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夜明け間近、どんよりとした空が広がる朝だった。山岡弘明は白のポロシャツとショートパンツに身を包み、真新しいドロップハンドルを握ると、ペダルを漕ぎ出した。
アパートが並ぶ警察官舎の中、両親が道の真ん中に立っていた。「来なくていい」と言ったのに、まるで戦地へ向かう子を見送るような悲壮感を漂わせている。
だが弘明は振り返らず、軽く手を上げると、ペダルに力を込めた。その途端、後ろの荷物の重みでバランスを崩し、ふらついた。すぐに立て直し、官舎の外へ向かった。
――出発早々、倒れては様にならない――と、弘明は自分に言い聞かせた。
昭和44年8月。それは家出だったのかもしれない。高校生最後の夏休み、一人で旅に出たかった。昨年、中学の友人と二人でヒッチハイクの旅に出たが、道半ばで頓挫。そして今年、友人は単身で自転車旅行に出たと聞いたのは、夏休みに入ってすぐだった。
(負けて堪るか――)
その思いが、弘明の中で火をつけた。
煮えきらない彼女の心をつかめるかも知れない――そう目論んだ。
念願の県立高校に入りながら、弘明は成績が振るわず得意な野球も辞めた。なにをやっても上手くいかず、自分はいったいなにが出来るのか……疑心暗鬼になっていた。
そんなあかんたれで、どうするの――という母の言葉が、頭から離れなかった。
そんな時を経て2年の夏、彼女ができた。俄然生き返った。だが3年になり、彼氏の影が見え隠れした。誰か好きな奴が……、それとも天秤にかけているのか、不安だった。
(このままでは大学も覚束ない……)
そう思うと、焦らずにはいられなかった。
なんとかせな……と焦っていた時、友人の北海道行きを聞いて、発奮した。
それに少なくとも自転車で旅行する間は、実家から出られる。長い夏休み、それでなくとも暇を持て余し、すっかり饐えていたのだった。
ハンドルを立て直した弘明は、五段変速を最速にして一路西へ。青山高原から奈良へ抜け、紀ノ川沿いに和歌山を目指す。そして国道42号線を下り、紀伊半島を一周する。
途中、熊野の同級生の家に泊り、次に紀伊長島の同級生は家が旅館で、そこに泊まる。最終目的地は松阪、そこで彼女の家に寄る――そこまで6泊7日の計画だった。
(紀伊半島一周したら、きっと彼女は俺を見直す……)
その一念で弘明は走った。
早朝に走る津の平野は穏やかだった。吹き寄せる風に気を良くしながら、ふと振り返ると、遠く夏空が伊勢湾上空まで広がり、棚引く雲がどこか両親の立ち姿に似ていた。
(それが嫌で、俺は出てきたのだが……)と、弘明の心は複雑だった。
やがて道は狭い旧道から山道に変わる。途中地図を見て、村人に聞いて坂を登った。
背より高い芒の原に入り、進む道さえ分からない。まるで自分の生き様そのもののように、足元を見ながら道なき道を探し、前に立ち塞がる芒を手でかきわけながら進んだ。
と、その時、「ドドドドッツ――」と、腹まで届く地響き――思わず弘明は、サドルの下へ身を伏せてしゃがむと、たちまち地響きは大音響に変わる。あっ――と思う間もなく、前を塞ぐ芒の林がパカッ――と割れたかと思うと、ドッと奥からナナハンが現れた。
(もう少し先へ進んでいたら――)
恐らく猫でも引き殺すかの如く、太くてごつごつしたタイヤに引かれていただろう。
しゃがんで怯える弘明に、皮のマスクで覆面をしたバイクの男が叫んだ。
「すまん、悪いな――、道ふさいじまった。ほらっ、先行って――」
その言葉に面食らった。幾らガタイのでかい弘明でも、まだ高校生である。
そんな若造に、彼は明らかに年長なのだが、言葉遣いも接する態度も随分遜っていた。
――遠距離を走る時、自転車はバイクより上で、それよりヒッチハイクが更に上――それが旅をする者の不文律……だと、弘明が知るのは、もう少し後のことである。
だが弘明は嬉しかった。感激した。なにしろ自分が一人前に扱われたのである。
もう後ろを振り向かなかった。どんな坂でも音を上げず、まっしぐらに突き進んでいった。
その日和歌山に着いたのは深夜だった。叔父が買ってくれた速度計の目盛りは、180キロを超えていた。途中、なぜか弘明は奈良の街を避けて、紀ノ川沿いを西へ走った。実は奈良は、去年の旅で頓挫した所。だから無理して和歌山まで長躯したのだった。
途中、碌に飯も喰わず、喉が渇くたびに自販機でコーラを買って飲んだ。一度飲んだら病みつきになった。喉は潤ったが、ショートパンツの股は擦れ股間がヒリヒリ熱かった。
深夜に辿り着いた和歌山は初めての街、高校生一人が泊まる所などあるはずない。『煙となんとかは高い所へ昇る』ではないが、暗い街の中を見渡せば、遠く照明を受けて光る和歌山城が目についた。いざ石垣の上に聳える白壁へ向けて、自転車を走らせた。
だが着いてみれば、どこまでも続く石段、仕方なく自転車を担いで登った。
ようやく天守閣の広場に着くと、中ほどに東屋とベンチがある。疲れ果てて、そのままベンチにへたり込む。ふと、自転車を盗まれるかも知れない……と思うと、車体を抱いて横になった。寝そべって空を見れば、真っ暗な中に天守閣が浮かんでいる。
その向こうに満天の星……こうして弘明の紀伊半島一周の旅は、初日を終えた。
どれほど時間が経ったか、ベンチの板が背中に喰い込み、その痛さに目が覚めた。
朝6時に家を出て、和歌山に着いたのが夜の十時過ぎ。約180キロを、食事や休憩の時間を除き、15時間で走った。時速にして12キロ、若いといっても限度がある。
しかも青山峠を下りてからの日差しで、顔から腕から太腿まで真っ赤になっていた。
――飲んだコーラは優に1ダース。それで歯が3本抜けた。どうやらチクロの所為らしい。当然母にこっぴどく叱られるのだが、それは後日談である――
なんとか寝ようとしたが、なぜか深夜でも人の出入りがある。寝入ってしまうと自転車を盗まれるかも……と思って、荷造り用ベルトで体に縛りつけた。疲労と寝不足で頭が朦朧としている。そんな格好で寝られるはずもないが、悶々と目を瞑って横になっていた。
そのうちにまた目が覚めたのは、男女の言い争う声だった。
奥のベンチに座った二人が、深夜の城跡で揉めていた。
高校生の弘明には、会話の内容は分からない。
ただドロドロと話が続き、夜も明けやらぬ城跡で言い募る二人……。
それがエスカレートして、最後はつかみ合うのではないかと思うと、気が気ではない。これはヤバイと思った弘明は仕方なく起き上がる。だが寝相が悪かったのか、自転車を縛った紐がまとわりつき、二重三重に絡まるばかり。自分で縛っておきながら腹が立った。
最後は無理やり引っ剥がし、荷物をまとめると早々に天守閣の広場から抜け出した。
(選りにもよって、なんで俺はこんな所へ登ったのか――)
やはり寝られないというのは応えた。闇雲に怒りが込み上げてきて気が収まらない。
根は神経質なのだが、弘明は気が短い。幼い頃から、酒を飲むと人が変わる父だが、酒を飲まなくても気に喰わないとすぐ怒る。
ああはなるまいと思うのだが、血は争えない。
