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秘め事秘書 ―冷徹な御曹司は、シングルマザーの秘密を逃さない―

浅霧 紬

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  この本はタチヨミ版です。

第一話 朝雲の隙間、ぎりぎりの桜

月曜日。幾重にも重なる雲の隙間から、太陽が半分だけ顔を覗かせている。暑さは、ない。
 地下鉄がホームに滑り込むと、人の群れが堰を切ったように改札口へと殺到する。むっとした熱気が構内に広がり、初秋の朝の涼やかな風を掻き乱した。
「すみません!すみません!」
 ブラウスにロングスカートを合わせた一人の女性が、ショルダーバッグを揺らしながら、人波をかき分けていく。
 走ってきたことで彼女の頬は上気し、浅い呼吸が肩を上下させていた。澄んだ杏のような瞳をわずかに伏せ、スマートフォンのナビでもう一度方角を確かめると、地図に示された会社のビルへと歩を速めた。
「ピッ!」
 改札を抜けたのは、七時五十九分。まさに、ぎりぎりだった。
 厳襄げんじょうは、早鐘を打っていた胸の鼓動をようやく落ち着かせた。
 膝に手をつき息を整える間もなく、すぐそばから温厚そうな男の声が聞こえた。
「お嬢さん、ずいぶん早いねぇ」
 厳襄が視線を上げると、ロビーの警備員だった。先週の火曜日、入社手続きの際に一度顔を合わせている。
 彼女は口元を綻ばせ、「ええ、おじさん」と会釈した。
 実際のところ、環宇かんう医療の始業は朝八時、終業は夕方五時。彼女はたった一分前に着いただけにすぎない。
 警備員は霞む目を細め、彼女をじっと見つけた――眉目秀麗な顔立ちは、うっすらと桜色に染まっている。唇はまるで、ほころびかけた花の蕾のようだ。
 長い髪はうなじで無造作に一つに束ねられ、数本の乱れ髪が白い首筋に触れている。その計算のない様が、かえって知的な雰囲気を醸し出していた。
 物腰が柔らかく、親しみやすい顔立ち。一度見たら忘れられない。
 警備員ははっとして、「あんた、もしかして先週から働き始めた子かい?」
 厳襄は、「覚えていてくださったんですね、おじさん」と応えた。
 彼女の感じの良い物言いに、警備員は思わず笑みをこぼし、手を振った。
「覚えてたって、どうなるもんでもないさ。もうすぐクビになる身だからなぁ」
彼は「はあ」とため息をつく。
「新しい上司が来てな、俺は年寄りだからって理由で……」
 その後の言葉は、ぶつぶつとした呟きに変わり、聞き取れなかった。厳襄は特に気にも留めなかった。
 環宇医療の上層部にどのような異動があろうと、彼女のような一介の秘書には、さほど関係のないことだ。
 于永軍うえいぐんがまだ社長の座にいる限り、彼女が計画している告発は、必ずや何らかの進展を見せるはずだから。
 厳襄は気持ちを切り替え、指先を伸ばしてエレベーターの上昇ボタンを押した。間もなく手に入るであろう賠償金のことを思うと、あの卑猥な老人の顔を見ることさえ、なぜか待ち遠しく感じられた。
 この金が手に入れば、しばらくは息をつける。小満と過ごす時間も、もっと増やせるだろう。
