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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。
第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
みたいな話があったみたい
第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)
第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
人生のあと残った時間を費やすっていうのが
第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)
第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
そのとき初めて、ものすごい実感した
第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
みたいな(笑)
第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから
第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)
第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
そこをちゃんと見極めてたのは偉いと
第10話 どうなんですかね?
結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです
第11話 まかない食い放題!
生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの
第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
じゃあ、○円くださいって言って(笑)
第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか
第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない
第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね
第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
それが「あなたが社長ですから、
これ、サインしてください」って、突然
第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど
第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね
第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね
第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
お客さんって、すごいなとずっと思ってた
第21話 朝来た瞬間から、
自分でやりたいことを自己決定していくっていう
第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの
第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)
第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
「なんかあんまり」って思ってたけど
第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ
第26話 仕事してるとき、
自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)
第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな
第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから
第29話 塾すら近所だからさ、
全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの
第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです
第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか
第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう
第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
けど、それ以来ずっとこの界隈で
第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
駒沢でオープン
第35話 山梨の人は東京に出ると
中央線沿線に住む人が多いんですけど、
高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて
第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
頼れるのは家族みたいなのはあったのかも
第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた
第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ
第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって
第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
落ちたけど、コーヒーは飲みます
第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
声かけられて、そういうのなんか憧れるよね
第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは
第43話 …どっからか来てるのかな。
常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね
第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
後ろから人生を逆算してるから
第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)
第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです
第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど
第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
おっしゃって。「どうしよう」って(笑)
第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)
第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
ことが尊いともあんまり思ってないんですけど
第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね
第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
過ごしています
第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)
話し手 30代女性
聞き手 沼部幸博
東京に出てきたきっかけからですね。
私は3人弟妹の一番上で4学年下の妹と6学年下の弟がいて、父方の祖父母と同居をしていました。祖父は宇都宮の地方競馬の騎手で、私が生まれるぐらいのときに落馬でアキレス腱を切って、そこから調教師に転向したそうです。
祖父は結構稼いでいたようで、家がとにかくでかくて、一階は8畳の日本間が2つと、寝室が一つとお風呂と応接室、キッチン、そしてリビングダイニングがあり、その真上に父親と母親と私たちの部屋があった。一階の応接室にはカラオケセットがあったんです。
──当時のカラオケ?
テープを入れて流すみたいな。
友達から「なんで家にカラオケがあるの?」とか聞かれる度、「他の人の家にはないんだ!」と思ったりした。ただ、母の様子や言葉から金銭的には苦労していた印象があります。両親が高校は絶対に県立に行ってと言うので、合格圏内の宇都宮北高校に進学しましたが、入試のタイミングで初めてその場所や制服を知りました。通学は自転車で往復22キロ、片道1時間ぐらいで大変だった。そうなると通学で疲れ、勉強時間もあんまり取れなかった。
人間関係にも苦労した。結構みんな遊びがちというか放課後は「オリオン通りに行こう!」みたいな明るいイケイケ系で、授業中は寝てても試験では点数取るみたいな要領がすごく良いタイプの子が多かった。遊んでも勉強もやるみたいな。そんな社交的な子がすごく多い中、私はどちらかというと内向的なタイプ。本は好きだけどテレビはほぼ見なかったのと、自分の好きな本とか音楽の話ができる子が周りにぜんぜんいなくて、話について行くのが難しいと思い始めた。そうなると「早くここから抜け出したい。栃木にいたらもう先が見えない」と思って、東京に出たくて仕方なかった。
いざ進路を決めるときに親と相談し、もし4大だったら国立か県内の私立大学、短大とか専門学校だったら東京で良いってなった。で「東京の短大に絶対に行く!!」ってことになり受験。受けた3校全部受かり、一番学費が安いところを選びました。
東京に出てきたときは一人暮らしでなく学生会館に入った。全国に開かれている女子寮で、文京区の千石にあったんですけど、立地的に周辺の大学生や高校生もいた。私は神保町の短大でしたが、大学、短大、専門学校、夜間大学など、そういうところの学生が160人ぐらいいたんじゃないかな。
2003年度の新入寮生の立食パーティーがあり、近くにいた子たちと仲良くなって6人グループができた。そしてその友達の部屋に行ったり、巣鴨のカラオケやラーメン屋に行ったり、一人だけど一人暮らしじゃないっていうような環境で過ごしていた。
短大1年の終わり頃になると、一人で過ごしたいのに内線電話で友達の部屋に誘われるのに煩わしさを感じ、もう寮を出たいと思った。親に「一人暮らしをしたい」と話すと「あと1年我慢しなさい」と言われ我慢して、一人暮らしを始めたのは短大卒業後でした。
1年のときにアルバイトを始めたんですが、それはラクーアのユニクロのオープニングメンバー。そこでのバイトを短大を卒業するまでずっと続け、同世代の男女が多かったので男友達もそこで初めてできた。短大は女子短大で暮らしも女子寮だったので、そこで同世代の男友達もできてなんか楽しいなって。結構バイトも勉強も頑張った。
短大には入学式のときに話しかけられた女の子たちとの4人グループがあったんですが、途中から話が合わなくて居心地が悪くなっちゃって。いまとなってはわかるんですが、もう1年の秋ぐらいから将来のことや就職の話とかしてる。「先じゃなくていまを楽しめばいいんじゃない!」って私は思っていたので、なんか息苦しさを感じちゃって。その話を結構同じ授業になる別の女の子達ふたりに話したら、「じゃあ今度一緒に学校の帰り遊ぼうよ!」ってなり、その3人で遊ぶようになった。そこから4人グループの子達よりもそっちの子達と遊ぶようになり、短大生活がより楽しくなった。
