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内容
序文 7
パート1 8
人間のジレンマ つかの間の物事に永遠の幸せを求める 8
1.なぜ我々はヨーガを実践するのか? 8
2.カルマ 原因か、それとも結果か? 28
3.好き嫌い マインドの病 56
4.疑念 61
5.誠実さ 64
6.永遠の微笑み 68
パート2 70
霊的な道を見出す 70
1.グルプルニマーとグル 70
2.向上心 87
4.弟子道 112
5.イニシエーションの重要性 115
6.ババジのクリヤーヨーガとは 120
7.想像 159
8.真我を悟ること、そしてその状態を維持すること 162
9.瞑想という技法 自分と自分ではないもの 166
10.満足することによって、至福が得られる 195
11.各人の家がアシュラムである 201
12.サットサンガ 210
13.聖なる空間 216
パート3 220
人生をヨーガにする 220
1.平静へ 静かに活動的で、活動的で静かである 220
2.世の中が今必要としているものは、愛と思いやりである 225
3.判断、他者も自分も傷つけない方法 232
4.社会運動としてのヨーガ 251
5.すべての国が私の故郷であり、すべての人が私の家族である 260
6.神聖な狂気、クンダリニー、シャクティパート、エゴの粉砕 267
7.どうすれば霊的に進歩していると知ることができるのか 278
8.二十一世紀のヨーガ 299
9.タパス 自ら課す難題 303
10.サマーディ 310
11.カイヴァリヤ 完全なる解放 323
12.人生というサーダナ 329
13.質疑応答 336
用語 358
著作権について 360
序文
妻のジャン・『ドゥルガ』・アールンドと私は、クリヤーヨーガに興味を持つ人たちと既にクリヤーヨーガを実践している人たちに対して、なぜクリヤーヨーガを行う必要があるのか、どんな困難があるのか、そしてどうすればそれらを克服できるのかについて書かれてある本が必要であると長年思っていました。私たちは、本書が、クリヤーヨーガによってもたらされる機会と難問に対して誰もが準備を整える手助けになってくれると信じています。誰もが人間の性質から生じる抵抗、つまり真の自分に対する無知、また思考、言葉、行為による長年の条件づけの結果であるカルマに直面します。神へ向かう向上心を養い、エゴイズムを拒絶し、真我つまり純粋な観察者の意識に自らを明け渡すことによって、我々はこの抵抗とカルマと途上に存在するたくさんの障害を克服することができます。しかし、そうするためには、支えと道を照らす光が必要なのです。
マーシャル・ゴヴィンダン
ジャン・アールンド
パート1
人間のジレンマ つかの間の物事に永遠の幸せを求める
1.なぜ我々はヨーガを実践するのか?
ヨーガを実践する者は誰でも、「なぜヨーガを実践するのか」というマインド(世の中や自らの体験を認識し、思考し、感じる部分)が抱く疑念に打ち勝たなければなりません。自分の持つ苦しみを克服するためには、ヨーガの修練が第一にならなければなりませんが、ヨーガが自分の人生において他の何よりも重要であるという確信が持てるまでは、そうはなりません。マインドに生じる疑念や乱れをものともしない視点が確立されるまでは、疑念や乱れが絶え間なく生じます。人生で最も重要な問いが意味することを注意深く読み取り、自分のものにすることが大切です。
視点の転換
我々はみな何かしら苦しみを持っています。個人としても、そして全体としても。我我はそれを否定したり、避けようとしたりしますが、苦しみはあらゆる所に存在しています。身体的な苦痛、悲しみ、恐れ、怒り、ねたみ、他者に対する期待、悩み、憂鬱など苦しみは様々です。その苦しみから逃れるために、お酒、麻薬、テレビ、食べること、運動、様々な娯楽、仕事、セラピー、宗教などに頼ります。苦しみの根本的な原因が何なのか、またどうして互いに苦しみを与え合うのかということをじっくり考えてみることは滅多にありません。我々は、人生のすべてがつかの間のものであるということを忘れてしまっています。我々の経験することはすべて変化します。自分の置かれている状況、感情や精神状態、身体の状態、様々な関係、そして金銭的な状態も変化します。それにもかかわらず、我々は驚いたり、怒ったり、失望したり、そして愛する人が亡くなった時や物が壊れた時、失業した時、事故に遭ったり、裏切られた時にはショックを受けます。愚かにも我々はつかの間の物事に永遠の幸せを見出そうとしているのです。
知恵とは、苦しみの源、喜びの源を知り、永遠のものとつかの間のものとを見極めることです。真我(本来の自分・永遠の存在としての自分)と、肉体・マインド・人格からなる存在とを混同してしまうことが、苦しみの源だと、賢者は言います。内なる観察者としてしっかり立つ魂が本当の自分なのだと知ると、即座に苦もなく深い喜びを味わうことができる、と賢者は言います。
苦しんでいるのは、誰なのでしょうか? 身体的苦痛、乱れた感情、厄介な思考というものがありますが、それらは行き交うものです。それらが去れば、本当の自分が残ります。みなさんは、肉体の感覚、感情、思考がショーを繰り広げている間、常にそこに在る存在です。行き交うものではありません。常にそこに在り、決して変わることのない存在なのです。深呼吸をして、「自分の中で決して変わらない部分はどこなのか」と自身に問いかけてみてください。思考は変化します。感情も変化します。肉体の感覚も変化します。何が残りますか? それを定義する必要はありません。ただ「それに気づけばいいのです。「それ」は形もなく、時にも制約されず、変わることもありません。人生で出遭う様々な経験の中にあって常に変わらぬものです。五歳の時、十七歳の時、三十歳の時にも在り、そして人生の最後の瞬間にも在り続けるものです。「それ」は真珠をつないでいる糸のようなものです。気に留めることは滅多にありませんが、それが真我であり、魂なのです。知恵とは、常に在り続けるこの存在の視点を確立することなのです。
みなさんのマインドは今この文章を読み、私の言おうとすることを理解しようとしていますので、思考が生じています。しかし、一歩さがり、視点を変え、文章を読み続けながら、思考、感情、感覚を観察することができますか? これができれば、魂の視点、つまり純粋意識を味わうことができます。しかし、他のものとは違い、「それ」は対象物ではないため、経験することはできません。「それ」は主体です。他のものはすべて客体です。ですから、自分が何者であるのかを悟ることは、新たな経験をするということではありません。特別な経験をすることではありません。「特別」な存在にもなりません。「特別」であるということには、他のものからの分離という要素が絡みます。本当の我々はすべての「もの」を超えた存在であり、そこには分離はありません。
「それ」を理解することはできません。理解という事柄には、観察の対象物への思考が絡んでくるからです。「それ」は思考を超えたものであり、純粋な愛なのです。
みなさんは思考ではありません。そもそもそのほとんどは自分から生じたものでさえありません。みなさんは思考を持ちます。しかし、それらは行き交います。みなさんは留まります。思考の多くは他者からのものであり、周りに漂い、自分のマインドへと入り、ここでみなさんの色、癖が加わり、「私は思う」「私はがっかりしている」「私はこれをしなければならない」「私は怒っている、心配している」などと言うのです。
ですから、賢者とは、視点を変えることのできる人、言い換えれば、肉体・マインドが持つ思考や感情や感覚と一体になるのではなく、魂の視点、つまり観察者の視点という悟った状態に留まることのできる人物のことです。魂の持つ観察者の視点は、周りに提供される愛なのです。
エゴイズム
通常、どうして我々は感覚や感情を自分だと思ってしまうのでしょうか? 一日中、我々は本当の自分と、多くの場合矛盾する感覚や感情とを混同してしまいがちです。目覚めた時には「私は幸せだ」。その日は天気が良く、仕事をする気も満々で、「私は何にも動じない」。コーヒーを飲んだ後に、厄介な電話が二本かかってきて、「私はイライラしている、ストレスがたまる」。同僚が業績を上げ、褒(ほ)められると「私はねたましい」。仕事が終わり、車で家路についている頃までには、「私」は、幸せ、冷静、退屈、嫉妬(しっと)、不安定、怒りなど様々なものと一体になっています。以前は「私はあの人を素晴らしい人だと思う」と考えていた人のことを、今は「私はあの人が大嫌いだ」と考えるかもしれません。この逆もあるでしょう。「私」というものは、こうした変化し続ける感情や感覚のすべてであることはできません。
ではどれが「本当の自分」なのでしょうか? 「本当の自分は」このどれでもありません。
「あなたは誰ですか」と尋ねたら、名前や職業を答えたり、あるいは未婚とか既婚とか、子供が三人いるなどを言うでしょう。出身地とか、好きなもの、嫌いなものや職場のことや政治、宗教などを言うかもしれません。時間があれば、自分について語ったり、どんな考えを持っているかについて話すでしょう。しかし、一年後に再会したら、これらのうちで変わっているものがあるかもしれません。失業したり、離婚したり、政治や宗教についての考え方が変わっていたり、好きなものや嫌いなものが変わっているかもしれません。そして、自分について新たな話を語るわけです。一体あなたは何者なのですか? 本当のあなたは? 今までに挙げてきたものはすべて一時的なものですから、このどれでもありません。本当のあなたは決して変わることのないものです。変化するものは、在るものではないからです。
我々は本当の自分に関して混乱しているのです。一日に何千回も「私」と言ったり、考えたりします。しかし、この「私」とは誰なのでしょうか? ギリシャ語で「私」を表す言葉は、「エゴ」です。エゴとは、肉体、マインド、感情と一体になってしまう習慣と定義することができるでしょう。どんなものでも繰り返し行ったり、考えたり、感じたりすれば、それは習慣になります。五感を通してもたらされる外部の刺激にすばやく反応できるように、脳の内部が習慣を形作るのです。我々は何千もの習慣をもち、個々人で様々です。歩き方、話し方、食べ方、運転の仕方、他人への接し方、好き嫌い、これらはすべて習慣に基づいています。これらの合わさったものが、いわゆるカルマ(行為とその結果、自分の行いが自分に返ってくるという考え)、過去の思考、言葉、行動の結果になるわけです。我々の持つ最も重大な習慣は、自分の思考、感情、感覚と一体になってしまう習慣です。我々は、「私は思う」とか「私は感じる」「私は苦しんでいる」「私は怒っている」などと言います。しかし、本当は、これらの経験のどれでもありません。「あのことに関しての思考がある」「肉体が疲れている」「あれ、これについて混乱している」と言うのが正しいのです。つまり、我々が経験することはすべて、対象物(客体)なのです。主体ではありません。本当の私は、純粋な観察者の意識であり、これが主体なのです。ですから、エゴイズムとは、誤った自己認識のことなのです。我々は、本当の自分を忘れ、俳優のように自分ではない誰かのふりをしているのです。
エゴイズムの結果
エゴイズムの結果としてもたらされる最たるものは、苦しみです。苦しみは、でき事にどのように反応するかで決まります。それゆえ、痛みとは異なるものです。つまずいて、転び、体を打てば、痛みが生じます。苦しみには、その後に続く怒り、当惑、後悔などの感情が伴います。エゴイズムのために、こうした感情と一体になり、汚い言葉を吐き、冷静さやユーモアを失ってしまうのです。苦しみのために、バランスを崩してしまいます。エゴはバランスを崩した状態になりますが、真我はなりません。真我は冷静さを保ちます。ですから、エゴによってバランスを失い、否定的な感情に入り込む前に、注意を払い、エゴが現れたことに気づくことが重要なのです。否定的な感情には次のものがあります。
①欲望 何らかのものや結果によって喜びがもたらされると思い込んだり、自分に苦痛や不快をもたらすと考えるものを避けようとする感情。これらは一時的なことなのですが、現在という時を味わう妨げになります。欲望とは罠のようなものです。その欲望さえ叶えられれば、もっと幸せになれると思ってしまうからです。欲望は満たされるまで燃え続け、一つの欲望が満たされると、次の欲望が現れるまで、一時的に欲望のない状態になりますが、普通は即座に次の欲望が生じてきます。欲望には終わりがないのです。今度欲望を感じたら、「この欲望を抱いているのは誰だ?」と自分に問いかけることです。そうすれば、即座に真我に向かうことができ、本来の視点、つまり観察者の視点から物事を見るようになるでしょう。実際には、欲望を抱いている存在などいないのです。欲望はやって来ては去っていきます。何らかの欲望が満たされている時には、それを楽しんでいる自分を見るのです。離れて見ている愛情に満ちた観察者、つまり欲望を持たず、ただ愛している存在の視点を養うのです。
②怒り 何かあるいは誰か、また欲望が満たされない時には、自分自身に対してさえ抱く激しい感情。怒りというものは習慣になります。怒りを感じたら、拒絶するか、あるいは方向を変えなければなりません。怒りは常に、怒りを抱いた本人に最も否定的に働くのです。賢者は怒りを抱きません。怒りを肯定的な行動へと変換し、誤りを正すことは、いつでも可能です。愛している存在は、怒りを抱くことができません。
③貪欲(どんよく) 他者に最高のものがもたらされることよりも、自分がもっと手にすることを望むこと。貪欲とは、何事に関しても自分が中心になっていることです。金銭的な事柄、食べ物、肉体的、精神的、霊的な事柄のどれであろうと、最も良い部分を、他者ではなく自分が持ちたいと思うのです。真に愛している存在は、貪欲ではありません。
④プライド 自分への評価が高く、その結果、多くの場合、他人を馬鹿にします。自分が勝っていると思っているのです。自分が成し遂げた事柄、あるいは自分が属している宗教、スポーツチーム、人種、国が成し遂げたことと自分とを一体に捉えると、また「私、あるいは我々」と「彼ら」という考えがある時にはいつも、プライドが現れます。プライドによって、真我が隠され、すべての人が本来一体であるということがわからなくなってしまいます。プライドは愛を閉じ込めてしまいます。
⑤嫉妬・恨み 他人の幸せや自分が持っていないものを他人が持っているのを見た時に感じる苦々しい感情。これによって、喜びの真の源が覆い隠されてしまいます。苦々しい感情のために、愛が制限されてしまい、自分に対してさえ愛を感じることができなくなります。
賢者は、このようなエゴの現れを、自分を浄化するための機会だと考えます。本当の自分ではないものを手放すと、幸せと愛の内なる源に帰ることができるのです。
自分に取り組む
一般的な人間は、喜びを求めることと苦痛を避けることの間を振り子のように揺れ動きます。しかし、この両方に苦しみが潜んでいます。求めたことを手にした時でさえ、それを失うことに対する恐れから、苦しみが生じます。賢者は、中間の道を見つけ出し、釣り合いの取れた精神状態を養います。釣り合いの取れた精神状態とは、やって来ること、あるいはやって来ないことに対して満足し、冷静でいることです。これは、真の霊性に対するリトマス試験です。偉大な賢者ラマナ・マハルシは、自らの悟りの状態に対して尋ねられた時、「もはや何事も私を乱すことはできない」と言いました。魂の観点からすれば、心の平安が乱されるのなら、それは高くつく、ということになります。しかし、マインドは喜びを求め、苦痛を避けることに執着しているので、バランスの取れた状態になることは滅多にありません。賢者は、思考、言葉、行為においてこのバランスを養います。賢者の人生においては、すべてのことが冷静さと愛とを養うための機会になるのです。これは、苦痛や不快、また悪いカルマの結果が人生に起こらなくなるということではありません。そうではなく、そうしたことに反応せず、その瞬間に留まること、気づき、愛を養い、意識的に対応するということなのです。こうすることによって、インスピレーションを受け、困難を解決できる最適な状況がもたらされます。また、こうすることによって、物事が思い通りにいかなくても、不安、怒り、悲しみにエネルギーを浪費せずにすむのです。
我々の周りで起きていることを理解し、それに反応する五感を超えたところに、我々の真我は存在しています。真我は、マインドの条件づけや、見たこと、聞いたこと、味わったこと、触れたこと、感じたことを解釈する知性を超えています。本当の我々は、神聖で、無限の中に秘かに存在しています。光り輝く愛と至福です。これを知ることによって、我々はエゴという一般的な人間の視点を超え、平安と無条件の愛からなる存在である魂の視点に繋がることができるのです。
ヨーガ・シッダ(完全な状態に到達した存在)たちは、長期にわたるエゴ浄化のプロセスを経て、完成に至りました。まがい物ではない真の霊的教えはすべて、このプロセスを強調します。イエスは「私の言うことに耳を傾け、理解するのです。神聖さを汚すものは、外部から人間に入って来るものではなく、人間から出て来るものなのです」(マルコ伝第7章第14、15節、マタイ伝第15章10節、トマス伝第14章第5節)と言いました。今まで述べてきたように、人間から出て来るものは、エゴの現れです。どうしたら自分を浄化することができるのでしょうか? イエスが強調している内の清らかさは、神聖さを汚すような思考、言葉、行為、つまり非難、貪欲、情欲、怒り、憎しみ、欲望に対する識別力で取り組むことができます。これらはすべて、他人に対しても、そしてこれらを抱く本人に対しても苦しみをもたらします。思考は、言葉と行為の前に存在するので、我々は、内面の否定的な傾向に注意を払い、内でこれらが生じたらすぐに離れられるようにならなければなりません。
これを行うために必要となる、その瞬間に留まることと気づきは、瞑想を実践することで養うことができます。しかし、ただ深い瞑想に入りさえすれば、日常生活での態度が完全に改まる、と考えてはいけません。日々の生活で困難な状況に直面した時に、魂の無執着な視点に立てるようにならなければなりません。このプロセスは、古典的なヨーガの特徴である、霊的規律を示す二つの行為に要約されます。「ヨーガとは、本当の自分を思い出し、本当の自分ではないものを手放すこと」ということです。鳥の二つの羽のように、これらによって、人間は、地上に天国を実現するための視点へと上がることができるのです。神の存在しない所がどこにあるのでしょうか? 我々が上の空になっている所だけです。また、否定的な思考や傾向にも真正面から取り組まなければなりません。『ヨーガスートラ』の第2章第33節でパタンジャリは、「否定的な思考に囚(とら)われている時には、反対の思考を養わなければならない」と述べています。アファメーション(肯定的な言葉を繰り返し、潜在意識に根づいた否定的な思考を取り除くこと)や自己暗示、視覚化の練習、祈りを繰り返し、他人を判断するのではなく、他人の幸せを思ったり、他人を嫌うのではなく、愛することによって、これを行うことできます。
我々は、否定的な思考に襲われ、頻繁に不安やうつ状態に深く入り込んでしまいます。不安やうつは、自分が望まないことについて深く考えることです。賢者は、物質化はマインド内で始まる、ということを知っているので、日々の瞑想で最高の思考と感情を養います。これは、起きているすべてのことに関して、絶えず気づきを持ち続けるということです。意識の一部を引き離し、意識の他の部分が関わっていることを観察すると、気づきが生じます。考えているのではありません。思考がやって来ては、去っていくのを見ているのです。何かをするのではありません。ただ起きていることを見ているのです。感じるのではありません。観察者は、つりあいが取れ、愛情に満ちた思いやりであり、生気体上で感情が生じては、おさまるのを見ているのです。少し練習すれば、観察者の視点が、人生の根底をなす視点となり、「エゴイズムと苦しみ」の対極をなす状態が確実なものとなります。その瞬間に留まることによって、気づきが自然に生まれ、気づきがある時、至福が生じます。こうして、「その瞬間に存在することと愛」が「エゴイズムと苦しみ」に取って代わるのです。これは、一般的な人間の性質というエベレストを踏破し、真我実現という山頂に達した者たちに約束されていることなのです。
エゴイズムは自然の原理の一つであり、これによって、意識は経験の対象物の周りに限定されます。すべての生き物は、主にその生き物が持つ感覚内で意識のこの収縮を経験します。例えば、一般的な人間の意識は、子供の頃は肉体的な感覚に浸っています。成長するにつれて、内面の動き、つまり空想、恐れ、欲望に浸るようになり、そしてその後、思考、つまり記憶や考えや問題に囚われるようになるのです。肉体的なものであれ、感情的なものであれ、精神的なものであれ、知的なものであれ、経験の対象物の周りに意識が収縮するのは、エゴイズムが原因なのです。これは個人的な欠点ではありません。これは、自然界の計画の一部であり、「なぜ一つのものが多くのものになったのか? どうすればワンネスの状態に帰ることができるのか?」という存在に関する根本的な問いに関わることなのです。
賢者によれば、物質的なものからなるこのつかの間の世界を超えた所に、高次の「コーザル界」(原因界)が存在し、すべてのものはここから現れます。苦しみのために、誰もが、多かれ少なかれ知恵を用い、エゴの限定された視点を超えるように促されるのです。無知な者は、意識をそらすことによってこれを行いますが、賢者は、表面を超えた所にある実在を認識しているので、エゴを浄化するために、霊的な規律によって意識を拡大し、自らのハートに比類なき、無条件の愛を確保し、真我を実現した状態で、常に新たなる喜びを知るのです。
エゴイズムの覆いを取るための実際的な手段
1.見返りを求めることなく無私の奉仕として、他者のために毎日何かを行うこと。他者の中に神を見、無執着な状態で、気づきを伴って行うのであれば、自分の仕事に関する事柄もこの活動になります。
2.愛、つまり肉体・マインド・感情という表面的な動きの背後に存在するものについて瞑想すること。
3.無執着を養うこと。手放すことに関わるこの意識は、我々が愛と混同してしまう愛着の対極にあるものです。流れゆく思考や経験を、自分が河岸で観察している様子を見るのです。思考という川の流れに入り込み、流されてしまわないようにするのです。
4.静けさを養うこと。静かに活動的であることです。世の中のことに対処する時には、静かに、注意しながら対処するのです。周りで何が起きようが、静かな状態に留まることに精力的に取り組むのです。静けさは、魂の窓です。静けさを養うことによって、我々はあらゆる所に愛が存在していることを知ることができるのです。
5.自己探究。自分の経験を記録する日記をつけ続けること。自分のマインドの癖に気づくのです。高次の自分、つまり真我を思い出させてくれる聖典を勉強することです。
6.話す前によく考え、真実で、必要であり、有益であり、意識が高揚するようなことだけを話すこと。
7.身体を伸ばし、呼吸を観察すること。肉体、マインド、生気に関わる修練に取り組むこと。これによって、ストレスに対処し、深いリラックス状態が得られ、エネルギーを増加させることができます。ストレスに対処し、深くリラックスすることによって、人生のドラマに囚われてしまうエゴの傾向を避けることができるのです。
8.食べ物は、思考に影響を与えます。意識的に食事をし、無意識の思考がマインドを支配しないようにします。悪い食習慣のために、人生に、恐れ、ふさぎ、怒り、不幸などが持続してしまいます。貧しい食生活や食べすぎによって、エネルギーのレベルが低くなります。生き生きしていないと、肉体と自分とを同一視してしまう思考から離れにくくなります。
9.アファメーションや自己暗示によって、否定的な思考や感情と全く反対のものを養うこと。
10.意識的に生きることによって、日々の生活を楽しむこと。一日一日をできる限り素晴らしいものにすること。機会は、瞬間瞬間に生じます。一瞬一瞬を意識することです。自分の目の前にあるものに本当の意味で目を向け、意識的に歩くのです。
このようなことを実践することによって、「私に、私のもの、私が」という限定された視点の上に意識を上げることができます。エゴを超えるための努力を意識的に行い、「自らを照らす光」となるのです。こうすると、他の人たちも、あなたが一緒にいてくれるだけで喜びを感じるようになるのです。
2.カルマ 原因か、それとも結果か?
「カルマ」という言葉は、審判と運命という考えと共に、法と正義、褒美と罰という考えも思い起こさせます。キリスト教徒やユダヤ教徒は、これに加えて、罪と罰というイメージも持つでしょう。ですから、カルマは、我々にとってあまり良いことではなく、むしろ恐ろしいことです。こうしたあまり良くないイメージと結びついているので、一般に我々はカルマについて考えないようにします。多くの場合、「カルマは理解できない」「カルマは理解しにくい」という態度を取ります。しかし、理解しようとしまいと、我々はみなこの法に支配されています。
「カルマ」について考えると、次のような答えのわからない問いがたくさん生じます。
1.なぜ我々はカルマを生み出してしまうのか。
2.カルマにはどのような種類があるのか。
3.なぜ善人に不幸なことが起こるのか。
4.自分の人生は、運命によって決まるのか、それとも自由意思で決まるのか。
5.悪いカルマを克服するためにはどうすればよいのか。
6.恩寵(おんちょう)とは何のか。カルマにどう作用するのか。どうすれば恩寵を受けられるのか。
7.クリヤーヨーガによって、どのようにカルマが相殺されるのか。
こうした問いの答えを探る前に、まずカルマを定義し、その出所を理解しましょう。
カルマの定義。簡単に定義すると「カルマとはすべての行為、言葉、思考が影響や結果をもたらすという法則、あるいは原理」または「すべての行為が反応を生み出すという法則、あるいは原理」です。思考や言葉、行為が繰り返されると、影響が蓄積され、潜在意識内の癖、あるいは傾向となります。ですから、カルマは原因であり、また結果でもあります。
カルマという概念の出所はどこなのか?
カルマという概念は、東洋の哲学や宗教に限られたものではありません。カルマは、キリスト教やユダヤ教においても、「罪」「審判」「救済」と関わる様々な言葉で表されます。例えば、「自分が蒔いたものを、自分が刈り取る」。「原因と結果」という形で、科学に関する西洋の文献の中にも現れます。カルマは、「正義」「公正」に関する人間の感覚の中心に位置するものです。「法」という言葉でさえ、カルマという概念が基になっています。
カルマという概念は、世界最古の宗教であるバラモン教に見られ、紀元前約一万年まで遡(さかのぼ)ります。バラモン教は、本質的には一元論の立場を取る宗教なのですが、唯一の主であるブラフマンの力を象徴する様々な神の存在を認めました。バラモン教は、過去においても、そして今日も、神を喜ばせ、功徳を得る手段として、生贄(いけにえ)を、特に神聖な火へと捧げる宗教です。カルマの根底にある概念、つまり与えることと受け取ること、賞と罰、正しい行いと悪い行いという概念は、こうした宗教上の慣行から生じたのです。バラモンの神たちは、時にはなだめなければならないと考えられていました。特に、民衆や指導者が不正な行為をした後にはそうしなければならないと考えられていました。旧約聖書には、「目には目を、歯に歯を」という表現が見られ、これもカルマの概念が認められていたことを表しています。
問い1 なぜ我々はカルマを生み出してしまうのか。
『ヨーガスートラ』第2章第12節で、パタンジャリはカルマの種類について述べています。「苦悩に根ざしたカルマの貯蔵庫は、この人生あるいは後の人生で現れる」
パタンジャリは、幾つかの重要な概念と、またそれらとカルマとの関係に言及しています。まず、すべての魂が人生から人生へと携える、カルマの「貯蔵庫」あるいは「子宮」、または「行為の保管所」について述べています。思考、言葉、行為が繰り返されると習慣となり、そして習慣が傾向となり、将来似たような状況に出遭った時にどのように反応するのかを決定します。種と同じように、こうした傾向、つまりサンスカーラ(潜在意識に蓄積された印象・癖)は、この人生、あるいは後の人生の適切な状況下で、芽を出す機会を待っているのです。転生を信じていない場合でさえ、遺伝の影響は理解できます。
次に、パタンジャリは、苦悩、つまり苦しみをもたらす五つの原因について述べています。次の五つです。①魂としての本当の自分を知らないこと。永遠なるものに対する無知、喜びをもたらすものと苦しみをもたらすものに対する無知、②エゴイズム、つまり身体とマインド、言い換えれば思考や感情と自分を同一視してしまう習慣、③愛着、喜びに対する執着、④嫌悪、苦しみに対する執着、⑤生に対する執着。これら五つの苦悩が、カルマを生み出す原因なのです。
例えば、「私は~が欲しい」「私は~が必要だ」「私は~を怖がっている」と言ったり、感じた時には、これらの苦しみのどれかを表しているわけです。「自分は何者なのか」ということを完全に理解することによって、我々は、一番目の苦しみを克服することができ、これにより、他の苦しみを解決するための土台ができ上がります。肉体は疲れるかもしれません。欲望に関する思考や怒りの感情があるかもしれません。しかし、「私」は疲労でも、欲望でも、怒りでもありません。真我を悟った人たちは、「私」はそれらを見ている者である、と言います。「観察者」は何かを行うのではありません。「観察者」は物事が為されるのを見ているのです。「観察者」は考えません。「観察者」は思考が行き交うのを見ているのです。パタンジャリは、無執着に瞑想を実践することによって、観察者、つまり純粋意識の視点を養うことができる、と述べています。こうすることによって、これらの苦しみを克服できるようになるのです。しかし、真我を悟り、自らの存在の源に帰ることによってのみ、苦しみの源を根絶することができるのです。
問い2 カルマにはどのような種類があるのか。良いカルマとか、悪いカルマというものがあるのか。
先に挙げた『スートラ』の一節で、パタンジャリはこの人生や後の人生に言及しました。カルマには三種類あります。
1.運命、つまりこの人生で現れ、清算されるもの
2.この人生で新たに生み出されるもの
3.後の人生で現れるもの
カルマは、表面に現れ、先に述べた苦しみの原因を通して顕現する機会を待っています。例えば、音楽によって自分を表現する必要のある魂は、音楽が重んじられ、芸術として捉えられている家庭に生まれるかもしれません。強力なカルマは、特別な生まれや肉体を必要とし、関連するカルマもこれのカルマと共に現れ、清算されるのです。
我々は、これぐらいのことは理解しておく必要がありますが、我々の人生のすべてがカルマによる運命というわけではありません。我々はカルマによる自分自身の「地図」と「銀行預金の残高」を持って生まれてきますが、肯定的にも否定的にも、これに加え続けていくのです。我々は、各人がそれぞれのカルマを持ち、それに従って行動するということも理解しておく必要があります。我々は、「どうしてあの人はあんなふうに行動するのだろうかとか、あんなふうに生きるのだろう」と不思議に思うことがあります。しかし、相手の方も我々に対して同じように不思議に思っているのです。各人が独自のカルマによる性質を持っています。何を良いと考えるのかは、どのような教育を受けたかということと、どれだけ教訓を学んできたかということに基づきます。人生状況はカルマによって決定されます。しかし、人生のすべてがすでに決まってしまっているということではありません。我々には自由意思というものがあり、人生状況や人生でのでき事に肯定的にも否定的にも反応することができるのです。しかし、我々は習慣的に反応してしまう自分の性質と、意識的に行動する自由の両方に注意を向けなければなりません。人生で遭遇する困難に、我々が否定的に、例えば他者に苦しみを与えるような反応を取れば、その反応がもっと強くなって、あるいはもっとひどい形を取って自分に戻ってきます。状況に我慢強く対処し、他者が幸せになるように努めると、カルマによってもたらされた状況が徐々に中和されていくのです。
自分のカルマの概要を知るためには、次の質問に答えてみることです。人生における主要な願望は何か。主要な恐れは何か。最も愛着を感じているものは何か。最大の苦しみをもたらしているものは何か。人生における主要なでき事は何であったか。ターニングポイントは何であったか。教訓は何であったか。
それから「カルマから自由になるためには、この人生での自分の目的を真に理解しなければならない」という言葉についてよく考えることです。
良いカルマと悪いカルマ?
『ヨーガスートラ』第2章第14節でパタンジャリは「人の道に適(かな)った行いから生じるカルマとそうではないカルマのために、好ましい状況と苦痛に満ちた状況が存在する」と述べています。
他人に幸せをもたらすと、我々は喜びを手にします。しかし、他人に苦痛をもたらせば、その苦痛の報いを自分自身も受けることになります。我々が本当の幸福を手にすることを選択すると、周りの人たちは、初めはそのことに気づかないかもしれませんが、我々は自動的に彼らのことも幸せにします。我々の行動の大部分は、潜在意識にある習慣によって決定されます。素性、寿命、人生で持つ経験は、我々が自分の潜在意識に蒔く種によって決定されます。他人を判断したり、怒ったり、言葉で他人を傷つけるというような悪い習慣を強めないために、まず内なる導きに耳を傾け、そしてよく考え、エゴによる反応を避けなければなりません。良い習慣を強めるためには、自分も、そして他者も高めるような思考、言葉、行為を養わなければなりません。反応する前に、自分の良心の声と、過去に過ちを犯した時の罪悪感に注意を向けるのです。「どうしたらこの人を傷つけないで、このことについて話せるだろうか」「こんな言い方をしたら相手を判断していることにならないだろうか」「こうしたら、こう言ったらこの人はどう感じるだろうか」と自問することです。
良いカルマと悪いカルマの区別を明確にするために、次の演習をしてみるのがよいでしょう。
1.相手が喜ぶとわかっていることを意識的にしたり、言ったりした時、自分はどう感じましたか?
2.相手が傷つくとわかっていることをしたり、言ったりするのを思いとどまった時、どう感じましたか? 思いとどまれなかった時には、結果としてどう感じましたか? 自分で良くないとわかっていることを言ってしまった時、どう感じましたか?
