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駒沢の生活史[46話]

駒沢こもれびプロジェクト




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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。

駒沢の生活史


第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
    みたいな話があったみたい

第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)

第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
    人生のあと残った時間を費やすっていうのが

第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
    駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)

第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
    そのとき初めて、ものすごい実感した

第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
    みたいな(笑)

第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから

第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)

第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
    そこをちゃんと見極めてたのは偉いと

第10話 どうなんですかね?
     結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです

第11話 まかない食い放題!
     生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの

第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
     じゃあ、○円くださいって言って(笑)

第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
     親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか

第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
     ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない

第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね

第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
     それが「あなたが社長ですから、
     これ、サインしてください」って、突然

第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど

第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね

第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね


第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
     お客さんって、すごいなとずっと思ってた

第21話 朝来た瞬間から、
     自分でやりたいことを自己決定していくっていう

第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの

第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)

第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
     「なんかあんまり」って思ってたけど


第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
     あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ

第26話 仕事してるとき、
     自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)

第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな

第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから

第29話 塾すら近所だからさ、
     全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの


第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
     私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです

第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
     「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか

第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
     プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう

第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
     けど、それ以来ずっとこの界隈で

第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
     駒沢でオープン

第35話 山梨の人は東京に出ると
     中央線沿線に住む人が多いんですけど、
     高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて

第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
     頼れるのは家族みたいなのはあったのかも

第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた

第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
     大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ

第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって

第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
     落ちたけど、コーヒーは飲みます

第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
     声かけられて、そういうのなんか憧れるよね

第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは

第43話 …どっからか来てるのかな。
     常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね

第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
     後ろから人生を逆算してるから

第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
     いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)

第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
     そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです

第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
     あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど

第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
     おっしゃって。「どうしよう」って(笑)

第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)

第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
     ことが尊いともあんまり思ってないんですけど

第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね

第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
     本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
     過ごしています

第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)


















いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか、そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです

話し手 60代男性
聞き手  川上修生


 私の家は代々歯科医師なんですよ。祖父が歯科医師で、父が歯科医師で。で、私も歯科医師。娘も歯科医師になりましたので、それで4代目。ちなみに家内も歯科医師です。

 ──そうなんですか。

 でも私が高校生のときに進路を選ぶ際に、親と少し喧嘩を。実は別にやりたいことがあった。それはなにかっていうと、いまだとポピュラーなんですけど、「古生物学」ってあるじゃないですか。いわゆる恐竜とか古代生物の化石などを研究する分野。昔は非常にマイナーな分野だったんですけど、いまはすごくメジャーになった。そちらの世界に行きたかったんですけど、親からは「お前3代目なんだから」って。兄がいるんですけど医科大学に行ってしまったので、「じゃあ私が継ぐしかないな」と親と喧嘩しながらも思っていた。それが1977年。随分昔ですよね。

 ──なるほど。

 で、歯科大学の受験のときにまた喧嘩したんですよ。志望の大学は、創立当初は東京にだけ歯学部があったんですけど、後から新潟にもできたんです。当時、新潟は学部ができて5年目ぐらいで、もう新品ピカピカの建築賞をもらったすごい先進的な建物だった。

 ──はあ、なるほど。

 でも「新潟の歯学部の方に行きたい」って言ったら、親からまた反対されて。「通えなきゃダメだ」って。私の家は栃木県なんですね。

 ──はい。

 栃木県からは電車で東京の大学まで2時間ぐらい。ギリギリ通える。「親とも喧嘩してるし」と思って、東京の歯学部を選んで6年間学んだわけなんです。で、最初の1年間は約束通り家から通ったんですよ。ところが体調を崩して。なぜかって言うと、電車で座った途端にいつもすぐ寝てしまっていたんですが、夏場は冷房で体が冷えすぎ、冬場は暖房で暑すぎて、やがて通学だけで体がガタガタになった。

