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駒沢で生まれた、いま住んでいる、
暮らしていたことがある約50名の人生を、
約40名が聞いた、生活史の一群です。
第1話 世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら?
みたいな話があったみたい
第2話 だから、もっと普通。普通に、普通の生活を(笑)
第3話 マネーゲームのゲームの外側から見ちゃうと、
人生のあと残った時間を費やすっていうのが
第4話 父親の思い出って本当に少なくて。
駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)
第5話 「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、
そのとき初めて、ものすごい実感した
第6話 なんだったら焼きおにぎり自分で作って、おやつで食べていいよ、
みたいな(笑)
第7話 今。うん、よくわかんないけど……。愛情は湧いてきたから
第8話 ふふっ。刃傷沙汰にはならないようにね(笑)
第9話 憧れと一緒に暮らすって違うよね。
そこをちゃんと見極めてたのは偉いと
第10話 どうなんですかね?
結構、直感で生きてるとは思ってはいるんです
第11話 まかない食い放題!
生マグロのね、本マグロは、ほんと美味しいの
第12話 ひとつ前の会社が戻って来いって言うから、
じゃあ、○円くださいって言って(笑)
第13話 もしそう言わなければ、そう思わなかったら、
親父はもっと長生きをしてくれたんじゃないか
第14話 「また仲良くなるためには、どうしたらいいんだろう」って
ことに、私はいちばん、頭を抱えているかもしれない
第15話 そのためにL字ソファーベッド買ったんですよ。生意気ですね
第16話 私がアメリカ行くのは、おじさんと一緒にっていうつもりで。
それが「あなたが社長ですから、
これ、サインしてください」って、突然
第17話 だから、だから、だからだと思うんだけど
第18話 幼稚園の終わりにはもう美容師になりたかったんだよね
第19話 家出できる場所ってこの辺全然ないんですよね
第20話 お茶ひとつあげても「ありがとうございます」って言う
お客さんって、すごいなとずっと思ってた
第21話 朝来た瞬間から、
自分でやりたいことを自己決定していくっていう
第22話 けっこう今は相談相手って感じ。お姉が、いちばんの
第23話 ここにいたら自分なんか甘えちゃうなって(笑)
第24話 「本命じゃない人」と一緒に付き合ってるみたいで、
「なんかあんまり」って思ってたけど
第25話 根岸農園でぶどう狩り、ぶどう狩りができるんです。
あのね、これをずっと行くと緑道に出るんですよ
第26話 仕事してるとき、
自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)
第27話 駒沢公園はずっと身近にはあったかな
第28話 悩みってほどでもないけど、自分から言う話でもないから
第29話 塾すら近所だからさ、
全部、この三茶駒沢エリアで完結してたの
第30話 ここには駅がなかったんですよ、昔。
私が高校一年生のときに、駒沢大学駅ができたんです
第31話 もうなんか、聞いてる以上にすごかったですね。
「子どもを送ってったあと、お茶」とか。床が大理石の家とか
第32話 仕事だと、すごいなんでも頑張れてるんですけど。
プライベートとなると急にちょっと雑になっちゃう
第33話 僕、駒沢歴が長くて。渋谷に4年、武蔵野に一年いたんです
けど、それ以来ずっとこの界隈で
第34話 がーって準備して、半年ちょっと経った十一月に
駒沢でオープン
第35話 山梨の人は東京に出ると
中央線沿線に住む人が多いんですけど、
高校生当時の僕には「世田谷区」の響きが良くて
第36話 海外にいると言葉も文化も習慣もわかんないから、
頼れるのは家族みたいなのはあったのかも
第37話 「おいしいクリームソーダを出すだけの人です」って言われた