 今朝、小満は分離不安を起こしていた。急な風邪で何日も親子でべったり過ごしていたせいで、今では幼稚園に行くのをひどく嫌がるようになってしまったのだ。
小満は不満そうに言った。
「ママ、前みたいに、ずっと一緒にいられないの?」
 娘が言っているのは、夫がまだ生きていた頃のことだ。
 あの頃は、陳聿ちんいつが働いて家計を支え、彼女は育児に専念していた。
 今はもう、無理だ。陳聿の事故の賠償金は彼の両親に奪われ、残された遺産は十数万元。住宅ローンを考えれば、ようやく収支が釣り合う程度だ。
 彼女が働かなければ、親子は文字通り、路頭に迷うことになる。
 三歳の子どもに理屈を説いても、全く通じないのは分かっていた。
厳襄はため息をつき、優しく語りかけた。
「夕方、ママがお迎えに行くからね。春雨ソーセージが食べたい?それとも綿あめ?」
小満はすぐに興味を移した。
「ラーティアオ(辣条)がいい!」
 娘を思うと、厳襄の眉は自然と下がり、目尻が優しく細められた。
 手のひらを握りしめると、胸の鼓動が穏やかになる。
 これから何が起ころうとも、冷静さを保たなければ。
 背後で突然、「ピッ、ピッ」と立て続けに二回、改札を抜ける音がした。
 厳襄が振り返ると、二人の男が前後して改札を抜け、大股でこちらへ歩いてくるのが見えた。
 先頭を歩く男はスーツ姿だ。広い肩幅、引き締まった腰、長い脚。まるでモデルのような体躯。
 さらに顔を見れば、短めの髪を左右に分け、剣のような眉はこめかみまで伸びている。鋭い鷹の眼差しは、深く沈んで水のように静かだった。
 薄い唇は固く結ばれ、口角はわずかに下がり、顎のラインは鋭く彫り込まれている。
 その動きには一切の無駄がなく、数歩で彼女の目前に迫った。
 無表情。圧倒的な威圧感。そして、ふわりと漂う木質のメンズコロンの香り。
 その気配に押され、厳襄は思わず二歩後ずさり、エレベーターホールのスペースを彼に譲った。
厳襄は内心、首をかしげた――
 この会社に、いつこんなスーパーモデルのような社員が入ったのだろう?入社初日に、全員を把握しきれていなかったのかもしれない。
 その時、彼の後ろにいたもう一人の男が目を細め、まるで旧知の仲であるかのように彼女に会釈した。
「おはようございます」
 厳襄は状況が呑み込めなかったが、すぐに「はい」と返した。
 その男は眼鏡をかけている。大きな目に厚い唇。誰に対しても柔和な、いわゆる人の良さそうな顔つきだ。
 彼がにこりと微笑むと、厳襄もつられるように目を細めた。
 エレベーターが到着し、二人が乗り込む。眼鏡の男は彼女に手を振り、素早く閉ボタンを押した。
 扉が閉まりかけた、その瞬間。厳襄はようやく顔を上げた。
 一瞬、それまで一言も発しなかった男と、視線が交錯した。
 彼は彼女を凝視している。その瞳は、冷たく鋭い。
 長く高い地位にいる者特有の、人を値踏みするような視線。そこには、一切の遠慮会釈がない。
 その吟味するような眼差しに、厳襄は背筋が凍るのを感じた。そして、エレベーターの扉が完全に閉じた。
 彼女はエレベーターの表示を凝視した。数字は六階で止まり、すぐにまた下降を始める。
六階。社長室と秘書課があるフロアだ。
 警備員の言葉を思い出し、厳襄はようやく確信した。
 彼女が休暇を取っている間に、この会社では多くのことが起こっていたのだ。