その人たちの一人は東京生まれの東京育ち、もう一人は埼玉の実家から通っている子で、東京を遊び慣れている。よく新宿で買い物したりご飯食べたりして、東京の子たちの遊び方がすごい刺激になりました。
──どんな遊び方ですか?
言葉を選ばずにいうと、どこからそんなにお金が出てくるんだろうと思うような遊び方。「ディズニー行こう、次は海外行こう」とか。洋服見に行っても、「これかわいい、買う!」みたいな。そこで「えーっ」てなっちゃって。来月海外行こうと誘われても、ちょっと無理だと思った。アルバイト代を貯めていても、「そんな急に行こうと言われても…。行かない」と言ったり。
ディズニーも最初のうちは行ってたんですが、どんどん頻度が高くなっていって。いま思うとテーマパークがそもそもそんな好きじゃないのですが、当時はそのことに気付けなかったんでしょうね。ディズニーで一回2万円使うなら、私は自分の欲しい洋服や本、TSUTAYAのレンタル代とか自分の身になることにお金を使いたいと思っていたので、誘われても「ちょっと今月は」みたいにうまく断れるようになりました。
ここで東京の子の金銭感覚に流されるとお金はいくらあっても足りないことを学び、カルチャーショックを感じました。その子たちとはコロナ禍前ぐらいまでは付き合いはあったんですけれど、その前後から少し違和感を感じることもあり、会いたいと思わなくなっちゃって。卒業して十数年以上経って、お互い価値観も変わっていった証拠だなと思えたので「楽しい季節をありがとう」って気持ちになりました。「一時は人生が重なっていて、いつかまた重なるかもしれないけど、いまはまぁ、ちょっと距離があるかな?」っていう感じです。
学生のときも、グループみんなでずっと一緒にワイワイとかがなくて。卒業してから個人で仲良くなったとか、グループが違うけどお互い仲良くなったとか、そういう感じの関係ばっかりで。だから「いつものメンバーで集まってワイワイ」みたいなのにはちょっといまだに憧れとかがあったりしますね。
学生時代にユニクロでアルバイトをしていてよかったのは、洗濯物をたたむのがめちゃくちゃうまくなったこと。立ったままこう、畳めるようになった。そして自分に似合う色とか似合うデザインとかが、なんとなくわかるようにもなった。ファッションセンスじゃないですけど、「好きなものと似合うものが違うんだ」っていうのを学びました。
あとは人間関係。バイトの学生がほとんどでしたが、団塊の世代ジュニアのちょっと後ぐらいの就職氷河期の人たち、いわゆるフリーターの人たち、主婦の方達などが働いていて。そしてその中での人間関係のいざこざや、バイト仲間で付き合うとか別れるとかがあった。そういうものから、いろいろな人間関係があるんだ、こういう距離感が良いんだ、または良くないんだなどを学べて、すごい人間観察ができたと思っています。
短大の2年生のときに「進路をどうする問題」があって、私は文章を書く仕事をしたかったので、広告制作会社でグラフィックデザイナーをしている父が「広告のコピーライターはどう?」って勧めてくれた。就職活動もやって、結果的に父親の会社にコピーライターとして採用してもらったんです。
最初の部署は社内でも無法地帯と言われるようなところで、ロケ地を紹介するすごいニッチな雑誌の編集部に配属になりました。仕事は編集補助で、偶数月は入稿ですごい忙しくて、同期が20〜21時に帰っているのに、私だけほぼ毎日終電みたいな生活を送っていました。
学生時代にバイトで繁忙期に12〜14時間働いてた経験があったから、1年目を乗り切れた。その1年目の閑散期、インターネットサーフィンをしてたら、神田とか馬喰町とかの問屋街にある空きビルを活用したアートイベントのボランティア募集をたまたま見つけたんです。それはギャラリーの監視員とか、そのエリアのイエローページをつくること。老舗のとんかつ屋さんの取材記事とか、グッズを販売している店の紹介記事とか、そういう催しをやるんですよってのを書く。
すごい面白そうと思って説明会に行ったら同世代の子がすごく多かった。私は当時二十歳で働いていたけど、みんなはまだ大学2年とか3年生とか。また働いている人もいましたけど、美大系とか建築系の人も多かった。自分の好きな音楽や漫画、本とかの話がたくさんできる人たちで、なんか「これだよ。こういう人たちと知り合いたかったんだよ!」って思って。
そこに土日は入り浸るようになり、社会人1年目で夏休みも祝日と合わせて10日間連続でとって、その活動を一生懸命やったんです。
最後は、事前に地域の人には連絡してたんですけど、「路上封鎖をしてパーティーをやる、なんかそこまでがイベント」みたいなのに参加をして(笑)。
それが2005年だったかな。で、2010年までそこのボランティアに参加してました。そういうつながりを社外でも見つけて働き始めたら、一気に知り合いが増えた。いまもそこで知り合った子たちとは繋がりがあるし、特定の人と年に数回会うみたいな交流が続いています。
それで社会人1年目が終わるってなったときに、会社では雑誌編集の仕事を引き上げることになって仕事がなくなった。私と先輩はそれぞれ別の部署に配属になって働くことになった。その会社には約4年いたんですけど、上司が7人変わりました。会社の業績があまり良くなく、みんな辞めていって、最後の1年ぐらいは役職クラスの人は給料の支払い遅延だった。たぶん私の父親もそれがあったと思う。ついには全社員給料10%カットということになった。そういう事情もあったので私は入社してからお給料が上がらなくて。父母も会社がそういう状況って知ってたから、「お金大丈夫なの?」とか言われて。余計な心配をかけたくないし苦しい生活は嫌だなと思い、24歳になるタイミングで競合他社に転職をしました。
そしてライバルの百貨店の広告をつくることになったんですけど(笑)、そこでの上司は社長で、「最初はAって言ってたのに結局Bになった」みたいなことが多くて。社内は殺伐とした雰囲気で、「なんだかな〜」っていうことが続いて…。もう1年半ぐらいで「なんかもうやだな、もう辞めたいな」って友達に愚痴ったら、「じゃあうちの島に来て、手伝いしてよ!」って言ってくれた。
──島?
