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駒沢の生活史[51話]

駒沢こもれびプロジェクト




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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。

駒沢の生活史


第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
    みたいな話があったみたい

第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)

第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
    人生のあと残った時間を費やすっていうのが

第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
    駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)

第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
    そのとき初めて、ものすごい実感した

第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
    みたいな(笑)

第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから

第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)

第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
    そこをちゃんと見極めてたのは偉いと

第10話 どうなんですかね?
     結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです

第11話 まかない食い放題!
     生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの

第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
     じゃあ、○円くださいって言って(笑)

第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
     親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか

第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
     ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない

第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね

第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
     それが「あなたが社長ですから、
     これ、サインしてください」って、突然

第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど

第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね

第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね


第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
     お客さんって、すごいなとずっと思ってた

第21話 朝来た瞬間から、
     自分でやりたいことを自己決定していくっていう

第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの

第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)

第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
     「なんかあんまり」って思ってたけど


第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
     あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ

第26話 仕事してるとき、
     自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)

第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな

第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから

第29話 塾すら近所だからさ、
     全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの


第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
     私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです

第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
     「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか

第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
     プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう

第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
     けど、それ以来ずっとこの界隈で

第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
     駒沢でオープン

第35話 山梨の人は東京に出ると
     中央線沿線に住む人が多いんですけど、
     高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて

第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
     頼れるのは家族みたいなのはあったのかも

第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた

第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
     大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ

第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって

第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
     落ちたけど、コーヒーは飲みます

第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
     声かけられて、そういうのなんか憧れるよね

第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは

第43話 …どっからか来てるのかな。
     常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね

第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
     後ろから人生を逆算してるから

第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
     いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)

第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
     そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです

第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
     あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど

第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
     おっしゃって。「どうしよう」って(笑)

第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)

第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
     ことが尊いともあんまり思ってないんですけど

第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね

第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
     本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
     過ごしています

第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)


















東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね。

話し手 50代女性
聞き手 佐々木彩子


 東北から出てきて、東京の高校に入った。高校は東京の西の方にあって、緑もいっぱいあったから、そんなに息苦しさもなかったんだけど。電車に乗ると、誰とも目が合わないじゃん。都会に住む人間としてのマナーなんだよね、誰とも目を合わせないっていうのは。あんだけ人がいるのに目が合わないって結構、難しいじゃん。でも都会に生まれ育った人は、当たり前にできるの。なんていうのかな、別に学ばなくても自然にできるんだよね。電車でこう、立ってて。誰とも目が合わない。目が合うと、なんかおかしくなるじゃん。その人と、なにかが始まる感じがするじゃん。

 ──うん。それだけじゃ済まない感じがする。

 合ったら、さりげなくスッと逸らすじゃん。そういうことがまず、できなくて。誰かと目が合っちゃうと、ずっと見ちゃうとか。人の顔、ジロジロ見ちゃう癖があるから、田舎に育ってると。…わかんない。「田舎に育ってると」じゃなくて、私がそうなのかもしれないんだけど。田舎では、視線が交差しすぎて目をどこにやったらいいかわからないっていう経験がなかった。でも都会に行くとそこら中に人がいるから、誰かと目が合っちゃうんだよね。街の中だと、すれ違って終わりなんだけど、電車の中とかだとずっと、10分とか20分、いないといけないからね。仕方ないから、本読んだり漫画読んだり。いまはみんな、スマホ見てるけどね。
 ほんとにいちばん初めに、新宿から中央線、乗ったときに。そんなに混んでる電車じゃなかったんだけど、目が合わないようにするって難しいなって思って。挙動不審だったと思う。こう、キョドキョドしちゃった。でもそれって、やっぱ田舎から来たばっかりだからなんだよね。いまでもわかるもん、電車の中で「この人は東京に来たばっかりだな」とか、わかる。

