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直近の便で届いていた手紙にじっと目をやっていたホームズがクックッと乾いた声を洩らした。これでじゅうぶん本人は笑っているのだ。それからその手紙をこちらによこして、
「現代と過去、空想と現実の混ぜものの中じゃこれがいちばんだろうね.. ワトソン、何だろうね、それ?」
と言った。
渡された紙にはこうあった。
46 オールド ジューリー
11.19
バンパイアに関して
ホームズ様
当事務所の顧客であるミンシング道の茶葉仲買業ファーガソン&ミュアヘッドのロバート ファーガソン氏より、19日付けの書簡にてバンパイアに関連する調査の依頼を受けておりましたが、当方は機器類の査定を専門としているため当該の件は担当することができません。よってファーガソン氏にはそちらの事務所に問い合わせのうえご相談されては、との提案をさせていただきました。マチルダ ブリッグスの件でのそちら様の活躍ぶりは今も我々の記憶に深く刻まれております。
それでは。
モリソン&ドッド モリソン
E.J.C.より
「マチルダ ブリッグスって言っても若い女性の名前とかじゃないからね、」
何か懐かしむような口ぶりとなりつつホームズが言った。
「スマトラのドブネズミの大物に関係してたんだけどね.. あれはまだ公表しない方がいいだろね。それはいいけど、バンパイアのことなんて何か知ってるか? うちってそんなものも扱う事務所だったっけ? ま、停滞よりはどんな依頼でもある方がマシだけど。なんかグリム童話の世界に連れていかれてる気分になるよね。ちょっと手いっぱい伸ばしてみてよ。vのところに何てあるか。」
僕は座ったまま手を斜め後ろに伸ばし、分厚い索引帳を手に取った。そのままホームズに手渡すと彼はそれを太ももの上で開き、そこに記載された彼が過去に関わった事件の記録やこれまでに集めた捜査に役立つような情報の数々を感慨ぶかそうに目で追っていた。
「グロリアスコット号の航海記録.. 」
ホームズが口にした。
「あれはきつい仕事だったな。あれは例の事件簿でも確か書いてたよね。あんまりいい出来とは言えなかったけど。 .. 偽造犯ビクター リンチ (Victor Lynch).. 毒トカゲ (Venomous lizard) のヒィラ。 あ、これもすごかった、サーカスの華、ビットォリア (Vittoria).. バンダーベルト (Vanderbilt) に.. あの金庫破り。 毒ヘビ (Vipers) .. ハマースミスの謎の人物 ビガー (Vigor) .. あ、ほら、あったよ。やっぱ昔ながらの索引帳に敵うもんないね。いい? ワトソン。ハンガリーのバンパイア伝説 (Vampirism) 、あとトランシゥベニアのバンパイア (Vampires) ってのも載ってる。」
そう口にしてから熱のこもった手つきでページをめくり、そこに鋭い目線を落としていたホームズだったが、すぐにケッという顔になって開いたままの索引帳を前に投げ出してしまった。
「くっだらない.. 心臓に杭を打ち込まないとずっと墓から這い出してくる死体だって。こんなの今の僕たちに関係あると思うか? バカバカしい.. 」
僕が言ってみた。
「でもバンパイアって別に死んだ人間のことばっかりとは限らないだろ? 生きた人間のバンパイアっていうのもあるはずだよ。もう1度若さを手にしたいからって若い生き血を吸う老人の話とか、何かで読んだことがあるけど。」
「確かにな。ここの資料にもそんなのが載ってあるけど、でも真剣に取るようなことかなぁ。僕らが今いるのは地に足ついた事務所なんだし、これからもそうあるべきだろうしね。だいたい生きてる人間のことだけで手いっぱいなのに死んだ人間のことまで知らないよ。悪いけど、このロバート ファーガソンって人の依頼はまともに取り合えるようなもんじゃないかもね。で、これが本人からの手紙ってことかな。どういうことかわかるように書いてあるといいけど。」
そう言って彼は1つ目の手紙に構うあいだテーブルの上でほったらかしとなっていたもう1通の手紙を手に取った。そしてニヤニヤしながらそれに目を通していたが、そのうち上を向いていた口角は下がり、目は真剣な眼差しに変わっていった。そして手紙を読み終えると指にその紙を挟んだままでしばらく考え込むようにしていた。そしてふいに、
「ランバリーのチーズマン家.. ワトソン、ランバリーってどこだったっけ?」
と訊いた。
「サセックスだよ。ホーシャムの南あたり。」
「そんなに遠くないよな? チーズマン家ってのは何なんだろう.. 」
「あぁ、それ知ってるよ。そこの地域っていうのは何百年か前に家を建てた一族の名前がそのまま付いたすごく古い屋敷がいっぱいあるところでさ。オードリー家とかハービー家、キャリトン家とかな。元々の一族はとっくにいなくなってるんだけど、その人たちの名前だけは残った屋敷でずっと生き続けてるってわけ。」
「 ..ぅなんだ。」
ホームズが小さく返事した。プライドが高く自己完結型の彼の特徴の1つと言えるが、新たな情報を目の前にしたときはそれをサッと頭にしまうが、その情報を提供した人間のことは彼にとってどうでもいいことなのだ。
「そのランバリーのチーズマン家、チーズマン邸って言った方がいいのかな。それについてはけっこう知ることになりそうだよ。これが終わるまでにはね。これ書いてきたのって予想どおりそのロバート ファーガソンって人だったんだけど、なんか君のこと知ってるとか書いてるけど?」
