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港夜に禧あり —授かり婚は、溺愛のはじまり—

浅霧 紬

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  この本はタチヨミ版です。

第一話 翳りゆく夜の肖像

6月10日、隔年開催の某テレビ祭の授賞式が香港で行われた。
 会場入りしたスターたちの衣装も受賞結果もまだXトレンド入りしていないうちに、一枚の集合写真が突如としてトレンドを独占した。
 写真の中の女性は、サリの春夏オートクチュール、ストラップレスのロングドレスを纏っていた。白い薄紗には花の刺繍が散り、長い脚はレースに透けて、ちらりと見える程度。小さな顔に目鼻立ちだけが際立ち、顎をわずかに上げて――隣に立つ男性から、きっかり一メートルの距離を保っていた。
夏薇薇と陸宴舟。
 男性は濃い紫のフルハンドメイドスーツ。桃色がかった目尻の上がった瞳、薄底の革靴をだらりと地面につけ、まるで世界全体を、足元に敷いているような――そんな空気をまとっていた。
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【リアルタイムコメント欄】
「どこの天才が夏薇薇と陸宴舟を同じレッドカーペット歩かせたの?途中で殴り合いにならないか本気で心配なんだけど」
「二人の嫌悪感、目から溢れ出てるじゃん。一瞬も視線合わせなかったし、相手を見たら穢れるとでも思ってそうwwww」
「でもさ、犬猿の仲なのにビジュアルの相性だけは最高なんだよね。私のために付き合ってくれない?」
「目を合わせるのも面倒くさがってる二人が、まさかベッドまで……?」
「ははははは、愛憎入り混じった関係ってやつじゃん」
「ありえない。あの二人は互いに殺し合うことはあっても、絶対に恋愛はできない」
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 過去の"名場面"を掘り起こすユーザーも続出した。
 かつて夏薇薇がイベントに出席した際、陸宴舟はライバル女優を持ち上げる投稿をリポストし、「あの大規模ショーでは彼女だけが異様に美しかった」と褒め称えた。翌日、陸宴舟がグレーのスーツ姿で経済誌の表紙を飾ると、夏薇薇は撮影中の祭祀シーンのロケハン写真をXに投稿し、墓碑を映しながらひと言添えた。
「これと同じグレーじゃない?」
 二人はSNSのあらゆるプラットフォームで暗に相手を刺し、嘲笑い合い、そのたびにネットユーザーたちを熱狂させてきた。
 一方は女性トップスター。もう一方は香港で絶対的な影響力を誇る御曹司。どちらも並外れた話題性を持つゆえに、業界関係者は普段、二人が同じフレームに収まることを本能的に避けていた。
 今日は、生きていてよかったと思える一日だった。
 もっとも、それも道理である。夏薇薇は昨年、プラットフォームで視聴回数1億を突破する作品を世に送り出し、今年は最優秀主演女優賞を狙って香港入りしている。陸宴舟は地元・香港の名士として、公式招待されるのは当然のことだった。
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 会場内、最前列には五つの大きな円卓が並んでいた。夏薇薇は中央よりやや右のテーブル、端の椅子に腰を落ち着けていた。真ん中のCポジションは、ベテランの大物芸術家や資本家たちのために設けられている。
 静かに座っていると、不意に耳元に耳障りな声が降ってきた。
「トップ女優様じゃなかったの?どうして真ん中に座れないわけ?」
夏薇薇はゆっくりと白目を剥いた。
「お姉さん、私まだ二十五歳なんですけど。先輩を敬うって知らないの?」
 国際賞を総なめにしてきた四十代・五十代の大物たちが並ぶ席に、自分が割り込んで何になるというのか。
「正確には、まだ二十五歳の誕生日も来てないから、今は二十四歳ね」
 夏薇薇の口調は一瞬で憐れみを帯びたものに変わった。
