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悟り、それはあなたの考えを超えたもの
クリヤーヨーガの視点

マーシャル・ゴヴィンダン・サッチダナンダ

ババジのクリヤーヨーガ日本支部出版

悟り、それはあなたの考えを超えたもの
クリヤーヨーガの視点

マーシャル・ゴヴィンダン著

ババジズ・クリヤー・ヨーガ・アンド・パブリケーションズ
カナダ、ケベック州、セント・エティエンヌ・ド・ボルトン

目次

はじめに   . .
第一章 悟り、それはあなたの考えを超えたもの クリヤーヨーガの視点 
第二章 ヨーガ・シッダの不滅への道
第三章 欲望の分析:スピリチュアルな自己認識を通じて感情のバランスを生み出す
第四章 平衡:人生が動揺をもたらすときに平静を保つ
第五章 障害と心
第六章 現実とは何か、そしてどのように欲望は私たちの現実の認知を歪めるのか? 
第七章 あなたは神を愛しているか? あるいはどのようにしたらヨーガの実践を利己的な行為にせずにすむのか? 
第八章 沈黙は金なり
第九章 私たちの神への霊的な始まり
第十章 それらは異なるものに非ず
第一一章 ヴェッタヴェリ:広大な輝く空間
第一二章 聖なるマーヤー
第一三章 ラヤ・ヨーガ:溶融のヨーガ
第一四章 神はいまだこの世にいるのか? 
第一五章 すべては恩寵である
第一六章 強い目的意識と共に、夢から目覚める
第一七章 シャクティに対する内なる凝視
第一八章 悟りは光り輝く真我の認識である
用語集
参考文献
索引

はじめに

悟りとはあなたが思考するものではないので、これについて読んだり、語ったりすることは難しい問題である。レストランの特別料理について説明しているメニューの言葉と同様に、悟りを表現する上で言葉は不適切である。悟りもまた味わわれなければならない。ただし、説明によっては、悟りをまず垣間見る準備を促し、次に自分がそうなるよう導いてくれるかもしれない。

個人的な質問を尋ねるところから始めよう。あなたはなぜこの本を開いたのだろうか。いろいろな答えがありうるだろう。「私はこの物質世界で苦闘している魂の求道者だ」、「私は瞑想を楽しんでいて、その成果が悟りであると聞いた」、「心の安らぎを見つけたい」、「自分の存在というものが分からなくなっているので、心の中の苦しさに対する答えを探している」、「神様を探している」、「スピリチュアルな経験を求めている」など。どれもがこの本を読む十分な理由となっている。

私たちの誰もが求めている一つのことは何だろうか。おそらく幸福だろう。この本を読まないような人も含め、誰もが幸福を求めている。ただ別の場所で求めるというだけだ。そういった人たちは幸福を、人間関係や食事、運動、あるいはテレビに求めているかもしれない。中には今夜遅くまで働いて、仕事が幸福をもたらしてくれると考えている人もいるだろう。幸福を見つけることはそんなに問題ではない。

本当の疑問は、なぜ幸福は消えてしまうのかということだ。大なり小なり、様々な状況で幸福は見つかるかもしれない。だが幸福を手放すまいとすることは、手の中に集めようとした水が、指をすり抜けて消えていくのを見ているようなものだ。

あなただけではない。この世に存在したすべての人間は、永久的な幸福を、永久的ではないものの中に見出そうとするという問題に直面してきた。

同じままのものなどない。物質的なものが永久に続くことはない。感情もまた同じだ。あなたの人生で一番幸せだった瞬間のことを考えてみて欲しい。あの甘く、あるいはワクワクするような感情を手放さないでいられたことがあるだろうか。何がその瞬間をだめにしたり、消してしまったりしたのだろう。邪魔はどこから来たのだろうか。

ヨーガ・シッダと呼ばれる悟りを開いた師も、現代の心理学者も、潜在意識によって生じる変化──自分で捨て去ることのできない記憶、欲望、恐れ、好き嫌い、感情、そして経験──のせいで、幸福を保つことが不可能であることについては一致している。シッダは、人間の苦しみの根本原因を次のように分析している。「あなたは目を開いたまま夢を見ている」のだと。

朝、あなたは目を覚まして、夢を見始める。「私のコーヒーはどこだろう」、「私のタバコはどこだろう」、「仕事に行きたくない」、「今の仕事は好きじゃない」などと。このような考えの多くは習慣的なものだが、このような白昼夢はどこからくるのだろうか。ヨーギーと心理学者は、これは捨てることができない夢想、欲望、嫌悪の情を含むヴァーサナー(傾向)、そして潜在意識が繰り返すようにプログラムされている思考、言語、行動に関するサンスカーラ(習慣的な反応)から生じるものであるという点で一致している。

このことを説明するために、あなたの人生で幸せだった時のことを考えてみて欲しい。長らく望んでいた何か、たとえばこの上ない仕事、完璧な関係、家、車などを手に入れた時のことだ。それは人生で最も幸せな瞬間の一つだったはずだ。でも何が起こったろうか。すぐに自分を動揺させる何かが起こったはずだ! 「私は正しい選択をしたのだろうか?」、「自分がその仕事に向いていなかったらどうしよう」といった思いや疑いや恐れだ。あるいは他のものがもっと欲しくなったかもしれない。そしてあっという間に、ちょうど太陽の前に雲がかかるように、あなたの幸福感は消えてしまった。

偉大なシッダ、パジャンダリはその有名な教典、『ヨーガ・スートラ』の冒頭で次のように書いている。「ヨーガとは心の動きとの同一視を止めるプロセスである」 気の滅入るような考えが浮かび、あなたはそれに共感し、受け入れ、自分のものとする。恐ろしい考えが生まれて、ただそこにあった幸せを消してしまう! あなたはテレビを見るのに夢中になっている人のようだ。番組が終わってはじめて、ああ、自分には戻るべき生活があると気づくのだ! 

ではこのようなことを考え、この人生を送っている人物とは誰なのだろうか。

ヨーガ・シッダは、人間の苦しみの原因を分析しただけではない。これを癒すための救済法も処方している。ヨーガ・シッダは、「人生における幸福の量は、自分の修練に比例する」と語り、サンスクリット語の「サーダナ」(訳注:修練)という言葉を用いて、精神の鍛錬を提案している。サーダナは、自分が誰なのかを思い出すためにすることのすべて、そして自分ではないものを捨てるためにすることのすべてを意味している。これは難題である。

以下のエッセイで、あなたはこの処方を当てはめ、本当の自分を明らかにするためにどのように意欲を高めて行けば良いのかを学ぶことになる。

あなたは絶対的存在であり、絶対的意識であり、絶対的至福である。存在とは、常にそうあるものである。決して変わることがない。意識は観察するものである。あらゆる考え、あらゆる感情、そして五感を通じて知覚するあらゆるものを目撃する。それはなにも行わない。それは無選択の気づきである。幸福と違い、至福は無条件である。それは純粋な喜びであり、望ましくない状況や出来事によって幸福がなくなったとしても、なお感じることができるかもしれない。

だがまず、絶対的存在、絶対的意識、絶対的至福という言葉が何を意味しているのかを経験──単にメニューに何が載っているのかを考えるのではなく、実際に──経験していただくために、このガイド付きの瞑想に従って準備をしてもらいたい。

ガイド付きの瞑想

次のガイド付きの瞑想を二、三回読んで、シンプルな手順を暗記するか、読み上げ装置に録音しておいて、修練中に再生することをおすすめしたい。

何度か深呼吸をして欲しい。息を吸うときに、自分がエネルギーで満たされるのを感じる。息を吐くときに、緊張や疲労が離れていくのを感じる。次に、普通に呼吸し始めて、「我在り」(I Am)を何度か繰り返してから、一呼吸置く。「我在り」というたびに、自分の意識が変化するのがわかるはずだ。最初は肉体的な感覚を感じ、次は感情、それから思考を意識するかもしれない。

「我在り」と言葉にすることは顕微鏡のレンズを調整するようなものであり、あなたは顕微鏡の下にある。ある時点で、あなたはあらゆる考え、感情、そして感覚が、テレビの上の映像のように、一種のスクリーン上に浮かんでは消えていくことに気づくだろう。このスクリーンは粒でできていることに気づくだろう。「我在り」といいながら、自分の奥深くに進んでいくと、この粒が動いていることに気づくだろう。この光の粒は、あなたの中に、あなたの回りに、そしてあなたを通り抜けながら、あらゆるところにある。このレベルでは、どこで自分が終わり、どこで他のものが始まるのかを区別することは難しい。粒の間には膨大な空間がある。

ここで尋ねよう、あなたは誰だろうか、あなたは何を言うだろうか。名前、思い出、あるいは感覚について語るだけでは不十分だ。いまあなたは神秘家のように、「I Am That」(私はそれだ)と言うことができる。「それ」、すなわちすべてが生まれ、すべてが帰る無限の存在である。無限の波が現れる広大な海のように。これまであなたは自分の存在の表面でしか生きてこなかった。あなたの意識は一つ一つの波、思考、感覚、そして感情に囚われてきた。いま、あなたの意識は広がり、あなたを超越する無限で永遠の存在の海を意識している。神秘家は「私はそれだ。私は生まれたことなどない。本当の私はいつも存在していた。私はそれだ。すべては私の中にある。私はすべての中にある。思考、感覚、感情、すべては来ては去る、しかし私は残る」と語っている。

ではこの視点を保つにはどうしたらよいのだろうか。呼吸によって自然と思い出すことができる。息を吸っているときにはサンスクリット語で「我在り」を意味するham(ハム)という音が出る。息を吐いているときには、サンスクリット語で「それ」を意味するsa(サ)のような音が響く。息を吸うときには心の中でhamと言い、「我在り」を思い出す。息を吐くときには、心の中でsaと言い、「それ」を思い出すのだ。

呼吸をコントロールしようとしてはならない。ただ従うのだ。別の考えが浮かんでも、追い払おうとしてはいけない。ただ「ham''sa」に戻る。しだいに呼吸がゆっくりとなり、思考が収まっていく。このことはひそかに絶対的な真実である「我在り」の主観的な側面を強調している。これをひっくり返せば、真実の客観的な側面、「それは私である」(That, I am)を強調することになる。コインの表裏だ。私は、それである私である。従って、これから10分間、心を落ち着かせ、呼吸に集中し、息を吸ったり吐いたりするときに「ham...sa」を繰り返すのだ。「私はそれだ」という言葉が何を指しているのかに集中することを忘れずに。

少なくとも10分間練習したら、できるだけ長く目撃者の視点を保つようにしよう。実際には、この見方は一日中、一年中いつでも利用することができる。あなたがこれを維持することができる限り、栄枯盛衰を通じて、そしてバラであれ腐ったトマトであれ、カルマがあなたの戸口に届けてくれるものによりあなたは悟りを得るだろう。光は意識の暗喩である。光源がその照らし出すものとは異なるように、純粋な絶対的存在、絶対的意識、絶対的至福であるあなたは、あらゆるすべての経験から分離している。悟りを開いた賢者は、私たちは既に悟りを開いていると語る。しかし矛盾するようだが、私たちはいつも目撃者、魂、真我の視点を見失っていることに気づかない状態にある。真我実現と悟りとは、この視点を保つことができるということだ。

以下のエッセイは、真我実現と悟りの能力を開発するためのガイドである。また悟りへの道に立ちはだかる障害、どのようにこれを避けるのか、そしてなぜ成功を収めた求道者がほとんどいないのかを理解する助けにもなるだろう。あなたの目的が単に人としての苦しみを避けることであったとしても、このエッセイによってそのための智慧を育てることができるだろう。悟りを開いた師たちの智慧はあなたにとって最高の遺産であり、はっきりと理解し、誠実に精神を集中して追求すれば、手の届くところにある。


第一章 悟り、それはあなたの考えを超えたもの

「悟り」という言葉は何を意味しているのだろうか? 悟りについての説明は、仏教、ヒンズー教、ヨーガ、キリスト教、そして西欧の神秘主義それぞれの文献や宗教・精神の伝統によって異なる。神秘家によるこのような伝統に則った説明は、苦しみから解放された、至福の究極の状態として自分たちが経験してきたことについて述べている。このことによって、世俗的な世界の言語で神々しい死後の世界について語る啓示的な宗教上の文献とは一線が画されている。

パタンジャリやインドのヴェーダーンタといった古典的なヨーガの伝統における悟りの初期の段階は、サマーディ(三昧)経験の一部となっている。「サマーディを知る者はそれについて語らず、サマーディについて語る者はそれを知らず」という格言がある。なぜならば、サマーディはあなたがサマーディだと思うものではないからだ! それはあなたが思うサマーディとはちょうど正反対のものだ。それはあなたの思考と思考の間にある余白である。それは心の沈黙である。それは意識しているものを意識したままでいることである。このことについて語るよりも、真我実現を果たした達人たちによるサマーディについての言葉から始めよう。言葉によってサマーディ経験を生み出すことはできないが、次に示す言葉によって正しい方向を示すことはできるだろう。高速道路の標識が遠い町を指しているように。

悟りを開いた賢者の智慧

心を静め、わたしこそ神であることを知れ
──ダビデの詩篇46

Summa(「静けさ」を意味するタミル語)
──パームバッティ・シッダ

わたしは、有って有る者
出エジプト記3:14
──シナイ山の燃える柴からモーゼに告げるエホバ

サマーディの状態の主な特徴は、唯一の感情、「我在り」の存在であり、それ以外の何ものでもなく、意識の思考やその他の外の活動を伴わない。
──ラマナ・マハルシ

サマーディにおいては、思考ではなく、「我−我」の印象のみがある。
──ラマナ・マハルシ

「我−我」は、あなたが想念や「我」という言葉の後ろに意識するようになる「それ」のラマナ・マハルシによる表現である。

汝は、独り輝き、言葉を超え、あらゆるものに浸透し、均等で、真実であり、意識であり、至福であり、終わりなく、壊すことのできないものである、あのブラーマンであることを理解せよ。
──アディ・シャンカラチャリア(識別の宝玉 「ヴィヴェーカ・チューダーマニ」、第264節)

この種の絶え間のない修行(真我の想起)により成熟した精神がブラーマンと一体となると、あらゆるかたちを持たないサマーディが非二元の至福を自然に生み出す。
──アディ・シャンカラチャリア(識別の宝玉 「ヴィヴェーカ・チューダーマニ」、第363節)

非顕現の魂の意識が純粋な心の中で暁のように顕現し始め、「智慧の洞窟」で真昼の太陽の如く輝いている
宇宙全体を照らしながら
──アディ・シャンカラチャリア(識別の宝玉 「ヴィヴェーカ・チューダーマニ」、第134節)

宇宙のように、私は思考よりもさらに遠くに行く(私はすべてに浸透する)
太陽のように、私は太陽によって照らされるものとは違う
山のように、私は永遠に動かせない
海のように、私には境界がない
──アディ・シャンカラチャリア(識別の宝玉 「ヴィヴェーカ・チューダーマニ」、第500節)

サマーディは、神すなわち「真理」と一体になった無呼吸状態である
──ヨーギー・S・A・A・ラマイア

私は存在、知識、絶対的な至福である・・・・・・私は死の死であるが故に死は私にとって冗談である。
──クリヤー・ババジ・ナーガラージ(ヴォイス・オブ・ババジ:クリヤー・ヨーガ三部作、第三部)

今はもう私を動揺させるものは何もない。
──ラマナ・マハルシ

これは私のお気に入りのサマーディの説明である。人生の課題のすべてに対して、どのように静かに活動的に、そして活動的に静かに取り組むべきかについての地に足の付いた、学ぶところの多いものであるからだ。

私は考える習慣を失った。
──シュリー・オーロビンド

彼はその最高の文学的傑作三冊を完成後にこう言った。これはその三冊が思考ではなく、サマーディと精神的沈黙から生まれたプラジュニャータ(洞察)による成果物であることを示している。

上のエッセイで、「enlightenment(悟り)」という言葉は霊的悟りを意味している。18世紀に欧州思想の世界を支配した、「啓蒙運動」や「理性の時代」として知られる哲学的運動と混同してはならない。啓蒙思想家の主な目標は、自由、進歩、理性、寛容、同胞愛、そして教会と国家の分離を通じた教会の悪弊の終結であった。啓蒙運動によってフランスやアメリカの革命、そして近代的な自由民主主義が登場した。

スピリチュアル対宗教

2015年にピュー・リサーチ・センター①が行った信仰宗教に関する調査によれば、自分の信仰している宗教を具体的に示すように求められたときに、調査対象の3分の1以上が自分たちの宗教を「なし」と答えている。「なし」と答えた者の中で、多くの人々が自分自身を「スピリチュアルだが宗教的ではない」としており、この数は増加している。

スピリチュアルだが宗教的ではないというのはどういう意味だろうか。組織化された宗教に対して執着することを単に拒絶しているだけではないのか。だとすれば、自分がスピリチュアルだと告白する者たちの目標は何だろうか。スピリチュアルだと告白しながら、異なる言語を話したり、異なった文化的コミュニティーの出身であったりする者が共通して信じているものは何だろうか。彼らの間の違いは何だろうか。宗教は、自分がスピリチュアルだとする者たちを支持するだろうか。するのなら、どのようにしてだろうか。スピリチュアルであることは、宗教的な信念や信仰を肯定することにつながるのだろうか。するのなら、どのようにしてだろうか。科学は悟りに関連する、意識のより高次の状態の存在を確認することができるだろうか。これは本章で答える疑問の一部である。

宗教は教典、個人、象徴、信仰、信条、建築、儀式、衣服と肉体的な外観、祈り、活動、権威のヒエラルキー、そして歴史を含む、形を持つものに価値を置く。宗教はその形により自分たちを区別する。形の違いをめぐって戦争に行くこともあろう。自分が特定の宗教に忠実であると認めれば、ただちに自分自身と、自分とは信じるものが異なる他人との間に壁を作り始める。人類の歴史を通じて、宗教は過去も現在も、社会的および政治的分断の最大の原因の一つである。

魂には形がなく、スピリチュアルな伝統は形のないことを重んじてきた。このような伝統にとって、スピリチュアリティは、あらゆる形を超えたものを指す。あらゆる形を超えるために、スピリチュアルな世界中の伝統は、沈黙と瞑想を深めることが不可欠であることを認めてきた。沈黙の中で、言葉と想念は溶け去る。真実、愛、美、智慧は沈黙のうちに示される。従って、このような絶対性を追求する者は、沈黙を育てなければならない。
①http://;ewforum.org/2015/05/12/aamericas-changing-religions-landscape/

瞑想によって、肉体的、そして精神的な意識の状態を超越し、生命のスピリチュアルな次元に入ることができる。これを達成するためのそれ以外の修練として、呼吸のテクニック、マントラの反復、瞑想的な意識を伴って行われる場合のアーサナ(ポーズ)がある。全体として、このような修練のすべてがヨーガを構成しており、従ってヨーガは「あらゆる宗教の実践的な側面」と呼ぶことができる。

宗教はあなたが信じているものである。ヨーガは自己鍛錬の日常的な実践としてあなたが行うものである。信仰は知性の中にしか存在しないが、知性はカテゴリーを構成し、これとあれの間の区別を生じさせる。この区別は知的な次元にしか存在せず、宗教を区別するそれ以外のすべてに対する根拠を与えるかもしれない。ヨーガとそのスピリチュアルな鍛錬の実践によって、すべての知的、精神的、物理的な違いさえもワンネス、すなわち根源、量子場、意識のエネルギーへと溶けていく、存在のスピリチュアルな次元を経験することができる。

天国であれ、現世の苦しみの中に転生しなければならないことからの解放であれ、来世における救済を求めている宗教の信奉者と異なり、自分自身がスピリチュアルであると認識している者は、意識のより高次で恒久的な状態の中で、この世に存在することを求めている。スピリチュアルな求道者は、「永遠の今」にあることを求める。正にこの瞬間に存在することの力を強調する。だが、彼らは単にスピリチュアルな経験をすることを求めているわけではない。このような人々は、悟道、目覚め、悟り、啓蒙、サマーディ、真我実現、そしてキリスト意識など様々に表現されるより高次の意識の恒久的な状態を求めている。このような表現は、スピリチュアルおよび文化的な伝統の中で異なるが、その指しているものは、求道者があらゆるものとの統合を実現する、より高次の意識の状態を恒久的に達成することである。

苦しみからの解放は、悟りと密接な関係がある。この二つには反比例の関係があるので、スピリチュアルな生への処方箋は、人間の苦しみの原因診断から始まる。いずれも無知とエゴイズムから生じる執着とそれに伴う嫌悪の情である。教育の目的が人間の苦しみからの解放であるとすれば、人間の苦しみを完全になくす知識が最高の知識となる。このような知識は智慧として知られており、本書を通じて探求することになる。

仏教

「enlightenment」という言葉は、それが最もよく見られる仏典で、ボーディ、プラジュニャー、見性、悟りといった概念、そして悟りの境地、仏性およびプラジュニャーそのものを指している。

ボーディは上座部仏教の言葉で、覚醒および理解を意味する。悟りを開くと、人は欲望、苦しみ、輪廻転生によって囚われている心の働きについての洞察を得る。人は涅槃(束縛からの解放)への道に向かう。

プラジュニャーは、大乗仏教の言葉で、経験の流れの中で個人的な本質が存在しない、私たちの真の本性に対する洞察を意味する。これはまた如来蔵、すなわち仏性、経験の流れを超えた本質的な意識も示す。

ヒンドゥー教

ヒンドゥー教では、悟りを説明するために一般にモークシャが用いられる。これは世俗的な自我の概念、そしてカルマ(業)および欲望によって生じるすべての苦しみからの解放を意味する。欲望とカルマがなくならない限り、人は繰り返される死と生の輪廻の対象となる。スワミ・ヴィヴェーカーナンダが米国を巡った19世紀末より、そしてパラマハンサ・ヨガナンダがカリフォルニアに伝道本部を設立した1920年代に、英語を母語とするスピリチュアル求道者およびヨーガ愛好家の間で、「真我実現」(Self-realization)という言葉が悟りの状態を示すために広く用いられるようになった。

アドヴァイタ・ヴェーダーンタ

グルのもとにおける修行、浄化、教典研究、そして世俗的な活動の否認という長いプロセスを通じて、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの弟子たちは、個我──アートマンと呼ばれる──と絶対的真実──ブラフマンと呼ばれる──との同一を認めることによる解脱を求める。アドヴァイタ・ヴェーダーンタは、六つあるインド哲学の学派の一つであるヴェーダーンタ学派の中で、支配的かつ最も影響力のある下部学派であると広く考えられている。

その支持者は真我の探求を進め、「私は誰だ」あるいは「これを感じたり考えたりしているのは誰だ」と人が問うときに何を意識しているのかを意識するようになる。このような支持者たちはエゴの視点を超越しようとする。ウパニシャッド(ヴェーダーンタの文献)を含む聖典を、真我の鏡、そして知的領域を超越する別の手段と考えた。彼らは「tat tvam asi」(それは汝である)や「aham Brahman」(我はブラフマンである)のような、ヴェーダーンタの教えを要約したマハーヴァキャスと呼ばれる偉大な格言について黙想する。

新アドヴァイタ

この30年間に、西洋のスピリチュアル・ティーチャーの中で、伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタの新たな解釈を促す者がでてきた。これは伝統文献の研究、瞑想の方法、そして伝統的な禁戒を無視する。意識の非二元状態を経験することの即時性、そして悟りを開いたスピリチュアル・ティーチャーの前でこれを経験する機会を強調する。しばしば弟子たちに、既に悟りを開いているのだから、ヨーガを行ったり、スピリチュアルな修行を実践したりする必要はない、あるいはヨーガなどの修行を実践することで、意識の非二元状態の理解から逸らされてしまうといったことを告げる。

理論的には、このような訓練は、高度にスピリチュアルな進化を遂げた数少ない者にとっては不要かもしれないが、実際にはそれ以外の誰もが、否定的な傾向や習慣によって苦しんでおり、集中力などの必要な特性を欠いているため、超越的な意識の状態を維持することは事実上不可能である。

この学派の実践家は、悟りを開いた賢者であるラマナ・マハルシの弟子を自称するパパジとして知られる、インド人のティーチャーをその出自としている。この運動は、パパジの一番弟子であるアンドリュー・コーエンが創刊した雑誌、「What Is Enlightenment」の出版で頂点に達した。

キリスト教

キリスト教では「enlightenment」という言葉は主に、啓蒙時代とそのキリスト教に対する影響を指すために使われる。キリスト教の神秘主義的、グノーシス主義的、そして瞑想的な伝統の文献に見られるおおむね同等の言葉には、「illumination」(偉大なる白い光を見ること)、「kenosis」(自分を空にすること)、そして「metanoia」(回心)が含まれる。グノーシス(直観的な認知により知ること)、それに「revelation」(啓示)も同じような意味を持つ。それ以外の概念には、神との合一をもたらす恩寵で満たされることや、現世から自らを超越あるいは分離すること、受難、精霊そして「キリストの光」との交わりがある。

現代キリスト教では、キリスト教徒の一部が、静修への参加、キリスト教的瞑想の修練、そしてキリスト教神秘主義者の文書の研究により、スピリチュアリティ(霊性)を育てることを求めている。礼拝時に、単に知的または感情的なものではなく、スピリチュアルな経験を探求する者もいる。パラマハンサ・ヨガナンダの著作は、悟りの状態を表すために多くの英語圏のスピリチュアル求道者が幅広く使用してきた「キリスト意識」という言葉を確立した。この言葉は古典的なヨーガ、ヴェーダーンタ、そしてイエス・キリストの教えを合成するものである。

宗教とスピリチュアル・サイエンスの間の相互に支え合う関係

あらゆる宗教は、信者の社会的行動を抑制する役割を果たす禁戒を定めている。これが実際に守られると、このような禁戒は欲望、怒り、誇りなどのエゴの現れに従う者を浄化し、真にスピリチュアルになるために求められる修行を促進する。以下のエッセイの多くは真のスピリチュアリティ(霊性)に達するためにどのように、そしてなぜこのことが欠かせないのかについて示すことになる。

今度はスピリチュアリティが宗教的、倫理的な禁戒を遵守することを促進する。瞑想のようなスピリチュアルな修行はあなたを内なる強さの偉大なる根源へと結び付け、あなたは自らの人間性にある個人的な欠点や不完全さを克服したいという熱意を育む。信念はもはや信心のみではなく、個人的な経験に基づくものとなる。

霊的な技法を実践することは、仮説を実験室で試験するようなものである。日記に自分の経験を記録し、他の実践家とノートを比べ合うことは、この科学的な方法における二つのさらなるステップである。

宗教としてスピリチュアリティにアプローチするとき、あなたは一つの真の信仰体系、聖典の解釈、あるいはそれ以外のすべてを除外するための信条を求めている。このことはひどくあなたの経験を制限し、間違いを犯すことに対する恐れを高め、そして自分たちの組織的な宗教、聖典の解釈、あるいはその命令に忠実になるようにあなたを操ることを目的として、天罰や因果応報に対する恐れを利用する者に対しあなたを無防備にする。科学としてスピリチュアリティにアプローチする場合、自分にとってうまくいかないものを見つけ出すことは、自分にとってうまくいくものを見つけるのと同様に有効である。あなたの経験は最高の権威となり、人生を発見のプロセスとして楽しむようになる。

神経学的な研究が、サマーディは測定可能な現実であることを確認している

神経学的な研究、特に脳波検査法(EEG)やポジトロン断層法(PET)を使用して脳の機能を測定している研究は、「すべての肉体は精神の中にあるが、すべての精神は肉体の中にはない」②というスワミ・ラーマの主張を裏付けている。このような研究はまた、サマーディや悟りに関わるものを含め、様々なレベルの神経活動と意識の異なったレベルが相関関係にあることを示している。

②Rama, Swami. (2002). Conscious living. Dehradun, UK, India: Himalayan Institute Hospital Trust.

周波数4ヘルツ未満のデルタ波は、ノンレム(REM)睡眠と最も整合性がある(ヘルツは電磁波の周波数を測定するために使用される単位である)。4ヘルツから8ヘルツの間のシータ波は、集中と瞑想、夢、催眠状態、入眠時心像に関係する。8ヘルツから13ヘルツの間の周波数を持つアルファ波は、深い肉体的な弛緩を、そして13ヘルツから30ヘルツのベータ波は、覚醒時の警戒状態を示す。30ヘルツから80ヘルツのガンマ波は、複数の種類の感覚の処理と、特定の認識または運動機能の実行を示す。EEGを使用した瞑想に関する研究の詳細については、カーンおよびポリッチによる研究を参照して欲しい。③

創造力、発明、意志決定、問題解決、講義や研究論文の構成、詩文、詳細な行動計画などを例とする意識状態は、より深い修練中のデルタ波にほぼ等しいシータ波によって特徴づけられる。サマーディの第一段階では、シータ波、そしてこれに続くデルタ波が見られる。EEGモニタリングの間、研究の参加者は深いノンレム睡眠を経験するが、その環境に対する意識は保っている。

サマーディが深まると、人は意識の繊細な力であるクンダリニーを意識するようになり、シータ波とデルタ波が交互に起きる。この状態を身に付けると、人は意志によってこの状態に入ることができるようになり、ティルマンディラムのようなヨーガの教典に述べられる四番目の意識であるトゥリーヤへと進む。ヨーギーが絶え間ない意識の状態としてのトゥリーヤを保つようになることは、ヨーガではアサムプラジュニャータ(区別のないサマーディ)、ヴェーダーンタではニルヴィカルパ(無分別)として知られる。これは識別可能な電気的活動が存在しないことによって認められるかもしれないが、この点については管理された環境で実証する必要がある。

パタンジャリのヨーガ・スートラの古典的なヨーガにおけるサマーディまたは真我実現

紀元前200年から紀元200年のある時に生きていたというシッダ・パタンジャリが著したヨーガ・スートラは、同著が呼ぶところのアサムプラジュニャータ・サマーディという悟りを開くための系統立った指導を伴った、ヨーガの上級学習者のための修練の手引書である。

これは最も古いインド哲学であるサーンキヤに基づいており、この哲学は現実の二つの軸を仮定する。すなわち主体と客体である。サーンキヤによれば、人間の苦しみは主体と客体、すなわち見る者(プルシャ、純粋精神)と見られる者(プラクリティ)の間の混乱の結果である。サーンキヤは五つのクレーシャ(苦しみの源)、すなわち私たちの真我(意識)に対する無知、エゴイズム、執着、嫌悪の情、そして死の恐れを分析する。

エゴイズムは意識から生じるヴリッティ(心のはたらき)を自身と同一視する習慣である。言い換えれば、私たちは精神、感情、感覚認識の動きに対する反応、つまり客体的な経験、見られることを自身と同一視している。

サマーディ(認識作用の没入、または真我実現)において、ヨーギーは意識──私、主体、見る者──と同一化する(認識作用とは知ること、特に内面から知ることである。没入において、主体と客体の自己同一性はお互いに同化する)。

究極の状態であるアサムプラジュニャータ(区別のないサマーディ)は、その出発点として物質的な形態も概念的な形態も用いない。すべての形態は背景に引っ込む。あなたの自己はすべてを超越する。それは瞬間ごとの冷静と長年に渡って育った真我認識の結果となる。これはウパニシャッドのニルヴィカルパ(無分別)サマーディと同じである。そこには心の形もはたらきもない。パタンジャリがアサムプラジュニャータ(区別のないサマーディ)をどう説明しているのかを見てみよう。

無執着に関する継続的な修練の後、(そこには)もうひとつ(の区別のない認識作用
の没入、つまり)潜在意識の印象の残滓(を統御する『アサンプラジュニャータ・サマーディ』)(がある)」。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章18節)

サマーディの第一段階、サムプラジュニャータ・サマーディは、出発点として明確な物質的または概念的な客体を取るため、客体指向、または区別のあるサマーディと呼ばれる。サマーディは、概念的な抽象作用──たとえば統合、真実、愛、あるいは明け渡し──のような瞑想の対象、または呼吸、あなたのイシュタデヴァター(あなたのお気に入りである神の概念)の像、チャクラ(特にサハスラーラ)、マントラのような「もの」を使って達成される。

ヨーガ・スートラで最初にサマーディに触れているのは第一章一七節である:

区別のある(samprajnata)認識作用の没入(サマーディ)は、注視・熟考・歓喜・真我の自覚を伴う。

サム(sam)は「共に」を意味し、プラジュニャー(prajna)は霊感や洞察を意味する。サマーディの第一段階──注視・熟考・歓喜・「我在り」の経験──は、単なる意識の動きではなく、主体と客体の融合により霊感を与えられた産物である。上の引用では、「注視」はヴィジョンを意味する。「熟考」は、これまでは単に知的に理解されてきた真実である智慧の深い理解。「歓喜」は、自発的に生じる無条件の喜び、至福、あるいは美。「真我の自覚」は、ただ一つの超越的で絶対的な真実、純粋意識との一致の実現を意味する。

サマーディの第一段階の付随物は、この経験に加わりたいという心の試みを示すが、少なくとも瞬間的には超越や神との統合を妨げる。パタンジャリが上で述べた付随する状態が関わりうることからサマーディの第一段階は「区別のある」サマーディと呼ばれる。

第1章41から50節で、パタンジャリはさらにサマーディを説明している:

主体と客体が一体となり、対象物に関する言葉、形、知識が自然に生じるサマーディは、サビタルカ・サマーディ、熟考を伴ったサマーディである。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章42節)

本スートラ、そして続く二つのスートラを通じて、パタンジャリは、サンプラジュニャータ・サマーディ、すなわち「区別のある」あるいは「客体指向」のサマーディを分析している。パタンジャリは四つの段階を区別する。

・サヴィタルカ(Savitaruka):熟考を伴う物質的な客体からの離脱
・ニルヴィタルカ:熟考を伴わない物質的な客体からの離脱
・サヴィチャーラ:熟考を伴う微細な、あるいは抽象的な客体からの離脱
・ニルヴィチャーラ:熟考を伴わない微細な、あるいは抽象的な客体からの離脱

サマーディの第一段階であるサヴィタルカ・サマーディの間、自分と物質的で目に見える客体の間の同一化には、瞑想の物質的または目に見える客体についての超認識的洞察および概念化が散在している。これは自発的に生じる。この客体は、聖者、ヤントラ、あるいは自然からのあらゆるものたりうる。これは通常の思考のように、とりとめのない考えや漠然としたアイデアの産物ではない。その明瞭性と力は独自のものであるが、達成された主体ー客体の一体化の不完全な度合いを示している。また、言葉、客体、洞察は、一体化の間にお互いに独立して現れることがある。

主体と客体が一体となり、潜在意識の印象が十分に浄化され、自らの形態だけに留まり、いわば空っぽの状態になり、熟考を伴わずに輝くサマーディは、ニルヴィタルカ・サマーディである。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章43節)

この場合、瞑想の物質的あるいは目に見える客体についての超認識的洞察および概念化が停止する。一体化が完全となる。知るものが知られるものとなる。

これらのサマーディには種子が残っている。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章46節)

サマーディは、精神がほぼ沈黙する状態である。ただし、上に述べたサマーディのすべてが潜在的な無意識の苦悩によっておびやかされる。ヨーギーの意識が無意識から生じる形と同一化し、真我意識がエゴとの同一化に取って代わられる危険が常に存在する。ヨーギーは集中的な修練の期間にはサマーディへと昇っていくが、それ以外の時には精神錯乱および神経症の世界へと降りていくことになるエレベーターに自分が乗っていることに気づくかもしれない。

ニルヴィチャーラ・サマーディ(言葉や熟考を伴わない)が純粋になった時、真我が乱されることのない平静の中(で輝く)。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章47節)

