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駒沢の生活史[43話]

駒沢こもれびプロジェクト




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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。

駒沢の生活史


第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
    みたいな話があったみたい

第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)

第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
    人生のあと残った時間を費やすっていうのが

第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
    駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)

第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
    そのとき初めて、ものすごい実感した

第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
    みたいな(笑)

第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから

第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)

第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
    そこをちゃんと見極めてたのは偉いと

第10話 どうなんですかね?
     結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです

第11話 まかない食い放題!
     生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの

第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
     じゃあ、○円くださいって言って(笑)

第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
     親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか

第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
     ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない

第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね

第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
     それが「あなたが社長ですから、
     これ、サインしてください」って、突然

第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど

第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね

第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね


第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
     お客さんって、すごいなとずっと思ってた

第21話 朝来た瞬間から、
     自分でやりたいことを自己決定していくっていう

第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの

第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)

第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
     「なんかあんまり」って思ってたけど


第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
     あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ

第26話 仕事してるとき、
     自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)

第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな

第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから

第29話 塾すら近所だからさ、
     全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの


第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
     私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです

第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
     「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか

第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
     プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう

第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
     けど、それ以来ずっとこの界隈で

第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
     駒沢でオープン

第35話 山梨の人は東京に出ると
     中央線沿線に住む人が多いんですけど、
     高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて

第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
     頼れるのは家族みたいなのはあったのかも

第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた

第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
     大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ

第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって

第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
     落ちたけど、コーヒーは飲みます

第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
     声かけられて、そういうのなんか憧れるよね

第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは

第43話 …どっからか来てるのかな。
     常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね

第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
     後ろから人生を逆算してるから

第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
     いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)

第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
     そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです

第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
     あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど

第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
     おっしゃって。「どうしよう」って(笑)

第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)

第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
     ことが尊いともあんまり思ってないんですけど

第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね

第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
     本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
     過ごしています

第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)


















…どっからか来てるのかな。常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね

話し手 40代女性
聞き手   川島恵


 …私が私になっているところって言うと。

 私、市町村合併でみんな市になっていったけども、いまも町っていうね、小さい、すっごい小さいところで育ってるんです。それが嫌だったとかは一切ない、コンプレックスもぜんぜんなくて、その中で人生全てスタートしていた。
 ただ、「長野県坂城(さかき)町の出身です」って言っても、誰もわからないから、「隣が上田市なんです。だから、だいたい上田の方」みたいに言ってた。
 だから、どうやって私になったかって言えば、そういう小さいところで育っていった人がいまここにいるよ、みたいな位置付けなんですけど。

 聞かれるとどうしてもエピソード性の濃いことを喋っちゃうんだけれど、例えば、3歳4歳から中学3年生まで牛乳配達してたんです。
 母親がすごい歴史が好きで、この話が正確かどうかはわからないんだけど、徳川家康が生まれたとき、乳母に「朝日を飲め、そうすると人間はおっきな存在になれるよ」と。母親は「じゃあ早起きさせよう」って。なにをしたかというと、社会的責任を持たせたらいいっていう発想をする人なんですよ。社会的責任っていうのは、ちゃんと労働だぞと言って、ある日、そんなに知り合いではないはずの牛乳屋さんにお願いに行くんです。どういう風にやり取りしたかわからないけど、「わかりました」って、私2件、兄2件だけ牛乳配達をする。

 それはね、結構、私の人生の中では、かなり長く続けた、ことの一つ。

 ──4歳から中学校3年生まで。

 はい。牛乳配達やってると、ほんとにね、朝、誰もいないところを動くんです。農家の人とか、桃畑の人とか、マラソンしてるおじさんとか、名前は知らない人と出会ったり、誰々さんのおじいちゃんっていう人たちと、コミュニティができるわけです。そんな日々をね、送っていたな。

 いちばん嫌だったのが、牛乳って昔は瓶なので、やっぱりね、アクシデントが起こるんですよ。そうすると、まず家に帰って言うわけです、「牛乳わっちゃった」って。車で牛乳屋さんに連れてってもらうんですね。「牛乳ね、割れちゃったから新しいのください」「ぜんぜんいいよいいよ」って新しいのをくれて。
 それと同時に、森永の、おじいさんとおばあさんでやってる牛乳屋さんで、ブリックパックの、ジュース24セットをくれるわけです。私は割っちゃってすごい悲しい気持ちになってるのに、「いいよいいよ、よく来たね」って、牛乳と一緒にくれる。もう本当にそれは切なくって。
 なんか、心が複雑だったな。

