spine
jacket

───────────────────────



呼吸

樋泉 静



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包まれた遠くに
目を閉じて佇む

清濁沈む謐けさの
瞬きほどの時間に
いつからか疲れて
境界を委ねていた

微睡みのみ
春は等しく

夢とも現とも

口惜しいと云う
揺蕩う寂しさに
柔らかな抱擁を



昨晩の細い月は
糸のようだった

輪郭は仄かに冴え
上向きの弧を描き
しんと冷えていた

思いの色々へ
触れて回って
明日飽和する

早くの電車に乗り
椿を見に出掛けた

まだほとんどは
丸く閉じていた

もう少し後なのだ

膨らむ蕾も間もなく
花を咲かせる頃には
賑わうのでしょうね

慎ましく綻ぶ幾つかを
ゆっくり鑑賞してきた

またね



椿を待つ坂の途中の
小さなパン屋さんへ
寄り道をして帰った

外階段を上がり
山並みを眺める

先ほど来た通りが
緩やかに枝分かれ
奥へ行くと霞んで
分からなくなった

駅のホームのアナウンスや
電車の音など聞こえてくる

時刻を調べずに
今日を過ごした

硝子棚に並ぶパンは
優しく灯されていた

明かりの下で
挨拶を交わす

外の寒さについて
店員さんと話した

静かに生きてゆく季節の
美しさと満ちる切なさの
折り合いを見つめている



少ない持ち物を
長く使っている

器も洋服も

装飾も

整えたり
磨いたり

手入れする時間が
好きなのだと思う



上着を羽織らなくても
暖かな午後だと感じた

呼吸に合わせ
春が生まれる

誰かの嬉しい季節の陰に
苦しむ誰かがいることを
心に抱きながら見つめて
きっと優しく在るように

あなたと話したい

ごめんねと言う

ありがとうと言う

仰げば枝は伸び
俯いて拾う花は
謐かな雨を継ぐ

素描する

微笑み返す



雨の降る日には
おやつを拵える

しとしと降る様子を
台所に立って聴くと
穏やかな心地になる

プリンを器へ移し
クリームを乗せて
シナモンを振った

口溶け滑らかに
美味しく出来た

夕方

荷物を受け取る

心待ちにしていた
小さな箱を開ける

可愛いな

嬉しい



ちょうど雨が弱くなって
商店街を通る頃にはもう
柔らかな陽が差し始めた

西区のお店に伺う

二階へ上がり
隅の席を選ぶ

広い硝子窓の向こうに
やはり光が零れていた

少し行けば駅があり
高いビルが並ぶのに

不思議だった

まるで違う土地を
訪れたような感覚

古い建物が
続いている

もしかすると時は
区切りなどなくて

人の気持ちと同じく
巡るのかもしれない

お湯の温度を上げながら
蒸らす時間を変えながら
二度三度と茶葉を楽しむ

難しい作法よりも
香りを深く味わい
純粋にお茶を知る

器の手触り

湯気

話し声

丁寧な仕事の側に
幸せなひとときを
とくとくと満たす



図書館へ行き
四冊を借りた

小説を二冊

料理の本を一冊

絵本を一冊

遠回りに花を見て
お昼前に帰宅した

十四時過ぎから
焼き菓子を作る

缶に入れてみたところ
素敵な雰囲気になった

台所の棚に置いて
便箋を一枚添える

「食べてね」と書いた

ここを通り掛かって
あなたは気付くかな



そうして

幾つもの意味や
定まらないもの

質感を訊ねる

誰にも分からないことが
ありふれているのだから

いいこともあるよ

その通りに受け止めて
「彗星のようだよね」

今日出来たのは

風の姿を見つめるために
枝の先へ掛けておく飾り

遠い日の旅の記憶を
言葉として綴ること

メレンゲ菓子



山猫が逃げてゆく夢を見た

「逃げましたよ」

ほらあっちの方ですよと
声を出したのは私だった

三人が動いた

そのうちの一人が
別の一人を睨んだ

隅に追い込まれた山猫は
黒い目をまん丸に開いて
震えてこちらを見ていた

すぐ側に扉があるのを
係員が慌てて施錠した

囲まれて怖かっただろうに

手柄にした

安堵と罪悪感と
どちらもあった

この身勝手を

小さな世界へ置くと
信頼や誠実さなどの
遠い言葉に結び付く

大きな世界と捉えると
私一人の不在を喩えて
息をするように遠退く



暖かくなってきたと
声ばかり春を指して
ストーブの前にいる

外に出てみると
陽もあるのにね

今日はずっと
家で過ごした

春のお店のため
支度をしていた

文香と

『採集』に連載中の
旅の記憶を翳す道具



春の柔らかさに
沈んでしまうと

きっと

息が苦しいから

移ろいは遠目に居て
あなたはここに佇み
私も一人で見ている
それでいいじゃない

否定も肯定もせず

ただ静かに呼吸をする

風は頬を過ぎてゆく

花を散らす雨があって
優しさについて考える



月に一度
猫と会う

幻のように
ふわふわと

温かい

綿みたい



桜と白桃の果汁を使い
クリームソーダを作る

しゅんわりと
細かにはぜた

誕生日に欲しいものを
あなたが訊いてくれて
傘がいいですと伝えた

木の柄には
房を垂らす

微かな色のものを

どんな四月だろうか

もう一つは

山へ行く約束をした

ではこれからその日まで
計画を立てましょうねと
やはりあなたは楽しげに

私の話すことの何もかもを
まるで包み込むようだった

裸になった気持ちがする

雲の上を転げ回って
甘い噴水を浴び合う

あなたと溶ける光景を
幾度も想像してしまう

どこまでも行けそう



それから

微笑んで自制する



昨夜は餃子にした

包む作業が好き

かりかりに焼いて
酢醤油には胡椒を

美味しく出来た



眠りのあわいにふと

いつかの水槽を思い出す

二度と会うことのない人と
閉館のメロディの中にいた

毎晩悲しい夢を見る

寝ながら涙を拭い
目を覚ました時に
袖口が濡れている

あなたは悪くないよと
擁護されてしまったら
きっと寄る辺を失くす

円弧の夜の浜に迷い込んで
二人が霧になれたらいいね

見上げると硝子なのです

果ては竦むほど遠く
諦めなくてはならず

喜びと絶望と