ニルヴィチャーラ・サマーディの経験が深まり、一定となったとき、ヨーギーは、意識の高まった状態に留まり、どのような心のはたらきにも乱されず、純粋で、明瞭で、輝いている最高の真我と同一となる。「我在り」の印象のみが残る。人は一時的な経験を超え、真我実現と悟りの絶え間なく恒久の状態に達する。

パタンジャリが、プラクリティの無数の顕現物によって基本的な「我在り」の実現が乱れないこの状態を特徴づける上で、プラサーダ(乱されることのない平静)という言葉を用いていることは重要である。人は現世に留まるが、それに染まらない。平静からさらに一歩進んだ状態が静寂であり、そこではあの区分の存在しない存在を除き、なにも意識されない。平静は、思考や認識の不在ではない。それと共にあることである。人は活動的に静かで、静かに活動的である。

この時(ニルヴィチャーラ・サマーディ)、意識は真理を帯びる。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章48節)

通常の意識では、プラジュニャー(知識)は、五感や推論によって得られる。だがサマーディでは、それは直接的な認識や洞察に由来し、真理のみを保有する。これは誤りがないことを意味する。洞察が育つ。第六感あるいは霊的な知識によって、ヨーギーはものごとの真理と一体となり、真理を直接、直観的に知覚する。プラクリティの顕現物と同一化することによって、ヨーギーは賢者となり、あるテーマについて教育を受けていなくとも、第3章4節でパタンジャリがサンヤマ(すなわち客体に対して集中、瞑想、サマーディを統合した霊交)と呼ぶものを修練することにより、あらゆるテーマに関して正確に述べることができる。

それ(真我認識)によって生み出される潜在意識の印象は、潜在意識の他の印象が生じることを妨げる。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章50節)

純粋で熟考を伴わない洞察は、意識の古いかたち、考え、あるいは習慣に対する外部化を効果的に抑制する。ヨーギーはすべての執着から解放される。事実上、背景がヨーギーの意識の領域では前景となる。「我在り」の印象が支配する。このすべてがより高い意識によって達成される。シュリー・オーロビンドの言葉に寄れば、「私は考える習慣をなくした」ということになる。サマーディから上下するエレベーターに乗ることはもはやなく、ヨーギーは常に何の苦もなく継続的な真我実現あるいは光り輝く意識の状態で悟りを開いたままとなる。

この最後の印象(「在る」)と自分とを同一視することがなくなり、他のすべてが制止されると、種子のないニルヴィージャ・サマーディに至る。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章51節)

火かき棒が最後に火の中に投げ込まれるように、真我を意識の客体との同一化から切り離すために用いられる最後の印象、「我在り」も捨て去られる。残るのは、すべてから独立した輝くような真我の認識である。もはや知るものと知られるものの間の分離は存在しない。「神を理解した」という想いさえも。

悟りのパラドックスと特別であることの罠

個人主義、競争、外観、そして強欲が強調される現代の物質主義的な文化で、私たちは特別な新しい経験を持ち、誰か特別な人物になるように奨励される。しかし、特別になるようにせきたてることは、自分が他人よりも優れていると感じることを求め、もしできなければ、その逆──無価値であるという感覚──が恨みを生み出す。私たちが成功しようとしまいと、エゴは強くなっていく! 特別であることはワンネスの実現からあなたを引き離す。もしワンネスの実現を熱望するなら、どれだけ金持ちだろうと、権力を持とうと、知識を得ようと、エゴを通じてそこに達することはできない。

必要なのは、肉体やあるいは精神や感情の動きと同一となるエゴの視点を、目撃者である魂の視点に変えることである。目撃者は何もしない。目撃者は何も保持しない。それは観察する。それは純粋意識である。深呼吸をして、今抱いている思考、感情あるいは感覚から一歩下がるのだ。それに対する目撃者となりなさい。この新しい見方を今楽しむのだ。それは純粋意識である。だが他のものと違って、「それ」は経験することができない。それは客体ではないからだ。それは主体だ。他のものはすべて客体である。

「私が誰であるのか」を理解することは、新しい経験をすることではない。経験をすることに特別なことはない。あなたが特別になるわけでもない。特別であるということは、他のすべてから切り離されていることを暗に示している。あなたは純粋意識であり、そのことは時空に制限されず、従って切り離されておらず、同時にすべてに内在し、すべてを超越する。

ここでの最初のパラドックスは、魂の視点からはあなたは既に悟りを開いているが、継続してそれを忘れることである。悟りとは意識自体を継続して意識し、これと一体のままでいることである。この状態に達することが、真正である霊的な教えと方法すべての目的である。

第二のパラドックスは、悟りへの道を進むほど、誰か特別になることや、特別な経験をすることを求めなくなり、マーケティングによって特別に見えるようにしているものに魅了されなくなることである。あらゆるものと一体で、かつ超越している感覚が、特別にならなければならないという必要性にとって代わる。なぜならば、特別であるという感情が、神からあなたを引き離すからである。

あなたは霊的探求の始まりに、この道がヴィジョン、霊的な出逢い、アストラル・トラベルのようないわゆるスピリチュアル経験に導いてくれることを望んでいたかもしれない。あるいはあなたの苦しみを軽減してくれる、いわゆるスピリチュアル・マスターのような特別な人物を探していたのかもしれない。あるいは誰か特別な人物になりたかったかもしれない。一九七一年に、はじめてインドに行く準備をしていた人物が私に、「スピリチュアル・マスターになるまではアメリカに帰ってこないよ」と話してくれた。

あまりに多いのは、いわゆるスピリチュアル・マスターが単なるマーケティングのマスターだったり、いわゆるスピリチュアルな本が斬新なあるいは奇跡のような経験に対する現実的でない期待を生み出したりしていることだ。

真のグルは、グルであることを決して主張しないし、特別な立場を求めることもない。真のスピリチュアル・マスターは、エゴを支配し、導きを求める者が特別な立場を思い描くことも決して勧めない。弟子からあなたは自分たちのグルであるかと尋ねられたとき、ラマナ・マハルシはいつもこれを否定し、「誰がその質問をしているのかを見つけ出せば、あなたは答えを見つけるだろう」と答えている。

真のスピリチュアル・マスターは、教えを届ける郵便配達人以上の何者かであるようなふりはしないだろう。あなたに悟りを与えることはできない。あなたのために何かをすることはできない。教えと方法を提供して、これを応用するように励ますことはできる。最終的に、智慧の面で成長できるようにする。智慧とは、一時的なものと恒久的なものを、あなたの真我と体ー心ー個性を、そして苦しみの源と喜びの源を区別する能力である。

残念ながら、いわゆるスピリチュアル・マスターやグルの多くは、自分たちに夢中になり、見たいものや受け取りたいと思うものを自分たちに投影する弟子たちによって崇められることを認めてしまう。奇跡やほら話に富んだスピリチュアルな冒険物語を読んだ後で、弟子たちはしばしば自分たちに必要なのは、何らかのかたちで悟りか、少なくともスピリチュアルな経験を与えてくれるような悟りを開いたグルを見つけることだけだというロマンティックな考えを抱いてしまう。このような弟子たちは、自分自身に命じられた修行や教えを応用するよりも、スピリチュアル・マスターの人物そのものに関心を持ってしまう。このことは特に、(スピリチュアルなエネルギーや能力を与える)シャクティパットを通じた悟りへの近道を与えると主張するサットグルに当てはまる。スピリチュアル市場でも、需要供給の法則が当てはまるのだ! 

このようなグルは、道を見失い、自分たちが特別であり、本当の自分よりも偉大であると信じているかもしれない。その行動、服装、肩書で弟子たちを印象づけようとして、スピリチュアル・マスターの役割を果たす。さらに悪いことに、彼らは自分自身のエゴに縛られた限界を無視したり、隠したりする。これはそのグルの人間的な欠点が、しばしば性的または金銭的な醜聞の結果として無視できないほど明らかになるまで続く。欠点のあるスピリチュアル・ティーチャーから学ぶことは可能だが、自分の力を人に譲り渡さないことが大切だ。

このような師を審判する必要はない。受け取ったかもしれない智慧の真珠に感謝しながら、ただ歩き去るのだ。あらゆる種類の誇り、怒り、肉欲、嫌悪の情を含む、感情、欲望などのエゴの現れのような何らかの赤旗によって、こうした師に気づくだろう。彼らが分かち合う教えの中に価値を見出そうとするのだ。教えこそが真のグルなのである。

真のスピリチュアル・マスターに対しても、師を崇めはせずに師の教えに打ち込むことによって、師自身の欠点に注意を払うように促すのだ。これは彼らに対してあなたが与えることのできる最高の敬意あるいは勤めである。あなたが心を開き、誠実であれば、より経験や知識の少ないスピリチュアル・ティーチャーからずっと多くを学ぶことができる。誠実さは、この分野で価値のある唯一の通貨である。誠実さが、あなたがやりたいことを果たしてくれる。

意識の悟った状態とエゴの現れの間の逆相関

特別な人物にならない心構えはできただろうか。特別な経験をしない心構えはできたろうか。本当の自分は誰であるのかを思い出す準備はできただろうか。そうしてようやく、あなたなは自分が悟りへの道にいることがわかる。この本で、あなたは苦しみを離れ、悟りの状態へと意識を高めることを学ぶのだ。

以下のエッセイは、2008年から2015年の間に書かれ、クリヤー・ヨーガ・ジャーナル誌に掲載された。この本で取り上げるトピックの多くの背景情報については、以前のエッセイ集、『クリヤーヨーガ:道を照らす光』を読んでおくと良いだろう。前書のトピックは、三つの幅広いテーマ、すなわち(一)人間のジレンマ:つかの間の物事に永遠の幸せを求める、(二)霊的な道を見出す、そして(三)人生をヨーガにする、に分けられる。

悟りを開けるかどうかは、執着や嫌悪の念や、それ以外のエゴの現れとの同一化からどこまで自分を浄化できるかにかかっている。エゴが悪いわけではない。エゴは肉体、感情、心の動きとの同一化の習慣にすぎない。それによって意識の個性を保ち、この世界で生き延びることが容易になる。

あなたはあなたの感情ではない。あなたはあなたの思考ではない。あなたはあなたの肉体ではない。それはあなたの意識の乗り物に過ぎない。あなたは肉体、生気体、メンタル体に仮住まいしている霊的な存在である。あなたは永遠の目撃者である。悟りを開くプロセスを通過するにつれ、あなたは苦しみの原因から自分自身を解放する。あなたは、人間共通の特性が変容するプロセスに個人的かつ集団的に関わっており、至高の存在により親しく愛を込めて支えられ、導かれ、次第にその欠点を取り除いていくことになる。

第二章 ヨーガ・シッダの不滅への道

最近ヨガジャーナルが行った調査によれば、近年ヨーガを修練し始めた人の半分近くが、医師の推薦により始めたのだという。医学研究者によって、規則的なヨーガの修練が持つ多くの健康上の利点を示す文献が増えている。ちょっとした修練によって、これほどの好ましい効果があるのであれば、ヨーガの修練に専念している者にとっては、どのような利益があるのだろうか。

何年も前に私は、メリーランド州ベセスダで開催された米国国立保健研究所の老人学会議に出席した科学者の一団に、人間の寿命の限界を定義するよう求めたことがある。科学者たちは、そのようなものはないと述べ、さらに人々が歳を取って死ぬのは、劣悪な生活上の習慣によるものであると説明した。

インドでは、この質問に対するより詳細な回答が、シッダ(完成した者)として知られる最も偉大なヨーギーという生きた手本、そして最近英語に翻訳され、学者や医学研究者によって探求されている、このようなヨーギーが残した相当量の文献によって示されている。

ヨーガ・シッダとは何者なのか

シッダには複数の意味がある。最も一般的には、「完全な存在」、「神と一つになった者」、「魂あるいは個我の意識と神の意識の非二元性を理解した者」、あるいは「シッディとして知られる特殊な力または超能力を持つ熟達したヨーギー」を表している。

シッダは、人間の肉体は神の寺院であると教える。人はすべての源である至高の知性(神)の縮図である。人生の目的は、神を理解し、存在のあらゆるレベルについての理解を具現化することである。シッダによれば、病んだ肉体の中における悟りは、最終的な目標、あるいは成就であるとは考えることができない。人間が、白髪、老眼、老齢、病気、死という五つの制限を超克することは可能である。人間の肉体が若さを保つことは可能である。

集中したヨーガの訓練に刺激されると、あるシッディ(神聖な力)が自ずと現れる。チャクラ(心霊エネルギーセンター)がより高い能力を目覚めさせ、私たちが自分のクンダリニー(潜在的な力や意識)を活用することができる。こうして、人は心身ともに完璧な状態に到達することができる。シッディの八つのカテゴリーは以下の通りである。

一、 原子ほど小さなものと同化し、これを知る能力
二、 無限に大きくなる能力
三、 空中浮遊、すなわち空中に浮かぶ能力
四、 即時に、意のままに好きな場所に移動する能力
五、 自然な老化の過程を克服する能力
六、 天候を制御する能力
七、 死から甦る能力
八、 望むものすべてを手に入れる能力

このような傑出した能力を活用し、シッダは自然とその要素を系統立てて研究した。その観察から、シッダ・ヴァイッディアと呼ばれる高度に組織的な医学の形態を開発した。シッダは、長寿に関する数多くの医学論文を書いており、これが今日インド政府が認めている四種類の医学システムのうちの一つの基礎となっている。

シッダ・ティルムーラルは、その医学に関する定義で、長寿の問題についての洞察を示している。

医学は、肉体の不調を取り扱うものである。
医学は、精神の不調を取り扱うものである。
医学は、病を予防するものである。
医学は、不死を可能にするものである。

シッダは、なぜ肉体が老化するのかを発見し、老化を予防するための手段を開発した。たとえば、あらゆる動物の寿命の長さは、呼吸の割合と反比例する。つまり、呼吸が遅いほど、生は長くなり、逆に、呼吸が速いほど、生は短くなる。1分当たりの呼吸数が最も少ないカメ、クジラ、イルカ、オウムは人間よりもはるかに長生きするが、人間の平均と比べて5倍速く呼吸するイヌやネズミは、人間の5分の1しか生きない。シッダは、もし私たちの呼吸が1分当たり15回以下の場合、私たちは百年生きるはずであると示唆している。私たちの呼吸が乱れたり、習慣的にこれよりもずっと速かったりすれば、私たちの寿命は短くなる。

クンダリニー呼吸法のイニシエーション

シッダは、呼吸を中心とした修練、たとえば性器の部位から脊椎を抜けて頭頂に到るエネルギーのチャンネルを上下に動く光を視覚化する修練を開発した。その偉大な力ゆえに、このテクニックは秘密とされ、その重大な効果を保証するガイドラインに従って修練する覚悟を持った資格のある者の間だけで共有された。人間性というものはしばしばマイナスの習慣の犠牲になり、変化を嫌うことが多いため、このような修練は食事、清潔さ、道徳的訓示、精神的な衛生、瞑想、そしてスピリチュアルな修行に注意を払った、自己浄化の完全なプロセスの文脈に沿って管理されなければならない。特別なトレーニング・セッションやイニシエーションの間、このような奥義のテクニックは、ヨーガの達人によってその修練に喜んで身を委ねる者に対して教えられていたし、現在もそれは変わらない。

このような呼吸法を利用して、シッダは自分たちの呼吸を停止するところまで遅くし、サマーディ(呼吸を伴わない神との霊交状態)へと入ることを習得した。それによって高次の意識状態が肉体に影響を及ぼし、肉体が徐々に聖なる体、言い換えれば黄金の体に変容した。シッダの肉体は、変化の長いプロセスによって生じる黄金の輝きを放つ。私たちの肉体が進化するためには、私たちの最大の敵である自分自身との闘いに対する断固とした取り組みが必要だ。インドの大英帝国からの独立のために戦っている仲間から、その政治的闘争を再開するように求められたときに、シュリー・オーロビンドがユーモラスに述べたように、必要なのは「誰でも簡単に管理することができる英国政府に対する革命ではなく、普遍的な『自然全体』に対する革命である」ということになる。

シッダの薬:カーヤ・カルパ

内なるクンダリニーのエネルギーを目覚めさせるために使用される呼吸法と関連する修練は、エゴに基づいた意識を抑制するための最も強力なシッダの道具の一つだが、シッダはまたカーヤ・カルパとして知られる錬金術的な製法も開発した。シッダは、自分たちが時間と競争していることを知っていた。細胞異化の過程を通じて、人体が劣化する傾向を克服する時間は、数十年しかなかった。シッダは薬用ハーブとミネラルについての知識を活かし、より多くの時間を稼ぎ、その結果クンダリニーの力が最大限の効力を発揮できるようになった。

シッダは、すぐれた若返りの特性を持つハーブとミネラルの処方を編み出した。その応用には最も専門的な知識と必要な犠牲に対する完全な献身が求められたため、このような処方は最もふさわしい弟子と達人だけが共有した。求道者は1年以上世間との交際を断ち、特別な限定食で暮らし、あらゆる活動を避け、完全に休息しなければならなかった。

このような錬金術的な製法の多くは、一般に毒性の水銀を含んでいた。結果として、製法の開発に到る実験はしばしば死につながった。

シッダ・ボーガナタールの著作の中に、このような実験のユーモラスな記述がある。ある日、ボーガナタールは、最高の弟子を四人選び、自分が開発した新しいカーヤ・カルパの錠剤の試験に参加させた。一行はボーガナタールの犬と共に山に登った。ボーガナタールはまず、効果を見るために錠剤を自分の犬に与えた。犬は倒れて死んだ。ボーガナタールは志願者を求めた。ためらうことなく、弟子の一人が前に出て、錠剤を飲み、地面に倒れた。再び、ボーガナタールは志願者を求めた。自分のグルを失望させたくなかったので、別の弟子が錠剤を飲み、その場で死んだ。残された二人の弟子に錠剤が差し出されると、二人は自分たちも死ぬのではないかと恐れて泣き出した。そこでボーガナタールは錠剤を飲み、倒れて死んだ。悲しみに打たれて、弟子たちは山を駆け下り、自分たちのグルと兄弟弟子たちのために最後の儀式を行おうと、別の弟子たちを連れてきた。だが、二人が最後の儀式を行うつもりで数時間後に戻ってくると、ボーガナタール、二人の弟子、それに犬の死体がなくなっていた。隣の山の方を見てみると、驚いたことに、ボーガナタール、二人の弟子、それに犬が沈む太陽に向かってハイキングしていた。

驚くべきことは、現代においても、厳密な条件下でカーヤ・カルパの処方を用いたヨーギーの達人たちの多くが、数百年生きていることである。このような成功の一例が、T・S・アナンタ・ムールティの『Tapaswiji: the Saint who Lived for 185 Years』に丹念かつ詳細に記録されている(この本は後にDawn Horse Communion社から『Maharaja』の題名で米国で出版された)。これは1770年に生まれ、1955年まで生きていたパティアラの王子、クリシュナ・シンの物語について述べている。デリーにおけるムガール帝国最後の皇帝であるバハードゥル・シャーとの外交使節の帰路に、五五歳だったクリシュナ・シンはいきなり、ただ神のみを求めるためにその肩書を放棄することを決めた。突然、シンは乗っていた馬を止めて下りると、馬を木につなぎ、鎧を脱ぎ、この馬と鎧を見つけた者は自分のものとすることができると書き残して去った。シンはガンジス川がヒマラヤから姿を現す場所の近くにある河岸の上にある聖者の聖なる村、ハリドワールへと歩いて行き、そこの達人たちの導きのもと、極めて真剣にヨーガを修練し始めた。

数年後、頑強な体格、 神を理解したいという強い志、そして鋼の意志力に恵まれ──そしてヨーガの修行の実践に関する深い知識と技巧を得て──シンは遊行僧として新しい人生を始めた。連続して何年も、シンはヒマラヤの洞窟で集中的なヨーガの修行活動に従事した。このような長く、集中的な実践はタパスとして知られており、その目的は人間性のあらゆる弱さを克服し、私たちが持つ究極の潜在能力を実現することにある。それからシンは1500マイル以上を歩いて、ビルマの南端に達してから、北東インドのアッサムに戻った。

僧侶になってから30年後、老いてか弱くなった偉大なヨーガの達人、このタパスウィジ(訳注:尊敬されているタパス行者)は、自分のように激しいタパスに何年も関わってきた、見た目の若い、聖なる苦行僧と出会った。この苦行僧は、1年にわたるカーヤ・カルパの治療による肉体的な若返りを、クリシュナ・シンに提案した。シンは同意し、翌年、草でできた小屋で暮らした。毎日、その恩人が、少量のカーヤ・カルパ薬を持ってきた。その年、シンはヨーガの瞑想でその疲れた体を休めた。数ヶ月の内に、シンの髪の毛は黒くなり、新しい歯が生え、肌が柔らかくなり、視力が高まり、体は強さを取り戻した。1年後、シンは30歳に見える姿で小屋から出てきた! 

クリシュナ・シンはヒマラヤに戻り、長きに渡って厳しいヨーガのタパスに励み続けた。そのうちの一つは14年におよび、その間、サマーディの無呼吸の状態で洞窟の中に立ち続けた。シンが洞窟から出ると、中に入ったときにはとても小さかった洞窟の入口にあった木々がとても大きくなっていた。シンは、自分よりもさらに年長の素晴らしい聖者たちに出会った。この長く、詳細な物語の中で最も驚くべきことの一つは、5000年前に、バガヴァッド・ギーター、クリシュナの「神の詩」に描かれた有名なクルクシェートラの戦いで敗者の側にいた将軍であるアシュヴァッターマーとの二度の出会いに関わる。

クリシュナ・シンは、さらに二度カーヤ・カルパの治療を受けた。有名になったシンは、二人の学者の関心を引き、二人は1937年にカーヤ・カルパの治療を施して欲しいと望んだ。シンは快く同意した。1年の治療で、二人の見た目は30歳若返った。二人の写真はインドの数多くの新聞で取り上げられた。タパスウィジは1955年まで生き、その時間の大部分をバンガロール近くのアシュラム(訳注:修行所、僧院)で過ごし、一85歳で亡くなった! 

クリシュナ・シンの物語は唯一無二ではない。私は、三百歳以上だとされるデオハラ・バーバを含め、何人かの長寿のシッダに会ったことがある。バーバは、私が会った中で一番年老いた人物に見え、背は曲がり、肌は皺だらけで、真っ裸だった。これは1986年、ハリドワールのマハー・クンバ・メーラで48日を過ごした時のことだ。そこで、主に自分の洞窟を出てヒマラヤからやってきた二万五千人以上のナーガ・バーバ(裸の苦行者たち)と十万人の隠者と僧侶が、千二百万人の信者たちと会った。これは12年おきに行われる素晴らしい集会である。

2002年に、私は別のバーバ(隠遁した僧)であるバルファーニ・ダダージと、マディヤ・プラデーシュ州のインドールにある彼のアシュラムで数日を過ごした。バルファーニは雪で覆われる者、そしてダダージは愛されるおじさんを意味する親愛表現である。バルファーニ・ダダージは、二百五十歳以上で、多くのシッディ(訳注:超常的な能力)を持っているとされている。私が会った中で間違いなく最も落ち着いた人物だった。ベランダに腰を下ろし、数分ごとに支持者からの電話に応え、「アチャ、アチャ」(はい、はい)と応えていた。その落ち着きを乱せるものはありえないように思えた。

翌日の個人的なインタビューで、私の妻ドゥルガと私に、彼はチベットとの国境にあるシヴァ教徒の聖地であるカイラス山高くにある洞窟で1929年から1962年までどのように暮らしていたのかを話してくれた。そこにいる間にダダージは伝説のシッダで、最初にパラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』で明かされたクリヤー・ヨーガの創設者であるババジ・ナーガラージの弟子になった。ダダージはまた、カーヤ・カルパの治療を二度、どのように受けたのかを話してくれた。

興味深い一つの逸話が、彼の洞窟仲間についてのものだった。この人物は数百年洞窟に住んでいて、あまりに体毛が厚くなり爪が長く伸びたので、熊のように見えたというのだ! ダダージはこの達人について振り返りながら笑っていた。ダダージは、中国がチベットとインドのガルワールヒマラヤ地域を侵略した1962年に、カイラス山を去らなければならなかった。それでもダダージは何度かこの洞窟に戻っており、最近自らのグルであるババジと再会した。

神秘主義者たちの漸進的な成長

医学と精神科学は、シッダにとっては異なるテーマではない。お互いに情報を共有することで、シッダは両者を究めることができる。ただし西洋では、この二つの分野は長い間別物として取り扱われてきた。ゆえに、私たちはより慣れ親しんだ参考となる言葉でこの二つを比較対照することにより、シッダとはどのような人物であるのかについて、ある程度の理解を得られるかもしれない。

ヨーガのシッダは神秘主義者ではあるが、それ以上の存在である。神秘主義者(mystic)という言葉はギリシャ語のmuein(唇と目を閉じよ)に由来する。ただし、この二つの神秘経験を外向きに示すものは、一般人の一般的な主体と客体の二元性を超越し、万物の一体性を知覚する神秘主義者の内なる状態の一端を示しているに過ぎない。

一般的な意識状態では、一定で、永久で、無限である根源的な真実を知覚することはできない。その代わりに、精神が五感と思考、記憶、それに感情を通じて経験した客体を中心に収縮する。私たちは海面の波を見ているに過ぎないが、神秘主義者は海全体を見、その中に飛び込んで、超越的な至福と一体となる。海面の波のように、神秘主義者の経験の浮き沈みは現実だが、合一の喜びで現される唯一の存在、意識、至福についての神秘主義者の洞察と比較すれば見劣りがする。

さらに、神秘主義者という言葉は、少なくとも西洋の文献においては、一般に霊的成長の第一段階に限られている。魂には形が無いため、従ってルネッサンス以来西欧では、神秘主義の研究が、主体ー客体というコインの反対側に当たる、自然、言い換えれば客観的な現実の科学的な研究に大いに取って代わられてきた。ただし今日、客観的な真実の起源を探っている科学者の多くは、神秘主義の意義を評価するようになってきた。アインシュタインは、神秘主義の本質は、私たちが経験できる最も素晴らしいことであると述べている。それは科学の根源にある基本的な感情である。それは「成就・・・すなわち常識、合理的な訓練、あるいは学習では得られないという印象の詰まった、瞬間的で直観的な洞察」として定義することができる。

アインシュタインは、有名な相対性理論を発表したときに剽窃であると責められ、自己弁護として、自分の発見は演繹による合理的なプロセスを通じて得られたものではなく、無意識の内にひらめいた洞察によって浮かんだものであるとした。このような洞察は、神秘主義者の理解を特徴づけている。生命の霊的な次元との神秘的な交わりが簡単で日常的なものになれば、私たちは神秘主義者を聖者と呼ぶことができるかもしれない。少なくとも部分的には、聖者に対する一般的でエゴイスティックな見解が神の存在に対する認識に代わる。エゴイズムは、肉体とその感覚、感情、そして心の動きに対して同一化する習慣である。この誤った同化を捨てると、純粋な意識であるその背景が前面に出る。私たちは一般的なエゴの視点(「私は肉体である」あるいは「私は考えている」)を魂(我在り)や目撃者のそれに譲る。

目撃者は何もせず、何も考えず、何も感じない。それは意識そのものである。目撃者は単に在る。目撃者は物事が起こるのを、また思考、感覚、感情が去来するのを観る。魂、すなわち目撃者には形がない。それは純粋な意識である。それは主体である。心と自然は客体である。魂はこの活動のすべてを、無限で、永遠で、名前を持たない至高の存在である神から生じ、その中に消えるものとして知覚する。これは知的あるいは神学的な陳述(確信)ではなく、非常に個人的(直接的)で、恍惚的ですらある視点だ。

ただし、その明け渡しや霊交が魂の領域に限られている場合、いまだ神秘主義者は哲学的、神学的な区別を行う必要によって束縛されているかもしれない。神秘主義者は、知的なレベルで自分のエゴを明け渡すまで、そのような状態が続く。キリスト教徒の神秘主義者は、自身の信仰、あるいは自身の信心に言及し、その洞察をイエスやキリスト教の信仰に帰する。仏教徒の神秘主義者なら、神秘的な統合の経験を人に伝えられるような形に変えるために、「我思う」と言ったり、別の象徴的言い回しを用いたりするかもしれない。

ただし明け渡しが深まると、「私」や「私のもの」は次第に手放され、エゴは破壊され、人が考えること、言うこと、行うことのすべてに沈黙の意識が浸透する。心と知性が別個に戦い合うことはなくなる。強制したり、影響したり、抵抗したりする「私の」や「あなたの」はもはや存在しない。情報を集める必要もない。

人がどのようなテーマに関してもサマーディを通じて一体になれるようになると、存在の知的レベルで賢者となる。この状態で、人は主体と客体間の壁を越えているので、対象に根本的に精通した状態であらゆるテーマに入ることができる。人は客体と一体化している。

ただし、明け渡しが存在のあらゆるレベルに達するまで、エゴはそこに留まる。常に転落の危険がある。欲望、嫌悪の情、生への執着は、苦しみを生み出しうる。私たちのより低い人間性の一部、特に──空想や欲望の座である──メンタル体のレベル、そして──感情の座である──生気体のレベルは、明け渡しが求める変容に抵抗する。

神秘主義者の明け渡しが深まり、五感の座であるメンタル体に触れると、人はシッダとなり、透視(時間的、空間的に離れたもの見る能力)、透聴(繊細な聴覚)、超感覚(繊細な感覚)をはじめとするシッディを示すようになる。神秘主義者は予言を行い、病人を治す能力を現し、直観的な洞察によって他人の過去を知るようになるかもしれない。これはシッディが集中の対象となる過去、未来、あるいは客体のあらゆる側面とより深く霊交する状態に入る能力を与えてくれるからである。

数少ないシッダが、存在の生気体レベルにおけるエゴの明け渡しに成功している。このようなシッダは、物理的な自然自体が関わるシッディを現すことができるマハー・シッダ(偉大なシッダ)になる。具体的には物の物質化、空中浮遊、天候の支配、願いの実現、そして透明化が含まれる。ご本人の話によると、シッダ方は主にインド、チベット、中国、それに東南アジアで暮らしてきているが、世界中を旅してきた。

21世紀にはこのようなシッダの例が数多くある。たとえば、パラマハンサ・ヨーガナンダの『あるヨギの自叙伝』、ニーム・カローリ・バーバの物語である『Miracles of Love』(愛の奇跡)、スワミ・ラーマの『ヒマラヤ聖者とともに 偉大な霊性の師と過ごした日々』、T・R・トゥラシラムの『Arut Perum Jothi and the Deathless Body, the story of Ramalinga Swamigal』(アルートゥ・ペラム・ジョティと不死の肉体:ラーマリンガ・スワミガルの物語)、サトペレムの『Sri Aurobindo: the Adventure of Consciousness』(シュリー・オーロビンド:意識の冒険)、それに上述の『Tapaswiji: the Saint Who Lived for 185 Years』(タパスウィジ:185年生きた聖者)が挙げられる。このような話は、イエスの奇跡は唯一無二のものではないことを示している。しばしば目撃者の話は、感動的であると同時にユーモラスだ。

ティルマンディラムは、十の下位区分を伴う、魂の三つの主要なカテゴリーを示している。進化の体系において、シッダ・ティルムーラルは、カルマ、マーヤー、エゴイティ(エゴ)の三つの不純を捨て去ることで、どのように魂が次のレベルに上昇するのかを説明している。真の悟りを開いた者は、この三つのすべてを完全に捨て、神とひとつになる。

肉体的な不死は神に対する完全な明け渡しの道の単なる副産物であり、目的ではない。

マハー・シッダは物理的なレベルでエゴを明け渡し、自然自体を制御できるシッディを現す。最も真面目なヨーギーも、「魂─意識」対「肉体─世界」の対立という従来のパラダイムに縛り付けられている限り、これを想像することが難しいことに気づく。ここで私は、肉体の細胞が新陳代謝という限界を超えて、シッダの大いに拡張された意識の方向の対象となる、エゴの浄化の高度な段階について述べている。この意識の黄金の光で輝いている肉体は、病や死の影響を受けなくなる。

パタンジャリは、意識の根源に対して繰り返し還ることによって、肉体と心を自身と同一化する旧来の習慣が完全になくなるまでは、エゴが聖者やシッダさえも欺くことができると語っている。たとえば、大衆の関心を引くために、自分の特別な能力を利用するかもしれない。ただし、肉体レベルでも明け渡しが起こってしまえば、エゴは永遠に消え去る。人はすべてに浸透するものである「それ」、純粋な意識のみと一体となるため、文字通り「特別でないもの」になる。

長い歴史の中で、この状態に至ったシッダがいる。過去も現在も、このようなシッダは自分たちの身体、自分たちの権力、自分たちの経歴、自分たちの活動にまったく価値を置かない。そのようなものは「自分たち」のものではないからである。このような悟りを開いた存在は、聖なる力と光の道具であり、彼らの中ではたらくすべての行動と休息は、あの聖なる力の結果である。だからこそ、シッダが何をしたのかについてもその個人的な生活の詳細についても私たちが確たることをほとんど知らないのは決して偶然ではない。彼らが身に付けた智慧を私たちに残すためにものすごく苦労したので、私たちはその智慧の教えを確かに知っている。彼らが最も大切だと考えるのは、究極のリアリティ(実在・現実)のこの意識、この智慧、この経験である。なぜならば、それが「天の王国」に戻るための道を示すからである。

シッダは、無限とも思える期間、同じ肉体に留まることを求められるかもしれない。別の体に転移したり、非物質化したり、イエスのように帰天したり、同時に二つの別々の場所にある複数の目に見える肉体にいることを求められるかもしれない。

私たちには、1823年に生まれ、1874年に紫色の一閃の光と共に実に劇的にこの地球から肉体が「消えた」ラーマリンガ・スワミガルの、詳細に記録が残された例がある。その肉体は影を落とさず、完全に不死身で、専門の写真家が繰り返し試みたにもかかわらず、団体と共にポーズを取ると、写真撮影することができなかった。以降、ラーマリンガ・スワミガルは、困っている信者を支援するために、時々姿を見せたという報告がある。現在まで、南インドの子供たちと信者は、その「至高の恩寵の光」の道を讃える、四万以上の彼が書いた詩や歌を歌っている。

私たちには、『あるヨギの自叙伝』と『The Voice of Babaji: A Trilogy of Kriya Yoga』(ヴォイス・オブ・ババジ)に述べられるクリヤー・ババジの例がある。さらに、肉体のレベルにおける明け渡しのプロセスと不死のさまざまなかたちに関する詳細な説明を残したシッダ・アガスティヤ、シッダ・ボーガナタール、シュリー・オーロビンドによる記述がある。ミルチャ・エリアーデが『ヨーガ:不死と自由』に書いたように、シッダは「自由を不死の獲得として理解した」。

このエゴを明け渡すプロセスが存在の知的なレベルを完全に包含すると、神秘主義者はしばしば、教典の権威を強調しなくなる。自身の経験が、その真実に関する最高の権威となる。シッダは、自身が教義、教典、あるいは儀式に熱狂することを許さない自由思考家であり、革命家である。個人的に物事の根源に至り、そこに真実を見出し、教典の命じるところにもはや縛られないため、シッダは、言葉の真の意味における急進派である。

宗派はシッダにとっては重要ではない。シッダはあらゆる信仰を持つ者の中にいても心穏やかである。その真理に対するアプローチは、まずサマーディ(三昧)でこれを経験してから、次第に完全にこれに対して明け渡し、遂にはこれが悟りの状態における彼らの意識の一定の状態になるようにする。シッダは哲学や宗教的な信仰の体系を構築しようとしない。シッダの詩は共有された意見や集団思考の跡を示さない。真理に関するあらゆる表現に価値が置かれる開かれた哲学である。その詩や歌は一切の教義を教えない。ただ聖なる真理の直接的で、直観的で、個人的で、深遠な実現に対する欲求を現実化することができるような方向を示しているだけである。