3.寝る前に、その日のでき事について思い返し、この演習を習慣にするのです。
問い3 なぜ善人に不幸なことが起こるのか。
事故、侵略行為、天災などが起こり、全く罪のないような人たちや高潔な人生を送っている人たちが、苦しんだり、亡くなったりする光景を目にすると、我々は「なぜ善良な人々にこんなひどいことが起きるのか」と不思議に思います。原因は、先に述べたカルマの種類の最初の二つ、つまり①運命、この人生で現れ、清算されるもの、②この人生での行いの結果、のうちのいずれかです。今生で善良な人生を送っている人々は、ひどい結果をもたらすような行動は取りません。ですから、本当にひどいでき事の場合には、たいていは、前者、つまり避けられない運命、過去生での行動の結果が原因です。誤った判断、言葉や行動での過失も結果をもたらすのですが、多くの場合は即座に現れます。先の疑問は、善良な人たちに起こる悲劇に対する反応ですので、過去生でのカルマが、自分自身に対してだけでなく、自分の愛する人たちにもこの人生で結果として現れているということです。例えば、少女がレイプされたような場合、その少女の父親はどんな思いをするでしょうか? その苦しみと自分の運命の間には関わりがあるのでしょうか? これは、個人的なカルマでもあり、また要因が複雑に絡み合ってもいます。「父親の罪は、息子にもたらされる」という格言が当てはまる可能性があるのです。我々は自分の愛する人たちとカルマを共有するのです。遺伝的なものだけではなく、互いに教訓を教え合う中で、特に愛の意味について教え合う中で、カルマを共有するのです。例えば、我々は愛と愛着を混同し、苦しみます。愛とは与えることです。愛着とは、何らかの期待を抱いて与えることであり、期待が満たされないと、失望したり、苦痛を感じたりします。我々は、苦しみから学ぶことが最も多いのです。苦しみの中に深く入り、最後まで通り抜けることによって、我々はそれから解放されるのです。
宿命というものを信じ込んでしまい、意識的な行動の持つ力を弱めてしまう人もいます。
悪いでき事に対する恐れを克服するためには、自分が心配していることのリストを書いてみることです。そして、「なぜ?」と自問し、思い浮かんだことを記録します。そして、「誰が心配しているのか?」「心配は、自分の求めないことについて考えることである」の二つについてよく考えてみるのです。
問い4 自分の人生は、運命、悲運によって決まるのか、それとも自由意思によって決まるのか。
運命、悲運とカルマは関係がありますが、同じものではありません。運命とは、他の結果を生み出そうと人がどんなに努力しても起きてしまうでき事です。今生で現れているカルマ、つまり過去生での行動の結果です。悲運とは、自分の習慣を変える、克服するという意志が欠如しているために起こるものです。自分が作った良いカルマと悪いカルマ、良い習慣と悪い習慣の差し引きの結果です。今まで見てきたようにカルマには数種類あり、ここには良いカルマと悪いカルマの間の作用も含まれます。他人に苦しみを与えたために起こる悪いカルマは、良いカルマ、例えば他人に喜びをもたらす思いやりのある行為によって、和らげることができます。これは今生で起こります。例えば、犯罪者が、親切な行為を繰り返し、これによって他者から愛や尊敬を受けることがあります。あるいは、教育を受けていなかったり、不利な状況にあったにもかかわらず、懸命に働き、成功する人もいます。賢者は、すべての思考、言葉、行動が結果をもたらす、ということを知っているので、悪いものを避け、良いものだけを求めます。賢者は、「良いことを行う」ための機会に意識を向けています。こうして、賢者は悪い行いによって生じる影響を相殺する功徳、少なくとも和らげてくれる功徳を積み上げるのです。賢者は必要なことだけ、他人を高めることだけを話します。慈善行為、思いやりのある行為の意味を認識しています。無私の精神で行動することによって、エゴイズムも取り除きます。一方、愚者はエゴから行動し、他人の利益よりも自分の利益を求めます。こうして、他人に苦痛を与え、今生、あるいは未来の生でその報いを受けるのです。エゴイズムが強まり、迷妄の中にさらに深く入っていってしまうのです。
運命とは、肯定的なカルマをどんなに持っていようが避けることのできないカルマです。運命によって困難がもたらされようと、喜びがもたらされようと、我々は「これもまた過ぎ去る」ということを知り、平静に対処するのです。賢者は、運命が執着を手放す機会、平静を保つ機会、自らの根底に存在する実在・意識・至福に気づく機会を与えてくれるということを知っています。
エゴの恐れと欲望に囚われているのであれば、自由意思という考えは幻想に過ぎません。欲望と、人生の二元性に気づき、そしてそれらに対して無執着でいる時にのみ、人は自由意思を行使することができるのです。無執着を養うことによって、人は、好き嫌い、成功と失敗、損と得、喜びと苦痛の向こうにある真理を見ることができます。常に真理に気づいている時、人は自由に行動することができ、恐れや欲望に縛られません。神の忠実な道具として強力な行動が取れるのです。「私の意思ではなく神の意思が為される」が、エゴ的、カルマ的、迷妄的な傾向が意思の中からなくなった者のマントラとなるのです。これ以外の場合には、「自由意思」というのは、幻想であり、エゴの欲望と好みの奴隷でしかありません。「私はこっちの方がいい」「私はこっちがしたい」とエゴは言います。「どちらでも構わない」「私は愛である」と魂は言います。パタンジャリは、クリヤーヨーガを、無知とエゴイズムの治療薬だと述べています。クリヤーヨーガは、気づきを伴った行為を意味し、クリヤーヨーガを実践することによって、人は五つの次元のすべての行動において、気づきをもたらすことができるのです。クリヤーヨーガは、カルマ、つまり反応による行為に対する強力な対抗策なのです。
運命によってすべてが決まっていると過度に信じ込んでしまうと、自らその運命の方に向かうことや恐れによって、カルマの奴隷になってしまいます。人間は、自分が考えるものを引きつけます。洞察とヨーガの自律と共に意志を正しく用いることによって、自らのエネルギーと知性をより適切に利用することができき、もたらされるどんな状況でも支配することができるようになります。ヨーギーは、もたらされるものに自らを明け渡し、自らの欲望、好み、恐れを浄化し、神の完璧な道具になろうとします。「私の意思ではなく、神の意思が為される」という言葉がモットーになり、最後には神との分離感を超えるのです。
落ち着き、「自由意思」を養い、運命の影響を和らげるために、次のようなことを実践してみるのがよいでしょう。
1.次のようなアファメーションを繰り返し唱えること。「私の意思ではなく、神の意思が為されます」あるいは「私の意思ではなく、神の意思が為されますように」「あなたのご意思のままに、あなたのご意思のままに」。
2.予想外のことが起こったら、行動する前に、立ち止まり、よく考えること。感情的に反応してしまわないようにすること。
3.他者を喜ばせる機会がないか気を配ること。良いカルマという功徳を増やすこと。他者を傷つける思考、言葉、行為を避けること。
問い5 悪いカルマを克服するためにはどうすればよいのか。
思考が言葉となり、言葉が行為となり、そして行為がカルマ的な反応を生み出します。しかし、良いカルマによって、悪いカルマの影響を弱めたり、相殺することさえできます。例えば、友人に対して批判的な思考を持ち、それがある日、口から出てしまい、友人を傷つけてしまいます。しかし、自分の過ちを認め、誠実な償いをすれば、友人を失うことはありません。次のような場合もあります。物事が自分の思い通りにいかないとすぐに怒ってしまう癖を持っている人が、自らの魂を探し求めた後で、怒りを起こさないようになっていく。しかしこの癖は根深いものなので、怒りを抑えるのはなかなか難しい。自らの欠点を認め、悔い改めるが、自らが築き上げたカルマの傾向、つまり怒りの強さに、負け続ける。このような場合は、どうしたらよいのでしょうか。
パタンジャリは、「否定的な思考に囚われた時には、反対のもの(つまり肯定的な思考)を養うべきである」と述べています。否定的な思考と言う時、パタンジャリは、我々の人間関係で生じる困難、個人的な不満、無意識的な行為、そして混乱をもたらすものすべてのことを言っています。ここには、欲望、恐れ、貪欲、性欲、欺瞞(ぎまん)、うそ、誇張、そして他者を傷つける思考、言葉、行為が含まれます。例えば、誰かに対して憤りを感じているのなら、許しの思考を育むことができます。同様に、恐れを抱いているのなら、勇気や自信の思考を育むべきです。根深いカルマ的な傾向や習慣を相殺するためには、アファメーションや自己暗示のようなものを規則正しく、熱心に行わなければなりません。潜在意識は、たとえ我々に害や苦しみをもたらす時でさえ、子供の頃からの条件づけに従って、機能し続けます。こうした条件づけは、親、教師、友人、マスメディア、そして世の中に浸透している文化的なシンボルや価値観によってもたらされます。神経症を引き起こすような有害な思考や感情を単に抑えつけるのではなく、誰もが巧みにこれらのものを相殺できるようにならなければなりません。
我々は、習慣になっている否定的な思考を知り、分類することによって、不健全な思考を相殺することができます。「怒り」に関する思考を例にとって、これを相殺するためのアファメーションを作ってみましょう。アファメーションは、現在形、一人称で書かれ、肯定的な変化を表す言葉です。恐れに対しては、例えば、「予期せぬことが起こっても、私は、それもまた過ぎ去るということを知り、冷静な観察者として留まることを楽しんでいる」というようになります。一日に少なくとも3回、一度につき3~5回を2一日間、リラックスしている時に、ゆっくり集中して、肯定的な感情と共に唱えます。例えば、夜眠る前やベッドでリラックスした後に、また瞑想の後、ヨーガの修練をしてリラックスしている時などに唱えます。
問い6 恩寵とは何なのか。カルマにどう作用するのか。
恩寵という概念は、ほとんどの宗教の教えの中に見られます。このことは、我々の祈りが慈悲の源に応えてもらえる、我々がそれに値する人間かどうかということにかかわらず応えられる、と世界中で認識されているということを示しています。カルマによって、我々は自分に相当するものを受け取ります。恩寵によって、我々は魂の呼びかけで、魂まで持ち上げてくれるものを受け取るのです。あらゆる行為、言葉、思考が、カルマの法則によって、結果、反応を引き起こすのと同じように、魂の真剣な叫びによって、恩寵という形で神からの応答を引き出す高次の法が存在するのです。これにより、カルマが軽減されるのです。
至高の存在が実在するということを証明しようとすることは、テーマから外れてしまいますが、我々は原因と結果の法則であるカルマについて話をしているので、あらゆる原因の上に究極の原因というものが存在するに違いないと推測することができる、と言っても差し支えないでしょう。それは、すべての知識とすべての原因の源、つまり創造主です。創造主とカルマの関係を考え始めると、様々な疑問が生じます。例えば、個々の魂のカルマに、創造主はどれだけ関わるのか? パタンジャリは、「神は、いかなる苦しみ、行為、行為の結果(カルマ)、欲望にも影響を受けない特別な存在である」と『ヨーガスートラ』の第1章第24節で述べています。イエスは、「神の王国は、看板を掲げてやって来るのでもなく、『見よ、ここにある、あそこにある』などとも言わない。神の王国は汝の内に存在しているのである」と言いました(ルカ伝、第17章第21節)。パタンジャリはさらに「神は、時間の制約を受けず、最古の教師たちの教師である」と述べています(『ヨーガスートラ』第1章第25節)。神は、カルマや欲望の影響を受けませんが、人間の置かれた状況を気にかけているということです。神は、我々の究極の教師であり、カルマを通して我々を教育しているのです。神は、カルマの法則を通して行われる、我々の魂を教育するための学校のようなものを作り出したのです。目的は何でしょうか? 知識の目的が、人間の苦しみを軽減することであるのなら、苦しみを根絶する知識が、最高の知識ということになります。
インドの古い聖典には、神の五つの行いが書かれています。創造、維持、破壊、不明瞭化、恩寵です。神のこの五つの行いの目的は、目が曇って神を見ることができなくなっている魂から穢(けが)れを取り除くことにあります。イエスは「心の純粋な者は幸いである。その人は神を目にするからである」(マタイ伝第5章第8節)と言いました。五つの行為は神の気晴らしではなく、魂に対する神の愛ゆえのものなのです。そこで、神は魂にカルマに取り組むための肉体を授けます。そして、魂が自らの行動の結果を経験し、そこから知恵を学べるようにしばらくの間、支えます。そして、肉体を破壊し、休息を与えます。また、神は魂の本来の性質が意識、カルマとの関係で均衡が取れた時には至福であるということを曖昧(あいまい)にします。最終的に、神は、神との分離という幻から魂を解放します。このように、神の行為のすべてが恩寵の表れです。これらによって、神は我々を神の元へと導きます。
人は、つかの間の物事に永遠の幸せを求めようとすると、必ず苦しみます。所有物も、関係も、状況も、地位も、意見も、感情も、思考も、すべては一時的なものです。欲望が満たされた時でさえ、更なる欲望が存在し、失うことに対する恐れも加わり、余計に苦しみます。それゆえ、永遠で無限なるものだけが、永遠の幸せの源になり得ます。知恵とは、永遠なるものと非永遠なるものとの違いを知っていることであり、したがって、喜びをもたらすものと苦しみをもたらすものとを見分けることができるのです。カルマがこの世で我々のために作り上げる「学校」によって、我々はこの違いを教えられるのです。つまり、我々が見、聞き、嗅ぎ、触れ、味わい、考えるものをすべて含めたこの「学校」、すなわち世界は、我々の魂を浄化するために存在しているのです。
「取り除かれるものは、将来の悲しみである」と偉大なヨーギーであるパタンジャリは、『ヨーガスートラ』の第2章第16節で述べています。言い換えれば、幸せになるために苦しむ必要はないということです。言われれば当たり前のことなのですが、先に述べた苦しみをもたらす五つの原因との関わりで、カルマによる条件づけが存在するために、我々はこの当たり前のことを忘れてしまっています。ですから、気づきが、忘れていることを思い出すための最高の「治療薬」になるのです。自分が、すべての行為、言葉、思考の観察者であるということを常に意識している時にのみ、我々は、カルマの貯蔵庫からもたらされる「将来の悲しみ」を超えることができます。トラック1台分の腐ったトマトが玄関に届けられたとしても、①一歩さがり、「あれを見てみろよ」と自分に言い、②「自分は、この問題そのものではない」ということ、そして「この問題もまた過ぎ去る」ということを忘れないですみ、③その問題に入り込みすぎてしまうことを避けられるのです。
神の恩寵は、誰でも触れることができるのでしょうか? できるのですが、しかし、恩寵が存在するということを知り、そして熱烈に求める準備の整った者だけが受け取れるのです。二十世紀の偉大な女性聖者、「マザー」として知られていた聖者に「恩寵は誰にも等しく存在する。しかし、各人が自らの誠実さに応じてそれを受け取るのである」という啓示がもたらされました。これは、人生の二元性に直面した時に、つまり、好き嫌い、持つ持たざる、損得、喜びと苦しみに直面した時に、無執着と平静を養わなければならないということです。賢者は、すべては一時的なものであるということを知り、変わりゆく物事の中にあって、永遠で無限なるものに対して常に気づきを持続させます。カルマが苦痛をもたらそうが、喜びをもたらそうが、賢者はそれらを同等に眺め、どちらがもたらされても興奮することも、悲しむこともありません。イエスが山上の垂訓で述べたように、賢者は自らの宝をねずみに食べられるような場所ではなく、天国にしまっているのです。「天国は自らの内にある」のです。
ですから、神の恩寵は、魂の熱烈さと成長の度合いに応じてもたらされるのです。
問い7 気づきによって、カルマを相殺することができるのか。
五感や思考、マインドの他の活動に関わっている意識から一部分を切り離し、ただ観察すると、気づきが生じます。何であろうと起きていることと共に存在し、人生のドラマを見る者、つまり観察者になると、常に気づきが生じます。存在の五つのレベルのすべてにおいてこうした気づきを養うために、我々はクリヤー(技法)を実践します。肉体においては、ヨーガのポーズ、生気体(肉体にエネルギーを送る体。個性・欲望・感情に支配されている)においては、特別な呼吸法、メンタル体(五感を通しての知覚、物事に対する思考の反応、話すという行為による考えの表明を行う体)においては、様々な瞑想法、知性体(識別力をもち、インスピレーションを受け取る理性と分析の体)においては、神聖な音の塊であるマントラ、霊体(個人と真我とを繋ぐ至福の体)においては、愛と献身を養う活動です。これは、すべての宗教の実際的な側面なのです。人が信奉する宗教は、至高の存在とその人との関わりに関する信念体系を示します。ヨーガとは、人が宗教の目的を実現するために行うものです。例えば、宗教的な儀式のほとんどのものには、バクティヨーガ(神に対する愛と献身を養うこと)の実践が含まれています。
気づきによって、我々はカルマの影響を軽減することができます。なぜなら、知恵の光の中で行動を取ることができるからです。前もってよく考え、真我の導きに従うことができるのです。その瞬間に留まり、集中し、落ち着いているので、愛着や反感に囚われません。他方、通常の肉体意識においては、習慣的な衝動に駆られ、様々なカルマの影響を受け、自然界のフォースに反応してしまいます。愛着、欲望、反感の結果として、新たなカルマを生み出し続けます。カルマとは別に、我々は自然界の普遍的な三つのフォース(力)、つまりグナ(活動・不活発・均衡)に動かされます。エゴのために、我々はみな、「私は疲れた」と言ったり、起き上がって何かしなくてはならないと感じたりして、これらのグナをまとうのです。しかし、我々は常にこれらのフォースに駆り立てられ、動かされています。気づきを保つ練習を行うことによって、「活動的でありながら静かであり、静かでありながら活動的である」状態を養い、バランス、平静、気づき、無執着、ただ存在している状態、受容、愛に留まりやすくなるのです。これが、自然界の他の二つのフォース、つまり「私が行為者である」という感情を伴った愛着による活動と、「私にはできない」「難しすぎる」「私は怖い」という感情を伴った不活発、疑念、恐れによって生じるカルマに対する対抗策なのです。ヨーガの様々な「クリヤー」を実践することによって、人は自分の内に存在する自然界の要素のバランスをますます取り、自分の人生を統御するようになります。カルマの影響を停止させます。つまり、カルマによる古い傾向を焼き尽くすのです。自分はひとつの道具であるということ、自分は実際は見る者であるということを悟るのです。
このためには、エゴの傾向を意識的に浄化する必要があり、気づきには、肉体、マインド、人格と過度に同一化してしまう傾向を浄化してくれる効果、そしてエゴの否定的で収縮的な衝動から離れさせてくれるという効果もあります。こうして、人は、物質に関することであれ、感情に関することであれ、自分の望むものが手に入ろうが入るまいが関係なく、無条件の喜び、つまり至福の状態を実現するのです。どんな状況においても、スピードを緩め、その瞬間に留まることによって、人は自動的に気づきを手にし、自然に至福が生じます。神は至高の実在・至高の意識・至高の至福なので、実在・意識・至福は、乗り物にも目的地にもなります。こうすることによって、人は世の中が神の顕現であることを悟ります。神を悟り、カルマの法則を超えるのです。
ゆえに気づきを意識的に実践することは、カルマの法則から自らを解放するための、そしてダルマ(正しい行為)という究極の目的を実現するため、つまり真我実現と神実現のためのマスター・キーになるのです。
3.好き嫌い マインドの病
ヨーガの修練を積んでいくに従って、好きなことや嫌いなことに、いかに自分のマインドが乱されるかに気づくようになります。自分が求めていたものを手に入れたり、楽しいことを経験すると、興奮したり、笑ったり、幸せを感じます。求めていたものが手に入らないと、意気消沈したり、満たされない思いを感じたり、不安になったりします。仕事の時だろうが、家庭においてであろうが、公私にかかわらず一日中こういったことに出くわします。我々は、瞑想やアーサナ中にマインドの安らぎを求めます。しかし、マインドの病に打ち勝つためには、それ以外の時にできることがたくさんあるのです。
パタンジャリは、『ヨーガスートラ』の第2章第7節で次のように言っています。
「愛着とは、喜びに対する執着である」
意識の個別化や、肉体、思考、記憶を自分だと誤って認識してしまうため、我々は社会の中で心地よい経験に魅了されてしまいます。恐れと同様に愛着(ラガ)は、幻想(ヴィカルパ)によって引き起こされます。内なる幸福(アーナンダ)と外部の環境や要因を結びつけてしまうために、この幻想が起こるのです。そして、この結びつきが喜び(スーカン)だと思ってしまうのです。外部の環境、要因があったから、幸せを感じたと誤認してしまうのです。外的要因がなくなると、あの喜びを感じるためには、あの時と同じ状況がなければならないのだと思い込み、愛着を経験します。愛着には、執着(アヌサヤー)と、言うまでもなく苦しみ(ドゥカ)が伴います。外的要因がある時でさえ、失うことに対する恐れ(想像)から、愛着を経験します。しかし実際は、内なる幸福というものは外的環境や要因とは無関係に、ただそれ自身で存在するものです。内なる幸福が存在していると気づいてさえいれば良いのです。
パタンジャリは、続けて第2章第8節でこう言っています。
「反感(嫌悪)とは、苦しみに対する執着である」
我々は世の中で自分の思い通りにいかない経験をします。好きとか嫌いというものは相対的なものであり、ある人にとっては苦痛であることが、またある人にとっては楽しいことであるかもしれません。好き、嫌い以外に別の反応の仕方があります。それは、パタンジャリが苦痛や喜びを超える鍵として述べている無執着です(『スートラ』1章第12、15節)。
自分の内面に向かい、苦痛をもたらす経験から一歩引いてみると、原因が明らかになります。忍耐と寛容と共に、この視点と認識を身につければ、もう何もマインドを乱すものはなくなります。「マインドの安らぎが乱されるのなら、それはあまりにも高い代償」なのです。自分の認識を変えないで、外的状況を変えることはたいてい不可能です。第一に、反感に反応しないように、自分の内面に意識を向け、明晰(めいせき)さを保たなければなりません。外的状況が、もっと調和に満ちたものになるように願うのです。愛着(ラガ)や反感(ドゥヴェサ)を焼き尽くすため、自分に与えられた仕事は何でも霊的修練としてカルマヨーガ(無私の奉仕)の精神で行うことです。
「愛着」も「反感」も、パタンジャリが『スートラ』の第2章第3節で述べている苦痛をもたらす五つの源、「無知、エゴイズム、愛着、反感、生への執着」に含まれています。この五つが真我実現を妨げるのです。無知、つまり自分が本当は何者なのかを知らないがために、真の自己と偽りの自己、永遠の存在とつかの間の存在を混同してしまいます。そしてこの無知のために、エゴイズムが生じます。パタンジャリは第2章第6節で、「エゴイズムとは、見る者(プルシャ)の力を、見るための道具(プラクリティ)の力だと誤認してしまうことである」と言っています。つまり、エゴイズムとは、思考、感覚、感情と同様に、本来の自分ではないもの、言い換えれば、物事を認識するための道具である肉体とマインドを自分だと思い込む習慣のことです。これらが、ただの対象物、つまり自分の意識の反映に過ぎないことに気づかないのです。このため、意識の個別化「私」と、「私は肉体である」「私はこの感情である」などといった混乱が生まれるのです。
この主体と客体の混同は、無執着と識別によって克服することができます。自分は「行為者」ではなく「観察者」である、と知ることです。観察者、道具として存在し、物事が起こるのを見ていることです。
「好き」と愛着を克服するために、楽しい活動や状況の前、最中、後、すべてにおいて気づきを養うことです。気づきが存在する限り、内なる幸福が続くことを知るのです。愛着を手放す練習をするのです。物事がうまくいったら、神に感謝するのです。
反感(嫌悪)を克服するために、すべての行為を無私の心で、自分の持てる力を最大限に発揮し、辛抱強く行うことです。行為を行っている時も、そして結果に対しても平静を養うのです。物事がうまくいかない時には、自分の行いを見つめ、より良いい方法を学ぶのです。
4.疑念
我々の知性体には、時々疑念を抱くという万人に共通の傾向があります。多くの場合、ヨーガを始めて間もない頃や、道の途上で困難や失敗に遭遇した時にこれが起こります。疑念をピンポン玉のようにはせずに、建設的に利用するためには、疑念の役割を明確にすることが重要です。
パタンジャリは、『ヨーガスートラ』の第1章第31節で「疑念は、内なる気づきを妨げる九つの障害のひとつである」と述べています。「疑念(サンサヤ)とは、物事を疑うマインドの傾向であり、答えを見つけようという思いがないと、努力を続けることに対して皮肉的になってしまうものである」と言っています。
疑念によって明確な問いが生まれ、瞑想によって、あるいは他者に尋ねることを通して答えを見出そうという刺激になる時には、疑念は建設的な役割を果たします。初心者は、肉体やマインドや生気体の様々な反応や鋭敏になった感覚などの扱い方のような多くの事柄に対して知識を持ち合わせていません。他者とこうした事柄を共有することによって、答えを見出しやすくなります。ババジのクリヤーヨーガの第一段階のイニシエーションで伝授される四番目と七番目の瞑想法を用いることが、特に、疑念に伴った感情的な反応を克服する必要のある場合には有益です。ですから、答えを見出そうと努力する場合には、疑念は役立つものです。これは、まず疑念を明確な問いに変換し、そして建設的に答えを求めるということから始まります。本を読む必要があるかもしれません。答えを知っている人と話ができる機会を得るまで、忍耐強く待たなければならないかもしれません。
初心者は多くの場合、疑念を建設的に扱わず、「破壊的なもの」にしてしまいます。学んだことや自分自身に対してただ批判的になってしまったり、決めつけたり、不満を述べたりします。疑念を問いに変換し、そして答えを求めようとはしません。この結果、「破壊的な」疑念によって混乱したり、やる気を失い、修練をやめてしまいます。疑念が、技法のやり方に対するものというようなほんの些細(ささい)なものの時でさえ、恐れや混乱からその技法をやめてしまうことがあります。人はあまりにも多くの場合、皮相的な見解を抱き、疑う行為自体が目的になってしまいます。マインドの一部が、疑念と関わりのある恐れや憂鬱、怒りなどの感情を味わうことに喜びを感じてしまうことさえあるのです。マスメディアはたいてい皮相的な見方をするので、こうした影響を受けやすいのです。
我々がみな知っていることですが、理解力の限界も認識しなければなりません。シュリ・オーロビンドは次のように述べています。「理解力に関して、理解したいと思うのは低次マインド(五感を通して情報を得る部分)であるが、低次マインドはこうした事柄を自分自身では理解できない。これらに対する正しい知識も、正しい知識を得る手段も持ち合わせていないからである。低次マインドにできることは、ただ静かにして光を受け入れ、自らの考えを差し挟まないことだけである。こうして、徐々に正しい知識が獲得されていく。低次マインドは自らを明け渡さなければならない。高次マインドは、いつでも、あらゆるものの中で神と共に在る存在に気づいている。最高の知識を有しているので、道具として機能する低次の部分の無知や無能に邪魔されることなく、すべてのことを微笑みながら眺め、常に幸せを感じ、そして輝いているのである」(『Letter on Yoga』 1263・1267ページ)。
疑念は、多くの場合、生気のレベルで怒りや落胆のような感情に支えられながら、知性のレベルで生じます。しかし、賢者は、低次の性質が行うゲームを認識し、こうしたことに乱されず、真理を言い表すことはできないということを知っています。人にできることは、真理で在ることだけなのです。
5.誠実さ
「ババジのクリヤーヨーガにおいては、誠実さが伴うものだけに価値が生じる」。私の師であるヨーギー・S.A.A.ラマイアが繰り返し語っていたこの言葉は、人生の中で選択を行う場合の良い指針になってくれます。霊的な道を歩む場合、人はいろいろな良い意図を持ちますが、人生という戦いの中でそれらを忘れてしまうことが多いのです。誠実でいるということは、自分の行為、言葉、思考を一致させるということです。誠実でいるということは、自分の意図に沿って最後まで進み、やると言ったことを果たすことです。自分の最も大切な価値観に基づいて、自分にとって最も大切なものは何なのかを決め、自分の時間や持っているものを投入しなければならない状況が生じた時に、そのことを忘れないでいるということです。
誠実さには幾つかの要素があります。真理を求めること、意図をはっきりさせ、その意図を行うと決意すること、そして忍耐です。
1.真理を求めることによって、人生の意味について問い、そしてよく考えるようになります。私は何者なのか? なぜ私は生まれてきたのか? 私はどこから来たのか? 死んだら私はどうなるのか? 神、つまり至高なるものが存在するのか? もしそうだとすれば、どうすれば神や至高なるものを知ることができるのか? なぜ世の中には苦しみが存在するのか? どうしたら私は苦しみを克服することができるのか?
こうした問いの答えを探し求めようとして、人は偉大な知恵が書かれた文献や宗教上の聖典を読み、研究するようになるのです。しかし、読書はほんの始まりに過ぎず、人間としての性質が変わるわけではありません。ですが、このことによって次の段階、つまり霊的な修練に導かれるかもしれません。
2.意図をはっきりさせるとは、見出す、悟る、知るという自らの意志を表すことです。これは、物事の真理を知らない状態では、無条件の愛を知らない状態では、もはや生きていきたくはないという思いから生じます。また、エゴを超えなければ、牢獄(ろうごく)に入れられているのも同然だという思いからも生じます。「それ」とひとつになりたいという熱意、魂の呼びかけから生じます。こうして、ある道、ある宗教、ある霊的な修練を実践すると決意したり、あるいは神そのものに献身するようになるのです。これは、誓いであり、自らのハートから生じなければなりません。これは、正式な儀式という形で行われることもありますし、個人的な決意という形で為されることもあります。
3.誠実さに必要な三番目の要素である忍耐とは、意図したことを実現させるために、困難や苦しみに直面した場面で自分の意志の力を用い続けることです。つまり耐え抜くことです。決して諦めず、これが人生というもの、失敗に見えることが最終的には成功をもたらす、という見方をしなければなりません。習慣や潜在意識内にある条件づけのために、人間の性質は抵抗しようとします。忍耐によって、気づきと意志が持続し、我慢し、熱意を持ち続け、抵抗をはねのけ、最終的にはプロセスを受け入れるようになるのです。
クリヤーヨーガにおける誠実さの実践
クリヤーヨーガを誠実に実践する者は、日々魂の奥深くへと入り、そこで味わった愛、安らぎ、真理という最も重要な質を持ち帰ります。そして知性とマインドがこれらを明晰な思考、知覚へと変換し、自らの仕事に当たるのです。性癖や欲求を持った肉体を魂と調和させるためには、魂と繋がった穏やかな気づきを持ちながら、毎日アーサナ(坐方、つまりヨーガの一連のポーズ)を行わなければなりません。
肉体に関わる様々なエネルギーの流れや感情を魂に従わせるためには、神の源を意識しながらクリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマや関連する呼吸法を実践しなければなりません。
エゴの誤った自己認識や愛着、好みを減退させるためには、日常で困難な場面に出くわした時に、可能な限りマントラを唱えなければなりません。
こうして、思考と言葉と行為が魂から発するひとつの流れとなり、神へと繋がります。思考、言葉、行為が誠実さの表れとなり、自分にも他者にも幸せをもたすのです。
6.永遠の微笑み
心配事や悩みのために、人生に圧倒されてしまうことがよくあります。変化し続ける波の表面ではなく、その向こうにあるそれという永遠なる存在に目を向けることは容易なことではありません。悟りに到達した方々が良い見本になってくれます。
私の師であるヨーギー・S.A.A.ラマイアは、チェラ・スワミの話をするのが好きでした。チェラ・スワミは悟りを得た人物であり、ラマイアの母親のタイヴァニ・アチのグル(教師、師匠)でした。ラマイアが子供の頃、よくこのサドゥが家に訪ねてきました。全裸であり、振る舞いは異常者のようでしたが、いつも笑っていました。ヨーギアーの母親は「チェラ・スワミに長いこと会ってないわ。いつ来るのかしら」とため息混じりに言ったそうです。そうすると、次の日か、その次の日にチェラ・スワミが突然現れるのでした。チェラ・スワミがやって来ると、近所の子供たちは、気違いだと思って、チェラ・スワミの動きに注目しました。チェラ・スワミは、子供たちがバナナをくれる時も笑顔、そして誰かがそのバナナを奪い去っても笑顔なのでした。子供の一人が足をマッサージしてくれる時も、笑顔でした。そして、いたずらっ子が地面を蹴って、スワミに土を掛けても笑っているのでした。
師は、「なぜチェラ・スワミはいつも笑っていたのだろう」と質問をして、この話を締めくくったものです。
パート2
霊的な道を見出す
1.グルプルニマーとグル
Tamaso ma jyotir gamaya (タマソ マ ジョティ ガマヤ)
偽りから真実へと導き給え
闇から光へと導き給え
死から不死へと導き給え
グルプルニマーとは、信者たちがグルを賛美するお祭りです。2004年の今年は、七月にケベック・アシュラム(ババジのクリヤーヨーガの本部)で行いました。青みがかった満月に照らされ、さわやかで、神秘的な夜でした。夜遅くには凄まじい雷雨になり、我々は畏敬(いけい)の念を抱きました。
プルニマーとは、「満月の日」という意味です。グルプルニマーは、一年のうちで月が最も満月になる日のことです。一年のうちで最も日が長い日、つまり夏至のすぐ後に訪れます。たいてい六月です。
「グ」は闇を意味し、「ル」は光を意味します。ですからグルは「闇を駆逐するもの」という意味です。グルプアニマーは、太陽の光が初めて地上に達した日であると言われています。知恵の日、光の日です。
グルプルニマーは、霊的な年の始まりです。チャトゥアマースという4ヵ月間の節制と霊的活動の期間の始まりを示します。この日に、求道者は自らの献身と、修練という果実を感謝と愛の形で、大師に捧げるのです。すべての弟子が新たなサンカルパを行います。サンカルパとは、もっと修練を行い、グルの教えをもっとよく理解し、グルに奉仕し、グルの恩寵を受けるに値する者になるという誓いです。グルプルニマーに、我々はグルからの祝福を求めます。この日には、自らのマインド、プラーナ、真我を通して、グルに集中することにより、深遠な体験、つまりグルのダルシャンが受けられるのです。
グルとは誰のことか
グルとは、弟子を霊的な道へと導き、解脱への道を指南する霊的教師のことです。グルとは、自分はそれ、つまりすべてのものの源それ自身であると悟り、他者を同じ悟りへと導く責任を担っている存在です。こうして、神はグルとして顕現するのです。肉体をまとったグルがいない人にとっては、神自身がグルなのです。
肉体を持ったグルは、肉体を離れ、実在・意識・至福と一体になったとしても、接触可能であり、真の弟子を喜んで手助けします。霊妙な形態で存在するグルは、恩寵を授ける神の力として留まります。グル、神、真我、遍在する意識、シャクティ、すべてはひとつです。真の弟子がグル・マントラを唱えたり、グルのことを瞑想する時には、たとえ肉体を持っていなくても、グルは弟子が発する崇高な思考の流れを感じることができます。グルは、広大な超意識の領域で崇高な思考の波動に反応し、弟子との間にあるまばゆい光の線を見ることができるのです。これは、恩寵の強力な光です。
グル・タットヴァ、つまりグルの原理とは、我々が無知から知恵へ、エゴイズムから真我実現へと移行するために必要なあらゆる方法を用い、我々の内なる宇宙においても外なる宇宙においてもすべての生命を創り、維持し、破壊する原理のことです。グルの原理は宇宙が生み出される以前から存在しているので、時間と空間を超越しています。グルの原理は内なる真我としてすべての人の内に存在しています。ですから、外に現れたグルに敬意を表す時には、自分自身の真我にも敬意を表すことになるのです。グルの原理は、非人格的なシャクティ(エネルギー、力、女性原理)であり、サーダナを最高のものにするために必要とされるものを自動的に生み出す力です。内なる真我は常に接触可能であるので、外に現れたグルよりも強力なのです。
グルとグナ。「グル」という言葉は、「グナ」という言葉に由来します。グナとは、プラクリティ(根本質料)の構成要素です。ラジャス(活動)、タマス(不活動)、サットヴァ(均衡)の三つです。グルとは、求道者にラジャスとタマスの影響を克服し、真我実現の入り口であるサットヴァに留まる方法を示す人物です。一般に、我々は人間性のために活動と不活動の間を行ったり来たりします。我々は、一日の中でこれを経験します。朝、目を覚ました時にはタマスでいっぱいであるために、布団から出るのが難しいと感じる人がいます。しかし、シャワーを浴びたり、水やコービー、お茶などを飲んだり、ちょっと運動をしたりすると、活力を感じ始めるのです。自然は、我々を普遍的な力で動かします。ラジャスが頂点にある時には、我々はせわしなくなります。しかし、時間が進んでいくにつれて徐々に疲れを感じ始めます。帰路につく頃には、タマスが支配的になります。そして夜が更けるとタマスが支配的な眠りの状態へと戻るのです。落ち着き、満足、明晰さ、喜び、愛、無執着が特徴であるサットヴァ(均衡)の状態に我々がいることは滅多にありません。ヨーガには、生活の中でラジャスとタマスの影響を減少させ、サットヴァの影響を増加させる効果がある、とグルは言います。ヨーガのポーズとプラーナーヤーマを早朝に行うことにより、タマスの感覚を払いのけ、自らを活気づけることができます。また、夜に行うと、気持ちの乱れや不安などのストレスを処理し、ぐっすり眠ることができます。身体とマインドから過度の不活動性と活動性が取り除かれ、バランス、均衡がもたらされます。瞑想とマントラを実践することにより、生気体とメンタル体に同様の効果がもたらされます。これらのすべてを実践することによって、ホメオスタシスと落ち着きが促進されます。この状態は、内に入り、霊的次元で真我(魂)の視点を保持するために必要なものです。グルは、「教えと叡智」として体験されます。この教えと叡智は、ヨーガの技法を伝えるアーチャリヤ(教師)を通してもたらされ、ヨーガの技法によって、我々は真我実現の入り口に導かれるのです。
グルが必要ですか
ほとんど例外なく、この世に生を受けている魂のすべては、二元性に囚われているので、グルを必要とします。好き嫌い、得失、高低、善悪によって我々は絶えずかき乱されます。自分を肉体・マインドと同一視してしまっているので、エゴの罠にはまり、自分の本当の姿がわからなくなっているのです。ゆえに、ほとんどすべての人間にとって、真我実現を果たすまで、外的なものであれ、もっと精妙なものであれ、グルの恩寵と導きが必要なのです。
グルとグルの教えは同一のものです。真の霊的成長は、教えを実践することによってのみ成し遂げられます。スピリチュアルな本は道を指し示してくれはしますが、エゴの限定された視点を明け渡した時にもたらされる本質的な体験、言い換えれば恩寵を与えてはくれません。カルマヨーガ(神に対する無私の奉仕の道)であれ、バクティヨーガ(神に対する献身の道)であれ、ヤーナヨーガ、ラジャヨーガ(神の知識へと導いてくれる道)であれ、我々を二元性の世界に留めているサンスカーラ(習慣的な傾向)を克服することによって、我々は成長していかなければなりません。
どうすれば自分のグルを見つけた時がわかるのか
人は、謙虚さ、誠実さ、尊敬をもってグルに近づかなければなりません。グルの教えに熱心に、そして心を開いて向かわなければなりません。物理的なレベルであれ、あるいはもっと精妙なレベルにおいてであれ、グルと一緒にいる時に安らぎを味わい、自分の疑念がなくなるのを感じるのならば、その人を自分のグルと考えていいでしょう。誰かを自分のグルとして受け入れるということは、相手のほうではずっと以前からあなたを弟子として受け入れていたということです。相手に受け入れられていなければ、自分が相手をグルとして受け入れることはできなかったでしょう。質問を言葉に出す前に、回答が受け取れるならば、グルを見つけた、ということです。まさに自分の知りたいことが、必要な時に聞こえるのです。
その時が来るまでは、グルを見つけるためにできる最善で唯一のことは、自分の準備を整えておくということです。弟子の準備ができた時に、グルが現れる、それはハート・チャクラが開いた時である、と言われます。ですから、弟子として、ヨーガの規律とグルによって唱えられている教え(グルとして受け入れられている人の教え)に自分を適応させるのです。自分がどう影響されるのか注意してみるのです。グルとグルの教えは同一のものです。真のグルは、個としての自分よりも、教えを強調します。
霊的知識は、グルから弟子へ伝えられます。グルの教えは、ウパデシュと言われます。この言葉は、「場所の近く」という意味を表します。ウパデシュの目的は、遠くにあるものを近くに示すことです。グルは、弟子が遠くにあって自分とは異なるものだと思っている神、つまり実在・意識・至福が実は近くにあり、自分と異なるものではない、ということを弟子に悟らせます。弟子は、グルの教えを熱心に実践すること、自己探究を誠実に行うこと、そしてグルへの奉仕によってヨーガを学ぶのです。
内なるグル
弟子は最終的にはいつか外に現れたグルを超え、自分の内に霊的原理、つまりタットヴァとしてのグルを見出さなければならないのですが、西洋人の場合は、悟ることを焦るあまり、自分の準備が整っていないのにもかかわらず、グルを捨て、エゴイズムという泥沼の中で混乱に陥ることが多いのです。
平均的な人にとって内で接触できるグルは、エゴなのです。エゴは、我々が悟りに至らない原因であり、エゴのために、弟子はさらなる無知、混乱、自己欺瞞(ぎまん)、そして絶望へと陥ります。
グルの力 力と機能でグルを理解することも可能
1.イニシエーターとしてのグル
グルには、秘教の教えを伝え、弟子を霊的次元に導く責任があります。これによって、弟子の解脱と悟りが始動するのです。
2.伝達者としてのグル
グルは、単に指導し、情報を伝える教師ではなく、叡智を伝道し、自らの性質で霊的現実を明らかにする存在です。グルは、弟子の霊的プロセスを始動させ、そして鼓舞しさえします。グルが完全な悟りに至っていない場合には、伝道作用のすべてがグルの意思と努力によるわけではありません。神の恩寵によって、グルが媒体として用いられることがあるのです。
サットグルは、完全な悟りに至ったグルであり、言葉と動きのすべて、そして存在そのものが霊を顕現します。伝道作用は並外れたものであり、自動的で、そして絶えず行われます。
3.導き手としてのグル
グルは、言葉を通して、生きた見本として、聖典を解説しより深い意味を示すことによって、弟子を導きます。グルは、師に教えられたことと自らの経験や悟りによって、聖典をよみがえらせることができるのです。
4.イルミネーターとしてのグル
グルは、霊的な闇を取り除きます。自らの真我が見えなくなっている弟子に視力を取り戻させます。これは、グル自身の真我実現の度合いによって行われます。
5.因習へ一石を投じる者としてのグル
グルは従来の価値観や営みに逆らって進みます。グルのメッセージは急進的なものであり、我々に対して、次のことを求めます。意識的に生きること、自分の動機をよく見ること、エゴからくる感情を超えること、無知を克服すること、他人とうまくやっていくこと、そして人間性の核、つまり霊を実現することです。これらは、従来の価値観に全精力を注いでいる人にとっては戸惑うようなことです。
6.弟子道とグル
グルが提供してくれる、解脱をもたらす叡智から利益を得るためには、グルと密な関係、自らを変容させてくれる関係、つまり弟子道に入らなければなりません。これには、自らを変容させるという強い意志、弟子道に自らを捧げることが必要であり、これによってマインドから従来の習慣が取り除かれます。また、グルのほうには愛情溢れる思いやりがあります。グルは、個人としてではなく、宇宙の機能として見なされなければなりません。グルは、個人的な関係ではなく、弟子の幻想を破壊し、弟子に至高の存在、つまり真我を悟らせることに関心があるのです。
7.グルの権威
グルの仕事は、プラジュニャー(洞察)とカルナ(思いやり)がある時に効果を発揮します。プラジュニャーとカルナは、個人を超え真我へと関心を向けた能力であり、いずれ消え去る人格へと向けられたものではありません。もしもグルが思いやりだけを持っているとしたら、弟子から幻想を取り除くことはできないでしょうし、弟子は思いやりというものを、今の弟子の状態を気遣うこと、と勘違いしてしまうでしょう。グルは、弟子の真の性質、つまり真我を愛しているのです。もしもグルが賢明ではあるが思いやりに欠けているならば、弟子は自己変容のためにしなければならないことに圧倒され押しつぶされてしまうでしょう。弟子は、誤解、責任転嫁、幻想、錯覚を抱きがちであり、これらによりグルとの建設的な関係が妨げられるのです。
グルと繋がる 明け渡しと恩寵
ヨーガでは、精妙な器官のいろいろな部分にグルが座す、と述べられますが、最も強力なところは、サハスラーラです。また、グルは精妙な音として内で聞くこともできます。内なるグルは、沈黙、拡大したハートの無限なる空間という形のないものとして感じられることもあります。真の内なるグルはサハスラーラに座し、マントラを用いることによって繋がることができます。シッダが好むイニシエーションの形態は、グルの足を弟子の頭頂に置くというものです。グルはマントラを通して自分のシャクティを伝導します。グルがマントラを唱えると、シャクティが弟子に注がれるのです。マントラは、グル自身のひとつの形態です。