交互に押し寄せる

星を摘み点火しても
湿気ってキリがない

沖の貨物船だけが
未明に現実だった

さようなら

さようならと

大きな声で
泣いていた

波は夜よりも深く
心をまた浅くする

褪せた脈の浮き彫りに

読んでごらんよ

抱き締めると潮の匂いのする

その胸を

対比して隣り合うものを
求めているのでしょうね

だから孤独をなぞる

ごめんね

目が覚めても
繋がっていて

好きとは
言わずに



昨日と今日を
裸眼で過ごす

視界の霞むのが
心地良く感じた

お化粧はしたけれど
部屋から出なかった

爪が薄く弱いので
ネイルも落とした

オイルを塗って
丁寧に揉み込む

自分の心身に
優しく接した

口紅をしなくても

傷跡を隠さなくても

あなたは私を見つめて
きれいと言ってくれる

誰よりも大切だと
伝え続けてくれる

眩しくて

その幸せに甘えて
消えたいと思った

叶わない願いに
疲れてしまった

どうしてこんなにも
冷たい人間になって

あなたを苦しめて

抱き締めてほしいだなんて
一体どの口が言うのだろう

ごめんなさい

本当に



『採集』四月号の
原稿を綴り終える

朝の片付けの後
おやつを拵えた

鳥のお皿は
あなたから

雨の午後の九段下に
少し咲く桜が凪いで

しとしと

スワンボートに
いつか乗りたい



髪を染めた

明るい色にする勇気を
持てないでいたけれど
選んでいただいたのが
雨の光のような印象で
素敵だったから決めた

全体の雰囲気が
柔らかくなった

滑らかな手触りも嬉しい
鏡を見ると違う人みたい

似合っているかな



撮影のための
期間限定の色

雨の光のようだと
昨日綴った印象は

雪解けを待つ春とも
似ている感じがした

少しずつ流れて
きらめいている

何か言わなくても
紡がれてゆくもの

陰に喩えて
瞼を閉じる



言葉が感情を追い越す時
どうしようもなく切ない

引き返さずに
行ってしまう

さようならと見送り
残念な気持ちの中に
弱々しく立っている

夜の堤防沿い

川の音

魚か水鳥か何かが
ぽしゃっと跳ねた

平らな光が滲み
もやもや澱んだ

電話越しに
訥々と話す

あなたは一度も
ふざけなかった

ただ静かに相槌を打ち
鼻を啜ることもあった

未来を前借りしたい時がある

さっきもそう思っていた



優しくしても
留められない

撫で寄せて
大切に抱く

あとがきから始まり
春を感じると寂しい

思うことの色々に



午前中は市民プールへ行き
二時間ほどビート板で泳ぐ

夏の間は毎週通っていた
今年も同じかもしれない

大きな硝子窓から陽が差し
水面がきらきらする様子を
裸眼にぼんやり眺めながら
二十五メートルを往復する

帰りに桜の下を通ると
幾つか花が落ちていた

透けて愛おしい

少しだけ拾わせてもらい
押し花を作ることにした



雨は午後も止まずに
長く謐けさを呼んだ

薄灯りの寝室にて
明日の支度をする

向こうは朝晩と冷え
霜も降りると聞いた

先日片付けた厚手の上着を
クローゼットの隅で整える

雪も残っているのかな

生キャラメルを拵え
缶に入る分を詰めた

ささやかだけれど

手土産にしようと思う



山の方は僅かに
雪が残っていた

鷺の渡る川沿いで
何度か足を止めた

水底まで澄み
藻を揺らした

明日は

どこへ行こう

頁情

あなたの柔らかな唇が
私の喉を撫でてくれた
優しく優しく押される

許してね

日々のことを

永遠が瞬きであることを
夢の終わりであることを
言葉に残す他浮かばずに
目を覚ましたくなかった



カピバラと
小さなお猿
こんにちは



遠くの山並みを
指の先でなぞる

小さな資料館

古い道具

飾り

静かな時

東京のあなた

途切れそうな約束が
文字の端に連なって

微睡みに
春を言ち

霞んでゆくと
細い糸のよう

そっと



滞在予定の期間を
間もなく折り返す

夕方の天気予報によると
今日は夏日だったそうだ

雪のある山を側に見て
不思議な気持ちになる

時折鋭い鳴き声が聞こえ
雉だよと教えてもらった

あちこちに鳥がいる



風のない月は朧に
空気はぬるかった

少し前に痛めた腕の
薬の匂いが纒交する

映画を観た

明日は雨だから
海へは行けない



雨が降り肌寒く
上着を羽織った
この旅のうちに
桜の花々は綻び

そして

今朝は濡れていた

美しい世界を
記憶に収める

上書きではなく

踏み外し

寂しさだけ残り

私はきっと

一人で生きることが
合っているのだろう

何がいけなかったのか

どこで間違えたのか

どうすればよかったのか
何年経っても分からない

桃源郷を作りたかった

地下の深く深くに



あなたと話す

雨の降る東京へ
想い馳せて聴く

おやすみを言わずに
私は眠ってしまった

音のない夢の
彩度もまた幻

色とりどりの花が
溢れていて楽しい

春の今朝

明々後日の今頃は
元の暮らしに居る

お世話になったお礼に
りんごのパイを焼いた

ことこと甘く煮て
たっぷりと敷いた

いい香りがして
美味しく出来た

喜んでもらえてよかった

こちらこそありがとう



優しさが

錘にならないように

言えなかった心を

責めないように

大丈夫って思うよ



一つ歳を重ねた

大切な人たちに囲まれ
お祝いをしてもらった

嬉しい楽しい時間

ありがとう

土仕事をしたり

水辺を散策したり

素敵な十日間だった

午後のお茶の後
挨拶をして出る

景色が流れて

過ぎて

夜を迎える

助手席から眺めた光の
一つ一つに生活がある

数えながら眠くなる
そうして戻ってゆく



鉢植えのミントが
大きくなったので
別鉢へ移し替えた

風が心地良い

近くの八重桜が見頃だった
ひらひら降りる他の花片に
綻びを揺らしながらきれい

午後は月報を綴る



大きな動きがあって
その後の心に包まる

ひっそりと眠る

お昼から遅くまで
担当の方と話した

手続きのための
封筒を受け取り
明日役所へ行く

夢に見るほど