シッダは、衝撃を与えることによって人々が伝統的な道徳やエゴ的な妄想から抜け出るように、力のある、その土地の言葉を用いた。聴き手に届くように、シッダはエリート主義的なサンスクリット語ではなく、人々の共通の言語を用いた。彼らは聴き手に対して、寺院崇拝や儀式、カースト、執り成しの祈りのような、偽りの空しい信仰や習慣に対して反抗するよう励ました。

シッダの社会的な関心

真我実現に至った人物は、神を自分自身だけでなく、あらゆる存在の中に見出す。その平等性が、シッダが規定する四つの道、すなわちチャーリヤ(無私の奉仕、あるいはカルマ・ヨーガ)、クリヤー(外部・内部での崇拝、あるいはバクティ・ヨーガ)、ヨーガ(特にクンダリニー・ヨーガ)、そしてジュニャーナ(智慧または真理の知識)を統合する。

霊的次元でのあらゆるものとの統一を理解し、その平等性は哀れみに満ちている。すべてを自分自身として見、自分だけの救済に没頭しない。他者の苦しみを引き受け、その苦しみに支配されることなく、その解放のために働く。その喜びを皆と分かち合うことを望み、シッダたちは、シッダのアルパダイ(他者に道を示す)の教え、すなわち私たちは何をしなければならず、何をすることを避けなければいけないのかを体現する。

シッダ、すなわち完成した賢者は、「生物すべての向上のために働(き)・・・最高の境地への解脱に達する」(バガヴァッド・ギーター、第5章25節)。完全なヨーギーは、孤立した象牙の塔で真我について瞑想している孤独な人間ではない。完全なヨーギーは、この世界の善、そしてこの世界の神のための、いろいろな側面を持った普遍的な働き手である。このような完全なヨーギーはバクタ(神を愛する者、帰依者)であるため、あらゆる者の中に神を見る。彼の行動は、合一の至福を忘れさせることはないため、彼はまたカルマ・ヨーギーでもある。従って、彼はすべてが神から生じることを知り、その行動はすべて神に向けられる。

シッダの歴史的な文脈

上に述べたように、ボーガナタールのような数名の著名な例外を除き、シッダは詳細な伝記を書かない。あらゆるものと一つとなり、シッダは以前の小さな自我に言及したり、何か特別なものとして自己紹介したりする必要を感じない。特別であることは自動的に私たちを神から分離する。そしてシッダはしばしば名前を変え、意のままに新しい体に乗り移ったため、多くの場合、誰が誰であるのかを知ることは難しい。どの歴史上の期間に生きていたのかを決めるには、その著作物の中にヒントを求めなければならない。

現在まで、私たちのシッダの著作の研究は、その多くが西暦紀元前の数百年から、シッダ文学が開花した紀元13世紀頃までの間に生き、著作の筆をとったことを示している。鉄のペンで、シッダたちは、世界で最も古い言語の一つであり、一億人以上のインドのタミル人、そして北スリランカではいまだに話されている南インドのタミル語で、ヤシの葉にその教えを刻んだ。教えは詩的に、しばしば曖昧な韻文として書かれたが、これはシッダたちが故意にその最も深い意味を素人に対して曖昧にしたためである。おそらく、シッダによる最も偉大な文学的作品は、ティルムーラルの三千行からなるティルマンディラムだろう。これは詩的な韻文で書かれた、ヨーガ、智慧、哲学、神学、形而上学、倫理学、深遠な精神科学の百科事典であり、インスピレーションと神への献身で充ち満ちている。これはおそらく紀元四世紀までには完成しているが、学者の中には、紀元前に書かれたとする者もいる。

ボーガナタールの膨大な著作は、シッダに関する伝記的および歴史的な詳細についての最大の情報源となっている。ボーガナタールは、科学的な精神を備えており、自分が知っている他のシッダについての数多くの個人的な情報を記録した。このような記録は二巻からなる「The Yoga of Siddha Boganathar」(シッダ・ボーガナタールのヨーガ)として翻訳、出版された。2000年以降、学者のチームが、シッダの著書の一部を、先ずはヤシの葉の原稿から近代的なかたちのタミル語に書き写し、そして数百の選ばれた詩を注釈付きで英語に翻訳してきている。これは現在六巻で出版されている。

このような作品の研究は、歴史学者の必要を満たさないかもしれないが、このような詩作を行ったシッダの目的である、クンダリニー・ヨーガの実践を通じた神の探求に、私たちを駆り立てる。

私たち人間の最高の可能性を熱望して

ヨーガ・シッダにより私たちに与えられた智慧の教えとクンダリニー・ヨーガの実践は、人類最大の遺産であると、多くの人々が考えている。スワミ・ハリハラナンダ・アランヤは、「もし人類の知識の目的が人間の苦しみを取り除くことであれば、苦しみを完全になくす知識こそが最高の知識である」と述べている。シッダの教えは実践的な性質を持ち、肉体的、精神的な病を癒し、予防するだけでなく、最終的には人間の最高の可能性を得たいと強く願うように私たちを導く手段として、ヨーガの科学的な技法を用いることに重点を置いている。これには、私たちが善であり、善を行うという可能性を実現することが含まれる。シッダの神の概念は「善」、そして「絶対的存在・意識・至福」である。私たちが皆、それを熱望しますように。

第三章 欲望の分析:霊的自己認識を通じて感情のバランスを生み出す

自分の欲望がそれほど抑えがたいのはなぜかと考えたことがあるだろうか? 予想外の障害によって望むものが得られない時に、どうして突然いらだったり、ましてや怒ったりするのか? その結果としてのフラストレーションによって、どうして疲れているときには落ち込み、自分が強いと感じているときには攻撃的になるのだろうかと考えたことはあるだろうか? 自分の思考が感情に依存していると気づいたことはあるか? 人生で小さなことに一喜一憂していることはないか? ほとんど、あるいはまったく理由もなく、繰り返し文句を言っていることはないか? 何が自分を興奮させるのだろう。退屈で、無気力になっていると感じるのはなぜだろう。

自分の人生の達人になりたいなら、欲望とそれによる感情があなたの中でどのように、なぜ生まれるのかを理解しなければならない。あなたはこのような感情に対して責任があるのだ! そしてあなたはそれにどのように対応するのかにも責任がある。だが欲望の分析を理解することは第一歩に過ぎない。理解の後にくるのは、精神的そして感情的な幸福を育てられるように、あなたの人間としての性質を変える上で必要な作業である。

あなたは誰なのだろうか? 微細体の分析

感情的な幸福を育てることは、まず基本的な質問、「私は誰だろうか」から始まる。私たちが苦しむのは、肉体、移りゆく感情、思考と自身を同一化するからである。ある程度の内省を行ったあと、自分はここに一分あって、次の一分にはいなくなってしまうような何かではないということに気づく。私たちの身体、感情、思考は絶えず変化している。私たちは常に存在し、決して変わらないものにしかなれないのだ。

あなたのどの部分が常に存在しているのだろうか? あなたのどの部分が決して変わらないのだろうか? 悟った者は、実際にはあなたは内側で意識している目撃者、つまりあなたの人生のドラマを内で見ている者であると語っている。それは「我在り」という思考の背後で知覚される。「私はこれ、あるいはあれ」ではなく、単に「我在り」である。事実、霊体は形を持たない、時間を超越した存在の中核である。それは秘密の心霊的存在であり、あなたの中にある聖なる要素である。それはまた、あなたが意識して完全に魂と一体化するとき、真理、善、真の喜び、そして存在の美を知る者として、あなたのガイドにもなる。こうして、心・命・体は道具としての本来の役割を担うようになる。

あなたはコーシャとして知られる五つの乗り物を使ってこの世界を動く。これはエネルギーの鞘のようなもので、それぞれが独自の周波数、濃度、特徴的な動きを持っている。すなわち肉体、生気体、メンタル体、知性体である。ヨーガによれば、人間の解剖学的構造は、私たちの肉体に限定されているわけではなく、実際には粗大なものから微細なものまで、同じ軸を持つ数個の体あるいはエネルギー意識の数個の鞘で構成されている。

一、肉体すなわちアンナマヤコーシャ(「アンナ」は食物を意味する):それ自体の意志は持たないが、意志に逆らっても行動する、細胞レベルでの身体意識を含む、人間の物質的で、目に見える部分

二、生気体、すなわちプラーナマヤコーシャ:欲望、感覚、感情、情熱、行動のエネルギー、欲望の意志、所有などの関連する本能、怒り、恐れ、貪欲、肉欲、悲しみ、喜び、憎悪、嫌悪、誇り、小さな好き嫌い、好みなどで構成される人間の性質の分野。メンタル体と生気体は、意識の表面では混ざり合っているが、本来は別々の力である。

三、メンタル体、すなわちマナマヤコーシャ:感覚の心。認知、五感を通じた知覚、物事に対する思考の反応、アイデアを実現するための精神エネルギーの放射、言語能力を通じたアイデアの表現に関わる部分。

四、知性体、すなわちヴィジュニャーナ・マヤコーシャ:理智的な心。記号、兆候、そして集められたデータからアイデアを分析、合成、構築する部分。心は知性の従属的な力である。心は、すべてを統合するワンネスを忘れて、人やものをそれぞれ別の離れたものであると認識する。それでも、超越を通じて啓蒙が起こると、あなたはワンネスのヴィジョンに戻ることができ、すべての名前と形の根底をなす究極の真理と現実を再び意識するようになる。

五、霊体、すなわちアーナンダマヤコーシャ(「アーナンダ」は至福を意味する):永遠の真の存在、すなわち個人の真我。霊的意識では、私たちは真我、すなわち魂を意識するため、すべてのものの中にその本質的な真実を、そして本質的な真実から生じる力や現象のはたらきを見ることができるようになる。

五つの体は絶えず相互に交流しあう。ただし、私たちの意識はその作用に吸収されるため、私たちは普段、その動きを無視している。それぞれの機能を見分け、区別する能力は、瞑想と認識の訓練を毎日実践することで次第に育てることができる。

エゴイズム:あなたの粗大および微細な解剖学的構造の乗り物との誤った自己認識の事例

最初の四つの体は私たちの霊体の乗り物に過ぎない。さらに、これは絶えず変化する。感情、思考、肉体的な感覚の繰り返しが、永久不変という幻想を生み出すが、実際にはこれらの体に関連するもので永遠のものはない。神経系が未発達なため、自分が進む先にある障害が取り除かれても数秒間気づくことのないカタツムリのように、人間の脳はすべての現象の根源的背景、すなわち意識のエネルギーに気づくことができない。結果として、私たちは誤って自分ではないものを自己と同一視してしまうのである。

この限界はエゴイズムとして知られる。それは、身体感覚、感情、感覚、思考が常に反復され、永久不変の幻想を生み出すために、これらと同一化する習慣である。従って、もし私が身体、感情、心であるならば、こうしたものが快楽を感じるように、あるいは苦痛を避けるようにすることが何であれ、私の第一の動機となる。行動、言葉、思考は、十分なほど頻繁に繰り返されると習慣となり、結果として、私たちは習慣的な好き嫌いを持つ。従って、たとえば私たちがアイスクリームを食べるといった特定の活動に関わりたいという欲望を感じたり、特定の感情を経験したいとか、ある記憶をいつまでも考えていたいという衝動を感じたりした場合、「私は」この行動、感情、あるいは記憶「である」という感覚と共にそれが行われることになる。私たちは、「これをしなければならない」、「私は考える」、「私はこの感情を抱いている」といった言葉で心が欲望の衝動をオウム返しに繰り返すのを耳にする。

欲望と感情の座である生気体を認識する

私たちは基本的に動物であるが、完全を頭に描き、自分の不完全さを認め、この二つの整合を取るために戦略を編み出し、意志力を働かせることを可能にしてくれる進化した神経系を備えている。ただし他の動物と同様に、私たちには欲望と感情の座である生気体がある。欲望は、基本的に生気体の現れである。

肉体より微細だが、メンタル体よりも粗大な生気体は、そのエネルギーで私たちに活気を与える。私たちの存在のそれ以外のすべての部分の機能に常に浸透し、影響を及ぼし、害を与えさえする。生気体は、それ自体に行動に対する有効な潜在能力をすべて含む、複雑な人間の性質の一部である。私たちの活発な衝動、ほとばしる熱意、そして情熱の座は、そこにある。

私たちは、無感動、悲しみ、恐れ、誇り、怒り、肉欲、勇気、あるいは愛に対する欲求や他人からの受容などを感じるたびに、生気体を意識するようになる。

実際には、このような感情にはそれぞれ、数多くの明確なバリエーションがある。これは愛されたい、あるいは支配したいというエゴの欲求から生じる。この数多くの種類の感情が欲望となるのは、感情から離れて私たちの幸福に対して感情が生み出す根本的な動揺を認識するのではなく、空想したり、その感情を実現するための行動に身を委ねる時である。悟りを開いていない人間性の通常の現れと対照的に、自分の悟りの状態を説明するように求められた時に、20世紀の偉大な賢者、ラマナ・マハルシが述べたこと、すなわち「今はもう私を動揺させるものは何もない」を振り返ると、教えられる所が多い。

生気体の気分が乱されると、以下のような重大な結果に至るかもしれない:

・理由のない悲しみや悲嘆
・不平不満
・私たちの願いに対するごくわずかな妨げによって生じる怨恨、焦燥感、むっとした態度
・心理的な攻撃性に向かう傾向
・欲望の実現に対する障害により生じる平衡心の乱れ
・他人からの賞賛への期待
・針小棒大に言う傾向
・他人の悲しみや苦しみに対する病的な喜びやよこしまな心酔
・私たちが既に克服した内面的な欠点の回顧
・霊的な生活から魅力や固有の至福を奪い、乾いた砂漠に変えてしまうこと
・習慣的な欲望を除去するための霊的な向上心や努力に対する抵抗

ただしプラスの面では、生気体は、認識力は持たないが常に人生の経験に喜びを求める。

生気体の視点から見た人生

生気体の一般的な経験の例は以下の通りである:

一、あなたの配偶者が、あなたがやることを忘れた何かについて文句を言った瞬間に、あなたの生気体は罪悪感を感じ、防衛的になる。

二、空港で、あなたのフライトがキャンセルになったとアナウンスされたあとで、あなたの生気体は不安を感じる。同時に、あなたの知性体が「ではどうしよう」と語る。それから「誰それに電話する必要がある」と。

三、肉体的な飢えが襲い、弱さもあって、生気体が焦燥感や神経の高ぶりを感じるようになる。

四、愛する人の死を思い出して、落ち込みを感じ、次にこれを埋め合わせるものとして何か食べるものを探す。死後の生について思い巡らしていることに気づく。

五、テレビであなたのお気に入りの政治家についての誰かの扇情的なコメントを聞いて、あなたの心が、何が言われたのかについて議論を始め、生気体がいらだちの感情を解放する。

六、時計を見て、自分の心が「遅れる」と言うのが聞こえると、あなたの生気体は、焦燥感の衝動を解放し、もっと早く動くようにプッシュする。

七、社交的な集まりで、あなたは興奮し、他の人と話していて楽しい。あなた自身の生気体はあなたが話をしている相手と交流し、このような感情の多くを共有している。この交流によって、あなたはさらに話し、もっと飲み、少なくとも一時的に、何日も感じていた落ち込んだ気分を中断することができる。あなたは他人の生気体の感情を自分のものとしている。

八、あなたのルームメイトは退屈し、落ち込んでいる。あなたも退屈し、落ち込んでいる。結果として、あなたは俳優たちが表現する感情に移入し、あらゆる生気体の衝動を刺激するテレビを何時間も見て過ごし、退屈を軽減している。

前述の例で、私たちは時に生気体が肉体、メンタル体、知性体が関わる連鎖反応を始める(例七および八)こと、しかし時には知性体が生気体を含む他の体の反応を起こさせる(例五)ことが分かる。ほとんどの場合、メンタル体がこの連鎖反応を始める(例一、二、六)。あなたは何かを見るか、聞くか、嗅ぐか、味わうか、感じるか、あるいは自分がすることを想像する。たとえば、今度のデートで何が起こるのか妄想し、興奮、恐怖、あるいは肉欲を感じ始める。肉体が生気体の反応を引き起こすこともあるし(例三)、また逆が起こる場合もあることも知っておくべきだ(例四)。

連鎖反応をその根源まで遡っていくことで、私たちは習慣的な反応によってそのような反応をしているのか、そしてそうだとすれば、どのようにして苦しみの根源を癒せばいいのかを判断できる。五つの体の間の相互作用を認識することは、自己探究と欲望の浄化の第一歩であり、これについては後の章で検討する。まず、制御されていない生気体の情熱による潜在的な損害から、その構成員を守るために、どのように社会が組織されているのかについて見ていこう。

生気体の欲望を抑圧すること、表出させること、飢えさせること

生気体は識別を欠いており、人間は自分たちを社会的に組織化し始めると同時に、生気体の衝動や欲求を抑制するための規則や法、道徳律を制定し始めた。そして以降ずっと、人間はその時代の社会規範に順応するために、その感情を抑圧しなければならなかった。今日、多くの心理学者や療法士が、このような抑圧の結果を癒すことを求める個人を支えている。

私たちは、トークセラピーや現代心理学の無数のそれ以外のアプローチで、自分たちの感情を表明するよう励まされる。感情の表出は、少なくとも私たちの行動を社会の規範に順応させる上で、抑圧よりも優れていると考えられる。だが、それはあるところまでである。そこを超えると、生気体の衝動は、物質主義的な西洋文化の病態となる。その高僧である精神科医──この言葉の元々の意味は魂(プシュケー)の医師である──は、私たちの感情のジェットコースターと自己破壊的な傾向を制御するために、処方薬に大きく頼ってきた。精神科医は、プシュケー、すなわち魂の苦しみを癒すというより大きな負託に応えることについて、おおむね失敗してきた。私たちの大多数は神経症に悩んでいる。人類の歴史で、これほど多くの人々が自分たちの欲望を処方薬によって支配しようとしてきたことはない。アルコールや違法薬物は、依然として選ばれている市販の気分転換薬であり、テレビ、ソーシャル・メディアなどの大衆娯楽がこれに続く。

修道院や隠遁所で生気体の支配から完全に自分自身を解放することを追求した、宗教的でスピリチュアルな達人の間で支配的な戦略は、生気体を飢えさせることだった。長い隠遁生活を送ってみるまで、あなたはそれに何が関わるのか、あるいはあなたの人生で、生気体とその下にある欲望がどれだけ中心的な役割を果たしているのか分からない。

これからお話しする伝統的でスピリチュアルなアプローチを取り入れよう。テレビを切り、スマートフォンとコンピューターを閉じて、沈黙を守り、断食し、数日いつもの気晴らしを避けてみよう。家でもできるが、どこか別の場所、できれば遠くに行ってやる方が良い。生気体は、気晴らしに対する絶え間ない切望であなたを絶えず誘惑し、あなたが抗うと、のどが乾くような退屈の惰性の中にあなたを投げ込む。だがこのアプローチは、強力な変化をもたらしうるのだ。

スピリチュアルな志願者たちは瞑想を通じて、自分たちの生命のエネルギーを新しい側面、見るものの側面へと向けることを学ぶ。このような志願者たちは、スピードを落とし、落ち着きを育て、やり続ければ、欲望や習慣的な行動から自分自身を浄化することができるようになる。しかし、それは長いプロセスであり、数日は言うに及ばず、数週間もこの世を離れる意向や忍耐力を持つ者はほとんどいない。

生気体の欲望の克服

人間性によって、私たちは同じ課題と変化に対する同じ抵抗を突きつけられるが、現在、私たちには生気体の欲望を支配するために、この世界とのつながりを断つ必要はない。自分の中のエゴイズムと欲望を霊的に浄化するために必要な知識、技法、霊的な智慧はすべて、書籍あるいはオンラインで利用することができる。

残念ながら、私たちの多くはいまだに、天罰やカルマ的な応報の恐れを駆り立てることで私たちを支配しようとする組織化された宗教の影響下にある。前に記したように、宗教は外面的形式、すなわち個人、象徴、信念体系、儀式、建築などに重点を置いている。霊魂は形を持たない。従って、どうしたらそれを伝えることができるだろうか? どうしたら理解出来るだろうか? 

人は内側に目を向け、生気体やメンタル体の叫びを沈黙させることを学ばなければならない。霊に属するものは、私たちの外部で得ることはできない。霊的なものは、永遠の至福の状態で存在し、常に私たちの中にある。だが私たちは、生気体とその配下である欲望によって気を逸らされ、催眠状態にあるため、それを無視している。スピリチュアリティ(霊性)は、外部のものを獲得することとは関係ない。私たちではないものを放棄し、本当の私たちでいることと大いに関係がある。

スピリチュアルな志願者の多くは、このことを理解していない。私たちのあわただしい生活の一瞬一瞬に、生気体の欲望とメンタル体の空想の衝動を支配することによってのみ、私たちは精神的・感情的幸福に至ることができるのだ。この無知は、既に見てきたように、組織的な宗教のみの過ちではない。これは現代の「スピリチュアル物質主義」の結果でもある。私たちはスピリチュアリティを、特別になる、あるいは特別な経験をする必要性だけではなく、視覚的・心霊的な経験や能力、あるいは肉体を持たない存在とのチャネリングやその他の感覚的な状態と混同している。

だがあなたが実際にスピリチュアルな道を歩み出すのは、特別ではない者になり、特別なものは何も経験しない準備ができた時のみである。なぜならあなたが特別であれば、他の人から切り離されているからだ。あなたが霊的次元ですべてと一体となると、あなたはもはや分離しておらず、特別でもなくなる。特別であることを好むのはエゴのみである。どんなに霊的に進化していようが誰か別の特別な人を見つけることによって、あなたの生気体の神経症を治すことはできない。

成熟した総合的な霊的アプローチにおいては、私たちは生気体の動きを落ち着かせ、その動きをもっと意識するようになり、生気体を抑制するために賢明な理性を用い、最終的にはその活力を真・善・美である神を実現するための活動に役立てることによって、生気体を変えようとする。これらの遠くの峰、例えて言うなら永遠という魂の視点の地平線上にあるものだが、これらを垣間見て、私たちは生気体を神の純粋で完全な道具に変えることを目指す強い志を育む。辛抱、忍耐、不屈の意志の基礎を築き、スピリチュアルな志願者は、修練すなわちサーダナの以下の段階を進むことになる。

一、あなたの内なる経験の場を注意深く観察する。衝動、感覚、感情が生じるのを認め、洞察により生気体が示唆する動き、言い換えれば反応によって何を達成しようとしているのかを特定する。むき出しで隠すもののない状態で、欲望、恐れ、誇り、落ち込み、所有欲、貪欲、絶望、支配欲といった感情を観察し、識別する。

二、マントラとして「行動でそれを現すな」を持ち続ける。自分の心の落ち着きを回復し、内なる自由を完全に取り戻すまで、衝動的な生気体の命令を行動に表さないと固く決意する。「私はそれをやらない」と繰り返す。成功が部分的なものであっても、最終的な勝利への道は開かれる。

三、目撃者の意識を築き上げる。あらゆる事象や状況にこれを触れさせる。落ち着いた無執着を育て、あなたの意識を奪い、あなたに白日夢を見させる思考、感情、欲望、衝動と同一化することを止める。

四、真我実現と感情的な幸福という目標を決して忘れることなく、生気体を諭す。「お前は一時的な情熱、空しく安っぽい快楽、あるいは一瞬の満足のために、克己と至福を投げ捨てている。なぜ些細なことを大げさにするのか」と告げる。

五、意志の力を用いて、感情の平衡に対する小さな課題から始める。強さが育つにつれて、次第に進歩する。意志の力を育てるには、(a)生気体の欲望と衝動を検知および認知するための能力である、明確な識別を育てる、(b)古典的でスピリチュアルな文献の研究とその中に表明される真理の深い省察を通じて、霊的な人生を発展させる必要性を確信する、(c) あなたが一番大切であると思うものの中にある神、もしくは真理、善、あるいは意識それ自体としての神に対する、変わることのない強い愛情を心の中に秘める、(d)生気体を完全に支配したいという変わらぬ熱望を目覚めさせる。

六、最初は瞑想時に、続いて日常の暮らしで、心を超えて、存在の霊的あるいは魂のレベルに達する。生気体の動きを変えるために、その力と光を喚起する。そのためには、心を観察し、次にこれを超越し、最後にこれを沈黙させる。生気体はいつも考える心を従えようとするので、心を超え純粋な観察者の意識の視点まで上がり、そこから、生気体の動きによる喧噪を落ち着かせる。心を静めたら、より高次の知性が、明確な方向と素晴らしい力で、あなたを通じて作用する。

七、あなたの奥底にある輝く生命力を呼び起こす。それと心の表面にある生気体の欲望に満ちた表面的な動きを置き換える。それは輝く聖なる力であり、安らぎ、強さ、至福に満ちている。このより高い力を、行動や反応の習慣的な場で起動する。

八、最後の一歩ではなく、すべての一歩に伴わなければならないもの、すなわち、その瞬間にあなたを困らせている生気体の衝動を鎮め、無効化するための神の恩寵を求めて、心から、しっかりとした、誠実な祈りを神に送る。このような恩寵に刃向かえるものはなく、もし祈りが誠実に表明されれば、あなたは決してその有効性を疑うことはできない。生気体の抵抗は、この力に長く耐えることはできない。

なぜ生気体を変えなければならないのか

あなたの魂は熱望を感じ、あなたのエゴは欲望を感じる。

私たちの魂は、真・善・美を熱望している。それらは、私たちの存在の霊的次元の中心にあり、私たちが魂の視点から物事を見ることができれば、あらゆる関係や経験の中にも存在しうる。私たちの魂は、多数の中に一者(神)を見ることを熱望している。私たちの魂は、「必要としている」、「欲しい」、「かわいそうな私」、「怖い」といったエゴから生まれた苦しみから自分自身を解放したいと熱望している。私たちの魂は、心が分離・分割されていると知覚するあらゆるものの根底をなす「実在」と再び一つになることを熱望している。

エゴの視点は袋小路であり、生気体はエゴの最も強力な下僕である。生気体は、その忠誠を切り替え、神そして真・善・美を実現するための熱意と完全に協力しなければ、絶え間なく欲望、障害、大いなる苦しみを与え続ける。これは、人間の性質が行うようにプログラミングされているものである。シュリー・オーロビンドの言葉によれば、「私たちは自身の人間性に対する革命が必要である」ということになる。

私たちは抜本的な変化に対する必要性ばかりでなく、変化の可能性を見ることができる。だが、これを現すには、空想して欲望の衝動や動きにふけったり、行動に現れたりすることを許すのではなく、これを識別しなければならない。欲望に、魅力あるいは嫌悪の念、貪欲、肉欲、退屈、恐れが関わるにせよ、自分が欲しいものあるいは欲しくないものを手にするにせよ、すべての欲望はエゴの罠であり、確実に苦しみをもたらす。あなたの自己認識を、何かが欠けていて、結果として苦しんでいる「小さな自分」に縮めてしまう。

長続きする幸せを、長続きしないものの中に見つけることはできない。見つかるのは私たちが、純粋な目撃者の意識として、連続した認識を通じて喜びを見出す私たちの魂の視点から、あらゆる瞬間を楽しむ場合のみである。そうしてはじめて、心霊的存在である私たちの魂が私たちを導き、より高次の力と意識をもたらすようになる。私たちが生気体の影響を取り除けば取り除くほど、私たちの心霊的存在、すなわち魂がその真理を私たちに伝え、大小のものごとで私たちを導くことができる。それは、私たちが多数の中に神を見出すこのより深い視点から物事を見るとき、日常的な状況で直ちに起こる。私たちは、無限の可能性を持ち、なおかつ欲望から解放された、永遠の今を生き始める。そして、悟りは、目的ではなく、あらゆるレベルにおける人間の性質の完全な変容の出発点となる。

私たちは仕掛品である。私たちは過渡的な人間性が持つ習慣的なパターンに屈する必要はない。私たちにはイエス・キリスト、ブッダ、ラーマクリシュナ、ガンジー、ババジ、ラーマリンガ、シュリー・オーロビンドを含む、神との一体化を果たし、人間的な成就をもたらす道を私たちに明かした数多くの偉大な人々の輝かしい例がある。私たちが自分の聖なる可能性を実現したいと熱望するとき、その実例と智慧の言葉が私たちを導き、インスピレーションを与えますように。


第四章 平衡:人生が動揺をもたらすときに平静を保つ

存在の五つの段階のすべてを含むヨーガの最初にして最後の目的は冷静である。平衡は、自分に望むものあるいは望まないもの、成功あるいは失敗、賞賛あるいは叱責、快楽あるいは苦痛、仕事あるいは遊び、支援あるいは反対など、人生のあらゆる二元性を人生がもたらそうとも、動揺の原因に直面したときに落ち着きを保つ、言い換えれば平静なままでいることである。ラマナ・マハルシが自分の悟りの状態を説明するように求められたときの有名な答えが、「今はもう私を動揺させるものは何もない」である。おそらく、質問をした者は、時空を超えた銀河間の第六次元の説明を期待していたのだろう! これは私のお気に入りの悟りに関する説明だ。人生の難題に直面した時に、私たちがそれぞれ何をしなければならないのかについて、地に足の着いた、学ぶことの多い説明になっているからである。

今日、悟りという言葉は濫用され、誤解されている。悟りは、真我実現の確固とした永久的な状態である。従って、人間性の霊的次元に限定されている。ただし病んだ肉体や心における悟りは完全ではない。イエスは、その弟子に「だから、あなたがたは・・・・・・完全でありなさい!」(マタイ5:48)と説いている。シッディ(完全)は、シッダーンタ(ヨーガ・シッダの教え)の目標であり、指導原則である。これは生の霊的次元のみに注目し、その目的には私たち人間性の肉体、生気体、メンタル体、知性体の変容を含まない他のほとんどの伝統から、ババジのクリヤー・ヨーガのような総合ヨーガを区別するものである。

あなたがヨーガの探求を始める時、平静はあなたの最初の目的でないかもしれない。あなたはいわゆるスピリチュアル体験、フィジカル・フィットネス、減量、存在の意味、あるいはストレス解消などを求めて、簡単に我を忘れてしまう。このような目的はそれ自体価値があるが、平静がなければ、生気体やメンタル体の性癖とその圧倒的な影響を考えると、どれも長続きはしない。また教師や書籍は、しばしばスピリチュアルな道についての奇跡的な、あるいはロマンティックな概念を強調し、自分自身の実践からこのような経験が生じない場合、あなたは落胆、疑念、あるいは冷笑にさえ悩むことになるかもしれない。従って、ヨーガのサーダカ(生徒)として、なぜ平衡が最初の目的でなければならないのか、そしてどのようにそれを達成すれば良いのかを理解することが極めて重要である。

苦行者のようなライフスタイルを通じ、世界から自分を切り離そうと決意しない限り、存在の苦しみの問題を解決するために、無執着のみに頼ることはできない。禁欲的に、あるいは失望によるあきらめによって人生の困難を耐えるだけでは不十分である。また平衡は鈍い無知や強い無関心という単純な状態に留まることも意味しない。

真の平衡は、あらゆるものの統一を認識している高められた状態であり、この状態は力に満ちている。あらゆる現れているものの背後にある神の存在の具体的な経験に至って、はじめてこれを自分のものにすることができる。それに向かって進んでいくにつれ、あなたは分離されていると感じるエゴの視点、そしてエゴの申し子であるあらゆる欲望を手放さなければならない。だからといって、平衡を見出す前に、すべての欲望を浄化し、エゴがない状態になる必要はなく、エゴの視点である「私は肉体である」、「私は心である」、「私は感情である」からの無欲と解放に至る前に、平衡と平静を確立する必要もない。むしろ、平静と欲望の浄化は、密接に相互依存しているため、一緒に発展していく必要がある。

古典的なヨーガは、三つのグナ(自然の質あるいは様態)によりどのように影響されるのかを認識する(インドの六派哲学のうちの一つである)サーンキヤに基づいている。三つのグナとは、タマス(惰性、疑問、疲労)、ラジャス(落ち着きのなさと欲望)、それにサットヴァ(バランス、平穏、理解)である。あらゆるヨーガの実践を活かして、タマスとラジャスの影響を減らし、サットヴァの影響を増すことができる。これがヨーガを実践する第一の目的である。

サットヴァは、平静の最初の段階を現しているが、長期にわたり、段階的に真剣なサーダナを応用することによる以外、サットヴァを完全に、シッディ(成就)を伴って獲得することはできない。これは、ひどくストレスのかかる状況や出来事に対してはサットヴァの平静ですら脆弱であるためである。これがヨーガ・スートラやタントラが、私たちを三つのグナの超越へと導く理由である。

こうして、グナはその目的を果たしたため、転変を終了する。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第4章32節)

覚醒した状態のサットヴァ・グナ、夢想状態のラジャス、深い眠りの状態のタマス、ニルグナすなわち他の三つのグナを破壊した状態。
──ティルムーラル(ティルマンディラム、第2296節)

こうして、グナが真我に奉仕するという目的を果たし、プラクリティへ溶け込み、完全なる自由という最高の状態が現れる。言い換えれば、純粋意識の力が自らの純粋な本性に落ち着く。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第4章34節、ヨーガ・スートラの最後の節)

右に述べたように、成就したヨーギーのサットヴァ的な平静も、タマスやラジャスの翼に乗って運ばれる、あらゆるかたちの日常的な疲労、倦怠感、興奮、恐れの経験はもちろん、 人生の衝撃に対して脆弱である。完全な平衡を完全に自分のものとするためには、複数の段階を経なければならない。このような段階を認めることから学ぶところは大きい。

・集中した内なる力によって常に落ち着いていられるという感覚を保ちながら、動揺するような出来事や状況のただなかにおいても、平静を保つことを忘れない。

・個人的な感情から生じる歪みを持たずにそれらを見る。それらの背後にあるものは何なのか、なぜそれは起こるのか、そこから何を学べるのか、あなたの中で何がそれに応えているのか、そしてそのような応答を身に付けることであなたはどのような進歩を遂げることができるのかを理解しようとする。

話したり、行動したりする場合、生気体の動きの影響下ではなく、ただ反省のあとに内なる平衡と平静のみにより、偏見なくあらゆる人とあらゆる事象に等しく敬意を払う。なぜならば、すべては聖なる目的、すなわちあなたの魂の啓発と浄化、私たちの人間性の完成というシッディに貢献するからである。

平衡を育てる三つの原則

平衡を育てるために、人間の性質の三つの原動力、すなわち意志力、知性、親愛を応用することができる。

意志力の応用を通じた平衡:ここでのマントラは、忍耐、忍耐、忍耐である。あなたのエゴが示唆する心や感情の衝動が何であれ、外部への行動や言動にそれを現さないようにする。力の深き内なる根源から自分の中の衝動を観察し、それが外向きに現れないようにする。自分を支えてくれるようにという祈りと熱望により、神の力を降ろす。エゴの衝動を抑えられないのは弱い人間である。感情は天気とは違うことを思い出す。あなたには衝動を制御し、捨て去る力がある! そうしたいか? それはいつか? 

