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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。
第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
みたいな話があったみたい
第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)
第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
人生のあと残った時間を費やすっていうのが
第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)
第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
そのとき初めて、ものすごい実感した
第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
みたいな(笑)
第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから
第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)
第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
そこをちゃんと見極めてたのは偉いと
第10話 どうなんですかね?
結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです
第11話 まかない食い放題!
生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの
第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
じゃあ、○円くださいって言って(笑)
第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか
第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない
第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね
第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
それが「あなたが社長ですから、
これ、サインしてください」って、突然
第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど
第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね
第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね
第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
お客さんって、すごいなとずっと思ってた
第21話 朝来た瞬間から、
自分でやりたいことを自己決定していくっていう
第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの
第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)
第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
「なんかあんまり」って思ってたけど
第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ
第26話 仕事してるとき、
自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)
第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな
第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから
第29話 塾すら近所だからさ、
全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの
第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです
第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか
第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう
第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
けど、それ以来ずっとこの界隈で
第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
駒沢でオープン
第35話 山梨の人は東京に出ると
中央線沿線に住む人が多いんですけど、
高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて
第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
頼れるのは家族みたいなのはあったのかも
第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた
第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ
第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって
第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
落ちたけど、コーヒーは飲みます
第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
声かけられて、そういうのなんか憧れるよね
第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは
第43話 …どっからか来てるのかな。
常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね
第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
後ろから人生を逆算してるから
第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)
第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです
第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど
第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
おっしゃって。「どうしよう」って(笑)
第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)
第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
ことが尊いともあんまり思ってないんですけど
第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね
第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
過ごしています
第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)
話し手 40代男性
聞き手 イトウヒロコ
──桜新町の人なのね。
もともと実家が桜新町なんですよね。いま住んでるのは実家ではないんですけど、駅で言うと桜新町ですけど、桜新町よりちょっと駒沢のほう寄りなんですよ。
──ずっと実家は変わらず?
実家は変わらず。生まれは埼玉なんですよ。1歳になる前ぐらいにこっちに越してきて、それと同じタイミングで、うちの親父が桜新町の駅前で喫茶店を始めた。母のほうの実家が桜新町。その実家とは別のところに、母方のおじいちゃんおばあちゃんが八百屋をやってたんです。駅前で。玉電が通って。
──タマデンっていうんだ。
はい。玉電が通ってた頃に八百屋をやっていました。で、おじいちゃんおばあちゃんももう年だしみたいな話になり、親父がもうサラリーマンいっか、みたいな、見切ってたときに。場所はある、しかも駅前の。なぜ喫茶店だったのかはよく知らないんですけど。たぶん当時喫茶店ってけっこう流行ってたんです。学生もいるし。一応会社とかもある。っていうので始めたんだと思います。ちなみにおじいちゃんおばあちゃんはその店の2階でなぜか麻雀屋を始めるっていう。
──ははははは!
僕が子どものときは、親が共働きでお店やってたんで、わりとおじいちゃんおばあちゃんに面倒見てもらうみたいな感じで。なんかわかんないけど、麻雀屋にいたりとか。しかも実家のほうに、両方のおじいちゃんおばあちゃん一緒に住んでたんですよ。大家族。3世帯。サザエさん以上の。
──サザエさん以上の世帯数で。桜新町での暮らしを。じゃあお父さんお母さん、忙しかった。
忙しかったと思いますよ。母も朝から入って夕方帰ってきて、夕飯つくってみたいな感じで。親父は昔は10時から夜12時までやってて。けっこう一時期すごいお客さん入ってたんで、店を拡張してったんですよ。2階にもう1個、もうちょっとレストランぽいのをつくって。で、マックスのときは三茶にも別店舗があった。
──え! すごい!
