺の認識証だ。俺はもうこのグループのメンバーではない」
アンジョはその硬貨をシェッフィに差し出した。バラライカは未だアオマキザルがやるように頭を盛んにボリボリと掻いていた。ミゼーリアは何か言おうと思うものの喉許でありとあらゆる言葉が詰まり、一言として言葉を発することができずにいた。
「夜、俺は外出することができない」
セッチは済まなさそうに、そう言った。アンジョは軽蔑するような眼差しで彼を睨み付けた。
「臆病者め!」
セッチはその言葉を微動だにせず、飛礫を浴びるかのように聞いていた。バラライカは仲間の手の上にある穴開き硬貨をじっと見つめていた。
「だが、本当に管理人はいないんだろうな?」
相手の推しの強さに譲歩するように、そう尋ねた。アンジョは認識証たる硬貨をポケットにしまった。
「いない、と俺は言ったはずだ」
声を潜めてさらに続ける。
「あの家の中にどれほど素晴らしいものがあるか、あんたたちは目にすることになるだろうよ」
「本当か?」
メンバーの皆はアンジョににじり寄った。
「金持ちの家だぞ。何だってあるだろう。指輪や宝石、金もたんまりとな……」
ミゼーリアは台所の様を想像していた。
「で、食い物は?」
ようやく、その言葉を口にすることができた。と言うのも、慢性的に腹を空かせていて、彼にとって最大の夢はフライドポテトがてんこ盛りのローストチキンを食べることだったからだ。
「犬にくれてやるだけの食い物があるさ」と、アンジョは叫んだ。
「冷蔵庫の中には何だってあるさ。サラミにハム、チーズ、果物等々。それにワインだってな。そいつを一杯やったからといって悪かないさ」
「何時に集合だ?」と、シェッフィが尋ねた。
「九時前が良いな。その地区の守衛が巡回するのは十時頃だからな」
「どこで落ち合う?」
「ドトール・ヴァーレ通りの角で落ち合おう」
「それがどこなのか、俺には分からない」と、セッチは嘘を付いた。
「お前は何だって知りはしないさ」
「新聞を売り終わった後、映画館の前で待ち合わせよう。そうすれば一緒に行くことができるからな」
そうバラライカはセッチに申し渡した。
ミゼーリアはしばし仲間たちのことを忘れ、冷蔵庫や戸棚の中のことに考えを巡らせていた。それらに収められた食べ物のことを想像しては、唇を舐めていた。セッチはじっと考えていた……。そういったことをやるのは好きではない。確かにこの俺はほんの冗談のつもりだったが、不良グループに入った。なぜかと言うと、映画のように若さを爆発させ、突っぱって、悪さをして遊び廻りたかったからだ。今日のごとく、古倉庫での集まりは素晴らしいと思う……。仲間たちは煙草を吸い、卑劣とも言える行為について赤裸々に語り合ったりした。「昨日、太っちょの老人を恐喝した」とか、「木の幹のところで女の子をモノにした」、あるいは「偽の三ミル・レイス硬貨に誰も騙されなかった」等々。しかし、あのアンジョは本物の“盗人”で、これまで幾度となく警察沙汰を起こしている。セッチは警察が怖かった。警官を目にするのも好きではなかったし、仮に目にしたら気分が悪くなった。自分の後を追っかけ回しているような錯覚にさえ囚われるのだ……。
頭の中でシャレー風の家を、小人たちがずらりと並べられた庭の様を思い描いてみた。でも、盗みに入ったことが発覚した時、母親に何と言えば良いのだろう? 「息子は泥棒だわ!」。でも、この俺はどれほど母のことを喜ばせたいと思っていることか! 彼女に真紅の薔薇を一輪、持って行ってあげよう……。以前、先生にそうしたように……。それは絶大な効果があったから……。その家の庭にはきっと赤い薔薇の花があるはずだ、白色の薔薇だって構わない……。俺は薔薇を摘み取って、その場を去ろう。
「セッチ、どうだ? 今日の夜八時で」
セッチは肩をすくめた。母に一輪の真紅の薔薇を贈ろう。先生が気に入ってくれたのだから、きっと母も喜んでくれるだろう。
バラライカは足の指をボリボリと掻いている。ミゼーリアは未だ食べ物のことで頭が一杯のようだった。アンジョは川の水面をじっと見つめている。ビロードのような睫毛は、ほとんど小麦色の顔に触れんばかりだった。
セッチは話題を変えるべく口を開いた。
「ところで、インペリオ・ビルの屋上から飛び降りた女の人のことだけど、皆は知っているかい?」
「どの女のことだ?」
「昨日、飛び降り自殺をした女の子だよ……。あんたは見なかったのかい?」
バラライカは「知らない」という具合に頭を横に振った。
「アンジョ、それについて何か耳にしなかったかい?」
「それは眉唾じゃないか」
「ミゼーリア、お前はどうだ?」
ミゼーリアは口からチキンの骨を取り出すと、言った。
「知らないよ」
「“これが俺様のやり方だ”……」
セッチは押し殺した声でそう呟いた。
「誰も見なかった」と、頭の中で自分に向かって言った。「誰も見なかった」。この自分だけがそれを目撃したのだ。きっと俺は頭が変なのだ、気が狂っているに違いない。
先程とは異なる別の魚が倉庫の下部の水面に頭を出した。遠くで汽船が汽笛を高らかに鳴らした。
その同じ時間、死体保管所では白色の前掛けを身にまとった四人の学生たちが乞食の亡骸の周りに集っていた。それらの四人は一八歳から二三歳の間の若者たちであった。彼らの中には「何か陰謀を企ててやろう」、そう、どことなくフリーメイソン的とも言える威厳に満ち、同時に「何か大それたことをやってやろう」と考える悪戯小僧のごとき雰囲気を漂わせたた者がいた。学生の内の一人で手にメスを持った若者が解説を加えながら、死体を切り刻んでいる。彼は他の者たちに比べて、どことなく優位の立場にあるように思われた。その学生はウーゴ・シュルツという名で、金髪で、肌が白く、教授のような“鼻眼鏡”を掛けていて、口髭をうっすらと生生やしていた。半ば乾いたような声音で、ほとんど感知することはできないがドイツ語訛りがあった。敏捷且つ揺るぎない手捌きで解剖を進める、その痩せぎすで、酷い猫背の学生の背後には、彼自身の持つ実力と精度の高さを示す後光が輝いていた。死体保管所のテーブルの上には硬直して、灰色がかった遺体がさらに三体安置されていた。
「上半身についてだが、肩甲骨と前腕、腕、そして手の筋肉について学ぶ必要がある」
シュルツはそのように講義した。彼の唇は滞ることなく、すらすらとそれらの言葉を次々に口にして行った。その声には歯擦音が入り混じり、どことなく悪意のこもった気取りのようなものが感じられた。
「肩甲骨の筋肉は次の六つから成り立っている。つまり、三角筋と上部脊柱筋、下部脊柱筋、大円筋、小円筋、そして肩甲骨下筋だ……」
そうした筋肉の名称を口にする度にシュルツは機械のような正確無比の動きをもって、それら一つ一つをピンセットで摘み上げた。
「その六つの中で、三角筋だけが肩甲骨に付着している……」
腕を組んで、ジルは学友の方を凝視していた。シュルツに対して感嘆こそ覚えてはいたが、尊敬の念は全くなかった。いつ何時も沈着冷静であるため、有能な人物だと思ってはいたが……。その彼が同学の者たちに少しでも役立ちたいという願望から何度も落第しているのではなく、教員たちの覚えが良く、他の者たちよりも学識豊かで、技術的にも優れていることを示さんがために留年を繰り返していることは周知のことだった。
「肩甲骨前部全体に唯一付着している下部脊柱筋を除いて……」
シュルツの瞳はメスの刃のように鈍い輝きを放ち、まさに金属のごとき鋭さがそこにはあった。
一年生で留年している他の二人の学友たちはうんざりした様子で、シュルツの講義に耳を傾けていた。
「三角筋はその名の通り、三角形をしている……」
「彼は概要書を朗読するがごとく話している」と、ジルは考えていた。そうこうする内に、その学友のことは忘却の彼方へと押しやられて行った。
じっと眼前にある遺体を注視する。それはまだ年若く、背の高い、運動選手のようなムラートの亡骸だった。シュルツにとって、その遺体はただの“モノ”に過ぎない。彼がそのように考えていることをジルは知っていた(その点について、彼と幾度となく議論を交わした)いづれ共同墓地に埋葬される硬直した“モノ”で、今現在はその過程にあり、解剖学的材料として非常に有益たる“モノ”である、と。「それ以外の感情をそこに持ち込むことは最も愚かなことだ」と、常にシュルツは断言していた。しかしながらジルにとって、その亡骸は何よりも先ず、夢や感覚、願望、欲求等で満ち溢れる神秘的大陸たる、魂を兼ね備えた一人の人間であるということだった。
ジルは死体保管所に漂う空気により、何とも表現できない不快感を覚えていた。空中に充満するフォルマリンの臭いが鼻腔をヒリヒリと刺激する。死体たちの存在を胃の辺りに僅かだが感じる。それら全ては馬鹿げたことだ。当然のことながら、解剖に携わったばかりの時に感じた、途轍もなく大きな嫌悪感は習慣という力によって克服されているはずだ。しかしながら事実として、この自分は苦悩に苛まれていて、一刻も早く太陽の照る戸外へ飛び出したいと切に願っているのだ。
ジルは三角筋について学ぶことに、いかほどの興味も感じていなかった。それによって、魂の神秘が解明されることは決してないからだ。なぜ人間は夢を見るのか? なぜ憎悪を覚えるのか? なぜ恐怖を感じるのか? 中枢神経の構造を学ぶ際、ある日のこと脳を摘出したことがあった。元々、そこに収められていたものと比して、変質したその灰色の塊りは想像を絶する程、複雑にして、無辺たる世界を有していると思うことは到底、不可能だと考えた。もし仮に、たとえばベートーベンのごとき大作曲家の脳を両手で押し潰したとしたら、交響曲九番や六番、あるいは皇帝に献上した非常に高貴たる、その他の協奏曲の誕生を喪失させたと言い切ることができようか? 革新者たちがシェークスピアの〈ハムレット〉や、ゴーギャンの絵画が原始の星雲の中にあることを暗黙の了解とするように、脳の塊りの中にそのような旋律が詰まっているというのか?
ジルは特に最近のことではあるが、そのような類いの問い掛けをして日々を過ごしていた。それらについて父と長い時間、話し合いをしたこともあった。本を沢山読み、人生を熱狂的ともいえる注意を傾けて観察した。世界や魂を巡る全ての問題はぼんやりとだが落ち着かない気分にさせられる。音楽の一フレーズを耳にしたり、絵画の細部、あるいは空を飛翔する鳥などを目にすると、心の中で奇妙な反響が起こり、それらが何を意味するのかを理解したいという願望に満ちた問いが湧き上がって来るのだった。やがてはその疑問を解く道筋を見い出すものの、その先に疑いなき深淵が広がっていることを発見するのだった。ありとあらゆる側面から比較、推論し、結論へと辿り着く。その過程で迷宮に迷い込むことも稀なことではない。
ジルは手袋をしたシュルツの手をじっと見つめていた。耳許に届く声ははっきりとしない騒めきに過ぎなかった。
「……と言うのも、我々が観察すべきは、この三角筋が……」
学友の一人が欠伸を噛み殺すために唇を引き結んでいる。ジルは窓の方へと目をやった。戸外は何と清々しい日だろう! 緑溢れる朝と死体との対比、公園の木々とシュルツのメスとの対比、風や雲と生命なき哀れな人々との対比……。
チィルダ……。彼女はかつて身の毛もよだつ、不気味ともいえる風貌だった。そのイメージを現在の愛する女性に重ね合わせることこそ、全くもって冒涜且つ不遜な行為なのだ。しかし現に、頭の中にはそうした思考が渦巻いているし、不可避ともいえるチィルダに対するイメージが魂に刻み込まれているのも紛れのない事実だった。チィルダの鼻。死人の鼻。ベートーベンの脳。シュルツの手。朝日。かつて自分が作った詩の一節を再び思い出す。
琥珀色の空の下、世界は
魔法がかけられたかのように
茶が満たされた巨大な盃の底に
沈み込む
ある日の朝、頭に突如として飛来した四行詩が記憶の奥底から浮かび上がって来たのは、今日で三度目だった(一度目は、未だペトロポリスに住んでいた頃だ)しかし、それが何だと言うのだ! 全くもって馬鹿げている。その詩句こそ忘れるべきものなのだ。もし今のまま月の世界で生き続けるとしたら、良き医者になることは決して叶うまい。その点について、父と話し合う必要がある。きっと父は笑い飛ばすだろう……。しかしながら、父自身もその点について途方もなく大きな罪を犯している咎人の一人なのだ……。
ジルは塔でベートーベンやバッハ、モーツァルトと共に夜を明かしたことを思い出した。プレーヤーの上でレコードが回っている……。明かりは消され、家族は黙したまま各々の位置に座り、じっと耳を傾けている。ベートーベンの〈交響曲第九番〉のコーラス部が導入されるや、ジルは喉許がじわじわと締め付けられ、胸許に大きな重しがのしかかって来るのを感じた。そして何としても、そこに集う皆に心に湧き上がるありとあらゆる言葉を、自らに立ちはだかる非情なる運命を前にした人間が抱く苦悩を表出するような言葉なぞ存在しないのだが、それら全てを皆に向かって叫びたい衝動に駆られたのだった――ベートーベンはそのコーラスを通して、音楽という手法をもって表現したのだが。
ある日の夜、ジルは手に生温かい涙の雫が滴るのを感じた……。横でノーラは〈交響曲第六番:田園〉に耳を傾けながら啜り泣いている。塔はまるで世界そのもののように広大だ。瑞々しい緑に溢れ、春の牧草地のごとく芳しい香りが漂っている……。いつものことだが音楽が終わっても長い時間、言葉を発する者は誰一人としていない。“部族”の面々は途轍もない美しさに圧倒され、身も心も疲れ果てているのだ。もし空気を読めないリタが何も告げず、不用意に明かりを点けようものなら、目を瞬き、涙に濡れ、赤く腫れぼったい目を皆に見られることとなる。別の日の晩には、父が心の拠り所として胸中に抱く人生や芸術について語ったりもした。確かに“大佐殿”は自身が書き綴る文章を生み出した大罪人である。
「三角筋とは……」
シュルツは淡々と正確無比に解剖を進めている。それを見ている内に悪寒がした。そこに漂う空気は何物にも侵されることはない。あそこでメスを握っているシュルツは金属でできた物質、解剖するがための一種の機械のように思われてならなかった。
「サンチィアーゴ、執刀してみないかい?」
そうドイツ系ブラジル人が尋ねた。ジルは学友のその問い掛けに全く注意を払っていなかった。シュルツはすっくと身を起こすと、あたかも上官が部下に命じるような鋭い語気で同じ質問を繰り返し言った。
「サンチィアーゴ! 君は執刀してみないかい?」
ジルははっと我に返った。
「ああ……、この僕がかい? いいや、やりたかないよ。お気遣いありがとう」
隣に居るもう一人の学友の肩に手を置くと、「テルモ、君がやってみなよ」と、言った。その学友は不快そうに眉をしかめた。
「良いとも……。もし君がやりたくないのなら」
テルモはランセット[先の尖った両刃のメス]を掴むと死体へと近づいて行った。シュルツは冷やかな教師然とした眼差しでじっと彼のことを観察している。テルモは一瞬、尻込みした。その機を逃さんと言わんばかりに、ジルは口を開いた。
「なあ皆、僕は気分がすぐれないから少しばかり外を歩いて来るよ」
シュルツはそんなジルのことを目にも留めなかった。テルモはニッと笑うと、頭で「行ってこい」と合図を送った。今一人の学友は再び欠伸をした。ジルは死体安置所を後にし、前掛けを剥ぎ取ると、半ばぼんやりと、しかし丹念に流しで手を洗った。そして上着を身に付け、帽子を被ると、日の照る戸外へと出て行った。朝は枯れ葉と樹液の匂いに満ちていた。
数分後、ジルは公園へと足を踏み入れて行った。脳裏には輪が、ナイフが、棒が「シュン、シュン」と音を立てて舞うがごとく、数多のイメージが、言葉が浮かんでは消えて行った。それら全ては自身の不安や心配事に起因するものであった。チィルダのこと、これから就くであろう職業のこと、将来のこと、巷で囁かれている戦争のこと等々。この自分は今、一八歳で、一九歳になるまで半年余りある……。大学を卒業するまで、まだ五年もある。果たしてチィルダはそれほど長い年月を待つことができるのか。あるいは、待たないと考えているのだろうか? もし仮に待ったとして……。五年後、今のようにこの自分が彼女のことを愛し続けているのだろうか? しかしながら……。今でさえ、本当の意味で彼女のことを欲していて、その関係がこれから先も続くことを果たして望んでいるのだろうか? あるいはチィルダに対して、自分が感じているのは単なる同情と憐憫の情が入り混じった感情ではなかろうか? どうして鷲の嘴に似た鼻のかつてのチィルダのことを忘れることができないのだろうか?
ジルはそうした熟考に浸りながら歩を進めて行った。チィルダと知り合う前、自分は三〇歳の既婚女性に恋焦がれていた。その恋愛感情を吐露することができないまま数ヶ月が過ぎて行った。最悪なのは自分自身、そうした状況がいかに馬鹿げた、幼稚ともいえる結末を迎えるかを終始、熟知していたことだった。自らの心を支配する感情と切り離して、状況を分析することもできた。そうであっても、恋の炎は心に秘めた熾火のごとくチロチロと燃え続けていた。決して叶うことのない絶望的な、だが同時に高邁な感情を胸に抱き続けていたのだ。ある日のこと、父にその恋愛沙汰を告白した……。父は笑みを浮かべると、「それも運命のプログラムの一つに過ぎんよ。なるようになって行くだろうし、それが重要な意味を持つこともない。我々は皆、誰だってそうした考えを持つものだ。女教師に……、母親の女友達に……、身近にいる女性歌手に対しても恋心を抱くものだ……」と、言った。そう言うと、愛情を込めて力強くポンポンと肩を叩き、力づけるように言い放った。
「軍曹君、頑張りたまえ!」
ジルはスピルマン医師の診療所でチィルダと出会った時、未だ例の既婚夫人と恋冷めやらぬ状態だった。最初にその娘を目にした時に感じたことと、今、自分が実際に感じていることを比較しつつ、ジルは何とも自分が奇妙とも言える感情に囚われていることに気づくのだった。チィルダの側に居て、決して穏やかな気分になることはない。彼女が発する言葉にしろ、所作にしろ、自分に向けられる眼差しにしろ、そこには常にどこかオドオドとしたところがあり、陰のようなものが見て取れた。彼女の手を取り、髪を撫で、欲する女にキスをするように、そう目眩がするほどのディープなキスをしたいと感じる。しかしながらそうした全ての欲求とない混ぜとなって、そこに憐憫の欠片が含まれていることに気づく。ジル自身、“ある種の不快感”とも言える、何とも表現できぬ抵抗を感じていた。これまで幾年もの間、チィルダを苦しめ続けた拷問のごとき人生、子供、それも幼き少女が感じた失望感、屈辱について考えを巡らせた。それゆえ自分自身、慈しみと配慮によって、彼女が過ごした暗く、苦悩に満ちた時代の思い出を消し去ってやりたいと考えたのだ。しかしながら当のチィルダはこの自分に対して、全面的に身を投げ出すことはなかった。頻繁に深く、不信に満ちた沈黙に陥り、あたかもそこに自分以外の者が存在しないかのように、突如として瞳が、顔が、所作が、声が言い知れぬ暗闇に覆われるのだった。そうなると全てが厄介なこととなる。彼女の側で他愛もない会話を続けることも困難となるのだ。しかし突如として日が差すかのようにチィルダは陽気となり、元気を取り戻したりもする。変身でもするかのように……。
ジルは木立の中を歩いて行った。踏み固められた地面に映る影は青みを帯び、茂みの奥は濃い緑色が広がっていた。ガチョウの群れが芝生の上を隊列を成して横切って行く。
たった五年ぽっちだ! ジルはそう考えた。ベンチに腰を下ろすと帽子を脱ぎ、ネクタイを緩め、公園の池の中央に設られた噴水が白く、虹色を帯びた水を激しく吹き上げる様をじっと見つめた。しかしその五年間は自分にとって永遠のように思われる。最悪なのは経済的に父に頼らなければならないことだ。人生に足を踏み出すことを切望し、独立し、何らかのことを成し遂げる。それらを実現するためには、何らかの職業に就く必要があることも分かっている。医者という職業が高尚で、有益なものであることは間違いない。しかし……。この自分はその職に対して資質を持ち合わせているのだろうか? 手術には興味がある。だが……、注意力が散漫となり……、集中力が極端に抜け落ちてしまうこともある……。それ以外に自分は音楽に関心がある。時々、ピアノを弾いている時に、音楽に挺身してみてはどうだろうかと自問することがあった。作曲をすることだって、この自分にはできる……。幾度となく往来で街角から街角へと漫ろ歩いていると、数多のメロディが頭に浮かんだ。多分、何か有益なことができるに違いない……。しかしながら作曲をして生計を立てることなど可能だろうか? いいや、無理だ。医者になった方が良い。医業こそ社会にとってより有益なのだ。貧乏人のための医者、物質的富に奔走しない医者なんてどうだろう? 「金は手段であって、目的ではない。しかしほとんどと言って良いほど、推奨できる健康的な手段ではない」。塔に集う人々は口を揃えてそう断言する。自分もその考えに同感だ……。虚栄心に満ち、身勝手で、自らの腹を肥え太らせるために奔走する医師ではなく、思い遣りがあり、患者に寄り添える医師を目指してはどうだろう? しかし厄介なことに月末の支払い日というものが存在する……。恐らく、結婚しないことこそ最良かもしれない。独り身なら僅かばかりの収入で自立し続けることができるのだから。時々、母が自分にこんな風に言う。
「でもねジル、あんたの考えは成熟した人間が持つようなものよ! もしあなたたちのような若者が一八歳になるという奇跡がこれから先、二度とないということを知ったなら……」
ジルは居心地悪そうにベンチの上で身を捩り、脚を組むと空を見上げた。多分、大学を卒業する前であっても、チィルダと結婚できるはずだ。スピルマン医師が僕に助手にならないかと声を掛けてくれているし……。チィルダを塔に住まわせることだってできるだろう。一人増えたからと言って、それほど家計を圧迫することはないだろう。ほとんど変わらないと思う。家計の問題だけならどれだけ良いだろう! しかしそれ以上に深刻な問題がある。自宅に家族以外の人間を引き入れることによって、今までの調和が乱される恐れがあるということだ。
ジルは上半身を屈ませると地面に指で絵を描き始めた。横顔を一つ、それに頭を一つ描いた。それは少し前、シュルツが解剖していた亡骸のムラートのそれを連想させた。誰かの顔貌をじっと観察していると、それを容易に忘れることができなかった。記憶に基づいてそれを緻密に描くこともできた。もしデッサンに打ち込んだとしたら多分、画家になれるかもしれない……。形成外科は彫刻と極めて酷似した美術の一種ではなかろうか。重要なのは美と善をもたらす何ものかをやることなのだ。絵画でも、シンフォニーでも、架工菌でも、形成外科でも、何だって良い(再び脳裏にチィルダが現われた)食って、飲んで、着飾る。それらのみに奔走する人生など悲惨だろう。いつの日だったか父が自分に、「人間の大半は芸術云々が無くとも幸せに暮らして行ける」と、言ったことがあった。
じっくりと時間をかけて父と話しをする必要がある。ジルは他の人々が何を考えているのか推測した。思い遣りの気持ちをもって、父トニオのことを考えた。父はこの自分に対して、人生に真っ向から対峙し、世の中の有り様を理解する勇気を持てるように仕向けている。その“大佐殿”のお陰で、同じ年代の学友たちの大部分が抱える悩みに苛まれることはなかった。その悩みとは“性”の問題である。一四歳の時分から、その話題について父と話して来た。全てはお伽話から始まり、時を経て生理学がおずおずと入り込み始め、それに裏打ちされた冒険談のごときものの中で、“性”の問題が取り扱われるようになった。父はそれについて隠すことなく、全てを赤裸々に語り、それも性急にではなく一歩づつ導いて行き、ドラマチックな様相を帯びた性行為に対して過大な期待を寄せないよう、あくまでも自然な形でそれを楽しむよう助言した。両極端の思考が孕む危険性についても教示した。一つは過度なまでの自己叱責と、今一つは飽くなき性的欲求だ。父と自分の間でそうした事柄について、何ら気兼ねなく議論できる好環境にあったのだ。
ジルは空を、地面に映る影を、池を、黙したまま通り過ぎて行く人々を、公園を取り巻いて建つ家々を、さらには視線の先に広がる青みを帯びた緑色の丘々を見やった……。その風景はジルに沸々と湧き上がる欲望と、同時に生に対する気怠さを覚えさせた。世界の数多の場所で同時に暮らせたら、どんなに素晴らしいだろう。カリフォルニアの片田舎、インドの小村、パリの郊外、ロシアの小麦畑、ニュージーランドの牧草地。照りつける太陽を地球上の様々な場所で満喫し、自分が知り得ない異なる人種の人々と知り合い、愛する。しかしそうした全てのことも、塔や、そこに集う住人のことを疎かにすることは決してないという絶対条件の下にだ。世界をこの偉大なる手で抱擁するのだ……。
ジルは少しばかり馬鹿げていると思ったが、そうした自らの思考に対して笑みを浮かべた。そのような考えは決して周りの人々に知られることはないだろう。学校で、何事に対しても実際的且つ毅然とした態度で臨む人物がいたとしよう。そういった人物は“自分が何をやりたいかを熟知している”ものだ。伝説に泥を塗ることも全く厭わない。もし他人がたとえば、その人物が詩を創作しているということを知ったなら、たちまち嘲りの的となる。
ジルはベンチから立ち上がった。ジョアーナ・カレフスカのことを考える。この時間、その気の毒な娘はきっと埋葬されているだろう。手を繋ぎ、公園を散策する幾組かの恋人たちがいる。今この瞬間、世界のどこかで誰かが絵画を描いたり、夜想曲を作曲したり、あるいは未知なる化学物質を奇跡的に発見しているかも知れない……。戦争や、その他の全ての大事件、出来事が起こっているにも関わらず、この自分、ジル・サンチィアーゴはちっぽけで、光彩すら放つのことない取るに足らない問題の解決に奔走している。そうであっても、今、自らが抱えている問題から逃れることなどできないのだ。そう、ありありと喉許にナイフを突き付けられているかのように感じるのだ。チィルダ……、自身の就くべき職業……、人生……、将来……。
池の方に向かって歩き始めた。“偉大なる人物になる”ことは何とも難しいことだ。かつて子供の頃、考えていたよりも数千倍、困難なことだ……。そう、ジルは考えた。
執行役員の相方であるアストゥルバル・クアドロスが執務室に入って来た時、アリスチィーデスは幾つかの書簡にサインをしていた。いつものことだが、アストゥルバルはノックをせず、音もなく扉を開けると、足音一つ立てず影のように滑るように部屋に入って来た。彼の姿を認めるとアリスチィーデスは顔に不快な表情を浮かべることを避けられなかった。アストゥルバルを前に、一度として気楽な気分になったことはなかった。その男はどことなく捉え所がなく、全体的にツヤツヤしていて、目の前にいる対話者を果たして見ているのかどうか疑わしかった。わずかに斜視で、潤んだ目をしており、テカテカと光り輝く禿げ上がった頭はさらにその人物の捉えどころのなさを強調しているように思われた。その御仁の指はすらりと細長く、爪を長く伸ばし、手入れが行き届いていた。そうした様はどことなく猛獣の鉤爪を連想させた。鼻筋はほっそりと鷲の嘴のように尖っていて、唇は常に引き結ばれており、切れ味の鋭い刃のごとき人物である印象を人々に与えていた。アストゥルバル・クアドロスは商取引きに対して明晰な眼力を有していて、ありとあらゆる策略を巡らすことに長けた金融界の寵児という評判を欲しいままにしていた。
部屋に入って来るなりアストゥルバルは口許に笑みを浮かべ、淀んだ視線を投げつつ執務机に音もなく近づいて来た。そして“書き物机”の側で歩を止め、その縁に両手を置くと上半身を屈め、囁くように言った。
「あんたはスキャンダルのことを知ってるかい?」
アリスチィーデスは不快そうに身震いした。
「スキャンダルって?」
「まさにスキャンダルとなっているのだよ」
「どこのどいつがそれを起こしたと言うのだ?」
「あんたは本当に知らないのか?」
アリスチィーデスは視線が定まらず、あちらへこちらへとそれを走らせるアストゥルバルの顔を凝視していた。
「全く知らんよ」
「ノリヴァルさ」
「ペトラか?」
「そうとも。“合資製作所”が手形の支払いを拒否すると言うことだ」
「どこのどいつがそんなことを言っているのだ?」
アリスチィーデスはペンを放り投げると、事のあらましに耳を傾けるべく椅子の背にどっと身を投げ出した。
「だが、どうやってあんたはそれを知ったのだ?」
「わしの耳は節穴だと思っているのかい?」
アストゥルバルは黄ばんだ歯を剥き出した。青みを帯びた髭で覆われた頬はまるでビロードのようだった。
「もし盲人なら分からないかも知れないが、成金のごとく大金を浪費し、車を二台所有し、ギャンブルに明け暮れ、女たちと戯れ、二〇日毎に服を新調する……」
「で、奴の商売の方は、会社の方は?」
「全てでっち上げさ。嘘八百だ。奴は老ペトラの名の風上にも置けない馬鹿者さ。あくまでも名が持つ信用によって、商売は容易に行くものだ」
「大胆さも不可欠だと思うが……」
アストゥルバルは直立不動の姿勢をとると両手を擦り合わせ始めた。
「ちょっとした狂宴が始まるだろうよ」
そう言うと、人差し指と親指で耳朶を挟んだ。
「バヘイロさんよ、そうなるとも」
それを前もって楽しむかのようにニタニタと笑った。アリスチィーデスは物思いに耽っていた。ペトラのことをよく知っている。奴のことが好きだったし、率直且つ誠実で、気持ちの良い輩だと思っていた。常に身綺麗で、それによって人々は良い気分になった。奴の持つ虚栄心や“大取引き”をやってのける手腕とは裏腹に、ポーカーをやるがごとくそれら全てがこけ脅しに過ぎないと考えたこともなかった。今や誰かが“その賭けに応じる”必要があるのだ。奴さんは窮地に追い込まれているのだから……。
束の間、アストゥルバルの薄色の目は相方の顔を舐めるように見つめていた。
「それで、あんたはまだ詳しくは知らないのだな……」
アストゥルバルは口許に笑みを浮かべ、短い沈黙の後、口を開いた。
「ペトラが奴の所有でない証券を売りに走っているという情報を掴んだのさ」
「そんなこと有り得るのか?」
「有り得るかどうかだって? わしはその内の五枚の証券を手に入れたよ。その情報を耳にすると、買いに走らせたのさ。それから、それについて色々と調べてみたさ」
「それじゃあ、事は深刻じゃないか」
「それは壊滅的ともいえるスキャンダルになると、わしはあんたに言っているのだ。ここ数日中に大騒ぎになるとも。まさに警察沙汰になるだろうよ」
あのペトラがそんな馬鹿げたことをしでかすとは……。アリスチィーデスはそう考え、心から気の毒に思い、頭をゆっくりと横に振った。あれほど感じが良く、愛想が良く、それに……。
「それに加えて、州に対する不渡り手形の件についても話題になっていたな」
「何てこった!」
「まさに大スキャンダルになるだろうよ」
アストゥルバルは粘っこく独特の抑揚をつけて、「ハァッ! ハァッ! ハァッ!」と笑い声を上げ始めた。しばしの間、聞き手の驚きの表情を楽しんだ後、音も立てず部屋を出て行った。
一人っ切りになるとアリスチィーデスは、「アストゥルバルめ、何といけすかん奴だ!」と考えた。株式に関して、あんなにも何でもないかのように話すとは……。他の連中たちが覚えていないとでも言うのか? つい先日のことだが……。“保険会社との証券を巡るスキャンダル”のニュースが飛び交い、街の金融界を震撼させた。その一件に関わる株主たちは債券を売り払うよう、数多の提言を受けたと言う。買い手たちの強引さは目を見張るものがあり、奴らが提示する買い値は天文学的値に吊り上がったそうだ。それに対してアリスチィーデスは警鐘を鳴らし、その推移を慎重に見守るように助言した。調査の結果、アストゥルバル・クアドロス自身がその一件の裏の立役者で、様々な人々の仲介で株を買い漁っていたいたことが明るみに出た。奴の計画とは最大数の株式を保有することにあり、それによって“地方保険会社”に対して全面的な管理指揮権を掌握するというものであった。アストゥルバルは国民保険を取り扱うより強大な保険会社の取り引きにも頭を突っ込み、いづれそれを乗っ取ろうと夢見ていると言うことだが、そうなれば今にも増してさらに深刻な事態に陥ることは自明の理だ。奴は自身の行為の正当性について次のように語るだろう。
「アリスチィーデス、あんたは賭博師なのだよ。商売はギャンブルそのものさ。相手が自分より頭が切れるか、あるいは自分が相手より良い札を持っているかどうかだ。重要なのはギャンブルの作法を知っているかどうかだ。誰もがやる通り、わしも同じようにやっておる。その証拠に、これまでこのわしが訴えられたことは一度としてない……。だからあんたたちがわしを責める理由は皆無ということだ」
そして今、あのいけすかん奴が悪意を込めて、ペトラがやらかした愚行を語りに来たのだ。それがあたかも純然たる事実でもあるかのように!
秘書が部屋に入って来た。
「ドトール、例の新聞社の記者の方がおみえです。お会いになる約束をなさっていた……」
「ああ……、そうだね。彼に入るように言ってくれたまえ」
半ばおずおずした様子でロベルトは執務室に入って来た。何ヶ月も前だが一度、アリスチィーデスにインタビューをしたことがあった。自身が信奉している全てのものに対して害悪そのものの存在ではあったが、それは横に置いておいて、その御仁に対して好意を抱いていた。ロベルトは帽子を手に持ち、しかめ面でゆっくりとした足取りでインタビュイーの前へと進み出た。
アリスチィーデスは口許に笑みを浮かべると尋ねた。
「やあ、ロベルト君、元気かい?」
彼の声には真心が込められており、親しい友がやるようにがっしりと握手をした。「奴は僕の名を覚えていた」。それにロベルトは驚き、相手に対して媚びへつらう態度を取るべきかどうか迷っていた。何と記憶力が良いことか! まさに政治家ならではだ……。政治家たるものは、一度でも会った人物の名も顔も決して忘れることはない。「自分自身はすでに忘れ去られた存在なのだ」。そう相手に感じさせる失望。それ以上の非礼はないということを奴は熟知している。
「ロベルト君、寛いでくれたまえ。そこに座って……」
深緑色を帯びた大きなソファーの方へと記者をゆっくりと誘って行った。ロベルトはそのフカフカのソファーに不用意に沈み込まないように注意しながら腰を下ろした。
「それで、新聞社の方はどんな具合だい?」
まさに使い古された常套句だ。そうロベルトは考えた。愛想が良く、完璧なまでに紳士的な態度の男だ。彼はきっとこんな風に言うだろう。「自宅にいるように寛いでくれたまえ。我々は平等の立場だ。実際のところ、君は月給五〇〇ミル・レイスの記者で、私は商売人で、月五〇コントの収入があるが、それには言及するまい。結局のところ、我々は同じ材料から作られたものに過ぎん。そうではないかい?」、と。
「社の方はいつも通りです……」
「葉巻はどうだい?」
アリスチィーデスは机の上にある精巧な装飾が施された箱を手に取った。
「いいえ結構です。どうもありがとうございます」
その箱だけでいくらぐらいするのだろう? ロベルトは値踏みした。きっと質素な家族であれば、一ヶ月分の食費を賄えるだけの値段はするだろう。
「では、コーヒーはどうだい……?」
ロベルトは躊躇するような仕草をした。
「お気遣いは無用です……」
アリスチィーデスはそれを聞く間もなく呼び鈴のボタンを押し、給仕が姿を現わすと命じた。
「シッコ、コーヒーを頼む。入れ立ての熱々のヤツを頼んだよ。良いかい?」
主人があくまでも謙虚な態度をもって使用人に接する様に誠実さを感じる。そう、ロベルトは観察していた。彼自身、どうしてもアリスチィーデス・バヘイロを悪く思うことができなかった。彼の存在そのものに好感を抱いている自分がここにいる。奴は現代に生きる洗練されたカウディーリョ[地方ボス]で、抒情的な頭脳を持ち得る魅力的な人物であり、その瞳は青く澄み、頬は薔薇色に色づいている。ロベルトはアリスチィーデスが現在演じている役割を、自分自身が反旗を翻し、戦っている階級の象徴たる憎悪すべき存在だと考えていた。ソファーに腰を下ろし、彼の執務室に身を置き、その男と親しげに会話を交わすという極めて単純な行為であっても、それが同志、友人たちに対する背信であるように思われてならなかった。まさに今のこの自分はバヘイロの属する集団と共犯関係にあると言えた。しかし自分にとって他の選択肢はない。自分は新聞社に勤めていて、インタビューをするのが責務なのだから……。
「ドトール、あなたもご存知の通り、私は今日、あなたにインタビューをするために参りました……」
「ああ、そうだね。君のところの主任がそのように言っていたな……」
「“家計の逼迫と賃上げ”について、あなたのご意見をいただきたいと考えています」
「質問リストはもって来たかい?」
ロベルトはポケットから一枚の紙を取り出すと、アリスチィーデスに手渡した。彼はチラリとそこに書かれてある質問項目に目を走らせた。
「結構だ。ここに書かれてある質問に私が答えて行く形でどうかね?」
政治家ならではの警戒心が見て取れる。そうロベルトは考えた。記者に対峙する恐れ、発言の重責、言葉の行間を読まれる危険性等々……。
「あなたがやり易いようにお願いします」
ロベルトは大きな声でそう告げた。そして僅かに間を置くと、その先を続けた。
「あなたの回答をいつ取りに来たらよろしいでしょうか?」
「月曜日、封筒に入れて君宛に編集部に送ることにしよう。それでどうだい?」
「よろしくお願いします」
ロベルトは立ち上がるような仕草をした。アリスチィーデスは、「まあ、ちょっと待て」と言う具合に相手をその場に引き留めた。
「いいや、そのまま、そのまま。少し話しをしようじゃないか」
「あなたの貴重なお時間をお使いする訳にはまいりません」
「そのようなことは断じてない」
声音を変えて続けた。
「ここ最近、君と会ったのは私の記憶が正しければ、確か……昨年の五月だね……。五月二日。間違いないかい? 君は社会法について私にインタビューした。そうだね?」
「仰る通りだと思います」
「因みに、インタビューに基づいて君が書いた記事に大きな好感を持ったということを記憶しておる……」
「まあまあ……」
ロベルトは口許に笑みを浮かべた。実のところ、彼自身が書いた原稿は内容的に言葉の隅々に言い知れぬ悪意が散見され、行間から当て擦りが滲み出ていたことから編集段階でボツとなったのだった。編集委員の一人がその記事の再執筆を担い、文章の書き出しからインタビュイーに対してさりげない賞賛を込めて書き直された。
間があった。アリスチィーデスはじっとロベルトを凝視していた。自分はその若者に対して好意を持っている。しかし同時に彼が傾倒している政治的嗜好を無視している訳ではない。彼の声から、仕草から、インタビューからも敵意に満ちた抵抗のごときものが滲み出ているのが見て取れる。彼は決して降伏することも、媚びへつらうこともないだろう。アリスチィーデスは共感と思い遣りの念をもって、彼を屈服させようと心に決めた。なぜなら誰であれ、当の彼であれ、見向きもされず、注目もされないということは我慢ならないとうのは当然だからだ。人はただ単に社会的温もりや、著名人たちとの友好関係を望んでいる訳ではない。新聞社の同僚たちや、その使用人たち、カフェの給仕たち、散髪屋の主人、運転手らにも一定の評価を求めるものだ……。
給仕がお盆にコーヒーカップを二つ載せ、部屋に入って来た。アリスチィーデスと記者はしばらくの間、黙したままコーヒーを啜っていた。やがて前者が葉巻に火を点けると尋ねた。
「ところで、戦争の方はどんな具合かね?」
「最悪です」
「起こるものは起こるべくして起こるものだ。世界は平常化に向けて戻らなければならないからな。今現在の我々は法や民主制に背を向けて生きて行くことはできん」
何とまあ、彼は“法”や“民主主義”という言葉を軽々しく使うことか! 迸る奔流のごとき感情が胸に湧き上がって来た。抑制のきかない、無利益ともいえる感情の反乱を抑えるために懸命に自制しなければならなかった。何か言葉を口にしなければ。そう、議論する必要があるのだ。しかし独り、部屋に閉じこもっていた時に思いついたあの素晴らしい論拠はどこに行ってしまったのだろう? どうして今、口から何も出て来ないのか? 言うべき言葉は山ほどあるというのに……。そうした言葉の一つ一つが次々に無為に積み重なって行く。それはまさに劇場が火災に見舞われ、出口を求めて殺到し、押し合いへし合いし、相手を踏みつけ、踏み潰す人々の様に酷似していた……。
「ドトール、民主制とは一体、いかなるものですか?」
アリスチィーデスは微笑んだ。その記者がどのような方向に話を持って行きたいのかを熟知していたので、易々とその手には乗らなかった。
「我々はその言葉を定義づけることは一ミリとしてできないだろう。ロベルト、君も知っての通り、言葉というものは“上辺だけの友人”のようなもので、人を惑わせる外見を持ったものなのだ。危機に直面すると言葉は我々を失敗に追いやるか、あるいはペテンに掛ける。君は本当の意味での民主主義など決して存在しないと言うだろう。だが、私はそれに対して反論する。それが良くも悪くも民主主義と思われる意見や、政党プログラムのごときものが存在する時代というものがあるものだ。それを公にするために君に話している訳ではないことは事実だが……」
ロベルトは真剣に相手の言葉に耳を傾け、自らの思考を整理しようと努めていた。唇は幼稚にも怒りでブルブルと震えていた。
「しかしながら……」
口ごもりつつ言葉を発した。当惑はさらなる当惑を生み出した。
「しかしながら……、あなたは我々が今、支持している体制は民主主義的というよりむしろ、封建主義的とお思いになりませんか? ここリオ・グランデを例に取ってみましょう。大統領は一種の国王と言えましょう。封建貴族から貢ぎ物を受け取っている訳ですから。我々の場合は、郡の政治的ボスがその役割を担っています。一般人や小作人、しがない公務員などは、そうした封建貴族の奴隷に成り下がっているではありませんか……」
アリスチィーデスは口許に笑みを浮かべつつ、父のことを考えながら火の点いた葉巻の先をじっと見つめていた。目の前にいる若者は自らの理念を変えることはないだろう。しかしそれはあくまでも表層的なもので、確信に至っているものではない。
「なぜ大統領は封建貴族たちの権力濫用や搾取に対して、目をつぶっているのでしょうか? なぜなら彼らは力と影響力を有していて、平時には良き有権者であり、戦時には良き兵士となるからです。つまり州兵の補助的役を役割を担っているのです」
「その比較は悪くない。しかし少しばかり文学的過ぎやしないかい?」
ロベルトは肩をすくめた。
「多分、あなたの答弁もまた文学的だと思えます」
「私はこれまで数え切れないぐらい多くの過ちを犯して来た」
アリスチィーデスは寛いだ様子で脚を組むと、そう答えた。
「しかしながら、我々はそうした過ちを正す方策を模索しておる。私自身、ブラジルという国に信を置いているからな」
「私もまた祖国に信を置いています。私は敗北主義者ではありませんから。しかしながら、この国に住んでいるある社会階層の人々に不信感を持っていることも事実です」
アリスチィーデスはその若者が言及している人々が誰なのかを尋ねる気は毛頭なかった。そこで話題を変えた。
「君は時代の推移というものを否定することはないだろう。我々には社会法というものがあり、資本主義が容認され、浸透しつつある……」
「“しつつある”ですか? あるいは“強要されつつある”ではないでしょうか? 今現在、世界大戦が進行しつつあることをお忘れなく」
そうロベルトは答えた。アリスチィーデスのごとき人々の態度には辟易していた。そうした連中は適切にも勝る、最良ともいえる思想を行使し、社会情勢に見合った権力を、組織立った意思の影響力を欲しいままに行使している点から、自分たちの銅像が建立され、あるいは聖人として崇められるのに相応しいと考えている。
アリスチィーデスは舌打ちした。
「ところでロベルト、君は何歳だい?」
「二四歳です」
「私は五二歳だ。君より二倍の歳をとっておる」
「私の祖父は九〇歳です。ですから年齢というものに意味はありません」
アリスチィーデスは忍耐強く、ゆっくりと頭を左右に振った。
「いいやロベルト、そんなふうに考えるべきではない。中には経験でもってのみ明確になる事もあるのだよ。君たちのような社会主義者、あるいはそうした主義、主張に重きを置く人々は己らが戦っている階級の人間たちのことを正確に理解するに至ってはいない」
ロベルトはいかなる反駁もせず、唇を引き結んだまま黙っていた。
アリスチィーデスはさらに続けた。
「我々は職工たちや、農夫たち、他のあらゆる人々と同様、極めて人間的だ……。しかし、ことは見た目以上に複雑だ。心の奥底でよく考えてみたまえ。君たちは我々を目の敵にしている。我々は歩み寄り、譲歩しているのだ。そうした歩み寄りが自らの威光を物質的、あるいは道徳的権威を、財産を減じようとも、我々はそれを実行している……。この世に一人として生粋の資本家や工業家、大富豪等、貧困に対して心を揺さぶられない者たちなぞ存在しない。我々もまた同様に問題を抱えているのだ。君はシュペングラーの著書を読んだことがあるかい?」
シュペングラーとは! そいつのことを引き合いに出す輩は誰一人として、奴の著書を読んでいない。奴の文章は学者気取りで、不誠実の塊だ。ドブにでも捨ててやりたいぐらいだ。シュペングラーなんて!
「シュペングラーは商業と工業の危機は給与の高騰によってもたらされると考えた。それに加えて、我々は税の引き上げも考慮に入れねばならない」
「商品に対して税を払うのは消費者ですよ。それは誰もが知っていることです」
「ロベルト君、そんなありきたりの常套句を二度と口にしないことだ。柔軟性に欠ける分類が犯す初歩的ミスに陥ってはならない」
「“柔軟性に欠ける分類”とは、どういうことですか?」
「それによれば、全ての金持ちは破廉恥で、邪悪であり、対して全てのプロレタリアは高貴にして、善良であると言う。私のことを例に挙げて話そう。私自身、数多の欠点を持つ一市民だ。そのことは私自身も認識している。だからと言って、自分のことを厚顔無恥な怪物だとは全く思わない。ここ、会社で従業員たちのために賃上げに奔走しているのは、この私だ。彼ら一人一人に持ち家を提供してはどうかという考えは、私が思い付いたことだ。そのようなプロジェクが実現可能か現在、精査中だ……。私が職工たちの友だということを信じたまえ。私自身も言うなれば、一種の職工だと言える。この国に住する我々全ては元を正せば、下賤な出自であるということだ。私の父は荷馬車の御者だったし、祖父は農場の小作人だった。私が血筋の良し悪しを信じていると思わないことだ。いづれ全ての差異が消滅する日が来るだろう」
ロベルトは真剣な面持ちで相手の話に耳を傾け続けていた。やがて、おずおずと口を開いた。
「あなたは未だ、何一つとして立証していませんよ」
アリスチィーデスはゆっくりと頭を振ると、先を続けた。
「多分、そうであろう。しかし要約するに、私がここではっきりとさせておきたいことは……」
「……あなたが善良だということではありませんか?」
記者はそう口を挟んだ。アリスチィーデスは秘めたる意図を見抜かれ、それを公言する者に対して不快感を覚えるように、その若者に強烈な眼差しを向けた。
「そうではない……」
その声音には、「もうこれ以上我慢ならんぞ」と言った感情が込められていた。
「しかし、あなたは善人ですとも」
そうロベルトは言い張った。
「我々、全てが善人なのだよ。善良さこそ、ブラジル人の特色の一つだとも。我々は情にもろく、何事にも寛容で、些細なことにも涙する民なのだ。しかし同時に、“忘れる”ことに長けた民でもある。それこそ、我々が有する悪い点だ。良き人物であって、その状態に留まり、己こそ善良だという考えに麻痺し、同時に欠点だらけの社会秩序を甘んじて受け入れる。それで充分だと言うのは大間違いだ」
「どなたが、この私自身、指を咥えて何もしていないと仰ったのですか?」
ロベルトはソファーの上で身を捩った。
「ドトール、私は知っているのです。あなたが往来でボロを身にまとった少年がパンを買うための金を恵んでくれと言って来たら、あなたはニッケル硬貨をその少年に向かって放り投げることでしょう。そして、自分がやってのけたその行為に満足感を覚える。事務所に帰り着くと、孤児院に小切手を届けるように命じるでしょう。そうすることによって穏やかな気分になり、根幹から腐敗している社会の法や慣習を受け入れ続けるのです」
アリスチィーデスは苦笑いを浮かべながら、じっと耳を傾けていた。
「そして直ぐにそのボロを身にまとった少年のことも、他の全てのことも忘れてしまうのです。善良なる人間の悪い点とはあなたが仰る通り、記憶力に乏しいという点です」
「それで君は私のような状況下にある人々に対して、何を提案したいと言うのかね? かのトルストイに殊勲賞を与えよとでも? 貧乏人たちに財を分配しろとでも? あるいは波止場や市場で働けとでも……? また、あるいは路面電車の運転手になれとでも? ロベルト君、率直に言ってくれたまえ。君は一体、この私に何を期待しているのかね?」
「申し訳ありません……。実のところ……あなたに何かを期待している訳ではないのです」
そう言うと、顔を赤らめた。アリスチィーデスは真剣な眼差しになり、突如として言い知れぬ苛立ちを覚えた。その小僧は何とも無礼極まりない態度を取り始めている。もしこの私に何も期待していないのなら、どうしてここからとっとと消え失せないのか? しかしぐっと自制した(新聞社のその若造を不快に思うのは適切ではない)それに……その馬鹿者は感じの良い奴だし、感動的なほど生真面目だ。発音におかしなところはあるが、それが何とも言えない魅力を醸し出していることも事実だ。
「ロベルト君、君は二四歳か?」
アリスチィーデスは立ち上がると記者の肩をポンと叩き、大声を張り上げた。
「君と同じ年齢の時、この私はどんな風だったろう! この私も君のようにこの世界を変えたいと思っていたとも。私は炭鉱夫で、小夜曲を作っては、真夜中に墓地を訪れ、ビクトル・ユゴーの文章を詠唱したものだ」
「ドトール、私の世代の若者たちはビクトル・ユゴーを知りません」
「恐らく、それが君らの世代の汚点の一つだ」
ロベルトは肩をすくめた。アリスチィーデスは壁まで歩いて行くと一枚の写真が収められた額縁を鋲から外し、それを持って記者の許に戻って来た。それは一九一二年前後に撮影された、若者たちが一同に会する集合写真だった。皆は揃って、グリスで固められた艶やかな口髭、固く、高いカラー、三つボタンの上着、きっちりと締め付けられた襟元、つばの広い麦わら帽といった出立ちをしていた。
「ロベルト君、まさに偉大なる時代だったとも! 第一次世界大戦以前の世界だ」
ロベルトは椅子の肘掛けに腰を下ろした。
「あの有名なソプラノ歌手ローザ・リッジィーニがサン・ペドロ劇場でリサイタルを催し、我々を魅了した。まさに女神の歌声だった! リサイタルの幕が降りると、そのソプラノ歌手は聴衆が詰めかけ、花を投げる道をゆったりと歩き去って行った。迎えの馬車に乗り込もうとしたその瞬間、学生たちがそこに駆け寄り、馬車と馬を繋ぐ器具を外し、ホテルまでその馬車を引いて行った。もちろん、この私もその中にいた。丁度、君と同じ年齢の頃のことだ……」
そしてあたかも過去の記憶を呼び醒すように、小声で詩の一節を詠唱し始めた。
ナポレオンはそれらが小川のように流れて行くのを目にした
男たち、馬、太鼓手、旗”――彼は試練の渦中にあった
混乱しながらも、罪悪感が蘇る
両手を天に掲げ、彼は言った:「我が戦死者たちよ、
我は打ち負かされたのだ! 我が帝国はガラスのごとく砕け散った
厳正なる神よ、これが我に与えられたもうた罰なのか!