推論と識別による平衡:なぜ些細なことを大げさに言うのか? なぜ負の感情を解放することで満足を得るために、安らぎと平静を犠牲にするのか? 永遠、「ここにあれ、いま」、そしてヴェッタヴェリ(広大な輝く空間)という幅広い視点からものごとを見る。一歩下がって、目撃者の視点を採用する。苦しみの原因から喜びの原因を、刹那から永劫を、エゴとその選好から真我とその平衡を区別する。

親愛を通じた平衡:この方法は、愛のエネルギーにより、バクティ・ヨーガを通じて応用される。「私の意思ではなく、あなたの意思が行われますように」がマントラである。起こることはすべて神が支持しており、従って目的があるということを受け入れる。あるがままにあらゆるものを受け入れる。結果として、あなたは自分の個人的な好みや欲望を手放す。神自体に対する熱望がこれに代わる。それが私たちの感情的な性質を殺すのではなく変容し、真理、愛、善、美のヴィジョンが注ぎ込まれるようになる。愛はそのすべてを含めるように広がる。毎日数分の祈りをこめた時間だけでなく、常に神の意思とあなたの意思が一致することを追求する。神の完全な道具となることを熱望する。

平静を育てるための実践的な方法の例

パタンジャリのヨーガ・スートラも、ティルマンディラムのようなシッダによるタントラの文献も、平静を育てるための数多くの実践的な手段を含んでいる。たとえば、ヨーガ・スートラの第1章で、28節から始まる12節がこのような手法を示している。以下に例を示す。

ひとつのテーマについて集中する練習をすることが、(障害とそれに付随するもの)を防ぐ最も効果的な方法である。

幸せな人たちに対しては友好的な態度を、不幸せな人には思いやりを、徳の高い人には喜びを、不徳な人には平静さを養うことによって、意識は乱されることなく、落ち着きを保つ。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章3233節)

「障害とそれに付随するもの」は、その前の二節に挙げられているものを指す。

病気、精神的不活発、疑念、不注意、怠惰、対象への耽溺、誤った知覚、確固とした基盤を確立できないこと、不安定、こうした意識の乱れが障害である。

(これらの)障害に伴って現れるのが、身体の震え、吸気(呼吸)の不安定、意気消沈、不安である。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章3031節)

私たちの社交上の関係が、しばしば動揺の主な原因であるので、上に引用した節は、修練の手引きとして役立つかもしれない。

または、(乱されることのない落ち着いた意識は)(細心の)呼気と呼吸の保持によって(もたらされる)。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章34節)

あらゆる心理的な状態に対して、対応する呼吸の速度がある。ゆっくりした、意識的な呼吸は精神を落ち着かせる。

または、心を安定した状態に保つことは、五感の領域内に意識を向けることによってもたらされる。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章35節)

ババジのクリヤー・ヨーガの第一、第二、第三イニシエーションの間に教えられる144の技法の多くに、通常は白昼夢、あるいは睡眠中の夢の間のみ作動する五つの精微な感覚を使用した集中が関わる。

あるいは、内にある常に至福に満ちた至高の光(に集中することによって、あらゆる悲しみを離れ、清澄に至る)。
または、(乱れることのない落ち着いた心は)執着を克服した(偉大な魂の心に)意識(が向けられた時にもたらされる)。
または、(乱れることのない落ち着いた心は)夢や睡眠中の知識によって支えられる。
または、どんなものでも望ましいものに瞑想することによって。
(徐々に)(集中の)度合いは、最も微細な物(根本原子)から最も巨大な物に及ぶ。

──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第1章3640節)

前述の各節は、拙著、『パタンジャリとシッダのクリヤーヨーガスートラ』からの引用である。注解を研究し、各節のあとに示されている修練と技法を行う価値があると分かることだろう。

ババジのクリヤー・ヨーガのすべての修練および原則の応用は、この最初にして最後の目的である平衡に到達する上で役立つだろう。静かに活動的で、活動的に静かであることだ。平衡を自分の乗り物、そして目的地の両方にすることで、神自体がサーダナを主導し、そして着実かつ容易にあなたのすべての行動に力を与え、導いてくれる「それ」をあなたは経験することができるし、また経験するだろう。


第五章 障害と心

あなたの心が、特定の記憶や感情にしばしば戻ることに気づいたことがあるだろうか? それはあなたが解決しきれていない問題を抱えている相手に関係するかもしれないし、たとえば食事、セックス、あるいは競技スポーツで勝利したことなど、とても楽しい過去の経験に結びついたものかもしれない。あるいは、肉体的な攻撃、離婚、当惑するような状況、愛するあるいは尊敬する人からの拒絶など、繰り返したくない困難な経験に関連しているかもしれない。どうしてなのか考えたことがあるだろうか? 

古典的なヨーガやタントラの文献では、これはヴァーサナー(傾向)として知られ、現代の体ー心の議論では、障害と呼ばれる。

毎日、あなたは五感を通じて、数千の物事を経験する。その多くは通り過ぎ、あなたが振り返ることはない。だがその中には、問題があるものでも、とても楽しいものでも、記憶や障害に結びついている思考や感情の連鎖反応を引き起こすものがある。頭から離れず、障害を造り出す経験は、私たちがこだわる経験である。

たとえば、あなたは仕事で数多くの慣れ親しんだ職務を日常的にこなしているが、たまに慣れていない問題に出くわす。一人で解決できなかった場合、あなたは上司の助言を求めるが、上司は「忙しすぎて手伝えない」という。あとになって、あなたはこの反応のことをいつまでも考えている自分の心を観察し、自分自身の能力についてのいらだちや疑念の感情が浮かぶ。あなたは問題を脇に置いておく。6ヶ月後、別の難しい問題が表面化する。あなたは上司の助けを求めることを考えるが、支援の依頼に対する前回の反応を思い出して、そうしないでおくことにする。従って、あなたは解決していない問題があるときに、上司からの支援を求めることを避ける。あなたの上司に対する拒絶の感情が高まる。いらだちの感情が増す。自分自身の能力に対する疑念が強まる。

こだわりは、「私はこれがなくなって欲しくない」という意味である。起こったことがあまりに気持ちよかったので、最高の気分になり、この感情に消えて欲しくない。たとえば、あなたは昇進と相当な昇給が得られることを知る。あなたは人生がどのように良い方に変わるのかについて空想を巡らせ始める。幻想を抱き始める。あるいは時間、費用、エネルギーをある事業に投資した後で、その投資が無駄になってしまうというような、何か自分が恐れるものが関わっているかもしれない。だからあなたはそのことを心配し続ける。またこのような感情のことを十分長く考え続ければ、それ自体が何らかの幸福のかたちに変わると愚かにも信じて、あまのじゃくにも、怒り、悲しみ、拒絶といった感情を含む苦しみの原因にしがみつく。これを手放そうという小さいが自発的な努力を直ちに行う代わりに、あなたはこのような感情がつきまとうのを認め、過去に築いた既存の障害を強めていく。

障害には、解決していない経験についてのエネルギーの蓄積が関わる。私たちが嫌い、難しいあるいは辛いとさえ思うようなものに対する恐怖、そして欲望や愛着、典型的には自分が楽しいと気づいたものについての幻想として現れるかもしれない。障害は、「私は私の体である」、「私は私の記憶である」、「私は私の感情である」といったエゴ的な見方の産物である。これは、私が愛着のあるもの、あるいは嫌いであるもの、「そこに」幸福や不幸が見つかるはずだというエゴイズムによって生じた心の混乱を反映している。人生の川は数百万もの経験をもたらすが、私たちではないものとの同一化の習慣であるエゴイズムによって、意識がそのような経験の一部の回りに収縮し、私たちは立ち往生してしまう。ほかのものがすべて私たちの存在の無限の海へと向かう途中で、私たちはこれをやり過ごす代わりに、これにこだわることを選ぶ。

私たちの人生の途中で、私たちは次第に数千もの障害を築いていく。最終的にこれは組み合わされて、私たちの行動を支配し、カルマを構成するサンスカーラ(性癖)となる。結果として、私たちのエネルギーは、同じ欲望の対象を求め、私たちの快適帯を越える同じ境界線を避け、意識的ではなく、感情的に状況に反応し、しごく予想のつくかたちで動くことになる。

他の何よりも、ヨーガの修練は、このような障害を取り除くプロセスである。この浄化のプロセスで、私たちが最初にこれに気づくのは瞑想の間、そして後にこれを私たちの瞑想日誌に記録する時である。日誌に私たちの瞑想を記録するという行為は、「私は〇〇について心配している」といったような主観的な経験を、紙の上に記し、私たちの真我、目撃者の視点から観察することで、客観的な経験に変容する機会を与えてくれる。このような障害を取り除くプロセスは、私たちが障害を手放し、これを心配したり、夢想したり、いつまでも考えたりすることを止めたときにリアルタイムで起こる。私たちは障害を「通り過ぎるにまかせる」。

これは洞察と努力を必要とする一瞬一瞬のプロセスである。洞察は、刹那から永遠を、苦しみの元から喜びの元を見分ける行為である。エゴは「私は持っている」、「私は必要としている」、「私は欲しい」、「私は恐れている」と考えるが、私たちの魂は、内なる目撃者である。無条件の喜びが継続する状態では、魂に選好はない。欠けるものはない。

このプロセスは「そこにある」物事を変えることを除外しない。私たちは、状況や問題が行動を必要とする場合には、これにうまく対応することができる。結局、ヨーガは活動における技巧である。私たちは自分の中心を保つ。私たちは直観的な導きを求める。私たちは、エゴに縛られた選好なしに、意識的に行動する。私たちは反省の後にのみ語り、必要で役立つことだけを話す。むしろ、この「自分自身に取り組む」浄化のプロセスは、ヴァーサナー(出来事やその結果としての問題に対処した後でさえも心に心配させたり、夢想させたりする傾向)に対処する。

エゴは、それが幸せになるために必要とする結果を想像することにより、幸せを見つけようと試みるという過ちを犯す。人生が期待に沿った結果を出せない時、物事が変化するか、エゴがいらだちと落ち込みのうちに諦めるまで、エゴはそこにあるものを変えるために膨大な努力を払う。

対照的に、カルマ・ヨーギーとして私たちは、慣れ親しんだ快楽や苦痛の根源にこだわらないことを選択できる、ということを知っている。私たちは、自分の内面、すなわち心と生気体の動き、欲望や感情、好き嫌いに対して注意を集中し、その後これを手放すことを選ぶ。目撃者として、私たちは平静でいることを求める。その過程で、私たちは瞬間ごとに大きな喜びを覚える。真我実現は、ヨーギーの手段であり、目的である。事象と直面したとき、私たちは「静かに活動的で、活動的に静かな」状態を保つ。カルマ・ヨーギーとして、私たちは結果に執着せず、自分が行為者ではないことを理解し、自分の勤めを果たす。私たちは、神に向かって明け渡した観察者であり、シャクティ、母なる自然、人間性の作用を通じてすべてを行う者である。

ババジのクリヤー・ヨーガで教えられる最初の瞑想の技法を定期的に実践することは、私たちのヴァーサナーを消し去る傑出した手段である。これはヴァイラーギャ(無執着を育てること)が関わるパタンジャリが推奨する手法である。

エネルギーの流れとハートチャクラ

あらゆる経験は、私たちの中にエネルギーの動きを送る。私たちのチャクラ(エネルギーの中心)は、これに反応する。チャクラが開かれていると、経験が私たちの中を流れ、私たちの意識は、喜び、愛、美、真理が実現し、私たちが本当の自分になることができるより高いバイブレーションを得る。チャクラが閉じていると、私たちの意識は経験を中心に収縮し、私たちは人生の二元性、すなわち獲得と喪失、幸せと悲しみ、名誉と恥辱にとらわれる。

最も重要なチャクラは、胸の真ん中にあるアナハータ(ハートセンター)である。愛、強さ、インスピレーション、確信を経験する時に、この場所がどのように感じるか気づいて欲しい。そして苦痛、失望、弱さを感じるときにどのように感じるのかも。このチャクラは非常に素早く開いたり閉じたりする。その時には、エネルギーの流れが変化し、生気体の中の感情も結果として変化する。パートナーに対して強い愛情を感じるかもしれないが、何か傷つくようなことを言われると、心は閉じてしまう。なぜだろう? それは前述の解決していないヴァーサナーのせいである。五感の経験に関連したエネルギーのパターンがあなたの中に流れ込み、あなたの過去からの十分に消化されていない、未解決のエネルギー・パターンによってブロックされるからである。あなたのパートナーは繰り返し「あなたのボタンを押し」、あなたはそのボタンを取り除いていないので、いつも反応してしまう。

もし過去からのものは何も内側に保管されていなかったらどうだろう? あなたが、悟りについて尋ねられた時に、「今はもう私を動揺させるものは何もない」と答えた賢者ラマナ・マハルシのようだったらどうだろう? それは通りを歩きながら、風景を見ているようなものだ。意識が十分に目覚めている存在としてあなたが経験するものはすべて、あなたを通り抜け、瞬間的な印象のみを残し、長期的な影響を及ぼさない。理想的には、あなたの本性はこのように機能するべきで、あなたは愛し、学び、広がり、成長しながら、現在の瞬間を生きられるようになる。

選ぶのはあなただ。自分の障害が乱されないように、あなたのボタンが押されないように外部の事象を変えようとするか、あるいは賢いヨーギーとなって、浄化のプロセスを経験するかだ。どのようにあなたの障害が乱されたのかを行動基準とする代わりに、自分の中心を見つけ、ただ心と生気体の動きの上昇と下降を見るのだ。内側に深く腰をおろして、自分の存在の海にそれが溶けるにまかせる。自分が想像できる存在の最高の状態を熱望し、それに集中する。あなたの心は開き、あなたでないものは溶け去る。

第六章 現実とは何か、そしてどのように欲望は私たちの現実の認知を歪めるのか? 

現実とはなんだろうか。最近の科学的な発見によって、長年に渡る疑問について一つのことが明らかになった。確かなのは科学というのは現実を正確に把握していないということである。物理的な現実に関する最高の二種類のモデル、相対性理論と量子力学は、基本的に両立しないように思える。

ネイチャー誌に記載された記事①は、量子力学は、局所現実として知られる系の挙動を記述していると説明し、このことを裏打ちしている。局所現実は、ごく簡単に理解できる。粒子の特性は完全に記述することができ、この特性は局所化されたままである。すなわち、光速を超えて粒子を別の場所に送ることはできない。もっと簡単に表現すれば、物事はここにおいてはそれが存在する通りにある、ということになる。

①Groeblacher, S., Paterek, T., Kaltenbaek, R., Brukner, C., Zukowski, M., Aspelmeyer, M., and Zeilinger, A. (2007). An experimental test of non-local realism.(非局所現実の実験的試験) Nature, 446, 871-875. doi:10.1038/nature05677

この記事の短いまとめは以下にある:Ball, P. (2007). Physicists bid farewell to reality? Quantum mechanics just got even stranger. (物理学者が現実に別れを告げる? 量子力学はさらに奇妙になった)、2007年4月18日にオンライン化. Nature, doi:10.1038/ news070416-9

ただし粒子が──宇宙の半分ほども離れているかもしれない──他のもつれた粒子の直接の影響下で挙動する、絡み合いとして知られるプロセスを含めた場合、問題が起こる。局所現実は、局所でも現実でもなくなる。

量子力学において、ハイゼンベルクの不確定性理論は、位置と運動量のような、ある粒子の二つの物理的特性を同時に知る上での正確性には根本的な限界が存在すると主張する。普通の言葉で言えば、一つの特性をより正確に測定すると、もう一つの特性について知ったり、制御したりすることはより不正確になる。

ヴェルナー・ハイゼンベルクは1927年に、すべての測定は、以前の測定により得た系についての私たちの知識の一部を破壊すると論じた。言い換えれば、実験は観察者による影響を受ける。

ここ数十年の間、量子理論学者は、絡み合いについて記述してきた。光速で移動する光子を含む、二つの絡み合った亜原子粒子は、結びついた特性を持つ。ある絡み合ったものの特性を測定すると、もう一つがただちに不確定な状態から、他方との絡み合いによって定義される状態になる。絡み合ったものは、これが起こるときに遠く離れていることができるので、特性の移転は、光速よりも速く起こるように見える。

このことは、相対性理論の父であるアルバート・アインシュタインを含む多くの物理学者には受け入れられず、アインシュタインは、現実の背後にある特性の一部をいまだに理解していないと主張した。物理学者の一部は、私たちがどのように測定すれば良いのか分からない特性を含む、隠された可変モデルを創造することで、この理解の欠如を補おうとしてきた。

そこでネイチャー誌の記事が入ってくる。正しそうに思われるモデルのセットによって、私たちは宇宙を構成している微小粒子の挙動を試験することができる。この結果は、アインシュタインでさえ「不気味な遠隔作用」と呼んだ、奇妙な量子絡み合いの現象を確認するものとなった。この結果は、私たちに局所現実の思考を捨てることを求める。

このことは、現実を諦める時だということなのだろうか? 著者たちはそう考えているように思える。彼らはその結果を、将来の量子理論の拡張は「現実的な記述の一部の特長を捨てなければならない」という見方を支持するものとしてまとめている。

ヨーガ・シッダの視点が登場する

古代より、ヨーガ・シッダはこの疑問に独自の内なる視点からアプローチしており、その文書に記録された発見からは教えられるところが大きい。これらは神秘的なものとして特徴づけられ、理論物理学の数学的な等式と同じように近づきにくい。真理、存在、根底にあるリアリティ(実在・現実)を自ら発見するためには、詩的であれ、逆説的であれ、類推であれ、数学的であれ、書かれた記号を超えなければならない。

そのユニークな視点は、シッダ・ティルムーラルが記している:

最も高いものでも、サダシヴァでもない
形のないものでも、像の状態でもない
愛の喜びを経験するように素晴らしく
彼は人の想像力を超えて(私に)浸透する
──ティルムーラル(ティルマンディラム、第2943節)

ティルムーラルは、理論物理学者と同じ質問をする。「私たちはどのように究極のリアリティ(実在・現実)を記述するべきなのだろうか?」、「それは最高のものだろうか?」、「それはサダシヴァ(神)なのか?」、「形を持たないのか、それとも特性を持っているのだろうか?」と。彼は理論物理学者に同意する。「それは表現できない」と。

次の節で、ティルムーラルは類推でこの点を良く理解させ、私たちに警告する:

ああ、物事を物理的な目で見る愚か者たちよ、
真の至福は、内なる目で見通すことにある
いかにして母が娘に
夫との享楽を言葉で表せようか
──ティルムーラル(ティルマンディラム、第2944節)

愛の喜びを言葉で表すことができないように、リアリティ(実在・現実)を経験する至福を説明することは不可能である。私たちはその中に浸るか、私たちの想像力を超えた何かに出会わねばならない。

水に溶けた塩のように、神は浸透している
区別のないパラの中のパラパラのように
隠された意味は(言葉の)中に溶け込んでいる
如何に? 如何に? それはそういうようなものだ。
──ティルムーラル(ティルマンディラム、第2945節)

「パラ」は、肉体、心、あるいは個性とは異なる、私たちの最高の、あるいは至高の自我──私たちの魂──を指している。「パラパラ」は至高の存在を指している。両方とも、一つの基本的な質、すなわち意識を共有している。だが意識は、客体でも、一部の物質主義者が主張する脳の存在に依存している付帯徴候(脳の活動の副産物)でもない。脳を持たないものも含め、すべての生物が意識を示す。意識は主体、目撃する者、観察する者である。それは大きいものから小さいものまで、あらゆるものに浸透し、従って物理学者によるあらゆる測定の試みを寄せ付けない。それは不特定の「それ」ではない。それは「そこにある」のではない。それは内側にも外側にも、どこにでもある。

「如何に? 如何に?」という質問をすることでティルムーラルは、魂あるいは個別化された意識と神あるいは至高の意識との同化の言うに言われぬ、言語を超越した性質について述べている。その答えは言葉や記号では定義できず、ただ内に向かうしかない。ティルムーラルは、次の節でその方法を指摘している。

(神に対する)崇拝と黙想は自然に止滅し
中間の空間より現れくる輝く光
我は智慧(ジュニャーナ)を通じてそれと一つになった
──ティルムーラル(ティルマンディラム、第2947節)

私の意識の中で、神は私と一体になっており、「私の」心に輝く光として現れるので、崇拝や瞑想のすべての儀礼(儀式)は自然に消え去った。いま、私にとって、この合一の状態において儀式、教典、寺院は必要ない。

一体となることで、パラパラの存在を感じ
一体となることで、シヴァガティを得
一体となることで、意識を意識し
一体となることで、数多くの永劫を見た
──ティルムーラル(ティルマンディラム、第2953節)

一体になることで、私は存在自体を意識するようになった。言い換えれば、私は私の認識ではなく、存在それ自体の認識を「私」の中に得た。私は永遠となった。シヴァガティは、「私は肉体─精神である」というエゴ的な視点からの最終的な解放である。

いかにリアリティ(実在・現実)を感得するか

一般に、私たちの経験は、欲望によって強く影響されている。私たちは自分が見たいものを見、自分が聞きたいものを聞く。政治家はそのことを知っており、私たちが聞きたいことを言うことで私たちを操る。政治学で、これはポピュリズムとして知られている。すりはポケットしか見ない。黙示論的な終末の時代を待っている原理主義者は、現在の中東の出来事をハルマゲドンの前兆と解釈する。あらゆる種類の人種差別、先入観、偏見もやはり、記憶や無意識の習慣から生じる欲望によって、私たちがどのように自分自身を欺くことを許容しているのかを示す例である。真理、すなわち刻々と変化するこの現象界の背後にある現実を理解するための鍵は、私たち自身から欲望を浄化することにある。ブッダが述べたように、「欲望は罠である」

パタンジャリは私たちに語りかける

隠された動機(が存在する時)、結果として生じる経験は、自然界に顕現している存在の意識と真我(とを)区別していない(というものである)。サンヤマそれ自体のために(サンヤマを行うことによって)、真我の知識(が得られる)。
──パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第3章35節)

言い換えれば、欲望(隠された動機)が真理の感得以外の何かに対して存在する場合、人は主体、すなわち私たちの純粋な真我と私たちが自然の中で経験するものを混同する。言い換えれば、私たちは意識しているもの──目撃者であるもの──と、私たちの五感、感情、思考を通じて現れる、経験のあらゆる客体とを混同する。たとえば、私たちは「私は暑いと感じる」、「食べ物が必要である」、「嫉妬の感情がある」のではなく、「私は暑い」、「私は空腹だ」、「私は嫉妬している」と言う。暗い通りを夜一人歩いていると誰かが近づいてきた時に脅威を感じるが、これは単に自分たちが「闇」と「他人」から、恐れを誘発するような連想をするからに過ぎない。

パタンジャリは、上記ヨーガ・スートラ(第3章4節)で、集中、瞑想、サマーディ(三昧)の組み合わせであると定義したサンヤマを育むことにより、根底にある真我を知ると説明している。サマーディは、心が絶対的に静寂となった時に起こる。その中で、人は意識しているものを意識するようになる。人は、単に光が照らすものだけではなく、光そのものを見る。この節でパタンジャリは、純粋な真我(プルシャ)と対象、すなわち真我と肉体─心の複合体における自然(プラクリティ)の現れとの間の違いについて、我々の存在の最も微細なレベルでサンヤマを行うことによって、根底にあるリアリティ(実在・現実)の理解が起こるであろうと私たちに語る。

悟りとは、根底にあるリアリティ(実在・現実)に対する認識を途切れることなく維持することである

これを垣間見ることはヨーガの生徒にとって十分手が届くことだが、これの意識を保ち、その意識から行動することが究極の課題であり、生の最高善、悟りでもある。ヨーガの技術全体が、この目標の実現をその目的として持っている。これはまず、私たちの生の基盤として、平静によって特徴づけられるサットヴァを確立することで達成される。この条件によって、私たちはエゴ的な見方を、その欲望と真の正体に関する無知と共に、次第に捨てられるようになり、心と生気体が作り出すカルマ、自然、妄想による戯れの目撃者となる。

私たちの視界を内なる光に固定し、内なる静寂を保ち、人生のドラマの中で目撃者となることを忘れなければ、私たちはリアリティ(実在・現実)を知ることになる。量子物理学者や古代の神秘主義者が、リアリティ(実在・現実)は言葉や数学的な記号に変えることができないという点で同意しているのを知ることで、私たちは知的な疑念から解放され、それを考えるのではなく、それであるよう鼓舞される。

第七章 あなたは神を愛しているか? あるいはどのようにしたらヨーガの修練を利己的な行為にせずにすむのか? 

誰かにあなたは神を愛していますかと尋ねれば、大部分の人は、はいと答えるだろう。特に「神」が至高の存在の人格的あるいは非人格的概念を意味している場合には。インドでは、一個人が持つ神についてのお気に入りの概念は、イシュタデヴァターと呼ばれる。たとえば、多くの人々は神を、イエス・キリスト、ブッダ、アラー、エホバ、シヴァ、クリシュナ、あるいはババジのような化身と置き換えるだろう。他の者は、神を非人格的ブラフマン(至高の恩寵の光)あるいはサッチダーナンダ(絶対的存在・意識・至福)であると考えるかもしれない。

どうして自分が神を愛していることがわかるのかと尋ねると、多くは自分の定期的な祈り、プージャ、マントラジャパ、瞑想などのヨーガのサーダナを挙げて、神を愛しているという自分の主張を正当化する。また、自分たちが行っているスピリチュアルな読書、スピリチュアルな生活や神についての議論を楽しんでいること、祭壇に飾った神の象徴、そして一人あるいは集団によるキールタン(聖歌の詠唱)に言及する。

このような活動は、私たちが神を愛していることを証明するだろうか? 必ずしもそうではない。「私の」ヨーガ・サーダナ、「私の」理解、「私の」努力、「私の」スピリチュアルな成長、「私の」道のように、エゴの影が落ちていれば、私たちは神に対する真の愛の面で成長することができない。個人的な欲望、野望、恐怖、エゴ的な要求、生気体の衝動が、それ自体を献身的あるいはヨーガ的な活動であるとカムフラージュしている場合、私たちは自分自身を明け渡すことができない。また罪、欠点、孤独、あるいは自己批判のような感情を克服するためにヨーガの修練を利用することは、単なる自己啓発の手段以上とは考えられない。これは特に心理療法の世界で時に自己愛と呼ばれるものである。

トランスパーソナル心理学に、「エゴを超越する前に、エゴを育てなければならない」という格言がある。つまり、自分自身に何らかの自信がなければ、エゴイズムのいろいろな側面を支配するようになり、最終的にはエゴを超越することができないということになる。これが、自己愛、個人的な成長、マイナスの思考や習慣の克服を強調する自己啓発コースがしばしば霊的な道に乗り出す上での前提条件になっている理由である。さもなければ、サーダカ志望者は、霊的修練は、根強い神経症、悪癖、ネガティブ思考を解決すると信じ込むかもしれない。

このような手法は、個人的な成長を助け、自信などのポジティブな個人の特性を与えてくれるかもしれないが、神に対する愛は、どのような活動であれ、エゴが関わると減ってしまう。これは私たちが愛するときは与えるからである。もし神を愛しているなら、私たちは自分自身を丸ごと完全に与える。さもなければ、私たちのヨーガの修練や個人的な成長のいかなる方法も、より健康でより魅力的な肉体や、より静かでより神経症的でない心のような限られた目的のための手段になる。最悪の場合、ヨーガの修練が、プライドの源、自分が他人よりも優れていると信じるための正当化、一言でいえば、別の利己的な行為となってしまう。従って、エゴによってヨーガが利用される偏狭な視点を超えるための方法を私たちは見つけなければならない。

どうしたらエゴの自己愛を克服できるのだろうか? シュリー・オーロビンドがこれについての処方を示している。

対処法は、常に神のことを考え、神のために働き、行動し、サーダナを行うことである。何も要求せず、すべてを神に委ねるのだ。
──シュリー・オーロビンド(Letters on Yoga(ヨーガに関する手紙)P1372)

私たちが、自分たちの生きる理由は快楽の探求と苦痛の回避、あるいは生気体の新しい経験に対する絶え間ない飢えの充足であると信じる限り、欲望の対象に向けたエゴイズムの磁力は、最良の意図も圧倒する。一分ごとに自己愛が、大小を問わず、数多くの好みや欲求に現れる。あまりに簡単に、私たちの感情的な性質は、エゴの影響下に置かれ、妄想や誤りを引き起こす。私たちの心を欺いたら、エゴは私たちの意志を攻撃し、次に意志が本当の目標を忘れてしまう。これによって私たちが霊的な道を進み続けられるかどうかに疑問を生じさせ、物質世界の現実のみが正しいと信じるようになる。私たちの近代文明は、私たちの家族、友人、同僚の価値や判断と同じく、この悲劇的な思考を常時強めていく。

ただし、生の目的は自分自身を神に完全に委ね、神の完全な道具となることであることを思い出せば、私たちは、生気体やメンタル体の動きの上下から独立したアーナンダ(無条件の喜び)を見出すことになるだろう。オーロビントの第一の弟子だったマザーの言葉を借りれば、以下の通りとなる。

自分自身のことを考えず、自分自身のために存在せず、自分自身に何も任せず、この上なく美しく、輝き、心地よく、哀れみ深く、果てしないもののみを考えるという単純な事実において、何ものとも比較できない深遠な喜びが存在する。
──マザー(Questions and Answers、第三巻、P269)

次に、私たちは、常に「私の」肉体、「私の」心、「私の」欲望、「私の」恐れ、「私の」記憶、「私の」経験を顧みるエゴ的な視点を、内外にある神の本質的な部分である真我、魂、目撃者の視点で置き換えることができる。

多くの者にとって、神に対する愛を育てる一番簡単な方法は、名前や形に関わらず、神を人として想像することである。これはバクティ・ヨーガの道である。

愛は二人の個人、愛する者と愛される者を意味する。愛される者を主、神、イエス・キリスト、クリシュナ、シヴァ、あるいは他の名前で考えれば、人格を持たない真理、ワンネス、あるいは光として、相手である至高の存在を考えるよりも、愛を与えることは簡単になる。ただし、人が成熟すると、愛する者と愛される者は一体となり、魂と神についてのティルマンディラムの言葉を借りれば、「二人でなくなり」、人は「それ」となる。

さらに、カルマ・ヨーギーとなることで、私たちは仕事であれ、遊びであれ、通常のエゴに基づく動機を、神に対する愛で置き換えることができる。何かを手に入れようとする代わりに、カルマ・ヨーギーとして私たちは与える。私たちの行動は、他者の中にある神を見て、これに仕えるために行われる。私たちは、行動の結果に対する執着なく、行動を捧げ物として行い、巧みにふるまう。カルマ・ヨーギーは「私には好みがあるだろうか?」、「誰がこれを望んでいるのか?」と尋ねることで、エゴの誤った、巧妙な動機を暴露し、取り除く。大切なことは、「私の意思ではなく、あなたの意思が行われますように」である。

カルマ・ヨーギーの視点を採用することに加え、ヨーガのサーダカが自己愛を排除することができる第一の姿勢は、恐れがないこと、そして神の摂理の智慧に対する絶対的な確信である。私たちの人生は課題に満ちており、物事がどうなるのかについてあれこれ考えるかもしれない。だが、私たちが神の方を向き、神の御意思を満たすための導きと強さを求めるならば、恩寵が訪れ、道が開けるだろう。恐れることなく、神の摂理に完全な信頼を寄せて、神のために生き、自身を神に委ね、神の意思を求め、これに明け渡すことにより、私たちは自己愛から自身を解放することができる。

第八章 沈黙は金なり

このようなストレスに満ちた時代に、心は私たちの最悪の敵となりうる。心は、連続して「〜だとしたらどうなるのだろうか」について思い巡らし、心の習慣的なパターンを繰り返しながら、何千もの感覚的印象を浴びている。医学的な研究によれば、現代の病気の流行は主にストレスの結果であり、ストレスの最も大きな原因の一つが、過剰なレベルの騒音だという。私たちは、先祖たちに比べて、ずっと高い周波数とレベルの騒音を経験している。

あなたの生活における一般的な騒音源について注目して欲しい。自動車の交通、電気器具、隣人、飛行機、これで不十分なら、携帯電話、テレビ、ラジオ、iPod、それにステレオ・スピーカーなどからさらに騒音を加えることができる。このようなもののすべてによって、私たちの神経系は働き過ぎとなり、弱くなり、分散してしまう。子供たちが注意欠陥障害や多動症のような現代病に苦しんでおり、これまでにないほど学校で落第しているのも不思議ではない。多くの人たちが時間不足を感じ、不安に苦しみ、アメリカ人の成人の4分の1以上が睡眠障害を抱えているのも不思議ではない。過去10年間、アメリカにおいて向精神処方薬の消費が爆発的に増加し、多くの人々が、そのマイナスの副作用にもかかわらず、アルコール、マリファナなどの非合法の麻薬を選んでいるのも不思議ではない。私たちは、騒音と神経の刺激に基づく文化を発達させ、結果として平均的な人間は落ち着きを見出すことができない。

心のゲームに没入するのを止め、あらゆるこの感覚上のストレスに対処する一番良い方法の一つが、長期にわたって沈黙を守る方法を学ぶことである。この章の後半で、自分自身の沈黙の修養会を作り出す方法について学ぶことになる。だが、もし長時間にわたって沈黙を守ったことがなかったり、そうする自分の能力に懐疑的であったりするなら、まず他の人が主催する沈黙の修養会に参加するのが一番かもしれない。

遠くに行く必要はないが、習慣的な気晴らしから自分を解放する必要がある。自宅で沈黙の修養会をうまくやる方法を学ぶまで、少なくとも数日は家の環境を離れるのが一番かもしれない。リトリート・センターやアシュラムが、沈黙を育てるプロセスを円滑にするための正式な沈黙の修養会を開催している。自然に近い理想的な環境で、食事や物理的な静けさなど、あなたの必要なものが提供される。リトリート・センターやアシュラムはまた、ヨーガのグループ修練、瞑想、インスピレーションに満ちた会話、それに沈黙を育てる上での機微についての指導を通じてあなたを支援する。

何よりも、沈黙を守ることがスピリチュアリティ(霊性)を宗教から区別する。これは霊的伝統に固有のものだ。これは個人の成長に関するセミナー、健康のクラス、知的な取り組み、あるいは教育機関でさえ見られないものである。従って、あなたにとってまったく新しいものかもしれない。沈黙の時間を経験したことはあるだろうが、24時間以上沈黙を守ると決意したことはないかもしれない。なぜ人がそうするのかということさえ、頭に浮かんだことがないかもしれない! 