第38話 さあ東京行くぞって出てきたやつは、
大学入った時点からもう野心がバリバリなわけですよ
第39話 「宿命なんだ」と思って。ちょっと移ってみようかなって
第40話 早稲田落ちた次の日に下北沢に行って、カフェに(笑)。
落ちたけど、コーヒーは飲みます
第41話 ご近所をちょっと歩いて、おう元気か!とかいって
声かけられて、そういうのなんか憧れるよね
第42話 喘息でお昼にマックはちょっとつらいですみたいな。あははは
第43話 …どっからか来てるのかな。
常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね
第44話 たぶんすごい逆算思考なんですよ。
後ろから人生を逆算してるから
第45話 またね、切り替わる時が来るかもしれないから、
いまある仕事を、最大限にやるしかないと思って(笑)
第46話 いまでも「ここではこんなことがあったなぁ」とか
そういうのを思い出しながら、ゆっくり散歩してるんです
第47話 すげえな、自分はそうなれんのかな、みたいな。
あんまり繋がんないっていうのがあったんですけど
第48話 「私、ここにいなきゃいけないような気がする」って
おっしゃって。「どうしよう」って(笑)
第49話 で、ご飯が美味しくて2キロぐらい太って帰ってきました(笑)
第50話 そこから出たい人ももちろんいると思うし、ここにずっといる
ことが尊いともあんまり思ってないんですけど
第51話 東京がすごく息苦しい街だなって、来た瞬間から思ったのね
第52話 私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。
本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って
過ごしています
第53話 私、人よりすごい睡眠時間が長いんです(笑)
話し手 20代女性
聞き手 坪谷彩子
──今日は、自由に、思いつくままに、話していただければと思います。この間、松山出身ですとお聞きして、ちょっと田舎の方…。
そうです。松山っていうと、道後の中心部をイメージするかも。それよりかは山の麓で、川とか、田んぼとか畑が周りにあるところで育ちました。生まれは松山だけど、父親が関西出身、母親が愛媛出身で、生まれてすぐは関西の方にいたけれど、両親の仲が悪くなっちゃって、色々あって母方の実家がある松山へ、それが3歳か4歳ぐらいのとき。それから私の松山がスタートしたなと覚えています。
近くにおじいちゃんとおばあちゃんがいて。祖父母とは別で、小学校に近いひいおばあちゃんの家で母と3人で暮らしました。
──母方の家族。
そう……3、4歳の頃は、なんとなく周りの流れを受け入れながら過ごせていたけれど、すごく違和感があって。父と母が喧嘩してるのも意識にあるし、止めてるけど止まらない。私はそこに入っていけない。父と母と私で家族なんだけど、そこに私は介入できないんだなっていう、すごい無力感をそのとき感じてたりとかして。
苗字が変わるとか、なんかそういう儀式なのかなぐらいに思ってて。離婚したからだとかはあんまり思ってなかったけど、小学校に上がって、だんだん周りの雰囲気を感じ取って、あ、私の家族ってちょっと普通じゃないかもって、だんだん意識的に考えるようになった。でもなんかお母さんには気まずくて聞けなくって。自分の中で自分のかすかな記憶とか、引き出し開けて母子手帳を開くとか、なんか探り探り、私のヒストリーを自分で頑張って探しながら小中高を過ごしました。
──探した。
(笑)どうしても聞けなくて。厳しかった。
──高校生ぐらいまで探してたんだ。
はい、そう。自分の昔を。なぜ生まれたのかとか、自分のいる意味みたいなのを、ずっと、ずっと、探してました。うーん、母親も働いていたし、やっぱり疲れて帰ってくるから、なんか顔色を読んでいて。育てなきゃみたいなものもあるから、私がちょっとでもお水こぼしちゃってもなんか、厳しく言われたりとか、「片付けなさい」「早く寝なさい」みたいなのが私にはすごい窮屈だった。なんか、私が生まれてこなきゃ、母や父にとって変わった未来もあったのかなとすごく感じていました。