「僕を?」
「読んでみろよ。」
手紙のはじめには1通目の手紙にも記されてあった住所が記載されてあって、以下のことが書かれてあった。
ホームズ様
顧問弁護士よりそちらの事務所を紹介いただきましたが、今回の件は多分にデリケートな面を含む問題であります。この件は私のある友人が抱えた問題で、代理として私がその処理に当たっているものです。その友人というのは5年前にペルー人の奥さんをもらいました。友人が硝酸塩の輸入をしていた関係で知り合ったペルー人商人の娘さんでした。とてもきれいな女性ですが、何といってもこの2人は生まれも育ちも信仰も全く異なるため、そのことが互いの価値観や気持ちのずれを生んでしまっているようで、友人の方は奥さんに対する情熱が少し冷めてしまったかもと感じているようです。さらにはこの結婚自体が間違いだったかも知れないと考えるようにまでなっているといいます。友人によれば、奥さんの心には彼には知り得ない部分、わかり得ない部分があるようで、これは奥さん自身が夫に尽くし、心を捧げてくれているように見えるだけに余計つらいことだと彼は感じています。
以下に記すことはそちら様と直接お会いできたときに改めて詳細をお伝えするつもりですが、この件がそちら様の関心に値するものと判断していただくために何が起こったのかを大まかに記述していきます。
その友人の奥さんですが、普段の優しく穏やかな印象からは想像もつかないような奇異な一面を見せるようになったのです。友人は実はこの奥さんとは2度目の結婚で、亡くなった前妻との間にできた現在15才になる愛らしく優しい息子さんが連れ子としています。その息子さんは幼少期の不運な事故がもとで体に障害を負っているのですが、かわいそうにその息子さんが奥さんからいわれのない仕打ちを2度も受けているのです。1度杖で叩かれたときは、その子の腕に大きなミミズ腫れができていたほどです。ただしこの奥さんはその連れ子の息子さんにしたよりももっとひどく恐ろしいことを自身の子に対して行っているのです。奥さん自身が産んだその子というのはまだ1才にも満たない赤ん坊です。1ヶ月ほど前のことでした。お守り役のメイドが赤ん坊から少し目を離したときに、赤ん坊のいる部屋の方からけたたましい泣き声が聞こえてきたそうです。その声は何か激しい痛みを感じていると思われるような泣き方で、メイドは慌ててその部屋へ駆けつけました。すると部屋に彼女の雇い主である奥さんが入ってきていて、赤ん坊に対して屈み込むような姿勢になっていたといいます。それでどうも奥さんはその赤ん坊の首に噛みついていたようなのです。赤ん坊の首のあたりに目を凝らすと、そこにできていた小さな傷から一筋の血が垂れていたといいます。メイドは仰天し、恐ろしくなったのですぐに主人のところに報告しに行こうとしたようですが、その場で奥さんが夫に話すのだけはやめてくれと懇願してきたといいます。そして口止め料の意味でこのメイドに5ポンドを手渡したと。赤ん坊に対して自分がしていた行為の説明などは一切ないまま、その場はそれで終わったそうです。ただこの出来事はメイドの心に強烈な印象を植えつけましたから、彼女はそれから奥さんのことをとても警戒して見るようになったといいます。このメイドは赤ん坊をとてもかわいがっていましたし、それからはできるだけ赤ん坊から目を離さないようにしていたと。メイドの印象としては、自分が奥さんを注意して見ていたのと同じように相手もこちらの動きを注意して見ているような感じだったそうです。メイドは自分がどうしても赤ん坊の元を離れないといけないときに、その隙をついて奥さんがまたその子に何か恐ろしいことをするんじゃないかと不安で、常に緊張していたといいます。奥さんの方はずっと何も言わずに子羊を狙う狼のように赤ん坊の世話をするメイドの様子を窺っていたようだったと。バカげた話と思われるかも知れませんが、これには1人の赤ん坊の命と1人の男の心がどうなるかが懸かっておりますので、どうぞ真剣に取っていただくようお願いします。
そしてこのことが私の友人の耳に入るときがやって来ます。ずっと奥さんに対する警戒を怠らず緊張状態だったメイドの心がついにその緊張に耐えられなくなって、すべてを家の主人に打ち明けてしまったのです。そのとき話を聞いた友人からすれば、今これを読んであなたが感じているであろうくらいに全く信じられない気持ちでした。自分の妻は優しい女性だと思っていましたし、連れ子に対する仕打ちがあったにせよ、母親としても思いやりのある人だと信じていたからです。そんな思いやりのある母親が自分の子に危害を加えようなんてするでしょうか。ですのでそのとき友人はそのメイドに対して、おかしな夢でも見たんだろう、これ以上自分の妻を侮辱することは許せないと叱りつけたそうです。しかしそんな話をしているまさにそのときに、けたたましい赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、友人はメイドといっしょに急いで子ども部屋へと向かいました。そしてドアの前まで来た2人が見たものは、赤ん坊のいるベッドのすぐそばで膝を突いていた体勢から立ち上がっているところの奥さんの姿でした。目線を下にやると、赤ん坊の首元やシーツの上に血が点々といくつも付いていたそうです。友人がこのときどれだけ驚いたか想像できますでしょうか。彼は思わずギャッと声を洩らしたのですが、それでクッとこちらを向いた奥さんの顔に光が当たり、その口元から血がダラダラと垂れているのがはっきり見えたというのです。