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駒沢の生活史[48話]

駒沢こもれびプロジェクト




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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。

駒沢の生活史


第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
    みたいな話があったみたい

第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)

第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
    人生のあと残った時間を費やすっていうのが

第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
    駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)

第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
    そのとき初めて、ものすごい実感した

第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
    みたいな(笑)

第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから

第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)

第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
    そこをちゃんと見極めてたのは偉いと

第10話 どうなんですかね?
     結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです

第11話 まかない食い放題!
     生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの

第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
     じゃあ、○円くださいって言って(笑)

第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
     親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか

第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
     ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない

第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね

第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
     それが「あなたが社長ですから、
     これ、サインしてください」って、突然

第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど

第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね

第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね


第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
     お客さんって、すごいなとずっと思ってた

第21話 朝来た瞬間から、
     自分でやりたいことを自己決定していくっていう

第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの

第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)

第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
     「なんかあんまり」って思ってたけど


第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
     あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ

第26話 仕事してるとき、
     自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)

第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな

第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから

第29話 塾すら近所だからさ、
     全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの


第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
     私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです

第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
     「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか

第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
     プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう

第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
     けど、それ以来ずっとこの界隈で

第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
     駒沢でオープン

第35話 山梨の人は東京に出ると
     中央線沿線に住む人が多いんですけど、
     高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて

第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
     頼れるのは家族みたいなのはあったのかも

第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた

第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
     大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ

第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって

第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
     落ちたけど、コーヒーは飲みます

第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
     声かけられて、そういうのなんか憧れるよね

第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは

第43話 …どっからか来てるのかな。
     常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね

第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
     後ろから人生を逆算してるから

第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
     いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)

第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
     そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです

第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
     あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど

第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
     おっしゃって。「どうしよう」って(笑)

第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)

第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
     ことが尊いともあんまり思ってないんですけど

第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね

第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
     本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
     過ごしています

第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)


















「私、ここにいなきゃいけないような気がする」っておっしゃって。「どうしよう」って(笑)

話し手   50代女性
聞き手 とりのささみこ


 学生時代にすっごいハマった活動があって。

 週に一回、外部から先生を呼んでいい、「教養実習」っていう授業だったんですけど。学生が興味持った人だったら誰呼んでもいいっていう授業があって。毎週毎週、面白い人に会うことができたんですよ。
 例えば、作家で言うと、えー、井上ひさしさんとか。中沢新一さんとか、林真理子さんとか。あと、野村萬斎さんも来てくださって。野村萬斎さんは写真家のアラーキーさんを紹介してくれたんですよ(笑)。面白いように、いろんな人と毎週お会いすることができて。いろんな興味がこう、花開いた時期だったんですね。講演の様子をまとめて冊子にしたりとかもして。で、それが楽しすぎて。卒業したときに、そこの副手になろうって決めまして。

 ──その大学の環境も、自分に合っているなと感じて。

 はい、すごく居心地が良くって。自由な校風っていうんですかね。規制がないというか。のびのびしていたというか、そんな印象の学生時代ですね。
 わりと子供のときも、みんなと一緒じゃない方が好きっていうか……自由っていうか(笑)。「みんなと同じことやんなきゃいけないのかな?」みたいな疑問は抱くほうで。
 うちの母は、先生の言う通りにしてほしいタイプだったんですけど。母の妹の叔母たちが、私の自由な考えに共感してくれる人たちだったので。
 叔母たちには結構、本当の自分を見せられたんじゃないかな? 母の兄弟が、全部で4人、いるんです。すぐ下の妹が、文化的なことが好きだったので。叔母と一緒に映画見に行ったりとか。美術館行ったりとか、よくしてました。

 ──(大学の)副手という職に就かれてからは、そのゲストを呼ぶ授業を専門にやっていたんですか?