一人ぶつぶつ文句を言いながら、城跡を出た頃には夜が白んできた。
睡眠不足だが空腹感はない。股がサドルに当たらぬようにして速度を落とした。
だがサーカスでもあるまいし長くは続かない。
最後は自転車を押して国道42号線へ戻った。
海南から蜜柑で有名な有田を通り、御坊の手前で国道沿いの店に入った。そこで饂飩を食べてソーダを飲んだ。もうコーラの瓶は見たくなかった。
午後3時過ぎ、弘明の疲れはピークに達していた。
気がつくと国道42号線を外れ、朦朧としたまま町中へ入り込んでいた。
とにかく南へ向かえばいいと闇雲に進んでいた。
だが、頭の中のジャイロが狂ったかのように、まともな判断がつかなくなっていた。
(これはいかん)そう思い、自転車を降りて道路沿いの店を物色する。
その町は田辺だった。紀州路でも有名な観光都市・白浜まであと少し。
まだ少し時間は早いが、どこか野宿できる場所を探すつもりだった。
すると、町家の外れの脇道に一軒の時計屋を見つけた。
何気なく覗くと、片目に丸いレンズをつけた親父さんが座っていて、いかにも精密な時計を弄っている。その風体に、弘明はどこかで見た気がした。
背を丸めて、その毛のない頭を外に向けて一心不乱。それを見て弘明は、なにを思ったか店の前に自転車を止め、ちょうど親父さんの正面に立った。
その瞬間、日が陰ったせいか親父さんが顔を上げ、前に立つ弘明と目があった。
弘明は思いきってガラス戸を開け、親父さんに声をかけた。
「すみません、白浜へ行くにはこの道を下ればいいのでしょうか?」
だがそれは嘘だった。
すでに弘明は道路標識を見て、白浜の町はまだ先だと知っていた。
(俺は一体、何をしているんだ……)
やはりどこか尋常ではない。だが親父さんは特殊なレンズを目に着けたまま、まじまじと弘明の顔を見る。そして腰を少し上げて、店の前の自転車を眺めた。
「どっから来たんだね?」
それはほっとする物言いで、親父さんは弘明に問いかけた。なにしろ店の中はクーラーが効いている。中へ入ってから、汗に塗れた弘明のポロシャツは瞬時に渇きはじめた。
「はい――、津から来ました」
「津……、そりゃあ遠くから。その自転車で?」
「はい、紀伊半島を一周します」
「ああ、いいねそれは……。まあここへ座んなさい。冷たいお茶でも入れてあげるから」
そう言うと親父さんは、弘明の返事も聞かず奥へ入っていった。
時計屋の店内は、間口の割に奥が狭かった。ガラス戸を開けると、土間に小さなガラスケースがあり、奥に畳敷きの仕事場が幅を利かしている。親父さんに勧められるまま、弘明は土間の丸椅子を引寄せ、汚れたショートパンツを気にしながら、そっと座った。
それにしても店の中の涼しさは、あまりに魅力的だった。あれこれと聞いてくれる親父さんに、弘明は取りとめのない返事を返す。
結局、一杯のお茶が二杯となった。そこで弘明は礼を言って立ちあがり、改めて道を訪ねた。親父さんは親切にも一緒に外へ出て、道案内をしてくれた。
だがそのゆったりとした口調で説明してくれる道順は、白浜のそれではなく、親父さんの家だった。なんでも店と家は別で、自宅は市街地の中にあるという。
「今夜は、うちへ泊りなさい――」
親父さんから思わぬ言葉が出た時、母の顔が浮かび、断らねばと思った。だが親父さんは耳を貸さない。店の前に立って、いよいよ泊れと言う。
「うちは息子も独立して、家内と二人だけだから。それにもう日が暮れる。走るのは明日にしなさい」
そう言われると、一度クーラーの中で休んでしまった弘明の体は、もう抗えない。だがやはり遠慮しようとすると、親父さんはまるで拉致するように立ちはだかる。
「ちょっと待ちなさい――」
そう言うとバタバタと店仕舞いして、横合いから古びた自転車を出してきた。
「ついてきなさい、すぐそこだから」
そう言って弘明を誘った。まだ日は西に高かった。
店から家までほんの数分。親父さんの家は立派なものだった。
前の通りは旧道であろう、いかにも狭い。だが、立ち並ぶ家々の甍は豪勢で、掃き清められた路地といい、まるで京都の町屋風そのものだった。
親父さんは一段高い土間へ自転車を載せると、弘明にも催促した。その所作は名のある落語家にも似て、高座から扇子で追いたてられるみたい。初対面とは思えなかった。
夕暮れの町は、どこかで花火でもやっているのか、浜風にのって淡い硫黄の匂いがした。(夏だなあ……)と思いながら、自転車を置いた弘明は、もう一歩も歩けない気がした。
そんな弘明を玄関へ誘うと、親父さんは戸を開けて奥へ声をかけた。前もって電話したのか、弘明が手で太腿を引き上げるように階段を登ると、土間に立った夫人が驚く。
「まあ――大きな体がまるで茹でダコみたいに、真っ赤に焼けて――」
確かにショートパンツから出た弘明の太ももは、伊勢湾特有の大蛸を茹であげたように焼けている。それに身長175センチの弘明だが、その太腿のまわりは頭よりもでかい。その弘明が親父さんの横に並ぶと、背丈は元より、そのガタイに驚くのも無理はない。
そんな弘明に、まるで初対面とは思えない応対で、夫人は中へ誘ってくれた。
「さあ――、上がりなさい」
そう言って親父さんは奥へ。弘明は上がり縁に坐ろうとして躊躇した。なにしろ新品のバッシュが見るも無残に汚れ、靴下は見たくもない。腰を折るだけで至難の技。太腿から股関節そして大事な所まで感触が鈍い。
それは軟球ではなく、慣れぬ硬球が当たった時を思い出す。
それでも相撲の土俵入りよろしく、股を割って腰を下ろすと、ほっと一息。
もし自宅ならシャツもパンツも脱ぎすて、風呂場に直行していたであろう。
「いや――、お兄ちゃんがパンツで走っとる――」
自宅なら妹がそう言って騒ぐはずだが、今はそれも懐かしい。ふとそんなことを思って、声もなく笑った。だがすぐ後悔した。日焼けした顔が、血のへたを剥がすほど痛かった。
「はい、これで冷やしなさい。そのままお風呂に入ったら、ほんとに茹でダコよ」
夫人の言葉が終わらないうちに、親父さんがバケツに水を入れて持ってきてくれた。
(死んだおじいちゃんも、生きていたら、きっとこんな風に……)
腰を下ろした弘明は、親父さんが持ってきてくれたバケツに足を入れる。その有難さに涙が流れた。慌てて首のタオルを顔に当てて、誤魔化した。それから風呂へ案内され、汗を流して居間へ戻ると、晩御飯が用意されていた。
食事というものは目で見て、香りを嗅ぎ箸で口へ運び、噛み砕くまで楽しむものである。つまり五感を研ぎすまして食べる訳だが、やはり団欒があればこの上ない。だからこそ家族との食事は重要であり、毎日続く平凡なことなのだが、実はそれこそが幸福であろう。
その夜弘明は、初対面の老夫婦と共に、束の間の団欒を過ごすことができた。
床の間を背に、笑顔でどっかり座る親父さん。
それに夫人は、お勝手で懐かしい音を奏でながら、手際良く料理を用意してくれた。柔らかい惣菜、新鮮な刺身、粒が浮きたつ白米、そして具沢山の味噌汁と、どれも絶品だった。
気がつけばご飯を三度、味噌汁も二杯、弘明はお代わりした。
全細胞が奮いたち、体の隅々までエネルギーが充足されていった。
「久しぶりですね、お父さん。こんな食べっぷりを見るのは」