タチバナグループ的な感じ(笑)。人雇っちゃったりして。
親父とは、いまはそうでもないですけどやっぱ距離感がありましたね。あんまり普段いないし。たまに土日とか、映画観に行く。親父映画すごい好きなんで。子ども向けじゃなくて、親父が観たいものに一緒に連れて行かれる。子ども向けのとか、ランボーとか観に行ってくれるんですけど、なんかつまんねえなとかって言われて。子ども的にはすごい面白れえなと思って観てんだけど、なんも言えねえみたいな。
──ヒデの映画好きはそっからきてるんだろうか。
あ、たぶんそう、そうですね。まあ子どものときは別に映画好きというよりは、よくわかんないけど連れて行かれるみたいなものだったんですけど。まあ学生のときとかはけっこう、暇だったら映画観てるみたいになったのはやっぱりその影響なのかもしれない。
──じゃあさ。よくさ、喫茶店とかだと子どもがよく来てたりするじゃん。どっちかっていうと雀荘にいる?
なんか喫茶店には入りづらかったですね。たぶん、忙しかったから、親も面倒見れないからって。雀荘なんて昼間は客そんないない。そんなガチの雀士みたいな人ではなくて、たぶん、昔からおじいちゃんおばあちゃんと知り合いの人、仕事も引退してみたいな人が集まってたんじゃないのかな。おばあちゃんがカレーつくってお客さんに出すみたいな、そういう。
──いいな、そういうのはいいな。この辺に住んでいる子どもたちはなにして遊んでんの。
僕が小学校のときとかは、電電公社。いまで言うNTT。社宅に、こう庭じゃないけど、空き地みたいのが必ずあるじゃないですか。その、なんでしたっけ……あ、ミニべ。手で球打って、野球の簡易版みたいなのをやる。軟球手打ち、ペコ、みたいな。なにやってもピッチャーゴロ(笑)。そういう世界だと思います。
──そんな時代だった。なんか憶えてることあります?
小学校低学年ぐらいまでは、いま、外で遊ぶ話はしてたんですけど、僕すごい体弱かったんですよ。小児喘息がすごい重くて。コンスタントに週一は必ず休んで病院行く。そうそうあんまり外で元気に遊んでる感じではなかったです。
でもそれの反動でいますごい、走りとか。走れることが嬉しいみたいな感じがあるんですよ。昔はなんか、人のがやってること、やろうとしてもできないみたいなことが多かったんで。なんでそんな走ってんのって聞かれるんですけど。単に走れることが楽しいみたいなのがちょっと潜在意識としてあるんじゃないかなと思う。人並みに体が動かせる、みたいな。
──人並み以上だよね。
そうそう、いまはそうなってますけど。だから、なにが憶えてるかっていうと、喘息で、学校も休みがちで、ついていけないから登校拒否とかもしました。
両親ともお店やんなきゃいけないからっていうので、行きたくないって言ったら、じゃあいいよ行かなくてっつって。家で一人寝てるみたいな。んでお昼になんか知らないけど、親父がマックかなんか、これお昼に食え、みたいな。喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは。
──マック喜ぶだろうと思ったんかな。
子どもだったらマック喜ぶんじゃないかと思ったんですかね。普段は完全お母さんですね。土日の映画と、喘息の差し入れと、みたいな。
渋谷に場外馬券場あったじゃないですか。親父は馬券買って体の弱い子どもはなんかその辺のちょっと人相の悪いおじさんとかの中で一人で待っている。それから映画行って、ごはん食べるじゃないですか。そのあと、パチンコ。横で見て、またヤニくさいところで。お前もやる? みたいなこと言って。楽しくもないけど、なんかチューリップがパカパカしてるやつやる。そんな感じでした。いま思うと、懐かしいなって感じですけど。当時はちょっと、なんともいえない。
──なんともいえない。そっか。中学生時代は?
中学、あんまり思い出ないな。中学んときはエアガンが流行って。BB弾のやつ。なんか、子ども用のおもちゃではなくて、けっこう進化して、当たったらけっこうもうあざができるぐらいの勢いのやつを。
──痛いじゃん。エアガン合戦。撃つの? 人を撃つの?