 そうですね。またまた、さらにいろんなゲストとお会いできたので。本当に若い頃にそういう一線で活躍する方々のお話を聞けたっていうのは、心の栄養が豊かだったなと思います。
 かなり幅広い分野のことを、学べたんじゃないかなと。

 あの、西村さんにも言われたんですけど(笑)、「心の興味が全方向に開いてますね」と。「まさに!」と思ったんですよね。普通、ひとって、たとえば映画が好きだったら映画を極めるとか。スポーツが好きだったらスポーツを極めるとかになると思うんですけど、(自分は)気になるものがありすぎてですね(笑)。

すごいいろんなところにひとりで行ってます

 ──じゃあ副手として働かれてたときも、「次はどんな仕事をしよう」っていう興味が湧いたり?

 ありました。就職をしたときから、4年の任期っていうのは決まっていたので。で、次の道をすごい模索しましたね。
 自分が他のひとよりやったことってなんだったんだろう? って思ったときに。すごいお休みが長い仕事。春休みとか夏休みとか冬休みとかがあったので、旅行してたんですね。それで次は旅行業に行こうって決めまして。で、英語ってそこまですごく……流暢に喋れるっていうレベルではなかったので。違う言葉やってみようと思って。「フランス語だ」って、なんとなく思って。フランスのカンヌで、フランス語を少し勉強したあとに。

 ──カンヌで?

 はい。カンヌもすごく楽しくって。行ったらもう、なんでもやりたくなっちゃうわけですよ(笑)。
 ラッキーなことに留学したのがカンヌ映画祭のサポートをしている学校で、映画祭のパスをもらうことができまして。すごいたくさんの映画をそのときに見て、レッドカーペットも歩いて。で、カンヌとモナコがすごく近くて。で、もうこうなったらF1も見ちゃおうって。

 ──F1!?

 F1(笑)。当時、アイルトン・セナっていうすごい有名なドライバーがいて。レーサーっていうのかな? 「レースを見てみたい!」ってなって、あらゆるコネクションを探して。ようやくチケットを入手することができまして。
 行ったんですけど…そのちょっと前のレースでセナが亡くなっちゃったんですよ。そう。で、そこで追悼の画像みたいなのが流れていたっていうのが、すごい記憶にあります。

 ──それはおひとりで?

 ひとりで行きました。

 ──ひとり旅が多かったですか?

 あ、そうなんですよ。めちゃめちゃひとり旅派で。すごいいろんなところにひとりで行ってますね。

 ──初めてひとり旅をしたのは?

 は…どこだったんだろう? フランスとモロッコ。
 モロッコはお友達と2人で行きまして。その後のパリは一人だったんです。
 モロッコを……いま思えばすごい無謀なんですけど、自由旅行しちゃったんですよ、女の子ふたりで。すごい砂漠の中を、地元のバスで移動して。で、当時、ガイドブックが『地球の歩き方』ぐらいしかなくて。それでもモロッコの田舎のことなんて、ぜんぜん載っていないから。いつバスが止まるかわかんないので、2人で、なるべくお手洗いを我慢しないとねっていうことで。なんか、水分を我慢したり(笑)。
 めちゃめちゃ我慢に、我慢のつぐ旅で。で、私たちはサハラ砂漠に行きたかったんですけど、そのバスの着地点からサハラ砂漠までは3時間あるっていうことが着いてからわかって。お友達と、「じゃあ、作戦会議しよう」とお茶してたら、隣の男性2人組が「僕たちは砂漠の近くまで行くから乗せてあげるよ」って言われたんですね。

「ぜんぜん過酷じゃない」って思って

 いまの私だったら、絶対その当時の私を止めてると思うんですけど(笑)。お友達が、「この人たちは身なりがいいから、たぶん大丈夫だから、行きましょう」って。で、私も当時フランス語ができないので、ここで一人で取り残されたらピンチ! ってなって(笑)。
 それで、その方たちにサハラ砂漠の近くまで送っていただいて。

 ──大冒険だ。

 大冒険でした。
 その方たちは……後から思えばすごくいい人で。お家に呼んでくださって、奥様がクスクスっていう地元の料理をつくってくださって。で、外に絨毯が敷いてあって、ご主人はなんかこう上席みたいな絨毯にいるんですけど。私たちも「その絨毯に寝そべっていいよ」みたいなことを言ってたかと思うんですけど。いきなり人のうちに行って寝そべるってことにちょっと馴染みがなかったので(笑)。すごい緊張しながらクスクスを食べて、ミントティーをいただいたんですけど。でも、すっごいそれが美味しかったんです。

 ──すごい経験。そこから、またパリへ行ったんですね?