奥さんが赤ん坊の血を吸っていたというのはもはや疑いようがなくなってしまったのです。これが、私の友人の屋敷で起きた出来事です。そのとき奥さんは自分がしていたことの説明もないまま自室にこもってしまい、現在もそのままということです。友人は友人で相当にまいっているようです。彼も私もバンパイアというものに関してその名前以上のことは知りませんし、そんなものは遠い異国での伝説くらいに考えていたのですが、このイギリスのサセックスの真ん中で今.. これ以上のことは朝にそちら様にお会いできたときに相談したいと考えます。会っていただけますか? そして心労を抱えた友人を救うためにそのすばらしい能力を使っていただけないでしょうか? 会っていただけるのであればランバリー チーズマン邸 ファーガソン宛てに電報をいただけますでしょうか。通知があれば10時までにそちらの事務所に伺うつもりでおりますので。
それでは。
ロバート ファーガソン
P.S.ご友人のワトソンはブラックヒース校でラグビー部に所属していたことと存じます。私は同じ時期にリッチモンド校のスリークォーターバックだった者です。このことがわずかばかりの紹介状の代わりとなれば幸いです。
僕は手紙から目を離して、
「覚えてるよ。“デカ”ボブ ファーガソン.. リッチモンドいちのスリークォーターバック。いい奴だったよ。連れの問題にここまで関わるっていうのもあいつなら頷ける。」
と口にした。
ホームズは不思議そうな目でこっちを見てから顔を横に振って、
「やっぱり君だけはすごいね、ワトソン、まだ全然底が見えないよ、」
と言った。
「電報頼まれてくれないかな。“あなた様の問題はお調べすることに致します”って。」
「“あなた様の”?」
「こっちの事務所がデキない人間がやってると思われたくないしね。もちろん手紙書いてきた本人のことだから。電報頼んだよ。で、これについては明日の朝まで置いておこう。」
ファーガソンは翌朝10時きっかりにやって来た。彼のことは長身で締まりのあるしなやかな体で敵のディフェンス陣の間を縫うようにかわしていく姿で記憶していたのだが.. 坂を下りきったアスリートを目の前にするというのもなかなかにさみしいものがあった。がっしりとしていた体は垂れ下がり、肩もなで気味になっている。おまけに薄茶色の髪もだいぶ少なくなっていた。といっても僕のそのときの姿も相手に同じような印象を与えていたのかも知れないが。
「よう、ワトソン、」
声だけは昔の野太い響きを残していたファーガソンが言った。
「オールドディアパークで観客席までとばしてやったころのお前とはだいぶ変わっちまったな。まぁ、こっちもちょっと変わったけどな。それに.. この何日かでずっと老け込んだかも知れん.. ホームズさん、電報は読ませていただきました。もう誰かの代理のふりをするのも無駄のようで。」
「ええ。そちらの方が話も早いですし。」
ホームズが返した。
「そうでしょうね。ですが、自分が守ってやりたい、救ってやりたい女性の話をしているという難しさも察していただきたいんです。いったいどうすればいいのか.. こんなことを警察に持っていけると思いますか? それに、子どもたちのこともあります。あの子たちが傷つくようなことだけは.. ホームズさん、妻はおかしくなってしまったんでしょうか? それともあいつの家系的に何かあるんでしょうか? こんなケースの調査を受けられたことはありますか? とにかくお願いです。何とか調べてみてください。私はもう何をどうすればいいのか.. 」
「そうなられて当然だと思いますよ、ファーガソンさん。どうぞお掛けになって、気をしっかり持たれて。まずはいくつか質問に答えていただきたいんです。僕は決して手も足も出ない問題だとは考えていませんよ。解決策がきっと見つかるはずです。とりあえず現在あなたがこの問題にどう対処されておられるかですが、奥さんはまだお子さんたちに近づける状態でいるんですか?」
「ひどい状況でして。妻は本当に愛情の深い女なんです、ホームズさん。夫に対して一心に愛を傾ける女性というのがいるんなら彼女みたいな女のことを言うんだと思います。その愛を傾けている夫にあんな恐ろしい、こちらも未だに信じられないくらいの秘密を見られてしまったわけですから、心が壊れそうになってるんだと思います。彼女は、何も話そうとしません。あの恐ろしい場面を目撃したときに何をやってるんだと問いただしたんですが、何も言わずにただただ絶望したような顔でこちらを見て、それから私のことをキッと睨んで自分の部屋に入って鍵をしてしまったんです。それからはずっと引きこもったままで、こちらと顔を合わせることを拒んでいます。妻には私と結婚する前から仕えているメイドがいるんですが、ドローリズという名前です。その子は妻にとっては使用人というより友だちのような感覚なんだと思います。今はその子が妻の部屋に食事を持っていっています。」
「では、今のところは赤ちゃんに危害が及ぶようなことはなさそうなんですね?」
「ええ。子守り役のメイソンさんが赤ん坊から目を離さないと約束してくれています。あの人のことは信頼していますので。ですが心配なのは赤ん坊よりジャックの方なんです。手紙でお伝えしたとおり、あの子は2度も妻にこっぴどく叩かれていますから。」
「でも傷を負うほどではなかった?」
「ええ。強い叩き方ではあったそうですが。体の不自由な子を相手に、ひどい話です、」
そう話をするファーガソンの口元は少し緩んでいた。