ま、小学校は、なんだかんだ学校にも友達はいるし、なんとなく違和感は感じながらも、でも、そこまで考えすぎず、楽しく過ごしてもいた6年間でしたけど。
私が住んでいたところは、小学校のメンバー全員が同じ中学校で、ずっと9年間同じ、ちょっとなんか偏った価値観のあった土地だったから、こうしなきゃいけない、真面目な子が素敵ですみたいな、結構優等生タイプの子たちが多いところで、狭いなって思って過ごしてたんです。
中1になって、クラスの女の子からいじめられちゃって。その子が好きな男の子とただ仲良くしてただけだったんですけど、でも、「死ね」とか言われるし、やっぱり居場所なんてないんだって思いながら、お母さんには心配かけられないし、なんか言ったら先生に言われて。で、向こうの親にもなんか言われて。
もうそんな私のためにめんどくさい、が勝っちゃって。ひいおばあちゃんも一緒に住んでたから、急に学校行かないってなったら心配するだろうな。「学校行きなさいよ」みたいな、「なんで元気ないの」みたいになっちゃうだろうなって。全部めんどくさいから。ほとんど、うん。肺炎にかかった以外は皆勤賞で中学を卒業したけど、3年間、本当に本当に息苦しかった。
先生の顔色も見るし、あの女子はあの男子が好きなんだ。わかった。じゃあ、あの男子と仲良くしないとか、クラス全体の行動とか、好みとか、そういうのを読んでないと不安で不安でしょうがなくて。だから噂にはすごい敏感で、え、誰々が好きなんだって、へーみたいなのをうまく情報収集して、どうやったら生き延びられるか場所を探してた。
で、高校生になって、みんな受験でバラバラになるから、やった。よっしゃ、やっと解放されると思って。ちっちゃい頃からテレビでドラマを見るのがすごく好きだったから、なんかそういうのに憧れて、演劇部がある学校に行った。で、そこの演劇部は全国大会にも出場するぐらい有名な先生がいて、その人の下で演劇だけやろうみたいな感じで、すっごい張り切って高校に行きました。
でも、中学までは勉強ができたから、その演劇部のある学校も県の中ではすごい優秀な高校で、文武両道、伝統大事にしますみたいな学校で、なんか入学式のときに、うわ、居心地悪と思って、それを押し付けられて嫌だなって思っちゃった。単にもう勉強が追いつかなくって、勉強っていう意味ではぜんぜんもうその学校にも居場所がなくて、いつも先生に迷惑かけながらも課題も出さないし、授業中寝てるか、演劇部の台本覚えてるかどっちかで、かったーい出席簿でこう叩かれて、いつもたんこぶつくってて。でもその先生はなんか許してくれた。怒るけど、部活に熱中してる私も認めてくれたからめっちゃ感謝してる。その高校では、うーん、行っちゃいけないようなレベルの大学、そこまでじゃないけど、でもなんかあんまりよろしくないよね、ぐらいの大学に行ったけど、別にそれも悪くは言わなかったし、なんかやりたいことをやらせてくれた先生が担任で。高校には、部活と、その先生と、居場所がすごいあったかなぁ、とは思います。
でも……、演劇部の話でもいいですか?
──うん、どうぞ。
うん、演劇部の話になると、全国大会を目指すような部活だけど、私の代になって、同じ学年の子が10人ぐらい、私が主役で、一人の女の子の一生を描くみたいな作品だったから、どうしても私が出ずっぱりになっちゃって。他の同級生はやっぱり出番が少なくなっちゃって。全国に行くには、地区大会、県大会、四国大会、全国。すごい、結構長いスパンで同じ作品をずっと練習してるから、だんだん不満が出てきちゃって、なんでこんな私の量は少ないんだとか、もっと出たいみたいな。
全国大会で優勝すれば、全国大会に行けば、みんなの不平不満も叶うだろう、報われるって思って、信じてついてきてねって言って部員にも、後輩にもそうやって言って頑張ってたんですけど、四国で1位1校しか全国大会に行けなくて、2位で終わっちゃったんですよ(笑)。
みんなについてきてって言ったし、なんかその時間幸せだったし、みんなが報われるためにはどうしたらいいんだろうってすごい考えて、そのときは、演劇をずっともう死ぬまでやり続けようって思った。