 そうなんですよ。それはすごい昔から行きたくって。で、パリに行ったら、「ぜんぜん過酷じゃない」って思って。すごい、もう天国だ! と思いまして。いろんな美術館行ったり、いろんなレストラン行ったり。カフェでお茶飲んでいるだけでなんかすごい自由を感じる空気感があって。もう、もう大好きになりましたね。

 ──カンヌでフランス語を勉強したあとは、じゃあ、旅行のお仕事を?

 はい、そうですね。フリーでツアーコンダクターができるっていう組合に登録をさせていただいて。
 いろんな国に行って。1年間の終わりの面談のときに「年間200日海外に行ってます」みたいな言われたときに、「あ、そんなに行ってるんだ~」って。
 ほんとに毎日が目まぐるしすぎて。で、これやっぱり仕事にしてると旅を楽しめないなっていうのをどっかで感じた時代でもあったのかなーと思います。

 ──お仕事自体は?

 すっごい楽しいんですよ。もう毎日、例えるなら竜宮城にいるみたいに。次はここの国、次はこの国、みたいな。ハワイにしばらく行った後に、スイスのトレッキングとか。
 フランス語やっててよかったのは、FIFAのワールドカップ関係の添乗を、フランスでワールドカップがあるときにちょっと行けたりとかしたので。
 あと、コルシカ島も。コルシカ島は、自分にとって、音楽。ポリフォニーっていう音楽にすごい興味があって。地声を出して、こう合唱するみたいな音楽なんですけど、そこの聖地でもあったので、そこでCDを買って帰りました。

 ──でも自分で旅行するのと仕事とでは、ちょっと違うと。

「あ、ここ、私、どこにいるんだっけ?」みたいな(笑)

 そうですね。もちろん、お仕事も楽しくて。いろんな人とのコミュニケーションや関わりも楽しかったんですけど。やっぱり体がこう、どんどんついていかなくなって。
 目覚めると、「あ、ここ、私、どこにいるんだっけ?」みたいな(笑)。そういう目覚め方、あんまり良くないなと思って。
 で、次に、内勤をしようと、思考が変わって。
 ある会社の旅行事業部に入りまして、ハネムーンの専門店に所属しました。

 そこも、めちゃめちゃ楽しくて。自分でコースを考えていいんですよ。当時、私が考えていいなと思ったのは、セーシェル島の旅行で。行ったことはなかったんですけれども、いいゴルフコースが安価で楽しめたり、観光にすごい力を入れている島だったんですね。で、セーシェルの航空会社の方に聞いたら、そこの地元のホテルって全部満室にしなくって。部屋が1個、2個不具合があってもお客様が移動できるような配慮をしてるっていうのを聞いて。「これはもう安心しておすすめできるな」って。
 あと、モルディブに当時すごい引き合いが多くて。ずっと水上コテージだと高いので、半分はビーチヴィラにして、で、半分は水上コテージ。
 そんな旅行を企画して、自分で販売ができるっていうのはすごい幸せだったなーと。

 ──どれぐらい続けてらっしゃったんですか?