 もしかすると、于永軍でさえも、その影響を受けているのかもしれない。
 厳襄が六階に上がると、オフィスの様子は一変していた。
 元々手狭だった秘手課には、机と椅子が二組あるだけ。他はすべて撤去されていた。あれほど騒がしかった女性社員たちの姿はなく、部屋中に充満していた化粧品や香水の匂いも、壁一面を飾っていた水槽も消え、ただがらんとした空間が広がっているだけだった。
 厳襄は呆然と、その場に立ち尽くした。先ほど会ったばかりの眼鏡の男に声をかけられ、はっと我に返る。
「おい」
彼女は「はい!」と応えた。
 短く、強い語気。ひどく緊張しているのが自分でも分かった。
 柴拓さいたくはその様子に笑みを浮かべ、彼女に指示を出した。
「厳さん、三階の会議室を整えてくれ。九時にしょう社長が会議を開く。ああ、それからお茶も頼む」
邵社長?
 つまり……直属の上司が替わったということか?
 厳襄は躊躇いがちに彼を見つめ、承知の旨を伝えた。
 彼が従順に、状況を飲み込めぬまま指示通り階下へ向かおうとするのを見て、柴拓は親切心から声をかけた。
「于本部長は更迭された。今は邵社長がトップだ。俺は柴拓、邵社長の特別補佐をしている」
空気を読み、厳襄は応える。
「承知いたしました、柴補佐」
 彼女は踵を返し、足早に階段を下りていく。
 柴拓は目を細め、その背中が見えなくなるまで見送った。胸の内に、わずかな惜しさがよぎる。
 つい先ほど、エレベーターの中で、彼は厳襄の経歴を洗いざらい邵衡に報告したばかりだった。
「先ほどの社員は厳襄と申します。邵社長が着任される前日に入社し、直後に三日間の休暇を取得。本日が実質、二日目の出勤です」
 男は背筋を伸ばし、両手をポケットに突っ込んだまま、喉の奥で「ん」と短く応じた。
「役職は?」
「于本部長の秘書です」
 柴拓は、彼が微かに鼻で笑うのを聞き、内心で厳襄の不運を静かに嘆いた。
 休暇のおかげで粛清の嵐は免れたものの、よりによって出勤初日に新しい上司の逆鱗に触れてしまったのだ。
 彼らが本社からこの支社へ送り込まれて一週間。邵衡はその一日で、電光石火の如く于永軍という老害と、その取り巻きの女たちを排除し、ようやく社内が静けさを取り戻したところだった。
 そして自分が厳襄を記憶しているのは、ひとえに彼女の容姿のおかげだ。
 桃のようにほんのりと色づく頬、杏のように澄んだ涼やかな瞳。首都である京市に置いても、なお人の心を奪うであろう美しさ。
 なるほど、于永軍が彼女を懐に入れ、入社早々にこれほどの長期休暇を与えたのも無理はない。
 前任者は人として道を踏み外してはいたが、女を見る目だけは確かだったか、と柴拓が内心で感心していると、隣のボスが淡々と言い放った。
「会議が終わったら、荷物をまとめさせろ。解雇だ」
 彼は間髪入れずに「承知いたしました」と応じた。
 邵衡は生まれながらの冷徹さで、職場における縁故や情実を何よりも嫌う。ましてや、愛人を囲うなどという不埒な行為は論外だ。
 しかし、今は人手が足りない時期でもある。もし彼女が于と無関係であったなら、この厳襄という女の、黙々と仕事をこなし、余計な詮索をしない性格は、自分たちの下で使うには申し分ない人材だったのだが。
いかに惜しくとも、ボスの命令は絶対だ。