叫び声、囁かれる噂、大砲の轟音の中、
彼は答えを耳にした:「否!」、と
「君はこの一節を知っているかい?」
「いいえ」
「ビクトル・ユゴーの〈懲罰詩集〉の一節だ。当時、私は老ユゴーに首ったけでな……。今日でさえもな」
写真に写っている捻じ上げた口髭の自らの姿を見つめながら、アリスチィーデスはそう締め括った。確かに今でもユゴーの文言を詠唱すると、かつてと同じ途轍もなく大きな感情の昂りを感じる。
ワーテルロー! ワーテルロー! ワーテルロー! 何と陰鬱な平原か!
壺の中で溢れんばかりに沸き立つ波のごとく……
アリスチィーデスは立ち上がると、過去の遺物を過去に戻すかのようにその額縁を元の場所へ吊るした。
「いつだって、第一次世界大戦以前のパリについて記述されたものを読むのが好きだ……。ロベルト君、パリは何とも素晴らしい街だったのだよ。水のようにシャンペーンをあおり、カフェ、劇場は人々で溢れ返り、並木道は機知に富み、陽気な大勢の人々が練り歩いていた……。そこには何一つとして不安、心配事もない……。魅惑の街パリだ……」
その一方でロベルトは考えていた――そこには、汚水の中で暮らす人々や不潔な屋根裏部屋で細々と暮らしている者たちもいるのだ。貧困と疫病が下層階級の人々を蝕み、ますます荒廃させて行く。そうした間も金持ちのご老人たちはプリマドンナや花形女優たちが履く、サテン地の靴が妖しく蠢く酒場でシャンペーンをあおっている。
「その当時のファッションたるや、何とも形容し難い代物だ……。細くくびれたウエストにフレアー付きのスカートを巻き付け、剥製の小鳥とけばけばしい羽があしらわれたつばの広い帽子を被り……。さらには並木道では、人目を憚ることなく繰り広げられる姦通劇……。実に“エスプリ”に富んでおる……」
アリスチィーデスは過去を回顧するようにフッと溜め息をついた。ロベルトは居心地悪そうに黙ったまま相手の話に耳を傾けていた。
「ロベルト君、これが私の世界なのだよ。そう、夢見ていた世界だ。夢想やロマンス、表層的にも美しい外見を持つ世界が、それだ。〈シラーノ・デ・ベルジェナック〉や〈ボヘミアンの生活〉を読んで、泣き笑いする世界なのだ。今日では全てが変わってしまったがね」
僅かに間を置くと、ロベルトは相手の話を引き継ぐかのように尋ねた。
「しかしあなたはそうした世界が幻想で、作り物だと考えたことは一度としてありませんか……? オペレッタや、その他の低俗とも言える催しに浮かれ騒いでいる世界とは別に、シャンペーンや、キャビア等を一度も口にしたことのない、今晩の寝床も、食するパンも得ることがままならない気の毒な人々がいるということを、一度として考えたことがありませんか?」
そこまで言うと羞恥心に囚われ黙り込んだ。メロドラマじみた言葉を用いて話してしまった……。そのような話し方は好きではない。不誠実だと思う。アリスチィーデスが提唱する偽りの世界は虚構に満ち溢れているのと同様に、貧困世界においても別の意味で判で押したような虚構が渦巻いている。陳腐な決まり文句に満ち溢れていて、ミルクも飲めず、寒さにブルブルと震える子供たちについて語る際など、無意味な長談義が滔々と続くのである。
ロベルトはさらに続けた。
「そのように軽率にして思慮の浅い、快楽のみに奔走する自己中心的世界、つまり一四年の戦争の引き金たる世界の有り様について、一度として考えたことがありませんか……? そうした果てしなき、どうしようもない思慮の浅はかさが今、我々が直面している戦争の要因だとは思いませんか?」
アリスチィーデスは、「どうにもならないね」というような仕草をした。
「なあ君、我々は何を知っていると言うんだい? 人生は込み入っていて、極めて複雑だ」
「しかし単純にして、明快なこともあります」
「たとえば……?」
「そうですね、たとえば、全ての人間は平等にこの世に生まれて来る訳です。よって全ての人間は人生において、全く同等の機会を与えられるべきだということです。世の中に蔓延る忌むべき格差には、いかなる論理も、感情も、美意識も存在しません。現実において、ある一定の者たちが取り過ぎて、他の者たちはわずかな取り分に甘んじているのです」
「だが、そのような理論では、やがては胃液が影響を及ぼしているとさえ言いかねないと、君は思わないのかね? 自然によって成される選択とはいかなるものか? 人体を満たす分泌液、あるいは分泌腺の存在もそれに当てはまるが、それ以外の人体に働きかける神秘的な力とは一体、いかなるものだろう? つまり、その神秘的な力がどこから来て、我々の気質を形成して行くのか、さらには我々一人一人の運命をどのように決定して行くのか、誰も知る由はないのでは? まあ、聞きなさい……。たとえば、五人の男を雇い、各人に同額の金を渡し、無人島に置き去りにしたとしよう。そして何年か後にその島を訪れると、そこで形成されたちっぽけな社会の中にすでに金持ちと貧乏人がいることを発見するだろう。なぜならその五人の中には怠惰な人間と勤勉な人間が、賢い人間と愚鈍な人間が、力の強い人間と弱い人間が存在するからだ」
ロベルトは頭を横に振った。
「しかし勤勉な人間とか、賢い人間とか、あるいは力の強い人間とかは人的倫理という名の下、その勤勉さや叡智、力は彼ら以外の者たちがより良き生活を送れるよう使われるべきなのです。そしてきっちりと組織立てられた社会において、利得の制限、さらには各個人が持つポテンシャルに合わせて仕事の分配が行われる必要があります。そうすれば、各々が必要とする分のものが生産されることでしょう」
「人間というものはあくまでも狼なのだよ」
そうアリスチィーデスは口を挟んだ。
彼らの悪いところだ。全てを言葉尻をとって解決しようとする点が。そうロベルトは考えた。
「さらに人間的優位性を語る際、時折、教育について言及することを避けるためか、やれ栄養価の高い食物摂取だの、ビタミンがどうだの、生活の質の向上がどうだのといったことを問題視するのです……」
ロベルトは新聞売りの少年セッチのことを考えた。彼は生きた知性を身に付けていて、絵を描いたり、詩を作ったり、韻文を書いたりすることができる。それも極めて自然に、すらすらと。日々、仕事に奔走し、栄養失調で、悪しき仲間たちとつき合い、適切な導き手のいない人生を送っている内にやがては生活が荒み、悪の道へと引き込まれて行くのは自明の理だ。もし結核にでも罹り、死の淵を彷徨うものなら、救貧院に放り込まれるのは避けられないだろう。
「ロベルト君、君が言わんとしていることは、世界がそもそもあるべき姿ではないということかね? 私自身は進歩によってもたらされた快適さを大いに評価しているよ。しかしながら機械文明の隆盛に関しては、それほど大きな意味があるとは思えんがね……」
ロベルトは横槍を入れた。
「我々は安易な気持ちで機械に身を売り渡すべきではないのです。と言うのも、我々、人間は論理的意味での進歩というものがいかなるものか知らないという点こそ、大きな過失だからです。機械が人間の利益向上のために用いられる、もの言わぬ“木偶”であるなら、全人類にとってより快適な世界というものが構築されるでしょうし、我々はより少ない作業時間、労力で済まされるでしょう」
「ロベルト君、まあ落ち着きたまえ。君の考え方を理解し、受け入れたいとは思っている。しかし私にはどうしてもできないのだ。どこに君の神経を苛立たせる問題があると言うのだね?」
「あの葉巻入れです」
「それは気づかなかったな」
「あのボックスはおいくらですか?」
「確か二八〇ミル・レイスか三〇〇ミル・レイスだったかな。浮き彫りが施されたジャカランダ材で作られたものだよ」
「何百人もの人たちはそれだけのお金を月に稼ぐことはできません」
「まあ、それはその通りだ……。しかし私が思うに、君の述べている理屈は理に叶っているとは思えんがね」
「ドトール、ちょっと待ってください……。そのボックスのごとき純粋な意味での贅沢品が必要なら、それに見合った儲けが必要です。それはボックスにしろ、宝石にしろ、香水にしろ、毛皮のコートにしろ、高級車にしろ、全て然りです……」
アリスチィーデスは懐疑的な人間がやるように口許に笑みを浮かべた。
「と言うことは、君は儲けを得ることは悪だと考えているのかね?」
「もちろんです。世の中には武器を売るために戦争を引き起こすことを全く厭わない人間がいるのです。彼らが取るありとあらゆる手段は目的、つまり巨額の儲けを得るという目的を達成するためには“善”とされるのです」
奴は靴磨きのスタンドに掲げられているポスターに基づいて考えを巡らせているのか、とアリスチィーデスは思った。
「ロベルト君、君の推論はあまりにも幼稚だと思わないかい?」
「ドトール・バヘイロ、事実、幼稚だと思います」
「恐らく、恐らくだが……、君は利益の追求や、所有への欲求は人間の本姓ならではのものと考えることはないのかい?」
「虫垂もまた、人間が生まれつき持っているものですよね?」
アリスチィーデスは微笑んだ。
「ロベルト君、それは全くもって違うよ。見当違いも甚だしい。その点において、我々は理解し合うことはないし、お互いが敵同士だと見直すきっかけにもなりかねん」
「ドトール、あくまでも言葉のあやですよ。友人……、それに敵。しかし事実として言えることは、我々が抱いている人生に対する概念は全く正反対なものだということです」
アリスチィーデスは葉巻を噛み、それを口に咥えたまま尋ねた。
「ロベルト君、君はこれまでこんなことを考えたことがあるかい? もし君が今の私と同じような立場にあり、同じ状況に生きていたとしたら、君は一体、どのような考えを持つだろう、と?」
「我々一人一人は実際に何を食べて、どの地位にあるのか、それに従って考えを巡らすものです……。その点について、あなたは同意していただけますか?……」
アリスチィーデスは別の問い掛けをもって、それに答えた。
「君は魂というものを信じていないのかい?」
「ドトール、魂もまた単なる言葉に過ぎませんよ」
「で、君はそれを信じていないということか?」
「もちろん、信じていますとも。それに胃が魂にいかなる影響をもたらすか、その点にも興味があります」
「ロベルト君、君のように話す人間はいづれ飢えに苦しむと考えるべきだ」
「人生において、同じように酷いことが存在します。それは他人の苦しみを自らの肉体でもって感じることです。他人が飢えているのに、自分自身は食べ物を口にしているという自責の念、あるいは他の者たちが住む家も無く、寒さに凍えているというのに、自分はのうのうと屋根の下で過ごしているという自責の念……」
アリスチィーデスは弟のマルセーロのことを考えながら、しげしげとロベルトを観察していた。その二人が敵同士であって、仮に戦地で鉢合わせしたら、互いが極めて似た者同士であるということを悟ることなぞ可能であろうか? 教義にかぶれ、偏屈で、メシアじみたその二人が……」
まさにその時、秘書が執務室に入って来た。
「ドトール、あなた様が探すよう命じていた住所が分かりました」
「ああ……」
アリスチィーデスは半ば当惑を感じた。なぜならロベルトに自殺した娘の家族に金を送ることを知られたくなかったからだ。それは自らの徳を見せびらかすことになりかねない。
「結構だ。後ほど話そう」
ロベルトは立ち上がった。
「さてドトール、インタビューの質問票の回答を編集部にお送り願います……」
記者と握手を交わしている時、アリスチィーデスは言った。
「我々一人一人、それぞれ真実というものを持っている……。あるいは、そのようなものは皆無かもしれん。だからと言って、それが互いに歪み合う理由とはならんよ」
「全く逆ですよ。私自身の最大の望みは、全ての人間が互いに良き友となることです」
ロベルトはその言葉を口にしたことを後悔した。そうした言葉こそ、これまで自分がとって来た行動に対して和解を促すもののように相手の耳に届きかねないと考えたからだった。しかしながら自分自身、いかなる合意も、和平の痕跡すら残さず、この場を立ち去るべきであると考えていた。ロベルトは帽子を掴むと、戸口の方に向かって歩いて行った。
「ロベルト君、君と話せて楽しかったよ。もし何か必要なことがあれば、遠慮なく言ってくれたまえ」
アリスチィーデスは扉を閉めると、どことなく居心地の悪い、奇妙な感覚に囚われながら執務室に戻って行った。あのような思考を持つ若者の存在が自身の心の琴線に触れたのだった。そう、漠然とした控えめな願望、今一度、別の道を辿って人生をやり直したい願望がアリスチィーデスの心に芽生えて来た。再び二四歳に戻る! アウレーリオのことを思い出した。息子は何とロベルトと違うことか! 実際、奴ははちゃめちゃな時を思う存分満喫している……。スピードに、刺激の強い快楽に、手間暇のかからない手っ取り早い成功に夢中になっている。
静寂の中、アリスチィーデスは再び冷たく、不動の存在に気がついた。視線を上げる。その先には聖職禄受給者のしかめ面があった。会話は全て耳にしたぞと言わんばかりの雰囲気を漂わせて……。
アリスチィーデスは秘書を呼び、彼女が姿を現わすと言った。
「封筒に一〇〇ミル・レイス入れて、自殺した娘さんの家族に送ってください。送り主の名を書く必要はありませんから」
突如として良い気分になった。しかしながらロベルトの姿が脳裏に浮かび、その気分に干渉し、台無しにした。アリスチィーデスは机を拳でドンと叩いた。あの娘の自殺は私に悪運をもたらしたことは確実だ。
正午になるほんの少し前、ジュッカはノリヴァルのオフィスに息急き切って飛び込んで来た。汗みずくで、顔は真っ赤で、帽子のつばは頸にだらりと垂れ下っている。髪の毛は風に吹かれ乱れ放題で、半ば口を開きゼイゼイと息をしていた。椅子にドッと倒れ込むや、ノリヴァルの方を見た。
「で、老ジュッカ、首尾の方は?」
相手はそれに答えなかった。彼の目には、「あんたは俺を厄介事に巻き込みやがって」といった、愛情に満ちた非難の光が見え隠れしていた。顔は汗でテラテラと光り、顎髭は先ほどにも増して黒みを帯びていた。ノリヴァルは不安そうにじっと相手の返答を待っていた。
「それで、首尾の方は?」
再びそう繰り返し問うた。
それに対する唯一の返答でもあるかのように、ジュッカは上着のポケットに手を突っ込むとそこから札束を取り出し、それをテーブルの上に放り投げた。同様に反対側のポケットにも手を突っ込むと別の札束を取り出した。
「各株券当たり、一コントで売り払うことができた。そこに売り上げ分の札束がある」
そう言うと、ホッと溜め息を漏らした。ノリヴァルは目の前に積み上げられてある札束を凝視していた。ジュッカに限ってやり損じることはないということは重々承知していた。奴はいつだって期待に応える、頼りになる猟犬なのだ。獲物の臭いを嗅ぎ付けるだけではなく、獲物を確実に捕え、完璧なまで無傷のまま口に咥えて持ち帰って来るのだ。老ジュッカはまさに戦の申し子だ!
ジュッカはぼんやりとした様子で人差し指で鼻をほじっていた。ノリヴァルは時計を見やった。
「私と昼食でもどうだ?」
「無理だ。家では俺の帰りを待っているからな」
「ジュッカ、あんたに話したいことが山ほどあるのだ。とても深刻な話だ」
ジュッカは苛立たしげに何事かブツブツと呟いた。
「一度、その金を数えてくれ」と、ジュッカ。
「数えるって? 一体、何のために? あんたは数えなかったのかい? 一二コントだろ?」
ノリヴァルは五〇〇ミル・レイス紙幣を二枚つまむと、それを札束から引き抜き、ジュッカの方へ差し出した。
「それはどういった了見だ?」
「手数料だ」
「馬鹿なことは止せ」
「ジュッカ、取れよ」
「俺は要らん」
「妙な屁理屈をこねるな。さあ、取れ」
ジュッカは黄ばんだハンカチで顔を拭った。
「俺は手数料なぞ要らん」
「だがジュッカ、お前には必要だ。服を買ったり、お前が必要だと思うもののために使え。さあ、取ってくれ」
ジュッカは一瞬、躊躇した後、紙幣を掴むとそれをしわくちゃにして不器用そうにポケットに突っ込んだ。
「ジュッカ……」
「何だ?」
「小銭を持っているかい?」
「いくらだ?」
「三ミル・レイスほどだ……」
「それが入り用だと言うのか?」
「いいや。よく聞けよ。お前は理髪店に行って髭を剃れ」
ジュッカは手で顔を撫でた。
「一体、何のために?」
「お前は髭が伸び放題だぞ」
「そんなこと大したことか!」
「ジュッカ、行けよ。髭を剃ってその後、一二時二〇分に商業会館のレストランで落ち合おう」
「何のために?」
「お前は私と昼食を取るのだ。お前に語るべき深刻な問題があるからな」
「あんたがこれまで語った事柄以上に深刻なことか?」
「ああ、そうとも」
ジュッカはあんぐりと口を開けた。目は驚きで見開かれている。
「まさか、あんたはあの馬鹿げたことを考えていまいよな?」
「馬鹿げたこととは?」
「リボルバーだ……」
ノリヴァルは頭を横に振った。
「ジュッカ、それはない。安心してくれ。俺は自殺を企てるような人間ではない。お前が知っている通りな」
「確かに、あんたには不向きなことだ」
「ジュッカ、だからあの銃を返してくれ」
「馬鹿なことを考えるなよ……。だが、どうしてあんたは銃が必要なんだ?」
「ジュッカ、こっちに寄越せ。お前は銃を所持する許可を取っているのか? 取っていないだろ。そうなると捕まることになる。さあ、こっちに渡せ」
ジュッカは少し戸惑った後、ズボンの後ろポケットから銃を取り出すと、テーブルの上にそれを置いた。
「さあジュッカ、行け。髭を剃るのだ。髭を剃ることによって、より良い生活が待っているぞ。髭を剃ることで、今まで以上の薔薇色の人生になること請け合いだ。じゃあな、ジュッカ。会館のレストランに一二時二〇分だぞ。良いな?」
そう言うノリヴァルの声には優しさと愛情が込められていた。そう、ジュッカが抗し切れない嘆願とも言えた。巨躯を椅子から持ち上げると、友の方を斜交いに見やり、体を翻すと戸外へと出て行った。
ノリヴァルは紙幣を数えることなく、それをポケットに滑り込ませた。そして秘書を呼ぶと言った。
「今日の午後は出勤する必要はありません。私は日曜と月曜、ベレン・ノーヴォで過ごすことになると思います。もう行ってもよろしい」
ノリヴァルが秘書を呼び止めた時、彼女は部屋を出て扉を閉めかけていた。
「サラさん、これを受け取ってください」
二〇〇ミル・レイスの紙幣を一枚、彼女に差し出した。秘書は驚きで目を真丸に見開いた。
「ノリヴァルさん、これは一体、どういったことですか?」
「小ちゃな感謝の気持ちですよ。今日、良い取引きができましたので、これで靴下でも買ってください……。さあ、どうぞ」
秘書は感謝の言葉をモゴモゴと口にすると部屋を出て行った。突如としてノリヴァルは感情の昂りに襲われた。リンダに現金二コントを残しておく。モンテビデオから月々、幾ばくかの仕送りを送る。全く気の毒なこった!
執務机の抽斗を開けると、書類を無我夢中に破り始めた。脳裏には逃避とフロリッパの隠れ家で過ごすであろう小麦色の肌の娘の肢体が変わるがわる、目紛しく浮かんでは消えて行った。
塔で、サンチィアーゴ家の面々は昼食のテーブルを囲んでいた。トニオはジョアーナ・カレフスカの埋葬に立ち会った今朝の出来事について語っていた。
「ジョアーナの婚約者が私に語ったところによれば、彼女の父親もまた自殺したと言うことだ。私はその父親の名を発見した。さらに彼の家系図も辿ってみた……。父親の名はジャン・カレフスカだ」
リヴィアはスープを給仕していた。子供たちの目はじっと父親に注がれている。少し間を置くと、トニオは先を続けた。
「私はそのジャンの友人の一人と、のらりくらりとだが話しを交わした……。その友人何某はサン・ジョアンで貴金属店を営んでいる老人だった。彼が私に何を語ったか、お前たちは想像できるかい? 彼曰く、『私が考えるに、ジャンは自殺したんじゃない……。奴のかみさんに、あんたの旦那は殺されたんだよ』と、わしは常々言っておるよ」と、言うことだ」
リタの瞳はキラキラと輝いている。ジルはぼんやりと天井を見つめている。ノーラはと言えば、皿を受け取る手を上げたまま微動だにせず、父の方を凝視し話の続きを待っていた。
「ノーラ、お皿を受け取って!」と、リヴィアが促した。ノーラはハッと我に返り、ジルに皿を手渡した。ジルはそれを父の方へと差し出した。再びトニオは口を開く。
「そこで私は彼に尋ねた。『でも殺されたって、どのように、一体、誰に?』とね。その男は肩をすくめると、次のように答えた。『ジャンは陽気で、いつだって生き生きしていたものだ。ある日のこと、奴がおっ死んでるのが発見された。亡骸の側にはカシャッサの瓶が転がっていたと言う。その瓶の内容物を調べたところ、ヒ素が混入していることが分かった』、と。『だが、そのジャンなる男は遺書のようなものを残さなかったのですか?』と、私は尋ねたよ。『何も残さなかったようだ』と、その男は答えた。『では警察はどのような理由で、彼が自殺したと断定したのですか?』と、私。『奴さんが死んだ日の午前中、工場の同僚の一人に、わしはこれから長旅に出かける。そしてここには二度と戻って来ん、と別れの挨拶をしたと言うことだ』と、その男」
「シャーロックさん、スープをどうぞ!」
リヴィアは微笑みながらそう言った。トニオは心ここに在らずといった具合にスプーンを手に取った。
「話がますます魅惑的になって来た」と、ジル。
ノーラが口を開いた。
「お父さん、その後どうなったの?」
「もちろんその後、私は工場の同僚とやらに会って、彼と話したとも。彼は貴金属店の店主が語っていたことをそのまま繰り返し口にし、さらにそのジャンが死ぬ間際に何者かに執拗に追われていたと……。遺産を巡ってね……。ヴァルソヴィアなる、富裕な商人の息子がそれに噛んでいて、遺産に目が眩んだ其奴がジャンを殺してしまおうと企んでいたと言うことだ……」
リタは両手を擦り合わせた。
「何とも酷い話ね!」
突然、頭に一つの疑問が飛来し、尋ねた。
「お父さん、それは実際に起こったことなの、それとも小説の世界での出来事なの?」
「他の人たちが実際に起こったことをありのままに証言していることから、それが実際に起こったことだと考えるのが妥当だよ」
ジルはそう説明を加えた。
「話の終わりに、その工場の同僚とやらが意味深長な事柄をつぶさに語って聞かせてくれた。その内容はこうだ。ある日のこと、その同僚がタイムカードを押している時に、ジャンがこう尋ねたそうだ。『なあ、ヒ素は瞬時に生き物の命を奪うことが可能かね?』と。同僚は不審に思い、こう尋ねたそうだ。『……どうしてそんなことが知りたいのか?』と。ジャンは『別に大したことじゃない。ただそれを知りたかっただけだ。家には沢山ネズミがいるからな』と、答えたそうだ」
「それで、そうした話全てから結論を導き出すつもりなの?」
「まだ結論を導き出すには時期尚早だな……」
「調査を続けるのね?」と、リヴィア。
「もちろん。今日の午後、インペリオ・ビルのエレベーター係の男と話しをするつもりだ。その前に“ロージャス・アメリカーナス”に足を運んで、ジョアーナの友人であった玩具売り場の店員レジィーナとかいう娘さんと話しをするつもりだ……」
リヴィアが口を挟んだ。
「ところでトニオ、あなたにお願いしたいことがあるわ。そこで買い物をお願いできないかしら……」
リヴィアは日曜日の復活祭を祝うため、チョコレートでコーティングされた卵形のボンボンを調達しなければ、と考えていた。子供たちが成長した今日であっても未だ、彼女は“ウサギの卵”が盛られた巣という季節限定のサプライズを用意することを忘れなかった。それは何にも増して、特別なことであると考えていた。復活祭の日曜日に、かつて子供たちが浮かべた驚嘆と歓喜の表情を思い起こした。さらには自分自身が子供の頃感じた、同様の感覚も思い出した。今や世界は酷い有り様となり、技術が過剰なまでに進歩し、人々の魂が失われつつあるとは言え、そのような甘美たる伝統は維持し続ける必要があるのだ……。
「リヴィア、買い物リストを作ってくれないか……」
「お父さん、私も買い物をお願いしても良いかしら? 安価なものよ」と、リタ。
「何だい?」
「ヘアピンをお願い。お父さんの好みに任せるわ……。良いかしら?」
トニオは「分かった」という具合に頷いた。
「今朝、往来で耳にしたことなんだけど」と、ジル。
「警察はそのジョアーナ・カレフスカの件で手掛かりを求めて動いているそうだよ。小耳に挟んだ話によれば、彼女をたらし込んだ奴によって殺害されたと言うことだよ。お父さんはその仮説を受け入れるかい?」
トニオはゆっくりと頭を横に振った。
「いいや、それはないと思う。なぜなら今日、警察署で娘さんが残したメモ書きをこの目でみたのだから。そのメモ書きの文字と彼女が私に送り付けた手紙のそれとを見比べてみた。その両者の文字は同じ人間が書いたものだった。それに疑いの余地はない。そのメモ書きに、彼女は明確に“自殺”について仄めかしていた」
「そのメモ書きには宛名は書かれてあったの……?」
「もちろん。宛名はパウロ・エドゥヴァルドだった」
オルテンシィアが厳かな雰囲気を漂わせて部屋に入って来ると、黙ったままスープ皿を下げ始めた。リタは窓の外の連なり、広がる丘々に目をやりながら、恋焦がれている男性のことを考えていた。光り輝く地平線に対峙するかのように、威厳溢れる頭と、細面で小麦色の肌の顔が目に飛び込んで来た……。
その同じ時間、グランデ・ホテルの食堂でマリーナの目の前に現われたのは、その同じ顔だった。ベルナルドはどことなくそわそわした様子だった。演奏会に対する、それともお茶会に対する、あるいはファンに対する期待感からだろうか? あるいはそれら全部か? マリーナは予期せぬ食欲に襲われ、食事を口に運んでいた。それが何だか分からないが、何とも言えない喜びに満たされ、これから過ごす何物にも束縛されない午後の時間のことを考えていた。特に行き先を決めず外出し、公園や庭園、広場、郊外へと足を運ぶ……。芸術や、自分の夫の職業とは無縁な場所ならどこだって良い。自分自身が“国内屈指の大作曲家ベルナルド・レゼンジの妻にして、その秘書”ではなく、ただ普通のどこにでもいるような人間と見なされる場所に身を置きたい。娘のジィシィーニャに思いを馳せ、未だ彼女が生きていて、自分の横にいることを想像できるような場所に……。窓越しに金貨を散りばめられたかのようにキラキラと輝く川の一部が見えた。くすんだ光に満ち、瑞々しい風が吹き抜ける。そんな朝は何とも形容し難い、奇妙な心の震えがもたらされ、心の奥底で眠っていた欲求が呼び醒まされるのだ。目覚めてからかなり時間が経った後になって初めて、昨晩見た夢のことを思い出した。その夢の中では、全く面識のない一人の男性が私を愛撫していた。どれだけ頑張っても、その夢の中の謎の男が誰なのか分からなかった。もちろん、その男はベルナルドではない。この自分と関係のある人間では決してない。しかし私の欲望を呼び醒ます男であることは間違いない。不思議なことに目覚めた時、体の中に黒々とした欲望に満たされていたのだが、夢で見たイメージはすっかり消え去っていた。
「このオリーブは何とも酷い代物だ!」
グリーンサラダに味つけしながら、ベルナルドはそう不平を漏らした。夫は彼、ベルナルド・レゼンジがポルトガル産や、スペイン産の良質なオリーブが盛られたサラダを食し続けることを妨げんがために、戦争が引き起こされたと考えているに違いない。そうマリーナは考えていた。何と悲しむべき、恐るべきサボタージュだとも!
ベルナルドは細心の注意を払って食事を口に運んでいた。そう心の目でそれらを見やり、仔細に観察し、コメントを垂れ、指摘しているようであった。緑色のレタスは“コブラ・ノラート”の瞳を思い起こさせる。彼女は丁度、リハーサルの最中の正午に電話を寄越した。女性特有の魔性が電話口から聞こえる声に込められていて、逢い引きを約する言葉には淫靡な響きが認められた……。茶会はきっと目も見張らんばかりの華麗な時となるだろう。ベルナルドにとって、これまで催された茶会時の記憶はぼんやりとした官能的色調を帯びていた。自分を取り囲む女たち、意味ありげな眼差し、それに温かい気配り……。日が暮れ、夜には拍手喝采の栄光に浴し、劇場は人々の熱気溢れる中、大いなる誇張と勇ましさが込められベートーベンの〈交響曲第五番〉が演奏される。〈亡き王女のパヴァーヌ〉(娘デシィーニャの思い出に敬意を込めて、マリーナのために特別に選だ曲だ)がそれに続く。そして演奏会の最後には、自作の組曲が演奏される。緻密に形式化されたセルタネージョ[奥地の歌謡]を取り入れたことにより、聴衆の愛国心が喚起されるのは確実だ。併せて、私自身の慈悲深さ、さらには豊かな情緒を感得するはずだ……。再び“コブラ・ノラート”が脳裏に姿を現わした……。恐らく、彼女のキスは冷え冷えとしているだろう。
マリーナは午後の逃避と夢の中に現われた男のことを考えていた。しかし今、彼女の心を占めているのは郊外のみすぼらしい掘立て小屋の中で、四本のロウソクに囲まれ、棺に横たわるジョアーナ・カレフスカの姿だった。幸いにも、そうした執拗な妄想からも逃れることができた。ジィシィーニャを二度目の死から救ったのだ。今日はほとんど幸せな気分であると言える。しかしその幸せな気分も不安でぐらぐらと揺れ動いている。そう、自分は人間味溢れる、生命に満ち満ちた接触を欲しているのだ……。カノーアスに向かって飛ぶ黄色の飛行機を見やった……。
“商業会館”の七階にあるレストランの窓際席に陣取り、ノリヴァルはマリーナが見ていた同じ黄色の飛行機に一瞥をくれた。逃避のことに思いを巡らす。テーブルの反対側で、ジュッカはしばし彼のことを困惑した様子で見つめていた。そして友人が開けるように命じた“クリクオ”のシャンペーンボトルを痴呆のように凝視していた。ノリヴァルは空から目を逸らすと、口許にグラスを持って行き、一口でそれを飲み干した。
「それが今、私が直面している問題だ。国外に移り住む以外、取るべき手段はない」
ジュッカは黙したままだった。
「あるいは刑務所にぶち込まれるかだ。ジュッカ、さあ食べろよ。ここのマヨネーズサラダは最高だぞ」
「ここの昼食代はいくらだ?」
ようやくジュッカは口を開いた。
「三〇〇か……、あるいは四〇〇か……。だが、それがどうしたと言うのだ? あんたが知っての通り、私は貧乏人ではない」
ジュッカは心ここに在らずといった具合にフォークを弄んでいた。
「それで、その後どうするのだ?」
「その後とは?」
「そこにいる間……、あんたの商売や妻はどうするのだ?」
ノリヴァルは肩をすくめた。
「ジュッカ、私は幸運の星の下に生まれたのだよ。あんたも知っての通りな」
「しかしリンダや……チィルダが気の毒でならん……」
「ジュッカ、彼女たちの面倒を見て欲しい。私はあんたのことを信頼している」
ジュッカは頭を横に振った。
「リンダには五コント残しておくつもりだ」と、ノリヴァルは嘘を付いた。
「で、その後は?」
「神のみぞ知るだ」
「未来だけか?」
「過去というものは存在しない」
そうした全ての言葉はジュッカの心を激しく揺さぶった。彼は友人が直面している状況はまさに破局だと見ていた。
「ジュッカ、食べろよ。誰も死にはしない。勇気を得るためにシャンペーンをグッとやれよ」
レストランに男たちや女たちが続々と入って来た。給仕係がテーブルを行き来している。ジュッカは下方の波止場に立ち並ぶ、灰色に染まる倉庫の屋根を何を見るでもなく見つめていた。
「ジュッカ、今日の午後、何かやる予定があるか?」
「子供たちとアポロに行く予定だ」
「今、何を演っているんだ?」
「シリーズものだ……。〈仮面の騎士〉だ」
「ジュッカ……、友のためにもう一肌脱いでくれないか」
聞き手はフォークを中空に止めたまま、じっと待っていた。
「何だ?」
「映画に行く予定は駄目になるが、私が旅するための車を手配して欲しい。金は渡すから……、ガソリンを満タンにして、タイヤの空気圧を点検して、オイルを足すように言ってくれ……。それからガソリンのリザーブタンクを購入して、トランクに詰め込んでおいて欲しい。全て準備万端に整えて欲しい。そう言ったことは、あんたは私よりずっと詳しいはずだ」
「もう、嫁さんには話したのか?」
「いいや。最後の最後まで言わないつもりだ。そうだなあ、劇場から帰宅した時……、私が荷造りをしている時に話すつもりだ」
ジュッカはゆっくりと頭を横に振った。あまりの衝撃に打ちのめされたためか、顔が一瞬にして老け込んでしまったかのようだった。額には滝のように汗が滴り落ちている。
「それでジュッカ、私のことを尋ねる者がいたら、できる限り、そう少なくとも月曜日までは私のことを隠しておいて欲しい。サン・レオポルド……、あるいはペロッタスに行ったとでも言っておいてくれ。火曜日には、皆は事実を知ることになるだろう。あんたは何も知らなかったと決め込めば良い」
ノリヴァルは煙草に火を点けた。ジュッカは友の手が少しも震えることなく、いつも通りであることを確認した。何と肝っ玉の座った男だ!
「ノリヴァル……」
「何だ?」
「そのことは考えに考え抜いたことか?」
「もちろんそうだとも。後悔することは何一つとしてない」
ジュッカは落ち着き払った、晴々とした、そう何と形容して良いか分からないが……、そうした友の顔をじっと見つめている内に泣きたい気分になった。
まさにその時、州高等裁判所判事であるシィメーノ・ルストーザがレストランに入って来た。判事は扁平足の者がやるように慎重且つ一歩一歩確かめるように歩を進め、さらに短躯の男がやるように極端なまで背筋をピンと伸ばした姿勢を保ち歩いて来た。仕事熱心な給仕係は判事に挨拶をすると、彼が腰を下ろせるよう椅子を引いた。シィメーノ・ルストーザはテーブルに就いた。周りを見廻し、口許に笑みを浮かべつつ、頭を軽く振って人々に挨拶した。眼鏡を外すとシルクのハンカチでレンズを拭きその後、ナプキンでナイフやフォーク、スプーンを拭い始めた。給仕係は全て承知していたので、日替わり定食をテーブルに運んで来た。
「ご機嫌いかがですか?」
わずかに外国語訛りの発音で、給仕は判事にそう尋ねた。
「良いとも。で、君はどうかね?」
ルストーザは自身が極めて民主主義的且つ寛大で、慎ましい人間であることを褒め讃える者のように、心の中で自らの肩をポンポンと叩いた。
「昨日、自殺した娘さんのことを何か耳にされましたか?」
給仕は立ち止まり、身を屈めると小声で呟いた。
「ああ、もちろんです。私はその娘さんの家族を知っています」
「何とも衝撃的な出来事でしたね」
自身がその出来事の目撃者であると口にしたくてうずうずしていたが、同時に一旦、そのことを口にすることによって警察沙汰に巻き込まれることになりかねないという恐怖心があった。
「私は全く驚いていませんよ」と、給仕が言った。
「彼女の父親は自殺していますし、家族は皆、精神状態が正常とは思えません……」
「そうなのですか?」
判事は首を傾げた。
「それでは犯罪ではない、と君は考えているのですか?」
「ドトール、もちろんそうです。私は彼女の母親と話しをしました。それによれば、娘さんは全てを書き記した手紙を残したと言うことです。私の率直な言動をお赦しください……。ある男が彼女に酷い仕打ちをし、妊娠させたと言うことです……。ドトール、申し訳ありません」
「何とも恥知らずな奴だ!」
シィメーノは声のトーンを落として、心に秘めていたことを打ち明けた。
「ねえ君、私はこの目でその出来事を目撃したのです。丁度その時、私は庭にいました」
そしてどのようにそれが起こったのかを仔細に語って聞かせた。
「お母さん、でも本当にその女の人は飛び降りたんだよ!」
その同じ時間、セッチは自宅の食堂で金切り声を上げ、そう言い放った。トリピーニャ以外、皆が昼食の席についていた。
「さっさと食え、そして黙りやがれ!」と、父親が命じた。
セッチは肩をすくめると、音を立てて水っぽいスープを啜り始めた。誰も僕の言うことを信じてくれない。お母さんは真面目な人間だ。お父さんはいつだって僕の頭をどやしつける。最良なのはこれ以上、何も口にしないことだ。アンジョのことを、バラライカのことを、ミゼーリアのことを、さらには今夜の取り決めのことを考えた。両親の手前上、自分は行くまいと決めていた。しかし一旦、戸外に出ると、仲間たちと共に行動したいと感じる。思う存分、菓子を喰らって、沢山の煙草の箱を目にする……。庭にはきっと薔薇が咲いているだろう。赤い薔薇はお母さんにあげよう。「お母さん、プレゼントだよ。お母さんのために持って来たんだ」。「あんたは良い子ね……」。セッチは食卓の上に置かれたブリキ製の皿に盛られたシャビシャビのフェイジャン[豆の煮込み料理]を見つめていた……。突然、すっくと席を立った。
「どこに行くんだい?」と、母が尋ねた。
「そこいらを歩いて来るよ。すぐに戻るよ」
セッチは戸外に飛び出すと家の周りを一周し、いつもならそのようなことをやることはないのだが、奥の生垣の方へと近づいて行った。そこで空を仰ぎ見、目を閉じて、天頂に輝く太陽を見つめてしばし立ち尽くしていた。
バヘイロ家の午餐室の装飾は質素且つ古めかしい嗜好が見て取れた。浮き彫りが施されたジャカランダ材のロココ式の調度品はどっしりとした荘重な様相を醸し出していた。戸口に吊られたビロードの緞帳は葉巻色で、カーペットや壁紙もそれと同じ色調が採用されていた。ガラス器収納棚の上部には、金の大皿に盛られた夜露に濡れる房つき葡萄が描かれた巨大な油絵が飾られてあった。漆喰が施された天井からは、半ば燃え尽きた太いロウソクを模した灯火が散りばめられた木製のシャンデリアが吊るされている。椅子は座部が革製で、背の高い背もたれはハンドメイドで、それは聖職禄受給者が存命中に購入されたものだった。壁に沿って設られた皿棚には、四枚の古い銀製の丸い盆が一列に並べられてあった。
時は正午で、陽の光が裏庭に面した窓に架けられたカーテン越しに差し込んで来ている。しかしその光もどこか訪問者のごとく礼儀正しく、はにかむように入り込み、煌めき、光の乱反射とは無縁な空間に溶け込んで行った。
アリスチィーデスはその午餐室が好きだった。その部屋はどこか守られているかのような安らぎと心の落ち着きを与えてくれる。それは歓喜でも、心躍るものでもない。どちらかと言うと、心の安定のごときものがもたらされ、自然と敬意の気持ちを抱かさせられ、同時に抱擁されているような感覚を味合わさせるられる類いのものだった。それはまさにモエマの家で感じる、他愛のない優しさと同種のものだった。
マルセーロもまた、ビロード類や皿、ガラス食器の数が少ない方が好みではあったが、その午餐室に漂うある種の威厳を感じ取っていた。自分自身、素朴且つ修道院的な質素さを有するものに対して、隠すことのできない偏愛を持ってはいたが、黒みを帯びた重量感のある調度品や、黄昏色の布類に安らぎを覚えた。食べるという行為は半ば人目を忍んで行うべきであると考えていたマルセーロにとって、午餐室の薄暗がりは決して居心地の悪いものではなかった。これまで一度としてレストランに足を踏み入れたことがなかった。テーブルで口一杯に食べ物を掻き込み、唇は油でテラテラと光り、獣のようにガツガツと貪り喰う大食漢を目にすることほど不快なことは他になかった。公然と、自らの食欲旺盛ぶりをひけらかす、厚顔無恥な輩に苛立ちさえ覚えた。同時に自らが抱くそうした苛立ちや、不寛容さに対しても腹が立った。神に対して謙虚且つ思い遣りの心を持ち、怒りを避ける力を授けてくれるよう嘆願した……。同時に寛容さ、あるいは寛大さに溺れることがないよう、力を授けて欲しいとも願った。
皮肉且つ楽しげな目つきでキムは午餐室や、食卓、そこに集う人々の様を眺めていた。そこでの食事は常に形式張った作法が欠かせなかった。彼は納屋であれ、台所であれ、石の上、あるいは格子戸の長柄に脚を広げて腰掛けて食事ができれば御の字だと考えていた。シュハスコはタマゴノキの陰、あるいは荷車の下で喰ったら美味くないと言われている。屋敷の食卓は自らの規範や避けるべき習慣からすると怒りを覚えさせ、時折、意図的にそこでの馬鹿げた取り決めを破りたい衝動に駆られた。ただ単純に食べるという行為のためだけに、なぜそれほどまでの“豪華な”空間に身を置く必要があるのかどうしても理解できなかった。「動物たちでさえも食べる」。皆がそう口にするのが常だ。馬も、猫も、ヒヨコも、豚も同様にだ。アダムはナイフやフォークを使ったか? エバはナプキンを知っていたか? しかしながら、地上に住する人類は“強靭且つ壮健”そのものだから、全くもって驚きだ。
その土曜日、“聖職禄受給者の屋敷”での昼食は特に静寂に沈んでいた。そこでの食事はいつものことだが、活気に溢れることは決してなかった。いくらアウレーリオやアリスチィーデスが競馬や、政治、商取引き、人生について話題を提供し、皆を楽しませようとしても、そこに漂う単調さを打ち破ることは決してできなかった……。
ヴェロニカは紛れもなく正に、食卓の中心に君臨していた。そこに集う人々の注目を一点に集める、そう磁石が全てを引きつけるがごとき存在であった。キムは斜向かいの席に座る義娘に皮肉を含んだ、どことなく敵意を帯びた視線を常々、向けていた。決してそれを口に出して言うことはなかったが……。ヴェロニカの側にある皿や料理を取り分けたい時などは、隣の席の孫をツンツンと突き、母親に「わしは肉が欲しい」と言ってくれと頼んだ。アリスチィーデスは時折、妻の顔に和らいだ表情や、愛情、あるいは容赦の痕跡が表われていまいかどうかを確かめるために視線を向けた。妻の前にいると、自分は劣等感を覚え、蔑視されているように感じられた。あたかも髭を剃らないまま、汚れた手で食卓に就いているような感覚に襲われた。アウローラは年相応の慣習に従い、動作や言葉遣いに対して許可を乞うがごとく、しばしば母親の方に目をやった。“全てが順調に行っている”ということを一つ一つ確認するかのように、アウローラは絶え間なく母親から注意を促される。
「テーブルに肘をつくのはお止めなさい」
「ナプキンで汚れた手を拭うのはお止めなさい」
「野菜をもっとお食べ」
今、この瞬間もいつものことながら、肉にかけられたソース、あるいはコップに付いた雫を拭ったためかナプキンは濡れていた。それを目にするやアウローラは気まずそうに、本能的にさっと母親の方を見遣った。
アウレーリオはここ最近、スポーツマンシップと恭しさを込めた言動に終始していた。そこに僅かな礼儀正しさと感知し得ない皮肉を含んだ、一種の愛情のごときものが表われるよう苦心していた。母ヴェロニカが有する主義、つまり社会的規範に基づく振る舞いや、階級制度に裏打ちされた感覚を自らが実践することはなかった。彼自身、道理に外れない範囲で、母に叱責された場合も決して口答えをしなかった。母が始終、自分に対してする非難や叱責、あるいは様々な助言に対して、「それは全くもってその通りだ」と同意し、口許に笑みを浮かべ、母の額にキスをするのだった。
食卓で常々、タブーとされている話題、例えば各人の人生や欲求、世界に密接に関係した事柄等が持ち上がり、議論に花が咲いた。だからと言って、それは反駁精神、あるいは悪ふざけに拠るものではなく、自然に生まれ来るものだった。家訓を打ち破るがごとく、いかなる話題にも飛び付いて来る祖父に小声で話を持ちかけることも稀ではなかった。
昼食は半ばに差し掛かっていた。召使がお盆に料理を載せて、午餐室に出たり、入ったりしいている。その足音はぶ厚く、柔らかいカーペットのため打ち消される。そこに集う六名の間には何とも居心地の悪い、深い沈黙が漂っていた。自発性を完全に失い、罪悪感がアリスチィーデスを雁字搦めにしている。アウローラの頭の中にあるのは、自分の髪型のことのみだった。食欲を、会話を交わす欲求を削がれたことにより苛立ちが募り、陰鬱な気分に陥り、沸々と湧き上がる憤怒で胸が一杯だった。そうした静けさの中、アウレーリオは頭を垂れ、わずかに唇を開き、そこから笑みを漏らしてじっと皿を見つめていた。悪意に満ちた光が瞳に宿っている。彼が考えていたことは……。自らの心の内に秘められたる情欲と、ここに集う極端なまでに口数が少なく、他人に気兼ねした面々の脆弱さについて考えを巡らせていた。そう、それはあたかも互いに見ず知らずの旅人で、素早く食事を済ませるためホテルの食堂で顔を合わせるのとどこか似通っていた。父がモエマのことを考えているのと同様に、この俺も彼女のことを考え、このポケットにある金を父同様、彼女に貢いでいる。母の思考の中にもモエマが存在した。しかしそこには大きな違いがある。自分が今、心に抱くモエマには全身が備わっており、香水の香りを、実際に彼女に手を触れた感覚をありありと思い起こすことができる。対して、母の思考の中にあるモエマは名だけの、見知らぬ“一人の女”に過ぎない。アウレーリオは自らの思考の中で躍動するモエマに微笑み掛けた……。モエマは同時に三人の人間を挑発している。三人か? いやいや! マルセーロ叔父さんもまた、彼女のことを考えている。二人は彼女のことを憎み、二人は彼女のことを欲している。アウローラはそのようなことを知る由もないだろう。
キムは肘で孫をツンツンと突ついた。
「お前は何が可笑しくて笑っているのだ?」
「僕は考え事をしていたんだ……」
ボソリとそう言うと、黙り込んだ。アウレーリオ常々、俯き加減で話しをした。
「何についてだ?」
キムは口一杯に食べ物を詰め込んで話すため、口から発せられる言葉は緩慢且つ消え入りそうだった。
「叔父さんが尋ねられるのが好きな、例のやつについてさ……」
「わしが尋ねられて喜ぶ、例のやつとは、どんなことだ?」
「どんな風にして人間の首をちょん切るのだろう? そのことだよ」
突如としてキムは咳の発作に襲われ、ナプキンで口を覆った。
「このゴロツキめ!」
目は涙に濡れ、額を赤く染め、肩をワナワナと震わせてキムは喘ぐように叫んだ。
「そいつは……」
喉が詰まり、それ以上、言葉を発することができなかった。
アウレーリオは叔父に水が満たされたコップを手渡した。キムは咽ぶようにそれをグッと飲み干した。そして息を喘がせて呟くように言った。
「それがわしに尋ねたいことなのか? その答えが知りたければ、シクッタ・カンポラルゴに尋ねたらよろしい。奴は生粋の首切り人だからな。だが、このわしは違う。いつだって善良な人間だったからな」
涙の幕に覆われたキムの瞳は、どこかプールの底に敷き詰められたアズレージョに似通っているように思われた。
頭を垂れ、マルセーロは何も見ない、何も聞かない、この場所に存在すらしないよう努力していた……。アウローラは兄の悪ふざけに対して、母がどのように反応するのかじっと彼女の方を見つめていた。ヴェロニカの顔には明らかに不快な表情が浮かんでいた。
「アリスチィーデス、その子に構うな」
キムは斜向かいに座るヴェロニカの方を見遣り、続いて息子の方に向き直るとそう言った。そしてアウレーリオの方へと近づいて行くと、声音を変えて再び話し始めた。
「わしがお前に教えてやろう……。まず捕虜を棒杭に縛り付けてな、それから……」
「お父さん!」
アリスチィーデスは声を張り上げた。しかしキムの耳には息子の声が届いていなかった。アウローラはハラハラして、母の注意を逸らす話題を探していた。
「美容師を家に寄越すように言った方が良いんじゃないかしら? この髪型じゃあ劇場に行くことができないもの」
ヴェロニカは「分かったわ」と言う具合に、頭を縦に振った。
アリスチィーデスはマルセーロに他愛のない質問を投げ掛けた。弟は単音節の言葉をもって、その問いに答えた。キムとその孫は何か良からぬことを企む者のようにヒソヒソと話している。
「今となって考えると、カンポラルゴの組織立ては実に見事なものだった……。ボイ・プレットの戦いの時なぞは……」
老キムは歴史的詳細については概ね忘れていた。
「家族の絆で結ばれてはいるが、多種多様な感情と互いに相容れない関心事を持った人間たちが同じ食卓に集うということは実に興味深いことだ」
そう、マルセーロは思った。目の前にいる人々を一人づつ眺めながら、各人の“内面の温度”のわずかな変化、言葉では到底言い表わせない、かろうじて知覚できる程度の変化を感じ取っていた。それぞれの人々はこの自分に、時には冷たく、時には熱く、またある時には生温かい感覚を催させる。共感や嫌悪感、あるいは胸糞の悪い不信感がもたらされることもある。そうした共感や嫌悪感も日常的に、その強さや程度が、“色”の濃淡がコロコロと変わるし、時と場所の状態に従って、多彩なニュアンスを帯びたりもする。さらに言葉や香水、仕事、記憶の影響も黙過できない。
マルセーロはヴェロニカの顔に一瞥をくれた。義姉に対して、控えめではあるが愛情のこもった敬意を抱いていた。彼女と言葉を交わすことが好きだった。二人は共通の考えを持ち合わせており、今、目の前にいる人々の中でヴェロニカは自分と諍いを起こす可能性が最も低い人物であると言えた。しかしながら、彼女が自分の前にいて欲しいという欲求を感じている訳ではなかった。と言うのも、二人の間には精神的な“親密さ”が存在しなかったからだ。マルセーロ自身、兄の妻の魂の中に巣喰う高慢さゆえに、彼女自身、完全なる幸福を享受することはできないと認めざるを得なかった。その高慢さは言葉の隅々に現われる。堅苦しさや、顔に浮かぶ表情、それに常々、抱く何ものに対しても、誰に対しても完全に身を委ねることを欲しない態度こそ、躊躇に裏打ちされたものだと言えた。そのことによって一方において、道徳的立ち居振る舞いという点では非の打ちどころのない淑女となることが可能となったが、他方では、宗教面において深刻な困難を抱え込むことになった。ヴェロニカはミサに足を運び、祈りを捧げ、全てにおいて模範的なカトリック信者として振る舞っていた。しかしながら、懺悔することだけは頑なに拒んでいた。それを拒む原因こそ、自らの中に巣喰う抑え難い高慢さや、全てを剥ぎ取られ、素裸にされるという羞恥心、とりわけ精神的にも丸裸にされることに対する恥じらいこそ、その最大の要因だと言えた。かつてヴェロニカは自分に、ブラジルの伝統的な一族出身の年配の神父や、精神的に洗練された教養豊かな、さらには適切な助言や説明、安らぎを与えることのできる聖職者が、私たちの周りから姿を消しつつあるということは実に嘆かわしいことだ、と語ったことがあった。彼女はドイツやイタリアからの移民出身で、その言葉や身振り、顔つきに植民地時代の消し難い痕跡を残している新任司祭たちの無神経さや、農夫のごとき無知さに衝撃を受けたと言うことだ。
マルセーロは再びヴェロニカを見た。彼女は黒服を身にまとい、食卓の上座で上半身をピンと伸ばし微動だにせず座っていた。髪をきっちりと結い付け、穏やかな雰囲気を漂わせているその様は大昔の肖像画のような印象を受けた。肌はくすんだ象牙色で、黒ずんだ瞼の下にある瞳はビロードが掛かっているようで、耳朶は紫色を帯びていた。その声はベールに包まれているがごとく不明瞭だった。所作、動作は決して性急ではなかった。悲しい時も常に自制と威厳のごときものが垣間見られ、歓喜に満ちている時も決して笑い声を上げることはなかった。マルセーロが思うに、彼女の存在自体、アリスチィーデスのごとき“熱さ”でもなく、キムのごとき“冷ややかさ”を帯びたものでもない。そう、“生温かい”存在とでも言えようか。ヴェロニカはマルセーロがその名を知らぬ、甘い香りの香水で身を包んでいた。その匂いはビャクダンの香りを想起させ、同時に長い期間、木箱に閉じ込められ、その匂いが体中に染みついているのではという、何とも馬鹿げた印象を与える類いのものだった。マルセーロは義姉の中に、心地の良い“中庸性”を見い出していた。彼にとって、中庸といえる人間は金切り声や匂い、所作、あるいは服装によって、過度なまでに人々の注目を集めない者たちのことを言う。そういった人々は相対的に静寂の中で行動し、通常、陽の当たる場所で自らの熱情や欲求、不幸というものを見せることはない。アウローラはどちらかと言うと、母親のごとき“中庸な”人間だ。対して、アウレーリオは父親の気質を忠実に受け継いでいる。
マルセーロは心ここに在らずといった具合にレタスを齧っている兄の方を見た。彼の周りにあるものは可能性と罪悪感を帯びた雰囲気と、好色のオーラーだった。そのアリスチィーデスからは葉巻のヤニと乾いた匂いが入り混じった刺激的な香りが発散されていた。それは世俗にまみれて生きる動物が発する匂いであり、安らぎそのものの匂いであり、肉欲的且つ大地の匂いそのものだった。それら自体、各人の人格や人生模様を定義するのに相応しいものだと言えた。アリスチィーデスは外観的に“繁栄”そのものの様相を呈していた。リンネルのシャツに、品の良いネクタイ、仕立ての良い洋服を身にまとい、念入りに髭が剃られた顔は血色が良く、ふくよかだった。それら全ては、口から発せられる言葉に内包する官能性や、熱気のこもった声の調子によってなおさら強調された。奴は情欲の権化だ。その顔つきは性欲獣のようで、目はギラギラと光り輝いている。マルセーロは子供の時分、兄のアリスチィーデスに対して、賞賛と憧れが入り混じった感情を抱いていたことを思い出した。兄は自分より二〇歳年上で、法学を学び、大都市で一人、自由気儘に暮らしていた……。その後のことだが、新聞に掲載された兄の演説や投稿記事、その他、兄の名が報じられているニュース等を目にし、読むことに快感と誇りを感じていた。かなり後になって、ようやく分かったことは、それら全てが無意味な詭弁に過ぎないということだった。時が経ち、神の存在に近づき、不滅たる真理を知るに従い、より明確に兄の持つ道徳観について理解するに至った。兄に対する賞賛の気持ちは次第に、ありとあらゆる愛情の念を脅かすものではなかろうかという不信感に姿を変えて行った。そしてマルセーロ自身が、「屋敷に住むために、こちらにやって来ないか?」と言う誘いを受けた理由こそ、兄のアリスチィーデスをはじめ、その子供たちの魂の救済のために自分自身、何かしたいと考えたからだった。時折、落胆の淵に沈み、自身の内面に閉じこもり、周りで何が起こっているのかを忘れてしまうことがあった。自分を責め苛んで、これまで生きて来た。そして今、“別の女性”問題に頭を突っ込んでいる兄を見るにつけ、彼に対してこれまで抱いて来た尊敬の念の最後の痕跡が消し飛んだ。五〇歳以上にもなり、髪は白髪混じりになり始めていて、すでに大人へと成長した二人の子供を持つ父親たる者が、年端も行かない娘と同棲できるとは……。そうした考えは馬鹿にも程がある。嫌悪を抱かせる以外の何ものでもない。兄を直視できない。同時に、兄に対する責務、つまりカトリック信者として課されている責務を一旦、放棄すべきではないかと思った。兄のごとく、キリスト教信者としての信念を微塵も持たない者に完全なまでに身を捧げるべきではないと考えたからだ。しかし、そうした魂を救済することこそ急を要する。だが、自身に課せられた責務を放棄することによって、その魂が苦悩に晒されようと、隷属を余儀なくされようと、破壊の憂き目を見ようと、さして問題ではない。
キムは活発に孫と会話を交わしている。今では、闘鶏について話している。マルセーロが抱く父に対するイメージは身も心も凍る冷たい波だった。その波は全ての友人たちの所作を、愛情に満ちた言葉を、善意をも、一瞬にして凍らせてしまう。祈りを捧げる際、こうした状況にあることに自分自身、どこまでの落ち度があるのか、あるいは、これまで和解を遅らせて来たことに、どこまで責任があるのか、と神に問うた。我々の意思を、我々が持ち得る力を超越するものが、この世の中に存在することも事実である。特に人は相手が愛されることを拒んでいる場合、いくら言を尽くそうとも、その愛を相手に伝えることはできない。いづれにせよ、自分自身が直面している問題に肩をすくめ、忘れ去ることなぞできない。その男は自分の父であり、彼の魂の救済に努める義務をこの自分は負っているのだ。親戚や他人に父親の嘆かわしい、老いさばらえた姿を見せないように、そしてその老父が愚行を重ね、さらなる罪を犯さないためにも、できるだけ早く父を天に召して欲しい、と神に嘆願することさえあった。そういったことを考えるといつも耐え難い気分になった。そして今、孫の横で馬鹿げた話をし、愚か者のように振る舞っている父を見るにつけ、父親が訪問者を前に道化のごとく振る舞う様を目にした、分別ある息子が感じる恥ずかしさと同様のものを、マルセーロは感じていた。
アウレーリオはしばしの間、叔父の方をじっと見つめていた。その老叔父が白い顎髭を生やし、猫背で、喘息持ちの本当の祖父であるかのよう想像を巡らせた。間違いなく老叔父は肉体に巣喰う何ものかに蝕まれて、人生は素晴らしく、歓喜に満ち溢れているということを知らずに命尽きるだろう。
アウレーリオは未だモエマのことを考えていた。彼女のキスの味を、肌触りをまざまざと感じていた。自分が今、考えていることを目の前の人たちが知ったとしたら、大変なことになるだろう! 母をしげしげと観察した。母と父との間で起こっていることを知っていたし、もし母が息子もまた、夫が寵愛している同じ女の許に通い詰めていることを知ったとしたらと想像すると、居ても立っても居られない気分になった。そのようなことを考えない方が良い。
アウローラは未だ苛立ちを募らせていた。美容院の愚かな女が髪型をこんな風にしてしまったことを忘れることができない。あいつは私の一日を台無しにしたわ。私は演奏会には行かない。あるいは行くべきか?