これは、私は働くためにいま練習してるんだ

 あと、なんで私が中学3年生まで牛乳配達をしてたかっていうと、高校から、寮のある学校に行くことになるんです。

 中学7クラスあって、まだまだ成績が張り出される時代で、成績上位者が墨の字でワサって貼り出される。
 プライバシーなんてなにもない状態の中で、…なんて言ったらいいのかわかんないけど、高度成長期でね、いい学校に入って、就職して、とにかく勉強ができるっていうことが、自己肯定感みたいになってたんです。
 で、絶対に上位に入りたいって、すごい勉強してた。

 そんなにやるんだったら長野県じゃない学校に行ってもいいんじゃない、っていうのもあったんだろうけど、その中でも思想がちゃんとしてるところを選びながら、行きたい志望校があったんです。けれども、そこには不合格だった。うん、そう。そこから、私の…振り返ると、思い通りにならない人生…なんだけれども、そうじゃなかった方が結果的に良かったねみたいな…ことにも繋がってくんですけど。

 …中学3年生、受験期になると月に2回ぐらい朝5時、そのときは新幹線がなかったので、特急あさまに乗って、お茶の水まで模試、講義を受けに行った。数ヶ月。母は、一回は一緒に行く、あとは自分一人で行く。「やるんだったら、自分でやってください」っていう。

 同時に、母が…これも後から聞くんですけども、「こんなにずっと勉強ばっかり、テストの点数が評価の対象みたいな人生を送ってる、これは望む姿じゃないな」って思ってたんですって。

 で、もう一つ、別に私は行っても行かなくてもいいと思っていた学校があって。「願書を出したら? こういう学校もあるよ」って。「そんなに言うんだったら、1分でも勉強の時間が惜しいから、言われた通りにやります」みたいな感じで、そのまま願書を出してた。

 そこが、自由学園っていう学校で。

 すごい極端な学校を2つ受けていて…、で、中3の終わり。自労自治っていうことを大事にする高校に進んだんです。それが小さな町を出ていくタイミングだった。

 自由学園は、朝昼晩子どもたちが学校の給食も夜ご飯もつくり、寮の部屋ごとに子どもたちが全部する。寮母さんもいない、『生活即教育』っていう考え方で。
 いままで全ての評価がテストの点、だったから、本当にぜんぜん違う環境に入ったわけです。

 でも、そのときに「ここでは掃除とかサボる人いないんだ」みたいにね、思うんですよ。

 中学も楽しかった。けど、「嫌なことはやらない人がいるんだな」っていうのは思っていたから、「全員がやった方がいいことをやるってすごいな」みたいに思った記憶はある。

 ホームシックにもなりました。
 だけど、なんだろう、どんなところでも負けられない戦いがどうしても始まっちゃって(笑)、
「ここで帰るわけにはいかない」って、やりきりたい気持ちが強くなっちゃって。
 悩み、葛藤、問題にぶつかりながらも、過ごしてたかな。

 私は、母がずっと学習塾をして、働いてたんです。
 心のどっかで、お隣は働いてるけど4時5時に帰ってくる、お迎えに来る…みたいなのを、いいなって思ってた気持ちもあったんです。「私は、仕事はするけど、専業主婦になろう」って、なんだかわからないけど思ってた。

 ただ、その自由学園、料理、掃除、早寝早起き、全部やるわけですよ。生活に関連すること。「私はこんなにスキルを身につけて、将来暇になるんじゃないか」「私、暇になったら困る」って。
 ずっと働き続けるっていう選択肢はなかったけど、これは、私は働くためにいま練習してるんだって、なんか切り替えたわけですよ。

 ──へぇー。

 自労自治ってね、非常にわかりやすかった。掃除もご飯も自分たちでつくらないと誰もつくらない。それまで自分が考えてる自由とは違くて、自由の裏には責任があるっていう…その中で律せられて生きていくみたいな形なんですね。
 全ての人が社会を良くする責任がある…良いことは必ずできる、っていう一つの思想が根付いているんです。良くする責任がある。どの社会であっても。
 例えば、じゃあ、食事をつくらなければ食べられないっていうのもあるけれど、もう1歩先のことを運営していくことで、社会って良くなっていくんだなって、たぶん、実体験として実感してくんでしょうね。