──なるほど。

 で、「これはまずいな」って、親も思ったんでしょうね。それで東京に下宿することになった。大学の最寄り駅から3つぐらいのところ。そこにアパートを借りて、通学時間がだいたい30分ぐらいになって随分楽になってですね。結局そこには大学、大学院を卒業して結婚してからも、何年だろうな……そうですね、通算15年ぐらい住んでいた。

大学院に送り出してくれたのは父なのにね

 ──長いですね。

 はい。大学6年間、無事にストレートでいって、国家試験も受かった。で、次をどうしようかって考えたんです。そこでまた親と衝突するわけです。親は「跡継ぎだから帰ってこい」と。でも「いや、僕はまだやりたいことがあるんだ」と言って、お願いして大学院に進んだんです。

 歯科というとむし歯だけの分野のような感じするでしょう?(笑)。でも実は色んな分野があって。で、私が選んだのは「歯周病学」っていうね、歯槽膿漏についての学問。それが、当時はあまりよくわかってなかった分野なんです。いまでこそテレビのコマーシャルなんかで歯周病って連呼されてますけども、まだまだどういう病気なのか、その治し方もはっきりしていなかったんですね。

 大学3年のときに初めて歯周病学の講義を受けたとき、それがまったく理解できなかった。なぜかというと、留学帰りの先生が講義したもんですから、いきなり専門用語を英語で黒板に書き始めて。で、ノート取って調べても「これなんの意味だろう」って。実は当時、日本語の用語もまだちゃんとないような分野だったんです。まぁ、そんな形で、学生時代に苦手だったんで、「じゃあ大学院で歯周病を勉強してみよう」と思ったんです。

 親は本当はすぐに栃木に帰って来て欲しかったみたいなんですけど、結局「学位取って帰ってくるんならいいや」って言って理解をしてくれて、温かく進学させてもらったんです。
 で、学位を取るまでは普通4年間なんですが、その間は色々と苦労した。当時の教授の指導は厳しくて、帰りはいつも終電。だいたい0時40分の終電で毎日帰ってた。ただし朝は、ちょっと遅くてよかったんです。9時過ぎに行けばよかった。なぜかっていうと、9時までは診療開始前の30人の先輩たちが医局で待機してるんで、行っても自分の居場所がないんです。9時過ぎると皆さん診療室に行くので、ようやく自分のスペースができて研究ができる。医局の上下関係の厳しさも知りました。

 ──そんな感じだったんですね。

 で、大学院に入って4年間研究をしてですね、無事学位を取得できることになったんですが、そこで私、大きな失敗をしたんです。

 いまでもそうなんですけど、大学院の学位授与式って、大学の歯学部学生の卒業式と同時に行うんです。学部の卒業生は大勢いるので代表一人が卒業証書を壇上で受け取るんですが、大学院修了生には学長から一人ずつ学位記が授与されるんです。普通、会場にいるのはほとんどが学部学生の親で、大学院生の親ってあんまり来ないんです。なので私はうっかり、なんかの拍子に父親に「別に来なくていいよ」って言ったらしいんです。そうしたら父親はもうそれが非常に不本意だったらしくて。母に「せっかく4年間学ばせてやったのに」ってずいぶんこぼしたみたいなんです。大学院に送り出してくれたのは父なのにね。

 父親は歯科医師になってからやりたいことがあったらしいんです。でも歯科医だった父親、つまり私の祖父がその頃急逝したんです。なので、やりたいことができないまま、すぐに祖父の歯科医院を継がなければならなかった。

 ──はぁ、なるほど。

 そんなことがあって、やっぱり自分の子供には学位まで取らせてやりたいと思ったんでしょうね。そういう思いがあったんで、やっぱり私の博士号の授与式ってのは晴れ姿だったはずなんです。

