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 本書は、海外営業として走り続けてきた著者が、結婚と出産、そして自然豊かな京田辺への移住をきっかけに、「循環する生き方」へと目覚めていく物語です。
 地球温暖化への危機感から、生ごみを燃やさず土に還すコンポストを暮らしに取り入れ、小さな実践を積み重ねていき、その取り組みは仲間との畑づくりへと発展。やがて「em farm」として地域に根づいていきます。コーヒーショップ、学生団体、保育園との連携や、ご近所の変化など、循環の輪は人と人を結びながら、波紋のように社会へとつながる。著者は安定した会社を退職する決断も含め、心の声に正直に生きる勇気を描いています。特別な資格や大きな力がなくても、小さな一歩を続けることで未来は変えられる。一つひとつの選択が、社会と地球の未来をつくることを静かに、そして力強く問いかける一冊です。

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わたしにできることは
 何だろう

千崎朋子

千崎朋子



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    目 次


第一章  機内で書いた、未来へのメモ

第二章  人生が動き出した夜
        予期せぬ出会い/命がつなぐ未来

第三章  自然との再会と「あさんぽ」

第四章  朝露の向こうに見えた地球の悲鳴

第五章  小さな一歩

第六章  挑戦と支え 
        〜土がひらき、人がひらいていく〜

第七章  地域社会への広がり 
        〜暮らしの循環が、社会をひらく〜
     
コンポストの広がり 
  その① コーヒーかすの循環
  その② 学生とのコラボレーション
  その③ 保育園での循環畑
  その④ お料理教室での活用
  その⑤ 社会起業塾での講演
  その⑥ ご近所さんの変化
  その⑦ 耕作放棄地の管理
  その⑧ 循環からつながりへ


第八章  未来への提案
        〜 循環する生き方へ〜


はじめに

京田辺・家族写真


 振り返れば、私は長いあいだ、止まることを知らずに走り続けていました。海外営業として数字と効率を追い、日々をこなすことが人生のすべてだと思っていたのです。
 そんな私の風向きを変えたのは、母になった瞬間でした。小さな命を抱いたとき、初めて「守りたい」という想いが胸に湧き上がりました。
 自然に囲まれた京田辺へ移住し、夜明け前の散歩を日課にしたある日、朝日に包まれながら心の声を聴きました。「この自然を、この子たちの未来に残したい」その想いはやがて行動へと変わります。
 生ごみを土に還し、発酵させ、堆肥にし、畑へ循環させる暮らし。捨てていたものが大地を育て、食卓へ戻ってくる。その循環は、これまで得たどんな成果よりも深い充足をもたらしました。
 小さな一歩から始まったこの歩みは、仲間と家族の支えによって広がっていきました。子どもたちの未来を守るのは、私たち大人の責任。そして、その一歩が世界を変えると、私は信じています。

 この本が、あなたの中にある「小さな一歩」に光を当てる存在になれば幸いです。





第一章  機内で書いた、未来へのメモ

 
 十四年間、私は開発メーカーの海外営業として働いていました。朝から晩までメール、商談、出張、会議、展示会、接待を繰り返して、気がつけば一日が終わり、週末が終わり、そして次の月が始まってと、そんな日々を過ごしていました。

 というのも、海外の代理店を開拓するため、社長に同行し月二回の海外出張へ行っていたのです。一度の出張で複数の国を回り、毎晩のように異国のレストランで接待をし、翌朝はまた別の国の空港へ向かいます。止まりたくても、止まれないのです。区切りもなく、延々と続くプロジェクトが襲ってきて、まるで「止まってはいけない」と誰かに言われているような働き方でした。
 展示会では朝から晩までブースに立ち、閉場後は取引先との会食会が待っています。休憩時間には名刺を整理し、明日や次の案件のために段取りを整え、ホテルは荷物を置いて眠るために戻るだけ。目が覚めてからさっとシャワーを浴びて、疲れた身体にスーツを纏い、むくんだ足をヒールに押し込みます。鏡の中に映る疲れた顔。両手で頬を引き上げて笑顔を作ってから、ホテルの部屋を出ます。その繰り返しが当たり前になっていました。
 それでも、やりがいと達成感がありました。

 海外での商談は刺激的で、文化の違いに驚き、学ぶことがたくさんありました。例えば中国での商社さんとの夕食での会話は、今でも耳に残っています。
 かつて中国市場の開拓を目指し、何度も現地へ足を運んでいた頃のことです。上海の代理店の方々が協力してくださっていたにもかかわらず、どの案件も思うようには前に進みませんでした。
 
 そんなある日、代理店の社長が私の目をまっすぐ見つめて、静かにこう言いました。
「Tomoko, you are too naïve for sales.」
(ともこ、君はセールスをするには甘すぎる)
 
 その言葉の意味を、当時の私はすぐには理解できませんでした。
「価格を下げること。誠意を尽くすこと。ひたむきに努力すること。それだけでは、中国市場という大きな壁は越えられない。」
 きっと、そういうことだったのだと思います。
 その後、私より後に入社した営業担当で、中国文化にも精通した後輩へとバトンが渡されました。すると、停滞していた流れが一気に動き出し、中国での販売は着実に拡大していきました。
 あのとき、上海代理店の一言は、今も私の胸に残っています。
 厳しくも、深い学びをくれた言葉でした。

 次に、マレーシアでの出来事です。そこで私は、凛とした眼差しが印象的な若い女性社長と出会い、親交を深める機会をいただきました。志を同じくするその姿勢に心を打たれ、この出会いは商談を超えたご縁へと育っていきました。
 現地の工場に足を運び、まず取り組んだのは、現場の声に耳を傾けることでした。帳票上の数字だけでは見えない小さな滞りや、積み重なった無駄、作業動線のわずかなロス、担当ごとの認識のズレなど、一つひとつの課題を丁寧に洗い出し、現地スタッフと共有しながら改善策を積み重ねていきました。
 ときには文化の違いからこちらの意図が伝わらないこともありましたが、「より良いものを届けたい」という想いは、皆同じでした。
 生産ラインや工程を見直し、それを社内に持ち帰り小さな改善を積み重ねた結果、今までにない新しいシステム開発につながりました。その結果、取引先からの信頼は一層高まり、マレーシアでの販売は大きく伸びていきました。売上という形で成果を実感できた瞬間でした。帰国後、「取引先に喜んでいただけました」と報告したとき、会社のみんなの表情がぱっと明るくなりました。その笑顔を見た瞬間、胸が熱くなったのを覚えています。
 現地での成果以上に、仲間と喜びを分かち合えることが、私にとって次の挑戦へ向かう何よりの励みでした。
 けれど、心の奥にある小さな違和感が拭えませんでした。
「私はこの働き方をいつまで続けるのだろう?」
 成果が出れば評価され、評価されれば期待され、さらに走り続けなければなりません。そのループから降りることが怖くて、私はブレーキを踏むことができませんでした。

「社長のため」
「売り上げのため」
「将来のため」
 
 どれも正しい理由ですが、あるとき、疲れている自分に気が付いたのです。
 出張先のホテルで真夜中に資料を作りながら、窓の外の街の灯りを眺めていると、胸に小さな空洞が生まれました。