 だから、私の役割は次どこにあるんだろう、自分の社会的役割ってなんだろうって考えたと思う。それは、具体的に職業がなんとかっていう話ではなく、生きていく中でのことだったんじゃないかな。
 …あの寮の、暗い寮の廊下の、あそこで、これを思った瞬間とかは覚えてるんですよ。

20代、それでもね、なぜかもっともっと仕事がしたいって思ってました

 ──へぇー。

 受け入れざるを得ないことも世の中にはいっぱいあると思うんです。仕方がないこととか、自分に与えられている条件とか。
 で、まずはその中でこう、より良い道を探していくんだけれど…もうちょっと1歩出ると、その不条理とか理不尽を解決できる人に本当はなって行きたいなって、常々ある。

 あんなに勉強してたのに、いちばん取らなかったら自分じゃないみたいな生活してたのに、一気に。
 ぜんぜん成績がない学校に行ったんです。高校3年間、自分の成績知らない。

 その後、大学に行ったりしながら、縁があって、すごく不況の超氷河期って言われるときに出版社に入って、月刊誌をつくるようになる。自分が培ってきた、生活するっていう…ライフスタイル誌…衣食住を中心とした、雑誌とか書籍とかをつくる編集者となっていく。

 編集者って、なにもできない人。なにもできなくていい。
 最初は一人前の顔して会社に入るんだけれども、先輩方にしてみたら、大学出たばっかりの人になにもさせられないし、なにもできない。本当にね、なにもできないんだなっていうことを突きつけられるんです。
 でも、できることをやりたいっていう派なので(笑)、過去に培った掃除のスキルとか。

 「やれることありますか。やれることありますか。なにか私がやれることありますか」って「うるさい」「家に手紙でも書いてなさい」って言われるぐらい。
 それは愛情たっぷりなんですけれども。
 片っ端から編集室中の引き出しを片付けまくって、たまに「綺麗になったね」って言ってくれる人もいるけど、ときには「あんたが片付けすぎて、どこになにが行ったかわからない」って言われて。でも「もうあれどこに行ったかわかんないから持ってきて」みたいに言ってもらえて、自分で「よっしゃ」って感じ。私に仕事ができた。

 勉強したことよりも、そうやって鍛えてきたことが、やっぱりいちばん役立ってるかなとは思います。
 出版社の時代は「24時間働けますか」体制で。20代、それでもね、なぜかもっともっと仕事がしたいって思ってました。あれ、なんなんですかね。
 …どっからか来てるのかな。常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね。

 ──中学までと高校のギャップがあったにせよ、ちゃんと繋がっていて。後になって、お母様が勉強ばっかりでいくのは…みたいな。

 危険、って思ったそうなんです。

 とにかく、体験を重視していた親だったんですね。裕福っていうことではなく、教育に時間とお金をかける判断をいつもする人だった。

 自分でやる、やる場を与えられたら自分でやらないと。
 助けてくれる大人はいっぱいいるけれども。牛乳配達…マラソンのおじさんといつも会うことで、安全確保されていたりとか。見守ってくれてたんだなって。よくわからなかったけど教えてくれる人がいたとか。

 そうやって、流れて、たどり着いてるのかなと、思います。

 どうしてやっていくといいのかなっていうことを考えながら、その工夫の仕方が、少し…だいぶ、違ってたかな。

 例えば、兄が中学高校とグレてる感じになったわけです。
 彼のお弁当を毎日つくって、お弁当を持って高校に行く、そこに、自分が伝えたいこととか、読んでほしいものとかがあったときに、…本をね、ビリって破いて、こう、毎日お弁当に入れてた。

 ──へぇー…。

 ときには推理小説、ときにはボクサーが苦しみながらも成長していく本。それを破いて毎日毎日入れてたって。実体験は豊かにしてほしいけど、それだけじゃやっぱり自分の実体験しかないからね。本を破るなんてって思う人もいるとは思うけれども、どんどん入れてたと。そしたらあるとき、「もういい加減全部入れてくれる」って言ったんですって。「先が知りたい」「変なところで止めるなよ」みたいな。
 おそらく母はそのとき「あー、やってきてよかった」って思ったんだと思うんですよね。