 それを本当に楽しみにしてたらしいんですけども。ところがそれが見れなかったって言って。いまでもそれは申し訳ないことしたなと、本当に後悔しています。

 ──そういうことがあったんですね。

人の「香り」がぜんぜん違っていて面白かったです

 でまたその後、親とぶつかるんです。「大学院修了したんなら帰ってこい」って。父も、ずっと開業してるんだから、そろそろ「ここを継いでくれ」っていうんです。でもそこでまた「まだやりたいことがあるな」と思った。なぜかっていうと、大学院生の研究っていうのは、一つの研究テーマがまとまっただけで、まだまだその続きがあるわけです。で、当然「次にこれをやりたい」って思い始めるんです。それが欲なのかわからないですけど。
 それともう一つ、大学院生のときに色々と歯科治療のアルバイトもしたんですが、「自分の本当の仕事は日々の臨床じゃないのかも」と思い始めていたんです。いろんな治療技術や材料をつくったり、学生達に知識を教えたり、研究でいろんな理論をつくったりっていうところの方に興味があって、「それをやりたい」と。
 なので、やっぱりここで栃木に帰ったらダメだと思って、歯周病学の医局に助手として残りました。1987年ですね。世間はもう本当にバブルの真っ最中。

 そこからまた色々と始まるわけですが、そんな頃にいまの家内に出会った。大学院生の2年後輩だったんです。その彼女が駒沢の出身。

 ──あ、そうなんですか。

 駒沢に家があって。面白いご縁ですよ、これも。父親は仏教学者で東大の教授。母親は薬剤師で駒沢で薬局をやっていた。

 ──学者さんですか。

 そうなんです。豪快な方で、仏教関係の専門書や一般書も多く書いていて、鎌倉にお寺も持っていた。本当に多くの後進を育てて、みなさん駒沢大学などの教授になっています。で、驚いたのは家内の母親の出身地。実は栃木県の私と同じ街だと後からわかった。私と家内が知り合う直前に他界されていたのでお会いできてないのですが、なにか運命というか、縁があるねって話になった。

 ──そんな偶然が。

 結婚したのが89年。私が87年卒業で、家内は2年下なんで家内の大学院卒業を待って89年に結婚。披露宴をやったんですけども、先方はみなさん仏教学者、こっちはみなさん歯科関係ばっかりなんで。人の「香り」がぜんぜん違っていて面白かったです。

 ──歯学と仏教学で異種格闘技戦みたいな感じですね。

 (笑)
 でも、家内と知り合って初めて駒沢を知ったわけではないんですよね。駒沢にいつ来たのかって話をすると…大学時代、私、卓球部でした。で、私が2年生のときかな、全国の歯科学生体育大会の卓球部門が駒沢体育館であるっていうんで、来たことがあるんです。駒沢体育館ってオリンピックで使った体育館なんで、結構設備はいいんですよ。
 そのとき、「駒沢ってどんなとこだろう」って思って、当時のアパートから行ったのが最初かな。最初に思ったのは、「駒沢大学って駅名なのに、なんで駅からこんなに駒沢大学や駒沢公園が遠いんだ」と。そのときに「駒沢って不思議な街だな」と思ったのが最初。ただ家内とのデートは駒沢ではほとんどしなかったですね。

 ──向こうはご実家近いですもんね。

 (笑)
 その後、駒沢に来たのは大学の医局に残ってすぐの頃。こっちの道沿いにね、国際デンタルアカデミーっていう歯科の診療所と研修所があって、そのころ出始めていた歯科用インプラント治療の研修を1週間受けた。で、そのときに、「そういえば学生時代にも試合で来たな」と思いながら、この道をずっと通ったんですよ。

──それが卓球の大会以来だったんですね。

 その当時もここに住むことになるとは思ってなかったですね。当時は大学の近くで、ただ家内とはもう付き合ってましたけどもね。

 ──今後の、その先の人生に繋がる準備の場所として、すでに駒沢があったんですね。

 そうですね。うん。そこの歯科の研修所講師の先生の話は興味深くて。私の師事していた大学院の教授の言うこととも違うんで、「自分はどれを取り入れよう?」って、そのとき色々考えました。それがきっかけでもっと学びたいと思って、その後すぐにスウェーデンの大学の研修を受けに行き、世界がまた広がりました。またそれが他の人よりかなり遅い、初めての海外でしたね。