私たちが同一化してしまうものはほぼすべて形を持っている。私たちの肉体、五感を通じた知覚、思考。魂は形を持っていない。魂はアーナンダマヤコーシャ(至福の鞘、あるいは霊体)として知られる、私たちの部分である。それは私たちの存在の最も微細な部分であり、他の四つの体、すなわち肉体、生気体、メンタル体、知性体に浸透する。魂には形がないので、時空に制限されない。どこにでもある。魂は微細で、私たちの肉体、生気体、メンタル体、知性体(あるいは各次元)よりも高い周波数で振動するため、心が魂を理解するためには、微細で、エネルギーを持ち、沈黙しなければならない。だからこそ、神秘的あるいは霊的伝統において沈黙を守ることは、霊的次元に入るための秘密の手段なのである。このことは、「黙っている者」を意味するギリシャ語の「muein」より生じた「mystic」という単語においても明白である。

沈黙は私たちの原点であり、私たちの目的地でもある。私たちが生まれる前にも、私たちの人生の終わりにもある。私たちは、朝起きる前、そして夜深く眠る時に、毎日それを経験する。私たちにとってそれほどなじみのないものではない。私たちは皆、夜枕に頭を乗せるときの瞬間を大切にする。夜の良い眠りを大切にしない者がいるだろうか。夜の眠りの最も深く、最も安らかで、最も有益な部分は、心が夢を見るのを止め、沈黙のみが存在する時である。

沈黙を守ることの価値

私たちの大部分は、不要な話で大量のエネルギーを発散している。使い過ぎて切れた電池のように、私たちは週末には疲れ果てている。でも沈黙の一日を遵守して、自分の電池を再充電する代わりに、私たちはさらに多くの騒音と共に週末を過ごす。そして休みなしで携帯電話を使うことがごく当たり前になってしまったので、話しすぎるという傾向は悪化するばかりだ。歩きながら、車を運転しながら、あるいは行列しながら携帯電話で話している人々に耳を傾けてみよう。その話している内容の99%は不要なものだ。ただ頭に浮かぶものを言葉にしているだけだ。そして友人や家族と続けて二時間ほども話した後で、どういう気分か注意してみて欲しい。

一方で、わずかに、良く考えた後でしか話さない人の言葉がどれだけはるかに意義深いのかに注意してもらいたい。その言葉ははるかに多くのエネルギーを運び、より賢明である場合が多い。このような話し手は、仮にその言葉が珍しいというだけだとしても、通常他人の注目を集める。

たとえば週末か、祝日を聖なる日と定めて、連続して少なくとも24時間、定期的に沈黙行の日を遵守することにより、より多くのエネルギー、より強い神経、より大きな精神の集中、不安の発散、より良い眠り、人生の霊的次元に対する感覚の向上、そしてより意義深い人生など、沈黙の利益を経験することができる。肉体的なレベルでは、沈黙は回復やストレス管理に必要な条件を促進するため、健康がより改善されることが期待できる。

定期的な沈黙の訓練によって、忍耐力を高め、怒り、肉欲、貪欲のような感情の動きに抵抗することができる。他人が怒っているとき、私たちは黙り、話す前によく考え、役立つことだけを落ち着いて話すことを忘れない。沈黙を意図的に育むことにより、心が行う空想を自分のものとしてではなく、無執着に眺めることができ、また同じことの繰り返しを止めることもできるようになる。

精神と霊のレベルでは、あなたが心の背後にあるもの、つまり沈黙の目撃者意識である「私は沈黙している」と同一化し始めると、心は落ち着く。平静は第一歩に過ぎない。それは思考の不在ではなく、思考が生じるときに、その思考と共にある能力である。次第に、思考がなくなるにつれ、言葉の沈黙が、精神の沈黙の時間をもたらし、あなたは無選択の気づきの状態にとどまる。霊体が前面に来ると、至福が続いて起こる。

沈黙の修練は、洞察力と霊感を育てるための理想的な環境も創造する。もし解決すべき問題や到達すべき重要な結論があるならば、習慣的な仕事に気を取られない沈黙の日に行うことだ。沈黙が断食と組み合わされると、洞察力はさらに強まる。消化器官にそれている血流が、最適のレベルで脳を支援するために解放されるからである。

副交感神経系を活性化することにより、沈黙を守ることが、弛緩反応を促進し、リラックスすると直観を含むあなたのより高次の機能が、独創的で新しい洞察を作り出す。沈黙を守っている場合、自分の意識を関心の対象と一体化し、それを内側から体験することさえ可能になる。いわば、通常の主体ー客体の障害を解消し、直観的に新しい情報にアクセスすることになる。

タパス:自己変容のための自発的な自分に対する挑戦

沈黙を守ることは、タパス(集中的なヨーガの修練)を深める上で最も重要な手段の一つである。タパスを通じて、あなたは途轍もない意志力を育てる。あなたが意志を行使するとき、その強さが増し、あなたはもっと目的を持って行動し始める。意志を意識的に、目的を持って行使することで、あなたは悪い習慣や望ましくない人格上の傾向を変容することができる。

タパスは、自己変容のための自分に対する自発的な挑戦である。タパスは、たとえば、自分自身に対する誓約や約束を通じた、自分の意図の表明で始まる。このような誓約は、あらゆる疑念を避けなければならない。たとえば、もし24時間沈黙を守りたいと思った場合、「私は沈黙を守る」、あるいは「私は沈黙を守れることを望む」ではなく「私は24時間連続で沈黙を守っている」で始める。あるいは「私が意図的に沈黙を守ることを通じて、私は連続してバランスの取れた自己認識を保つ」で始める。このようなアファメーションは、潜在意識に対する明白な指示の役割を果たし、自己暗示として機能する。

潜在意識は、あなたが語りかけることを何であれ信じるため、実際にはかなり愚かである。もし自分が沈黙を守れるか疑っていると告げれば、潜在意識はあなたを信じて、機会があるごとに、沈黙を続けようという意欲を疑うようにあなたを促す。しっかり構築された意図は、意識の中で生じるどのようなものも手放すことを学ぶにつれ、潜在意識を浄化する。ただし、意図なく行った場合、結果は複雑なものとなる。人は習慣的な思考に夢中になり、結果として単に苦しむことになるかもしれないからである。

タパスの第二の要素は、意志力の行使である。もしあなたが意志力を欠く場合は、たとえば、まず6時間、次に12時間、それから24時間というように、短い沈黙の期間から始めよう。沈黙の日にコミュニケーションを取らなければならない場合、メモを書こう。電話機の留守電機能を使用する。もし重要な電話を待っている場合、たとえば、「はい」は「トン」という音、「いいえ」は「トントン」という音のように、前もって電話をかけてくる相手と暗号を決めておこう。不要不急な電話、仕事などの義務は避けるよう自分のスケジュールを調整しよう。

タパスの第三の要素は忍耐である。つまり、沈黙を破りたいという誘惑にかられても、自分の誓約を思い出し、意志力を行使し続けることである。感情的あるいは肉体的に熱が出るような、内面の抵抗があるかもしれない。「tap」はサンスクリット語で「熱」を意味するので、タパスは火によってまっすぐにするという意味である。言い換えると、私たちの習慣を変えることは、人間の性質による抵抗を受けるが、粘り強くやること、この不快さを捨てることで、私たちは勝てる。そうすれば、結果として高まった意志力は、自身が定めるどのような目的に対しても効果的に応用できる。

自分自身の沈黙の修養会を作る

一度以上、アシュラムやリトリート・センターで行われた正式な沈黙の修養会に参加したら、自分の沈黙の修養会を開催したくなるかもしれない。習慣的な娯楽を避けるために、自宅の外で行うのがベストである。また、多くのヒーリング上の効果がある、自然の中の屋外、および簡素で、清潔で、整然とした環境で行うのが理想的である。自宅であれ、それ以外の場所でやるのであれ、以下のガイドラインに従うこと。

・愛する人たちに、なぜ自分がこれをやっているのかを説明しよう。たとえば、休息を取って、自分の電池を充電し直すためであると告げよう。数時間の沈黙があなたにどのような影響を与えるのかを愛する人たちが経験すれば、あなたがもっと感じが良くなったと気づき、「沈黙したら」と促したり、一緒に沈黙に加わるかもしれない。
・人とコミュニケーションを取らなければならない場合に備えて、小さなメモ帳を用意しておく。
・携帯電話の電源を切る。
・一定期間沈黙を守ると表明する祈りか誓いで始める。
・スケジュールを立て、これに従う。スケジュールには、アーサナ、呼吸法、瞑想、マントラ、瞑想歩行、そして決まった時間の読書を含めても良い。本を読みすぎると疲れ、頭の中が不要な考えでいっぱいとなるかもしれないので、テーマは、たとえばお気に入りの聖典のような修練に役立つものにするべきである。瞑想の時間とウォーキングの時間を交互にしてもよい。眠くなったり、脱力感を覚えたりするほど瞑想の時間を長くはしないこと。瞑想と瞑想の間にアーサナを行うと、眠気や脱力感が抜ける。
・食事は軽くし、慣れていて可能ならば断食する。食事の準備が楽になるように、前もって食事を計画しておく。食べすぎると眠くなる。
・終了後すぐに日誌に瞑想を記録する。そうすることで、無意識から表面に出てくるものを解放しやすくなる。瞑想の種類によっては、瞑想を記録することにより、重要な洞察や問題に対する解決法さえ得られるかもしれない。
・心を空っぽにしようとするより、観察、マントラの繰り返し、認識、瞑想で心を満たそう。中身がいっぱいでないと、中身が内側でしぶきを上げる半分空っぽの樽のように、心が騒ぎだす。積極的に取り組み、怠惰や退屈を避けよう。内なる光が自分を満たすのを感じるだろう。より高次の内なるエネルギーの周波数や振動、そして拡大していく感覚を意識するようになる。これはより高次の意識の光である。それとともに無条件の喜びが訪れる。
・短時間、たとえば1時間、6時間、12時間から始め、それからずっと得られるものの大きい24時間の沈黙を守ろう。スケジュールの中に、1年に一度か二度は48時間か72時間、あるいは休暇中ならさらに長く沈黙を守る機会を見つけよう。瞑想に深い関心があったり、自分のスピリチュアリティを高めたいと思うなら、1ヶ月、あるいは1年といった長期にわたって沈黙を守ることが、いろいろなレベルで非常に価値が高いことが分かるだろう。

沈黙を深める好ましい修練の例

効果的に沈黙を育てる上で役立つ修練をいくつか挙げる。

プラーナーヤーマ(統御された呼吸):あらゆる心理状態には対応する呼吸数があるので、落ち着いた心を育てたいのであれば、適切に呼吸する方法を学ぶことが重要である。この中には、完全な呼吸に関わるすべての筋肉の使い方を学ぶことが含まれる。多くの人々が、ストレス状態に関わる不十分な呼吸の習慣を持っている。呼吸を観察し、不十分な呼吸の習慣を改めるには、あおむけになり、手を胸郭のすぐ下の上腹部の両脇に置く。ここで呼吸に関わる第一の筋肉である横隔膜の上下を簡単に感じることができる。

息を吸い込み始めたら、どのように腹部、続いて下側の胸郭が上がるのかを意識する。最後に、吸気の最後に向かって、上側の胸部と肩が少し上がる。息を吐き出している間、どのようにまず肩と胸の上側がゆるみ、続いて残りの胸、腹部の順に沈むのかに注意しよう。数分間、この流れと動きに従ってから、背筋を伸ばし、椅子の端に座るか、あるいは楽に足を組んでしっかりしたクッションの上に座り、マトレイカ・プラーナーヤーマ(リズミカルな統御された呼吸)と呼ばれる修練を行う。口を閉じ、上に記した三つの段階を通してゆっくりと深呼吸する。腹部を広げ、胸部を広げ、肩を上げる。次に逆の順番で息を吐く。心の中で数を数え、吸気と呼気の長さが同じになるようにする。ささやく時のように、声門を少し閉じて、声門を通してかすかなシューッという音を出す。これを15回繰り返す。終わったら、静かに座って、呼吸からのエネルギーを吸収し、心が平静になるのを待つ。

呼吸の意識:楽に座って、自分の呼吸を意識する。統御しようとする必要はない。息を吸った最後に、息を止めずに、ただちに続けて息を吐く。息を吐き終わったら、息を止めずに流れるように次の吸気に移る。これを15分間続ける。呼吸は、意識を五感の雑音から離し、心の中のおしゃべりを超えて、内向きに意識を向けるための手段である。

アファメーションと組み合わせた呼吸の意識:呼吸に従って、息を吸うときには「ハム」と、息を吐くときには「サ」と心の中で繰り返す。その際に、サンスクリット語で「ハム」は「我在り」、「サ」は「それ」を意味することを思い出そう。まとめて「我はそれなり」という意味になる。別の思考が干渉してきても、押しやったり、強めたりしないこと。ただ手放して、呼吸に従い続け、「ハム・サ」という音節を思い出す。呼吸を統御しようとしない。次第に、呼吸がゆっくりになっていく。これと同時に、心が落ち着き、呼吸がさらに遅くなる。最終的に、呼吸と心の両方が静かになる。この瞑想を少なくとも15分続けること。

マントラの反復:マントラを繰り返す修練は、心の沈黙を育てることと密接に関係している。「マントラ」(mantra)という言葉は、サンスクリット語の「マナス」(manas、心)から来ており、同じくサンスクリット語で沈黙を守ることを意味する「マウナ」(mauna)と同じ語源である。インドの古の賢者たちによれば、世界の創造が形を取る前に、自然の中で最初に現れたのは音で、「アウム(オーム)」(Aum)と呼ばれる最初の音だった。聖書にも、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 (ヨハネによる福音書、第1章1節)とある。この最初の音に集中することは、そこから音が生じた聖なる根源からほんの一歩離れているだけである。音をその起源に遡ることで、あなたは神を見出すことができる。従ってマントラは、あなたの意識を聖なる根源との霊交状態へ運ぶために用意された音の乗り物である。

「マントラ」という言葉は、「心を守るもの」を意味する。マントラは、欲望、恐れ、いつもの好き嫌い、それに心の中での絶え間ないおしゃべりといった形で現れる習慣から、心を守る。マントラを繰り返すことで、こういった激しい動きから心を癒し、安らかで、集中して、落ち着いた注意の状態へともたらす。

オーム、アーメン、ピース、シャンティ、シャローム、サットナム、スピリット、ハム、オーム・ナマ・シヴァーヤ、それにハレ・クリシュナなど、選べるマントラはたくさんある。ヘシカスムは、無名のロシアの僧による十九世紀の古典、『無名の巡礼者の手記』で知られるようになった「心の祈り」、すなわち「主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみ給え」を用いる東方正教会の神秘的な祈りの伝統である。たとえば「主イイスス・ハリストス、我を憐れみ給え」のように祈り全体でも、あるいは「主イイスス・ハリストス」のように、自分が惹かれる一部のみでも使うことができる。

沈黙を守る場合、唇や舌を動かさず、意味を振り返りながら、黙ってマントラを繰り返すのが一番である。最初の段階では、思考としてマントラに集中する。第二段階では、これに集中し、振動として感じる。第三段階では、マントラに従って内なる根源へ至ることを熱望する。定期的にこれを数年行うと、マントラがひとりでに聞こえ始める。

瞑想歩行:沈黙を守るかどうかにかかわらず、以下を行うことによってウォーキングを瞑想に変えることができる。

・目を約3フィート(約1メートル)先の地面を見続ける。
・黙って数え、呼吸の速度を、呼気が吸気より2倍長くなるようにする。無理をしない。これにより、副交感神経系が活性化し、落ち着いたリラックスした状態になる。
・あらゆる思考、感情、肉体的な感覚のすべてに対して目撃者の視点を育てる。あるいは、自分が解決したい特定の問題や疑問を熟考し、インスピレーションが、自分で築いた静かで集中した心の中に流れていくようにする。

抵抗を克服し、沈黙を守ることを日常生活に組み入れる

あなたの心は、「でもわたしはこの世界に住んでいる」と主張するかもしれない。それでも、乱されていない心によって生活を補強することができれば、この世界でずっと効果的に生きられることを覚えておくのが大切である。沈黙の一日で毎週を始めたり、終えたりすることができるならば、あなたは自分のエネルギー、健康、心の平安、人間関係を回復することになる。

あなたの心はまた、「でも時間がない!」と主張するかもしれない。呼吸の間に時間がある! 沈黙の瞬間が自分にとってどのように感じられるのかに注目して欲しい。たとえば、誰かが熟睡している部屋に入った場合、あるいは星空を見上げたり、森に入った場合にどう感じるのかについて考えてみよう。

心には数多くのレベルがあり、あなたが経験する沈黙のレベルは、それぞれのレベルであなたが積み上げたエネルギーの周波数、あるいは程度による。これを日常生活で実験することができる。意識して沈黙を保つと、あなたのエネルギーは自動的により高い周波数に転送される。逆に沈黙を守らないと、あなたのエネルギーは五感、感情、心の中のおしゃべりのより低い周波数へと落ちる。だから、意識して沈黙を保っている時には、より高次の知性にアクセスできるので、より創造的になれる。体の中の癒しもスピードアップする。必要な睡眠も少なくなる。食欲が減る。感情が落ち着く。最初は食べたくなってしまう断食の経験と同じように、あなたは最初話したり、心の中で思い巡らしたくなったりするが、エネルギーがより高い周波数に流れていくと、沈黙を守りたくなる。

誰か怒っている人がいる時には、黙るように試みよう。たとえば、あなたをいらだたせた人に感情的に反応する前に、何度か深呼吸をするか、マントラを繰り返すか、目撃者の視点に移る。すぐに、怒って反応する必要がなくなる。あなたの意識のレベルがあなたのエネルギーの焦点に従うからだ。上に述べたように自分のエネルギーを導くことができれば、心のより低い感情の周波数が沈黙する。結果として、自分の心のより高い次元による励まし、そして智慧、インスピレーション、愛、哀れみの声が聞こえ始める。あなたは「私対彼ら」という視点から外れ、「私たち」という唯一の存在がいるに過ぎないと理解する。非言語によるコミュニケーションが高まる。あなたと対立している相手も、あなたの落ち着きを感じ、自分自身のより高次の心の導きによってより落ち着くようになる。

もしあなたが沈黙、ヨーガ、瞑想、統御された呼吸、呼吸の意識、瞑想歩行、マントラ、そして目撃の修練を通じて、定期的に自分の心のより高い周波数を育てれば、あなたの最も高次の知性の声が、あなたの中で聞こえるようになる。関係が変わるだけでなく、あなたの人生全体が創造の奇跡となる。パラマハンサ・ヨガナンダの言葉を借りれば、「常に新たな喜び」となる。だからこそ、非常に多くの文化で「沈黙は金」ということわざが真実であることが知られてきているのだ。事実、定期的かつ意図的に沈黙を保つことは、私たちにとって最大の富の源なのである。

第九章 私たちの神への霊的な始まり

日常生活で正しい活動の道を選ぶにはどうするべきなのだろうか? どうしたら私たちのエゴによる煽動と真我による鼓舞を区別することができるのだろうか? どうしたら愛される者、主、神の導きへと私たちを開放する心の清澄さを育てることができるのだろうか? 

ヨーガのサーダカとして、サーダナ(真我実現をもたらす規定された一連の修練)に打ち込むと、しばしば私たちは、特に理解出来ない問題や課題と向き合った時に、このような疑問や似通った疑問に直面する。私たちは、生気体の感情と欲望からできた混乱と、それが私たちの思考と意思決定を知性ではなく根深い習慣にコントロールされてしまう様に気づくようになる。だとすれば、サーダカとして私たちは何をすれば良いのだろうか? 誰が私たちを目標へと導いてくれるのだろうか? 

ここがヴィジュニャーナ・マヤコーシャ(知性体)が、特により高次の側面である心霊的存在(psychic being)において重要な役割を果たすところである。心霊的存在はアーナンダ・マヤコーシャ(霊体)を代弁する存在だ。古代より、ヨーガの科学は五つのコーシャ(体)、すなわち肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体について教えてきた。これはエネルギーの鞘に似ており、それぞれが独自の周波数、濃度、特徴的な動きを持つ。

一、肉体すなわちアンナ・マヤコーシャ(「アンナ」は食物を意味する):それ自体に意志はないが、意志に逆らっても行動する、細胞レベルでの身体意識を含む、人間の物質的で、目に見える部分。

二、生気体、すなわちプラーナ・マヤコーシャ:欲望、感覚、感情、情熱、行動のエネルギー、欲望の意志、所有などの関連する本能、怒り、恐れ、貪欲、肉欲、悲しみ、喜び、憎悪、嫌悪、誇り、小さな好き嫌い、好みなどで構成される人間の性質の分野。メンタル体と生気体は、意識の表面では混ざり合っているが、本来は別々の力である。

三、メンタル体、すなわちマナ・マヤコーシャ:感覚の心、認知、感覚を通じた知覚、物事に対する思考の反応、アイデアを実現するための精神エネルギーの放射、言語能力を通じたアイデアの表現。

四、知性体、すなわちヴィジュニャーナ・マヤコーシャ:理智的な心(マインド)。記号、兆候、そして集められたデータからアイデアを分析、合成、構築する部分。心(マインド)は知性の従属的な力である。心(マインド)は、すべてを統合するワンネスを忘れて、人やものをそれぞれ別の離れたものであると認識する。それでも、超越を通じて啓蒙が起こると、あなたはワンネスのヴィジョンに戻ることができ、再びすべての名前と形の根底をなす究極の真理と実在を再び意識するようになる。

五、霊体、すなわちアーナンダマヤコーシャ(「アーナンダ」は至福を意味する):永遠の真の存在、すなわち個人の真我。霊的意識では、私たちは真我、すなわち魂を意識するので、すべてのものの中にその本質的な現実を、そして本質的な実在から生じる力や現象のはたらきを見ることができるようになる。

五体のそれぞれがお互いと絶えず相互作用を行う

ヴィジュニャーナ・マヤコーシャの一部である心霊的存在は、あらゆる心(ハート)の中にある神の光り輝く代表である。折りにつけ私たちを導いたり、警告したりしようとするが、通常その支援は私たちの五つの体のより厚く、無知な鞘の分厚いカーテンによって見えにくくなっている。結果として、心霊的存在が意識の前面に定着し、私たちの常なる導き手となるまでは、私たちを導くことができない。

その影響は限られているが、心霊的存在は、僅かに利益となる程度で、私たちに影響を与えることがある。ただしこれはいつも、私たちの無知で、習慣に動かされる人間の性質の厚いヴェールの背後からである。私たちの意思と性質が次第に神に明け渡されていくにつれ、心霊的存在が私たちの意識の中心となり、真・善・美に向けて直接、誤りなく私たちを導く。避けるべきことを警告し、何をすれば良いのかを指示する。霊的な目覚めは、すべてのサーダカの人生における重要なステップである。なぜならこれが内なるグル、ババジの好ましい影響が現れることを認めるからである。

ババジのクリヤー・ヨーガのサーダカとして、私たちは三つのイニシエーションのそれぞれで、心霊的存在の目覚めを助け、私たちの愛するサットグル・ババジと結びつく技法を受け取る。これには以下のようなものが含まれる。

・ババジ・サンヤマ・クリヤー、第一のイニシエーションで教えられる七番目のディヤーナ・クリヤー
・第二のイニシエーションで伝授されるマントラ。マントラ・ヤグナと呼ばれる聖なる火の捧げ物の回りに座ったグループによって愛と献身と共に繰り返されるマントラ「オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウム」(しばしばババジの電話番号と呼ばれる)を含む、特に私たちのイシュタデヴァター(私たちのお気に入りの神の概念)のマントラである。
・三番目のイニシエーションで教えられる144のクリヤーのシリーズのうち、シヴァリンガ・ ヴェーラシヴァ・ディヤーナ・クリヤー、ヴィジュニャーナ・ババジ・ダルシャン・クリヤー、それに18人のシッダのディヤーナ・クリヤー。

前述のすべてで、私たちは心霊的存在の声を聴く。ヨーガのサーダナの修練を通じた浄化の長いプロセスは、私たちの中の心霊的存在の目覚めを早める。ババジのクリヤー・ヨーガで教えられる様々なクリヤーは、基本的に次の目的を持っている。

・肉体を癒し、リラックスさせること
・微細なエネルギーのチャンネルを開き、生気体のクンダリニー・エネルギーを次第に目覚めさせること
・生気体およびメンタル体を落ち着かせ、潜在意識を浄化すること

さらに、集中力と意識的な意志力の行使を養わなければならない。クリヤー・ヨーガの修練はまた、無条件の愛に対して私たちの心(ハート)を開き、次第に神の方へ私たちを向ける。

クリヤー・ヨーガのサーダカとして、私たちは超能力を求めているわけではないということを理解しなければならない。心霊的存在を目覚めさせることにはより高次の目的、すなわち神に対する完全な明け渡しがある。このことをより深く理解するため、ババジのクリヤー・ヨーガのような総合ヨーガの目標を表す最終段階から始めて、このプロセスの段階を逆順に考えてみよう。

一、ソルバ・サマーディ、すなわちシュリー・オーロビンドの言葉で言えば、存在と性質の心を超えた変容が目標である。

二、これに先立つのが変容の長い期間であり、これは(a)普通のエゴ的な動機やものの見方を内なるヨーガの意識で置き換え、(b)私たちのベールに包まれた心霊的存在とその光の発見により深まり、その導きにより私たちの存在の肉体的、生気的、精神的部分を魂の意識的な道具に変え、(c)エゴを破壊し、真我を実現し、普遍化された霊的な心(マインド)・ハート・生命力・肉体を獲得する聖なる光・力・純粋性・知識を私たちの存在の中に落とし込む。

三、これは私たちの生と意識の外側の領域で心霊的存在が目覚め、活性化してはじめて起こりうる。

四、心霊的な目覚めには必ず、私たちの意識を内に向け、そこで心霊的な中心、すなわち私たちの魂の声を見出し、これと霊交するサーダナが先立たなければならない。

五、この内向きのサーダナは、私たちの精神および生気の動きが沈黙し、鎮まり、エゴの発現から浄化されるまでは起こらない。

私たちの人間的性質の長く困難な変容は、エゴが準備する障害や罠で満ちている。私たちは絶えず警戒を怠らず、継続して洞察と意志力を行使しなければならない。ババジのクリヤー・ヨーガのサーダカは、この世界や私たちの人間的性質から逃れることをしない。私たちはそれらを見て見ぬ振りもしなければ、それらを幻想として取り合わないこともしない。他の霊的な道、特に目標が生と死の輪廻からの開放や何らかの天国への到達に限られているものはそれらを幻想として取り合わない。このような道は通常、物質的な世界での生と脱俗につながる霊的な次元との間の分裂を創り出す。

ただし、心霊的存在の目覚めを求めることにより、サーダカは以下の形でその支援を受ける。

・神に対する純粋な愛と献身が育つ。
・私たちは、私たちのイシュタデヴァターの形、あるいは形を持たない神の存在を絶えず感じる。
・私たちは、自分たちが何をしなければならないのかについて、紛れもない内からの示唆と外部からの合図を受け取る。
・心と生気体が落ち着き、鎮まり、明瞭になる。
・私たちの性質のより低位の部分が、それまで没頭していたものを離れ、より高次の霊的な意識、そして愛、美、真実、智慧の質の上昇へと向かう。
・私たちは統制の取れた修練の中で、魂の甘美な喜びを経験する。
・私たちは、エゴ的な衝動についての警告を受け、これを望ましくない外来の侵入者であると認める。結果として、私たちはこれを拒絶することが比較的容易であることに気づく。

この支援の重要性は過小評価できない。シュリー・オーロビンドは以下のように述べている。

人はヨーガを修練し、心と理性の中に光を得るかもしれない。人は力を克服し、生気体の中のあらゆる経験にふけるかもしれない。人はさらに驚くべき肉体的なシッディを打ち立てるかもしれない。しかしもし背後にある真の魂の力が現れないなら、心霊的な性質が前面にこないならば、本当のことは何も為されていない。
──シュリー・オーロビンド(Letters on Yoga(ヨーガに関する手紙)、P1095)

なぜならば、心霊的存在である魂は、神の内なる代理人であり、同時に私たちを導き、支えるために常に手を伸ばしている聖なる恩寵の道具であるからだ。私たちがその導きと支援を得られるかどうかは、完全に私たちの反応、または反応しないことにかかっている。大いなる悲劇は、私たちが通常、応えられないことにある。たとえば祈りを通じてそうしたとしても、神が最も良く知っており、具現化した魂としての私たちの成長に必要な結果をもたらすという確信が、疑念や個人的な好みに代わる。

心霊的存在と、私たちの性質の支配者としてのその出現を見出す上で、ババジのクリヤー・ヨーガの技法をうまく使うために、私たちはメンタル体と生気体の動きを鎮めることの大切さ、そして真理と神の意思を知ることを望む理性の使い方の大切さを理解しなければならない。私たちの心や感情が混乱している時に、真理と神の意思の代理である心霊的存在を通して語られる魂からの示唆を耳にすることは期待できない。心の好みや習慣、そして生気体や肉体の性質は通常、心霊的存在の影響をそらしてしまい、惑わせてしまう。私たちの存在の中心にある心霊の光は、私たちのより低位の人間としての性質によって生み出される混沌によって隠されている。

私たちがこのような目標を明瞭に理解すれば、心霊的存在が、最初のイニシエーションで教えられる技法の定期的な修練を通じて、次第に姿を現す。この技法が、落ち着いたリラクゼーション、増加したエネルギー、そして私たちの存在の肉体、生気体、そしてメンタル体における健康を生み出す。私たちが四番目のディヤーナクリヤーであるアルーパ・ディヤーナクリヤーを、疑問、問題、課題に応用すれば、ヴィジュニャーナ・マヤコーシャ(知性体)が、真我、魂の霊感を受けた道具となり、私たちが求める導きをもたらす。これらの技法は乱れた心を鎮め、その習慣的な動きや好みの影響を打ち消す。

動揺した動きが無力化され、私たちの好き嫌いが鎮まると、私たちは心霊的存在が私たちの外側の意識に対して、私たちがやらなければならないことと避けるべきことの合図を数多く送っていることに気づき始める。このようなメッセージは単に、ある道徳的訓示の記憶ではない。これはすべての善き、真実で、美しく、優しく、高揚をもたらすものに対する感受性に起因するものである。私たちはこれを渇望することにより、その存在を制限したり、拒絶したりするものすべてに背を向ける。

私たちは、心霊的存在のメッセージの流れを、疑念、議論、恐れによって妨げてはならない。もしメッセージが届かないなら、それは心と生気体の静寂が十分に定まっていないか、メッセージが私たち自身の願いや好みに対する執着と軋轢を起こしているためである。私たちは、神が何を与えてくれるかではなく、神そのものを望まなければならない。私たちは神が望むもののみを望まなければならない。私たちは、神が私たちに知らせたいもののみを知ろうとしなければならない。そうしてはじめて、私たちはエゴの病である選り好みから自由になる。

さらに、メッセージは、エゴイズム、欲望、野心、その他の過度の弱さ、精神的な混乱、生命力あるいはその使い方のバランスにおける不備、そして私たち自身のより小さな観点に基づく行動の効力への過信によって妨げられる可能性がある。私たちは、誠実な自省とババジのクリヤー・ヨーガの巧みな応用によって、このような欠陥を取り除かなければならない。

シュリー・オーロビンドは、心霊的存在の出現を促進するポジティブな特性を簡潔に挙げている。

純粋さ、シンプルな誠実さ、そしてエゴ的でない、飾り気や見返りを求めない純粋な明け渡しが、心霊的存在を完全に開く上での条件である。
──シュリー・オーロビンド(Letters on Yoga(ヨーガに関する手紙)、P1099)

もし私たちが、自分自身の努力に頼るのではなく、神に対する熱望と神とその恩寵に対する信頼により、このような条件を育てていくならば、心霊的存在が姿を現す。私たちはその登場を、無条件の喜び、私たちの生は智慧の中で継続的に成長しているという感覚、心と生気体の動きを導く洞察、失望のような気分の漸減、神とその啓示に対する信頼の高まり、普遍的な愛、他者に対する寛容、憎悪や短気の消滅のようなしるしを通じて認めることができる。困難は、内なる導きの源に向かい、恩寵を受けるための機会となる。

魂の代理人である心霊的存在が私たちの意識の最前面に来るようになると、真・善・美に抗う私たちの性質の中にあるあらゆるものを明かにする。それは私たちを喜び、光、愛へと導き、上述の段階に対して、私たちの意識に備えさせる。これにどれほど時間がかかるのかは、どれだけの抵抗と不明瞭が私たちの中に残っているのかによる。つまるところ心霊的存在の目覚めと私たちの霊的な潜在能力の成就を最終的に定めるのは、どれだけ知っているのか、どれだけアーサナをうまく実行できるのか、あるいはどれだけうまく集中あるいは瞑想するのかですらない。何よりも、それは私たちの神に対する熱望の誠実さによる。

第十章 それらは異なるものに非ず

霊的な道で、私たちは神の存在と性質、そして至高の存在と持ちうる関係や経験の種類について数多くの疑問を抱く。もし私たちが宗教に関する、多くの場合偏狭である概念を超越する視点を評価し、宗教あるいは知性そのものに固有の軋轢ついて注意を怠らなければ、これはずっと簡単になる。実際、神秘主義者は、心そのものが沈黙してはじめて、このような問題は解決し、智慧が姿を現すと主張する。

ヨーガ・シッダは、詩という形で貴重な指導を分かち合っている。読者に従来の見方や価値を捨てさせるために、ヨーガ・シッダはしばしば逆説的だったり、皮肉だったりするような言葉を用いる。イエスの寓話のように、このような詩は読者に衝撃さえも与えるかもしれない。

シッダの著作を理解することは、私の師であるヨーギー・ラマイアが与えてくれた最高の贈り物一つである。生徒と会合を持つ時はいつも、師匠は18人のシッダに捧げる歌で始め、続いてその詩から採った4行から6行の節を唱えた。師匠は、韻文を英語に訳し、次にこれについての講義をした。師匠のインスピレーションは本当に素晴らしく、時には、まるで偉大な存在が彼を通して語っているように、実際に輝いた。また私たちのサーダナの一部として、私たちが毎日1行を読み、唱え、これについて瞑想することを要求した。私はこれを熱心に行い続けた。私の修練を助けるために、私はこのような詩を見つけ、翻訳し、出版した。これは日常の課題と向き合い、大いなる人生の哲学的な疑問を解く上で、私のババジのクリヤー・ヨーガの修練における智慧と導きの素晴らしいよりどころとなった。

以下の節は、シッダ・イダイ・カダルの詩からのものだ。イダイ・カダルは、近年は賢者ラマナ・マハルシの住まいとして有名になった聖なる山アルナーチャラに住む羊飼いだった。羊飼いとして、イダイ・カダルはしばしばその詩で「牝牛」に触れている。タミル語の牝牛(pasu)は、個我を意味する。シャイヴァ・シッダーンタの神学では、三つの現実、パティ、パス、パサが存在する。すなわち神、魂、足枷(俗世への執着)である。パサ(足枷)は三種類、すなわちアヴィディヤ(真の自分に対する無知)、カルマ(過去の思考、言葉、行動の結果)、マーヤー(幻想)である。

あまねく存在する者について瞑想せよ、ああ! 牝牛よ! そして神を崇拝せよ。
もしそうするならば、ああ! 牝牛よ! 汝は至高の状態に至り、常にそこにあるだろう。
──イダイカットゥチッタール(「Narayanakkon Kurudal」、第34節、The Yoga of the 18 Siddhas: An Anthology(18人のシッダのヨーガ:アンソロジー)、P378)

人生の渦に取り囲まれているとしても、その場に完全に意識を置き続け、どの瞬間も存在そのものに集中していれば、私たちは真我実現の状態を達成し、そこに留まることができる。

昼夜を問わず、汝が神の御足を求めることができるなら、ああ! 牝牛よ! 
悟りの状態が汝を訪れ、汝は完全なる者を見るであろう、ああ! 牝牛よ! 
──イダイカットゥチッタール(「Narayanakkon Kurudal」、第34節、The Yoga of the 18 Siddhas: An Anthology(18人のシッダのヨーガ:アンソロジー)、P378)

「御足」という言葉は、神の存在を象徴する。その前の節の非人格的な遍在する存在は、ここではその足に触れることができる人格神として述べられている。イダイ・カダルは、因果関係、そして最終的な結果である神実現について保証する。魂としては、努力しなければならない。魂の努力は連続し、中断してはならない。そうしてはじめて、自動的に結果が生じる。

神の救いのほかには、ああ! 牝牛よ! 他に何もない。魂の魂、ああ! 牝牛よ! それは神の御足なり。
──イダイカットゥチッタール(「Narayanakkon Kurudal」、第34節、The Yoga of the 18 Siddhas: An Anthology(18人のシッダのヨーガ:アンソロジー)、P379)

前の節に述べられる「救い」あるいは神の恩寵と愛は、真我実現にとって基本的な条件である。この節は、単純に「それらは異なるものに非ず」と表される、私たちと神との関係に対するシッダの哲学を表現している。「魂の魂」は、この世に存在するすべてのものは魂「以外の何ものでもない」ことを意味している。

シッダによれば、神すなわちパティは、どのような表現によっても制限することができない。神は至高の抽象であり、「それ」と呼ぶのが一番良い。神は至高の意識であり、意識は魂と神が共有するものである。私たちの存在の基盤は意識であり、それは心の動きと五感の経験を目撃する者である。

「それらは異なるものに非ず」とは、神が実在(リアル)であることを意味している。ただし、このことは重要である。なぜなら魂が行う人間としての人生も、これに伴う苦しみやドラマと共に現実(リアル)である、とこのことは断言するからだ。そしてそれは現実(リアル)であるので、それは捨てたり、軽んじたりするべきではなく、評価し、修練の場とするべきである。この見方は、インド哲学で独特のものとなっている。

アディ・シャンカラ(788年頃〜820年頃)の時代からインドの主要な哲学であるアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)は、ブラフマンのみが真実であり、残りはすべてマーヤーであると断言する。これは、「tat tvam asi」(それは汝である)、それに「aham Brahman」(我はブラフマン)というマハーヴァーキヤ(偉大な言葉)にまとめられている。一方でシッダは、私たちの魂の成長は垂直だけでなく水平でもなければならないと説いた。従って、そこには私たち人間の性質のシッディ(変容、完成)を含んでいる。

私たちに自由意志はあるのかと尋ねた時、ヨーギー・ラマイアは、私たちの自由意志は不完全で限られていると言った。ヨーギー・ラマイアは、牝牛や山羊がつながれているロープと杭(パサあるいは足かせ)にたとえた。牝牛はロープの長さによって決まる半径の中は自由に動けるが、その先はそうではない。同様に、個々の魂も、アヴィディヤ(無知)、カルマ、マーヤーをその魂が既に越えた範囲までしか自由はない。私たちは、パサとその現れであるエゴイズム、執着、嫌悪の念、習慣を意識し、これを手放す限りにおいてのみ、神の御前で真の自由を見出すのである。

汝が心の中心で、精神、言葉、体を超える
太陽を崇拝しますように
──イダイカットゥチッタール(「Palarodu Kilattal」、第48節、The Yoga of the 18 Siddhas: An Anthology(18人のシッダのヨーガ:アンソロジー)、P380)

この節はさらに、言葉では表現できないが、すべてに浸透している至高の抽象として神を描いている。感じたり理解したりすることはできるが、表現することはできないので、暗喩が必要になる。イダイ・カダルは神を指すのに「太陽」という言葉を用いており、その輝きは人の理解を超えているが、すべてを照らす意識の力と光として経験することができる。またすべてを意識しているものである「それ」を意識するために、瞑想を通じて内側で神を崇拝する必要を強調している! 