自らを明け渡すことが、非常に重要です。グルへ自らを明け渡すことによって、何らかの形でイニシエーションが起こります。自らを明け渡すことによってのみ、人は無限の存在と一体になることができ、限りない恩寵を自らの内に引き入れることができるのです。恩寵によってあらゆる障害が取り除かれます。恩寵なしでは、完全な合一を達成することはできません。明け渡すことと恩寵は相補的な関係なのです。グルは、至高の存在から霊エネルギーを受け取り、無限に蓄え、そしてそのエネルギーを弟子に向けることができます。自らを明け渡した弟子だけが、グルから流れる強力な霊エネルギーを吸収することができ、吸収できる量はグルへの忠誠と献身に比例するのです。
自らのグル、あらゆる形態のグルを礼拝する
深い愛でグルに敬意を示すのです。グルをハートに保持し、原理としてのグルと共にあり、グルに波長を合わせ続けることが重要です。
1.すべてに浸透しているプラナヴァ、「アウム」という音としてのグルに礼拝。
2.サット・チット・アーナンダ(実在・意識・至福)という言葉に示されるグルに礼拝。
3.無知のすべてを駆逐する者としてのグルに礼拝。
4.至高の「私という意識」に確立されたグルに礼拝。
5.神の恵を与える力としてのグルに礼拝。
6.至高の知識、知性、記憶、錯覚、あらゆるものの原因と結果としてのグルに礼拝。
7.普遍の存在、すべてのものの中にあり、そしてすべてのものがその中にある存在として、グル自らを悟らせてくれるグルに礼拝。
8.直観という囁(ささや)きで話しかけるグルに礼拝。
9.グルの中のグルであり、自らの魂がすべての存在の魂であると悟らせてくれるグル、クリヤー・ババジ・ナーガラージに礼拝。
10.無限の恵と力を通して、信者を、やさしくそして段階を追って導き、肉体的なものであれ精神的なものであれ潜在しているエネルギーに光を注いでくれるクリヤー・ババジ、神秘的な力と無上の幸福感を実現させ、至高の存在との合一へと我々を導いてくれるクリヤー・ババジに繰り返し礼拝。クリヤー・ババジの恩寵が我々全員に注がれますように。
グルを瞑想
1.自分のマントラを唱え、自分の選んだグルの形態を瞑想し、グルの神聖な足を礼拝するのです。グルの足は、微細体でのグルのエネルギーの表れです。足、あるいはサンダルには、マントラが持つ解放をもたらす力が含まれています。
2.グルの姿と性質をマインドに保持し、それについて熟考し、そしてグルの教えと指示に喜んで従うのです。
3.形のある(サグナ)グルを瞑想するのです。グルバーヴァ(献身)は、グルと弟子の関係を強固なものにしてくれます。グルが自分のすべての部分に存在していると想像しながら、グルを瞑想します。自分の体をグルで満たすのです。布地は糸からなり、そしてすべての糸の中に布が存在しているように、自分がグルの中にあり、そしてグルも自分の中にあるということを忘れないことです。この視点から、グルと自分を同一のものと考えるのです。ババジと自分の間に相違を持ち込まないこと。グル・オームとマインドの中で唱え続けるのです。グル・オームを唱え、自分の体のすべての部分にグルを吹き込むのです。こうしてババジが自分の内に宿るのです。
2.向上心
立ち上がれ、ひれ伏せ、明け渡せ、抱きしめろ、驚嘆せよ。
神の神聖な御足に至らしめるすべての方法に訴えるのだ。
これによりこの人生が実りあるものとなる。
恭しく神を抱きしめろ。そうすれば神が応えてくれる。
『ティルマンディラム』 第1499節
我々は個人としても全体としても変容のプロセスに従事しています。このプロセスには、古い人間性を拒絶し、内なる神の意識に自らを明け渡すことが必要です。宗教もヨーガも共に禁欲生活、神の意思と恵みへと自らを明け渡すことの必要性を説きますが、ヨーガの道とゴールは、宗教のそれとは全く異なるものです。宗教とは異なり、ヨーギーはこの世を離れ天国を探すことを求めたりはしませんし、また自らの経験よりも聖典や組織に信頼を置くということもしません。宗教とは異なり、ヨーガは真理を体験し、自らの性質を支配するための実際的な方法を提供してくれるのです。ヨーガは、人間の性質を罪深いものとして非難したりはしませんし、また放棄することを求めたりもしません。ヨーガは、この世で生活しながら、自分を浄化する方法、つまり無知、エゴイズム、愛着、神の恵みが降る妨げとなるもののすべてを洗い流す方法を提供してくれるのです。この世の中にありながら変容をもたらすことのできる方法を知っている時にのみ、変容を起こすことが可能なのです。この方法を携えている時にのみ、真の向上心と拒絶と自らの明け渡しにより、神の恵みを受け、意識を変容させることができるのです。
信仰深い人間やヨーギーが恩寵を受けるためには、何が必要なのでしょうか。どちらの場合にも意志、熱意、そして拒絶しなければならないものを拒絶するという向上心、神を抱きしめ、神に自らを明け渡すという向上心が必要です。宗教は地図を提供してはくれますが、道具を与えてはくれません。ヨーガは、地図と共にプロセスを促進してくれる様々な道具も提供してくれるのです。
向上心と欲望はどう違うのでしょうか。向上心と欲望を混同してはいけません。なぜなら、欲望は常にエゴから起こるものだからです。エゴは分離していること、特別であること、勝っていることを求め、特別であることを強化するために欲望を抱きます。欲望とは、分離したエゴ意識から起こる決して満たすことのできない欲求の表れなのです。しかし、エゴの力は限定されたものなので、無限に所有する、完全に所有するという思いを満たすことはできません。それゆえ、求めるものと実際に手にするものとの間に大きな隔たりが生じるのです。これにより、常に満足できない状態に陥ります。エゴは、分離感を手放さない限り、神との合一と遍在性を得ることはできないということを忘れているのです。エゴは世界を所有したがりますが、世界に影響を与えることは霊的な方法でのみ可能であるということを知らないのです。そのため、エゴは何ももたらさない自分自身の方法に従うのです。外から物を集めます。自分とは異なるものだとエゴが感じているものから集めます。飽くなき欲望を満たすために次から次へと快楽をもたらすものを集めるのです。
純粋な向上心はこれと正反対です。エゴに縛られた存在の欠点と不完全さとよく知っているので、エゴの欲望を手放そうとします。向上心から起こる動きはすべてエゴの意識ではなく、エゴから離れることに向けられます。この基準によってのみ、サーダク(サーダナを実践する者)はその瞬間自分が抱いている衝動が欲望からきているものなのか、それとも向上心からきているものなのかを見極めることができるのです。向上心は、魂から、つまり神聖な愛、光、美、善、純粋、進歩を求める思いから生じます。奮闘、そして時には激しさがあるのですが、いらだちや欲求不満はないのです。
どうしたら向上心を持てるようになるのでしょうか。これは段階を経て高まるものであり、通常は、人間の性質から生じる習慣的な行いに対して強い不満を抱くことによって起こります。ある朝目を覚まし、もう無意識のままに生活を送りたくない、何も知らない状態で生きたくはないと思うのです。理由もわからずに物事を行い、そして感じ、矛盾する思いを抱きながら生きること、習慣、決まりきった行い、反応、何も分からないまま生きることは嫌だと思うのです。そういった状態にもはや満足できなくなるのです。しかし、こうした思いにどう対処するかは様々です。
たいていの人にとって、魂からくる最初の反応は、知りたいという思いですが、自分の人生の意味を見出すためには何をすればよいのか、という反応を持つ人もいます。この問いにより、次に(第二に)真理、愛、安らぎ、喜び、存在を見出すために、世の中の煩(わずら)わしさから逃れたいという強い思いが生じます。こうしたものは非常に曖昧(あいまい)な概念なので、我々が為さなければならないことは、無知と不完全さに蝕(むしば)まれた人格を変革するということです。強い思いを抱き続ければ、後に(第三に)、恩寵により無知のヴェールが一時的に破かれ、人生の霊的側面を体験するのです。光を見たり、神の愛を感じたり、至福を味わったり、神の存在や真理を知るかもしれません。これは個人の能力や性向によって様々です。体験することはひとりひとり異なりますが、これまでに通常の生活で経験してきたことのすべてがこれにかないません。そして次に(第四に)この新たな体験が終わってしまいます。この時、我々はこの体験を忘れたり、この体験に疑いを持ったりするのではなく、この体験を生き生きと保ち、再度この体験ができるように意識を向け続けなければなりません。第五に、サーダクは、自分が徐々に高次の人生に引かれるようになり、以前の低級な人生に対する執着が弱くなっていることに気がつきます。これは、内面、つまりメンタル体や生気体上でだけ起こるのではなく、外面でも、つまり友人や仕事、娯楽に対しても起こります。新たな思いや決意でハートやマインドが満たされます。「神よ、私はあなただけを求めているのです」という言葉で現れるかもしれません。第六の段階では、向上心は非常に強力なものなので、言葉に出そうが出すまいが、言葉や祈りは必要ではなくなります。霊的熱意の炎は、深遠な沈黙の背後で常に燃え盛るのです。神の元へ帰りたいという思いにより、真理、変容、完全を求めるようになるのです。
向上心が高まるにつれて、神が恩寵で応えるようになり、人間の意思を超えた力が存在するということがわかるようになり、人間性のすべてにおいて変容が可能になります。しかしこれを実現するためには次のことを心に留めておかなければなりません。
1.常にやり続けること。一日に十二時間向上心を抱いたとしても、他の時間はすっかり忘れているのであれば、何にもなりません。一日中常に意識していなければなりません。
2.いらいらを起こさないこと。これはただ、疑念ややる価値がないという思い、反抗を生むだけです。
3.毎日、観察者として物事を見る時間を取ること。すべてのものの中に神を見るのです。
4.自分の気をそらせ、向上心を欲望に置き換えようとするものが自分の性質上に現れたら、そのすべてを拒絶し続けること。
5.サットグル、クリヤー・ババジ・ナーガラージから恩寵を受け取る。
私の師匠であるヨーギー・S.A.A.ラマイアは、ババジから恩寵を受け取るために必要な三つの事柄を挙げて「受け取る恩寵の量は、サーダナの量、カルマヨーガの量、自分が示す愛と献身の量によるのだ」とよく言っていました。ラマイアは、アシュラムの住人として弟子たちに、言葉だけでなく、生き方の中にもそれを求めました。「恩寵」「サーダナ」「カルマヨーガ」「愛と献身」という言葉は正確にはどのような意味を表していたのでしょうか。弟子たちの実際の生活の中でどのように表されていたのでしょうか。ここでは簡潔に説明することにします。ババジの生徒たちにとって理解の助けになり、存在の五つのレベルで成功を収めるのに役立つでしょう。
恩寵
「恩寵」という言葉は、精神世界の多くの伝統で見られる言葉であり、我々を進化させ神へと近づけ、最終的にはワンネスを体験させてくれるもののことを表します。これは、我々が神からの恵みだと思うような、幸運なでき事という形を取ることが多いのですが、何かを失うという苦しみの形を取り、神からの恵みが隠されていることもあります。また、神聖な光、ヴィジョン、恍惚(こうこつ)状態、深い安らぎの訪れのような形で経験されることもあります。自然に訪れるものなので、我々はこういった経験をしたのは、自分の外にある何らかの力や存在、たいていは自分が献身している神のおかげであると考えます。我々は、努力しているにもかかわらず、霊的な進化をほとんど遂げていないと思われる時間を長期にわたって経験するので、神の恩寵が自分の気づきや経験を新たなレベルに引き上げてくれることを望みます。進歩には恩寵と努力の両方が必要なのです。エゴを放棄するという我々自身の努力がなければ、我々の生活の中に恩寵が入り込む余地はありません。エゴの考えでは、自分に起こる良いことは全部自分のおかげであり、悪いことは全部神のせいです。しかし、我々がエゴの眠りから覚めると、これは全く逆であることが分かります。
私の師匠は「良いことは全部ババジの恩寵のおかげ、悪いことは全部エゴの仕業」とよく言ったものです。恐れやプライドからくる身勝手な衝動に従ったり、欲望からくる利己的な衝動に従うことによって、エゴは作用と苦痛を生み出す反作用の鎖を作り出します。しかし、我々が無意識を浄化し神意識に目覚めると、我々は、神が織りなす創造の中に存在する目撃者、意識的に導かれている参加者となります。魂の静寂からくる内なる声のちょっとした励ましに耳を傾け、それに従うようになります。エゴからくる欲望、恐れ、プライドの大音量はますます退けられるようになります。
神の恩寵、サーダナ、奉仕、献身を通して、エゴから神意識へと変容を遂げるには、サットグルと協力することが不可欠です。サーダナ、奉仕、献身は、正確にはどのような意味を表しているのでしょうか。
サーダナ
「サーダナ」は「訓練」という意味であり、神の存在を思い出すために行う努力、真我を体験するために行う努力のすべてを表します。この目的のためにヨーガを実践する者は、「サーダク(サーダカ)」と呼ばれます。「クリヤーヨーガ・サーダク」は「ババジのクリヤーヨーガ」の道を歩み、クリヤーヨーガの技法を実践し、ババジの教えに従う者のことです。技法はイニシエーションやリトリートで伝授されます。教えについても同様ですが、出版物からもある程度知ることができます。これらはひとまとめで「タミル・ヨーガ・シッダーンタ」と呼ばれています。ババジの教えの大半は口頭でのみ伝えられているので、これらを書籍や雑誌の記事として出版するには相当の年月が必要でしょう。ババジの教えは「タミル・ヨーガ・シッダーンタ」つまり十八人のタミル・ヨーガ・シッダの教えの精髄、教えが凝縮されたものです。十八人のタミル・ヨーガ・シッダの著作の中で最も重要なものには、「ティルマンディラム」(解説つきの英語翻訳版が出版されています)、ボーガナタルの著作集(翻訳され、出版されています)、アガスティアの著作集(すべての著作を収集できていませんし、翻訳もされていません)があります。ババジの二人のグルは、ボーガナタルとアガスティアであるので、ババジの教えを完全に理解するためには、いつか二人のグルの著作が出版されなければならないでしょう。ババジは自分自身で文を書くよりも、二人の偉大なシッダ(成就者)の教えを「クリヤー」つまり「ヨーガの技法」に具現化し、道具として用いることのできる献身的な魂を通して、これらを普及させることを好みました。その魂の一つが私の師匠であるヨーギー・S.A.A.ラマイアであり、すべての行動がババジへの献身で満ち溢れていました。ラマイアは「ババジに自らのすべてを明け渡すのならば、ババジが聖者、賢者、シッダのレベルまで引き上げることができる魂の数に限りはない」と言っていました。また別の魂はニーラカンタンであり、ヨーギー・ラマイアと共に1952年にクリヤー・ババジ・サンガを設立しました。
クリヤーヨーガ・「サーダク」とは、ババジと十八人のシッダの教えと技法の実践を通して、エゴを神意識へと明け渡す努力を意識的に行っている者のことです。クリヤーヨーガ・サーダナとは、ババジの五つの道で提示される技法と活動をすべて実践することです。1.クリヤー・ハタヨーガであり、肉体を浄化するためのアーサナ、バンダ、ムドラ、2.クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマとそれと関連する呼吸法であり、生気体のプラーナの流れを整え、変容をもたらします、3.クリヤー・ディヤーナヨーガであり、マインドを統御するための科学的な技法で、種々の瞑想法、4.クリヤー・マントラヨーガであり、力を秘めた音を使い、神性の様々な様相を呼び起こし、チャクラなどを目覚めさせます、5.クリヤー・バクティヨーガであり、神と神の創造物への愛と献身を養います。
この五つを体系的に実践することによって、エゴが生み出す苦しみが徐々に消え、五つの身体すべてにおいて、苦痛は幸せに置き換えられるのです。例えば、クリヤー・ハタヨーガを実践することによって、肉体に光り輝く健康・くつろぎ・マインドの平安がもたらされ、病気・不活発・苦痛という肉体の持つ傾向を気にかけなくてもすむようになります。こうしてもっと精妙な肉体に意識を向ける余地が生まれ、紐の結び目のように、苦痛をもたらす作用と反作用の中に我々を縛りつけている意識状態から、徐々に解放されていくのです。
クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマやその他の呼吸法を実践することによって、膨大なエネルギーが感じられ、クリヤー・ディヤーナ瞑想法を合わせて用いることで、そのエネルギーを怠惰、物忘れ、うつを克服するための燃料として使うことができます。プラーナーヤーマと瞑想を合わせて用いることにより、クリヤーヨーガ・サーダクはますます神の存在に気づくようになっていきます。クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマは、高次の気づきをもたらす生気体上の中枢にますます多くのプラーナを供給します。ハートの中枢に合うと、神や他者へ対する愛がますます多く顕現されるようになり、のどの中枢に合えば、様々な媒体を通して自己表現を行う能力がもたらされ、眉間の中枢に合うと、直観、創造性、千里眼が、そして頭頂の中枢に合えば、宇宙意識が実現され、すべてに神の存在を見るようになるのです。
クリヤー・ディヤーナヨーガを実践することによって、無意識が浄化され、習慣となっている思考や行動に代わって気づきがもたらされ、どんな活動をしていても導きを受けるようになります。まず瞑想の中で、自分の思考や感情に気づき、ただ観察するようになり、そして日常生活の中でも気づきが伴うようになり、さらには睡眠中でも意識していられるようになります。注意して見守り、マインドの平安を乱す習慣的な思考を見極め、拒絶するようになるのです。これにより最終的にはサマーディ(マインドが対象物に完全に集中している状態。あるいはマインドが機能を停止し、純粋意識だけがある状態)へと導かれます。最初に、無呼吸状態で神との繋がりを経験するサルヴィカルパ・サマーディを経験し、これを繰り返し経験すると、日常生活でも絶えずあらゆるものに神を経験するニルヴィカルパ・サマーディがもたらされます。しかし、無意識の中に存在する恐れや欲望、肉体の細胞レベルまでをも含めてすべての意識を完全に明け渡すまでは、エゴや自分の名前、関係、経歴、野望などと自分を同一視してしまう習慣的な思考は残ります。意識のすべてを明け渡すには、とてつもない量のサーダナが必要であり、エゴが完全に根絶されるまでは五つの身体すべてにおいて害が生み出され続けます。どこかにエゴが残っている限り、神への完全な明け渡しという「タミル・クリヤーヨーガ・シッダーンタ」の目標を達成することはできません。この完全な明け渡しを証明するものは「ソルバ・サマーディ」であり、ここにおいて肉体の細胞がいわゆる「光り輝き」、神我によって導かれるようになります。神の恩寵が五つのレベルのすべてに降臨するのです。肉体が病気になったり、死を迎えるのならば、偉大な聖者の場合といえども、肉体のレベルまでは明け渡されておらず変容を遂げていないことを示します。不死が重要なのではありません。完全なる明け渡しが為されれば、人は神の意思に従います。しかし、クリヤーヨーガの目標である完全なる明け渡しは、聖者の場合のように霊体においてのみ神を実現するものでもなければ、賢者やシッダの場合のように知性体、メンタル体、生気体で神を実現することでもありません。十八人のシッダたちのようないわゆる「マハー・シッダ」と呼ばれる、シッダの中で最も偉大な存在と、神智学で言及されている覚者方のみが、完全に自己を神に明け渡したと見ることができるのです。
クリヤーヨーガ・サーダクは修練に使う時間を徐々に増やし、その修練で培った気づきを日常生活に結びつける必要があります。瞑想自体が目的なのではなく、瞑想は目的のための手段です。日常生活の一瞬一瞬に気づきがもたらされるようにならなければなりません。こうして、我々の経験することのすべてがサーダナを実践する場所、言い換えれば真我の意識を思い出すための場所となるのです。
カルマヨーガ
「カルマヨーガ」という言葉の意味は、クリシュナ(ヴィシュヌ神と一体視されるインド神話に登場する神)の「義務を為し、行動の結果は私に任せなさい」という言葉に端的に表されるでしょう。イニシエーションの場において、我々はこの言葉がクリヤーの実践にも当てはまるということを心に留めながら果物を供えます。
一般に、人は、金銭的なものであれ、名を高めてくれるものであれ、喜びのためであれ、個人的な利益を期待したり願ったりしながら、物事を行います。しかし賢者が発見したように、欲望は自らにえさを与えるだけであり、新たな欲望を生み出し、人を欲望の悪循環へと閉じ込めてしまいます。望むことを手にしようが手にしまいが、最終的なものは常に苦しみなのです。望むものが手に入らなければ、欲求不満になり混乱します。望むものが手に入れば、失うことを恐れるようになったり、あるいは手にしたものに魅力を感じなくなり、飽きてしまいます。カルマの法則によれば「自分がまいた種を収穫する」ということであり、聖書の言葉を用いれば「自分が相手からしてもらいたいように、相手にしてやること」になります。あるいは「良いことを為しなさい、そうすれば良いことが自分に戻ってくる。悪いことを為せば、当然の報いとしてそれを受けることになる」ということです。人間は呼吸をしている限り、活動から逃れることはできません。そこでクリシュナは我々に「個人的な欲望に基づく活動ではなく、自分自身の義務を為しなさい」と言ったのです。
個人的な利益のために行動を取るという条件づけから徐々に解放されるために、ババジは弟子たちに週に数時間カルマヨーガ(無私の奉仕)のために割くことを求めています。見返りを求めずに奉仕するということです。これによって、人は狭いエゴの欲望を超えたより広大な領域へと自らのエネルギーを向け、我々を通して働くことを願う普遍的な愛の力のための経路となることができるようになるのです。
私の師匠はこのことを強調し、この目的のために毎週弟子たちを集めたものです。世界中に活動拠点を持っていた時期には、その拠点の維持と発展もカルマヨーガに含まれていました。また、クリヤーヨーガの活動を宣伝すること、貧しい人々に食べ物を与えること(特にインドにおいて)やクリヤーヨーガの普及に役立つことはどんなことでもカルマヨーガに含まれていました。個人が受け取る効果は目を見張るものでした。自らの想像で作り出した個人的な問題は忘れ、鼓舞され、思考・言葉・行動において力づけられたのです。枯れることのないと思われるほどのエネルギーを私たちは与えられ、すばらしい計画をたくさん実行することができました。後年、この時生み出したものは徐々に消えていきましたが、それは別の話です。重要なことは、その組織や組織の発展に何が起きたかということではなく、カルマヨーガによってエゴが溶かされ、真我実現が進んだこと、大師の手の内で道具となることができたということなのです。
人は、見返りを期待せずに手を貸そうとしたり、無私の状態で何かを為そうとすることでカルマヨーガを開始します。これは、いわゆる準備運動の段階です。ここにはまだ複数の存在があるのです。つまり「私」と「彼ら」です。しかし、本当の意味で人がカルマヨーガに入り込むと、そこに行為する者は存在しなくなります。物事と力の非常に複雑な相互作用から、これは起こり、この時人は何事においても原因ではなくなります。自分は何者か、自分のことを何者であると認識しているのかということは忘れられ、実在だけが残ります。「良いことはすべて神の仕業、悪いことはすべてエゴの仕業」という言葉が自明のこととなるのです。もちろん、エゴという小さな存在はなかなか消えません。エゴは文句を言ったり叫んだりします。
これを根絶するために、マラソンのように続くカルマヨーガの活動の最中に、私の師は我々を夜遅くまで寝かせないことがよくありました。例えば、私たちは午前二時に外へ出て雑草を抜くことを求められたのです(今ではわかるのです、これが内で起こっていることを比喩(ひゆ)として的確に表していたということが)。しかも、これは何時間も前に用意された夕食を取る前のことだったのです。なぜでしょう? 私たちの中の、疲労し抵抗している部分を手放さなければならなかったのです。みながみな長く留まっていたわけではありません。実際には、この修練の激しさに耐えることのできる者はほとんどいませんでした。血糖値が下がりエゴが反抗しだした時、第一の瞑想法とマントラが非常に役に立ちました。
私の師は、実践すべきカルマヨーガをよく「大師の仕事」と呼んでいました。これは、ヒンドゥー教や仏教の聖典で、人生における義務や使命を意味する「ダルマ」を表すのによく用いられる表現でした。自らのダルマは、道を進んで行くうちに示され、内なる導きに耳を傾けられるようになった時に明らかになります。ですから、これは、「クリヤー」すなわち「意識を伴った行為」へと導くすべての「技法(クリヤー)」と密接に関係しているのです。
なぜ恩寵を受け取れるかどうかはカルマヨーガの量に左右されるのでしょうか。人が天国の門を通過できるほど点数を稼いだのかどうか査定するために、誰かがひとりひとりの貸借表をつけているわけでありません。カルマヨーガとは、無意識の条件付けによって支配されているありふれた状況の中に、高次の意識を実際にもたらすことなのです。瞑想の領域、あるいは献身的な活動の領域からもたらされる愛を、人間が必要とするものの核心へと持ち込み変容させることなのです。カルマヨーガは、本質的には奉仕ではないのです。奉仕というものは、「こんなことをするなんて自分は何と偉大で慈悲深いのか」というような心の態度を伴い得るからです。カルマヨーガというのは、実際のところは、少なくともしばらくの間だけでも個人的な欲望を取り除いておくことなのです。これによって、神が顕現する余地、そして無限の真我を知る余地が生まれるのです。
ヨーガは時に「行動の技術」と定義されます。これはカルマヨーガの重要な要素のひとつです。何かがうまく為された時、それは十分な意識を向けて行われたということになります。マインドの小さな欲望に乱されなければ、知性は力とインスピレーションを持ち、個人を通して十分に働くことができるのです。
形而上学的に言えば、カルマヨーガによって我々は、新たなカルマを生み出すことなく行動する方法を教えられるのです。人は自分の過去の行為からくる影響を逃れることはできません。しかし、新たなカルマの種をまいてしまう個人的な欲望を持たず、どんな状況においても意識的に行動することはできるのです。例えば、誰かがあなたを罵(ののし)ったとしましょう。この時に、怒ったり言い返してやろうという思いに駆られて自己を見失うのではなく、冷静に対応することができれば、怒ったり他人を傷つけるという習慣を強めずにすますことができるのです。
カルマヨーガの精神で行動し始めるのです。自分の行動を神に捧げるのです。何かを完成させた時、給料をもらった時、他の人に対して何か良いことをした時はいつでも、「あなた(神)に捧げます」という意味の「オーム・タット・サット」と言うのです。毎週数時間ボランティア活動をし、活動領域を広げるのです。そして愛があなたを通して現れるようにし、自分の才能を用いる領域を常に拡大させるのです。クリヤーヨーガを他の人に伝え、エゴの作り出したカルマの鎖から我々全員が解放されるように無私の精神で働くのです。自分は「行為者」ではないということを忘れてはいけません。
愛と献身
愛と献身のヨーガについて、シッダ・ティルムーラルが『ティルマンディラム』の第270節で適切に述べられています。
無知な者は愛とシヴァは別のものであると言う。
しかし彼らは愛だけがシヴァであることを知らない。
愛とシヴァは同一であり、
シヴァのように愛する時、人は永遠に生きる。
また、第274節では
愛に溶けたハートで神を崇めよ。
愛をもって神を求めよ。
我々が自らの愛を神に向ける時
神も愛をもって我々に近づく。
また、第280節では
我々があざ笑ったこと、我々が努力して手にしたこと、神はこれを知る。
公正な愛の主は実績に応じて報いる。
燃ゆる熱意、愛のハートで神を求める者を
非常に喜び、神は恩寵を与える。
また、第283節では
男女間の甘い愛と同じように
偉大な愛の中においても、自らを神に委ねなさい。
こうして愛の中で浄化され、感覚器官は静まる。
至福の中で跳ね上がり、個はそれとなる。
また、第288節では
神は知る。夜となく昼となく
ハートの中心に留まり、愛の中で高揚し神を崇める者たちを。
彼らは内なる光によって賢明となり、恍惚状態で不動である。
神が現れ、そして目の前に立つ。
これらの詩によって我々は、世界中にある精神世界の伝統において秘教の信者たちが、愛は真我実現の道具であると共に最終的な結果でもあるという事実に同意しているということを思い起こします。
どうやって神に対するこのような愛と献身を養うのか
神であろうが、人間であろうが、動物であろうが、植物であろうが、他のものに対して愛を感じる方法を求めることによって養うのです。人は、非人格的なもの、つまりサッチダナンダ、「実在、意識、至福」としての神の栄光と偉大さについて瞑想をする時、至福を味わい、そしてこれと一体感を持つようになります。我々が、イエスや仏陀やババジのような人間の姿をとった神や、あるいは個々の神々について瞑想をする時も、愛を通して神の性質、本質と一体感を持つようになります。例えば霊的な儀式、宗教的な儀式、聖歌の斉唱、チャンティングに加わったり、神が人格となって現れた姿を見ることのできる聖地を訪れた場合にこういったことが起こることもあります。我々は頻繁に考えたり瞑想したりする対象と同じようになるのです。人生という試練の中で、困難を克服するための力と微笑を絶やさないための喜びを見出すために、人格神からインスピレーションを受けるのです。自分が今いる所で神に出会うことができるのだということを理解し、自らが出会うすべての人に気づきと優しさを持って接するのです。
4.弟子道
人が特定の教師、あるいは特定の道に引きつけられ、その教えを吸収するようになった時、その人は「信者」になっていると言っていいでしょう。そうした人は、同じようにその道に引かれている他の人たちと交流し、教えを学び、講義を聴いたり、情報提供のためや参加者を鼓舞するために開催される活動に参加したりします。疑問や問いが生じ、信者は答えを探します。この期間は、今までの関係や理解との葛藤が生じたり、あるいは自分の愛している人たちが自分と同じようにはその道に引かれないために、精神的に非常に混乱する時期になることがあります。教師がその人の真剣さを試すこともあります。
教えを自分の人生に応用し、疑念に対する答えを探し求めるにつれて、その教えが実際に役立つということがわかり、この道が自分にとっての「正しい」道だと思うようになります。あるいは、何かが欠けていると感じ、また探し続けます。熟していく果物と同じように、経験を通して、色と甘さが信者の中に形作られます。つまり、成熟し、自信を持つようになります。この期間には、様々な教師や教えに触れて、それらを比較したり、試したりすることもあります。
しかし、ある地点で、ひとりの教師、あるいは教えの弟子になると覚悟を決めます。弟子とは、自らの全存在、つまりハート、マインド、肉体、魂を教師に明け渡す覚悟をした者のことです。この覚悟は、揺るぎなく、生涯にわたるものです。ファスト・フードであれ、洋服であれ、予約であれ、人間関係であれ、悟りであれ、自分の求めるものをできるだけ短期間、例えば2週間で手にすることに慣れている北米の文化においては、自らの準備が整い、こうした覚悟をするために必要となるプロセスを経る人はほとんどいません。自称グル、自称「マーハラージャ」に、自分の弟子になれば、数ヵ月で悟らせてやる、と言われた場合を除いては。特に自称グルからスピリチュアル・ネームを与えられてエゴが喜び、みんなが一目置くようにおだてあげられた場合を除いては。拒絶できる人がいるでしょうか。こうした見せかけに、人はすぐに魅了されてしまいます。悲しいことに、夢から覚め、悟りのセールスマンの欠点や口先だけの約束が明らかになると、求道者は幻滅するのです。そして、元弟子は、自分が不誠実な「弟子」であったにもかかわらず、自分がどれだけ失望したかということを述べ、教師を痛烈に批判します。西洋文化において、プロポーズされる前に結婚する人がいますか。まず信者にならないで、弟子になる人がいるでしょうか。これは、教師や教えに対する覚悟が一般に口先だけのものである北米においてだけなのです。
教師や教えを試し、質問し、弟子になる前に十分な時間を使わなければなりません。グルは、弟子を取る前に、弟子が疑問に向き合う機会、教えを応用する機会を与え、信者の誠実さを試さなければなりません。悲しいことに、真のグルはほとんどいませんし、真の弟子はさらに稀です。
ペースを落とし、焦らず、悟りたいという思いさえも明け渡すのです。さもなければ、無節操なセールスマンの餌食(えじき)になってしまいます。あなた自身が「それ」なのです。それを人にくれてやってはいけません。
5.イニシエーションの重要性
ババジのクリヤーヨーガにおいて、イニシエーションの重要性は、見過ごされがちです。イニシエーションは神聖な行為であり、イニシエーションにおいて、人は、真理を知るための手段を初めて体験します。その手段が、クリヤーと呼ばれるヨーガの技法であり、真理は永遠無限なる一者への入り口です。真理は呼び名や形を超えているため、言葉や記号で伝えることはできません。しかし体験することはできるので、自らの真理の体験を分かち合ってくれる教師がすべての人に必要なのです。教師は、生徒が真理を自らの内で体験するための手段、ヨーガの技法という手段を提供するのです。
イニシエーションの間、受け手は気づかなくても、イニシエーター(伝授者)と受け手(生徒)との間には常にエネルギーと意識の伝導が行われています。生徒が疑問や疑いに満ちていたり、気が散っている場合には、効果的な伝導は行われません。そのため、イニシエーターは妨害が最小限になるように、あらかじめ生徒の準備を整えたり、環境をコントロールしたりします。実際、イニシエーターは生徒の意識を自分の意識に取り込み、生徒のメンタル的、生気的な限界線を拡大させるのです。イニシエーターと生徒の間のメンタル的、生気的な境界が溶けるようなものです。これによって意識が上位の界層に移行するのが非常に楽になります。こうしてイニシエーターは生徒を魂の体験へと導くのです。たいていの人の場合、魂の経験はヴェールで覆われてしまっています。生徒は自分の意識が上げられたおかげで、初めて何らかの潜在的意識や潜在的能力を垣間見ます。弟子のクンダリニー(人間の持つ潜在的な力と意識。脊柱の基底部にあるチャクラ、つまりムーラーダーラに存在している)を上昇させる理由は、これなのです。初めての場合、あまり劇的でないことがほとんどです。しかし、学んだことを実践に移す生徒の熱心さによりますが、時を経て徐々に劇的になっていくのです。
イニシエーションが効果的に行われるためには二つのことが必要です。生徒の準備ができていること、真我を悟ったイニシエーターが存在することです。生徒のほとんどは後者すなわち完璧なグルを見つけることを重要視し、自らの準備についてはほとんど気にかけません。「自分のためにそれをしてくれる」人、つまり真我実現、あるいは神実現を与えてくれる人を探そうとする人間性の欠点によるものです。グルが正しい方向を指す時、生徒はその方向に進む決心を自らしなければなりません。頭では決心しているけれども、人間性のために気を散らしたり、疑念や欲望にはまってしまうことがよくあります。だから、たとえ完璧な教師を見つけたとしても、信念、忍耐、誠実さ、根気のような質を生徒が身につけていなければ、イニシエーションはコンクリートの歩道に種をまくように、無駄なものになってしまうのです。
こうした理由により、伝統的にイニシエーションは準備のできた者、時には何年もの準備期間を経た者だけに与えられていました。初めのイニシエーションは多くの求道者に与えられるかもしれませんが、より高度なイニシエーションは弟子としての質を身につけた者だけに与えられました。イエスが言っているように「呼ばれる者は多いが、選ばれる者は少ない」のです。弟子道に必要な厳しい要件を満たす者はほんのわずかなのです。
ディボーティ(信愛者)とは、道や教師を求めている者です。道や教師を見つけるまでには非常に長い期間を要するかもしれません。一人の教師、一つの道に打ち込む準備がまずできなければなりません。品物を比べる買い物客のように、少しずつ見たり、聞いたり、体験したりしながら、ある教師から別の教師へと動き回ります。この段階を経てようやく、弟子となり自らの教師が示した霊的訓練に打ち込むようになります。霊的訓練の結果が現れるまでには長い期間続ける必要があるので、生徒は訓練、忍耐、教師の援助、神の恩寵の効果を信頼する必要があります。真の教師はいつでも生徒の要望に応える準備や、生徒の要望に応えることのできる人物を見つける準備ができています。神の恩寵に自らを開く方法を知っていれば、いつでもそれを受け取ることができます。したがって、問題なのは生徒の信念と忍耐なのです。教師あるいはグルは、イニシエーションを通して生徒の成長を後押しし、霊感や刺激を提供することができますが、生徒は信頼と粘り強さを持たなければなりません。
イニシエーションを受けずに技法を学んだとしたら、それは効果のあることでしょうか? これまで話したことを理解すれば、答えは明らかに「効果はない」ということになります。ゆえに、書籍や、自らが真理の体験をしていない偽りの教師から技法を学ぼうとしても、霊感は与えられないのです。イニシエーターと受け手との間に起こる意識とエネルギーの伝導には技法に力を与える神聖なものがあります。こういったわけでイニシエーションの伝統は世代から世代へと効果的に真理の実体験を伝えることができているのです。イニシエーションの強みは、熱心に修練を積み真理を悟った者たちの力と意識にあります。イニシエーションで学んだことを規則正しく熱心に実践し、イニシエーションに敬意を表すことは、自らの高位我に敬意を表すことなのです。
6.ババジのクリヤーヨーガとは
ババジとババジのマントラ
オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウム。クリヤー・ババジとババジのマントラを語らずして、ババジのクリヤーヨーガについて話を進めることはできません。ババジのマントラには人の鼓動をババジの鼓動に調和させる力があります。このマントラは、人のハートを宇宙の鼓動に繋げることができるのです。このマントラは、伝説的なヒマラヤのシッダ、クリヤー・ババジ・ナーガラージの恩寵へと人を導きます。こうして、ババジは信者に自らを現すのです。クリヤーヨーガの技法を通して、ババジは、求道者をサーダナにおいて、そして間接的にそれぞれの人生において導くのです。弟子は、サハスラーラに宿る内なるグルにマントラを使って繋がることができる、と言われます。マントラはシャクティ、つまり強力なエネルギーです。グルはマントラを通してシャクティを送り、そのシャクティはマントラを通して弟子の中に入るのです。マントラはグルの一形態です。グルは自然の原理、タットヴァだからです。自然の原理であるため、グルは生命を創り、維持し、外なる宇宙も内なる宇宙も、つまり全宇宙を指揮する力なのです。グル・タットヴァは時空を超えています。なぜなら時間と空間は、この創造原理と生命力が生み出したものだからです。
グルの原理は、宇宙が生み出される以前から存在しており、水、地,風、火、空の5要素のように、宇宙創造以来、創造物に内在しています。グルの原理は、すべての者の中に内なる真我として存在しています。我々がマントラを唱えると、我々は内なるグルに尊敬を表す、つまり自らの真我に尊敬を表すのです。グルは真我であり、真我は至高の意識、至福なのです。
オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウムの説明
オームはプラナヴァ、つまりプラーナを流れる音です。
クリヤーは三種類のシャクティ(エネルギー)のひとつです。行為のシャクティが、クリヤー・シャクティ、意志のシャクティが、イッチャ・シャクティ、叡智のシャクティが、ヤーナ・シャクティです。
ババジはクリヤーヨーガの生ける源、サットグル、父としての神、パラマハンサ・ヨガナンダが『あるヨギの自叙伝』で言及したババジです。
ナマは「挨拶」あるは「私の名前は」という意味です。
アウムは人の内部での宇宙の音です。ナマ・アウムは至高我、サットグルへの呼びかけ、祈りです。
人は、真我、至高我に気づくにしたがって、神の手、少なくとも神の指をどのような状況においても感じられるようになります。神を見るようになるのです。自分が導かれていること、受け入れられていることが感じられるようになります。常にグルと繋がっていられるようになるにつれて、サットグルから課せられた仕事がどのようなものであっても常に導かれるようになります。これが「クリヤーヨーガ」なのです。
このクリヤーヨーガの起源
クリヤー・ババジは、偉大なヨーガの大師であり、外の世界にはあまり知られていない状態でチベットやインドのヒマラヤ山脈で何百年も暮らしています。1946年にパラマハンサ・ヨガナンダが『あるヨギの自叙伝』を出版した時に、ババジの存在が注目されるようになりました。ヨガナンダによれば、ババジは数え切れないほどの別の存在を通して働くので、ほとんどの場合、名前を明かさずに多大な影響を与える、と言うのです。
実際、ヨガナンダは、1986年にババジがラヒリ・マハサヤにクリヤーヨーガの技法を授け、この技法によってラヒリ・マハサヤは真我実現に至ったと述べています。そしてラヒリがシュリ・ユクテスワに技法を授け、ユクテスワがパラマハンサ・ヨガナンダに伝え、ヨガナンダがこの技法を西洋に持ち込みました。1920年にヨガナンダはセルフリアライゼーション・フェローシップ(SRF)を設立し、1952年にヨガナンダがこの世を去ってからは、この団体が書籍や通信講座を通して教えを伝え続けました。
ババジのクリヤーヨーガは、インドの伝統的なクリヤー、十八人のシッダとして知られる、シヴァ・ヨーガの完成された大師たちの流れを引いています。ババジ自身にもグルが二人います。アガスティアとボーガナタルです。『ババジと十八人のシッダ』にはこの二人の偉大なシッダとの生活について、ババジが明かしたことが書かれています。この本にも、ババジが1952年、53年に弟子のV.T.ニーラカンタンに書き取らせ、今日『ヴォイス・オブ・ババジ』という題名で出版されている書籍と共に、ババジがV.T.ニーラカンタンとS.A.A.ラマイアを通して始めた新たな活動についての初期の頃のことが書かれています。
ババジのクリヤーヨーガは百四十四のクリヤー、つまり技法を持ち、徐々に高度になるものであり、長年にわたる一連のイニシエーションで伝授されます。五つの部門からなるこのヨーガは、1955年、バドリナート近郊のヒマラヤ山脈で数ヵ月にわたり、ババジから直接、ヨーギー・S.A.A.ラマイアに伝授されました。初めのイニシエーションには、クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマの非常に重要な技法が含まれています。この技法は、今日SRFで教えられている技法と非常に似ているものです。パラマハンサ・ヨガナンダは、クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマを実践することによって、人の内部での神意識の発達を促進することができる、と言いました。
1983年、ヨーギアーとして知られていたヨーギー・ラマイアは、弟子の一人であるマーシャル・ゴヴィンダンの訓練を開始し、ゴヴィンダンが百四十四の技法を教えることができるようになるために厳しい条件を満たすように求めました。ゴヴィンダンは、1983年までに、十二年以上途切れることなく週に少なくとも五十六時間以上クリヤーヨーガを実践してきていました。十二年というのはクリヤーヨーガを実践する上でひとつの理想的な期間だとヨーギー・ラマイアはよく言っていました。加えて、198一年には、スリランカの海岸近くの小屋で独居し、休みなくヨーガを実践し、一年間沈黙を保っていました。ゴヴィンダンが他の条件を満たすのに三年を費やした後、ヨーギアーは「後は待つのだ」と言いました。弟子を「グル」の足元へ連れて行けば、自分の仕事は終わり、とヨーギアーはよく言っていました。1988年のクリスマスイヴ、一連の深遠な神秘体験の中で、ババジからゴヴィンダンへ「ヨーギアーのアシュラムと組織を離れ、クリヤーヨーガを他者へ伝授し始めなさい」という驚きのメッセージが与えられました。
これ以後、ゴヴィンダンの人生は、グルの、絶え間ないインスピレーションの光に導かれ、他者に道を示すことに集中するようになりました。1989年以降、ゴヴィンダンの人生は新たな方向に動き始めました。扉が自然に開き、あらゆることが新たな使命を後押ししました。1992年、ゴヴィンダンは、ケベックにババジのクリヤーヨーガのアシュラムを設けました。1997年には、Babaji’s Kriya Yoga Order of Acharyas という在家教師の団体を設立しました。この団体は現在、カナダ、アメリカ、インド、スリランカで教育関係の慈善団体として登録され、税金を免除されています。2008年時点で、十二カ国に十五人以上の教師がいます。この団体は、十八人のシッダたちの著作を、調査、保存、転写、翻訳、出版するプロジェクトに2000年以来出資し続けています。十八人のシッダたちの著作は、『ヴォイス・オブ・ババジ:クリヤーヨーガに関する三部作』と同様にババジのクリヤーヨーガの起源となるものです。ババジのクリヤーヨーガは、人生を豊かにし、万人を人生の究極的なゴール、つまり真我実現と神実現へと導くことのできる媒体です。シッダたちの著作は、この媒体になくてはならない道路地図なのです。
ババジのクリヤーヨーガは何を目標にしているのか
クリヤーヨーガによって、人生が豊かになります。肉体、マインド、魂が強くなります。クリヤーヨーガの様々な修練によって、実践者は健康になり、神経系統が強固になります。すべての感覚が研ぎ澄まされ、マインドと知性が非常に鋭くなります。人間の潜在能力が開発され、個人の能力が高まります。しかし、クリヤーヨーギーは自分の利益のためにエネルギーや個人の能力を開発するのではなく、社会にとってより役立つ存在になるためにそうするのです。クリヤーヨーガは隠遁(いんとん)者のためのものではなく、人類に奉仕しようと願う者たちのためのものなのです。
ヨーガとは、霊的な人生を送るための実際的な科学です。クリヤーとは、「意識を伴った行為」です。ゆえに、クリヤーヨーガは、行為の中で、行為を通して、いわゆるヨーガの修練においてだけではなく、日常生活においても為されなければならないのです。
ババジのクリヤーヨーガについて、ババジが『ヴォイス・オブ・ババジ』の中で語っています。