「お母さん、私は白色の服か、あるいは青色の服か、どちらを着ていこうかしら?」
アウローラはうんざりとした雰囲気を漂わせ、そう尋ねた。
「黒色の方が良いわ」
ヴェロニカはくぐもった声で、そう答えた。その瞳は漆黒で澄み渡っていて、穏やかな光を湛えている。その声音にはいかなる温かみもなく、視線は人にしろ、モノにしろ注がれることはほとんどなく、中空を泳ぎ、ある一点に定まることは決してなく、そこにいかなる熱情の輝きが宿ることもなかった。口許には高慢ともいえる確信に満ちた、何ものにも動じない強い意志が表われていた。
「じいちゃんは今晩、僕とクリケットの試合に行くよね」
そうアウレーリオは告げた。
「アウレーリオ、あなたは私たちと一緒に演奏会に行くのだろうと考えていたわ」と、ヴェロニカ。
「奴は音楽を聴きに行くような腰抜けじゃないぞ」
ヴェロニカの方を見ることもなく、キムはそう反駁した。それに対して、彼女は唇を引き結んだまま、言葉を何も口にしなかった。瞳にはいかなる感情も浮かんでいない。手入れは行き届いているが、少しばかり歪な形の手でガラス製のベルを掴むと、それを鳴らした。召使が姿を現わす。
「でも、あなたは一体、クリケット場で何をなさるのかしら?」
さほど興味がないように舅の方に向き直るとそう尋ねた。
「もう闘鶏も終わっちまったし……。これから先、革命もないさね」と、老キム。
「革命は今、まさに進行中だとも!」
アウレーリオはふざけるように叔父の方を斜交いに見て、そう叫んだ。叔父を苛立たせるのが、自分は好きだ。それは同時に、この陰気な食卓に活気を与えると共に、奴のウンザリさせられる説教に一矢を報いる手段なのだ。
マルセーロは浮かない表情を浮かべ、頭を垂れ黙ったままだった。アリスチィーデスは口を開いた。
「今朝、私は革命思想にかぶれている青年と話しをしたんだ」
頭を少しばかり傾げて話し始めた。
「その青年の話は馬鹿げているように思われたが概ね、彼の考えに私は同意したよ」
マルセーロは視線を上げた。
「アリスチィーデス、それはあなたが属する階級が持つ最も顕著な特徴だ。何ものにも同意し、神に対しても、悪魔に対してもロウソクを灯す。あなたの主たる目的は一般人の共感を得つつ、思い通りに行かない連中とは肉弾戦を繰り広げるのだ。そうした妥協と利己主義が資本主義の荒廃をもたらすのだ……」
キムは孫の方に頭を傾げると、囁くように言った。
「マルセーロが言っているのは、どういったことだい?」
「まあまあ、コロネル。マルセーロ叔父さんはいつだって“反対”の立場を取るのだよ……」
「アウレーリオ、君は道理に叶っているとも。しかし神に仕える者はこの世界を良しとしてはいけないと言うことだ。つまり私が言わんとしている世界とは、君が愛してやまない世界だ。具体的にはスポーツや車、無益なことに奔走している世界のことだ。そして君のお父さんが信奉している世界はマンモン[“冨”の意]が支配している」
ある一言が今にも、口から発せられようとしていた。しかしマルセーロはぐっとそれを抑えた。鼻腔は膨らみ、瞳が炭火のごとくチラチラと光を放っている。顔は蒼白だった。
アリスチィーデスは堪忍袋の緒がぷつりと切れるのを感じた。この同じ屋根の下に住まう狂信者は何たる不遜なものの言い方をすることか? 遠い昔からの論争欲に火が点いた。しかしヴェロニカの存在と、モエマの件による権威の失墜により、そうした熱意に冷水が掛けられる結果となり、いかなる言葉も発することができなかった。全くもって最悪だ! 自分自身が関わる性の戯れ事とは無関係だとも。全くもってその通りだ。
「マルセーロ、君たち唯心論者たちが唯物論者たちと同じ術法を用いるとは全くもって驚きだよ。プロレタリア階級の連中の常套手段である民衆煽動的策略を駆使してな。結局のところ、資本主義に対して、我々に全ての罪をなすり付けるのは正当なことではない、と私は思う。それに……、お前たちは一体、何を欲しているというのだ?」
キムは目をギラリと輝かせた。アウレーリオもまた自らの内に炎が点るのを感じていた。アウローラは全く無関心の様子だった。ヴェロニカはと言うと、給仕の様に注意を向けていた。
「我々が欲しているものは、ボルシェヴィキたちが提唱している普遍的な社会主義でもなく、はたまたナチスタたちの言う国粋的な社会主義でもなく、当然のことながら、一九世紀に声高に叫ばれた自由主義でもない。我々が欲していることは、人生そのものを威厳溢れる、自然たるものへと回帰させ、人々が物質的な蓄財よりも、尊きものとして神を崇拝し生きることこそ何ものにも代え難い、深遠にして、聖なる意味が込められているということを理解させることだ」
アリスチィーデスは口許にフォークを持って行った。それが全くもって空虚な話であることも熟知していた。マルセーロと議論することは時間の無駄だ。
「だがお前は否定することはできないだろう。自由主義は……」
口の中で食べ物を咀嚼しながら、ヴェロニカの方に一瞥をくれた。妻は食べ物が口の中にある時に話しをする習慣というものを忌み嫌っていたからだ。食べ物を飲み込むと先を続けた。
「……自由主義は世界に……」
しかしながら、マルセーロは兄が言い終わる暇を与えなかった。
「自由主義は資本主義をもたらし、そして資本主義は社会主義の起源となった。社会主義を信奉することはたとえば、感染症と戦うことができるという理由だけで、スルファニルアミドを神として崇めることと同じだ」
マルセーロはそうした比較が好きではなかった。しかし、それをやってしまった以上、手遅れだった。
「わしはカスチィーリョス[Júlio Prates de Castilhos(1859-1933):国家主義を提唱したリオ・グランデ・ド・スル州の政治家]の信奉家だ」
キムは孫にウインクをしながら、そう言った。
「共和制万歳!」
再び咳の発作に襲われた。頬が先程にも増して赤くなり、目は涙で一杯だった。キムはハンカチを口許に持って行くとしばしの間、唾きで濡れた唇と髭を拭っていた。
「社会主義でも、資本主義でもない……」
マルセーロは続けた。
「なぜなら、その二つの主義が掲げる目標こそ、唯物主義の飽くなき追求だからだ。我々、カトリック教徒らが欲していることは、文明に伝統的、精神的意味合いを与え、超自然的価値に目を向けさせ、人類にとって文明は何よりもまず、神聖なものであるということを理解させることだ」
アウレーリオは微笑んでいた。額の傷跡が紫色に変色している。野生味を帯びた美しい顔貌に、健康そのものの白い歯を覗かせ、輝かんばかりの笑みを浮かべ、それが日に焼けた小麦色の肌と見事なコントラストを成している。マルセーロは甥の方をチラリと見た。そして彼の体から溢れ出る生命力や健康さ、獣性、それに横柄さを憎悪しつつ同時に、自らが抱く憎悪に対して強い憤怒を感じた。
「マルセーロが言っておることは、わしにはチンプンカンプンだ」
キムは孫の方に体を向けると、そう述べた。
「わしは田舎の教養のない人間だからなあ」
しかしながらそうした言葉の中には謙虚さも、気兼ねの片鱗も伺えず、むしろ驕りが入り混じった皮肉が込められていた。
「わしが知っていることはただ一つだ。もし神が偉大なら、生きたいという願望はそれにも増して偉大なものだ。それ以外のことは馬鹿げたことだ。そう、わしの祖父は言っておったよ」
アリスチィーデスは活気づいた。
「マルセーロ、お前が知っての通り、私も私なりにだがカトリック信者なのだよ……」
「カトリック信者たるもの、たった一つのあり方、流儀しか存在しない」
マルセーロは言い返した。
「カトリックはいかなる政党でもない。教会は神聖なものだ。そこに決して中庸というものは存在しない。カトリック信者に深い、浅いといったあり方などない。銀行とかが政党のボスと取り引きをするように、神と取り引きをすることは決してできない」
「だが、お前は少しづつでも、そうした問題について学び、大いに注意する必要があるぞ。我々は始終、今のように言葉を濁している訳にはいかんだろ……」
「戯言を重ねているのは、あなたの方だ! 雄弁術こそ全てだと信じているのは、あなただとも」
マルセーロは叫んだ。
「まあまあ! 私はポーカーを信奉するように、そいつを信じているとも。その他のどんなゲームにしろ、他人の好き嫌いに関わらず、私はありとあらゆるゲームを信奉しているとも」
キムは孫にウインクをした。
「奴らはゲームについて話し始めおったわ。話題がトランプゲームになったら、わしの出番だ」
マルセーロは議論の内容を反芻しながら、思考を巡らせていた。そして、間髪入れずに尋ねた。
「今現在、勃発している戦争が前世紀の慢心に満ちた態度や、科学や機械の進歩に対する盲信的な信仰の結果ではなかったとしたら一体、何なのでしょう?」
アリスチィーデスは、「なあ、私をうんざりした気分にさせるなよ。とっとと飯を食って、気分を落ち着かせろ。私はそんなことよりずっと深刻な心配事を抱えているのだ」と、言いたかった。戦争や宗教、哲学なんてものは全て虚構に過ぎん。それらはたとえば、ヴェロニカが私に対する軽蔑や、モエマに対して感じる懐かしさのように、肌身を通して感じるものではないのだ。
マルセーロと議論を交わしたことを後悔しつつも、再び話し始めた。
「詰まるところ、君たちは我々、ブルジョア階級のみに全責任があるということだね。さらに今朝、私にインタビューをした青年は利益追求こそ、あらゆる経済的混乱の原因だと主張した……」
「でも危機は何も経済の分野に限ったことではない」
マルセーロはイライラした様子で身を乗り出した。
「そのように問題を単純化しようとすることこそ極悪、非道なことだ。たとえ我々が馬や豚、あるいはカエルであったとしても、問題の根源こそ胃の問題だと簡略化することはできない」
マルセーロは剣を振りかざすかのようにフォークを高々と振り上げた。
「危険は主として霊的なものだ。人々は神を忘れ、その報いとして戦争が勃発することになる。その忘却は物質的な富の追求や、科学や機械の崇拝、肉体的快楽や安楽への飽くなき欲求、それに金に対する盲信などに如実に表われている。我々が今、生きている時代は精神性が欠如している。いわゆる北米文明はその宣伝手法を駆使して、スポーツ的且つ軽率な人生観を世界中に普及せんとしている。ミュージカル喜劇の精神、無償の行為の精神等々、存在に関するドラマチックとも言える概念は今や完全に忘れ去られてしまったのだ。人生は磨き上げられれた上辺や、単なる装飾、見せ掛けを得た代わりに、尊厳を失ってしまった。そして何よりも悪いことに、偽の哲学を受け入れることになったのだ。世界中を席巻する混乱振りに目を向ければ、私が言っていることがあながち間違いではないということが分かるだろう」
「それで、あなたはどういった解決策を提案されるのですか?」
アウレーリオは叔父にそう尋ねた。
「世界をローマ法王に引き渡せとでも言うのですか?」
「国々の統治権をあんなヘボ神父に委ねるのか?」
キムは自分の得意とする分野に会話を向けさせようと思いつつ、そう付け加えた。
「そんなことではない!」
マルセーロは反駁した。
「社会主義は無神論と同義だ。一方、資本主義を信奉する者は似非の理神論者だ。つまり、ここで言う理神論者とは日々、マンモンに深々と頭を垂れ、日曜ともなれば現世の富を失うことなく、永遠の命が保証されるためにミサに足を運ぶ輩のことを言う。現世での富の蓄積を欲し、同時に来世でそれを引き出すために天に蓄財することを望んでいるのだ」
マルセーロが口を閉じると、別世界で発せられているかのように、アウローラのくぐもった声が聞こえた。
「……とても衿ぐりの深いドレスだわ。モレイラスにやって来たモデルはものすごくハンサムなのよ……」
ヴェロニカは相変わらず、無関心な状態のままだった。彼女の目は何ものにも、誰にも向けられていない。今、目の前で展開されている議論の各人の熱意も、信念も、関心事も、彼女には届いていないようだった。彼女が陣取る場所から召使に命令したり、食卓に集う者たちの要求に応じたり、娘の問い掛けに穏やかな調子で答えたり、あるいは時折、何気なく周りを観察するといった具合だった。
マルセーロは目の前の皿のことも、給仕されている食べ物のことも、自分を取り巻く全てのものをも忘れつつ、さらに説明を加えた。
「私が夢見ている世界とは、精神の中心が教会であり、究極の目的が神たらん世界だ。社会生活は複雑、怪奇なものではなく、社会そのものも、物質よりも精神性を重んじ、寛大さもそこそこ、軽薄さや怠惰を廃した世界のことを言う。修道院的意味合いを持った人生だ。政治家やジャーナリスト、作家、芸術家によって統合されない世界だ」
アリスチィーデスはゆっくりと頭を横に振った。
「マルセーロ、全てがそうであっても、社会主義が凄まじい勢いで領土を広げていることを否定することはできまい」
「なぜなら人生の真の目的たるものが不明瞭だからだ。その不明瞭さの原因こそ、すでに言った通り、一九世紀の忌むべき精神構造にあるのだ」
マルセーロはあたかもその世紀の象徴、代表でもあるかのように憤怒の表情でアリスチィーデスを睨み付けた。
キムの痰がからんだ音が目に見えぬダーツのごとく、その場の空気を切り裂いた。ヴェロニカは僅かに眉間に皺を寄せた。マルセーロは一房の前髪を目許に垂らしたまま先を続けた。
「我々が必要なのは、野蛮な力を崇拝することを止めるということだ……」
アウレーリオが話を遮った。
「でもマルセーロ叔父さん、物質に囲まれて生活している僕たちはどのようにすればそれが可能だと言えるのですか? 僕たちが物質からできていて、物質的欲求を持っていて、直面している問題が物質的側面を有していたとしたら……、新聞をよく読まれて、そこに何が報じられているのかを見てください……。対立や抗争、戦争や論争に関するニュース。それら全ては物質的財産を巡って繰り広げられるものです。そうした問題解決に有効なものは最強無比の法なのです」
キムは注釈を加えた。
「試練に果敢に挑まない者は瓢箪を天井に括りつけない者だ」
マルセーロは父に一切注意を払っていなかった。甥の方に向き直ると、口を開いた。
「最強無比の法とは! ニーチェとシュペングラーが世界に与えた害悪だ。そしてその過失こそ主として、例の忌々しい“宣伝活動”にある。それゆえ、私は書物の教会による検閲が不可欠だと考えている」
そこまで言うと兄の方に向きなおり、声の調子を変えて言った。
「いいや、アリスチィーデス、我々が今まさに直面しているのは“超自然的危機”だ……」
もどかしげに黙り込んだ。その“超自然的な”概念を、兄が身にまとっている官能に満ちた、厚く、脂ぎった層にいかにすれば貫通させることができようか? アウレーリオのごとく軽率且つ思慮の浅い若者に“超自然”について語る意味などあるのだろうか?
キムは手羽先を両手で掴むと、ヴェロニカの方を斜に見やった。しかしながら彼女は彼の存在そのものを一顧だにしていない様子だった。
「荷車の御者という者は決してトラブルに巻き込まれることはない……」
キムはそう呟いた。口髭と顎髭は鶏の脂肪と肉の粒で汚れていた。
「マルセーロ、あなたのお皿をこっちに頂戴」と、ヴェロニカ。
義弟は反射的にそれに従った。アリスチィーデスは水が満たされたコップを口許に持って行くと、それをぐっと飲み干し、言った。
「マルセーロ、お前は不寛容な人間だよ……」
その考察は哲学的思考というよりもむしろ、モエマとの情事に対する見解だと言えた。
「全くもって不寛容だ」
マルセーロは兄の方に身を乗り出した。
「しかし本当のところは、“寛容たれ”ということではない。二足す二は四だ。その事実に対して逃げ道もないし、いかなる寛容さも役に立たない。真実とは光のようなものであり、事物の輪郭部分ではない。事物の核心部分に辿り着くよう努力すべきだ。そしてその核心部分が不透明な場合、そこには闇が渦巻いている。だが光はそうした闇を切り裂く力を有しているのだ」
マルセーロはそうした自らの表現に満足できず黙り込んだ。そこで最近、読んだ光波の回析について書かれた書物に思いを馳せた。
「いいや、アリスチィーデス、真実は寛容たることではない。寛容さは小心から、怠惰から、あるいは罪悪感から発せられるものだ。恐れ、再生に向けての怠慢、あるいは真実を保持し続けたいがための願望によって生まれ来るものだ。他人に対して我々が寛大さを持つ理由とは、他人が我々に対して、同じように寛大さを持って接することを期待するものなのだ」
「しかしながらマルセーロ、教会は自らが生き残る必要性から、それらを容認しているぞ」
「教会は不滅なのだ。なぜなら神聖だからだ。しかし教会の中にも残念ながら、それに同意しない者たちもいる。なぜなら、そういった人間たちは協定に順応し、迎合し、受け入れているからだ。私が思うに、キリスト教徒はカタコンベに戻り、そこで世界の回復運動を企てるべきなのだ。我々は新たな殉教者たちを必要としている」
砂漠に一人取り残されたような感覚を覚え、黙り込んだ。再び午餐室に沈黙が降りた。その静寂の中、パキパキと骨が折れる音が聞こえる。その音はアリスチィーデスに不快にも、飛び降り自殺をした女の体が地面に叩き付けられた際に立てた音を思い起こさせた。それはコロネル・キムが手羽先を指でへし折っている音だった。彼はしばしそれをチュウチュウと音を立てて吸うと、骨のみとなった手羽先を皿に放り投げた。そしてナプキンで手を拭いながら言った。
「わしが知っていることは、もし神が偉かったら、生きるという意欲もそれ以上に偉大だということだ」
待ち合わせの時間は、午後二時だった。
ロベルトは約束の時間の二〇分前に待ち合わせ場所に着いた。そんな自分に苛立ちを感じていた。自分がこれ程までも強くノーラに会いたいと望まなければ、数千倍好ましいのに。日を追うに従って、一種の心地良い恐怖感を覚えつつも、彼女に対する愛が膨らんで行くのを感じていた。同時に、二人が繋がることにより、荒唐無稽とも言える特性が、問題が、彼女が自分に植え付けないとも限らない危険性が顕著になって行っていることも知覚していた。ノーラと知り合う前、自分は確固たる信念の下、孤独たることに誇りを持っていた。常に自身に属していて、何時であれ、自身の情熱を、肉体を、命さえをも大義のために捧げることができた。世界は重大な局面を迎えていて、これから先、激動の時代が到来し、途轍もなく大きな変化が起こるということを認識していた。自らにもたらされるであろう、そうした混乱に満ちた地獄絵図の根底に有益ともいえる安らぎを感じることだろう。そうしたことが起ころうと、起こるまいと、この自分には失うものが何もない。自分はこの世界で天涯孤独だし、財産を所有している訳でもない。家族もいないし、社会的地位も、金だってない。金持ちになるとか、権力を手中に収めたいといった野望を抱いている訳でもない。今、稼いでいる薄給に満足し、着飾ることにも、腹一杯食べることにもほとんど興味がない。外面的にも、内面的にも、自分がある種の単独者であるという感覚は大きな刺激的とも言える信頼を抱かせるのだ。何が起ころうとも、恐れることなく全てを受け入れる。戦争が終わり、もし自分が夢見る社会主義に裏打ちされた世界が到来せず、蛮行が罷り通り、不寛容さに満ちた国家が存続していたとしても、いかなる後悔も、心の萎えも、喪失感も、自己憐憫も一切感じることなく、前線に赴くか、軽機関銃による銃撃戦が交わされる土塁の中に身を投じるだろう。
しかし今となって、ノーラが自分の人生に足を踏み入れて来た。そうした愛の中に、ロベルトは危険が孕んでいることを予感した。なぜならノーラは他の多くのブルジョア階級の女たちと何ら変わらない一娘に過ぎなかったからだ。自分がそうでないことを証明しようと、ありとあらゆる試みをやってみたようだが……。ノーラは生き生きとした聡明さや、豊かな感受性、それに抜け目のなさを備え持っていた。それ以外にも、一族が有する強い精神性を、自らに歓喜をもたらす所有物や物事に対する、あるいは家族に対する偏愛とも取れる執着を持っていた。しかし何にも増して最悪なのは、彼女が抱いている“塔”の外では幸福も、安全も享受することができないという迷信だった。ロベルト自身、それに嫌悪感を覚えていた。そうした全てのことを鑑みて、自らの人生からノーラの存在を消し去ろうとした。つまり彼女のことを忘れようとしたのだ……。自分自身に決定的とも言える、彼女との別離を正当化する上での抗し難い理由があったのだ。しかしながら結局のところ、彼女の許へと戻ってしまう。今朝、目覚めるて最初にやったことは昨晩、認めた彼女への手紙を破ったことだった。そして今、通りの角に立ち止まり、今朝、破り捨てた手紙の内容について考えを巡らせていた。手紙を書いている最中にも、あのような言葉が書き連ねられたものを決してノーラに送ることはないと確信していたことを不承ながら認めた。にも関わらず、自分には全てを告げることも、たとえがそれが目を覆う酷いことであっても、全ての事柄に真実の名を冠する勇気がなかった。この自分さえも、忌むべき偏見を捨て去ることができないのだ! それが分かるにつけ、苛立ちを抑えることがどうしてもできない。
煙草に火を点けると、目の前を通り過ぎて行く人々に目をやった。自分は群衆が好きだ。そうした名も無き人々に対して、優しい気持ちになれる。彼らは夢を追っているのか、あるいは日々の糧を求めて奔走しているのか定かではないが、あちらへこちらへと行き交う。時折、あそこの広場でコンクリートのベンチに腰掛け、悲しげな雰囲気を漂わせ、汚らしい身なりの人々と何時間も話したりした。そうした人々は概して、家族がおらず、他人が自分のことをどう思おうが、あるいはどう言おうが一切、歯牙にも掛けない連中だった。野獣と見紛う汚物まみれの肌を爪でポリポリと掻くだけで、彼らの灰色掛かった魂の奥底から、たとえそれが一瞬であれ閃光を放ち、美に溢れた仕草や言葉が迸り出ることは稀なことではなかった。悲惨な状況に追い込まれ、絶望に駆られ生活しているにも関わらず、そんな彼らでも未だ夢を育んでいる。いつ何時であれ、自身を主張したい、何者かでありたいという願望を抱いているのだ。そして常々、何らかの肩書きを、自らが誇りとするものを、着飾ることを、無名の大衆からの脱却を成し得るものを探し求めていた。
「あなたが私を見ているまさにその場所は、私がこの人生において地位を得た場所なのです。ドトール・マドゥルセイラをご存知で? 彼は私の親友なのです。フェルナンド・アボットの時代、私はここリオ・グランデ中に新聞を配達していました……」
誰かがそう言った。それらの猫背で、薄汚れ、髭だらけの顔にいかにも堕落した表情を浮かべた人々の胸中には、ナポレオンやデモステス、それにパスツールのごとき夢が宿っている。貧困や梅毒が多大なる精神障害を彼らにもたらした。彼らが救護院に収容されるのを悟った時、いつものことだが、預言者となり、自らがメシアの再来、あるいは反キリスト教徒、将軍、群衆の導き手だと思い込むようになる。しかしながら中には、哲学者と呼ばれる者たちや、全てを達観し、“ありとあらゆることをこれまで目にして来た”と言わんばかりの落ち着き払った者たちもいる……。そうした者たちの中で、ロベルトはとりわけ深夜をこよなく愛するフクロウのごとき男、チチャロのことが好きだった。ある日のこと、かつて植字工だったチチャロは自身の人生哲学を開陳した。
「君はとても若い。まだ、ある種のことを知っていない……。しかしながら、生きるということは分割払いで死ぬことと同義だ。この世に生まれ来る赤子たちはそれぞれ、人生と売買契約を結ぶのだ……。そして我々は皆、その支払い期日がいつなのか、誰一人として正確なところを知らない」
チチャロの講話は咳の発作で中断された。その小男は顔を真っ赤にし咽び、口からは唾が四方八方へと吐き散らされた。その発作が収まるまで少なくとも五分を要した。それが収まると再び、講話の続きを語り始めた。
「私が言っている通り、赤子は否応なしに契約を結び、“死”たる売り手は毎年、分割分の金を取り立てる。年を経るごとに、我々は少しづつ死に向かって進んで行くのだが、年老いると月毎の取り立てではなく、週毎の取り立てとなる。やがて契約が満期となることとなる。何にも増して最悪なのは、我々はいつまでたっても、何を買ったのかを知らないということだ……」
チチャロはそこで間を置いた。
「ひょっとして、君は知っているのかい?」
ロベルトはそんなチチャロのことを考えると、口から笑みが漏れた。そのようなタイプの人間は街のどこにでも掃いて捨てるほどいるものだ。そしてもちろん、親に見放された子供たちも。そうした子供たちの多くは往来で、新聞を売っているではないか。何とも痛ましい光景だ。若くして老成し、八歳ともなれば大人と同じような苦悩を背負い込むことになる。この世界で生き残るためにアリスチィーデス・バヘイロのごとく、同情すべき腰抜けたちがよりスケールの大きな別世界で行使しているものと似通った策略を彼らに教え込む必要がある。そのように考えることによって、ロベルトはノーラへの愛に余りにものめり込み過ぎていることに気づき、今までにも増して厳しく自己批判をするのだった。
苛々した仕草で煙草の吸い殻を側溝に投げ捨てた。そして郵便局の建物に設えられた時計台へと目をやった。時計の針がどの位置を指しているのかはっきりと判別できない。眼鏡が必要だ。新聞社での夜通しの仕事のため、目が疲れているのだろう……。
誰かが不意に自分の腕を掴んだ。ロベルトは身震いした。振り返ると、そこにはノーラの光り輝く顔があった。
「驚かせちゃったかしら?」
「いいや」
「ここに早く着いたの?」
「いいや」
「私は何てお喋りなんでしょう。そう思わない?」
ノーラはいつも通り、深緑色の服に、それと同色のフェルト帽を被っていた。彼女からは香水の咽せ返るような匂いが漂って来ていて、青春の生命の息吹たる輝きを放ち、幸福に満ち溢れ、心も体も汚れなき状態だと声高に訴え掛けていた。ロベルトは彼女を欲するのと同時に憎悪した。ノーラは彼の目に憎悪の光が瞬いているのを読み取った。
「さあロベルト、今日はこんなに素敵な日じゃない……。あなたはどうして、普通の人たちみたいにお話しができないのかしら?」
ノーラはロベルトを打ち倒し、彼の心に巣喰う闇を追い払うために、ここにやって来たのだった。彼の腕を取ると、ズルズルと引き摺って行った。二人並んで広場の花壇に沿って歩いて行く。
「ロベルト、このキラキラと輝く光を見てご覧なさい。私はあなたが何を言おうとしているのか分かっているわ……。そう、この世界は数多の苦悩に満ち溢れているということでしょ。でも広大な空、花盛りのパンヤの木……。もし今日のような美しい日に陽気な気分であることが罪なら、私を捕まえて、罰して頂戴……。だって私は浮き浮きした気分なんですもの」
ロベルトとノーラは黙ったまま、しばし歩を進めて行った。二人は同じ背格好だった。ノーラの小麦色の顔とロベルトの白い肌、娘の光り輝く顔つきと青年の無表情なしかめ面。何とも不可思議な対比を成している。午後の日差しは油を注ぐかのように木々の枝葉の間を透過し、テラテラと光り、光沢を帯び差し込んでいる。樹冠の上部には、乳白色の霧が掛かっているかのよう目に映る。花壇を覆う緑は深く、瑞々しい。アカシアの木の葉間から、鮮やかな赤色の花々が顔を覗かせている。地面に映る様々な影は普段と比して、嵩を増しているように思われた。
ロベルトは腕にノーラの指が圧し付けられる心地良い感覚を味わっていた。その感覚はある種の恥じらいを覚えさせ、そのため落ち着かなげに辺りにキョロキョロと視線を巡らせる羽目となった。自身の全ての思考とブルジョア階級的道徳に対して侮蔑を感じているにも関わらず、ノーラが腕を絡めて来ているという事実に対しては、何とも奇妙な感覚と不快感(甘く、ムズムズするような心地良い不快感とでも言おうか)を抱かずにはいられなかった。自分は何を言うことができよう……。彼女のことをどのように考えたら良いのだろう……。理論的には、そのようなことはさして重要なことではない。しかし事実として、甘美なる心の動揺に身を任せることなど以ての外だ。
「どこに行こうか?」
ほとんど敵意を剥き出しにして、ロベルトは尋ねた。
「何か冷たいものを飲みましょう。私は喉が渇いたわ」
「どこで?」
ノーラは喫茶室の名を告げた。
「何とも馬鹿げているよ。僕はそんな所に入らないから」
ロベルトはきっぱりとした口調で、そう言った。なぜならその店では、洋服をこれ見よがしに見せびらかす、俗物根性丸出しの女性たちと顔を突き合わせなければならなかったからだ。
「じゃあ、“トロピカル”に行こう」
そこはほとんど男たちのみがたむろしているカフェだった。
「良いわ。私がどれほど気分が良いか、あなたに証明するためにもね……」
しかしながら道中、ロベルトは“トロピカル”のごとき店に恋人を連れて行くのは不適切だと考えた。なぜなら、そこはサッカーや競馬などについて騒々しく喋り、煙草を吹かしては、床に痰を吐き散らす連中で溢れ返っているからだ。
「“トロピカル”は止めておこう。君が行きたい所に行こう」
結局のところ、二人は最初に目に付いた喫茶室に入り、他人の邪魔が入らない隅の席に腰を下ろした。そこは青色を基調とする装飾が施された、こじんまりとした店で、ココアの生温かい香りと古い菓子から発せられるような匂いが店内に漂っていた。
黒服のボーイがテーブルに近づいて来た。
「レモネードを二つ、お願いします」
注文を取ると、ボーイはその場を離れて行った。
ノーラは帽子を脱ぐと、それを空いた椅子の上に置き、気取った仕草で髪を整え始めた。ロベルトは不承ながらも、うっとりと彼女を凝視していた。彼女がこの自分ことを好きだと信じるのが困難だと感じる時もあった。時折、余りにも不当とも言える苛立ちを込めて、彼女を扱っていることに自責の念を覚えずにはいられなかった。しかしながら、そうした態度こそ、降伏することを決して欲していない意思の表われとして、彼女に抗する唯一の武器だと考えていた。ノーラの存在は言葉で言い表せない程、楽しく、心休まるものであったため、ロベルトは彼女がこの自分に対して、意気喪失をもたらしかねないと考え、恐れ慄いていた。つまり自分に課された社会的責務や、自らが意識的に継承することを約した規約に対して、御座なりになってしまうのではと危惧していたのだった。彼女から離れている時、彼女を傷つけないように別の自分になって行動しようと思ったりもする。彼女に対して愛情を示すことはもちろん、同時に彼女を傷つける可能性のあることも含めて、全ての真実を語ろうと考えていた。
ロベルトはノーラの入念に手入れが施された手を、そして赤色のマニキュアが塗られた爪を見た。それに対して、嫌悪の感情を覚えずにはいられなかった。
「それはどうしても必要なのかい?」
「それって?」
「爪にマニキュアを塗ることさ」
「良いわ、ロベルト。口紅だってどうしても必要なものではないわ。あなたが身に付けているネクタイだって不可欠なものだとは、私には到底、思えないもの。だからと言って、それらが悪いものだとは、私には全く思えないわ」
ロベルトは眉間に皺を寄せた。
「もちろん、悪いものではないとも……。全くもってね! 僕が言ったことを気にしないでくれ」
「ロベルト、もしあなたが欲するなら、私は爪にマニキュアを塗るのを止めるわ。それであなたが幸せな気分になれるのなら。私が望んでいることは……」
ボーイが飲み物を携えてテーブルに近づいて来たため、そこで会話が中断された。二人の友人はしばし黙ったまま、藁のストローでレモネードを飲んでいた。
何と彼の髪は真っ黒なんでしょう! ノーラは俯いている友の方を見遣りながら、そう考えた。私と同じ背格好の、縮れ毛の男性を愛したことは、これまで一度としてなかったわ。どうして彼はシャツの襟のボタンを掛けないのかしら? ああ……。袖が擦り減っているわ……。洋服の手入れをしてくれる人がいないのかしら……。恐らく、靴下も穴が空いているに違いない。気の毒に! 誰か彼の世話をする人が必要だわ。それも早急に。何と深刻な顔つきをしていることでしょう! 人々の顔つきは必ずしも、その人間の有様を示しているとは限らない。ロベルトは甘えん坊の少年のように思えるもの……。それも“名家出”のね……。ストローで飲み物を啜っているあの様なんて……、まるで赤ん坊が哺乳瓶でミルクを飲んでいるみたいだわ……。
「ノーラ、どうして君は笑っているんだい?」
「別に、ちょっと考え事をしていたのよ」
「何を?」
ロベルトは半ば挑み掛かるかのように頭を上げた。
「あなたのことを、それにあなたの服の面倒を見る誰かが必要だってことをよ」
「僕は何も必要としていない」
「子供は皆、そう言うものよ」
ロベルトはそれに答えず、紙ナプキンを手で弄っている。
喫茶室の蓄音機がルンバを奏で始めた。ノーラは陽気な気分になった。どうして私たちは他の同じ年齢の人たちみたいになれないのかしら? 少なくとも、いえ少しでも……。私はダンスパーティーも、そこで繰り広げられる軽薄とも言えるダンスも、パーティーそのものも心底、嫌っている。しかし時々、踊ることはとても気持ちが良く、それがどうしても必要な時がある。たとえば……。
ロベルトは唐突に問い掛けた。それによってノーラの思考は中断された。
「ところでノーラ、僕たちはこれから先、どうしようか?」
ノーラは衝撃を受けたような表情を浮かべた。しかしながら実際のところ、その話題を深刻に議論するつもりは毛頭なかった。むしろ陽気且つ幸福で、心が軽やかな気分になっていた……。
「どうして、あなたはそんなことを尋ねるの?」
「僕たちはどっちつかずのまま生きて行くことはできない」
「あなたは私にどうして欲しいの?」
ロベルトは指でストローをへし折った。
「君は僕が言わんとしていることを知っているはずだ。僕たちの結婚についてだよ……」
「ロベルト、もちろん知っているわ。あなたにそう言っている通り、私と結婚することは義務ではないのよ」
「昨日、君に全てをぶちまける手紙を書いた」
ノーラは一瞬だが、息を止めた。
「手紙を書いたの?」と、呟くようにノーラは言った。
「うん。でも送らなかった……」
「どうして?」
「なぜなら、その内容は君が考えているほど単純なものではないからだ……」
ノーラは二人が舞台に立ち、会話を交わしているかのように思えた。セリフがすらすらと口から迸り出る。あたかも割り当てられた役を淡々とこなしているかのように……。にも関わらず、ノーラは自らが発する言葉を一語一句、はっきりと“感じ取って”いた。
「でもロベルト、全ては単純なことよ。あなたは私のことが好きで……、少くともそう言ったわね。私はあなたのことが好きだわ。何世紀も昔から、皆がやっているようにやりましょう。結婚するのよ」
「だが経済的問題は何ともし難い」
“私はそのことを彼が言うのを知っていた……。本当に演劇そっくりだわ。相手役のセリフを知っているなんて……。全ては何の変わり映えもなく、何度も繰り返し演じられて来たことだわ!”。ノーラはそう考えた。
「坊や、私はこれまで何千回と言って来たじゃない!」
ロベルトは彼女に“坊や”と呼ばれるのが好きではなかった。
「あなたには給料があるし、私にもあるわ。それら両方を合わせれば、全て解決することよ」
ロベルトは頑なに頭を横に振った。
「そのような単純な話ではない。君には家族があるし、父親もいる。その老父の庇護に縋り続けるのを君は強要するのか……」
「でも、そのことの何が悪いと言うの?」
「君がもし僕のことを本当に好きなら、僕と結婚して、僕の側で暮らすべきだよ。君が父親の秘書であり続けることを僕は望んでいない」
「ロベルト、あなたは何て馬鹿げたことを言うの! お父さんは私の協力なしでは仕事ができないのよ」
ロベルトは不自然とも言える、乾いた性急な笑い声を上げた。
「放蕩娘だ、君は! もし君が父親の許を去ったら、彼は執筆することを止めるとでも? 全くもって信じられないよ」
ノーラは友人が“r”の文字を発音する際、どぎまぎしている様を見るにつけ、気の毒になった。
「いいえロベルト、違うわ。私が言いたいことは、お父さんは私がいなかったら淋しい思いをすると言うことよ。それも酷い淋しさに駆られるのは間違いない……。私はいつもお父さんの側にいて、彼のありとあらゆる習慣を熟知しているわ……。たとえば、父が片目を閉じ、ぼんやりと中空を眺めているか、あるいは紙切れに男性や女性の姿を描き始めたとしら、それは小説の題材が頭に生まれつつあることを示しているのよ。そこで私はタイプライターや、紙、その他の諸々のものを用意する……。加えて、私は父の書く文字を熟知しているわ。他の誰もが読み取れない……、そう、書いた本人ですら理解できない文字を判読できるのよ。
何にも増してロベルト、父は良い給金を出してくれるわ。あなたはもちろん、お金持ちではないわ。だから、私の稼ぎ分が私たちの生活費の足しになると思うの」
「それについて僕自身、何ら否定をしないよ。しかし僕はこれから先、何が起こるのかまざまざと見えるんだ。つまり、君は完全に僕のものにならないということだ……」
ロベルトは“自分のものになる”という言葉を用いたことに当惑を感じていた。
「君は半分が家族に属し、半分は僕に属するということだね。僕の受け取り分は半分ということか……」
「親愛なるあなた、半分ということが問題ではないのよ」
“親愛なるあなた”という言葉がロベルトを優しく、愛撫するかのように包み込んだ。しばしその心地良い感覚を払い除けようと頑張ってみたものの、それも全くもって無駄だった。
「私は全て、母や父、家族に属しているのよ。それ以外の形というものは有り得ないわ。私たちはいつも一緒に暮らして来たし、お互いが強い結束で結ばれているの……。ずっと昔からね。もしあなたに家族があったとしたら、同じだと思うわ」
ロベルトはノーラの話しを遮った。
「僕には家族はいないし、それは全くもって重要なことではない」
「そうね。それじゃあ、“家族がある”という言葉の意味をあなたは理解することができないわね。でも私が言いたいことは、私自身、家族の一員としてそこに属しているその意味と、私があなたに属するという意味は全く異質なものであるということよ。手段、方法共に、全く異なっていると言っても良いぐらいよ」
「それは婚前、全ての娘たちが使う常套句だとも。しかし本当のところは、彼女たちはいつまでもお父さんやお母さんの“良い子ちゃん”でいるということだ」
ノーラはカッとなり、その顔は見る見る内に険しい表情となった。
「それの何が悪いって言うの?」
「君たちは皆、甘やかされている。それに対して、旦那は何も口を挟まない」
「でもロベルト、どうしてそのような言い方をするの? あなたは私のことをよく知っているというのに!」
「僕はいつも感じたことを口にする」
「そうね。でも時と場合によって、私たちが感じていることを全てを口にすべきではないと思うわ。他人もまた感受性を持っていると言うことを、あなたは理解できないのかしら?」
「そうだね。僕は無教養な人間だ」
「馬鹿なことを言わないで! 私はそんなことを言いたい訳ではないわ」
ロベルトは悔恨の念に押し潰されそうになったため、沈黙の殻の中に閉じこもった。ノーラは初め、態度を崩さないまま居続けることを望んでいた。しかし少しして、使い古された戦術を取る方が得策だと考えた。諦めとも取れる溜め息をフッと漏らすと、友の方をじっと見つめた。
ロベルトは背が高い訳でもないし、筋骨隆々でもない。しかしながら、その瞳は美しく、絵で描いたように均整の取れた口許をしている。縮れ毛は少しばかり伸びている。彼のそうした外見はどことなくロマンチックな雰囲気を醸し出しているのだ。それに、あの耳は! ああ! ノーラはうっとりとした目つきでそれを見つめた。彼の耳は大きく、その先端は頭蓋骨から大きく離れていた。まるで象の耳のようだわ……。そのような耳であっても、決して顔全体のバランスを崩すことなく、むしろそこに特別な魅力を与えていると言えた。極めて稀なことだが、ロベルトが笑うと、真っ白で健康そのものの歯並びの良い歯が口から覗いた。顔中にパッと光が灯り、耳の先はますます頭蓋骨から離れて行くのだった。
ノーラはユーモアのこもった優しい眼差しで、ロベルトをしげしげと見つめた。彼を悩ませ、うんざりした気分にさせ、しかめ面になり、貝殻に閉じこもるかのように黙りこくるのを見るのが好きだった。そのように彼のことを扱うのは、それこそ彼への愛を表出させる手段、方法だったからだ。他の女性なら顔を引き寄せて、深々とキスをするだろうが、もちろんこの私にはそのようなことはできない。何にも増してユーモアこそ、ロベルトが自分に向かって放つ粗野な言葉に対抗し得る、唯一の武器なのだ。会話を陰惨な方向へと向かわせないためには、遊び戯れることこそ有効な解決策だ。
「あなたはご存知? ジルの恋人のチィルダが整形手術をしたんですって」
ロベルトは肩をすくめた。
「それで、そのことが僕とどんな関係があると言うんだい?」
「鷲の嘴のような鼻がツンと上を向いた、綺麗な鼻になったそうよ」
「どうして今になって、そのことを思い出したんだい?」
「なぜかって私、あなたの鼻を見ていたのですもの」
「僕が知っている限り、僕のそれは鷲の嘴のようでも、ツンと上を向いている様でもない」
「全く逆よ。ギリシア人の様な鼻をしているわ」
ロベルトは照れ臭そうな仕草をした。彼女の言葉に笑みを浮かべずにはいられなかった。ノーラはほとんどいつも、最終的に頑迷なこの自分に打ち勝つのだ。そして、さらに深刻ともおふざけとも取れる反応をしてのけるのだった。
「でも、君は正真正銘とも言えるギリシャ人の鼻を目にしたことがあるのかい?」
「そうね……、何度も目にしたことがあると思うわ」
「どこで?」
「本の挿絵とか」
「お馬鹿さん……」
「あなたはアドニス[ギリシャ神話で、女神アフロディテに愛された美青年]だわ」
ノーラの目は悪戯っぽくキラキラと輝いている。
「ノーラ、ふざけるのは止せよ」
ロベルトは自分が“立腹している”様を見せつけたかった。ノーラは彼が重要だと考え、解決したいと望んでいる話題から会話を逸らした。
「君の父親の文学作品が頭に浮かんだんだね」
「それは何も悪いことではないでしょ」
「良し悪しについては、まだ証明されていない」
「ロベルト、あなたは父の作品を否定するけど、その理由は何なの?」
「既に言った通り、彼の作品には政治色がない。君のお父さんは黒でも白でもなく、右でも左でもない」
「そうした要素がないから、あなたは父の作品が気に入らないの?」
「象牙の塔に引きこもっている時期ではないということだよ」
「私たち家族は塔を所有しているわ。でも、象牙ではない。お父さんは極めて人間味溢れる作家なの。皆はそれを知っているわ。彼の作品が好きではない評論家たちでさえ、それを知っている」
「結構だとも。君にとって神たる君の父親には、誰も逆らえないということだ」
「お父さんは神ではないわ。一人の人間よ。だけど偉大な人間であることは間違いないわ……。少なくとも、私にとってはね。お父さんに誇りを持っているもの」
「ほらほら、またそのご老人の登場だ。そんな風だから、君が僕と結婚した暁には、家族と距離を置いて欲しいのだ……。もし我々が結婚するならね」
「もし我々が結婚するならですって?」
「君は選択しなければならないのだ……」
「ロベルト、私はもう選択しているわ。私はそんなあなたのことが好きだわ。でも、人間的意味合いにおいて、あなたは私の家族も家も好きになることは不可能だと思うわ」
「はいはい、ブルジョアの小娘さん」
「また、そんなことを持ち出すなんて……」
しばし押し黙った後、ノーラは口を開いた。
「よく聞いて、ロベルト。私たちはまるで子供みたいに振る舞っていると思わない? お父さんは私たちのことについてよく知っているわ。お父さんはあなたを家に連れて来るようにと言っている。全てきちんと整理しましょう。このままの状態を続けることはできないわ。あなたは私のことを好きなの、それとも嫌いなの?」
「残念ながら、好きだよ」
再び沈黙。何てお馬鹿さんなんでしょう。そうノーラは思った。そんな彼に腹を立てる価値すらないわ。でも、あの耳は何て可愛らしいんでしょう……。私たちが未だ小さい頃、お父さんが話してくれた耳で空を飛ぶ象のそれとそっくりだわ。でも、私は彼のことが好きだ。色々と問題はあるけれど、根本においてロベルトは善良な人間だ。彼は幸せになることもできるし、幸せにならなければならない。彼に援助の手を差し伸べる必要がある。でも、どうやって? どのようにすれば良いのかしら?
