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駒沢の生活史[35話]

駒沢こもれびプロジェクト




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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。

駒沢の生活史


第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
    みたいな話があったみたい

第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)

第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
    人生のあと残った時間を費やすっていうのが

第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
    駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)

第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
    そのとき初めて、ものすごい実感した

第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
    みたいな(笑)

第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから

第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)

第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
    そこをちゃんと見極めてたのは偉いと

第10話 どうなんですかね?
     結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです

第11話 まかない食い放題!
     生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの

第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
     じゃあ、○円くださいって言って(笑)

第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
     親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか

第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
     ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない

第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね

第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
     それが「あなたが社長ですから、
     これ、サインしてください」って、突然

第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど

第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね

第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね


第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
     お客さんって、すごいなとずっと思ってた

第21話 朝来た瞬間から、
     自分でやりたいことを自己決定していくっていう

第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの

第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)

第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
     「なんかあんまり」って思ってたけど


第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
     あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ

第26話 仕事してるとき、
     自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)

第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな

第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから

第29話 塾すら近所だからさ、
     全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの


第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
     私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです

第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
     「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか

第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
     プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう

第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
     けど、それ以来ずっとこの界隈で

第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
     駒沢でオープン

第35話 山梨の人は東京に出ると
     中央線沿線に住む人が多いんですけど、
     高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて

第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
     頼れるのは家族みたいなのはあったのかも

第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた

第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
     大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ

第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって

第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
     落ちたけど、コーヒーは飲みます

第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
     声かけられて、そういうのなんか憧れるよね

第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは

第43話 …どっからか来てるのかな。
     常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね

第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
     後ろから人生を逆算してるから

第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
     いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)

第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
     そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです

第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
     あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど

第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
     おっしゃって。「どうしよう」って(笑)

第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)

第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
     ことが尊いともあんまり思ってないんですけど

第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね

第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
     本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
     過ごしています

第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)


















山梨の人は東京に出ると中央線沿線に住む人が多いんですけど、高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて

話し手 40代女性
聞き手  墨崎友宏


 山梨県の甲府の生まれです。5つ下に弟が一人いて、4人家族ですね。高校3年生まで甲府で育ち、受験戦争とかもなく、普通に公立の小中高に通っていました。

 ──じゃあ受験での挫折みたいなのは経験していない。

 それがあるんです(笑)。当時の山梨は学区制で、センター試験みたいなのを受けて得点によって学区内で割り振られるんですよ。僕の行きたい高校は家の近くにあって、合格点に達していたのに行けなかった。家から近いのにまさかの学区外で、区分けのかなり境目だったんですよね。

 ──希望する学校に行けないと、いつ知ったの?

 中3の3月の合格発表のときです。受験番号何番。どこどこ高校。「あれ、自分が行きたい高校の名前が書いてない! えっ!」と思って(笑)。甲府でいちばんの高校に行くもんだと思って受験勉強して、点数的には受かっているのに別の高校みたいな。

 挫折というか、「なんだかなぁ」という気持ちで高校に通い始めて。あまりのめり込むものもない3年間だった気がしますね。

 ──スポーツや部活に打ち込むとかもなかった?

 うちは両親ともそんなにアクティブじゃなくて、家で音楽を聴いたり本を読んだり、割と文化的な家庭だったんですね。なので僕も家にいるのが嫌じゃないっていうか……テレビっ子でしたね。

 山梨って電波の都合で日テレ系とTBS系の2局しか入らなくて、うちもそうですけど、多くの家庭がケーブルTVを引いてました。そうすると全局見られて東京の情報が入るんです。東京って山梨の隣だけど、90年代初頭ぐらいまでは「近くて遠い憧れの場所」だった。当時はフジテレビが全盛で、小中高とフジテレビを通した東京が自分の中でキラキラ光っていましたね。

 ──東京に憧れて、東京に行きたかった?