 別にそれで問題が解決したかっていうとそうじゃなく、なんですけど。面と向かって言うとかじゃなくって、ちょっと手段が変わっている人でした。

──面白いけど、なかなかできることじゃないですね。

 ね、どうなんでしょうね。

思っているけど見守るとか、口出ししないとか…っていうことも、あるんじゃないかな

 うちはね、なぜか中学2年生のときに、一回外国に出すって。…でも、「予算って50万円なんですよ」って私に言うわけですよ。
 中学生用のツアー、ホームステイも全部やってくれるとこのぐらいかかる。あなたが向こうで使えるお小遣いはこのぐらい。日本で準備のためスーツケース買ったりなになにしたりするためにはこのぐらい、と。

 中学2年生にしてみたら、50万円って、ものすごくおっきく感じたわけですよ。東京、羽田に行って、交通費も全部ここから出さなきゃ、スーツケースはリサイクルショップの方がいいかもしれない、みたいな。

 自由学園、出版社でも、本当に鍛えられた。負けられない反骨精神みたいなね。
 私ね、創業100周年記念の特集を、20代で担当になったんですけど、過去の本、<ある人の1軒の家の持ち物って何点あるのか>って昔やってたんです。それ見たときに、すごいな、ちょっと尋常じゃないなと思ったわけです。で、「あれ、これ…やってみたい」って急に思っちゃったんです。

 「いまの時代だったらどうなのかやってみたい」って言ったら、編集長及びその周辺の人たちが「ちょ、無理だ」と(笑)。「無理だって、これやったらもう大変なことになるから」。「えーでもやってみたいんです」って何度か言っていたら、「じゃ、まずそれができる家を探してこい」っていうことになった。

 どうやって探すんだろうって、ありとあらゆるツテをたどって、100軒ぐらい歩いたんです。

 100軒ぐらい、「すいません、お家見せてください。お家の中のもの数えてもいいですか」
「ダメですダメです」「いいよ」って言った家は、大豪邸すぎて、ちょっとこれは数えられないとか(笑)。 

 で、あるとき、出会ったんです。あ、できるかもしれない、っていうお家。
 迷惑ですよね、いまになって思えば。子どもがいるお家で、家の中のもの全部出してくださいって、ちょっと病的だったなって思う。でも、それを受け入れてくれる人がいて、本当にいまでもね、交流がある、その人とね。

 「編集者の資質ってなに?」ってもし聞かれたら、不確実なことに向き合えるかどうか、その力をちゃんと推進していかれるかっていう部分はすごく大きいなと思って。どうしても起承転結みたいなゴールを見据えて進んでいきやすいんだけれども、出会うことによって、新たな方向に進んでいく…深くなっていったり、広くなっていったりしていくな、と思って。私が教えてもらった人たちは、いつもこのわからなさの中を楽しんで…楽しんでたか苦しんでたかわからないけれども…漂う力がね、あった人たちだなって。

 だいたい、本当にいちばん望んでいたものじゃないところに行き着くことがね、やっぱり多い。それでよかったのかなっていうのは、勝手に自分を納得させている以上に、こっちの道が用意されていたんだな、みたいに思える部分もあるんです。

 …若い子たちを見て、頑張れるなー、頑張ってるなー、って思うと、「私がその中でできることってなんだろう」ってちょっと変わってきている、最近。それまではね、「自分がもっと成長していかなくちゃ」っていう方が強い部分もあった気もするんだけど。

 ただね、本当の支援ってもしかして違くて、っていうのは、いま、思っていて。

 思っているけど見守るとか、口出ししないとか…っていうことも、あるんじゃないかなって。

 ──「なんか自分ができんじゃないか」って咄嗟の身体の反応として起こることがあるのに、見守るとかなにもしないことってちょっと逆な感じが。

 その通り。身体では反応しちゃう。だけど、プロジェクトに関わっている人たちがやろうとしていることを見ていると、いま自分はダイレクトにそこじゃなくて、違う関わりをすることでそっちになにか発生することがある、っていう意図、を探す…必要もあるなって感じていて。