ロベルトはほとんど感情を抑えることができない程の優しさを込めた表情でノーラを見つめていた……。どうしてもっと彼女に良く接しないのだろう? とどのつまり、彼女はこの世界で起こっていることに何ら責任はない。単にこの自分とは別の社会階級に属し、自分が憎悪し、戦い、果ては、もし可能であるなら消し去ることを希求して止まない規範に従って、教育を受けて来たに過ぎない。彼女の内には生命の熱き息吹きと、青春を謳歌する者特有の瑞々しさが満ち溢れていて、同時に物事を達観する落ち着きのごときものも備えている。あの大きな漆黒の瞳、丸みを帯びた鼻、幼さの痕跡が残る口許……。
しかしながら、ノーラはロベルトが実際に世界で目にしている、そう、この世に蔓延る悲惨さや、不衛生さに対して、どうしても理解が及ばなかった。自分は若過ぎるし、可愛過ぎるのだ……。それはどうしようもないことだ……。最悪なのは、ロベルトは心の奥底で、私の父に対してある種の魅力を感じていることだ。父の政治に対する無関心な態度には同意しかねる。しかし、父の中に勇気の片鱗が、自身に誠実たれという心意気があることを認識している。父は左派、右派、あるいは聖職関係者から攻撃を受けるも、常に冷静且つ毅然とした態度を崩すことはない。
「ロベルト、どうして私たちが結婚した後、父の家に住むことができないの? それが良識ある選択だと思うわ。もしあなたが私の家族のことを知ったとしたら! 塔に集う各人は自身がやりたいように振る舞うわ。唯一、要求されることはといえば、互いに誠実たれということぐらいだわ。後は連帯の意識を求められる。もしあなたが望むなら、父はきっと……、あなたに良い職を見つけてくれるわ」
“フワフワのソファー”、ロベルトは考えた。“大きなラジオ”に、暖炉やその他全てが備わった“居心地の良い書斎”……。“自分は肥え太り、裕福になって行く……”。“議論が交わされる保守主義階層の午餐”。そして自身が擁護する民たちのことも、名も無き人々のことも、セッチ・メーイスのことも、チチャロのことも忘れてしまうことだろう……。
ノーラは相手の返答をじっと待っていた。
「いいや、ノーラ。僕は常に君の家では余所者だろう。僕の考えは君の父のそれとは全く相容れないものなのだよ」
「でも、私の父の考えのどこが間違っていると言うの?」
「君の父の駄目なところは、信念というものを持ち合わせていない点だ。前にも君に言った通り、色彩がない。貧しい者たちに対して、哀れみの気持ちを持っている。より良き世界、社会主義に裏打ちされた世界の到来を望んでいる……。そうした全てのことが最近の流行りだからね」
「私の父は完全無比と言える程、誠実よ」
「その点について議論するつもりはないよ。でも君の父は我々を理想世界へと誘う道筋を示していない。それが到来するのを待ち望んでいる……。空から落ちて来るのをじっと待っているのに過ぎない」
「それで、あなたはその道筋がいかなるものなのか知っているの?」
ロベルトは断固とした様子で顔をぐっと突き出した。
「もちろん、知っているとも」
挑むかのように、そう言った。
ノーラはそれがいかなるものなのかを尋ねたかったが、思い止まった。友が禁句たる、危険な忌むべき言葉を発するのが怖かったからだ。何て気の毒なんでしょう! 彼は拘束され、どこかここから遠く離れた島に流されかねないわ。囚人服を身にまとい、血の気の失せた顔で岸に打ち寄せる波をぼんやりと眺める、そんな姿を想像した。一人ぼっちで……。気の毒なロベルト! いいや、最良なのは全てを忘れることだ。彼が禁句たる言葉を口にしないようにすることなのだ。ああ、お父さん! もし少なくともロベルトがあなたの小説の中に登場する人物だったなら、彼の思考をいとも簡単に変えることができるでしょうに。いいや……、最良なのは世界そのものを変えることだ。美しく、公明正大な世界について、私が、彼が、他の全ての人々が幸せに成り得る世界について書くべきなのだ。
「ロベルト、ほんのちょっと考えてみて。私はあなたが持っている思想を捨てて欲しいと頼んでいる訳ではないのよ。ただ、お互いを尊重しましょうと言っているだけだわ」
「思想が対立すると、そこにいかなる平和が訪れることはない」
「私はじっと耐え忍ぶようにするわ」
ノーラは出過ぎた約束をしてしまったと思った。その約束を果たすことが不可能ではないにしろ、それをやってのけるのは困難であると感じていた。でも……。未来のことの何が重要だと言うの? 口にしたことの重みを計りたがる、分別あるご老人たちのように振舞えっていう訳なのかしら? 私たちは若者だし、上の空で物事を行い、運を信じる権利があるのだ。
「僕は君の家から殉教者が生まれて欲しくないのだ」と、ロベルト。
「でも、私は殉教者にはならないわ。私はそのために生まれてきた訳ではないのですもの」
それらの言葉にはいかなる嘘偽りも無かった。私は幸せになるために、この世に生まれて来たのだ。清浄にして、陽気な人生を、風通しが良く、光り輝く人生を、いかなる悲惨さも、恥辱とも無縁な人生を送るために、私は生まれて来たのだ。
「でも常に犠牲になる者がいることも事実だ。それはこの僕か、あるいは君か? それは理に叶っていないと思う」
「それじゃあ、あなたは救済策は皆無だと考えているの?」
「もちろん、あるとも」。ロベルトはそう叫びたかった。「君のことを愛している! 君も僕のことを愛している! この世界は僕たちのものだ。全ての悩みは地獄に葬り去ろう。君を抱きしめ、キスをして、君の側で生きて行きたい。それ以外のことは何の意味もない」、と。
なぜ、そのように心が震える今、この瞬間に最も必要な言葉を口にすることができないのだろう? 多分、自らの魂に刻み付けられた傷や、人生がそこに記した印のせいなのだろう。究極の部分で、自分とノーラは全く異なる世界に属している。蜜月の時期(何と愚かで、憎悪すべき言葉だ!)が過ぎた後、世界は我々の上に、何とも耐え難い重圧を降り注いで来ることだろう。数多の詰まらない、灰色で不毛な、苛立たしく、味気のない必要性に駆られることになるだろう。ロベルトはノーラの方を見た。今、その顔には悲しげな陰りが浮かんでいる。彼女の髪を撫で、唇にキスをしたい。しかしながら言葉で説明し難い、目に見えぬ力によって、自身の所作と言葉が抑え込まれている。そして口から出たのは、次の言葉だけだった。
「そうとも、いかなる解決策も無いと思う」
しかしながら、再びノーラの胸は希望に満たされた。何てお馬鹿さんなんでしょう! まるで私たち二人は死骸か、犯罪者か、憎悪し合う者同士か、敵同士みたいだわ(そのような快感と僅かばかりの苦悩がない混ぜとなったドラマチックな状況こそ、ノーラが最も好むものだった)どのようにすれば、お伽話に登場する空を飛ぶ象がそのような深刻な話をすることができるのでしょう? ロベルトは塔にまつわる物語を、人々が集う部屋の秘密を知る必要があるわ。もしそこで数分過ごせば、人生に対して、今まで持っていたものとは全く別の視点を携えて、そこから出て来ることになるわ。ノーラは彼に全てを説明したかった。しかし同時に、恐れもあった。彼が自らの言葉をもって、塔を打ち崩すのではないかという恐れだった。
「ロベルト、あなたは極端過ぎると思うわ。私は物事をそれほど悲観的に見てはいないわ」
「むしろ、敢えて極端に誇張しているのだよ」
「まあ良いわ。それで、私は何を為すべきだと思う? 例のジョアーナ・カレフスカのように自殺しろとでも?」
何てことでしょう! その名前をこの場に持ち出すべきではなかった。ノーラは顔を赤らめた。カレフスカは一人の男によって陵辱されたのだ。
「ジョアーナ・カレフスカ……」
ロベルトはその名前を呟いた。
「何とも痛ましい一例だとも。彼女は貧しいレジ係で、上等な洋服、高級マンション、宝石や自動車などを欲していた。婚約者も彼女同様、貧乏で、トゥリステーザ地区にささやかながらシャレー風の家を建て始めた矢先のことだった。九月に二人は結婚する予定だった。なぜそのようなことを知っているのかと言うと、僕はそれについて記事を書いたからだ……。でもその記事は編集部が採用してくれなかった……。そういうことだ……。ジョアーナ・カレフスかは明るい未来と潤沢な富を保証するという、ある一人の金持ちの男に誘惑された……。そう、彼女がこれまで夢見て来た全てをだ。しかし、その男が彼女に与えたのは恥辱だけだった。そして彼女は自らの命を絶った」
一瞬、それ以上、言葉を発するのを躊躇した。何か相手に不快感を与えることを口にしそうだったからだ。しかし、ノーラが人生たるものがいかなるものなのか知らない筈はない。彼女自身、父親の現実を生々しく活写した小説の原稿をタイプで打っている訳だし、それゆえコウノトリの寓話など信じているはずもない。
「彼女は妊娠していたのだ……」
「それは本当のことなの?」
「僕は法医学者ではないけど、それは確かなことだ。あの犠牲者の娘の母親曰わく……」
新聞記事の用語を使おうとしている自分に腹が立った。
「……ジョアーナの母親が僕に語ってくれたのだ。娘が自らの命を絶つ前に、それを告白したと言うことだ」
「それで、その男は……、女たらしの其奴は?」
ノーラはその“女たらし”という言葉が場に相応しくないと思った。しかし今、この瞬間、それ以外の言葉が頭に浮かばなかった。
「まあ……ジョアーナは貧乏人だ。一方、その男は金持ちで、社会的地位も持ち合わせている……。その男には何一つとして不都合なことは降り掛からない。なぜなら社会正義というものは存在しないからだ」
ノーラはその出来事と類似した、父がかつて話してくれた物語の概要を引用した。
「あなたはそれを社会的事件だと思っているのね」
ロベルトは不意打ちを喰らったかのように目を見開いた。
「なぜ、そうじゃないと言えるのだ?」
「でも、何よりもまず、それは個人的事件じゃないかしら? ロベルト、それを理解するように努めて。シンデレラのあの物語よ。王子様の舞踏会に行くことを切望する女の子の物語だわ」
「それは事実を捻じ曲げた、文学的、ブルジョア的解釈だよ」
「社会革命が今日の状況を変え、そのような事件を回避できると、あなたは思っているの?」
「ある意味で可能だと思っている」
「ある意味とは?」
「平等社会においては、カレフスカも、ノーラも存在しない。文字通り、皆が平等に機会を与えられているのだから。人々は贅沢さや快適さにそれほど重きを置かなくなる。皆は一致団結して物事を考えるのが当たり前だと思うようなる」
再び静寂が降りた。
「ちょっと歩かない?」
ロベルトが会計を済ませると、二人は席を立った。通りに出ると、ノーラは口を開いた。
「今晩、サン・ペドロ劇場で行われる演奏会のボックス席を取ってあるの。お父さんがあなたを招待するようにと言っているわ。あなたのための場所……」
「どうもありがとう。もし僕が行くとしたら……、僕が行くべき場所は鶏小屋だよ……」
ノーラは声を上げて笑わずにはいられなかった。彼があまりにも深刻な口調で“鶏小屋”という言葉を発したがゆえに可笑し過ぎて、どうしても笑いを抑えることができなかった。
「分かった。もし幕間に劇場のロビーで話しができたら良いと思うよ。もし君がこの僕と一緒にいることを恥ずかしく思わないなら……」
「まあ……」
二人並んで、通りを下って行った。ロベルトは時計に目をやると、三時に新聞社で仕事があると言った。ノーラは「分かったわ」と返事した。路面電車に乗って、家へ帰ることにしよう。二人はプラットフォームの前で別れた。
「ノーラ、さようなら」
「永遠の別れかしら?」
ノーラの心臓はドクドクと鼓動を打ち始めた。ロベルトは口にすべき言葉が喉許に詰まっていた。路面電車が大きな音を立てて、プラットフォームに停車した。カーキー色の制服を着た駅員が叫んだ。
「ペトロポリス行きです!」
自分の言葉に対する彼の返答をじっと待っていた。永遠に……。そんなことは有り有り得ない。何か別の方法があるはずだ。もし自分が彼だけのものとなり、共に戦うことを決心したなら……。
ノーラは微動だにしなかった。路面電車が動き出す。ロベルトは力を振り絞って叫んだ。
「そうともノーラ、永遠にだ!」
二人は急いで握手をした。ノーラはすでに動き始めている路面電車に飛び乗ると、よろよろとした足取りで空席を探した。ロベルトはプラットフォームに立ち尽くしたまま、黄色の車輌が遠ざかって行く様を痴呆のようにじっと見つめていた。
マリーナがホテルを後にしたのは三時だった。
部屋では、ベルナルドが香水を振り掛け、ファンの茶会に備えて身だしなみを整えていた。恋人とのデートの約束を取り付けた若者のように、陽気且つ興奮している様子だった。
「上着はグレーか、茶色か、どっちにしよう?」
ベルナルドは妻にそう尋ねた。
「グレーの方が良いわ」
妻は真面目とも、皮肉とも言えない口調で答えた。
「ネクタイは赤色で、靴は黒色ね」
「で、君は行かないのかい?」
いかなる熱意を込めることもなく、妻にそう尋ねた。
「あなたは私が行かないことを知っているでしょ。それに、そういった集まりで、あなたが私の姿を目にしたくないということも知っているはずだわ……」
「何てこった、マリーナ! 君が口にしていることを誰かに聞かれたとしたら……。よく考えろよ……」
皺にならないよう注意深くズボンに脚を通すため、そこまで言うと口を閉じた。髪型を整えるため、頭にはネットが被せられていた。
広場の方角に足を向けながら、マリーナは嫌悪と寛容さがない混ぜとなった気持ちで、夫のことを考え続けていた。もし夫が今のような生活に、そう今のように一種の名声を受けて、アバンチュールのごときものに幸せを感じていたとしたら……。どうして彼が生きたいように、彼を解放してあげないのだろう? 彼は自身がやりたいようにやる。それ以外、他の解決策は無いのだ。しかしながら……。やがて老いが訪れた時、彼はどうなってしまうのだろう? そして、この私自身も……。
マリーナは夫に関わる人々や職業、名声などを忘れようとした。その日の秋の午後は全てを忘却の彼方へと誘う。マリーナは自分自身から、これまでの悲しき、無味乾燥なの記憶から逃げ去りたかった。太陽が降り注ぐ、静寂が立ち込める、心地の良い庭園を探し求めた……。しかし、何も静かで、心安らぐ空間が絶対に必要という訳ではない……。喧騒に満ちていて、騒々しく遊び廻る子供たちで溢れ返っていても、一向に構わない。そう、自分が生きている世界とは別のものを目にして、感じ、“苦しめたら”、それで良い。
ゆったりとした足取りで、一歩一歩を、陽射しを、午後のひと時を味合いながら歩いて行った。立ち止まって、出会った人々と話しをしたい衝動に駆られる。なぜ、それをしないのだろう? あくまでも形式ばった挨拶を、そしてそれに続く形式的且つ鯱張った対話を要求する社会的慣習こそ、親しさや、自然発生的な共生より常に優位に立つという考え方は全くもって愚かなことだ。マリーナは樹々を見上げた。私は木が好きだ。まるで人間みたいだもの。木は女性そのものだ。ある時期になると身ごもり、花を咲かせて、実を結ぶ。やがて葉を落とし、幹は年を経る毎に皺を刻み続けて行く。時には中途で枯れ果てて、倒れる……。でも、この私は……。私も枯れ果てているのかかしら? それも救いようもなく? 少しづつ死地への道を辿っているのかしら? いいや、今感じる生に対する欲求は昨晩、夜の帳が降りた際に感じた心を萎えさせる、投げやりな気持ちとは全く別物なのだ。この今の気持ちこそ、未だ生を満喫したいという証なのだ。夜に見る夢は体から翼をむしり取る。しかし、その願望は今や陽の光に暖められ、生温かいそよ風に吹かれて生気を取り戻すのだった。
往来の中程に目をやり、投身自殺のことを思い出した。そのことを忘れる必要がある。そこから少し先にある、とある日刊紙の掲示板の前に人だかりができていた。人々は戦争に関する電報を読んでいる。戦争のことも忘れる必要があるわ。時折、ベルナルドのような気質がこの自分にも備わっていたら良いと思うことがあった。彼にとって、自分を取り巻く人々と自らの職業以外、何ものも存在しないのだ。自身の演奏会と比して、戦争などは遠く彼方での出来事であり、小指の先ほどの重要性もないと考えていた。新聞社はこぞって、特にマエストロの肖像や、演奏会の成功談を報じた。ベルナルド自身、全人類は二列に並んでこの自分を迎え、頭上に花のシャワーを投げ掛けるためだけに、この世に生まれて来たと考えていた。私が考えていることは誇張だろうか? いいや、そんなことはない。なぜなら夫の魂の奥底まで知り尽くしているのだから。今生きている人生に、もっと多くの神秘的要素が付加されて欲しい。心安らぐ隠れ家のようなものが欲しい。そのようになって初めて、真の意味での人生の復活、軽薄且つ表層的な世界からの脱却への希望が生まれるのだから。そうなれば、夫は深刻な状況に陥ることになるだろう。彼が打ち捨てられて、誰一人として助言を与える者も、洋服を仕立て、それを準備し、書簡のやり取りをしたり、健康を気遣ったりする者がいない状況を目にするのは、実に恐ろしい……。愛や、いかなる思い遣りの気持ちから、そのように考えている訳ではない。そうした深刻な状態に陥らないためにも、ベルナルドはこの私を捨て、若い娘たちの尻を追いかけることを最大限、控える必要があるのだ。夫のことも、自殺のことも、戦争のことも忘れる必要がある。少なくとも、今日の午後だけは! 彼方に広がる空を遠望し、公園の木々に目をやり、自分の横に一五歳になったジィシィーニャがいることを想像するのだ。止めどなく膨れ上がって行く娘に対する思慕の念は、心地良い“悪寒”をマリーナにもたらした。最悪なのは、ジィシィーニャ以外の子をもうけなかったことだ。もし全身全霊で愛情を注ぐことができる子がいたとしたら、どれほど素晴らしかったことだろう。そうであったなら、今のように無意味で、無味乾燥な日々を過ごすことはなかっただろうし、人生そのものも灰燼と帰すこともなかっただろう。
マリーナは公園行きの路面電車に乗った。座席に腰を下ろすと、顔と腕に陽が差し掛かる中、気怠い気分に身を任せた。夢の中で現われた男性のことを思い出し、その男の神秘的とも言える愛撫の様を反芻した。ここ数年来、体内にその時感じたような欲求、欲望が生え出たことはなかった。真実の愛を知ることなく、私は老いさらばえてしまうのだろうか……。運賃を払うべく、ニッケル硬貨を一枚、バックから取り出した。ワイン色の車内の壁がキラリと光り、そこに小さな鏡を作り出した。ほとんど無意識の内に、それに目をやる。私は醜いかしら? 多分、そんなことはないわ。しかし肌は瑞々しさが失われている。真近で見ると、肌の表面はザラザラしていて、皺が刻まれている。瞼には少しばかりくまができている。髪には銀髪が混じっている。馬鹿げているわ! 運賃を払うと、欲望の扉を閉めるがごとくバックをパチンと音を立てて閉めた。ジィシィーニャのことを、夫のことを、自らの人生のことを考えた。全てが嘘のように瞬く間に過ぎ去り、灰色掛かっている。私は年老いた。それも実際に皮膚や、骨や、神経に如実に表われない類いの老いを感じた。通りに立ち並ぶ建物が陽を遮った。突如として寒さを覚え、身を縮こまらせた。しかしながらすぐさま、車内に陽が差し込んで来た。路面電車は小さな広場を横切って行く。芝生に囲まれたアズレージョ張りの噴水が水を噴き上げている。男たちや女たちが行き交っている。別の電車が様々な行先に向けて走り去って行く。車もバスも同様だった。人々や目に映る様々な物はどこかしかお祭りの空気に包まれている。コーヒーの香りが風に熱帯の芳しい香りを与えている。
マリーナは元気を取り戻した。もし運転手にどこまでも、どこまでも停まることなく走り続けるように言うことができたとしたら……。私は逃避する必要がある。自分自身から、自身の記憶から……。振りをするだけでも良い……。数時間、別の人間となって新たな人生を踏み出すという幻想を胸に抱いて……。
トニオは車を路地に停めると、アンドラーダス通りを歩き始めた。自分は日常の光景を眺めるのが好きだった。色鮮やかな静物画を観察するがごとく、時折、果物が陳列されている様や、あちらへこちらへと走り廻り、忙しなく立ち働く女や男たちを眺めるためだけに公共市場に足を運んだ。チーズやソーセージ、野菜、缶詰、ハム等を精通した目利きで購入しては、品物の詰まった箱をひっきりなしに運ぶ仲買人たち。そうした市街地の光景に、人間味溢れる魅力だけではなく、小説的な魅力をも見い出していた。肉屋の陰鬱とも言える、フックがずらりと吊られた血塗られたバックヤードでさえ、そこに絵画的美しさや、寓意的意味合いをトニオは発見するのだった。様々な客が入り混じり、忌憚なく話しに興じる数多の人々に満ち溢れた市場の喫茶室も、彼を魅了して止まなかった。議論を交わす人々がいるかと思えば、商談をする人々、席から席へと渡り歩く人々、喧嘩をする人々、飲み食いをする人々……。実に雑多だ。パロベー広場では、露天商たちが予言書と奇跡の軟膏をない混ぜにしつつ、手品と交霊術を交互に駆使して、巧みに商品の宣伝をしていた。取るに足らない装身具や、救急用品、あるいは缶切り等を売るために、商人たちは聖書の文言を引用したり、小噺を披露したりしている。中にはマフラーを巻くかのように、生きた大蛇を首に巻き付けている露天商もいた。北部出身と思しきカボクロ[白人とインディオの混血の男]がロウソクを作る際の濾し器の有用性を説明するため、ルイ・バルボーザの文言を引用している。その近くでタクシー運転手たちが会話に興じ、楊枝を弄ぶか、あるいは単に手持ち無沙汰からか楊枝を噛むか、煙草を吹かすかしている。荷を満載した大型のトラックが重苦しい轟音を上げて、焼け焦げたガソリンの臭い漂う噴煙を巻き上げて通り過ぎて行く。路面電車の乗降場所では、スピーカーが案内をがなり立てると共に、歌謡曲を大音量で流している。トニオはあたかも旅行をしているかのような気分で、そうした喧騒に満ち溢れた世界を横切って行った。
最悪なのは、世間にこの自分が広く知られ渡っているといるということだ。トニオは散策の道中、そう考えていた。人々にジロジロと見られることも、往来で指差されることも酷く嫌悪していた。文学に携わる職業の悪いところは、作家は絶えずスポットライトを当てられているということだ。それはなんとも居心地が悪い。著名たることは実に多くの不利益を被る。特に私生活というものが喪失される点などは黙過できない問題点だ。作家は公の場で議論の対象となり、暴露と分析のため過剰とも言える光に晒され、その結果、ガラスのごとく、それも実に脆いガラスのごとく、透明の存在となるのだ。トニオは小説家たるものは、自身が作品の登場人物のごとく神秘のベールで包まれているべきであると考えていた。そのためにも肖像も公開せず、公の場に姿を現わさないことこそ理想なのだ。
対して、快感だったことは、その日の午後、往来の激しい通りを歩いている時、自分のことを見咎める者が誰一人としていなかったことだ。つまり自分自身、他の人々同様、無名の、極めてありふれた人間に過ぎなかったことこそ、賞賛に値する点だった。自分のことを見知っている人々は自分の前では決して自然体で振る舞わないということに気がついた。彼らはあたかも次回の小説の登場人物の候補者のごとく話したり、振る舞ったりするのだ――「ああドトール、この私自身、小説そのもだと思います。想像してみてください……」また小説家が職業的眼力で自分たちをつぶさに観察し、次回の作品の主人公や悪役に仕立て上げようとしているのではないかと考え、怖気づいたり、言葉を慎重に選んで話したり、あるいは不審に満ちた沈黙に陥ったりするのだった。時折、トニオは人々に詰問されたりもする。
「私はあなたに腹を立てているのです……」
「なぜです?」
「なぜなら最新の小説の中で、ラウルとイザウラが結婚しなかったからです」
読者たちがお気に入りの登場人物たちをあたかも現実世界に生きる人物のごとく話す様を耳にする時、トニオはそこに媚びへつらいのようなものが込められているように感じた。しかしながら一方で、誰かが次のような問い掛けをした時など、わずかながらも苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「あなたたち作家は世界を救うために一体、何をやっていると言うのですか?」
トニオは理論上、人間というものが好きだった。見せ物として、話題のネタとして、あるいは芸術性を喚起させる動機として、人々をつぶさに観察したりした。一般の個人に対しては、限りなく大きな優しさをもって接する能力を有していたが、集団に対しては、ある種の恐怖感を抱いていた。息子や、両親、兄弟を愛するように人類を愛することができるとは到底、思っていなかった。普遍的な愛を扱う文学作品はあるにはある。トニオ自身も、全ての人々が幸福で、食事をきちんと摂れて、毎日、風呂に入れて、住み心地の良い家に住めることを願ってはいる。社会的均衡を崩さないために、できる範囲でやれることはやっている。自分自身、どちらかというと寛容な質で、物事を理解し、協力することにこれまで腐心して来た。しかしながら、それを実行に移すためにしばしば自分の本性を抑え込まなければならなかった。なぜなら、自分はいとも簡単に人を辟易させてしまう嫌いがあったからだ。社会生活と呼ばれるものを、特に格式ばった夕食会や、パーティーといった類いのものを忌み嫌っていた。パーティーほど、彼を憂鬱にさせるものは他になかった。笑顔を振りまき、寛大さや礼儀正しさ、愛想の良さを示すことを強いられる会合などは、彼を意気消沈させる最たるものだった。トニオ自身、幼少の頃から内気な一面があり、それを経験や人々との付き合いをもってしても、完全に消し去ることはできなかった。時々、驚いたことに、会合が予想に反して心地良く感じることがあった。しかしそうであっても会合中、始終、家のことや、書斎のこと、孤独について考えを巡らせてはいたが……。そして塔に一人こもると、そうした集まりでの楽しい一時を自分なりのやり方で反芻し、それに修正を加えたり、空想的な味わいを付与したりした。そうした全てのことはいかなる醜聞を招くこともなく、欠伸を催させたり、いかなる不審を抱かせたりすることもなく、黙したまま行えるという利点があった。自宅では、たとえば興味を惹かない話をする御仁を前にして、目を開けたまま眠ることで有名だった。トニオは自らの世界に埋没する能力に長けていた。つまり彼を取り巻く物事から自らを切り離すことができたので、初期の作品の多くは幻想世界で執筆されたものだった。トニオ自身、他人をうんざりだと思うのと同様に、他人もまた自分のことをいとも容易に辟易するだろうと常々、考えていた。それゆえ、人目を避けて、ほとんど口を利かなかった。そうした彼の性格はリヴィアにとって、頭痛の種だった。来客中、黙りこくる夫を前にして、まるで赤々と燃え盛る炭の上に座っているような気分を味合わさせられた。
「トニオ、あなたは行儀が悪いわよ! そんなあなたに、人々は何と言うでしょう?」
「なあ、私は沢山話したとも……」
「何一つとして話してないわ。まるで居眠りしているようだったわ。そういった態度は一種の気取りだわ、その点、よくよく考えて頂戴」
「でも実際のところ、私は眠かったのだよ!」
「何とも救いようが無いわね」
歩道を歩いていると始終、知り合いの人々と顔を合わせた。トニオはできる限り愛想良く、笑顔を送った。軽く会釈をしたりもした。この自分は大袈裟な仕草をする術を持ち合わせていない。「やあ、親愛なる君!」と叫び、抱擁をしてくるような輩のことを信用していなかった。しかしながら、もしそういった状況に遭遇した場合、相手が友人であれ、見知らぬ人間であれ、大いなる犠牲を払う能力が自分には備わっていると信じていた。恐らく、本能とは別の“それをやらなければならない”という連帯意識――まさにそれは義務感であり、一種の自責の念のごときものだろう――が働くのだろう。しかし、そもそも礼儀作法というものを知らなかったし、加えて“愛想の良い人間”と見なされている人間のごとく振る舞う術とはいかなるものなのかさえも知らなかったのだ。もちろん、いつもそのような無頼漢ではなかったことも、これまた事実である。時折、多幸感に浸っては、人づき合いも良くなり、積極的に会話を交わし、話し相手に何か心地の良い言葉を投げ掛けたい衝動に駆られることもあった。まさにその時こそ、彼の中のサンチィアーゴ家の血が甦る瞬間であった。喧嘩早く、虚言癖とも言われるほど想像力豊かな人種の総体としてのサンチィアーゴ家。そこに属する人間は社交的で(だからと言って、人格者であるとは言えないが)、愛想良く振る舞い、人々の寵愛を受ける術を身に付けていた。トニオはむしろ母方の祖先の血筋を強く意識していた。テーハ家はみすぼらしい服を身にまとい、堅実にして、口数の少ない、想像力を欠いた、仕事一筋の誇り高さ、責務完遂を絶対と考える人々の集合体だった。その当時、顎髭一本が公文書と同等の価値を持つ時代だった。口にする言葉は最小限、服装はあらゆる幻想や感傷を排したものだった。しかし物事はそれほど単純なものではない。そう、トニオは思った。自分自身の性格をその二つの領域、つまりサンチィアーゴ家とテーハ家で分類することなど不可能なのだ。さらにフォンセッカ家というものもある。加えて、数え切れないほどの遠い先祖たちが存在し、それらは地獄の大釜のように雑多に混じり合っているのだ。自分の魂の中には、孤独に耐えられる荷馬車引きが、勇ましい戦士たちが、物静かな行商人たちが、もちろん清教徒もゴロつきも巣喰っている。祖母の一人はピアノでショパンを弾いていたし、大叔父などは詩句を嗜んでいた……。トニオは言い伝えや、肖像画、あるいは幼少時代の色褪せた記憶を頼りに、祖先一人一人の所作や言動、思考、傾向等を見い出すのだった。
自らの思考に没頭する余り、トニオは自分が入るべき建物を通り過ぎたことに気が付かなかった。数歩、後戻りすると、“ロージャス・アメリカーナス”に足を踏み入れて行った。ニスの臭いが鼻につく(子供の頃、遊んだおもちゃの臭いを思い起こさせられる)トニオは品物がずらりと並べられた陳列棚に沿って進み、目的のものを探した……。メモ書きをポケットから取り出し、妻が買って来るように言っていた、パスコア[“復活祭、イースター”の意]の卵をいくつか購入した。それを済ませると、“入口の奥、右手にある”玩具売り場を探した。
「あなたはレジィーナさんですか?」
小麦色の肌で、薄色の目をした若い店員に近づいて行き、そう尋ねた。
「はい、そうですが……」
トニオは自分の名を告げた。それを耳にした娘は、「ああっ!」と短い驚きの声を上げた。
「あなたはジョアーナさんのお友達ですか?」
その娘は悲しげな表情を浮かべながら、頭を縦に振った。
「そのジョアーナさんが私に手紙を書いたということをご存知ですか?」
「私はその手紙を実際に目にしました……」
周りにおずおずとした視線をやりながら、そうはっきりとした口調で答えた。
「店長が不審に思わないように、何か買っているような振りをして下さい……」
トニオは鉛の兵隊が積み上げられているケースに手を差し入れた。ジルが子供の頃、そのおもちゃで遊んでいたことを思い出した。
「一二個、別々の種類の兵隊が欲しいのだが……」
トニオは口調を変える。
「パウロ・エドゥアルドなる人物を知っていますか?」
「いいえ、一度も会ったことがありません」
レジィーナはそう呟いた。
「ジョアーナさんは彼についてよく話していましたか?」
「はい、話していました……」
女店員は紙袋に兵隊のおもちゃを入れた。
「彼女曰わく、その男はハンサムで、お金持ちで、インペリオ・ビルに住んでいると言うことでした」
「彼が既婚者だと言っていましたか?」
「いいえ、独身だと言っていました。そのビルの一三階にとても豪華な一室を構えている、と」
「それは確かなことですか?」
「ええ、もちろんです。ジョアーナはそのようにいつも話していましたから。時々、彼女は私に尋ねました。『レジィーナ、私、パウロと結婚するために今の婚約を破棄すべきかしら?』、と。私は彼女に言いました。『ジョアーナ、馬鹿なことを言うのはお止めなさい。パウロはあなたと結婚するつもりは毛頭無いわよ』、って」
トニオは黄色と赤色に塗られたブリキの自動車を手に取った。
「これも頼む……。しかしあなたは一度でも、ジョアーナさんがインペリオ・ビルに入って行くのを見たことがあるのですか?」
「何度もあリます……。私はいつも彼女と一緒にそこまで行って、広場で待っていました。いつも大体、二〇分ぐらいビルの中にいて、戻って来ました。『ジョアーナ、そんなことをして、絶対に上手く行かないわよ。止めた方が良いわ』、と私は彼女に言いました」
「それで、彼女の方は?」
トニオは心ここに在らずといった様子で、ビー玉や、セルロイドの人形、猫の置き物等を手に取った……。
「彼女はこう答えました。『いいえ、レジィーナ。あなたはパウロのことを知らないのよ。彼はいづれ私をリオに連れて行ってくれると言っているの。もしあなたが彼のマンションがどれほど豪華なのかを知ったなら……』、と」
「しかし、私に寄越した手紙には、“危険が迫っている”と書いていましたが……。あなたはそれについて、何か心当たりがありますか?」
レジィーナはわずかに肩をすくめた。
「ジョアーナはしょっちゅう、自らに降り掛かる不幸や、死について話していました……」
「自殺について仄めかしたことがありますか?」
レジィーナは一瞬、考え込んだ。
「思い出せません……。でも、彼女はいつも自殺した父親のことを話していました」
「自殺した日、彼女はここで働いていたのですか?」
「働いていました」
「彼女はどんな感じでしたか?」
「何だか奇妙でした。始終、時計を見ていて、しょっちゅう釣り銭を間違えて、顔は真っ青でした。それ以上のことは思い出せません……。でも、ジョアーナはいつも白い顔をしていましたし。でも総じて言えることは、皆は彼女の仕事振りがおかしいと思っていました……」
「誰かに会うと言っていませんでしたか?」
「いいえ、でも逃げるつもりだと言っていました」
「逃げる、一体どこへ?」
「彼女は言いたくなかったのでしょう。ただ、ここからずっと離れたところへと言っていました」
「そうした彼女の全ての言動について、あなたはどう考えましたか?」
「私が何を考えたかですか? ジョアーナが自殺したことについてですか……」
「彼女はあなたに話さなかったのですか……。妊娠しているということを?」
レジィーナはブリキの横笛を弄りながら一瞬、怖気づくような素振りをした。
「ええ、話していました。彼女曰わく、お腹の子を堕ろすって」
目を上げずに、そう言った。
トニオは色鮮やかなゴムボールを眺めながら、しばし思考に耽った。
ボールがセッチの前に飛んで来た。対して、後退りし、まさにそれを蹴ろうとした瞬間、誰かが叫んだ。
「ガキンチョ、退きやがれ!」
セッチは自分の前に立ちはだかる一つの影を見た。それを避けようとしたが、その暇はなかった。それはもろに胸許にぶつかり、息ができなくなり、仰向けにひっくり返った。地面に投げ出されたままゼイゼイと喘ぎ、空を仰ぎ見た。そしてゆっくりと立ち上がると、ぶつぶつと呟いた。
「これが俺様のやり方だ……」
そこは沼地の近くにある原っぱだった。セッチは選手として試合に出場していた。と言うのも、いつものことだが、最後の最後になると必ず“選手”が一人足らなくなるからだった。しかし彼は土曜日の試合に出るのが好きではなかった。なぜなら他の選手たちは自分よりずっと年上で、強く、乱暴で、さらにサッカーシューズを履いているからだ。
セッチは半ば目眩がしつつ、辺りを見廻した。ボールは敵地の遠くにあったため、今度はうつ伏せに地面に突っ伏した。地面に寝そべって試合を見るのは、何とも愉快だ。沢山の足が動き回り、ボールがこちらへ、あちらへとコロコロと転がって行く。セッチは地面に顔を埋めた。草の匂いが好きだ。唇を少し開けると、口の中に草が入って来た。それを味合うように噛み締めた。ぼんやりと選手たちを眺める。赤色のシャツの選手が俺を打ち倒した奴だ。奴に仕返しをせねば……。彼奴はインディオのような野生味を帯びた図体をしていて、毛むくじゃらで、ハマブドウの幹のような太い脚をしている。セッチは其奴のことを記憶に刻み付けた……。
ボールがセッチの方に近づいて来た。飛び跳ねるように起き上がると、それをじっと待ち受けた。
「こっちにパスしろ!」
誰かが金切り声を上げた。
「さあ! こっちだ!」
セッチは喘ぐように、か細いながらも大声を上げた。ボールが近づいて来るとそれに突進して行き、彼と同い年で、同じぐらいの背格好の少年と比して、度を超えて大きく、痩せ細った足で相手をかわすように、前方に向かってドリブルし始めた。悪鬼のように走り、ピョンピョンと飛び跳ねた。半ば盲目の状態だった。ただ目に映るのは前方、側方に赤や、緑や、白等、色取り取りのシャツが入り乱れる光景だった。毛むくじゃらの脚。数多の顔。緑色の草。遠くにゴールキーパーが見える。このままボールを保持したまま走り、逃げたい。前へ、いつまでも前へと。
「セッチ、パスしろ! 野郎、パスをしやがれ!」
味方の選手たちは叫んだ。
セッチは敵方に激しく追走されながらも走り続けていた。今先、彼を地面に打ち倒した赤色のシャツを着たカボクロが再び目の前に現われ、ボールを奪い取ろうとした。セッチは相手のシューズに蹴られて怪我をしないよう、両足を上げて飛び上がった。そして敏捷且つ不意打ちとも思わせる動きで右足を開き、相手をつまづかせると地面に打ち倒した。ドシンという鈍い音と共に、呻き声。審判の笛が鳴った。怒号が起こる。セッチはこの場から逃げた方が良いと思った。彼は体を捩り、原っぱから離れ、通りの方へと一目散に駆けて行った。既に危険を脱したと思った時、立ち止まり、振り返った。原っぱでは例の赤色のシャツの少年が拳を振り上げ、威嚇している。セッチは狼のように歯を剥き出した。
「これが俺様のやり方だ……」
自分に向けて、そう呟いた。そして満足そうに路面電車の停留所の方に向かって歩き出した。
キム・バヘイロは日中、漫ろ歩きをするのが好きだった。
午後四時を少し過ぎた時間に、屋敷の玄関の階段を降りて行き、小股且つ足早に庭を横切り、通りの歩道へと足を踏み出した。人々や動物、様々なものが目に飛び込んで来る。そうした全てのものに対して批評を加えながら、散策を楽しむのが常だった。もし目も眩まんばかりの色鮮やかな洋服を身にまとうか、あるいは奇妙な形をした帽子を被った女性に出会おうものなら、これ見よがしに立ち止まり、執拗な眼差しでその見知らぬ女をしげしげと見つめ、その女が目の前を通り過ぎて行くと、今一度、振り返って、歩き去って行く後ろ姿を目で追った。そして「やれやれ」と言う具合に頭を振ると、こんな風に呟いた。
「あんたは見たかい? この世はまさに終わりじゃな」
もしオレンジの皮を蹴ったり、歩道の端に座り込んでいる裸足の子供を目にしたなら、義務感からこう叫んだ。
「この恥知らずめ、働け! 低脳のガキンチョがそこで一体、何をしておるのだ!」
幾度となく、通りに立ち並ぶ内の一軒の家の前に立ち止まり、批判的且つ皮肉を込めてその家の外観を観察した。そのような“奇抜な”家を建てるために多額の金を浪費する人間がいることに驚嘆したものだ。そして、こう結論づけた。
「そのような家で、どのように生活できるというのだろうか?」
広場の隅で一瞬、足を止めたのは一種の皮肉からだった。そして官公庁舎の方をじっと見つめた。わしに教えてくれ。どうしてあそこに丸々太った女たちが座っているのかを……。何のために、あんなどデカい建物が必要なのかを……。そしてアラウージョ・ヴィアーナ公会堂へと視線を転じ、そのセメント仕立ての“滑稽な”建物を建設するために金が湯水のごとく投じられたことについて考えを巡らせた。サンタ・マルタの広場のことを、毎週日曜日にバンドが演奏をするために、自身が八〇〇ミル・レイスの予算で建設を命じた木製の野外音楽堂のことを思い出した。
キム・バヘイロは歩を進めて行った……。彼自身を最も苛立たせることの一つに、往来で、誰一人として顔見知りに出会わないことだった。「コロネル、いかがお過ごしですか?」。「キムさん、どんな具合だい?」。「キムさん、こんにちは!」。「コロネル、この世界と上手くやってるかい?」。「我々が雑談できる薬局やら、税務署がない街で、どうしろっていうのでしょう?」。
広場の中程に辿り着いた頃には、キムは疲れを覚えていた。ベンチに腰を下ろす。「ああっ」と嘆息を漏らした。日差しがより鮮やかな色合いを取って顔を照らす。コロネルは遠目に官公庁舎や、大聖堂の装飾を不信と敵意が入り混じった眼差しで凝視した。
今とは別の時代のことを、別の年代の秋のことを、トカゲのごとく日向ぼっこをした頃のことを、煙草を吹かし、シマハォン茶を飲みながら過ごした時間のことを次々に思い出して行った。本物の政治というものが存在した素晴らしい時代だった! その頃、新聞を手に取り、野党が政府を激しく非難する記事や、その逆の、政府の野党への攻勢を報じた記事を読むことに歓喜を覚えていたものだ。
今日では、全く冗談にもならん……。キムは少しづつ気怠い気分になって行った。かつて昼食後には、ぐっすりと昼寝をしたものだ。午睡の時間になると、いつも中国娘がハンモックに潜り込んで来た。今やこのわしは棒にもかからない老いぼれだ……。「ふーっ」と溜め息をつく。何の価値もない人間だ。そんな自分に嫌気を覚え、唾をぺっと吐いた。男は男としての機能をきちんと発揮できなくなり始めたら、死ぬべきなのだ。良馬や、美しい女、それに美味いシュハスコ[ブラジル仕立てのバーベキュー]のない人生なぞ、全くもって無意味だ。
花崗岩が散りばめられた小道を一人の中国娘が通り過ぎて行く。キムの目はギラギラと輝き、視線はその娘の脚に釘づけとなり、その姿が眼前から消え去るまで執拗に目で追い続けた。何とも美しい雌馬だ! そして小さな音で、馬のトロットを想起させるようなリズムの旋律なきメロディーを口笛で吹き鳴らし始めた。
三歳ぐらいの青色のドレスを着た少女がベンチの前を横切って行った。薔薇色に染まる、小さな口の丸顔の少女はつと立ち止まると、キムの方へと振り返り、黒い大きな目でおずおずと彼をじっと見つめた……。
「こっちにおいで……」と、キムは言った。
その少女は半ば躊躇するように、ゆっくりと彼の側に近づいて来た。その顔には好奇と不安が入り混じった表情が見て取れた。
「おじちゃんが君にお小遣いをあげよう……」
キムは指をパチンと鳴らすと、そう言った。少女はしばし、彼の方を真剣な眼差しでじっと見つめていた。
「サンタクロースだ!」
そう言うと、脱兎のごとくその場を走り去って行った。キムは感動を覚え、微笑んだ。その少女に対して、何か愛情のこもった言葉を探した。彼女の後ろ姿にまるでニッケル硬貨か、菓子を投げ付けるかのように呟いた。
「売女の娘め!」
「私の人生で、最も幸せな瞬間だわ」
チィルダはそう考えていた。しかしながら、その幸せには未だ、奇妙な痛みの要素が伴っている。私はジルと映画館の薄暗がりの中にいて、彼は私の手を握っている。彼の手は生温かく、それが触れると奇妙な悪寒のようなものを感じた。同時に歓喜と驚き、熱気が体を貫き、さらには実際には知覚してはいなかったが、予測はしていた愛撫を欲する欲求が胸に満たされるのだった。この瞬間が永遠に終わりませんように! チィルダは半ば息が詰まるほど、そう願った。まるで夢の一場面のようだわ。青白く光る薄暗がりの中に、ジルと私はいる。スクリーンには色鮮やかな映像が映し出され、それに合わせて音楽が流れている。こうした状態こそ、夢と酷似している。しかしチィルダはそのような状態を欲してはいなかったし、信じることもできなかった。だって、心地良過ぎるのだから……。ジルはじわじわと力を込めて、私の手を握り始める。二人の顔がほとんど触れ合わんほどに接近し、二人はそれに驚き、目を見合わせた。彼の目にはチィルダが定義することができない何かがあった。それは時には、夢見ているかのようであり、時には、放心しているかのようであり、またある時には、揶揄の光が見て取れたりもした。何と彼の顔は他の人たちのそれとは違うのでしょう! 彼が他の人と比べて、ハンサムという訳ではない……。でも、何かが違うのだ。ジルを目にした者たちは、彼が未だ一九歳にも満たない若者だと考える者は皆無だろう。几帳面な性格に、会話の内容、医師や父親、長兄を想起させる重々しい態度等々……。物思いに耽っている時など、顔には何とも滑稽な表情が浮かんでいる。それが何なのか、私には皆目、見当がつかないが――輝きかしら、それとも翳りかしら――、唇に、鼻に、目にそのような表情が表われるのだった……。その何とも形容し難い表情に魅力を感じるのと同時に、畏怖の念を抱かさせられる。と言うのも、彼が別の世界に行ってしまったかのような気分になるからだ。チィルダはそのような表情を浮かべる人間を他に、誰一人として知らなかった。時々、夜、ベッドに横になっている時、様々なことに考えを巡らせることがあった……。ジルは決して、私が生きている世界に完全に属することはないだろう……。彼は自分のみが生きる、閉ざされた世界から出るつもりはない。ほとんどいつもと言って良いほど、私たち二人が話しをしている最中、突如としてジルの会話への集中力が途切れ、ぼんやりとして、そこにいることさえ忘れてしまうことがあった……。それによってお互いが気まずい雰囲気になるのだった。彼の注意を引き付けておきたい。そう、あたかも小鳥を籠に入れるように。しかし水面に名を刻み付けたり、虹の欠片を小箱にしまうことが、いかに愚かなことであるように、それをやってのけるのは不可能だ。チィルダは詩的イメージを殊の外、好んでいた。自分の鼻が醜かった時分、そうしたイメージ世界こそ、自らの避難場所だった。同時に自分自身が考え、行った悪しきことを相殺する、一種の悔悟の念を催させる場所でもあった。美や善意に満ちた所作について考える……。それらを学び得たのは、闇に包まれた偉大なる秘密、あるいは神秘に満たされた宗教儀礼を伝える者のごとく、これから先、辿るべき道を私に指し示してくれた献身的な学友の尽力の賜物だ。
ジルの瞳の中に宿る翳りを消し去る……。チィルダは彼を我が物にする前から、それが不可能であることに気づいていた。かつて悲しみに打ち沈んだ孤独の時代、自分は書物や物思いに耽って日々を過ごしていた。自身と語らい合う陰で、人々を分析する習慣が身に付いた。そこから本当に沢山のことを学んだ……。人々の顔つきを眺め、それぞれの顔に表われる筋肉の不随運動を観察するのが殊の外、好きだった。邪な快感を覚えつつ、それをやっては人の顔に何らかの欠点――皺や歯抜け、肌のシミ等――を発見した時など、勝利の気分に酔いしれた。また会話の最中、相手が代名詞の配置を間違えたり、語の発音が悪かったり、低俗ともいえる表現を用いたりした時などは、言い知れぬ歓喜を感じたものだ。しかしながら時には、そうした悪行を後悔し、良い子になって、自らを取り巻く世界や人々に対して友好的な眼差しを向けようと思うこともあった。その様な心の揺れの中、自分は二つの次元を行き来し、恐れと快楽、魅惑と気掛かりの狭間の中を生きて来たのだ(今現在も、それは何ら変わらないが)
チィルダは無上の喜びと不安が入り混じった気持ちで、ジルを見やった。自分のことを人々は悪く思っているのか、あるいは良く思っているのかを推測しながら、その顔を仔細に観察する癖は身の毛がよだつ。時折、何か悪いことを考えるぐらいなら、全く何も考えないか、あるいは自身の存在を消し去った方が良いのではと思うこともある……。そう、あのジルが時々、私のことを忘れてしまうように。たとえば、今この瞬間など、決して誇張して言っている訳ではない……。
ジルはチィルダの目をじっと見つめた。そこには常に微かな慄きの光が認められる。彼女の心を落ち着かせ、幸せな気分にさせるような、何らかの言葉を掛けたい。魔法が掛かった言葉が思いつかないのなら、手を握る力をさらに強めれば良い。肌と肌の触れ合いは彼女に歓喜をもたらすのだから……。薄暗がりの中にあって、彼女の顔はより美しく目に映る。自分がこれまで一度として目にしたことのない顔だ。何とも驚嘆すべき美しさだ!