「サーダナが通常生活と切り離されたものになってはならない。通常の生活も見方を変えることによって、強力なサーダナになり得る。適切な感情は、通常の生活をヨーガの生活に変える賢者の石になる。極めて実際的であるクリヤーヨーガによって、純粋な哲学からなる理想とこの世の厳しい現実との間に合理的な繋がりがもたらされる。クリヤーヨーガは、現代人に、単なる理論家が持つ完全に抽象的な思索と頑固な現実主義者が持つ過度に実務的な態度の中間に立つことを求める。クリヤーヨーガは達観した人生と関係しているが、何一つ当然のことと見なさないことが求められる。人は、明確な方法に従い、具体的な結果を自らの人生で経験する。クリヤーヨーガは包括的なもの。クリヤーヨーガは、人間の能力のすべてが開花することを目指す。現在の人間が進化して到達することになる超人、この超人の先駆けである。クリヤーヨーガの目標は、開眼し高尚なヴィジョンを持つ新たな人間を創り出すこと、そしてこの結果、新たな世界秩序、サティア・ユガ、つまり真理の世の中を打ち立てることである。
現代社会では、ヨーガが非常に神秘的で実際的なものという見方から、馬鹿げたもの、滑稽(こっけい)なものという見方まで様々である。相反する見方と、とっぴで奇抜な見解がヨーガとサーダナという言葉に関連づけられてしまっている。やせて、半裸で、灰を塗りたくったぼさぼさ頭の人物が大きな木の下で足を組んで座っているイメージを抱かれるのが一般的である。わざと不正確に伝えられたことと長期間こうしたイメージが存在したために、これが根づいてしまっている。ヨーガを実践していて起こる神秘的な現象や肉体より上位の界での体験は疑いの目で見られ、手品と見なされる。今日、この点はもっと明確に理解できる。クリヤーヨーガは、空想上のものでもなければ、異常な事柄も一切含んではいない。クリヤーヨーガは恵まれたわずかの者のためのものではない。クリヤーヨーガは、奇妙な、あるいは並外れた目標を達成するために少数の者が実践する風変わりな手段ではない。クリヤーヨーガは経験的に有効性の証明された、理にかなった方法であり、より充実して、より神聖な人生をもたらすものである。こうした人生は、未来の世界においては自然に万人が送るものである。こうした人生は特異な能力を身につけ行使することによるのではない。必要なことは、自分の中に既に存在しているがまだ眠った状態にある能力を発達させることだけである。用いる主要な道具は、人類全体に共通のもの、つまり人間のマインドである。
ゆえにクリヤーヨーガは、ヒマラヤの洞窟で隠遁生活を送る者だけにかなうもの、修練ではない。クリヤーヨーガは、ぼろを着ている者、石を枕にしている者、両手の範囲内で手に入るものだけを食べている者、暑さと寒さを切り抜ける者、大空の下で暮らす者だけのものではない。クリヤーヨーガは、様々な場所で暮らしている者たち、世の中で暮らしている者たち、世の中に奉仕しながら暮らしている者たちのものでもある。クリヤーヨーガは、サンヤーシン、あるいはヨーギーたちのものでもあり、また、すべての人のものでもある。クリヤーヨーガは、都市に暮らす者、町に暮らす者、村に暮らす者、森に暮らす者によって、深く学び、誠実に実践されなければならない万人のための科目なのである。クリヤーヨーガは、最高の科学であり、成果は争いではなく、真の平和から生じるものであり、魂、無限の喜びから生まれるものである。
クリヤーヨーガには、細かい違いを持った様々な年齢、そして様々な人々にかなうという独特の強みがある。全く同じ方法が用いられるということがクリヤーヨーガの最高の長所なのである。
何百万人もの人々と関わりながらも『人間の手で損なわれていない』方法には神聖さ、上質さ、純粋さがある。その方法の純粋さに疑問をさしはさむ余地はない。ヴェーダや聖典が重んじられるのは、その中に最高の真理や叡智(えいち)が含まれているからだけではなく、『人間の手で損なわれていない』純粋さがそこにあるという事実にもよるのである」
スヴァダルマ 我々が生きている理由
我々全員の最終の目標は同じです。「求道者」が人生で最も切望することは、永遠の幸福です。一般人は、欲望を一時的に満足させることに、この幸福を見出そうとします。求道者は、この一時的な幸福の向こうに目をやり、他のものを求めます。求道者は、欲望を満たしても満足できない原因は内なる存在にあること、そして内なる存在が圧力をかけ、自分をスヴァダルマへと向かわせていることを知っています。スヴァダルマとは、自らの義務であり、「自分自身を知る」責任、「真我に忠実である」責任、「自分は何を学ぶために来たのか、何をするために来たのかを知る」責任のことです。
我々はこの人生に生まれ、そしてほとんどの者は、自分の存在の意味を深く探求することなく、自分がここにいることを当然のことと考えます。我々がこの地球に存在する理由がただひとつだけあり、それはスヴァダルマである、とヨーガでは言われます。スヴァダルマは、幸せになるということではありません。我々がここにいる理由は、自分自身を知り、自分自身に忠実になることです。真の自分を知り、偽りの自分を手放すことです。ゆえに、真の自分を知るために行うことのすべて、真の自分ではないものを手放すために行うことのすべてが、重要なサーダナなのです。これを行う上で、ババジのクリヤーヨーガが助けになります。意識していようが、していまいが、我々はみなそこに向かって進んでいます。しかし、毎日サーダナ、つまりプラーナーヤーマ、瞑想、ハタヨーガ(肉体の浄化を扱うヨーガ。ポーズ、バンダ、ムドラ)を行い、絶え間のない修練、自己探究、神への献身を実践すれば、もっと速やかに進化することができるのです。
ヒンドゥー教によれば、人間には四つの目標があります。一番目は富を得ること、二番目は肉体的な心地よさ、感情面での健康、そして知的な刺激を得ること、三番目は道徳的な人生を送ること、そして四番目は真我実現、言い換えれば、解脱です。ババジのクリヤーヨーガは、この四つの目標のすべてにおいて、我々の助けになってくれます。なぜならババジのクリヤーヨーガは、我々を目覚めさせ、我々を真我実現へと導くように体系づけられている霊的教えだからです。しかしババジのクリヤーヨーガはそれと同時に、包括的で実際的な訓練でもあり、豊かな人生を送るための懐の深い方式なのです。この教えは、シヴァ・ヨーガの大家であるシッダたちの流れを直接引いています。技法は、隠遁者ではなく、多くの場合家庭持ちであったシッダによって開発されました。シッダたちは結婚しており、社会意識を持ち、人類の幸福を求め、科学や医学の分野で新たな発見をし、人類を支えたのです。
クリヤーヨーガというこの科学的技法を開発したシッダたちが、有名な格言を残しています。「人生における幸せの量は、修練に比例する」というものです。クリヤーヨーガにおける修練とは、本当の自分を思い出すために行うこと、そして偽りの自分を手放すために行うことです。これは、人間の状態に関してシッダが行った原因分析に基づいています。「我々は目を開けた状態で夢を見ている」とシッダたちは言います。世の中の外見だけが存在しているように見えます。人生とは夢、人生とはつかの間のもの、あらゆるものが夢のようにやって来ては過ぎ去っていきます。長い年月をかけて獲得する経験、所有物、尊敬、屈辱、幸運、不幸、人間関係、すべてが夢のように去来するのです。
さらに、クリヤーの修練は、気づきを養うことから始まります。しかし、我々が通常していることのほとんどは、無意識、つまり習慣から為され、気づきを伴いません。我々は世の中に対して目が行くと、本当の自分、つまり気づきそのものに対して眠った状態になります。世の中に目が行くと、意識内を通過する思考の動きに気づきません。ところが思考がもたらす喜びと痛みは受け入れます。
世の中に目が行くと、プラーナ(体の中にあるビオプラスマ、あるいは生命エネルギー)の動きに気づかず、マインドが興奮し、感覚も高ぶります。マインドが興奮するのはプラーナの流れが体の中で滞ったり、阻害された時だけです。生命エネルギーの乱れや滞りはマインドの混乱が原因であり、この混乱によって体内の新陳代謝が乱れます。精神的な混乱のために、食べ物が毒に変わることがあります。肉体的な病気を引き起こすことがあるのです。
肉体、マインド、感情の動きに対して常に気づきを保つことによって、精神的、肉体的な不調を正常な状態に戻すことができます。これを実践することによって、マインドを落ち着かせ、プラーナを整えることができるのです。これが「気づきを伴った行為」であり、ババジのクリヤーヨーガの目標達成のための手段であり、また目標そのものでもあります。
さて、気づきとは何であり、またどうすればそれを持つことができるのでしょうか。意識の一部が、それ以外の意識の部分が行っていること、感じていること、あるいは考えていることから離れて立ち、観察する時、気づきが生じます。これは、普通に生活している時にはなかなか起きません。なぜなら通常我々は注目の対象、つまり見ていること、聞いていること、考えていること、あるいは行っていることに意識を入り込ませてしまうか、または様々な方向に意識を分散してしまうからです。朝日が昇るのを見ている自分を観察したのはいつでしょうか、読書をしている自分を観察したのはいつでしょうか、怒っている自分を観察したのはいつでしょうか、ハタヨーガをしている自分を観察したのはいつでしょうか。何かをしている自分を観察するために自分の内に入るということを我々は滅多に行いません。
この気づきの感覚がある時、我々はどうなるのでしょうか。我々は内に留まれば留まるほど、物事に囚われなくなり、そうしてマインドはどのような状況においても落ち着き、プラーナも静まり、どのような状況においても乱れず、マインドが浄化され、幸福感と満足感がハートに生じます。簡単に言えば、これがクリヤーヨーガの目指すところです。
クリヤーヨーガは総合ヨーガです。つまり、五つの体を完全にするために五つの部門からなっています。
クリヤーヨーガは人間の存在のすべての部分に働きかけ、外側に現れる性質を完全に変えることができます。人生で行うこと、そして自分ができると考えることさえ変えることができます。クリヤーヨーガによって、潜在能力が開発されます。クリヤーヨーガは非常に強力なヨーガ、変容をもたらすヨーガなのです。
総合ヨーガとは、存在のすべての部分と存在の活動のすべてを包含するヨーガのことです。しかし、同じ修練を行っても人によって強さの度合い、統合性の度合いが異なることに気づきます。これは、人それぞれに統合性の度合い、つまり進化の度合いが異なるからです。すべての部分を統合し完全にするためには、存在のすべての部分を訓練しなければなりません。
肉体は神の神殿です。肉体は霊を表現します。肉体は、物理的な人生と精神的な人生を送るためだけのものではありません。しかし、我々のほとんどは、物理的・精神的人生のみを生きているので、我々は自分の肉体が霊的な能力を開発できるように教育しなければなりません。我々は、知的な能力を獲得し、感情をよりバランスの取れた状態にするために、肉体的、生気的、メンタル的、感情的な欠陥と欠点を矯正しながら、自分の霊体を体系的に発展させなければなりません。これは、我々の存在のすべてのレベルがヨーガの日々の修練に参加する時にのみ可能になるのです。
ババジのクリヤーヨーガは、気づきと真我実現をもたらす真のシステムです。ババジのクリヤーヨーガには、百四十四の技法があり、五部門からなります。アーサナ、つまり十八種類のポーズ、プラーナーヤーマ、つまり体内のプラーナと意識を導く呼吸法、ディヤーナ、つまり強力なマインドと感覚、視覚化能力、ヴィジョンを実現する力を開発するための瞑想法、潜在能力と意識につながる知性を目覚めさせるためのマントラ、そしてバクティ、つまり「神の恩寵」を呼び起こすための愛と献身です。バクティは、感覚を統御するために必要となる確固とした基盤を作るために必要であり、感覚を統御することによって、感覚内に生じるエゴの欲望や嫌悪感を捌(さば)くことができるのです。
五つの部門のそれぞれの目標
クリヤーヨーガとは「意識を伴った行為」です。クリヤーヨーガは、自己認識、つまり我々という存在についての真理を知るための手段です。ババジのクリヤーヨーガでは、アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想、マントラを行う時に気づきを持ち込み、また思考、言葉、夢、欲望のすべて、そして行動のすべてに気づきを持ち込むことが教えられます。このサーダナには我々をもっと意識的な人間にしてくれる強力な力があります。しかしこのためには、肉体、マインド、ハート、意思が、浄化と完成を強く望み、進んで魂と調和しなければなりません。ババジのクリヤーヨーガのサーダナは、自己開発のための運動と霊的修練の集合体です。しかしまた同時に、自らの存在のすべてを生きるための生き方そのものでもあります。
クリヤー・ハタヨーガの最初の目標は肉体も精神も深くリラックスさせることです。アーサナは肉体が関係する部分に直接働きかけます。十八種類のアーサナによって、肉体から不調や異常が取り除かれます。肉体上の神経系統が強化され、マインドが静まります。様々なアーサナを行うことによって、肉体が柔軟になり、体が軽く感じられ、重力の影響が軽減されるのです。
この一連のポーズを欠かさず実践することによって、肉体からの妨げを克服し、深い瞑想に入りやすくなります。十八種類のポーズを実践することで、徐々に怠惰、落ち着きのなさ、苦痛、病気から解放されます。肉体的にも精神的にも疲労をあまり感じなくなり、疲れた時にも、エネルギーを再充電しやすくなります。自らの存在のより精妙な部分に調和し、肉体内のエネルギーの流れに気づくようになり、そしてそのエネルギーを方向づけることができるようになります。アーサナ、バンダ、ムドラによって、瞑想のための強固な土台が築かれます。ハタヨーガの実践によって、最終的には肉体、マインド、神経系の準備が整えられます。より精妙な神経系統が強固になり、脊柱(せきちゅう)に沿って存在する精妙なエネルギーセンターが刺激され、そしてクンダリニーが解け、上昇の動きが促進され、潜在能力と意識が目覚めるのです。
呼吸とマインドを支配するための科学的技法であるクリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマは、ババジのクリヤーヨーガの中で最も潜在的な力を秘めた技法です。少々複雑ですが、プラーナとマインドを繋げてくれる強力な呼吸法です。緩やかにクンダリニー(我々の潜在能力と意識)を目覚めさせ、生気体に存在する七つの主要なチャクラを通し、脊柱の基底部から頭頂までクンダリニーを循環させます。それぞれのチャクラに対応した意識状態を目覚めさせ、存在の五つのレベルのすべてにおいて活力を増加させます。
プラーナーヤーマは、シッダが行うヨーガの修練の中で最も重要なものでした。プラーナーヤーマは長寿をもたらすものであり、また自らの内に神を見ることができようになるためのものでもあります。
不規則な呼吸は我々の健康を害し、肉体の構成要素の老化を速めます。肉体の衰えを克服するためには、プラーナーヤーマを欠かさずに実践することが必須になります。
プラーナーヤーマの最初の目標は、神経系統を浄化し、すべての神経とエネルギーの経路(ナーディ)で生命エネルギー(プラーナ)のバランスを取り、そして滞ることなく循環させることです。最終的には、クリヤーヨーガのプラーナーヤーマにより、両方の鼻孔と微細なナーディを通る息の流れのバランスが取られます。そして、これにより微細なプラーナのバランスが取れ、安定します。プラーナーヤーマはマインドをより安らいで安定した状態にする手助けとなり、これによりダーラナー(一点集中)がしやすくなり、そしてディヤーナ(瞑想)が生じるのです。クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマはエネルギーの中心経路(スシュムナー)を開き、より多くの生命エネルギー、プラーナをそこに集中させ、そして上昇させ、生気体に存在し、気づきと関わる高次のセンターを刺激します。ババジのクリヤーヨーガの技法には、通常の意識を超えた次元へと我々を導く力があるのです。
マインドを支配するための科学的技法であるババジのクリヤーヨーガ・ディヤーナでは、我々が目を覚ましている時の意識状態に、内なる意識で悟られた真理が浸透し、そしてその真理が、目覚めている時の意識状態で機能することが求められます。我々の意識によって、我々が送る人生の様相と質が決まります。ですから、思考をやめ、空に入ろうとするのではなく、ババジのクリヤーヨーガの瞑想では、マインドの力を強化し、我々が人生で直面する難題や我々の人生での使命に応用できる直観やインスピレーションの流れを刺激することに焦点を合わせます。この独特なディヤーナ、つまり瞑想法は、我々の意識のすべてを魂の願いへ順応させるために、集中力と視覚化能力を養う助けになります。最終的には、このディヤーナにより、真我の気づきがもたらされます。
瞑想は順を追って進められ、各瞑想は前の瞑想が基になり、他の意識レベルを開発する助けになっています。ババジのクリヤーヨーガのディヤーナは、五つの体すべてに働きかけ、我々の意識のすべてのレベル、つまり潜在意識、無意識、マインド、知性、そして超意識に影響を及ぼすことができます。ディヤーナによって、我々は自分が持つ条件づけ、欲望、嫌悪、渇望を自覚するようになり、そして意識的にそれらを手放す過程を経るのです。内なる感覚が養われ、直観の流れに自らを開くようになります。クリヤー・ディヤーナヨーガを実践することにより、潜在意識が浄化され、習慣的な思考と行動が自覚に変わり、何を行う場合でも真我によって導かれるようになります(これはまず、瞑想中に自分の思考や感情に気づくことから始まり、次にこれが日常の活動をしている時に起こり、そして日常の活動を行う中で自分が導かれているということに気づくようになります。眠っている時でさえ気づくようになることもあります)。これらの瞑想を通して、注意深くいられるようになり、そしてまた安らぎや幸せを妨げる否定的な思考を見極め、そして手放し、それらを建設的な思考や行動で置き換えることができるようになるのです。
人間には豊かな創造力があります。「人は自分が考えるとおりのものになる」と頻繁に言われます。我々は無から自分の想像するものを生み出すことができます。我々には大いなる想像力と強力な投影力があります。クリヤーヨーガのディヤーナでは、想像力を養い、そして活用します。想像力は実際の人生の先を行くことができます。想像力には、現実に現れている物事の外へ、そして実現可能な物事の方へ自らを投影し、投影することを通してそれらを引き寄せる力があります。
通常、我々は想像力を用いるのが下手です。つまり、限られた情報に基づいて最悪の事態を想像したり(恐れ)、他人を最悪に想像したり(判断)、あるいはあることがどんなに素晴らしいか(欲望)、またはどんなに嫌か(嫌悪)想像します。悩みを例に取ってみれば、我々はみな悩みます。悩みというのは、自分の欲しないことについて瞑想することではないでしょうか。最も肯定的なことを想像してみてはどうでしょう。自分の人生において、肯定的で健全な結果を想像できるのにどうして最悪の不幸を想像することがあるでしょうか。
想像力は、訓練を必要とする道具です。現実的に一貫して詳しく、熱意や願いを持って作り上げた想像は、現実に生じる力を帯びます。我々が生命エネルギーをこの過程に加えれば、想像は生き生きとした力になります。我々の想像のほとんどは安定していませんし、生命エネルギーも備えていません。なぜなら、我々はたいてい興味を失って、別のことを想像し始めるからです。熱意と信念と信頼を持って上手に作り上げられた想像は、やがて実現します。クリヤー・ディヤーナは、人生の目的に向かって想像力を使えるようになるための訓練を提供してくれます。瞑想法の中には、新たな現実を作り上げるために、想像力を特に開発してくれるものもあります。
クリヤー・マントラヨーガは、我々の存在のすべてを静め、意識を魂と調和させてくれます。ババジのクリヤー・マントラヨーガで伝授されるビージャ(種)マントラによって、我々はチャクラを通過する神聖な上昇エネルギー(クンダリニー・シャクティ)と我々のもとに降りてくる恩寵に自らを開きます。また、愛、思いやり、優しさ、鋭い洞察、自制、忍耐力などのような神の持つ性質を育んでくれるマントラもあります。マントラは、人の注意を「私」「私のもの」という感覚から、内にも外にも存在する神へと向けさせてくれるのです。
クリヤー・バクティヨーガは、神、言い換えれば形のない真理へと向かう向上心、つまり絶対的なものとの合一、そしてエゴとの一体、欲望、執着という牢獄からの解放へと向かう向上心を育成するものです。最終的には、人生において素晴らしい至福を得るために、「神の愛」が、肉欲、怒り、欲望、プライド、嫉妬を根絶させなければなりません。我々を苦痛や苦しみへと導くのは、感覚と関係のある欲望であり、神ではありません。バクティは、「物を所有することではなく、すべてを観察することが必要なのだ」と我々に理解させてくれる手段なのです。バクティのおかげで、「我々は神という糸につながれた単なる数(じゅ)珠(ず)玉に過ぎない」ということが理解しやすくなります。その糸は決して切れることがなく、我々は決してばらまかれることはありません。バクティは、内にも外にも存在する神との合一と神への奉仕、その両方のための手段なのです。
クリヤーヨーガにおいては自己探究が欠かせない
クリヤーヨーガを誠実に実践するためには、進んで自分自身を観察しなければなりません。繰り返し努力することによって、人はマインドと人格の両方に変化をもたらすことができます。ババジのクリヤーヨーガは、浄化のために日々集中的に行われる修練であり、弱点や欠点を取り除くために行うことができ、そして安らぎと内なる繁栄をもたらす手助けになってくれます。
ババジのクリヤーヨーガを秩序正しく日々実践することによって、内に熱が生み出されます。この熱は、相違、つまりマインドや肉体が作り上げ、好き嫌い、嫌悪感や欲望、不快や肉体的快楽と関係のある相違を焼き尽くす助けになってくれます。物事に否定的に反応する習慣を変えることができますし、あるいは何度も何度も繰り返し練習することによって、肯定的な態度を養うこともできます。クリヤーヨーガを実践することがもはや努力ではなくなり、生き方そのものになった時、物事に対する肯定的な捉え方と態度が、新たな生き方になっているでしょう。
プラーナとプラーナーヤーマに関して
プラーナーヤーマは深呼吸ではありません。鼻孔を通して行う通常の呼吸と、微細体を通るプラーナの動きは別物であり、こちらのほうがはるかに重要なのです。プラーナーヤーマの目的は肉体により多くの酸素を取り込むことではなく、プラーナとマインドを繋ぐこと、プラーナと意識を体内で規制し、方向づけることができるようになることです。プラーナは活力に満ちた生命エネルギー、ビオプラスマ(生命活動を行っている物質)です。プラーナはとぐろを巻いたクンダリニーと符合するエネルギーです。
シッダは鼻孔を通る空気の流れを調べ、その流れが、イダー、ピンガラー、スシュムナー内のプラーナの流れと関連していることを解明しました。シッダは、体内のプラーナの流れが、月と太陽の周期にも影響を受け、プラーナは通常、月や太陽の周期と一致して鼻孔を通るということ、つまり体に備わった生命リズムにしたがって流れるということを発見しました。月が満ちる時、そして欠ける時に、ナーディ(エネルギーの経路)の優位も変わるのです。新月から満月まで(月が満ちていく期間)は、左の鼻孔が優勢になり、満月から新月まで(月が欠けていく期間)は、右の鼻孔が優勢になります。月が満ちていく期間は、一日目、二日目、七日目、八日目、九日目、十四日目、そして満月の日の日の出の時には左の鼻孔が優勢ですが、他の日の日の出の時には右の鼻孔が優勢になります。また、約二時間ごとに空気の通る鼻孔が変わりもします。
プラーナーヤーマという言葉は、エネルギーを意味する「プラーナ」と、「アヤーマ」という二つの部分からなります。「弓のように広がる」という意味を表す二つの言葉でアヤーマも構成されており、アヤーマは発展や拡大という意味を表します。よって、「プラーナーヤーマ」は、エネルギーを集め、生気体、つまりプラーナマーヤー・コーシャにある妨害物を除去するためにそのエネルギーを方向づけるプロセスを意味します。このプロセスにより、我々は内なるプラーナの力を支配しやすくなり、そしてこれにより、体とマインドを支配しやすくなるのです。
シッダはプラーナーヤーマを「内なるアグニホトラ(生贄の火)」と呼び、その火に呼吸で毎日生贄を行うものとしてプラーナーヤーマを実践することを奨励しています。シッダは、マインド、体、欲望を浄化するための拠(よ)りどころとしてプラーナーヤーマを捉えます。プラーナーヤーマはマインドをコントロールすることを目指します。プラーナーヤーマによってエネルギーが増加するので、すぐに体とマインドがリラックスします。このエネルギーは適切に方向づければ、怠惰や物忘れ、意気消沈といった傾向を克服するために用いることができます。プラーナがコントロールできるようになると、マインドもコントロールできるようになり、気性・気分・欲望・嫌悪を自分でコントロールできるようになるので、思考や感情に乱されることがなくなります。マインドに起こる自然な揺らぎにますます気づくようになるのです。
プラーナーヤーマは粗い外側のプラーナと精妙な内側のプラーナを発展させます。出ていく息と入ってくる息が調和するにつれて、我々は内側のプラーナに触れるようになり、軽い感覚、上昇する感覚、拡大する感覚を味わいます。プラーナは体とマインドを癒やしてくれるものです。プラーナーヤーマによって体が浄化され、そして活気づけられ、より高い瞑想ができるのです。「プラーナ」は生命力、「アヤーマ」は拡大を意味するので、プラーナーヤーマは生命力の拡大です。内側のプラーナ、言い換えれば高次の生命力を発現させるために、息を緩やかに、そして長くするのです。これによりマインドが緩やかに、そして静かになり、瞑想が容易になるのです。
精神状態は呼吸の速さに対応します。脳波は体内の呼吸の状態に応じて変化します。浅い呼吸はベータ波を生み出し、腹式呼吸はアルファー波を生み出します。マインドの注目があるものから他のものへ移るのは、脳の落ち着きのなさが原因です。アルファー波はリズミカルであり、脳が静かでリラックスし、目覚めた状態にあることを示します。アルファー波は癒しのエネルギーと瞑想を活性化し、強烈な幸福感と関係があります。体とマインドは深い呼吸に自動的に反応します。プラーナーヤーマを通して呼吸をコントロールすることにより、マインドが集中します。プラーナーヤーマによって、集中力、明晰さ、記憶力、創造性が高まることがよくあります。
クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマの技法は、「気づきを鍛練する」プロセスです。プラーナーヤーマには常に気づきが伴います。一方、単なる呼吸の練習はそうではありません。自分が内部で行っていることに十分に注意しなければなりません。注意することによって、気づきに溶け込むことができるのです。注意することによって、意識的な脳(新皮質)が活動しだし、気づきの状態が保たれます。気づきは注意と共に起こります。クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマを毎日二回行うことによって、ヨーガの気づきを養うためにふさわしい基盤が築かれます。瞑想と組み合わせることで、批評的な思考であれ、ハートからの感情であれ、直観であれ、我々の人格に必要なバランスと成熟がもたらされます。プラーナーヤーマを上手に行うこつは、プラーナーヤーマを行う時に完全に専念するということです。
微細体 ナーディ・チャクラ・クンダリニー
微細体について述べずに、ババジのクリヤーヨーガを実践し始めることはできません。我々の肉体はエネルギーの経路であるナーディから構成されており、この経路が我々の体内のプラーナを支えているのです。機能のみが異なる主要なプラーナが五つあります。プラーナ、アパーナ、ヴヤーナ、サマーナ、ウダーナです。体はおよそ七万二千のナーディからできていますが、ここで我々にとって重要なものは三つだけであり、そして純粋に霊的な機能を持ち合わせているのは一つだけです。イダー、ピンガラー、スシュムナーです。すべての人の中でイダーとピンガラーは活動しています。
我々が鼻孔を通して呼吸すると、プラーナがこれらのナーディを通って出たり入ったりします。しかし、生活での様々な活動がスシュムナーなしでは不可能にもかかわらず、ほとんどの人の場合、スシュムナーが活動していません。これら三つのナーディは微細なレベルで脊柱の中に存在しています。スシュムナーは脊髄の中にあり、イダーは左側に、ピンガラーは右側にあります。スシュムナーは脊柱の基底部から頭頂まで伸びています。スシュムナーの展開が解脱への道です。
スシュムナーの基部にクンダリニー・シャクティがあり、これは「我々の潜在的な力と意識」と定義することができます。クンダリニー・シャクティは、口をスシュムナーの方に向けてとぐろを巻いているヘビに譬(たと)えられます。クンダリニーには二つの面があり、ひとつは世俗的な存在として現れている外側の側面であり、我々の生活を支えるために常に幾分か機能しています。母なる自然として、クンダリニー・シャクティは我々すべての感覚や行動のための力です。しかし、我々を高次の意識状態へと導く内側の側面もあり、目覚めさせなければならず、通常は眠った状態にあります。クンダリニー・シャクティが目覚めると、我々の存在のすべてのレベルが変容し、我々の人生をも取り扱うようになります。偉大な創造力が解放されるのです。
人間には、チャクラと呼ばれる心霊エネルギーセンターの主要なものが、脊柱に沿って七つあり、男性では生殖器から、女性では膣(ちつ)から頭頂まで体の軸に沿って存在しています。これらのセンターは肉眼では見えませんが、感じることはでき、目覚めたクンダリニーにいったん貫かれると、それぞれのセンターに関係する明確な精神状態を帯びるようになります。通常、我々は下位の三つのチャクラ、つまりムーラーダーラ、スヴァーディシュターナ、マニプーラで機能しています。これらはエゴ中心的なものであり、生存、性的関心、プライドと意志に関係します。これらはマインド、マインドのパターン、マインドの好みに関係があります。理想的には、これらの下位のチャクラを流れるエネルギーは、霊の高次のエネルギーと我々の持つ最高の能力を現すための強力な基盤となります。肉体の心臓の位置にあり、偉大な霊センターである4番目のチャクラ、アナーハタ・チャクラが開くと、霊妙な経験が現れだし、また内部の浄化も始まります。内なる自己を経験し、無限の存在である自分を感じるようになります。無条件の愛と人間精神の拡大を経験します。波動、つまり愛の感激を味わうことがよくあります。神への愛と他者の必要は自分自身の必要と同様に重要であるという感情と共に、体のすべての毛穴から流れ出てきます。このチャクラが開くと、癒しの能力がもたらされることもあります。のどにあるヴィシュッディは、創造性と真理の座です。このチャクラが開くと、我々の思考に中身がもたらされ、そしてより創造的に、より正しく、より雄弁に表現することができるようになります。第三の目であるアージュニャー・チャクラが開くと、マインドが一点に集中し、深い瞑想状態で思考が静まります。透視や透聴という形で直観を経験することもあります。内界からの芳香や天界の音ナーダに圧倒されることもあります。頭頂のチャクラ、サハスラーラが開くと、直観の流れに完全に繋がります。ここは実在の座であり、あらゆる所に神の存在を感じるようになります。
クンダリニーの浄化力
クンダリニーがサハスラーラまで上昇する時、感覚器官のすべてを通過し、それらを浄化すると共に新たな力を刺激します。感覚器官のチャクラが浄化されていない時は、五感は通常の働きをし、浄化されると、神聖な力を獲得し、肉体上の感覚さえ研ぎ澄まされ、洗練されたものになります。クンダリニーはプラーナ・シャクティと呼ばれることもあります。
プラーナ・シャクティ、つまり宇宙のエネルギーは、肉体の通常の機能を行う時、リタと呼ばれるエネルギーとして用いられる、とアーユルヴェーダに書かれています。リタ、言い換えるとビンドゥは本質的には精液、男性(白)と女性(赤)の性的分泌液であり、体で自然に作り上げられ、肉体的要求で使用されます。エネルギーを増加させ続け、収集し、熱つまりタパスに変換するために、エネルギーを保存するための鍛練、あるいは純化するための鍛練を行っていない限り、通常は、エネルギーが過多になると体外に排出されます。ビンドゥの動きは、呼吸と、プラーナーヤーマに関係のある生命エネルギーの循環と密接な関連があります。ビンドゥ、あるいはリタは、タパス、つまり創造性を持つ熱に変わります。我々が作り出すものはすべてタパスに由来します。タパスを生み出せば生み出すほど、我々はより多くの創造エネルギーを利用することができます。
タパスが体内で形成されると、生命力がとてつもなく増加し、活発さとして現れます。我々はより活発になります。タパスによって、意志の力が活性化されます。浪費することなく、熱の増加を気にかけ、栄養を送り、大事にし、促進すれば、その熱がテージャスに変わります。テージャスは、光、輝きです。テージャスは、顔の光、体の光として示されます。テージャスは、脳に直接影響を与えます。脳が活性化されるのです。テージャスによって脳の力が向上し、記憶力が増すのです。
タパスとテージャスが増加すると、電気に変わります。電気が体内を勢いよく流れると、活力と知性の輝きが生まれます。電気はテージャスをオージャスに変えます。オージャスはエーテルから生じる最初の創造エネルギーです。これはとても純粋なものです。エーテルのエネルギーは、物質次元で最も純粋な創造エネルギーです。人には物を創造する力があります。浄化し続けていくと、オージャスがヴェーリャに変わります。ヴェーリャは霊的な力であり、超意識での恍惚状態と真我実現を促進します。生命力の一形態であるこのヴェーリャは、超意識、言い換えれば真我の輝きなのです。
クリヤーヨーガ・サーダナ
クリヤーヨーガのサーダク(サーダナを実践する者)として、霊的修練に使う時間を徐々に増やしていくのです。霊的修練によって、日々の生活に気づきが確実にもたらされます。アーサナ、プラーナーヤーマ、マントラ、瞑想はそれ自体が目的ではなく、目的のための手段です。クリヤーヨーガの修練を総合的に行えば、最終的にはサマーディ、無呼吸状態での神との合一に至ります。しかし、サマーディに至る前でさえ、修練によって、「人生の些細な事柄」の中にもますます気づきがもたらされるようになります。こうして、経験することのすべてが、「サーダナ」を実践する場になるのです。自分がその瞬間を意識できれば、あらゆる瞬間が、進歩のための機会になるということがわかるようになります。そして、人生を発展させ、完全なものにしようという思いを持って生きるようになるのです。
7.想像
新たな一年が始まります。どんなものになるでしょうか。これまでと同じでしょうか。そうでなければならないということはないでしょう。自分が人生の目的を果たしながら人生を送っていると想像するのです。あなたは今、自分の必要を満たしてくれない人間関係や仕事や場所にはまり込んでしまっているように感じているでしょうか。凝り固まった思考、恐れ、自己不信、否定的な態度を手放しさえすれば、どんなことでも変わり得ます。
「でもどうすればよいのでしょうか」とあなたは尋ねます。この問いによって、我々は自分がこの世に存在している理由について考えます。この問いに対する答えを求めなければ、風に吹かれる葉のようになり、物質文明からなだれ込む欲望に揺さぶられます。我々が見出さなければならないことは、自分の「ダルマ」、つまり人生での使命、義務です。我々の究極のダルマは、神、真理、真我、「自分は何者であるか」ということを悟ることです。『バガヴァッド・ギーター』『ティルマンディラム』『パタンジャリのヨーガスートラ』『ウパニシャッド』などの書物は、こうしたものを実現するために、我々が歩んでいく道を決定する際の手助けになってくれます。しかし、この真我実現のための道において、我々は自分の過去の行い、つまり「カルマ」の結果に遭遇します。カルマは、我々がどれだけ意識できているかに応じて、習慣的な反応をさらに強めることもありますし、あるいは我々が目覚め、我々を通して神を機能させる機会にもなり得ます。日々、新たな状況やでき事がたくさんあり、我々に選択する機会を提供します。癖になっている精神的感情的なパターンで無意識に反応することもできますし、あるいは静かに自己の中心に向かい、耳を澄ましさえすれば手にすることのできるインスピレーションに自分を合わせることもできます。
クリヤーヨーガを実践する中で、我々には日々新たな自己認識の高みに立ち人生に向かい、常に至福の中にいる状態を養う機会があります。毎日我々には、神、真我のハートの中心に深く入り込む機会、実在・意識・至福に深く入り込む機会があります。
自らのハートに意識を向け、我々は何をすべきか?
答えは、「オーケストラの指揮者」である神が奏でる音に耳を澄ますことです。クリヤー・ババジ・ナーガラージの美しい姿を思い浮かべるかもしれません。日々、意識を上昇させ、拡大し、すべてを抱きしめ、いわゆる「この世」での仕事や人間関係、家事、買い物に戻る時には、深い瞑想中に育んだ神聖な空間にしっかりとしがみつくのです。この神聖な空間で、「行為者」という意識を手放し、次のように唱えるのです。「私の意思ではなく、あなたの意思が為されますように」と。この神聖な空間で、イメージとインスピレーションが流れ込んでくるままにし、未来の仕事や難題に対する指針を提供してもらうのです。覚者に意識を合わせ、指導を仰ぎ、耳を澄ますのです。想像力を発達させていくにつれて、インスピレーションが強化され、この世での自分の使命を果たすために必要な手引きと資源が、「必要とするその時に」もたらされます。自らの役割を果たすのです、サットグルが築いているリズムに常に耳を澄ますのです。
8.真我を悟ること、そしてその状態を維持すること
我々は、個人としても全体としても真我実現を成し遂げ、そしてその状態を保つことに日々取り組んでいます。ヨーガの修練中、あるいは自然に、絶対的実在の自明の真理「サット・チット・アーナンダ(実在・意識・至福)」がわかり始める時があります。このような時には、I AM(私は在る)という自ら輝く意識の中心にあるか、またはその意識が前面に出てきており、経験は(肉体、生気体、メンタル体、知性体いずれのレベルにおいてであれ)後ろへ退き、見られる対象となります。真の自己を認識し、経験を幻影だと知る時、一つの状態、つまり神に帰っているのです。疑いは微塵(みじん)も存在しません。まばゆいばかりの真我認識、周りのすべてに自己を見ます。実際に存在する場所と存在したいと願う場所の隔たりは消えます。欲望は去り、マインドは静まります。行動すること、学ぶこと、何かになることはもはやなくなります。至福だけが存在するのです。
またある時には、真の自己に対する認識が後退し、マインドがいつものパターンに帰ってしまいます。不安・欲望・感覚的な経験・様々な感情・思考を自分だと思い込んでしまいます。意識そのものではない、経験の対象を自己と同一視している時、我々は「真我実現を成し遂げたい、神を知りたい」と言いながら、自己を偽っています。大勢の人がイニシエーションを受けますが、しかし、さまよいます。「どうして神を認識できないのか」と。ヨーガの技法の使い方を学びさえすれば、自分の熱望を達成できると思っています。
道具と向上心(どんなにかすかであろうと)がある一方、瞬間瞬間を生きようという意志が欠けています。ヨーガ、真我実現において重要なことは、過去に何をしたか、これから何をしようとしているかということではなく、瞬間瞬間をどう生きているかということなのです。あらゆる行動、日常生活のあらゆる瞬間に気づきをもたらすこともできれば、あるいは散漫、惰性、無意識という古いパターンで人生を送ることもできます。選択するのはあなたなのです。
ヨーガのサーダナ(修練)によって、常に意識を自己の中心に置き、気づきをもたらすことができます。I AM(私は在る)が真の自己だと知り、自分の経験と一体化することも経験に囚われることもなく、自己の経験を移りゆくものとして見ることができます。ヨーガのポーズ、プラーナーヤーマ、瞑想、マントラ、バクティヨーガ、ヤーナヨーガ。目的はすべて同じです。意識を純粋で自由な状態に保つこと、この状態が自然なものになるまで意識を訓練することです。マインドの習慣が妨げとなるため、これには長い年月を要します。失敗は当然起こります。失敗は、成功への足がかりとして受けとめることです。「諦めなければ、いつか必ず目的を達成することができる」と私の師はよく言っていました。
結局のところ、サーダナの目的は、次の問いに対する答えを真に知ることです。「私は何者なのか?」「誰が悩んでいるのか?」「この感情を感じているのは誰か?」「そう反応しているのは誰か?」。光の意識、純粋な存在、思考・感情・経験から離れたI AMという存在に帰ると、答えがわかります。深い睡眠によって、毎晩この純粋な自己に帰ることができます。睡眠中に真の自己に帰りたがらない人がいるでしょうか? これは喜びに包まれた普遍的な時間です。深い睡眠は至福に満ちています。深い瞑想状態や、アーサナのポーズに深く入り込めた時にも同様の状態を経験します。
真我実現を成し遂げ、この状態を保つことは、瞬間瞬間を生きるということです。ぐずぐずしてはいられません。一瞬一瞬をかけがえのないものにしましょう。それがまるで最後の瞬間であるかのように。ありふれたことや些細なことであっても、あらゆるでき事を真の自己に帰る機会、真の自己に気づく機会としましょう。この真我認識を邪魔しようとする古い習慣に気づきましょう。呼吸に注意しましょう。現在に生きていない時には呼吸が教えてくれます。神は離れて存在しているのではありません。あなたが、夢の中でさまよい、見失っているだけです。今に生きることによって、大いなる存在を讃えましょう。宇宙には、たった一つの絶対的実在だけが存在していることを知りましょう。気づきを保ち、至福の中に存在していましょう。
9.瞑想という技法 自分と自分ではないもの
瞑想を実践することは、ますます一般的になってきています。しかし、瞑想は、瞑想の実践を勧める人にさえまだ誤解されている状態です。「私は『瞑想』を実践しているんです」と誰かに言えば、「へえ、マインドを真っ白にしようとしているんですね」と言われるでしょう。もしもこれが瞑想のすべてだとすれば、瞑想は単なる無意識状態であると言われるかもしれません。瞑想の本質と瞑想の効果を誤解して、瞑想を恐れる人が出てくるかもしれません。多くの場合、我々は自分のよく知らないことを恐れます。瞑想のプロセス、瞑想の多大な効果、始め方を幾らかでも理解していただきたいと思い、私はこの文章を書いています。
ここ数十年、なぜ瞑想は一般的になったのか
瞑想が一般的になった理由は幾つかあります。
1.ストレスを処理し、心臓病を好転させ、血圧を下げ、幸福感を高める効果が瞑想にはあると、多くの科学的な研究によって証明されました。この結果、こうした症状に悩む患者に医者が瞑想を勧めたのです。
2.霊性に対する関心の増大。教会に通う多くの人が、例えば教会でただ単に知的な経験や感情的な経験をするだけでは満足しなくなっているのです。霊的な経験も望んでいるのです。宗教とは明確に異なり、霊性では形のないものが強調されます。これはマインドが静まった時に体験できることです。瞑想は、マインドを静める手段の一つです。
3.人生に関する重大な問い、「なぜ善良な人々に不幸なことが起こるのか。なぜ私は苦しむのか。神は存在するのか」という問いへの宗教でのアプローチの仕方に対する不満の増大。人々は、自分自身で考えるようになるにつれて、ドグマ、つまり宗教団体の信念体系に縛られずに、自分自身で物事の真理を見出したいと望むのです。
4.たくさんの書籍、そして瞑想の歴史が長く、瞑想が発達しているアジアから、瞑想の指導者がやって来たおかげで、瞑想がずっと身近なものになったのです。修道院に入らなくても瞑想が学べるわけです。覚者方が手本となり、多くの人々が人生の目標として「真我実現」を求めるようになりました。
瞑想とは何なのか
私は瞑想を「選んだ物体やテーマに関して常に意識を保ち続けること」と定義したいと思います。瞑想によって、我々は本当の自分でいることができるのです。なぜなら純粋意識である人間の高次の性質は、常に瞑想状態にあり、常に気づきを伴っているからです。しかし、人は滅多に高次の性質が持つ視点、魂の視点、観察者の意識の視点と言っても構いませんが、その視点に立たないために、困難が生じます。人には、五感や記憶や感情に刺激され、マインド内に生じる経験に完全に入り込んでしまう癖がついています。あるいは、様々な方向に意識を分散してしまっています。読書をしている時や映画やテレビを見ている時のように、こうした事柄にマインドが入り込んでしまうのは、人間の低次の性質が原因です。瞑想は、何気なく入り込んでしまう事柄を手放し、本当の自分を思い出せるようにマインドを訓練するプロセスです。言い換えれば、瞑想によって、人は自分と繋がることができるのです。
瞑想を教えている流派はすべて、先に述べた瞑想の定義に異論を唱えません。「常に気づきを伴っている状態」になろうとすることが、すべての流派の目標です。流派によって異なることは、物体やテーマです。マインドを訓練して、マインドが通常囚われているものを手放すことができるように用いる物体やテーマです。多くの流派が呼吸を用います。コントロールしようとはせず、ただ呼吸に従います。マントラ、つまり繰り返し唱えると高次の気づきに導いてくれる音の固まりを勧める流派もあります。あるいは曼荼羅(まんだら)(小宇宙内に存在する大宇宙、つまり人間の内に存在する宇宙を表す幾何学図形)に焦点を合わせる流派もあります。こうすることで、マインドを集中させ、あちこちにさまようマインドの傾向を相殺することができるのです。また、愛、真理、美、苦しみ、運命などのような抽象的なテーマに関して思考する流派もあります。
何を目標とするかによって、技法は異なります。多くの流派では、マインドを超越し、内にある深い安らぎと静けさを見出すためにマインドを静めようとします。ババジのクリヤーヨーガの伝統において、瞑想は「マインドを支配するための科学的技法」と定義されます。マインドには多くのレベルと機能があり、また、まだ開発されていない潜在的な能力も持っているので、この定義には様々な目標に対する幅広い行動方針が含まれています。ババジのクリヤーヨーガの瞑想法には、潜在意識に存在する習慣的な傾向を浄化するための技法があります。この習慣的な傾向は、多くの苦しみの源です。人生におけるすべての分野で成功するために必要となる集中力を養うために用いられる技法もあります。また、大いなる洞察や直観に我々を開くと共に、知性や概念を形成する力を養うための技法もあります。さらに、直観、超能力、超意識を養いながら、人生で出遭う経験を自ら創造していけるようになるための技法もあります。こうした理由から、ババジのクリヤーヨーガではたくさんの瞑想法が教えられます。技法の一つ一つが、特別な道具であり、異なる目的のために用いられるのです。