人を撃つんです。相手を撃つんです。危ないですよ。でも眼鏡かけてたんでまだ良かったんですけどね。なんか一応そのゴーグルみたいなのしないと、目、危ないです。
──へえ。そんなところに駒沢公園の思い出が。ほんとにこの辺の人なんだね。
もうこの辺から出れない(笑)。社会人になってから一回一人暮らししたんですけど、まさに駒沢エリアの真ん中辺に5年ぐらい住んでました。実家にまだおばあちゃんも生きてるときに。兄貴も店を継ぐ前は普通にサラリーマンで。実家にはいなかったんですよ、一人暮らしして。
なんで、基本親とおじいちゃんおばあちゃんと僕みたいな感じだったんですけど。おばあちゃん的にはすごいかわいかった。孫がずっといるみたいな。で、僕も20代後半でさすがにちょっと一人暮らししたことないってやべえなって思って、決心して一人暮らし。
他のエリアも探したんですけど、なんかやっぱりフィーリングというか、なんか街の感じとか。結局駒沢で、たまたま新築のアパートが見つかったんでそこに決めて。とくにおばあちゃんとかにも言わずに。いそいそと実家の車の後ろに荷物とか積んでたら、おばあちゃん出てきてなにやってんのって言うから。いやなんか来月から駒沢で一人暮らしすることになったって言ったら、おばあちゃん泣き出して。
──泣くよ! そりゃ泣くよ、普通泣く。なんで言わないの!?
はははは。いや、それは、でも一応母親には、おばあちゃんには言っといてね。言ってなかったんですよ。まあ、母も忙しかったんだろうと。したらもう当日(笑)。泣き出して。いやいやしかも駒沢で? みたいな。ここでいいじゃん! みたいな。そんな感じでした。それを振り切って駒沢で。
──振り切って駒沢。
ま、ちょこちょこ帰ってはいましたけど、桜新町に。まあ、そこも含めてやっぱこの辺からは離れられないんだなっていう感じです。
──ヒデはほんとに掴みどころがないと思ってる。
まあ、そうですね。なんなんですかね。あんまりこう、自分の意志みたいのがない。ただ生きてるみたいな感じで(笑)。
いやなんか僕はでも、それもやっぱり小さい頃のその、体が弱くて、なんかみんながあれやりたいこれやりたいって言ってやってるのができなくて。まず自分の目標は人が普通にできてることができるようになる、みたいな感じだったから。自分がやりたいことなんてそんな、10個ぐらい先の話だなみたいな意識だったんですよね。水泳やってましたけど、昔、喘息の子は水泳やるといいっていう話あった、本当かどうかわかんないけど。むしろ嫌々やってた感じですね。一応、基本はできるようにはなりましたけど。
──そうだよね。水泳部だもんね、わたしたち。実はわたしたち、泳げるんです。
実はそこそこ泳げちゃうんですけど(笑)。
──じゃあなんで戻ってきたの、高校で。水泳部に。
運動をちょっとやりたいなっていうのもあったのと、友だちが先、入る。水泳部見学行って、一応昔とった杵柄じゃないですけど、まあ、少しは泳げるしみたいので、入ったんですよね。練習はハードでしたよね。けっこう同じクラスのやつは何人かいたんですけど、たぶん1年ぐらいで辞めちゃっちゃって、なんか僕はそのときなぜか辞めなかったんだな。
──確かに、いっぱい入っていっぱい辞めるよね。最初のほうで辞めちゃう。馬鹿みたいに5月のプールとか入ってるからね。
そうそう、そこがたぶんちょっとハードルですよね。寒いとこで。唇、紫にしてますみたいな。
──唇を紫にして。足がつったり、腹を壊したりして辞めていった。……まあ、ヒデは高校卒業してからだな。
デビューはそうですね。はは。そうですねだから(高校の)臨海(教室の合宿)で。それまでの、その、人見知りで、虚弱体質のヒデは、なにか違うものに。
──そうか、そっからけっこう、変わっていったの? 就職とかは?