 私は高校に入ってまず寮に入ったから、しばらく交通機関とか乗らなかったし、週末にちょっと電車とかバス乗るぐらいだったから、高校3年間は自分の住んでいるエリアからほとんど出なかったの。まわりが緑でいっぱいだったから、なんか田舎の延長で、のびのび暮らしてたんだよね。ま、親から離れて生活しなきゃとか、知らない人ばっかりだとか、なんか帰国子女の学校だったからみんな英語ができて私はできないとか、そういうのはあったけど。「都会に来たからイヤだ」っていうのはなかった。東京だけど、東京じゃないようなところにいたから。とにかく敷地がでかい。もうそこらじゅう、森みたいな感じ。

「仕事のできる大人」が住んでる町だなって思ったの

 だけど浪人して、都心の予備校に通い出して。中央線に乗って新宿、代々木まで行くっていうのは本当に大変だったよね。最初は中央線沿線で家を借りて、自然もいっぱいのとこで暮らしてた。でもだんだん、遠くてやだなと思うようになって。それで池袋の近く、東池袋の辺りで暮らすように。まぁコチャコチャと、ちっちゃいアパートとかお家がいっぱいあって、ちょっと治安悪めの場所。なんか、扉を開けると知らない人が立ってて、入ってこようとするとか。

 ──いや、ダメ。ダメダメダメ。

 ちょうどさ、うちに友達が来てたんだけど、扉をバッて開いたら、なんかよくわかんない男の人が立ってて。扉の隙間から、こうやって、入ってこようとしたの。

 ──え!

 私は、びっくりしてボケっとしてたの。「え、なんですかー」みたいな。そしたらその人、「俺、俺だよ俺」「俺のこと覚えてるだろ」みたいな感じで入ってきたの。私は人を疑うってことも、あんまり知らなくて。都会には怖い人がいっぱいいるって聞いてるけど、そういう対応ができない。普通に会話してたの。「会ったことありましたっけ。いつですか?」みたいな感じ。そしたら友達がバッて出てきて、「わけのわかんないこと言わないでください!」って、扉をバンって閉めたの。で、鍵をガチャって閉めて「ダメじゃん、こういう人に対応とか、してちゃ!」って怒られた。それでやっと、やっと、怖いってわかって。

 ──よかった……。

 そういうことが、やっぱりあって。でも、おもしろいなーって思うこともいっぱいあって。あんまり警戒しないで、街をほっつき歩いたりしてたから。池袋だとさ、「シネマロサ」とか古い映画館があったりするじゃん。そういうとこに一人で行って、一晩中映画を観てるとか。いま思い返すと危ないなと思って。映画観ながら、寝ちゃったりとかしてたんで。いろんな人がいるし、まあまあ、治安悪いし。あのときの自分を目の前にしたら「あなた、危ないからちょっと気をつけなさいよ」って説教したくなるような感じだったんだよね。

 でも、学生時代はまだよかった。働き出して……会社もわりと池袋から近かったから、そのまま最初の1年ぐらいは池袋の近くに住んでたんだけど、もうね、働き出したらストレスがすごすぎて、頭がいつもおかしくなってた。すごく天真爛漫に、いま思い返すと好きなように、人にもあまり気を遣わず生きていた私が、いっぱい失敗して怒られたりとか、そういうこともあって。
 当時はファッション系の雑誌の編集をやっていて、こっちの方にちょくちょく来ることがあった。代官山とか表参道とか青山がメインなんだけど、ときどき駒沢で洋服の展示会をやってたりとか、プレスルーム置いてたりするところがあって。ファッション誌の下っ端の、「プレスルームに洋服を返しに行く」っていう仕事で駒沢に降り立って、地図を見ながら「あ、公園の近くだな」と思ったりして。