でも、周りは受験勉強をしていて。田舎だから周りに聞いても、インターネットで調べても、答えが見つからなくて。先生に***の研修所のチラシをもらって、大学に行ったぐらいと同じ価値があると思うっておっしゃったから、それを材料に親を説得して。
お母さんとおばあちゃんの価値観で。なんか違う、わかっていたけれど、説得しきれなかった。だから、普通の大学と研修所を受けた。研修所は2次試験で落ちちゃって、まあダメでした。で、なんなら興味があるだろうって思って探して。ヒットしたのは心理学科で。駒澤大学なら私の学力でもなんとか行けるよって塾の先生に言われて。で、駒澤大学に入りました。なんか、他のも何校か受けたけど、やっぱり駒澤(大学)しか受からなかった。
やっと駒沢にたどり着きました(笑)。でも、周りは劣等感を抱えてる人がすごい多くて、なんか本当はどこの大学が良かったんだよねとか。これから4年間どうしようみたいな、ぐでーみたいな空気感が漂っているなっていう印象はありました。
──うん。松山から出てきて。
はい、出てきました。でも、駒沢の近くに住めばいいんだけど、東京都が怖すぎて。
──怖かった。
怖かった。なんか、受験で出てきたときも、新宿とか渋谷にホテルを取ったから、人が多いし、刺激が強すぎて。で、神奈川県の田園都市線沿線に4年間住んで、40分ぐらいかけて駒沢に通ってました。
──40分。
長かった(笑)。
どうしても就活したくないなと思っていたとき、駒澤大学に、就活のコンサルタントみたいな人が講演しに来てた。その人に、もう自分が考えてることがまったくわからないですって個別で相談に乗ってもらって。演劇への思いが断ち切れてないからですって言われて。1個オーディション受けて、受かったら演劇やる、落ちたら就職すると決めたらと言われて。
あ、そうですね、わかりましたって言って、家帰って調べて、12月締め切りの***演劇研究所のチラシを見つけて。名だたる方がいらっしゃる、なんかもう名前だけにひかれて、フィーリングでこれしかないって。年明けお正月、帰省の飛行機も取ってたけど、期間がかぶってたからキャンセルしたりして。
──帰省もキャンセルして。
そう(笑)。オッケーオッケー、そうして合格して。で、本当は4月から通うはずでした。大学4年、コロナ禍来ました。
──うんうん、大学4年生のとき?
4年生です。4年のときにはゼミと卒論しか残してなかったから、同時に通えるなと思って。したら、コロナになって、入所がなんだかんだで伸びて、6月にやっと入って、舞台の勉強をしました。んー、でも、そこでも、なんか……ガッツがある子は、先生にこうですかって聞いたりして、気に入られるとかもあったんですけど、私は、なんか、そういうところで負けちゃう、引いちゃうんですよね。
──負けちゃうの?
負けちゃいますね、なんでなんでしょうね(笑)。ずっとちっちゃい頃からそうなんですけど、引いちゃう。戦いから引いちゃう。演劇も好きだったけれどモヤモヤ過ごしてたから2年目に上がれなくて。で、なんかお金を稼ぎながら、演劇を仕事にしていく術はないかしらとは思ってたんですけど、そこでも名だたる事務所とかには果敢に挑めなくて。怪しいところもいっぱいあるから引っかかりたくないなとか。たぶんオーディションとか受けて落ちて、否定されるのがすごく嫌なんですよ。そういうので挑戦したりしなかったり、モヤモヤ、モヤモヤしながら結局事務所にも所属せずに、大学を卒業してからはアルバイトで生計を立てて、ときどき舞台に出るみたいな生活をしていました。
──大学4年生になって研究所と大学を並行してやっていく、よっしゃって決めたとお話されたとき、すごく表情が輝いて。挑戦しなかったって言いながら、表情が曇った感じがしたんです。