現実感がない



犬の絵を描いた

オットセイ

タコさんウインナー

指サック

色々な意見があると思う



幾つ失って

何を手に入れたか

あなたと私と
過ごした日の

お互いを
影にする

そうでないと
やり切れない



動物園にて

上手に撮れた写真が
一枚も見当たらない

こっちを向いてと
期待こそ込めつつ
どの姿も愛おしい

楽しみをありがとう

元気でね



ロビーの長椅子で
映像を見て過ごす

順番が来るまで
まだかかりそう

今月は手続きのため
外へ出ることが多い

申請や更新など
色々と重なった

訂正箇所のないように
よく確認して提出する

午後に帰宅した

雨の日の品を作る
小さなロウソクに
花と彗星を飾った

静かに灯し
滴りを聴く

陰を慈しむ時間に
移ろいはそぼちて

その湿度を

何というのだろう



地下鉄で三駅の距離に
植物園の入り口がある

丘陵に位置していて
街も園内も坂が多い

薬草が好きで
よく見に行く

解説を読んだり
写生を眺めたり

自然から遠い暮らしで
こうしてお金を払って
草木に触れているのだ

山へ行きたいし
海へも行きたい

雨の降る平日には
ほとんど人がなく
隣接する動物園へ
寄り道をして帰る

坂を下りながら
時折去ぎる傘を
遠目に見つめる

顔を上げると斜面には家々が
向こうには高層ビルが群れて
それよりも先は濡れて煙って
どんな景色か分からなかった

色々の事象の濃度に
自らは薄まってゆく

あのビルの屋上庭園は
よく出来た造花だった

都会の片隅の坂の途中に
狼がいてライオンがいて

背中にぶつぶつのある蛙の前で
「無理キモい」と騒ぐ人がいて

一生懸命に生きるとは
どういうことなのかと

凝縮された価値観に
息継ぎが出来なくて

けれどそういう思いは
口にしない方がよくて

感情を均す

いつかの閉園間際
亀の人形を買った

本当は速い動物
馬とか虎とかを
買おうと思って

亀を選んだ

どうしてだか
連れて帰った

龍宮へ行きたかったから
亀にしたのかもしれない

物議を醸すことを
たくさん書こうが

鋭さを極めて
追い込もうが

言葉を尽くそうが

俯瞰してみれば
全て片隅に在る

それに気付いた時
胸が痛くなるのだ

考え過ぎだと言う人を
心底羨ましく思うのだ

同時に

疎ましくも思うのだ

ごめんね



筍をいただいた

下処理の時間はかかるけれど
やはり採れたては美味しくて
贅沢な幸せな気持ちになれる

何を作ろうかと
料理の本を開く

和食が好きで
土佐煮を選ぶ

かつお節を空炒りすると
香ばしさが加わるそうで
さっそく参考にしてみた

ほっこりと
春を感じる

午後は月報を印刷し
同封のお品を添えた

来週の初めに
ご郵送の予定

どうか楽しみに
お待ちください

遠くへ行きたくて
地図を眺めている

夜行船がいい

朝目覚めた先に
光が満ちている

灯台と教会のある
風の吹く小さな島
そこには馬がいて

私はピアノを弾いて
あなたは目を細める

二人で式を挙げた

裾を揺らして
幾度も微笑む

もう

帰らないかもしれないね

二人きりになれたら
それはそれで寂しく
他を恋しむのだから

船着場から離れて
丘の上を目指して

あなたに手を引かれ
きっと振り返らずに

そんな土地へ
連れて行って

言葉は自由だもの
矛盾を捧げられる

真面目に戯ける

あなたへ手を振る

「おかしいのでしょうね」と言うと
おかしくないですよと言ってくれた

空想と現実の
あわいに立ち

どちらへ戻ろうか
考えを放棄すると
そのまま浮遊して
散文になってゆく

今夜の献立と
掠れた文字と
あなたの声と

そうしているうちに
日曜の今日が暮れる

また明日



これから

どうしようか

優しさが彩りとなる日に
跡を残してはいけないと

言われなくても分かる

外に出ると暑く
すぐに汗ばんで
夏みたいだった

夕方帰宅して
お風呂に入る

上がる前に
水を浴びた

着替えは半袖を

髪を乾かしてから
布団の端に寝転び
風を感じて過ごす

カーテンが膨らんで
また平べったくなる

下の通りを
車が過ぎる

時間が経って
影が濃くなる

送られた資料を
順に何枚か見る

全部は見なかった



ことこと小鍋に
金柑を甘く煮る

喉が弱いので
お湯で割って
おやすみ前に



夕方に棚の整頓をした
手触りの良い箱や缶を
お道具入れにしている

裁縫用具や文房具を
ころころっと入れて
好きなように並べる

今日は一日中雨だった
ひんやりとして肌寒い

夜は温かなものを

スープにしようかな



川沿いに座り
パンを食べた

枝木が流れるのと
水鳥も並んでゆく

昨日の雨のためなのか
いつまでも濁っていた

ハーブソーセージのパンは
移動する間に潰れてしまい
冷めてぺっちゃんこだった

だけど美味しかったからいい

少し曇りの好きな空で
対岸の様子を観察した

向こうには駅がある

あなたから電話をもらう

「山へ行きたい」と伝えると
車出しますよと言ってくれた

もし

一人で電車で行くなら
どこの山が近いだろう

このところ
心の内側が
駆けている

あなたの声の間に
遠くだけ見ている

離れては寂しい

堂々とすると
斜にささめく

電車が聞こえて
その後しばらく
まだ話していた

いつでも話せるのに
川辺でそうしていた

対岸のカワウが
また戻ってきた

羽を広げると
大きくなった



足元に影が揺れ
風の葉を移ろう

戻れるなら
いつがいい

翌月号の『採集』の
執筆と推敲を終える

乾きや土埃など
鮮明に思い出す
奇譚に巡る場所

記憶は

零れるもの



静かな部屋で
針仕事をする

星を縫う

ささやかに

柔らかに



コップを一つ欠いて
新しいものを迎えた

前のとほとんど同じで
ほんの少し薄くなった

裏返すと目印がある

注いだコーヒーに
大きい氷が回ると
からろんと響いて
色合いは涼やかに

今年の夏もまた
暑いのだろうな



今年初めてのかき氷

かき氷器の設定を
粗めにして削った

ふわふわと
粗めがある