 で、思い出したんだよ、そこで。「あたし駒沢、来たことあるな」って。高校のときに仲よかった子が、駒沢に住んでた。バンドみたいなことをやってて、その子んちで練習するみたいなこともあったんだよね。印象は、すごい良かった。田舎から出てきたばっかりの自分が感じた、「都会の人が住みそうな住宅地」。しかも、なんていうのかな……「仕事のできる大人」が住んでる町だなって思ったの。

ほんとに学校の帰り、毎日行った

 なんで親が地方にいて、そのままそこの高校に行っていいのに、東京に出てきたかっていうと。その場所が、すごく息苦しいと思ってた。ちょっとなにかやると、すぐ目立っちゃう。そんなにピョーンって跳ねたつもりもないのに、「すごい跳んでる!」「空中で浮いてる!」みたいに言われる場所なの。で、うちの親も元々そこじゃないから、「ここはずっといる場所じゃない」って言われ続ける。

 私は赤ん坊の頃、ほんとに生まれ落ちたときからずっとそこにいるから。そこしか知らないからね、だから「こういうもんでしょう」とは思ってた。でもやっぱり「本当はもっといろんな場所があるんだろうな」。で、「東京にあるサーティーワンというところで、アイスを食べたい」。なかったんだよ、サーティワンとか。あと、セブンイレブンもなかったし、マクドナルドもなかったんだよ。だから「セブンイレブンって、ほんとに7時から11時まで?」とか「少女マンガを読むと、みんな『M』って書いてある紙にくるまれたものを食べて、放課後、しゃべったりしてる。うらやましい〜!」とか思って。唯一あったのが、ミスタードーナツだったんだよね。ミスタードーナツでバイトしようって決めてた、高校入ったら。あと、好きなバンドが、ぜんぜん来ない。一回だけ、私が中2のときに来たとき、感動して。「こういうのがいっぱい見られる街に行きたい!」とか。

 もう、そういうことだよね。いま思い返すと、とても素敵な場所だったんだけど。すごい山とか雪とか、あと川とかね。この世のものと思えないような、素敵な場所がいっぱいあるんだけど。当時は退屈で仕方なかった。だってさ、一応、雑誌とか読むからさ。洋服とか色々、チェックするじゃない? 洋服も買えないし。ファッションビルがないのね。とにかく洋服、買いに行きたい。だけど、ない。洋服屋が。

 で、やっとファッションビルができたの、駅前にね。私はパルコに、すごい、憧れてたから。「パルコに行きたいよーッ」ってずっと思ってた。そしたらファッションビルができて。「なんでパルコじゃないんだろう」と思いながら、でもファッションビルがやっときた! って拍手喝采して、ほんとに学校の帰り、毎日行った。とにかく学校終わったら、本当は寄り道しちゃいけないんだけど制服のまんま行ってさ、パトロールする。なにも買わないんだよ? もう1階から7階まで、パトロール。「新しい店できたな」とか「あそこで飾ってある服、かわいい」とかチェックして。買えるものはせいぜいさ、文房具みたいなのとか、ちっちゃいバッグとかさ。1階に私がかわいいなと思ってるお店があったから、そこを毎日見て、なにか買えるものがあったら買う。そういうことをして中学生活を送ってた。とにかくね、ストレスはもう、煮詰まってた。「うおおおお!」「もうなにもなーい!」みたいな。

 滅多に洋服買ってもらえないんだけど、1年に2回ぐらい買ってもらえる。「これでいいの?」とか言われながら。うちの親も結構さ、うるさいから。「こんな服着たら、不良みたいに見えてダメよ」みたいなこと言うの。私は、学校でいい子ってことになってるから。優等生だからさ。そのイメージが嫌だった。薄々、わかってんの。「私が東京とか仙台に行ったら、別に大したことない普通の人間なんだ」「でも、こんなド田舎にいるせいで優等生扱い」「本当の私、これじゃない」みたいな。それで、ちょっと悪そうな服とか、選ぶんだよ。そうすると親が「こんなのは違う」とか言う。「違わない。これが私なんだ!」。
 土日に友達と、どっか出かけたりするじゃん。映画、観に行ったりさ。なんかちょっとお出かけしたりするときに…私はパトロールしてるから。わかる。「あの服はどこどこで2,980円だ」とか「あの服は、あそこで売ってるやつだな」とか、全部わかるのよ。