瞑想の障害
瞑想は科学であり、また技術でもあります。正しく行えば、誰にでも同じ結果と利益がもたらされます。しかし、瞑想がもしも科学のみであるとすれば、やり方を理解し、そして瞑想を試みた瞬間に約束された結果がもたらされるでしょう。残念なことに、我々の低次の性質、つまり散漫や怠惰、落ち着きのなさ、倦怠、眠りが瞑想に抵抗するのです。瞑想をするためには、肉体的なものでも精神的なものでも習慣になっている傾向を変える必要があるので、瞑想は技術でもあります。どんな技術でもそうであるように、瞑想においても、変化に抵抗する癖や人間性を克服するために技術を身につけるには、長期間、真面目に練習しなければなりません。癖は、繰り返し抱く思考、言葉、行動によって、築かれます。このような癖に欲望や恐れが関わっている場合には、その欲望や恐れに動かされてしまい、高次の自分からの気づき、魂からの気づき、つまり純粋意識が存在している霊的次元を失ってしまいます。瞑想によって、人は思考や言葉や行動が起こる前でさえも、それらに接触することができるのです。
継続的な気づきを妨げる九つの障害
1.病気。病気とは、肉体的なもの、精神的なものの両方を指します。病気というのは、生活の中のストレスにどのように反応したかの結果です。あなたが病気のとき何が起きますか。不快、痛み、疲労など病気の症状に気を取られて注意が散漫になってしまいます。その症状に取り込まれてしまうのです。私があなたに「あなたは病気ですか」と尋ねれば、「私は病気です」とあなたは答えます。しかし、あなたは病気ではないのです。あなたの体が病気なのです。ですから、病気に取り込まれそうになった時には、自分をよく観察することです。その病気を外から見るのです。もちろん、予防は治療に勝りますから、病気にならないように健康的な生活習慣を持つようにすることが大切です。食事・運動・休息のバランスを取りましょう。同様に、日常生活の中で抱く扱いにくい感情をやり過ごせるようになって、心の病気も避けましょう。心の病気には悩み・恐れ・執着が含まれます。誰しもこういった思考を経験するのですが、健全な心はそういったものを大きくしないでやり過ごすことができます。目の前にある問題に対処するために精神的なエネルギーを取っておきましょう。否定的な思考は手放し、肯定的な思考・自己暗示・アファメーションで置き換えましょう。良くない心の習慣を大きくしてしまうような活動や人物は避けましょう。怒り、悩み、恐れ、不平などが避けるべきものです。否定的な思考に浸りきらなければ、悪い習慣は徐々に弱まっていきます。
2.精神的不活発。気づきを継続するために注がれるエネルギーが足りないと精神的に不活発な状態になってしまいます。真我実現が確立されるまでは、観察者として意識の一部を常に保つための努力が必要です。これにはエネルギーが必要です。働き過ぎや睡眠不足によって疲れ過ぎると、自分の思考・言葉・行動を観察者として見ることができなくなります。 病気を克服する時の手段と同様、自分のエネルギーを高く保つために、健康でバランスの取れた生活習慣を持ち、またエネルギーを奪ってしまうような事柄、例えばアルコール、食べ過ぎ、話し過ぎ、テレビの見過ぎ、働き過ぎなどを避けなければなりません。生活を簡素化し、不必要な活動や責任を手放す必要があるのです。
3.疑念というのは物事を疑うマインドの傾向であり、答えを見つけようという思いがないと、努力を続けることに対して皮肉的になってしまうものです。これは特にあまりにも理性的な人に現れる問題です。満足のいく回答を与えられた時でさえ、疑うこと自体を楽しんでしまうのです。知性が、疑いそして新たな刺激を求めるというゲームから過度の満足感を得てしまうのです。疑念は良い問いかけを為す助けになりますが、多くの場合は答えが得られるまで辛抱強く待たなければなりません。ですから、自分が持っている疑念を明確な質問にして、ノートに書き留め、教師や聖典から、あるいは瞑想中に答えを求めることが大切です。
物事に対する自らの見方を変えないと答えが得られない問いというものがあります。例えば、人は決して神を「知る」ことはできません。また、意識が何であるかということも知ることができません。というのは、「知ること」には知る者と知られる事柄と、そしてその二つの関係の分離が伴うからです。神や意識の存在しない場所があるのでしょうか。神や意識があまねく存在するのなら、自分とは違ったものとして神や意識を知ることは不可能です。しかしながら、見方を変えること、つまり完全に現在に存在し真我の中心と一体になることによって、神に気づき、意識とは何なのかを自覚することはできます。肉体やマインドが苦痛を受けている時に「私」は肉体でもマインドでもないと知り、苦痛がこのことを真に理解するための助けになっているのだと悟ることができるのです。
4.不注意とは、注意の足りないこと、注意が散漫であること、習慣的な注意不足のことです。スピードの速い現代生活において、多くの人は一度にたくさんのことをしなければならないと感じ、そのために注意が欠如してしまいます。一度にたくさんの事柄に意識が向かってしまうのです。あるいは食べたり飲んだりしながらラジオを聞いたりテレビを見たりというように複合的な気晴らしを求めてしまいます。多くのことをすればするほど、五感を通してより多くのことを吸収すればするほど、より幸せになれると思っているのです。しかし、真実は全くの逆です。自分が行っていることと共にその瞬間に存在することによって、自然に喜びが湧(わ)き起こるのです。今という瞬間に存在していない時、人は外部のものが存在していること、あるいはしていないことと、幸せというものを混同してしまいます。一度に一つのことだけに注意を向け、事を為しながら自分を観察できるようになると不注意な習慣を克服することができるのです。
5.怠惰は、習慣の一つで熱意不足や落胆が原因で起こります。本質的には感情の状態であり、意志によって左右することができます。休息や健康的な生活習慣によって改善することができる精神的な不活発は疲労が原因ですが、怠惰は疲労によって引き起こされるわけではありません。やる気をなくしていると感じたら、「この状態をやり過ごせるか」と自分に問いかけたり、聖歌の朗唱のような行動で肯定的な感情の状態を生み出したり、あるいは否定的な感情を相殺する自己暗示を行いましょう。また、修練を規則的に行うことや気持ちを高めてくれる書籍を読んだり、鼓舞したり励ましてくれるような人と会うというような習慣を養い、徐々に怠惰と置き換えていくことによっても、克服することができます。自分が何に時間を使ったかを記録し、テレビの見過ぎ、働きすぎ、運動(エンドルフィンを刺激し、やる気を起こさせてくれる)不足といった活動を取り除いていくのです。
6.対象への耽溺は、欲望を手放すことができず助長する時に起こります。欲望の対象を実際に体験するというよりも、対象について空想することを言います。あの食べ物を食べられなければ、あの飲み物を飲めなければ、あの人と一緒にいられなければ、あの欲望を満たせなければ自分は幸せにはなれないと思ってしまうのです。人間ですから欲望を持つことは不思議ではありません。しかし気づきが生まれるに従って、それらを手放し、性欲・食い意地・空腹感といった思考を抱き続けることを拒否できるようになります。こういった思考に耽(ふけ)ることによって、幸せの真の源、つまり内なる実在・意識・至福を否定してしまうことになります。現代の物質文化において、我々はこういった空想をもたらす情報を絶えず浴びています。この商品を手に入れればあなたは満たされます、と広告は思わせようとします。悲しいことに現実は逆です。肉体感覚に関わる活動をするな、と言っているわけではありません。食べたり、飲んだり、皮膚で感じたり、物を消費したり所有すること自体は何も悪いことではありません。対象への耽溺というのは、そういった経験をしたり、物を所有した時に、どれだけ気分がいいか、どれだけ幸せを感じるか、と空想することです。これは、幸せの源と外部のものとを混同してしまうという根本的な無知からくるマインドの混乱です。ですから、五感を通して何かを楽しむ時には、観察者として思う存分楽しむことです。空想が起きたら、それを手放すのです。その瞬間に体験していることと共に存在するのです。
7.誤った知覚とは、根元的な現実を見ないことです。これは自分が何者であるかに対する根本的な無知が原因です。利己主義のために、我々は「私は在る」という主体と自分が経験する対象物とを混同してしまいます。永遠と非永遠とを混同してしまうのです。五感を通して体験される事柄にマインドは常に乱され、我々の意識は目の前を通るショーに見入ってしまいます。映画館に行って映画に夢中になる人のようなものです。自分が何者であるかを忘れているのです。プロジェクターの光とその光を映し出すスクリーンという常に変わらぬものが見えなくなっているのです。現在に留まること、つまりその一瞬だけを扱うことによって、この誤った知覚を克服することができます。内にも外にも常に存在しているものは容易に知覚することができます。自分が、人生のドラマ、映画に囚われていると感じる時には、深呼吸をし、その時そこで起きていることを観察するのです。誤った知覚という習慣を捨てるために、毎日瞑想の時間を確保し、休暇には日々の喧騒から離れる時間を取ることです。誤った知覚という問題は徐々に小さくなっていくでしょう。
8.忍耐や我慢強さが足りないと、確かな基盤を築くことができません。ヨーガの生徒、特に西洋の生徒はよくインスタントコーヒー、インスタントティー、インスタント真我実現を期待してしまいます。真我実現をもたらすために一生懸命、長期にわたって取り組む準備ができていないのです。難なくすぐに起こるだろうという期待を持ち、自分の中に抵抗が生まれるとすぐに我慢ができなくなってしまいます。たいてい、自分に真我実現をもたらしてくれる人を探して、様々な教師の元を転々とします。自分が持つ悪い習慣に取り組もうとはしません。高みへと到達する人と到達できない人との最も大きな違いは、「忍耐」です。転んでしまったり、自分の思ったとおりにできなかった時には、無能・落胆・いらだちという感情に入り込むのではなく、その失敗を成功への足がかりと考えることです。修練の習慣を養い、徐々に修練に使う時間を増やしていくのです。まずはちょっとした悪い習慣から取り組むことです。自己暗示と無執着でそれを克服すれば、手ごわい習慣を克服する自信が得られます。
9.不安定とは、人生の浮き沈みの中で平静さを保てない時に起こる、精神的・感情的な状態のことです。修練に一貫性がない時にこれは起こります。日々の、移ろいゆくショーの中で自分を見失ってしまうのです。物事がうまくいって大喜びしている時や、物事がうまくいかず失望したり、いらいらしたり、欲求不満になっている時にこの状態が現れます。人の幸せは、失敗ではなく成功、損失ではなく獲得、非難ではなく称賛に負うと考えてしまうのです。しかし、二元性はすべて不安定なものであり、どんなにしがみついても、すべて儚(はかな)いものです。どうして過ぎゆくものに信頼を寄せるのですか。不安定を避けるためには、上に挙げたような二元性の中で平静さを保てるようになることです。どんなカルマが自分に降りかかろうと、内に持つことができる幸福感に気づくことです。リラックスするのです。悩まず、この瞬間に留まり、元気にしているのです。困難なことが起こり、マインドや身体が怒りや欲求不満を帯び、習慣的になっている否定的な反応を起こし始めたら、深呼吸をするのです。「この悪い状態だって過ぎ去っていく」ということを忘れないこと。物事がうまくいっている時でさえ同じだということを忘れないことです。
継続的な気づき(瞑想の終着点)を妨げるこれら九つの障害は、パタンジャリの『ヨーガスートラ』第1章第30節で述べられています。こうした古典を読むことは助けにはなりますが、規則的にそして勤勉に修練を行うことに代わるものはありません。自らの体験に勝るものはありません。ですから、瞑想用にと、これまで推薦してきた事柄を実践し、これまでに経験したことのない、より高い意識を味わいましょう。今すぐ始め、今を完全に生き、一瞬一瞬を実りあるものにしましょう。
どうやって始めるか
「我々は目を開けた状態で夢を見ている」。これは、ヨーガの大家であるシッダたちの言葉です。この言葉は、人間としての存在が抱える根本的なジレンマを言い表しています。我々がマインドの動き、つまり、パタンジャリが『ヨーガスートラ』で述べていることによれば、五感を通じての知覚、思考、空想、記憶、眠りに入り込んでいる時には、我々は「夢を見ている」のです。鋭い指摘を受けたこの症状を改善するためには指導が必要であり、シッダたちは我々を夢の状態から目覚めさせるために様々な技法を開発しました。パタンジャリは、マインドを静めるために十二の瞑想法を示しています。人によって性質は様々なので、ある技法が他の技法よりも効果的なこともあります。したがって、自分にとってどれが一番適しているのかを知るために、幾つかの技法を試してみるのがよいでしょう。
瞑想とは、本当の意味では人が行うことではありません。瞑想は本来の我々自身なのです。瞑想は我々の人生から切り離すことのできないものです。ですから、自分の生活の仕方に、瞑想への取り組みが邪魔されないように、まず準備から始めます。瞑想は今という瞬間に留まることから始まり、このためには必要なことが幾つかあります。現在に留まっている時、人はその瞬間に起きていることに全神経を集中させています。我々は過去の経験によって条件づけられ、過去のことをいつまでも考えたり、未来を憂えたりするので、習慣に操られたマインドを元の状態に戻すためには準備が必要なのです。東洋の伝統的なヨーガのようなものでは、瞑想の正式な訓練には幾つかの段階があります。最も有名なものの一つは、八部門(アシュターンガ)です。
1.ヤマ、つまり五つの制限事項によって、社会上の関係が最適なものとなり、その関係のために内面が乱されることがなくなります。制限事項は次の五つです。①他人を傷つける言葉や行為、そして思考さえも避けること。②事実に即したことだけを話すこと。③他人を霊的な存在として捉え、性の対象として見ないこと。④他人のものを取らないこと。⑤欲張らないこと。
2.ニヤマ、つまり五つの遵守事項。①純粋な愛の思考、言葉、行為。②満足、つまり自分が持っているものに感謝すること。③高次の自己を思い出し、マインドの動きと一体にならないように誤った認識を手放し続けること。④自己探究。聖典を読んだり、瞑想を記録したりするなど。⑤神の顕現物のすべてに対して愛と尊敬を抱き、常に神に意識を向け続けること。
3.アーサナ、つまり安定とリラックス状態をもたらしてくれるヨーガのポーズを実践すること。
4.プラーナーヤーマ、つまりマインドを静め、我々が持つ潜在能力と意識を開発するための特別な呼吸法を実践すること。
5.プラティアーハーラ、感覚器官から意識を引き離し、不必要な活動に意識が分散するのを避けること。
6.ダーラナー、一つの対象物に集中する力を養うこと。
7.ディヤーナ、先に述べた瞑想法であり、対象物が何であれ常に気づきを養うこと。
8.右記のことを行うことによって、瞑想の最終目標であるサマーディに達し、サマーディにおいて、経験の対象物と自分とを異なる存在として見るエゴの視点を超え、真我実現が起こる。
肉体、健康、精神的な癖、社会上の関係など様々なものが、我々の瞑想に影響を与えるということを理解すれば、瞑想から最大限の利益を得、初心者が陥りがちな罠の多くを避けられるでしょう。ですから、様々な種類の単純な瞑想法を学び、試してみると共に、先に述べたアシュターンガ・ヨーガの最初の五部門を実践することが推奨されるのです。
特に、瞑想を始める前に、数種類のポーズと呼吸法を行うことが肉体とマインドにエネルギーを与え、そしてリラックスさせてくれ、瞑想中によく起こる障害である眠りを避ける手助けになるということが、初心者にはわかるでしょう。
瞑想のための姿勢
瞑想を行う時の姿勢で最も良いものは、自分が最も心地よく感じるものです。ですから、いろいろな姿勢を試してみてください。膝が固くて、足を組んで床に座ることが難しいのであれば、背骨が自然なS字を描くようにして椅子に浅く腰掛け、手は膝の上に置くか、あるいは両手を重ねて手のひらを上にして置くのです。腰を開き、膝を強化し、背骨を強く、そして柔軟にしてくれるポーズを行えば、床に座れるようになります。クッションや低い椅子を用いても構いません。様々な座り方がありますので、試してみて、自分が最も心地よい姿勢を見つけるのです。
呼吸
瞑想を行う前に深呼吸を数回行うことは、非常に効果的です。吸う息と吐く息の長さを数え、吐く息が吸う息の二倍の長さになるようにすると有効です。例えば、六秒間、息を吸うとすれば、十二秒の長さで息を吐きます。吸気は交感神経と関係があり、「戦うのか、それとも逃げるのか(闘争かそれとも逃走か)」という反応を司ります。呼気は副交感神経と関係があり、緩和反応(リラックス)を司ります。呼気を際立たせることによって、肉体とマインドをリラックスさせ、瞑想状態に入っていくことができるのです。
初歩的な瞑想法
先に述べたように、瞑想法には様々なものがあり、目的によって異なります。
1.ハムサ
深呼吸を数回行います。息を吸いながら、自分がエネルギーで満たされるのを感じます。息を吐きながら、緊張と疲労が自分の中から出ていくのを感じます。
次に、リラックスして通常の呼吸に戻り、「私」と繰り返します。「私」と次の「私」の間に少し間隔をおきます。「私」と言うたびに、自分が意識しているものに気づきます。おそらく初めは、肉体的な感覚でしょう。次は、思考や感情でしょう。「私」と言うたびに、顕微鏡のレンズが調整され、自分が映し出されていきます。そしてある地点で、感覚と思考と感情のすべてが、テレビ画面の映像のように、スクリーン上に現れては消えていくことに気づきます。そのスクリーンは光の粒子でできていることに気づきます。「私」という言葉を繰り返しながら、深く内面に入っていくにつれて、これらの粒子が動いていることに気づきます。光の粒子があらゆる所に存在しています。自分の中にも、自分の周りにも、さらに自分を通り抜けても動いています。このレベルにおいては、自分がどこで終わり、他のものがどこで始まるのか区別することは困難です。粒子と粒子の間の空間が広がっていきます。
もしも私が今、「あなたは誰ですか」と尋ねたら、何と答えるでしょうか。自分の名前や記憶や気持ちに関して言っても、もう適切ではありません。ここでは、ヨーギーのように、「私はそれである」と言うことができます。私はすべてのものがそこから現れ、そこへ戻っていくあの無限の存在です。私はたくさんの波が表面に現れてくる広大な海のような存在です。今までは、あなたは自分の存在の表面だけで生きてきました。意識の焦点が個々の波、つまり思考、気持ち、感情に合っていました。今やあなたの意識は拡大し、あなたを超え、あなたを支え、あなたを内に含んでいる、無限で永遠なるあの存在の海に気づいています。「私はそれである」とヨーギーは言います。私は生まれたことはありません。本来の私であるそれは、常に存在していました。すべてのものが私の内に存在しています。私はすべてのものの中に存在しています。すべてのものはやって来ては去っていきます。思考も、感覚も、感情も。しかし私は留まっています。私の人生で起こるすべてのでき事やドラマの間中、常に変わりません。この唯一普遍なものに気づくと、その存在の確かさは疑いを差しはさむ余地がなくなります。説明の必要がないのです。
どうしたらこの視点を維持できるのでしょうか。呼吸がこの視点の真理を常にそして自然に思い起こさせてくれます。呼吸が自然に思い出させてくれるのです。吸気ごとに、サンスクリット語で「私は」という意味を表す「ハム」というかすかな音が出ます。呼気の時には、サンスクリット語で「それ」という意味を表す「サ」という音が生じます。吸気に気づくたびに、内で「ハム」と言い、「私は」を思い出します。呼気に気づくたびに、内で「サ」と言い、「それ」を思い出します。呼吸をコントロールしようとする必要はありません。ただ呼吸に従うのです。他の思考が入り込んできたら、追い払おうとする必要はありません。ただ「ハム・サ」に戻るのです。少しずつ呼吸が緩やかになるにつれて、思考が治まってきます。これは実在の主体的な面を少し強調します。つまり「私は」という部分です。逆にすれば、客体の面が少し強調されます。「それ、私は」となります。硬貨の表と裏のような関係です。私はそれ、私は。少なくとも10分間、静かに呼吸に意識を合わせ、吸う息と共に「ハム」、吐く息と共に「サ」を繰り返します。そして、私はそれ、と思い出すのです。
2.ジャパ、マントラの復唱
次のような言葉を声に出して、あるいは内面で繰り返し唱えます。「私は在る」「安らぎ」「すべては神聖な母なる自然」「オーム、オーム、オーム(すべてのものの中に、振動あるいは音として存在している普遍エネルギーの音」「アーメン」「タット・トゥヴァン・アシ(それ私(あなた)は)」。これはジャパ、つまりマントラの復唱です。これによって、すべてはひとつであり、あらゆるものは見かけに過ぎないということを思い出すことができます。これによって、どのような活動をしている時でも第三者の視点に立つことができます。溝を掘っているあなたがいて、掘られている溝があり、しかしそこには第三者、つまり私心なく全くの愛と状況に対する完全な理解とを持ち、すべてを見ている存在もいます。こうして、溝を「私が掘っている」という通常のエゴ的な見方を超えることができ、観察者の視点を養えるようになるのです。
3.トラタク
自分の顔から約五十センチ離れた所にろうそくを立てます。ろうそくの炎がちょうど目の高さにくるようにします。背筋を伸ばして座ります。目を開けて炎を見つめます。目が乾いたらいつでも瞬きをして構いません。まずは五分間から始め、徐々に時間を延ばしていきます。思考は、ただ去来するがままに任せ、力を加える必要はありません。炎と一体になるまで、炎を見つめ続けます。もしも望むなら、マントラを唱えながら行っても構いません。
今まで述べてきた1から3までの正式な瞑想は、目を開けて行うトラタクを除いて、目を閉じて行います。これらはすべて、次に説明する瞑想を日常生活で行うために、我々の状態を整えてくれるものです。
4.観察
あなたという存在は何百も存在し、その一つ一つがあなたの人格の様々な面を表します。幾つか例を挙げれば、怒っているあなた、悲しんでいるあなた、神経質になっているあなた、堂々としたあなた、傷ついたあなた、性欲に囚われたあなた。これらのどれもが過ちを犯す可能性があり、そのために他のあなたは長い間、つけを払うことになるかもしれません。しかし、これらの存在は現れては去っていきます。ところが、これらの背後にはいつでももう一人のあなたが存在しています。観察者と呼ばれている存在です。何も行動はしません。すべてが為されるのを観察しています。何も考えません。思考が現れては去っていくのを見ています。何の感情も抱きません。感情が生じては治まるのを見ています。正式な瞑想を行っている時にこの存在を意識することもできますし、活動している時に意識することもできます。初めは日課を行っている時でしょう。
まずはスピードを落として、数回深呼吸し、観察者の視点を取り、何をしている時にも自分を観察します。初めに静けさを養おうとするでしょう。静けさとは、思考の存在しない状態ではなく、思考と共に存在していることです。意識の本体は、平静なままであり続け、思考や感覚や感情は、空を飛ぶ鳥の群れが空をかき乱さないように、通り過ぎていきます。
自分が歩く様子、食べる様子、物を持ち上げたり、整理する様子を観察します。電話が鳴り、受話器を取って話し始めます。この時、別の「自分」が前面に出てきてしまい、観察者でいることを忘れます。しばらく時間がたってからやっと、観察者であろうとしていたことを思い出します。次は忘れない、と決意し、再び試みます。しかし、様々な「自分」に邪魔され続け、決意を忘れてしまいます。しばらくすると、忘れることがまだ多いけれど、思い出すまでの時間が短くなっているということに気づきます。眠りに入るとアラームが鳴り、また起こしてくれるのです。これは、観察者の意識を養う上で重要な段階です。自動的にこれが起こるようになるのです。
この練習を続けていくと、扱いにくい感情があることに気づくようになります。しかし、観察者の状態であれば、その感情が生じる前にその感情を手放すことができるのです。
様々な古い「自分」と一体になることをやめ、観察者として、より静かに生きるようになるにつれて、鋭い直観によってもたらされる視点から、宇宙の法がどのように機能しているのかがわかるようになります。人生が困難な時でさえ、観察者の視点に留まり続ければ、至福の状態が持続します。分離した視点は、観察者として、ある段階にくるとなくなります。二元論的なこの視点に慣れていましたが、見る者としての自分と、見られるものとしての他のすべてのものを超越してしまうと、この視点も超えられるのです。残るものは、唯一ひとつのものです。沈黙がマインドを支配します。そしてこのマインドの中に、高次の知性から深遠な洞察が降りてくるのです。
辛抱強さ、根気強さ
初心者は、瞑想している時間のほんの一割の時間しか実際には瞑想できないかもしれません。なぜなら他の九割の時間は、マインドがさまよったり、眠ってしまったり、体に邪魔されてしまうからです。しかし、辛抱強さを持てば、瞑想が徐々に継続するようになります。何らかの技術を身につける時は常にそうであるように、自分自身について辛抱強くいなければなりません。瞑想を行うには注意力と技術が必要であり、これらは少しずつ身につきます。毎日同じ時間に、そしてできれば一日に少なくとも二回行えば、上達を速めることが可能です。先に述べましたように、日常生活で気づきを持続させることの妨げになる九つの障害に対処する方法を考えれば、より速く「自分のマインドを支配する」ことができるようにもなるでしょう。
10.満足することによって、至福が得られる
ヨーガの修練と「満足」とはどんな関係があるのでしょうか。ヨーガに関する最初の書物の一つを書いたパタンジャリは、「クリヤーヨーガ」を実践する前に、準備となる修練を幾つか提示しています。これらの修練を、パタンジャリは『ヨーガスートラ』第2章29節で「八つの部門からなるもの」つまり「アシュターンガ・ヨーガ」と言っています。「ヨーガの八つの部門」は次のものです。1.ヤマ(制限事項)、2.ニヤマ(遵守事項)、3.アーサナ(ポーズ)、4.プラーナーヤーマ(呼吸の制御)、5.プラティアーハーラ(感覚器官から意識を引き離すこと)、6.ダーラナー(集中)、7.ディヤーナ(瞑想)、8.サマーディ(認識作用の没入)。
ヤマ(制限事項)は、非暴力、正直、不盗、貞操、不貪です。ニヤマ(遵守事項)は、純粋、満足、苦痛を生じさせるのではなく苦痛を受け入れること、自己探究、神への献身からなります。ヨーガを教えている現代の学校では、ヨーガのポーズだけが強調され、ヤマやニヤマがたいてい無視されてしまっています。ヤマやニヤマが示す道義と関わりたがらないことが原因かもしれませんし、あるいは現代が物質主義的文化であるために、ヤマやニヤマが反体制的なものだという印象を与えてしまうことが原因かもしれません。しかし、文化的な影響で見えなくなっているものを理解しなければ、我々がヨーガを実践しようと努力しても、繰り返し欲求不満に陥ることになるでしょう。
『スートラ』の第2章第42節で「満足」というニヤマを説明し、パタンジャリは「満足によって、至福が得られる」と述べています。満足(サントーシャ)には好きも嫌いもありません。満足は、ただ単純に自分自身である時に生じます。我々の存在の本質は、至福(アーナンダ)です。何も為さず、ただ正しく認識しているだけです、ただ観察しているだけです。
満足とは内にある落ち着きであり、ここには調和、自分自身に対する喜び、内なる愛があり、この状態にある時、困難に出遭っても動揺しないのです。人が満足を感じているかどうかは、満足に対して自分を開いているかどうかによります。ババジのクリヤーヨーガの二段階目のイニシエーションで伝授される「ニッティヤーナンダ・クリヤー」を行うと、自然に満足が生じます。
問題なのは、文化的な条件づけのために、我々は満足することを忘れてしまっているということです。まるで、苦しむことによって、幸せになることができると信じ込まされているようです。
先日、生徒から『金持ち病』という題名のビデオをもらいました。このビデオは『消費社会』によって引き起こされている無気力、肉体上の病気や精神的病気、そして環境が原因で駄目になってしまった人々を取り上げていました。また、「自ら進んで質素な生活を送る」という運動の一部を担っている北米の二十パーセントの人々についても好意的に取り上げていました。
『文化創造者』という著書の中でポール・レイは、北米の5千万人もの人々が「文化創造者」、つまり地球を守ること、豊かな関係を育むこと、平和を発現すること、社会正義を体現すること、誠実さ、自己実現、霊性、自己表現を涵養(かんよう)することを心から気にかけている人間になってきているということを伝えています。
最近、三百二十人のアメリカの仏教指導者たちが北カリフォルニアで一堂に会し、自由市場資本主義、貪欲、競争、他人が持っているものに対するねたみの強いアメリカ文化と、貪欲、ねたみ、物質的な物を求めることを超越しようとすることに重きを置く仏教とを調和させることの難しさについて、何にも増して話し合われました。ダライ・ラマは基本、つまり同情心を養い、怒りと貪欲さを持たないことに立ち帰ることを促しました。参加者の一人が指摘したように、問題はお金そのものにあるのではなく、人の内面と生活で果たすお金の役割にあるのです。
不満は、言うまでもなく満足の反対です。不満もまた、我々の競争心や我々が高い地位を求めること、もっと多くの物を持ち、もっと多くのことを行い、もっと多くのことを知りたいという我々の欲求に見られる現代の物質主義的文化を駆り立てるものです。現代の「自己啓発」セミナーでさえ、ただ参加するだけで深い意味を探らなければ、あまりにも多くの場合、我々に繁栄や体験を約束してこの不満を増長させるのです。
貪欲にならないこと(アパリグラハ)には、物質的なものを所有することについて空想しないこと、それから他人のものを欲しがらないことも含まれます。人は、宝くじに当たったり、金持ちと結婚したり、株で儲(もう)けたりして、突然、金持ちになれば、ずっと幸せでいられる、と思うことが多いのです。これは全く愚かなことです。このような空想に浸ってしまうと、自分の内に常に存在する喜びから離れてしまうだけです。
どうすれば我々は、消費文化によって我々のマインド内に深く植えつけられてしまったこのような傾向を克服し、満足することができるのでしょうか。『スートラ』の第2章第33節でパタンジャリは、解決策を提示してくれています。「否定的な思考に囚われたら、その反対の(つまり肯定的な)ものを培うべきである。これは、プラティパクシャ・バーヴァナンである」と言っています。否定的な思考に耽ったり、正当化するのではなく、パタンジャリは直接的な行動、つまり反対の思考を培うことを示しているのです。例えば、我々がねたみを抱いたら、自分がすでに持っているものに対する感謝や満足の感情を呼び起こすことができるのです。パタンジャリは実践の仕方に関しては詳しく説明していませんが、パタンジャリのようなシッダは、一流の心理学者でもあることを我々は知っています。否定的な思考をする根深い傾向を相殺するためには、アファメーションや自己暗示、自己催眠などのようなことを定期的に、そして熱心に行わなければなりません。コンピューターとは違い、潜在意識は、たとえ有害であったり、苦しみをもたらすものであっても、幼い頃から浴びせられている暗示にしたがって機能し続けます。こうした暗示は、親、教師、友人、マスコミ、文化的な価値観やシンボルからもたらされます。この節でパタンジャリが示している自己暗示やアファメーションのような科学的技法を、教師や関係機関がほとんど重視しない、教えないのは不思議なことです。
霊的な生活を始める場合に、霊的な修練によって、根深い心理的な葛藤が自然に癒やされると思い込む人があまりにも多くいます。心理療法は最初は役に立つかもしれませんが、多くの場合、霊的な広い視点を欠いています。結局、癒すためには、各人が有害な思考や感情を抑圧することなく、それらを上手に相殺しなければならないのです。無執着を実践することは、我々が日常生活で満足を持つ助けになり、パタンジャリが約束しているように、「至福」へと導いてくれます。
11.各人の家がアシュラムである
我々が霊的な生活に目覚めると、絶えずさまよい続けるマインドに直面します。人間が直面する普遍的なこのジレンマでは、意識が、記憶、感覚による認識、睡眠、概念化、誤謬(ごびゅう)のような「ヴリッティ」、つまりマインドの揺らぎの中に入り込んでしまいます。パタンジャリは、『ヨーガスートラ』の第1章第5節から11節でこれを分析しています。またパタンジャリは、マインドのこれらの揺らぎ(見られるもの)と真我(見る者)を明確に区別し、『スートラ』全体を通して真我実現を説明しています。『スートラ』第1章第3節で、「そうして見る者が本来の姿に留まる」と述べ、次の節では、「そうでない場合は、意識の揺らぎとの(自我の)同一化が起こる」と述べ、我々がいかにこの真我実現を忘れやすいかということを指摘しています。真我と非真我、見る者と見られるもの、永遠と非永遠を取り違える根本的な無知(アヴィドゥヤー)をどうしたら我々は克服できるのでしょうか。現在、ヨーガは我々が常に目覚めた状態でいるのに役立っているのでしょうか、それとも我々を眠らせてしまっているのでしょうか?
ヨーガは今日、一大産業になっています。『ヨーガ・ジャーナル』の最近の記事によれば、一千八百万人以上のアメリカ人が何らかの形のヨーガを行い、平均で一年間に十五万円を使うというのです。一年で二兆七千億円を生み出す産業であり、マイクロソフトが一年に生み出すものにわずかに及ばない規模なのです。消費と企業社会のアメリカ、物質主義文化の陰と陽がヨーガを乗っ取ってしまっているのです。
アメリカのヨーガのこの消費に関する要素が妄想を生み出しているのではないでしょうか。消費すればするほど、我々は幸せになる、と教え込む文化・経済システムに我々は突き動かされているので、精神世界の市場で、ヨーガ教室、セミナー、カセット、小道具、書籍、教師、教えといったものを、我々は消費するのです。自分に欠けたものを求めていつも外を見ているのです。例えば、ヨーガ教室に通う人のほとんどが、自宅ではヨーガをやりません。自分に欠けていると思っているものを、他の誰かから得ようとしているのです。物質主義の大神殿であるアメリカのショッピング・モールで急成長している何千というあまりにも多すぎるヨーガ教室が、この妄想をかき立てています。決して誤ってはいけません。ここでは文化の戦いが起こっているのです。商品やサービスが気分や見た目、健康を改善してくれたり、よく言って霊的成長の道を思い出させてくれるかもしれませんが、しかし本来のヨーガの目的、真我実現にはあまり役立っていないのです。
我々が自分を、見られるもの、体験されるものではなく、見る者として認識する真我実現は、洞察というひらめきによってもたらされるかもしれません。しかし、パタンジャリが『スートラ』の第1章第40から51節で述べている真我実現、言い換えるとサマーディ(認識作用の没入)は、自分をマインド、つまり意識内に生じる思考、感覚による経験、記憶といった揺らぎ、つまりヴィリッティと同一化し続ける限り、理解しがたいものです。スートラの第1章第2節でパタンジャリは、「ヨーガとは、意識の(内に生じる)揺らぎと(自己との同一視を)やめることである」と述べ、その揺らぎを分析した後「継続的な修練と無執着によって、(意識の揺らぎとの同一視が)やむ」(第1章第12節)と述べ、特定の方法ではありませんが、一つの解決策を提案しています。
しかし、期間はどれくらいかかるのでしょうか。我々は条件づけられているために、より速く、より簡単な道を求めます。そしてそれのためなら喜んでお金を使います。しかし、「サマーディに到達するまでの期間は、修練が熱心なものか、中程度のものか、弱いものかによる」(1章22節)とパタンジャリは述べ、ヨーガという領域で唯一価値をなすものは誠実さである、と言っています。
弱い修練とは、むらがあり、散発的で、疑念に満ち、浮き沈みがあり、気が散っているもののことです。中程度のものとは、熱心で献身的な期間と、真我を忘れ否定的な思考や習慣に落ちてしまう期間が交互にあるもののことです。熱心なものとは、真我を常に意識するという決意と、成功と失敗、喜びと苦痛の中で平静を保つという決意に特徴づけられ、他者に対する愛、信頼、忍耐、同情を育んでいくもののことです。物事や状況の影響がいかなるものであろうと、目の前で繰り広げられる幻想がいかに大きくても、神性を見続けるのです。
我々はよくマインドが次のような言い訳をするのを耳にします。「ヨーガを行う時間がない、仕事に行かなければならない」「修練する時間がもっとあればなぁ」と。また、もっと理想的な時間や場所を、マインドが求めることもあります。「退職したら、インドに行って、アシュラムで暮らそう」「来年、山中にあるあのアシュラムで行われるリトリートに参加するつもりだ」というように。もちろん、これはマインドが習慣的に行う反応であり、外部に何かを求め、好き嫌い、成功失敗、損得といった二元性に入り込んでいるのです。我々がヨーガを消費するもの、どこか外で消費するものと考えている限り、マインドの揺らぎを強めるだけなのです。
あなたはマインドではありません。あなたはマインドを持ち合わせているだけです。あなたは、実在、意識、至福、つまりサッチダナンダなのです。あらゆる瞬間この状態でいるために、あなたは意識に関する勝負をしなければなりません。つまり、常に真我を認識し続けるという勝負です。ババジのクリヤーヨーガでは、あらゆる瞬間、存在のすべてのレベルに気づきをもたらすため、多くの技法(クリヤー)が教えられます。肉体に対してはアーサナ、生気体はプラーナーヤーマ、メンタル体はディヤーナ(瞑想)、知性体はマントラ、霊体はバクティヨーガです。これによって総合的な発展が起こり、究極的には霊体・上昇方向だけでなく、すべてのレベルにおける完成体、言い換えればシッディがもたらされます。
いつ、そしてどのようにすればこれを達成することができるのでしょうか。これは、そうしようと思い出すたびに起こるのです。結局あなた次第なのです。ヨーガの修練、つまりサーダナはすべて次の言葉に要約されます。「真の自己を思い出すためにすることのすべて、自己ではないものを手放すためにすることのすべて」と。おそらく、あなたは今この瞬間、家でこの文章を読んでいることでしょう。文章を読みながら、意識の一部を観察者として引き離し、マインドがこの文章を読んでいるのを観察することができるでしょうか。意識を二つに分け、一方は見たり、聞いたり、行動したり、考えたり、感じたりすることに浸り、もう一方では行われているすべてのことにただ気づいているだけの状態を保てるでしょうか。これができれば、あらゆる瞬間に至福を見出すことができます。気づきがある時にはいつでも、この至福を手にすることができます。この「意識の勝負」だけが、唯一価値のある勝負なのです。自分が勝負をしているのだと思い出すたびに、あなたが勝ち、観察者であることを忘れるたびに、あなたは苦しみ、負けるのです。あなたのカルマがあなたのもとに、腐ったトマトではなくバラを運んできたとしても、目の前のドラマに浸りきっていては、マインドがすぐに「この良い状態はいつ終わってしまうのだろうか」と悩み始め、そして苦しむのです。
ですから、自分の家を常にサーダナを行う練習場とするのです。家であなたは何をしますか。食べる、寝る、顔を洗う、リラックスする、遊ぶ、家事をする。これらすべてを意識の場に持ち込むのです。つまり、ババジのクリヤーヨーガで伝授されたように気づきをもたらすための機会とするのです。次に幾つか例を挙げておきます。
1.食事の時:食事の準備の時から、食卓の時間を神聖なものにしましょう。聖歌、チャント、あるいはマントラを唱え、食材を切り、調理し、給仕しながら観察者としての姿勢を養いましょう。食卓につき、料理に対する祈りやマントラを唱えます。「アーム、ヒリーム、クラーム、サワハー、チトリャ、チトラ、グプトラヤ、ヤマルピィ、ドリャー、オーム、タット、サット、オーム、クリヤー、ババジ、ナマ、アウム」。観察者の姿勢を意識しながらよく噛(か)みます。食器を洗ったり、ごみを出す時でさえ、真我認識を養い続けます。
2.家事、請求書の支払い:「清潔さは敬虔(けいけん)さの次に位置する」という格言を適用しましょう。神様の訪問をいつも待っているように、家を清潔に保ちましょう。整って輝いている清潔な空間をつくると内面がより平静になるでしょう。家を清潔に保つための仕事をする時も観察者の姿勢を養いましょう。自分の収入に合わせて支出の計画を立て、期日どおりに支払いを済ませることを身につけると、多くのストレスが避けられ、マインドが揺らぐのを抑えられます。
3.運動、入浴、着替え:毎日、アーサナを行う時、入浴する時、着替えをする時、マインドを内に向けるように訓練しましょう。意識の一部を感覚やマインドの動きから引き離し、一度に一つのことを行います。
4.子供との遊び:子供は、自然さ、笑い、今に生きることの取り戻し方を教えてくれます。あなたの好きなことを子供と共にする機会を見つけ、子供に自分の考えを述べさせましょう。子供にだけでなく、自分のマインドの反応やおしゃべりにも耳を傾けましょう。行為者ではなく、観察者でいましょう。
5.友との分かち合い:霊に形はなく、真に重要なことはより多くの時間、真の自分でいることである、ということを思い出し、気の合う人をサットサンガ(真理の分かち合い)に招待しましょう。サットサンガでは、誰かが理解したことや悟ったことの最良の部分を分かち合ったり、あるいは歌、チャント、友情、瞑想、アーサナ、食事、愛の表現や行動を分かち合うこともあるでしょう。
6.ヨーガ・ニドラを練習し、徐々に睡眠に置き換えましょう。まずは疲れていない時に練習しましょう。そうすれば眠ってしまう危険を避けることができます。肉体から意識を引き離さずに、真我認識を保ったままで肉体を休められるようになりましょう。
活動のさなかにありながら自己認識を保つ術を身につけることによって、無常の喜び、つまり至福を味わうことができます。至福(アーナンダ)は、外の状況が好ましいとか好ましくないとか、欲しいものを手にしたとか、欲しくないものを手にしたとか、そんなこととは関係がありません。自分がこの瞬間に存在し、その瞬間に起きていることを意識できているかどうかによるのです。
もし家庭で気づきを維持できるようになったら、次はどんな場面でも意識できるようになりましょう。人生の浮き沈み、苦痛や喜びの瞬間、幸不幸にかかわらず、常に平静さを保つ訓練をすることによって、徐々にあなたは霊的な物質主義の消費者ではなく、ヨーギーになっていきます。真我を実現した状態のままでいることになります。精神世界の市場はあなたという顧客を失ってしまいますが、世界は計り知れないほどあなたの悟りから恩恵を受けるでしょう。我々にはアシュラムがもっと必要です。アシュラムはヨーギーのすみかと定義することができます。ですから、ヨーギーでありなさい。そうすれば自動的にあなたの家がアシュラムになります。
12.サットサンガ
ババジのクリヤーヨーガのイニシエーションを受けた後、自分は何をしたらよいのか、次に何を学んだらよいのかと思う人がたくさんいます。「修練」が第1であり、そして「修練、修練、修練」なのです。しかしながら、深く染みついてしまった癖である怠惰や散漫に対抗するには努力が必要なので、疲れてしまったり、クリヤーヨーガの道に対する興味や熱意が薄れていくのを感じるかもしれません。人間のマインドはたいてい非常に不安定であり、マインドは多くの場合、刺激、つまり何か新しいことを必要とします。解決策の一つは、「サットサンガ」つまりヨーガを実践している仲間との「真理の分かち合い」です。マインドは、「なぜ自分と同じような人々との会合に行かなければならないのか」という疑問を持ち、抵抗するかもしれません。これに対する回答は、真理を求める者たちが集まる時に生じる独特の作用にあります。つまり、イエス・キリストが「2名、あるいは3名の者たちが私の名の下に会する時、私もそこにいる」と言ったことです。
キリスト教徒たちは、ただ彼らの信念に基づいてこの言葉を受け入れます。もし、我々がそれを分析し、試してみようとするならば、結果は、科学的な実験と同じように反復可能なものです。まず、イエスとイエスの名を特定します。我々はしばしばイエスその人、つまりヨセフの息子(Jesus bin Joseph)のイエスと、イエスが到達した悟りの状態、つまり「キリスト意識」「神の息子」の状態を混同します。これはイエスに特有の状態ではありません。イエスは「神の息子でありなさい、そして天の父が完全であるように、あなた自身も完全でありなさい」と言いました。また「私が為したこれらの奇跡よりもさらに偉大なものを、あなた方は為すであろう」と言いました。ですから、人々が彼の名の下に集うように、イエスが人々を促した時、イエスはキリスト意識、つまり我々が既に教えられていて、思い出すことだけが必要なあの気づきについて語っていたのです。これこそ、インドでいう「サットサンガ」の真の目的なのです。
サットサンガは、我々が聖者のいる所にいる時、出現します。しかし、我々が数名で自分自身の高次の真理に集中する時にも出現します。定義づけや言葉を超えたこの真理への焦点の合わせ方は様々です。瞑想もあるでしょうし、チャンティングをしたり、インスピレーションを与えてくれるものを読んだり、質疑応答や、神に捧げる何らかの活動でもよいでしょう。しばらくの間、日々の生活のことを忘れると、我々の真我が太陽(神の息子)のように輝くのです。インスピレーションや喜び、安らぎが流れ出します。自分自身の中にも他者の中にも神性が見えます。これは、頭での経験ではなく、我々のハートが求めていること、つまり永遠なる時、無限なる存在なのです。