神田のイベントで知り合った10歳上の友達なんですけれど、その人が「瀬戸内海の二次離島でゲストハウスをやる。人は住んでいるけれど自動販売機やコンビニとか商店もなく、家しかないってところだけど、瀬戸内国際芸術祭があるから、ある程度忙しくなると思う。だから住み込みで手伝ってよ!」って言われ、「なんか楽しそうだな。1か月くらいだったら家賃もなんとかなるか。じゃあ島へ行こう!」って。
──何島ですか?
向島(むかえじま)って言います。
瀬戸内海の草間弥生のアートとかがある直島から自家用船で約100mのところ。定期便が出てないから島民はみんな自家用船で食料の買い出しとかをしてる。
1ヶ月ぐらい住み込みで働いた。いまだに不思議なんですけど、島に行く前は結構不眠気味でぜんぜん寝れなかったんですが、行ったらすごい寝れるようになった。お客さんが一杯で部屋がないときは居間で寝るんですが、みんなが朝ごはん食べてるのに気づかないぐらい熟睡してた。起きたらゲストさん達はみんな帰ってて、「すみません!」って(笑)。
いたのは8月から9月で、夜は狸と猫が喧嘩する声を聞いたり、明かりがないんで星がほんとすごくきれいに見えた。
そこでは掃除、ゲストのチェックインの手伝いの補助、ベッドメイキング、洗濯物干したり畳んだりとかをやった。休みの日は船に乗っていろんな島に行きました。ゲストさんもそういう船でしか来れない島に来るから結構変わった人が多くて。会社員だけどミュージシャンやダンサーをしてるとか、学生で起業しようとしているとか、いろんな個性のある人たちが集まっていて。その人たちとはいまもつながりがあります。「島つながりの会」っていう飲み会が定期的にあり、そこで知り合った子の結婚式にも呼ばれました。
で、島から帰ってきて就職活動をして、フラッシュマーケティングの会社に入った。創業まもなくで忙しく、年末にかけてほぼ毎日終電で帰る生活で、これは年明けどうなるんだろうと。新年もいろいろ忙しく、追い打ちをかけるように3・11の震災があった。
──そのときのお住まいは?
大岡山で、その日は青山から3時間歩いて帰りました。でも仕事には地域を活性化する側面があり、会社も「仕事を止めるな」というスタンスだったので、私が所属していた編集部は全員大阪オフィスに避難させていただくことになりました。半月経ったタイミングで親と同居してたり実家が気になる子は帰され、「あなたはまだいれますよね」ってなって、私は1ヶ月くらい滞在した。
その後、大阪にもきちんと編集部をつくろうってなり、「立ち上げに行ってくれない?」「えーと、なぜ私なのでしょうか?」「一人暮らしでしょ? 家族は大丈夫なんでしょ? だから行ってもらえない?」「はぁ、わかりました」ってなった。
大阪でも震災後なので最初のうちは飲みに行く気分じゃなかったんですけど、一人でホテルにいても寂しかったので、次第に飲みに行ったりするようになりましたね。こんなに楽しんでていいのかなと思いつつも、でも一緒に仕事で大阪に来ているわけだし、経済は回した方がいいよねっていう風に思っていました。大阪からは結局5月末に帰ってきました。
大阪出張中に上司からチャットが来て、「福岡にも行ってくんない?」「え、また私ですか?」「宮崎出身の子に嫌だって言われちゃって。あなたは大阪も行ってたから大丈夫だよね」と。
一瞬迷いましたが福岡は行ったことないし、会社のお金で行けるならと「じゃあ行きます!」(笑)。6月いっぱいで編集部の立ち上げをした。で、ご飯が美味しくて2kgぐらい太って帰ってきました(笑)。
大阪出張で一緒だった子は社内婚をしたんですけど、婚姻届に証人として名前を書くぐらい仲良くなりました。そんな感じで忙しく、楽しくしてたんですけど、会社は人員整理みたいなことをしていて全社的に給料があがらない。そこでは割と評価もしてもらえてたので、「ここでやることはやりきったな」と思い、出版社に転職しました。
入ったものの、事前に聞いていた仕事内容と実務にギャップがあったのと、上司と合わなくて、1年3ヶ月で辞めました。辞めた理由はいろいろあるんですけど、父が57歳のときに父親が働いていた会社が無くなって、当然退職金とかもない。「これは自分が正社員という立場になって、いざというときに助けられるようにした方がいいのでは?」っていうのが、転職しようと思った大きなきっかけの一つです。