 ──知り尽くしてる(笑)。

 みんなは知り尽くしてないんだけど、みんな知り尽くしてるに違いないって私は思ってるから。バレたら嫌だ! だからその店に1枚しかない服、「当店ではこれ1枚しか入ってこなかったんです」ってお店の人が言うやつを選ぶのよ。「え、こんなけったいな服を。どうやって着るんですか?」とか親に言われても、「いいのよ、これで!」って押し切って着る。それで、徐々に自分の趣味がとんがっていっちゃったんだけど。
 よくある男ウケ系みたいな、ガボガボのカーディガンにリボンとかついてて、いまでいう「萌え袖」みたいなやつとかさ、そういうの、ほんとに毛嫌いしてて。で、仲良しの女の子たちは、いつもこうやって(髪をハープアップにして)リボンつけたりとかして、すごいかわいかったんだよね。一方で、悪い女の子たちっていうか、ヤンキー、本当のヤンキーの子たちも学校にいて。でも私は普段学校にいるあいだ優等生だから、頭におリボンつけてるかわいい子たちと一緒にいる方だったの。その「頭におリボン系」は、お勉強もがんばってるから。でも出かけるときになると、私だけすごい変な服、着てる。特別扱いされることへの、反抗。

自分がなんでもかんでも優等生じゃないのは初めてだった

 あと、みんながすべてを知ってるの。うわさ話ばっかりしてるから。「あそこんちのお姉ちゃんはね、本当はアレなんだよ」「あそこんちのね、お父さんとお母さん、もうすぐ離婚するよ」とか。そういうのが嫌で仕方がなかったから、なんていうのかな、「どこの服」とかも、知られるのがほんと嫌だった。誰も知らないもので固めたい。一生懸命、自分を塗り固める。ちょっとずつ、こう、歪んでいくよね。真っ直ぐにならない。それで、とにかく外に行きたい。

 で、ほんとにたまたまだけど、中1のときに1年間、アメリカに行ったのね。父親の仕事に、私と母親でついてったの。うちの母親もまた、本当は働きたかったのに私が生まれたせいで働けなかった、みたいな心残りのある人で。「本当は東京の大学に行って、丸の内で働いて、エルメスのスカーフ巻いて…」。英語が得意だったから、なんか英語を活かした丸の内OLみたいな、漠然としたイメージがあったんだよね。自分がなれなかったから、私に英語を仕込んでそういう人にしようと…うちの母がすごい考えてるの、ほんとに感じてた。ずっと。それでアメリカに行くってなったら、「よし!」「チャンス!」「英語を仕込むチャンスだわ!」「現地校に行って、友達つくってこい」。

 ──ハードやな。

 ハードだよ。英語、ぜんぜんわかんなかったもん、中1の頃なんて。ほんとに「ハロー」「ワッツユアネーム」ぐらいしか言えなかった。その状態でアメリカ行ってさ、みんな「わー」とかしゃべってて、教科書見ても、なに書いてんのかぜんぜんわかんないし。ずっとさ、黙って座ってるだけなんだよ。なんか言われると、ニコってして。それだけ。もうほんとつらいんだけど毎朝追い出されるし、しょうがないからスクールバス乗って、学校行って。