例えば、我々が神の名を唱え、自分のことを忘れると、何が起こるでしょうか。利己主義に囚われた小我は、時の存在しない領域へと溶けていきます。サットサンガの質疑応答の時に、何の準備もしていない状態で、自分の中心に向かい、高次のインスピレーションに自分を開くと、エゴは退き、インスピレーションが流れ出します。我々は力を与えられ、オーロビンドが「サイキック」と言ったもの、つまり我々のマインドと神とを橋渡ししてくれる意識を通して、真理が語りだすのです。
我々が、経典や聖典、インスピレーションを与えてくれる書物に書かれている真理の言葉に意識を合わせると、我々は、低次の感覚や欲望に波長が合わさったマインドの習慣的な視点を超越します。書物の著者を通して語った高次の意識と調和するようになるのです。
サットサンガの概要は次のようなものです。
1.最初に「オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウム」のようなマントラを唱える
2.ひとりひとり簡単な自己紹介
3.聖典やインスピレーションを与えてくれる書物を読む
4.チャンティングと聖歌を交互に行う
5.「オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウム」を、ひとりひとりが順番にリーダーになりながら唱える。リーダーは最低16回は唱える
6.クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマや瞑想
7.質疑応答
8.シャンティ・マントラを唱える
9.くつろいで食事
時間の関係や、必要や興味に応じて、これらに他のものを加えたり、あるいは省いても構いません。例えば、十八種類のポーズのすべてを加えたり、あるいは一部を加えても構いません。週末ちょっと遠出したり、自然の中でキャンプしながらサットサンガを行うことも可能です。長期の休暇が取れる時には特別なサットサンガを催すのもよいでしょう。
すべての読者が電話に手を伸ばし、ババジのクリヤーヨーガを実践している仲間に電話をし、自宅での「サットサンガ」に招待しますように。もしも幸運にもサットサンガが定期的に開催されている地域に住んでいるのならば、責任者に電話してみましょう。誰が責任者なのかわからないのであれば、ホームページ www.babajikriyayoga.net をご覧ください。あるいはアシュラムに問い合わせていただいても結構です。インターナショナル・サットサンガにご興味がおありなら、年に一度、カナダのケベック、ドイツ、フランス、ブラジルで開催されていますので、ご参加ください。
たとえ、他の実践者と交流する必要を感じていないとしても、サットサンガに参加することを、しかも定期的に参加することをお勧めします。道は起伏に富んでいます。サットサンガに参加して初めて、自分がどれだけ低い所まで下がってしまっているのかということに気づくこともあります。逆に、あなたの存在が、苦しんでいる人たちを鼓舞することもあります。真の霊性の本質は拡大であり、愛の力を通して他人を包含します。あなたの愛と光がサットサンガで輝きますように。
13.聖なる空間
つい最近、ケベック・アシュラムのヴィジョンを教えてください、と言われました。この質問に対する回答はこうです。アシュラムとは何でしょうか。それはヨーギーの家のことです。学校でもありませんし、施設でもありませんし、寺院でもありません。なぜならヨーギーはあらゆる所に神の存在を見るため、神を崇拝するための特別な建物を必要とはしないからです。
長年、私は同じ考えを持った魂からなるコミュニティを形成することを考えてきました。クリヤーヨーガの実践者が共に暮らす居住型のものになるのだろうと思っていました。そのための設備を建設していますので、これはいつか現実になるでしょう。しかし、大師は、クリヤーヨーガのコミュニティが多くの国々に現れるように、常に物理的な形でというわけではなく、霊的に、知的に、精神で、感情の面で、(インターネットによって)繋がれるように手配していたようなのです。
ケベック・アシュラムは、1992年以来、静修の場として非常によく機能し、イニシエーションや静修のために数千人の人々が今までにやって来ました。また、アシュラムとしても機能し、長期間クリヤーヨーガの修練に励むためやカルマヨーガを行うために生徒たちがやって来ます。これからもそうあり続けるでしょう。誰もが自分の真我に意識を合わせることができる神聖な場所としてケベック・アシュラムを維持することが、私の優先事項です。今では、ヨーガの膨大な修練と体験による聖なる波動で包まれています。このような神聖な場所では、誰もが安らぎや喜び、そして神の臨在さえをも比較的容易に感じることができます。
1989年以前に私は、ヨーギー・ラマイアと共に二十三のヨーガセンターとアシュラムを設立し、そして維持することに関わってきました。ですから、こうした施設を維持することがどれだけ大変なことかということを知っています。何といっても、我々は神の存在に対する無知が蔓延(はびこ)る物理的な世界にいるのです。人々はやって来ては去っていきます。彼らは去っていきます。自分の期待が満たされない時、エゴが脅かされた時、自分にどれだけの仕事が求められているかがわかった時、あるいは自分の優先事項が変わった時に去っていきます。
他者とのサットサンガに投資することは、アシュラムを建てるためのレンガやモルタルに投資することよりも重要だと私は思います。アシュラムやクリヤーヨーガを実践する者たちのコミュニティに対する私のヴィジョンは、ネットワークが徐々に花開き、神を悟ったヨーギーの集団へとなり、そして自分たちの家がいわゆるアシュラムになることです。
アシュラムはまず神聖な場所から始まります。ですから家全体が神聖な場所でなくとも少なくとも1部屋はヨーガの実践のために取っておくことです。実在に対する愛の意識を持たずに為されるような事柄はその部屋には持ち込まないことです。その空間を、簡素で、機能的で、美しく保つことです。自分や他者を鼓舞してくれるような絵や壁掛けを張りましょう。ごちゃごちゃした不必要なものはのけましょう。空間をこぎれいにし、ババジがやって来られるようにしましょう。お香やランプ、ろうそくを用いましょう。できる限り多く神の名を唱えましょう。早朝と晩にサーダナのための時間を取りましょう。一人でもあるいは誰かと一緒でも構いません。規則的に二十四時間の沈黙や断食、サーダナのために時間を取りましょう。クリヤーヨーガの修練を行うために、定期的にその空間へ他者を招待しましょう。内面を高めてくれるような本を読み、マインドを散漫にするだけのものは避けましょう。
読者のみなさんがヨーギーになりますように。神聖な空間が二十一世紀には全世界を圧倒しますように。これを成し遂げるために必要なもののすべてをみなさんは自分の手の中に持っています。サーダナに打ち込みさえすれば、自分の家が神聖な空間となり、磁力、癒し、霊的な波動で満たされます。こうして神聖な空間を見つけるためには、ただ自分の家に帰りさえすればよくなるのです。
パート3
人生をヨーガにする
1.平静へ 静かに活動的で、活動的で静かである
我々の生活は、予測できないでき事によって、乱されることがよくあります。また我々のマインドもさらに厄介な思考や欲望、恐れに侵されることがよくあります。これらのものが連鎖反応を引き起こします。この連鎖反応には、感情、言葉、生理的な反応、そしてさらに厄介な思考が関係します。我々は、こうした妨害に直面し、自分ではどうしようもないと感じたり、さらには感情や思考の嵐が静まった時に、自分の弱さを悔やんだり、罪悪感を抱いたりしがちです。
何が起きているのでしょうか。ヨーガは、我々が人間の性質を支配できるようになり、乱れを引き起こす反応にさらわれないために、どのように我々を援助してくれるのでしょうか。
パタンジャリは、『ヨーガスートラ』の最初のほう、第1章第16節でこの問題を取り上げています。「真我実現により(生じる)(性質の)構成要素からの解放は、至高のものである」。性質の構成要素とは、ヨーガの基盤になっているサーンキヤ哲学で言うグナのことであり、それらはラジャス(活動性)、タマス(不活発性)、サットヴァ(安定性)です。ほとんどの時間、我々はラジャスかタマスに動かされます。例えば、落ち着かなかったり、どこかに行く必要や何かに注意を向ける必要を感じる時には、我々の中で機能しているのは遍(あまね)く存在するラジャスの力です。我々が疲れを感じたり、マインドが空想したり、混乱している時には、遍く存在するタマスの力に支配されています。しかし、我々は利己的なので、自分の落ち着きのない状態や疲れを単なる個人的な問題と見なし、喫煙、おしゃべり、運動、飲食などで払いのけようとします。これらは短時間の気休め的な効果はありますが、これらの普遍的な力から本当に我々を解放してはくれません。
パタンジャリのような賢者は、人間の持つこの普遍的なジレンマを認識し、第3の普遍的な力であるサットヴァを強化するための手段としてヨーガの技法を開発しました。我々は、落ち着いていて、安らいで、満足し、インスピレーションが湧いている時には、いつでもこの力を感じることができます。サットヴァと共に聡明感がもたらされます。「静かに活動的で、活動的で静かである」状態を経験します。アーサナ、プラーナーヤーマ、ディヤーナ、マントラ、バクティヨーガを行うことによって、サットヴァが増し、タマスとラジャスの影響が軽減されます。その結果、内面の揺らぎ、つまりヴリッティが静まり始め、かつては喜びや苦痛の源であった欲望の対象物から距離を取るようになります。記憶の影響下にある限り、空想が生じます。サンスカーラ、つまり習慣的な傾向のために、過去と同じようにタマスやラジャスの力に反応してしまいます。ですから、離れるためには努力が必要なのです。
パタンジャリのように、「グナやサンスカーラの影響を克服するためには努力が必要である」と認識した古典ヨーガの支持者たちと、「唯一の実在は真我であるから真我を悟るために何かを『する』必要はない、ただ『在り』さえすればいいのだ」と主張するアドヴァイタ・ヴェーダンタの支持者たちとの間で論争があります。「不二一元論」の哲学であるアドヴァイタ・ヴェーダンタは、tat tvam asi つまり「私はそれである」と言い、世の中は幻である、と主張します。それゆえ、ヨーガを実践することは不必要であるだけでなく、邪魔でさえあるのです。グナは見かけだけのものであるから、その影響を相殺するためにしなければならないことは何もない、ただ真我で在りさえすればいいのだ、とヴェーダンタの支持者は言います。古典ヨーガは、ヴェーダンタと、真我実現と変容に対しての実際的なアプローチであるサーンキヤという二つの哲学から発展しました。
どちらの哲学が正しいのでしょうか。答えはあなたの考え方次第だと私は思います。落ち着いていて、バランスが取れていて、今に存在し、気づきがある時には、何もする必要がありません。言い換えれば、真我を悟るために努力する必要はありません。この時、サットヴァが優勢になっています。ただそこに在りさえすればいいのです。しかし、たいていの場合、我々はこうした状態にはいません。我々がストレスを抱え、心が乱れ、落ち着きがなく、疑いや不安や疲労でいっぱいである時には、真我を実現した状態にいつも変わらず留まっていられるまで、タマスとラジャスの影響を相殺するために努力をする必要があるのです。真我を実現した状態に常に留まると、喜びと安らぎによってただ満たされ、自然に真我と非真我との区別がつき、潜在意識から生じる空想にさえ関わりたいとは思わなくなります。欲望にはもはや影響力がありません。真我を実現した魂にとって、無執着と欲望を持たない状態は、コントロールするようなものではなく、すべての状況に浸透し、常に喜びに満ちている真我に対する自然で間断なき気づきによって生じるのです。真我を実現した魂にとって、最高の無執着は努力を必要とはしないのです。
この平静な状態において、人は様々な欲望と自分とを同一視することはありません。この状態を保つ方法は何でしょうか。それは、無執着、満足、忍耐、恐れを持たないこと、快活さ、どのような状況にも適応する能力を養うことによって為されます。もしもある状況でこれを感じることができないのなら、「なぜ」と自分に問いかけてみるのです。この問いに正直に答えることによってのみ、真我実現を妨げているものから、永遠に、そして難なく解放されるのです。
2.世の中が今必要としているものは、愛と思いやりである
苦しんでいる世の中
この一年のでき事、つまりイラクでの戦争、スーダンでの大量虐殺、イラクの刑務所やグアンタナモ・ベイでのアメリカ人による囚人虐待、ハリケーン、地震、そして津波は、他者に無限の苦しみを与えただけではなく、非常に深いレベルで我々ひとりひとりに影響を及ぼしています。シッダであるスワミ・ラーマリンガは、我々に偉大な真理、我々が理解しなければならない真理、つまりすべての魂はそっくりであり、みな平等であり、互いに繋がっているということを伝えています。兄妹のひとりが苦しんでいるのを見たり、聞いたり、知ったりすると、その人もまた苦しみます。なぜなら二人の間には肉体的な繋がりが存在しているからです。我々は誰でもこの真理を経験しています。
世界中に存在する問題の中にある問題は、どうすれば我々みなが平和で幸せな生活を送れるかということです。毎年持ち上がる問題は、「国が異なり、宗教が異なり、言語が異なり、文化が異なる我々が、どうすれば幸せに協調しながら生きることができるか」ということです。今日、政治家たちは、「文明の衝突」あるいは「文化の衝突」によって必然的に戦争がもたらされるのかどうか議論します。この問題に取り組んでいるすべての人とすべての国に与えられるような回答はあるのでしょうか。おそらく、神のみが知っているのでしょう。
世の中のすべてと共に調和し、害を与えずに生活するためには、我々は個人として、徳、人格、人間の持つ通常の能力を発展させなければならない、とシッダは言うでしょう。ババジは、自分の人格を発展させ、人格を普遍の愛と思いやりに根づかせることによって、取り組み始めることができる、と言います。ババジは枠組みを提供してくれています。「まず人格を形成することに焦点を合わせる。次に献身を養うこと。その次に神の知識を獲得することに焦点を合わせる。それから奉仕のサーダナ。つまりバクティと、ヤーナ(叡智(えいち))と自己探究が相互に浸透し合うまで交互に行うのです。なぜなら、我々のすべてが到達できるレベルがあり、そこでは神の至高の愛を経験し、人格、献身、行動のすべてが完全に神の意思と調和し、表されるものは常に愛と思いやりから出てくるから」
愛という浄化力
この愛とは何なのでしょうか、そしてどうすれば我々は愛の道具になれるのでしょうか。ババジは「愛とは引きつけられること、一緒にいることに喜びを感じること、あるいは願うこと、あるいは誰かや何かのために犠牲になる覚悟ができていること以上のものである」と言います。愛とはあらゆる徳の源であり、一体への熱望の源です。愛は、限界を持たず、神秘的であり、奇跡的です。愛は、力であり、勇気であり、復活と再生の万能薬です。愛は、謙虚であり、忍耐であり、受容であり、我慢強さです。愛は、拡大と変容の力をもたらします。我々はみな何らかの形で愛を知っているので、我々が為さなければならないことは、愛が外へ現れたものを浄化し、すべてのものとすべての瞬間に浸透している真の愛を実現するために、執着と感情を取り除くことです。愛という徳の中には力があります。我々に高い視点を与え、この世に存在している霊を見ることを可能にしてくれる力があるのです。
神の愛が一回注がれるだけでも人の人生の性質が変わり得る、とシュリ・オーロビンドは言います。魂の間に存在する霊的な関係を悟って初めて、この愛が生じます。この「愛」によって神のエネルギー、つまりシャクティが目覚め、我々の行動に叡智が加わります。愛は、意識に本質的に備わっているものであり、我々が霊的な浄化を経るにつれて、つまり我々が無知、利己主義、執着、反感を手放した時、現れ出てきます。我々が真理と叡智を抱きながら、世の中の活動に関わると、愛が広がります。すべてを支配し、地上のものすべての上にいる存在として神を愛すことはそれほど難しくはありません。難しくもあり、そして必要でもあることは、すべてのもの、すべての人の中に現れている神を愛すことです。
ババジは「思いやりとは、魂が安らいでいる時の、魂の内面の自然な状態である」と言います。我々の内面の純粋な状態は、強力な力であり、安らぎの波動は世の中全体に利益をもたらすことができます。愛と同じように思いやりもハートの性質であり、魂の美徳です。思いやりは、我々のハートが神との繋がり、他者との繋がりに対して開放されていくにつれて育ちます。ですから、どうして宗教心の篤い人々が憎しみを抱いたりするのでしょうか。シッダは、「常に自分を観察すること、つまり愛と思いやりという徳を育みながら内省と無執着のサーダナを常に行うことが、すべての憎しみを徐々に取り除くためには必要である」と言います。ですから、宗教心の篤(あつ)い人たちはどうして常に他者に対して思いやり深くいないのでしょうか。通常、人間は自分自身の欠乏感に意識が向かっているので、他者に対して思いやりを抱く余裕がありません。強力な霊的鍛練によってのみ、平静と思いやりを育むために必要な内面の状態がもたらされ、平静と思いやりを育むことによって、他者を除外するのではなく、他者を包含するまで愛が拡大するのです。シュリ・オーロビンド・アシュラムのマザーは、「思いやりとは、値する値しないにかかわらず、すべてのものの苦しみを癒やすことを求めるものです」と言います。
他者を自分だと思い、自分の世界を広げて他の人全員を抱きしめることによって、真の思いやりが養われます。平静を養うことによってのみ、人はすべての人を真に抱きしめることができるのです。なぜなら、真に平静なマインドだけが、穏やかであり、人間がさらされている恐れや悲しみ、不安、憎しみ、罪悪感を持たないからです。マインドが平静であると、人は、他の人すべてと共に愛情に溢れ、思いやり深く生きていくために必要なだけの勇気を持つことができます。自由、愛、思いやりは拡大し、他者の関心事を受け入れるようになります。他者の見方を理解し、最終的には他者を兄妹と捉え、自分のやり方で他者に奉仕するようになるのです。
平静によってどのように浄化が起こるのか
感情に左右されない練習をすることによって、思いやりが徐々に生じます。初めは、思考において、次は日常生活で接するすべてのものに対して、その次は自分の暮らす社会に存在するすべてのものに対して、そして最後には世界に存在するすべてのものに対して。ハートからますます多くの愛が流れ出し、思いやりの根本にある、すべてのものを変容させる巨大な力に開かれていくのです。なぜなら、思いやりは神の力であり、特定の宗教の力ではなく、神の徳だからです。
どうすれば平静を養うことができるのか
ほんの少しの不安、悲しみ、怒り、嫉妬でさえ、つまりマインド内のどんな乱れも拒絶することです。どんなに妥当、正当だと思われようと、乱れた思考に対していかなる言い訳も正当化も認めないこと。内面が乱れている時には、プラーナが乱れているのだということを忘れないこと。乱れたプラーナから自分を切り離し、自分の高次の性質の中心に留まるように努めること。恐れ、欲望、反感、執着に囚われないこと。乱れを生じさせるのであれば、「ハート」から起こる感情をも拒絶すること。
シュリ・オーロビンドは「内面の乱れが自分の意思や知性から生じているのであれば、この乱れをコントロールすることはさらに難しい」と言います。自分の意思と知性を、平静という目標に意識的に調和させるのです。
アーサナ、バンダ、プラーナーヤーマ、マントラ、瞑想を含めて我々のヨーガのサーダナには、すべて浄化作用があり、平静を養う助けになりますが、真の平静を養うには「私、私のもの」というエゴの感覚を超えなければなりません。平静であるためには、行為者という感覚を超えなければなりません。こうして初めて、どのような状況に自分がいても、静かなハートで満たされた気づきに留まることができるようになるのです。
3.判断、他者も自分も傷つけない方法
1970年代に『私もOK、あなたもOK』という本がベストセラーになりました。この本は、それ以後の多くの本と同じように、人間関係についてと人間関係を最大限に活かす方法について書かれたものでした。この本の題名は我々のほとんどがいつも無意識にしてしまうこと、つまり他人を判断するということを表しています。不幸にも、我々の判断のほとんどは、「OK」というものではなく、むしろ他者も自分も傷つけてしまう見解を表すものです。その結果、我々の人間関係は分離や争いの源になってしまいます。過去数十年、心理学の多くの部分は、争いを処理し、我々の個性がもっと社会的に受け入れられるようにしながら、我々の社会的な関係を改善することに注目してきました。しかしながら、社会関係における判断の役割は一般には理解されていません。
共感と反感
心理学の研究によって、ほとんどの人は数秒のうちに、他人に対するかなり正確な印象を形成するということが明らかになりました。まるで人間が他人を素早くスキャンして、直観的にと言ってもよいほど多くの妥当な情報を取り入れるように。しかし、これらの印象は、我々自身が持つ傾向や感情にたいていの場合影響を受けている反応を引き起こします。そしてこの反応によって判断が生じます。例えば、面接を受ける人に関する最近の調査により、面接官に共感した志願者が、たとえ受け答えや資格が十分でなくても採用され、一方、面接官に嫌な印象や反感を抱いた志願者は、たとえ受け答えや資格が非常に良いものであったとしても採用されない、ということが明らかになりました。このことから、面接官は、客観的な事実よりも、感情や、直観さえも含めて、主観的な事柄に基づいて、志願者に関する判断をする、ということがわかります。言い換えれば、我々は、他人が我々のことをどう判断しているのか感じる能力があるということです。
判断の定義
判断とは、狭い経験、時にはうわさに基づいて為される見解のことです。他者についてのうわさを共有し、我々は早合点して、判断を下します。判断に関して問題なのは、それが事実に基づいているものではなく、しかも手にしている事実を吟味しないうちに固定してしまいがちである、ということです。さらに悪いことは、あまりにも多くの場合、判断は偏見、恐れ、想像に基づいているということです。例えば、あなたは、人がたくさんいる空港や地下鉄で若いイスラム教徒の男性を見かけたら、即座に反応してしまいませんか。あるいは、自分とは違う人種の男性同士や男女が親しく話しているのを見かけたら、反応しませんか。
つまり判断とは、あまりにも少ない情報、多くの場合は、第一印象、想像、過去からの連想に基づいた不完全な見解のことです。判断は、我々の偏見や好みを反映します。我々は自分の見たいものや恐れていることを見る傾向があります。ですから、判断は、我々の知らないうちに我々に働きかけている潜在意識にあるものに刺激されるのです。
良い判断
我々の問題は、判断を避けるということよりもむしろ、「良い判断」をする方法を身につけるということです。「良い判断」は非常に望ましいものであり、出所はあまり理解されていません。良い判断は、熟考の産物であり、叡智とまでは言わないまでも、常識で溢れています。感情や先入観は全く関わりません。良い判断には鋭い理解力もあります。なぜなら関係するすべての要素を比較考察しようと試みるからです。良い判断は「良い」ものなのです。なぜなら関係する人すべてにとって啓発的なものだからです。良い判断は我々を向上させ、喜びをもたらします。誰も傷つけません。人が友人に本当のことを言っても、相手はそれを聞き入れる準備ができていないかもしれません。その場合、拒絶され、争いが生まれ、友情が壊れてしまうかもしれません。ですから、「良い判断」は、関係するすべての人に喜びを見出させるとまでは言わないまでも、苦しみを取り除けるように表されるのです。良い判断はマインドの産物であり、直観であれ、経験であれ、鋭い分析力によってであれ、その状況の真実に到達することができます。良い判断は、ほとんどの場合、経験によってもたらされます。ですから、興奮や反抗で満ちた感情的な判断をすることの多い若者よりも、年配者のほうがたいていの場合、良い判断を持っていると見なされます。さらに、「良い判断」は賢人の持つ性質であり、賢人は物事の真理に繋がっている、つまり存在の根底に触れることのできる直観的な力、何にも増して持続する力を持っているように思われます。
なぜ判断は有害なのか
判断は、一般に三つの理由のために有害です。一つ目は、判断をする人のマインドの状態を反映するということです。心理学の研究によって、平均的な人は全時間の三分の二以上の時間、否定的か感情的な精神状態にいるということが明らかになっています。ふさぎこみ、悲しみ、怒り、いらいら、プライドに平均的な人は支配されています。こうした状態を統御できるようになるまで、あるいは統御できるようにならない限り、判断はたいてい自分の精神状態が現れたものになります。すなわち、自分自身が経験していることを他者に投影しているのです。我々は、他の人も自分と同じことを経験していると思い込みます。なぜなら我々の認識は自分自身の内面の状態に影響されるからです。間違ったとは言わないまでも否定的な反応を他者に投影することによって、我々の認識は他者に害を与えるのです。
第二に、判断は固定された状況を想定してしまうので有害です。我々が他者について判断を述べる時、そこには、判断を下された他者が変わりそうもない、という暗黙の想定があります。人間の性質はおおむね習慣的である一方で、多くの場合一定しないものです。誰にだってひどい日、悲しいでき事、感情が爆発してしまうことがあります。そうした行為はその人に典型的なものではなく、その人の基本的な性格を反映してはいません。ですから、ひどい日に当たっている人、自分の本来の性格とは違った行動をしている人について判断を下すことは、誤りです。また、若者たちは未熟な行動を克服しながら成長します。意志の強い人は、良くない振る舞いを克服し、改心します。ゆえに、判断というものは、成長、つまり良い方向に変わることを考慮に入れないので、有害なのです。概して、判断は人とその人の行為を混同してしまうのです。
人とその人の行為とは異なるということを認識するためには、知恵が必要です。知恵を持つことによって、自分が肉体でもマインドでも個性でもないという悟りがもたらされます。そうではなく、我々の中にあるこのような側面は、衣服のようなもの、つまり変えることのできるもの、習慣から切り離すことのできるものです。知恵によって、我々は、人の真のアイデンティティーが純粋な意識、魂、見る者、観察者であり、この真のアイデンティティーには、意志を用いることによって習慣から起こる行為を変える力があるということがわかります。
第三に、これが最も重要なものであり、判断は決めつけられた性質を強化してしまうということです。それは判断された人の中にあるものだけではなく、何よりも重要なことに、判断を下しているその人の中にあるその性質も強化してしまうのです。我々が誰かについて判断を下す時、例えば「あの人は非常に欲張りだ」と考えるとすると、実際我々は欲張りという性質を長々と考えることになり、このために自分の中のその性質を強めているのです。「自分の望まないことについて考えること」と定義することのできる心配のように、他人を判断することは、自分の中にある嫌いなものについて考えるような状態になることが多いのです。
古典ヨーガの創始者の一人であり、イエスと同時代の人物であるパタンジャリは「幸せな人々に対しては親しみを、不幸せな人々に対しては思いやりを、徳の高い人々に対しては喜びを、徳の低い人々に対しては平静さを養うことによって、意識は乱されることのない静けさへと戻る」と述べています(『ヨーガスートラ』第1章第33節)。これを行わないと何が起こるのでしょうか。我々のマインドが、判断、悪い感情、憤慨、怒り、嫌悪によって、乱されてしまうのです。その結果、我々は、神実現に必要な基本的な事柄、つまり落ち着き、安らぎ、純粋さ、純真さを失ってしまいます。世の中は我々の内にあります。世の中を悪の場所から「天国」に変えるためには、我々は自分の思考を変えることができるし、また変えなければなりません。我々は他者の誤りを許し、他者の短所に注目することをやめるようにならなければなりません。
アヒムサー、非暴力、判断に対する対応策
他者に害をもたらす判断を避けるためにはどうすればよいのでしょう。賢者は「非暴力の態度、インドで『アヒムサー』と言われる態度を養う必要がある」と言います。これには思考、言葉、行動が含まれます。これは、思考でさえ原因になり得る結果、つまりカルマが存在するという認識に基づいています。思考は繰り返されて習慣となり、習慣が我々の人生を方向づけます。もしも習慣に欲望が関わり、そしてその欲望が満たされないと、人生における幸せの源、つまり魂の持つ常に存在している内なる喜びについて、人は混乱してしまいます。
イエスは十字架にはりつけられた時「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちのしていることがわかっていないのです」と自分に苦難を強いた人々について言いました。イエスは、自分の苦しみについて考えたり、自分に苦しみを与えている人々に仕返ししてくれるように神に求めるのではなく、自分を迫害している人々の行動がもたらすカルマの結果に関心があったのです。イエスは、カルマの法則により、彼らの行動が重大な結果をもたらすということを知っており、自分がもとで彼らに苦しみを味わってほしくはなかったのです。ですから、イエスは父に許しを求めたのです。許しは愛から生じます。判断からではありません。パタンジャリが『ヨーガスートラ』で「否定的な思考や感情でいっぱいになっている時には、その反対のものを養うことである」と述べていることの最高の実例です。許しによって、イエスは安らぎも見出し、怒りという自分を蝕(むしば)むものからも解放されたのです。
他者を判断するよりも、祝福し愛するほうが常に良いやり方です。我々の思考や祈りは他者に大きな影響を及ぼします。我々は良い思考と祝福により他者の人生を変えることができます。超自然的なレベルにおいては、思考は生命を有しています。良いようにであれ悪いようにであれ、我々が他者のことを考えると、その人に張りつき、その人の振る舞いや経験に影響を与える思考を生み出します。ある若い女性が、結婚して数週間後に夫が浮気をしていることを知った時、夫が亡くなるように祈りました。すると数日後、夫は交通事故に遭い、首が切れて亡くなるというひどい死に方をしました。若い花嫁は罪悪感でいっぱいになり、その後一年以上も、夫がまだ生きているような生活を送り、夫に食事を用意し続け、最後には家族に説得されてカウンセリングを受けるようになりました。
アメリカのデューク大学の研究者たちは、祈りが、患者が病から回復する助けになるということを、多くの場合奇跡的に回復する助けになるということを立証しました。ほとんどの場合、他の人が回復のために祈ってくれると、健康を回復するために必要な時間が大幅に短くなるのです。超自然的なレベルにおいては、祈りによって、他者を直接助けることのできる強力な思考が生み出されます。交通事故に遭い重態に陥ったある女性は、全く見知らぬ人が見舞いに来た時、その人が彼女のために事故現場で祈ってくれた人だということがわかりました。その女性は、この人の祈りのおかげで私は生き返ったのです、と言ったのです。ですから、苦しんでいる人を見た時には、我々は日課として、その人に祝福と祈りを静かに捧げるべきなのです。誰でもそうする機会がたくさんあります。道路で誰かが割り込んできたり、車が故障していたり、あるいは通りを歩いている人が悲しそうに見えたり、問題を抱えているように見えたら、「この人に祝福を」「この人が安らぎを見出せますように」「肩の力を抜くことができますように」「幸せを見つけられますように」と祈ることができるのです。我々は幸運な人に嫉妬するのではなく、共に喜ぶことができます。「この人は神に祝福されている。この祝福が続きますように、そしてこの祝福が他の人にも分かち合われますように」と祈ることができるのです。
最終審判それとも許し? イエスの言葉、たとえ話
イエスは「人は他人を判断する尺度で、自分も測られる」(マタイ伝第7章第1節から2節)と言いました。イエスはあの時代の宗教的な規範に疑問を呈しました。ユダヤ教はあまりにも法にこだわる宗教でした。神が法の制定者であり、神がシナイ山でモーゼに十戒を与えたのでした。神が最高の裁判官であり、法を犯した者をとがめ、法を尊重する者に報いると考えられました。これは、金の子牛を崇拝したカナン族のような他の宗教よりも進んだものでした。原始的な宗教は恐れに基づいていました。特に死や苦痛に対する恐れでした。ですから、未開人たちは自然界のでき事や現象の神秘的な源と見なしたもの、自分たちの生活を脅かすものを、生贄(いけにえ)でなだめようとします。人が社会を形成するようになると、互いを傷つけ合うのを避けるために、法律を作り、社会的規範を用いて人の行動を取り締まります。こうした法律には最高の権威が必要なので、統治者、一般には王や首長は、自らの権威を神と結びつけるのです。また、正義という感覚を保つために、人は、公平で最高の裁判官であり、悪人を罰し、善人に報いる神というイメージを作り上げます。例えば、旧約聖書の中では、多数の預言者たちが「最終審判」について言及しているのが見られます。また、インドでは「プララバ・カルマ」、つまり今の人生での行動が次の人生で結果として現れるという考えがあります。ですから、この段階の宗教にいる人々は、自分の罪、悪いカルマを、法を犯したことに対する償いで相殺しようとします。このための手段は、懺悔(ざんげ)や禁欲のような簡単なものかもしれませんし、中世のキリスト教のように、そうすることで罪が許された教会への寄付、免罪符を伴った寄付かもしれません。
イエスは「なぜ友人の目の中のごみには気がつくのに、自分の目の中の丸太は見過ごしてしまうのですか。自分の目の中に丸太があるのに、どうして友人に『目からごみを取ってあげる』と言えるのでしょう。これは誠実ではありません。まず自分の目から丸太を取り除くのです。そうすれば、よく見えるので友人の目からゴミを取り除くことができるのです」(マルコ伝第7章第3節から5節)と言いました。言い換えれば、批評家は自分自身を正すことに集中すべきであるということです。さらにイエスは「法や預言者をやめさせるために私がやって来たと考えてはいけない。そうではなく、これらを成就させるためにやって来た」(マタイ伝第5章第17節から20節)。これはどういう意味でしょうか。イエスは法を無視しろ、と言っているのではなく、神が人を愛しているということを悟りなさい、と言っているのです。繰り返し、イエスはこの「福音」言い換えれば「良い知らせ」を説明するために、放蕩(ほうとう)息子の話(ルカ伝第15章第11節から32節)のようなたとえ話をします。神が人を愛しているので、人は他者を愛することができるのです。人のことを愛している神が、地獄での永遠の生活を人に宣告するはずがありません。これは、最も重要なイエスの教えです。純粋な目を持ちさえすれば見えるとイエスが言った、いつでも我々の周りにあるとイエスが言った天国に入るために、弟子や聴衆に互いに愛し合いなさい、物質的な執着を取り除きなさい、とイエスは繰り返し説きました(ルカ伝第17章第20節から21節、マタイ伝第18章第2節)。常に存在するこの天国に入るためには、小さな子供のように無垢(むく)にならなければならない、とイエスは言いました。「敵を愛しなさい。自分を迫害する人々のために祈りなさい」(ルカ伝第6章第27節)。「誰かに一方の頬を叩かれたら、もう一方の頬も差し出しなさい」(ルカ伝第6章第29節)とイエスは言いました。ですから、愛は法や判断に取って代わるのです。旧約聖書の預言者が言ったように「目には目を」と言うこともできますが、マハトマ・ガンディが言ったように、「目には目をでは最終的に全世界が盲目になってしまう」のです。つまり、判断や仕返しで盲目になると、我々全員が人間家族の一員であるということが、そして愛によれば、どんな相違でも克服できるということが見えなくなるのです。
マハトマ・ガンディ 現代世界における非暴力の提唱者
マハトマ・ガンディは「罪のすべては秘(ひそ)かに行われる。神は我々の思考さえ見ているということを我々が悟った瞬間、我々は解放される」と言いました。つまり、罪とは、神が臨在しているということを忘れていることなのです。ゆえに、他人が罪を犯していると判断することによって、我々は自分の罪が見えなくなるのです。ガンディは自ら真理の学徒であると公言し、四十年間に及ぶ闘争の末に、1947年、ついに「アヒムサー」つまり「非暴力」を用いて、暴力を用いずに大英帝国にインドを放棄させました。ガンディは自らが用いた方法を、ジャイナ教と、非暴力を強調したイエスのたとえ話を学ぶことによって発展させました。ジャイナ教の僧はマスクで口を覆い、うっかり昆虫さえ殺すことがないように地面を掃除します。ガンディの非暴力、アヒムサーという方法は、1960年代にアメリカにおいてマーディン・ルーサー・キング牧師によって市民権運動の基礎として用いられました。また他の労働運動や社会運動の基礎ともなり、これらの運動では受動的な抵抗、非暴力による抗議とデモが用いられ、一般大衆に彼らの理想が伝わりました。インドでは、何千人もの男女がガンディのサティアグラハ運動に忠誠を誓い、他者に害を与えることなく真理(サティア)に沿った生活に自らを捧げました。イギリス駐留軍に対する大規模なデモにおいて、何千人もが抵抗することなく棍棒(こんぼう)で叩かれ命を落としたり、ひどい傷を負わされました。彼らが「反対の頬を差し出すこと」に非常に忠実であったので、イギリスは三百年以上にわたるインドの植民地支配から撤退することを余儀なくされたのです。ガンディはイギリスの牢獄で数十年を過ごし、長期にわたる断食を行い、イギリスとイギリスの政策に対する反対を示しました。イギリス製の織物のインドへの輸入に対して、ガンディが反対運動を行った時、イギリスの織物労働者たちからも共感を得ました。インドのボイコットにより、彼らの職がなくなってしまっていたのです。ガンディの人生と方法は、他人を負かすために他人を判断する必要はないことを示しました。我々はただ自分の信念に固く依拠し、他者の共感と理解を得るために、他者を害することなく妥協を見出しさえすればいいのです。ガンディは「頑固なハートとはなはだしい無知は、怒りもなく敵意もない苦しみという日の出の前では、消滅しなければならない」と言いました。
ガンディは「暴力が野獣の法であるように、非暴力は我々人間の法である。精神が野獣では眠った状態にあるので、野獣は物理的な力以外の法を知らない。人間は気高さのために、高次の法、つまり精神の力に従うことになるのである」と言いました。さらに「精神力は、社会にも個人にも用いられる力である。精神力は家庭での問題にも政治にも用いられる。何にでも応用できることは、精神力の永遠性と無敵さを示している。男性も、女性も、子供も同様に用いることができる。暴力に暴力で対抗することのできない弱い者たちだけが用いる力だというのは全く間違っている」と言いました。
インドを解放するためにガンディが始めた政治運動に関して、「サティアグラハは、寛大であり、決して傷つきません。サティアグラハは怒りや敵意の結果ではありません。神経質なものでも、いらいらするものでも、騒がしいものでも全くありません。強制とは全く正反対のものです。暴力に完全に代わるものとして考え出されたのです」と言いました。
多様の中に一体を見る
ですから、判断は、それが他者に対する我々の個人的な感情に関係していようが、あるいは我々が神や、魂の行く道をどのように捉えようが、最終的な見解にはなりません。我々の文明の賢明で、思いやりがあり、霊的な英雄たち、つまり仏陀からイエス、ガンディまでは、愛、許し、思いやり、非暴力が判断に取って代わるということを発見しました。ですから、判断することでマインドが乱れてしまうのなら、それは割に合いません。判断が他人を傷つけるなら、それはあなたの中でも響きます。ヨーガの大家、賢者であるシッダたちは、神を「善」と呼び、我々はみな一つの家族、一つの土地の一部であると言いました。賢者は、他者の中に善なるものを見、他のものには目を向けません。判断は分離をもたらします。愛は結びつけます。愛と許しは法に優り、新たな視点をもたらし、この視点において、全員が本質的に一体であることがわかるのです。
4.社会運動としてのヨーガ
インド人のヨーギーが西洋で教えるようになってから百年以上が経過しています。歴史家や社会学者、政治家、メディアはほとんど認めていませんが、彼らの影響は大きなものです。例えば西洋の宗教団体の指導者がその影響を認識しているところでは、たいてい警告という形を取ります。西洋の宗教団体は、自分たちの影響力が失われることを恐れたり、あるいは無知から、東洋の霊的慣習には有害なもの、あるいはキリスト教に反するものがあるとし、ヨーガの教えによって脅威にさらされていると感じるのです。
これは新しいことでは全くありません。組織化された宗教は、いつでも自分たちの権力を維持しようとしたり、メンバーを犠牲にしても自分たちの影響力を強めようとします。メンバーの必要よりも自分たちの必要と立場を優先することは、いかなる組織にも関わる性質であり、もともとこのために組織化されているのです。組織化された宗教団体は一般に、恐れと罪に基づいた事業体であり、まずは地獄や悪魔、天罰に対する危険に警告を発することにより、自らの権力を維持し、そしてその後にそのような想像上の脅威に対する保護手段、たいていは西洋では「罪」、東洋では「カルマ」と呼ばれる悪い行いの影響を相殺するとされる教えや儀式が提供されるのです。
しかし、霊的な道を真剣に歩む者たちは、たいてい孤独であると感じます。ミスティック(神秘主義者)には道を一緒に歩む仲間や導き手がいるかもしれませんが、これはたいてい比較的短期間しか続きません。歴史的に言うと、ミスティックが集まり、修道院やコミュニティを建設すると、普及している宗教団体にしばらくは寛大な目で見られましたが、完全に信頼されることは決してありませんでした。このことは、例えば、今日イタリア全土に、住む人のいない修道院があることに見受けられます。四百年前は、これらの修道院はミスティックで溢れ、活気に満ちていました。しかし、ミスティックには教皇はおろか、司祭さえ必要ではありません。なぜなら彼らは自分たちの団体の瞑想法によって、直接神とコミュニケーションを取ることができるからです。したがって、しばらくの間は寛大な目で見られましたが、こうしたコミュニティは教会には奨励されませんでした。人々が科学や科学技術をますます信頼するようになり、宗教に対する信頼が薄れていくにつれて、修道院から徐々に人がいなくなったのです。
ミスティック、これはヨーギーに対応するキリスト教の言葉ですが、ミスティックは、社会の不幸に気づいていないわけではありません。また社会を無視しているのでもありません。意識が拡大し、ハートのチャクラが開いているので、ミスティックはほとんどの人々よりも感受性が鋭いのです。しかし、ミスティックは現代社会でどのように自分たちを表現することができるのでしょうか。ミスティックは多くの場合、懐疑的な目で、そして彼らの行いや体験のために、無知から生じる恐れの目で見られます。
それでは、孤独に生活している現代のミスティックは、社会に対してどのように影響を与えることができるのでしょうか。組織化されなければならないのでしょうか。ヨーガは実際の社会運動なのでしょうか、それともただ単にその力を秘めているということだけなのでしょうか。
「誰ひとりとして島ではない」とイギリスの詩人、ジョン・ダンは言いました。これは、ミスティック、つまりヨーギーにも当てはまります。古典ヨーガにおける最初の部門である「ヤマ」つまり制限事項は、ヨーギーの社会での振る舞いを規定します。非暴力、不盗、正直、不貪、貞操です。これらを守るのは、道徳に従うためではなく、これらを守ることが悟りを得るために必要不可欠なものであり、また悟った状態を表すものでもあるからです。これらを守ることによって、「他人」というものはなく、唯一ひとつなるものだけが存在するということが体験としてわかるようになります。これは究極の社会的状態です。
敬虔な多数のヨーギーがこうした制限事項に固い決心で従うならば、社会に大きな影響を与えることができますし、与えることになるでしょう。これには誰かが政治の指導者になる必要はありません。クリヤーヨーギーであり、インドの独立やアメリカの市民権運動を導き、南アフリカのアパルトヘイトに終止符を打った非暴力運動の父であるマハトマ・ガンディの場合とは異なります。社会的なやり取りにおいては、それが家族間のものであれ、職場の同僚やお客さん、上司、全く見知らぬ人とのものであれ、必ずエネルギーのやり取りが存在します。そのエネルギーには愛や思いやりが込められるかもしれません。これは非常にヨーガ的なものです。あるいは怒り、貪欲、苛立ち、競争心、反感が込められるかもしれません。我々は互いに愛や思いやりを送り合い、互いが本当の自分になること、意識的で普遍的な存在になることを手助けすることもできますし、あるいはエゴ的な性質を送り合い、互いに悪影響を与え合うこともできます。一方、対極のものに固い決心で従うならば、例えばイスラエルとパレスチナの争いや北アイルランド、カトリックとプロテスタントの争いの過激派のように従えば、終わりのない悲しみを生み出すだけです。もしもパレスチナ人たちが国の解放のために非暴力を採用していたなら、30年前に自分たちの国を手にしていたことでしょう。
ヨーガは社会運動です。なぜなら、ヨーガは、通常のエゴ的な状態から人を目覚めさせ、そして変容させることを目指すからです。現代の社会的多元性の文化は、多くの場合、エゴイズムの原因となる個人主義、物質主義、消費主義によって刺激されます。人が制限事項であるヤマ(先に述べた事柄)と遵守事項であるニヤマ(純粋、満足、自己探究、苦行、神への献身)から始めて、ヨーガを実践すれば、世間一般の文化に対してゲリラ戦を行うようなものです。culture という言葉は、ラテン語で「崇拝」を意味する culte という言葉に由来します。ですから、現代の物質的、消費主義的、個人主義的文化において、社会のほとんどのメンバーは、物質的なもの、消費することができ、自分は特別であるという意識を高めてくれるものを何よりも崇拝、言い換えれば重んじるのです。
一方、ヨーギーは神、つまり実在を重んじます、言い換えれば崇拝します。最初は、悟るまでは、つまり超自然的にすべてのものの中に神を見るようになるまでは、これは内に、つまり存在の霊的次元に見出されます。ヨーギーは自分を特別な存在とは感じませんし、自分を「行為者」とさえ見なしません。ヨーギーは、あらゆる段階で人を導き、人に権限を与えている神の手を認識するのです。