シロップをかけ
少しずつ頬張る

冷たくて目を閉じた後
美味しいねと笑い合う

眠りに覚め

月がきれいだった
雲を青白く透かし
謐かに澱んでいた

輪郭の曖昧な
夜の境に沈む

余韻は夢を
花を流離う

何か想うのだけれど
どちらでもよかった



朝から雨

書類を受け取りに
九時頃に家を出る

あまり待ち時間もなく
すぐに済んでよかった

その後打ち合わせのため
人と会いお茶をいただく

一人では成し得なかった世界が
たくさんの方に支えられながら
大切に少しずつ叶えられてゆく

頼もしく嬉しく温かい

色々なことが起き
忙しい四月だった

それでいて

日々は穏やかに
慎ましく過ぎた

ありがとう



昨日東京に帰る

雨が降る中を
光は溢れ続く

それを

車窓から見上げて
きれいだと思った

綴り切る文章を
想いとするには
少し苦しくなる

荷物を部屋へ運び
丸々の猫と遊んだ

こちらで過ごす連休中
おもちゃを作ろうかな

実家はいいものだな

可愛い子ちゃんたちと
かくれんぼなどをした

押し入れに隠れて
布を被っていたら
全然見つからない

私を探す声や物音に
笑いを抑えて潜った



実家の台所の窓に
水面がきらめいて
澄んで心地が良い

猫はよくこの位置に伏せ
鳥の様子を観察している

昼食の後

公園へ行った

落ちた萎びた実を
音符のように並べ
作曲ごっこをした



猫のおもちゃを作り
サンルームで遊んだ

飛び付いて

瞬く間に

くしゃくしゃに

儚い

今日は出掛けずに
庭の草取りをした

お昼を木陰で食べた

連休の帰省を満喫して
明日の今頃はまた車窓

楽しかったな

次は夏に



昨夜

二十一時過ぎに帰宅し
旅行かばんを片付けた

持ち物が少ないので
いつも数分で終わる

お風呂はシャワーで済ます
設定を高めにして温まった

帰省の前にシーツを洗い
布団の横に畳んでおいた

それを整える

夏用のさらさらのものにした

目を閉じるとすぐに眠れた

朝の六時半に起きて
顔を洗い家事をする

洗濯機を回す

ごはんの支度を始める

出汁を取る

鮭を網に乗せる

卵を割る

いつからか
和食が好き

九時には諸々落ち着き
お品を作ることにした

季節を感じられる
涼やかな穏やかな
そういう色合いを
今回は選んでみた

午後は図書館へ

あなたのお誕生日会を
今月に行う約束なので
ケーキのレシピなどを
借りようと思っている



頭が痛くて横になって
じっとする一日だった

薬を飲み少し眠った

体調が良くない時
必ず海の夢を見る

色々なものがひっくり返り
重なりながら流されていて
私も一緒に流されていって
収集船の口に吸い込まれる

ここから逃げなくちゃと
立ち上がり作業員に紛れ
濡れた床をうろうろする

怖くて悲しい夢

自分を繊細と思いたくなくて
極力触れてこなかったけれど
繊細な部分もあるのだろうな

機微に憂うことの多さも
心の薄さ故かもしれない

傷付いたと言いながらきっと
人を傷付けてきたのだと思う

繊細で鈍感で

どうしようもないな



お昼を過ぎ鳥遊園へ
連れて行ってもらう

鳥が好き

柔らかに軽くて
温かくて可愛い

頭に乗ってくれた

もしゃくしゃにして
髪で遊んでもいいよ



今朝久しぶりに
ピアノを弾いた

新しい楽譜を
練習している

美しいメロディが
幾つもあるんだな

出会えて嬉しい

午後はミシンを出し
裁縫をして過ごした

紙も布も糸も道具にも
全てにこだわりがある

質の良いものを
少しずつ大切に
お作りしている

何だろうこれはと
答えのないお品も
丁寧に思い馳せる

楽しくて素敵



時は円く
夜のよう

地底砂浜に
花火を提げ
二人で居た

あの日は遠くて
夢と現の境目を
思わせてくれた

あわいよりこちら側の
潮の匂いが肌に纒わり
砂だらけの言葉の音も
耳には波の音しかなく

ざどーんざどーんと
暗さに竦んで諦めて
閃光と煙に笑い転げ
不思議な世界だった

記憶した映像を
自在に写したい

地底砂浜に
光の文字を
突き立てて

あなたの声で
読んでもらう

好きだよとても

また私に汗を垂らして

優しくして

「これは夢です」と
ちゃんと夢と言って
そうしたら眠るから
夢だと言ってほしい

朝がやって来て
あなたを睨んで
涙が零れたよね

等しさの不均衡を
目の表面に滑らせ
ぽろぽろ流したね



図書館へ行った

星の本やレシピなど
合わせて八冊借りる

漢文は定期的に

大学時代に学んだのは
近代文学なのだけれど
当時の作品の多くには
漢文要素が織り込まれ
それがきっかけとなり
自ら好んで読んでいた

それぞれの解釈で白文を訳し
友人間で発表し合い楽しんだ

余白や韻律に情景を想う

夕方

急に雨が降って
雷も鳴り出した

数年前に近くに落ちて
その驚きのためなのか
耳が動くようになった



二度目のかき氷

前回は粗めに削ったので
今回の設定はふわふわに

中庭の小さな苺が成り
毎日少しずつ収穫する

かき氷に乗せて
苺山にしてみた



あなたの見上げた新宿と
台所に立った私の東京と

同じ空だろうか
どの辺りまでが
同じなのだろう

東京と名古屋との
二拠点の暮らしも
あと少しで終わる

長かった
短かった

振り返る日の端々に
光はささめいていた

お別れがあり

また出会いがあり

どちらかを拒絶しても
端と端は必ず結ばれる

『露草/孔雀』

一雫跳ねて
指に触れた

裾へ拭う

瞬きに霞み
手を振ると
さよならと
佇んで云う

対の瘡蓋のよう

知らない人に
抱かれて眠る

生ぬるい

甘ったるい

悲しい夢

花鳥園へ行き
孔雀を眺めた

頭のふわふわを
たまに揺らして

ついに羽は開かず
ずっと窄んでいた

三角の光を踏み
影が細くなって
陽の弱まる途端
目が黒く染まる

雨隣の鈍日に
濃く濃く生じ

あなたはシャツを捲り

私はその腕に頬擦る

昨夜跨り滑った

季節のない世界に
結ばれて解かれる

空っぽの胸で微笑む

擦り合わせても
足しにはならず
ただ深くへ沈む

口紅の取れた唇が