 でも毎日行ってるうちに、それなりに、ちょっとだけしゃべれるようになったり。あとね、アメリカの公立の学校って、中1で「台形の面積の求め方」とかやってたのね。小学校4年ぐらいでやったような算数を。だから数学の時間になると私は「神」と呼ばれて、黒板に数字をどんどん書いてくと「ワーーー!」「すごいすごい!」みたいになって。あとね、みんなスクールバスに乗って歩かないし、家に帰るとゴロゴロ寝転がってMTVばっかり見てお菓子食べたりしてるから、そんなに運動ができない。だから私も、別に体育が得意だったわけでもない、むしろ苦手だったんだけど、体育の授業では「神」って言われてた。バスケットとか、こうシュート入れたりすると「ワーオ!」とか言うの。みんな、いい人たちなの。それなりに楽しくしてたし、ちょっとだけ英語もしゃべれるようになった。自分がなんでもかんでも優等生じゃないのは初めてだったから、それも楽しかったし。

 で、土曜日に日本人学校行って、アメリカの数学がそんな状態だからさ、1週間に一回、勉強のキャッチアップをする。80年代後半、86、87年っていうのはやっぱり円高だったし、バンバン、日本車がアメリカで売られ始めた頃で。「関税かけないと日本にやられるぞ」みたいに、アメリカがだんだん日本を脅威に感じてた時期。バブルのちょっと前ぐらいで。

 ──いちばん、勢いのあったとき。

 そう、いちばん日本がブイブイいってたときで。それで、そのエリアにいる日本人がバーッて集められて週に一回だけ、日本語「わー」ってしゃべって。日本語しゃべれて嬉しい! みたいな。みんなさ、飢えてるんだよ日本に。で、「日本のドラマ、いまこうなってる」「えー知らない!」「そうなんだ!」とか。ちょうど、トレンディードラマが始まったぐらい。あと、『りぼん』とか『なかよし』を持ってきて「わ、すごい」「『お父さんは心配性』最高だね!」みたいなこと言いながら、みんなで読む。そこで、「マンガすごいな」と思った。あの当時はアメリカ人、そんなにマンガ知らないし。日本人だけが、閉ざされた日本人コミュニティで回し読みしてるだけ。日本人向けの食品売ってる店がポツポツあって、そこに1ヶ月遅れでマンガとか来るんだよね。それを、私は買ってもらえないから……週に一回、日本人学校行って「読ませてくれーーー」って言って「わー」って読んで返す、みたいな。そういうのをやって、自分の飢餓感を満たす。日本語しゃべるっていうのと、マンガ読むっていうの。

 あとは、作文。「日本語を忘れないように作文を書く」みたいなのが毎週あって、作文、書いてたのね。そしたらそのときの先生が、すごく褒めてくれた。私の文章を。あんまり覚えてないんだけど、なにかについて……みんな同じテーマで書いたんだけど、先生が「これがすごい、おもしろかったから読んで」みたいな感じで私のを配ってくれて。みんなが「おもしろい」って言ってくれて。で、先生がなぜかそのとき、ヘミングウェイの『老人と海』をくれたの。読んだけどなにも共感できない(笑)。後でアメリカ文学を学ぶことにはなるんだけど…私に、これを読ませてなにを感じさせようと…? わかんないけど。

 ──先生の方に、感じるところがあったんだね。

 「あげるよ」って言われて、「ありがとうございます」って、もらったけど。

そこで初めてだよね、父親が父親らしくいろいろ教えてくれたの

 それで、日本に帰るときには、ちょっと、その前の自分と変わってたんだよね。もうなにもできない、言葉すらもうまくしゃべれない、いちばん下っ端。で、週に一回、日本人と会ったときには……やっぱり地元の友達と違う。東京出身で企業戦士みたいな、商社とか、一流メーカーの子供たちが集められてるの。私みたいな田舎の子がいないの。みんな東京とか大阪の子。会話もスピーディーなんだよね。「みんなしゃべんの、速い。どうしよう、私アメリカ人の学校でもついていけないけど、日本人の学校でも会話についていけない」とか。でも文章書いたら、先生がすごいって言ってくれた。みんな読んで、おもしろいって言ってくれた。それで、なにか自信を得た。「自分はこれががんばれるんだな」っていうのが、そこで見えた。「自分ってこういう人間なんだ」っていうのを学んだ状態。あと、環境が変わると、立場っていうかさ……ぜんぜん違うなーっていうこと? あとはやっぱりアメリカ人、いろんな人いるから。変な人いっぱいいたし。日本だとないようなことが、いっぱい起きたから。「やっぱ、世界は広い」って思って。