時の位相を超越した太陽の光を汝の心に捉え
絶え間なくそれを崇め給え
──イダイカットゥチッタール(「Palarodu Kilattal」、第49節、The Yoga of the 18 Siddhas: An Anthology(18人のシッダのヨーガ:アンソロジー)、P381)

この節は、そこからすべてが生じ、そこにすべてが還る意識の光を常に認識するヨーガを記述している。その瞑想の対象である「太陽の光」は、「偉大な白き光」の共通の神秘経験を生み出すことができる。

三位一体、三つの果実、砂糖、アムブロシア、そして天人が崇拝したものの
最初のものである神を崇拝し給え
──イダイカットゥチッタール(「Palarodu Kilattal」、第51節、The Yoga of the 18 Siddhas: An Anthology(18人のシッダのヨーガ:アンソロジー)、P381)

ここで、「三つの果実」と「砂糖」の甘さは、神との霊交は甘く、あるいは至福に満ちており、私たちは甘美な至福について瞑想し、私たちの生においてそれをより多く現すことによって神を感得できるということを暗示している。
従って、神は到達可能である。

太陽の光線に露の滴が蒸発するように
以前のカルマを除き給え
その友を左に配した神を礼拝せよ
そして解放を得るのだ、ああ! 羊飼いよ! 
──イダイカットゥチッタール(第8節、The Yoga of the 18 Siddhas: An Anthology(18人のシッダのヨーガ:アンソロジー)、P366)

最初の行は「太陽の光線」、知性あるいは意識が、欲望や嫌悪の念から生じたカルマを苦もなく溶かすことができることを示唆している。

第3行は、神はその創造物から切り離すことのできない「意識のエネルギー」であり、エゴ感覚なしで「それ」に集中することで、「それ」は内側で輝き、私たちが平衡に生きられるようにしてくれることを示している。

私は心にシヴァの輝きを保つ
ネクター、純粋な蜜、地とその他である精鋭
一は、五へと進化し、空の高名なる光へ
幸福の海、そしてそれと共に常に生きる
──ldaikkattuccittar (第8節、The Yoga of the 18 Siddhas: An Anthology(18人のシッダのヨーガ:アンソロジー)、P367)

言葉で表すことのできない神を表現するシッダのお気に入りの暗喩の一つが、ヴェッタヴェリ(広大な輝く空間、空の光)である。私たちは、輝く真我の気づきとして、自分たちの中にそれを見出す。「五」とは自然の五元素である。

ブラフマンは空、虚空のごとし
これを十分に理解し崇拝することは
具現化した魂にとって救済の鍵である
さもなければ、ああ! 羊飼いよ! 
──イダイカットゥチッタール(第8節、The Yoga of the 18 Siddhas: An Anthology(18人のシッダのヨーガ:アンソロジー)、P364)

ブラフマンを知ることにより、魂は転生の必然とそれに伴う苦しみから永遠に解放される。ブラフマンは、空の彼方へ行き、実際スンニャ(虚空)である。だがスンニャは空虚ではない。それはフルネス(充満)である。それは自由なままに、すべてを含み、その彼方まで伸びる。それは概念に縛られない開かれた次元を指し、時空間ネットワークの彼方にある。それは主観性と客観性の不在である。

シッダの詩(節)について瞑想することがそれ自体イニシエーションである。シッダの言葉が指している「それ」に私たちの注意が向けば、真理はおのずから姿を現す。このような節の隠された意味を求めるイニシエート(行法を伝授された者)には、7番目のディヤーナ・クリヤーであるババジ・サンヤマ・クリヤーを使うことが勧められる。

第一一章 ヴェッタヴェリ:広大な輝く空間

末端に、口のきけない者が住んでいた
グルはどこだ? ブラフマンはどこだ? 何もない
つながりはいつ起こるのだ? 恩寵はどこにあるのだ? 
創造されていない空間には何もない
足元で待ち、シッダと話し合い
(求道者は)ムーラを横切ると幻を見た
そして究極を理解する五つの山(muvancu varai)を
そして彼のみがアガスティアの息子と呼ばれることになるだろう
──ダンヴァンタリ・ジュニャーナ(第10節、The Yoga of he 18 Siddhas: An Anthology(18人のシッダのヨーガ:アンソロジー)、P471)

ヨーガは、私たちではないものに対する自分自身との誤った同一化を手放すことだけでなく、真我実現と神実現における私たちの存在の根源で私たちは誰であるのかを覚えておくことでもある。自己回想の修練は、いろいろな形を取ることができる。たとえば「私は誰だ?」あるいは「苦しんでいるのは誰だ?」のように尋ね、このような疑問によって関心を内に向けることである。

ヨーガのシッダは、より直接的な方法を定めていた。すなわち特に眉と眉の間で、ビンドゥと呼ばれる光の点、あるいは聖なる音節である「アウム」に集中し、それから私たちの意識を拡大させるというものである。この修練の結果は、ヴェッタヴェリ(広大な輝く空間)の感得である。

神を感得し、無知な人間の性質を変えるように他者を鼓舞するため、シッダは名前や形や人格を持つ個別の神に言及するのを避けた。シッダの著作のどこにも、神、神格、あるいは聖なる者に対する言及は見つからない。シッダにとって、神は至高の抽象であり、名前や形を超えていた。神を定義すること、あるいはこのことに関してはそれ以外の何であれ、神を限定することになる。そもそもどうしたら無限の存在を言葉で限定することができるのだろうか。それでもシッダは、クンダリニー・ヨーガの修練を通じて、ヴェッタヴェリとして至高の存在を感得するよう他者を鼓舞することを求めた。

上のシッダ・ダンヴァンタリの節で、「口のきけない者」は神秘の音節、「アウム」を指しており、概念として、あるいは議論を通じてではなく、ただ絶え間ない雄弁である沈黙においてのみそれを把握することができると暗に示している。「末端」はもはや関係が存在しない頭の天辺にあるサハスラーラ・チャクラを指している。グルと弟子と神と信奉者の間の関係は最後に合一する。「創造されていない空間」は言葉で表すことのできない「絶対者」、広大な輝く空間を言葉で表す上でのシッダお気に入りの暗喩であるヴェッタヴェリを指している。それはどのような関係の組み合わせによっても定まらない、論理を超えた全体である。どれだけ語ろうともそれを捉えることはできないが、シッダが定めたクンダリニー・ヨーガの修練で、グルの指導を通じて、これを感得することができるかもしれない。

次の行で、ダンヴァンタリは、ヴェッタヴェリを感得する上で基本的な要素を述べている。すなわち、グルというかたちで学び(「足元で」)、ムーラーダーラ・チャクラのエネルギーを目覚めさせ、これを5つのより高次のチャクラを通して心の中で上向きに、サハスラーラ・チャクラに至るまで送ることである。この絶対的な現実と一つになり、その至福を楽しむことで、私たちは「アガスティアの息子」と呼ばれるに値するようになる。つまり、アガスティアのシッダの伝統に属するということである。

ヴェッタヴェリは、至福に満ちたサマーディ状態、意識の空間、超越的認識の空間、存在それ自体の認識を表す。それは思考が一つ一つ減っていき、最後は単に空っぽの広がりとして私たちの意識が存在するようになる「場所」である。それは主観性と客観性の不在を意味する。それは時間からの逃避を意味する。それは永遠の今である。それは私たちが過去、現在、未来を超越する状態である。それは感覚的な知覚にアクセスできない状態、他と異なっていることを示すしるしのない状態、清浄な空である。ヴェッタヴェリは、解放であり、真の独存位である。プラーナーヤーマの間にマントラの「ヴァ」(va)と「シ」(si)を繰り返すことで、私たちはその静的および動的な形態におけるシヴァム、すなわち神の存在を理解し、下の6つのチャクラが開き(前の節では「ムーラ」それに「五つの山」として言及されている)、ヴェッタヴェリ、すなわち開かれた空間、解放を明らかにする。それは「あの真理」、無知の「闇の中に隠されていた太陽」であり、これをリグヴェーダは、「at satyam suryam tamasi ksiyantam」と言っている。

それはシッダによると神の五つの機能である創造・維持・破壊・秘匿(曖昧化)・恩寵の源である。

それは形がなく、欠点もない
自ら光り、遍在する
常に至福に満ち、表現を超え、そして
それを知った者の内なる光
自身をブラフマ、ヴィシュヌ、シヴァに分かつ一者
全宇宙を創造、維持、破壊する
それは解放である光の柱のよう
神の御足よ、護り給え
──パームバッティチッタール (「Aphorisms of Wisdom」、第1節、The Yoga of he 18 Siddhas: An Anthology(18人のシッダのヨーガ:アンソロジー)、P378)

シッダ・ボーガナタールは次のように述べている。

ただすべてを包み込む、永久不変の空間があるのみ
霊的無知を招く宗教のつながりを断ち切り
戸惑いと共に、絶対者と一つになり
祝福されたネクターを経験し、楽しめ
──ボーガナタール(「Astanga Yogam」、第14節、The Yoga of Siddha Boganathar(シッダ・ボーガナタールのヨーガ)、第1巻、P210~211)

ボーガナタールは、最終的には形のない、至福に満ちた意識──ヴェッタヴェリ──だけがあると私たちに語りかける。ヴェッタヴェリという言葉は、ビンドゥ(点、種、出発点)という言葉と密接な関係がある。これは瞑想で内なる宇宙を解き放つ集中的な開始点である。おそらく「宗教」という言葉は、神の選ばれた形としての「至高の存在」の像を指しており、その選択は個人を神から切り離すように思われる。これは神についての深い集中や瞑想でさえも、解放にはつながらないという主張を反映している。最終ステップは、表象が消えて、最も深い集中と瞑想が形を持たない至高の存在に対して行われる時に起こる。私たちは、それを輝く自存意識として自分たちの中に見出す。目を閉じて、眉の間の光点に集中し、「それ」を経験するのだ。

第一二章 聖なるマーヤー

純質、激質、暗質の三つの性質(グナ)に幻惑されている全世界は、三つの性質を超越している不滅の私を知らない。
──バガヴァッド・ギーター、第7章13

自分の存在の真理を理解したいと熱望するあなたは、マーヤーとして知られる自然の原則を理解しなければならない。それはあなたの真我の中にある主体(見るもの)と客体(見られるもの)の分離を通じて、一者を数多くの物であるように思わせる心の錯覚の力である。あなたの体、感覚器官、心に働きかけるこの力は、あなたの聖なる存在に対するヴィジョンを曇らせる。前の節が言及している「グナ」は、自然の様相あるいは質、すなわちラジャス(行動、動き、情熱、動揺)、タマス(惰性、疑念、混乱)、サットヴァ(バランス、落ち着き、明確な理解)である。

毎日、あなたはラジャスとタマス、動揺と惰性の間を振り子のように揺れている。サットヴァが優位に立つまれな落ち着きの瞬間においてのみ、この二元性を超越し、あなたは日常生活のドラマを超えた無限で永遠の存在を知覚する。さもなければ、マーヤーの戯れに魅了され、ラジャスに駆り立てられて、あなたは物質的、非物質的の両方の欲望の対象の中に刹那的な幸福を求める。時間に迫られ、過去の行動の結果である習慣に駆り立てられ、あなたは力、カネ、名誉を追い求める。あるいは疲労、疑念、落胆といったタマスの中で崩れ落ちる。あなたは母なる自然の三つの力のおもちゃだが、エゴイズムに目がくらみ、この力は自分のものであると信じる。

あらゆるヨーガの修練、それぞれの技法の目的は、サットヴァの存在を増し、ラジャスとタマスの影響を減らすことにある。たとえば、姿勢あるいはプラーナーヤーマを熱心に修練することで、疲労(タマス)を克服することができる。よりリラックスしたかたちで行う、ゆっくりとした深呼吸を修練したり、自分を困らせているものを捨て、あなたの存在の苦しみの原因に対する洞察力を育て、毎日の瞑想を通じて目撃者の視点を育てたりすることで、神経の動揺(ラジャス)を克服することができる。このことが修練の目的であることを思い返せば、あなたのヨーガは悟りとマーヤーの幻惑からの解放への道となる。

マーヤーの代行者

シッダーンタ(シッダの教え)によれば、あなたの神の存在に対するヴィジョンは、母なる自然のマーヤーの代行者あるいはマントによって見えにくくなっている。

・ラーガ:情熱、欲望、拘泥、執着、嫌悪の情、たわいもないが相当な好き嫌い、欝・悲しみ・恐れ・怒り・肉欲・誇り・勇気・受容・安らぎの感情を含む、新しい経験における感情的な幸福を常時探求すること。あなたは時に、自分がマイナスの感情に長くふけっていると、何らかのポジティブな変化が生まれるだろうとあまのじゃくに考えて、あるいは、こうした感情は天気みたいなもので、なくそうとしても仕方がないと考えて、マイナスの感情に喜んで溺れる。

・ヴィディヤ:全知の神と異なる、部分的な知識。あなたの知識は限られており、五感、有効な記憶、推論を通じて知覚したものに閉じ込められているため、あなたは全体像を見ることができない。神の視点からものごとを見ることができない。未知は恐怖、疑念、誤解を生み出す。

・ニヤティ:カルマの法、運命、至高の存在の永遠なる自由の対極。あなたが真の自由を持たないのは、あなたの個々のカルマを形作るサンスカーラ(習慣)によって、思考・言葉・行動が抑制されているためである。運命はあなたの最善の意図や努力を制限する。

・カーラ:自分は時間によって制限されていると信じていること。神は永遠の中を生きているが、あなたは自分のやるべきことをやり、エゴの欲望を満たすには時間が足りないと感じる。あなたは死、時の終わりを恐れて生きている。あなたは時間がないことによってストレスを受け、逆に自分の時間で何をすればよいのか知らない場合は退屈に苦しむ。

・カラー:部分、部分的な機能、あるいは限られた活動、限られた力。全能である神と異なり、あなたの力は自分の過去の思考・言葉・行動の結果、あなたの長所短所によって抑制されている。

マーヤーの代行者による結果として、あなたは名前や形を超え、時空のあらゆる制限の外にいるものの中にある超越的なワンネスを楽しむことができない。その代わりに、いろいろな感情の状態に現れる実存的な苦しみを避ける。これから逃れるために、あなたは大なり小なり一過性の喜びの源である新しい経験を追いかける。あなたは疑念に取り憑かれている。孤独を感じる。自分の知る力と行動する力が限られていると感じる。

三つのマーラー

シッダは、魂を束縛する三つのマーラー(汚れ、あるいは足かせ)について述べている。すなわちアヴィディヤ(エゴイズム、真の自分に対する無知)、カルマ(思考・言葉・行動の結果)、マーヤー(心の幻想)である。ヨーガの修練は、あなたの魂からこのような三つの汚れを浄化する。

マーヤーは、自然の世界の存在を否定するわけでも、非現実を取り扱うわけでもない。マーヤーを通じて、より低次の性質がグナを使って作用する。マーヤーは、あなたの知識を惑わせ、誤った価値を創り出し、あなたをエゴ、心的傾向、感覚の肉体的衝動、限られた知性で包み込み、そのことによってあなたからあなたという存在の至高の真理を隠す。人を惑わすマーヤーによって、自分が神、無限で不滅の霊であるという事実が分かりにくくなる。

神があなたの存在の本当の真理であると分かれば、他のすべてがこのヴィジョンを受け入れ、その真の特徴を具現化する。あなたの人生と行動は神の価値を獲得し、聖なる自然の法則と調和して動くようになる。

なぜマーヤーは克服がそんなに難しいのか? 

マーヤーを克服するのが難しいのは、それが神の目的に仕えているからである。それ自体が神性である。その分割された主体的および客体的、そしてより低次の宇宙的な側面──サットヴァ、ラジャス、タマス──において、マーヤーは神の性質の漸進的な展開である。

物質自然の三性質(グナ)からなる私のこの聖なるエネルギーに打ち勝つことはたいそう難しい。だが私にすべてを任せて帰依する者は、容易にこれをのりこえて行く。
──バガヴァッド・ギーター、第7章14

神があなたの理解力の周囲に紡いだのは宇宙のヴェールである。あなたはこの覆いから逃れ、より劣った性質を捨て、本来の至上の神の方を向かなければならない。

「世界は、霊的な自己以外の視点から見た場合に現実のように見える夢の如き幻想である」というアドヴァイタ・ヴェーダーンタの見方に、バガヴァッド・ギーターは同意しない。ギーターは、この幻想の起源を説明できないということを含め、このような考えが持つ膨大な論理上の問題について触れていない。ただ世界は完全な実在を包含することができない、謎めいて、理解不能で、部分的な意識であり、世界はうつろいやすい自然現象によって前後に吹き動かされており、マーヤーの活動的な力である「霊」(神)を垣間見ることはできないと述べているのみである。

その代わりに、あなたの魂の静寂の中でマーヤーを超越すると、世界は消えないが、その意味の核心がすべて変わる。この霊的なヴィジョンは、それが本当は存在していないということを明かすわけではない。そうではなく、そのすべてが存在するが、以前とは相当に違っている。すべては真我と魂と神の性質であり、すべてはヴァースデーヴァ(訳注:至高神クリシュナ)である。ギーターによれば、世界は現実であり、神の創造物であり、永遠の力であり、パラブラフマン(至高の存在)の顕現である。三つのマーヤーのより低次の性質(「私は肉体」、「私は個性」、「私は魂」)でさえも、至高の聖なる大自然から生じている。

しかし、片方は劣等で、活動的で、一時的であり、もう一方は優等で、平静で、静寂である行動を超えた永遠の現実であるという二重現実の仮定のどこにも避難場所はない。(苦しみや輪廻からの)解放が、この世界の不完全さから神の偉大さへの、行動から沈黙への移行であることは慰めにならない。ギーターは、生きている間、あなたは真我とその沈黙を意識しながら、なお現実の世界で力を持って行動しなければならないと主張するからである。そしてギーターは、誕生の必要に縛られずに自由であり、宇宙よりも優れながら、永遠に行動する神御自身の例を示す。従って、その完全さにおいて神のような性質になることにより、私たちはこの二重の経験の統合を分かち合う。

だがどのようにして? ギーターは、より低次の性質の現れから解放され、聖なる存在へと上昇することは容易であると教えている。完全な平等の下に確立されれば、あなたの理想像はギーターがプルショッタマ(至高の神)と呼ぶものに対して固定される。それはイーシュヴァラ(特別の真我)であり、欲望や苦しみの原因、あるいはカルマによってさえ影響されない。それはまた、それ自体の変容の力によって影響を受けず、グナの作用によって乱されることがない、魂の中の魂、すべての自我の中の不変の真我である。これは、カーリー(母なる自然、マーヤー)が片足をあげながら、触れることなく、のしかかるように立っているあおむけのシヴァの像によって表現されている。

無常の魂(霊)と不変の魂(霊)の両方よりも優れた至高の存在は、卓越し、自然の創造物を支えている(バガヴァッド・ギーター、第151718節)。ギーターのプラクリティ(大自然)とプルシャ(魂)の分析を検討してみよう。本来、サーンキヤ(古典的ヨーガの哲学体系)は、プルシャを単数形で述べている。ヴェーダーンタ・ヨーガの元となったウパニシャッドは、一つの木にいる二羽の鳥、永遠に繋がれたつがいとして、二つのプルシャを表現している。片方は自分の宇宙を楽しんでいる自然の中のプルシャで、木の果実を食べている。もう一つはその対を見ている沈黙の目撃者で、楽しみを断っている。最初のプルシャが二番目のプルシャを見て、すべてが自分自身の偉大さに他ならないと知る時、最初の鳥は悲しみから解放される。

この比喩的表現は、より高次の一体性の状態にある真我は永遠に自由で、不動で、執着を持たないことを示している。ただし、そのより低次の存在において、それはプラクリティの創造物の多様性の中に降り、個別の創造物の形でのより高い状態に戻ることにより、そこから引き上がる。このことは、自覚しているひとつの魂の二重の立場、すなわち(a)自然の中にある無常のプルシャ、魂の様々な変容、そして神の多様性、そして(b)不変で不動のプルシャ、沈黙の真我、聖なる存在の一体性、自然の動きに関わることなく、プラクリティとその働きから自由である自然の目撃者を説明する。

ウパニシャッドの他の節から考えを発展させ、ギーターは、この二つにさらにもう一つ付け加えている。それは至上の存在、プルショッタマ(最高のプルシャ)であり、すべての創造物はその偉大さであり、無常の多様性と不変の一体性の両者を持つ。これは神がジーヴァ(個我)となる、より高次で、意識的な神の性質を明らかにする。より低次の性質において、個別の存在はそれぞれエゴとして現れる。より高次の性質では、あなたはプルシャである。言い換えれば、多重性は、神の霊的な性質の一部である。この個我が私自身である。創造物においては、それは「私」の部分的な現れとなる。

この世界にいる生命体(個我)は、「私」の永遠なる一部分である。それは心と五感を含むプラクリティの主観的な力を(引き寄せて)高める。
──バガヴァッド・ギーター、第15章7節

プルショッタマの概念は、一元論哲学の硬直した定義に勝ると主張する最高のバクティ・ヨーガの基礎である。プルショッタマに対する崇敬とプルショッタマとの合一を通じて、あなたはその聖なる性質を完全に楽しむことができる。

善である神がなぜこの世の多くの苦しみを許すのか? 

人生のドラマをエゴの視点から評価すると、しばしば繰り返されるこの質問は謎となる。だが、苦しみが生じるのはあなたの心を惑わせるマーヤーの力によるものであることを理解し、人生のドラマを目撃者の真我の視点から観察すれば、あなたはすべて神の恩寵の表現であるというシッダの教えを正しく認識し始める。真我には何も起こらない。この世の本当の変化は、個人からなる大衆の意識の変化の結果としてのみ起こる。人間の性質から、これは人類が数多くの困難な、あるいは激しい痛みを伴う難題と最低限必要な数の出来事を克服してはじめて起こる。「苦しみは最大の教師である」、なぜならば私たちは学ぶのが遅いから。

予想外のことが起こったら、「誰が苦しむのか」と自問してみよう。この質問はただちにあなたを目撃者としての真我の視点に戻す。確かに、肉体や感情的な心にはものすごい痛みがあるかもしれない。失望、恐れ、いらだち、憤怒があるかもしれない。だが、あなたは苦痛でも感情でもないというのが本当のところだ。あなたはその目撃者である。そういったものは来ては去るが、あなたは永遠の目撃者のままである。あなたは自分の中に、憎むよりも愛したり、悪の前で善を生み出したり、誤っている、あるいは混乱させるものの中に真理を見出したりする潜在的な力と意識(クンダリニー)を持っている。

五つの聖なる力

ティルマンディラムに描かれている神の五つの力の一つである秘匿(曖昧化)が原因で、あなたはマーヤーの覆いを見抜き、グナの働きと五感を超えて神を求めなければならない。神のそれ以外の力は、創造、維持、破壊、恩寵である。

シッダーンタ(シッダの智慧の教え)によれば、神は、個我がそれぞれ肉体を持ち、そのカルマによる結果と教訓に取り組む環境(状況)を創造する。神は、肉体を纏った魂が快楽を追求し、苦痛を避け、エゴイズムの限界を経験する中で、智慧をつけて成長するのに十分な長さの命といくつかの関係を維持する。神は、魂が新しい啓発的な関係を持つ道を拓き、私たちが死ぬ時に、肉体を持つことによる難題から休息を与えるために、関係を含むこれら環境(状況)を破壊する。神は、魂が智慧を求め、エゴの限界を超越しなければならないように、世界の姿の背後にその存在を秘匿するあるいは隠す。

五番目の聖なる力である恩寵は、魂がエゴの苦しみから自由になり、愛の力を通じて、すべてのものとの合一を実現することを望む時の魂の呼びかけに対する神の応答である。「それはあなたが望むものを常に与えるわけではなく、あなたが必要とするものを与える」 実際恩寵には、創造、維持、破壊、秘匿(曖昧化)を含むすべての神の力におのずから現れる。智慧は、このことを知ること、そしてあらゆる経験が持つ教訓を学ぶことを含んでいる。カルマと異なり、恩寵は過分である。恩寵は魂に対する神の愛を表し、私たち皆を孤独からすべてとの合一へと導く。恩寵は限りなく寛容であり、人生の経験から私たちが本当は何者なのかを学ぶ無限の機会を与える。

第一三章 ラヤ・ヨーガ:溶融のヨーガ

ヨーガに対する今日の一般的なアプローチは、体あるいは心の健康を改善するための手段としてのものである。これは私たちの物質主義的な文化の風潮には合うが、ヨーガの本来の意図──悟りあるいは真我実現と実存的な苦しみの克服──の実現を求める者は、ヨーガの創始者であるヨーガ・シッダが考えた、人間の性質、そしてクンダリニーあるいはラヤ・ヨーガの原則を理解する必要がある。

ラヤ・ヨーガは、私たちに体と心の複合体との習慣的な同一化を解消させ、真我の実現をもたらす溶融のヨーガである。シッダのタントラの文献に記されているように、これはクンダリニー・ヨーガの不可欠な要素である。クンダリニー・ヨーガは、私たちの潜在的な力および意識であるクンダリニーを活性化するために、プラーナーヤーマ、マントラ、チャクラ、バンダ、ムドラー、ハタ・ヨーガを利用するクリヤー(ヨーガの技法)を取り入れている。タットヴァ(自然の原理)のサーンキヤ(インド哲学の六つの体系のうちの一つ)による分類に基づき、五つのブータ(元素)のそれぞれが、別々のチャクラ(心霊エネルギーセンター)と体の場所に関連づけられている。

一、有形の物質である地の元素は、脊椎の基底部にあるムーラーダーラ(基底)・チャクラと結びついており、肉体的な生存の媒体である。これは惰性で特徴づけられる。

二、水の元素は、尾骨にあるスヴァーディシュターナ・チャクラと結びついている。これは感情の媒体である。

三、火の元素は、へその反対側にあるマニプーラ・チャクラと結びついている。これは欲望、感覚認知、そして自律神経系とメンタル体の媒体である。

四、風の元素は、アナハータ(心臓)・チャクラ、それにヴィシュッディ(喉)・チャクラと結びついている。知性、理性、コミュニケーションの媒体である。

五、空の元素は、アージュニャー(眉間)・チャクラ、それにサハスラーラ(頭頂)・チャクラと結びついている。これは直観と超意識の媒体である。

三つのマーラー(足かせ、あるいは人間性の制約原理)、すなわちアハンカーラ(エゴイズム)、マーヤー(幻想)、カルマ(習慣すなわちサンスカーラに駆られた思考、言葉、行動の結果)によって、私たちは身体、感情、そして心と知性の動きを自身と同一化する。私たちからエゴイズム(私たちではないものと同一化する習慣)を浄化するために、パタンジャリの古典的なヨーガは、純粋な目撃者意識である真我を実現するべく、このような動きからの無執着の連続した修練を要求する(ヨーガ・スートラ、第1章12節)。これを継続して修練する構えができているものはほとんどいないので、パタンジャリは準備として八つからなるアシュタンガ・ヨーガを記し、推奨している(ヨーガ・スートラ、第2章29節)。

その後、シッダはクンダリニーを活性化させるためのエネルギーに関連する多くの技法を実験し、「意識はエネルギーに従い、エネルギーは意識に従う」ことに気づいた。シッダは、タントラの基本原則を発見した。これは、人間の性質から逃れることとは異なり、これを変容するには、低位のチャクラから高位のチャクラへ意識とエネルギーを方向づけることが必要であると述べている。これはムーラーダーラ・チャクラと結びついているビンドゥ(性的エネルギー)を、サハスラーラ・チャクラと結びついているオージャス(魂のエネルギー)に昇華するプロセスである。

シッダの文献では、この昇華のプロセスは、一種の内部的な錬金術と表現されている(錬金術はたとえば鉛のような基材を金に変える神秘的なプロセスである)。この内なる錬金術が完成すると、肉体は金のように輝くとシッダは述べ、結果としての究極の実在の実現を、ヴェッタヴェリ(広大な輝く空間)と表現している。五番目の元素である空は無限であり、従ってヨーガ・スートラの最終章の題名であるカイヴァリヤ(絶対的な自由)に相応しい暗喩である。これには、欲望、エゴイズム、カルマ、マーヤー、それにあらゆる種類の執着や嫌悪の情からの解放が含まれる。

このような手ごわい障害を克服するために、シッダは様々なクリヤーを実験し、開発した。悪癖や執着や嫌悪の情を克服しようとしたことのある者であれば、習慣によって動かされる人間の性質がもたらす抵抗によって、これがどれだけ難しいか分かるだろう。シッダは、それぞれの元素固有の性質を利用して、徐々にそれぞれの元素を破壊したり、一つの元素を別の元素に昇華していく方法を発見した。

一、たとえば、土を溶かすには水が必要になる。熱望や動機、そして肉体を動かす技法を含む、水の変化に対するポジティブな感情によって、惰性や習慣といった地の性質を破壊することができる。

二、水を水蒸気に変えるには、火が必要である。ヤマ(ヨーガの社会的原則)に抵抗する感情や、欲望と嫌悪の情の浄化に抵抗する感情によって熱が生まれる。このような抵抗があろうとも、知性、理性、理解力に導かれ、私たちが意志の力を活用し、集中と心の制御を忍耐強く続ける時、欲望や嫌悪の情はなくなる。

三、火を消すには風が必要である。すべての感情は不安定で、その多くはネガティブである。せいぜい、生気体の中に一過性の幸福感を与えるだけである。プラーナーヤーマ(呼吸)の修練によって感情を落ち着かせることができる。

四、風を散らすには、五番目の元素である空が必要となる。呼吸と意識を頭のチャクラ(アージュニャーとサハスラーラ)に集中させることにより、私たちは心の動きを沈黙させ、サマーディの沈黙に入ることができる。

ラヤ・ヨーガで用いられるクリヤーは、ババジのクリヤー・ヨーガで最も重要な修練を応用している。すなわちクリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマ、それにバンダ(筋肉の固定)、ムドラー(心霊エネルギーの手印、仕草)、エネルギー的影響を意識して修練される18のクリヤー・ハタ・ヨーガのアーサナ、そしてチャクラについての瞑想(チャクラ・マントラの繰り返し、それに視覚化およびアーサナを伴うチャクラ・マントラの使用)である。

正しく、適切な順序と文脈で学べるように、このような手法が教えられるのはイニシエーションの間に限られる。このような手法は、存在の五つの段階のすべてで総合的な発達をもたらす。このような修練に加えて、ラヤ・ヨーガには数多くの別の側面がある。

一、サットヴァ(心を落ち着かせ、バランスの取れた)的な食事

二、以下を含む、ヤマつまり社会的な戒律を守ること(ヨーガ・スートラ、第2章30節)

a. 非暴力:思考、言葉、行為で危害を加えないこと。
b. 正直:正直であり、誇張を避け、必要で役立つことのみを語ること。
c. 禁欲:思考、言葉、行いで慎み深くあること。理論的には、自身の性欲を浄化し、パートナーと共にタントラの修練を行う訓練を受け、目撃者の意識を固めるまでは、性的な行動を避ける、または節制することを含む。
d. 不盗:盗まないこと。「豊かさは、不盗が確立した者すべてにもたらされる」(ヨーガ・スートラ、第2章37節)
e. 不貪:貪欲さがないこと。

三、熱望を育てること、そのあらゆる現れにおいてエゴイズムの排除に抗うあらゆるものの拒絶、そして至高の存在に対する明け渡し。シッダにとって、至高の存在は究極の抽象、すなわちイーシュヴァラ(特別の真我)である。パタンジャリによれば、それは「苦悩の種、行為、行為の結果、欲望に影響を受けない」(ヨーガ・スートラ第1章24節)私たちそれぞれの一部である。熱望は欲望の逆である。それはエゴイズムの現れ(肉欲、怒り、誇り、貪欲)からの自由、そしてすべてと真・善・美との統合の実現を求める私たちの魂の呼び声である。

四、結果に対する執着を持たない、無私で巧みな奉仕あるいは行動であるカルマ・ヨーガの修練。これにより、私たちは愛を伴う目覚めたクンダリニーのエネルギーをすべての人間の努力に送り、霊性に関連するエゴイズム、霊的な力の追求のようなエゴイズムが発現する落とし穴を避けることができる。

知識、修練、献身により、「彼らは私のもとに来るのだ」(バガヴァッド・ギーター、第1010節)とクリシュナは言う。あなたたちがみな、心に愛を込めて、シッダの智慧に教えられ、ラヤ・ヨーガの修練に打ち込みますように。

第一四章 神はいまだこの世にいるのか? 