 やっぱり、進路を決めるときも東京に出たいって気持ちが強かったですね。テレビに関係する人たちのことを調べたら、早稲田出身の人が多かったんですよ。それで、漠然とエンタメの方向だとすると大学は早稲田だなと思って。

 でも、両親は大学を出ていないし、周りにも早稲田に行った人がいなかったから、僕が「早稲田に行きたい」って言っても、親には荒唐無稽な夢みたいに映ったようです(笑)。

 僕も身の程知らずというか、普通に受ければ受かるものだと思っていて(笑)。予備校や塾にも行かずに受験してうまくいかなかった。親に無理を言って1年浪人させてもらったんですけど、山梨にはいい予備校がなかったので上京して一人暮らしをしながら予備校に通いました。

 山梨の人は東京に出ると中央線沿線に住む人が多いんですけど、高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて、「世田谷がいいな」って(笑)。家賃が安くて、予備校近くの南新宿駅まで1本で通える、小田急線の千歳船橋に部屋を借りました。そして、毎日予備校に通って勉強して、なんとか早稲田に受かりました。

僕は人前で話すのが好きなんだな

 入学したのは社会科学部っていう昼夜開講制の学部です。いまは午前中から授業があるみたいですけど、当時は1限が13時からで、時間割を組むのが楽だったので早稲田の4年間はアルバイトに精を出していましたね。

 ──キャンパスライフではなく?

 憧れて入ったんですけど、あまりこれというのがなくて。雑誌をつくるサークルに入ったんですけど、人間関係がおもしろくなくて。割り切ってアルバイトをしようと、笹塚にあったコールセンターで4年間バイトをしてました。

 ──なるほど。「漠然とエンタメの方向なら……」と考えて早稲田に入って、いざ就活となったら?

 やっぱりエンタメ、メディアに行きたかったんですけど、第1志望のフジテレビは就活が始まって早々に落ちちゃって(笑)。テレビ東京はけっこう進んだんですけど、何次面接かが博報堂と重なって、博報堂を選んだら博報堂を落ちて。「もうエンタメだったらなんでもいいや」と思って(笑)、レコード会社とかも受けたんですけどうまくいかなくて。

 そうなると多くの人は地方局とか地方のメディアに行きがちなんだけど、僕は東京への憧れが強かったから、東京以外の選択肢はなくて……。当時は、楽天とかサイバーエージェントとかYahoo! とか、ネットメディアがドーッと出てきた頃でもあって。たまたま楽天の説明会を受けて選考に進んだら、あっという間に内定が出たんです。

 いまよりぜんぜん小さくて、まだ中目黒にオフィスがあったベンチャーの頃の楽天で、当時は三木谷(浩史)さんが内定者全員に電話をかけていたんですよ。「一緒に働きましょう」って言われて決めちゃったっていう。それが僕のキャリアのスタートです。

 でも、1年で嫌になっちゃったんです。当時は「ノルマ、ノルマ、ノルマ」で、ホワイトボードに点数を書いてトップになった人にみんなで拍手みたいな感じだったから(笑)。そういうのを自分の中でぜんぜん想定していなかったから「やりたくないな」と思って。同期で唯一の親友みたいな子がいたんですけど早々に辞めちゃって。彼がいなくなったらしんどくなって1年で辞めました。

 いったん笹塚のバイトに戻って転職活動をしていたら、リスティング広告のエディターの求人があったんですよ。指定された文字数内でタイトルを考えて、それにひもづく広告文を書く仕事。外資系だったからか、めっちゃ給料も良くて。

 毎日ブースのアーロンチェアに座って、誰ともしゃべらずに文章をつくって納品して終わり。でもやっているうちに、20代半ばなのにぜんぜん社会性がなくて「このままじゃダメだ」と、3年目ぐらいに目覚めたんです。

 まだテレビとかマスコミに行きたいって夢があったからだと思うんですけど、放送関連のサイトを見ていたら、衛星放送サービスの会社が中途採用を募集しているのを見つけて。エントリーしたら受かったんです。しかも、やったこともないのに生意気に「広報とか広告宣伝じゃないと入りません」って言ったら、広告宣伝部に入れてくれました。

 ──ついに念願のメディアに行けた。

 そうですね(笑)。その会社には約11年いたんですけど、全体的に言うと楽しかったですよ。

 最初はCM発注を担当したんですけど、進行管理がきつかったですね。期日までに間に合わなかったら穴開けちゃうじゃないですか。一つのキャンペーンで「億」使ったりするから、プレッシャーがすごいんです。テレビCMだけじゃなく、新聞広告とかグラフィックとか全部の進行管理をやってたんでストレスがすごかったですね。