【絶対叶わないことリスト】

 二〇十三年の秋、シンガポールからの帰りの機内で、自己啓発本の一文が目に留まりました。
「絶対に叶わないと思っていることを書き出してください」と書いてあります。
 私は軽い気持ちで書き始めました。

【絶対叶わないことリスト】
●大きな一軒家に住みたい
●理解し合えるパートナーと出会いたい
●子どもは三人ほしい

「きっと無理だろう」そう思いながらも、それは紛れもなく私の本心でした。
 振り返れば、あのとき書き出した夢リストは、後の人生を静かに動かし始める最初のスイッチだったのです。
 仕事が嫌いだったわけではありません。むしろ好きでしたし、自分に向いているとも感じていました。成果も出していましたし、周囲から評価もいただいていました。
 それでも、心の奥では、はっきりとした声が響いていたのです。
「人生のいちばん大切な時間を、この働き方に注ぎ続けるのは違う」と。
 では、どうすればいいのか。

「積み上げてきた実績」
「築いてきた信頼」
「安定した立場」
それらを手放した先に、何があるのか想像ができませんでした。
でも、答えはわかっていたのです。
立ち止まれなかったのは、失うことが怖かったからです。

 この十四年間は、私の人生にとってかけがえのない助走でした。走り続けた日々があったからこそ、やがて訪れた「自然との再会」に、心から震え、感謝することができたのです。

私へ。
十分にがんばったね。
立ち止まる勇気は、あなたの未来をやさしく照らしてくれるよ。

第二章  人生が動き出した夜


◆予期せぬ出会い

 仕事に追われる日々のなかで、私はすっかり婚期を逃していました。頑張れば頑張るほど結婚が遠のいていくような感覚があり、心のどこかで焦りを感じていました。
 三十代半ばを過ぎると、友人たちは次々と結婚して子育てへと進んでいきました。「人は人、自分は自分」と頭で理解をしていても、心はどこか取り残されたような寂しさを抱えていました。母はいつも「あなたは大丈夫」と言ってくれていましたが、素直に受け取れませんでした。

 ある冬の夜のことでした。仕事帰り、ふらりと立ち寄る焼き鳥屋がありました。幼なじみが営むその店は、私にとって心の避難場所のような存在でした。常連さんたちと交わす何気ない会話が、張りつめた気持ちをそっとほどいてくれたのです。
 常連の中に、いつも顔を合わせる男性が一人いました。特別に多くを語るわけでもなく、派手な存在でもないけれど、なぜか自然と視線が向いてしまう人でした。みんなで笑っていても、気づけば彼の反応を探している私がいました。
 仕事の疲れを抱えて店に入る夜も、「今日はいるかな」と、無意識に姿を探してしまう。そして、彼の姿を見つけると胸の奥がほどけるのです。
 そんな頃、常連仲間の誰かが言い出しました。
「環状線ツアー、やらへん?」
大阪の飲み屋街を一駅ずつ巡るという、なんとも大阪らしい企画です。にぎやかで、他愛もなく、それでいて少しだけ胸が高鳴る計画でした。
 彼と同じ夜を、同じ電車に揺られながら過ごせる、そう思っただけで待ち遠しく感じていました。
 そして、ついにその日がやってきました。朝からどこか落ち着かず、服は何を着ようかと迷い、鏡の前で少しだけ立ち止まる自分に気づいて思わず苦笑しました。ただの仲間同士の飲み歩きのはずなのに、胸の奥がそわそわと騒いでいるのです。夕方になり、待ち合わせ場所に着くとすでに何人かが集まっていて、いつものようににぎやかな笑い声が響いていました。その輪の少し外側に、彼の姿がありました。私は「お待たせ」と声をかけながら輪に加わり、さりげなく彼の位置を確かめていました。
 みんなで電車に乗り込み、最初の一駅へ。グラスを重ね、冗談を言い合い、また次の駅へ向かいます。たくさん飲んで笑い声が重なり、距離が少しずつ縮まっていく中、最後にたどり着いたのは京橋でした。
 にぎやかな時間の余韻をまといながら夜風に酔いを冷まし、みんなで肩を並べて歩いていたそのとき。
 彼が歩調を少しゆるめ、ふと私に声をかけました。
「今度、二人で飲みに行かへん?」
 ほんの一瞬、時間が止まったように感じました。待ち遠しく思っていた一日は、思いがけないひと言で、特別な夜へと変わったのです。

 数週間後の冬の日。
 私たちは大阪の天満にある小さなお店で待ち合わせをしました。肩を寄せ合うようにカウンターに並んで座り、初めて二人きりでグラスを合わせました。
 そして話をするうちに、彼の人生の一端を知りました。奥さんとお父さんを同じ時期にがんで亡くしたこと。そして、お父さんから引き継いだ会社には、何億という負債が残されていたこと。それでも社員を守り、会社を守ろうと、ひとりで踏ん張り続けてきたこと。
 私もまた、取り繕うことなく自分の話をしました。仕事のことや婚活で傷ついたこと、将来への不安。不思議なことに、肩ひじを張らずに本音を話している自分がいました。誰かの前でこんなふうに心を開いたのは、ずいぶん久しぶりのことでした。
 寒い冬が終わり、桜が咲き始めるころ。私たちは自然な流れでお付き合いを始めました。気になっていたお店に行き、山へ登り、海を見に行き、旅行に出かける。
「いつかできたらいいな」と、どこかで諦めかけていた小さな願いが、一つずつ現実になっていきました。


◆命がつなぐ未来

 そして三ヶ月後の真夏の夜。空が割れたような土砂降りの雨の中、私たちは仕事帰りにそのまま役所へ向かいました。一つの傘に身を寄せ合いながら、びしょ濡れになって笑い合い、婚姻届を提出しました。
「本当に、結婚したんだね」
 言葉にした瞬間、 これまで固く閉じていた心の扉が、静かに開いていくのを感じました。
 長いあいだ、「結婚しない人生かもしれない」と思い込んでいた私の世界が別の景色へと切り替わりました。

 夏が過ぎて冬が訪れた頃、私たちは新しい命を授かりました。四十一歳での妊娠でしたが、不安よりも喜びが大きく胸を満たしていました。
 翌年の九月、私は母になりました。退院の日、強い日差しから小さな命を守るように抱きしめたあの感覚は、一生忘れられない記憶です。
 私は産休に入り、娘と過ごす穏やかな日々が始まりました。それは、時間に追われていた生活とはまるで違う、ゆっくりと流れる時間でした。
 「立ち止まる」という感覚を初めて知りました。そして「この子を、どんな環境で育てたいだろうか」と考えるようになりました。市街地の便利な暮らしのなかで、この子には「田舎」と呼べる心のふるさとがないことにふと気づいたのです。

私と娘


 私の子ども時代は、広島県世羅郡に住む祖父母と過ごした大自然の記憶に満ちています。それが今の心の豊かさにつながっていると感じているからこそ、自然に囲まれた場所で子育てをしたいと強く思うようになったのです。
 夫は京都府京田辺市で会社を経営していました。
 ある日、京田辺の工場地帯の向こうに広大な田畑が広がっているのを見たとき、
「ここに住めたら。」
 私の心は動きました。帰宅後、何気なく物件を検索すると、庭付き・離れ付きの家が売りに出ているのを見つけました。気になった私は、ひとりで物件を見に行きました。
 その景色を見た瞬間、「ここだ」と直感したのです。
 夫に相談しましたが、「疲れているから今度話そう」「思いつきみたいな話じゃないか」と、すぐに良い返事はくれません。何度も話し合いを重ね、経済的な不安や現実と向き合いながら、最後に夫は言ってくれました。