罪もない人々が数千人亡くなるような地震、飛行機の墜落事故、宗教的、政治的テロ行為のような破局的な出来事は、私たちの神に対する信仰を揺るがせる。毎日、善人に悪いことが起こっているように思われ、私たちはなぜ全能の善なる神がこのような悲劇を防止せず、自分自身を世界に知らしめようとしないのかと考える。W・サマセット・モームの『剃刀の刃』の主人公のように、「全善にして、全能の神がこの世を作られたのなら、なぜ神は悪を作られたのか?」という疑問を持っても当然である。予期せぬ健康上の危機、重症、あるいは事故死は、特に最愛の人、子ども、あるいは家族が関わるのであれば、人の神に対する信仰や信頼を打ち砕きえる。怒り、絶望、冷笑主義に屈するのはたやすい。神を信じない者は、世界には神は存在しないという自分の信念に対する根拠を得る。

一般に人生の悲惨に対する牧師、僧侶、ラビのもっともらしい理由づけは満足の行くものではない。「神は不思議なかたちで働く」、「私たちはなぜ神がそのような悲劇的な出来事を起こすことを許したのかを知ることができない」といった具合だ。残念ながら、特定の宗教上の教義に熱心な人々の中には、悲劇的な出来事は、自分たちの見方を共有しない者、あるいは罪人や異教徒に対する神罰であると明言する者もいる。他の者たちは人生の悲しみに押しつぶされて、宗教に背を向けるかもしれないし、宗教的でない者は霊的な真理や慰めの探求をやめるかもしれない。

ただし、ヨーガの研究や修練は、私たちにこのような基本的で、実存的な問に対する、啓蒙された答えを見つけるためのエネルギーと智慧を与えてくれる。ヨーガの道の中には、世の中の神を明かすものもある。

愛と献身のヨーガであるバクティ・ヨーガは、最も簡単で、最も直接的な手段である。ヨーガ・シッダの最も有名な神学的格言の一つが「Anbe Sivam(愛は神である)」である。他の宗教の多くの聖者が、「神は愛である」と言明してきたが、このことをこのように表現したのはシッダのみである。従って、地震の時に神はどこにいたのかという質問に対して、バクティ・ヨーギーは、ただちにこう答える。「苦しんでいる者に対する愛、哀れみ、支援をもって悲劇的な出来事に応えた皆の心の中に」と。

カルマ・ヨーガは無私の奉仕である。カルマ・ヨーギーは、他者の苦しみを軽くするために働く。最初、あなたは自分が貢献していると考えるかもしれない。善いことをして、他人を幸せにし、過去の行動の有害な結果である「悪いカルマ」の効果を相殺するかもしれない「良いカルマ」を作る機会を探している。他人の幸せのための貢献として行われたが、結果に対する執着なしで行われた行動は、仕事、家事、そして見知らぬ他人に対する小さな仕草も含め、あなたのヨガ・マットとなる。より先に進んだ段階で、カルマ・ヨーギーは、自分たちが行為者でないことに気づく。彼らはただの道具、目撃者なのだ。あなたの目撃者意識が育つと、自分が行動していると感じなくなる。なぜなら、もはや体や心の動きと自分を同一視しなくなるからである。あなたは思考、言葉、行動がどのように結果──カルマ──をもたらし、またカルマの法則がどのように苦しみではなく幸福を他者と共有する手助けをすることができるのかを次第に正しく認識するようになる。この新しい拡張された真我の感覚によって、あなたは他者のニーズはあなた自身のニーズであると感じる。

ラージャ・ヨーガはパタンジャリのヨーガ・スートラに示される古典ヨーガである。深い瞑想の中で、あなたは気づいているものを気づくようになる。意識自体が対象となる。あなたは「私はすべての中にあり、すべては私の中にある」と感じる。徐々に真我認識があなたの日常の活動に浸透し始める。神の認識が深まる。あらゆる霊的な伝統の聖者や神秘主義者は、これを表現しようと試みてきたが、一般に言葉にはできない。実際、表現すればするほど、うまくいかなくなる。なぜならば、それを説明しようとすることや、考える事さえも、これを一組の考えに縮小してしまうからだ。それはすべての名前や形を超越し、すべてに浸透し、無限で永遠であるので、それ以外のものすべてはその意義において劣る。沈黙が支配する。

ジュニャーナ・ヨーガは、知性、探究、直観的洞察の助け、そして智慧の文学の研究と熟慮の助けによる智慧の養成である。最も重要なシッダの智慧の表現は、ティルマンディラムにある。これはシヴァ神の五つの機能──創造、維持、破壊、秘匿(曖昧化)、恩寵──を説明している。すべてが、分離、未完成、実存的苦しみからワンネス、完成、至福への旅にある個我の教育を、目的とする。従って、明らかに悲劇的な出来事は、魂を強化するための手段である。これは私たちに、快楽と苦痛、損得、好き嫌いのような二元性を超えた真理を求めることを強いる。私たちは智慧の中で成長し、平衡の中でこのような出来事に向き合う力と勇気を見いだし、そのことによって恐怖、執着、嫌悪の念のエゴ的な反応を放棄することが可能になる。

タントラ的ヨーガ、あるいはクリヤー・ヨーガは、次のようなヴィジョンを育て、崇拝することである。あらゆるところに不滅のエネルギーのみが存在しており、それに集中し、クンダリニー・ヨーガの修練を通じて私たちの中でそれを変容、昇華することにより、私たちは神を自分の真我として知るようになるというヴィジョンである。結果として、破壊的な出来事さえも、一つの生命から別の生命への旅路における肉体を纏った魂の成長に必要なものであると見なされる。肉体は──物理学の法則、カルマ、時間、真の自分に対する無知によって──消滅しなければならないが、クリヤー・ヨーギーとタントラ行者はチャクラとその潜在的な力と意識を目覚めさせる。目覚めたクンダリニー・シャクティは神秘家のヨーギーに知的な理解を超えた真理を明かす。

神とは誰か? 私は誰か? 

前述の問にどう答えるのかは、私たちの個人的な神の概念によっており、これは人によって大きく異なる。裁判官として座っている神はいるだろうか。私たちの罪に対して罰する神はいるだろうか。私たちを無条件で愛している至高の存在がそのような悲劇から私たちを守らないなどということがあるだろうか。一人一人の神あるいは至高の存在についての概念は、霊的な生活が進展するにつれて進化する。それは「あそこにいるもの」から「私の中にあるもの」に変わるかもしれない。霊的な道を歩む際に、神そして自分が同一視するものについて自分がどのように考えるのかを分析することは為になる。

宗教や文化集団はそれぞれ、その神の概念が唯一の正しいものであると仮定し、神学者は宗教の神に関するいくつかの発展的な概念を分類してきた。私たちの神の概念が、教育、自然の理解、個人的な経験、想像力、欲望、恐れによって限定されていることは明らかである。そのために私たちの霊的成長が制限される。私たちは自分の人間的な状況を神の概念に投影する。前述の疑問に対する私たちの答えは、以下のどの神の概念とどの自己認識を持っているのかに依存する。

・ステージ一:神は保護者である。私は肉体である。私は、自分を物理的におびやかす邪悪な力や出来事から守ってもらうために、神と霊に対する供儀(礼拝)を行う。
・ステージ二:神は全能である。神は法、それに政治的・宗教的権威を与えるものである。私は心と個性である。私は法を尊重し、さもなければ罰される。
・ステージ三:神は沈黙である:「静まり、己が神であることを知れ」(詩篇48:10)。私は目撃する。
・ステージ四:神は賢く、全知である。神は私を愛している。私は直観的である。私は聴く。
・ステージ五:神は私の共同創造者である。私は創造する。
・ステージ六:神は不思議である。私は光り輝く真我である。
・ステージ七:神は絶対的実在・意識・至福である。私は在る。私は特別なものではない。

(前述の完全な説明については、『クリヤー・ヨーガ:道を照らす光』のパート3の7、『自分が霊的に進歩していることをとうすれば知ることができるのか』を一読されたい)

ヨーガ・シッダの視点

ティルマンディラムを含むその著作に示されるように、ヨーガ・シッダによれば、

超意識から見た世界は完全であり、シヴァ神はそれぞれのものとその反対のものとを意図して創造した。善と悪、美と不格好、光と闇、喜びと悲しみ、生と死などである・・・・・・私たちに二元性の世界の彼方を追求せしめ、それぞれの魂を浄化、進化させ、シヴァの聖なる足元へと運ぶ魂の成長と成熟の手段を与えるのは、こうした反対物、喜びと悲しみの対である。シッダが到達した悟りの頂上では、すべてが必要かつ善きものとして見られ、すべては神自身であるとして見られる。
──スワミ・スブラマニアム(ティルマンディラム、付録一の注釈、P3470)

個我は輝く存在、光の体、アーナンダマヤコーシャ(至福体)である。それは創造され、個別化されたように見える存在として進化し、最終的に区別のない合一となり、ワンネス、すなわちシヴァ神との同一化を果たす。シッダの一元的な有神論の見方は、魂は、本質においてではなく、その個性のために、それが制限されているために神から一時的に異なるものとなっている。はじめは全能でも遍在でもない。だが不完全ではない。魂でなく、それを取り囲んでいる心と知覚の様々な鞘や能力は、さらに制限されており、アーナヴァ(真我についての無知)、カルマ(過去の行動、言葉、思考、習慣の結果)、そしてマーヤー(幻想)の汚れの対象となる。生と死のサイクル、言い換えればサンサーラは、このような汚れを取り去ることを目的としている。

次に私たちは「なぜ神は創造するのか」と尋ねる。この疑問は、論理の規則に支配されている二番目のチャクラの限られた視点から生じる。だが答えは、聖なるヴィジョンの意識によって告げられる六番目のチャクラの中に存在する。私たちの理性の限られた能力で、創造に関する適切な議論を考えようとすることは、一度に一つかみで大洋を理解しようとするようなものだ。維持、破壊、秘匿の恩寵、啓示の恩寵という神が持つ他の四つの力と同様に、創造するのは単に神の特質である。理由は必要ない。

私たちが思考や感情を作り出すのと同じように、神は世界を創造する。これは理性を超えたところに存在する事実だ。神の創造する力は、生命の本源の完全性の一部である。だが、(やはり神の創造物の一つである)カルマの宇宙の法則によれば、神ではなく、それぞれの魂がそれ自体の行動、従ってその差違や不平等に対する責任を負う。このような不平等は現在進行中の創造の一部となっており、若く経験の少ない魂もいれば、年を取り成熟し、神との合一に近づいている魂もいる。

対照的にアブラハム宗教の神学者は、世界は善と悪を含んでいるものと見て、その両方に対して自分たちの神が責任があることを認めようとしない。邪悪だったり、誤っていたり、醜かったりするものは、悪魔が生み出す。創造という言葉によって、私たちは神が何もないところから何かを創造していると信じるかもしれない。これはユダヤ教とキリスト教の見方である。だがヴェーダとアーガマの見方では、創造は神自身からのエマナチオであり、ここでエマナチオとは、神である本質からの流出、噴出、あるいは発生を意味する。従って神は創造の中に内在すると同時に、それを超越している、あるいはその影響を受けない。

これはまた、南インドのヒンドゥー教徒の間の主要学派であるシャイヴァ・シッダーンタとも対照的である。シャイヴァ・シッダーンタは、完全な神が不完全な魂や不完全な世界を創造したはずがなく、結果として、それらは永遠に分離したままである、と仮定する多元論的リアリズムを支持している。この見方では、創造は陶工がろくろの上で壺を作るようなものである。神は既に存在している素材をいろいろな形に整える。神は陶工、あるいは「作用因」であり、ろくろは神の力、すなわちシャクティである「手段因」であり、粘土は絶えず存在する「質料因」である。壺の本質は、このような三つの原因の結果である。

創造とその創造者との関係についてのシッダの見方では、魂は海、すなわち神から発出する波のようなものである。それは進化してから、またその源と一つになる。魂の個性は、イッチャ(欲望・愛)、クリヤー(行動・意志)、ジュニャーナ(認識・智慧)の力によって創造され、そしてそれらを備えている。最終的には、マーラー、無知、カルマおよび幻想が取り除かれ、分離の感覚がすべて消えると、その源に戻る。

シヴァ神は常時、自分自身から発出するあらゆるもの、すなわち人の個我とすべての世界とその中身を創造、維持し、再び吸収する。神は質料因であると同時に作用因である。神の創造は、木から現れる果実、あるいは火から生じる火花のようなものである。この見方は、有神論(神と魂の存在を信じること)と一元論(存在するのは神のみで、あらゆるものが幻想あるいはマーヤーの力によって、別々のものであるように思われるだけという信仰)を組み合わせたものだ。これは一元的有神論と呼ばれ、タミル・ヨーガ・シッダとカシミール・シヴァ派の両方に共通する(この主題の詳細については、Babaji''s Kriya Yoga and Publications刊行の『Yoga of Siddha Tirumular: Essays on the Tirumandiram』(シッダ・ティルムーラルのヨーガ:ティルマンディラムに関するエッセイ)第2版の第10章、「Monistic Theism in the Tiruamdrium and Kashmir Shaivism」(ティルマンディラムとカシミール・シヴァ派における一元論的有神論)を参照されたい)。

「ジーヴァ(個我)がシヴァとなる」はシッダの偉大な格言で、シッダの見方を要約している。これは、進化の過程と同様に、神も魂も魂が繰り返し通過しなければならない世界も現実であると断言する。世界と魂は、シヴァご自身の様々な形に過ぎない。だがシヴァはその創造物を超越し、それによって制限されることも影響を受けることもない。

恩寵とは何か、そしてカルマとはどういう関係があるのか

恩寵の概念は、シッダの教え、そして世界宗教の多くで見ることができる。これは、私たちにその価値があるかどうかにかかわらず、善意の源が私たちの祈りに答えるという一般に普及した認識を反映している。カルマによって、私たちは自分たちに相応しいものを得る。恩寵によって、その召命に応じて、私たちは魂にとって励みとなり、これを教化するものを受け取る。カルマの法則がすべての行動や言葉や思考には必然的な結果や反応があると断言するように、より高次の法によって、ジーヴァ(個我)は、イーシュヴァラ(宇宙の至高の魂)と意思を通じ合うことができる。シッダ・ティルムーラルは、この恩寵に形を与える。それは、ナタラージャ、踊るシヴァ神である。

(チダンバラムの)光輝に満ちた寺院で神(シヴァ)は踊った
二人のリシ(目撃するパタンジャリとヴャグラパダ)のために神は踊った
形あるもの、形なきもの、そして宇宙の形として、シャクティの聖なる恩寵のうちに
神は踊った
神、シッダ、アーナンダ、恩寵の形として
神は立ち、踊った
ティルムーラル(ティルマンディラム、第2790節)

神はどうして魂を苦しみの生に生まれさせることができるのだろうか、ティルムーラルはこう答える。

恩寵の中、私は生まれた
恩寵の中、私は成長した
恩寵の中、安らかに死んだ
恩寵の中、私は秘匿され
恩寵の中、アンブロージアの至福を味わった
恩寵の中、ナンディーに、私の心は入った
ティルムーラル(ティルマンディラム、第1800節)

かくして神は魂にそのカルマを成就するための体を与える。神は、自分の行動の結果を経験し、そこから智慧を得るように、魂を支援する。神は、体を破壊することで魂に休息を与える。神は、覆いの向こう側を探り、カルマに対する平衡を通じて、意識(チット)、そして最終的には至福としての自分の本性を理解することを義務づける秘匿(曖昧化)を魂に対して与える。最後に、神は魂に「私は体である」、「私は欲望である」という幻想の束縛からの解放を与える。従って、神の行いはすべて、その恩寵の表現である。

聖なる恩寵は誰の手にも届くものなのだろうか。答えはイエスだが、自分自身の備えができた者だけが、それが手が届くものであることを知り、熱望する。マザーは、「恩寵は皆に平等である。だが、それぞれがその誠実さに従って受け取ることになる」と述べている。

神は愛し、私たち一人ひとりを導いている。ヨーガはこのことを見出すための様々な手段を与える。ヨーガ・シッダの教えは、神が私たちを愛し、神の恩寵が絶えず私たちへ流れ落ちていることを示し、安心させてくれる。私たちは、意識して神に向かい、それを求める時に、それと神の導きを意識するようになる。世界の悲劇的な出来事も、私たちに「Anbe Siam」(愛は神である、ティルムーラル(ティルマンディラム、第270節)を表す機会を与えてくれる。

第一五章 すべては恩寵である

マーヤーの世界の起源たる神は内なる認識にて経験される
神は我らの考えを知る、無知なる者はこれを知らず
「神は我らを愛せず」と彼らは言う
神は明け渡す者の近くにあり、思いやる
ティルムーラル(ティルマンディラム、第22節)

人生は、快楽と苦痛、成功と失敗、利益と損失、美と不格好、真理と誤り、そして最終的には生と死それ自体と、二元性に満ちている。感情によって拡大、刺激され、このような二元性は人生のドラマの一部となり、通常私たちはそれに没頭してしまう。私たちが望むものを得た時、私たちは人生は本当に素晴らしい、あるいは自分たちはものすごく偉大だと考える。だが自分たちが望むものを得られなかった時や、欲しくないものを手にした時に、私たちは神を責める。神に悪態さえつくのだ! 生は謎であり、私たちをひどく落ち込ませる時、唯一の出口は自殺か死しかないように思える。だが賢者は、「すべては恩寵である」と見る。

その理由を理解するために、私たちはまず私たちの人生のドラマ、そして「私は身体」、「私は自分が考えるもの」、「私は自分が感じるもの」という誤った同一化から一歩下がり、私たちの魂の、深く永続的な視点からものごとを見る必要がある。魂は存在・意識・至福、つまりサット・チット・アーナンダである。私たちは単に目撃者である時はいつも、無選択、無判断の気づきによって、そうするのだ。

信奉者の心の中で輝く光り
聖なる神はこのようなハートを楽しむ
神の偉大さを讃え、我が主として神を崇敬し
私たちは神の恩寵に近づき、これを得る。
ティルムーラル(ティルマンディラム、第39節)

神はハートの中にあるが、エゴイズムの無知がこのことを私たちから隠す。神は魂を愛し、その中にあって、魂が真我に気づくのを助ける。ゆっくりだが確実に、魂は真我、他者、世界を照らす光を意識するようになる。魂は、至高の神のみが大切であるということを知り、神に自然にひかれていく。私たちが真に理解した上で神を崇拝する時、神の恩寵を得る。
 
悟りを開いた者が讃えるのは神の中の神
果てしなく恩寵を注ぐ至高の神
父なる神を瞑想した、永遠の光として
永遠の愛と共に頭を垂れて祈った。
ティルムーラル(ティルマンディラム、第48節)

神を永遠に内在する光と考えることは、高度な瞑想の一形態である。

神の五つの機能

この新しい視点から、私たちは神の五つの機能、すなわち創造、維持、破壊(あるいは退行)、秘匿(曖昧化)、恩寵という永遠不変の存在を見るようになる。創造、維持、破壊は魂がこの世におけるカルマ体験を通過するのを助け、魂が三つのマーラー(汚れ)、すなわち無知(エゴイズム)、マーヤー(幻想)、カルマ(過去の行動の結果)から次第に自らを解放することができるようにする。ティルムーラルによれば、これらはすべて恩寵の側面である。魂を神との合一に引き戻すからである。恩寵は神の哀れみである。恩寵は絶対的な知識と無比の至福を授ける。それは神の大いなる働きであり、すべての魂の日常的な経験である。これは、自らを明け渡した魂が完全にマーラーから解放され、神によってその群れに加えられた時に、最も強く経験される。

創造、破壊、あるいは維持
その恩寵により、聖なる神は始められる
哀れみ深い神は行使する、その意思を
マーヤーを通じて、あらゆる方向に広げられる。
ティルムーラル(ティルマンディラム、第393節)

一、創造:神は魂がそのカルマを果たし、成長し、真我の知識を成熟させ、神の恩寵をさらに受け取れるのに相応しくなるように、魂それぞれに体を与える。創造は魂の進化のために存在する。

汚れなきものは創造として始め
我が魂に体を与え、時とカルマの限界と
そして苦しみを置く、神こそが主たる支え
生の経験を与え、神は公平である。
ティルムーラル(ティルマンディラム、第394節)

この節は多くの考えを表現している。神は魂のカルマを果たすために、相応しい体と誕生の状況を与える。神は、魂が快楽と苦痛の二元性を経験するのを助け、魂をワンネスへと導く。神は公平であり、完全である。好き嫌いはないゆえ、特定の魂をひいきすることはない。

二、維持:神はその創造物を維持する。この目的のために、神は光と闇としてすべての体と生命に浸透し、私たちを思考と感情で満たし、私たちの魂を生の経験を通じて導く。魂は無知ゆえに最初はこのことを知覚したり、認識したりすることができないが、成熟するにつれて、真理の光が見え始める。

神は世界を創造する者である
神は、すべての生けるものと共に世界を維持する
大小の容器を陶工は作る
だとしても神が存在しているものすべてを形作る
ティルムーラル(ティルマンディラム、第417節)

私たちの生を通じてずっと私たち一人一人を維持している多くのものごと、すなわち家族や友人、持ち物、技術、知識、経験はすべて神のなされたことである。

三、溶融:一般には「destruction」(破壊)として知られるが、「dissolution」(溶融)または「involution」(退行)と表現するのが一番である。破壊においては、すべての物質的な形はその繊細な本質に分解される。このことによって魂は、カルマの結果に取り組むプロセスからの休息と回復のために神の住まいへ戻る。最終的に、これにより魂は神との合一の至福の中で休むことになる。

日々の溶融は睡眠の闇にあることである
定められた溶融は目覚めを超える
純粋な溶融は行動のないケーヴァラ(訳者注:純粋、単独)の状態である
究極の溶融は至高の神の、真理の恩寵の中にあることである
ティルムーラル(ティルマンディラム、第425節)

睡眠は日々の溶融である。体と心は、世俗的な活動やストレスからの休息を与えられる。死は定められた溶融である。体を魂に与える神は、定められた時にそれを破壊する。それは、この世を訪れている間にカルマの義務を満たすべく産まれたそれぞれの魂の運命である。純粋な溶融は、人が無知のマーラー、マーヤー、カルマから絶対的に自由になる真我実現である。究極の溶融は、至高の神、その恩寵、真理との一体化である。

四、秘匿(曖昧化):神は魂としての私たちが、生の究極の目的は世俗的な経験であると信じ、カルマの義務を果たすことができるように、神ご自身と私たちの人生の目的を隠している。いわゆる生命の謎は秘匿(曖昧化)の結果である。魂は、永遠でないものが永遠であり、快楽が喜びの源であり、体ー心ー個性が真の自分であると想像し、一時的な経験を追求する。このような経験から、魂は快楽と苦痛の二元性を学び、さらにそこから最終的に存在の真の意味を求めるために必要な教訓を学ぶ。

魂の中の魂である彼は、内なる光である
彼は一フィートも離れていない
彼と魂はそれほど近い
にもかかわらず魂は「彼」を知らない! 
ティルムーラル(ティルマンディラム、第431節)

次の節で、ティルムーラルは、神を見ることができる知覚の扉を開く鍵は愛であると語る。だが愛がないとしても、神はその魂が人生における義務を満たすことを保証する。

私は自分の存在深くに神を見、そこに隠した
神はその恩寵を授け、ご自身を明かそうとする
幸福よあれ、汝の大いなる愛よ特別なれ
神がご自身を明かすという汝の望みは叶えられるであろう
ティルムーラル(ティルマンディラム、第437節)

五、恩寵:神の恩寵は、魂をゆっくりとこの世から引き揚げ、智慧と真我の知識のより大いなる光を明かしながら、魂に霊的な経験の梯子を登らせる。恩寵は神の哀れみである。カルマと異なり、恩寵は私たちの功罪に依存していない。恩寵は、「真・善・美」に対する魂の熱望に対する神の応答である。

神の宇宙でのかたちは何ものにも把握できない
だが体は五元素からなる
神は水の中の牛乳のように見事に浸透している
私は疲れることなくその素晴らしい至福を経験することを学んだ
ティルムーラル(ティルマンディラム、第450節)

秘匿(曖昧化)が続く限り、私たちは内なる神の存在を知覚することはできない。だが、神の恩寵を通じ、体ー心ー個性に対する執着に背を向け、このような汚れから私たち自身を浄化することにより、私たちは霊的な経験を持ち始める。これらとこれらが授ける至福によって、私たちは内なる神の方をさらに向いていくことになる。究極の至福は、神の恩寵を通じて見出される。

恩寵は、神の五つの機能それぞれに浸透する。結果として、創造され、維持され、破壊され、秘匿(曖昧化)され、恩寵に満ちた私たちの生命のあらゆるものに恩寵が浸透する。私たちがこの一つ一つの瞬間を知覚し、正しく理解する時、私たちの苦しみがただちに終了する。そして私たちは神の顔を見る。

第一六章 強い目的と共に、夢から目覚める

私たちは個別にも集団としても「目を開いたまま夢を見ている」。なぜならば、私たちは思考、感情、五感の感覚に常時没入し、私たちの人生のドラマに完全に同一化しているからである。シッダは、これが聖なる絶対的な存在・意識・至福が見えなくなっている理由であり、欲望・執着・嫌悪の情・死の恐れといったエゴイズムの結果から私たちは苦しむのだと教えてくれる。体と心と同一化することで、私たちは本当の自分、すなわち純粋な意識を忘れる。この忘却が、人間の性質にしっかりと組み込まれている。

これを克服するために、どの霊的な伝統であれ例外なく、私たちを魅了し、注意を逸らすような欲望の原因との接触を断つことを指示してきた。言い換えれば、あらゆる一過性の喜びの源を生気体から取り上げるということである。その目標は、どこか天国のような領域に行くか、この世界に生まれ変わるのを止めて、そのことにより超宇宙的で、時間と空間を超えた超越における霊的な住処を確保することによって、この不幸な世界を逃れることである。

この世界から隠遁したいと望む者も、そうできる者もほとんどいない。この世に留まる今日の神秘主義者である現代のヨーギーは、内なる平和と調和を育てる必要と、その義務やストレスのすべてとの日常生活における軋轢の間で、落ち着かない小康状態を保っている。

ただし、総合ヨーガであるババジのクリヤー・ヨーガのようなタントラの伝統においては、私たちは逃れることは求めない。内なる意識で実現した真理、光、力、至福が、私たちの起きている時の外面的な意識にも入り、そこで完全に有効になることが求められる。瞑想の一つ一つが単に内省的だけではなく、外側に向って活発になる。

私たちにとって瞑想は、常に、あらゆる場所で、どのような状況においても、自分たちの全意識を、主観的であれ、客観的であれ、神に向け、オープンな状態を保つことを意味する。その目的は、人間の性質を変容し、聖なるシャクティ(意識的なエネルギー)を呼び出して、その進化の意思を私たちの内で働かせることにある。私たちは、瞬間ごとに生のすべてを受け入れ、静かな心と落ち着いた生気体を通じて、目撃者となり、聖なる導きと力に対して明け渡すことが求められる。すべての経験が、私たちにとって無選択の気づきの対象となる。状況が楽しいものであれ、辛いものであれ、欲望が満たされるか無視されるかに拘わらず、結果としての至福は瞬時に現れる。

パタンジャリのようなヨーガ・シッダは、私たちがこのような苦しみの原因を個別に自分自身から取り除かねばならないことを、私たちに確信させる。パタンジャリは次のように述べている。

これら(の苦悩が)曖昧な(状態で存在する時は)原因を根源まで遡ることによって破壊される。
(活動状態にあれば)(意識内に生じる)揺らぎは瞑想によって破壊される。
パタンジャリ(ヨーガ・スートラ、第2章1011節)

精微なレベルで、このような苦悩は、サンスカーラ(潜在意識の印象)として存在し、様々なサマーディ(三昧)の段階を通じて、私たちの根源に繰り返し戻ることによってのみ消滅させることができる。サマーディは、心が完全に沈黙した時点で起こる。私たちは、アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想、マントラ、そして献身を含む総合ヨーガの様々な修練を通じて、サットヴァ(集中、内なるバランス、平衡)を育てねばならず、そうすることではじめて私たちはこのような心の沈黙状態に入り、そこに留まることができるようになる。しかし、この過程において、私たちは定期的に瞑想を行うことで、苦悩を弱めることができる。

思考、五感の知覚、空想、あるいは睡眠であれ、心の揺らぎとの同一化を止めることが、サマーディにとっての前提条件である。だが、潜在意識下の印象は通常の起きている時の意識では、あるいは瞑想下であっても、理解出来ないため、繰り返し自分の真我と同一化することで、このような印象の根本──エゴイズム──をなくさなければならない。小さな「我」は、次第により大きな「我」に包含されるようになり、潜在意識下の印象が消える。隠喩的に言えば、衣服から汚れを洗い落とすように、瞑想が心の揺らぎを取り除く。繰り返しサマーディに入ることで、繰り返し漂白剤に漬けることで衣服から染みを取り除くように、サンスカーラ(深く根づいた心の習慣)を取り除く。

私たちの強い目的意識を利用する

目を開けたまま夢を見ている間に、私たちの真我を忘れるという自分の傾向を単純に認めるだけでは不十分である。私たちは目を覚まし、そして目覚めたままでいるためにサンカルパ(決意)を定め、そうするために意志力を利用しなければならない。これは、私たちのエゴ的な見方を目撃者のそれに変容するための自発的な自己挑戦であるタパスを通じて達成される。これを行う上で最高の時の一つが、沈黙の日、あるいは長い隠遁や巡礼の最中である。

私は、11カ国から来た22人のクリヤー・ヨーガの実践者たちを率いて南インドの17日間の巡礼に赴いた。私たちの経験からは教えられる所が多い。過去20年の間、私は定期的にこのような巡礼を案内しており、私たちは参加者が「目を覚まし、そして目覚めたままでいる」ことに集中するように巡礼を組み立てた。

巡礼の始まりに、私は次のように説明した。これは新しくエギゾティックな感覚的経験における一過性の喜びや生気体の一時的な衝動を楽しむための観光旅行ではない。むしろ、私たちは困難であろうが楽しかろうが、満足いこうが期待外れであろうが、この旅を通じて、瞬間ごとの継続的な気づきを育てることになっている。その結果としての平衡が確実に至福をもたらす。

巡礼の間、私たちはまた、通常の関心事を後に残し、訪問する聖地で見つかる「それ」との霊交状態に入ることに集中しようとする。巡礼の間毎日、私たちは、その日の目的地で無選択の気づきと聖なるシャクティとの霊交という二つの目的を共に果たした。

ヨーギーや聖者がタパスの結果として、その意識的なエネルギーを残してきた滞在地のそれぞれで、私たちは「目覚めた」。これができたのは、真・善・美を実現しようという私たちの強い目的と神との霊交状態に入ろうという私たちの決意によるものである。このような聖なる住処はそれぞれ、神に対する戸口となっている。私たちは俗世の生活の通常の関心事と生気体の欲望や衝動の魅力を忘れた。グループの集団意識が注ぎ込まれ、私たち全員を高揚させた。

それぞれの場所で、沈黙が聖なるシャクティとの交信の手段となった。このような聖者とシッダの聖なる住処に入ると、私たちの定期的な朝晩のクリヤー(技法)のグループ修練が静寂に道を譲った。これが最初に起こったのは、私たちがバンガロールに到着した翌日のことである。私たちはナンディーの丘にあるタパスウィジ(シュリー・クリシュナ・シン)のアシュラムまで車を走らせ、タパスのためにシンが長い間座っていたその部屋で1時間瞑想した。その部屋は大いなる平安とたくさんの光で満たされていた。私たちの疲れ、時差ぼけとなった心と体をリフレッシュしてくれた。

ラマナ・マハルシ・アシュラムでは、この偉大な聖者が座し、訪問客や弟子を迎えた部屋で、その存在を容易に感じることができた。アシュラムでの2日目に、ドゥルガが室内で3時間半の深いトランス状態に入り、ぴくりとも動かなかった。この4日間の訪問中、私たちの巡礼者たちは繰り返し、このアシュラムの背後にあるアルナーチャラ山の高みにあるスカンダ・アシュラム洞窟とヴィルパクシャ洞窟に戻った。蜂が蜂蜜に引き寄せられるように、巡礼者たちはこの聖なる住処の壁に充満している光と至福に魂から惹きつけられた。私たちは、あらゆる思考や心配事から解放されたと感じる、ヴェッタヴェリとシッダが呼ぶ広大で輝く空間にやすやすと入ることができた。

次の目的地のポンディシェリーでは、アシュラムの中庭の中心にある長さ12フィート、高さ2フィートの石棺の中にシュリー・オーロビンドとザ・マザーの遺骸が収容されているサマーディ寺院が、その信奉者にとっては磁石でありアンテナとなっていた。沈黙によって支配される場所で、私たちはその脇にひざまずき、精巧な花模様のヤントラに覆われた冷たい表面に頭を置いた。心を沈黙へと導き、彼らの祝福が、メッセージ、イメージ、至福の高まり、光の強さといったいろいろな形で奥底から湧き上がってきた。私たちはこの二人の偉大な魂がこの世界に授けた恩寵と教えについて、沈黙の内に瞑想し、他の百人の信奉者と共にこの中庭で棺の近くに座っていた。

翌日、私たちはシュリー・オーロビンドが30年暮らし、彼が呼ぶところの心を超えた意識が降りてくるのに備えていた個人的部屋で、長い間瞑想のために座るというまれな特権を与えられた。この部屋は黄金の光、そして言いようのない大きな平安と至福に満ちており、私たち全員を表現のしようのない静寂と善の状態へと送り込んだ。この時までには、私たち全員が巡礼者の視点に入っており、あらゆる聖なる住処が持つ真理を内側で知ることを求めていた。私たちは、目や耳あるいは精神的な努力によってではなく、直観を通じてそれを知ることを決意していた。沈黙、さらなる沈黙が知ることの手段となった。この沈黙の中で、私たちの魂の声である心霊的存在が真・善・美を明かしていた。

翌日、私たちは踊るナタラージャとしての姿のシヴァ神を祝う儀式に参加し、そのダルシャン(ヴィジョン)を得るためにチダムバラムへ移動した。敷地55エーカーの、このいにしえのすべてが大理石でできた寺院の奥の院が私たちの目的地だった。これは千年以上に渡って連続した崇拝の場所となってきた。私たちは、祖先が千年の間ずっとこの儀式を行ってきた世襲の僧侶のカーストの著名なメンバーに案内された。科学者がこの聖地の重力を測定したところ、世界で一番大きいことが分かった。

私たちの巡礼グループの12人を理想的な心構えにさせるために、私はそれぞれ信奉者の伝統的な服装、すなわち腰から足首までの、シンプルな白の手縫いの布製のドーティーをまとわせた。謙虚さを染み込ませるために、上半身は裸だった。神の像、唱和する僧侶、鳴り響く鐘、賛歌を歌う信者たちが、私たち一人一人にその個別の贈り物をもたらした。その後、伝統によれば、ティルムーラルがティルマンディラムを書いたという場所の隣にある、高くなった大理石の台座の上で瞑想のために座って、私たちはシヴァ神に捧げられたこの最も聖なる寺院が提供する真理を知ろうとした。

この日の遅くに、私たちはシッダ・ラーマリンガ・スワミガルが1874年に永遠の炎と共に建てたサン・マルガ寺院がある近郊のヴァダルール、それにシッダ・ラーマリンガ・スワミガルが暮らし、アルル・ペルン・ジョーティ(至高の恩寵の光)の中に姿を消したメットクッパムの家を予定外で訪ねた。その中庭で数名の地元の信奉者と共に座禅をしていると、私たちは彼の「存在」、その偉大な慈しみ、そして言いようのないほど大きな喜びの祝福を感じた。

翌日、私たちはバスで数時間かけてタンジャヴールまで行き、そこでアジアで最も背の高い寺院であり、巨大なゴプラム(塔門)があるブリハディーシュワラ寺院の背後にあり、ババジの兄弟弟子であるシッダ・カルヴッラルに捧げられた寺院のところで、黄昏に瞑想のために座った。カルヴッラルの石像が光、至福、力を放っていた。私たちは彼と霊交して祝福されたと感じた。

私たちの次の目的地は、パラニマレイで、この聖山は、ババジのグルであるシッダ・ボーガナタールがムルガ神のために美しい寺院を築き、自身のサマーディ聖堂を創設した場所である。私たちはボーガナタールの一番弟子であるプリパニの子孫である僧、ヴェンカテシュによって歓迎され、その兄であるシヴァナンダ・プリパニと共にサットサンガを行った。私たちは山頂にあるサマーディ聖堂だけでなく、プリパニの子孫の数十のサマーディ聖堂の中にあるプリパニ・アシュラムでも瞑想を行った。南インド各地からの巡礼者から出てくるムルガに対する献身の強さに助けられて山に登り、翌日はその周囲でパディ・ヤートラー(徒歩巡礼)を行った。