──今後の、ベースが出来上がってくる時期だった。

それが宿命みたいな刷り込みもあったんですかね

 そうですね。振り返ってみるとそうだなって。やっぱりこれまでいろんな分岐点があったんだと。若い頃は卒業、大学院修了とかっていう節目が人生の分岐点だと思っていたら、それは大きな枝なだけで。やっぱりいくつか別の分岐点がその間にあるんですね。いろいろとね。

 ──いま振り返ると、そのとき思ってたのと分岐点が違う。

 はい。振り返ると「あのときああしてたら、きっとこうだったなぁ」っていうのは、いっぱいありますよね。
 結婚してすぐ、大学の好意でアメリカ留学の機会にも恵まれたんですが、帰国後1992年には子供ができて、「このアパートはもう狭くて無理」っていうんで、そこで駒沢に引っ越して来たんです。そこで駒沢を選んだのは、家内が歯科医院を開業するためでした。家内はずっと「東京に自分の歯科医院のオフィスを持ちたいんだ」って話をしていて。どこが良いか考えてたんです。で、結局ある程度のスペースがあり、家賃もいらない駒沢の実家が借金も少なく済んでいいんじゃないかっていうことになった。ただ住まいを一緒にするのはスペース的に無理だったので、別に居を構えました。

 ──そこから本格的な、駒沢との付き合いがはじまった。

 うん、長い話でした。ようやく駒沢に住むことになった(笑)。
 そのあたりでまた考えたわけです。大学にこのまま残るか、辞めて父の栃木と駒沢の診療室を手伝うかを。でも父親は反対に「ここまでやったんだから、大学も最後までやったらいい。もう継がないでいいよ」と言ってくれた。

 父親も諦めたんですね。駒沢の家内の歯科医院が、栃木の代々の歯科医院の名前を継いでいるわけです。だからもういいと思ったんでしょうね。

 ──そっかそっか、そういうことですね。

 「もう子供も生まれたし」とも言ってね。その代わり「じゃあ大学にいて良いから、月に一回だけ栃木に帰ってきて診療室を手伝え」って言われたんです。で、月に一回帰って、父親と一緒に診療をした。

 ──へぇ。

 それはね、すごくいい経験でした。大ベテランの治療って、ある種の職人芸でもあるんですよ。理論じゃないところがあってですね。実は世間一般では、親子で診療すると必ずぶつかるんです。つまり、技術に何十年かの差があるんで。父親としては自分の息子に「そうじゃないこうだろう」って言うし、息子は「自分が習ったのはこんなんじゃない。それはいまの考えでは変だ」って言ってぶつかる。それはもう大げんか。でも私のように月に一回ぐらいだとそれはなかったですね。

 ──ちょっと戻ってしまいますけど、最初にお父さんと喧嘩されて、「本当は古生物学をやりたかったけど」みたいな気持ちはすぐに解消できたんですか。

 当時、父の殺し文句があって。「古生物学で生活できている人は一握り。お前には無理」。

 で、もう一つ。「やりたければ歯科医師になってからやればいい」っていう。…実際、できるわけなかった(笑)。

 ──(笑)で、納得されたんですか。

 そのときは「確かにそうだなと」。
 やっぱりそれが宿命みたいな刷り込みもあったんですかね。「お前は3代目だ。兄は医者にするからお前は継げ」っていうのは昔からずっと言われていたんで。

 ──そこはもう「宿命だな」「運命だな」ということで受け入れて行動できたっていうことですか。

 いまはこういうふうカッコつけて話してるけど、実は当時はそこまで深く考えてなかったと思う。親の言う通りならきっと間違いないってのもあったんでしょうね。進む道で喧嘩したなんて言ったけれどたかが知れてますし。

 で、ずっと大学での生活を続けながら、家内の歯科医院を手伝ったりしたんです。でも、1997年ぐらいに倒れた。

 ──倒れた?