 そこから、だんだんスポーツコンテンツの広告宣伝を担当するようになった。その仕事はプロスポーツのクラブや地域の人たちと接することが多くて、一緒に文化を醸成している感じがあって、すごく忙しかったけどおもしろかったですね。

 地方局で自分たちの番組を宣伝する出演PRみたいなこともしたんですけど、それが楽しくて。僕は人前で話すのが好きなんだなってそのときに思いましたね。

“生きる見本 ”が、身近にたくさんいたんです

 その会社での後半は、コンテンツを提供する事業者と調整する仕事になって、事業者の人と毎月の企画を組んだりするんだけど、だんだん全体の契約者数が落ちてくる時代に入って、どんな企画をやっても伸びないんですよ。

 スポーツ中継みたいなコンテンツは伸びるんですけど、それ以外は伸びない。会社からは「なんで伸びないんだ」って言われ、事業者の方からは「期待してるんでもっとやってください」と板ばさみになって。

 あと、僕はどちらかというと事業者、つまり社外の人たちと仲良くなるタイプで、会社の人たちより営業先の人との距離感がちょうどよかった。外の人たちと話をして、彼らの意向を汲んで企画にしていくのは得意なんです。だから、「これやって欲しい、あれやって欲しい」とどんどん期待される。

 それに応えようと社内に持ち帰るんだけど、こっちは根回しが要るんですよ。そういうのがうまい人は自分のやりたい企画ができるんですけど、僕は一切しないから企画を実現できないことも多かった。

 それで、30代半ばぐらいにかなりしんどくなって、本格的に心を病む前に一回休もうと思ったんです。そういう経験のある友だちが紹介してくれた病院に行って、診断書を会社に出して休職しました。

 ──ネットの台頭でテレビ離れが進む中で、社内調整の難しさも加わってしんどくなった。

 でも社内の人間関係は良くて、友だちもいっぱいできました。会社がしんどくて、他のことに興味を持ちたいなと思っている頃に、僕がお酒を飲めないのを知ったうえで「雰囲気やスタイルを気に入ると思う」と誘ってくれた友だちがいて。連れて行ってくれたのがAという店で、その店で出会ったのがナチュラルワインです。

 Aを知ってからは、毎日のように通いました。Aだけでなく、お客さんから他のナチュラルワインのお店のことを教えてもらったらすぐに行くぐらいの感じで。

 ──お酒が飲めないのに毎日のようにナチュラルワインの店に?

 ナチュラルワインなら飲めるんですよね。

 たぶん会社がしんどくて、嫌すぎて、その反動もあったと思います。いままでまったく知らなかった世界に強く惹かれたし、「この世界をもっと見たい」という願望に近い衝動があった。そして、新しい世界に希望を感じたんだと思います。

 Aは隣の人と肩が触れ合うぐらい狭いお店だから、自然と会話が生まれるんです。そこで、いろんな仕事をしている人がいることを知りました。会社員生活は忙しくて、社内や取引先の人との関係に限られて、外の世界をあまり知らなかった。だから、Aで出会う人たちとのつながりがすごく新鮮だった。

 僕はいま仕事でめっちゃ悩んでるけど、いろんな選択肢があるんだなって。会社員じゃなく、こんなに自由な仕事や働き方もあるんだとか。“生きる見本 ”が身近にたくさんいたんです。

 利害関係もなく、さまざまな価値観を持つ人たちと出会えたのが新鮮でしたね。本や映画の中の世界ではなく、実際に体感するリアリティがあった。それに、Aで出会った人が教えてくれた他の店に行くと、そこにも共通する雰囲気があるのがおもしろくて、こういう世界があることにすごく安心できました。

 どんな仕事をするかは決めていなかったけど、「会社じゃなくても生きていけるかもしれない」って漠然とした思いがあった。「こっちの世界にいたい」という思いが強くなって、40歳手前で会社を辞めてフリーランスになろうって思ったんです。

 そのときに世田谷の上町にマンションを買いました。サラリーマンでローンを組めるうちに買っちゃえと思って(笑)。

 で、実際に会社を辞めたのが38歳のときです。Aとの出会いは35〜36歳くらいで、その頃から1年か1年半くらいかけてナチュラルワインのお店やイベントに行くことが増えた。ナチュラルワインとの出会いの時期でした。

お酒を注文されたら「それ、なんですか?」

 ──Aをやっているお店の人が素敵だから魅力的な人たちが集まるのか、あるいはナチュラルワインが好きな人に素敵な人が多いのかな?