「そこまで思うんやったら、一回やってみよか。」

 こうして私たちは、大阪から京都府京田辺へ移住することを決めました。
 それは、娘の未来へ向けて、家族で描き始めた新しい一歩でした。

第三章  自然との再会と「あさんぽ」

 
 京田辺にある、田園風景がどこまでも広がり、江戸時代から続く歴史を刻む集落の一角。そこには、都会では失われつつある「暮らしと自然の調和」が今も息づいていました。

 朝、二階の窓から東の空を眺めると、夜の名残をうっすら残した空がゆっくりと明るみを帯びていきます。しばらくすると、遠くの山の輪郭が金色に縁どられ、その向こうから太陽が顔を出します。桃色から橙色へ、そしてやわらかな黄金色へと、空は刻一刻と表情を変えていきます。鳥たちのさえずりがどこからともなく響き、窓を開けると、冷たく澄んだ空気が一気に流れ込みます。昼には惜しみない陽光が降り注ぎ、草花がきらきらと風に揺れます。私たちは、この環境に新しい暮らしを託すことにしました。
 静かな移住のはじまりとはいえ、移住当初は華やかな「田舎暮らしスタート」ではありませんでした。ちょうどコロナ禍の真っただ中で、地域の行事や祭りはほとんど中止。本来なら集落のつながりの中で少しずつ関係を築くはずが、その機会がなかったのです。
 ご挨拶に伺ったご近所の多くは七十代以上の方々でした。
「便利なところから、よう来たなあ」
「困ったことあったら言うてな」
 その言葉に、私たちはどれほど救われたかわかりません。
 よそ者として警戒されるのでは、という不安がやわらいでいきました。
 私はときどき手土産を持って顔を出すようにしました。ほんのささやかなやり取りですが、積み重ねていくうちにご近所のつながりが深まっていきました。

 移住生活はドラマチックな出来事もなく、静かに、ゆっくりと始まっていきました。
 そんな折、私の日課になったのが「あさんぽ」でした。
 朝、まだ家族が眠る時間にひとり外へ出て歩きます。ひんやりとした空気が頬に触れ、胸いっぱいに吸い込むと体の奥まで澄み渡るようでした。田んぼの上には白い朝もやがかかっています。夜と朝の境目のその時間は、自然全体が静かに目覚めていく瞬間のようでした。草の先に光る露、鳥のさえずり、靴先を濡らす朝の冷たさ。それは、都会では決して味わえない「朝だけの世界」でした。この時間が、私にとって心を整える大切な習慣になっていきました。そして、太陽は決して急ぐことなく、確かな歩みで昇っていきます。桃色に染まった雲は金色に変わり、世界をやさしく照らします。

「時間とは、時計が刻むものではなく自然の移ろいそのもの」
 光の中で、私はふと思いました。
 
 走り続けていた頃の私にとって、時間は常に足りないものでした。けれどここでは、自然が変わらぬリズムで命を刻んでいる。その事実に気づいたとき、「ただここにいるだけで、もう十分なんだ」そう思えたのです。

「あさんぽ」を続けるうちに、幼い頃の記憶がよみがえってきました。祖父母の田舎で、朝露に濡れた草むらを駆け回った日々のことです。虫を追いかけ、カエルを捕まえ、夜は星空を見上げました。自然の中で過ごした体験が、今の私の心を支えているのだと思いました。
 私はこの感覚を娘にも渡していきたいのです。
「あさんぽ」は、ただの散歩ではありません。自然のリズムの中で、自分の足で土を踏む時間なのです。それは、忘れかけていた心の原点を思い出す大切な時間でした。そして同時に、「人と自然と暮らしを、どう結び直していくか」という新しいテーマに出会う、人生の第二章の幕開けでもあったのです。

京田辺の朝

第四章  朝露の向こうに見えた地球の悲鳴

猛暑でしおれるひまわり


 あさんぽで自然の美しさに心がほどけていく一方、新聞の一面に並ぶ世界の自然災害のニュースは容赦のない現実を突きつけていました。スペインで四三・六度。カナダで四九・五度。アメリカでは五四度。北海道で三八度。その数字は、ただの記号ではありません。地球のどこかで、長年の歪みが耐えきれなくなり、亀裂が入っているのです。そんな警鐘が私の胸に突き刺さってきました。炎に包まれる山肌や溶けるアスファルト、干ばつで干上がる農作物。そして、記録的豪雨で土砂にのみ込まれる町。紙面の向こうの現実が、朝露にきらめく京田辺の田んぼと同じ時間に存在しているのです。その事実がどうしようもなく重くのしかかりました。
 以前の私なら、「たまたま起きた異常気象」と受け流していたかもしれません。けれど、自然の中で暮らすようになってから、すべてはつながっているという感覚が心の中に芽生えていました。
「これはたまたまではなく、積み重ねの結果なのでは。」
 そう気づいてしまった以上、見て見ぬふりはできません。

 あるとき、夏が別の惑星の季節に見えた日がありました。北海道でも三五度を超える日が続き、京田辺も四〇度を越え、「日本一暑い日」と報道されることが度々ありました。朝八時にはすでに三〇度を超え、空気は重く、日差しは肌に痛みとして届きます。
 子どものころ、夢中で外を駆け回っていた夏休み。あの夏は、遠い昔のものになってしまったのでしょうか。今の子どもたちにとって夏は、「暑くて危ないから外で遊べない季節」になりつつあります。同じ夏なのに、まるで別の惑星の季節のような感覚なのです。

「娘が大人になり、そのまた子どもを授かるころ、この土地の夏はどんな姿になっているのでしょう。」
「四季は、四季として残っているのでしょうか。」
「野菜や魚を、これまでと同じように安心して食べられるのでしょうか。」
「世界的な食料不足や資源をめぐる緊張が、日本にも現実的な影響を及ぼしてはいないでしょうか。」

 それらは杞憂に過ぎないのか。それとも、いま真剣に向き合うべき問いなのか。
 娘の小さな手を握るたびに、未来は抽象的な不安ではなく、現実の延長線上にあるものだと実感します。胸の奥に、静かな衝撃が走りました。
「この子の未来は、いまの私の選択の積み重ねで形づくられていく。」
 そう思うと、立ち止まって考えることから逃げてはいけないと感じました。
 答えの出ない問いを抱えながら、私は毎朝あさんぽを続けました。
それは心を整える時間であると同時に、未来の世代の安全を願う、静かな祈りの時間でもありました。