 私、正直、そういう意味でのコミュニティをちゃんと育てるって、初めてだなと思っていて。

 もちろん、出版社にいたときも、読者の人との関わりすごく厚い出版社だったから、読者はがき、ほんとに尋常じゃなく来たりして、それを丁寧に読んで、レスポンスし、お返事書いたりしてたんだけれども。でも、それって、顔が見えるほどの近さではないよね。全国にいるから。
 もう少しコミュニティが小さくなったときに、人が自然発生的に次の行動が起こせるって、私がケアをしちゃうと、そっちにこう…人ってどうしても頼ったりとか助けてもらったりってことも起きるから…に慣れてもいけないし…。

 でも、それは、私が単純に発見したとか気づいたっていうよりは、関わっている人たちに教えてもらってる感じがする。本当に。なぜか。

私は待ってないんです

 …で、<ただ待つ>じゃない。待ちかた、があるなって思っていて。
 
 待ちかたがわからないから、手を出しちゃう。手を出すのは、自分の待ちかたがわからないから応援しちゃうところもあって、待ちかたさえわかれば違う手立てを…手立てがない、手立てをしないわけじゃないんですよね。

 ──優れた編集長の不確実性…って、いまの、その、待ちかたのことなのかな。

 うんうん、その、不確実なこと、結果が見えていないから見えてない結果に対しても、前向きにリズムを踏んでいくっていうのは…まぁ、その人の培ってきた「必ずどっかに着地するよ」っていう、自信ではないけれど、信じるものの現れ、でも、答えは見えていないと。右に行くかもしれない、左に行くかもしれない。左はね、闇に入っていっちゃうかも。でもね、そういう人たちは闇に入ったらまた次の明かりを探せる、感じかなぁ…。

 …次男が小学校低学年のときに「ママは待てない病気だからね」って言ったわけですよ。思わず笑ってしまってですね。

 ──えー。

 待てない病気…だから、待ってないの。さっきの待ちかたの話と矛盾するんだけれど、私は待ってないんです。待つのが嫌だから他の手立てを考える。
 待ち合わせをして、相手が遅れるってわかったときに、じゃあそれを待とうと思うとしんどいじゃないですか。じゃあ私は私の時間を使おうと。私の時間は流れてるから、本屋に行くなり違うことに転換しようって考えるタイプだったなってそのとき思ったんですよ。

 ただ、そうは言ってもね。我慢したり他のことで気をそらしながら、耐えてることもね、や、自分をかばうわけじゃないけど、あったなとは思うんです。

 仕事でね、どうしても自分が願うような形にならないときも、やっぱりあったし。子供が思春期のときも、耐えなきゃいけないところがあって。親子の関係だったら、折れるのは親の方でしょって。
 折れるっていうか、どっちも言い分を引き下がりたくないとき、「じゃあ、君が思う通りにやる方向でなにか考えよう」とか。
 2人で言い張ってたらなにも始まらないから、折れるとしたら自分…親の方でしょっていうのは、なんか思っていて。

 …しんどいことの塊だけどね、まだまだね。それはほんとに。なんかを悟ってるわけでもないし。

 ──絶対そっち側に行かないですよね。

 えー、なになに。

 ──(笑)悟ってるっぽい美談に行こうとするの、絶対乗らないですね。

 ねー、そうじゃないんだ、そうじゃないんだよ〜。

 みんなたぶん…、人生どうしようもないことって抱えてるんだと思うんだよね。自分も含めて。言葉にできないけど、抱えてるもの。そういうのをね、ほんとはオープンにした方がいいのかなと思うけど、語らないっていうことで、自分を保ってるっていう、部分もあるんだよね。明け透けにしすぎない…。
 まだたぶん、自分は途上で…。もっと進んでいったときにね、もしかして、オープンにして、なにかやっていくことがあるのかなって思うけど…。

 ちょっとね、脱線しちゃうんだけど。その、語らないことでコトを進ませて、違う状況をちゃんと育てていくみたいなことを…家族心理臨床っていうのをやっている人がいて。で、その考え方すごい私はフィットしてるんだけれども、家族心理臨床って、問題が問題なんじゃなくて、問題の解決方法が問題だっていう考え方なんですよ。

 ──問題の解決方法が問題。

 そう。例えば不登校って…昔より何倍、学校に馴染めない子たちってどんどん増えていると。じゃあ、この現象はなんですかって辿ったところで、誰もすぐに解決できない。

 …極端な話、その子のお父さんが昔やっていたサックスを吹く。それでも、玉突きみたいな形で、どこかに変化を起こすと、こっちが変わってくる可能性っていうのがある。良い方に行くかどうかはわからないけど、でも、なにかこの人に影響はあるよねって、ちょっと乱暴な言い方をすると、その考え方なんですよ。