いや、やりたいことがないもので。仕事もなかったんですよ、なにかしたいっていうのは。やりたいことないけど、例えば商社とかうん広告代理店とかって、花形のとこはイメージがつかなかったんですよね。
で、まず自分の身近にあるところで探そうかな、そのほうがやっぱりイメージつくし。本とかけっこう好きだったし、当時印刷会社って、大手はデジタルのほうもそうだし、クレジットカードとか、すごい多角的なことやってて、それはそれで面白そうだなって思って。結局受かったのが国内で言うと5番。そこに入りまして。
最初は営業です。で、またそれが、担当雑誌、結婚情報誌。会社の中ではいちばん売り上げが大きいお客さんだったんですよね。あれ当時すごい、1000ページぐらいある。どっちかっていうと進行管理ですね。印刷の立会いとか。あの雑誌ってなにが怖いかって、全部広告じゃないすか。しかもドレスとかジュエリーとか。もうなにやっても毎回クレームくるので(笑)。
クライアントの人と一緒に、夜中、僕が営業車を運転して。とにかく印刷日が1日とかしかないから。提携してるちっちゃい印刷会社にばあっとばら撒くんですよ。それをクライアントに報告して、表紙とか表4とかに広告出しちゃう、いちばん高いところに、でん、とジュエリーとかドレスとか出しちゃうようなところは絶対クレームを起こしたらあかん、と。夜中、見て。最大で3日徹夜したことありますけど(笑)。
──うわあ、もうつらいつらいつらい! 耐えらんない。
やっぱ3年で辞めましたけど。そういう働き方じゃなかったら、けっこう印刷屋の仕事って地味で好きだったんですよ。結局その、印刷で色とか一生懸命見てるのって、あの、広告を出してくれてるクライアント向けに出すいちばんいいところだけなんですよね。本屋に積まれてるのって、この完璧な100%のものと比べると、色とかぜんぜん違うんですよ、実は。印刷、輪転機って色合わせに時間かかるんですよ。だけど高速で回ってるんで、本当に色合った頃にはもう終わりなんです。で、そのいちばんいいのだけを見本誌としてお客さんに配るんです。でも、本屋に並べるのって、もう下手したらぜんぜん色違うとか。
──100%よりは絶対に下っていうことだよね。
そうそう。でも、その100%をつくるために印刷立会い、夜中とかにして。夜中の2時とかに。最後のほうは僕、印刷機のその色調整を操作できるようになってて。なんかもう現場の人も、わかりました! もうやっていいです! みたいな感じになって(笑)。絶対素人やっちゃいけないんだけど。
そんな、本屋には並ばないもののために、徹夜でそんなことやって自己満足してる人たちなんですよ。そこがなんか僕はけっこう好きでしたね。その無駄さ加減がちょっと好きでしたみたいな。
──無駄さ加減が好きっていいね。
23、4、5ぐらいですかね、その印刷会社は。そこから辞めて、デジタルマーケティング界隈に行ったんですよね。
そのクライアントがいち早くデジタル化だみたいなことで。雑誌とかに載ってる情報をインターネットに載せるみたいな、いわゆる情報ポータル。僕がその辞める頃にそういうのが出てきて。情報誌やってたから、あ、なんかネットすげえなって。これからはデジタルの仕事かなって。やってみたいというよりはこれからそっち行かないと。
で、ネット広告の、メディアレップっていう業態があるんですけど。代理店とメディアの間に入ってやる、こう、代理店の代理店みたいなとこですよ。
──なんかすごい最先端の人なんだね。