「そうやなあ……」
「また息子が、帰ってきたみたい……」
二人の会話の裏に、どんな事情があるのか分からない。だが互いに相槌を打ちながら、弘明を見る目は優しかった。
ふと目が合った時、(泣いてる……)と、弘明は思った。
慌てて目を逸らした弘明だが、奇妙な縁を感じながら、束の間の団欒を味わっていた。
お茶を飲もうと湯呑を持つと、そこに茶柱……弘明の胸に響く。だが自然の摂理か、意思とは別に体が弱音を吐く。急速に瞼が重くなり、そのまま寝てしまいそうだった。
「おはようございます……。ゆっくりで良いけど、朝ごはん……どうぞ」
襖の向こうから、そんな声かけが聞こえて、弘明は目を覚ました。
「はい――、すみません、すぐ起きます――」
「いえいえ、うちは良いのですよ。今日は雨だし……、ゆっくりしたらどう?」
そんなやりとりを襖越しに夫人と交わした弘明は、とにかく起きあがった。だが自分がどこにいるのか分からない。ただ分厚くて軽いフトン、それに匂い立つ畳。シャツとパンツで寝ているのを自覚し、ああ時計屋さんの家の二階だと、今更のように気がついた。
夫人の言葉通り、窓の外で雨がシトシト降っている。それは本当に耳障りのいい音で、このまま雨音を聞きながら寝ていられたら……そう思うほど、寝床は天国だった。
だがそんな暇はなかった。枕元の腕時計を見て、慌てて起きあがるとフトンを畳んだ。そこは整然と片付いた八畳程の部屋、床の間に何本ものトロフィーが並んである。その中にフォトフレームがひとつ、(息子さん……県道部か)と、弘明は目敏く見つけていた。
だがその前に、あの薄汚れたシャツとショーパンが折り畳んで置いてある。恐らく、夕べのうちに夫人が洗ってアイロンをかけてくれたのだろう。さすがに下着はビニールに包んで、バックの奥へ入れていた。そこに着替えもあるが、せっかくなので洗い立てを身につけた。
「おはようございます――」
そう言って身支度を終えた弘明は、幅広の一枚板の階段から居間へ入った。すでに食卓には朝食の準備が整っている。親父さんは、夕べと同じ場所で新聞を読んでいた。
「よく……、寝られたかな?」
そう言って、鼻眼鏡の上目遣いで問いかける。
「はい――、バタンキュウーで、熟睡しました」
弘明はそう言うと、遠慮がちに膝をついて座布団を使った。ちょうど居間のテレビが天気予報をやっている。見るとはなしに声を聞いていると、それは尋常ではなかった。
「現在、台風9号が九州の南海上から北東へ向かって……」
あっと思ってテレビを見ると、進路予想図が出ている。
それを見れば、予想範囲の扇の真ん中に和歌山県が位置している。
えらいものを見てしまった……と、弘明は深刻だった。
「今日は、やめなさい――、こんな日に42号線を下るのは、危ない――」
広げた新聞を倒して親父さんが言う。それはもっともなのだが、そうはいかない。
初日は約180キロを走ったが、昨日は田辺まで75キロしか進んでいない。全行程500キロを4日の計画だから、1日150キロとして、なんとか予定通りになっている。だが台風を避けてもう1泊すると、親に約束した1週間では足らない。
それを守るには、今日中に熊野へ行かなければならない。初日の青山高原も難所だったが、国道42号線はこれから本格的に山超え谷超えの難関が待っている。それだけに今日立たねばならない。そして予定通り松阪へ着いて彼女を訪ねれば、きっと男が上がるはずだった。
「今日は……、とにかく進んでみます」
弘明はきっぱりそう言った。親父さんの引止めはありがたいが、ここで足止めを食らう訳にはいかなかった。6泊7日で帰らなければ、彼女の誕生日に間にあわないのである。
「今日は無理だ。もう一泊していきなさい」
朝ごはんを食べおえた親父さんが、お茶を飲みながらそう言う。
「そうですよ。台風がこちらへ向かっているのに自転車で走るなんて、そんな無茶な」
夫人の言葉には取りつく島がない。それはもう本当の母と同じ顔をしていた。そんなご両人に、いくらなんでも――彼女の誕生日に間にあわない――とは、弘明も言えなかった。
食事を終えて、弘明は自転車を整備すると言って玄関前へ出た。そこで空を窺うと、山の方は上天気だが、海はと見ればどす黒い雲。頬を伝う風は台風が来る前兆を示している。
弘明も、野球部を辞めた秋から山岳部に所属し、幾らか天気予報の知識があった。頭の中に天気図が浮かび、そこに日本列島へ向かう台風の輪を思い描くと、心細くなった。だがそれでも、北海道へ向かう友人の顔が浮かぶと、あとはもう進むしかなかった。
「先に進みます……、でも無理ならまた引きかえして、お世話になってもいいですか?」
「ああ……、分かった。駄目だと思ったら、必ず戻っておいで……」
親父さんが納得してくれた。だが弘明は、言わずもがなのことを言ってしまった。
「大丈夫です。自分は山岳部に所属していて、今年の冬に南アルプスへ登るために、この旅行を計画したんです。体力には自信がありますし、熊野に友人がいますから」
どこからそんな言葉が出てくるのか、弘明は不思議だった。だが進むしかなかった。それでも引き止めるご夫婦に、絶対無理はしないと約束して、十時過ぎに出発した。
そこから町を出るまでは順調だった。
国道42号線へ出ると、なんとか痛む尻もサドルに慣れ、ドロップハンドルを握りながら、路側帯の白線を追ってペダルを漕いだ。嵐の中を突っ切って、彼女がこの日焼けを見たらなんと思うか、それだけを考えて走った。
それは太古から若者の特権であろう。見知らぬ海へ、見定めた目標に向かって丸太舟を繰りだす。若さとは情熱であり、それは神が与えた一種の狂気なのかも知れない。
国道42号線を南へ下る弘明は、徐々にきな臭い空気に包まれていった。
生ぬるい風が体を包み、顔から汗が吹きだす。
ただ熟睡した体の順応は早く、ドロップハンドルを握り、顎の下で上下する太ももに力が漲る。熊野まで急がねばならない。その一心で、風や坂はものともせず、突っ走った。
右手に海、左手に国鉄の線路を意識しながら、目は道路の白線に集中し、坂に差しかかると腰を上げてハンドルを右や左へ。
下り坂では体を起こし、ハンドルに片手を添えてペダルは止める。
長い坂は速度が増し、カーブになればドロップハンドルを握り直す。
顎を引いて前を見て風を切って走る。
そんなことを何度も繰返しながら走っていくと、やがて右手にリアス式の海岸――そこは谷が深く押しよせる波が荒々しい。藍色の波が盛り上がったかと思うと突然崩れ、真っ白な波頭を崖にぶつける。それは弘明の生まれ育った伊勢の海とは違い、どこまでも果てしなく、人の心を奈落の底へ誘うような奥深さ――太平洋そのものの海だった。
激しく吹き上げる風で伸ばした髪は総毛立ち、シャツもショートパンツも翻らんばかり。吹き飛ばされそうになりながら、それでもハンドルを握り、誰もいない国道を行く。
ふと自分が独りだと思うと、どこか裏寂しい。
田辺を出てから2時間、行く車も対向する車もいない。
ただ揺れる山と荒れる海と真っ黒な空の下で、弘明は独りだった。
(ほんとうに台風がやってくるのか?)