「お姉さんって今年、二十九歳でしたっけ?」
 話しかけてきた女性の顔が、みるみる強張っていく。
 夏薇薇は無邪気な顔で、目だけをきらりと輝かせた。
「怒らないでよ。顔、たるんじゃうから」
 その女性は大きく息を吸い込み、なんとかこらえて、しょんぼりと立ち去っていった。
 夏薇薇は口元に勝ち誇った笑みを浮かべる。まんまと罠にはめた小狐のような顔で、ふと視線を流した瞬間――思いがけない人物と目が合った。
陸宴舟が、こちらを見ている。
……なんで?
 夏薇薇はすかさず笑みを消し、椅子を引いて姿勢を正した。
「阿舟、何を見てたんだ?」
 業界で数々の賞に輝く大物監督が、陸宴舟の視線が左へ向いていたことに気づき、同じ方向を眺めた。
その瞬間、陸宴舟はさっと目をそらした。
「別に」
監督は信じなかった。
「今夜のノミネート者たちが華やかで、つい目で追っていただけだ」
 監督は豪快に笑った。「どの子が気に入ったか教えてくれよ。一言口をきいてやるから」
 少し間を置いて、監督は付け加えた。「この前、君のお父さんに会ったら、まだ身を固めていないって心配してたぞ。良家の令嬢を探してるとか。遊ぶのは構わんが、節度はわきまえろよ」
 陸宴舟は薄い唇の端を、皮肉めいた形に引き上げた。
「あの老爺さん、人の心配している暇があるんですね」
 監督は苦笑する。父親の女好きは今さら言うまでもないが、その血を受け継いだこの男の飄々とした態度もなかなかのものだ。改めて陸宴舟を見ると、目の下にうっすら滲む隈と、シャツの襟に深く隠された、かすかな赤みが目に入った。
「まだ若いんだから、体だけは大事にしろよ」
 監督が意味深に言うと、陸宴舟はすぐに察して、どこか放埒で達観した笑みを浮かべた。
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 陸宴舟は今年二十五歳。陸氏グループに入って、まだ二年目だ。
 生まれつき型破りで、縛られることを嫌う男だった。十八歳の成人式には学校の屋上から赤い札束をばら撒き、我先にと群がる人々を高みから眺め下ろした。二十歳ではマカオのカジノを遊び尽くし、紙と金と酒と女が渦巻く世界の頂点に、涼しい顔で立っていた。
 彼のいる場所は、どこであれ自然と人目を引いた。シャンパンも、高級車も、美女も、尽きることがない。傍らに誰かがいることなど、日常の一コマに過ぎなかった。
 美女を愛し、美女を称え、チャンスを与えることも惜しまない。かつて香港のメディアは、陸宴舟が北京に来れば夏薇薇を口説くだろうと予測していた。
 しかし現実になったのは、その真逆だった。
 二人が互いを犬猿の仲と見なしているという事実が、先に世間に知れ渡ったのだ。
 なぜ陸宴舟が夏薇薇を嫌うのか――今に至るまで、誰も知らない。
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授賞式は滞りなく進んでいた。
 メディアは虎視眈々と、陸宴舟と夏薇薇の視線が交わる瞬間を狙い続けていた。この二人の話題性は別格で、たった一枚のツーショットだけでXトレンドを独占し、他の受賞者がどれだけ話題を作ろうとしても、割り込む隙すら与えない。
 しかし一時間以上が経過しても、二人が目を合わせる瞬間は一度も訪れなかった。いったいどれほどの因縁があれば、同じ空間にいながらここまで徹底して相手を空気扱いできるのか。
そしてついに、司会者が口を開いた。
「最優秀女優賞――夏薇薇さんに授与いたします」
 これでさすがに撮れる。メディアはそう確信した。ディレクターも機を見て、カメラを素早く陸宴舟へと切り替えた。
 画面に映し出されたのは、シャープな顎のライン、高い鼻筋、鋭い目。その目は手元のスマートフォンに向けられたまま、唇は真一文字に結ばれていた。
 周囲の人々は一斉に拍手を送っている。先ほどまで夏薇薇を嘲笑っていた女優でさえ、無理やり笑顔を作っていた。
陸宴舟だけが、明らかに違った。
【リアルタイムコメント欄】
「薇薇が受賞して、陸社長マジで顔死んでる。必死に耐えてるじゃん笑」