(笑)……決めたらパンって動くけど、周りを気にしすぎちゃう。自意識過剰かプライドが高い。それは自分の小さい頃とかに原因があるなって思っていて。母親もそうだけど、完璧主義みたいな。テストで98点取ったのに喜んでくれない。この2点はどうしたんだみたいな。ケアレスミスだって言ったら、ケアレスミス多いよ、みたいな。褒めてほしかったんですけど、褒めてくれなかったなぁみたいな。そんな悪い親じゃないんだけど、なんかそんときは、嫌だなぁって。結構ピリピリ、ピリピリお母さんがしていて、私はにこやかにしてた方がいいなって思ってた。
「もちなげ」「もちほうり」って知ってます? 松山の方で、家を建てたりすると、お餅とかお菓子を梁の上から投げて、地域の人がそれを拾って、わーってやる行事があるんですけど、私は人がそうやって欲を出して、“もち、もち ”って拾ってるのが、すごく嫌な姿に見えて。どんって体ぶつかるじゃないですか。小学校6年生ぐらいだったんですけど大泣きして。おばあちゃんは「なんで嫌なの」、「行ってきなさいよ」みたいな。けど、怖いみたいな。人の欲が怖くてずっと行ってない。結構そういうの、トラウマ。競争がすごい嫌い。うん、争い事とか本当に嫌。
東京に出てきてから、だんだん自分の本音をぽつりぽつり、母親に電話で話したりするんです。『タイタニック』のボートを取り合うシーンで「たぶん私は譲ると思う。なんか、生きる術を諦めるんじゃなくて、他で探す気がするよ。死んでもいいけど、とりあえず譲ると思う」ってお母さんに言ったら、「そうだろうね」って言って。親にそれ言ったら傷つけちゃうかなって思ってたんです。「私が産んだ子は生きる欲がないのか」みたいな。せっかくなら、「生きたいって思ってほしい」よね。ポンって言ったら、お母さんは意外と「そうだろうね」って言って、意外と(笑)。
──意外と(笑)。
すんなり受け入れてくれて(笑)。そうなんだ、なんか嬉しくて。それがなんか否定されなかったのが。別にそんな強く生きたいって思ってないことを受け入れてくれたんだと思ったら、嬉しかった。いまもちょっとずつ、そうやって自分の本当に思ってることをポンって投げて試してる。
──正直なことを、ぽつっ、ぽつっと言えるようになってきたんだ。
そうですね。それは演劇のおかげ。あはははは(笑)。研修所と大学を同時に卒業した後に、「マイズナー」っていう海外の演劇手法…それは相手と本当に繋がる…例えばセリフを「可愛いね」って言うんじゃなくて、「可愛いね」って本当に本当に心の底から思って伝える、相手が受け取る、相手が受け取った表情や行動、指先とかをまた体で受け取るみたいな。演技って振りじゃないよね、本当に感じるよねっていう手法のレッスンに週一回ぐらい通ってたんですけど、それをずっとやってると、自分自身と繋がる。自分が本当に思ってることは、社会で生きてるとそういうのを隠す。隠さないと生きていけないから。だけど演劇はそうじゃないんだよ、その鎧を脱ごうねみたいな作業をすごいしてたから、だんだん自分が思ってることもわかってきて、そしたら親にもちょっとやってみようかなって勇気が出てきたりして。だから、我慢して言いたいこと言わずに生きてきたけど、だんだんそうじゃなくてもいいことに気づいて。私はしたいことをしよう。自分には嘘つかないで生きていよう。本当に素直で正直に生きていけたらいいなって思って過ごしています。
──うん。むしろ演技をするんじゃなくて、自分の正直さ、相手の正直さを、そのまんま受け止める手法を通して、なんか出てきた。出せるようになった。
そう、です。
──それでお母さんにも響いているのかな。
あー確かにそうかも。あーそうかもしれない。
そのレッスンを経て、やっぱり私がくりくりくりくり迷って過ごしているのは、母親への思いに原因がありすぎていることに気づいて。
──ありすぎて。
ちっちゃい頃から、離婚に対してまったく聞けなかった。やっぱりポロポロ成長するにつれ、お父さんはああいう人だったんだよみたいな。
──ああいうってなんだろう。
うーん、私の記憶にあるのは、母親が父親になんか投げられてた、食器棚ばぁっみたいな、死ぬかもと思っている姿とか、なんか違う女性の家族と遊びに行ったとか。だから、そういう、人を大切にできない人なんだっていうのを、ポロポロ。自分の記憶からもだし、母の言葉から小学校2年生ぐらいまで漏れてたもので、話しちゃいけないことだって思ってたから、聞けなかった。でも、聞きたかった。なんか、そうやって隠してることっていうか、我慢してる、抱えてるものが大きかったから、どんどん、どんどん親との溝、距離が空いてきちゃって、鎧を脱いで脱いで、ここまで時間かかってきた。いまもちょっとずつ言えてるけど。うん、まだまだ言えてない、他にも言えてないよ。みたいなことはあるなと思う。