 そんな折、紹介で環境活動家の講演を聞く機会がありました。そこで紹介されたヨーロッパの子どもたちの言葉が、私の胸を深く突き刺しました。
「大人は将来のために勉強しなさいと言う。でも地球温暖化を止める行動をしないなら、僕たちに将来なんてない。だったら、勉強なんて無駄なんだ」
 子どもたちが未来を信じられなくなっている、その現実を真正面から突きつけられた気がしました。
「私は、何か行動を起こさなければならない」
 それは立派な使命感ではありません。もっと切実で、もっと個人的な感覚、母としての直感でした。
 このまま何もしなければ、いつか娘に問われるかもしれない。
「どうしてママは知っていたのに、何もしなかったの?」
 美しい朝日と田園風景に心がほどける一方で、気候変動の現実に私の心は強く揺さぶられていました。それは、痛みであり、私を目覚めさせる力でもありました。朝露にきらめく田んぼを見つめながら、静かに自分に問いかけました。

「この子たちの未来のために、私は何ができるだろう。」

海岸に打ち上げられたゴミ

第五章  小さな一歩

都度捨てていたペットボトル


「私にできることは何だろう。」
 何かを始めたところで、世界が劇的に変わるわけではありません。国や大企業のように、社会全体を動かす力があるわけではないのですから。
 けれど、自分の暮らしを一つひとつ見直すことなら、すぐにでも始められると思いました。小さくても、手の届く範囲になら責任を持つことはできる。
 そう思えたとき、不思議と視界がひらけました。足元が静かに定まっていく感覚がありました。
 最初に取りかかったのは、二酸化炭素排出の一因ともいわれる「燃やすごみ」を減らすことでした。まず、ごみの分別を徹底しました。缶や瓶だけでなく、プラスチックや雑紙も細かく分けるのです。
 すると、自分がいかに無意識のうちに大量のごみを出していたのかに愕然としました。透明な袋に積み上がっていくごみは、まるで「日々の消費の履歴」のようでした。ペットボトルを洗いながら、私は自分に問いかけるようになりました。
「これは本当に必要だったのだろうか。」
 その問いは、少しずつ買い物の基準を変えていきました。

使用済みのトレイ


●過剰包装を避ける
●必要以上に買わない
●炭酸は家でつくる
●お茶はまとめて沸かす
●レジ袋を断り、マイバッグを持参する
●使用済みのトレーや牛乳パックを回収ボックスに入れる
●雑紙も分別しリサイクルに回す

 小さな選択を積み重ねるだけで、ごみの量は目に見えて減っていきました。袋の軽さが、そのまま心の軽さにつながっていくようでした。それでも、どうしても残るのが生ごみでした。
 調べるうちに、日本が世界でも焼却処理の割合が高い国であることを知りました。そして、ごみの中でも生ごみはほとんどが水分なので燃やすには膨大なエネルギーが必要です。そしてごみは燃やして消えるのではなく、焼却後には灰が残ります。
 例えば、私が住む京田辺では、一日に燃やすごみの量はおよそ六十万トン。その量たるや想像もつきません。もっと大きな都市だと、この何倍にもなるのでしょうか。そしてごみを燃やすには、膨大な燃料が必要です。化石燃料を輸入し、高性能な焼却施設を建て、それにかかわる人件費も必要で、そのために莫大な税金が使われています。さらに、ごみは燃やして終わりではなく、あとには灰が残ります。
 京田辺市では天王地区という、自然豊かな山奥に埋められており、破砕ゴミは大阪湾の埋め立てに使われたりしているのです。天王地区は、昔ながらの田園風景が残る美しい地域です。田んぼの脇に、日本アマガエルやサワガニが住むような美しい場所です。
 でも、悲しいことに、その自然と隣り合わせで、燃やしたごみの埋め立てが行われているのです。そんな現実を知ったとき、背中をすっと冷たいものが走りました。
「これ、みんな知ってるの?何も考えずに、ごみ箱や三角コーナーにポイポイ捨てて、ごみの日に出して、はい、おしまいってしてきたけれど。その先には、こういう現実があったということを」
 そう思うと、生ごみを燃やす以外の選択肢に真剣に目を向けたくなりました。
「せめて、もう少し違う循環をつくる方法はないのかな」

EMぼかしを使った密閉型コンポスト

 そうして辿り着いたのが、コンポストでした。
 コンポストとは、生ごみなどの有機物を微生物の働きで分解・発酵させ、堆肥として再利用する仕組みのことです。本来なら焼却されるはずだった生ごみを、土に還す循環へとつなげる方法です。
 調べてみると、実にさまざまな種類がありました。従来型の釣鐘式で外に埋め込むタイプのものや、段ボー ルコンポスト、電気式コンポスト、おしゃれなLFCコンポストなど、調べればどんどんでてきました。
 めんどくさがりの私は、毎日外に運ぶ必要がなく、電気も使わない方法を選びました。
 それは、EMぼかしを使った密閉型コンポストです。やり方はいたってシンプルで、台所で毎日出る生ごみを水気を切ってから専用の容器に入れ、EMぼかし(有用微生物を含んだ発酵資材)を混ぜます。
 密閉された容器の中で、生ごみは腐敗するのではなく発酵し、やがて堆肥へと変わります。組みのことです。本来なら焼却されるはずだった生ごみを、土に還す循環へとつなげる方法です。

【EMぼかしを使った密閉型コンポスト】
〈必要なもの三点〉
・専用の密閉容器
・EMぼかし
・生ごみ

 生ごみの発酵が進むと、密閉容器の下についている蛇口から液肥を汲むことができます。それを千倍ほどに水で薄めて観葉植物に使うと元気に育ちます。その後、五百倍に薄めて排水溝に流せば、有用微生物がヘドロなどを分解してくれるという仕組みです。

生ごみが発酵の力で液体肥料に

「ごみが減らせて環境にいいなんて。これなら、私にもできるかもしれない。」
 こうして、生ごみを捨てない習慣がはじまりました。
 冬に始めたEMぼかしコンポストは、順調な滑り出しでした。一日の最後の洗い物が終わってから、三角コーナーでしっかり水を切った生ごみを、密閉容器にいれて、三角コーナー一杯の生ごみにつき、大さじ一杯のEMぼかしをいれて、割りばしでかき混ぜます。
 こんな単純な作業の繰り返しでした。密閉容器の中で生ごみは腐らず、EMぼかしの有用微生物群の働きで発酵し、黄色みを帯びた感じでしっとりしてきます。生ごみのぬか漬けをしているような感覚です。置き場所については、試行錯誤を重ね、シンク下に落ち着きました。
 はじめて容器がいっぱいになり、外に持って行って液肥が取れた時の感動をいまでも覚えています。薄めて家の観葉植物にかけたり、トイレや台所、お風呂の排水溝に流したりしました。それでも余る場合は、家の庭の花壇に堆肥と一緒に混ぜ込みました。
 「ごみ」が、「命を育てる栄養」へと姿を変えるのです。その仕組みを知ったとき、私は小さく胸が躍りました。
 当初、夫は横目で怪訝そうに見ていたのですが、冬に始めたコンポストは順調でした。
 ところが、夏になると独特の発酵臭が立ちのぼります。
 私は、「これが発酵臭ってやつ か」と内心思いながらも、同時に「家族はどう感じるだろう」と不安がありました。EMぼかしのメーカーに電話して、疑問に思ったことを尋ねました。
「正しい発酵臭とはどんなものですか」
「くさやのような匂いがしたら成功です」
「白いカビが生えてきたけど大丈夫ですか」
「白いカビは糸状菌と呼ばれる、発酵が正常に行われている証です」
「液肥が大量にでて使いきれない場合は?」
「保存はきかないので数日中に使い切ってください。使い切れない分は、五百倍に薄めて排水溝やトイレに流してください。有用微生物の働きで水道管についたヘドロの浄化になります。」