 ナチュラルワインは、人と人をつなぐ役割を果たしていると感じます。ナチュラルワインが好きな人同士には共感し合える価値観があって、それが人を引き寄せていると感じました。僕自身も、そこに強く惹かれました。

 本当にナチュラルワインが好きでお店をやっている人もいれば、流行として取り入れている人もいます。僕の場合、ナチュラルワイン界隈の一丁目一番地みたいな店に最初に連れていってもらったのがすごく良かった。Aをきっかけに多くの店が生まれているから、共通した価値観とか意識が根づいているなって。

 僕らが集うナチュラルワインの1本には、すごいドラマがあると思ったんですよね。「これが会社を辞める理由だな」って。お酒を飲めない僕でも飲めるこの飲み物はいったいなんだろう。フランスに行こう。原点を見ずにはいられないと思って。次の仕事も決めないで、38歳で会社を辞めました。

 ──ナチュラルワインの原点を見に行くために会社を辞めた。

 フランスでの日々は衝撃的でした。ナチュラルワインの作り手を訪ねる中で、資本主義社会への抵抗のようなものを感じました。

 これまで自分が疑問に思っていたことを、フランスで生きる彼らも同じように問い直しながらワインをつくっていると気づきました。そして、ナチュラルワインを飲む人の多くは、単に味を楽しんでいるのではなく、彼らの思想に共感しているんだなって。

 多くのことを頭で考えるのではなく、身体で体感し、理解しました。

 ──フランスでナチュラルワインというものを体感して理解した。

 2018年の年末に日本に帰ってきたんですけど、雇用保険で生活はできたので、しばらくはなにもせず過ごしていました。

 「ナチュラルワインをつくるの?」と聞く人もいたけど、設備投資の費用がたくさんかかるし、日本でイチからあの環境をつくるのはとてもじゃないけどできない。「インポーターをやるの?」とも聞かれたけど、単に商業的なビジネスとして携わるのもちょっと違うかなって。先を決められないまま、しばらくぼんやりと過ごしていました。

 ──ナチュラルワインを仕事にしようと考えていたわけでもないしね。

 帰国して2か月くらいした頃。会社員時代によく通っていた、業界関係者が多く集まる音楽系のバーが恵比寿にあるんですけど。子どもの頃に家で親がかけていたような曲が流れていて、懐かしくて、どこか落ち着く。僕にとっては最高の場所です。

 たまたまそのお店の常連の人から連絡が来て、高齢だったバーのマスターが倒れて「代わりに店に立つ人を探している」と。収入のあてもなくなりそうだったし、おもしろそうだったから、ワンオペでやり始めたんです。

 僕はお酒を飲めないけど、楽曲の話はできるからお客さんと会話を楽しむことはできるわけですよ。フードは乾き物をちょっと出すくらいで、お酒を注文されたら「それ、なんですか?」とお客さんに聞きながらつくるみたいなことをしていたら(笑)、僕のフラットな接客を気に入ってくれる人もいて。

 最初はマスターが倒れたことを心配して来てくれる人が多かったんですけど、何か月か経つうちに、徐々にお客さんの顔ぶれが変わり、僕に会いに来てくれる人が増えてきたんです。

 その店のオーナーは、西麻布で何軒か飲食店をやっている方だったんですけど、「飲食経験のない君がワンオペでやったほうがお客さんもおもしろいから」って言うような、けっこう変わった人で。プロデュースがすごく上手で、「イベントとかもやったら?」と、いろいろと仕込んでくれました。

 すごく狭い店で最初は月に30〜40万売り上げるくらいだったんですけど、イベントをガンガンやるようになったらお客さんも増えて、100万ぐらい売り上げる月も出てきて。最後はコロナで閉めることになったんですけど、すごく楽しかったですね。