「あの子の体を見たら誰だって優しくしようとするはずです。小さいときに高い所から落ちて脊椎を痛めてしまって。でもホームズさん、あの子は心の優しい子なんです。」
ホームズは話を聞きながらも昨日の手紙を手に取ってそれに目を落としていて、
「ファーガソンさん、そちらのお屋敷にはあと誰が住んでいるんです?」
と訊いた。
「名前は思い出せませんが、まだ勤めて間もない使用人が2人います。家畜の世話をしているマイケルも屋敷内で寝ていますし。あとは妻と私、ジャックと赤ん坊、それにドローリズと子守り役のメイソンさん、これだけです。」
「その奥さんと結婚された当時ですが、奥さんのことをそれほど深く知っていたというわけではなかったんじゃありませんか?」
「妻とは会って数週間で結婚しましたから。」
「そのドローリズというメイドは奥さんとはどれくらいいっしょにいたんでしょう?」
「数年間はいっしょだと聞いてますが。」
「では奥さんの性格に関しては、あなたよりそのドローリズという人の方がよくわかってるのかも知れませんね。」
「ええ、そうかも知れません。」
ホームズは紙に何かメモをしていた。そして、
「では.. ランバリーに行ってみる必要がありそうですね。関係者に直接話を聞いていかないと何ともならないケースのようですので。奥さんが部屋で閉じこもったままということなら僕らが行ってもそんなに迷惑となることもないでしょう。もちろん僕らはどこかの宿で部屋を借りるつもりですが。」
と言った。
ファーガソンはかなりホッとしたような顔になって、
「是非そうしてもらいたいと思っていました。来ていただけるんでしたら、ビクトリア駅2時発というぴったりの列車があります。」
と言った。
「ええ、行かせてもらいますよ。今はちょうど仕事が立て込んでるわけでもありませんので、集中してこの件に取り組めるはずです。ワトソン、もちろん君も来てくれるよな? それで、出発の前にもう1つ2つ確かめておきたいんですが、その、お痛ましい奥さんが手を出したというのは、連れ子さんと自身が産んだ子の両方ということでよろしかったですね?」
「ええ。」
「ですが、2人に対するやり方にはずいぶんと違いがあるようですね? 連れ子のことは叩いている。」
「ええ。1度目は杖で、もう1度は手で強く叩いたと。」
「奥さんはなぜその子を叩いたのかをあなたに言ってないんですか?」
「いえ。訊いてはみたんですが、ジャックのことを“ひどい子、ひどい子”と言うだけで。」
「まぁ夫の連れ子を憎んでしまうケースはあるにはありますが。“遺された者の嫉妬”なんて僕らは呼んでいますが。奥さんは普段から嫉妬ぶかい性格だったんですか?」
「そう思います。熱帯の燃えやすい心を全身で表すような感じで。」
「しかし、その息子さんですが、15才になるんですよね。体に制限を受けているぶん逆に心は発達されているかと想像しますが、その子自身は何と言っているんです? どうして奥さんに叩かれたのか話してないんですか?」
「いえ。何の理由もなく叩かれたと。」
「奥さんとその息子さんは普段は仲が良かったんですか?」
「いえ。あの2人の間に愛情というのはなかったと思います。」
「でもいい息子さんだと?」
「ええ。あれほど父親想いの子はいないでしょうね。あの子にとっては私がすべてなんです。私のやることや言うことのすべてに影響を受けているようで。」
ホームズはまた何かメモをしてから少し考える顔をした。
「その息子さんとあなたとの関係ですが、あなたが現在の奥さんと結婚される前から絆はかなり深かったんでしょうね。すごく仲のいい親子だった?」
「そうですね。」
「その優しい息子さんですが、もちろん自身のお母さんとの絆も深かったんですか?」
「ええ、すごく母親想いの子でもありましたから。」
「なるほど。なかなか興味深い息子さんですね。奥さんが手を出したとのことでもう1点お訊きしたいんですが、奥さんが赤ちゃんを襲ったのと息子さんを叩いたのは同じ時だったんですか?」
「1回目のときは、そうですね。あのとき妻は怒りの感情みたいなものに支配されたみたいになって、その怒りを2人の子どもにぶつけたんじゃないかと.. 2回目にやられたのはジャックだけだったはずです。あのとき赤ん坊が何かされたというのはメイソンさんから何も聞いていませんので。」
「それはちょっと話が変わってきますけどね。」
「よくわかりませんが? ホームズさん。」
「ええ、そうでしょうね。仮説はいろいろと立ってあるのに、それを覆すような情報が現れるんじゃないかと思って待ってみる.. 悪い癖ではありますけどね。でもファーガソンさん、人間は弱いものですから。ここの友人は僕のやり方をとかく大げさに書く癖があるみたいですが、とりあえず今の段階では、あなたの問題は決して解決できないものではないでしょう、とだけ言っておきます。では、2時にまたビクトリア駅でお会いしましょう。」
霧の濃い11月の夕方、僕らはランバリーのチェッカーズ宿に荷物を預け、そこから馬車でサセックス地方の曲がりくねった粘土質の道を進んでいき、ようやくファーガソンの家の敷地のところまでやって来た。隣の土地とはだいぶ離れたところに建ったその屋敷はずいぶんまとまりのない建物に見えた。中央の棟はすごく古く見えるのに、そこから左右に広がる棟は新しい時代に建てられたもののようでいた。新しい棟の急な傾斜の屋根にはホーシャム地方の厚板が貼られてあって、そのあちこちに苔が目に付く。その屋根には高いチューダー調の煙突も取り付けられてあった。中央の棟の玄関前にある石段はかなり擦り減って真ん中がへこんでしまっていて、その玄関近くの壁にはこの家を建てたチーズマン一族にちなんでチーズと人の絵柄が描かれたタイルが張られてあった。建物の中に入ると天井には重厚なオーク材の梁が何本も通っていたり床は真っ直ぐでなく曲がっていたりと、棟全体で“長い年月”というものを感じさせていた。