 ある日、シンク下から微かに匂いが漏れていたのか、夫が顔をしかめて言いました。
「ちょっと…なんか臭わない?」
 私は慌てて容器のふたをギュッと閉め直しながら、言葉を探しました。
「う、うん…まだ慣れてなくて。でも大丈夫、ちゃんと発酵してるってことなんよ。これが堆肥になったら、野菜がすごく育つんやって。」
 夫は半ばあきれたように、肩をすくめました。
「なんか、宗教みたいやな。」
 その言葉が、ズンと胸の奥に刺さりました。
「そうやんな。こんなの、変やんな。」そう思う気持ちと同時に、「でも、ここでやめたくはない」という気持ちもありました。今は理解されなくても、自分で感じて考えて進めている循環の力を、この目で確かめたい。そんな静かな思いを胸に秘め、家族には申し訳ないと思いながらも、自分でできる範囲でごみを減らす取り組みを続けていきました。

元気に咲くひまわり

 そして春がやってきました。しんなりと小さくなった生ごみを混ぜ込んだ家の花壇に、ひまわりの種を撒いてみました。すると数日後には、りっぱなひまわりの芽が顔を出しました。それは、本当にたくましく、力強い芽でした。そして、日ごとにぐんぐん伸びていき、太陽の光を浴びながら青々とした葉を広げていきました。
「わぁ……。」
 その姿を見たとき、私は思わず土の前で小さくガッツポーズをしていました。
「ほら、やっぱり間違ってなかった。」
 キッチンで「ごみ」だと思っていたものが、発酵を経て、土の中で新しい命を育てる栄養に変わっているのです。たとえ誰に理解されなくても、循環は確かに命を育てる力を持っているのです。その確信が、孤独を越えて未来へ続く道を、静かに照らしてくれました。

 それは後に「em farm(エンファーム)」を始めるまでの長い道のりのなかで、私が何度も立ち返る原点となった出来事でした。

第六章  挑戦と支え 〜土がひらき、人がひらいていく〜

近所の耕作放棄地

「コンポストの堆肥だけで野菜を育てる循環畑を、もう少し広い場所でやってみたい」
 そう思うようになったのは、暮らしの中で循環という手応えが、確かなものになりはじめていたからでした。
 とはいえ、コロナ禍のさなかです。ご近所付き合いはほとんどなく、誰に相談すればいいのかも分かりません。思い浮かんだのは、いつも顔を合わせるたびに「何かわからんことあったら、聞いてや」と声をかけてくださる、お隣さんの顔でした。
 思い立って、ダメもとでお宅を訪ねてみると、驚くほどあっさり「近くで、何年も手が入っていない畑がある」と、教えてくれたのです。
 それから周りの友人に、「コンポストの堆肥だけで野菜が育つのか、実験してみようと思うねん。肥料買わずに、生ごみを堆肥にして循環できたら素敵じゃない?」
 と話をしていたら、そのうちの二人の友人が目を輝かせて言いました。
「私も畑、やってみたい!」
 こうして、私たちは新しく借りる畑を一緒に見学させてもらうことにしました。

 畑は、家から歩いて一分もかからない場所にありました。けれど、地主さんが指さしたその先に広がっていたのは、想像をはるかに超える光景でした。
 畑をしなくなってから五年、その土地は二メートル近くまで伸びた雑草と笹に覆われ、いわゆる「耕作放棄地」と呼ばれるものになっていました。かつてはご夫婦で野菜を育て、子どもたちが収穫を手伝っていたそうですが、そんなことはとても想像できないほど、荒れ果てていました。

「さぁ、開墾をはじめよう!」
 大変な作業になることは分かっていましたが、二人の仲間は驚くほど前向きでした。

葛の根と奮闘

 開墾初日。
 地主さんご夫婦も加わり、二〇二二年二月の冷たい空気の中で作業は始まりました。
 最初は手足の先がかじかむ寒さでしたが、身体を動かすうちに次第に温まり、いつしか寒さは気にならなくなっていました。自然の中で土に触れ、汗をかくことがこんなにも心地よいとは思いませんでした。
 五十坪ほどの土地でしたが、みんなで草を刈ると一気に視界が開け、心地よい風が通り抜けます。それまで荒れた土地だったところに、畑の輪郭がふっと浮かび上がってきます。そして次は、畑にはびこった葛の根を取り除く作業です。鍬を入れると、固く締まった土がわずかにほぐれ、黒く湿り気を帯びた土が顔を出しました。太く絡み合う葛の地下茎を鍬で切り、スコップで掘り、鎌を入れる。
 三人とも疲れが見え始め、次第に無口になっていきましたが、不思議と誰一人手を止めようとはしませんでした。
「うわー!この根っこ大物!ごぼうみたい!」
 そんなことを言いながら、心地よい疲労感を感じながらも、みな表情は生き生きとしていました。やがて、葛の根のバリアが切り開かれ、耕された土地は深呼吸を始めたようでした。

 私たち三人の挑戦はとてもシンプルです。
 生ごみを捨てずに堆肥化し、それだけで野菜やハーブを育てる​ことが本当に可能なのか、小さな実験のようでもあり、私たちなりの問いかけでもありました。
 また、この取り組みを多くの人に知ってもらいたいと思い、月に一度のインスタライブでの発信を始めました。さらに、オンラインや対面でコンポストの説明会も開催するようになりました。

 最初、夫は少し距離を置いていました。
「そんな、手作業で開墾なんて無茶や」
 そう言って、私たちの様子を遠巻きに眺めていたのです。けれど、私の思いつきに共感してくれる人が少しずつ増え、荒れ地だった畑が形を持ちはじめると、夫のまなざしも変わっていきました。土が整い、風が通り、畑の輪郭が見えてくる。その変化を、彼もまた静かに見ていたのだと思います。夫は次第に、関わってくれるようになりました。
「ちょっと早いけど、これ。誕生日プレゼント」
 そう言って、小さな耕運機を買ってくれたのです。私たちが葛を鍬で掘り返している横で夫は耕運機を試運転し、気がつけば畑一面に耕運機をかけてくれていました。

鎌を握り、黙々と草を刈る
em farm 誕生


 私たちは、この畑に名前を付けることにしました。
 EN菌を使ったコンポストをしていることから、その文字をとって 「em farm(エンファーム)」。
「エン」には、円のようにまるく繋がり、縁を結ぶ場所であってほしいという願いを込めました。 
 ごみだったものが土へと還り、やがて命を育てる、そんな循環の象徴でもあります。

 また、未来の子どもたちを思っての活動であることから、団体名を
「miraibito(ミライビト)」
 と名付けました。

 未来を生きる人。
 未来をつくる人。
 その両方の意味を重ねています。

畝立てを行う様子

 汗で額を濡らしながら、「耕運機って、結構難しいんやな」と笑ったとき、私は小さな奇跡を目にした気がしました。
「畑を耕すという行為は、大地だけでなく、人の心も耕すのかもしれない。」
 そこから畝立ては一気に進み、荒れ果てていた土地は見違えるような畑へと変わっていきました。
 こうして、「子どもたちに、この自然を残したい」という想いから始まった燃やすゴミを減らす生活は、食物残渣を循環させる農園として形を持ちはじめました。