膨らみ褪せていた

傘を下げて
雨に駆ける

あなたも濡れながら
一緒にいてください

鷺もいるかもしれない

余情が去り
姿勢を正す

言葉を整える

あなたは
余所の人

波の彼方を
形作るもの

微かな価値観を
喩えて俯瞰する

想像に実る
朱いお伽話

錆びた胞子たち

勇ましく

欠け聞き括り
かきくくけき
くけここきか
螺鈿の万華鏡

西日の欠けた壁にもたれ
ブラウスのボタンを外し
乳首の立った乳房を揉む

俯いて目を伏す

前髪が鼻先に触れ
払っても払っても
払えずに煩わしい

うずくまり自らを抱く

爪を食い込ませる

涙が額へ流れてゆく

秒針には

音のあるものと
ないものがある

ないものは
速く感じる

本当に同じなのかな

錯覚を見分けられない
違いを判断する問題で
いつも引っかかるのだ

現実とは違う

複層の硝子の板を
覗いているみたい

あなたの指を咥えて
ささむけをふやかす

痛いの飛んでけ

あなたは少し笑い
私も見つめ返した

唾液が垂れ
顎を濡らす

好きだよ

調子の外れている
遠くのメロディの
単音を揃えて並べ
別の主旋を重ねた

潰れた金属と
ピアノの木音

きこんぽろ
ぽんころき

あなたが少し笑い
歯の尖りが見えた

もっと見せて

子どもの頃

官舎に住んでいた

畳の部屋が三つ

台所とお風呂とトイレ

玄関の棚にいつも
花が飾られていた

敷地の裏に建つ一軒家に
桑原さんという方がいて
飼っている黒いうさぎを
箱の中で触らせてくれた

揺蕩う幾つかを

訥々と零す

あなたの手の甲の
しっとりした肌を
一生の記憶にする

掬わずにいてね

霧の小舟の

裸に脈を打つ
朗誦の影法師

這いずる相合の
ほつれた岸辺を
書いては寂しい



『水槽の求人』

比喩ではなく
読めなかった

文字の連なりを
理解出来なくて
仕事にならない

精神的なものでしょう

という診断だった

一年経っても治らずに
そして公務員を辞める

春を遡るように
荷物をまとめた

半年間日本を離れた後
東京のアパートに戻り
天文台に勤める恋人と
二人で住むことにした

高校の頃の同級生で
名前は西さんという

大学院からプロジェクトに参加し
ガンマ線バーストを研究している

きっと結婚はしないと思う

時々プラネタリウムへ出掛け
星について教えてもらう関係

どのくらい前の光なのか
豊富な例えを持っている

西さんと話していると
感情の一つ一つまでも
ほんの小さな点になる

だんだん遠くなって
いつの間にか二人は
もう存在していない

欠損も余剰も
何を以てだか

分からない

生活する分には問題ないけれど
長文を理解するのは難しいまま
こうして文章を書いていながら
今でも常に劣等感を抱いている

左耳の聴こえない西さんと
識字機能の弱くなった私と

世界が夜だけになったら
雨ばかりの日が続いたら

優しく生きられる気がする

冬の森に過ごす時間は
季節が恋しかったのに

西さんの留守の間
求人サイトを見る

アパートの更新以降
家賃も食費もずっと
負担してくれていて
支払いたいと言うと
やんわりと断られる

不定期にピアノを教えたり
サロンモデルをしたりして
外へ出ることはあるものの
仕事と呼べるほどではない

西さんは現状の維持を望んで
出来るなら家にいてほしいと
私が働くのを止めようとする

ふと目に留まるその求人は
半年前にも掲載されていた

更新日が新しくなり
文面の僅かな変更を
丁寧に記してあった

印象に残っているのは
他の求人と比較しても
明らかに異様だからだ

説明の所々に断りが入る

あと十分お付き合いください

あと五分でご説明は終わります

改行のない長文が延々と続く

仕事の詳細は伏せられ
高時給と好条件を謳う

理念に続く挙げ句の果てに
怪しい仕事ではないことと
そのような疑いを持っても
口にしないでほしいとある

面接の約束が決まった時点で
場所が明かされるそうなのだ

検索してみるものの
思わしいものはない

口封じされるのだろうか

飛ばし飛ばしに
何度も目を通す

興味が湧く

西さんへ相談する前に
応募のボタンを押した

それが正午で
十七時過ぎに
着信があった

キクカワと名乗る低い声は
柔らかな口調で確認をした

「最後まで読まれましたか」

「はい」と答える

「カナザワ様」

違います

「カナザワ様には」

「すみません」

「あなたはカナザワ様です」

ゆっくりと圧をかけられる

「違いますけど」

「カナザワ様としてお聞きください」

キクカワさんは自らの苗字の漢字を
菊の花のキクに三本線のカワですと
地名が由来であることまで説明した

「菊の川と書いて菊川ですので」

はいぃと情けない声が出た

カナザワは「金澤」だと
同じ時間をかけて言った

「お話を続けてもよろしいでしょうか」

アパートの外階段を駆ける気配がして
返事をせず咄嗟に終話させてしまった

ドアが開くタイミングに
ショートメールが届いた

「折り返してください」と
句点なく一言綴られていた

ネギの刻み終わりに
親指の爪先を欠いた

痛くないのについ
大袈裟な声が出た

驚いた西さんが
飛び込んできた

私の手を持ち上げて
躊躇わずに口に含む

少し切れただけの指を
蕩かそうと舌で転がす

青筋の浮かぶ額を見下ろし
左のこめかみに触れてみる

毛の生えていない箇所があり
三センチほど溝になっている

縫合の跡だ

私を仰ぎ目を閉じた

夏休みの模試に
血だらけで来た

席に着く前に人が集まり
保健室へ連れて行かれた

一番後ろの席から
背の高いその人を
光景として眺めた

夜の街で働いてるらしいよ

誰かが小声で言った

長い髪を梳いて
胸に抱き寄せた

屈んだ姿勢のまま
重みが傾れてくる

ネギの薄い皮が
寝かせた包丁に
張り付いていた

「ネギの味する?」と聞くと
すると頷いてくつくつ笑った

唇から外れた指を
今度は自分で吸う
西さんの味がした

翌朝

菊川さんは
すぐに出た

こちらが詫びる間もなく
駅名だけ述べて切られた

直後にショートメールが届く