 私が。肺炎になったんです。最初は風邪だったんですが、ずっと咳が止まらなくても、薬飲みながらかまわず働いていた。大学での研究、教育、講義、そして附属病院で診療もやって。また平日夜は家内の診療所を手伝い、休日は別のところでもアルバイトをしてっていうのをやってたら、ある日いきなりですね、高熱が出て体が動かなくなりました。

 ──えっ。

 うちの附属病院の内科に行って、「すいません、ちょっと熱が出て、体動かないんですけど」って言ったら、「じゃあレントゲン撮りましょう」ってなってレントゲンを撮ったら、「先生、これ肺炎。入院しないと死ぬから!」って。すぐ緊急入院させられた。

 ──やばい。やばい。

 そのときには、2人目の子が生まれてて。2人の子供のため大学で働きバイトしてって、いちばん頑張らないといけない時期でしたから。

 ──確かに多忙ですね。

 ただ、それまで4、5年は普通に頑張れてたんで、そのときも「咳ぐらい大丈夫だろう」と思ってたら、やっぱりダメでした。無理はしちゃいけない。
 そのときに学んだのは、「体に不調があったら早めに医者に診てもらえ」。いつも患者さんに話している言葉なのに……。それ以来、若干仕事をセーブするようにしました。

 ──お話を伺うと、確かに疲労が蓄積されそうですね。

 はい。とくにその後の助教授の時代がいちばんストレスがありましたね。自分の業績を伸ばしていかなければという使命感と、将来への不安感みたいなのが常にあって。これ、あまり戻りたくない時代かもしれない。

でもやっぱり駒沢にはしっかりとしがみついてた

 ──なるほど。具体的にどういう…。

 自分の仕事をこなしながら上司から指示があったこともやり、同じく部下に指示してきつい仕事でも我慢してやってもらわなくてはいけなかったんです。2000年から2005年にかけては生活面も色々大変で。

 その頃には子供もある程度大きくなっていて。子供はやっぱり生まれて何年か、幼稚園ぐらいまでかなり手がかかるんですけど、その後はお金がかかるようになるんです(笑)。手がかからなくなったと思うと、進学とかでお金がかかるようなって。こんな日々の生活と仕事のストレスに加え教授選考も控えていた。この時代がとくに苦しくて大変でしたが、いまの立場になり随分楽になりましたね。

 ──いろんな苦労があった時代だったんですね

 はい。でもやっぱり駒沢にはしっかりとしがみついてた。いまでは良い思い出。

 駒沢に越してきてからは子供2人を育てながらの生活ですので、土日はなるべく時間をつくるようにしてたんですけど、学会出張や地方の講演とかに呼ばれたりして、思うように遊べなかった。祝日ぐらいでしたかね、休みはきっとね。
 祝日になると遊びに行くわけですけど、出かけるのはだいたいこの辺が多かった。家内も忙しくて、国内の遠出の旅行はせいぜい年1、2回くらい。家族一緒に海外旅行なんてできなかった。駒沢の辺りを一緒に散歩したり食事をしたりするのがせいぜいでしたね。でも、そのおかげでこの街に色々な思い出ができた。

 ──なるほど。そういうことですね。

 いまでもこの辺を歩くと、「あ、ここで上の子が転んだな」「ベビーカーが脱輪してひっくり返ったな」「ふざけ合って道に飛び出したんで怒鳴りつけたな」「『おしっこ』って言われて陰でさせたな」とかって子供のことを色々思い出すわけです。

 またこの街にもいろんな家やお店があって、道路、路地や信号などの街並みがある。そこでこれまでいろんな出来事が起こっているんです。例えば、家の生垣から犬がひょっこり現れて驚いたとか、ここに小猫が捨てられていたとか。あと春先、公園の石垣に排水のための丸い穴が開いていて、そこから小さな蛇が顔を出してるのを子供が見つけて大騒ぎしたり。秋には落ち葉だまりの色とりどりの葉っぱを投げっこしたり。
 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか、そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです。