ある意味最先端ですね。当時ぜんぜんそんな気はしてなかったですけど。でもなんか、50近くになっても、とりあえず「うちで働いてくんない?」みたいな声がもらえるのはきっと、そういうのを乗り越えていて、っていうのがある気がします。
7、8年いたんですけど。その中でも社内転籍みたいなのが2回ぐらいあって。2年目に電報堂の営業部門に行ってくれって言われて。もうドナドナのごとく。ちょっとオラオラのところに子羊がぴっと。で、3年ぐらいすると本体に戻れみたいな話になるんです、ローテーションで。ですけど、もう本体に戻るのは嫌です、どうしても戻れって言うんなら辞めようかと思いますみたいな話をしてたら、今度は、うちと3社がジョイントベンチャーつくって、そこでCRM、カスタマー・リレーションシップ・マネジメントっていう領域があるんです。そっちでもいいよって言われたんです。で、そっちに、出向者として。
──へえすごいね、ネット広告の変遷とともに、ちゃんと。いまやめちゃくちゃ大事な。
そうですね、わりとタイミング的には。いまだにその頃やってたことの進化系をやってるので。転職をいっぱいしてますけど、やってることはその周辺ですかね。
──ふうん。性に合ってるのかねえ。
いや、合ってないと思う。
──あれ?(笑)。
一応、心の中では50になったらもうこのデジタルマーケティングみたいな仕事を辞めようと思ってる。僕、カウンセリングの勉強をしていて。産業カウンセラーという資格を取ったんですよね。それだけではすぐに仕事にならないんですけど。もうちょっと別の勉強すると、キャリアコンサルとかもできたりするので。そっちでやっていきたいなと思ってるんですよ。
それは、なんとなくやってきたことではなく、自分が興味を持っていることなんで、初めて。僕はちょっとうつ病じゃないですけど、ちょっと体壊したことがあったっていうのもあったんですけど。いま周り見ても、病んでる人本当多いので。けっこうな社会問題になるんじゃないかなって。あんまり興味もなくやってきて、経験値だけでやってる仕事よりは、もうちょっと自分事化してこう、社会に貢献できることをやっていきたいなみたいのはちょっと考えてる。
──いつぐらいからそういうこと考え始めたの。
うーん、そういうのになってからだから、40代前半ぐらいですかね。転職して、40過ぎぐらいまで、なんだかんだステップアップできちゃってた。給料とかも含めて、新しいことできてるっていうのを含めると、物理的なインセンティブがあったがゆえに、このままじゃ駄目かもって考える時間もなかったんですよね。
でも、その先来るとちょっとまあ、右肩下がりではないですけど、基本は現状維持か、ちょっと下がってくる。そういう会社ってもうぜんぜん若い子のほうが明らかに優秀だし。いま、僕も仕事はちゃんとしてますけど、なるべく若い子がちゃんと活躍できるような環境づくりとか、そういう子がちょっと気がつかないところを、球拾いじゃないけどやってあげようみたいなマインドでやってるんですよ。
──じゃ仕事ちょっと抑えめにして勉強中みたいな?
産業カウンセラーって、シニアっていうのがあって、シニアまで取ると企業で雇われてカウンセリングをするとか、自分で事務所持つとかもできるようにはなるので。ただそれもけっこうガッツリ勉強しないと取れないので、いまは時間のあるときやるぐらいですかね。
最近そういう時間もあんまなくて。いま。忙しいんですよ。映画も、月一も行けてないですね。
──こないだなんか観たって言ってなかったっけ。『悪は存在しない』!