見方を変えるということが、ヨーガの関心事であり、ヨーガの実践者のひとりひとりが自分自身を(自分自身の努力によって)高めなければならないのですが、ヨーガを実践するメンバー間で、つまりサンガで提供される明白な援助というものもあります。サンガという言葉、タミル語(南インドの言葉)ではサンガンは、文字的には、川が合流する場所、という意味を表します。ですから、この意味では、我々のひとりひとりが川であり、我々が集う時、交流が行われるのです。誰かがやる気をなくしたり、混乱したりした時、これは多くの経験を積んだヨーガの達人にも起こり得ることであり、こうした場合、仲間のヨーギーの存在が通常、癒やしや励みになります。この交流は、二者間での生気エネルギーのやり取りに最も顕著に現れるのですが、メンタル界での優しい言葉や思考、知性界でのちょっとしたアドバイス、霊界での微笑みや喜びの表現もやる気の無さや混乱を取り除くのに十分であることがあります。ゆえに、ヨーガの実践者は、原則として孤立しないことが極めて重要なのです。愛と思いやりを分かち合うことによって、ヨーガの実践者は、より思いやりがあり、意識的で、神に鼓舞された社会を実現する中で、存在のすべてのレベルに霊的な悟りを持ち込むこと、エゴイズムを克服すること、神の純粋な道具として奉仕することを学んでいくのです。
ある統計によれば北米では二千万人もの人々がヨーガを実践し、その九十パーセントが肉体的なエクササイズだけを行っているのですが、だからと言ってヨーガの影響が健康やフィットネスの領域に制限されているということではありません。ヨーガを実践し続ければ、影響が神経系統やマインドにも及ぶようになり、その結果、意識が霊的な次元まで拡大します。これは、自分でそうしようとしなくても、自然な結果として生じます。肉体的な必要から、あるいはストレスを軽減するために始めたものが、結果的に霊的な道になるのです。霊的な道は、社会的な条件づけが原因で身についてしまった習慣的な傾向からますます人を解放してくれます。我々が無執着(ヴァイラーギャ)の練習を常に行うようになるにつれて、社会的な条件づけも含めて、真の自分ではないものを手放し、そして真の自分を経験するようになります。真我実現の体験が、エゴイズムの混乱、つまり真の自分ではないもの、思考、感情、記憶、習慣、感覚と一体になってしまう癖に取って代わります。意識が拡大するにつれて、我々は観察者、そして唯一の観察者になるのです。「私は男です、何々の専門家です、黒人です、白人です、アジア人です」とエゴは言います。「私は存在しているそれである」と目覚めたヨーギーは言います。こうした意識の変化の社会的な意義は、深く広範囲に及びます。ヨーギーが、一緒にいる人々の安らぎや幸福の源になるだけではなく、並外れた明晰さと洞察に導かれたエネルギーの発電機にもなるのです。こうした人物は善に対する強力な力として作用することができますし、またそうなり、思いやりと知恵の精神でこの世界の問題を解決するのです。
我々は歴史上かつてないほどこの惑星上で互いへの相互依存が大きい時期に生きています。世界の一部でのインフルエンザの流行や自殺が即座に他の地域での経済や政治に影響を与える社会危機には、何百万人にも上る啓発されたヨーガの実践者による規律が必要なのです。メディアは、社会を脅迫しようとする者たちの最大の道具になっています。テロに対する最大の防御策は、ヨーガです。なぜなら、ヨーガは、テロを有効なものにしてしまう恐れを源で断ち切るからです。恐れとは、その出来事が起こる可能性を正確に評価せずに、苦しむ可能性を想像してしまうことです。恐れに打ち勝つためには、内面の規律、無執着、冷静で明晰な思考が必要であり、これらはヨーガによって促進されます。さらに、強力なヨーギーひとりによる肯定的な思考あるいは祝福が社会に与える影響は、一般人一千人の散り散りになった否定的な思考よりも強力なのです。
ヨーガを実践する者たちのすべてが、自分の中に、世界の様々な問題に対して安らぎと賢明な解決策をもたらす力があるということを認識するようになりますように。
5.すべての国が私の故郷であり、すべての人が私の家族である
1997年、六カ国で十四以上のイニシエーション・セミナーを行い、三ヵ月に及ぶ旅行から帰ってきた時、私は、十八人のタミル・シッダの右の格言をしみじみと感じました。しかし、この惑星上のすべての人々が今どれほど密接に結びついているかという感覚を、私のように得るために、旅行をしなければならないということはありません。ネットに入りさえすれば、世界中の何百万人もの人々と繋がることができます。
フランスの偉大な哲学者、アンドレ・マルローは、冷戦時に、「来世紀は霊的なものになるだろう。さもなければ、来世紀はありえない」と述べました。次の千年期の始まりに大惨事を予言している人たちがいますが、それを示す証拠を見つけるためにずっと遠くを見る必要はありません。ノストラダムス、エドガー・ケイシーのような予言者や、そしてヨガナンダもこれからの数年の間に大災害が起こると予想しました。こうした予想が現実のものになりそうであることを示すものがますます多くなっています。地球温暖化の影響、地震、大規模な山火事、集団殺戮(さつりく)を行う戦争、鳥インフルエンザの流行、エイズ、他の新たな疾病、国際的なテロ、何百万人もの人々を消し去ることのできる大量破壊兵器を持った原理主義者たち。
私はしばしば尋ねられます。こういった予言をどう思いますか。人はどうしたらいいのでしょう、と。新たな千年期が始まる前の日に、この日を多くの人たちは大破壊が起こると予想していますが、私は、私が持つ固い信念でみなさんを安心させたいと思います。もしも我々全員が、この星に暮らすすべての人のためにババジのクリヤーヨーガを実践し続けるならば、タミル・シッダが行ったように続けるならば、今後どのような大災害や破壊が起ころうとも、それらの力を大きく弱めることができるでしょう。我々は、世の中の安らぎと調和からなる新たな時代をもたらすための手段として一端を担うことになるでしょう。
これは、我々が過去と同じような生活を送り続けることができると言っているのではありません。そうではなく、これは、ヨーガの修練にもう一度自らを捧げ、自分の周りにいる人々に手を差し伸べるための警鐘なのです。我々が持つ関係のすべての中に神の存在を思い出すこと、そして内へ深く入るために、我々の力とインスピレーションのすべてが見出される静寂の源へと入っていくために、より多くの時間を確保するということもここには含まれます。
この観点に立ち、私は、1994年の暮れ、ババジのクリヤーヨーガを世界中の人々に届けるためにフルタイムで活動できるように、二十五年間の社会人生活から引退しました。ババジの恩寵により、私はこれまでにほぼ十カ国でクリヤーヨーガの教師の訓練を施し、その他十あまりの国々でクリヤーヨーガの活動を行い、今までに約一万五千人にイニシエーションを行ってきました。
ここで、読者のみなさんに、私が初めて1997年10月20から24日に「ロシアへの巡礼」を行った時のことをお話ししたいと思います。この巡礼は、私にとって、1972年に初めてインドを訪れた時と同じくらい感動的なものでした。私は自分の人生でずっと国際関係を学んできましたが、私がそれまでに読んできたロシアに関することは、その時にロシアで経験したことの何の役にも立ちませんでした。ロシアの物理的な環境やロシアの生徒たちの状態、ババジのクリヤーヨーガの美しさをどのように伝えるかということについて私は十分に理解してロシアを訪れました。
到着した時、私は1968年に東欧を訪れた時のことを思い起こさずにはいられませんでした。ベルリンを東西に分断していた「壁」に不注意にも近づいたために、東ベルリンで捕まり、拘留され、かつてはゲシュタポの本部であった場所で何時間にもわたって尋問を受けたのでした。セルゲイとのインターネットを通じたやり取りで私の訪問に対する準備は容易に整っていたにもかかわらず、お役所仕事からくるビザの発給の遅れで、この訪問は寸前でキャンセルされかかっていたのです。ほぼ三十年後に、モスクワの暗く不気味な国際空港に到着し、出口の外にいる人ごみの中へ歩くうちに、私の懸念は薄れ始め、セルゲイ、アイラ、ギャリヤと自己紹介した三人の笑顔に迎えられたのです。
ギャリヤの古いラーダ(ロシア製の車)で空港を後にする時、私はロシアのユーモアに触れました。「私たちは先生が白ずくめの服装で現れると思っていました。全身白の乗客の後について行ってしまい、しばらくして別人だとわかったんです」
我々は驚くほど車の少ない道を走り、小学校にたどり着きました。ここでイントロダクションが行われることになっていたのです。教室では、二十八人のロシア人たちが輪になって座り、期待しながら待っていました。誰かが小さな祭壇を備え、ろうそくに火が灯されていました。私はババジの絵をその祭壇に置き、オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウムとみんなで唱え始めました。私はババジの存在を感じ、ゾクゾクッとしました。それから、ババジとババジのクリヤーヨーガについて、通訳のセルゲイ・ガブリロフがついてこられるようにゆっくりと話しました。後で、私は参加者たちがかつてのソ連邦の全土、カザフスタン、ウラル、ベラルーシ、そしてシベリアの太平洋側からも来ていることを知りました。参加者のほとんどが、一年前にモスクワで出版されていた『ババジと十八人のシッダ』のロシア語翻訳版をすでに読んでいました。
講義は彼らの琴線に触れ、私の伝えたメッセージに対して、彼らから愛と理解の光が放たれました。彼らのほとんどは40歳代であり、彼ら全員がたくさんの苦難を、特に過去三年のうちに起こったソ連邦と経済の崩壊によって、苦難を受けてきたことを私は感じました。講義の後、私は赤の広場とクレムリンまで数マイルの距離を車で移動し、小雨の中を歩き、そしてそこに入った時、時計がちょうど零時を打ちました。私は、自分が巨大な壁と帝政ロシアの象徴である聖ヴァシーリー大聖堂に囲まれていることに驚嘆しました。我々は広場の反対側にある小さな礼拝堂に入り、そこで聖母マリアや子供たちの時代物の聖像画を目にしました。そのすべてが金の枠にはめられ、明るくライトアップされ、霊的な波動を放っており、私はインドの寺院を思い起こしたのでした。
次の三日間、私は幾つかの教会と修道院を訪ね、またモスクワ中を見て回りました。七十年間共産党政権に支配されていたにもかかわらず、ロシア正教の霊的な伝統が多くのロシア人たちの生活に明白に表れていました。私は多くのロシア人が非常に霊的であり、愛と知恵に溢れていることがわかりました。ロシアで起きていることが、まるで「春」のように思われました。古い物事の多くが生命を失い、雪が解けた後の地面のあちらこちらにある落ち葉のようであり、新たな事業、お店、刷新、霊的な活動は、まるで芽を出しかけている美しい花のように見えたのです。
セミナーの後、毎晩遅くイラのアパートに戻る時、多くの老人たちが地下鉄の駅で、アルコールと寒さのために顔が赤く腫れた状態で、アメリカのタバコやトイレットペーパー、家庭用品を売り懸命に生きようとしている姿に感動しました。
一方、協力、科学技術、精神科学に基づいた新しい社会を築くという若者たちの決意とヴィジョンにも深く心を動かされました。私は彼らの視点に感心したのです。科学や工学で高度な訓練を受け、非常に霊的であり、非常に不利な状況にもかかわらず、私が新たに知り合ったロシアの友人たちは、世の中に対し長期にわたる貢献をしようという強い決意を持っていました。ロシアにはこうした人々がいるので、二十一世紀のロシアには非常に期待ができる、と私は確信しています。
イニシエーション・セミナーは、公立の学校の教室で、毎晩七時から十一時に行われました。二十六名がイニシエーションを受けました。生徒たちは誠実であり、彼らの多くは、呼吸法、瞑想法、ポーズを非常に上手に行うことができました。モスクワにグループが誕生し、月例会のスケジュールが決められました。仮のプランとして、一年後に二段階目のセミナーが組まれました。
ジャイ・ババジ! ジャイ・クリヤーヨーガ! タミル・クリヤーヨーガ・シッダーンタの香りが世界中に広がりますように。
6.神聖な狂気、クンダリニー、シャクティパート、エゴの粉砕
私は最近ゲオルグ・フォイヤーシュタインの著書『神聖な狂気―風変わりな賢人、高徳な愚か者、ごろつきのグルたちのショック療法と過激な教え(邦題:聖なる狂気―グルの現象学)』を読みました。著者から頂いたのでした。ヨーガに関心を持つ現代人たちは、この本に書かれているような得体の知れない教師に出会う可能性があるので、この本は価値があります。様々な教えに見られるこうした有名人たちの話や場所を古い順に取り上げた後に、グルジェフ、ラジニーシ、チョガン・トゥルンパ・リンポチェ、スワミ・ニッティヤーナンダ、そして著者自身のグルである狂った賢人、アディ・ダ(ババ・フリー・ジョン)のような現代の例を取り上げています。こうした教師を信奉することの意義と落とし穴について、バランスの取れた鋭い分析をしています。
私自身の師、ヨーギー・ラマイアもこうした風変わりな賢人だったので、この本は私にとって有意義なものでした。師はよく自分のことを「無鉄砲なヨーギー」と言い、全般的には厳しい規律に従い、また弟子のために困難な状況を生み出すのが非常に得意でした。弟子たちはその状況において、自分の中の最悪の反応、つまり恐れ、憤慨、プライド、当惑、不安、欲求不満、混乱に直面するのでした。笑うことが最高の方法のようであり、他人にそれがどんなものだったのか説明するのは不可能だ、と我々はよく言ったものでした。師の行動はたいてい謎めいたものでした。ゲオルグ、本当の知見に富む本を書きましたね、おめでとう。
重要な文を幾つか抜粋します。「我々が自分のレベルで霊的な達成に至っていない限り、師に対する我々の評価は常に主観的なものであるということを受け入れつつも、グルの中に見出せる基準が少なくとも一つはあります。師が純粋に弟子の成長を促進しているかどうかということ、または明らかに、あるいははっきりとはしないが師自身の成長を傷つけていないかどうかということです。弟子志願者は、将来のグルの周りにいる生徒たちを冷静によく観察すべきです。グルのより近くにいる人々を吟味すべきです」
「道の途上で自ら体験する教えが、すばらしいもの、喜ばしいものであろうが、不快で厳しいものであろうが、あるいはそのどちらとも言えなくても、すべてのものが我々の目を開くために必要なことだということです。わずかな反応もわずかに執着していることを示します。それは、自分がまだ何にしがみついているのかを教えてくれる大切なものです。自分の反応を観察することによって、どんなことでも教えになるのです」
「義務と責任は、師と弟子の間で起こる霊的なプロセスのバランスを取る重要な道具です。これらがはねつけられれば、近年、アメリカなどの精神世界や宗教界の堕落した聖人たちによって広く示されているような権力闘争と虐待に陥ります」
「私は個人的に、やがて今の時代に独特の霊性が起こり、これによって新しい種類の霊的な教師が生まれると確信しています。伝統的なグルは、一般に現代の細やかな感性に対してはあまりに独裁的で家父長的であると思います。ゆえに、東洋的なグル中心のやり方は西洋ではうまくいかず、我々は別の方法に目を向けるようになるのです。「音楽にも関心のある」霊的な人は、新たなマエストロ、つまり自らも学び手であり、後光を軽めにまとい、特権を持つ白人の中産階級ではない人々をも含めた仲間と共に歩くために、地に足を下ろすことを厭(いと)わない教師を探し求めるでしょう」
「ですから、この本で取り上げられた伝統的で、風変わりな賢人や常軌を逸した覚者についての不安にもかかわらず、彼らはひょっとするとまだ、有益な社会的機能、つまり大多数が認める現実の『異常さ』を映し出す鏡として、また我々が自分たちの生活から排除してしまいがちなより大きな現実、つまり実在を表すものとして役割を果たすことができるかもしれません。彼らが、我々から実在や我々自身(真我)を見えなくさせているものを取り除く助けになってくれるならば、彼らのメッセージに注意を払うのが賢明でしょう。また、彼らは古い時代の霊性の名残であり、自己超越をもたらすもっと総合的な方法にいずれ取って代わられる、と私は感じています。この新たな方法は、高徳な愚か者たちをも含めた教師、指導よりも個人の成長と統合に、伝統に忠実なことよりも現実に、社会に期待された自らの役割よりも思いやりとユーモアに重きを置く教師によって支えられることになるでしょう」
これは、私が「風変わりな賢人」である師の下を離れてから、行おうとしてきた取り組みを表しています。生徒たちが修練に取り組んでいるならば、彼らは成功していると言えるでしょう。多くの人々は自分が受け取ったものの価値がわかっていません。この分野で成功できるだけの時間と努力を注ぐ準備ができている者は、ほんの一部にすぎないということを私は理解しています。
シャクティパート、グルによる伝導
過去や現代のインド出身の「聖者」たちは、「シャクティパート」と呼ばれることのある、意識の変革をもたらすエネルギー伝導を行うと約束することによって、大きな注目と帰依者を引きつけることに成功しました。スワミ・ムクタナンダとヨーギー・アムリト・デサイがその例であり、長年にわたりこれを行いました。しばしば、これを受けた者が意識の変革を体験したり、あるいは自分の肉体を制御できなくなり、犬のように突進することさえありました。さらに悪いことには、長期に渡る精神病的な状態に陥り、精神の錯乱を起こしてしまう者も出ました。証拠記録は芳しいものではなく、この二人の教師の評判はひどく傷ついたのでした。
私の師はいつも、霊的体験の約束、「シャクティパート」に関して、「そういう約束よりも自分自身のサーダナをもっと信頼しなさい」と言ったものです。これには幾つかの理由があります。一つ目は、サンスカーラ、つまり癖を抱えた我々の人間性は、変化に抵抗するということです。ゆえに、エネルギーか何かのいわゆる体験をした後でさえ、習慣的な意識状態、神経症的な状態に戻ってしまいます。二つ目は、ヨーガの文献のどこにも、意識の永続的な変化を得るための手段として「シャクティパート」は推奨されていないということです。パタンジャリは、潜在意識に深く根ざした欲望や傾向、つまりサンスカーラに関して、繰り返しその根源に戻ることによって、すなわちサマーディ状態に帰ることによってのみ、それらを根絶することができる、と述べています。三つ目は、そうした約束によって、目的が自分自身の支配者、つまり肉体、人生、マインドを自分で支配できるようになることであるにもかかわらず、人は「聖者」に依存してしまうということです。四つ目は、「悟り」はセミナー代金を払えば、あるいは体験の結果として、お金で買えてしまうという印象を与えてしまうということです。悟り、言い換えればサマーディという真我実現の状態に意識を確立することは達成し難いものであり、ほとんど例外なく、規律の取れたサーダナや霊的、ヨーガ的な鍛練を長期にわたって実践した結果としてのみ達成されるにもかかわらずです。五つ目は、肉体、生気体、メンタル体でのいかなる体験も時間と効果に限界があるということです。霊体においては、人は体験、時間と空間を超え、純粋意識を悟ります。これがヨーガ、そしてまがい物ではない霊的教えのすべての唯一の目的です。六つ目は、シャクティパートによって人が他者に悟りを伝導することができるということは、人を欺(あざむ)くことであるということです。「悟り」に至る近道などありません。最後に、本当に「悟った」教師は、自分は特別である、他人よりも優れているというようなことを言いません。人は悟りに達すると、「他者」は存在しなくなり、体験する者がもはや存在しないので、体験をする必要も、体験を与える必要もなくなるのです。至高の真理と一体であり、体験や形態のすべてを超越しているのです。悟った教師であるラマナ・マハルシは、自分と他者との間にグルと弟子の関係さえ認めませんでした。
誰もが気に留めておくべき重要なことは、我々のサーダナには、超越、言い換えれば霊への垂直方向の上昇だけではなく、我々の生活領域のすべてに真我実現を統合するという水平方向の動きも含まれるということです。
グルによるエゴの粉砕
十八人のヨーガ・シッダの文献に関して、私は過去七年間、調査、翻訳、研究をしてきましたが、一般にグルによる「エゴの粉砕」と呼ばれる、生徒に変容をもたらす手段を推奨する記述は一切見つかりませんでした。「エゴの粉砕」は、弟子がうまく処理できない反応を弟子に起こさせるために、グルによって意図的に為される行為あるいは言葉と定義できます。
例えば、グルは、証拠が何もなくとも、何らかの過失に対して弟子を人前で非難するかもしれません。弟子は、恐れを覆い隠す手段のひとつである、防御的になろうとする欲望を統御しなければなりません。「エゴの粉砕」は、パタンジャリやボーガナタル、ラーマリンガ、ティルムーラルの作品で言及されていないだけではなく、あまり知られていない十八人のヨーガ・シッダの著作の中にも見当たりません。自分自身や兄弟弟子に対するこの手段の影響を通して、私はこの方法はほとんどの場合、弟子を遠ざけてしまうこと、そして内面に深い傷を残し、ずっと傷が癒えないままであることも見てきました。最後まで私の師の元に留まった者たちに関してでさえ、エゴを根絶する手段として、そしてエゴを弱める手段としてでさえ、その効果は疑わしいことが明らかです。
「エゴ粉砕」が弟子の成長を促すよりも弟子を虐待することになる危険性が非常に大きい、と私は考えるようになっています。虐待か援助かの違いは非常に微妙であり、弟子になろうとする生徒の意志と能力、その役割の中で常に成長しようという生徒の意志と能力だけではなく、グルのマインドの状態にも左右されます。もしもグルがわずかでも好みを持っているのであれば、それはグルのエゴから生じているということです。教師の理想的なサポートは、弟子の訓練に教師がいること、そして教師の意識があることだと私は思います。これによって、教師は理想的な状況を提供し、その中で弟子は、今という瞬間により留まっていられるように、そして自分の内面の変えなければならない部分をより意識できるようになるのです。これは、パタンジャリがスヴァディヤーヤと呼んでいること、つまり自己探究の支えとなります。
自分の中にあるエゴの部分を認識するために、それぞれの魂が必要とする体験のすべてを人生が提供してくれるということ、それゆえ、最も効果的なことは、スヴァディヤーヤ、つまり自己探究に集中することである、と私は考えるようになりました。自己探究には、自己観察も含まれます。日記を道具として用い、自分のサンスカーラ、つまり習慣的なパターンを示してくれる癖的な、繰り返し生じる反応に気づき、そしてパタンジャリが「それと反対のことをする」と言った方法によって、その反応を徐々に弱めていくのです。スヴァディヤーヤにはまた、深い瞑想を通して、定期的に自分の真我を知り、気づいていることに気づくこと、そして聖典を研究することも含まれます。これらによって、我々は、実在、つまり人生の表面に現れる夢の背後にあるものを思い出すことができるのです。
また、霊的な道のどのレベルにいようと、共に道を歩む人たちが、それが教師であれ、同士であれ、友人であれ、家族であれ、最高の鏡になってくれ、自分のエゴとそこから現れたものを映し出してくれる、と私は考えるようになりました。ですから、我々は、社会での関係によって明らかなる執着や反感を、観察することによって手放すことができるのです。気づいていること、そしてエゴから現れたものを処理することに集中している人と共にいる時に、こうした関係はエゴを最も映し出してくれます。これは、「霊的な」人が一人で暮らし、自分はほとんど完璧だ、と思い始める時によく起こることに対して、最大の防御となってくれます。
ですから、「神聖な狂気」は必ずしも必要ではありません。正気を、変化に対応する能力と定義することができるなら、最も正気な人たちは、世の中にいながら、世の中に乱されない人たちです。悟りの状態を説明してください、とラマナ・マハルシが尋ねられた時に、「今では、何も私を乱すことはできない」と答えたようにです。今日の現代社会は常に変化し、その変化によって生じる問題によって、我々はエゴの執着と反感に直面し、そしてそれらを超えるために必要なすべてのことを手にします。我々全員が、魂の視点にしっかりと立ち、不変の実在、つまり変化の中に存在する至高の真理を見ることができますように。現代社会の狂気の中にありながら、聖なるもの、清浄なものを見出すことができますように。
7.どうすれば霊的に進歩していると知ることができるのか
どうすれば我々は霊的に進歩していると知ることができるのでしょうか。これは、求道者が時々自問する重要な問いです。簡単な答えはありません。霊的な道は徐々に発展するものであり、霊には形がないので、測定することが難しいのです。ですから、進歩を定義する前に、どのような意味で「霊的」という言葉を使っているのかを考えてみましょう。
ヨーガにおいて、我々はエゴイズムに関する人間のジレンマ、つまり肉体やマインドと一体になってしまうジレンマについて話します。我々は五つの体、つまり肉体(アンナマーヤーコーシャ、文字的には食べ物の体)、生気体(プラーナマーヤーコーシャ、肉体を動かす体であり、感情の座)、メンタル体(マノマーヤーコーシャ、潜在意識、記憶、五感、認識作用が含まれる)、知性体(ヴィヤーナマーヤーコーシャ、論理的に思考する能力が含まれる)、霊体(アーナンダマーヤーコーシャ、文字的には至福の体であり、魂であり、純粋意識、観察者)。通常はエゴイズムのために、人は「私」は体、「私」は感情、「私」は記憶、思考だと思いながら、考えたり、行動したりします。例えば、人は「私」は寒い、「私」は怒っている、「私」は結婚している、あるいは「私」は「ジェーン・ドウ」、「私」は共和党員などと言います。しかし、一カ月後には、全く正反対のことを言うかもしれません。「私」は暑い、「私」は満足している、「私」は離婚している、「私」は「ジェーン・スミス」という新しい名前になった、私は支持政党を変え、「私」は今は民主党員、というように。明らかなことですが、我々は対極のものの両方でいることはできません。我々がいられるのは、常にそこにあるものだけです。しかし、エゴイズムの力は非常に強力であるため、我々は真の自分が何者であるのか、つまり純粋な存在、意識であるということを常に忘れるのです。
ゆえに、「霊的な進歩」には、アーナンダマーヤーコーシャつまり霊体との繋がりが強まり、肉体、感情体、メンタル体、知性体、言い換えればそうした次元と一体になってしまうことを手放していくことも必然的にかかわります。これは、エゴイズム、つまり欲望や怒り、貪欲、プライド、のぼせあがり、悪意などとして現れるものから、徐々に自分を浄化することです。初めのうちは、そして長期間、この浄化のためには、倫理的、道徳的、宗教的な指示、例えば傷つけない、盗まない、性的対象として人を見ないというようなことを守るために、努力が伴います。この努力によって、愛、満足、受容に基づくバランスが徐々に内に見出されるようになります。現代にたとえると、エゴによって我々は、自分の人生というテレビ番組のあまりに近くに座らせられるのです。その結果、ドラマの中に入り込んでしまい、本当の自分を忘れるのです。性欲、貪欲、怒りを浄化することによって、テレビ画面から離れることができ、人生内のドラマがあるにもかかわらず、自分はテレビ番組ではない、観察者であるとわかるようになるのです。瞑想のような霊的修練を通して為されなければならないことは、離れた状態で留まり、徐々に自分を高次の視点で見られるようにするということです。
最終的には、この文章の最後で取り上げるように、真我実現の状態に熟達すると、その状態が知性体、メンタル体、生気体、肉体にも降りてきて、それらを変容させます。我々が霊的に進化するためには、この世よりも上昇して、この世から立ち去る必要はありません。霊的進化には、いずれ分かるように、五つの次元のすべてで総合的に発展することも含まれ得るのです。
しかし、最初は、霊的な部分で進化し、自分の中の純粋意識、つまり観察者をますます本当の自分だと認識するようになります。これが、真我実現と言われるものです。これは、次のように起こります。
1.静けさが養われる。静けさは、思考がない状態ではなく、思考と共に存在している状態です。ですから、我々がこの最初の段階を進む時、習慣となっているやり方で反応する癖を、例えば、怒りや不安で反応する癖を、静けさで置き換えるようになっていきます。マーヤーと呼ばれるマインドの中にある錯覚、汚れが、静けさを養うことによって、徐々に弱まります。ポーズ、体系的な呼吸、マントラ、瞑想、バクティを含めたヨーガの修練のすべてが、この段階において、静かさ、落ち着き、平静(サットヴァ)によって、興奮や不必要な活動(ラジャス)を減少させ、不活発や疑い、怠け(タマス)を弱めるための助けになります。これによって、その場にあること、つまり実在(サット)が生じるのです。無執着を養う練習をすることによって、我々は自分の体験の中に入り込んでしまう衝動を手放すようになります。
2.観察者、言い換えればチット、純粋意識が養われる。我々は意識の一部を引き離すことによって、つまり観察することによって、新たな視点を持ちます。観察者は、何もしませんし、何も考えません。観察者は、行為が行われる様子や、思考、感情、感覚が去来するのをただ見ているだけです。我々の意識の一部は活動に関わっていますが、他の部分は離れて立ち、受け身の状態です。常に観察者の状態に留まる練習をするためには、初めは努力が必要です。比較的短い期間かもしれませんし、あるいは初めから終わりまで必要かもしれません。この練習は、特に、あまり集中力を必要としない日課を行っている時、あるいは癖がついてしまっているようなことをする時に行えます。その次に、難しいこと、あるいは初めてのこと、例えば事故に遭ったり、転んでしまったような時にも行います。この視点を保つために努力が徐々に必要ではなくなり、日常生活にますますこの視点が組み込まれるようになります。
3.「私は行為者ではない」。観察者の意識が養われるにしたがって、我々は、自分を肉体や内面の動きとは考えなくなり、自分が何かを行っているとは感じなくなります。自分は観察しているだけであり、自分の肉体とマインドは道具である、と感じます。歩いている時であれ、話している時、働いている時、食べている時であれ、意識の一部は、活動に関わっていますが、意識の他の部分は離れて立っています。その部分は何もしません。その部分は、受け身の状態で、判断もせずにただ見ているだけです。自分がひとつの道具であり、神がすべてを行っているように感じます。自分の中に「行為者は存在しない」と感じます。しかし、すべてのことが為されます。でき事、偶然の一致、結果の流れを楽しみます。行為、言葉、思考がどのように結果、つまりカルマを生じさせるのかということ、そして他者に苦しみではなく幸せをもたらすために、この法をどう用いることができるのかということに対して、理解がますます深まります。自己の感覚がこのように拡大し、他者の必要を自分の必要であるように感じます。他者に愛を示し、他者が幸せを見出せるように援助します。
4.「私は存在しているそれである」。深い瞑想において、我々は、気づいているということがどういうことなのかに気づきます。意識自体が対象になるのです。「自分はすべてのものの中に在る」、「すべてのものが私の中に在る」と感じます。そして徐々に、真我に対するこの悟りが、目を覚ましている時の日常生活にも浸透してきます。神実現は、この段階が深まると生じます。あらゆる霊的教えの聖者やミスティックがこの状態を言い表そうとしましたが、一般には言葉では言い表せません。実際、それを言い表そうとすればするほど、その状態から遠ざかってしまうのです。なぜなら、それを言い表すこと、それについて考えることだけでさえ、その状態を概念まで低めてしまうからです。「それ」は名称と形態のすべてを超越し、すべてのものに浸透し、無限で永遠であるので、他のものはすべて見劣りしてしまうのです。ゆえに、「それ」を本当に知っている人たちに好まれる指導手段は、沈黙なのです。十九世紀の末にアメリカに初めてヨーガをもたらしたヨーギー、スワミ・ラーマ・ティールサが力強く「神が定義されれば、神は制限されてしまう。つまり、神について話すことはできないし、それを求めることもできないのである」と述べたようにです。
これまで述べてきた段階は一直線に起こるわけではありません。マインドの不安定さ、我々の癖(サンスカーラ)、カルマ、マーヤー、グナの動きのために、我々はこれらの段階を行ったり来たりしながら進んでいきます。しかし、一般には、我々が霊的に進歩しているのならば、これが辿(たど)る道になります。肉体や感情、内面の動きと自分とを同一視することが弱まり、それ、つまり名称と形態を超え、真我、純粋意識であり、全く神聖なものであるそれを自分だと見なすようになるのです。
徐々に獲得される神の概念と視点
神、つまり至高の存在に対する我々の概念も、先に述べた霊的な進化と類似の段階を経て、徐々に発展します。「外に」在るものから、「自分の内に」在るものへ発展します。我々が神についてどのように考えるか、そして何と一体感を持つかということを分析することはためになり、この二つは我々が霊的な道を進むにつれて進化していきます。こうすることによって、我々は低い段階に留まることを回避することができます。神学者は、宗教上の、神に対する幾つかの概念を分類しています。どの宗教もどの文化も、神に対する自分たちの概念が唯一正しいものである、と思っています。人が持つ神の概念は、その人の教育、自然に対する理解、経験、想像力、欲望、恐れによって制限されていることは明らかです。人間の置かれている状況は、人が持つ神に対する概念に投影されています。これから述べることがこのことをよく表しています。
第一段階:神は私の味方である。私は肉体。
人は恐れに気づくようになると、至高の存在を信じるようになります。恐れの最たるものは死に対するものです。原始人は、自然界のでき事は超自然的なものが原因となって引き起こされる、と捉えることで、恐れを克服しようとしました。恐れを鎮めるために、原始人は生贄を捧げ、雷、洪水、干ばつ、戦争、病、死をもたらす怒れる霊をなだめようとしました。超自然的な存在は、それが悪意を持つものであれ、善意を持つものであれ、初期の多神論の宗教においては、敵にも味方にもなり得ました。信者たちは、邪悪で悪意に満ちた力とその力がもたらす苦しみを撃退するために、神々や女神に庇護を求めました。超自然的な力は、気まぐれで、執念深いことさえありました。人生は短く、非文明的であり、生存が最大の問題であったので、何よりも庇護(ひご)が必要とされました。この段階においては、人は主に肉体を自分と見なし、生存が最大の問題です。もしも私が肉体に過ぎなければ、悪は私の生存を脅かすものです。善は安全、食物、避難所をもたらすものです。ですから、私は神に祈り、神は私の味方として、生きるために必要なものを私に提供してくれるのです。真の自分に対する無知という汚れ、そしてその結果としてエゴイズムが、肉体に深く根づいてしまいます。
第二段階:神は全能。私はマインド、人格。
社会が安定すると、生存は最大の問題ではなくなり、人間は社会上の行為を統制するために法律を作ることを求めました。人は法の権威を「全能」の神にしました。ここでは、神はあらゆる力と権威の源です。力を持つ者は力を行使します。なぜなら神がその力を自分に与えているからです。首長は王になり、裁判官は聖職者になります。しかし、権力は人を虜(とりこ)にします。なぜなら権力を持てば持つほど、欲望によってますます権力を求めるようになるからです。人間は、この段階では生存の問題からは解放され、マインドと生気体上の欲望と一体になります。エゴ、つまり肉体とマインドを自分だと見なす癖は、欲望が拡大するにつれて、ほとんど何もかもが可能であるように考えます。人は他人と争い、利己的です。権力を持ち、人は何かを成し遂げようと、他人を支配しようと、野望を果たそうとします。しかし、法を犯した時の罰を恐れているため、神に与えられた法を尊重しながら、これを行います。宗教上の教義や慣例は、知的好奇心の拡大に呼応して手の込んだものとなり、人間性をコントロールし、人間性が支配者に服従し続けるように意図されたものになります。科学が発展し、宗教に疑問を呈するようになります。宗教同士の衝突が起こります。文化同士が衝突します。政治上の慣例と宗教上の慣例が密接に結びつきます。敵を倒すため、あるいは考え方の異なるものを改宗させるために神に祈りさえします。「彼ら」対「我々」という構図です。
第三段階:神は静寂。「静かな状態になり、自分が神であると知れ」。私は観察する。
多くの人がこの状態に到達します。何らかの理由で、肉体、感覚、マインドの動きの背後に在る内なる存在を見出した時に到達します。これは、自然に生じる霊的な体験であり、この時、人は超越状態にあります。これは整然とした瞑想を実践した結果かもしれません。痛みを伴うような激しい肉体上の体験の結果として生じるかもしれませんし、あるいは高度の集中によって、通常の意識状態から離れた結果かもしれません。こうして、これまで自分が抱いてきた神に対する概念が単なる概念に過ぎないということを悟ります。つまりこれまでは、あらゆる恐れと欲望を伴ったエゴの必要にかなうように神を作り上げてきたということを悟ります。世の中に対する見方、つまり「外のもの」に対する見方は、自分の好き嫌いによって歪(ゆが)められているということを悟ります。しかし、第三段階において、人は安らぎを見出し、そして神が安らぎです。詩篇「静かな状態になり、自分が神であることを知れ」の真理を悟ります。内にある真我、観察者の意識の視点を育むことによってのみ、人は外の世の中の混乱を克服することができる、ということを悟ります。マインドが静まった時、人は純粋意識を見出します。それは部屋の明かりのようなものであり、それまでは明かりに照らされたもの、部屋の中にあるものに心を奪われていたので、その明かりは無視されていました。初めは、内面の生活と外の生活の間に緊張が存在するため、外の生活を拒絶してしまうこともあります。
この段階が進むにつれて、人は人生のすべての瞬間に静かで思慮深い気づきを養おうとします。世の中を拒絶しません。イエスの言葉で言えば、世の中にありながら、世の中に染まらない、ということです。人は、神に対する思考、つまり概念を観察者の新たな視点で置き換えます。この視点においては、思考に入り込まず、マインドが静まり、安らいでいます。実質的に、内面の動きを超え、「意識の光」の中に入ります。言葉では表せません。詩はこのことの証拠を示すことができます。あらゆる霊的教えの聖者や観察者が「それはあらゆる理解を超えた安らぎである」と述べています。この段階において、宗教やその他の理論的な体系のすべては、霊性の中へと沈んでいきます。
第四段階:神は賢明である。私は耳を傾け、私は知る。
恐れ、欲望という最初の問題を超え、内なる安らぎも見出し、人は神が自分を愛しているということ、自分を許しているということ、理解しているということを悟ります。したがって、神は賢明であるのです。神はすべてを知っており、それゆえ、神に耳を澄ますことによって、自分もまた知るのです。私は、静かになり、受動的になり、直観が語るに任せることによって、神に耳を澄まします。私は、学校で学んだからではなく、ただ知るがゆえに知っている存在と一体になり始めます。私は、自分の知る必要のあることに集中すれば、自然に理解がもたらされるようになります。物事が明らかになります。あらゆる物事の背後にある真理がわかり、叡智がもたらされます。永遠なるものと非永遠なるものの違い、喜びをもたらすものと苦痛をもたらすものの違い、自分は何者なのかということ、永遠なる魂、純粋意識が見分けられます。関心事は、ルールに従うことや、苦痛なことを避けることではもはやなくなります。特に、混乱からなる「外の」世界でや、以前のレベルでのように、そうすることではもはやなくなります。人は愛情溢れる超越した神に目を向け、自信に満ち、自分のハートに宿るそれを常に大切にし、自分は愛されている、浄化されている、直観で神に導かれていると感じます。この段階の最後では、正しいことと間違っていること、罪悪感やプライドに関するあらゆる概念を手放し、自分は完全に無垢であると感じます。他者と一体であると感じ、他者を愛し、他者が幸福を見出せるように援助します。
第五段階:神は協働者である。私が創造する。
霊的進化のこの段階において、自分には自分の人生を創り上げる力と責任があるということを悟ります。人は、「目を開けた状態で夢を見ている」という一般人の状態を超え、ヴィジョンを持つ者の状態に移ります。先見の明を持つ者になります。自分の夢、つまり叡智と真我実現の道にかなっていると自らが知っている夢を信頼し続けます。神はもはや遠くの存在ではなく、自分を神の協働者であると感じます。神は慈悲深く物事を与えてくれます。神は鼓舞してくれます。何かを起こそうと意図すると、宇宙がそれを実現させる手助けをしてくれます。人はそれを成し遂げるために努力しなければならないかもしれませんが、自分は行為者ではなく単なる道具に過ぎないと感じます。なりゆきについては辛抱強く、宇宙が物事を適切に為すと信頼しています。人は現在という瞬間に留まり、為されるべきことのすべてが為されます。人がエゴの必要や好みを浄化するにつれて、神の意思とますます調和するようになります。結果がどのようなものであろうと、神の恵みを受けていると感じます。
第六段階:神は不思議なもの。私は光り輝く自己認識。
神を協働者として認識し、人は世の中を創造の奇跡として捉えるようになり、自分の人生が活動の舞台になります。奇跡が溢れています。ヨガナンダの言葉によれば、神は「常に新たな喜び」であり、そしてあらゆる瞬間、あらゆるでき事が荘厳であるのです。人は、神を原因のすべてを超えたもの、創造に影響を受けないもの、意識の光として捉えます。自分の内奥に存在する真我も同じ光り輝く自己認識であることを悟ります。光は意識を表す比喩ですが、光はミスティック、ヨーギーが魂の奥深くで体験するものでもあります。神は時と空間を超越し、何にも制限されません。このレベルにおいては、神の恩寵により、多くの素晴らしいでき事がもたらされます。人はありふれた事柄の中に神聖さを見出します。人はヨーギーの目で、あらゆる所に存在する神を見ます。カルマとは違い恩寵は身に余るもの、つまり我々の行為が善いか悪いかに関係しないものであり、名称と形態を超えたそれと一体になりたいという我々の叫び、好き嫌い、獲得と損失、成功と失敗、名誉と不名誉という二元性を手放したいという叫びに対する神の応答なのです。エゴの、あらゆる欲望からなるゲームは大きな罠であるということを認め、頭の中だけではなく、意識的に自らを神に明け渡します。エゴのゲームから解放されることを求めます。内面の動きを超えたそれ、つまり根本の源、意識の光に没入するようになります。
第七段階:神は実在・意識・至福。「私は在る」
マインドの二元性を逃れ、人はサット・チット・アーナンダ、つまり実在・意識・至福という非二元的な状態に到達します。この状態は、何事にも依存しないので、無条件のもの、つまり絶対的なものです。ただ在るだけであり、人は「私は存在しているそれである」と悟ります。人は特別な存在ではなくなります。特別なことを何も経験しません。なぜなら、特別であることには分離していることが暗に示されており、このレベルにおいては、人は二項対立を超え、すべてのものと一体になります。神学者が一元論と分類するこのレベルにおいては、唯一ひとつなるものしか存在しません。有神論(一神論)においては、魂と神が存在し、それらは分離しています。一元論の観点では、ひとつのものしか存在しません。それは、無限、不変、永遠、言葉では表せない、すべての源です。人は、深い瞑想状態で、マインドが静まり、意識が拡大した時に、それに接触します。モーゼが神に「あなたは誰ですか」と尋ねた時、神が燃えている柴の向こうから彼に話した時、「私は存在しているそれである」と答えました。これは、客体と主体の究極の存在状態を表しています。「私」は主体であり、「それ」は客体です。これは空(くう)ではありません。これは、あらゆるものの源です。至高の知性です。ここでは、ここに在ることが唯一の行き先になります。為すことではなく、在ることが手段と目的地になるのです。ドラマがいかなるものであろうと、今に在ることによって、気づきがもたらされ、気づきが至福をもたらします。サット・チット・アーナンダ。「あなたは誰ですか」という問いに、「私は在る」としか答えようがなくなります。他の答えは、自分を誤って捉えている状態、つまりエゴのゲームから生じていると思われるのです。昔の習慣的な傾向、好み、嫌悪は背後へと退き、「私は在る」という感覚が支配します。もはや「他のもの」は存在しません。もはや特別な地位、つまり「大師」、「グル」、「帰依者」、「弟子」は存在しません。唯一ひとつなるものだけが存在します。ヨーガでサマーディと呼ばれるこの悟りは、深い瞑想体験の中で生じます。しかし、一般に人の持つ条件づけは非常に強いので、自分を記憶や肉体、マインドと一体化してしまうために、この悟りは長い間、達成困難なものです。この状態に繰り返し戻ることによって、無知、エゴイズム、錯覚、カルマの汚れが、真我実現という光の中で徐々に洗われるのです。もはや特別な体験を望みませんし、特別な存在になろうともしません。なぜなら特別であることは分離を生み出し、人がすべてのものと一体になると、他のものは存在しなくなるからです。
変容
いかなる霊的教えの出身であろうと、この状態に達した聖者は、この状態があまりにも充実したものなので、この世に留まりたいという思いが他の欲望と共に徐々に弱まるのを感じます。肉体には様々な必要が関わり、相変わらず気をそらさせるものなので、この第七段階に達した高度に進化した聖者でさえ、天国へや輪廻転生からの解放を求めて、文句を言わずにこの世を立ち去ります。
しかし、中国やチベット、インドには、霊的進化が先に述べた7段階目で、霊体において終わるのではないことを予知した大師たちの古(いにしえ)の教えが存在します。神はここに存在するということを悟り、霊体の次元で魂を神に明け渡すことを超えて、自らを神に明け渡したのです。知性、つまり知りたいという欲望を明け渡し、彼らは賢者になり、注意を向けさえすればどのようなテーマに関しても深遠な知識が得られるようになりました。こうした知識は、通常の学習や実験・実地による調査からではなく、関心の対象と直観で一体になることによってもたらされました。この洞察に満ちた知識は、最も深遠な真理を表し、多くの場合筆舌に尽くしがたいものであり、サマーディという深い集中と専心の中での最高の知性からもたらされたものでした。