今更ながら、自分の選択が正しかったのか己に質した。
だが誰も答えない。ただ確実に風は強さを増し、下手をすれば海岸に打寄せる波が飛沫となって、顔に打ちつけた。走るうちに時間の間隔が消え、降りしきる雨が周りを覆い、まるでシャワーかと思うほどの雨で先が見えない。
もう自転車を漕ぐことは能わず、道路の左端を押して歩いた。
(いっそ田辺へ戻ろうか――)
何度もそう思ったが、あの優しいご夫婦のことを思うと、やはり気が引けた。
田辺の夫婦がどれほど心配しているか、弘明には思いが至らなかった。
自転車を押しながらシャツもパンツもずぶ濡れ。清水を浴びるように冷える。手で顔を拭かねば目も開けられない。坂に差しかかると、自転車が二倍にも三倍にも重かった。それでも前へ進むしかない。それが使命だと思いながらも、もはやなにが使命なのか分からない。
目を閉じて彼女のことを思うが、もう目の前は真っ暗で、なんの救いもなかった。
入り江を迂回して国道が岬をまわると、護岸に打ちよせる波の波頭が十数メートルにもなり、弘明の頭上を襲う。
もう自転車ごと飛ばされそうになりながら、身を屈めてやり過ごすしかない。濡鼠になった顔を拭きつつ沖を見ると、更なる大波が間断なく続く。
天頂を覆う黒い空、そこにとぐろを巻く雲、その果てしない奥底から、まるで戦艦の隊列が白波となって乱れ狂うように押し寄せる。
それは初めて見る地獄絵図だった。
――このまま行ったら、きっと俺は溺れ死ぬ――
そんな恐怖に駆られながら、弘明はとっくに忘れていたトラウマを思いだす。
それは小学生の頃、近所の子らと台風一過の沼へ行き、流木で筏を作った。それに乗って騒ぐうちに縄が切れて放り出された。誰もが必死で泳ぐ中、カナヅチの弘明はもがくばかり。
岸へ上がる皆を見ながら弘明の体は沈んでいく。
ああこのまま死ぬのか、と思いながら水をガブ飲み、沼の底に体が引き込まれる。
顔が水面に沈み……と、その時だった。
ヌルヌルした岸壁に爪先が――と思うと、ズボッと嵌った。なにか獣の穴であろう、そこで足を踏ん張ると体が浮き、その勢いで手がなにかの根っこを掴んだ。
しめた――とばかり、掴んだ手を頼りに岸に張りつき、そこで友達に引き上げられた。
きっと今度も助かる――そんな思いで、弘明は自転車を押して入り江の奥へ向かう。どこか体を隠す場所を探すが、なにもない切り通しが続く。波頭が破ける音からは遠ざかったものの風は強まり、自転車と一緒に飛ばされそうな渦が巻き起こった。
それも束の間、雨も風もパタッと止まり湿った空気が纏わりつく。急に静かになったと思うと空の奥で破裂音、遠雷か。と、周りがスポットライトを浴びたように明るくなった。
なにか怖いものでも見るように弘明が顔を上げると、真上に丸い穴――その向こうに青空が見えた。まさかと思った瞬間、濡れた髪が総毛立つほど体が吸い上げられた。
それは恐ろしい勢いで、付近一帯が上昇気流に包まれ、そのまま空に昇っていく。
あとから思えば、それはちょうど弘明が、台風の目の中にいる時刻だった。
ほんの数秒後、弘明と自転車は薄暗い国道にいた。
だが休む暇もなく、横殴りの雨に叩かれ、入り江から噴き上げる風を浴びる。
一瞬にして、体も自転車も土砂降りの中にいた。
もう成す術がなく、路側帯の白線を追って弘明は自転車を押す。
風が容赦なく吹きつけ、耳元で甲高い笛のような音が響く。
雨は槍のように肌を刺し、頬を伝う水が冷たかった。
どれほど歩いていたろう、体が凍えるように震えて、もう歩けない……と思った、その時だった。へたりながら歩く弘明の背後に、ゆっくりとハザードランプが近づいてきた。それは背の高い四駆で、土砂降りの中を低速で進み、弘明の脇を通りぬけた。そのまま走り去るのかと思われた時、大きなブレーキランプが灯り、そこで車は止まった。
助手席が開き、ヘルメットを被った男が出てくると、後から運転手が続いた。
「おい――、なにをやっとる――」
突然の罵声に弘明は怯んだ。暴漢か――と思うが動けない。
黙って待っていると、叫ぶ男の声が雨風に掻き消されて聞こえない。
ふと見ればヘルメットに『整備局』と読めたが、あとは雨に覆われ、みるみるうちに上着もずぶ濡れ。そこへ運転手が来て、また叫んだ。
「行きも見かけたが、こんなところで死ぬつもりか――。とにかく乗りなさい」
顔を弘明の耳元に寄せてそう怒鳴ると、急いで弘明の体を車の方へ引っ張る。
「でも、こんな格好で……」
もう動けない弘明は、そう言うのが精一杯だった。
「なにを馬鹿なことを――、俺たちも一緒や、早く乗れ――」
そう言って自転車を引き剥がすと、背後のハッチバックのドアを開けた。
手慣れた動作で自転車を納めると、後部座席へ弘明を放り込み、バタンバタンとドアが閉まる。その途端、煩わしい音がシャットアウトされ、窓という窓が白く曇り、なにも見えない。だがデフロスターを強にしたのか、温風が車内を駆け巡り、弘明の体にも纏わりつく。
ただ濡れた体から流れ落ちる雨水が、容赦なく座席を濡らして足元へ落ちる。それでも頑丈そうな座席シートの心地は頼もしく、弘明は生きた心地を取りもどしていった。
「さっき台風の目が、この岬を通ったところや……」
すばやくギアを変えながら速度を上げ、運転手がそう言った。
「やっぱり……」
「やっぱりって、なんや?」
「さっき、風も雨も止んで……、真上に青空が見えたんで……」
「君もよくまあ……、そんな中を自転車押して歩いたもんや、あっぱれやで!」
助手席の男が、そう言う。
言葉はきついが、日焼けした顔に白い歯が眩しかった。
「大学生か?」
「いえ……、高校生です」
「どこから来たんや?」
「津から、青山高原を超えて、今朝、紀伊田辺から……」
「なんや、それなら三重県の学生か――」
助手席の男が、そう言う。
――三重県か――には、弘明も戸惑ったが、話はそれで途切れた。
ふと弘明は後ろを見る。だがリアウインドウは真っ白。車はエアコンが効いて、暴風雨が嘘のよう。束の間の静けさの中、(助かった……)という思いが、弘明の胸に沁みる。
「学生さんは、自由でいいね……」
少しけだるそうに運転手がそう言う。
それを受けてか、助手席の男が弘明に尋ねる。
「君は、大学へ行くのか?」
「はい……、まあ……」
「いいね、4年間、好きなことが出来て――」