あ、観た観た! あれは良かったですね。でもあの濱口竜介はどれも。『ドライブマイカー』僕はすごい良かったなと思ったんですよ。僕は2回観ましたね。
──まじか。村上春樹も好きだもんね。
村上春樹も好きなんで(笑)。そうなんです。でも映画2回観たいなって思うのはいっぱいあるんですけど、本当に2回観るのってあんまないんですよね。トークショーを観た後に、日比谷のなんかシャンテかなんかでギリギリやってたの観にいって。2回観るとでも、かなり理解が深まりますよね、ああいう、ちょっと考えさせられる映画。
(えんえん映画談義が続く)
やべ、もう一回観たくなってきた。
──観たくなってきたね。あとなんの話したらいいんだ。いまは走るために駒沢公園まで走りに来てんですか。
そうですね、うちから駒沢公園までが1キロちょっとなんです。駒沢公園が1周2キロちょっとあるので、駒沢公園2周ぐらいして帰る。あと、駒沢公園を越えて目黒のほうに行くと、タモリさんちがあるんです。すごい真っ青の。最近のタモリさんがすごい好きで。タモリさんちまで行って、駒沢公園入らないで帰ってくると、だいたい6キロぐらいなんすよね。ちょうどいい距離なんで。毎週あそこまで行ってたらいつかタモリさん会えるだろうと思って、ずーっとそのルートやってたんですよ。それで2回会えました。
──えっ!!
(笑)でも、タモリさんもちろんサングラスもしてないし。あのカッコでもないんです。ちょうど門から出てきて、もうカッコもなんかベージュ系のヨレヨレので。なんか帽子もね、いわゆるおじいちゃんが被るような帽子なんですよ(笑)。目深にかぶってたんですけど。あの、手を見てわかりました。手と、腕時計。デジタルの高度とかがわかるやつを。地形とかすごい好きじゃないすか。そういうデジタルの、ちょっと赤いラインが入ってるのしてて、それしてたんですよ。よくブラタモリで、石とかタモリさん見るじゃないですか。手が映るんです。で、あの手だったんですよ!
──あははは! マニアックすぎる!!
おおおおと思って、でもちょっとさすがに声はかけられなかったんですけど。いや僕もちょっと止まっちゃったんです。そのすれ違いで。そしたら向こうもちょっと一瞬ぴってこっちを振り向いたけど、そのまま。っていうのが2回ありましたね。
──3回目は声かけよう。
そう! 3回目は声、かけたいんですよね~。
──「手と時計でわかりました」。絶対喜ぶと思う。いいね。……っていう感じなんだ(笑)。40代とか、その辺は。
生活で言うと結婚したのが確か40ですね僕は。
──それ、結婚するぞっつって、婚活したの。
婚活というか、さっき言ったCRM領域の専門会社にいたときに、周りけっこう広告代理店の人が多かったんですよ。でこう、ヒデを結婚させるプロジェクト! みたいな(笑)。3年か4年ぐらいにわたり、まあ月に一回は合コン。仕事終わるときもすいません、ちょっと今日は行ってくるんで、って言えば、がんばれ!! つって。そういう感じです。はははは。でも、最終結婚したのはその、代理店の人がやってくれた合コンではなかったんですけど。それはまた、一緒に働いてた別の会社の人が、たまたまやってくれた。あまりにも成約がないから、ちょっと下火になったんですよ。
──成約がない! はははは!
当時はけっこう嫌々だったんですよ。いや、この性格でですよ。合コンってけっこう難しいですよ? 自分をアピールするとかあるじゃないすか。お作法が。最低限の(笑)。性格的にどう考えても苦手だと。
──でもそれでいまの奥さんと出会い。よかったね。アピールしなくても仲良くなれたの?
一応、合コンの後半戦で、自分にノルマを。普通にやると本当に合コン行っても喋んないとかなっちゃうんで。とにかく合コンに行ったら、その中でいちばん自分に合うとか、なんでもいいんですけど、いちばんいい人を見つけて、必ずその人を2回目に誘うっていうノルマを課した。ほんで、うちの妻にもそれをもれなくやったわけです。そうしたら、返事なくて。
──え!