 毎日出る生ごみはコンポストへ。
 以前は、週に二回、四十五リットルの袋いっぱいに燃やすごみを出していました。けれどコンポストを始めてからは、二週間に一度で足りるほどに減りました。とくに夏場は、腐敗臭を気にしながら急いでごみ出しをしていた日々が嘘のように、ごみ袋には腐るものが入らなくなりました。それだけで、暮らしのストレスが大きく軽減されたのです。発酵を終えた堆肥は、夏野菜の土づくりとして再び大地へ還っていきます。
 仲間の二人も、それぞれのやり方で循環を楽しみながら、春の作付けを心待ちにしていました。

 そして迎えた、二〇二二年のゴールデンウィーク。
 私たちは近所の苗屋さんへ、夏野菜の苗や種を買いに出かけました。土を整えた次は、いよいよ命を迎え入れる番です。
 お店につくと、トマト、ナス、ピーマン、きゅうり、バジルと、あまりの種類の多さに興奮してしまい、予定よりもたくさんの苗を購入してしまいました。みんなで悩みに悩みながら苗を選ぶ時間は、まるで未来を選び取っているようで、本当に楽しいひとときでした。

へとへとになった帰り道

 開墾した土地は水道のない土地でしたので、雨水を溜め、それでも足りないときは家から一輪車で水を運びます。
 除草剤は使わず、草はできるだけ手で刈ります。梅雨頃から草の勢いはすさまじく、刈っても刈ってもぐんぐん生えてきます。
 けれど、鎌を握り、黙々と草を刈っていると不思議と心が静まっていきます。
 私たちはその時間を「草刈り瞑想」と名づけ、笑いながら続けました。
 単なる作業ではなく、自分たちの内側を整える時間でもあったのです。


 そして七月。
 いくつもの野菜たちが、循環の美しさを教えてくれました。プチトマトの愛らしい色。ムキムキ育つオクラ。暑さに負けず実をつけるピーマンや万願寺とうがらし。土を払い、笑い合い、分け合う時間は、何よりの祝福でした。
 そして、生ごみ堆肥の実験として枝豆を植えて実験してみたところ、堆肥ありと堆肥なしでは成長に歴然とした差があることがわかりました。ひまわりで感じた、堆肥のパワーは、この夏野菜の成長で証明されたのです

em farm で採れた色とりどりの野菜
初めての収穫祭

「ねえ、em farmの収穫祭しない?」
 私がそう提案すると、仲間の二人もすぐに賛同してくれました。

 七月の平日、三人でささやかな収穫祭を開くことにしました。朝、畑に集合して草を刈り、汗だくになりながら夏野菜を収穫し、自宅の離れへと運びます。
 料理好きの夫が、仕事に出かける前に仕込んでくれていたピリ辛のキーマカレーに火を入れ、その間に採れたての野菜を切って炒め、夏野菜たっぷりのカレーが完成しました。
「野菜の味、濃い〜!」
「採れたてって、こんなにおいしいんだね!」
 笑い声が広がる中で、胸の奥から込み上げるものを感じていました。土に還したものが、命となって戻ってくる。手をかけた分だけ応えてくれる。その循環の中に自分が立っている。
 私は魂が震えるほどの喜びを感じました。

 そして、はっきりと気づいたのです。私はこういうことで満たされるのだ、と。

六人になったem farm のメンバー
収穫した大根で作った大根煮


 季節が巡り、冬がきました。
 その頃には、メンバーは六人に増えていました。
 年の瀬の朝、畑にみんなで集まり、大根やカリフラワーなどの、冬野菜を収穫します。
 白く霜をまとった葉をかき分け、土から引き抜いた大根は、ずっしりとした重みを感じさせました。離れに戻ると、採れたて野菜でスープを仕込み、もち米を蒸して、みんなでお餅を丸めました。
 餅つき機から立ち上る湯気。採れたての大根おろしの辛み。できあがったスープと一緒に、つきたてのお餅を頬張ります。
「うわぁ、おいしい!」
「大根おろしが辛くていい!」

冬の収穫祭
みんなで楽しむ姿


 次々と上がる歓声に、冬の空気までやわらいでいくようでした。
 一緒に耕し、育て、そして食す。収穫祭は、私たちにとって、共に築いてきた一年を讃え合う、大切な祝祭となっていました。湯気の向こうで笑う仲間の顔を見ながら、私は静かに思い返していました。
 孤独だった日々も、夫の冷たい言葉も、葛の根に鍬を入れたあの日の重さも、すべては、ここへ辿り着くための道のりだったのです。
 振り返ってみると、em farmでの経験は、畑づくり以上のことを教えてくれました。大きな理想や完璧な計画がなくても、自分の内側に生まれた違和感に正直になり、小さな一歩を踏み出し、それを続けていくことで土地は応え、人は集い、関係は育っていくのです。

 そして何より、人の気持ちは「説得」ではなく、目の前で起きている現実によって静かに変わっていくのだということ。夫がそうであったように、仲間が増えていったように、そして、固かった土が柔らかくなっていったように。

 循環とは、ごみを減らすことや、野菜を育てることだけではありません。
 人と人、自然と暮らし、そして自分自身との関係をもう一度つなぎ直していく営みなのだと、そう思っています。

第七章  地域社会への広がり 〜暮らしの循環が社会をひらく〜


 em farmの活動は、最初から「地域を変えよう」「社会を動かそう」という大きな構想を掲げて始まったわけではありませんでした。
 小さな畑と、数人の仲間、そして「地球の未来のために、生ごみを燃やさず土に還したい」という素朴な願い。それだけが出発点でした。
「こんなやり方があるって、もっと知られたらいいのにね。」
 そんな言葉が、畑のあぜ道や収穫後の食卓で、自然と交わされるようになっていきました。循環の手応えを、自分たちだけの喜びにとどめておくのではなく、社会にひらいていきたい。その思いが、次第に私の中で形を帯びはじめました。
 そして私は一念発起し、この循環農園em farmを事業として展開できないかと考えるようになりました。商工会が主催する創業塾に参加し、事業計画の立て方を学びました。そこでは、素晴らしい恩師や志を同じくする仲間たちとの出会いがありました。
 最終プレゼンの日、私は震える声で想いを伝えました。
生ごみを「ごみ」として終わらせず、資源として循環させる仕組みを地域に根づかせたい。暮らしの中から、環境への選択を当たり前にしていきたい。
 発表が終わった瞬間、会場から温かな拍手が広がりました。応援の言葉をかけてくださる方々のまなざしに、私は確かな手応えを感じました。
 そこから、生ごみを循環させるビジネスモデルをいくつも考えました。活動を紹介するパンフレットやポスターを制作し、生ごみ堆肥化サービスを案内するチラシも作りました。小さな畑から始まった取り組みは、少しずつ社会との接点を持ちはじめていました。
 そして同時に、私は自分が会社に勤め続けることへの限界を感じていました。