外見は落ちついて見えるが、運転手が投げやりに言う。なにか奥歯にものの挟まったような言い方だった。彼が年長なのか、助手席の男が話題を変えて、二人の会話が始まった。
「しかし――、この台風が通り過ぎると……片付けやなにやら頭が痛いですね」
「まあ、その為に雇われているんだから。すまじきものは宮使いって言うやろう――」
「しかし大学へ行った奴は、歩道の敷石剥がして機動隊に投げて、なにをやってんだか」
「そうそう、この前、警察官になった男と会ったら、まあ大学生を目の仇にしとったわ」
「そりゃ腹立つでしょ、俺たち高卒は、待ったなしで就職やからなあ……」
「やっぱり機動隊員も高卒なんで、デモの学生を、ボコボコにするらしいで」
「それ、分らんでもないですね。まあこの仕事、自然が相手で良かったかな」
二人の会話を聞いていて、なにか嫌なことを言ったのかと思う弘明に、運転手が聞く。
「おい、せっかくやから、灯台でも見学していくか?」
「灯台……、ですか?」
「ああ、この先寄り道になるが、潮岬灯台に寄るから、そこで降りるか?」
「あっ、はい――」
「観光見物でもないが、灯台を見ている間に、風も凪ぐやろう」
「はい、ありがとうございます」
潮岬灯台と聞いて弘明は、いつか両親と訪ねたことを思い出した。
ひどくセンチな気持ちになった。
だが、もうすぐ三重だと思うと、体の芯に力がこもるような気がしていた。
潮岬灯台からの眺望は、弘明の記憶の中にあった眺めとは、えらく違っていた。親に連れられて来たのは、確か小学校高学年の頃のこと。あれから十年も経っていない。
パトロールの二人は灯台の前で弘明を降ろすと、国道警備に戻っていった。
ひとり灯台へ登ると、台風一過の荒波が眼下の磯で砕け散る。だが目を転じれば、遥か彼方で碧い海と空を分ける水平線――そのどれもが、弘明は初めて見るような気がした。
(いつか見た海と違う……、いったいなにが……)
だだっ広い太平洋を望む灯台の『静』と、岸で砕け散る高波の『動』、そのアンバランスが迫ってくる。それを見ているうちに、なにが違うのかなど、もうどうでも良くなった。
(綺麗やなあ……)
その一念で見ていた。人は自然の営みの前では、誰もが素直になるのかも知れない。この世には、こんな世界があるのだという率直な感動が、弘明の心を満たしていた。
灯台の上で過ごしたのはほんの十分ほど。だが濡れていたシャツもパンツも、いつしか乾き、心の中まで洗われたような気がしていた。だがそこでふと、現実に戻った。
(日が傾く前に、熊野へ着かなあかん――)
潮岬灯台は、田辺と熊野の中間地点。朝、出るのが遅くなったが、パトロールに拾われたお陰で、その分を取り戻した。あとは熊野まで約70キロ、飛ばせば4時間で着けると踏んだ。そこから平坦な道を軽快に走った。ただ、周りの景色がまた変わり始めていた。
台風一過で晴れ渡った空の下、国道沿いには蘇鉄が植えられ、南国風な情緒が醸しだされている。心ウキウキするような気分で走っていると、激しい食欲が蘇ってきた。
(だけど、田辺のお宅と、それに浜岡、電話せなあかん……)
それに気づいた弘明は、串本を過ぎた辺りで国道沿いのドライブインに入った。食堂前に公衆電話がある。さっそく自転車を停めて、荷台のサイクリングバックから財布を取り出す。ボックスへ入り、田辺の電話番号を書いたメモを出してダイヤルした。
「すみません、山岡ですが……」
「えっ――、どこにいるの、大丈夫?」
夫人だった。そう言ってあとはしどろもどろ。親父さんは店らしく、無事に台風を避けて熊野へ向かうと伝え、電話を切った。人の有難みが、深く身に沁みる弘明だった。
一度受話器を切って、気持ちを入れかえると、今度は清の実家に電話を入れた。呼出音が鳴って、すぐに相手が出た。「もしもし――」と言ったが、相手は無言……。少し間を開けて、もう一度問いかけようとして、突然――、耳を劈く声が響いた。
「きよし――、電話や」
そのぶっきらぼうな声が、同級生の名を呼んでいる。
どこか叫び声に近かった。
(いったい誰や?……)
そう思った途端、弘明は(あっ)と思いなおして気がついた。
(そや――、今の声は、きっと清のお父さんや――)
それは一年の文化祭のこと、清の実家は熊野の網元で、文化祭の仮装行列に使う大漁旗を借りたことがある。普段、あまり実家のことを話さない清が、行列に使う大漁旗を探しあぐねた弘明に、助け船を出してくれた。その時、初めて清が実家のことを話した。
「俺は親父が嫌いでなあ、口も利きたない。でもまあ、お前のためやしな……」
そんな短い会話の中で、いかにも破天荒な親父らしいと、弘明は察した記憶があった。
(清が言っていた通り……、なんか変わった父親らしい……)
そう思うと弘明は、爽快な思いで電話をかけた自分を戒めた。
しばらくして、清が電話口へ出たのだが、弘明は言葉少なに待ち合せ場所を言うと、すぐに電話を切った。
ひとまず食堂へ入り、外まで漂う香りに吊られるままカレーライスを頼んだ。
それを待つこと5分、最後のルーまですくって食べて5分。いつものペースで完食した。
国道へ戻った弘明は快調に飛ばした。なにしろ道が平坦で、嵐の余波は残っているものの、カレーのお陰で体中に力が漲っている。もはや暴風雨のことは嘘のようだった。
クジラの里の太地町から新宮へ入る。どこか懐かしさを感じる街並みだが、そこで和歌山県も終わり。県境の新宮川にかかる熊野大橋を渡れば、そこから三重県に入る。
その橋は『下路単純ワーレントラス橋』と呼ばれるクラッシクな鉄橋で、これを渡れば三重県だと思うと、喜びもひとしおだった。
ただそれも束の間、三重県側の県境の町・鵜殿を抜けると景観が全く変わる。
そこから七里御浜といって、真っ直ぐな海岸線がどこまでも続く。それは美しい海岸線なのだが、景勝と呼ぶにはあまりに過酷な景色だった。
なにしろ熊野灘とは、直に太平洋に面していて、ドドーンとばかり雄々しい波が浜へ打寄せる。それに浜は砂浜ではなく、碁石の取れる小石だらけの浜なのである。
七里御浜に沿って走る国道42号線を、弘明は両手をドロップハンドルのトップバーに預けたまま。必死で漕ぐ必要もなく、惰性に任せたままペダルを踏んでいた。
(なんで俺は走っているのか……いったい俺は何をしようとしているのか?)