ファーガソンは僕らをその建物の真ん中あたりに位置する大きな部屋へと案内した。そこにあった鉄の仕切り付きの大きな暖炉には1670年と刻まれてあった。今その暖炉では大ぶりの薪が赤く美しく燃えさかっていて、パチパチと音をたてていた。
部屋は見渡すかぎり時代や場所を超えてさまざまなものがごちゃ混ぜになっているといった印象で、壁の下半分を覆う樫の木板自体はおそらくこの家を建てた17世紀の豪農が暮らしていた代からあったものと推測されるが、その板の下のほうにはかなり現代風の色づかいの水彩画が横一列に描かれてあった。また壁の上部の樫板が途切れて黄色い壁土が塗られてある部分には、2階にいるペルー人の奥さんが持ってきたのであろう南アメリカの道具類や武器類が多く掛けられていた。そんな品々はおおいにホームズの気を引いたようで、彼は壁の近くに立ち、そんなコレクションを1つ1つ眺めていた。一通りそれが終わると、彼は考え込むような表情のままで僕らのそばへ戻ってきた。
「ほい、ほい、」
ホームズが声をかけた。部屋の隅に置かれていたバスケットの中に1匹の小型犬が座っていたのだが、その犬がいま体を起こして飼い主のファーガソンのところへ向かおうとしていた。が、その歩き方はかなりぎこちないものだった。後ろ足の運びが両方ともたどたどしく、しっぽも地面に着いてしまうくらい垂れ下がっている。犬はファーガソンのところまで行ってその手をペロペロと舐めた。
「.. どうされました? ホームズさん。」
ファーガソンが訊いた。
「いや、その犬なんですが、何かあったんですか?」
「いや、それが獣医にもわからないようでして。なんらかの麻痺が起こっているみたいで、獣医は脊髄膜炎と考えてるようですが、原因はわかっていません。ですが、一時的なものだと思います。またすぐ良くなるよな。そうだよな、カルロ?」
犬は同意しているつもりなのか垂れ下がったしっぽをしきりに揺らし、それから物憂げな瞳で僕らの顔を順に見た。自分の話をされているのがわかっているのだ。
「急にこんな風になったんですか?」
「ええ、ある日突然に。」
「いつ頃のことです?」
「4ヶ月くらい前だったと思います。」
「なるほど。おもしろいですね。」
「ホームズさん、これで何か見えるというんですか?」
「ええ、推理の裏付けがね。」
「それというのは何なんです、ホームズさんっ。今度のこともあなたにとっては単なる知的パズルの1つなのかも知れませんが、僕にとっては命の懸かった問題なんですっ。妻が殺人犯になるかも知れないし、しかもその危険が及んでるのが自分の子なんですっ。こちらの気持ちを弄ばないでください、ホームズさん.. もう私はいっぱいいっぱいで.. 」
かつての大柄なスリークォーターバックがその身を震わせていた。ホームズは相手の腕にそっと手を置いて、
「ファーガソンさん、今回の問題ですが、どういう解決を迎えても、あなたの心を痛める結果になってしまうかと思われます。できるだけそうならないような形にしたいとは思っていますがね。今はこれ以上のことは言えません。このお屋敷を出るときには何かはっきりしたものが得られればと考えていますが。」
と言った。
「.. 私もそう願います。ではちょっと失礼して、あれから妻が変わってないか見てきますので。」
ファーガソンはそう言って僕らの元を離れた。ホームズはまた部屋の壁に掛かるめずらしいコレクションに目をやっていた。少ししてからファーガソンが戻ってきたが、その消沈した表情から事態が全く進展しないことが窺えた。このとき彼の後ろから背が高く細身で茶色い顔をした若い女性がついて来ていて、ファーガソンがその女性に向かって声をかけた。
「ドローリズ、食事の用意ができたから。妻を頼んだよ。」
相手の女性は怒ったような目つきで主人のことを見つめ、
「奥さん、とっても具合悪い、」
と口にした。
「奥さん、食事、要らない言ってる。とっても具合悪い。お医者さん要ります。お医者さんいなくて、奥さんといっしょにいるの、こわいです。」
ここでファーガソンが僕に、どうだろうか.. という視線を送ってきた。
「.. 僕が、行かせてもらうよ。」
「ワトソン医師が行っても大丈夫かな?」
ファーガソンがそのメイドに尋ねた。
「私、連れていきます。それで、出ていかないでください、言います。奥さん、お医者さん要ります。」
「わかりました。では、行きましょうか。」
僕が声をかけた。
感情が高まっているのかその身をぷるぷると震わせているメイドに連れられ、階段を上っていって古い廊下を歩き、突き当たりのドアの前にまで来た。大きく重たそうで鉄の金具の補強まで入ったその扉を見たとき、僕はもしファーガソンがどうしても奥さんに会おうとこのドアを強行突破しようとしたとしてもかなり大変だろうなと感じた。メイドがポケットからキーを取り出して鍵を開け、古い鉄のヒンジをギィギィいわせながら重い樫の扉がゆっくりと開かれていった。先に僕が部屋に入り、メイドのドローリズは後から入って内側からドアに鍵を掛けていた。