北口を出て一つ目の交差点を右
その先の電柱を左に曲がります

掲示板の美術館の張り紙

クリニックの看板

道路標識

暗号のように送られてきた

最後に日時が記されて
お待ちしておりますと
『菊川』の押印写真が
何故か添付されていた

電話番号を検索したけれど
有力な手掛かりはなかった

地図アプリで指示を辿る

表示を航空写真にする

塀の高いお屋敷が建ち並ぶ
私たちのアパートより広い

番地までは明かされなかった

西さんが在宅勤務の日は
午前中だけ図書館へ行く

お昼前に帰宅して
食事の支度をする

何の疑いもなく
見送ってくれた

図書館とは別の方向の電車に
こそこそ振り返りながら乗る

GPSのアプリが西さんの手で
インストールされていないかを
念のため隅々まで確かめておく

冷や汗が出てきた

求人サイトを開いて
自分が採用されたと
直感として確信する

あの長文は消えていた

子どもの頃

ピッピという靴下屋へ
自転車に乗って行った

何度か前を通り
気になっていた

今思うと暗くて不気味な
蔦で覆われた古い外観が
当時は素敵に映ったのだ

友人に声を掛けてみて
案の定嫌がられたので
ピアノ教室の帰り道に
一人で寄ろうと決めた

埋もれた窓から様子を伺い
自転車の停め方を気にして
大丈夫そうなので中に入る

暖色の灯る小さな店内に
とりどりの靴下があった

壁も天井も靴下だらけ

レース編みのもの
もこもこしたもの
リボン付きのもの

夢中で見て回る

ふと

靴下の隙間に目が合った
おばあさんが覗いていた

ぎょっとして竦むと
顔が浮かび上がった

そこはカウンターらしく
吊り下がる靴下を除けて
そろそろ閉店だと告げる

申し訳なさよりも恐怖が勝り
黙って外へ出ようとする私に
「何も買わんと行くんか」と
ものすごい怒鳴り声を上げた

山姥に遭遇した小僧さんの昔話を
何度も思い出しながら泣いて帰る

車道と歩道の段差によろけ
自転車ごと大きく横転した

履いていたタイツが破れ
この世の終わりのような
胸の張り裂ける気持ちで
それでも家に入るまでに
何食わぬ顔を整えていた

結局この出来事は
親に話さなかった

大笑いしてくれた友人によって
気を晴らすことが出来たからだ

ピッピの恐怖を思い出しつつ
私は再び未知の地へ踏み入る

契約を結ぶとしたら

何かを預かるのだろうか

何かを信仰するのだろうか

何かを手放すのだろうか

二度と帰れないのだろうか

色々の想像を浮かべながら降りて
北口を出て交差点を右に曲がった

コインパーキングの案内下で
白い犬を連れた黒い服の人に
「シロちゃんですか」と言う

正確には

可愛いワンちゃんですね
シロちゃんですかと言う

相手は「みつ豆ちゃんです」と答える

指示された合言葉だった

マルチーズのみつ豆ちゃんは
オムツを着けて歩みも優しい

白内障のために
目は濁っていた

黒い服の初老の後を行く

踵を見ておくように言われた

同じ道を二度通った

場所を特定出来ないよう
そうしているのだと思う

菊川さんとは
違う声だった

物腰の柔らかな上品な人だが
みつ豆ちゃんがいなかったら
引き返していたかもしれない

門を潜っても顔は上げず
黒塗りの車を横目に見た

空気が変わった

敷地内に竹藪があり
せせらぎも聞こえる

苔の上の敷石が
艶やかに濡れて

不思議な心地だった

夢現に似ていた

許可が出て
顔を上げる

一瞬目が眩む

光が反射したのだ

葡萄の模様の彫られた
大きな鏡が視界に入り
斜めの方を向いていた

モルタルの外壁に
楕円の窓が映され
曇り硝子製だった
木枠は古く見えた

和風の入り口のはずが
洋館にいる感覚になる

中なのか外なのか
さらに混乱が増す

みつ豆ちゃんの足が拭かれる
前足を握っても嫌がらないで
お利口な穏やかな犬だと思う

「金澤様」

菊川さんだとすぐに分かった

お迎えの黒い服の人と
同世代の印象を受けた

灰色の髪を後ろに撫でて
笑顔には清潔感があった
質の良さそうなシャツは
薄手の比翼仕立てだった

「お疲れ様でございます」

菊川さんと案内の人が
微笑み順々に私を労う

長い長い廊下を渡る
このアーチの天井を
どこかで見たことを
ぼんやりと回想する

画廊だったか

レストランだったか

三十分前は
喧騒にいた

一つ裏の通りの
別の世界に来た

眠りの景色みたい

作られたはずの
自然の音がする

みつ豆ちゃんの爪音が
かっかっかっと響いて
菊川さんは目を細めて
「慌てない」と囁いた

それでもみつ豆ちゃんは
滑り気味に前へと急いだ

「生理なんです」

抑揚を変えることなく
菊川さんはそう言った

「え」

「オムツしているでしょう」

女の子なんですと続けた

西さんと初めて話したのは
体育祭の準備の最中だった

二年生が主軸となり
ほとんどを担当する

私はパネルの色塗りを任され
下描きの白虎を仕上げていた

消しゴムの使われた箇所が
一面ちくちくに毛羽立って
思うようにペンキが乗らず
ムラが目立って仕方がない

水で薄めて塗ったところ
滲んではみ出てしまった

雑巾で押さえたら
繊維が引っ掛かり
余計ひどくなった

一人で作業していて
静かに慌てていると
すっと隣に人が来て
瞬く間に修正された

目を合わせることもせず
「ありがとう」と伝えた
遠ざかってから姿を探す

背の高い細身の人

血だらけのあの人だと
夏休みの光景が浮かぶ

生きていて安心した

西さんの塗った虎の頬だけ
めっちゃきれいと喜ばれた

他の部分は塗り直された

「西さん」を認識したのは
その時期がきっかけだった

天文部の部長をしながら
美術部も掛け持っていた

特進クラスにいて
頭がいいと知った

遠くの塾まで通っているとも
夜の街で働いてるとも聞いた

悲しい現実なのだけれど
私は勉強が出来なかった

成績順のクラス分けのうち
限りなく下に停滞し続けた

職員室へ呼び出され
士気を下げていると
厳しめに注意された

志望大学の判定を
持ち帰れなかった

成績優秀者の掲示の中には
必ず西さんの名前があった

あまりにも違い過ぎて