なんだかんだと、人間は悩みの尽きないものである。死ぬ思いで生き延びたばかりだというのに、弘明はそんなことを自問しながら、太平洋からの東風を体全体で感じていた。
午後5時、ようやく弘明は清と待ち合わせの、国鉄熊野駅前に到着した。
清は、すぐに分かった。
家庭用の自転車を横に下駄履きで、決して短足ではない大きな体にでかい顔、それは一度見たら忘れられぬ風体の清を見つけるのは、いとも簡単だった。
「いくら日に焼けても、お前の胴長短足、デカ頭の山岡はすぐ分かるなあ――」
そんな毒舌を、清が先に吐く、いつものままの清が、待っていてくれた。
「あほか――、俺はこのぶっとい太腿のせいで、脚が短く見えるだけや――」
「それにしてもお前――、真っ赤やな――」
(帰ってきた――)
そう、なぜか弘明は自分の故郷でもない熊野の駅前で、清の顔を見た途端ほっとしていた。まだ家を出て三日と経っていないのに、どこか感覚が狂っていた。
清とは一年から同じクラスで、成績も運動も彼の方が優秀なのである。
だがそんなことはおくびにも出さず、彼はどこか不良ぶる面がある。
それでも最後は頼りになる奴だった。
大きな体で自転車を操る清の後について、弘明は海の方へ自転車を走らせた。
清の後から家へ入った弘明は、鰻の寝床風の土間へ自転車を入れ、奥に声をかけた。
「すみません、山岡です。おじゃまします――」
「今は誰もおらん。気を使うな――」
先に座敷へ上がった清が、そう言いながら洗面道具を持って奥から現れた。
「風呂行こ――、風呂――」
郷に入れば郷に従え。弘明は黙って清の後をついて彼の家を出た。
そこから二人で夕暮れの迫る町内を歩き、色鮮やかな暖簾のかかる銭湯へ入った。
清の早風呂に弘明も負けない。
タオルを使いながら戸口の簀子に気を良くすると、清がくれたコーヒー牛乳をぐっと飲んで、開け放たれた内庭に面して置かれた籐椅子に坐る。
「ああ――、生きかえったわ……」
そう言って伸びをする弘明に、珍しく清がしんみりと言う。
「ええなあ……、お前は……」
そう言う清に、思わず(なんでや)と言いかけたが、それを弘明は飲みこんだ。
会った時からそう感じていたのだが、彼と下宿で会って話をする時とは、明らかに違う。
もちろん外見はなにも変わらない。だがその目に、いつものギラギラした獣のような凄みはなく、言ってみれば『死んだ魚の目』……、そんな気がしてならない弘明だった。
「浜へ……、行ってみるか――」
弘明の思いを感じ取ったのか――彼はそういう奴だが――話題を変えた。
銭湯を出て、浜沿いの国道42号線へ向かう。高架下の間道を抜けると浜だった。
確かに銭湯で車の音が聞こえた。
だが浜へ立てば、国道の騒音さえ掻き消す潮騒に包まれた。
ただ伊勢湾とは違って浜が狭い。その分、身近で見る七里御浜は怖いほど。果たして砕けちる白波の向こうは、まるで底なしのミッドナイトブルー色に染まっていた。
西に沈みかけた日を受けて、岸で砕け散る白波が光る。
そこはかと現われ、たちまちのうちに消える波は、いかにも怪しげに浜を洗う。
それは気が遠くなるような時を経て、あらゆる石を砕くのだとすれば、美しく見える景観はまやかしなのかも知れない。
ただ夏だというのに、肌寒さを感じた弘明は、あやふやな言葉を発した。
「清――、すごい浜やな……」
「そうか……。まあ、こうして海の音を聞くのも、ええもんかな……」
「俺は……この海から逃げられへん。お前なら分かるやろ……」
それが彼の正直な胸の内なのであろう。
それは弘明が初めて聞く清の慟哭だった。
「親父は……それが分からんのや。なにか言うと、網元を継げの一点ばりや」
それは清の心の叫び……弘明はなにも言えない。ただ、いつも清が物事を斜交いに見て、なぜか悪を演じるような所を見せる訳が、ようやく分かったような気がしていた。
(それに比べたら、俺の家は……。みんな、色々あるのや……)
そんな思いを抱きながら、弘明は七里御浜に立っていた。清も黙って横に立ち、二人して日が暮れるまで立っていた。背後の間道を通して夏祭りのお囃子が聞こえていた。
清と浜から戻ると、居間に大きな食卓が出て、ハマチの姿造りが大皿に盛ってあった。すでにお父さんは床の間を背に晩酌を始めている。そこへお母さんも料理を持ってくる。
「なんもないけど、しっかり食べて――」
清は母親似であろう。
小柄なお父さんと違って、お母さんは漁師町の母そのものだった。
翌朝、まだ夜は明けていなかった。
清と共に傾斜のきつい浜を下り、湾曲した内海の防波堤に上がる。するとそこには既に大勢の男たちが屯して、ウォーと言う気勢を上げながら、必死に棹を操っている。
「なんや――、あれは……」
「鰹や――鰹、鰹の一本釣りや――ほれ、あそこに漣(さざなみ)が見えるやろ――」
「ナブラってゆうてな、潮だまりに逃げこんだ小魚や。あれを喰いに鰹が集まっとる」
そう言う清の目は爛々と光り、いつか見た『獣を追う目』が、蘇っていた。
(こいつ、やっぱり網元の息子やな……)
そんな思いを抱きながら、弘明自身が、どうしようもない血の滾りを感じていた。
自転車旅行5日目の朝、弘明は清に見送られながら熊野を出発した。本当は「熊野大花火」を見たかったのだが、まさか盆明けまで待つ訳にはいかず、予定通り出発した。
それでも2日間、弘明は清と時間の許すかぎり、のべつ幕無し話をした。
それは他愛もないことばかりだったが、これほど一人の友と長い間、話をしたのは初めてだった。ただ彼は友人だが、親友とは言えない。
長い坂を立ち漕ぎで登りながら、弘明はそんなことを思った。
きっと清も同じ思いではないか。
二人の間には、まだ隔たりがあった。
それは弘明とて、清に彼女のことを喋っていない。
――この旅は彼女に良いところを見せるため――
とは、口が裂けてもいえない。やはり彼とは、そんな仲なのである。
それに弘明は、まだ自分が何者なのか分かっていない。
親に抗いながら親の意に添うように生きている。
そんな自分に嫌気がさしているが、それは清も、今の生き方になにか満たされないものがあるのだろう。それを二人で話すには、ちょっと時間が少なすぎた。
(それでも清は理数科で成績がいいから苦労はないだろう。でも俺は……)
その思いが弘明の頭の中にある。幾ら仲が良くても、それは明らかな一線だった。
――友でありながら、彼は競争相手――
その思いを打ち消すためにペダルを漕ぐ。
だが、漕ぐたびに過去の自分が遠ざかる。
脚が悲鳴を上げても、前へ進み続けるしかなかった。
ここで止まる訳にはいかない。交通量の多い国道42号線は1車線しかなく、大型トラックが走れば、その風圧で自転車ごと体が揺れる。
それでなくても左手は断崖絶壁、トラックの煽りを受ければと思うと、弘明は気が気ではない。ディーゼルエンジンの音がすると、それこそ必死で身構えた。
バシバシバシと前のタイヤが路面を捉え、弘明の脚力を消耗する。それを最低速のギアで凌ぎ、それが駄目ならで立ち漕ぎ――それでも駄目なら、自転車を揺らして登る。
そうやって矢の川峠への坂を登ること三十分、頭から汗が噴き出して目に入り、それでもがむしゃらに登った。すると急に左手が明るくなり、熊野の町から七里御浜が望めた。
その向こう新宮から串本へ至る山々、そして海岸線から沖はなにも遮るものがない、太平洋が広がる。路肩へ自転車を止めて汗を拭うと、思わず心が昂り目から涙が溢れた。