「あ、コーチングって言うんだ」と思って

 ──飲食経験のなさやフラットな接客を強みにできると見抜いたオーナーもすごいし、しっかり結果を出したのもすばらしい(笑)。

 その年の9月、会社員時代に仕事で関わりのあった方が、僕が店に立っていると聞いて、訪ねてきてくれたんです。ナチュラルワインのことを考えていたら、僕のことを思い出したと。

 彼女の営業先のひとつに渋谷の映画館があって、11月からナチュラルワインの映画を公開することになったから「なにかやりませんか」と声をかけてくれたんです。『ワイン・コーリング』っていうドキュメンタリー映画で、僕もフランスで観て、大きな衝撃を受けた映画でした。その1年後に日本公開が決まったと。

 僕はフランスでの経験を本にまとめたいと漠然と考えていて、現地からInstagramに画像や文章をアップロードしていたんですよね。それを使って、Aで仲良くなったグラフィックデザインをしている友だちにお願いすれば、ある程度の体裁はつくれるかなと思って、すぐに動き出しました。

 Aのお客さん仲間にプロの校正者もいて、ゲラを組んだ後に赤入れをしてくれたんです。そのときに「有料で売るなら情報が足りない」と言われて。「欄外にちゃんと注釈を書いて」「写真にも全部キャプションを付けて」「まえがきとあとがきをちゃんと書いて」と教えてくれて、「なるほど!」と。

 時間がなかったけど、必死に1000円で売れるZINEにしようと、急いで構成を練り直し、台割を整えました。そして、映画公開日の11月1日に刷り上がったZINEを映画館に手持ちで納品するというドラマがありました(笑)。

 2019年9月のその日にお店に立っていなかったら、その奇跡は起きていないんですよね。

 ──帰国して雇用保険を頼りに生活していたら、声がかかってバーで働き始めた。さらにナチュラルワインの映画公開を知らせてくれる人まで現れて、本を出すことになった(笑)。

 ほんとに(笑)。11月1日に本が出て、月末には友だちが飲食店を借りて、神戸でナチュラルワインをつくっている生産者の方を呼んで、僕の本の出版記念イベントをやってくれたんですよ。

 そのイベントがとても刺激的で、人前で話すのはやっぱりいいなと思いました。会社員時代の出演PRも楽しかったけど、今回は自分自身の経験を自分の言葉で語ることができて、それを興味を持って聞いてもらえたのが最高でした。

 その後も盛岡の独立系の本屋さんに声をかけてもらって、東北各地を回るトークイベントをやったりして。渋谷や京都の有名な独立系の本屋さんも本を取り扱って、宣伝してくれました。コロナ禍でイベントが中止になってからも、いろんな人がInstagramでタグを付けて感想を投稿してくれて。家で本を読む時間が増えたこともあって、本の売れ行きは好調で、最終的に1000部を売り上げました。

──ZINEで1000部売れるのはすごい。

 あのときのイベントが楽しかったから、人前でしゃべりたいという欲求が強くなって、ZINEをつくりたい人のためのワークショップを開くことにしました(笑)。渋谷の貸し会議室を借りて、イベントプラットフォームで募集をかけたら10席ほどすぐに埋まって。自分で場をつくるのって、意外と簡単にできるものなんだなと感じました。

 ZINEのつくり方を教えるワークショップでしたけど、それよりも、フランスでの体験談を話すとみんながとても喜んでくれて。こういう話に関心を持つ人が多いんだなと実感しましたね。

 その後はエージェント経由でPR仕事を受けていたんですけど、2022年の春にPRコンサルの大きなお仕事をいただきました。自分に任せてもらえるのが不思議なくらい大型の案件で、しかも条件も破格でした。

 PRのコンサルとして入ったんですけど、チームづくりにも興味があったので提案したら任せてくれたんですよ。その会社は若手が多く、自由な社風のベンチャー企業で、中間管理職がほとんどいなくて、意思決定がとても速かったですね。コンセプトとかチーム形成のアウトラインをつくったら、会社全体のブランディングにつながって、すごくうまくいったんですよ。