「陸社長、今すぐこの場から消えたい顔してるwww」
「去年、薇薇は二本の脚本を失ったけど、あれって誰も見向きもしなかった作品じゃん。それを薇薇が拾って大逆転。うちの薇薇、逆境専門すぎて爽快すぎるwww」
「ていうか、あの二本の脚本が消えたの……陸社長が裏で動いたんじゃないかって疑ってる」
「それはさすがにないでしょ。陸社長が本気で潰しにかかったら、芸能界にコネもない薇薇なんてとっくに干されてるよ」
「夏薇薇が生き残ってるのは演技力と美貌があるからだって。あの年齢でトップスターなんだから、陸宴舟だってそう簡単には手出しできないでしょ」
「陸社長が笑った。終わった。薇薇のことが心配でハラハラが止まらない」
 画面の中の男は、依然として変わらぬ姿勢のまま。
 ただ、唇の端がほんの少しだけ上がっていた。
夏薇薇には、やはり一瞥もくれなかった。
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 【ご指示通り、セッティング完了しました】
 メッセージに続いて、一枚の写真が届いた。
 淡い紫のマンタローズが、まるで海のように床一面に広がっている。ほの暗いキャンドルの炎が揺れ、画面越しでも香りが漂ってきそうなほど、幻想的な空間だった。
続いて、頭をかくスタンプ。
陸宴舟は返信しなかった。
すぐに次のメッセージが飛んできた。
【二哥、本当に告白するつもりなの?】
【ああ】
 【彼女は俺と一年間、ずっと一緒にいてくれた。ちゃんとした名分を与えてやりたい】
 グループの向こうで、三人が同時に固まった。
 ――二哥のそばに、いつの間に女がいたんだ?
 二哥はどこへ行っても女の子に囲まれるけど、あれはただの社交辞令。プライベートでは潔癖で、メスの蚊一匹も近づけないような男なのに。
しかも一年も。
 【それに、相手は俺のことが大好きだ。体を壊したままにしておくわけにはいかない】
三人は黙った。
陸宴舟、責任感が強すぎる。
 自分は愛していないのに、地位だけは与えるのか。
 相手は感激のあまり泣き崩れるんじゃないか。陸宴舟のガールフレンドという肩書きを欲しくない女なんて、この世にいるものか。
 三人の脳裏に、ほぼ同時に同じものが浮かんだ。
 ついこの前、陸宴舟がイギリスのオークションで天文学的な金額を叩いて落札した、伝説のダイヤモンド。惑星の破片とも呼ばれる、あの石のことが。
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 夏薇薇が表彰台を降りると、授賞式はすでに終盤に差し掛かっていた。
 彼女はスマートフォンを手に取り、Xにログインして、今夜起きたすべてのことを眺めた。特に――陸宴舟の、あの冷たく端整な横顔を。
嫌われているのだろうか。
 夏薇薇はLINEの連絡先を開いた。「L」とだけメモされた相手。最後のメッセージは昨夜の七時に届いたものだ。
【Lより 着いた。部屋番号7701】
毎回、7701。
 この数字に、何か特別な意味でもあるのだろうか。
 明日は北京に戻る。だから今夜、もう一度会っておきたかった。
 彼と過ごすと、体の隅々まで解きほぐされる。つま先から頭のてっぺんまで、熱が満ちていく感覚。
メッセージを送ろうとした、その瞬間。
 式典が終わり、人々が続々と会場を後にし始めた。
 そして――夏薇薇の目当ての役をもらえなかったあの女優が、またしても諦めきれない顔で近づいてきた。
 夏薇薇は最初から気づいていた。静かにスマートフォンの画面を消す。
「夏薇薇、あなたがいつまでも調子に乗っていられると思ってるの?」
 女は、陸宴舟が彼女に向けた態度を見逃していないかと確かめるように、受賞の瞬間の陸宴舟の無表情な顔を突きつけてきた。
 陸宴舟に睨まれたら、賞を取ったところで何になる?干されるのは時間の問題よ――そう言いたいのが、顔に書いてある。
夏薇薇はきゅっと口元を結んだ。
 女はますます得意げになり、見下すような視線を向けてくる。
夏薇薇はすっと立ち上がった。
 きちんと立つと、相手の女は少し顔を上げなければ視線が合わせられない。