ちょっとずつ。母もたぶん同じ。私が大学卒業するまでは、ちゃんと働いて、お金を稼いで卒業させてあげなきゃいけないっていう思いがあったから、すごい頑張ってたと思うんですけど、私が卒業してから、ぽちりぽちりお父さんに会いたかった? とか聞いてくる。
大事なことを忘れていた。
去年の8月。その、演劇の手法を通して、やっぱり幼少期に種があるなと感じたから、父親に会いに行ったんです。母に本当は言わなきゃいけないのわかってたんです。育ててくれたのはお母さんだし、お母さんを通してお父さんの連絡先を知って会いに行くっていうのが普通の流れだなって思うんですけど。
中学校ぐらいから、自分の過去を拾い集めてる中で、母子手帳には父親の名前が書いてあって、父親の名前すらお母さんに聞いたことなかったから、ネットで調べたら、Facebookが出てきて、お父さんいるみたいな。新しい家族がいるってこともわかって、そうなんだみたいな。でも、なんか、そっちで生活があるのはいいなって。複雑な気持ちもありながら、連絡も取らず見てるだけだったんですけど、大学1年のときに、最初に出た舞台が、両親から虐待を受けて、それでも抱えて生きるみたいな役だったから、本当に辛くなっちゃって。劇団の中でいびられるし、セクハラだしで、本当に辛くなっちゃって。
お母さんじゃなくて、お父さんにFacebookで、「私のこと愛してましたか?」って聞いた。そしたら、長々と返ってきて、「メッセージくれて本当に嬉しいよ」みたいな、「決まってるよ、愛してた」って言ってくれて。で、いまも新しい家族はあるけれど、自分のこと思ってるし、こっちのおじいちゃんおばあちゃんもお年玉とか貯めてくれてるから、なんかあったら言ってねみたいな、そう言ってくれて。
その舞台が辛すぎるんだっていうことをこぼしたら、観に来て。絶対お母さんが観に来る日じゃない日に来てねって言って、うん、そう、それもお母さんに黙ってて。それが大学1年のとき。
去年の夏に、どうしてもお母さんには言えなかったけど、お父さんとおばさんと、おじいちゃん、おばあちゃんと、その兄弟5人、私の家族に会いました。で、そのときに、お父さん、私のちっちゃい頃の写真とか、そういうの、なんかひとつの段ボール箱だけど「それだけはとってるんだ」って言って、新しい家族ができても、引っ越しても、「これだけは動かしてる」って言って、見せてくれて、で、なんかそこで、すごい安心して、うん、愛されてたんだ、よかったって。なんか自己肯定感がちょっとレベルアップした。
大丈夫、私のことを愛してる人はいる。みたいな。なんかお母さんも育ててくれて本当に愛してくれていることはわかっているし、もういちばんの味方はお母さんだってわかってるんですけど、なんか女のプライドもあるのか、なかなか感謝してるよみたいなことは言えなくて。お父さんには辛いこととか、ぶつけたいこと、「なんで私はこんな性格なんだ」「本当に人のこと愛せないかもしれない」「それはお父さんのせいですか」とかお父さんに聞いちゃったりしたりとか、関わってないからたまーに年に2回ぐらいぶつけたりして。
──会ってみて、生きていく自分の価値っていうか、芯っていうのか、確かめられた。
確かめられました。なんか、そうか、なんだっけ。愛着。人から愛されてないと立ってられないぐらい…なるほど…なんかこの話には出てこなかったけど、私はちっちゃい頃から恋愛に依存していて、どの居場所でも彼氏がいないとなんか不安でしょうがないみたいな過ごし方をしていて、そんな自分がすごく嫌いで。一人でやりたいことはこれ、一人で立っていける女性、凛とした女性になりたいのに、誰かに依存している自分が嫌でしょうがなくて。でも父親に会って、愛されてたんだなってことでちょっと安心して、ちっちゃい頃に養われなかった(笑)愛着みたいなものはちょっと埋まって…なんだろう…あぁ安心みたいな、胸の中に帰ってこれる場所がなんか1個埋まった感じがある。