ベッドの上に、明らかに高熱に浮かされている様子の女性が横たわっていた。意識がはっきりと定まっていないようで、僕が入ってきたのに気づくとその美しい瞳を怯えさせ、顔を上げて不安そうにこちらを見やっていた。夫が入ってきたのではないとわかってホッとしたのか、彼女はまたふぅっと息をついてから後頭部を枕に沈めていた。僕は心配いりませんから的な言葉をかけつつベッドに近づいていき、その女性の脈や体温などを計った。そのあいだ彼女はじっとおとなしくしていた。その脈拍も体温も高めではあったが、僕の印象としては彼女は実際に何か病気を抱えてるというよりも、心からくる体調不良の面が大きいという感じだった。
「こんなふう、寝たままです。1日、2日。奥さん、死んでしまうじゃないかと。」
ドローリズが口にした。
ベッドに横たわる女性はその紅潮した美しい顔を僕に向け、
「主人はどこにいるんです?」
と訊いた。
「1階にいますよ。あなたに会いたがってます。」
「.. 会いません。主人とは会いませんから。」
彼女はそう言って虚ろな目になって、
「鬼よっ、鬼っ! あんな悪魔相手に、どうしろと言うのっ。」
「何かお力になれることがあれば──」
「いいえっ。誰にも何もできません。すべておしまいなんです。もう何をしても無駄。すべて壊れてしまったから.. 」
僕はこのときこの人は何かの妄想に取り憑かれてるんじゃないかと思った。あの誠実そうなボブ ファーガソンに鬼なり悪魔のイメージを当てはめるなんて全くもって僕にはできない。
「奥さん、」
僕が言ってみた。
「ご主人は奥さんをすごく愛してらっしゃる。今の状況にすごく心を痛めてられるんですよ。」
彼女はまたその美しい瞳をこちらに向けて、
「確かに私への愛情はあるでしょう。でも私だってそうじゃありません? 私が全身で夫のことを愛していないっていうんですか? あの人が傷つくくらいなら、この身がどうなってもいいくらいにっ.. それが私の愛し方なんです。それでもあの人は私のことをあんな風に思って.. 」
「ご主人は心を痛めておられますよ。ただ、混乱しているんです。」
「そうでしょうね。でもあの人は信じる心を持たないといけません。」
「1度会ってみたらいかがです?」
「いいえ。あのときのあの人の顔と、ひどい言葉は忘れることができませんから。主人には会いません、どうぞ出ていってください。どうにもならないことですので。主人には、赤ちゃんと会わせてくださいとだけ伝えてもらえますか。私はあの子の母親なんです。それだけです。」
それから彼女は顔を背け、何も言葉を発しなくなった。
僕は階段を下りていき、さっきいた部屋まで戻った。ファーガソンとホームズは暖炉の近くのイスに腰かけていた。僕は奥さんの様子や彼女の話したことを報告したが、それを難しい顔で聞いていたファーガソンが、
「赤ん坊を近づけるなんて無理だ。またあいつに変な発作が起こったらどうするんだ。口を血だらけにして立ち上がった、あんな姿を忘れられるわけないよ、」
そう口にしながら彼は背筋がぶるぶるっとなった様子で、
「赤ん坊はメイソンさんに任せておく。それがいちばん安全なんだ。」
と言った。
ここで、あか抜けした感じのメイド、この屋敷に来てから目にした唯一の現代的な存在と言えるメイドが部屋にお茶を運んできてくれた。彼女がそのお茶をテーブルに並べるあいだ部屋のドアは開いたままになっていたのだが、その開いたドアのところから1人の若い男の子が姿を現した。金髪で白い顔をした可愛らしい感じの少年で、部屋に自分の父親の姿があるのを見つけるとその青い瞳を輝かせて部屋の中央まで進んできて、恋する少女なみの奔放さで自分の腕を父親の首に巻きつけていた。
「お父さんっ、」
その少年が声を上げた。
「帰ってきてたなんて知らなかった。この部屋でずっと待っといたらよかったなぁ。おかえりなさいっ。」
ファーガソンは少年の手を優しく振りほどいてから、少し照れたような顔になって、
「ジャックっ、」
と発して手のひらでその少年の金髪の頭をポンポンと叩いた。
「こちらのホームズさんとワトソンさんがうちに来てくれることになったから、予定より早く帰ってきたんだよ。」
「ホームズさんって、お父さんが言ってた探偵の?」
「そうだ。」
このとき少年はこちらに目を向けたが、僕の印象としてはこのときの彼の目つきはあまり友好的なものとは言えなかった。
「ファーガソンさん、もう1人のお子さんはどちらです?」
ホームズが言った。
「赤ちゃんの方にも会っておきたいんですが。よろしいですかね?」
「ジャック、メイソンさんにあの子を連れてくるように言ってきてくれないか。」
ファーガソンがそう伝えると、少年はよろめくような、医者の目からすれば明らかに脊髄に損傷を抱えている歩き方で部屋から出ていった。彼はすぐに戻ってきて、その後ろから背が高く痩せた女性が腕にかわいらしい赤ん坊を抱いて入ってきた。その赤ちゃんは髪は金色で瞳は黒色と、イギリスとラテンの血が見事にミックスされていた。ファーガソンはその子がかわいくてしかたないという顔で女性の腕から赤ん坊を受け取り、腕の中で優しく抱きかかえていた。
「こんな子に何かしようとする人間がいるなんてなぁ.. 」
自分の腕の中のその天使のような赤ん坊の首元にできたぷくっと赤く腫れた傷に目をやりながらファーガソンがそうつぶやいた。
このとき横目でホームズを見ると、その顔つきにぐっと真剣みが帯びているのがわかった。表情がろう人形のように固まり、その視線はいったん赤ん坊とファーガソンへ注がれたあと、部屋の奥の方へ移っていた。その鋭い目はいま窓の外の霧がかかった物悲しい雰囲気の庭へと向けられているようだった。その窓は雨戸が半分ほど閉められていて外の景色はだいぶ見にくくなっていたのだが、それでもホームズは熱心にそちらに目をやっていた。そして一瞬ニヤリとしたあと、また赤ん坊に目を戻した。そこからその赤ん坊の短い首にできた皮膚がすぼまったような小さな傷に顔を近づけて、それをじっと見ていた。最後に彼は目の前でぱたぱたと動いているえくぼ付きのちっちゃな手を、自分の指で握手するようにつまみ、