続いて私たちの巡礼は、サットグル・ジャギ・ヴァスデヴが創設したイーシャ・アシュラムのディヤーナリンガを訪れた。この印象的な建造物は、偉大な霊的な力で充ち満ちており、リンガ(永遠、無限)としてのシヴァに対する沈黙の瞑想を促進するためのものである。

聖地での強烈な経験を日常生活に組み入れる

聖地で瞑想を行いながら、束の間エゴイズムの夢から醒めて、啓発的な経験を持つことは、私たちの探求にとって特別な目的ではありえない。私たちは、沈黙の瞑想であれ、活動的な起きている時の生活であれ、いつでもどのような状況でも、神と常に一つになることを求めなければならない。マザーが思い出させてくれたように、「あなたが瞑想のために座っていようと、歩き回って何かをして働いていようと、あなたに求められるのは意識である。それが唯一必要な事であり、言い換えれば常に神を意識するということである」

このような場所で私たちが経験した目的と恩寵の強烈さによって、神の存在が明らかにされた。家に戻ると、沈黙し集中した熱望の中で聞こえた「それ」の記憶、そしてどこでもいつでも神の存在に対して目覚めたままでいるという決意によって、私たちはその通りにした。

第一七章 シャクティに対する内なる凝視

「あなたは目を開けたまま夢を見ている」とシッダは語り、だからこそあなたは苦しむ。心の動きと一体化することを許すことで、あなたは自分の真我を忘れる。ヨーガの科学的な技法は、救済策を与える数多くの技法を提供する。ただしクンダリニー(潜在的な意識と力)にどのように到達すればよいのかを深く理解しなければ、必要とされる集中の度合いでこのような技法を修練することはできないかもしれない。

タマス(惰性)とラジャス(活動)への没頭の間で揺れている平均的な人物の精神状態を考えると、ヨーガの修練の最初の目的はサットヴァ(平静)の開発でなければならない。ヨーガの技法はすべて、この目的に役立つものである。ただし平静はあくまで真我実現への前提条件、戸口に過ぎない。完全な悟りを開くには、大小の方法で、クンダリニーを目覚めさせ、すべての欠陥を伴ったあなたの人間の性質を聖なる性質──シッダあるいは成就──に変容する必要がある。

シヴァ・シャクティ:意識のエネルギー

ヨーガの教えによれば、すべてはシヴァ・シャクティ(意識のエネルギー)から生じる。この二つの言葉は、名称と形、時空を超越し、あらゆる創造に切迫しながら、なおそれに触れられることのない「それ」の存在と力を表している。それは永遠の目撃者である。シャイヴァ・シッダーンタ(ヨーガ・シッダの一元的な有神論の教え)によれば、すべての創造は「それ」から発し、「それ」の中にしばらく維持され、そして「それ」の中に溶ける。

シヴァ・シャクティは、あなたの存在の肉体、生気体、メンタル体、知性体の次元であるコーシャ(意識エネルギーの鞘)によって包まれた体現化したジーヴァ(個我)であるあなたの個人の存在の基盤となっている。シャクティ(人間に現れる普遍的な知的生命力)は、体と心の中のプラーナ(生気エネルギー)として知られている。あなたは、あらゆるレベルであなたを導き、力を与える内なる女神として、クンダリニー・シャクティを崇拝することにより、この偉大な聖なる潜在性を目覚めさせることができる。シャンバヴィ・ムドラーの修練は、意識を内側で「それ」に集中し──真・善・美に対する熱意によって──聖なるヨーガの修行となる。またバクティ(帰依と信愛)によって、この女神の力のかたちと質に対する愛情を育て、この力を擬人化することもできる。

内なる凝視:シャンバヴィ・ムドラー

体のどこかに目を向けることは、しばしばヨーガの修練の一部であり、ドリシュティ・ヨーガ(見るヨーガ)と呼ばれる。このような修練には、アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想、マントラ、さらにバクティ・ヨーガも含まれる。ただし、意識を内側、すべての形が生じるプラーナに集中しながら、体のどこか、あるいは外側の世界に目を向けることはシャンバヴィ・ムドラーあるいは内なる凝視と呼ばれ、効果はずっと大きい。シヴァである意識の純粋な光に対して内向きに集中することが求められる。肉体、外部世界、そして考えや感情は背景となり、スヴァルーパ(真我の輝き)が前面に出る。シッダ・ティルムーラルは次のように述べている:

そして聖なる達人、パラマ・グル(至高のグル)
パラが常に果てしなくすべてに浸透する中
あの内在的な状態で
神の自ら輝く光(スヴァルーパ)が広がる
ジーヴァが最後のトゥリーヤー(四番目の)状態を得る時
──ティルムーラル(ティルマンディラム、第2835節)

そしてパタンジャリのヨーガ・スートラの最終行、第4章34節には「svarupa pratishtha va citisakti iti」とある。

こうして純粋意識の力が自らの純粋な本性に落ち着く
svarupa = 本来の性質、真我の輝き
citisakti = 純粋意識の力
pratishtha = 確立、不動
va = こうして

シャンバヴィ・ムドラーで、あなたは内なる静寂と意識の光との霊交の状態に入り、感覚、考え、そして感情は跡を残さずに通り過ぎる。このような動きについていつまでも考え込む代わりに、あなたは自分の注意をその源である動かざるものに固定する。たとえば、歩いている時に、あなたは遠くを見つめたり、下向きに3フィートあるいは1メートル先を見つめるかもしれない。イエスが言ったように「過ぎ去り行く者であれ」(トマスによる福音書第42節)

かくして世界はあるがままに正しく、すなわち一時的ではかないものとして捉えられ、世界を超越する「それ」がただちに理解可能となる。あなたは新しい経験を全く求めない。あなたは見る者自体(永遠の目撃者)、その創造力(シャクティ)、そしてその人間の行為の主体(プラーナ)を求める。

これはプラティヤハーラ、つまり自分の関心、気を散らせるものや関心の外部の源から撤収することを必要とする。果てしない欲望や感情に駆り立てられた動きへと入り込んでしまう心と生気体のヴァーサナー(傾向)やサンスカーラ(習慣)を考えると、ダーラナー(大いなる集中)が必要となる。タットヴァ・ シュッディ(手放すこと、分離した意識、識別)のプロセスを通じた、あなた自身の習慣による欲望や執着からの自身の浄化を必要とする。欲望は想像力である。欲望を制御し、霊的な進歩のための力として想像力を育てるには、マントラ、そして視覚化と集中の方法を修練することである。抽象的な真理に関して瞑想するために知性と理性を使うことも、欲望の力や生気体の様々な感情を制御する助けとなる。

通常は、あるいは少なくとも最初は、目を開き、あるいは半分開いて、光を視覚化することができる眉の間の一点に上向きにし、シャンバヴィ・ムドラーの修練を行う。これがシッダ・ゴーラクナートのハタ・ヨーガ・プラディーピカーやカシミール・シヴァ派のヴァスグプタのシヴァ・スートラのような伝統的な文書にはそのように描かれている。だが、眉の中心に限らなければ、はるかに大きな可能性がある。

座りながら、あるいは立って、サハスラーラまたはアージュニャー・チャクラに関わる中心、あるいは鼻先の方を見ながら、静かに、落ち着いてじっと見つめ、内なる静寂を保つ。その際に目は半分閉じていても、完全に閉じていても構わない。内なるプラーナに精神を集中することが重要である。あるいは、たとえば耳や音のような特定の感覚器官または感覚の対象に集中しても良いが、その感覚器を動かし、感覚の手段である力、エネルギーに集中したままでいること。機械が電気エネルギーで動作するように、自分の感覚が、それ自体が普遍的なシャクティ、意識のエネルギーの一部であるプラーナの道具として動作するようにする。

真のタントラの修練であるシャンバヴィ・ムドラーで、あなたは感覚器官を閉じるのではなく、その活動をその力の源と一体化することを追求する。タントラとは、網あるいはエネルギーの教えを意味する。宇宙のあらゆるものを支えているエネルギー網を指している。またシヴァとシャクティ、意識とエネルギー、霊的と物質的、天と地、永遠と一時、無限と有限を結び付ける教えも指している。タントラの実践者はプラーナが関わるエネルギーの方法を利用して、崇拝の対象、すなわち意識と霊交する。タントラはすべての生命を神の聖なる具現化と見なす。すべてが宇宙の知性であるシヴァから、シャクティの創造力を通じて生じる。

シヴァもシャクティも、ものでもなければ対象でもない。だがあらゆるものの源として、あなたがシヴァやシャクティとの霊交状態に入り、そこで主体や客体の二元性を超越してはじめて接触することができる。シッダの偉大な格言が、具現化した存在の現実と、完全性の究極の状態の両方について断言している。「ジーヴァ(個別化され体現化した意識、個我)はシヴァ(普遍的な意識)となる」。このことはまた、その間のプロセスあるいは道も断言する! 私たちはすべて人生の経験に対する自分たちの反応によって整形された仕掛品である。うまく応用すればシャンバヴィ・ムドラーが、最初は私たちの肉体あるいは微細体の特定の外側の形や部分についての、そして最終的には物質と微細の両方のすべての形を凝視した時に、未完成から完成への神秘主義の道を旅する効率的な乗り物になりうる。

シャンバヴィ・ムドラーの様々な応用

シャンバヴィ・ムドラーは様々な方法で応用することができる。

一、ジュニャーナ・インドリヤ(精微な五感)に対して修練する:(a)見る者でも見られる対象でもなく、視力に集中する、(b)聴き手としての自分でも、聞こえる音でもなく、聴力に集中する、(c)肌でも触れられる対象でもなく、触覚の力に集中する、(d)舌でも食物、飲料、味でもなく、味覚の力に集中する、(e)鼻でも嗅ぐ対象でもなく、嗅覚の力に集中する。感覚印象は空の雲のように来ては去る。空のようになることである。五感に力を与えるプラーナに集中する。

二、カルマ・インドリヤ(運動器官の動作に力を与えるプラーナ)に集中して修練する:(a)手を動かす力、(b)足と脚を動かす力、(c)声を動かす力(d)排出器官を動かす力、(e)生殖器官を動かす力。

三、外部の対象、すなわちロウソクの炎、花、ヤントラあるいはマンダラ、シヴァリンガ、あるいはイシュタデヴァターとして知られるお気に入りの神の形を示す絵を見つめながら修練する。ただし、歩いたり動き回ったりしている場合は、意識の光を内側で意識する修練をしながら、どのような外部の対象を見つめてもよい。

四、マントラの音をその源まで追いかけて、マントラが表す力と質と同一化しながら修練する。マントラの音に耳を傾けながら、マントラの出所である「それ」に集中する。

五、あなたと別の人の間に流れているエネルギーに集中しながら、人とコミュニケーションを取っている間に修練する。愛、善意、平衡でこれを飽和させようと熱望する。私たちが永遠の関係を持つことができる唯一の神の存在を見る。

六、イシュタデヴァターまたはグルのイメージに視力を集中し、その背後にあるエネルギー、愛、美、平安を吸収しながら、修練する。

七、あなたの微細体のチャクラやその他の部分、すなわちイダー、ピンガラ、それにスシュムナー・ナーディーに視力を集中しながら修練する。エネルギーが意識に従うので、目をチャクラに向けると、エネルギーがチャクラに流れ込み、これを目覚めさせる。

八、五元素を表す対象のことを考えながら修練する。すなわち(a)地、たとえば石や山、(b)水、たとえば湖、川、海、(c)火、たとえば蝋燭の炎やキャンプファイア、(d)風、たとえば空と雲、それに(e)空、たとえば物体の間の空間やあなたと外部の物体の間の空間である。また目を閉じて、頭の中に思い浮かべながら行っても良い。修練中は、意識を瞑想の対象と一体化させ、それと一つになる。

九、私たちの潜在的な力であるクンダリニーの火を瞑想しながら修練する。これはあらゆるレベルで私たちを支えてくれるので、元素が地である根のチャクラと関連している。地球の中心の火のようなものである。これはアーサナ、プラーナーヤーマ、良い食事、それに社会的な制約であるヤマを含む、私たちを浄化し教化する修練であるタパスによって目覚める。このような修練を動かす火、そして特に欲望、習慣、執着のようなあなたの努力が遭遇する抵抗の熱に集中する。あなたの性質を変容する火の力に集中する。そうすることで、あなたの意志力が鍛えられる。

十、私たちに多くの喜びを与え、心を落ち着かせる至福に満ちた冷却エネルギー、すなわち意識の光に集中し、満月を瞑想しながら修練する。月が頭頂のチャクラ、軟口蓋、サマーディ、涅槃、アムリット(頭頂のチャクラからのネクター)の分泌、そしてこれらの結果として生じる最高の能力の目覚めと関係づけられるのは、この効果のためである。私たちの努力すべてを超えて、どのようにそれが愛と平安として現れるのかを瞑想する。

一一、イダー・ナーディーの内側を低位のチャクラからクンダリニーの火が昇り、月すなわち頭頂のチャクラからピンガラー・ナーディーの中を降りてくる冷却エネルギーによって変容される内なる錬金術を瞑想しながら修練する。どのようにそれが意識の光である太陽になり、スシュムナー・ナーディーで一体化するのかを瞑想する。それはシヴァとシャクティの合一である。

一二、どのように下向きに動く吸気のエネルギーが、上向きに動く呼気のエネルギーと均衡し、容易な保息の静寂と意識の内なる輝きに帰結するのかを瞑想しながら修練する。

一三、各アーサナの修練中に、エネルギーの動きや感覚の源を瞑想しながら修練する。

同じコインの両側:真我実現とクンダリニーの目覚め

サマーディは意識しているものを意識していることである。意識はそれ自体に吸収される。言い換えると、意識の対象は意識そのものである。パタンジャリのヨーガ・スートラの古典的なヨーガでは、サマーディ(真我実現)は、アシュタンガ・ヨーガとして知られるシステムの八つの徐々に進行する準備のためのステップの最後に到達されるものだ。一元論あるいは非二元論的な伝統においては、人が絶え間なく「私は誰か」あるいは「誰がこれを感じているのか」、「誰がこれを考えているのか」、「誰がこれを経験しているのか」という様々な質問を尋ね続けるヴィチャーラ・アートマ(真我の探求)の手法を通じて真我実現にアプローチする。


シャンバヴィ・ムドラー(内なる凝視)のタントラの修練を通じて、あなたは意識というコインの反対側、すなわちエネルギーを意識するようになることで、真我すなわち、純粋な意識であるサマーディに近づくことができる。上に述べたエネルギー、シャクティの意識を高めることで、あなたは自分の聖なる可能性であるクンダリニーを目覚めさせ、意識自体であるシヴァを意識するようになる。自らをシヴァ・シャクティに次第に明け渡すにつれて、あなたは、人類の数多くの問題の解決を助ける上でその創造的な知性(シヴァ・シャクティ)の力強く、洞察力のある道具となる。

第一八章 悟りは光り輝く真我の意識である

いま、あれ。あること、存在。あなたがすべきことはない。ただ、あれ。それは「我在り」という考えの背後にある感覚だ。

存在することは単に気づきの状態である。存在が気づきをもたらす。気づいていることは心に対する目撃者となることである。

目撃者は考えない。目撃者は思考が行き来するのを観ている。

目撃者に感情はない。目撃者は感情が現れ、消えていくのを観察することができる。

見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったりするのではなく、目撃者は光景、音、臭い、味、感覚が生じ、終了するのを観察する。

目撃者は無選択。選択を行わず、目撃者は選択肢が作られるのを観察する。

目撃者は光り輝く真我の気づきである。

光り輝くためには、光を放たなければならない。光は、意識、目撃者、観察者に対する暗喩以上のものである。太陽がその照らすものから切り離されているように、意識すなわち目撃者は、観察されたり、目撃されたりするものから区別される。

光り輝く真我の気づきは、あらゆる現れに内在し、かつこれを超越し、そして思考、感情、見られ、聞かれ、味わわれ、嗅がれ、触れられるもののすべてがそこから生じ、そこに消えていく意識エネルギーの広大な輝く空間である「それ」の認識である。

それは現れていない「源」から現れへと至り、現れから現れていない「源」へと還る動かない流れである。

この動かない流れの認識が、気づきの真髄である。

それはあなたの真我、心、存在の基盤に対する認識への道である。

この気づきは恍惚境である。

この気づきは時間の外にある。過去にもあり未来にも常にある。この気づきは空間を超越する。境界を持たない。遍在する。

あらゆる形はこの普遍的な「意識」から自発的に生じるが、その「源」と異なることは決してない。

あらゆる形は、時間、空間、行動と反動、部分的な知識、限られた力、そして限定する欲望に従う。

あなたの中で、最も細かく、断片化した形においても、「源」の五つの機能がいまだ働いている。すなわち創造、維持、破壊、秘匿(曖昧化)、恩寵である。

あなたがこの源、光り輝く真我の気づきを忘れることはそれ自体が秘匿あるいは曖昧化という「源」の戯れの機能の表現である。

ただ静寂となれ。気づきとなれ。

心の沈黙に向かい、気づいているものに気づきなさい。

光り輝く真我の気づきの火と光の中で、形のあらゆる外見上の違いの背後にあるワンネスを見よ。なぜなら形自体が純粋な意識の火によってできているからだ。

それぞれの形が現れ、それぞれの形がしばらく維持され、それぞれのかたちが現れていない源である光り輝く真我の気づきに戻る中で、見ること、聞くこと、触れること、嗅ぐこと、考えること、あるいは感情的に感じることを通じて知覚されるそれぞれの形の間とその背後にある広大な輝く空間を見よ。

あなた自身、「我在り」は光り輝く真我の気づきである。「それ」が認識できるか? 

思い出せるか? 

どんどん思い出し、認識することにより、光り輝く真我の気づきとしてのあなたの真我、「我在り」を見よ。

その場その瞬間に留まり意識することを忘れなければいつでも純粋で無条件の至福があることを知れ。

いま、この至福に気づくのだ。

至福は制限を解除すると生じる。

統一と多様性の作用によって形の世界が現れては消えていく中、「意識」の光の中で瞑想的な気づきの余韻に留まるのだ。

この究極の「実在」、純粋な「意識」の至福、完全な自由、そして神との同一性を楽しむのだ。






















用  語  集

ア行
アートマン真我、個別化された意識
アサムプラジュニャータ・サマーディ 心のいかなる動きも伴わない超越的でより高次の認識作用の没入。
足かせ無知(真の自己を知らないこと)、カルマ(過去の言動・想念の業)、マーヤー(精
神的な錯覚)。
アドヴァイタ不二一元論、非二元論。
アーナンダマヤコーシャ霊体。至福の体であり、個人の永遠の真の存在、すなわち真我。
アンナマヤコーシャアンナは食物を意味する。それ自体の意思なしで、或いはその意思に反してまで
作用する細胞レベルでの身体意識を含む人間の物質的で目に見える部分。
イシュタデヴァタ各自ごと気に入った神の概念
イシュヴァラ欲望あるいは苦悩の原因、更にカルマによってさえ影響を受けない特別な真我。
それはまたすべての魂の大霊であり、すべての個我の普遍の真我であり、その
現れる力によって侵害されることなく、グナの作用によっても乱されることは
ない。
ヴァイラーギャ無執着を養うこと
ヴァーサナ性癖。欲望や嫌悪などを含む特別な夢想にふけること。心と体の領域で
エネルギーの流れを妨害するもの。
ヴィジュナマヤコーシャ知性体。理論立てて考える心であり、分析・統合し、兆候や示唆、集めたデータ
 から理念(アイデア)を構築する。
ヴェッタヴェリ広大な光輝く空間。シッダが好む至高の存在の概念。
エゴイズム肉体的な感覚、感情、印象、想念を自身と同一視する習慣であり、常に繰り返されるため、永遠の幻想を生み出す。

カ行
カルマインドリヤ動能感覚。対話(言葉)、操作(手)、歩行(足)、排泄(肛門)、生殖(性器)
カーヤカルパシッダによって開発された肉体を若返らせる錬金術の処方薬。
絡み合い粒子が ―宇宙の半分ほども離れているかもしれない― 他のもつれた粒子の
直接の影響下で挙動するプロセス
感覚器官嗅覚・味覚・視覚・触覚・聴覚に対応する器官
局所現実粒子の特性は完全に記述することができ、この特性は局所化されたままである。
すなわち、光速を超えて粒子を別の場所に送ることはできない。もっと簡単に表
現すれば、ものごとはまさにここにおけるそのままのあり方であるということ。
グナ自然の三つの性質。タマス(惰性・疑い・疲労)、ラジャス(落ち着きのないこと・
欲望)、サットヴァ(平衡・清澄・受容)
グル真理が明らかにされ、グナの超越に至る大自然の原理。この原理を授けることの
できる叡智を持つ大師。
クレーシャ五つの苦しみの源。真実の自己に関する無知、エゴイズム、執着、反感、死へ
の恐れ。
クンダリニー人間の中に眠っている力の意識
コーシャ乗り物。鞘。人間の肉体・生気体・感情体・知性体・霊体を包む鞘。


サ行
サイキックビーイング「心霊的存在」を参照。
サーダナヨーガの修練。真我実現に導くよう処方された修練の体系。自身が誰であるかを
思い起こさせるすべてと、自身がそうではないものを手放すために行うすべて。
サットヴァ自然の三つのグナの一つ。照らし、啓発する力。それは光・平衡・落ち着き・
明晰な理解・信仰・献身・純粋さとして現れる。
サマーディ認識作用の没入。神と合体した無呼吸状態。何が意識しているか気づいている
こと。心の沈黙。
サンカルパ決意
サーンキヤヒンドゥー六派哲学の内の一つで、実在に関し両極を立てる。主体(プルシャ、
意識)と客体(プラクリティ)
サンスカーラ想念・言葉・行動の習慣
サンヤマ合一状態。パタンジャリの定義は、集中・瞑想・サマーディを同時に行うこと。
シッダ完成に達した大師。シッディすなわちヨーガの超能力を持つ。
シッダーンタヨーガシッダの教え。
シッディ心霊的な超自然力。
シヴァ宇宙の知性・慈悲、男性原理・光輝・純粋意識・真我
シヴァシャクティ宇宙意識のエネルギー、至高の絶対的実在、創造神
ジーヴァ個別の魂。個別に体現した意識。
シャイヴァシッダーンタ二つの宗派がある。(a)は二元的実在論で、12世紀にメイカンダールによって提唱
された神学体系で、三つの実在を前提とする。それらは永遠に分離しているものとして神と魂と足かせを立てる。(b)は一元論的神学。ティルマンディラムの中の、ティルムーラルのヨーガの視点。
シャクティ創造の力、宇宙の女性原理で三つの形を持つ。それらはイッチャ、ジュニャーナ、
クリヤーシャクティ。意図、ヴィジョン、投影。より低いレベルではサットヴァ・
ラジャス・タマス。
シャクティパット信者に霊的エネルギーあるいは霊的能力を与えること。
心霊的存在サイキックビーイング。魂の声であり、神の内なる代理人。常に我々を導き支援
しようと手を差し伸べる。知性体の一部。神の恩寵の道具。真・善・美に抗する
我々の中のすべてを明らかにする。
スヴァルーパ真我の輝き。
生気体「プラーナマヤコーシャ」を参照。

タ行

タットヴァ自然の原理。サーンキヤでは24,シャイヴァシッダーンタとカシミールシヴァ
派では36を立てる。
タットヴァシュッディ放擲。切り離された意識。識別。
タパスエゴの視点を観察者の視点に変容させる自発的自己挑戦。集中的なヨーガの修練。
タマス自然の三つの態様の一つ。形あるいは物質の力。惰性・疲労・抵抗として現れる。
ダーラナー集中、あるいは凝念とも言う。
タントラ宇宙の中のすべてを支えるエネルギーの網。シヴァとシャクティ、意識とエネル
ギー、霊的なものと物資、天と地、永遠と束の間、無限と有限を結びつける教え。
チットシャクティ純粋意識の力
トゥリーヤ覚醒・熟睡・夢の状態とは異なる第四の意識状態。

ハ行
ハイゼンベルグの不確定性の原理 位置と慣性に関する二つの粒子の物理的特性に関する精確性に関する
根本的な限界を主張するもの。分かり易く言うと、一つの物質が精確に計測されるほど、他の物質はより精確性を欠いて認識されるか、あるいは制御される。実験結果は観察者の影響を受ける。
パサシャイヴァシッダーンタの三つの実在の一つである足枷。
パスシャイヴァシッダーンタの三つの実在の一つである魂。
パティシャイヴァシッダーンタの三つの実在の一つである神。
ビンドゥー点、種、集中する場所、光の点、原初のエネルギー
プラジュニャータ洞察力、智慧。認識作用の没入の初期段階、サンプラジュニャータ・サマーディによってもたらされる。
観察、沈思、喜び、「存在」の経験。
プラティヤハーラ制感。外部の興味や気を散らすことから注意を引っ込めること。
プラナヴァ原初の音。聖音オーム
プラーナマヤコーシャ生気体。欲望・感情・感性・情熱・行動のエネルギー・欲望の意思から成る人間
の性質の領域。所有欲と他の関連する本能。怒り・恐れ・貪欲・欲情・悲哀・
喜び・憎しみ・反感・高慢・小さな好き嫌い・好みなど。意識の表面で感情体と
生気体は混じりあっているが、それら二つは別の力である。
ブラフマン絶対的実在
プルシャ見る者、意識。サーンキヤ哲学では一つだが、ヴェーダーンタでは二つを立てる。
(a)自然の中に巻き込まれ変化するもので、宇宙を楽しんでいる。(b)静かで不動の
目撃者。バガヴァッド・ギーターでは三番目、プルショッタマについて述べ、それ
は変異する多様性と変異しない統合の相を保有する。
プルショッタマ最高の神格。その偉大さがすべての被造物を包み込み、変化する多様性と普遍の
統合性を持つ至高のプルシャ。より高次の意識的、神的性質を表し、それにより
神がジーヴァ(個我)となる。

マ行
マーヤー主体(見る者)と客体(見られる者)の分離を通して「一者」が多くのものに見
える精神的錯覚の力。
マナマヤコーシャメンタル体。感受性。認知、感覚を通じた知覚、物事に対する思考の反応、アイ
デアを実現するための精神エネルギーの放射、言語能力を通じたアイデアの表現
に関わる部分
モークシャ世俗的な自我と、カルマや欲望から生じるすべての苦しみから解放されること。
解脱。

ヤ行
ヤーマ社会的な制戒。非暴力、真実、貞操、不盗、不貪。

ラ行
ラジャス自然の三つのグナの一つ。動き続ける力。精力。行動・興奮として現れる。
ラーヤヨーガ我々自身を肉体と心の複合体と同一視する性癖を打ち破ることを目的とする
「溶融のヨーガ」。結果として真我実現に導く。クンダリニー・ヨーガ。









参 考 文 献

シュリー・オーロビンド著 『神の生命』 文化書房博文社 2009

シュリー・オーロビンド著 Essays on the Gita. Pondicherry, India: Sri Surobindo Ashram Press. 1970

シュリー・オーロビンド著 Letters on Yoga. Pondicherry, India: Sri Aurobindo Ashram Press. 1970

T・N・ガナパティーとK・R・アルムガム著 The Yoga of Siddhar Tirumular: Essays on the Tirumandiram. St. Etienne de Bolton, Quebec: Babajis Kriya Yoga and Publications, Inc. 2008

T・N・ガナパティー他著 The Yoga of the Eighteen Siddhas: An Anthology. St. Etienne de Bolton, Quebec: Babajis Kriya Yoga and Publications, Inc. 2006

T・N・ガナパティーとK・R・アルムガム著 The Yoga of Siddhar Boganathar.(Vols. 1-2). St. Etienne de Bolton, Quebec: Babajis Kriya Yoga and Publications, Inc. 2004

マーシャル・ゴヴィンダン著 『ババジと18人のシッダ』ネオデルフィ 2020

マーシャル・ゴヴィンダン著 『パタンジャリとシッダのクリヤーヨーガスートラ』Babajis Kriya Yoga and Publications, Inc. 2021

マーシャル・ゴヴィンダン著 The Wisdom of Jesus and the Yoga Siddhas. St. Etienne de Bolton, Quebec: Babajis Kriya Yoga and Publications, Inc. 2006

マーシャル・ゴヴィンダン著 『クリヤーヨーガ 道を照らす光』ババジのクリヤーヨーガ日本支部 2017

マーシャル・ゴヴィンダン著 Opposite Doing: the Five Yogic Keys to Good Relationships.[E-Reader Version]. http://www.babajiskriyayoga.net/english/bookstore.htmより

フィリップ・ルーカス著 Not So Fast, Awakened Ones. The Mountain Path, 49(1), 35-47 2012

マザー著 Questions and Answers. Pondicherry, India: Sri Surobindo Ashram Press. 1987

T・S・アーナンダ・ムルティ著 Shreeman Tapaswiji Maharaj: Saint Who Lived for 185 Years. Bangalore, India: Sri Vishnu Ashram Trust Publication.

V・T・N・ニーラカンタン、S・A・A・ラマイア、ババジ・ナーガラージ著 『ヴォイス・オブ・ババジ』St. Etienne de Bolton, Quebec: Babajis Kriya Yoga and Publications, Inc. 2003

ピュー・リサーチ・センター著 Americas Changing Religious Landscape. http://www.pewforum.org/2015/05/12/americas-changing-religious-landscape/

スワミ・ラーマ著 『ヒマラヤ聖者とともに』ヒカルランド 2012

ラマナ・マハルシ著 Who Am I? Tiruvannamalai, India. Sri Ramanashramam Publications. 1947

アディ・シャンカラチャリヤ著 The Crest Jewel of Wisdom.(Viveka Chudamani),モヒーニ・チャッテルジ翻訳 1998

サットプレム著 Sri Aurobindo or the Adventure of Consciousness. [E-Reader Version]. http://www.auro-ebooks.com/sri-aurobindo-or-the-adventure-of-consciousness/より 1968

ティルムーラル著 The Tirumandiram. St. Etienne de Bolton, Quebec: Babajis Kriya Yoga and Publications, Inc. 2010

パラマハンサ・ヨガナンダ著 『あるヨギの自叙伝』森北出版 1983

ババジのクリヤーヨーガHP  https://www.babajiskriyayoga.net/japanese/home.htm













著 者

マーシャル・ゴヴィンダン・サッチダナンダは、1969年からババジの弟子としてクリヤーヨーガを集中的に実践してきました。ヨーギーS・A・A・ラマイアの指導のもとインドで5年間クリヤーヨーガを研究・実践し、18年間で世界中に23のヨーガセンターをラマイアが設立する手助けをしました。この間、1日平均8時間クリヤーヨーガを実践し、その結果、真我実現を達成しました。
 インドに滞在している間、タミル語とタミル・ヨーガ・シッダの文献を学びました。1980年にはシッダ・ボーガナタールの完全な作品の収集と出版を支援しました。1986年インドのタミルナードゥにおいて、ヨーガセラピーと理学療法を用いたリハビリを行う病院の建設を監督しました。1988年、5年間にわたる厳しい条件を満たした後、ババジの導きとインスピレーションのもとにクリヤーヨーガを教えるようにババジから依頼されました。1991年『ババジと18人のシッダ』を執筆し、現在13か国語で出版されています。1992年カナダのケベック州にババジのクリヤーヨーガのアシュラムを開き、年間を通してレッスン、セミナー、静修会を開催しています。
 1995年には、北米有数の企業のシステム監査官としての仕事を退き、ヨーガの教授と出版に専念するようになりました。それ以後、世界中を飛び回り、20カ国以上の約50のクリヤーヨーガの活動グループ、インドのポンディシェリーのアシュラム、アメリカ、カナダ、インドで正式に登録されている非営利教育団体であるババジのクリヤーヨーガ・オーダーズ・オブ・アーチャリヤを指揮しています。1989年以来、セミナーや静修会を通して1万人以上の方々にババジのクリヤーヨーガのイニシエーションを行ってきました。
1999年10月、ヒマラヤのバドリナートのアシュラム近郊でババジにまみえる光栄に浴しました。
 現在、タミル・シッダのヨーガに関するすべての文学を包括する大規模な調査プロジェクトにおいて、学者チームを統括しています。
ジョージタウン大学国際関係学部、ジョージワシントン大学卒業。

著作権 ババジのクリヤーヨーガ出版 全ての権利を保有。書面での許可が無い限り、無断転載を禁ずる。
ISBN number: 978-1-987972-22-1




ヴォイス・オブ・ババジ
第1部 明かされた神秘
第2部 すべての病に対するマスターキー  Kindleストアで発売中


日本人にはほとんど知られていないことですが、ヨガナンダがこの世を去った後、ババジは、二人の弟子にヨガナンダの仕事を引き継がせることに決めました。ニーラカンタンとヨーギー・ラマイアです。

この二人の弟子にババジは三冊の本を書かせました。『明かされた神秘』『すべての病に対するマスターキー』『死の終焉』です。

これまでクリヤーヨーガやババジについて日本語で得られる情報は『あるヨギの自叙伝』や『ババジと18人のシッダ』などしかなく日本人がババジの人柄を知る術はほとんどありませんでした。

しかし、上記の三冊には、ババジが二人の弟子に指示を与える様子が詳しく描かれており、またババジの人柄を知ることができる場面や、さらには、ババジが直接話した言葉やテレパシーで与えた情報が書かれています。

ヴォスオブババジは、これまでには得られなかった情報を提供してくれますので、ババジのクリヤーヨーガに関心のある方々全員に強くお勧めいたします。

Kindleをお持ちでなくとも、アマゾンからアプリをダウンロードすれば、パソコンやスマートフォンでお読みいただけます。


クリヤーヨーガ:道を照らす光  Kindleストアで発売中

この本は、これからババジのクリヤーヨーガを始めようとする方にも、そして既に実践している方にも貴重な情報を提供してくれます。

なぜババジのクリヤーヨーガを実践する必要があるのか、どのような困難があるのか、そしてその困難をどうすれば克服することができるのか。

誰もが壁に当たります。この壁は人間であれば誰もが遭遇するものであり、本当の自分自身を知らないこと、そして過去の行為から生じるカルマが原因です。本当の自分を知り、エゴを明け渡すことによって壁は克服されるのですが、実行するには援助と洞察が必要なのです。

この本がその援助と洞察を提供してくれます。ババジのクリヤーヨーガを実践するすべての方に読んでいただきたい本です。







パタンジャリとシッダのクリヤーヨーガスートラ  Kindleストアで発売中

本書は、パタンジャリのヨーガスートラの他に類を見ない解説書となっています。

各節の解説に加え、南インドの聖典ティルマンティラム(ティルムーラル著)とヨーガスートラを比較し、多くの類似点を示し、さらにはババジ・ナーガラージ(パラマハンサ・ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』で有名)が現代に復興したクリヤーヨーガの技法との関連も示しています。

クリヤーヨーガの技法の意義を教えてくれる、あるいは再確認させてくれる本書は、クリヤーヨーガ実践者には必携の書です。

この本は、これからババジのクリヤーヨーガを始めようとする方にも、そして既に実践している方にも貴重な情報を提供してくれます。


参考 ババジのクリヤーヨーガHP  https://www.babajiskriyayoga.net/japanese/home.htm

悟り、それはあなたの考えを超えたもの クリヤーヨーガの視点

2026年4月25日 発行 初版

著  者:マーシャル・ゴヴィンダン・サッチダナンダ
発  行:ババジのクリヤーヨーガ日本支部出版

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