 ──その時代、結構散歩して、お子さんと一緒に駒沢で一緒に遊んだんですね。

 そうです、はい。駒沢公園の中央広場から道に降りるところに広い階段がありますね。あそこはうちの娘たちの歩き方の練習場だった。

 「ハイハイ」とか「つかまり立ち」しながらこう、一生懸命階段を登る。

 ──自転車の練習とかも。

 自転車もやりましたね。公園に自転車練習場、チリリン広場があって子供用をレンタルして練習しました。中央広場では凧揚げもしましたね。強風のあまり洋凧を一瞬で落としてダメにしたり。そんなふうに、駒沢の風景の中に色々な思い出が溶け込んでいるんです。

もう一回そういう目で人生を見てみたいなと思う

 駒沢はもう30年以上です。自分自身、もともとそんなにいろいろと居場所を変える…タイプじゃない。いまの職場の大学だって入学から数えると50年近くになりますからね(笑)。そういう意味では、あまり移り気がないのかもしれない。

 ──なるほど。

 そこにいたら、そこの環境をすべて受け入れて、なんとなく合わせてしまうタイプなのかもしれないですね。

 ──けっこう腑に落ちた感じがありました。「宿命だと思った」ところもけっこう繋がりが。

 はい。「宿命」「運命」みたいなこと、この歳になると色々考えますね。本当に。
 あと「記憶」かな。
 幼稚園に入る前、両親に連れられて二子玉川園…ってわかります? 遊園地があったんですが、そこに栃木から連れてきてもらったことがあるんです。そのとき、渋谷から二子玉川園(現在の二子玉川)駅まで路面電車の玉電に乗って、必ずここ(駒沢)を通っていたはずなんです。残念ながら乗ってたことはぜんぜん覚えていないんですが、あのとき、子供の自分の目にどういう風に駒沢の景色が映っていたんだろう。ここ通ったはずだから、なにか感じたものなかったのか? そういうことをちょっと考えたりします。

 ──きっとなにか思ってるはずですよね。

 遊園地に関しては鮮明な記憶が残ってるんです。漫画祭りみたいな催し物で、昔の漫画アニメのキャラクターを人形にして、アニメの一場面を切り取ってコーナーごとに立体的に見せたり、各番組コーナーのスタンプラリーなんかをやってたんですよね。

 ──その記憶はしっかりと。人生の最初の方の記憶ですよね。

 うん、60年以上前の記憶。それはあります。でも玉電ではどんなだったんだかなぁ。
 もう一回そういう目で人生を見てみたいなと思う。もし人生の終わりのとき、「次はどうする?」って問われたら、2つ選択肢があるとする。「新しい人生やり直す」っていうのと、「自分の人生を振り返る」っていうの。で、私は前の人生振り返る方を選ぶと思う。それぞれの時代の自分の姿を、人生を終えた自分の目でもう一度見てみたいなって。

 ──なるほど、俯瞰してというか。

 守護霊じゃないですけどね(笑)。
 家内のお母さんの実家は私の実家と同じ街だったんで、駒沢から遊びに来ていた子供の頃の家内と栃木県人の私が、街のどこかでふとすれ違っていたかもしれない。こんなふうに、最初の人生で気づけなかった自分の運命を発見できるかもしれない。

 ──自分が人生で気づいてないことが見れるかもしれない。

 なんかそういう目で人生を俯瞰したいなと思うときありますね。

 街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
 「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
 
 「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。

 まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。

 メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
 結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。

 話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
 話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
 音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。

 届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
 もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
 最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。

 併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
 本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
 挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。

 ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
 オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。

 私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
 そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。

 ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
 他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。

 私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
 駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。

西村佳哲(2025年7月31日)

駒沢の生活史[46話]

2026年5月1日 発行 初版

発行:駒沢こもれびプロジェクト

「今日の駒沢」
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