チィルダの小さな胸は喘ぎ、上下している。ジルはそれを実際に目にしていたというより、むしろその存在を感じていた。と言うのも、彼の目は彼女のそれに釘づけだったからだ。彼女の体から発せられる熱気と芳香により、奇妙なほど心臓の鼓動が高まり、心なしか呼吸の頻度にも変化が見られた。そして今、これまで経験したいかなる他の状況よりも、自らの中に欲望が煮えたぎる波のごとく湧き上がり、膨れ上がって行くのを感じていた。その感覚は何とも心地が良い。と言うのも、自分自身、チィルダに対して、単に憐憫の情、あるいは兄妹のごとき愛情のみを感じていたいという訳ではなかったからだ。とどのつまり、我々二人は若く、お互いが愛し合わない決定的な理由なぞ、どこにもない。映画館の二階席に陣取っているのは、ほぼ我々二人のみで、加えて暗闇と来ている。その様な状況であれば、否応なしに欲望が掻き立てられるのは全くもって当然のことだ。心配事や心を悩ませる疑問が渦巻く密林の中で、一筋の光明を見い出すことに成功した者のように、今日という休日を自由気儘に過ごし、快楽の波に心行くまで身を任せよう。「愛しい人」と囁きかけるだけで、十分だろうか? あるいは、更なる愛を告げる言葉を口にすべきか? 多分、言葉を“囁き掛ける”かどうかの問題ではないと思う。チィルダの髪が唇に軽く触れている。その髪からは何とも芳しい、爽やかな香りが漂い出ている。静寂が続く。ジルはチィルダの呼吸のリズムもまた、高まって行っているのを感じた。スクリーンには次々と映像が映し出され、登場人物たちは外国語を話している。その様な状況であるにも関わらず、映画館の中に広がっているものは生温かい海と静寂に満ちた暗闇だけだった。貝殻の中に閉ざされた真珠が感じるような、喧騒の中の静けさとでも言おうか……。
ジルは座席の上から左腕を伸ばし、チィルダの肩に回すと自分の方に引き寄せ、彼女の唇にゆっくりとキスをした。チィルダはすっかり体の力が抜け、死とも天国とも言われぬ感覚に浸っていた。
スクリーンに映し出される色取り取りの映像から、歌声が流れ出ている。しかし恋人たちの世界では依然として、心臓が小さな音を立てて鼓動を刻む音のみの静寂が続いていた。
豪勢な昼食を消化する中、ノリヴァルはクラブのポーカーテーブルについていた。昼食時に飲んだシャンペーンにより心地良い脱力感と、何とも形容し難い甘美なる目眩に襲われていた。ポーカーの相手の中に、彼自身が多大なる好意を寄せているアリスチィーデス・バヘイロの姿も認められた。奴こそ完璧な紳士だ。勝負に負るにしとても実に優雅に負け、また勝つにしても相手に劣等感を覚えさせない術を心得ていた。
ノリヴァルは口笛を吹き鳴らしながら、エレベーターに乗り込んだ。一〇から二〇ミル・レイスという取るに足らない掛け金のポーカーであったが、彼自身、一コントを少し越えるぐらい勝った。それこそ、この自分に運が向いているという証拠だ。エレベーター係にたんまりとチップをくれてやると、それを降りた。
「何とも美しい日だ!」。ノリヴァルはそう思った。今、この場に車がないのは残念だが、然るべき時までにジュッカが旅の段取りを全て整えてくれるだろう。ノリヴァルはこれから企てる逃避によるものなのか、あるいはグロリア地区に住む小麦色の肌の娘との逢い引きによるものなのか、それが果たして何に起因しているのか分からなかったが、興奮と胸騒ぎを感じていた。
我々は何とも奇妙なことに執心する嫌いがある。そう、ノリヴァルは考えた。時々、特に可愛い訳でもない小娘に目を付け、その娘との“逢い引き”に漕ぎ着けるまで涙ぐましい努力をし続ける。驚くべきことに、自分がここポルト・アレグレの地を去る日の午後に、フロリッパは小娘との逢い引きを手配したのである。そうしたことを考えるにつけ、生気の失せた、何とも気掛かりな感情に満ち溢れた悲しみが胸に去来した。しかしながら、この先、国境のあちら側で自らが体験するであろう出来事や、旅中での楽しみ、新しい顔ぶれ、未知なる街々、外国語、新しい女たちを目にし、所有すること等を考えている内に、そうした悲しみも瞬く間に消え失せた。自尊心と不安が入り混じった気持ちを抱きつつ、自らの逃避が人々の知るところとなり、商取引きの実態が明るみになった時にいかなることが起きるのかを想像した。くだらん! そのようなことをやってのける奴は何も、この俺だけではない。世界はとてもデカい……。そして人間は全くもって愚かだ……。そう、ノリヴァルは結論づけた。
突如として、黒々とした陰が思考を覆った。今晩までに沢山のことが起こるだろう……。もし奴らが俺のことを捕まえに来たら? だが、そんなことは有り得ない。馬鹿げている! 誰一人として、俺の今の状況を知る者はいない。ジュッカを除いては。奴は信頼のおける友だ。何ら危険はない。一つのパンを盗んだ男を捕まえる方がずっと容易なことだ(かのジャン・バルジャンのことを思い出しつつ、正義の行使とはそのように奇妙なものだと考えた)
駐車場と隣接するドーレス教会に向かって歩き始めた。煙草に火を点けると時計を見やった……。空には雲一つ無い。まさに夏日だ。アロンソ神父……。ノリヴァルは予期せぬ優しさに心が満たされ、ある決心をした。
程なくして教会の大階段を足早に上って行った。丁度その時、初めてそこで聖体拝領を受けた日のことを思い出した。何と年月が経つのは早いことか……。腕にリボンを巻き付け、ロウソクを手に持ち、感動に打ち震えながら……。しかしあの時、なぜか腹が減っていた。それは冬の灰色を帯びた朝のことだった。あるいは春の朝だったか? はっきりと思い出せない……。
教会へと足を踏み入れて行った。長い年月を経た匂いがする。静寂。薄暗がり。ノリヴァルは奇妙な感覚に襲われた……。両手で帽子を掴み、両腕を垂れ、頭を軽く傾げたまま、僅かばかりの時を過ごした。主の祈りに限らず、何一つとしてお祈りの文句を思い出すことができなかった。断片的ではあるが、主の祈りを早口で、モゴモゴと唱えた。そして頭の中で、聖母ドーレスに誓いを立てた。
「もし私がモンテビデオに何事もなく無事に辿り着くことができましたら、最初に目にした教会で一〇〇人の人々に施しをします」
まるで仲買人に取り引きの二〇パーセントのマージンを約するかのように、そう商取り引きを交わすがごとく、その誓約を取り交わしたのだった。
ノリヴァルは別れを告げるかのように聖像に一瞥をくれると踵を返し、教会を後にした。大階段を駆け下りると、通りを横切った。そして一台の車に滑り込むと、運転手に尋ねた。
「あんたはフロリッパがどこに住んでいるか知っているかい?」
若造の運転手はニタニタと下卑た笑いを口許に浮かべながら、口を開いた。
「ドトール、ここいらでそれを知らない者はいませんぜ」
「口の利き方に気をつけろ! ベンジャミン、具合はどうだい? こいつがあんたの車とは気づかなかったな」
「ノリヴァルさん、あなたはそんなに急いでいるのですかい?」
ノリヴァルは「ククッ」と笑うと、シートに身を沈めた。車は走り出した。数分後、メニーノ・デウス地区の小径にあるフロリッパの家の玄関口に車は停まった。ノリヴァルは二〇ミル・レイスを運転手に手渡し、彼の肩をポンポンと叩くと、車から降り立った。
フロリッパの店は河岸に面したコロニアル風の古い家屋の中にあり、“顧客たち”が他人に見咎められることなく出入りできる、目立たない場所にあった。威厳溢れる巨大な門はすでに朽ち果てており、そのためか家屋全体が今や零落した尊厳がそこはかとなく漂い、信頼のおける場所という雰囲気を醸し出していた。ノリヴァルはアカシアやタイワンセンダン、それにモクレンが生い茂る、手入れの行き届いていない庭を横切って行き、古びた階段を上がると、色褪せた扉をノックした。フロリッパ自身が応対に出た。
「ああ! あなた様だとすぐに分かりましたわ……」
夫人は肉づきの良い手を顧客の方に差し出した。ノリヴァルは誠意を込めてその手を握った。
「フロリッパさん、あなたは何とも粋なお方ですな!」
「まあノリヴァルさん、そうであれば良いのですが! もう私の時代はとっくに過ぎ去りましたよ」
「そんなことはありませんよ! 全くもって!」
フロリッパは太った、五〇絡みの小女だった。丸顔で、そこにはどこかしか赤子のような表情が垣間見られた。腫れぼったい目には狡猾さというよりも、むしろ母性的な感情が込められた光が宿っていた。短く、太い指には巨大な宝石が嵌め込まれた指輪がギラギラと輝いている。女主人は鳥と薔薇色と白色の花があしらわれた、シルク地の青色の派手なキモノを身にまとっていた。
「お嬢ちゃんはどこですか?」
ノリヴァルは自宅にでも居るかのように帽子を椅子の上に放り投げると、そう尋ねた。
「リビングにいらっしゃいますよ」
ノリヴァルは言われた方へと向かった。自分がフロリッパに対して、高く評価している点はその身なりの清潔さと、言葉遣いの上品さだった。自分は気安く名前を呼び捨てにするような輩を嫌っていた。
グロリア地区の小麦色の肌の娘はおどおどした様子で小さなテーブルの側に腰を下ろし、雑誌のページをめくっていた。ノリヴァルが部屋に入って来ると、その娘は立ち上がり、はにかむように微笑んだ。ノリヴァルはつかつかと彼女の許へと近づいて行った。
「ご機嫌いかがですか?」
誠実さと礼儀正しさの入り混じった口調で、そう尋ねると、手をサッと差し出した。
しばし二人は手を握り合ったままだった。ノリヴァルは厳粛な雰囲気を漂わせている。会ったばかりだが、すでに相手に親しみを覚える。一方、娘の方は未だはにかんだ様子で、身をわずかに縮こまらせていた。
「何を飲まれますか?」と、ノリヴァル。
「何でも結構です」
その娘の声は甘く、郊外に住む者独特な響きがあった。
「フロリッパさん!」
女主人が姿を現わした。
「お呼びかしら?」
「ここにはシャンペーンはありますか?」
「もちろん、ございます」
金の詰め物が施された大きな犬歯の覗かせて、フロリッパは口許に笑みを浮かべた。
「輸入物ですか?」
「イタリア産です」
「結構です。それを一本開けるように言ってください。グラスを二つ、いや三つお願いします。あなたにも少しばかり味わっていただきたいですから。さあ皆で、お祝いしましょう!」
フロリッパは家の奥へと引っ込んで行った。今や、午睡の気怠い静寂が漂っている。ノリヴァルは品定めをするように、その娘をじっと見つめていた。“完璧”だとも。そう、彼は結論づけた。自分がやったことが間違いではなかったことを喜びつつ、その娘を自分の許へとぐっと引き寄せると、気取った口調で尋ねた。
「さて、“我が麗しき花”よ、これからどうしましょうか?」
戸外では、モクレンの木の枝に止まった小鳥が囀り声を上げている。
インペリオ・ビルの管理人がそう断言したのは、実に三度目だった。
「ここにはパウロ・エドゥアルドなる名の住人がいないということを保証しますよ。そのような御仁の名を誰一人として知りません」
トニオは途方に暮れていた。この建物の居住者リストに目を通した。使用人たちにも色々と尋ねてみた。一三階に住む様々な居住者たちをつぶさに観察した。しかし誰一人として、そのパウロ・エドゥアルドなる人物を知る者もいなかったし、その名を耳にした者も皆無だった。
しかし幾度となく、ジョアーナ・カレフスカを載せたことのあるエレベーター係の証言が自分に多大なるヒントを与えているように思われた。
「彼女は何度もここにやって来たのですか?」と、トニオは尋ねた。
若いムラートの男はその日、何十回となく同じ話を繰り返し語っていたため、間を置くことなく即答した。
「何度もいらっしゃいました。いつも私にチョコレート、あるいはボンボンを持って来てくれました。あの最後の日には、万年筆を持って来られました」
「彼女はパウロ・エドゥアルド何某のことを一度として話しませんでしたか?」
エレベーター係は一瞬、考えを巡らせたが、その後、頭を横に振った。
「はい、一度もお話しになりませんでした」
「だが……、ここに何をしに来たのか、一度も話しませんでしたか?」
「はい……、あの方はエレベーターに載って上階に昇り、窓越しに下を眺めるのが好きとだけ話していました……」
「一度として友達か、あるいは男性と一緒にエレベーターに載り合わせたということはありませんか?」
「はっきりとは思い出せまんが、あの方はいつも私とお話しをされていました」
「彼女はいつも何階で降りていましたか?」
「ある日は五階で、またある日は一〇階で、時々、屋上階で降りられることもありました。どうか管理人にそのことを言わないでください。なぜなら、部外者を屋上階に連れて行くことは禁じられていますから。良いですか?」
「それで、例の娘さんが身投げした日……、あなたは彼女に何か変わったところがあるのを気づきませんでしたか?」
若者は一瞬、それについて考えを巡らせた。
「よく覚えていません。あの方が私の退社時間間近、ほぼ日が暮れの時間帯にやって来たことぐらいです。そして屋上階まで行くようにと言われました……。そんなことぐらいです、私が思い出せることは。しかし一三階に着いた時、あの方叫ばれました。「ここで停めてくれ」、と。私がエレベータを停めると、あの方は出て行かれました。そして階下にエレベーターで降りると、あの大騒ぎです。人々は駆けて行きます……。その内の一人が私に語ったところによれば、一人の若い女性が身投げした、と……。私もそれを見るべく、現場へと走って行きました。身投げした女性は、まさにあの方でした……」
トニオはエレベーター係の若者にお礼のチップを渡すと、通りへと出て行った。
鮮明なイメージに裏打ちされた一枚の絵画を仕上げるために、記憶に留められている今日一日、掻き集めた情報を繋ぎ合わせようと頭を空っぽにした。そして、次のような結論に達した。
【一】
ジョアーナ・カレフスカの父親は自殺した。周りの皆は彼が精神的に不安定だったということを示唆している。
【二】
パウロ・エドゥアルドなる人物はジョアーナ・カレフスカを性的に興奮させる創造の産物に過ぎないように思われる。事実、彼女はヒステリー体質だった。
ジョアーナはインペリオ・ビルに入り、いくばくかの時間をそこで過ごした(それが何階であれ)彼女は女友達や婚約者、そして恐らく、自分自身に対しても、富と優雅さの象徴たる建物に愛人が住んでいると信じ込ませたのである。
【三】
婚約者や友人のレジィーナ、エレベーター係の証言、さらには自殺を仄めかすいくつかのメモ書きから推測するに、犯罪の仮定は成り立たない。
しかしながら……、彼女が自殺した原因は一体、何なのだろうか? そう、トニオは自問した。あれほど冷徹に身を投げ、血みどろになるようなことが果たして、ありふれたことだろうか? 尋常ならざることだ。何か目に見えないものがあるに違いない。ジョアーナは母親や女友達に自分が妊娠していることを告白している……。
トニオは通行人の一人にぶつかった。それにより、不意に現実世界に引き戻された。ぶつかった相手に微笑み掛け、詫びの文句を告げると、再び歩を進めた。あれら全ては空想的且つ小説的、非現実的なもののように思えてならない。胸に様々な疑問が渦巻く中、ぼんやりとだが、この事件が起こる前にパウロ・エドゥアルドなる名前をどこかで読んだか、耳にしたのではないかと考え始めていた。あるいは全くの思い違いなのだろうか?
最良なのは、この案件のことを忘れることだ。肉体を伴うジョアーナはすでに他界している。架空世界のジョアーナ、万歳!、だ。しかしながら、彼女に別の運命を付与し、少なくとも世人の考えも及ばない、ありそうもない物語を創造する必要がある。時計を見た。四時二〇分だった。これで調査は終わりとしようか……。しかし、一つの考えが頭に浮かんだ。警察の法医学者に知り合いがいる。彼の許を訪れるとしよう。なぜ、そのことを真っ先に考えなかったのだろう? 大急ぎで車に乗り込んだ。
アリスチィーデス・バヘイロは少しばかり両脚と腎臓辺りに痛みを覚え、ポーカーの席を辞した。ほぼ三時間、中断なしにゲームに興じ、コーヒーを飲み続けた。モエマの許に再び足を運ぶということを考えるにつけ、半ば興奮と不安を感じていた。同時にあの小娘に会いたいという願望とぼんやりとした良心の呵責の狭間で心が揺れ動いていたのも事実だった。ゲームの最中、同情のこもった眼差しでノリヴァル・ペトラの方にチラチラと目をやった。落ち着き払った雰囲気を漂わせ、その所作や言葉遣いも穏やか且つ自然体のあの若造が破産寸前という、何とも厄介な状態に陥っているとは信じ難かった。彼の気質、それに強固な自制心は驚嘆に値した。
アリスチィーデスはクラブの回廊に出ると、今日のレースについて尋ねる友人たちと顔を合わせた。
「“パンペイロ”は絶好調だよ」
アリスチィーデスはそう請け合った。口許に笑みを浮かべながら、さらに付け加えて言った。
「奴に賭けたら良いとも」
ビリヤード場へと足を踏み入れて行った。挽き立ての芳しいコーヒの香りと、葉巻の煙の匂いが充満している。球と球がぶつかり合うことによって起こる、目も醒めんばかりの澄み切った音がアリスチィーデスの耳に祝祭の音楽のごとく響いた。ビリヤード場に漂う躍動的且つ何ものにも思い悩むことのない空気が好きだった。シャツの袖を捲り上げ、煙草を吹かしながら議論を交わし、けたたましい笑い声を上げ、気の利いた逸話や滑稽な話、悪口や儲け話、大ぼら等を口にし、ゲームに興じる男たち。
扉の側に集まっている人々の中に、アリスチィーデスはサルジャンの姿を認めた。彼は資本の仲買人で、上背で、小麦色の肌に、頭は禿げ上がっていた。分厚い唇は紫色掛かっていて、ギョロリとした大きな目は飛び出していた。周りに響き渡る低音の利いた大きな声の持ち主で、常に劇の演者のごとき話し振りだった。彼の口から発せられる言葉は対話者だけに限らず、その場を偶然通り掛かった者、あるいは周囲にいる者に対しても向けられていた。
「全くもって、彼奴がどのようにしてクラブに入ったのか分からん!」
そう、サルジャンは叫んだ。
アリスチィーデスはぼんやりと興味を惹かれながら、その男の言葉に耳を傾けていた。それに目を留めると、サルジャンは叫んだ。
「ああ、アリスチィーデス、気をつけたまえ!」
アリスチィーデスはこの自分との親密さを利用するいかなる理由も、権限も持たない輩から、そのように扱われるのを目にするにつけ、苛立ちを感じていた。サルジャンは伏目になり、半ば保護者のような雰囲気を漂わせ言った。
「私が言及している御仁とは、ペトラのことだ」
「彼がどうしたと言うのだ?」と、アリスチィーデス。
「あんたは知らないのか?」
サルジャンは驚きのため、しかめ面をした。
「バヘイロ、そのようなことは絶対に有り得ないとも。皆がそのことについて批評していると言うのに。何とあんたは善人で、無知なんだ!」
アリスチィーデスは苛立ちがますます募って行った。それについていかなる反駁をすることなく、仲買人の顔を険しい目つきで睨み付けていた。グループの中の三人が物見遊山を決め込むように、サルジャンの方をじっと見つめている。
「ペトラを見かけたらコートのボタンを閉め、財布を安全な場所にしまいたまえ」
アリスチィーデスは口の中がカラカラになるのを感じた。そして声を押し殺し、歯の間から絞り出すように言った。
「ノリヴァル・ペトラは俺の友人だ」
サルジャンは日に焼けた大きな手を広げて、大袈裟な仕草をした。
「皆はノリヴァルがコソ泥だと言っている」
アリスチィーデスの頭にカッと血が上った。彼奴は俺の前でどのようにすればそのようなことを言えるのか? それが事実であったとしても……、奴はもっと敬意を払う必要がある。そう、もっとだ……。
「あんたに言った通り、ペトラは俺の友人だ。よって、俺の前で何人たりとも彼の悪口を言うことは許さん」
サルジャンは黒ずんだ歯を剥き出しにして呟いた。
「理由はどうであれ、街には大勢の恥知らずの輩で溢れ返っている……」
顔を真っ赤に染め、目をカッと見開き、唇をワナワナと振るわせながら、アリスチィーデスは仲買人の外套の襟を掴み、激しく揺さぶった。
「この恥知らずめ、お前に人に敬意を払うということがどういうことか教えてやる!」
部屋中に衝撃が走った。青ざめた顔のサルジャンは腕を激しく振り回した。アリスチィーデスは彼を壁に押し付けた。
「ドトール・アリスチィーデス、何をやっていらっしゃるのです!」
誰かがそう叫んだ。
丁度その時、アリスチィーデスの肉づきの良い拳が仲買人の顔にめり込み、その殴打の音はビリヤードの二つの球がぶつかった際に立てる音のように、部屋中に大きく響き渡った。どうにかこうにかして、三人の男たちがアリスチィーデス・バヘイロを部屋の外へと引き摺って行った。人だかりの中、サルジャンは両腕を上げ、喚き散らかしていた。
アリスチィーデスは和解を促す友人たちを振り切って、階下へと向かった。あの爆発的とも言える心情の吐露は実に気分の良いものだった。あの何とも言えぬ混沌とした雰囲気に、どこかしか人を弾劾するような静寂に、陰口を叩く人々に辟易していた。そうした状況を打破するために、何かをする必要があったのだ。俺はムラートの顔に一撃を喰らわせたことを全く後悔していない。サルジャンは全くもっていけすかん奴で、何事にも首を突っ込みたがる。だから奴には戒めを与える必要があったのだ。その点、上出来だった。奴に拳をお見舞いしてやった。この先、俺の人生に厄介ごとを持ち込む輩には、同じように一撃を喰らわせるだろう。
エレベーターに乗り込んだ。依然として顔は真っ赤だった。黒人のエレベーター係が何か言葉を掛けて来たが、アリスチィーデスはそれには答えなかった。しかめ面で、息を切らしハアハアと喘いでいた。
クラブの玄関口に降り立つと、日差しが燦々と差す広場の方に目をやった。しかしすぐさま、その景色の中に一つの姿を認めた。モエマだ! これから彼女の許を訪れる予定だと言うのに、何とも馬鹿げている! 人生は短い。再び身投げをした女性が横たわっていた場所へと目をやった。そうとも人生は短く、数多の不幸に満ち溢れている。この自分は自らの意志のあるが儘に生きることを許された人間だ。厄介ごとを持ち込む奴には、その顔に一発、拳を喰らわせてやる。
自分を拾うよう、車の運転手に合図を送った。この後、このような場面が展開するのだ。モエマはまさに心を落ち着かせる存在そのものだ。二人は会話に興じる。彼女は長椅子に腰掛け、この自分はその横で彼女の髪を愛撫している。他の何者であれ、地獄に堕ちろ! あの恥知らずのムラートもな。
アリスチィーデスは車の中に滑り込んだ。
「アレージィオ、モエマの家にやってくれ」
シートに身をもたせかけると、モエマと過ごす時間、そう目眩く魅惑の時のことを考え、それを味わっていた。とどのつまり、男というものが権利を獲得するのだ……。
徐々に気分が落ち着いて来た。気分の落ち着きを取り戻し、呼吸が正常になるにつれ、少しづつではあるが、仲買人に対して憐憫の情を感じ始めた。奴の驚愕ぶりと恐怖に歪んだ蒼白な顔を思い出した……。気の毒な奴め! また一人、敵を作ってしまった。結局のところ、俺は一つの身振りをしたに過ぎない……。誰もが、この俺のことを非難するのは易しいが、それを軽々しくやったなら、敵対者となる(フローレス・クーニャのことを思い出した。その思い出を頭から追い払った。それはあくまでも大昔の話だ)サルジャンは怪我をしただろうか? 奴の状態を尋ねるために、モエマの家から電話をすることにしよう。
「全くもって厄介なことだ」
そう、アリスチィーデスは呟いた。
数分後、車は停まった。アリスチィーデス・バヘイロは新たな不安を胸に、車から降りた。
ガリガリに痩せた悲しげな顔つきの中国人の男が一人、公園の円形球技場を横切って行った。その男は生花と色取り取りの紙で作られた花飾りで満載されたカゴを担ぎ、片手には水素が充填されたゴム風船――白、青、赤、緑、紫、黄色の風船――が吊るされた紐を握っている。それらは巨大な様々な色の葡萄が実った房のごとく、空中でゆらゆらと揺れ動いている……。
リタはうっとりとその光景を眺めていた。風船を一つ買いたかったが、ぐっと堪えた。それを買うには、自分が余りにも歳を取り過ぎていると考えたからだ……。その脚の捻じ曲がった中国人の男が自らの影を引き摺って、並木道に沿って歩いて行く様をじっと見つめていた。紐に吊るされた風船は午後五時の日差しを受けてキラキラと輝き、揺れ動いていた。
リタは再び手に持つ雑誌のページに視線を落とした。その隣りでリヴィアが息子のジルのためにガーネット色のセーターを編んでいた。彼女は何も考えることなく、手は自動的に動き、幾度となく繰り返され、今や習慣となった作業に没頭しつつも、思考は遥か遠くに羽ばたいていた。未だかつて、あの塔からこれほど切り離されたことはない。肉体が自宅から離れようとも、魂の一部は常にそこに留まっていた。馬鹿げたことではあるが、自分は常々、火事を恐れていた……。そう、外出して帰宅したら、火事で家が廃墟になっていたらどうしよう、と。全くもって不合理なことかもしれないが、自分自身、そうした不安や恐れを克服することができなかった。人生はある種の経験を与えてはくれるが、幼少時代より胸に抱いて来たありとあらゆる恐れを消し去ることができずにいる自分を発見し、時折、そんな自分を笑ったりする。何を見るでもなく、編み目を編み針の先をぼんやりと見つめつつ、夫や、ノーラ、ジルのことを考えた。彼らはそれぞれ、日々の雑用や、友人関係、約束事に奔走していることは疑いの余地がない……。しかしながら、家族がばらばらに離れて生活しているという考えに言い知れぬ不安を感じずにはいられない。もし家族の誰かが災難や、不慮の事故に巻き込まれたらどうしよう。神に対する自らの信仰が比類なきほど完璧且つ完全で、ありとあらゆる不安や恐怖を消し去り、将来に対して心穏やかな自信と、「何が起ころうとも、それは主の意思であるのだから大丈夫だ」と言い切れる勇気が与えられたら良いと願っている。
小鳥たちが木々の茂みで囀っている。枝葉が生い茂ったアカシアの木から、お祭り騒ぎのごとくけたたましい鳴き声が聞こえて来る。時々、近くの巣から鷺とハゲコウの鋭い鳴き声が聞こえる。空は青みを帯びている。日差しは少し前から甘く、オレンジ色掛かっている。ありとあらゆる場所は神秘的とも思われる、紫色掛かった色彩を帯び始めている。その色合いは地面に映る影へと、家々のファサードへと広がり、遥か彼方に連なる丘々の緑を覆い尽くし、空気もまたその色に染めている。全てのものに途轍もなく大きな安らぎが訪れた。しかしその安らぎは不思議と、人々の心に悲しみをもたらせる類いのものだった。
リタは雑誌のページに集中できずにいた。夜が近づくにつれて、自分が愛してやまない人にサインをしてくれるよう言葉を掛けなければならないと思うと、気が漫ろでならなかった。その瞬間を考えずにはいられない。私はその時を熱望しながらも、何と怖気づいていることだろう! 彼に人生の全熱情を、全愛情を傾け、その最愛の人の顔を二度と忘れることがないように心に刻み込むためにも、その瞬間に全神経を集中しなければならない……。
そうしたことを考えながら、ベルナルド・レゼンジの姿を頭の中に描いた。最も気狂いじみたことは、あれほど彼のことを愛しているにもかかわらず、その顔の仔細を思い出すことができず、彼のそれと似た映画俳優の顔と混合している自分がここにいるということだ。ベルナルドの写真を始終、見ていなければ……。愛する人の顔を忘れてしまうようで、その人を愛することなんてできるのかしら?
リタは周りを見た。昼下がりの美しさに憂鬱な気分になった。胸に重しがのし掛かっているようで、泣きたい気分だわ……。
「お母さん、見て! アイスクリーム屋さんだわ」
愛するマエストロの姿(不確かな記憶により、その姿は変わっていた)は突如として、思考から消え去った。
「落ち着きなさい、リタ。あのアイスクリームがどこで作られているのか、誰も知らないのよ」
「お母さん、一ミル・レイス頂戴」
そう言うと、アイスクリーム屋の方に手で合図した。
「ねえ、こっちに来て頂戴!」
白いエプロンをつけた太った男が車を押して、こちらに近づいて来た。
「ココナッツか、バニラか、パイナップルか、苺か、どれになさいます?」
「苺は駄目よ、腸チフスになってしまうから……」と、リヴィア。
「イチゴ以外のやつにするわ。大きなカップで、お願い」
アイスクリーム屋がアルミニウムの筒の中に収められている、色取り取りのアイスの中に木ベラを突っ込み、それを掬い上げている間、ワクワクしながらじっと待っていた。リタはベンチに戻ると、舌の先にジンジンと伝わる冷たさによって、心の内に呼び起こされる様々なことを思い出しながら、アイスクリームを舐めていた。突然、怖気のようなものを感じた。なぜなら一人の女性が自分のことをマジマジと見つめていたからだった。そちらの方を見た。その女性は小麦色の肌で、上背で、人の良さそうな顔つきをしていた。彼女のことを知らなかったが、顔を赤らめつつ、微笑み掛けた。その見知らぬ女性も微笑んだ。
「美味しい?」
対して、リタはゆっくりと頭を縦に振るにとどまった。マリーナ・レゼンジはリタの側に近づいて来た。彼女は一時間以上、公園の中を当て所なく歩き廻っていた。そしてリタを目にするや、娘のジィシィーニャのことを思い出したのだった。娘が生きていたら、あの子と同じぐらいの年齢だわ……。そう言った訳で、彼女を観察するために足を止めたのだった。その娘さんは私に微笑み掛けてくれた。自分の口から出た問い掛けは非常に自然なものだったため、その行為に対して何ら後悔を感じていなかった。この自分が招かれざる客ではないということは確かなことだ……。リヴィアは今、仲間に加わったばかりの婦人に微笑み掛けた。
「奥様、この子ぐらいの年齢の娘はもう少し礼節というものをわきまえるべきだとお思いになりませんか?」
それに対して、マリーナは疑わしげに首を傾げた。
「私には分かりませんわ……。私自身、こんなにも年老いていますが、その娘さんと同様、アイスクリームを食べたいのですもの」
「なんて感じの良い方だろう!」。その見知らぬ女性の頭の天辺から爪先まで観察しつつ、リタはそう思った。
「少しお座りになりません?」と、リヴィア。
その申し出が極めて自然なものだったため、マリーナはそれに同意した。リタはその女性が座れるよう、母親の方へとにじり寄った。マリーナはすっかり寛いだ気分で、ベンチに腰を下ろした。
「美しい昼下がりですこと!」と、マリーナは叫んだ。
「そうですね」
見ず知らずの人を前にしていたためリタは声音を変えて、そう呟いた。
「あなたはこちらの方ですか?」と、リヴィア。
「いいえ、私はリオ出身です」
「ああ!……」
「リオをご存知かしら?」
「いいえ。でも、あちらを知りたくて堪りませんわ」と、リタ。
「お父様が来年、リオに連れて行ってくれると言っていたわ……」と、リヴィア。
リタは自分自身が誰の娘なのか言いたくてうずうずしていた。しかしながら、どのようにそれを伝えたら良いのか、皆目見当がつかなかった……。
「あなたは何歳ですか?」
「一五歳です」
「もし私の娘が生きていたら……、丁度、あなたと同じ年齢だわ。それに、あなたは私の娘に生き写しのように思えてよ」
心の奥底から感動を覚え、その娘の顔をしげしげと見つめた。そうだわ、ジィシィーニャはきっとこの子のようでしたとも。丸顔で、口が小さく、目は……。いいえ、ジィシィーニャの目は漆黒だったわ……。でも、それ以外は……。栗色の髪に、あの微笑み……。まさに全部が全部、その娘さんとそっくりだわ。
「お名前は?」
「リタです」
「可愛らしいお名前ね」
「それで、あなたの娘さんは……、何というお名前かしら?」と、リヴィア。
「エウリージィセです……。少しばかり気取った名前ですが、私たちが子供に難解な名前を付けても仕方がないことです。と言うのも、結局のところ、ニックネームで呼ぶことになるからです。娘の場合はジィシィーニャです。エウリージィセという名を娘に付けたのは、私の夫です。当時、彼はオペラに夢中になっていましたから」
「旦那様はこちらにいらっしゃるのですか?」
「はい、おります」
マリーナは作り話をした。
「会社の仕事でこちらに来ています。夫はリオの商社で働いています」
そうした嘘を並べ立ていることに、奇妙な快感を覚えていた。それはあたかも自分自身に別の人格を付与しているように思われたからだった。まるで夫の精神性や人格を変えることができるかのようだわ。夫のことをブルジョア的で、物静かで、気配りのできる、人生における単純な事柄に興味を抱き、堅実にして、バランスの取れた、馬鹿げた虚栄心を持たない男だと想像した。マリーナは自らのそうした嘘に酔いつつ、先を続けた。
「夫は靴の取り引きをしています。履物工場の主任ですの」
「まあ!」
リタはその見知らぬ婦人から発せられる香水の匂いを鼻腔に吸い込んだ。好きな香りだわ。爪に施されたマニキュアの色合いも、とても素敵だわ。リタは自分自身が婦人に対して何を口にし、尋ねることができるのか知りたい一心だった。しばし沈黙が漂う。
「それは短いジャケットですか?」
マリーナはリヴィアがしている編み物を指差し、そう尋ねた。
「いいえ、息子のためのセーターです」
控えめな誇らしさを込めてさらに続けた。
「私には一八歳になる息子がいますの」
「一八歳ですって? あなたはそんなにお若いのに……」
「そう見えても、私には他に二〇歳の娘が一人います」
リヴィアは微笑んだ。マリーナは驚嘆の眼差しで相手を見つめた。そして声音を変えて言った。
「そのように子供さんがたくさんいらっしゃるご家庭って楽しいでしょうね?」
「楽しいですが、骨の折れることも事実です。ところで、あなたのお名前は?」
「マリーナです」
「確かに良い部分も、悪い部分もありますが、私はそれに対して不平を並べ立てることはできません。なぜなら子供たちは私の苦労以上に喜びを与えてくれますから」
「あなたのご主人も商売をやっていらっしゃるのですか?」
リヴィアはそれを是認する方が良いと考えた。
「ええ、そうですわ」
リタは息を飲んだ。お母さんは一体、何を考えているの! お父さんが商売人だなんて……。私が狂おしいぐらい、この自分が作家の娘だと言ってやりたいっていうのに……。お母さんの考えは何とも馬鹿げているわ!
「その部分の編み方は難しいかしら?」
「いいえ、二針刺して、くるりと毛糸をかければ良いのですよ……」
しばしの間、リヴィアは編み方を説明していた。マリーナは満足げな様子だった。取るに足らない些細なことを話すことのできる、人間味溢れる人たちと出会うことができたわ。編み物の話からお菓子のレシピの話へと話題が移り、さらにそこから家の装飾についての話題へと次々と変わって行く。掃除機や、野菜の行商人に支払う代金、召使との接し方、食料雑貨店への支払い、ある種の贅沢、嗜好品に至るまで様々な話題、問題が提示され、それらに対して精査し、意見交換が行われた。リオとここポルト・アレグレでの生活費の違いについても議論が交わされた。
「ここではカリフラワー一株、おいくらですの?」
「あちらでは果物の値段は高いですか?」
「アルゼンチン産の林檎のことを想像してみてください……」
リタは憤慨していた。二人の会話が途切れるのを見計らって尋ねた。
「あなたはもうこの公園をご存知ですか?」
「いいえ、初めてここに足を運んだものですから」
「もう養魚池をご覧になりましたか?」
「いいえ」
リタはベンチから立ち上がった。
「私と一緒に行ってみません?」
その申し出を受け、マリーナも立ち上がった。リヴィアはそこに留まることにした。リタは地元民気取りで、ガイドの役割を務め始めた。
樹冠が生い茂った高木に囲まれ、日陰となった養魚池の側で二人は足を止めた。嘴に魚を咥えた鷺が飛沫を上げ、飛び去って行った。その後を他の鷺たちが追い掛けて行く。エサ袋が黄色で、胸許が赤色、羽根は艶々とした漆黒のトゥカーノ[オオハシ]が鳥籠の中で、まるで剥製ででもあるかのように微動だにせず止まり木に止まっていた。小猿が銀の棒の上でアクロバティックな曲芸を披露していて、クロハゲタカは記念像のような威風堂々とした姿勢で濡れた翼を広げ、日差しと風で羽根を乾かしていた。
リタはその養魚池の様を同行者に見せ、様々なエピソードを語った。しかし、その内に同行者のことをすっかり忘れて、鷺の争う様をじっと見つめていた。魚が嘴から他の嘴へと渡り、魚を咥えた鷺がそれを呑み込もうと懸命だ。しかし他の鷺の追撃を受けたそいつは養魚池の周りを飛び回るも、他の鷺が銀色に輝く獲物を奪い取った。
マリーナはリタの体内に娘のジィシィーニャが宿っているとしか思えなかった。自分の横にいるのは、自分の娘であると想像した。心の中で彼女の髪を撫で、リオに連れて帰り、自分の家に永遠に住まわせることができたら、どれほど幸せだろう、と考えた。
「カピバラを見に行きません?」
そう、リタは尋ねた。極めて自然な仕草でマリーナの腕に手を回した。マリーナは甘美ともいえる嬉しさのあまり、体をブルっと震わせた。
「リタ、私はあなたのことを好きになってしまったわ」
「まあ……、どうもありがとうございます。カピバラをご覧になって。どれほどの女性たちがカピバラの毛皮でできたケープに憧れていることでしょう。面白いと思いません? 時々、人間って動物に似ていると思うことがあるのですもの。私はあのカピバラとそっくりな男性を知っているわ」
マリーナは微笑んだ。リタは頭上を見上げると言った。
「上をご覧になって……。木々にあんなに沢山の鳥たちが居るなんて」
それを受けて、マリーナも見上げた。黄色のエサ袋の丸々太った鳥たちが木の枝に止まっている。突如として、ベートーベンの〈熱情〉の一節が耳朶に響き渡り、今のこの瞬間をこれから先、決して忘れることはないだろうと思った。腕を圧するリタの腕の感触、青空に映える緑色の葉茂み、微動だにしない鳥たち、鷺の鋭い鳴き声……。決して忘れることはないわ! これほど大きな、完璧とも言える幸福を長いこと感じたことがなかった。一つ、彼女にお願いしてみようかしら。あなたにキスをしても良いかって? しかし、それをするのをグッと堪えた。可笑しなことに成りかねないわ。そのようなお願いはしない方が良い……。
二人は木陰に沿って歩いて行った。水面に枝垂れ柳の姿が映る、小さな人工湖の湖畔で立ち止まった。芝生が生い茂った広々とした花壇の上に、数十羽の黄色の嘴の白いガチョウが座り込み、ピクリとも動かない。それらは陶磁器の置物か、あるいは大理石で作られた彫刻のようだった。しかし、その内の一羽がついと立ち上がり、湖の方に向かって歩き出した。他のガチョウたちもそれに習い、一羽づつ、湖の水面に体を滑り出させた。完璧だわ! マリーナはそう考えた。完璧だとも……。今のこの瞬間を少しでも長引かせたい。今、この私がリタの腕を掴んでいる。ガチョウたちが物音一つ立てず悠々と泳いでいる……。
マリーナは流しの写真屋の姿を認めた。一つのアイデアが浮かぶ。
「一緒に写真を撮らない?」と、マリーナ。
「素晴らしいわ!」
そう、リタは叫んだ。二人はその写真屋を呼んだ。
「私たち二人を綺麗に撮ってくださいな。二枚、写真をいただきたいわ」
写真屋はカメラの後方に腰を下ろした。マリーナはリタの腰に腕を回した。それで二人はレンズを見つめて、身じろぎをしない。何てことでしょう! マリーナは心の中で叫んだ。私は幸せだわ! 私は幸せだわ! 本当に! リタは微笑み掛けた。
「さあ、こちらに注目ください!」
写真屋が叫んだ。続いて、“カシャ”という音が聞こえた。
「撮れました!」
リタはレンズの方へと近づいて行った。マリーナは顔を反らすと、こっそりとハンカチを目に当てた。
ある一定の周期でアウレーリオの脳裏に、特に二つのことが去来するのが常だった。一つは裸の女性の姿で、今一つは最新の車の広告モデルの女性の姿だった。そうしたイメージを持つこと自体、少しばかり荒唐無稽なことのように思われたが、仮にそうであったとしても、心の内に渦巻く懸念、関心事を生き生きと表わすものだと言えた。アウレーリオ・モンターニャ・バヘイロは女性や馬、車を頭に描く際、空気力学的な輪郭をそれらに付与することを殊の外、好んでいた。性急且つ貪欲な態度で女性に飛び付き、競馬に大金を賭け、目眩を催すスピードに身を委ね陶酔するその様は、どこかしこ自殺願望を想起させるものがあり、何ものかを忘れんがための憂さ晴らしのようにも思われた。しかし実際のところ、アウレーリオには忘れたいと思うものなど何一つとしてなかった。苦悩を抱くことも、失敗、あるいは惨めさに思い悩むことも皆無だった。そうした性向こそ、これまで甘やかされて育てられて来たことに起因していることに疑いの余地はない。スイス人の家政婦が身の回りの世話をし、適切な食事が決められた時間に給仕され、家庭教師と教導師が付けられた。当時、アウレーリオは身綺麗で、身だしなみの良い少年で、彼を目にする時はいつも風呂から上がりたてのような印象を受けた。公園、あるいは街の郊外を信頼のおける召使に連れられて、ポニー[“小馬”の意]の背に乗って散策した。それほど多くの友人がいた訳ではない。日曜日限定で夕暮れ時に、道徳にそぐわない内容の映画が上映されている映画館に足を運んだ。
アリスチィーデスは心配するように眉間に皺を寄せ、妻に次のように言うのが常だった。
「ヴェロニカ、私たちは息子を女々しい奴に育てていると思わないかい?」
妻は穏やかな口調で、それに答えた。
「いいえ、アリスチィーデス。私たちは彼が紳士となるように育てているのよ」
アリスチィーデスは肩をすくめると、息子の教育上の心配事を忘れた。常々、“忘れる”ことは実に容易なことだと考えていた。自宅の管理や、息子たちの教育、家族の社会生活のあり方等、様々な問題を妻に押し付けることに慣れ切っていた。それ以外に、この自分は仕事や、取引き、娯楽等の重要事を抱えており、それらの諸問題に対して迅速な対応が求められ、情熱を伴わないありふれた見解を与える暇など無いと考えていた。
しかしながら、アウレーリオが十六歳で中等教育を終えると、彼に“自由”を与える以外、他の選択肢が無かった。彼は一〇年間、公教要理[カテキズム]と礼儀作法をみっちりと仕込まれた。その期間、教師たちや母親、家政婦らは性にまつわる秘め事や、洗練されていない人々が喜びを見い出す世俗的な事柄が彼の目に触れないように腐心した。しかしながら、家族の友人であるローポ神父曰く、彼が“サタンの見習い期間”を終えるのに、僅か数週間で十分だと断言した。アウレーリオが受けた衝撃は甚大なもので、発見時の熱狂は興奮冷めやらぬものだった。やがて彼の中に奇妙な変化が起こった。聖職禄受給者であるエウゼビオがよく言っていたように、“狡猾さ”というものは遺伝するものだ。アウレーリオが性的快楽を模索するにあたり、あたかも遠い昔、野営地や農場、自宅や食料貯蔵庫、売春宿や森で、女の尻を追い掛け、酒やギャンブル、乗馬に明け暮れていた、快楽や所有感、狂気、勝利をもたらすものに固持するバヘイロ家とモンターニャ家の人々に触発されるがごとく、本能に導かれるままに行動したのだった。さらには映画やラジオ、車のカタログや潤沢な小遣い、それに経験豊富な友人たち、旅行なども、彼を堕落の道へと進ませる一助となったことも否めない。
アウレーリオは将来に対して、いかなる不安も皆無の安楽な生活に耽っていた。激情を抱くあまり、魂を鈍化させていた(母の目を盗み、偽名を使ってカーレースに参加し、派手に車を横転させたりした)彼は自分が欲する女性たちを所有し、毎年、最新モデルの車に乗り換えられないことを不名誉なことだと考えるタイプの人間に成り下がっていた。人生のささやかな喜びを味合うことなど、頭の隅にもなかった。四隅の壁に囲まれた空間に閉じ込められることを嫌悪し、家族生活というものにいかなる価値を見い出すこともなかった。両親に関しては、彼らは“必要悪”な存在だと考えていた。母親には敬意を払っていたが、一度として信頼の置ける人物だと思ったことがなかった。父親のことを遊び好きな仲間として好感を持っていたし、“最新の笑い話”を語るがごとく自らの偉業を繰り返し語る癖が好きだった。
アウレーリオは人間や物事に対して、既成概念を持っていた。定義をカタログ化したり、あるいはそれが初歩的なものであれ、自らの人生を一定の枠組みの中に入れるようなことは一度としてやったことがなかった。彼の人生哲学を要約するとしたら、こんな風だろう。“人生は短く、不確実なものだ。不愉快なこともあれば、その反対のこともある。良いことは最大限満喫するようにして、悪しきことはできる限り避けるようにするのだ”。後は? 無駄話、騙しだとも! 人生に横たわる事柄そのものによって、あるいは新聞や書物で読んだもの、または映画で目にしたもの、さらには実際に自分を取り巻く現実の中で体得したものによって、自らの態度の正当性を証明する上での一助となり、さらに確信が高まり、奨励される結果となった。この世界を展望した時、そこに何を見い出すか? カオスだ。あらゆる領域で目にするものは? 頭の切れる人間と愚鈍な人間、それに強者と弱者だ。愚鈍な人間が小心と先入観に支配されるがままになっている一方で、頭の切れる人間はありとあらゆる点で優位に立っている。強者は弱者を抑圧し、彼らに対して専横の限りを尽くす。弱者は自らの脆弱さを正当化するために道理を引き合いに出す。自分が知っている正直者たちは皆、共通して暗愚な、箸にも棒にもかからない連中で、金も無く、大部分は不快且つ退屈な輩だ。「人格者ほど恐ろしいものはない」。これはアウレーリオの口癖だった。そういった輩は偏屈で、気難しく、詰まらないことにこだわり、何の面白味もない。他方、厚顔無恥な人間にはある種の魅力があり、冒険を好む人間は黄金色のオーラーに包まれている。アウレーリオは早い時期に父のことを理解していた。彼が胸を叩きながら“行動原理”や“民主主義”、“人民の幸福”、“品格”等について語る態度の裏に政治的な駆け引きや、権力を手中に収めたいという純粋な野心が潜んでいることを感じ取っていた。父が大胆にも政治という綱の上で、奇跡的とも言えるバランスでもって踊っている様をこれまで目にして来たのだった。一方、ある種の憧憬の念を持って、母親の振る舞いを見ていた。母は父が関わる領域に干渉したり、意見を述べたりすることを一切避け、妻たるものは夫に対して制限なき忠誠の義務を負い、家庭内のことや、子の教育に挺身し、社会的義務を全うすることこそ、果たすべき役割だと考え、行動していた。
アリスチィーデスは身を引く、あるいは妥協する行動を取る理由について息子に説明しようと幾度か試みた。そんな時、アウレーリオは表面的には敬意を払いつつ、じっと、静かに父の言葉に耳を傾けていた。しかしながら心の中ではほくそ笑みながら、「あんたのことを知らない人間なら騙すことができるが、この俺を騙すことはできない」と、うそぶいていた。だからと言って、父のことが嫌いだった訳ではない。奴さんは“良い部類の人間”なのだ。そう考えるにつけ、この問題は一件落着だ。
アウレーリオは彼と同年代で、自分と同じように“尊崇に値する、賢い人間”の若者たちが集うグループに足繁く通っていた。そうした若者たちのお気に入りの話題と言えば、商業的、政治的汚職、あるいはエロチックな性質のものだった。仲間内では、逸話に満ちた冒険談、目を見張らんばかりの詐欺話、恐喝や脅迫の鮮やかな手法等、そういった類いの話題が占めた。
「最近起こった出来事だけど、そいつを知っているかい? ヴェイガの奴がまた職人技とも言える見事な一撃を喰らわせたって話さ……」
その話の終わりにけたたましい笑いが起こった。シカゴのならず者たちの手法が大国の指導者たちによって模倣され、拡大され、それが国際政治の舞台で適用されていたギャング時代に、アウレーリオやその仲間たちは生きていた。当時、匪賊[徒党を組んで略奪や殺人などを行う盗賊]やギャング、筋肉馬鹿たるマッスルマンを賞賛する文学作品も存在したぐらいだった。
アウレーリオの仲間内でその他、人気のある話題と言えば、金持ちの結婚話や、見入りの良い仕事話だった。もし仲間の内の誰かが“理想”について語ろうものなら、他の皆はまるで火星か月からやって来た異星人を前にしているかのように、驚きと悪意のこもった眼差しで相手を睨みつつ、お互いに目を見合わせるのだった。女と車、恋愛とスポーツ、洋服と笑い話に明け暮れ、彼らは人生を謳歌していた。仲間の多くは夜更かし型だったが、体操をしたり、水泳をしたり、テニスやバスケットをしたりしていた。彼らのほとんどの者は野獣のごとく美しい筋肉質で、調和の取れた柔軟な身体つきをしていた。中にはアルコールを飲む者もいた。遺伝的な性向から飲む者もいれば、模倣意識から身についた悪癖から飲む者もいた。あるいは単純に仲間意識から酒を嗜む者も少なくなかった。
アウレーリオは誇張を抜きにして、ウイスキーのソーダー割りが好きだった。その飲み物をあおると高揚感を覚え、より心のこもった寛大な人間へとならしめ、言葉が自由に口から出て来るようになる。しかしながら実際問題として、聖職禄受給者の孫たるアウレーリオに比類なき陶酔感をもたらすものは飛行機を操縦することと、長い直線道路を猛スピードで車を走らせることだった。今日、この聖土曜日に彼がやってのけたことは、まさにそれだった。
ファラッポス大通りに車を乗り入れた時、アウレーリオはヴァルンターリオ・ダ・パトリア通りからずっと苛つく運転で行く手を妨害し続けて来た、灰色のリムジンから声なきカーチェイスの挑戦を受けたのだった。競争の火蓋が切って落とされた。リムジンは大体、二〇メートル先行していた。アウレーリオはたとえ修理工場から戻って来たばかりの車を壊したとしても、“あいつ”には負けることはできないと心に誓った。両手でハンドルを握り締め、アスファルトの路面とスピードメーターとを交互に見やる――五〇キロ……、六〇キロ……、七〇キロ……、八〇キロ……。灰色のリムジンとの距離をぐんぐんと詰めて行く。風が耳朶を激しく打ち、髪をバタバタとなびかせる。額の傷痕が少しづつ紫色に変色して行く。鼻腔を膨らませ、歯軋りをしながら、アウレーリオはスピードを上げて行く……。彼の車は今では、相手の車と並走している……。数秒も経ずして、その灰色のリムジンを追い抜いた。タイヤがキイキイと音を立てて軋む。風がヒューヒューと叫ぶ。赤信号なんてどうでも良い! まるで気狂いじみた映画のシーのように、家々が、塀が、電柱が、広場が、次々と目紛しく眼前を通り過ぎて行く。
小さなバックミラーで、アウレーリオは次第に後退して行くリムジンを認めた。
「臆病者め!」
相手の耳に届かないこうとを知りながらも、そう叫んだ。
「そのコンロを片づけちまえ、馬鹿野郎!」
一瞬ではあるが、アウレーリオは自分が放心状態で道路を走っていることをすっかり忘れてしまっていた……。鋭いクラクションの音でハッと我に返った。車の前方に大型の集合バスがぐんぐんと近づいて来るのに気づき、ショックを受けた。一瞬、乱雑に交錯する色彩や光、シミに飲み込まれ、視界がぼやけた……。しかしながら神経の制御のたがが外れることはなかった。右へ、そして素早く左へと見事なハンドル捌きで、先ずはバスを避け、続いて大通りの傍らの花壇への衝突を避けた。それら全てが電光石火のごとく、二秒余りでの出来事だった……。
アリスチィーデスの息子は車が再び安定感を取り戻したと悟った。そして今、眼前に滑らか且つ真っ直ぐな鉛色の道路が挑発するように延びている。再びアクセルを踏み込む。また、あの気狂いじみた映画だ。路面がキィっと音を立てる。風が吹き付ける。
「臆病者め! 赤信号など無用だ!」
大通りの終わりまで走り、カノーアス通りに入ることにしよう。顔の傷跡は血で滲んでいる。胸の内は勝利に酔いしれ、沸き立っていた……。
マルセーロは自らが怒りと暴力、狂気へと引き摺り込まれ、自身の全存在が覆い尽くされんばかりの憤りと吐き気と格闘していた。兄のアリスチィーデスが愛人宅に入って行くのを目撃した彼は疑念と恐怖に襲われていた。自身の気質とはかけ離れた、一見すると憎悪すべき卑劣なスパイ行為をやってのけるために、自分を押し殺したのだった。自分自身は言わば、ヴェロニカの夫に与えられた“休戦”の保証人だった。アリスチィーデスは今後、愛人宅に足を踏み入れないと、名誉に誓って妻とこの自分に断言した。しかしながら、その数日後に、兄の目に真意を読み取った。それが真実なのか、あるいは嘘なのか見極める必要がある……。そのような恥知らずな監視役を赤の他人に任せるのは最悪だろう。この自分も犠牲を払わねば……。
そして今、マルセーロは自分が実際に目にしたものに動揺し、恥行っていた。アリスチィーデスの車が“あの家”の前に停まっている。その車はピカピカに磨き上げられていて、威厳溢れ、快適さや富、官能、それに世俗的寛大さを連想させるものではあるが、どことなく品性に欠けていた。
マルセーロは理性を呼び醒まし、落ち着きを取り戻し、思考を整理しようとした。怒りに身を任せていては駄目だ。しかし自分のそうした意思を上回る何ものかに頭が支配されていた。頭に血がカッと上り、憤怒は奔流や上げ潮、あるいは渦潮のごとく心を一瞬にして満たした。その上、自分は常々、苛々した気分を胸に生活を送っている。巷のニュースで日々、報じられている血みどろで、馬鹿げた戦争だけで充分だと言えないのだろうか? さらには大学の哲学科で起こっている様々な問題にも直面しなければならないのだ――カール・マルクスの著書や、その他の書物を読むも、消化不良を起こしている傲慢な学生たち! 自らの問い掛けや主張に満足を決め込んでいる輩たち! 奴らの態度の非礼さ! 教会自体が有する特定の要素に対する理解の欠如について、いかなる言い分があるというのだ? 支離滅裂な理論を提唱する低能な博士がいた。彼が言うに、「我々が生きている時代に即して、教会を機械化する必要がある……」、と。それら全て以外に、崩壊の過程を辿る世界、安易且つ流行に絆され、快楽に狂乱して生きる、盲目で、無分別な人々に溢れ返る社会等、実に痛ましい光景が世の中を席巻している……。
マルセーロは目に見えないダーツの矢に射抜かれたかのように、つと歩道の真ん中で立ち止まった。砂漠に一人、ポツンと取り残されたような感覚、空虚感、それにこの世の何者も頼りにできないといった寒々とした孤独感に不意に襲われたのだった。それと同時に、自らが罪人であるかのような不快な印象を受けていた。この地上で、真理と理性、正義の担い手こそ、この自分だけだと考える虚栄心の強い人間なのだ。「奴は間抜けで、病的で、狂信的だ!」。他の者たちは自分のことをそう評している……。それも承知済みだ……。再び歩き始めた。「奴は間抜けで、病的で、狂信的だ!」。人々の眼差しや言動、態度から、誰もがこの自分のことをそう思っていることをありありと感じ取ることができた。
マルセーロはいつもなら不快感から、できる限りその通りを避けるのだが、敢えてそれを辿り、無意識の内に街の中心に向かって歩いて行った。何を見るでもなく、ぼんやりと家々のファサードを眺め、通りに沿って次々に現われ来る景色を凝視するでもなく、目の前を通り過ぎて行く人々の姿をちらりと見るに留めた……。しかしながら、外部の世界で必要なことはと言えば、躓いたり、ぶつかったりしないように注意すること以外、何もないように思われた。
辺りは日がとっぷりと暮れ、それに従って午後の光が湖の水のごとく、ほとんど感知できないほどゆっくりと、目に見えない側溝へと吸い込まれて行った。空気には田園風景を思わせる静けさが漂っている。陰に覆われた部分は柔らかな藤色を帯びている。
マルセーロは兄のことを忘れることがどうしてもできなかった……。どれほど、あの忌むべき醜悪な場面を頭から追い出そうとしても駄目だった。アリスチィーデスが裸で、野獣のごとく、全裸の女の尻を追い掛け回している様を想像した。そのイメージを頭から払い除けようとしたが、無駄だった。アリスチィーデスの太鼓腹が丸々太った豚のそれのようにユサユサと揺れている。愛人たちはけたたましく笑い、金切り声を上げる。マルセーロは忌み嫌う、そのような場面を消し去るために別の思考を呼び醒ました。それらとは全く対極たる、ヴェロニカのことを考えたのだった。つまり唯一、“でき得る”ことは義姉を“あの家”に立ち合わせることだ。恐らく彼女は石化したように不動の姿勢のまま、この自分同様、愛人たちが戯れ合う様を凝視するだろう。最も恐ろしいことは――身震いをしつつ、それを発見した――、一度としてアリスチィーデスの情婦を見たことがなかったにも関わらず、不承ながら、その情婦の顔にアウローラのそれを重ね合わせたことだった(その愛人は兄の娘と同い年だ)マルセーロはそうした妄想から逃れんがために歩調を速めた。全く予期することなく、小さな果物屋に入って行った。
「その林檎はいくらですか?」
マルセーロは一旦、心を鎮めようと、そう尋ねた。
林檎を二個掴むと、チョッキのポケットそれらを突っ込み、紙幣を一枚取り出し、カウンターの上に放り投げると急いで通りの方へと出て行った。
「ねえ、あんた!」
背後に売り子の声が聞こえた。マルセーロは振り返った。
「お金を払い過ぎていますよ」
マルセーロはそれに答えず、歩を進め続けた。側溝に今先買った林檎を投げ捨てた。そして今、股引きを履き、年老い、鼻水を啜りながらソーセージに喰らいつく、父キムの姿が脳裏に浮かんで来た。家族が集う席には、蒼白顔で、苦悩に満ち、悲しげな顔つきの母も姿を現わした。何てことだ! そのようなことは忘れる必要がある。そうした様々なイメージを頭から追い払おうとすればするほど、それらはより鮮明に像を結び、嫌悪が、苦悶が、苦痛がますます募って行くのだった。
ドーレス教会の大階段を上り始めたが、つと足を止めた。今の自分が抱える堕落した、汚らしい考えをこの聖堂に持ち込むことはできない。冷たい汗が滴り落ちる額をハンカチで拭った。今、抱く苦悩から解放され、心穏やかで、汚れなき気持ちに満たされたいと心から願った。たとえ一時であれ、世界というものを忘れることができたなら……。眼前に渦巻く下劣さを目にすることなく、一時の小休止が与えられたなら……。一時でも良い、死ぬことができたなら……。何ということを考えているのだ!