 三階はマーケティング部だった。デスクには数人の営業社員がまばらに座っているだけで、彼らも今しがた到着したばかりのようだ。
 始業時間も変更になったのだろう、と厳襄は推測した。八時だというのに、まだ誰もいないはずがない。
 彼女は顔認証で会議室に入り、また一つ安堵の息を漏らした。
 トップが代わっても、入退室のシステムはそのままだったのは幸いだ。もし変わっていれば、また柴拓の元へ上がっていかなければならなかった。
 準備を半ば終えたところで、ドアがノックされ、弾むような声が響いた。
「厳襄先輩!クビになってなかったんですね!」
 厳襄が振り返ると、そこにいたのは華やかで若々しい姿の孟宣彤だった。
 二人は同じ大学で同じ専攻の先輩後輩の間柄だ。厳襄が環宇医療への復帰を考えた時も、彼女から内部の事情を色々と聞いていた。
彼女は微笑んで言った。
「ええ。入社した途端に家の用事で休んでしまって、まだ右も左も分からないの」
 孟宣彤は唇に真紅のルージュを引き、ライダースジャケットにミニスカートという出で立ちで、厳襄が入社日に見た垢抜けない姿とはまるで別人だった。
彼女はくすくすと笑う。
「新しい社長が突然乗り込んできてね、新任者が最初にやるっていう厳しい改革よ。まずあの老いぼれを追い出して、次にコネ入社の連中を大量にクビにしたの。今日もまだ解雇は続くらしいわ」
 厳襄は思った。先ほどの柴拓の同情的な視線は、そういうことだったのか。どうやら自分も解雇対象者の一人のようだ。
彼女は尋ねた。
「退職金は支払われるのかしら?」
孟宣彤は首を横に振る。
「不正を暴かれて追い出されたのよ。損害賠償を請求されなかっただけマシってところね」
 厳襄の心臓が締め付けられる。いよいよ自分の立場が危ういと痛感した。
 タイミングが、ほんの少しずれただけだったのに。
 孟宣彤はその話を終えると、すぐに関心の的である話題に移った。
「先輩、もう邵社長には会いました?この後の会議、いらっしゃるかしら?」
 厳襄は頷き、手にしたグラスを黙々と磨いた。
孟宣彤は感嘆の声を漏らす。
「邵社長って、俳優みたいに格好いい上に、手腕もすごくて。本物のエリートって感じ……」
 あの日、邵衡が着任した時の光景は、まさに威風堂々たるものだった。漆黒のマイバッハが会社の正面に乗り付けられ、凄まじいオーラを放って現れたのだ。
 ちょうど社員の出勤ラッシュの時間帯だった。
 彼が長い脚を車から降ろし、一歩踏み出すごとに、周囲の空気が張り詰めていく。
 鷹のような鋭い眼差しに、すっと通った鼻筋、彫りの深い目元。その顔立ちは、以前、会社の周年記念イベントに招かれた芸能人よりもはるかに整っていた。
 誰もがあれは誰だと囁き合う中、彼はまっすぐに六階へと向かっていった。
 しばらくして、社内に噂が駆け巡った。老いぼれの于はもう終わりだ、新しく来た御曹司が彼を環宇から追い出すつもりだと!
 孟宣彤は両手を頬に当て、うっとりと夢見るような表情を浮かべた。
「先輩は知らないでしょうけど、あの日、于本部長が往生際悪く抵抗してたら、午後には邵社長が監査チームを連れてきたんですよ。もう、追い出されるどころか、刑務所行きになるところでした」
 彼女の言葉の端々から、邵社長への崇拝の念が溢れ出ているのを聞きながら、厳襄の心は焦燥感で満たされていった。
 于永軍が捕まったのなら、彼女が申し立てた労働仲裁はどうなるのか?
厳襄が口を開きかけた。
「それで、于本部長は今、会社に来られる状況なの――」
 その時、入り口の方がにわかに騒がしくなり、つい先ほど話題に上った男が大股で入ってきた。
 彼は眉根を寄せ、冷ややかな視線を投げかける。その射るような眼差しに、厳襄の背筋は瞬時に凍りついた。
 失脚した元上司の情報を探っているところを、よりによって新しい上司本人に目撃されてしまうとは――
 厳襄はそっと唇を噛みしめ、邵衡の眉間に刻まれた不満の色を瞬時に悟った。
彼女は低い声で孟宣彤に囁く。
「早く出ましょう」
 二人は身を寄せ合うようにして、小走りで出口へ向かう。無表情の邵衡の横を通り過ぎる瞬間、彼女の歩みに合わせて揺れるベルトの端が、微かに彼に触れそうになった。
 あまりに至近距離だったため、厳襄は彼が静かに息を吐く音さえ聞き取った。この予期せぬ接触が、彼の嫌悪感をさらに煽ったかのようだ。
 その推測が、厳襄の足をさらに速めさせる。彼女は一瞥もくれず、音もなく会議室のドアを閉めた。
 少し離れた廊下まで来て、二人はようやく同時に息をついた。
孟宣彤は胸を撫で下ろす。
「邵社長のオーラ、すごすぎる……」
 彼女はくすくすと笑い、また的外れなことを口走った。
「でも、やっぱり格好いいわよね」
 南城は省都とはいえ、この旧市街でこれほどの美男子に出会うことは滅多にない。ましてや邵衡のように、スタイルもスーパーモデル級の男など、なおさらだ。
 たまに顔立ちの整った男に出会っても、決まって身長が低く短足で、その魅力は半減し、興醒めしてしまうのだ。
 厳襄は上の空で、于永軍についてもっと詳しく聞こうとしたが、思いがけず、柴拓もすぐに到着した。



  タチヨミ版はここまでとなります。


秘め事秘書 ―冷徹な御曹司は、シングルマザーの秘密を逃さない―

2026年2月23日 発行 初版

著  者:浅霧 紬
発  行:ciansih

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牽絲

普通のことは、顔にはあまり出ません。 出るのは、迷ったこと、耐えたこと、選ばなかった未来。 私は面相を「運命決め」には使いません。 今どこで詰まっているのか、 何を手放せば楽になるのか。 そのヒントを、顔から読みます。

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