──自分を整えたい。周りのものに自分が影響を受けたり、落ち込んだり、不安定になったりするっていうことから、遠くに行きたい。自分の芯がぴんとして、どうかなったりしても、戻る…そんな感じ。
そうです。そして、そうなったら自由だなって思うから…うん、自由になりたいです。
──自分の気持ちがいろんなものに、影響を受けすぎて出せなくなるっていうのが不自由な感じ。
そうです。うん、そうやって過ごしてきたから、自由。とにかく、自由になりたい。あははは(笑)。
──お母さんとの関係性の中で。
そうですね、なんだかんだ、お母さんはどう思うかな。とか、これいやかなとか思っちゃって、ちっちゃいお母さんみたいに頭が固すぎ。
──なんか自由になりたい。見えないけど、いろんなものに繋がれている。心が。
逃げるの。
──離れる。
自由っちゃ自由じゃないですか。どんなに親と縁切ったって飛び出す人がいるし、海外に行っちゃってこれします、みたいな人もいると思うけど、そうできないから。結局縛ってるのって自分だねと思います。あははは(笑)。
──そうなんだ。自分が自分のこと縛っている。
なんか諦めてる。
──諦めている、そっか。
お金があれば、あははは(笑)。
いま宝くじで1億円当たりましたってなったら、海外に行くかな。なんかなにかを探しに行くかもしれない。いや、行きたいです。でもそれは夢の話で、現実と向き合うのはすごく苦手だから、いつまでにいくらあれば海外に飛べるよねとか…そういうことはあんまり思わないか。
──思ってやってるのかと思った(笑)。
やんないから、なんだかんだこう流れに沿って生きる。楽じゃないですか。自由でいたいけど。
──いっぱいいるんだ。自分が。
楽もしたい。自由って大変だから。わはっはっは(爆笑)。むつかし〜い。うん。そうですね。だから、なんか本当に自由にしている人がいたら、「それは甘えだよね」って言われそう。頑張れば自由になれるじゃんみたいな。なんでそうしないのと言われたら嫌みたいな。言い訳を並べそう(笑)。
──自分でそういう風に思ってるんだ。自分から自由になりたい。
ここから飛び立つにはまだ時間がかかる。なんだかんだ慎重。これならできそうみたいな方法…先人が無人島に行って生活できたとしたら、それはさすがにちょっと…とか思っちゃう。わがままですね。インドに行きたいって思っても、え、でも水汚いんでしょ。お腹壊したくない。なんだかんだここでいいんかい。
なんだかんだ、いまもいいとか思えたらいちばんいいかも。
過去の選択だし、なんだかんだ選んで過ごして、選んでるやんって思えて、それが納得して自分の殻に入ってたら、素敵。
なんかちょっと腑に落ちたかも、わははは(笑)。
街ですれ違う一人ひとりに、必ず何十年分かの人生体験があり、その人が味わった時代と社会がある。けどその多くを私たちは知らないし、知る機会もないまま、大半は本人とともにこの世を離れてゆきます。
「生活史」は誰かが整理した歴史と違う、きわめて個人的な人生のふりかえりで、前に聞く人がいることで姿をあらわします。
「駒沢の生活史」というプロジェクトの土台には『東京の生活史』(岸政彦 編|筑摩書房)という本があります。その製作過程から多くを踏襲しました。岸さん等の了承もいただいて、本格的にスタートしたのは2024年の初夏です。
まずウェブで参加メンバー(聞き手)を募集。70名近い応募を40名に絞ってキックオフ。「生活史の聞き方」「生活史の書き方」といった講座で方法論を共有しながら、各自が自分で見つけた話し手に交渉。以前から話を聞いてみたかった。あるいは駒沢のバーでたまたま出会った。話し手との関係や出会い方はさまざまで、この時点で既に面白さがありました。
メンバーには「駒沢の話を無理に聞き出さなくていい」と伝えた。自然に出てくる方がいいし、むしろその人の人生に関心をむけてみてくださいと伝えました。