親近感すら覚え始めた

三年の春に
父が死んだ

一週間休んで登校した

誰も何も触れなかったし
普段通りに接してくれた
正門脇の大きな桜の下で
みんなでお弁当を食べた

お弁当箱に花片が入り
きゃっきゃ笑い合った

父が自殺したことを
人に言わないように
家族の中で約束した

亡くなった理由を
自分のせいにした

この先会う全ての人に
優しく在ろうと誓った

泣きながら勉強した

成績のためではなくて
その他に心を保つ術を
考えられなかったのだ

西さんと帰る日が増えた

私はバスで通っていて
西さんは自転車通学で
反対方向なのだけれど
幾つも先のバス停まで
並んで話しながら行く

数学が分からないと打ち明けて
休みの日に教わることになった

図書館の学習スペースだと
どうしても混んでいるので
市民会館のエントランスを
勉強場所に使うようにした

一年生のテキストから学び直す

間違える度に応用問題を作り
パターンを変えて見てくれた

毎週土日の丸一日を
ほぼ費やしてくれた

西さんは塾へは通っていなかった
夜の仕事は事実だと話してくれた

家に居場所がないことと
学費を稼ぐのだと言った

お母さんの恋人に殴られて
聴力を失うほど怪我をした

耳をやられたのに
鼻の方が痛かった

噂だった本当を
ぽつりぽつりと
聞かせてくれた

廊下の突き当たりの
簡素な扉をノックし
内からの返事を待つ

物置きかと思った

「どうぞ」と聞こえる

開いた正面が窓で
逆光が目に刺さる

「どうぞ」

四畳半ほどの
応接室だった

促されるままに
椅子に腰掛ける

隅の破れから空気と
スポンジが出ていた

「今度の金澤さん」と
独特の呼び方をされた

「お魚はお好きですか」

「はい」

「どんなところが」

目が慣れてくる

「お魚はいいものですね」

私が答える前にそう言うので
「癒されますよね」と返した

「癒されますか」

「あはい」

意に反し不穏な反応だった

美味しいですしと付け加えると
みつ豆ちゃんが机の下に入った

しんとした

「お魚の水槽を」

逆光に透き通るその人は
決して声を荒げなかった

菊川さんを手招き
耳元で指示を出す

「お魚をご覧なさい」と
今度は私に向けて言った

部屋の右側にまた扉があり
やはり簡素な作りの部屋が
白々とした照明に登場した

中央の会議テーブルに
虫かごが置かれていた

目を凝らしても
中身は空だった

はっと我に返って
今入った扉を見る

閉じ込められると思ったのだ

勝手に閉まらないように
菊川さんが押さえていた

大丈夫ですよと微笑まれた

察してもらえたことに安堵し
もう一度じっくりと見つめる

見えない魚を想像する

振り返ると
菊川さんが
立っている

大丈夫ですよと
揃えた指の先を
虫かごへ向ける

金魚か

鯉か

メダカか

そういえば以前

天文台の視聴覚室で
星の映像を鑑賞した

西さんが席を外し
私一人だけだった

一般開放されていても
平日は閑散としている

長椅子の最前列に座って
無音の映像を眺めていた

様々な角度から
星が降ってくる

それは花火のようで
雪のようでもあった

変わり映えのない映像に
だんだん眠くなってきて
指で瞼を持ち上げながら
白目だけで視聴を続けた

そうしているうち
音が聞こえ始めた

きーんという
金属音だった

慌てて黒目を戻すと
音は聞こえなかった

思いがけない発見に驚き
怖さも相まって再度試す

見開いた状態のまま
白目と黒目を出した

指で開かないと
聞こえなかった

星がこちらへ流れると
吸い込まれそうになる

音の鳴る状態の白目では
もっと早い速度になった

戻ってきた西さんにも
同じことをしてもらう

「白目にするの?」

「音がするの?」

「金属の?」

白目と黒目を切り替えて
感じようと試してくれた

「こっちに来る時?」

「こう?」

お互いに疲れてきて
やめることになった

「多分だけど」

西さんは前置きした

私は言葉を待つ

時給の二千三百円を
手渡しで受け取った

別途交通費も出た

週三日

一勤務四時間

お願い出来ますか

翌日

求人は戻っていた

西さんにピッピの話をした
笑うことを想定していると
こちらを向いて少し考えて
「怖かったよね」と言った



『彷徨う』

何も聞かないで
何も知らないで

目隠しをして

耳を塞いで

後ろから抱き締める

あなたは「僕は兎です」と言う

そういう寂しい遊びをしたい

私の兎になってください

兎を

募集しています



四隅に掛かる靄が
寂しさを投影する

正体でもある

心中を図り
未遂となり

泣き崩れた先に
巨大な月を見た

生きることは
とても寂しい

頬の砂に触れて
砂の手で語らう

沖に照る貨物船を
夢に浮かべて笑む

その目に流れるお星を
滲ませて潮の音が往く

唇が引くとささくれ
ごめんねと頼りなく
あなたは眠りに沈み
私はあなたの胸元に
砂の頬を乗せて眠る

全て全て許し
鼓動になった

きれいと云う影を
捕まえ踏み付けた

鋏で切り刻んだ

痛みを

痛みで上書きする

そのように相殺する

陰気な頁では
流通しないと

頭を下げる

鯨の陰茎の剥製を
いつだったか眺め
今も行き場を探す

寄る辺ではなく

あなたを
揺さぶる

激しさのまま
凪いでほしい

同じ体温で
埋まりたい

丸い月が
恐ろしい

閉じた世界に
包まれて綻ぶ

余情だけ連れて
零れた光は雨に
鎖編まれてゆく

美しい

あなたとは
結ばれない

波を嘔吐する

ごめんねと
泣き叫んで
果てを渡る

地獄か

天国だろうかね

靴墨の鯨を
差し出す光

見事だろうかね

あなたの笑った顔を
見ていたいよと伝え
あなたも同じ台詞を
私に伝えようとして

泣き疲れた明日に
月はやがて薄れて

一つ朝を灯し

私たちは正しさに
見つかってしまう

雨を降らせと
枯れ草を放る

湿った砂が
目に滲みた

何もかも

どうしていいか
分からなくなる

そんなことばかりだ

日々を償い
生きている

あなたは私を
好きと言った