そしていまの会社に入ります。ライター職でマーケティング部の所属になりました。人間関係も良いし、前職に比べるとめちゃくちゃ最高だと思った。入社して数年経って部の方針が変わって、ライター職で入ったメンバーにもマーケティングのことをメインにやってほしいと言われて、自分なりに頑張ってはみたんですが、なかなか成果も出ないし、向いてないと思うようになって。
途中から産業保健関連の集客の担当になり、産業医へつなぐ手前でできることってあるんじゃないかと思い調べたとき、「産業カウンセラー」っていう資格を見つけたんです。昔から相談されることが多かったから、これは向いてるかもと思った。社内で先に資格を取っていた子に背中を押してもらい、養成講座に通って資格を取り、2024年1月から副業としてカウンセラーをしています。
そして業務委託先で担当したクライアントさんとの面談をきっかけに、今後似たような相談があったときにいまの知識だけじゃちょっと太刀打ちできないと思い、国家資格の「キャリアコンサルタント」を取ろうとしています。養成講座は修了したので受験資格は得られていて、いまは試験勉強をしているところ。ゆくゆくは人事系の仕事をしていきたいとぼんやり思っています。
──いまの上町にはいつごろから?
4年前くらいからです。
大岡山には8年間住んでいたんですけど、すごい台風の後に隣の敷居の板が破壊されていて、築20数年だったので危険性を感じて引っ越すことになり、なんとなく東京の西の方にしようかなと思った。
そのあたりは結構独立系の本屋さんとかがあり、本に関する活動が盛んな印象があって。本が昔から好きなので「本に関する活動もやりたい、そっちの方に身を置くことでなんかある」と思って、南阿佐ヶ谷に引越しました。当時の近所の仲間たちには大反対されましたけど(笑)。
あるとき、西荻窪に新しくできる本屋さんでオープニングパーティーをやるとの情報をキャッチして、店主さんや界隈の住民と仲良くなれるチャンスを掴みに行きました。その本屋に通ううちに顔見知りも増えて、ある日、店主さんから「本の棚貸しをやるんだけどやる?」って声をかけてもらって。先にやっていた子に「楽しいから一緒にやりましょうよ」と言ってもらって、棚貸しの本屋を2021年のタイミングで始めました。
『きのう何食べた?』っていうドラマにもなった漫画が好きで、その本屋さんで「食べる読書会」もやりました。で、気づいたら西側に住んで本屋関係のなにかをやるっていう目標は、なんとなく達成できちゃった。
南阿佐ヶ谷でも「呑み友達とかつくって近所付き合いをしたいな」とか思ってたんですが、あの辺は一つのところで腰を落ち着けて飲むより何軒ものはしご酒をする文化らしく、なかなか呑み友達ができなくって。
そうこうしているうちにコロナ禍が始まった。そこで「気軽に会える距離に友達がいるところに引っ越したいな」と思い、桜新町か経堂のあたりで探そうってなった。
そのタイミングで占いに行く機会があり、「世田谷線沿いの松陰神社とか上町あたりもいいですよ」と言われて調べたら、同じ世田谷区の桜新町とか経堂よりも若干家賃が安く、レンタサイクルで世田谷線沿いをうろうろしたら上町が一番住みやすそうだったんです。「松陰神社も良いけれどサミットがちょっと遠いな。個人商店が多いのは良いけど夜までやってなさそうだな。上町だったら駅前にオオゼキがあるし、ユニクロとかサイゼリアもあるしいいんじゃない?」と思って上町に絞りました。不動産屋さんに行くと奇跡的に「ここ丁度空きました。ちょっと数千円オーバーですけど、いいと思います」って言われたのがいまの家。ここしか内見していないんですが決めちゃいました。
上町に引っ越す前からランニングサークルに入っていたんですけど、そのサークルはしっかり走るよりは、おいしい朝食を食べるために走る趣旨のサークルで、朝食会場がゴールで、その都度スタート地点が微妙に変わるんです。当時は清澄白河と中目黒にしかなく、世田谷線に引っ越してきたタイミングで「どっちに行くのもちょっと遠いし、それなら自分でチームを立ち上げた方が早くない?」と思って、運営側に許可を得て世田谷線チームを立ち上げました。
最初は一人だったのが徐々に増えて行き、マックスで20人、少なくても3〜4人くらい集まるチームになりました。朝食会場を探さなきゃいけないので調べるようになって、世田谷線沿線とか、ちょっと足を伸ばして桜新町とか下高井戸の周辺、あとは渋谷や砧とかの朝食事情にも詳しくなった。駒沢公園周辺にもいろいろあるんですけど、世田谷って犬飼ってる人が多いのでドッグフレンドリーなお店が多いから、ワンちゃんと一緒に入れるお店に行ったりとかしてます。また近いのでみんなで東京農大の収穫祭で食べ歩きしたり、世田谷ボロ市のときには代官餅が行列だったので諦めて、ルーガン(鹿港)の肉まんや出店で食べたりしました。