結果的に、話し手が体験した「駒沢」が垣間見えたり、まったく見えなかったりします。「駒沢に」いる感覚の人もいれば、世田谷あるいは「東京に」いる感覚の方が強い人。あるいは場所でなく「こんな仕事をしている」など活動の方に軸足がある人。それぞれの居所があるなと思います。
話し手が決まったら、場所を選んで、2〜3時間お話をうかがいます。その音源を文字に起こすと3〜4万字になり、これを1万字に削ってゆく作業には時間を要します。メンバーにとっても、聞き方以上にこの「文章の削り方」が難しそうでした。
話し手に「ここは省いて」と相談された箇所と、削れる感じがするところを、要約も順番の入れ替えもせずコツコツ整えてゆきます。
音源を何度も聴き返して、語りが熱を帯びていたところはどこだったか再確認する人もいました。聞き手にとってこの時間は、あらためて話し手とすごすひとときで、相手の人柄や、言葉の質感、当日の空気に浸り直す体験だったと思います。この作業は愛おしかったと、何人かが聞かせてくれました。
届いた草稿にスタッフが応答し、最終原稿になってゆく過程に伴走します。『東京の生活史』では筑摩書房の柴山浩紀さんが担ったこの役割を、「駒沢の生活史」では熊谷麻那さんがつとめました。「駒沢」は50本で、「東京」は150本です。熊谷さんとは、岸さんの力もさることながら、柴山さんの凄さについて幾度も語り合いました。
もし他の地域で「◯◯の生活史」の実施を検討することがあったら、この部分を担当する人の情熱と技量が肝になると思います。
最初の生活史は、秋の早い頃に完成しました。他の大半は、全員が目標にした年末前後に相次いで完成。ただ話し手本人の確認は急かすべきではないので、この過程に時間を要することもあり、最後の原稿が届いたのは3月末だったと記しておきます。
併行してウェブでの表現方法を検討し、週に一本づつ、一年かけて公開してゆく形を決めました。
本と違い、ウェブコンテンツは所有の対象になりません。1万字の原稿50本を一気に公開しても読めないでしょうし、読むきっかけをつくるのが難しい。なので、その断片を毎日一言づつ抜き出してサイトに載せ、入口を更新しながら、次第に全体が浮かび上がってくる形にしました。
挿し絵は、参加メンバーでありイラストレーターの佐倉みゆきさんに描いてもらっています。
ここまではウェブの話です。それと別に「本にもしたい」という気持ちを、多くのメンバーや関係者が抱いていました。でも商業出版は難しいし、ページ数が多いため自費出版の費用も大きくなります。
オンデマンドで1話づつ印刷出来る。しかも廉価でデザインも美しいサービスの存在に気づき、各話ごと一冊づつ製作する方針にしました。フォーマットはタイトルまわりの絵も書いてくれたデザイナーの加藤千歳さん。データ作成には、参加メンバーの伊賀原純子さんとイトウヒロコさんが手をあげてくれました。
私はプロジェクトのまとめ役を担いながら、二年以上にわたる道行きを、メンバーや関係者と歩んでいます。
そもそものきっかけは、駒沢大学駅前の自社所有地について再開発を決断した、イマックスという駒沢の会社です。2025年秋にオープンする商業施設に先行して「駒沢こもれびプロジェクト」という取り組みを始め、駒沢に絞った地域メディアを「今日のこまざわ」というウェブサイトを核に立ち上げ、日々運用を重ねています。編集長は望月早苗さん。「駒沢の生活史」はその一角を成すプロジェクトです。
ウェブサイトでは、2026年の初夏までにすべての生活史が公開されます。この1話ごとのプリント版とデータは、2025年秋と2026年初春の二回にわけてリリースします。
他の話も読んでみたい方はウェブか、あるいはQRコードから一覧ページを開いてご注文なさってください。
私やスタッフにとって、おそらく参加メンバーにとっても、やりながら「こんなプロジェクトだったんだ」と次第にわかってくる全貌の大きな活動でした。
駒沢で暮らす方も、ほかの街で暮らしている方も、どうぞお楽しみください。
西村佳哲(2025年7月31日)
2026年5月1日 発行 初版
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