だが目指すは紀伊長島――
矢の川峠を越えて尾鷲へ下り、そこからまた難所が続く。
天狗倉山の脇を抜ける馬越峠が待っている。
ここで気を抜く訳にはいかなかった。
(負けてたまるか――)
顔をタオルで拭くと己を叱咤激励し、覚悟してペダルを漕いだ。
だがどこまで続くのか。
焼けたアスファルトの路面が熱気を帯び、行く先を逃げ水が走る。
車の後姿が歪み、白い路側帯が揺らぎ、見る者を惑わす。
サイクリングバックが重い。気を抜けば即倒れそう。それでも目一杯背筋を伸ばし、自転車を立て直し、弘明は歯を食い縛って駆け登った。
――突然、ペダルの負荷が消えた。
目を開けば道は平坦、嘘のように体の緊張が解け、タイヤの軋みも車体の揺れも消えた。
と、行く手に立つ真っ赤な看板が目についた。
『スピード落とせ‼ この先事故多し』
――ここから下る――
そう思うと、弘明は雄叫びを上げた。
矢の川峠を征服した瞬間だった。
一気に解放された弘明は、上体を伸ばしたまま惰性で走った。
だがトンネルを抜けると、今度は真っ逆さま。
それは峠を征服した者に与えられる天の恵みか、惰性で走っていく。
やがて山間に尾鷲湾が見える。
その湾口には島――弘明が『ひょっこり瓢箪島』と呼んだ――佐波留島が浮かんでいた。
中学の時、毎朝尾鷲港へ行って日の出を観測し、夏休みの自由研究にした場所だった。
ほんの四年程前のことだが、随分昔のことのように感じた。
(尾鷲に寄ろうか……)と思ったが止めた。
町の北部を走る国道42号線を直進した。
なんとか坂を登り馬越トンネルを抜けると、あとはなだらかな坂を下った。
「おまえ――、ほんまに来たんか!」
熊野から東出に電話した時、彼はそう叫んだ。
だが待っていると言われほっとした。
その後、家へ電話すると即座に母が出た。案の定、泣きながら弘明を詰った。
――心配している親のことを、あんたはなんと思てるの――
そう言って叱る母、だから予定通り帰ると言って電話を切った。
その時、自分の現実はなにも変わっていないことを悟った。
それと同時に、旅自体が無意味なのかと思った。
(いったい彼女に会って、それで……どうする)
そう考えると虚しいばかり。
紀伊半島一周したからといって、なにが変わったのか。
(俺は単に彼女を抱きたいだけなのか)
そう思う自分がいる。
欲望を隠したまま彼女に会うなど、それでも男かと嘯く自分がいる。
(俺は、同じ穴の貉や……)
欲望を制するのも強いるのも己自身、それを知っていながら弘明はなにも出来ない。
一度、津で映画を見る約束をしたことがある。
ジリジリとして改札で待っていた。
そして駅の高架から、階段を降りてきた。
あの時……その降りてくる彼女の素足を見て、たちまち弘明は居竦まった。
美しい素肌の奥を想う……あれは一種の狂気だったのか。
いつか小銃の台尻で己の急所を潰した兵隊がいたと、古い戦記物で読んだことある。あれは戦争という異常時……だが自分の場合は……と思うと、自分が疎ましかった。
その時、大型トラックが横を走り抜けた。
これはいかん――と、弘明は我に返った。
体を起こしてドロップハンドルを握り、惰性に任せず、ペダルに力を込めていった。
東出の家は、長島港へ注ぐ赤羽川の河口近く、入江の奥の川沿いにあった。戦前に建てられた二階建ての木造で、道に面して開放的なガラス戸が並ぶ老舗の旅館だった。
電話の約束通り、東出は家の前の橋の袂に立っていた。
彼は下駄履きで、首にタオルを巻いている。
小柄なのだが、いかにも場違いのスタイルで待っていた。
「ほんまに来たんか! お前、真っ黒やん!」
清と違って、宏はそう言って破顔した。小柄な割に大声なのである。普段は高校近くの下宿にいて、部活のラグビーで鍛えていて、その地声の大きさは相変わらずだった。
「すまん、世話になる……」
「なにゆーとんや、お前は……」
照れ笑いでそう言うと、宏はすぐに背を向けて首のタオルを取り、ヒラヒラと振った。そのまま旅館の表に向かい、入口のガラスに「あずま屋」と縦書きした戸を開けた。
「おーい、来たで――」
土間に入った宏は弘明を誘う。
同時に奥の暖簾が揺れ、小柄な中年男性が顔を出した。
「おとん――、山岡や」
「いや――、いらっしゃい」
少し出っ張った腹に両手をあてて、宏の父が満面の笑みで迎えてくれた。
それにしても清の家とは極端に違う様子に、弘明は戸惑った。
後から母親らしき人が現れ、腰を屈めた。
「いつも宏が、お世話になりまして――」
「いえ、とんでもない。こちらこそ、お世話になります」
土間の上り口に膝をついて頭を下げる母親に、弘明は恐縮して頭を下げた。
ふと顔を上げると、暖簾を片手で上げて、奥から笑顔を見せる若い男がいた。
すぐに宏は紹介した。
「あにやん――」
(宏の、この物言い……、こんな家で育ったのか……)
それは初めて聞く、宏の甘ったれた物言いだった。
宏に促されるまま、弘明は自転車を押して中へ入りながら恐縮しきり。
すでに西の山に日が傾き、その残り日で家の前の入江は、かそけき光に包まれていた。ここで二日過ごせば、あとは松阪へ最後の行程……と思うと、やはり心残りだった。
「教師と警察官の息子は、禄でもないって言われるやろ――」
宏は弘明を相手にせず、旅館の風呂場で湯船に浸かりながら、そう言う。
家族総出の出迎えを受けた後、弘明は玄関から通用口の暖簾を潜った所へ自転車を置き、簡易バックを取って風呂へ向かった。
清掃されたばかりの一番風呂だった。
「そやな、尾鷲へ転校した時、そう言われたこともあったな」
「こんな小さな町はな、それでなくてもうるさいわ」
「そやけど、なんで今更や?」
「いやあ……、はよ下宿へ帰りたいわ」
「お前も親元は、嫌か?」
「そりゃ、毎日旅館の手伝いやからな」
あくまで自由人だと思っていた宏が見せるしかめっ面に、弘明は思わず笑った。だが宏はそれを無視するように、突然声を上げた。
「ああ――、しょんべんした」
「なっ、なに――」
宏は弘明を相手にせず、湯船から流し場へ出る。風呂は六畳一間ほどの広さだが、一応壁に鏡があり、その下にお湯と水の蛇口、都合3組並んでいる。宏が湯船を出て溢れたお湯が壁際の溝まで流れていった。
「う――」
宏は鏡の脇に右の掌を当ておもむろにしゃがんだかと思えば、今度は左手を自分の一物に添えて、そんな声を出した。鳩に豆鉄砲とはこれであろう。
弘明は開いた口が塞がらない。
幾ら宏が自由人だといっても、風呂場で放尿するとは恐れ入った。
弘明は開いた口が塞がらなかった。
「あ――、すっきりした」
そう言うと宏は肩に置いた手拭いを頭に置き、脇の木桶と椅子を持ってくる。そして流し場に腰を据えると、何事もなかったかのように鏡棚のシャンプーで頭を洗いはじめた。
(宏は、こうやっていつも、風呂場で小便をするのか……)
風呂といっても旅館の風呂である。だがその所作は、確信犯に違いなかった。
弘明は初めて宏と風呂へ入ったのだが、その前で彼は堂々と放尿してのけた。それは日常茶飯事なのであろうという驚きが、どこか滑稽でもあり、やはり彼は自由人であった。
――親の前は前として、自分は何事にも遠慮せず、自由に生きている――
親の顔色を見ながら生きてきた弘明からすると、そんな宏が羨ましかった。
紀伊長島での2泊は、つるべ落としに過ぎていった。明日は彼女に会えるという日が来ても、なぜか会いたい、という心情がなぜか沸いてこない。
(なんで彼女なのか?)