疲労困憊だった。恐らく、眠ることこそ、唯一の救済だろう。しかしながら夢の中にあっても、例の亡霊たちが巣喰っているのだから恐ろしい。アリスチィーデスと次に顔を合わせた時、どのように振る舞えば良いのか、皆目見当が付かなかった。彼を避けるべきか? あるいは罵詈雑言を浴びせかけるべきか? ヴェロニカに真実を告げるべきか? 夫が約束を果たしてると嘘を決め込むべきか? 自分が目にしたものは幻影だろうか?
再び歩道に足を踏み入れ、歩き始めた。香水の匂いに包まれた。一人の女性が通り過ぎて行く。マルセーロはさっと視線を逸らした。しかしながら香水の芳香と白粉の香り、熱気を帯びた体から発せられる匂いが入り混じった、それを避けようがなかった。その見知らぬ女を憎悪した。そして今、またもや淫らな場面が去来した。アリスチィーデスと情婦は手足を絡ませて抱き合っている。肉欲に満ちた臭いと、今先、目の前を通り過ぎて行った女から発せられていた香水の匂いが鼻腔をくすぐる……。シャワーだ……。それも冷たいシャワーを浴びる必要がある。体は熱を帯びていて、震えが止まらない。脚に軽い疲労を感じる。
とある街角で、甲高い声が耳に飛び込んで来て、マルセーロはギョッとした。
「やあ旦那、どこに行くんだい?」
突然、魔法によって空中にサシィ・ペレレ[一本足で、赤い頭巾を被り、パイプをくわえた黒人の少年の妖精]が現われるがごとく、セッチが目の前に飛び出して来た。マルセーロは苛々した仕草でその少年を押し退けると、苦悩で顔を歪めて先を急いだ。
小路へ入って行った。通行人たちに自らの思考を読み取られるのを恐れるかのように大通りを避け、速足で坂を駆け上がり始める。あの愚劣な行為を全て忘れるためにも体を疲れさせ、麻痺させ、どのようなものでも良い、苦痛に自身を苛ませる必要があるのだ……。そのように全身全霊をもって願いながら、マルセーロは息を切らし、額に玉のような汗をかき、口の中はカラカラに乾かせ、蒼白顔で歩いて行った……。
トニオは疲労困憊且つ半ば打ち拉がれた気分で塔へと入って行った。リヴィアと二人の娘たちがキスと質問をするために書斎に顔を見せた。
「何か発見はありました? 誰とお話しになったの? 何をなさったの?」
作家はフゥッと溜息をつくと、腰を下ろした。三人の女たちは彼を囲んで座った。
「私が調べた限りでは、より具体的且つ明確なものはあの小包みの中に入っている……」
塔に足を踏み入れた時、収納箱の上に置いた緑色の包みを指差して、そう言った。リタはその包みに駆け寄り、興味津々にそれをガサガサと音を立てて開け始めた。「ジョアーナの服だわ……」。包みにかけられた紐を解くのに奮闘しながら、彼女はそう考えた。「あるいは彼女の髪の束かもしれない……。きっと自殺した彼女がかつて遊んでいた人形に違いないわ」。ノーラはそのように想像し、中身が現われるのをじっと待っていた。「あるいは夫トニオの悪ふざけかもしれない」。そうリヴィアは結論づけた。やがてリタは包みを開けることができた。三人の女たちの目の前に現われたものは……、いくつかの鉛の兵隊たちと色鮮やかなゴムボールが一つ、ブリキの車が一台、それに布でできた黄色のピエロの人形が一つだった。リタは笑い声を上げた。ノーラは父親の耳を引っ張った。リヴィアは次のように言うのに留めた。
「全くもって、あなたの冗談を目にするとはね」
しかしながら夫の顔は真剣そのものだった。
「リヴィア、全くもって冗談ではないよ。本当に私はより“具体性を伴った”事柄を何一つとして得ることができなかったのだから……」
自らがやったこと、それに対して相手が証言したことを一つづつ語った上で、次のように結論づけた。
「ジョアーナ・カレフスカは自殺した。パウロ・エドゥアルドなる人物は存在しない」
現実との境界線がどこで引かれ、虚構のそれがどこから始まるのか、もはや分からないと言うように、次のように付け加えた。
「そう思われてならないのだ……」
「でも……。彼女が妊娠していたという話は?……」と、リヴィア。
トニオは肩をすくめた。
「パウロ・エドゥアルド……」
ノーラは呟いた。
「パウロ・エドゥアルド……」
唐突にノーラは叫んだ。
「ねえ、ちょっと待って……。お父さん、私は謎が解けたと思うわ」
ノーラは書斎から駆け出して行った。リタにとって、そのジョアーナ・カレフスカなどどうでも良かった。今、唯一、興味があるのは未だ書かれていない小説に登場するであろう彼女のことだ。リタは包みにくるまれた玩具を抱えて、塔の上階へと上って行った。
トニオは妻に語った。
「あの娘の検死を担当した法医学者と話しをした。彼が署名した鑑定書にも目を通した……」
そこまで言うと黙り込んだ。リヴィアは問い掛けるような目つきで、その先をじっと待っていた。
「ジョアーナ・カレフスカは妊娠していなかった」
そう、トニオは続けた。
「さらに言うなら、彼女は処女だった」
リヴィアは困惑して黙り込んだ。
「それは確かなの?」
リヴィアはそう口ごちた。
「もちろん……」
「でも、私には分からないわ……」
トニオは立ち上がった。
「ねえ君、どこの誰がそれを理解できると言うんだい?」
窓辺まで歩いて行くと、暮れ行く光景に目をやった。街の上方には、真っ赤に焼けた地平線とコントラストを成し、真紅の巨大な太陽が輝いている。まさに一日のフィナーレを飾る、ありきたりではあるが、壮麗で美しい場面が展開されていた。
リヴィアは夫の許に近づいて行くと、彼の肩に手を置いた。
「つまり、全てが作り話だったということかしら?」
「提示された全てを見る限り、そうだね……」
二人は地平線をじっと見つめていた。ペトロポリス地区の谷間は夜の闇が近づくにつれて、そこを覆う陰は黒々と濃くなる一方で、物々の輪郭は神秘的な輝きを帯びて行く。今、この時間、ある種の紫色掛かった魔法がかけられるのである。夫婦は魅惑的な空間の囚人のごとく、身じろぎ一つせず立ち尽くしていた。
「大体、丁度この時間に彼女は飛び降りたんだね……」
そう、トニオは呟いた。それに対して、リヴィアは何も答えなかった。この世界に渦巻く裏切りについて考えを巡らせている内に、突如として身を縮こまらせるほどの恐怖に支配され、悪寒を感じた。どうしてジルはまだ帰ってこないのでしょう? 不安な気持ちに苛まれ始める。
丁度その時、ノーラが一冊の本を手に書斎に駆け込んで来た。
「見つけたわ! 塔の書架の奥の方にあったわ……」
息急き切って、ノーラはそう叫んだ。リヴィアとトニオは娘の方へと振り向いた。
「パウロ・エドゥアルドはここにいるわ……」
そう言うと、一冊の本を差し出した。それはかれこれ一五年以上前に出版されたトニオの処女作〈エピソード〉だった。
「でも、お父さんはすぐに気づかなかったの?」
自らが成した発見のため顔を火照らせ、興奮するノーラは父にそう尋ねた。
「大佐殿、パウロ・エドゥアルドはあなたの作品の中の主人公だわ。ジョアーナが手紙の中で語っていたことを思い出してみて。“私の思考はルシアのそれとそっくりなのです。私が今置かれている状況も彼女のそれと同じなのです……”」
トニオはそれを受け入れることを戸惑っていたが、ボソボソと呟いた。
「私はその名前を思い出そうとしているところだ……」
「お父さんが自分自身で生み出した登場人物なのに知らないとでも言うの?」
「余りにも沢山の人物がいるのだから……。それに、そのパウロ・エドゥアルドなる人物も大昔に考え出した人物だからね……。その作品もこれまで一度として読み返したことがない」
それを“忘却の彼方へ押しやりたい”と思う、さらなる強力な理由が他にもあることも分かっていた。自らの内面をもうそれ以上、弄くり回したくないのだ。
「これで、問題は解決しないかしら?」と、ノーラ。
トニオは曖昧な仕草をした。
「それはどうだろうか?」
リヴィアは不安に駆られていた。
「一気に、そのジョアーナ・カレフスカのことを片づけてくださらない。ジルは何をしているのかしら? ノーラ、彼がどこに行ったか知ってる?」
「あの小ちゃな女の子と映画館に行っているわ」
そのようなことは取るに足らないことだと言わんばかりに、ノーラはそう答えた。
「でも、お父さん、これで全てがはっきりしたんじゃないかしら……。ジョアーナはお父さんが創造した人物と同化していて、その物語を自らの物語のように真剣に受け止めていた……。しかしお父さんの作品の中で、ヒロインは自殺などしないことを知りながら、彼女は……」
「結構なことじゃない……」と、リヴィア。
「お父さん、これではっきりしない?」
トニオは考えを巡らせていた。次に執筆する小説で、その詳細を取り入れることはできない。ヒロインが小説の、それも“私の”小説の登場人物の影響を色濃く受けていたとは……。
「お前はそれが“何の疑いもないケース”だと言うのだね」
トニオはそう言うのに留めた。
オルテンシィアが背筋をピンと伸ばし書斎に入って来ると、何か必要なことはないかと尋ねた。
「最初にお風呂に入るのは誰かしら?」
ノーラは間髪を入れずに答えた。
「私よ!」
しかしリタが階段の上に姿を現わし、叫んだ。
「最初に入るのは、この私よ!」
リタは浴室に向かって脱兎のごとく駆けて行った。ノーラは階段の方へと突進して行き、怒声を上げた。
「この裏切り者め! 役立たず! 裏切り者!」
「いつも変わり映えがしないわね」
リヴィアは「やれやれ」という具合に頭を横に振りながら、そう評した。
「午後の時間、何一つとしてしないくせに、最後の最後になって、お風呂に入ることを思い出すのよ」
声音を変えて、リヴィアは続けた。
「ところで、ジルは一体、何をしているのかしら?」
トニオは時計を見た。
「まだ六時半だ。心配しなさんな。何も起こりやしないよ」
リヴィアは台所で細々とした指示を与えるべく、書斎を出て行った。トニオはその場に立ち尽くしたまま、奇妙な響きを帯びる自らが発した言葉に耳を傾けていた。「何も起こりやしないよ」。しかしながら、この瞬間にも“ありとあらゆることが起こっている”のだ。こことは別の大地で、様々な人種の男たちが全時代を通して、最も忌むべき、恐ろしい戦いに身を投じている。世界中の若者たちは機関銃の銃撃で薙ぎ倒され、戦車に押し潰されている。またこの同じ時に、女たちや、子供たち、老人たちは飢えや寒さに打ち拉がれるか、銃撃隊の銃弾を浴びせかけられ命を落としている。人間が有する最良と最悪の部分、卑劣さと崇高な部分がない混ぜとなって、炎が燃えたぎるかのように激烈な形をとって表われているのである。多くの古代建造物が崩壊の危機に瀕している……。あらゆる地域で、ニュースで報じられている以上の深刻な、人々を恐怖に陥れる荒廃が進んでいる。そう、猛烈な変革のプロセスがその一途を辿っているのだ。
そうした全てに対して、比較的安寧な生活を送り、一日三食の食事を口にする地方の物語の語り部は、「何も起こりやしない」と穏やかな口調で断言するのだった。
チィルダと漫ろ歩いた忘れ難き昼下がりの記憶を反芻しながら、ジルは路面電車の窓越しにインデペンデンシィア地区の家々を眺めていた。映画の後、我々二人は船々、水面、空、島々を眺めながら、これから先、二人で共する旅のことや、様々な計画に思いを馳せつつ、波止場の岸辺に沿って歩いて行った。その際、夕暮れ時にチィルダの美しさがより際立つことを見い出した。暮れなずむ光が彼女の顔貌に安らぎに満ちた色調を与え、その瞳は青色でも灰色でもなく、またすみれ色でも緑色でもない、それら全てが入り混じった得も言われぬ色合いを湛えていることを発見した。しかしながら、これで一日が終わった訳ではない。我々は夜に、演奏会で再び顔を合わせることになっていたからだ。きっと今までにない、新たな経験となるだろう。ベートーベンの〈交響曲第五番〉を聴きながら、チィルダをじっと見つめる……。
「旦那!」
ジルは振り返った。自分の横、路面電車の乗降階段にニコニコと笑うセッチの姿を認めた。往来に限ってだが、彼とは知り合いだと言えた。なぜならいつも彼から新聞を買い、ニッケル硬貨を渡していたのだから。
「やあ、セッチ!」
“タルデ”紙一部に対して、ジルは五〇〇レイス硬貨を一枚、手渡した。
「お釣りは僕にかい?」
そう、セッチは尋ねた。
「もちろん」
車掌が通り掛かり、新聞売りの少年の肩をポンポンと叩き、小声で囁いた。
「階段で立ち止まっていないで、さあ乗りな」
セッチは手に持っている一輪の赤い薔薇をぐっと差し上げた。
「お母さんにだよ」
そう、自慢げに言った。ジルは微笑んだ。
「とても綺麗だね!」
「一ミル・レイスでこいつを買ったんだ」
セッチはそう嘘を付いた。実のところ、その薔薇はドン・セバスチャン広場の花壇から拝借したものだった。
ジルはその少年の小さく、骨ばった顔をじっと見つめた。その肌は黄ばみ、薄汚れている。臨床的に見る限り、彼には結核の兆候が認められる。
「なあセッチ、君は病院に行ったことは、これまで一度もないのかい?」
路面電車の車輪が立てる轟音のため、自ずと声を張り上げて話さなければならなかった。
「えっ!…! 僕は病気なんかじゃないよ。病院に行っているのは、僕の兄さんの方さ」
「その兄さんはどこが悪いんだい?」
「胸が良くないんだ」
ジルが抱いた疑念が確固たるものとなった。
「なあ明日、私と話すことができるかい?」
セッチの瞳は輝いた。
「明日は日曜日だ……」
彼ほどカレンダーの日付、曜日を熟知している人間は他にはいまい。
「じゃあ明後日でどうかな……。大体、午後二時ぐらいに」
「でも、どうして?」
「ちょっと君を検査したいんだ」
セッチは怪訝そうな表情で、幾度となく痩せ細った肩を揺すり、唇を噛んだ。
「検査?」
「痛かないよ。ただ背中の音を聴きたいだけだ」
「つまり、背中の音を聴きたいってことだね」
「その通り」
「どのくらい、その検査にお金が掛かるの?」
「五ミル・レイスぽっちだよ」
ジルは微笑みながら、そう言った。セッチは首をグッと伸ばし、叫んだ。
「これが俺様のやり方だ! 五ミル・レイス、そいつは俺様への投資さ」
二人は待ち合わせ場所を取り決めた。再び車掌が通り掛かり、セッチに告げた。
「さあ、そろそろ降りな」
セッチは親しげな合図をジルに送った。
「じゃあ旦那、月曜日にね!」
少年は足早に通路を駆けて行った。電車はそこそこのスピードで疾走していた。セッチは動いている電車から華麗に降り立つ様を誇りとしていた。それをやってのけるために身構える。
「気をつけろ! 車道側に降りるんじゃない!」
運転手がそう叫んだ。
「これが俺様のやり方だ!」
セッチが電車から飛び降りた丁度その瞬間、レンタカーが一台、電車の傍らを猛スピードで走り抜けて行った。その車の運転手は電車が次の停留所に停まる前に、それを追い抜こうと考えていた。窓越しにその様を見ていた婦人が金切り声を上げた。車の運転手は急ブレーキを踏んだが、間に合わなかった。フロントフェンダーに何か、体のようなものがぶつかるのを感じた。子供だ! その体は投げ飛ばされ、恐ろしい音を立てて地面に叩きつけられた……。前方のずっと先で、その様を目撃したレンタカーの運転手は狼狽して、スピードを上げ、その場から逃げ去った。ギィギィとブレーキの音を響かせて、路面電車は停まった。幾人かの乗客たちは大急ぎで電車を降りる……。少人数ではあるが、彼らはセッチを取り囲んでいる。ジルもまたブルブルと震えながら電車を降りたが、その惨事の様を目の当たりにする勇気がなかった。しばらくすると一人の男がセッチを取り囲む輪から抜け出て、電車に戻ると声高に状況を皆に伝えた。
「もう死んでいるよ。頭が砕けちゃって……」
通りにたむろする子供たちに怒りをぶつけるように、さらに続けた。
「奴らは自分の足がどこを踏んでいるのかさえ知らないのだ!」
ジルは熱い涙が滂沱のごとく頬を流れ落ちるのを感じていた。涙でかき曇る目の先に、歩道に落ちている一輪の赤い薔薇を認めた。
ベルナルド・レゼンジは興奮気味だった。鏡の前に立ち、立ち襟を整えるのに奮闘しつつも、演奏会のための服装を身にまとい、バルコニーの扉の側に腰を下ろし、悠々と煙草を吹かしている妻の方をちらちらと横目で見やった。マリーナが何ら感動を覚えるでもなく、自分に対して全く注意を払うでもなく、あたかもその瞬間が訪れる重要性、緊迫感、さらには感動的とも言える美しさを全く理解していない様子を見るにつけ、不快な気分になった。ここポルト・アレグレでの最後の演奏会だと言うのに! リオ・グランデ・ド・スル州における、〈ブラジル組曲〉の初舞台だと言うのに! 舞台上で贈り物や花束、愛情のこもった言葉でもってファンたちから賛辞を受けた際のことを考えれば考えるほど頭が痛くなった(今日の午後、例のコブラ・ノラートからの賛辞を耳にしていたが……)それに対して、何らかの謝意の気持ちを口にしなければならないだろう。そのことを考えると、身が縮こまる思いだった。大群衆を前にして、自らの気持ちを言葉で表現するのは何とも困難なことだろう。オーケストラを指揮することとは全く別物だ……。平土間席に背を向け、聴衆の存在を忘れ、音楽が有する熱情に身を任せているだけで良いのだから……。自分自身の手が雄弁にものを語ってくれる(「ベルナルド、何てあなたの手は雄弁なんでしょう!」、と。これまた今日の午後、レナータがそう言うのを耳した)しかし実際に演説をするとなれば、事情が全く異なる。口ごもり、話すべき言葉が何一つとして見つからなくなるのだ。
「マリーナ、僕は一体、何を言ったら良いのだろう?」
マリーナは煙草の煙越しに夫の方をじっと見つめた。
「何も言う必要はないわ。贈り物をくれた娘さんの手にキスをするだけで充分よ」
「おいおい! 僕は真面目に聞いているのだよ」
「私も大真面目よ」
ベルナルドは不機嫌そうに舌を「チッ」と鳴らした。一体、マリーナの身に何が起こったのだろう? 散歩から帰って来た彼女は全く奇妙な様子で、以前とは全く別の女性のように思えてならない。そう、これまで会ったことがない女性のようだ……。
「僕が暗記できるよう、何か気の利いた言葉を書いてくれないかな……」
「一言、『どうもありがとうございます』と、言えば良いわ」
ベルナルドはそれに対して答えなかった。立ち襟のボタンが上手くはまった。それにより、ようやく白色の蝶ネクタイを結び、その結び目を整えることができる。
「マリーナ、頼むよ!」
妻は微笑んだ。何とベルナルドは興奮しているのでしょう! まるで結婚式の日の花婿のようだわ……。夫のことを寛大な気持ちで見やるも、同時に失望の気持ちを抱かずにはいられない。公園から戻って来た時、少しばかり悲しい気分になった。そして今、他のいかなる瞬間にも増して、自分自身の人生が無意味なものだと感じられた。演奏会に相応しい服を身に付け、眠りに就くためにそれを脱ぎ捨てる。そして、永遠に続く夫への問い掛け……。
「あなた大丈夫? 最近、太ったんじゃないかしら? “ガゼッタ”誌に掲載されている賛辞をもうお読みになった? 夜課はお気に入りになったかしら?」
夫! 夫! それが自分自身が携わっている仕事なのだ。夫を勝利へと導くこと、それが全て我が手中に収められているのだ。
マリーナはリオに帰った後、そこで目にするであろうものについて考えた。静まり返った家、そこにあるもの一つ一つは、この世を去った娘を思い起こさせる。さらにはこれから先、私と夫の許に訪れる老いについても考えた。ベルナルドは鼻持ちならぬ老人となるだろう。私が恐れているのはそんな彼に対して、忍耐力を保ち続けることができるのかということだ……。
「マリーナ、聞いているかい?」
「何かしら?」
「そんなのって、ありかい? 私が受けるであろう祝辞に対して、いかなる言葉も持ち合わせていないと言うのに。では、こんな感じならどうだろう……。『私はこの街を、気品溢れる聴衆の皆さんのことを永遠に我が記憶の中に留めておきます。どうもありがとう』」
「ベルナルド、最高な文言だと思うわ。私はこれ以上、何も言う必要はないわ」
マエストロはネクタイの両端の先を荒々しく引っ張るなり、髪を再度梳かすべく、〈ブラジル組曲〉のワンフレーズを口ずさみながら浴室へと向かって行った。マリーナは復讐心を抱く喜びと、あてこすりの気持ちを込めて、ベルナルドの人生の場面、場面を思い起こし始めた。オペラに心酔しながらも、軽歌劇団のオーケストラの指揮を強要されていた、二七歳のベルナルドと出会った。
ある日の晩、サン・パウロ劇場でのこと……。演目は〈エヴァ〉で、楽団は散々たる有り様だった。スーブレット[計略に長けた、小生意気で、色っぽい小間使い役の歌手]は確かに魅力に溢れていて、何とも言えない素晴らしい歌声だった!……。そう、まるで赤子を思わせる声だった。マリーナは巨大なカツラを被ったベルナルドがオーケストラと役者たちを制御すべく、死に物狂いで指揮をしている様を思い出した。全てが概ね上手く収まった。しかしながら、マエストロは意気消沈した様子で劇場から出て来た。その後、我々二人は深夜に、とあるイタリア料理店に“スパゲッティ”を食べに行った。そのレストランで、彼は芝居がかった調子でこう言った。
「マリーナ、この僕が軽歌劇団の指揮をやるなんてね! 何て皮肉な巡り合わせだろう!」
そしてその後、世間にその名がより知られるようになり、音楽界において頭角を現わすにつれて、オペレッタを指揮していたという事実は彼の人生における大きな恥辱となり、自身のキャリアに消えることのない汚点を残すこととなった。そういった訳で、自宅の給仕女の名を頻繁に忘れた。なぜならその娘の名こそ、“エヴァ”だったからだ。
そして二度とオペレッタのことを口にすることなく、サン・パウロで交響楽の演奏会を興行する度に、隠すことのできない不快感に囚われるのだった。なぜならサン・パウロという州都は彼の人生における、今一つの不愉快な出来事と結び付いていたからだ。抒情性に溢れる芸術に震えんばかりの情熱を傾けていたベルナルドは、オペラを指揮する日まで弛むことなく働き続けた。当時、ベルナルドが崇拝し、手本としていたのはトスカニーニで、彼の伝記を通して、その大指揮者が持つ悪癖や特異性、奇行ぶりを知り、それらを真似しようとしていた。
幾人かのアマチュア歌手とすでに引退した老オペラ歌手たちが慈善公演として、ベルディの〈リゴレット〉に出演することになり、上演の指揮者としてベルナルドに白羽の矢が立てられたのだった。こうして、彼の人生における大きな夢が実現したのである。マリーナはある一幕が終わり、緞帳が降りた後、舞台裏でその興行中、最も劇的な場面が繰り広げられていたことを思い出し、微笑んだ。リハーサル中、ベルナルドはソプラノ歌手と幾度となく口論となった――その歌手は豊満な胸の持ち主で、太った、二重顎のご婦人だった――。なぜならその歌手は年齢に似合わず、想像のできないほど勇ましく、大胆にフェルマータを長々と歌ったからだった。公演当日の夜、その太ったソプラノ歌手ジルバは拍手喝采に元気づけられ、さらには聴衆の好意的な反応に刺激され、自らの肺活量を見せるべく、金切り声を上げんばかりに一音を長々と歌って見せた。それがベルナルドの癇に障り、憤怒の表情で両腕を組んでオーケストラの演奏を止め、彼女を威嚇するようなしかめ面で睨み付け、聴衆に気取られないように止めるよう合図を送った。緞帳が降りると、トスカニーニの有名な逸話をパロディー化するがごとく、若いマエストロは舞台から舞台裏へと駆け込むと、思いつく限りの罵詈雑言をその女歌手に浴びせ掛けた。マリーナはその光景を笑い転げながら見ていた。特にベルナルドが例の逸話の役柄に忠実に、イタリア語で相手を罵っていた点に笑いが止まらなかった。そのオペラでプリマドンナを務めたのは、ジィーナ・ノヴェリという名の歌手だった。その名を口にすることも、ベルナルドの人生でタブーとされていた。
マリーナはいつもオペラというものを嘲笑していた。と言うのも、登場人物たちが歌いながら死んだり、悲嘆に暮れた声音で水を所望したり、あるいはあたかも普遍たる真実を告げる者のごとく、別れの文句を口にしたりする。そうした戯曲を真に受けることができなかったからだ。腹が張り出したバリトン歌手らが韻を踏んだ詩的表現を用いつつ、愛の言葉を歌い上げる。それも五〇を越えた女性歌手たちに対してだ。そうした茶番劇にどうしても美しさを見い出すことができなかった。ベルナルドは妻のことを非礼且つ無知な女だと考えていた。「マリーナ、君は何も分かっちゃいないのだよ。君は凡庸な人間だ。抒情性に満ちた芸術ほど崇高なものは無いのだよ」。そう思いつつ、いつかは“ミラノのスカラ座”で、オペラを上演したいものだと夢見ていた。
時が流れ、ベルナルドはやがてオペラに辟易するようになった。さらに巷では、抒情的芸術を軽視する傾向にあった。つまりオペラは世界中で斜陽の時を迎えていたのである。レゼンジはさらに学びを深め、自ら作曲をしようと試みた。ある日のこと、ベートーベンのことを“偶然”に知り、彼に敬意と賞賛をもって接するようになった。時折、新進気鋭の作曲家を世に送り出そうと慈悲深く願う、著名なマエストロを少しばかり彷彿させるような態度でベートーベンに接することもあった。「ああ! リオ市庁後援の、かの名高きベートーベンの曲目を上演した演奏会!」。 殉教者のごとく雰囲気を漂わせながら、レゼンジはよくそう言ったものだった。
「マリーナ、聴衆たちは彼の曲を理解してはいないよ。彼らが唯一欲しているものは“サンバ”なのだ!」
さらにベルナルドを激怒させたのは、ある新聞に掲載された評論を読んだ時だった。その記事によれば、“マエストロ・レゼンジは日曜日、地方の野外コンサートで自らの軍楽隊を率いて、勇ましく演奏を繰り広げた”、とあった。
「批評家がいなければ、世界はもっと良くなるだろう。奴らは高慢ちきで、無知で、下品な輩だ。そして最も悲しむべきことは、大部分の作曲家たちは死後に評価されるということだ」
ベルナルドはそう断言した。
さらに後になって、レコードや映画などを通じて、ベルナルドはストコフスキー[Leopord Stokowski:(1882-1977):20世紀における個性的な指揮者の一人で、“音楽の魔術師”の異名を持つ。イギリスのロンドン生まれ]の影響を受けるようになった。それまでのイタリア仕込みの演戯的指揮法は抑制され、より映画的な手法、嗜好を帯びたものへと取って代わった。指揮棒を用いるのを止め、両手で指揮をするようになった。誰かが彼のことを“ブラジルのストコフスキー”と記事で評しようものなら、手放しで歓喜を表わした。
マリーナは灰皿に煙草を放り込むと立ち上がり、バッグを取りに行った。そしてバッグを開けると、中から一枚の写真を取り出した。そこにはにこやかな顔で、生き生きとした目のリタが写っていた。口許に笑みを浮かべながら、それをじっと見つめた。そのような娘を持った母親を羨ましく思った。黄色の鳥たちが群れる公園の大きな木の下での、あの魔法のような一時が眼前にありありと甦って来た。
「マリーナ、何時だい?」
「心配いらないわ、まだ八時にもなっていないわ」
腕時計を見ながら、マリーナはそう答えた。
ベルナルドは浴室から出て来ると、燕尾服を羽織りに行った。それに袖を通し、鏡の前に立つと体をピンと伸ばした。
「私は舞台から向かって左側の三番目のボックス席にいるわ」
そう、コブラ・ノラートは言った。それにし対して、ベルナルドは微笑みながら答えた。
「組曲は君に捧げることにするよ」
エメラルド色に輝く目は自分の方をじっと見つめていた。花籠と花束。手に包みを持った議長――時計だろうか? 金のペンだろうか? 指輪だろうか? メダルだろうか?
「何とお礼を申し上げて良いのか分かりません……」
不意に、ベルナルドは鏡の奥に笑いながら立ち尽くす妻の姿を認めた。
「マリーナ、君は何をそんなに笑っているんだい?」
「あなたを見ていたら笑えて来たのよ」
「何も面白いことは無いと思うが」
「あなたはそこで、まるで老人みたいに何やらブツブツと呟いているんですもの」
マエストロはそれに答えず、燕尾服の皺を伸ばすと身を翻し、シルクハットを取りに行った。
「シルクハットを被って出掛けるなんて言わないでね」
「なあ、マリーナ、馬鹿なことを言うのは止めろよ。今日みたいにおかしな君をこれまで、一度として見たことがないよ」
マリーナは再び夢の中に現われた男性のことを考えた。そして一瞬だが、ありのままの姿の夫ではなく、自分が期待している姿の夫のことを僅かばかりではあるが欲する気分になった。しかしながら、彼に対する怒りと、彼を侮辱し、傷つけたいという願望がない混ぜとなった感情を胸に、彼のことを欲したのだった。
「ベルナルド……」
「何だい?」
「あなたの記憶力が良いかどうか確かめてみたいわ……」
「挨拶についてかい?」
「いいえ。ある人の名前を言うわ」
「何処の、どいつだい?」
「ジィーナ・ノヴェリよ」
最初、ベルナルドはその名が一体、何を意味するのか分からなかった。しかし次の瞬間、みすぼらしい劇場のボックス席から自分を凝視している、苦悶で顔を歪め、喘ぐような息遣いの一人の太った女性の姿が目に飛び込んで来た。顔がカッと熱くなった。心の奥底に眠っていた、オペラ時代のありとあらゆる恥辱がムズムズと体に這い上がって来るように感じられた。
「マリーナ!」
ベルナルドは怒鳴った。妻に汚い言葉の一つでも浴びせ掛けてやりたい気分だった。
四人の年長の息子たちと共々、アポロ映画館の座席に腰を下ろし、ジュッカは〈仮面の騎士:第九話〉が繰り広げる冒険に没頭していた。スクリーンから発せられる光が、似通った輪郭を有する五つの顔に反射している。もし彼らの顔を注意深く観察する者がいたとしたら、そこに苦悩と不安、期待、さらには恍惚の感情が入り混じった表情を見て取ることだろう。五つの口は何とも奇妙な感じに歪んでいる……。それは家系的なものだろうか? いいや。唾きで濡れる五つの口腔それぞれで、小さなココナッツの砂糖菓子が舌に押し出されてはあちらへこちらへとダンスを踊るように転がり、時には歯と歯の間に挟まったかと思うと、頬に向けて弾丸のように発射されるのだった。そのように口腔で繰り広げられるリズムは“仮面の騎士”の華々しい活躍ぶりと連動していた。丁度その時、スクリーンでは、“仮面の騎士”がニューメキシコの荒野でインディアンの追撃を受けていた。
ジュッカは忘却と喧騒に満ちた至福のひと時に身を委ね、それを大いに満喫していた。息子たちが楽しんでいる様を目にするのも悪くない。かつて自分が子供の頃、父親に連れられて、この同じ映画館に足を運び、映画を鑑賞したことを思い出した。映画を観ながら、アーモンドかポップコーンを始終、齧っていたなあ……。
インディアンたちは甲高い声を上げる。弱者には優しく、圧政者には報復を与える義侠心に富む、勇者たる“仮面の騎士”は黒いマントをはためかせて、白馬に跨っている。小高い丘を駆け上がり、手綱を引くと、その馬は前脚を高々と跳ね上げた。歓喜の唸り声が平土間席から上がった。騎士は目を隠す帽子のつばを手で持ち上げ、地平線を凝視した。
「あの唸り声を上げた奴は何処の、どいつだ?」
そう、ジュッカは呟いた。
「農園主のドラ息子に違いない」
自分の隣に座っている息子たちに、自身に対して、あるいは誰に対してでもなく、口に出してそう言った。
遠くの方からインディアンたちが駆る馬の蹄の音が聞こえて来た。再び逃走劇が始まる。向こう見ずな騎士は丘の斜面を駆け上がって行く……。インディアンは狡猾な連中だ。そう、ジュッカは考えた。そして突如として、騎士の前面の生い茂る森の中から、インディアンの一団が姿を現わした。“仮面の騎士”は手綱を引くと、馬面を右方向へと転じた……。劇中で飛び交う怒号が高まって行く。正直なところ、ジュッカは不安に駆られていた。何か心配事に襲われた時にはいつでもそうするように、鼻をほじり始めた。銃撃戦が始まった。騎士はじわじわと断崖絶壁へと追い詰められて行く。ジュッカの息子たちは歯でココナッツ菓子を痛いほど噛み締める。平土間席に陣取る人々はヒーローを励ますように叫び声を上げたり、口笛を吹き鳴らしたりしている。銃弾が雨あられと降り注ぐ。黒色のマントが風にはためく。断崖絶壁はもうすぐそこだ。そこで“仮面の騎士”は決死の覚悟を決める。彼は愛馬もろとも、絶壁から奈落の底へと身を投じた……。館内のあちこちで、「ああ!」と驚嘆の声が漏れた。
「お父さん、彼は死んじゃったの?」
息子の内の一人がそう尋ねた。
「彼が死んじゃったかどうか、よく見てみろよ」
一番年上の息子がそう言った。
崖から身を投じた騎士と馬は川に落ち、やがて泳ぎ出した。断崖絶壁の上からインディアンたちは鉄砲を打ち掛け、その弾丸はヒューヒューと鋭い音を立てて飛び交い、逃亡者が泳ぐ水面の近くで盛大な飛沫を上げた。騎士は岸に辿り着くまで懸命に水を掻き、泳いだ。拍手喝采が起こる。ジュッカもまたそれに習った。“対岸へ”。やがて対岸へと泳ぎ着き、騎士は一命を取り留めたのだった。主人公が一時的にせよ、危機を脱した様を目にすることにより、ジュッカはこれまで胸を締め付けていた不安から解放され、満足感を覚えた。ノリヴァルは果たして無事に“対岸へ”辿り着くことができるのだろうか? 映画のことを忘れ、友人のことをじっと考えていた……。奴さんが最終的に勝利を納めるという確証はどこにもない。少なくとも奴は“ヒーロー”ではない。そう、奴は……知恵の働く“悪党”だ。“盗人”であることは間違いない……。頭の中ですら、それを認知することは困難なことだ。ましてや、誰がそのようなことを想像できようか? しかし現にノリヴァルは守銭奴のように、あるいは脅迫者のようにペテンを働いていたのだ……。何と野蛮なことだ! ジュッカはそうしたことを考えるだけで恥ずかしくて堪らなかった。全てが露見した時に友人や知人たちに何を、どのように言えば良いのだろうか? 「あの悪党のノリヴァルを……この俺が助けたのだ……」とでも言えば良いのか? 奴はどのようにして、あのような状況に陥ってしまったのだろう?
ジュッカは苦悩に苛まれつつ、鼻から息を吸った。ポケットの中に例の五〇〇ミル・レイス紙幣が二枚入っている……。それらを持っているべきではない。それは恥ずべきことだし、良心の呵責も感じる。だが、この自分はそれを必要としている……。子供たちに服を買ってやらねばならないし、薬局の支払いもしなければならない。妻には、家の細々したものを買ってくるように頼まれている……。それゆえ、この一コント・デ・レイスは強力な援助と成り得る。しかしそれを使うべきか……。フッと嘆息を漏らした。映画に集中するように努める。うら若い娘と農園主の息子が長々とキスをしている――そいつが“仮面の騎士”ではないかと考えた。しかしながら、ノリヴァルの姿が脳裏から消えない。ジュッカは彼が警察の追跡を受け、ウルグアイに向けて街道をひた走る様を想像した。奴は人生を台無しにしちまった! 高校時代のある友人のことを思い出した。その友人はいつも高価な服をきっちりと着こなし、自宅や自身の人生の素晴らしさを自慢げに吹聴していた。試験の時にはカンニングをし、自らの悪事を正当化するために、校長に宛てた書簡に父親の署名を偽造した。しかし奴は人に媚びるのが得意で、愛想が良く、陽気だった……。ジュッカは再び溜息をついた。やり切れない悲しみのため、再び指を鼻へと持って行った。
今、この瞬間、ノリヴァルは何をやっているのだろう? そう、ジュッカは考えた。
ノリヴァル・ペトラと妻、姪の三人はサン・ペドロ劇場の前で車から降り立った。電灯が煌々と灯り、人々で溢れ返ったホールを目にするなり、リンダは甘美を帯びた目眩を覚えた。突如として、自らが身に付けている洋服を、さらにこの自分自身が他人の目にどのように映っているのかを強く意識するようになった。彼女にとって、人々の視線を集め、あれこれと批評されたり、羨ましがられたりする、つまりいづれの反応にせよ人々の注目を浴びることは心地の良いことだった。男たちが自分のことをマジマジと見つめる様に狂おしいばかりの興奮を覚えた。それはぬるま湯のお風呂に浸かり、いかなる罪悪感を感じることもなく、心地良い快楽に身を委ねる感覚に似ていた。これまで夫以外の男性に身を任せたこともなかったし、恋愛遊戯に積極的に関わったこともなかった。しかしながら、恋愛感情を持つことが嫌いだった訳ではない。そうした感情は彼女の虚栄心を満たし、言葉で言い表わせない若々しさと重要性、それに栄光を与えるのだった。
チィルダは腕を叔父のそれに預けていた。この自分には支えが必要なのだ。もし人々で溢れ返ったホールを横切って行く際、バランスを崩して転んだりなんかしたらどうしよう……。そう考えると、誰かの支えなくして劇場に足を踏み入れて行く勇気など到底、無かった。チィルダは気が動転していた。体の中で、他のどの部分よりも敏感な場所があった。それは鼻だった。鼻の先が焼けるように熱く、ヒリヒリと痛む――それは錯覚かしら? 時々、手術後の自分の姿を見ていない人々がどんな風に驚き、どのような言葉を掛けるのかを想像すると陽気な気分になった……。しかしながら突如として、自分が以前のまま何ら変わっていないのではと思い、不安が波となって押し寄せて来ることもあった。新調したこの服も、もちろんジルのことも心配で堪らない。今晩、あの……、あの……キスをした後、彼はこの私にどのように振る舞うだろう? あのキスの甘い感覚はまだ唇にはっきりと残っている。いいえ、あのキスの感覚は体中を駆け巡り、震えが止まらないほどだわ……。
ノリヴァル、リンダ、チィルダの三人は葉巻と会話に興じる男女でごった返した、光り輝くホールを横切って行った。自分たちと同じ芳香を放つオーラがまるで守護する雲のごとくペトラ夫妻を包み込んだ。夫妻はあちら側へ、こちら側へと挨拶を交わし、笑顔を振りまいた。チィルダはと言うと、お盆にクリスタルグラスを満載し、騒々しい群衆の間を縫うように歩き廻る給仕係にぶつからないように注意しながら、歩を進めて行った。彼女は暑さと寒さ、喜びと悲しみ、落胆と興奮といった相反する印象を受けていた。そのようにして彼らはボックス席に向かう階段を上がって行った。階段を上り切った先の通路で見知らぬ男が二人、会話に興じていた。彼らは会話を中断すると振り返り、値踏みするかのように熱い眼差しでリンダを凝視した。リンダは夫の方に顔を向けると尋ねた。
「私たちの席はどこかしら?」
自分はそれが十二番だと知っていた。気取った態度を見せつけるために、そう尋ねたのだった。自分自身があの思わせぶりの視線に気づいていない素振りをするために、ただそのように口にしたのに過ぎなかった。しかしながら、その男たちの熱っぽい視線に大いに興奮したが……。
「あそこだよ」
ノリヴァルはそこを指差しながら言った。
三人は中に入って行った。心臓を高鳴らせながらチィルダは数歩踏み出すと、欄干まで歩いて行った。まるで舞台に立って、演説を強要されているような気分だわ。記憶から抜け落ちてしまった何かを演説するのを強いられているような……。喉許をベルトでギュウギュウと締め付けられるような苦悩が募って来る。手は汗ばみ、冷たい。座席に腰を下ろす。ホールを煌々と照らす光と、空間を満たす様々な種類の香水の匂いが入り混じった灼熱の空気と、チィルダが思うに、ピントの合っていないカラー映画に映し出される人物のごとく、数多の人たちから発せられる熱気に目が眩んだ。人々の囁き声に、ゆらゆらと揺れ動く頭、宝石の煌めき、電灯、ワイン色のビロードの布……。何ということでしょう! 私は熱があるのかしら? チィルダは自分にそう問うた。ほとんど無意識の内に髪型を整える。ピクリとも動かず、座席に腰を下ろしたまま、万華鏡のような混乱の中に何ものかを見い出そうとしていた。
リンダはボックス席の前面まで進み出ると、まるで群衆の喝采を受ける女王のように背筋をピンと伸ばし、直立の姿勢を決め込んだ。そして仰々しげに座席に腰を下ろすと、他のボックス席へと視線を巡らし、知り合いに挨拶していたかと思うと、やがてまるでショーウインドーに飾られたマネキンのように、ピクリとも動かなくなった。“カメオの横顔”。その言葉が頭に浮かんだ。“カメオの横顔”。“マドゥルガーダ”誌の社会欄で、ジャン・デ・リュがその言葉を用いていた。“カメオの横顔”、と。
ノリヴァルは妻の横顔をじっと見つめていた。妻が着飾り、人々の称賛の眼差しを受けるのを目にするのが好きだった。「リンダに贅沢をさせる。それゆえ自分は働いているのだ」。飽くなき利益の追求とそれに伴う大博打を正当化するために、そのように幾度となく自分に言い聞かせた。そのように自己を正当化することによって、詐欺に加担したり、危険を伴う冒険に身を投じたりすることへの躊躇をいくばくか緩和することができると考えていた。ボックス席の奥から妻を見やりながら、自分が逃亡するということを知った時、彼女がいかなる言葉を口にするのかを想像した。きっと泣きじゃくるだろう……。これから先のことを全て整えた上で、アルゼンチンか、ウルグアイか、チリか、あるいは地獄で、再び皆、幸せに暮らすことになるということを妻に納得させる必要がある。ましてや妻は夫が投獄され、人々の嘲笑を受ける様を目にすることを望むまい。結局のところ、女というものは自尊心の強い生き物なのだ……。しかしながら、恥辱が消える訳ではない。つまり、夫が何らかの形で公金横領の詐欺行為に加担したという事実を知るという恥辱だ……。それ以外に何があったとしても知ったことじゃない! 恥辱なんて、大したことじゃない! ノリヴァルはダーツの的を睨み付けるように、アスドゥルバル・クアドロスのボックス席へと鋭い視線を投げ掛けた。ああいった輩は……通常、人当たりが良くて、“シュッ、シュッ”と歯擦音を立てて話し、愛想が良いときている。よって、沢山の秘密を胸に秘めている奴のことを目にした者全てが、自身の財産、子供たち、人生等、全てを奴に託すことができるのだ。しかしながら、奴は自らが社長を務める会社を裏切ったのだ。別のボックス席では、アリスチィーデス・バヘイロが信心ぶった雰囲気を漂わせ、席に腰を下ろしている。彼は厳格な側面を持ちつつも、言葉巧みで、愛想が良く、説得力のある話し方をした。しかし彼がいかがわしい商取引きに関わっていることは、誰もが知るところであった。他にもそのような輩はあちらにも、こちらにもいた。この劇場の中だけでも、数十人はいる。実際に指差して、勘定できるぐらいの数だ。そのようなことを考えている内に、ノリヴァルの胸に神聖とも言える憤りが沸々と湧き上がって来た。自らが徐々にだが、殉教の場に追いやられているように思われたからだった。つまり、この自分は巨大な社会的不正の犠牲者なのだ、と想像した――再びジャン・ヴァルジャンの登場だ。「一個のパンを盗んだ者は盗人だ。多額の金を盗んだ者は男爵だ」。高校時代によく耳にした言葉だ。で、ジュッカは……。まあ良いとも。リンダは美しい横顔をしている……。稲妻が瞬くかのように、フロリッパが用意した部屋と、グロリア地区に住む、明るい小麦色の肌をした娘の肢体がまざまざと眼前に甦って来た。その娘と味合った快楽を反芻している内に、新たな光が目に飛び込んで来た。“ウルグアイの女は美しい”と評判だった。旅をすることは決して悪くない。
「あなたはブラジルの方なの? 私はその国のものが好きだわ」
「それで娘さん、これからどうしましょうか?」
「今晩はこれで、おやすみなさい」
ノリヴァルは自分が陣取る席の対面の奥のボックス席の方へと頭を傾げた。アリスチィーデス・バヘイロが親愛の情を込めて、こちらに手を振っている。
アリスチィーデスのその手を振る仕草はまるで難破した船員が近くを通り掛かる蒸気船に向かって、懸命に手を振る様に似通っていた。当のアリスチィーデス自身、無人島に漂着した遭難者のごとき感覚に襲われていた。目の前にいるヴェロニカはピクリとも動かず、もったいぶった態度を決め込み、背筋をピンと伸ばし席に腰を下ろし、知り合いに軽く会釈をしている。アウローラは母親の姿を模したパロディーのごとく座を占めている。マルセーロはボックス席に入らず通路におり、ますます敵意と苛立ちを募らせている。そうした全てのことを鑑みた上で、彼のノリヴァルへの挨拶はまさに味方への“SOS”のサインであると言えた。その合図の中には、馬鹿者のサルジャンとのクラブでの一悶着があったことで、より特別な意味が込められていた。その話がノリヴァルの耳に届いているのだろうか? 多分、それはないだろう。人々は悪いニュースを流布させることや、陰口を叩くことのみを好む。高潔な態度、仕事などには歯牙にも掛けない。それに自分はそのことをペトラに告げんがためにやった訳ではない。それは一種の衝動から、感情の爆発から、心情を吐露したいという願望から、それをやってのけたに過ぎない……。しかし、あのノリヴァルは何と愛想の良い男だろう。それに奴の妻ときたら、何とも美しい女性だ! もし間違えでなければ、彼はこちらに目を向けているだろう。奴は挨拶を交わすか、交わさないか、どちらだろう?