世田谷に引っ越して良かったことの一つは、ランニングサークル活動がより精力的にできるようになったことかな。
──仕事や趣味を通じて人と繋ったり、離れたり。
そうですね。私は結構、偶然性を愛しています。
──偶然性?
はい。
今回、「駒沢の生活史」に参画しようと思ったのもそれ。ある方の「働くを考える」みたいなワークショップに参加していて、その方達とご飯に行ったときに「駒沢の生活史っていうのがあるんです」って教えてもらった。なんか面白そうって思って申し込んだら通って、参加できることになった。それでご縁があって流れに身を任せていたら、こんな感じになっていた。
瀬戸内海の島のゲストハウスに住み込みで働くことになったのもまったく予想していなかったし、大阪と福岡出張もそうだし、他にもいろいろ「このタイミングでこれ?」みたいなものがあったりする。
一昨年は日記を書くワークショップに参加したんですが、最初は応募を迷っていました。その参加締め切り2日前ぐらいに、とある作家さんたちのトークショーでサイン待ちをしているとき、そのワークショップについて話している人たちが偶然後ろにいたんです。「それ気になっていて、お話伺ってもいいですか?」って話しかけたら「良かったですよ。応募してみたらどうですか」って。応募したら、倍率が3倍ぐらいだったんですけど、本当に偶然当たったみたいな感じで通った。参加したらみんなでZINE(ジン)をつくろう、文学フリマに出そうってなって。今年の5月もまたみんなで文学フリマに出るんです。
これはあのタイミングで話を聞かなかったら起こり得なかった話。
私はそういう流れをすごい大事にしてる。無意識のうちに楽しそうな流れに乗っている印象がありますね。
私は棚貸し本屋用のSNSアカウントをつくっているんですが、そのアカウントをフォローしてくれている方が偶然私の友人と新卒同期という間柄だとわかって。向こうから連絡してきてくれて、じゃあお茶でも飲みましょう、となっていまもたまに連絡を取ってます。
その子から「高円寺から世田谷に私が好きだったビストロが移転して、たぶんあなたは好きだと思うから行ってみて」と言われて行ってみたらすごい好きな感じで、やそこの常連になっています。お店の方に「もともと南阿佐ヶ谷に住んでいた」って言ったら、お店の方が「私たちも!」って。住所を言い合ったら、「すごい近いじゃないですか」「あの地蔵とかコープとか知ってますか?」そういう話ですごい盛り上がって(笑)。
──それも偶然。受け入れて流れに任せているとまた偶然が起こる。
そうですね。
なんか私、そういう様々な出来事に関連づけて偶然性を見出すのが得意なのかもしれません。これまでの人生での人との繋がりを意識してみると「すごい偶然、なんか縁があるかも?」っていうのが結構多いですね。
街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。
まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。
メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。
話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。
届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。
併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。
ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。
私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。
ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。
私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。
西村佳哲(2025年7月31日)
2026年5月1日 発行 初版
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