 小学校の卒業アルバムに「新聞記者になるのが夢」とか書いてたんだけど、本気で思うようになった。ここで英語ちょっと勉強したし、日本語もこれからちゃんと勉強して、社会のこともちゃんと勉強して。ニュースとか……ほんとはニュース見るの、嫌いだったんだけど。怖いから。事故とか殺人とか、あと政治家が国会で答弁してんのとか見るだけで「怖い」ってなって、ニュース大嫌いだったんだけど、いや、そんなこと言ってられないわと思って。言葉を勉強するっていうのと、ニュースを怖がらずに見て新聞を読むっていうのを、やろうと思って。そういうふうに思って、帰ってきたの。

 で、帰ったらやっぱり相変わらず。今度は「英語しゃべれるんでしょ」ってなって、英語の授業受けるとさ、先生がいつも挑んでくるんだよ。「お前どうせ、この言葉知らないだろ」って、単語を出してくる。「お前、マチュアって言葉知ってるか」「マチュアって大人っぽいって意味ですよね」とか言うと、みんなが「おお〜」とか言う……なんかやっぱり、特別扱いっていうか、浮いちゃう。
 でも県立高校はたぶん受けても受かんないな、と思ってもいて。なんていうのかな、理科とか社会が苦手だったから。国語と英語しかできないから。特別扱いされてるのに県立高校に行かなかったら、みんなびっくりするし、自分も傷つくなと思ってたの。でね、中3の夏の学力テストも案の定そんなだったんだよね。

 そのときにちょうど、日本人学校で仲良くしてた子が「もうすぐ日本帰るんだ」とか話してて。「高校はどこ行くの?」みたいな話になって……そこで初めて、その学校を知って。なんか「帰国子女がいっぱいいて」「森の中みたいな、広々とした、緑がいっぱいある学校で」「制服も一応あるけど、なに着てってもよくて、もうなんか自由」「ほんとに楽しい学校なんだよ」みたいなことを聞いて、そこに行こうって思ったの。
 「寮もあります」って。ちょっと学費が高いけど寮は安いの。それで食事とかもつくの。でも部屋は4人部屋でね、2段ベッド2つでギュウギュウなの。なんだろう、少年院みたいな感じで。

 ──なんだろう、たとえるなら……『クララ白書』!

 そうそう、あのね、そうなのよ! 私ね、アメリカにいる間、うん、日本語に飢えてる時間、なにを読んでたかって、氷室冴子、読んでたの。で、やっぱ『クララ白書』読んで「女子寮、楽しそう〜!」ってなったの。「女子寮で、私もこういう友達を見つけるんだ!」「私も、レオタードでドーナツ揚げるんだ!」って。友達がみんなそこに行く、「じゃあ私も受けたい」ってなって。親にも「寮がありますので、住居の心配はございません」って言って。うちの親はさ、ま、いろいろ調べるのが好きな人だから。調べて「いい学校じゃない」「じゃあもう、行くんだね、そこに」って。でも入試がさ、ちょっと変な入試だから。とんちが効いたやつっていうか。

 ──向いていそうだけど。

 英語がめちゃめちゃ大変。すごい量の英語を一気に読んで答えないといけない。でもそれは一応、中1のときに無理やり教科書読んだりとかしてたから、大丈夫。国語も、やっぱりいっぱい読んで、いっぱい書かなきゃいけない。でも、それは正直、自信があった。それはもういくらでも来いと思ったから、その、とんちが効いた数学だけ、どうにかしなきゃいけない。パズルみたいなやつをね。で、過去問を取り寄せて一生懸命解いて、どうしたらいいのかなってなりながら、でもたぶん、こういう問題解くにしても計算は早い方がいいよねって、初めてちゃんと計算の練習、するようになって。国語も、漢字間違えてたら減点されるよねと思って、一生懸命やるようになって。その辺りから、私、絶対そこに入るって思ったから休み時間もずっと勉強してて、あんまり友達としゃべんなくなっちゃって。受験まではほんとに、馬鹿みたいに勉強して。