 その見立てみたいなこと、<境界・パワー・サブシステム>って言うんですけど。境界線の、境界。パワーは力。サブシステムって、関係性みたいな。

 …親子、別にうちの母と兄はコミュニケーションが取れてなかったわけじゃないけど、本を破り捨てて、そこに入れるのも…違う、動きなんですよね。それを、どんな手立てが打てるかなっていつも、自分でも考えちゃう。

 ──なるほど。

たまに来る手紙の方が嬉しいよって

 中学3年生の男子が留学しましたと。ルンルンで留学したわけです。向こうに行ったら、LINEは既読スルーだし、こっちがなにを言えども、なんかよくわかんないし。「あなたは生きてるんですか。生きてないんですか」みたいなね。まぁそんなの思春期の男子、ぜんぜんあるんだけれども、私としては、ストレス。で、ダイレクトにこっちに返事しなさいとか言っても、もう返事しないし。ときどきぽろっとね、「お金を送ってくださいみたい」な(笑)。

 そのときに、えーっと…私はね、毎週ハガキを書く。LINEだと読んでも、既読スルーだし。手紙は封筒に入れちゃうと読まないかもしれない。だからハガキにしたんです。もう、字が見える。
 別にそこに「なんとかしなさい」って書くわけじゃなくて、「日本はいまこうこうですよ、兄弟はどうですよ、運動会がありました」とか、まぁとりあえず書いて、ポストに入れたと。
 ポストに入れた瞬間、私、もう本当に心が晴れやかになったんですよ。

 だから…こう、別に思春期の男子が親に報告してこないことが原因とか結果とかじゃなくって、私がそれを入れたことですごく心が晴れやかになったんですよ。自分が。
 それでいいんだなっていう。

 …そしてね、あるときね、帰ってきたんだけど、「あれってどう?」って言ったら、「あぁ、嬉しいよ」って言ったんですよ。

 ──おおー…。

 たまに来る手紙の方が嬉しいよって。ああ、そうなんだー、って。

 すごい、そういう他の人の考え方とかに触れて、自分のいまを感じ直すっていうか、ね。でも、それ、説明すんの難しいですね。

 あ、それでー、決してこう、美談にしないっていうのは、ほんとにどうしようもできない事象が、はびこってるっていうの、ちょっと感じていて。小さい頃から。

 うちの母、相談されることが多い人だったんですよ、たぶんね。

 あるとき近所に、東京から子が送られてきて、その子がね、不安だからって言って塾に来てた。わかんないけど親との関係があんまり良くなくって。うちそんなに大きな家じゃないし昔の家だから、洋間と居間っていう洋室と和室があって、それを閉めれば、向こうとこっちみたいなところ、その片方の部屋で、その男の子と保護者的な人が来て。

 その男の子がね、「おばちゃんのうちの子にしてください」って。「そうじゃないと、自分は、東京に帰んなきゃいけないから」。
 で、それを聞きながら、「あの子がうちの子になるのかな」みたいな不思議な気持ちになってた、とかー。

 大人になってみれば、そんなことはね、ちょっと難しいしできない。だから、その子はたぶんその後施設に行くんですけれども。

 家庭が本当に成り立たないお家とか、貧しすぎてっていうお家もあったなって。そのときはわかんない、ぜんぜんわかんなかったけど、どうしようもできないところで暮らしてる人たちっていうのが…私の中のね、どこかにはあって…。
 だから、みーんななにか抱えてるって、…いうのはね、すごい思うところなんですよ。

 みんな苦労しながら生きている。

 割とその中でも自分は元気に生きてるしー。…だったら、なんかね…その…。

 なんか、…不条理をどうにかできる側に、ほんとはなりたいなっていうのはね、ある。

 街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
 「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
 
 「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。

 まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。

 メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
 結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。

 話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
 話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
 音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。

 届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
 もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
 最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。

 併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
 本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
 挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。

 ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
 オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。

 私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
 そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。

 ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
 他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。

 私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
 駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。

西村佳哲(2025年7月31日)

駒沢の生活史[43話]

2026年5月1日 発行 初版

発行:駒沢こもれびプロジェクト

「今日の駒沢」
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