 ある日、その中の一人と1on1をしていたら、コロナ禍に入社したメンバーだったから、会社の人とリアルで会う機会がほとんどないと悩んでいました。仕事がしんどいと。でも、僕との1on1で「心が良くなりました。コーチングに助けられた」と言われて、「あ、コーチングって言うんだ」と思って。

 ちゃんと学んでみようと思って、コーチングの学校に入りました。そうしたら、自分がドタ勘でやっていたことと似ていて、違和感なく学べました。

 でも、勉強したら今度はアウトプットしたくなるじゃないですか(笑)。だから、また自分でワークショップをやったりしましたね。

みんな、その作法ができている

 ──PRからコーチング、そしてワークショップという場づくり。Aとの出会いがきっかけで、視野が広がり、キャリアの可能性も広がっていった。すごく楽しそう。

 そうですね。フランスでの経験を通じて、生き方が大きく変わりました。さらに2021年のコロナ禍で、西村(佳哲)さんの本『自分をいかして生きる』を初めて読んで衝撃を受けました。西村さんの本を通じて、考え方が理論的にも整理され、この考え方でいいんだと背中を押してもらった。

 この2つが大きな転機になりましたね。人生は、受け身ではなく自発的に行動することで、自分次第で変えられるものだと思います。そう考えると、「楽しい」「できる」という前向きなマインドに変わっていく。嫌々やらないでいいわけじゃないですか。生き方の軸が大きく変わった。だから、いますごく楽しいですね。

 でも、38歳で独立した自分を「遅い」と感じているんです。Aで会う人も、もっと若い頃から独立している人が多いし。スタートが遅れたぶん焦りもあって、「もっといろんなことをしたい」という気持ちが強くなりますね。

 もともと、思い立ったらすぐ行動するタイプで、せっかちだから、つい焦っちゃう。「まだまだこれから」と思いつつも、「足りない」という焦りを感じながらやっています。

 ──好きになると、とことん突き進むタイプだから、Aが気に入って、毎日のように通ったんだね。

 そうそう! ほんとに1週間に3〜4回行って。そのペースで3〜4か月は通っていましたね。すぐに顔を覚えてもらえたし。

──いままでの人生で、そんなふうに通い詰めたことはある?

 もともとお酒が飲めなかったから酒場に通う習慣がなかったし、コーヒーも飲まないから喫茶店に通う習慣もないし。

 あと、いまではこういう性格になったけど、飲食店に慣れていなかった頃は、なかなか馴染めなくて。どう振る舞えばいいかや、人とどう話せばいいかもわからなかった。それもあって、そういうお店にはますます足が向かなかったですね。

──でも、PRやセミナーでは、人前で話すのが好きだし、得意だよね。

 そこは、自分でも不思議に思いますね。

──それと飲食店の中で話すのとは、また違う感覚なのかな?

 さっき話した社内と社外の違いと、すごく似ていますね。社内では、目立つことで近しい人から批判や陰口を言われるのが嫌というのがあります。社外だと、パフォーマンスの後もずっと関係が続くわけではないし、適度な距離感があるから気が楽ですね。

 ナチュラルワインの場は、自然と人と打ち解けられる空気があるんですよね。他のお酒だとどうかはわかりません。でも、ナチュラルワインは、そこで生まれるつながりが特別なものに感じられるんです。

 みんなすごくフラットというか。誰かが偉そうにするわけでもないし、ちゃんとリスペクトして話を聞くとか。人として当たり前のことだけど、ナチュラルワインを本当に好きな人はみんなその作法ができているというか。そういう心地よさに惹かれるんですよね。言語化するとそれが限界だけど(笑)。

 ──話を聞いていたら、ナチュラルワインが飲みたくなってきた(笑)。

 いいですねー。Aに行きましょうか! また新しいなにかがあるかもしれない。

 街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
 「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
 
 「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。

 まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。

 メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
 結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。

 話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
 話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
 音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。

 届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
 もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
 最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。

 併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
 本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
 挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。

 ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
 オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。

 私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
 そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。

 ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
 他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。

 私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
 駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。

西村佳哲(2025年7月31日)

駒沢の生活史[35話]

2026年5月1日 発行 初版

発行:駒沢こもれびプロジェクト

「今日の駒沢」
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