 夫の会社は、まだ安定しているとは言えない状況でした。それまで家計を両輪で支えてきた千崎家にとって、私の収入がなくなることが無謀であるのは、十分にわかっていました。
 けれど、コロナ禍で変わっていく会社の体制は、私にとってどこか理解しがたいものでした。これまで積み重ねてきた時間も、一緒に戦ってきた同僚や上司、後輩との日々も、決して軽いものではありません。それでも私は、心の奥で感じていました。
 いま握りしめているものを一度手放し、新しい流れに身をゆだねる時が来た。そのほうが、きっとうまくいく。そんな確信にも似た感覚があったのです。
「え? 会社を辞める?」夫は、自分の耳を疑うような顔をしました。
「うん。パパの会社、いまは大変やと思う。でも、私が会社を辞めたほうが、これからうまくいく気がするんよ。」
 理屈ではうまく説明できませんでしたが、ただ、そう感じていました。
 夫は少し間を置き、肩をすくめるように言いました。
「また素っ頓狂なこと言い出したな。……まあ、ええわ。好きにしたら。」
 その言葉は、半ば呆れ、半ば信頼のようでもありました。
こうして私は、多額の住宅ローンを抱えたまま、会社を退職しました。恐れがなかったわけではありません。けれど、不思議と後悔はありませんでした。


循環型em farm をジオで紹介

 会社を退職してから、私は循環農園 em farmの活動をさらに広げていきたいと考えるようになりました。畑の中で確かに感じた循環の手応えを、もっと多くの人と分かち合いたい、その思いから、SNSでの発信や農作業を続けていきました。
 発信の内容は、コンポストのやり方だけではありません。地球温暖化の現状、焼却ごみの実情、私たちが日々飲んでいる水の循環、そして使い捨てにしてきた暮らしの見直しについて詳しく発信していきました。それは、生ごみを循環させるようになってから、あらゆるものが地球の大きな循環の中で成り立っていることに気づいたからです。
 さらに、自宅の離れをワークショップの場として開放しました。参加者の方々と顔を合わせ、語り合い、実際にコンポストに触れてもらうのです。
 畑の中で芽生えた私の思いは、畑の外へとあふれ出し、地域へ、そして社会へと、ゆっくりと広がりはじめました。その広がりは、思いがけないかたちで連鎖していきました。

コンポストの広がり 
その① コーヒーかすの循環


 コーヒー好きの私は、時々通っていた枚方・長尾に店を構える「マホロバ珈琲堂」さんを訪ねました。
「あの、こんなこと始めたんですが、マホロバさんのコーヒーかすを回収させていただけませんか?」
 マスターはまじまじとチラシを見たあと、こう言いました。
「すごいじゃないですか。ごみとして捨てていたものが、堆肥になるなんて。うちので良ければ、使ってください。」
廃棄されるはずだったものが、未来を育てる素材へと姿を変える。その未来性を、家族や友達以外の誰かと共有できたことは、私にとって励みになりました。
この取り組みをSNSに投稿させて頂いたところ、八幡市にある素敵な絵本カフェ「LA BASE SECRETE ( ラバーズスクレート ) 」さんからも、コーヒーかす回収のご依頼を頂くことにつながりました。
 小さな投稿が、新たな縁を生み出したのです。

コンポストの広がり 
その② 学生とのコラボレーション

 
 京田辺のイベントで出会った、同志社大学の学生とのご縁も、em farmの世界を広げてくれました。自己紹介で「私、畑をやっているんです」と話した瞬間、一人の学生が間髪入れずに言いました。
「野菜ください!お願いします!」
 屈託のない笑顔で、ぺこりと頭を下げるその姿に、私は思わず笑ってしまいました。彼は、同志社大学の団体「Good Job Café(グッジョブカフェ)」の創始者兼リーダーでした。
 同店は、廃棄予定の野菜を販売所やスーパーから引き取り、カレーとして販売することで食品ロス削減に取り組んでいます。
 廃棄されるはずだった野菜がカレーに生まれ変わり、その仕込みで出た野菜くずを、今度はem farmが引き取り堆肥にする。
 食べものが「捨てられる」ことなく、循環の輪の中を巡っていく。世代も立場も違う人たちが、「もったいない」という感覚を共有することで、自然につながっていくのです。こうして、彼のまっすぐな一言から、新しい循環が始まりました。

コンポストの広がり 
その③ 保育園での循環畑


 さらに、八幡市で新しく保育園を立ち上げようとしている創業塾仲間からも相談を受けました。
「子どもたちに、食べ物が循環することを体験として伝えたいんです。千崎さんに相談に乗ってもらえませんか?」
 その言葉に、胸が熱くなりました。私は専門家でも、農業のプロでもありません。けれど、自分の暮らしの中で実践し、失敗し、積み重ねてきた経験なら伝えることができる。
「生ごみが土に還り、姿を消し、やがて新しい野菜の養分として現れる。その変化を、子どもたちと一緒に見られたら素敵ですね。」
 そう、等身大の言葉でお話ししました。循環は、理屈ではなく、体験として心に残ります。小さな芽は、保育園という新しい土壌にも蒔かれました。

コンポストの広がり
その④ お料理教室での活用

 
「シェフきっず」という、子ども向けのお料理教室をしている友人から、レッスンで出る野菜くずなどを、コンポストで堆肥にしたいと、相談がありました。
 後日、その友人に密閉型のコンポストのやり方を説明させてもらったところ、今ではレッスン中に
「こうやって野菜のくずを集めておいて土に混ぜると、お野菜を育てる時の栄養になるんだよ」と、食育の一環として活用して下さっています

コンポストの広がり 
その⑤ 社会起業塾での講演

 
 創業塾修了後、しばらくしてから、恩師から連絡をいただきました。
「千崎さんの事業アイデア、社会起業塾で話してみませんか?」
 夫と娘も同行し、久しぶりに大阪市内へ向かいました。これまでの循環畑の説明会は女性参加者が多かったのですが、その日は参加者全員が男性でした。少し緊張しましたが、皆さま真剣に耳を傾けてくださいました。
 質疑応答では鋭い質問も飛び交い、私は改めて、自分の活動が社会の文脈の中で語られる段階に来たことを実感しました。先生をはじめ主催者の大阪商工会の皆さまや、塾生の皆さまに感謝の気持ちでいっぱいです。

コンポストの広がり 
その⑥ ご近所さんの変化


 畑を始めた当初、ご近所さんは遠巻きに見ていました。「あんな草だらけで、野菜が育つわけない」と、そんなお声もありました。
 それでも私たちは、二つの約束を守り続けました。
・除草剤を使わないこと。
・化成肥料に頼らないこと。
 まずは、土地そのものの力を信じる。それは挑戦でもあり、実験でもありました。
 そして迎えた最初の夏。肥料食いと言われるナスや万願寺、ピーマン、オクラが、驚くほど元気に実をつけました。
「草が生えてても、野菜は育つんやな。」
 隣の畑のおばあちゃんのその一言に、私たちは顔を見合わせました。 
「私もコンポスト、始めてみようかしら。」
 地主さんの奥さまからいただいたその言葉は、何より嬉しい変化の兆しでした。