「じゃあね、チビちゃん。変わった人生のスタート切ったよね。保母さん、ちょっと2人で話したいんですが。」
と言った。
ホームズはそれから子守り役のメイドを部屋の端にまで連れていき、しばらくその場で熱心に何かを訊いていた。このとき僕が聞き取れたのは彼の最後の言葉だけで、そのメイドに向かって“不安はもうすぐ解消されますから”みたいなことを伝えていた。相手の女性は言葉数も少なく、終始むすっとした様子でいた。それからそのメイドは赤ん坊を抱きかかえて部屋を出ていった。
「今のメイソンさんですが、どんな人です?」
ホームズが訊いた。
「きつい印象を受けるかも知れませんが、根は優しい人ですよ。赤ん坊をとてもかわいがってくれています。」
「ジャック、あの人のこと好き?」
ホームズが唐突に少年の方を向いてそう質問した。相手の少年は気持ちが出やすいその顔を曇らせ、首を横に振った。
「ジャックは好き嫌いがはっきりしてる方でしてね、」
ファーガソンが少年の体に腕をまわしながら言った。
「私は何とか好きな方に入ってるようですが。」
少年は子犬が鳴くような甘えた声を洩らし、自分の体を父親の胸にすりつけた。ファーガソンはその子の体をゆっくりと引き剥がしてから、
「さ、ジャッキィ、もうあっちへ行っていなさい、」
と言った。それからドアのところへ向かう少年に愛おしそうな視線を送り、その子が部屋を出ていってから、
「.. ホームズさん、あなたにはとんだ無駄足を踏ませてしまったかも知れませんね、」
と口にした。
「こんな問題に、誰が何をできるというんです? 同情してもらう以外に。こんなに扱いにくい難解なケースというのも無かったんじゃありませんか?」
「確かに扱いにくいケースではありますが、」
ホームズが愉しそうに笑みを浮かべて言った。
「このケースの難解な面というのとは今のところ出合ってませんね。理論立てて推理すべきケースではありましたが、ポイントポイントで当初の見立ての正しさも証明できていけましたし、主観に過ぎなかったものが客観に耐え得るものとなって.. ええ、答えは出たと言えると思います。ま、というかベーカー通りでお話を伺っていた時点でそれは出てたんですけどね。あとは観察して確認していく作業だったというだけで。」
ファーガソンはその大きな手のひらをしわの寄った眉間を覆うようにぱちっと持ってきて、
「ホームズさん、お願いですからっ、」
とつらそうな声を出した。
「何か見えていると言うんなら早くおっしゃってもらえませんかっ。私はもう耐えられません。私はどうしたらいいんです? あなたがどうやって答えにたどり着いたのかはこの際もうどうでもいい、本当にそれが真実だというんなら。」
「ええ。ちゃんと説明していかないといけませんね。それは必ずしますよ。ですが、そのやり方は僕に任せてもらえませんか? ワトソン、奥さんは僕らに会えるくらいなの?」
「体調は確かによくはないけど、頭はかなりしっかりされてたみたいだよ。」
「よかった。奥さんもいっしょじゃないと、これは明らかにできませんから。みんなで奥さんの部屋に行ってみましょうか。」
「妻は私には会いませんからっ。」
ファーガソンが声を上げた。
「いえ、会ってもらえると思いますよ、」
ホームズはそう言って紙にササッと2、3行の文を書いた。
「ワトソン、君には一応は入場許可は下りてるみたいだから。これ、奥さんに渡してきてくれないか?」
僕はまた2階まで行って奥さんの寝室をノックした。そして警戒するように少しだけ扉を開けたメイドのドローリズにそのメモを手渡した。そのまま廊下で待っていると、室内から喜びと驚きが混じったような奥さんの声が洩れ聞こえてきてからドローリズがまたドア口までやって来て、
「奥さま、会います。奥さま、話、聞きます。」
と告げた。
僕は廊下を戻っていって階段の上から下にいる2人に声をかけた。ファーガソンとホームズが上までのぼってきて、3人で奥さんの寝室へ入ることになった。僕らが部屋に入ったときは奥さんはベッドの上で身を起こそうとしていて、それを見たファーガソンがベッドに近づいていこうと1つ2つ歩を進めたが、相手がサッと制止するように手を上げたので彼はその場で踏みとどまった。それから彼は近くにあったアームチェアーに深く腰かけた。ホームズの方は自分に驚愕の目を向けているベッドの上の女性に軽く一礼してから、ファーガソンのそばにあったイスに腰を下ろした。
ホームズが言った。
「ドローリズさんには席を外してもらった方がよくありません.. あ、そうですか、奥さんがいてもらった方がいいということなら、こちらとしては何の問題もありませんが。えぇ、では、ファーガソンさん。僕は依頼も少なくなく忙しい身ですし、あまりまわりくどいやり方は好みませんので。手術もサッと済ませた方が痛みも少ないですからね。はじめにお伝えしておきますが、あなたの奥さんはとても愛情深い健康なお方です。その点はご安心ください。ただすごく間違った見方をされた。」
ファーガソンは座ったまま身を起こし、興奮した口ぶりで、
「それを証明できますか? ホームズさん。それなら私はもうあなたに一生頭が上がりませんが。」
「ええ、してみせますよ。ただし、そうすることであなたは別の角度で傷つくことになる。」