私もあなたが好きで
狂おしいほど好きで

頑なに愛を避けている

分かり合えない悲しみを
月光は悪意なく輝かせる

風に漣となる声を
目に触れて澄まし

スカートを上げ
あなたに跨がり
下着を擦り付け

抱いてと願う

永遠の夜に

月はいらない

こんなことを言うと
余計に寂しいのにね

未熟のまま
変われない

死んだら
嫌なのに

消えたい時は
どうしようか

何を担保に今日を

明日を明後日を

待てばいいのだろう

壊れるまで
抱き締めて

泣いてしまえば

待たずに満ちるか

あなたが私を
私はあなたを

壊れるまで
抱き締めて

結局

また明日が
やってくる

優しく始まる

四隅を隠し内側から

キレのない
なだらかな

寂しさや
虚しさや

希望を

月の夜に騒がせ
影を濃くさせる

あなたの声を
聞いていたい



緩い坂を行くと
振り返った先に
水平線が見える

「先」というのは
過ぎた時間を指す

とても遠いところへ
来たのだなと思った

あの灯台の下の
古い資料館には
あまり人がない

幾つかの部屋には
大きな窓があって
広く開け放たれて
カーテンが膨らみ
陽が零れて揺れる

軋む床板に光が往くと
潮の風も柔らかに入る

それを硝子の戸棚が
きらきら反射させた

目が覚めてすぐ
セックスをした

顔を洗いたいのに
あなたは引っ張り
後でいいよと言う

また眠くなり
二人で休んだ

うとうとしていると
あなたが手を伸ばし
腰に触れてくるので
私は笑いながら逃げ
そして二回目をした

世の中が働いている頃
声を上げて腰を振って
二度寝も三度寝もした

正午過ぎにカーテンを開け
ラーメン食べたいねと話す

袋麺が一つと
もやしとハム

裸の上にTシャツを着て
二人で流し台の前に立ち
あなたはお湯を沸かして
私はもやしのヒゲを取る

途中からあなたも
ヒゲ取りを始める

ヒゲを入れたザルに
もやしを放ったので
「違うよ」と笑った

間違えたと言い
あなたも笑った

或る日を
語らうと

あなたの輪郭が
薄まってしまう

「行かないで」と
あなたは言うのに

そちらが消えてゆく

雨かと思うと
波の音だった

一つの器を
二人で囲む

隣り合わせに
ふぅふぅする

眼鏡が曇るので
二人とも外した

あなたの眼鏡の方に
ラーメンの汁が跳ね
レンズが汚れたのを
あなたは裾で拭った

油膜の広がった眼鏡を掛け
私の顔を覗き込み笑わせる
「洗ってきて」と笑い返す

台所へ向かう後ろ姿に
服で拭かんでよと言う

資料館のエントランスに
一台のピアノが置かれた

やはり昔のもので
塗装も剥げていた

ご自由にお弾きくださいと
紙に手書きで記されてある

ラのフラットを鳴らすと
音がゆわんゆわん波打つ

長く調律されていないのだ

和音を押すとさらに気持ち悪い

帰宅してあなたに伝えると
「弾いてみたい」と言った

もう閉館したよと言うと
じゃあ覗きに行こうやと
立ち上がり私の手を掴む

二人でサンダルを履き
夕暮れの坂道を下った

鳥たちも帰るねと
鳴き声を真似した

何となく後を追いかけ
やがて見失ってしまう

あなたは違う鳥を指して
そこにいたと適当を言う

玄関の窓の内には
カーテンが引かれ
ピアノは見えない

また明日来ようかと
あなたの方を向くと
大きな西日が始まり
海に溶け滲んでいた

何故だか分からないのだけれど
ここへは二度と来ない気がした

漂着物の展示もあったし
背表紙の褪せた本だとか
そもそもこの建物自体の
寂れた雰囲気がよかった

置き去られて

記憶になくなって

私は

そういうものに
惹かれてしまう



あなたの背骨を
指の先になぞる

どこにいるのと呟くと
ここにいるよと言って
暗闇に身体を起こした

あなたと私はいつも

笑っているか
泣いているか

そのどちらかだった

濡れた花を摘む

細い茎をしていた

あなたの横顔に
花片を傾げ翳す
薄い唇が隠れて
目は細く笑った

痩せたタンポポか訊くので
違う花だよと返したけれど
本当の名前を知らなかった

「摘んでごめんね」と言うと
あなたは「いいよ」と言った

大切に瓶に挿しても
翌朝には萎れていた

余所を泳いで

結局戻らなかった

夢だろうか

そうだね



『貝釦』

割れてしまって
糸を解き外した

薄い貝

クリーニングに
出せばよかった

洗濯機の中で
欠片を拾った

雨の降る四月に
春を残したまま

花を浸して
覚めないで

また水を張る

彗星の尾のような
花片のような袖を
そっとそっと擦る

鏡に跳ねて
雫が垂れる

命日に着ている
白のワンピース

婚姻届を提出する日に
着てほしいと贈られた

柔らかな素材の
優しい手触りの
裾の長い一着を
どんな気持ちで
贈ってくれたの

微笑んで

二十三歳で
亡くなった

十年が過ぎて

似合わなくなって
もう終わろうかと
思っていたんだよ

そして

首元の貝の釦が
割れてしまった

ごめんね

私だけ生きていて
ごめんねと言うと
涙が溢れてしまう

お化けでもいいから
会いに来てほしいと
何千回もお願いした

一度も叶わなくて
夢にも現れなくて

何のために祈るのか
思い出しているのか

だんだん疲れて

もう終わろうかと
思っていたんだよ

大切なワンピースなのに
乱暴に投げ付けたことも
捨てようと思ったことも
本当を言うとありました

他の人を好きになって
罪悪感を抱いたことも
一度や二度ではなくて
そういうのもごめんね

一人で生きられない私は
裏切り者かもしれないね

ごめんね

たまにそちらへ
行きたくなるよ

釦の裏側を
初めて見た

割れないと見えないから

貝だったのだと改めて思う

夕方の電車に乗って
海を眺めに出掛けた

ポケットに欠片を撫で
静かな気持ちになって
俯いたり仰いだりした

生きていて
寂しい日も

きれいな日も

みんな過去になるね

色々を

許し合おうね

呼吸

2026年6月14日 発行 初版

著者 樋泉 静

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