コンポストの広がり 
その⑦ 耕作放棄地の管理

 そうして畑の活動が知られるにつれ、
「使っていない土地があるんだけど、うちも使ってもらえませんか?」
 そんな相談も寄せられるようになりました。そこで私は、「開墾イベント」という形で、体験の場をひらくことにしました。
 荒れた土地を切り開き、自然の中で身体を動かす。そして、作業のあと、みんなでお弁当を食べること。その清々しさを伝えたいと、SNSで発信したところ、毎回2~3人の方が参加してくださいました。
 新たに手がけたのは、笹に覆われた約一〇〇坪の耕作放棄地。刈り進めるうち、地中から現れたのは、空き缶、ペットボトル、古い布団、錆びついた金属片など、軽トラック一杯分の大量ごみでした。
 参加者と汗を流し、黙々と片づけていくと、土地が少しずつ呼吸を取り戻していくのを感じました。
「大変だったけど、なんかスッキリしたね。」
「また参加したいな。」
 その言葉が何よりの報酬でした。

コンポストの広がり 
その⑧ 循環からつながりへ


 そして二〇二五年の春、私は初めて自宅で「em farm meet up(エンファーム ミートアップ)」というイベントを開催しました。
 em farmに関わってくれた人たちが、それぞれの得意を持ち寄って、自宅の庭と離れで物品の販売やワークショップを行いながら、お互いの近況を話したり、情報交換をするイベントです。
 そのころem farmの畑メンバーは一五人に増えていました。それぞれに個性を持ったお仕事をされており、その方たちにも協力をお願いしました。
 キッチンカー、お料理教室、片付け相談会、ニットソーイング、野草のフラワーアレンジメント、整体、マッサージ、手作り小物などなど、たくさんの方に出店していただきました。循環は、野菜だけでなく、人の才能や想いも巡らせていきました。
 そしてその日は、ちょうど母の日。夫が「お母さん、いつもありがとう」と言って、出店者とお客様たちにお手製ランチを振る舞ってくれました。
 食卓を囲んだ瞬間、「わぁ!」と歓声が上がります。地域も、仲間も、家族も、すべてが一つになった時間でした。

em farm meet up(エンファーム ミートアップ)イベント
コーヒーキッチンカー
イベントを手伝う夫

 em farmの活動は、キッチンの生ごみから始まりました。コーヒーかすへと広がり、学生たちの野菜くずへとつながり、やがて子どもたちの未来を願う思いへと重なっていきました。
 小さな実践が、少しずつ、しかし確かに、循環の輪を広げてきたのです。
 em farmの歩みを振り返ると、
「地球の異変に何かできることをしたい」と、自分の心の声に正直であろうとしたときに、自然と何かが動き出した気がします。
 子どもたちに、安心できる未来を残したい。そのためにごみを減らしてみよう。たったそれだけの発想でした。
 そのくらいで、何も変わらないかもしれない。そう思いながらも、まずは自分の家で、庭で、畑で、できることを一つ選び、続けてみる。
 すると、自然と共感する人が現れ、新たな循環が動き始めます。特別な資格も、立派な肩書きもいりません。必要なのは、気づいたままに、行動する勇気だけなのです。
 小さな循環は、やがて人と人を結び、地域へとひろがり、やがて社会を変えていく力になると感じています。
 私はそう信じています。
 これからも、畑から、台所から、そして人との出会いの中から、この循環を丁寧に育て続けていきたいと思っています。

第八章 未来への提案  〜 循環する生き方へ〜


 畑で汗を流し、仲間と笑い、実りを分かち合う日々を重ねるなかで、私はある思いにたどり着きました。循環とは、大地の上で起きている単なる現象ではなく、人と人との関係、そして私自身の人生そのものを、静かに、しかし確実に豊かにしてくれる力なのだということなのです。

 一方で、地球温暖化の現実は、私たちの歩みに合わせて待ってくれません。異常気象は世界各地で頻発し、干ばつや洪水、山火事、食料危機のリスクは確実に高まっています。中には「地球温暖化は誇張されている」「本当に起きているのか分からない」と感じる方もいるでしょう。
 けれど、北極の氷が解け、海面上昇で暮らしの場を失っている地域は、現実に存在していること。これまで当たり前だった四季のリズムが、日本各地で崩れ始めていること。それらはすでに起きている事実です。

 だから私はこう思います。
 未来を想うことは、不安に飲み込まれることではなく、今日の暮らしをどう選ぶのかということです。一人ひとりが、生きる心構えを少し変えて、日々の暮らしの選択を少し変えていくことが、地球の歪みを和らげ、未来に光を灯していく。私はそう信じています。

 そしていま、この本を書きながら、昔、飛行機の中で書いた
「絶対に叶わないことリスト」を思い出しています。

◎大きな一軒家に住みたい
◎子どもは三人ほしい
◎理解し合えるパートナーと出会いたい

 当時は「きっと無理だろう」と思っていたことが、気づけばすべて叶っていました。
 そして驚いたことに、リストを書いた一一月二九日は、夫の誕生日だったのです。偶然なのか、必然なのか。それはわかりません。
 ただひとつ言えるのは、心の声を無視せず、素直に、小さな一歩を重ねてきたことが、いまの暮らしにつながっているということです。


 この本を、最後まで読んでくれた皆さま。本当にありがとうございました。
 そして、これまで編集者として伴奏してくださった美芳さん、em farmに関わってくださっている皆さま、em farmのメンバーの皆さま、そして支えてくれた家族に、感謝の気持ちを込めてお礼申し上げます。

 何よりこの本を手に取ってくださった皆さまと、このようなかたちで繋がることができて、本当にうれしく思います。私たちの活動はインスタグラムで紹介しています。ぜひ、ご覧ください。


 

最後に


 私たち大人の小さな工夫と行動は、子どもたちの、そしてご自身の未来を守る、大きな力になります。もし環境が許すなら、コンポストに挑戦してみてください。EMぼかしの密閉型でも、段ボールでも、LFCでも、プランター型でも構いません。台所で出る生ごみを発酵させ、堆肥に変え、土に還す。それだけで、ごみは減り、循環を実感でき、暮らしの見え方が変わります。
 もしコンポストが難しいなら、三角コーナーの生ごみを捨てる前に、水分をしっかり絞るだけでも構いません。それだけでも、立派な環境への配慮です。
 大切なのは、正解を探すことではありません。私たちが住む地球が良くなることを祈りながら、自分のライフスタイルに合った形で、無理なく、楽しく続けることが大切です。この地球に生きる一人ひとりの行動が、子どもたちの未来を形づくります。そして、その大人の背中を子どもたちは見ています。

 この本を閉じたあと、どうか一度、
「私にできることは、なんだろう」と、自分自身に問いかけてみてください。
 答えは、きっとすでに、あなたの暮らしの中にあります。

わたしにできることは、何だろう

2026年3月10日 発行 初版

著  者:千崎朋子
発  行:メッセージ図書館出版

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千崎朋子

 1976年大阪生まれ。循環農園ちょい畑 em farm代表。私立高校で英語教員を務めた後、カナダへ移住。帰国後は京都の開発メーカーで14年間海外営業に携わる。現在は京田辺市で英会話教室を運営しながら、循環農園や地域活動を通じて環境問題に取り組む。京都府地球温暖化防止活動推進員。

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