「この問題がはっきりするというんなら私は構いません。これが解決できる以上に大事なことなんてないんです。」
「そうですか。では、ベーカー通りであなたからお話を伺ったときから僕がどう考えたのかをお話ししますね。まず今回のケースがバンパイアの伝説に関連がある、などというのはナンセンスです。この国の実際の犯罪の現場でそんなことは起こり得ません。ですが、あなたがおっしゃったことは確かにその伝説にぴったりはまっているかのようでした。赤ちゃんのいるベッドから身を起こした奥さんの口元がべっとりと血にまみれていたということですからね。」
「ええ、そう言いました。」
「しかし血の垂れた赤ちゃんの傷というのを考えたときに、そこから血を吸う以外の目的は浮かびませんでしたか? この国の長い歴史の中で、そうやって相手の体から毒を吸い出すという事例はなかったですかね?」
「毒っ?」
「奥さんは南アメリカのご出身で、このお屋敷にもその土地からの物がたくさんあるようですね。僕はここに来る前から直感としてわかっていました。先ほどの1階の部屋にあったような武器がこのお宅に存在することをね。もちろん頭に描いてたものとぴったり同じ武器、同じ毒というわけにはいきませんでしたが、とりあえずそんなような物があるということはね。あの部屋の壁に鳥を仕留める用の小さな弓と、その隣に空になった矢筒がありましたよね。あれを見たときにこれだ、と思いました。もしもそんなキュラーリの植物毒なり他の恐ろしい薬物が先端に塗られた矢が赤ちゃんの首元に刺さったというのなら、その毒をすぐに吸い出してしまわないと赤ちゃんの命はありませんからね。
それにあの犬です。もし誰かがそんな毒を使おうというのなら、その効力がまだあるのかどうかを他のもので試したいと考えても全くおかしいことではないですからね。ここに来る前はあんな犬がいることは予想していませんでしたが、あの犬を見たときにそんな状態となっている理由はすぐにわかりましたし、僕の推理の裏付けともなったんです。
おわかりですね。奥さんは赤ちゃんが襲われることを怖れていたんです。実際にそんなことがされた場面に出合っていますし、そのときは何とか毒を吸い出すことができた。でもそれをあなたには言うことができなかったんです。あなたがあの少年にどれだけ愛情を注いでいるかわかっていましたし、あなたを傷つけまいとしてね。」
「ジャッキィが.. 」
「さっきあなたが赤ちゃんを抱いていたときですが、僕の角度からは見えていたんです。雨戸が半分閉まってるところの窓ガラスに反射したあの少年の顔がね。あれほど強烈な嫉妬と憎しみを抱えた表情というのは、僕は知りません。」
「ジャッキィが.. 」
「ファーガソンさん、現実を見ないといけません。今回のことが何より痛ましいのは、これが歪んだ愛情によってなされたことであるからです。息子さんの胸の中で内にこもってどんどんと膨らんでいったあなたへの、そして亡くなったお母さんへの愛情もあったでしょう、そんな心が、今回のような行動を取らせたんです。自分の弱々しい体と対極にある赤ちゃんの元気な体やその輝きが、彼の憎しみを増幅させたのかも知れません。彼の心はそんな憎しみに喰らい尽くされてしまったんです。」
「まさか、そんなことがっ.. 」
「今の話で間違いありませんか? 奥さん。」
それまで枕に顔を押しつけて嗚咽していた奥さんが、顔を上げて夫の方を向いた。
「ボブ.. 言えるはずなかった。私の口からこんなことを聞いたときの、あなたの痛みが私にもわかるようで.. 胸に突き刺さるみたいで.. このまま何も言わずに、いずれ誰かの口からあなたに伝わったら、そんなことがあるとしたらその方がずっといいと思ってた.. それで、この方が現れて.. 魔法でも使えるかのようなこの方が、すべてわかっていますというメモを渡されたときは、正直.. 嬉しかった.. 」
「家長のジャッキィへの処方箋としては、1年間海の上で過ごさせるというのはどうですかね、」
そう言ってホームズはイスから立ち、
「あぁ、奥さん。1つわからないことがあります。あなたがジャックに手を上げたことは、これは当然と言えるでしょう。母親の我慢にも限界がありますからね。ですが、それからよく赤ちゃんのそばを離れていることができましたね?」
「メイソンさんには打ち明けてあります。彼女はすべて知っています。」
「そうですか。そうじゃないかと思ってました。」
ファーガソンはイスから立ち、奥さんのいるベッドの傍らでむせび泣いた。そしてぷるぷると震える両手を奥さんに向かって伸ばしていた。
「僕らはここまでみたいだね、ワトソン、」
ホームズは小声で、
「あの奥さんを守りすぎてるメイドの片っぽの肘は任せたよ。僕はもう1この方を取るから。よし、いくよ、ほれっ、」
廊下を出てからホームズが扉を閉め、
「あとはあの2人が何とかするしかないから。」
と口にした。
この事件について記すべきことは残り1つとなった。冒頭の手紙に対するホームズの返信である。
ベーカー通り
11.21
バンパイアに関して
担当者様
19日付けの手紙にて言及されていた、ミンシング道の茶葉仲買業ファーガソン&ミュアヘッドのロバート ファーガソン氏からの依頼をこちらで受け付けて調査いたしましたところ、当該の件はじゅうぶんな解決が得られました事をご報告いたします。推薦いただきありがとうございました。
それでは。
シャーロック ホームズ
2026年3月23日 発行 初版
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