 『高校への数学』、あと『Z会』とか、そういう、とんち系の数学を一生懸命。わかんなくなると父親に聞いて。そこで初めてだよね、父親が父親らしくいろいろ教えてくれたのって。一生懸命、自分なりに準備。塾とか、ないから。私、もしそこに落ちたら地元の高校、受けんのかな、それで落ちたら? とか、すごい考えたりして。高校浪人とか、すんのかな? ってドキドキしてたんだけど。でも、受かっちゃったから。「うおお!」「受かっちまった!」って。

周遊すんだよ。歩くんだよね、若者は

 で、東京出てきたら、まぁそうやって「目線が合わない」とか、いろいろあったけど……でも、やっぱ東京、最高! 集まってる人たちもさ、変な人がいっぱいいて。やっぱり、いろんな国の帰国子女、集まってきてるから。アメリカ、ヨーロッパが多かったかな、でも中国とか南米とかもいて。みんなそれぞれのバックグラウンドがあって好き勝手にしてる感じとか、すごく好きで。寮とかも、すごい楽しくて。『クララ白書』ぐらいに、いろいろあって。

 ──いいなぁ〜。夢だ。夢だよ。

 うん、ほんとに、変なこといっぱいあって、楽しかったんだよね。私もさ、「普通に楽しくしよう、ここでは」と思って。勉強はもういいわ。友達とか、いっぱいつくってさ。部活もがんばってさ。あと、好きな人つくって……なんかそういうのを人並みにね、うん。高校時代、楽しく暮らしたわけです。その中で、バンドの友達が駒沢の子だったから、駒沢に来たっていうのと。あと、「東京って意外とでっかい公園多いな」っていうのを、徐々に知って。まずいちばん初めに知ったのは、井の頭公園だよね。

 学校は、敷地の中に大学があって、高校があって、高校の後ろに寮があって。寮と学校が、歩いて1分ぐらいなの。寝坊しても遅刻しない。もう、傘もいらない。渡り廊下で、学校行けるわけ。でもやっぱりね、4人部屋で、ずっと学校の人と顔付き合わせて。こう、カーテンばーって開くと、目の前、学校だし。それはそれで息苦しくなるんだよね。で、やっぱり彼氏とかできると「ちょっとお出かけ」って井の頭公園、行って。井の頭公園をぐるぐる回って、ずっとしゃべる。で、アイス食べて、ぐるぐる回る。

 ──ぐるぐる(笑)。

 周遊すんだよ。歩くんだよね、若者は。若者はね、歩き続けるんですよ。それで、井の頭公園が大好きになって。ほんと、井の頭公園をめちゃめちゃ歩いたよね。それで「公園って、やっぱいいな」「田舎みたいな緑はないけど、東京にはいっぱいおっきい公園があるな」。

 で、友達が駒沢だったから、駒沢、行って。「ここには駒沢公園というのがあるらしい」。友達んちの方向と逆だから、当時は行かなかったけど。

 いつか絶対、行くって決めてた場所だったの。

 街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
 「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
 
 「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。

 まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。

 メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
 結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。

 話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
 話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
 音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。

 届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
 もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
 最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。

 併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
 本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
 挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。

 ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
 オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。

 私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
 そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。

 ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
 他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。

 私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
 駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。

西村佳哲(2025年7月31日)

駒沢の生活史[51話]

2026年5月1日 発行 初版

発行:駒沢こもれびプロジェクト

「今日の駒沢」
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