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凛コの部屋に甘くて香ばしい匂いが広がっていく。
テーブルに置かれたバターと苺ジャム。
バターは凛コが好きで、苺ジャムは夏ジのここ最近のお気に入りだ。
テーブルには小皿と珈琲。
昼間にふたりで買ってきた食パンをトースターで焼いていた夏ジが、その食パンの表面にきつね色の焼き目がついたことを確認すると、「できたでえ」と凛コに声を掛けた。
焼きたてのパンはふんわりとしていて、それにかぶりつくとその瞬間にしか味わえない特別な甘さのようなものを感じるものだ。
肘をテーブルにのせて、「うん、ありがとう」と凛コが笑顔を夏ジに向けた。
珈琲を飲みながら、焼きたてのパンを頬張るふたり。
ふたりが今飲む珈琲はカフェインレスだ。
カフェインレスは珈琲の風味を楽しめて、よい睡眠を保つことにおいてもとても効果的だ。
体によいことも多いからといった理由だけではなく、それは凛コが大好きで憧れている女性がいて、そのすてきな女性からの影響である。
夏ジも凛コと同じようにその女性のことが大好きだ。
影響を受けたそんな凛コから夏ジも影響を受け、夏ジも今はノンカフェインのものであったり、ミルク多めのカフェオレばかりを飲んでいる。
あっという間に珈琲を飲み干し、パンを平らげるふたり。
ふたりに幸せそうな笑顔が溢れる。
「よっしゃ。腹ごしらえもすんだし、ほな、いこかあ」
夏ジがそう言うと、凛コは「うん」と、笑顔を見せた。
ふたりで一緒に、これからドライブなのだ。
「凛コさんよー。もうちょっとだけ、速度落としたらどうかなあ」
「大丈夫やよ。ちゃんと安全運転してるでえ」
「そやかて、気をつけてや。まぁ、凛コさんが運転が上手なんはわかってるけども」
「そやろぉ」
凛コがさらにアクセルをほんの少しだけ踏み込む。
右脚に不自由さを持つ夏ジも車の運転はできるが、ドライブをするときはいつも凛コがハンドルを握ることが多い。
凛コのその運転はとても安全だ。
ほんとうのところ、夏ジは助手席にいて不安に思うことなどいつもない。
二人の車が夕刻の山道を進む。
少しずつ道は細くなって、緑が深くなっていくと、その緑に夕焼けの光が重なっていく。
オレンジとグリーンの鮮やかな色合いが車の窓ガラスの向こう側に見えて、夏ジはなにかとても優しい気持ちになった。
凛コは細い道に緊張し、前だけを見て集中し始める。
「凛コさん、前ばっかり見すぎやあ。目が必死やないかあ」
「ごめん、ごめん」
凛コが思わず笑い、心に余裕が出てくると木々の隙間に太陽の光が漏れている、そんな優しい光景が車窓から見えてくる。
山道ではあるが、結構な数の車がほかにも通っているので、帰り道も賑やかで決して寂しい夜道にはならないことにも、凛コは気がついた。
凛コは少しばかり怖がりなのだ。
あの頃、初めてこの山道をひとりで車で走れたのは、きっと気持ちが高ぶっていたからだろう。
日が暮れていく。
この山道の先には夜景が綺麗な場所がある。凛コだけが知る、その場所は特別な場所だ。
「ほんまに綺麗な夜景やねんで」
「へー」
「へーって、毎回毎回。だから、おならですか」
ふたりの笑い声が車内を響き渡る。
急カーブに差し掛かる前に、凛コが予測して早めに速度を落としていく。
車間距離をとりながら、前を走る車にも注意を払いながら凛コがアクセルを上手にコントロールしてリズムよく走ると、そのリズムの繰り返しがどうにも気持ちがよくて、夏ジは段々と居眠りをしそうになった。
安心してくれているのかと思うと、凛コはそんな助手席にいる夏ジにわるい気はしない。むしろ、凛コはとても嬉しかった。
夏ジが助手席の窓ガラスを下げると、山の木々の澄み切った香りが車内に入ってくる。
目が冴えてきた夏ジが「なんかええ感じやな」と言う。
「うん。そやね」
「凛コさん。さっきの話の続きやねんけど、なんでその場所が好きなん?」
「えっとね。学生の頃に心がぐちゃぐちゃになったことがあったんよね」
「ぐちゃぐちゃ?」
「むにょむにょかなぁ」
「むにょむにょってなんや?」
夏ジの苦笑いに、「ちゃんと笑うところやで」と、凛コの頬が膨れる。
「昔々なんやけど、人に酷いことを言われてさ。そやのに言い返したり、それができんくなったことがあったんよ。ほんでね。いつの間にか自分の世界がようわからんようになってしもて、体を壊してん」
「ほー」
「ほーって、ほーほけきょ? 鶯やん。春やねえ」
「鳥のさえずりやないんや。だから、茶化すなて。鶯って冬はちゃっちゃって鳴くって、凛コさん知ってた?」
「え、ほんまに? 知らんかった」
「なんやわからへんけど、話がそれてきてるなあ」
茶化しているのは夏ジのほうだ。それは真剣に聞きすぎると、凛コが考えこんでしまうことを夏ジは知っているからだ。
夏ジが大きく笑って、凛コも笑う。
ふたりだけの車内の空間も一緒に大笑いをしているかのよう。
凛コが話を続ける。
「自分が嫌になってな。もう限界やってそんなふうになってね。親の車を借りて、目的地なんて決めずにさ。車で街なかをひとりで走っていたら、いつの間にか山道を走っててね。気がついたらすごく綺麗な夜景が見えるその場所にいたの」
夏ジが淡々と凛コの話を聞いている。