リンダはバヘイロ家が集うボックス席の方をじっと見つめていた。すでに二度、ヴェロニカに挨拶を送るべく、虚しい試みを繰り返していた。他の人々が彼女と会釈での挨拶を交わしているのを見るにつけ、リンダはヤキモキしていた――「あのリンダはヴェロニカと懇意なのよ。それをご存知ないの?」。一度目、あるいは二度目の合間に、バヘイロ家の人々がこちらに気づけば良かったのに……。リンダは口許に笑みを浮かべながら再び、会釈を送った。ヴェロニカは微動だにしない。彼女は盲目なのかしら……。あるいは見て見ぬ振りをしているのかしら? 自惚れで、気取り屋だわ! ただ男爵の孫というだけの理由で、他者よりも自分が上だと思っているのだわ……。あるいは、夫がかつて議員だったことを鼻に掛けているのかもしれない……。またあるいは、潤沢な財産がその理由なのかも……。金の有無で、その人の価値が決まるなんて……。私の祖父は「カングスー男爵の父親は家畜泥棒だ」と、よく言っていた。結局のところ、台所、あるいは納屋から端を発する高貴さなんて、馬鹿げたものだわ……。
チィルダは視線を巡らし、サンチィアーゴ家の人々の姿を探していた。しかし見つからなかった。三つのボックス席にはまだ誰もいない。きっとジルの家族は未だ劇場に到着していないのだわ。何か起こったのかしら? 緞帳の後ろでは、ヴァイオリンやクラリネット、フルート等の音が聞こえているというのに……。演奏家たちは音程の具合をチェックをしている。一体、ジルはどういうつもりなのかしら? しかし、チィルダは席に着くため、劇場に足を踏み入れて来た一人の婦人に注意を傾けるべく、しばしジルのことを忘れた。リンダは姪の方に頭を傾げると、その婦人の名を告げ、彼女が身に付けている服を評し、賛辞しつつも、批判を加えることも忘れなかった。そうした全ての状況の中にあって、当の本人は未だ自分自身の来場に人々は感じ入り、注目を集め、あれこれと批評されているような印象を受けていた……。チィルダは心から失望していた――ジルはやって来ない! 平土間席は人々で溢れ返っている。空だったボックス席の一つに、家族が入って来た。サンチィアーゴ家の人たちかしら? そうではなかった。劇場を満たす喧騒はますます高まって行く。チィルダは叫び声を上げたい気分になった。私は幸せでもあり、同時に不幸でもある。このボックス席から羽根が生えたかのよう飛び立ちたい気分にもなるし、無分別にも、この高みから身投げしたい気分になったりもする……。
リンダは今一度、バヘイロ家の人々に挨拶を送った。幸運にも、ヴェロニカとアウローラの二人が口許に笑みを湛え、こちらに会釈をした。
「お母さん、リンダ・ペトラよ」
アウローラは母にそう囁き掛けた。
「今日、彼女と美容院で会ったわ。その時の様を想像してみて……」
アウローラは話の続きを語った。ヴェロニカは興味無さげに娘の話に耳を傾けていた。ボックス席の奥の方で、アリスチィーデスは自分たち全員が演じている馬鹿げた喜劇について考えていた。自分は“洗練された”音楽というものが好きではなかった。ここで告白するつもりは毛頭ないが、アルゼンチン・タンゴの愛好者だった――〈シュハスカ〉や〈ラ・クンパルシィーダ〉、〈マーノ・ア・マーノ〉等は大のお気に入りだった。もちろん、良質な音楽を蔑視している訳ではない。しかし自分は音楽によって生きたり、死んだりする人間ではない。演奏会がなかったとしても、人生を楽しく過ごすことができる。ここで自分が馬鹿げた役割を演じているのは、マルセーロにそれをやると約束したからだ。あの愚か者は我々二人が一緒に居るところを人々に見せ、“巷で広まっている噂”を消し去ろうと躍起になっていた。アリスチィーデスはその役割を演じることに居心地の悪さを感じていた。忍耐力も失い始めている。いつ堪忍袋の緒が切れて、爆発してもおかしくない。
マルセーロは自分の人生を、ミサのことを、神父たちのことのみを構っていれば良い。ヴェロニカは自分がやりたいようにやれば良い。もちろん、この自分は今の状態を維持し、継続したいと思っている。夫婦別居はスキャンダルになるだろうし、財政も逼迫するだろうし、社会的信頼も失墜するだろうし、自らのキャリアにも悪影響を及ぼすだろう。恐らく、自身の政治的野心も永久に潰えてしまうだろう。しかし何事にも限界がある。少なくとも今、この瞬間はテーブルの上に持ち札を置いて、正々堂々と勝負をしたいと考えていた。
アリスチィーデスは唐突に席を立つと、しかめ面で通路へと出て行った。通路の先に州財務長官の姿を認めると、彼に会釈した。アリスチィーデス・バヘイロの顔はパッと明るくなり、満面に笑みを浮かべて、「令名高き友よ、ご機嫌いかがですか?」と声を掛けるべく、長官の許へと歩いて行った。
アウローラは父親が席を立ったことを一顧だにしなかった。体中はかっかと燃え盛っている。まるで頭が本来の大きさの一〇倍に膨れ上がり、公に晒される怪物のごとく、ボックス席に自分は収まっている。この髪型と言ったら、見るに耐えないわ! 頭の中で、美容院の例の馬鹿娘に悪態をついた。美容師はこの不格好な髪型をどうやっても矯正することができなかった。私のこの髪型について、皆は口を揃えて悪口を言うだろう。ここに来るんじゃなかったわ。気分が悪くなって来た。どのような姿勢で座席に腰を下ろして良いのか分からない。それに、どこに視線を向けたら良いのかも……。
「お母さん、私はお母さんの後ろの席に座った方が良くないかしら?」と、アウローラ。
「いいえ、アウローラ。そこに座っていなさい。あなたの髪型は申し分ないわよ。そう言ったじゃない」
「私は何だか落ち着かない気分なの……」
「あなたの好きなようになさい」
ヴェロニカは肩をすくめた。アウローラはそのまま動かなかった。呪詛の念を込めて、例の美容師の姿を睨み付けていた。顔は白色で、肌はガサガサしており、瞳は深緑色、髪は小麦色で、おぞましい臭いの安物の香水を振り掛けていた。世の中は、何と品の無い人々で溢れ返っていることでしょう! ああ! しかし、あいつがわざとやった訳ではないと誰が言えよう。私は店員たちが置かれている状況を知っている……。年端もいかない美容師たちは、自分たちが対応しなければならない全ての若い金持ちの客たちを憎悪しているのだ。憎悪と嫉妬だ。金持ちの娘たちが身に付けている洋服や、ファッションセンス、教養等、全てに嫉妬しているのだ。その報復として、彼女らは顧客の髪型を台無しにする。目に見えぬ鏡の前にいるかのように、アウローラはそこに映る自分の姿を見つめていた。髪型のせいで、私の姿は台無しだわ。あの美容師のことを、そしてこの劇場に集い、私のことをジロジロと見る人々のことを憎悪した。恐らく、人々はこの私のことを物笑いの種にしていると思うわ。そうした感情がアウローラの顔を曇らせ、“膨れっ面をする”子供のように唇には憤怒の表情が貼り付いていた。
丁度その時、ドトール・シィメーノ・ルストーザはハッカ飴を舐めながら、平土間席の中央通路を下っていた。時折、立ち止まり、背筋をピンと伸ばし、自分の座席を探していた。慌てる必要はない。自分は沈着冷静且つきっちりと物事に向き合う人間なのだ。全てにおいて、まだまだ時間に余裕があると思った。その上、人々の視線を感じることに快感を覚えていた。「自分はそのためにここに足を運んだのだ」と、自らに告白しなければならない。演奏会の演目にオペラが含まれていない点は、承認できかねた。ベートーベンのことを“気高き聾唖者”と、幾度となく述べてはいたが、実際のところ、彼の音楽は好きではなかった。演奏会に行くこと自体、品のある行動だという理由で劇場に足を運んでいたし、ルストーザ自身、数少ない芸術愛好家の一人として、自分が人々に認知されることを殊の外、好んでいたことから演奏会に顔を出したのに過ぎなかった。
ドトール・シィメーノ・ルストーザは自分の座席を見つけると、そこに腰を下ろした。先ず臀部を席に落ち着かせると、帽子の被り具合を直した。続いていつもやるように――お決まりのテクニックとコツを心得ていた――、“身の回りがどのような風か”を確認するために頭を巡らせた。知り合いの人たちの姿を認めた。それらの人々は皆一様に口許に笑みを浮かべると、親しげに挨拶をした。そして、執政官が到着しているかどうか確認するために視線をボックス席の方へと上げた。まだのようだ……。今、自分の居る場所なら、例の“男”の目に止まり、認識されるだろうと推測しつつ、最初の幕間になったら、その御仁に博識に満ちた挨拶をしようと考えた。
ポケットからプログラムを取り出すと、それをつぶさに観察した。〈トッカータとフーガ〉。バッハの曲だな。奴さんの作品は皆、極めて技巧的だ。まるでピアノの練習曲のように思える。犬っころが行ったり、来たりと……。教会に打ってつけの音楽だ。やれやれ……。お次は、チャイコフスキーの〈イタリア奇想曲〉か。「知っているとも!」。元州高等裁判所判事は海外の大都市で、不意に同郷人に出会った人が抱く喜びを込めて、心の内でそう叫んだ。そしてドビュッシーの〈喜びの島〉が後に続く。ドビュッシー何某については、何も語れない。シィメーノの心の中に住する、ヴェルディ愛好家はある種の憤りを募らせていた。ドビュッシーとは! 奴の音楽はただ単にオーケストラが楽器を調律しているものに過ぎない。この瞬間、舞台の閉じられた緞帳の向こうから聞こえて来る不協和音こそ、奴の音楽だと言える。ドビュッシーめ! ボルシェビズムめ! まさしく革命分子の音楽だとも。どのようにすれば奴を好きになれると言うのだ? ポケットから小さな缶を取り出すと、それを開け、白色の飴を一つ摘むと口の中に放り込んだ。ポケットに缶を戻すと、再びプログラムを注意深く見続けた。第二部はベートーベンの〈交響曲第五番〉一曲のみが演奏される。何とも馬鹿げている。第二部全てをあの“気高き聾唖者”に付き合わねばならないとは……。奴が迸り出るような熱情を持ち合わせているのも事実だ。時折、理解に難くない、美しい旋律が現われることもある。しかしながら、交響曲全曲ともなれば、余りにも過剰だと言わざるを得ない。やれやれ……。さあ、先に進もう。第三部はヴィラ・ロボス――別の気狂いだ!―とミニョーネ――「ドトール、より理解し易いです。あなたもご存知の通り、あなたにはかの大作曲家ヴェルディと同じく、イタリア人の血が流れているのですから」――の小品、そして最後にベルナルド・レゼンジ作曲の〈ブラジル組曲〉が演奏されるということだ。自分自身、唯一、関心があるのは、その組曲からいかなるものが生まれ来るのかを見てみたいということだった。
ドトール・ルストーザは注意深くプログラムを折り畳むと、知り合いを探すことに集中した。劇場は群衆で埋まっていた。先ほどにも増して、オーケストラの音が渾然一体となって耳許に届く。
執政官が到着した。ドトール・ルストーザは要人専用のボックス席に頭を巡らせると、彼に向かって大振りの仕草で挨拶をした。しかし執政官はそれに気づいていない様子だった。半ば当惑を感じながら、判事は自らの感情を隠そうとプログラムをさらに小さく折り畳んだ。悪かないさ……。幕間に挨拶に出向けば良いのだから……。
ノーラとリタはボックス席の前方の座席に腰を下ろしていた。ノーラは平土間席にロベルトの姿を探したが見つからなかった。リタは不安を抑えることがほとんどできない状態だった。今一度、愛してやまない、あの方の姿を見ることができるなんて……。これが最後になるかもしれないわ……。バッグにサイン帳を持って来た。でも、舞台へ行き、サインをしてくれるよう頼むためマエストロに近づいて行くと考えただけで手足が萎え、喉許が締め付けられ、顔がカッと熱くなった。そのようなことをする勇気がこの私にあるのかしら? ジルに一緒に行ってくれるよう頼もうかしら……。いいや、ノーラと一緒に行った方が良いわ。あるいは多分、いっそのこと行かない方が良いのかもしれない。もしかしたら人々は疑いを抱くかもしれないから。最後の最後になって、私自身が本心を漏らし、気絶してしまう危険も無いとは言えないわ。そうなると人々は皆、私の秘密を知ることになるだろう。既婚の男性に恋しているなんて! 意識を失った私は劇場から運び出され、救急車に載せられるかもしれない……。平土間席全体で人々の囁き声が交わされ、それらがボックス席へと伝わり、やがて張り出し席を通して、桟敷席へと達することになるだろう……。私は行かない。でも、これが最後のチャンスかもしれないわ! 二度とこんなチャンスは巡って来ないわ! 二度と! ああ神様! 私は可愛いかしら? 彼は私のことをどう思うだろう? 水色の洋服を着た、この私のことを……、そんな私のことを……。
ノーラは母親の方に身を屈めると、囁き掛けた。
「バヘイロ家の人たちが舞踏会のような衣装で来るなんて一体、どういうつもりかしら……」
リヴィアはぼんやりとプログラムを眺めながら口許に笑みを浮かべ、黙ったままだった。ジルは陰気で、不幸そうな雰囲気を漂わせ、意気消沈していた。どうしてもセッチの死を受け入れることができなかった。余りにも残酷な出来事だった。そのような人生の根拠なき事実に慣れることなど決してできない。彼の死が何らかの目的を果たすために用いられ、何らかの意図を達成するためのものであって、何らかの計画に従って実行され、何らかの筋書きの一部だったとは到底、思えなかった。自分は傷ついた。それも深く傷ついたのだ。自宅に戻り、その悲劇的な出来事を家族に話した時、新たに溢れ出る涙を堪えるのに苦労した。今、自分はここにいて、ここに来たことを後悔している。この時間も未だセッチは死体安置所の台の上に横たわっているだろう。始終、その気の毒な少年のことを考えずにはいられない。
ジルはきっと私に腹を立てているのだわ。チィルダは遠目で恋人の陰鬱そうな顔つきを目にし、そう思った。彼はもうこれ以上、私と付き合いたくないのだ。きっと私のことにうんざりしたのでしょう。私はキスをすることを許すべきではなかったわ。それに、どうしてジルはここに来なかったのかしら? 演奏がもう始まろうというのに……。こんな風に心配していたら、ちっとも楽しめないわ……。ジルは私のことを好きじゃないのだ。ジルは本気なのだ。その瞬間、体がカッと熱くなるのを感じた。目に見えないオーケストラから発せられる不協和音がチィルダの心をさらに掻き乱した。
「これはまさに王子様の舞踏会だ」
トニオは辺りを見回しながら、そう考えた。彼は思い遣りのこもった眼差しでチィルダをじっと見つめていた。あそこに王子様の宮殿に入ることが叶った“シンデレラ”の実例たる人物がいる。彼女の心にはいかなる不安が渦巻いているのだろうか? 真夜中に打ち鳴らされる鐘の音に怯えながら、果たして彼女は舞踏会を楽しむことができるのだろうか?
作家は平土間席やボックス席、張り出し席をつぶさに観察した。劇場には、ありとあらゆる場所からやって来る女たち、多くの夢を胸に抱いている女たち、不安に満ちた秘密を胸に秘めている女たち等、実に沢山の“シンデレラ”たちがいる。全ての根底にあるものは、いつだって自分たちが幸せになり、それが永遠に続いて欲しいという願望だ。トニオはまさに今のこの瞬間こそ、様々なドラマの一瞬であり、何十もの小説や伝記の中のエピソードの一つであり、無数の運命を織り成す横糸の一本だと考えた。
マルセーロは耐え難き不快感に苛まれていた。ここにやって来たことを後悔していた。なぜ自分がここにいるのか、その理由を自身に対しても説明することができなかった。祝宴ムードが漂う環境。過度の照明。それに加えて、あくまでも幸せそうで、世俗的且つ虚栄心に満ちた人間から発せられる生温かい臭いに対して、嫌悪感を抱いていた。劇場に身を置き、そこに漂う歓喜を共有することはある意味で、自らの過剰な寛大さの表われだと言えた。演奏会が終わる前にここを出よう。自分はむしろ、自らが立案した計画が滞りなく進んでいるのかを確認するためにここにやって来たのに過ぎない。ヴェロニカとその夫はボックス席に一緒にいる姿を認めた……。
「劇場は人で一杯だな……」
アリスチィーデスは弟と会話を交わそうと、そう囁き掛けた。
マルセーロは兄の方に向き直らず、ただ頭を縦に振っただけだった。兄に憎悪を感じ始めていた。その心に湧き上がる憎悪は、不毛ともいえる冷え冷えとした感覚や、人を愛する能力が欠如しているという痛ましい不信感を自身にもたらした。神に忍耐と、慈悲、そして自らの本能に打ち勝つための力を授けてくれるよう祈った。
アリスチィーデスから漂って来る香水の臭いに気分が悪くなった。しかし同時に、悪魔的ともいえる心地良さが感じるのも、これまた事実である。マルセーロは落ち着かなげに座席の上で体を捩った。アウローラの存在に言語に絶する気兼ねを感じる。それは、かつてアリスチィーデスの愛人の顔に姪のそれを重ね合わせたという、忌むべき記憶を心から消し去ることがどうしてもできなかったからだ。そうした置き換えによって、あたかも姪のアウローラが今日の状況を生み出した張本人でもあるかのように彼女を軽蔑した。愛人と姪を切り離して考えることができず、そのため当惑と恥辱、さらには自身に対する怒りに囚われ狼狽した。祈る必要がある。祈って、忘れるのだ。しかし一瞬一瞬、危険に晒されていることを思い出しては、常々、敵と対峙しているという強迫観念に晒されていたとしたら、どのようにすれば“忘れる”ことなどできようか?
遠くに、トニオ・サンチィアーゴの姿を認めた。彼を目にすると嫌悪を覚えずにはいられなかった。奴の小説によって、若者たちがいかに毒されていることか! 狡猾な手段で毒を撒き散らし……。作品には悪意が充満しているのだ! 奴がどれだけ否定したところで、ボルシェビズム信奉家であることは明白だ。奴に対して、この自分がやれることは二つしかない。つまり、奴を改宗させるか、あるいは抹殺するかのいづれかだ。これまで奴を教会へ導こうとあらゆる手段を尽くしたが、全て失敗に終わった。よって、今や奴を滅ぼす以外に選択肢は残っていない。トニオをじっと見つめながら、マルセーロは哲学的思考を持ち得ない人間を、あるいは精神的中味を伴わない人形たちを歩き回らせ、話しをさせる小説家がどのようにすれば、あれほど多くの読者を獲得できるのだろうかと、自らに問うた。奴は軽薄且つ表層的で、色彩と形態、それに逸話のみにしか関心がないのだ。教養もなければ、確たる信念も持ち合わせていない。それだからこそ、大きな危険を孕んでいるのだ。
マルセーロはある種、身の凍るような吐き気を覚えつつ、唯一、読むことができたトニオ・サンチィアーゴの小説の一節を思い出した。どのようにすれば、性的な問題をあれほど破廉恥に、嫌悪感を催させる明瞭な言葉を持って表現する勇気があるのか、どうしても理解することができなかった。恐らく、その赤裸々とも言える性表現こそ、奴が成功を手中に収めることができた理由の一つだろう。父親があのような極めて汚らしい小説を執筆しているとしたら、その家族は果たして品性や誠実さを持ち合わせることなどできようか? マルセーロは憐憫と悪意の入り混じった気持ちで、有害なほど若々しく、可愛らしいトニオの娘たちを凝視した。
ホールに鐘の音が鳴り響いた。平土間席は再び聴衆で埋まった。舞台では、少しづつ楽器が奏でる不協和音が消えて行く。照明が落とされ、薄明かりに包まれ、マルセーロは自らが包み込まれ、守られているような印象を受けた。
アリスチィーデスはモエマのことを考えていた。明日になれば、遠くからではあるが、競馬場の観覧席で彼女の姿を見ることができるだろう。
元州高等裁判所判事は三つ目の飴をしゃぶり始めた。少しづつ期待が昂まり、熱気を帯びた静寂が劇場を満たして行った。
ベルナルド・レゼンジは絶えず、落ち着かなげに腕時計に目をやりながら、狭い楽屋の中をあちらへ、こちらへと歩き回っていた。扉に寄り掛かって、マリーナは微笑みながら、そんな夫を見つめていた。今とほとんど同じような状況にいる夫を、これまで何度見て来たことだろう? 全く飽き飽きするわ。接着剤の酸っぱい臭いと舞台装置、湿気、虫喰いの板が積み上げられた劇場の舞台で、一生を過ごすことはできない。光が、空気が、自由が必要なのだ。また動作だけではなく、感情も、夢も、特に希望もまた不可欠なのだ。マリーナは夫が舞台に上がり、観客に背を向けて、自らの滑稽さや、凡庸さ、道化じみた様を披露できるよう、まるで女学生のように夫の燕尾服のお尻のところに紙の尻尾をピンで止めてやりたいと思った。だからと言って、本気でそのように考えている訳ではないし、実際にそんなことをやれるはずもない。もしそうでなければ、人生は茶番劇に過ぎないということになる。ベルナルドは妻にいくつか質問をしたが、彼女はそれらに答えなかった。なぜなら夫が返答を期待していないことを知っていたからだ。仮に自分が答えても、極度の緊張のため、その言葉は夫の耳に届かなかっただろう。紙の尻尾とは! そんな風に、劇場や、平土間席、経歴、栄光、聴衆、拍手喝采等、そうした全てについて、自分がどのように考えているのかを表現できるのだった……。楽屋の窓を通して、戸外を見やった。そこには満開の花に覆われた大きなパンヤの古木が青みがかった夜の帷の中に静かに聳え立っていた。身震いを覚えさせるような生暖かい風が吹いている。マリーナは娘のことを思い出し、すぐさま夫のことをあれこれと考えていたことを後悔した。何はともあれ、ベルナルドはジィシィーニャの父親なのだ。もし彼が何らかの行動を起こしさえすれば、恐らくまだ時間が残されているだろう……。理解のさらなる深化に努め、新たな人生に足を踏み出し、全てにけりをつけ、清算するために遅過ぎるということはない。しかし、そのようなことはできやしない! 夫はその必要性を全く理解していない……。つまり彼は精算や不一致が存在していることさえ知覚していないのだ。彼にとって、虚栄心が満たされ、人々が拍手をする様を目にし、鳴り響く拍手喝采を耳にし、自分を取り囲むファンたちの熱い体と視線を感じられれば、全てが順調なのだ……。
劇場の使用人が戸口に姿を現わした。
「マエストロ、そろそろ幕が上がります……」
ベルナルドは鏡に近づいて行くと髪を梳かし付け、燕尾服の襟の埃を払い、ネクタイを直し、しばらくそこで呆然と立ち尽くしていた。
「マリーナ、僕は決まっているかい?」
「ベルナルド、バッチリ決まっているわ。神のご加護を」
ベルナルドは舞台袖まで歩いて行くと、そこで幕が上がるのを待った。心は動揺していた。舞台に入って行く時は右足が先だ。それは一種の縁起担ぎだった。かつて一度、マナウスで左足から舞台に入って行った時、〈グアラニー序曲〉を演奏中、災難に見舞われたことがあった。
幕が開いた。袖からマエストロは暗闇に包まれた平土間席に陣取る人々の真剣な顔つきをじっと見つめた。人々の期待に満ちた一時が流れる。反対側の舞台袖で誰かが彼に合図を送った。唾をグッと飲み込むと、ベルナルド・レゼンジは背筋をピンと伸ばし、右足から舞台に足を踏み出して行った。六〇名から成るオーケストラの楽員たちは一斉に立ち上がった。割れんばかりの拍手が起こった。
公会堂の蔦で覆われた東屋の下を一つの影が歩いて行く。ロベルトだった。夜の帷が降りてから、行く当てもなくブラブラと彷徨い歩いていた。死体保管所でセッチの亡骸を目にし、悲しみと激しい怒りを覚え、息苦しい気分に苛まれていた。セッチを殺めた咎人を見つける必要がある。それに、この悲しみを癒す術を見い出す必要も……。神を責めるのか? 否だ。神は存在しないか、あるいは地上で人々が叫び、もがき苦しんでいる様を見聞きするには、あまりにも遠い所にいるのだ。糾弾されるべきは腐敗した、無関心に満ちた、気の毒な新聞の売り子のような子供たちを見殺しにするような社会ではないか? しかしながら、社会は目に見え、触れることのできる物理的攻撃に対して、脆弱な肉体を有する“人”ではない。もしそれがガラス窓だったら、石を投げ付けて割ってしまうのだが。しかしそのようなことをやってのける勇気は、この自分にはないだろう。神経を逆撫でしているものは激しい怒りだけではない。それは突如として湧き上がる思い遣りや、人との触れ合い、友情、共存、相互理解への渇望が込められた悲しみでもあった。加えて、幸せになりたい、優しくされたいといった熱望でもあった……(脆弱且つ感傷的な感情に囚われてしまったことにぼんやりと後悔していた)心の奥底で、この自分が本当の意味で必要としているものは、ノーラだった。それこそ再認識すべきことなのだ。今晩、自分は泣きたい気分だ。それも、思いっ切り泣きたい。長き年月に渡って堪えて来た涙を――それは耐え難き重荷のようなものだ――解放したいのだ。しかし激しい怒りと羞恥心が泣くことを止めた。そうした心境の中、日が暮れてからずっと咎人と慰めを求めて彷徨い歩いていたのだった。
劇場の近くまでロベルトの足は向いた。公会堂の背部にあるテラスの欄干へと近づいて行き、建物に設えられた赤色と青色に点滅するネオン広告をじっと見つめた。耳許に音楽の調べが届く。バッハだ。その曲をレコードで聞いたことがある。サン・ペドロ劇場の窓から漏れる音楽が夜空に向かって鳴り響く。それはまるで自分が憎悪する、あるいは憎悪すべき、富み太り、安寧に甘んじる社会から発せられているように思われ、嫌悪を感じた。今すぐにでも劇場に駆け込んで行って、「お前たちがセッチ・メーイスを殺したのだ! 死者のことを考えるために僅かでも良い、黙祷を捧げろ!」と叫びたい衝動に駆られた。同時にそのような大袈裟とも言える行為に恥じらいを覚え、あたかも実際にそれをやってしまったかのように感じ、顔を赤らめた。花が満開のパンヤの木をじっと見つめた。花々はピクリとも動かない。その古木は厳しく、寡黙で、周りにじっと耳を傾けているように思われた……。劇場は巨大なジュークボックスのようだ。音楽の調べがロベルトを包み込み、星空の真っ只中へ、忘却の彼方へと放り投げようとしている。しかし彼はそれに抗った。屈服することを良しとしていなかったからだ。そこで激しい怒りに固執し、さらなる悲しみの深みに身を沈めた。音楽はまさに喚起と思い出、楽園の約束に満ちた、うねり狂う波であった。ロベルトは一人ぼっちで難破し、波の天辺まで持ち上げられることを拒むように、悲しみに打ち沈んだ夜の海底に生える海藻にしがみ付いていた。
バッハ。死体保管所にあるセッチの亡骸。ボックス席にいるノーラ。パンヤの木。光り輝く電飾広告。氷のような三日月。ロベルトは叫びたかった。自分はこの世界に一人ぼっちでいるような気分だった。そこで少年の死を嘆き悲しみ、涙に暮れているのだ。少なくともセッチの両親がどこに住んでいるのか知っていたなら……、彼らに会いに行って、何か言葉を掛けることができるのだが……。しかしながら警察も含め、その少年の住処を知っている者は誰一人としていなかった。
数分が経過して、音楽が鳴り止んだ。盛大且つ熱狂的な拍手が長々と続くのが聞こえた。
「さあ、楽しもう。この素晴らしい人生は直に終わるのだから」
ロベルトは歯を噛み締めるように、そう呟いた。
あそこに集っている人々は自分たちが生きているこの瞬間を実感することなく、世界で起こっている変化にも気づいていないなんて信じ難い。多くの哀れな人々の汗と涙と血で築かれた建物はひび割れ、崩れ始めている。対して、人々は音楽に耳を傾け、浮かれ騒いでいる。しかしながら“時”は近づきつつあるのだ。
ロベルトは正直なところ、自らが抱く憎悪がどれほど強く、真実味を帯びているのか分からなかった。なぜなら彼自身の感情のほとんどが修辞的性格を帯びていたからだ。それは本能的傾向というよりも、むしろ形式や言葉、理論で形成されていた。つまり、肉体や神経をもって感じるものではなかったのだ。ロベルトは認めたくはなかったが、自分を真の意味で突き動かす感情は憎悪や復讐心、あるいは暴力から生まれるものではなく、むしろ相互理解と兄弟愛への尽きることのない大きな願望や、平和と調和への渇望から生まれ出るものだった。我が全人生とは“イルマン”[“兄弟、同志”の意]を探すことに加えて、叶わなかった夢を巡る辛苦に満ちた旅なのだ。この自分はこれまで一度として手にしたことのない家族を求めて、彷徨う男なのだ。自らが掲げる目標は明確且つ穏便なもので、血に染まる、混乱に満ちたものではない。自分は新聞売りの少年や工場労働者、質素な路上生活者、放浪者との交流と相互理解を通して、兄弟愛への渇望を満たしたい……。他方で、自分の政治意識はそうした願望を、その性質上、認めることを拒絶し、あくまでも十戒とマニフェストに準じて考えるように努めた。なぜならそれから逃げることはある意味で、兄弟愛の感情そのものを裏切ることになると気づいたからだった。
今、劇場の中で演奏され始めた曲は華麗で、優しく、人を惹きつけて止まない陽気なものだった。ロベルトは歯と歯の間で煙草を強く噛み締めながら、ゆっくりと頭を横に振った。通りの下方では、路面電車の電気ケーブルから発せられる緑色の火花がチカチカと瞬いている。その様は意図的に行われているようで、劇場の中で流れる音楽に対する的を得た解説のように思われた。不本意ながら、ロベルトは一瞬ではあるが、美しい旋律に屈し、それに身を任せた。あまりにも疲れていて、頭がぼんやりとしていた。ノーラが自分の横にいて欲しかった。今日の午後の逢い引きの際、彼女に対してあまりにも粗野な態度で接したことに後悔を感じていた。一刻も早く彼女に会って、何らかの愛情のこもった態度を取るか、あるいは優しい言葉の一つでも口に出して言わねばならない。どれほどこの自分が彼女のことを愛しているのかを口に出して言う必要があるのだ。恐らく彼女は家族を捨てて、自分の許に来るということに納得してくれるだろう。二人一緒なら、きっと馬鹿でかいことができるだろう。彼女はこの自分の人生の空虚を埋めてくれるだろう。彼女から刺激を受ければ、幾倍も戦う勇気が湧いて来るだろう……。これ以上、自分を偽ることはできない……。自分はノーラを愛しているのだ。限りなく! 途轍もなく!(心の中では、そのように誠実且つ熱のこもった形を取って感情が表出されてはいるが、こと自らが抱く激しい恋心は依然として、馬鹿げていると考えていた)パンヤの木のごとく夜は穏やかだった。空には月が浮かんでいる。今、この瞬間、我々二人は話しながら、蔓棚の下を並んで歩くことだってできる。二人の意見が完全に一致しないことなど有り得ないだろう……。演奏会の最初の幕間まで待つことにした。ノーラもまた、この自分と出会える期待を胸に劇場の玄関扉までやって来るような気がした。
夜露に濡れた茂みから発せられる野の新鮮な匂いが鼻腔をくすぐる。まるでその香りが劇場から漏れ聞こえて来る音楽の一節となり、夜に溶け込んで行くように思われた。
そこから数ブロック隔てた下町の巨大な“コンチネンタル・スタジアム”から空に向かって、酷く興奮した群衆の叫び声が響き渡って行った。
天幕で覆われたスタジアムの中では、観客たちが煌々と照らされたリングを取り囲んでいた。リング上では、二人の男がパンチとキックを繰り出し、交戦していた。二人の格闘家は筋肉隆々で、胸板は途方もないほど広くて厚く、頑強な拳に、雄牛のごとく太い首、脚は野獣のごとく毛むくじゃらだった。そのスキンヘッドの男たちは汗みずくで、激しく息を喘がせていた。巨漢の類人猿のごとく相手を威嚇しつつ、両者は対峙していた。時折、格闘家の内の一人が一撃を狙いつつパンチを繰り出した。対戦者の一方が相手の腰を掴み、空中に体を持ち上げることができた瞬間があった。それをやってのけるため、彼は野獣のごとき唸り声を張り上げた。そして対戦者を背に担いだまま独楽のように回転し始め、数回転した後、相手を激しくリングに叩きつけた。“ドスン”と鈍い音が響き渡った。観客席の中程、三列目の座席辺りから金切り声が上がった。
「凄いぞ! 奴の肋骨はバラバラだ」
叫び声を上げたのは、アウレーリオの隣の席に陣取るコロネル・キムだった。彼の目はギラギラと輝いていた。闘鶏に代わり、眼前で繰り広げられるその光景に男性的な雄々しさを感じ取ったのだった。気力が甦り、自分が若返ったように感じ、幸せな気分になった。興奮して孫を肘で突ついた。観客たちは大声で叫び、野次を飛ばし、拍手を送り、「もっとやれ!」と言わんばかりにけしかけた。
“泥蟹”はリングに倒れている敵の胸に全体重をかけて飛び載った。次の瞬間、捩じ伏せられていた方が口を歪めて呻き声を上げ、何やら呪詛の言葉を呟くと、のしかかっている相手にヘッドロックを掛けた。「殺せ!」。「首を絞めろ!」。「叩きのめせ!」。人々は口々に叫び、口笛を吹き、足を踏み鳴らした。叫び声の波は非常に濃密且つ強かったため、スタジアムの天幕が裂け、空中に飛び散ってしまうかのように思われた。観客席は驚嘆すべき多種多様な仮面と、ありとあらゆる表情に彩られていた。憎悪に、恐れ、陶酔、懸念、背徳感等、思いつく限りの全ての感情がそこに居並ぶ、小麦色や白色、赤色、灰色、土色、黄褐色、薄墨色、黄色の肌の人々の顔に浮かんでいた。一人の太った、興奮した男が、「血を! もっと大量の血を!」と、大声で喚き散らしている。座席の一列目で薄い色合いの目をした、痩せぎすの女がヒステリックな金切り声を上げている。陶酔に浸る彼女の目は、四本の腕に四本の脚、二つの頭の奇妙な怪物のごとく絡み合う男たちに釘づけだった。
アウレーリオは口許に笑みを浮かべていた。彼は祖父と五〇ミル・レイスの賭けをしていた。老キムは“キッド・ブラジル”に、思慮深いこの俺は“泥蟹”に金を賭けていた。キムは激しく足を踏み鳴らしている。やがて咳の発作に襲われ頭を傾げると、地面にペッと痰を吐いた。アウレーリオは自分が賭けている“競走馬”に、「“泥蟹”、負けるなよ!」と励ましの声を張り上げた。歓声は止むことなく続いている。格闘家たちは激しく息をし、呻き声を上げ、リングの上を転げ回っている。痩せぎすの女は恍惚の眼差しで、その二人を凝視していた。
突然、叫び声が上がった。「血だ!」。“キッド・ブラジル”は口から血を流している……。熱狂は頂点に達した。観客の雄叫びが空に向かって響き渡って行った。
しかしながら、星々は穏やかに瞬き続けている。月光はサン・ジョアン地区とナベガンチス地区の間を照らし、沼に反射している。そこではカエルがケロケロと鳴いている。
セッチ・メーイスの家には明かりが灯っていた。トリピーニャがコンコンと乾いた咳をしている。玄関の扉が開くと、セッチの母親が姿を現わした。通りの入り口に目をやる。そして間を置かず、家の中に向かって言った。
「あの恥知らずは一体、どこに行っちゃったのかしら?」
台所の奥から夫の声が聞こえた。
「また沼で水浴びでもしているのだろうよ。あいつはくだらんことしかやらんからな……」
母親は数歩踏み出すと、沼地の茂みの方に目をやり、叫んだ。
「セッチ・メーイス! 家に帰って来なさい!」
その声は遠くまで響き渡った。それが消えると、後にはカエルの合唱のみが鳴り響いていた。
演奏会の第一部の最後の演目が終わると拍手喝采が余りにも熱狂的だったため、ベルナルド・レゼンジは何度も舞台へと戻らなければならなかった。やがて幕が降りると、マエストロは意気揚々と舞台裏へと歩いて行った。胸や目は火が付いたように熱く、体は地に足がついていないような感じだった。今晩の滑り出しは上々だった。それに、この自分は持てる力を全て出し切っている訳ではない。ベートーベンの交響曲に備えて、さらには今晩の演目のクライマックスたる〈ブラジル組曲〉のためにも力を温存しているのだった。歓声に混じり、拍手が止むことなく続いている。聴衆はアンコールを熱望しているのだ。ベルナルド自身もそれを期待していた。実のところ、周到にアンコール曲を用意してあった。ラヴェルの“パヴァーヌ”を演奏するつもりだ。そこには二つの意図が込められていた。一つはベートーベンの〈交響曲第五番〉の荘厳さへの前準備として、哀しくも甘い何ものかを提示することだった。今一つはストコフスキーのごとく、モーツアルトからドビュッシー、ストラビンスキーからバッハに至るまで、ありとあらゆる楽曲をこれまで指揮して来たことを聴衆に示すためだった。
拍手の音はトタン板の屋根に打ち付ける激しい雨音のようだった。ベルナルドは微笑むと、幕を上げるよう合図を送った。そして幕が上がると、舞台へと戻って行った。拍手の音はさらに強さを増した。程なくして、再びホールに静けさが戻った。自分から見て、左手の三番目のボックス席にさっと視線を向ける。そこには翡翠色の服を全身にまとい、髪を後ろに束ね、謎めいた微笑みを浮かべているコブラ・ノラートがいた。マエストロは「ラヴェルの〈亡き王女のためのパヴァーヌ〉を演奏します」と、聴衆に告げた。心の動揺からだけではなく、自身のフランス語発音の欠点が気になるためか、ためらうように、小声でそう言った。平土間席の最後列の観客たちは彼が何を言っているのか、はっきりとは聞き取れなかっただろう。ドトール・ルストーザは“パヴァーヌ”という言葉がはっきりと聞き取れず、さらに“インファンテ[“王女”の意]”という言葉が“エレファンテ[“象”の意]”と聞こえた。そこで彼は曲名を〈亡き象たちのキャラバン[カラヴァーナ・ドス・エレファンテス・デフントス]〉と訳した。何とも奇妙な曲名だ……。
リタは両手を握り締めていた。演奏中、ずっと催眠状態に陥っていた。ベルナルド・レゼンジは他の夜に比べて、ハンサムで光り輝いているように思われた。そのせいで、彼女はさらに不幸な気分になった。全て終わりだわ。私は彼以外の男性を愛することは二度とないでしょう……。
ノーラはロベルトが観客席にいないか探していた。しかし、そこには彼の姿はなかった。多分、彼はここに来なかったのだわ。しかし恋人がそう遠くはないところにいるような気がしてならなかった。ひょっこりとボックス席に姿を現わすのではという期待を抱き続けていた。奇妙な感じだわ……。一種の確信のようなものを感じるもの……。
マエストロは両腕を上げた。“パヴァーヌ”は物哀しげな子守唄のごとく、這うような悲哀と僅かばかりの物憂げさを漂わせ、始まった。メロディーが劇場に響き渡る……。マリーナの魂に痛ましい過去がありありと甦って来た。夜を、家々のシルエットを、星々を、木々を眺めながら、楽屋の窓の側に腰を下ろしている時でさえも、四本の大ロウソクに囲まれた棺に横たわるジィシィーニャの姿を見ているのだった。娘は百合のように純白で、微動だにせず、氷のように冷たく眠っていた。絶望感が甦る。あの日感じた胸が張り裂けんばかりの痛みを……、自らの中で何かが壊れた感覚を再び呼び醒まされるわ……。なぜ神はあのようなことをなされたのだろう? なぜ? あの子が死ぬことで、誰が得をすると言うのだろう? 一体、誰が? 夜は静寂に満ち、穏やかに風が吹き、木々は微睡んでいる。きっと私の亡くなった王女の墓の上には草木が生い茂っていることでしょう……。
リタは込み上げて来る涙を堪えることができなかった。今、演奏されている曲の曲名を父に尋ねた。父はフランス語で曲名を告げた。ノーラはそっと妹の耳許で、そのフランス語を翻訳し、囁き掛けた。
「〈亡き王女のためのパヴァーヌ〉よ……」
でも、その“パヴァーヌ”って何かしら? きっとダンスか、何かその類いのものに違いないわ。“亡き王女”……。リタは子供の時分、ジルが壊した人形のことを思い出した。それはお父さんがクリスマス・プレゼントにくれた、オランダの田舎娘の可愛らしい人形だった。子守唄のような音楽を聴くにつけ、地面に叩き付けられて、頭が粉々に砕け散った人形の姿が脳裏に浮かんだ。心の中で、その人形は自殺した見知らぬ女の姿に取って代わった。その自殺した女の顔はまさに人形のそれだった。その人形の顔こそ他の誰でもない、地面に叩き付けられて死んだ自分自身、リタ・サンチィアーゴの顔だった……。
ノーラは“パヴァーヌ”が自分にもたらす憂鬱な気分に抗おうとしていた。ロベルトのことを、さらには彼に関わる全ての問題について考えを巡らせた。“空飛ぶ象”のおかしな耳のことを思い出し、微笑んだ。しかし、もうすでに“パヴァーヌ”は始まっているのだ……。王女も死に、シンデレラも死ぬ。舞踏会に行って、死ぬのだ。皆、死ぬのだ。馬鹿らしい! それは真新しいことでも、何でもないわ。
平土間席を見廻した。どうしてロベルトはやって来ないのかしら? 私たちの関係はもう終わってしまったのかしら? 自分にそう囁き掛けたのは音楽であり、“パヴァーヌ”によってもたらされる幻滅だった。同じラヴェルでも〈ボレロ〉の方がずっと良いわ。もっと生き生きしているのですもの……。ノーラは悲しいことが好きではなかった。口笛を吹き鳴らしたい気分になった。そこで、心の中で口笛を吹いた。しかし無駄だった。仕方なく、マエストロの方をじっと見つめた。黒色の燕尾服に、白色のシャツ……。昨日の午後、電話線に止まっていた燕のことを思い出した。さようなら! 私たちの関係は全て終わったのだ。いや、そんなことはない。私自身、そのような予感がするもの……。きっとロベルトはそこいらをほっつき歩いているのだ。もし私が劇場の玄関口に姿を現わしたとしたら……。しかし“パヴァーヌ”は告げる。
「二度とそのようなことはない。全てが死に絶えるのだ。全てが失望だ。気の毒な王女のために涙を流すのだ」
それにノーラは反駁した。
「いいえ、誰も死にはしないわ。明日になれば、全てが好転するのよ。私は知っているの! それをね!」
音楽は一瞬、瀕死のごとき曲調から離れ、少しばかり生命力を帯びた、そう、王女の死という現実に対する反駁、あるいは心情の吐露を試みるがごとき旋律が導入された……。
ベルナルドは娘のことを考えていた。しかしながら、娘に対する思慕の情は、色褪せた悲しみは、勝利の歓喜や、ほどなくしてベートーベンの交響曲とその後に続く自作の組曲の演奏への心踊る期待によって形成された厚く、光り輝く、熱情に満ちた層を突き破ることはできなかった。“パヴァーヌ”の指揮に集中すべく、ジィシィーニャのことを頭から追い出した。「ベルナルド、あなたの手はとても雄弁よ!」。全てを焼き尽くし、光り輝く光線のごときレナータの視線が自分に注がれているように感じ、手の甲に痒みのようなものを感じた。
アウローラは舞台を見つめていた。しかし実際のところ、彼女が見て、感じて、苦悩しているのは、自身の髪型のみだった。時が経つにつれて、ますます苛立ちが募って行く。
ボックス席の奥に身を潜め、マルセーロは劇場のことも、自分を取り巻く人々のことも頭にはなかった。劇場で流れる音楽は何処か遠い世界から発せられているかのようで、まるで風で運ばれて来るように微かに彼の意識に届いた。神のことを考えた。肉体も、地上での心配事も、情欲も、人類のことも忘れるように努めた。“パヴァーヌ”でさえも、自らに黙想することを促していた。結局のところ、それも遥か彼方から聞こえて来る子守唄なのだ。神はいらっしゃる。神と平和だ。忘却と永遠だ。死ぬことはきっと良いことに違いない。そう考えると心が軽くなった。まるで川の流れに身を任せ、水面を漂っているような感じになったのだった。
アリスチィーデスは目の端で弟をじっと観察していた。あの狂信者は一体、あそこで何をしているのだ? 奴は人々の集まりも、パーティーも好きではなく、音楽の熱烈な愛好家でもない……。きっと公の場に夫婦揃って顔を出していることを確認するために、ここにやって来たのだろう……。何とも結構なことだ。そして、この俺、アリスチィーデス・バヘイロは喜劇的な役割を演じ、それを果たしている……。ヴェロニカの背中を見た。モエマのそれと比較せずにはいられなかった。彼女に会いたくて堪らない……。そんな風に思うとは、心が軟弱になっている証拠だ。きっと哀しげな音楽のせいに違いない。全くもって哀しくて、うんざりさせ、眠気を催す音楽だ……。クラブでの他愛のないポーカーのようだ……。今、この時間、モエマは一体、何をしているのだろう? 明日になれば、競馬場の観覧席で彼女と会えるさ……。
頭の中で、少女の金髪と競走馬“パンペイロ”の燃えるような真っ赤なタテ髪と緑色の騎手服が混ざり合っていた……。馬の脚と蹄の音。舞い上がる砂埃り。群衆が身振り、手振りをしながら歓声を上げる様が渾然一体となって目に飛び込んで来た。緋色の服を着たモエマ、タテ髪、髪、脚、太腿、背中……。最悪なのは、未だベートーベンの交響曲を全部と嫌気を催すであろう組曲に我慢して付き合わなければならないことだ……。アリスチィーデスは諦めるようにフーッと溜め息を漏らした。
“パヴァーヌ”は第一主題に戻った。その悲哀に満ちた旋律は失望と宿命とも言える死を示唆する。トニオはその音楽の中に、毒気を帯びた特性のようなものを見い出した。ベートーベンの曲の一節に見られる特性とそれとを比べてみると、葡萄の果汁で作られたワインと、実験室で化学物質を配合して作られたワインぐらいの差がある。まさに“パヴァーヌ”の持つ特性は後者のごときものだと言えた。否定できない点は後者のそれも、それなりに美味だということだ。そしてメロディーそのものは、少しばかり貴族的且つ気品に満ちた憂鬱さが見受けられる。その点からも、王女に捧げられた楽曲であるということは何の疑いもない……。よって、それはジョアーナ・カレフスカには相応しくないだろう……。“しがない”女店員たるジョアーナは今朝、この自分が実際に目撃した取るに足らないみすぼらしい葬儀以外のことを期待することができなかっただろう……。
州高等裁判所判事は妄想に耽っていた……。始終、象の長いキャラバンを想像していた。その音楽を現実のイメージに照らし合わせて解釈しようと努めていた。そうとも、あの緩やかで、這うようなメロディーは日没に砂漠を進む、愚鈍で巨躯の象がノシノシと歩くリズムを表現しているに違いない。何とも素晴らしい! 自身のそうした発想を褒め称えた。欠伸を噛み殺し、音楽に合わせてゆっくりと一定のリズムで頭を振りながら、時計を見やった。九時二〇分だった。演奏会は夜遅くに終了する。象たちのキャラバン。しかし、なぜ“死んだ”という形容詞が付いているのだろう? 何か理由があるはずだ……。結局のところ、法にのみ論理が存在する。鋼鉄の論理が。“悪法も法なり”だ。芸術というものは子供が喜ぶ玩具のごときものだ。絵画的、あるいは音響的詭弁に過ぎないのだ。何とも素晴らしい表現だ! 幕間になったら、誰かにそれを教えてやろう。法には詭弁など存在しない。言い訳というものもない。再び欠伸を噛み殺す。死んだ象たち……。良いとも! 時折、音楽が緩やかなワルツをリフレインしているように思われた……。
判事は臀部が焼けるように熱く感じた。座席の上で身を捩る。幕間にガラナ[ブラジルに広く流布している清涼飲料水]を飲むとしよう。腎臓の調子が良くないのだろうか? “もしもし、どのように感じます? 腎臓の不調でお悩みですか?”。何ともくだらないラジオの宣伝広告の文句だ。そうしたものは耳を伝わって入って来て、記憶に刻み込まれる。低レベルの宣伝は禁止されるべきだ。死んだ象たちのキャラバン。アンコールなんてものは容易に省略できたはずだ。そのようなオマケは不要だ。判事は一度として“オマケ”という言葉を書き記したことがなかった。“平民身分”や“共産主義”という言葉も同様だ。そのような言葉はロシアで論争の際に用いられると言う。“雪原の血”。“空調”。ところで我々の劇場には、いつになったらその空調とやらが設置されるのだろう?