 はい、もう続けられるなら果てしなく続けたかったのに……。
 1年後、アメリカで…起こったんですよ。9.11。あと、SARSっていう病気があって。この2つが起こったことによって、旅行に行く人が激変して。そこの事業部が閉まっちゃったんですね。
それである日社長に呼ばれて、「ウエディングやってみない?」って言われて(笑)。
 ハネムーンの母体の会社がウエディング業だったんです。で、ウェディングのセールス&マーケティングを、7年ぐらいかな? やりました。
 でも、やっぱり……その会場はゲストハウスだったので。なんかちょっとこう……もうちょっと違う方がいいのかなって。
 自分の中ではちょっとしっくり来てない部分があって。

 そのあと、ホスピタリティで有名なホテルが東京にオープンして。「受けてみよう」って思って。で、受けて。そこで、しばらく働く形になりました。
 ホスピタリティっていうところに興味があって。ゲストハウスの旅行事業部の上長が、海外の同じ(系列の)ホテルに行ったときに「すごい経験したんだよ」って、もう目をキラキラさせて言うから、「え。どんなことなんですか」って聞いたら。シンガポールだったと思うんですけど。「カップ麺食べようって思い立って『お湯ください!』ってルームサービスのひとに電話したら、すごいんだよ。お湯の他に、どうしてかわかんないんだけど箸とレンゲを持ってきたんだよね」って。すごくないですか? お湯しか言ってない。
 しかも電話で頼んでるから、なんでその人がカップ麺を食べるっていうところに繋げたのかがまったくわかんないんですけど。そういうサービスってなんか素敵だなって思って。

 それで、そのホテルで働きたいと思って。もちろんそのときもすごく入社したいと思っていたホテルで、やりたい仕事だったので。自分の中では「幸せだなー」って感じる瞬間がすごいあったり。お客様との繋がりをすごく大事にするホテルだったので。
 ゲストハウスのときは、結婚式が終わったらその後(新郎新婦に)お会いするっていうことはなかなかなかったんですけど。ホテルっていう業態だったので、記念日にお戻りのお客様がすごく多かった。結婚式後にも携わることができたっていうのはすごい良かったなーと思いました。
 やっぱりそのお客様との繋がりがいまでもいちばんこう……なんだろう? 宝物というか。それはありますね。

お手紙をいただけるようなお仕事だったなって

 旅行もウエディングもすごい繋がってるなと思うんですけど、イベントが終わった後にお手紙をいただけることが多くって。
 「ロンドンではありがとうございました。こうこうこういうことが、いまでも記憶に残ってます」とか。あとウエディングでも、「ホテルで式を挙げることができて幸せです」みたいな。両方ともたまたまなんですけど、そういうお手紙をいただけるようなお仕事だったなって。

 ちょっとまたツアーの話に逆戻りしちゃうんですけど。

 すっごいこう、たくさんのお友達ができたツアーがあって。パイプオルガニストの先生が主催の、パイプオルガンを弾く人と、それを聴く人を集めたツアーがあったんです。普通、旅行会社が手配したら、部屋のタイプを間違えたりとか、お弁当の数を間違えたりとか、時間を測るのを間違えたりしないと思うんですけど、そのとき手配したのが現地のオルガン奏者の方だったんですね(笑)。
 だからもう、なんか本当に(笑)。男性2人組なのにベッドがダブルベッドだったりとか。部屋割りがすごいぐちゃぐちゃだったんですよ。
 着いてからそれが判明するので。私ともう一人のツアーコンダクターの人が、本当に寝る時間がまったく、ほとんどなかったし、フリータイムもほとんどなかった、すごいハードなツアーだったんです。
 で、そのツアーの中で、ちょっとマイペースな方がいらっしゃって。あの、急にいなくなっちゃったりとか。

 ──あら、ちょっと困る。

 そうなんです!(笑)。で、「行きますよ、出発の時間ですよ」って、お声がけするんですけど。「私、ここにいなきゃいけないような気がする」っておっしゃって。「どうしよう」って(笑)。
 そうこうしてて、あまりにもハードなので。その当時の学生さんたちが、協力してくれるようになりまして。
 で、ツアー後半に「今日、○○さんいますよ」「○○さんいますよ!」みたいな。みんなちゃんとお声がけをしてくださるようになって。
 いまは、当時学生だった参加者は、パイプオルガニストになったり、指揮者になっていたり、パイプオルガンの指導者になる方がいたり。それぞれなんですけど、本当にいまも、関係性が続いている。
 そこのツアーはすごく大変だったけど、その後に残してくれたものがすごく大きかったなーと思います。

 ──ホテルは、どれぐらいお勤めだったんですか?