ぜんぜん。でも4、5ヶ月経ったぐらいにメールが来て。「あのときのなんとかですけど。憶えてますか」みたいな。えええ!? みたいな(笑)。で、会って。僕が誘った頃は、けっこう忙しかったらしくて、失礼しましたみたいな。でも半年経って連絡くれるんだったらそれはそれでまた、なにかのご縁かもしれない。そっから3ヶ月で結婚しました。ははは。
──(スピード婚にびっくりしている)……ま、早いほうがいっか。
何度か会って、一回旅行行って。僕あの、人といるのがすごい駄目なんです。人と、ほんと同棲とか、ルームシェアとかできないんです、絶対。で、旅行、一泊か二泊だったんですけど。近くに人がいて嫌じゃないなって思ったんです。それが決め手だったんですよ僕は。
──それはすごいことだね。
そう、そうなんです。でも「結局私のどこが良くて結婚したの?」みたいな、ちょくちょく蒸し返されるんです(笑)。結婚するときは一応その通り言ったんですけど。そもそも誰かといるのとか、駄目だけど、一緒にいて、ご飯とかも一緒に食べて楽しいかなみたいな話をしたんだけど、それはなんか一般的にはそんなんじゃ決め手にならねえだろみたいな。わかんないっすよね。女性としてはちゃんとこう、もっと具体を言ってほしいみたいのがあるのかも。
──うん。具体聞かれんのはめっちゃわかる。でも理由なんてわかんないっていうのもわかる。平気だから平気なんだ。
そう。普通が平気じゃないので、平気なことは僕にとってはけっこうイレギュラーなんですよ。レアなんです。そっから、7年、8年か。8年経って。駒沢公園、たまに一緒に走りに来ますね。それが40代ですかね。
──大きなイベント。
40代で、結婚して、えっと、駒沢に5年ぐらい住んでたって言ったじゃないすか。で、結婚する前ですけど、桜新町、いま住んでるところに引っ越したんです。いま住んでるとこっていうのは、実家じゃなくて。もともと親父のほうのおばあちゃんがアパートを建てて。それこそ僕が生まれた頃から建ってるボロボロの木造アパート。で、もうアパートもやめようみたいな話になり、リフォームをして、二世帯みたいにして、兄貴と隣同士で。
そこに妻ともしばらく住んでたんですけど、今度は兄貴は実家のほうをリフォームして移って。アパートの片側半分に僕と嫁だけ住んでるみたいな感じになったので、またそこ建て直したんですよ。
でもなんかけっこう、桜新町のほうはとくになんですけど、昔から住んでた人がけっこう、手放してどっか移っちゃうみたいなのが最近多いですね。その代わりに、若い人が戸建てで。だいぶ変わってきた気はします。
──ね。いつまでもね、同じではないけど。昔の街が懐かしいなってときどき思うよ。
そうですね。うちの周りもすごい畑が多かったんですけどいまはないし。駒沢公園のところも、ちょっと入るとすごい大地主の人がいるんですよ。その人が持ってる土地ですごい畑があって、保育園のときはそこに芋掘りしに行ったりとか。
──世田谷とか練馬とかはとくに畑いっぱいあった。そりゃ変わるわな。50年経っちゃったもんね。あれ、まさかまだ50歳になってないの。
なってないです。まだ48歳ですよ、こう見えて(笑)。今年の年末に49になる、来年50。いよいよ大台。でも、とくにネガティブな感情はないです。体力落ちるとかももちろんありますけど。走ってるからもあるかもしれないですけど。すごい昔は本当に体が弱かったし。いまけっこう、コンディション的にはいい。意外と、意外と右肩で上がってる、実は。ははは。
──めちゃいいじゃん! 仕事もね、またちょっと、変えられるかもしんないしね。
そうですね。ちょっとどっかで、思い切って、変えられるといいなと思ってます。やり始めまで時間はかかるんですけど(笑)、ちょっと取っ掛かりがあれば、すぐ入れると思うんですよね。
──楽しみだな。
いいですかね。
街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。
まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。
メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。
話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。
届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。
併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。
ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。
私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。
ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。
私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。
西村佳哲(2025年7月31日)
2026年5月1日 発行 初版
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