そう思うと、せっかくの夏休み、一所懸命自転車を漕いで走り、いったい自分はなにをやっているのだろうと、そればかり痛切に考えるようになっていた。
大学入試問題を解いているのだ。それを見せられると、どうにも自分が情けなくなった。彼らは理数科らしく、物理や数学や化学の本を読み、弘明の前でも目を通していた。
(あとは兎に角、帰るしかない……)
弘明は、そう覚悟した。
そして、前日にかけるべき彼女への電話を、わざと怠った。
(男の矜持として、電話なんかするものか――)
ここへ来て――なにをか言わんや――なのだが、宏の家での最後の晩餐に臨んだ。
最終日、弘明は足取りも軽く、国道42号線を松阪へ向かった。
紀伊長島から最後の難関である荷坂峠は、苦もなく漕ぎ切った。あっと言う間の1週間、弘明は長い道程を長い時間かけて炎天下の国道を走り何度も峠を越えて、暴風雨の中を走り切った。今はもう、自転車が体の一部になっていた。
荷坂峠を超えると、しばらく平地が続く。
そこから見る大台ケ原の山々は、いかにも懐かしいばかり。深い渓が現われ、そこを流れる宮川の陸橋を渡ると、そこは父の実家がある宮川村だった。
母の実家と違って疎遠とはいえ、自分のルーツとなる故郷なのである。
弘明は自転車を走らせながら、どこかワクワクしていた。紀伊半島を周り、幾多の山々を超えてきたが、やはり宮川を超える辺りから、懐かしい景色が続く。輝く夏の太陽の下、明らかな植林の大樹林に代わり、低木が混ざる雑木林が増える。
(ああ、やっと帰ってきた……)
その感慨に浸りながら、弘明はペダルを無意識に漕ぐ。
ただ見慣れた景色がいかにも新鮮だった。
それはデジャブかジャメヴュか、弘明は不思議な感覚に包まれていた。
宮川を超えると、まだ少し山谷が続く。
ただそれは長い交響楽がエンディングを迎えるように、険しい山々が穏やかになっていく。そして国道は伊勢平野へ続く丘陵地帯へ分け入っていく。
喧しい油蝉の鳴き声が、夏の陽射しに溢れる空から降ってくる。
あれは櫛田川沿いの母の実家を訪ねた時、よく祖母と歩いた墓への路すがら、かまびくしく鳴いていた……そんな夏の記憶が蘇る。
国道42号線は、雑木林に覆われた丘の間を緩やかに下っていく。焼けたアスファルトが匂い立ち、横を行く乗用車からの視線に、思わず弘明は意を正してペダルを漕ぐ。
(あと少しで……、松阪に着く……)
そう思うと、やはり彼女のことを思い胸が苦しくなる。ふっと息をして顔を上げると、あれはいつか……どこへ行くともなく、なにを話すでもなく、目指した丘かも知れない。
だがあの時思っていたことは……、そう考えると、やはり弘明はやるせなかった。
午後2時、弘明は三瀬谷の駅近くにあるライブインへ入った。
この先、多気から県道へ折れれば彼女の家。そのまま直進すれば津の実家。
そう思いながら自転車を停めると、また財布を出して電話ボックスへ向かう。
思っていた以上に冷静だった。
目を閉じても分かる電話番号をまわす。ジーグルグル・ジー・グルグルグルと、いつもなら焦るようなダイヤル音も、今日は気にならない。
「もしもし……」
「あっ……、山岡君?」
電話を入れてすぐ出たのは、彼女のおかあさんだった。
「あっはい、山岡です……、いますか?」
期待を込めて緊張しながら、おかあさんの返事を待つ。
いつもなら『はい、ちょっと待ってね――』と、明るい声で答えるおかあさん。
だがこの日は違った。
「あれっ……話をしてなかったの……今朝から名古屋の親戚へ行ったわよ」
「えっ、あれっ、今日……」
「山岡君、帰ってきたの?自転車で、紀伊半島まわったんでしょ」
「ええ、ちょっと予定が遅れて……」
(いや俺は津を出る前日、6泊7日で戻ると言ったはず)
弘明は改めて電話することにして、電話を切った。
腹の立つ彼女の仕打ちだった。
(なぜ待っていないんだ、帰ったら、電話するって言ったのに)
電話を入れるまでの自分の心情を思うと、暴風雨の中より混乱した。旅に出た目的は彼女に会うため。弘明の頭には、紀伊半島を一周して彼女の家に凱旋することしかなかった。
弘明は、自転車を止めた駐車場の外れまで行くと、側溝の溝の敷石に腰かけた。彼女に会えないと思うと、心の拠り所を失ったことで、茫然自失となっていた。
しばらくしゃがみ込んでいた弘明は、電話ボックスへ戻ると家に電話を入れた。紀伊長島からも電話は入れたが、今日の予定については誤魔化していた。
「もしもし……、俺や」
「今どこ?まだ紀伊長島なん――、宏君のお宅に、迷惑かけてないの?」
電話に出た母親の甲高い声に辟易としながら、なんと言おうか迷っていた。
「お父ちゃんも心配して、台風の日なんか和歌山県警まで電話して――」
(あれはまずかった)と、弘明は後悔した。
親に伝えた予定は初日奈良、2日目が和歌山、3日4日は熊野で、最後の5日6日が長島だった。確かに熊野から電話を入れ、長島からも電話を入れた。
だが、台風のことは詳しく話していない。
やはり父の勘は鋭かったのだ。
「今夜は、ばあちゃんとこへ、いくわ……」
「なに言うとんの、はよう家に帰っておいで――」
「いや……、今日は疲れたし……」
「お父ちゃん、あんたが帰ったらスキヤキしたれって。牛肉も買ってあるし」
「スキヤキ――」
母との会話を久しぶりだと感じた。
その日常が嫌で旅に出た。だが旅行の目的は果たせなかった。
ある意味、今度も頓挫したと言えるのかも知れない。
例え自分がいなくとも、現実の日常はなにも変わらない。
やはり自分の日常は親元にしかないのだろう。
「ああ⋯⋯分かった。松阪へ入ったら、また電話するわ⋯⋯」
そう言うと弘明は電話を切った。家に帰れば、盆暮れにしか口に入らないスキヤキが喰える。そう思うと、里心であろう、親子三人の食卓が頭に浮かんだ。
それは、人から見たらあまりにも幼稚な結末であろう。
だが、母の言う『あかんたれ』は、やはりどこまでも優柔不断だった。
――名古屋へ行ったとして、ひょっとして夕方に帰るのと違うか――
ふとそんな気がした。そして、それを確認しなかった自分を攻めた。
だが、さすがにもう一度電話するのは気が引けた。
再びドロップハンドルを握ると、国道42号線へ戻った。
もう矢の子や荷坂峠のような坂はない。それでも短い坂が続く。
それほど必要もないのに、弘明は立ち漕ぎして勢いをつけた。
自転車を揺り動かしながら北へ向かった。
夏の陽射しの下、平野を抜けてくるのであろう、伊勢湾からの浜風が心地良かった。
――この坂を超えたら、そこで決めよう――
そう決めると、額に汗しながら、持て余す思いを吹っ切ろうと坂を登った。
その脇で道端の若いススキが静かに揺れる。
その上を赤とんぼが一匹、ゆっくりと旋回していた。
「R42-紀伊半島、伊勢路の夏」 (了)
この小さな本は、私が十七歳の夏に自転車で走った旅の記憶をもとに書いたものです。
国道42号線――紀伊半島を縁取るように続く道を、津から和歌山、紀伊田辺、熊野、紀伊長島へと走りました。あの頃は、どこへ行くのか、何を求めているのか、自分でもよく分からないまま、ただ夢中でペダルを踏んでいたように思います。
それでも、山や海、見知らぬ町の人々、そして道の先にひらける風景は、たしかに心のどこかに残りました。この本は、その夏の断片を、いまの私がそっと拾い集めたものです。
もし読んでくださった方が、かつて自分もどこかへ行きたくなった夏を思い出してくだされば、これ以上の喜びはありません。
令和八年 春
船木千滉
R42 紀伊半島 伊勢路の夏
著者 船木千滉
発行 三神工房出版
発行日 令和八年春
制作 AMCO - 知見Lab
© Funaki Chihiro 2026
2026年3月9日 発行 初版
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