ドトール・ルストーザは頭で拍子を取って、メロディーを追おうとしたが無駄だった。頭で拍子を取り、気分良くメロディーを追うことのできない音楽は“未来派”の賜物だ。それこそ、この自分が提示出来得る最も強い根拠だ。判事はラヴェルを罵りながら、座席の上で身を捩った。
マリーナは未だ娘のことを考えていた。全てが終わってしまったのだ……。人生を生きる価値などない。我が王女、我が花、我が夢であるジィシィーニャが死んでしまったのだから。この私、マリーナもまた死んでしまったのだ……。公園の木々の下で過ごした、光り輝く一時の出来事を思い出した。リタは劇場に来ているかしら? こんな人混みの中で、あの子を見つけるのは難しいわ。多分、彼女と会おうなどと考えない方が良いわね。リタは夢のように私の前を通り過ぎて行ったに過ぎないのだから。青空を背景に枝に止まる黄色の羽根の鳥たち……。写真……。午後……。マリーナの目は涙でかき曇った。
ジルはセッチのことを考えていた。死んだ新聞売りのための“パヴァーヌ”なのか? いいや、違う。粗末な棺。共同墓地。忘却。ああ……。人生は不条理に満ちている。自分はそれをどうしても理解することができない。
トニオは息子の顔に痛々しい表情が浮かんでいるのを見て取った。彼の思考と感情がいかなるものかを想像した。ジルの心の中には、死んだ男の子がいるのだろう。その他は……。全ての人々は一人ぐらい亡くなった人のことを記憶の中に留めているものだ。いかなる人間にしろ、心の中に亡くなった王女がいるものだ。トニオは大部分の人間に“死体性愛”といった顕著な傾向があることを発見した。それは生命を失ったものや、生き物に強い愛着を持つという傾向だ。死者たちが宇宙のどこかで霊魂や概念、木や花や果実、あるいは石となり生き続けていると想像する代わりに、そうした人々は全生涯を通して、亡骸や腐敗分解過程にある遺体、骸骨、死に対するイメージを崇拝し、引き摺り続ける傾向があるのだ。我々はそれに反発する必要がある。死と同盟を結ぶべきではないのだ。なぜならそうすることによって、事態はさらに悲劇的且つ破壊的なものになるだろうから(作家は“パヴァーヌ”に抗いながら、そう考えた)我々ができることは、完膚なき絶滅という考えに異議を唱えることぐらいだ。トニオは澄み渡った水平線や、新鮮な空気、美しいイメージの必要性を感じた。なぜ亡くなった王女のために“哀しげなパヴァーヌ”なのだろう? 「死者は死者を埋葬せよ」と、聖書にも書かれているではないか。亡き王女のために、あるいは失われた全ての夢のために、それから生きるためのさらなる勇気を得るために我々がやれることとは……。
トニオはノーラを、リタを、ジルをじっと見つめた……。我が生きている王女たちのために“大勝利のマーチ”を作る必要がある。人生を歩み始めたばかりの、その子たちのためにより良い世界を構築する必要があるのだ。そうとも、恐らくそれこそが、今の時代を生きる人間たちに課された最も重要な使命だろう。バヘイロ家の旧態然とした世界は終焉を迎えようとしている。その世界自体、多分、死の間際にあるに違いない。しかしジルも、その他の者たちもいる。大地は広大だ。我々は客間に亡者を留め続けるべきではないのだ。なぜなら生きている者たちがそれを怯えて、家から逃げ出すことになるであろうから。悲しみという毒は魂を殺す。“生きている”お姫様たちの面倒をしっかり見よう。彼女たちは我々に人生について、大空について、春について、未来について、光りについて語るだろうから(しかし今、流れている音楽はそれら全てを否定していた)彼女たちこそ希望であり、美であり、太陽のごとき力であり、無上の喜びである。悲嘆に暮れるジルの顔を見つめながら、トニオはそう考えた。
メロディーは空気の中に溶け込んで行った。しばし沈黙があった。その後、熱狂的な拍手が起こった。ベルナルド・レゼンジは聴衆の方へと向き直った。
ベルナルドに挨拶をしようと詰め掛けたファンで舞台は埋まり、謝辞やお辞儀、握手の合間にマエストロは内容が乏しくも、気取った物言いをし始めた時(「ラヴェルは劣化したドビュッシーだ……」)、マリーナはその場から離れる決心をした。共犯を疑われたり、証人として召喚されたりするのを避けるため、犯罪現場から逃亡を図る者のように行動した。男たちや女たちを掻き分けて進みながら、マリーナはこれまで以上にベルナルドとは何一つとして共通する点がないとひしひしと感じていた。通路には賑やかな一団がそこかしこに集っていて、陽気な調子で演奏会について批評していた。マリーナはロビーに出ると、しばし何をすれば良いのか思い付かなかった。少し考えた後、少しばかり劇場に面した公園を歩くことにした。
戸外へと足を踏み出す。爽やかな夜気に触れていると穏やかな気分になった。一人でいると気分が良くなるわ。芝が敷き詰められた花壇の間をゆっくりと歩き始める。こんな時間に一人歩いている内に、男を狩るために通りを徘徊する売春婦たちのことを思い出した。罪悪感のような奇妙な感覚に襲われる。もし誰かが近づいて来たら、自分は何を言い、何をやるだろうかと想像した。ベンチに腰を下ろすと煙草に火を点けた。夢の中に出て来た男性のことを、そして今日、一日中感じていた肉体的欲求について考えを巡らせた。煌々と光が灯る扉と窓が設られた古い劇場を、遠く聳える摩天楼のシルエットを、そして月をじっと見つめた。それら全ては――夢も、演奏会も、自らの人生も全て――馬鹿げていて、全く無意味だ。
歩道に足音が聞こえた。そちらの方を見た。一人の男がこちらに近づいて来る。意に反して、マリーナは心臓の鼓動が早まるのを感じ、同時に邪な好奇心を帯びた、おどおどとした期待という奇妙な感覚が胸に生え出た。その見知らぬ男はベンチの前を通り過ぎざまマリーナの方を見やり、歩調を緩め、躊躇しつつも一瞬、立ち止まった。しかし直ぐに再び歩き始めた。マリーナはその男をまじまじと見る勇気がなかった。ベンチから立ち上がると、花壇に煙草の吸い殻を投げ捨て、急いで劇場の方へと歩き出した。
劇場に入る前、マリーナは玄関の階段を降りて来る一組の若い男女を目にした。それはノーラとロベルトだった。マリーナはその二人を思い遣りを込めてじっと見つめるため、その場に立ち止まった。きっと新婚ほやほやのカップルだわ。その二人の間に割り込んで、彼らの腕を取り、こんな風に語って聞かせたい気分になった。
「もしお互いに理解するように努め、結婚の初日から過ちを犯さないようにできたとしたら、どれほど人生は素晴らしく、美しく、幸福に満ちたものになることでしょう。全てがすべて、小さな瞬間、瞬間の積み重ねによるものなのだから……。たとえば今、二人が共にする瞬間とか……。時折、一語が愛、あるいは人生の前途を決めることがあるのよ……」
いや、止めておこう……。人は熱情によって駆り立てられ、自分が何をやっているのかを見失うことが常であるということをマリーナは知っていた。恋は人を盲目にし、イメージや言葉そのものも変質させてしまう。熱情は人やものの外面すら変えてしまうのだ。ホッと溜め息をつくと、劇場へと入って行った。
「君は僕がここにいるのを知っていたのかい?」
ロベルトはそう尋ねた。ノーラは彼の腕を取った。
「何だか予感がしたのよ……。普段はそういうことを信じないんだけどね……」
「僕は信じているよ。なぜなら僕も君と同じ予感がしたから」
「運命かしら?」
そう言うと、ノーラは微笑んだ。
「そうじゃないかな。まさに運命だと思うよ」
二人は黙ったまま、しばらく歩を進めた。
「ロベルト、幕間は一〇分ぐらいよ……」
「なぜ、そんなことを言うの?」
「なぜなら私たちはお話しすることが沢山あるもの……」
歩道の終わりまで行くと、再び元来た道を引き返し始めた。提督の帽子を被り、白いエプロンをつけた男が二人に声を掛けて来た。
「ホットドッグはどうだい?」
「一つどう?」
ロベルトはほとんど何も考えずに、そう尋ねた。
「いただくわ」
ロベルトはどことなく心地の良い驚きを感じていた。この僕がこんなに積極的に振る舞い、単純な意思表示をするなんて……。
二人がそれぞれの手にホットドッグを持って歩き始めた時、ロベルトは尋ねた。
「君のお友達が今のような君のことを見たら、彼女たちは何と言うかな?」
ノーラは肩をすくめた。
「彼女たちが何を言おうと、大したことじゃないと思うけど……」
「そんな君のことを見るのが好きだということを知っているかい?」
「私もそんなあなたを見るのが好きだっていうことを知っているかしら?」
しばしの間、沈黙を噛み締めながら、二人はあっちに行ったり、こっちに行ったりした。ロベルトは“セッチ・メーイス”が死んだことを話したかったが、そのような勇気がなかった。しかしそれを知らせることこそ自分に課せられた義務であり、さらにはそれがある意味で、ノーラと自分との将来の関係に関わることだと考えた。結局のところ、それについて語り始めた……。
「私は全て知っているわ」
ノーラはそう口を挟んだ。
「ジルがそれを実際に目撃したのよ……」
再び沈黙が降りた。二人は劇場に隣接した木々に覆われた庭にある欄干にもたれ掛かった。
「ノーラ……。もし我々が彼らの生活、人生をより良きものとなるように何かすることができたとしたら? 僕はセッチのような他の子供たちのことを言っているのだよ。あたかも何事もなかったかのように暮らし続けるのって正しいことと思うかい?」
「ロベルト、一体、私たちに何ができると言うの?」
「話して……、書いて……、示すのさ……。それらをやり続ければ、いつの日かきっと人々の耳に届くはずさ。結局のところ、我々は皆、人間であることには変わりがない。ただ自分たちの幸福のみを追求する余り、感覚が麻痺させられているだけのことさ……。君は僕と一緒に歩む気はないかい?」
ノーラは真剣な眼差しでロベルトを見つめた。
夜の柔らかな光に照らされる彼女の顔は何と美しいのだろう……。そう、ロベルトは思った。
「ロベルト、私はいつもそうしたいと思っているのを知っているでしょ……?あなたはそれを一度として理解しようとしなかったのよ」
「そうだね。余りにも多くの困難があるからさ」
「そのようなものは何一つとしてないわ。少なくとも“深刻なもの”はね」
ノーラはロベルトとの生活がどのようなものになるのかをあれこれと考えたくはなかった。明るく、心地の良い環境というものを自分はこよなく愛している。よって貧困や試練に耐えられるかどうかは疑問だ。しかしながらロベルトと一緒にいれば、全てが上手く行くだろう。彼の身の回りのことをし、たとえこの身が犠牲を強いられようとも、彼の側に付き添う必要があるのだ。ノーラは“身を挺して夫に尽くす妻”という役割を果たす自分の姿を想像すると、気分が良くなった。そういった状況って、美しく、ロマンチックだわ。そのような決心を後押しするものとして、私たち二人をあらゆる困難から救い出してくれるであろう父の存在と、そしていつ何時でも頼りになる“部族(トゥリーボ)”への期待があるという確信あってこそだった。
ロベルトは自らのはにかみの気持ちと愚かさへの恐れを克服するよう力を振り絞ると、ノーラの手を自分の両手で取り、愛情込めてそれを握った。彼女のことを直視することなく、それをやったのだった。ノーラは不意打ちを喰らったかのように驚いた。以前の彼とは全く違うわ。そのような身振りをするなんて……。彼女は手と手が触れ合う心地の良い感触に身を任せた。胸がいっぱいだわ……。両目でじっとロベルトを見つめた。“象の耳”だわ。本当に愛らしい! それにあの“r”の発音と言ったら! そうした状況下、半ば演じ、半ば本気で振る舞っていた。いづれにせよ、自分は幸せだ。何か言いたかったが、実際に言葉を口にするのが怖かった……。少なくとも馬鹿げた言葉を口にする以外、言うべきことが何も思い浮かばなかった。しかしながら、馬鹿げた言葉こそが最高に耳に心地良く響くのだ……。
幕間の終わりを告げる鐘が鳴り、夢想から二人を現実に引き戻した。
「戻らなくっちゃ」
「でも、“永久に”ではないよね……」
ノーラは頭を横に振った。
「じゃあ、次の幕間で……」
二人はまだ手を握り合ったままだった。ロベルトはこれまで感じたことのない熱く、支配的な幸福を感じ、身を震わせていた。
突如として、それは目に飛び込んで来た。兄弟(イルマン)、それに友がいる。自分がノーラを肉体的に欲している、その事実を変えることはできない。互いの手が愛撫し合うのは何とも心地が良い。彼女の存在は心安らぐものだ。彼女の目や顔に浮かぶ表情、体の形、その声……。それら全てが全て、得も言われぬ快感だ。多分、セッチの死が自分の魂に風穴を穿ち、そこからノーラの愛が入り込み、心の牙城に襲い掛かって来たのだろう。そして今、自分は快楽に身を任せている。そうした降伏が闘争を放棄することや、約定を違えることを意味しないと確信している。むしろ逆に一人の同志を、一人の同盟者を、新たな戦力を得ることになるのだから。
鐘の音がけたたましく鳴り響き、恋人たちの楽園を掻き乱そうとしたが、全くもって無駄だった……。
バールのカウンターでノリヴァルは盃を空けていた。その横でアリスチィーデスはポケットに手を突っ込み、相手の腕をつっけんどんに掴んだ。
「いいやドトール、私があなたを誘ったのですから」
「いやいや……」
「絶対にだめです!」
しかしアリスチィーデスはカウンターの反対側にいるボーイに二〇ミル・レイスの紙幣を一枚、素早く差し出した。ノリヴァルも同じようにしたため、そこで小競り合いが起こった。
ボーイは二人の顔を互いに見やり、口許に笑みを浮かべつつ、どうするものか決めかねていた。しかしノリヴァルは大理石のカウンターの上に二〇ミル・レイスの紙幣を放り投げるなり、叫んだ。
「釣りは取っておきな!」
ノリヴァルはアリスチィーデスをホールまで引き摺って行った。そして中断していた話を再開し、言った。
「それで、その悪党のサルジャンですが……、あいつに実入りの良い仕事をさせることに実を言うと、うんざりしていたのです」
「後で思い知ることになるだろうよ……」
チンザノを二口、喉に流し込む間、親睦の雰囲気の中で、アリスチィーデスはペトラに今日の午後の出来事を語った。
ノリヴァルはつと立ち止まると、愛情を込めて相手の外套の襟を掴み、真顔で言った。
「ドトール・バヘイロ、もし明日にでも、そのムラートの顔をぶん殴ったら、あなたは私について奴が言ったことの証人になっていただけますか……」
「ペトラ、君はその件に首を突っ込むべきではないと思うよ。サルジャンは毒にも薬にもならない奴だからな……」
「いいえ、そのような名誉に関わる問題はきっちりと片を付けねばなりませんから」
二人は揃って、心から憤慨していた。もし時間があれば、逃亡する前にサルジャンの顔に一発お見舞いしていただろう。しかし俺には時間がない。それにそのような面倒なことに首を突っ込まない方が賢明だろう。
二度目の鐘の音がホールに響き渡った。男たちや女たちは各々の席に戻り始めた。ボックス席で母親の横に座り、リタは途方に暮れていた。どうしても舞台に行く勇気が、この私にはない。何度も、「お母さん、マエストロにサインをしてくれるように頼みたいのだけど」と言おうとしたが、言葉がどうしても口から出て来なかった。なぜならそうした言葉こそ、完全なる告白に値すると思われたからだ。時は刻々と過ぎて行く……。そして、もはや手遅れだった。多分、次の幕間に……。あるいは二度と行かないか。もう二度と!
リヴィアは娘の方に頭を傾げると、小声で囁いた。
「ねえ、見てご覧。ジルが恋人にほとんど覆い被さんばかりだわ……」
僅かばかりのやっかみ――それは荒唐無稽とも言える感情と、ことを楽しむような優しさの入り混じった嫉妬のごときものだった――を込めて、そう言った。それほど昔のことではないが、そのジルが自分の首に巻き付いて離れなかったことを思い出した。小ちゃな生き物がまるで私の胸から全生命を搾り取ろうとでもするかのように、野獣のごとく激しく乳を吸っていた。それが今日では、あのネンネも小ちゃな大人になり、深刻な悩みを抱え、すでに恋に落ちている……。しかし、その恋も一過性のものだと言うことを私は知っている。それはいずれ分かることだわ! 恋心はリタの悲しみのごとく……、夏の雨のごとく、瞬く間に過ぎ去って行くのだ……。
ノーラは息急き切って、ニコニコ笑いながらボックス席に入って来た。
「どこに行っていたの?」
「外で、ロベルトと話していたの」
「外で? あなた一人で?」
リヴィアは眉間に皺を寄せた。
「そうよ」
リヴィアは食い入るように娘の方を見つめている内に安堵の気持ちになった。
舞台に背を向け、座席の横に立ち、シィメーノ・ルストーザは三度目の執政官への挨拶を試みたものの不首尾に終わった。打ち負かされたように思い、座席に座ろうとしたが突然、閃きが浮かび、再び挑戦してみようと決心した。執政官のボックス席の方を見上げ、適当な頃合いを見計らって礼儀正しくお辞儀をした。上部の席で州政府長官が手を振ってそれに応えると、判事は得も言われぬ幸福感に満たされ、社会的のみならず、政治的威信も保たれた満足感に浸っていた。他の誰かがその様子を見てはいまいか確認するために周りを見廻した。それが終わると、大義そうに威厳に満ちた動作で座席に腰を下ろした。演奏会の第二部の幕が上がった時も、判事は未だ喜びと満足感を反芻していた。
マエストロは両腕を上げた。そして突然、不吉ともいえる威厳を帯びつつ、交響曲の冒頭の和音が威嚇するように響き渡った。運命が扉を叩いたのである。
トニオはベートーベンの〈交響曲第五番〉を耳にすると、胸全体が拳で打たれたように感じ、最後の審判のため空が引き裂かれるような印象を受けた。
ジルにとって、そのフレーズはまるでカーテンが開け放たれ、一つの光景が眼前に提示されるように思われた。死体保管所のテーブルの上に冷たく、不動のセッチの亡骸が横たわっている。シュルツが手際良く、機械のごとく、その亡骸をメスで切開し、神経をピンセットで摘み上げている……。
マルセーロは横柄ともいえるその四つの和音によって、夢想から不快な気分で目醒めさせられた。ベートーベンめ! 神の前で敢えて声を張り上げ、万軍の主に逆らい、天に向かって己の拳を振り上げた傲慢な小男……。
音楽は劇場を飲み込んだ。主題は強調されることなく、脅迫的な色合いを失い、何度もリフレインされた。運命を行使され、怒りを和らげようとしているかのようだ。弦楽器とファゴットが提示する、その爪弾かれる旋律がより良い人生の幕開けを告げる前奏曲となるかもしれない……。
しかし再びフォルテッシモで、拳で激しく打ち付けるように主題が執拗に繰り返された。オーケストラ全体がそれを受けて一体となり、主題を演奏し始める。ベルナルド・レゼンジの手がまるで魔法を掛けるかのごとく、オーケストラに活気を与え、どんどんクレッシェンドが掛かり盛り上がりを見せる。
リヴィアは感動していた。その交響曲は塔で過ごした夜のことを思い出させた。心の中に生きる家族たちと密接に繋がり、そしてその家族たる“部族(トゥリーボ)”ならではの言葉をもって互いに語り合う、塔での思い出だった。それ以外、その曲は神に対する信仰を、人生に対する信頼を強固たらしめる力を有していた。曲がクレッシェンドして行く様はまさに世界を揺り動かす大風だった。自分は枯れて、震える木の葉のごとく、その大風に身を任せ、幸福と同時に打ち捨てられることへの不安を感じていた。リヴィアの感動は余りにも大きかったため、唇を噛み締めて涙を堪えようと懸命だった。
オーケストラの短い沈黙の後、一本のトランペットが何かを問い掛ける様な雰囲気を漂わせ高らかに鳴り響いた。それとは別の言語で、バイオリンが甘く、落ち着いた、恭しい調子でそれに答えた。フルートとクラリネットがそれに同調するようにバイオリンに加わる。全ての楽器たちは最終的に運命と協定を結ぶ可能性を示唆しているように思われた。オーケストラは穏やかな服従の態度で、第一主題を繰り返し演奏した。しかし徐々に弦楽器と木管楽器はある種の反抗心を抱いて行き、これまで内気だった返答は堂々とした挑発へと変わり、オーケストラ全体を戦いへと引き摺り込んで行った……。
運命と戦うのは無駄なことだ。そうマリーナは結論づけた。書かれてあることは……、書かれたままなのだ。床に煙草の吸い殻を捨てると、楽屋の中をあちらへこちらへと歩き廻り始めた。落ち着かなげで、どことなく苛立った気分だった。マリーナはその楽曲の意味するところを知っていた。なぜ運命の声を前に頭を垂れるのか? なぜ反抗を試みないのか……? 少なくともやってみることに価値があると言うのに? 自分は平凡な人生を送っていて、未来に幸福を保証する約束など、何一つとして持ち得ないと考えていた。
マリーナは音楽が及ぼす影響から逃れたかった。普段、レコードで聴き慣れている大編成で、著名な楽団の演奏と比較して、現オーケストラの欠点の粗探しをした。しかしながら、それも無駄な試みだった……。なぜなら自分は交響曲を耳で聴いていると言うよりも、記憶を紐解きながら耳を澄ませているというのが本当のところだったからだ。つまり過去にその作品を聴く度に感じていた感情を反芻していたのだ……。運命が私の扉を叩いている……。もし少なくとも何かが起こったとしたら……。自身の人生の流れを変えるような出来事が……。感じ、欲し、自由に表現し、憎むことさえできる人間として、真の意味で生きているという強烈な意識を与えてくれるような出来事が起これば……。
直に自分は老いるだろう――そうなると、男性たちからすれば、不快なものとして目に映るだろう。鏡に目をやった。敵意を込めて自らの姿をじっと見つめる。今一度、夢の中に現われた男性のことを思い出した。一人の男性、それも通りで最初に出会った男性に身を任せることは新鮮な経験だろう……。現状を放棄することは抗議と、ベルナルドへの、人生への、あるいは自分自身への復讐に相当する。後になって、「何かが起こった」と言えるかもしれない。
マリーナは今晩、自分がやることのできる決定的ともいえる物事を想像するという、ほとんど病的な快楽に身を任せていた。高架橋から身投げする……。見知らぬ男に身を任せる……。最初に目に付いた教会に入って行く……。死、神、男……。なぜ駄目なのか? 全てを一気に終わらせるか、あるいは全てを最初からやり直すか……。
ベルナルドは颯爽と腕を上げた。その身振りにより、運命が扉を叩く音が再び聞こえた。その音は以前のものより陰鬱な響きを帯びていた。
一刻も早く演奏会が終わって欲しいと思い始めているノリヴァル・ペトラには、そのようなことは何ら意味もなかった。ジュッカは準備万端、整えてくれただろうか? もし最後の最後になって、何か不都合なことが起こったとしたら? 全くもって厄介なこった……。時々、意味の欠片もないことが全ての計画を台無しにしてしまうことがあるのだから……。
ノリヴァルはマエストロのうなじ辺りを凝視していたが、心の中に実際にあるものは明け方の光に照らされた街道の光景だった。音楽のテンポは今や、自らが抱く不安が高まって行くリズムと同調している様に思われた。
閑散とした広場で、一人の男が歩いている。それはジュッカだった。悲しげで、苦悩に満ちた雰囲気を漂わせていた。一分毎に時計を見やる。苛立ちを覚えつつ、鼻をほじっていた。その所作は束の間の心の安らぎと忘却をもたらすのだ。いつ、あの忌々しい演奏会は終わるのだろう? 大急ぎでノリヴァルと話し、何をすべきか打ち合わせる必要がある。奴が考えているほど、事は単純ではない。段取り通り、全てを整えた。車をガレージに入れ、タイヤの空気圧、エンジンの調子も点検済みで、ガソリンは満タンにした。全てバッチリのはずだ……。しかし、この自分がその様なことをやるべきではないのは確実なのだ!
ジュッカは歩道の中程で立ち止まり、古い劇場をじっと見つめた。心臓は異常と思えるほど早い鼓動を刻んでいる。突如として、顔が恥辱と“とんでもないことに首を突っ込んでしまった”という後悔の入り混じった感情が込み上げて来て、カッと熱くなった。ノリヴァルの逃亡が発覚した後、自分が耐え忍ばなければならないことを考えた。共犯。片棒担ぎ。同じ穴の中のムジナ。ギャング。これまで観た犯罪映画や、目を通した新聞の読者欄から思い付いた、そうした言葉が次から次へと頭に浮かんで来た。
ホッと溜め息をついた。奴は何とも突飛な考えを持ったもんだ! 今夜、演奏会に行くなんて考えもつかない。全くもって、奴は冷血漢だ! 巨軀を揺らしながら、あちらへこちらへと歩き続けた。友のとこを考え、奴のことを憎もうとするものの、自分にはどうしてもそれができない。なぜなら思い遣りの気持ちが胸に押し寄せて来たからだった。大きく嘆息を漏らし、鼻から息を吸い込み、唾を吐くと、時計を見、まるで答えを、説明を、慰めを期待するかのように再び劇場の前で足を止めた。
交響曲の調べが耳に届く。しかしながらベートーベンとジュッカとの間で、何一つとして分かり合えるものはなかった。彼にとって、その音楽は騒音以外の何ものでもなかった。不快とは感じさせない、ただの騒音だったのだ。本当のことを言うと、音楽が流れていることにすら気づかなかった……。思考は友のことに、友が見舞われた災難のことに、友がこの先、直面するであろう危険に集中していた。何とも困った奴だ!
疲れ果てた雄牛のごとくハアハアと激しく呼吸をしながら、ジュッカはベンチにどっと崩れ落ちた。悲しみに暮れ、不幸を呪い、この自分はこの世に生まれて来なけらば良かったと思った。
劇場では、運命の容赦なき強打が続き、木管楽器とバイオリンが奏でる旋律が虚しく響き渡っていた……。
チチャロの縄張りの空には、音楽の“お”の字も存在しなかった。風が木立の樹冠をゆらゆらと揺らす。広場のベンチに腰を下ろし、前植字工は目の前を通り過ぎて行く人々や、自らの思考の中で蠢く様々なイメージを無関心げに眺めていた。魂は願望も、希望もない灰色のサバンナだった。その草原には、太陽の光が届かない過去からやって来た、消え入りそうな人影が闊歩していた。
チチャロは頭を片側に傾げて、ペッと唾を吐いた。そして再び、一〇〇レイスの小さな安葉巻を腐った歯の間に咥えた。ベンチから数歩離れた場所にある巨木のグアプルーヴに注意を集中した。それはまるで盃のような巨大な樹冠を持ち、広場で最も美しい木だった。
チチャロは懐かしむような眼差しで、その木をじっと見つめていた。あの木はいかなる記憶をこの自分に呼び醒まさせるのだろうか? 首を傾げて、記憶を掻き回してみる。記憶の奥底から、最初はぼんやりとした、しかし徐々にはっきりとした像を結んで行く人影が浮かんで来た……。それは上背で、痩せぎすで、細長い顔に、紫色の耳、そして濃い髭の、喉仏が突き出た男の姿だった。奴さんは着古された服に、麦藁帽子を被り、煙草を口に咥え、嗄れ声で跳躍するように言葉を発音する男だった。“コヘイオ・ド・ポーヴォ”紙の校正係、ヴェイガだ。空いた時間には詩を作っていたなあ。ある日のこと、グアプルーヴを題材としたソネットを書いた。どんな感じだったか? チチャロはその詩の文言はっきりと思い出せなかった。しかし結びは確かこんな風だった。
“人生の冬がやって来ると、人々は乾き、萎れて、やがて死んでしまうというのに一方で、木々は毎年、春を迎えるのはなぜだろう……”
ヴェイガは良い奴だった。奴は校正係だったにもかかわらず、月わずか三〇〇ミル・レイスぽっちの収入しかなかった。急速に進行する結核が原因でおっ死んじまった……。今では“サン・ミゲル・イ・アルマス”墓地が奴の住処だ。グアプルーヴの木はそこに聳え立ち、九月には再び黄色の花が咲き乱れるだろう……。チチャロはフーッと煙を吐き出すと、穏やかな様子で顎をポリポリと掻いた。
劇場では、交響曲の第二楽章が始まっていた。ほとんど宗教的とも言える打楽器の音と共に、アンダンテが始まった。それは甘美で、祈りと嘆願が込められた悲しい美しさを帯びていた。
そのメロディーはトニオの心の中で、一枚の絵へと姿を変えた。〈ジョアーナ・カレフスカの埋葬〉。彼女の身に起こった事は実に奇妙だった。そのように作家は考えた。ジョアーナは石ころのように湖に落ち、水面には波紋が広がって行った。石が沈んでからずっと後も波紋は見え続け、そこから生み出されるうねりは水面に浮かぶ全ての浮遊物を揺り動かし、中立の岸辺へと不安に満ちたメッセージを送るのだった。しかしながら、その石のことを未だ誰が覚えていると言うのか?
ビオラとチェロが「救済される希望が未だ残されている」と、人間味溢れる口調で断言していた。
一匹の犬が広大な荒地で遠吠えしている。何かの前兆のようなその悲しげな遠吠えは、ケロケロとカエルたちが鳴き声を上げる、近くの沼の上に垂直に線を描く稲光りのようであった。近所で車輌の入れ替え作業をしている路面電車の吐き出す吸気音が夜の演奏会に加わった。
アンジェリーリオの家の扉が開いた。家屋の中は真っ暗だった。その四角形に象られた闇の中に、より黒々とした人影が浮かんでいる。母親だった……。彼女はしばしの間、沼地の茂みの方を食い入るように見つめていた。やがてもはや脅しも、苛立ちもない声で叫んだ。
「セーーーーッチ、家に帰っておいで!」
その鋭く、痛々しい叫び声はまるで啜り泣きのようだった。
ベルナルド・レゼンジは背中に冷たく、粘ついた汗が流れ落ちるのを感じていた。シャツは汗みずくで、顔はテカテカと輝いていた。
マエストロはコブラ・ノラートのことを忘れていた。全ての注意を傾けても、ベートーベンには十分ということはなかった。しかしオーボエ奏者には苛立ちを感じていた。奴は第一楽章の一節を危うく見失いそうになったのだ。その際、バイオリンもそれに釣られて動きが強張っているように思われた。
ベルナルドは来るべきフォルテッシモの箇所で、混乱に陥りはすまいかと考えて戦々恐々としていた……。
マリーナは劇場を抜け出すと、高架橋の方角に向かって歩き始めた。独房から逃亡を図ったばかりの囚人のように感じた。自分は迫害されているという印象すら受けていた。加えて、家出をした人間のようにどこに行けば良いのかさえ分からなかった……。今晩、何が起こるのか期待に胸を膨らませて……。
通りは閑散としていた。ほとんどの窓には光が灯っていない。マリーナはジョアーナ・カレフスカのことを考えた。心の中で、その娘の身投げは少なくとも十数回、再現されていた……。高架橋はおよそ一五メートルの高さがある……。頭蓋骨が砕け散り……、見知らぬ女がその亡骸を発見する……。マリーナはベルナルドが病院か、死体保管所で死んだ妻を目にした時、何を言うのか、何をするのかを想像した。靴や服、ネクタイなどを準備するよう頼める相手が金輪際、いないことを悟り、恐らく彼は泣き崩れるだろう。その後、多分、〈亡き妻のためのパヴァーヌ〉を作曲するだろう……。
通りの角で立ち止まると、建設途中の大聖堂の姿を見やった。多くの教会はこの時間、門戸を閉じているだろう。確実なのは、神よりも人間に身を捧げる方がずっと容易だと言うことだ。
歩調を速めて、恐怖をも感じる程の魅惑を感じつつ、高架橋に近づいて行った。手摺りにもたれ掛かり、下方を覗き込んだ……。もしここから飛び降りる勇気があるなら、全てを終わらせることができるだろう……。しかしながら、自分は羞恥と嘲笑の念(加えて、一抹の不安)を抱きながら、本気で自殺のことなど考えておらず、死を望んでいる訳でもなく、身投げする勇気など到底ないということを認識していた……。自分にでき得るだろうことを想像するという楽しさに没頭しているのに過ぎないのだ。運命を変えることができることって、どんなことかしら? いいや、運命に定められた物事が単に起こるというだけのことではなかろうか……。
高架橋の階段をノロノロと降り始め、中央通りに向かって歩いて行った。多分、ジョアーナ・カレフスカの自殺の影響か、あるいは自らの孤独が原因でそのような、悲しいほど馬鹿げた考えが頭に浮かぶのだろう。心を開くことのできる友人が一人もいないということは、実に辛いことだ……。今一度、公園の微動だにしない木々や、黄色の鳥たちのことを思い出した。さらにはリタやジィシィーニャのことも……。
夜は芳しい香りが立ち込めていた。川から吹き付け、大通りを吹き抜けて行く瑞々しい風はすでに冬の厳しい寒さを予感させるものだった。乗客を満載し、電灯が煌々と灯った路面電車が通り過ぎて行く。
ある時点で、マリーナは一人の人間に後を付けられていることに気が付いた。その人間も高架橋の階段を降りて来て、その足取りは慎重且つゆっくりだった。男だ……。良いんじゃないかしら? そうしたアバンチュールには得てして、新鮮な味わいあるものだから。心の動揺と身震いに襲われた(風のせいかしら? 男のせいかしら? 孤独のせいかしら?)それが一体、何ものなのか未だ命名することができない。興味、関心とも言えるし、恐れとも言える。あるいは期待とも、欲望とも言えるわ。あるいはそれら全てか……。あるいは、それらとは全くの別ものか……。最良なのは、何も考えないことだ。
マリーナは立ち止まると、後ろを振り返った。その見知らぬ男が近づいて来る。その男がガス灯の光の下を通り過ぎた時、その顔を見た。そいつはとても若く、愛想の良さそうな顔つきをしていた。その男は歩調をさらに緩めた。その足音は静まり返った通りにコツコツと規則正しく響き、遠く彼方まで反響した……。
マリーナは再び歩き始めた。突然、ごろつきの呼び声が聞こえた。
「ねえ!」
軽い身震いを覚えた。彼女は歩き続けた。
「ねえ、ちょっと!」
疑いの余地がなかった。無礼な奴が私を呼び止めようとしているのだ。心臓の鼓動が激しく打ち始めた。思いがけず今となって、自分が何を感じているのか分かった。それはパニックだ。それもグロテスクなパニックだ。歩を速める。どこか身を隠すところはないか、と目で探した。最初に目に付いた交番に駆け込もうかしら。あるいは手近の扉から家の中に飛び込もうかしら。馬鹿げているわ……。私ぐらいの年齢の女が若者に追い廻されているなんて……。その男の声が聞こえたような気がしたが、何を言っているのか皆目、分からなかった。そこで推測した……。全くもって馬鹿げているし、滑稽だったらありゃしない!
歩道の傍らに停まっていたタクシーが近づいて来るとそれに乗り込み、ドアを閉めるや、運転手に叫んだ。
「グランデ・ホテルへ。急いで頂戴!」
クラリネットとファゴットは今では別の主題を導入しようとしていた。その二つの楽器は“新たな協定”を提示した。それも常にはにかむように、甘く語り掛けるのだった。ベルナルドの手は小麦色の鳩のように空中で羽ばたいている。
シィメーノ・ルストーザはどうにかして目を開けていようと甚大ならざる努力をしていた。瞼が鉛のように重く感じる。それに一貫性を伴わない旋律により、音楽の悪魔はこの自分に強烈な眠気を催させるのだ。全くもって、フカフカのベッドが、ロールケーキが添えられた冷蔵庫でキンキンに冷やされたミルクで満たされたコップのことが恋しくて堪らない。眠気を追い払い、同時にこの自分が“崇高なる聾唖者”の音楽を鑑賞していることを他人に知らしめるために、元州高等裁判所判事はアンダンテのカデンツァに合わせて頭をあちらへ、こちらへと振った。
「悲しい音楽だわ……」。そう、リタは思った。ベルナルドの方を見つめながら今、自分が感じていることは恐れだった。あの偉大にして、影響力のある大きな手に、逆立った長髪の男に対して言い知れぬ恐怖を抱いていたのだった……。黒服を身にまとった人物に対する恐れ。その人物は魔法使いのごとく、オーケストラが巻き起こす嵐を制御しているように思われた。リタの目はおどおどしながらも、何とも言えぬ魅力を感じつつ、マエストロの手を凝視していた。私はあの人を愛しているだけでなく、同時にある種の恐怖も感じているのだ。彼の許へと近づいて行く勇気がこの自分にはないという確信に加えて、もう二度と彼の声を耳にすることはできないということを自覚していた。全てが終わってしまったのだ。意気消沈の中、リタはアンダンテを聴いていた。自分にとって、それは葬送行進曲のごとく悲しみに満ちた趣きがあるように思われた。
その瞬間、マルセーロは叫びたい衝動に駆られていた。
「皆さん、神のことを考えるためにしばしの間、ご静粛に願います!」
誰もが魂の運命について熟考するために空虚で、無意味な人生から一旦離れることこそ緊要である。アンダンテの音楽こそ、かのベートーベンが創造主の前で頭を垂れ、神への冒涜を謙虚な祈りへと変えたことの証である。遅かれ早かれ、劇場に集っている全ての人々は本来の裸の姿で主の前に額突くため、色を塗りたくった仮面を外すことになるのだ。その際、人々は自らの傲慢な言動や反抗心、罪に対して全責任を取らねばならない。
まさにその時、アウローラは頭を父親の方に傾けると、何やら囁き掛けた。アリスチィーデスは上半身を傾けたため、父と娘の頭が軽く触れ合った。
マルセーロは恐ろしい考えから逃れることができなかった。その考えが余りにも恐ろしかったため、動揺した顔つきで立ち上がると、大急ぎでボックス席から出て行った。
ノーラにとって、アンダンテは広場の木々の下を手を取り合って散歩するカップルのゆるゆるとした歩調を連想させた。この自分とロベルト。一種の幕切れだ……。父親の小説に常々、期待しているようなハッピーエンドだわ。そのようなことを考えつつ、ロベルトにキスをし、優しく彼の耳を引っ張る自分の姿を想像した。そうした自らの考えに微笑んだ。どのようにすれば、こんなにも不自然に、同時にこんなにも誠実になれるのかしら。全く分からないわ。そのように考えている内に、二人のノーラに分かれた。一人のノーラは自らの役を演じ、もう一人のノーラは意地悪そうに微笑みながら、それを鑑賞している……。しかしながら、鑑賞者も上演者同様、感動している。
ヴィオラとバイオリン、それにクラリネットが歓喜に満ちた主題を遠慮がちに奏でる。第二楽章も終わりに近づいていた……。
絹綿――白雲――心地良い揺れ――日本軍の巡洋艦――カリブの海――そして赤く染まり、光り輝く大岩に打ち付ける、エメラルド色の波が立てる轟音……。
ドトール・ルストーザの心は混乱した幻想的な世界を彷徨い歩いていた。オーケストラのフォルテッシモ(弦楽器、金管楽器、打楽器が一体となり、嬉々として咆哮を上げた)により、州高等裁判所判事はハッと我に返った。目を真ん丸に見開き、グッと唾を飲み込むと、誰かが自分の居眠りを見咎めていないかを確認するために気兼ねするように周りを見廻した。どれぐらいの時間、うたた寝をしていたのだろう? 座席の上で身を捩った。冷たいミルクが満たされたコップのことを考えた。ベートーベンには全くうんざりさせられる……。さりげなく時計を見やった。しかし平土間席の薄暗がりの中では、時計の針が見えなかった。
第三楽章のアレグロはコントラバスの逆説的な問い掛けで始まり、それにバイオリンと木管楽器が悲嘆に暮れるように答える。
それを聴いた時、トニオは純粋な意味で音楽に集中することも、それに込められた意図を追うことも、美的、技法的視点からそれを鑑賞することもできなかった。たとえ描写音楽でなくとも、トニオはメロディーを現実世界、あるいは空想世界に生きる人々や物語、歴史と結び付ける癖があった。記憶の奥底からイメージや声、顔、場面、情景等を引っ張り出す能力を有していたのだ……。そして今、自分は薄墨色のフロックコートを着て、森の中を後ろ手に組んで散策しているベートーベンを見ているのだった。
〈交響曲第五番〉の主題が作曲者の心を奪っていた頃、劇場を埋め尽くす大部分の人々の祖先はリオ・グランデ・ド・スル州の草原を駆け巡り、伝道所をめぐる争いでスペイン人との戦いに明け暮れていた。
音楽のリズムに合わせて(スケルツォは未だ憂鬱な響きを帯びていたが、それはこれから到来する激的瞬間を提示する男の耐えに耐え抜いた歓喜が爆発する前兆であった)、小説家は人生が有する小説的質と、時や空間、夢や魂を超越した何百万もの総体たる瞬間に垣間見られる神秘的な豊かさについて考えを巡らせていた。
始まりは荒涼たる丘や平原だった。そこでインディオたちは彷徨い歩き、戦いに明け暮れていた。その後、最初の宣教師たちが、さらにその後にバンデイランチス[奥地探検隊]が、それから何年か後にアソーレス諸島の人々がやって来た。南部の澄み渡る空の下、人種の混交が行われた。戦いが勃発した。大農場や小さな村が創設された。教会が建立された。こうして最初の殉教者たちが、英雄たちが、聖人たちが現われた……。
劇場の中を見廻し、トニオは原始的とも言える“リオ・グランデ要塞”へと遡り、かつてこの地に住んでいたインディオやポルトガル人、パウリスタ[サン・パウロの住人の総称]、スペイン人の子孫たちが〈交響曲第五番〉に聴き入っている今、この瞬間と、大昔の時代との間に横たわる隔たりについて考えを巡らせていた。どこのどいつが人生は単調で、無意味なものと言えようか? その言明の不条理さを確かめるためには一瞬、一瞬に含有するものを観察するだけで十分である。
幾度となく懐疑に陥っている時に、トニオは自分たちの世代が先祖から受け継いだものは、将軍の肖像画と抵当に入った農場だけだと断じる嫌いがあった。それは文学的な断言であるのと同時に、見当違いな断言でもあった。なぜなら将軍の肖像画は歴史的価値があったし、抵当に入れられた農場は社会的意味合いが含まれているのだから。つまり恐らく、それは大農園の斜陽、終焉の始まりを示唆しているのだ。
どれほど多くの男たちが国境を守るために戦い、苦しみ、命を落としたことか? ブラジルが領土を保守し、国家たらしめんためにどれほどの犠牲が、信仰が、希望が、勇気が必要だったのだろう? そうとも、街を建設し、未開の奥地を切り開き、侵入者を駆逐し、伝統を育み、定着させた人々のことを忘れるべきではないのだ。
そのように熟考することで、トニオの心は様々な光景や場面、人々の横顔、雄叫びで一杯になった。最初の小麦畑が、干し肉製造所が眼前に浮かぶ。牧場での孤独や、広大な草原に佇む粗末な小屋、それに戦争に赴くか、あるいは割りの悪い過酷な労働に従事している夫の帰りを待ち侘び、悲しげな眼差しをしている妻たちのことを考えた。乾燥した寒風が吹き荒ぶ冬のことを、霜が降りた明け方のことを、真夏の照り付ける太陽のことを、春に訪れる栄光のことを次々に想像して行った。森の中で、あるいは小峡谷で、山岳地帯の洞窟で、インディオの集落で、それに伝導所で生まれた数々の伝説。新たに生まれた居住地と脈々と成長し続けて来た古い居住地が、やがて一つの街へと姿を変えて行った。トニオは開墾、開拓へと人々を誘う広大な平原の持つ魅力についても考えた……。さらには牧夫たちの単調とも言える、過酷なルーチンについても考えを巡らせた――ロデオに興じたり、投げ縄をやったり、家畜を飼い慣らしたり、屠殺したり、隊列を組み、それを率いたり、土地を耕したり、忍耐強く待ったり、収穫したり、あるいは自然と厄災に対する人々の戦いについても考えた。いつ何時も風が吹き、孤独に苛まれ、地平線と終わりなき大地が広がり、時が流れるのだった。刻一刻と侵略者たちの脅威に晒され、革命と戦争の混乱に巻き込まれるのだ。悲しみに暮れながらも忍耐強く、風と共に過ぎ去る時を待ち続けるのだ。風は椰子の木を揺すり、その木は遠くに手招きをする。
最初の入植者たちがドイツから、その後、イタリアからやって来た時、その中に先の戦争で戦死した男たちを悼む、喪服を着た女性たちがいた。そこで再び混交が起こったのである。新たな革命が勃発した。街々は大きくなって行き、同時に墓地も広がって行った。リオ・グランデの大地に最初の鉄道が敷設された。最初の電報の電柱が建てられたのも丁度、その頃だ。弛まず吹き付ける風は汽車から吐き出される煙を雲の彼方まで運んで行った。
ホルンが嫌味たらしくワルツの拍子を刻み、トニオを幻想世界から現実世界へと引き戻した。作家の目は再び舞台に注がれる。その交響曲は一体、どれほどの人々にとって意味を持ち、何を語り掛けるのだろう? そのようにトニオは自問した。
ここ劇場には、ドイツやイタリアからの入植者たちの孫や、曾孫、さらには曾々孫がいる。彼らは実業家であったり、商売人であったり、医者であったり、弁護士であったり、技師であったり、ジャーナリストであったりする。ドイツ人やイタリア人の血が現地人の血と混ざり合ったのが、彼らだ。そうした混交の結果、人柄や名前、顔つきに多様性が生まれたのだ。戦争は地殻を変動させ、地層を混ざり合わせるといった、考古学者らを困惑させた先史時代の大災害のように、ある意味において世界を揺るがせ、結果として“サン・ペドロ”では、ポーランド人やユダヤ人、ドイツ人、チェコスロバキア人、オーストリア人の難民たちが、この地の英雄や、地方政治のボスの子孫、原住民や、密輸業者、牛飼い、牧場の雇われ人、兵士たちと肩を並べることになった。そして、それら全ての人々がおよそ一五〇年前、遠い地で醜く、苦悩に満ちた一人の男が書き残したメッセージに耳を傾けているのだ。
トニオはリタを見た。その子にはリヴィア側の祖先であるイタリア人とドイツ人の血が、商人のミンゴッテ・サンチィアーゴと南西部のインディオを祖先に持つ、牛飼いのシメアォン・テーハの血が流れている。もし乳白色の肌と青い目をしたあの小ちゃな生き物が三〇〇年前に半野生の馬に跨って、グアライーの原野を旅していた、極めて遠い祖先たちを想起させる仕草をしたり、言葉を口にしたり、あるいは願望を抱いたとしても、何ら驚くことはない。
ブラジルはそうした多彩な色彩の刺繍が施された織物のようなものなのだ。そのようにトニオは結論づけた。彼自身、この地とそこに住する人々の未来を信じていた。これから先、まだまだ美しく、輝かしい何ものかが待ち受けているだろうと確信んしていた……。
オーケストラはその瞬間、マーチを演奏し始めた。
丘の上に広がる白々とした“街”には静寂が降りていた。夜の闇に紛れて佇む彫像たちは静まり返った議事堂に集う、不可思議な存在のようだった。
ジョアーナ・カレフスカの亡骸が横たわる墓は剥き出しの煉瓦の壁で塞がれていた。風がイトスギの枝を揺すっている。夜行性の鳥が静かに空を舞い、墓地の壁を越え、黒色の花崗岩で造られた記念礼拝堂の屋根にそっと降り立った。その礼拝堂の入口には、それを守護すべく、翼を広げた天使の像が設られていた。ギリシャ風のペディメントの土台部分には、“モンターニャ家の永遠の墓所”という言葉が刻まれていた。
劇場では、オーケストラは歓喜と勝利の讃歌を演奏し始めた。人々は恐怖から解放され、勝利を手に掴んだ興奮に打ち震えているのだ。和音が非常に活気溢れるものであったため、空中に光り輝く線が描かれているように思われた。
「神は存在する! そうとも、存在するのだ!」
ジルは興奮しつつ、そう考えた。ベートーベンがまさにそう叫んでいるのだ。そのように思うことによって初めて、セッチの死が無駄ではなかったことが理解できた。彼の死は神の意思であり、計画の一部なのだ……。父と話しをする必要がある。そして、この自分が一編の詩を書いたことを告白しなければならない……。さらに自分が発見したことを語る必要も……。
神は存在する。何一つとして根拠なきものなど存在しないのだ。全てが神の意思から起こるのだ。ジルの視線は劇場の天井に注がれ、ぼんやりと夢見るような優しさに包まれていた。
チィルダは苦悩に苛まれて、ジルをじっと見つめていた。あの人は精神的に遠いところに居て、この自分が何をしようとも、どれだけ愛していようとも、決して、絶対に、完全に彼を征服することはできないと理解していた……。
電灯が消えた部屋の中で、椅子に腰を下ろし、帽子を被ったままキムは夜の青白い光が差し込む、開け放たれた窓の方を見つめていた。屋敷には人気がなく、静まり返っていた。召使たちは地下室で眠りを貪っている。
老キムは口の中で何かを咀嚼しているかのように、ブツブツと何やら呟いていた。静寂の中、彼の心は徐々に思い出で満たされて行った。死者たちが行列を成して目の前を通り過ぎて行く。それぞれの亡霊に対して、キムは語り掛けたい言葉や、説明したいことがあり、罵詈雑言を浴びせ掛けたい、あるいは疑問をぶつけたいと思っていた。「元気かい?」。「この恥知らずのガキめ、その馬具を外しやがれ!」。「あっちから馬鹿者がやって来やがった!」。「代父さん、こんばんは」。「犬っころめ、消え失せろ!」。「ピニェイロ上院議員は金をたんまり持っていると、わしはあんたに言わなかったかい?」。「大佐殿、今日は天気が良いですなあ」等々……。
突然、足音が聞こえて来た。その足音は小さく、遠くからこちらへと近づいて来る。まるで廊下の奥の方で、誰かが歩いているような音だった。ゆったりと、一定のリズムを刻み、その足音はこちらへ近づいて来る。一体、誰だろう? キムは息を殺し、耳をそば立てた。再び辺りは静まり返った。
「そこにいるのは誰だ?」
キムはそう叫んだ。返答なし。その言葉は孤独と闇が垂れ込める空気の中に溶け込んで行った。キムは喉に痰が絡まり、咳き込んだ。咳が収まると、再び消え入りそうな足音が聞こえて来た。老バヘイロはふと思い出した。
パウリーニャが語ったところによれば、夜になると、聖職禄受給者の魂が屋敷の廊下を徘徊すると言うことだった。生前、彼が就寝する前にそのようにするのが習慣だったそうだ。一度、パウリーニャは実際に聖職禄受給者のずんぐりむっくりの影を目にしたと言うことだ……。
キムは眉をひそめて、じっと耳を澄ました……。何の疑いもない。誰かが廊下を歩いている。興奮して立ち上がると扉の方へと近づいて行き、荒々しくそれを開いた。
「そこにいるのは誰だ?」
キムは苛立ちを込めて、そう叫んだ。
静寂が唯一の返答だった。ジョアキン・バヘイロは急に寒気を感じた。隙間風のせいだろうか……。身を縮こまらせながら、そう考えた。扉を締めると、椅子へと戻った。そこに腰を下ろすと、部屋の隅で一つの影が蠢いているように思われた。その部分は他のどの部分にも増して、闇が深い。灯りを点けねば……。いいや、そうすべきではない。裏切りこそ、この自分が最も恐れていることだ。警戒を怠りなく、ここにじっとしている方が良い……。
「そこにいるのは誰だ?」
そう、嗄れ声で尋ねた。答えはなし。老キムはどす黒い闇に包まれた部屋の片隅をまじまじと見つめていた。きっと“彼女”だ。その時がやって来たのだ。畜生め! 不意打ちを喰らわすためにそっと部屋に入って来たに違いない。しかし、このわしはそう易々と降伏なぞしない……。追い詰められた野獣のごとく息を喘がせ、両手で椅子の肘置きをきつく握り締めた。キム・バヘイロは胸を恐怖で苛まれながら目をカッと見開き、じっと待っていた。
静まり返った屋敷の中、再び廊下でますますこちらへと近づいて来る、重々しく、陰気で、消え入りそうな足音が聞こえて来た……。
人気のない通りで、マルセーロとロベルトはばったりと顔を合わせた。最初、二人はそれぞれ物思いに耽っていたため、互いの存在に気づかなかった。しかも二人は見知らぬ者同士だった。彼らはそれぞれ異なった方向へと歩き続けた。二人の歩調は全く異なっていた。その足音は石畳の上で、場違いであるかのように響いていた。そして二人は遠くへと消えて行き、窓が締め切られた家々が立ち並ぶ、街灯が寂しげな光を投げ掛ける通りは元の静けさに戻った。
劇場では、交響曲は大詰めに近づいていた。曲調は躍動的なプレストで、確固たる決意に満ちていて、もはやはにかみ、ためらっている暇などないと告げているように思われた。運命は脅迫するような雄叫びを上げ、対して人間は勇気を胸に、その挑戦を受け入れるのだ。
そうとも、そこに解決策があるのだ。運命の挑戦を潔く受け入れ、戦いを始めるのだ。降伏することも、放棄することも考えるべきではない。死ぬ、あるいは敗北するという考えに打ち勝つ必要があるのだ。加えて、美と善に満ちた世界を構築する可能性を頑なに信じる必要がある。たとえ全てが堕落していて、悲惨さや苦悩に満たされていようとも……。そのようにトニオは結論づけた。
アリスチィーデスにとって、勝利とは“モエマの肉体”だった。アウローラの髪がまるで劇場の光景に黒々とした頂きのように聳え立つ。彼女にとって、その髪型こそ運命よりも、ベートーベンの勝利の雄叫びよりも、その他の全てのことよりも重要だった……。
ロールケーキが添えられた、冷たいミルクで満たされたコップ……。元州高等裁判所判事は眠気と闘いながら、それを切望していた。
幕間にカクテルを一杯飲もう……。ノリヴァルはそう考えながら、演奏会がいつ終わるのかやきもきしつつ今一度、時計を見やった。
リヴィアは真夜中に、塔で、誰にも知られないようにそっと“復活祭の卵”を巣に入れ、準備を整えている自らの姿を想像していた。子供たちのそれぞれの部屋の扉の前に一つづつその巣を置く。別の巣は夫のベッドの下に置く。なぜならトニオもまた、自分にとって一人の息子であり、年端も行かない少年なのだ。全ての人間は神の前では幼子なのだ。
それからずっと離れた場所で、セッチの母親は火の点ったロウソクを手に沼の岸辺を息子を探しながら歩いていた……。
広場では、チチャロが熟考の末、遥か昔から考え続けて来たことへの結論を口ごちた。
「何も問題ない。何一つとして問題などない……」
ベルナルド・レゼンジは汗みずくになりながらも堂々と、熱狂的に両腕を振り続けていた。運命は依然として扉を不吉な音で叩き続けている。しかし人類は勝利の歌を叫び続けている。
戦うこと……。運命の挑戦を受け入れる。運命が我々の家の扉を叩いた時には頭を真っ直ぐに上げ、拳を握り締め、確固たる口調でこう言うのだ。
「入って来たまえ。こちらは準備ができているぞ!」
交響曲の最後の和音が劇場に響き渡り、空気を鞭で打つように切り裂いた。それは残忍で、身震いをさせるような、冷酷で、一切の反駁も受け付けない響きだった。
完
2026年2月15日 発行 初版
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1905年12月、ブラジルのリオ・グランデ・ド・スル州クルース・アルタ生まれ。州都ポルト・アレグレのクルゼイロ・ド・スル学院中退後、1926年、故郷のクルース・アルタに戻り、銀行員、薬局の社員などを務める。1928年、雑誌「グローボ」に掲載された短編小説『家畜泥棒』でブラジル文壇へデビュー。30年には「グローボ』に編集者として迎えられ、ポルト・アレグレへ居を移す。以後、次々と作品を発表し、ブラジル内外で多くの読者を獲得している。
主な著書に、『十字路』『野の百合を見よ』『クラリッサ』『遥かなる調べ』『陽の当たる場所』『サガ』『残るは沈黙』『アンターレスでの出来事』『時と風(三部作)』他。