「陸宴舟の左胸に、どんなマークがあるか知ってる?」
 夏薇薇はうつむいた。一筋の前髪が、耳元からはらりと垂れる。
 女が警戒の目を向けた次の瞬間、信じられない言葉が耳に届いた。
「ピンクのほくろよ。彼の頭に生えてるの」
「あんた……っ」
 女は顔色を変えた。声を荒げかけて、でも周囲の視線に気づいて、かろうじて飲み込む。
 夏薇薇はにっこりと、あどけない笑みを浮かべた。
「信じられないなら、陸宴舟本人に聞いてみたら?」
 それだけ言って、女のことなど最初からいなかったように、さっさと歩き去った。
 女はしばらく呆然として、マネージャーに肩を揺さぶられてようやく我に返った。
 ――嘘に決まってる。夏薇薇が嘘をついているんだ。
 あの二人が犬猿の仲なのは、業界中が知っていること。なんて馬鹿なんだ、自分は。絶対に陸宴舟に言いつけてやる。夏薇薇、干される準備をしておけ。
 一方、夏薇薇は控え室へ戻る廊下を歩きながら、Lにメッセージを送った。
 【マンタより いつもの場所、10時、7701】
 画面を閉じようとして――母からのメッセージが目に入った。
 【母より アツ、受賞おめでとう。もうすぐ誕生日ね、何が欲しい?当日は必ずママのために空けておいてね。家でバースデーケーキ作って待ってるから】
 6月30日。彼女の25歳の誕生日まで、あと少し。
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7701号室のドアベルが鳴った。
 ドアが細く開いた瞬間、夏薇薇は両腕を広げてその隙間に飛び込んだ。
室内は暗い。
 二人分の息が乱れ、重なり、静寂を塗り替えていく。
不意に、陸宴舟の動きが鈍くなった。
 夏薇薇は眉をひそめ、手を伸ばして彼のネクタイを掴む。そのまま、ぐっと引き寄せた。
男は内心で笑った。
 ――やっぱり彼女は自分のことが好きなんだ。こんなに飢えているなんて。
「早くして。午前2時の飛行機で北京に戻りたいんだから」
「早くして、か」陸宴舟の声にはからかいが滲む。「それで君を満足させられると思う?」
 夏薇薇の声がこもった。男の喉から、低い笑いが漏れる。
何を笑ってるの……。
 不満だったが、幸い陸宴舟は本当にペースを上げた。
「ちっ、噛むなよ。今日は人に見られそうになったんだから」
 首に痛みを感じながら、でも制止しようとはしない。
 どうせ女の子に残っている力などたかが知れている。長くは続かない。
男の手が彼女の耳に触れ、甘く囁いた。
「もっと強く噛んでみて」
 さっきまで噛むなって言ってたのに、今度は噛めって――この人、本当に……。
 罵ってやろうとした次の瞬間、夏薇薇は柔らかい布団の中に倒れ込んでいた。
――静かだった。
 しばらく放心したまま、手を伸ばして明かりをつける。視界に飛び込んできたマンタローズが、夏薇薇の瞳をさらにぼんやりとさせた。
 陸宴舟はベッドのヘッドボードにもたれ、右腕の中で丸くなっている夏薇薇を見つめていた。
 彼女は背を向けている。白い肌にほのかなピンクが透けて、まるで雪のように柔らかそうだった。
 男の視線がゆっくりと下へ移り――肩甲骨の下の、小さな赤いほくろに止まった。
 触れようと手を伸ばした瞬間、夏薇薇はバスローブをまとって浴室へ歩き出した。
「今さら逃げる気か?」



  タチヨミ版はここまでとなります。


港夜に禧あり —授かり婚は、溺愛のはじまり—

2026年2月27日 発行 初版

著  者:浅霧 紬
発  行:ciansih

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普通のことは、顔にはあまり出ません。 出るのは、迷ったこと、耐えたこと、選ばなかった未来。 私は面相を「運命決め」には使いません。 今どこで詰まっているのか、 何を手放せば楽になるのか。 そのヒントを、顔から読みます。

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