「その場所には誰もいなくって、わたしだけやってん。目の前には夜の世界に浮かぶ光の点が無数にあってさ。それがまるで星の光とシンクロしててね。それから、なんやわからへんねんけど、自分に泣けてきてね」
凛コがその頃を回想するような目で、前を見て運転している。その横顔を見つめる夏ジ。
「心がすごく癒されたんかな。でも、結局一度きりしか行ってないねんけどね」
「なんでなん?」
「その夜景は今も大好きな場所やねん。けど、あの日にいっぱい泣いたことを思い出すからかな。ほんまに好きやねんけど、それからよう行けへんくて」
「ほんなら、なんで今日行くんや?」
「それはね。その思い出の記憶の場所を新しいものにしたかったからやねん」
凛コが一瞬だけ夏ジの顔を見てから、また前を見る。
「ほんでさ。なんかその夜景がね。夏ジさんと。あ、着いた」
山道の駐車スペースと思わしき場所に、凛コは手際よく車を停める。サイドブレーキを引き、エンジンを切った。
すっかり夜になってしまった。
「ほらほら、着いたでえ」
慌てるように急かすようにしてドアを開け、夏ジよりも先に凛コが車を降りる。
外気は夜の山の木々の深い香りで溢れていた。
夏ジが凛コの後を追う。
数分歩いた先に、とても静かな夜に溶け込み、心のなかに染み入るような夜景が見えてくる。
今夜もほかに人は誰もいなくて、昨夜の雨のせいか、夜霧が霞(かす)みながら宙に浮かぶなかで見えるその夜景は、より綺麗で幻想的だ。
「ほんまやなあ。なんか癒やされるなあ」
「うん」
凛コがとても幸せそうな笑顔を見せるが、同時になにかを回想していた。それはあの頃の胸が痛くなる思い出したくない日々のこと。
「そうや。ここやねん。この場所や、夏ジさん。なんか色々思い出してしまうよ」
凛コが夏ジのほうを見て、彼の顔を確かめるようにしながら見つめる。
「けど、大事なんは今こうして夏ジさんと一緒にいてる今やもんね」
夜の闇に見える、無数の小さな光の点。米粒のような小さな光だが、その輝きはとてもなにか眩しくて、強くて、優しい。
無数の小さな光の煌めき。
ふたりに流れ星が見えた。
凛コと夏ジの首もとにある、細いチェーンで通してネックレスになった指環が、夜景のこの無数の光たちに共鳴するかのようにして輝きながら夜風に揺れる。
「ここの夜景の光。なんか凛コさんと初めて出逢ったあの春の日の川の煌めきと似てるなあ」
夏ジは思い出す。
初めて凛コと出逢った春のあの日のことを。
光が川の水面に反射すると、少しずつ形を変えては、緑が新しい表情を見せて歓んでいたあの風景を。
夏ジは今も春や夏の季節のよい日には凛コとふたりであの川原で小さなキャンプをしたり、ふたりで一緒に小麦色に日焼けをしたりすることもある。
けれども、出逢った日のあの川の輝きと眩しさは一度きりのものだ。
あの日から、夏ジの不器用な右脚の歩幅に凛コは合わせるようになった。そんな健気な凛コの歩幅に夏ジはいつも感謝している。
あの春の日に凛コが哀しくて投げ捨てた婚約指輪。
その指輪が夏ジの指環と繋がり、凛コの輪は環となり、凛コと夏ジを結びつけた。
人生にはいろんなことがあるけれど、きっとすべてには意味があって。
だから、諦めてはいけない。
いつの日もふたりの首元の指環には、空からの無数の光の粒子が降り注ぐ。
そして反射して光るたびに、ふたりの心を明るくさせ、軽くさせていく。
「凛コさんよ」
「うん? なに?」
夏ジが優しい瞳で凛コを見つめる。
「泣いた思い出も大事にとっときや。一つでももし欠けてたらやな。こうして僕は凛コと巡り逢えてへん」
凛コが夏ジを見つめ返しながら「前もそんなこと言うてたなあ」と微笑む。
「何度言うたってええやん。それから、過去のそのときの凛コさんが今の凛コさんを見たらやな。ええ女になったなあって、きっと言うよ」
「それもまえに聞いたわあ」
凛コの目にしょっぱい水滴が滲んでくると、不意に目尻から零れ落ちた。
「あのね。この夜景ね。なんか誰かと似てると思わへん?」
「似てるって誰のことや?」
「この夜景の光の一つ一つはとっても繊細なんやけど、それがこんなにも集まるとね。ものすごいでっかいやろう。なんかさ。飛び込んでいけそうな感じ」
「あかんで、飛び込んだらぁ」
「わかってらぁ」
「いつもの凛コさんの口癖やけども、そのわかってらぁって、なんや?」
夜の静寂のなかに、二人の大きな笑い声が響き渡る。
この夜景のように、凛コのことをいつも受け止める存在になってやろうと、遠くに見える夜景の光の小さな輝きたちに夏ジは誓う。
「ほな、もう少しだけこの美しい夜景を見て、今を楽しもかいなあ」
そう言った夏ジの顔がまるで鏡に映るようにして凛コの笑顔になる。
「ところでやな、この夜景と似てるって誰のことなん? その人の名前を聞きたいんやけども」
「忘れてしもたわあ」
「そう言わんと、言うてみい」
夜風が楽しそうな凛コと夏ジにさりげなく、そっと優しく吹く。
すると、ふたりの首元のお揃いの指環が愛し合うふたりの心に寄り添うようにして、夜風と同じようにさりげなく、そっと優しく揺れた。
2026年3月14日 発行 初版
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巡り会えたあなたに、
幸せが訪れますように…。