 すごい長かったんですよ。13年ぐらいいて。
 で、その後に。「13年か……」ってなって(笑)。
 ちょっとまた新しい体験をしてみたいなって思いまして。

 当時、勤務先の元同僚のパティシエが、パリの外資系ホテルのレストランで働いていたんですね。2017年に、ザルツブルク音楽祭と、そのホテルとラ・グルヌイエールっていうところを訪ねる旅を自分でつくって、そこに行く、って言ったら。「じゃあ元同僚がいるから、紹介状書いてあげる」って言って、サラサラっと、私の携帯を奪って…お手紙みたいなのを私の携帯に打ち込んでくれて。で、とりあえず予約だけして。行って、メッセージを当日見せたら、サプライズでデザートが、2皿。デザート2皿、ちょっときつかったですけど(笑)。デザート2皿出て、コースの終わりにバックステージツアーをしませんか? って言われて。

その出会いみたいなものが、やっぱり自分が求めてるものなのかな

 で、そのバックステージツアーの最後に、その元同僚の方が待っていて。「なんだこのホテルは! ホスピタリティすごい!」って。それで、「もっとホスピタリティを修得したい」と思って、そういう思考になって。

 どうしてそのレストランに行こうかと思ったかっていうと。たまたま、山本益博さんっていう料理評論家の方がいらっしゃって。その人が、このレストランを講演会の中でお話しされたんですね。で、グルヌイエールが、すっごい行きにくいところにあるのにも関わらず「年に2回ぐらい行きます」とかおっしゃられていて。「これ、絶対なにかあるな」と思って(笑)。
 で、なにに私が惹かれたかっていうと。シェフがメニューを、くしゃくしゃのボール状にして、ポンってテーブルの上に置いてあるんですっていうのを山本益博さんがお話になられていて。
 「え~、そんなぁ!」って(笑)。「そんなとこあるんだ」っていうところがいちばんの興味で。で、それを、見に行こうって。

 ──置かれてました?

 はい。くしゃくしゃってなってて、本当にこう、丸まって、紙が。
 潔いくらいになんにもない小さい村なんですけど。牛が放牧されていたり、庭では養蜂されていたり。その環境だけで、食材にかなりこだわってるんだろうなっていうのをすごく感じさせられて。
 部屋に大きいクーラーボックスみたいのがあって。着いたらそこを開けるとアップルジュースが入っていて。
 で、コース料理食べて、部屋に戻ると、食後酒がなんか置いてあったりして。「これ、究極のホスピタリティだなぁ」みたいな。
 で、すごいびっくりしたんですけど。そこの厨房に日本人が4、5人働いてたんですよ。たまたまなんですけど、厨房を見学していたらその人たちがいて。外国人グループで1枚写真と、日本人グループで1枚写真と、もちろんシェフとも1枚写真をこう撮らせていただいたっていうのがすごく記憶に残っていて。

 で、翌朝にお散歩してたら、その日本人のシェフチームに会うことができて。少しお話も聞いたりして。で、いまでも彼らとは連絡取り合える仲になっていて。
 日本でもそれぞれ皆さん活躍、グルヌイエールから戻って活躍されていて、素晴らしいなって。

──興味を持っていろんなところに行くと、いろんな人と出会える。

 たぶん、その出会いみたいなものが、やっぱり自分が求めてるものなのかなって。

 街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
 「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
 
 「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。

 まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。

 メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
 結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。

 話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
 話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
 音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。

 届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
 もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
 最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。

 併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
 本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
 挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。

 ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
 オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。

 私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
 そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。

 ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
 他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。

 私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
 駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。

西村佳哲(2025年7月31日)

駒沢の生活史[48話]

2026年5月1日 発行 初版

発行:駒沢こもれびプロジェクト

「今日の駒沢」
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