さらに、マインドのレベルで自らを明け渡し、大師は「シッダ」、つまり透視、予言、透聴のような潜在的な力を現す者になりました。生気体のレベルで自らを明け渡し、マハー・シッダ、つまり偉大で完成された大師は、肉体が浮き上がること、物を物質化すこと、自らを非物質化すること、自然や物事をコントロールするようなさらに高度な力を現しました。さらに、肉体のレベルで明け渡し、細胞さえもこれまでの限定された再生を放棄し、大師の意思と意識に密接につながるようになりました。肉体は傷つくことがなく、不死身で、自然の法則の支配を受けなくなりました。神へのこのような段階的な明け渡しは、苦しみからなるこの世を離れたいという思いではなく、すべてのレベルで、霊体、知性体、メンタル体、生気体、肉体という五つの体のすべてで、自らを通して神を現したいという思いから現れます。物質と精神の分離を見るのではなく、唯一の霊、すべては神である、と捉えるシッダは、人類の進化の最先端を行きます。シッダにとっては、病気にかかった肉体で神を悟ることは、完成ではありません。シッダは、「天にいる父が完全であるように、あなたも完全になりなさい」という弟子に対するイエスの教えを実現したのです。
8.二十一世紀のヨーガ
フランスの哲学者、アンドレ・マルローは、「来世紀は霊的なものになるだろう。さもなければ、来世紀はありえない」と予測しました。核による自己破壊というさしあたっての脅威は、冷戦の終結とともに薄らぎましたが、本当の戦いは、今日の世界で何十億人ものハートとマインドで行われ続けています。「深層生態学」という言葉で現代の思想家の幾人かが表すものは、霊、マインド、肉体、環境の相互関係に対する古くからあるヨーガ的な見方を表します。
昔は、多くの人たちがヨーガを懐疑的に捉えていました。おそらくこれはヨーガが風変わりな外国の文化のものだったからでしょう。しかし、今日、ヨーガは世界中で知られるようになりつつあります。アメリカだけでも、ローパー組合の最近の調査によると、六百万人以上の人々がヨーガを実践している、と見積もられています。これは、成人人口の約五パーセントです。九十五パーセントの人々はまだ行っていないということですが、重要なことは、この五パーセントの人々が周りの人々に与える影響です。ヨーガを実践しているほとんどの人たちは、ハタヨーガのみを実践し、瞑想はほとんど、あるいは全く行いませんが、ヨーガは逆立ちをしたり、体を伸ばすだけのものではない、ということがますます認識されるようになってきています。
このことを知って、我々は何をするでしょうか。最近我々が行った国際集会に参加した人々の意見は、次の三つに要約されます。
1.ヨーガのサーダナを行うこと
2.ヨーガを仕事と家族生活に統合すること
3.他者に情報を提供すること
ヨーガのサーダナを行うことは非常に重要です。これは、我々の個人的な幸せと健康のためだけではなく、自分の周りの人々すべてにとって重要です。我々がヨーガを行うと、我々のいる環境と我々が接する人々にエネルギー上の影響が直接生じます。安らぎ、喜び、気づきはすべて伝染するのです。
ヨーガを仕事と家族生活に持ち込むということは、ストレスを生じさせるような状況の中で平静さを養う練習をし、緊張に気づき、自分の呼吸を観察し、自分の仕事をカルマヨーガとして上手に行い、それでありながら結果には執着しないということを意味します。他者、特に我々が一緒に生活し、一緒に仕事をする人々と共に「その瞬間に存在すること」、そして愛と善意をその人々に放射することを意味します。ヨーガによって、よい聞き手になる技術が養われます。
他者に情報を提供するということは、ヨーガとは何か、その効果はどのようなものかということを教え、頻繁に生じる誤解を解くことを意味します。これには、古来のものと現代のものの両方について研究し、自分の理解を深め、ヨーガの真理を伝達する能力を磨くことが必要になります。ここには、文化的な違いについて敏感であること、そして可能であるのならば、緊張をほぐしたり、良い睡眠を得たり、エネルギー、健康、内なる落ち着きの力強い新たな源を見出すために、ヨーガがどのように機能するのかを実際に示してあげることも含まれます。また、ヨーガに関するお気に入りの本を友人や知り合いに教えたり、雑誌やネット上に記事を書いたり、ポーズや初歩の瞑想法、ヨーガの道について話をしたり、講義することも含まれるでしょう。ヨーガが社会運動となる時が来ました。ヨーガの実践者は、他者に対して手を伸ばし、最高の自分を他者と分かち合うのです。
ヨーガがよく知られたものになるだけではなく、我々の文明を高みへと導く強力な力となる新たな時代に我々は入りつつあるのです。
9.タパス 自ら課す難題
1970年代の初頭、私が若いブラフマチャリアだった時、私の師は、よく私に特別な誓いを立てさせたものでした。これには、週に一日、沈黙の日を設けること、週に一日、断食の日を設けること、四十八日間毎日、ある技法を行うこと、週に一度の沈黙に入る前にクリヤーヨーガの誓いを唱えること、独身でいること、菜食であること、毎日マントラを最低でもある回数は唱えること、一日につき八時間ヨーガのサーダナを行うこと、そしてもっと全体的なものとしては、ババジのクリヤーヨーガを実践すること、全体に対して献身することが含まれました。また、師は、二十四時間休むことなくヨーガを実践すること、つまり「タパス」を行うことを求めました。これらのことを、私は師の指導の下で過ごした十八年の間、規則的に行いました。これらの苦行や体験については『私がババジの弟子になるまで』の中に書かれています。なぜこのようなことをしたのか、と疑問に思われるかもしれません。
タパスと自己浄化
「私は何者か」「どうすれば神を知ることができるのか」「苦しみの世の中にあって、どうすれば永遠の幸せを見出すことができるのか」という人生に関する重要な問いは、偉大な霊的教えによれば、浄化を経ることによってのみ回答がもたらされます。人間として、我々は、真我に対する無知とエゴイズムのために、肉体とマインドを自分だと思い、欠陥だらけの状態です。ヨーガは、人間が持つこれらの欠陥を克服するための実際的な手段を提供してくれます。ヨーガは、様々な観点から捉えることが可能であり、最も有効な見方のひとつは、自己浄化をもたらす完璧な体系であるというものです。タパス、言い換えれば苦行では、自分の持つ習慣から生じる制限を克服し、自己を浄化するために、誓い、意志、忍耐を用います。パタンジャリは、「タパス(苦行)によって、肉体と感覚の不純物が破壊され、完成がもたらされる」(『ヨーガスートラ』第1章第43節)と述べています。
「タパス」という言葉の文字どおりの意味は、「熱」や「白熱光」です。インドの最も古い聖典であるヴェーダでは、ヨーギーは、タパスつまり自ら課した難題を実践する者という意味の tapasvin と呼ばれています。スルヤは、ヴェーダの中で神を表す名であり、太陽神を表します。ヴェーダによれば、スルヤは、タパスの最初の実践者であり、そしてヨーガの創始者であり、Hiranyagarbha(黄金の子宮あるいは太陽)と呼ばれます。『バガヴァッド・ギーター』では、太陽、つまりVivasvat がヨーガの最初の教師であると述べられています。古代のヨーギー、つまり tapavin は太陽崇拝者であり、古代のヨーガの名残は、ハタヨーガのどの教えにも見受けられる太陽礼拝に見て取れます。
パタンジャリは『ヨーガスートラ』の第3章第5節で「自らのありようが真我の純粋さと同じになった時、解脱が生じる」と言い、マインドが鏡のようにきれいになり、真我つまり純粋意識の本来の光輝を反射することができるようになった時、悟りが生じる、と述べています。
タパスは、「熱烈な修練」あるいは「苦行」を意味します。タパスは、真我実現のための熱烈な(長期にわたる)修練を表します。真我実現には、肉体、感情、マインドの生来の傾向を克服することが必然的に含まれます。肉体、感情、マインドに存在する抵抗のために、熱や痛みが副産物として生じることがありますが、これが目的ではありません。目的は、肉体、感情、マインドの支配と、意識がこれらの中に入り込みすぎることを克服することです。
『ヨーガスートラ』の第2章第1節で、パタンジャリはクリヤーヨーガを「タパス(熱烈な修練)、スヴァディヤーヤ(自己探究)、イーシュワラ・プラニダーナ(神への献身)」と定義しています。スートラの第1章第13節では、「この文脈において、(意識の揺らぎと一体になることをやめた状態に)留まるための努力が常修である」と述べ、我々の為すべきことを明確に説明しています。
タパスの三つの要素 意図・意志力・忍耐
タパスは、意図、つまり「あることに耽らない」と誓うことから始まります。これにはあらゆるものが含まれます。肉体的な楽しみ、食べ物、セックス、テレビ、瞑想中ならば不必要な動きなどです。意図を明確にすると、目標が設定されます。希望、あるいは将来行うというものではなく、今これを「私は行っている」という明確なメッセージを潜在意識に送るのです。期間はどれくらいでしょうか。これは誓いや意図によって異なります。例えば、瞑想であれば三十分とか六十分、沈黙や断食であれば一日、特定の食べ物、飲み物、活動であれば一カ月という具合です。
タパスの第二、第三の要素は、意志力と忍耐です。肉体的な力を養うスポーツ選手と同じで、tapasvin は、繰り返しそして規則的に意志を用い、徐々に意志力を養っていきます。まずは比較的短期間、欲望や反感を遠ざけることから始めます。多くの場合、ある執着、反感、あるいは「私はこの感情、感覚、思考」であるという感情や思考から引いて立ち、それを手放すことが含まれます。これは、「ヴァイラーギャ」つまり「無執着」と呼ばれます。これには、努力と意志力、そして相当な期間、常に繰り返すことが必要になります。遠ざけておく期間が徐々に長くなり、最後には完全に手放すようになります。しかし、完成された tapasvin は最終的には平静な状態へと到達し、欲望や反感の対象があろうがなかろうが、ただ楽しみます。このように、意図、努力、忍耐はタパスの重要な要素です。
喜びの追求そして消費主義的である現代のライフスタイルでは、何かを進んで慎む、控えるといったことは、大多数の人にとっては、不合理であり、今日の「良い生活」には合わないという印象を持つでしょう。こうした人々は、我々の内にあり、執着や反感に対する衝動を統御した時に見出される喜びを認識することができません。マインドは常に欲望や恐れのことを考え続けますが、こうしたものに対してほんの少し冷静さを発揮すれば、空の雲のように消えてなくなるのです。
『バガヴァッド・ギーター』(第17章第14節から16節)には、肉体の苦行、言葉の苦行、マインドの苦行という三種類のタパスが述べられています。肉体の苦行には、清潔、純潔、非暴力、礼儀正しさ、思いやりのある行動、献身的な活動が含まれます。言葉の苦行には、よく考えた後に、真実だけ、役に立つことだけ、必要なことだけを語ること、人の感情を害するようなことは言わないことが含まれます。また、神の名を唱えることを含めてもよいでしょう。マインドの苦行には、沈黙、落ち着き、集中、識別、思いやりのない思考を持たないことが含まれます。これらの苦行によって、愛、感謝、勇気、受容と関係する、内面を高揚させてくれる感情が養われます。
タパスは、見返りを期待せず、ヨーガを信頼して行わなければなりません。こうすることによって、悟りの前提条件となる平静さが養われます。成功であろうが失敗であろうが、損失であろうが獲得であろうが、快いものであろうが不快なものであろうが、暑かろうが寒かろうが、元気があろうが疲れていようが、その瞬間に存在するものを静かに受け入れます。こうして二元性を超え、合一へと至るのです。
タパスに励むことによって、強大なエネルギーと意志力が養われ、自分の人生を統御し、どのような障害でも乗り越えられるようになります。超意識の光が発達します。微細体だけではなく、最終的には肉体においても、太陽のように光を放射するようになります。すべての人に対する光、温かさ、愛の源になります。
10.サマーディ
ヨーガを研究し始めて間もない人は、たいていヨーガの究極の目的(幾つかある)が何なのかほとんど、あるいは全くわかっていません。現代においては、ヨーガがスーパーマーケットのようなものになっています。つまり、自分が探しているものを何でもそこで見つけることができるものです。肉体的なものであれ、感情的、メンタル的、知性的、霊的なものであれ、その時のその人の必要が動機となりがちです。今日、多くの場合、人はストレスの影響をコントロールする方法、あるいは心の安らぎを見出す方法を探しています。その方法というのは、たいてい、人生のストレスや緊張という不快な症状から一時的に解放してくれる「応急処置」的な方法です。
人は時々、誰かが「サマーディ」「真我実現」「悟り」のようなより高次の「霊的」目標について話しているのを耳にします。しかし、たいていは一般人がそうした高尚な状態に「達する」のは現実には不可能であるから、やってみる価値があるのだろうか、というような話し方をします。ゆえに究極の目的に関する説明は良くて曖昧であり、悪ければ抜け落ちています。ヨーガの究極の目的が何なのかについて明確に理解していなければ、ヨーガの実践者は必然的にそれを逃してしまいます。実践者がそれを垣間見た時でさえ、その価値がわからないでしょう。さらに悪い場合には、つかの間の霊的な体験を把持するべきもの、繰り返し求めるべきものと勘違いしてしまうかもしれません。
「サマーディ」とは人が考えないこと
この表現は字義的にはかなり正確です。なぜなら「サマーディ」は人が考えないことであり、マインドの沈黙を必然的に伴うからです。そういうわけで、サマーディについて語れば語るほど、サマーディから遠ざかるということもまた真なのです。「サマーディについて語る者はサマーディを知らず、サマーディを知る者はサマーディについて語らない」という格言があります。サマーディは思考の間にある空間です。それは物、対象ではありませんので、理解することはできません。すべての形態と概念を超えています。ですから、サマーディはひとつの体験ではなく、何も特別な体験はしない、自分は特別な存在ではないという準備ができた時に初めて、サマーディを知るのです。サマーディは主体であり、客体ではありません。サマーディを知ることはできませんが、サマーディ状態でいることはできます。この時、意識が、気づいているということがどのようなものであるのかということに気づいています。これこそ、「認識作用の没入」という言葉で表されることです。意識がそれ自身に入り込むのです。サマーディでは、肉体、感情、思考と自分とを一体化することがなくなります。エゴイズムは一時的に停止しています。
人間性の抵抗により、繰り返し通常の意識に引き戻されるので、サマーディは一般に安定しません。サンスカーラ、つまり潜在意識の浄化が十分に進み、肉体上、感情上、メンタル上で平静さが高度に保たれるようになるまで、これが続きます。長い間サンプラジュニャータ・サマーディという低次のサマーディに繰り返し入った後、ようやく、アサンプラジュニャータ、あるいはニルビカルパ・サマーディと呼ばれる高次のサマーディによって、人は悟りに至ります。悟りとは、サマーディ、あるいは真我実現が継続している状態と定義することができます。しかし、これさえも最終的な到達点ではありません。たいていは霊体に限定されているので、悟りを得た人や聖者が、病気の肉体や神経症的なマインドを有していることがあります。こうしたものを神に完全に明け渡して初めて、あるいは明け渡せば、賢者、シッダ、そしてマハー・シッダとなるのです。
三段階目のイニシエーションにおいて、比較的容易にサマーディ状態に入ることができる数種類のクリヤーを学びます。しかし、本当のサーダナはここから始まるのです。というのは、サマーディ状態を断続的なものではなく、継続的で安定したものにできるようにならなければならないからです。
サマーディへと導いてくれる信頼できる手引きを見つける
また別の問題は、現代世界においては、ヨーガと「自己成長」が、書籍やセミナーを通して巨大な産業となり、たいていは実証されていないか、あるいはつい最近できたばかりであるような競合する方法がたくさんある、ということです。どれが本物か、どうしたら判断できるのでしょうか。どの道がヨーガの究極の目標に導いてくれるのでしょうか。究極の目標とは何でしょうか。
こうした問いに答えるには、パタンジャリの『ヨーガスートラ』やティルムーラルの『ティルマンディラム』のような権威ある古典に立ち返ることが有効です。パタンジャリは、ヨーガの究極の目標を「サマーディ」「認識作用の没入」であると定義しています。第1章第17節で、一段階目のサマーディを「サンプラジュニャータ」と呼び、「対象志向的な没入には観察、内省、喜び、私は在るという純粋な状態が伴う」と述べています。通常の肉体意識においては、我々の気づきは、五感の注意の対象物に吸収されます。空想や思考している時には、我々の意識は思考や記憶、感情に吸収されます。この二つの場合には、我々は「気づいている者」に気づいていません。「認識作用の没入」においては、我々は「気づいている者」つまり観察者、純粋な主体に気づくようになるのです。注意の対象物は背後に退きます。真我、観察者が意識の前面に来るのです。我々は、思考や感覚、感情ではなく、観察者と一体になります。
通常の意識においては、五種類の「ヴリッティ」つまり意識内に生じる揺らぎである、正しい知識、誤解、思考、眠り、記憶と我々は一体になってしまう、とパタンジャリは第1章第6節で述べています。
サンプラジュニャータ・サマーディ
「サンプラジュニャータ」つまり区別の存在する没入には、四つの状態があります。これらは単なる「メンタル的な」揺らぎ、つまり「ヴリッティ」ではなく、主体と客体の融合からもたらされるものです。高次のサマーディである「アサンプラジュニャータ」サマーディとは異なり、支え、言い換えれば出発点となる物体や精妙な対象が存在します。これらは、最も崇高な霊的レベルも含めた自然界のものかもしれません。
まず、インド哲学に関わる最も伝統的な概念を説明したほうがよいでしょう。つまり、第1章第16節と第1章第24節で述べられている「プラクリティ(自然)」と「プルシャ(真我)」という言葉についてです。プラクリティは、プルシャ以外のすべてであり、ここには物質から精神的次元までの全宇宙が含まれます。完全に主体的である真我(私は在る)とは異なり、プラクリティは、客観的な現実であり、真我によって観察されるものです。これは、どんなにつかの間のものであっても、現実のものです。プルシャ、つまり真我は純粋な主体であり、意識の中心にあります。プルシャが意識を照らすのです。プルシャがなければ、マインドにも精神にも意識上の活動は起こりません。目には見えない電気がなければ、電灯は光を発しないのと同じです。プラクリティは、神秘的な状態、言葉では表せない状態の自然であり、またここから出現する多様な現れとしても存在しています。
プルシャを知るためには、まずプラクリティを理解しなければなりません。まず初めに、自然の様々な現れについて考えてみる必要があります。
1.ヴィタルカ:物質的な自然を構成要素の特徴まで分析し、観察すること。
サヴィタルカ・サマーディは、マインドが物体に集中している時に生じます。
物体に集中して没入する「トラダク・クリヤー」や五つの精妙な要素を用いたディヤーナ・クリヤーである「ヤーナ・インドリヤ」によって、この状態を知ることができます。
2.ヴィカーラ:物質的なものを用いず、精妙な性質に対して熟考することであり、これにより抽象的な真理を体験する。
サヴィチャーラ・サマーディは、マインドが抽象的なものに集中している時に生じます。
「真理」「愛」「叡智」のような抽象的概念に関するディヤーナ・クリヤーによって、この状態を知ることができます。
3.アーナンダ:純粋な喜び。外的な状況に左右されない喜びが、認識作用の没入によって生じます。
サーナンダ・サマーディは、物体も抽象概念もなく、喜びそのものが唯一の対象である時に生じます。
ババジのクリヤーヨーガの第二、第三段階のイニシエーションで伝授される「ニッティヤーナンダ・クリヤー」を行うことによって、この状態を知るようになります。
4.アースミター:私である。純粋な主体性。
サアースミター・サマーディは、我々が「私である」ということのみに気づいている時に生じます。しかし、サンスカーラ、つまり潜在意識の傾向が依然マインドの中に種子という形で存在していますので、刺激を受けると、現れる可能性があります。
ババジのクリヤーヨーガの第三段階のイニシエーションで伝授される様々な「サマーディ・クリヤー」を実践し、粗大なレベルから最も精妙なレベルまで内面深く入ることによって、プルシャをプラクリティから引き離すことができ、最初の段階のサマーディに関わる四つ状態を理解することができます。
アサンプラジュニャータ・サマーディ
第1章第18節でパタンジャリは「思考に対する無執着(内面の揺らぎに対する)を常に行うことによって、無執着という思考だけが潜在意識内の印象として残る。これがもうひとつのサマーディ、アサンプラジュニャータ・サマーディ(区別の存在しない)であり、前のもの(サンプラジュニャータ)の後に生じる」と述べています。ここではもう支えとなる対象は存在しません。これは、「プラクリティ」を理解した後、言い換えれば自然を四つの現れで「プラジュニャー(識別)」した後、つまり対象志向的な没入の後に生じます。様々な方法を用いて無執着の修練を常に、そして長期間行うことによってのみ、これら四つのものが停止します。「アサンプラジュニャータ(区別の存在しない)サマーディ」は、サンプラジュニャータ・サマーディの後に続き、長期にわたって、瞬間瞬間の無執着と真我認識を実践することによってのみ、可能となります。ゆえに最高の無執着がこれを達成するための手段になります。なぜなら対象物が集中の基礎になっている時には、この状態に達することができないからです。無執着に関する潜在的な印象だけが残ります。
第1章第20節でパタンジャリは「他の者(ヨーギー)にとって、このアサンプラジュニャータ・サマーディは、信念、記憶、認識作用の没入、識別によってもたらされる」と述べています。前の節で言及したヨーギーたち、アサンプラジュニャータ・サマーディに到達する前に肉体を離れたヨーギーたちと対照させて、この状態に到達するヨーギーは、次のことを養うことによって、その域に達すると言います。
シュラッダー:自分の能力、自分が行うサーダナあるいは方法、そして教師を信頼し、ヨーガを完全に信じること。
ヴィールヤ:そうした信頼から生じ、感情もサーダナの支えとなるような熱烈な献身さを生み出すエネルギー、熱意。
スムリティ:記憶。この記憶によって、人は世俗的な視点に戻らないように、常に自分の道、学んできた教訓を思い出し、注意を払っている状態に留まる。
サマーディ:規則的に、認識作用の没入を経験する。マインドの揺らぎや乱れのために安定はしないが、ヨーガのサーダナによって発展する。
プラジュニャー:識別、洞察。瞬間瞬間の研ぎ澄まされた真我認識によって、人生のでき事から洞察や手引きを得る。
霊的なエネルギーと力によって、注意力と用心深さがもたらされます。世俗的な視点に陥らないように、常に自らの道とこれまでに学んできた教訓を思い出します。この記憶によって、常に熟考した状態がもたらされます。
この熟考、言い換えればサマーディによって、真我とそうではないものとの識別が生じます。
「アサンプラジュニャータ・サマーディ」は、「サンプラジュニャータ・サマーディ」を繰り返し体験し、潜在意識の傾向が徐々になくなると、生じるでしょう。しかし、『スートラ』で述べられているような肯定的な傾向、つまり信念、熱意、用心深さ、識別、熟考を育むことによっても生じます。これらによって、理想的な状態が生み出され、古い傾向がなくなるのです。
熱意があり、専心する実践者にとって、これ(サマーディ)は近い(『スートラ』第1章第21節)。
サマーディ、つまり真我の体験を垣間見、マインドが内に集中し、至福で満たされることがあります。しかし、本当に大切なことは、これを長期にわたる安定した状態にするということです。そうするために、熱心に専心してサーダナに打ち込み、観察者の意識を養い、散漫な傾向から離れ、マインドと五感を常に内に向けなければなりません。集中と観察者の意識が、自然なものになり、そして継続するようになった時、この状態は熱烈な修練(テーヴラサーマヴェーガ)と呼ばれます。
自らの内なる存在の中でサマーディを垣間見た時には、その状態を外の人生に持ち込むことが賢明でしょう。『シヴァスートラ』には「世の中の至福は、サマーディの至福である」と書かれています。
(サマーディまでに)必要な時間は、修練が、弱いものか、中程度のものか、熱烈なものか、によって異なる(『スートラ』第1章第22節)。
弱い修練は、むらがあり、散発的なものであり、疑念に溢れ、浮き沈みがあり、人の注意を奪ってしまう乱れに満ちているものです。中程度のものは、熱心に打ち込む期間と、忘れっぽく、注意散漫で、否定的な思考や傾向に入り込んでしまう期間が交互に起こるものです。熱烈な修練は、真我を忘れないという決意、成功と失敗、喜びと苦しみの中でも平静さを維持するという決意を常に持ち、愛、自信、忍耐、他者に対する思いやりが増大するものです。自分の選んだ神を崇(あが)めたり、すべてのものに浸透している神を見ようと努めたり、現れ出る自らの欲望を超えようと努めると、修練は熱烈なものになります。出来事や状況がどんなに困難であろうが、マーヤー、つまり錯覚に満ちたドラマがいかに強かろうが、常に神性に目を向け続けるようになります。
修練を熱烈なものにするためには、ヨーガに徹底的に浸ることです。毎日、一歩前に進みます。すべてのものが神の計画の一部であり、人間の進化のために完璧に展開していると見るのです。神の計画に反するものは何もないと見ます。このことを忘れず、粘り強くやり続けるのです。
11.カイヴァリヤ 完全なる解放
ヨーガの最終目的は何か。パタンジャリは『ヨーガスートラ』の最終章である第4章で、この問題を詳しく述べ、それはカイヴァリヤであると述べています。ほとんどの注釈者、特にパタンジャリの哲学の二元性を強調する注釈者は、この言葉を「独存」と訳しています。悟った魂の最終目的は肉体から離れることであると結論づけています。ここでも霊と肉体の分離であり、精神世界に関する文献で何度となく述べられていることです。私は著書『パタンジャリとシッダのクリヤーヨーガスートラ』で、パタンジャリのクリヤーヨーガはプルシャ(意識、真我、見る者、主体)とプラクリティ(自然、見られるもの、客体)によるサーンキヤ哲学に基づいていると述べると同時に、またパタンジャリの哲学と理論は全般的にタントラ、特にシッダーンタの影響を受けていることも示しました。この新しい見解に基づけば、カイヴァリヤの意味を「絶対的自由」と取ることの方がより正確です。
カイヴァリヤが、古典ヨーガの目的であるので、この言葉の意味を明確に理解することが重要です。著名な学者であるゲオルグ・フォイヤーシュタインのように、ほとんどの注釈者は、パタンジャリが述べたカイヴァリヤ(独存)を達成するためには、アサンプラジュニャータ・サマーディとして知られる最高のサマーディに至った者は、この世を後にしなければならないという、かなりわびしい結論を下しています。
この結論はおそらく自然(外的世界)に対する偏見、特に、精神世界の伝統の全般、そして隠遁を奨励する伝統に行き渡った人間性に対する偏見に根ざしています。この偏見には、自然の法則は不変であり、それゆえこれを逃れる唯一の方法はこの世を離れることであるという思い込みがあります。悟った魂が、人間の乗り船である知性体、メンタル体、生気体、そして肉体さえも変容する偉大な潜在能力を備えていることを無視しています。シッダ、最近ではオーロビンド、さらにケン・ウィルバーのような現代の作家が、我々には人間の性質全体を変容する潜在能力があると断言しています。シッダの文献の中には、同様の言及が多く存在します。不幸にも最近まで、イニシエートの世界以外ではこれらの文献が無視されてきました。
パタンジャリは『スートラ』第1章第3節で、「見る者は、本来の姿(スヴァルーパ)に留まる」と述べています。つまり、個別の魂(ジーヴァ)が拡大し、真の性質あるいは形であるシヴァ、つまり最高の意識を帯びるのです。パタンジャリやシッダが述べているように、サマーディが徐々に完成し、これによって多くのレベルで根本的な変容が起こります。『スートラ』第4章第34節によれば、自然を構成するグナによってのみ突き動かされていた人間の性質は、高次の性質(スヴァルーパ)に取って代わられます。スヴァルーパという言葉は、字義的には、「本来の形、性質」という意味を表します。ティルムーラルや他のシッダたちは、しばしばスヴァルーパを「自ら発光する現れ」と言い表します。
『スートラ』第2章第25節でパタンジャリはカイヴァリヤを次のように定義しています。「この無知(アヴィディア)が消えると、そういった統合(サンヨーガ)は起こらなくなる。これが、見られるものからの絶対的自由(カイヴァリヤ)である」。第2章第5節でアヴィディアは「無知」と定義され、「無知は、非永遠を永遠、不純を純粋、苦痛を喜び、非真我を真我と見なすことである」と述べられています。第2章17節でサンヨーガについてパタンジャリは、「取り除かなければならない苦痛の原因は、見る者と見られるものの統合(サンヨーガ)である」と言っています。サンヨーガは、外の体験と真我とを同一視してしまう通常の意識状態と理解することもできます。例えば、我々が「私は疲れている」「私は心配している」「私はあれが欲しい」などと言う時、我々は、見る者と見られるものとの統合(サンヨーガ)を生み出してしまっているのです。
第4章第27節でパタンジャリは、このサンヨーガの状態から逃れる方法は意識内に起こるヴリッティ、つまり揺らぎやそれに伴うクレシャ、つまり苦痛との同一化を捨て去り続けることである、と述べています。そして『スートラ』第1章第12節では方法が説明されています。「継続的な修練と無執着によって、(意識の揺らぎとの同一視が)止む」。またパタンジャリは第2章第26節で「識別を伴う不断の洞察がそれを取り除くための方法である」と述べています。
シッダーンタという言葉は、シヴァ神を信仰する者(シヴァ派)にとって完全という最終目的を意味します。シッダとは、シッディ、つまり完全あるいは特別な力を体現した者のことです。「私は至高の存在である」とヴェーダを信奉する者は言い、「私は至高の存在になるだろう」とシヴァ派の者は言います。カイヴァリヤは最終到達点を意味すると同時に、また無限の可能性の始まりでもあります。絶対的自由の始まりと理解されるカイヴァリヤは、完全な自己放棄によってすべてのレベルに最高の存在を導き入れたシッダの状態そのものです。これによって、精神世界のほとんどの教えで言われるような、この世から離れる上昇的な進化だけではなく、すべてのレベルにおける総合的な発達が起こるのです。このすべてにおける変容のみが、「完全」という言葉に値します。病気の肉体、乱れたマインド、乱れた生気体に霊的目覚めが起こったとしても、それは完全ではありません。シッダが肉体を保持し続けるかどうかは、重要なことではありません。シッダが肉体に残り続けるのは、人間という種族に目覚めと変容をもたらすために道具として用い続けるためです。肉体を離れるとしても、それは肉体の衰えによってそうせざるを得ないからではありません。仏教における、すべての生きとし生ける者が自由を達成するまで、この世に戻り続けるという菩薩(ぼさつ)の誓いとは違って、シッダーンタを信奉する者は想像上のものでも、無価値なものでもないこの世を変容させるために献身するのです。この世は本質的に神聖なものです。この世は神の集合体の「縁」であり、我々を通して神が最高の潜在能力を実現させる場なのです。
ゆえに、第四章が最終章ではありません。我々が潜在能力を現し進化を遂げていくので、最終章はまだ誰にも書かれていないのです。
パタンジャリは第4章第2節で、人類が想像もつかないような可能性を秘めた新たな種へ進化する見込みと、さらにはその公算の大きさについて述べています。「自然に本来備わった大きな可能性(ゆえに)、新たな種への変容(が起こる)」
シッダが個人として達成したことは、我々ひとりひとりの目的、最終到達点、さらには全体としての目的、最終到達点ともなり得ます。人類が種全体として変容を遂げることが、霊的解放を扱う文献で述べられることは滅多にありません。オーロビンドやラーマリンガ・スワーミハルのような現代のシッダは、様々な手引きを提供しています。彼らの手本や教えに従うことによって、ヨーガの熱心な探求者は絶対的自由という目的へ進むことも可能です。完全な自己放棄と完全な変容への道を彼らは示してくれています。完全な自己放棄と完全な変容があって初めて、最高の潜在能力が実現されるのです。また、絶対的自由カイヴァリヤが実現されるのです。
12.人生というサーダナ
サーダナとは何でしょう。サーダナ(sadhana)という言葉は、サンスクリット語の、「ゴールや目標へ一直線に向かうこと、あるいは何かを成し遂げること、あるいは何かをマスターすること」という意味を表す saad という言葉に由来します。サーダナとは、真我を思い出す修練です。サーダナは、自己意識を肉体や思考、感情、経歴から切り離していく時に支えとなってくれる在り方、考え方、生き方と定義することができます。サーダナによって、自分は真我であるという気づきがもたらされます。
ババジのクリヤーヨーガは、「気づきを伴った行為」であり、自らの存在の真理を知るための手段です。クリヤーヨーガのサーダナは、「気づきを伴った行為」からなる日々の修練であり、この「気づきを伴った行為」には大きな可能性が秘められています。我々はただ喜んで参加しさえすればいいのです。我々は肉体、マインド、ハートを進んで自らの魂と調和させなければなりません。クリヤーヨーガは気晴らしではありません。クリヤーヨーガは神我(真我)に没頭することです。サーダナは、単なる百四十四の肉体的・精神的技法の、言い換えれば霊的修練の集合体ではありません。サーダナは、自らの全存在の生き方なのです。真理に仕えて生きるために、マインド、ハート、魂、そして意思が、浄化と完全への熱意の中で、エゴの欲望を放棄する中で調和します。真理に仕えて生きることによって、我々はヨーガから、より大きくより深い人生、外的環境の浮き沈みにほとんど影響されることのない人生を受け取ることができるのです。クリヤーヨーガは、人生を締め出すのではなく、人生と外に現れているもののすべてを、喜びをもたらすものも苦痛をもたらすものも抱きしめること、少なくとも受け入れることを我々に求めます。
クリヤーヨーガは、外の世界を神の外的な現れと見なし、サーダナのための場としてこれを利用します。
人は自らの人生を通して、自らの真理を知るようになります。サーダナは、自らが人生で得る経験の中に含まれています。人が自らのヨーガを最も容易に為すことができるのは、人生というこの体験の場においてです。人生という体験を通して、人は最も成長することができます。魂は人生体験から「本質」を引き出します。そしてこの本質、自らの外的存在が為す熱心な体験の本質によって、人は神意識に引きつけられる人格を築くのです。
クリヤーヨーガが提示する地図は、自己観察、自己浄化、自らの内にある神を実現するために、我々はこの世に暮らす、ということを示唆します。世の中からの解放ではなく、世の中での解放です。ゴールに到達するために、外的なものを放棄する必要はありません。なぜなら、執着、反感、欲望に試されるのは、世の中においてであるからです。真の放棄は、純粋さです。意識内での放棄、エゴの放擲(ほうてき)、つまりハートから「私」「私のもの」という感覚を捨て去ることです。真の放棄とは、世の中にありながら、利己的な思考、欲望、そして好みさえにも打ち勝っているという内なる状態なのです。
不完全な人格に出会わずして、どうして真理が明らかになるでしょうか。世の中にいると、執着や反感、欲望が現れます。自らをヨーギーと呼ぼうが、宗教家であると言おうが、世の中にいると様々な誘惑や苦しみ、教訓、導きに晒(さら)されます。サーダナによって、それらについての真理が明らかになります。世の中は喜びを感じる多くの愛も提供してくれます。美と驚きも提供してくれます。ヨーガのサーダナは、最悪の苦しみの中でさえ、人生のあらゆる瞬間の背後に存在する愛と驚きと美に目を向ける手助けになってくれます。
本質的に言えば、サーダナと呼ぶものと人生と呼ぶものを区別すべきではありません。行為のすべてを、ヨーガという神の火の中で変えられるように、差し出すことができるのです。そして、意識のすべても、同じ火の中で変えられるように、差し出すことができます。クリヤーヨーギーとして、最も誠実な道具としての役割を担い、そうすることによって、行為のすべてが内なる神から流れ出します。神の子として世の中で生きるために、このことが身につけるべき「気づき」なのです。
ここで私の体験をお話ししたいと思います。それは、これまで述べてきたことを、私に明らかにしてくれた体験でした。これは、私が、霊的な美と驚きを放射していた神の子と会っている時に起きました。外に現れる美は、たいていの場合、生気的な力と魅力が混ざったものであり、そこには霊的な力は全く含まれていません。生気的な性質の光は、明るく、白く、冷たいものです。この体験の時までに私は生気的な力と魅力が混ざった美を見たことがありました。しかし、霊的な美は、魅力的で優しく、肉体次元の美よりも他を変容させる力が強力なのです。肉体的には不格好だとしても、霊的な美しさを持った人物は人を引きつけます。
下半身不随でひどく痩(や)せ、体を支えるために助けが必要であるような二十歳ぐらいの少年をイメージしてください。自分では食事ができず、母親が車椅子から自分の膝の上に移動させ、一緒に食事している光景を想像してください。
インドのアシュラムに滞在していた十日間、毎朝私はこの二人が朝食を取るのを目にしました。私と同じぐらいの年齢の母親が、私の息子と同じぐらいの年齢の子供をまるで赤ちゃんのように扱い、抱いて食事を与えていました。まるで二人がこの世で最も素晴らしい秘密を持っているように、いつも二人の顔には優しい微笑がありました。私はこの二人に非常に魅せられたので、彼らと一緒に朝食が取れるように朝早く西側の食堂に行きました。私は彼らと同じテーブルに座りましたが、邪魔にならないように隣には座りませんでした。
この二人が互いに対して持っている愛と献身が周りの空間に溢れ出ていました。私はそれに浸ったのです。これは私にとって霊的な体験でした。まるで太陽の光を浴びているような、純粋な水晶のように透明な湖の輝きに浸っているようなものでした。この少年は、手足が痩せ細り、見た目は不格好で、また話す言葉も不明瞭で私の座っている所からは何を言っているのか理解できませんでしたが、彼には何か美しいもの、私を引きつけるもの、私を魅了するものがありました。毎朝、私は彼らと同じテーブルでできるだけ彼らの近くに座り、母親と息子が行うこの儀式を、横目で見ていました。私たちは話すことも挨拶を交わすこともありませんでした。少年も母親も私のほうを見ることはありませんでした。
アシュラム滞在の最終日、瞑想場所(マンディア)から戻ってくる時、まるで回れ右をしろと押されているように、右の肩越しに強い力を感じました。二重になった非常に美しい虹(ダブルレインボー)がマンディアの真上に掛かっていたのです。マンディアの一方で始まり、もう一方で終わっているように見えました。実際には二つの虹があり、別個の虹が上下にあったので、いわゆるダブルレインボー、つまり中央のオレンジ色の部分が伸びている虹ではありませんでした。明確に二つのものでした。私はこういったものを今までに見たことがありませんでした。私の45メートルぐらい後には、車椅子に乗った少年と母親がいました。彼らは、私が何かを見ているのに気づき、振り返りました。私たちはしばらくの間、虹に夢中になっていたに違いありません。というのは、気がついた時には、百人以上の人が私に背を向けて、空の奇跡に浸っていたからです。私が振り返り、荷造りのために自分の部屋に戻ろうとした時、少年が顔を私のほうに向けました。すると母親は車椅子ごと私のほうに向きを変え、それまでに、そしてそれ以後も見たことのないほど美しい微笑みに、私は捉えられたのです。今でもこの少年の美しさがはっきりと思い出されます。「霊的な美」から生じる純粋な水晶のような輝きが少年から出ていたのです。真の「美」はアーナンダ、つまり至福と喜びから生じるものであるということ、そしてこのアーナンダがこの少年の本質であるということを私ははっきりと理解しました。アーナンダは、神の光明、温かく、慰めとなる、魂の真の喜びの現れなのです。
13.質疑応答
問い:マントラの習練をする時、どうのように集中したらよいのでしょうか。
回答:マントラは意識のレベルを繋ぐ言葉なので、木に成長する種のように、意識が深く広くなるようなやり方で繰り返すことが重要なのです。通常の肉体レベルの意識では、我々の意識は、我々のアイデンティティーでさえ、五感を通して経験する現象に浸りきっています。我々は見たり、読んだり、聞いたり、肌で感じたりすることに心を奪われてしまっています。通常の夢の意識では、白昼夢も含めて、我々の意識は不安、欲望、判断といった記憶や想像に限定されてしまっています。ですから、マントラの効果を得るためには、音や発音だけでなく、マントラの意味や意図にも集中する必要があります。マントラの意味は、愛、放棄、力、英知、豊かさ、輝き、平和などを思い起こさせるバーヴァ(感情)として最もよく理解されるかもしれません。
マントラを伝授された時に感じた意識状態を思い出すことができれば、マントラの効果はさらに上がります。マントラは、本質的に意識の乗り物であり、我々に伝授された時の意識状態を思い起こさせてくれます。マントラの伝授は神聖な儀式であり、伝授する者と伝授される者の両方に十分な準備が必要です。例えば、マントラの伝授に先立ち、我々は沈黙の行を一日行い、ヨーガの修練を熱心に実践し、マントラヤグナの周りでチャンティングをします。これは稀有な機会です。ですから、マントラ伝授の前や最中に生み出した意識状態、つまり愛、純粋、平静を伴った広大な静けさとエネルギーを思い出すことです。
マントラ伝授の際に種が発芽します。それが後に、習練を通して植物のように成長していくのです。他の関心事を退けマントラに励む時、成長するのです。歩いていたり、乗り物に乗っていたり、あるいは交通量の少ない通り慣れた道を運転しているような、集中力をあまり必要としない日課を行っている時にマントラの習練をすることもできます。これは、我々から精神のエネルギーを奪う不安や取るに足らない思考といったものを取り除く助けにもなってくれます。
愛、英知、力、豊かさ、悟りなど何であれマントラが符合するものに対する熱意を持って習練を行えば、理想的な状態が生み出され、そういったものがメンタル次元から降り物質次元で顕現します。我々の生活は主として過去の思考、言葉、行動、つまりカルマの結果であるため、古い習慣的な思考をマントラで置き換えることによって、カルマの傾向が弱まり、消散します。しかし、この熱心さに焦りや期待や疑念があってはなりません。マントラの有効性への信頼と神の意思への全託が必要なのです。最高の志は「私の意思ではなく、神のご意思が為されることを」というものです。こうして、何を受け取ろうとも、それは神の意思のもとにあるものであり、人は「行為者」というエゴに基づいた幻想を克服していくのです。
生活上の難題に直面しマインドが乱れた時、マントラの習練は一種の慰め、つまり不安、悲しみ、動揺を鎮めてくれる役割を果たしてくれます。マインドがマントラの復唱に対抗する時でさえ、マントラは徐々にマインドのおしゃべりを弱めさせ、平静へと導いてくれます。
マインドを静め、集中力を高め、瞑想のウォーミングアップとなるものとして、マントラを瞑想の前に行うことができます。
意志を鍛えるために、時間を決めてその間ずっと唱え続けるか、あるいは決めた数だけ唱えるのがよいでしょう。しかし、注意を他のところに向けなければならない状況にある時には、完全な集中、あるいはそれに近い状態の集中が保てる状況になるまで、ひとまずマントラの習練は忘れたほうがよいでしょう。
問い:内なる意識と外なる意識の両方を最高のものにするために、どうバランスを取ればよいのでしょうか。
回答:「内なる意識」という言葉は、おそらく観察者の意識状態を表し、「外なる意識」は、おそらく目の前の仕事に集中すること、あるいは注意深い状態を表すでしょう。どちらの状態も重要であり、それぞれに時と場所があります。我々がヨーガで求めることはこれらのどちらか一方ではなく、「私は行為者」「私は肉体、マインド、個性」と感じさせるエゴの感覚を、マインドから浄化することです。
「内なる意識」はほとんどの霊的教えによって奨励されるものであり、現代の文化が勧める物質主義と快楽に基づいた通常の意識状態に、必要なバランスを与えてくれます。特に今日、我々は文化によって、より多くの経験をすればするほど、より幸せになれると信じ込まされます。しかし、これによって、我々は、常に内で経験する幸せを、外のもの、外の人、外の現象と混同してしまいます。瞑想や霊的な教えでは、まず初心者にスピードを落とすこと、単純に捉えること、内を向くことを教えます。気づき、光、平静、超越、喜び、安らぎを備えた静かな内面、自分の中心、霊、あるいは魂を見出せるように手助けします。
しかし、霊的次元の自分を発見することには、他の次元の自分、つまり物質次元、感情次元、メンタル次元、知性次元の自分を否定してしまう危険があります。特に、マーヤーヴァディン、つまり世の中を幻と見なす文化や教えにおいて危険があります。多くの場合、世の中を放棄することが奨励されます。これは、今日でさえ、アジアで広く行き渡っている教えであり、ルネッサンス以前の西洋でもそうでした。しかし、現代の物質主義的文化においては、こうした極端なものに引きつけられる人は少数です。西洋で瞑想を行っている人の大多数は、日常生活のストレスを軽減するための手段、良くて、通常は無視されている霊的な特質を育むための手段として瞑想を行います。
しかし、霊的な特質に内在している喜びと幸せが、いつか日常生活の中にも溢れ始めます。広大な静けさ、そして安らぎを感じ、物事をありのままに受け入れるようになります。日課をこなしている時にも、困難な経験をしている時にも感じるようになります。しかし、まだ古い習慣、つまりサンスカーラに基づいて機能していますので、これらが十分に弱まり、サットヴァ、言い換えれば叡智に基づいた傾向に置き換わるまで、静かで安らいだ状態は、日常生活の出来事にのみ込まれてしまいます。
ですから、「内なる意識」と「外なる意識」のバランスをどのように取ればよいのかという問いに対する答えは、「静かに活動的で、活動的で静かである」というものになります。ヨーガの技法のほとんどの目的は、この中間の道を取れるようになることです。つまりバランス、光、気づき、安らぎ、静けさ、知性で特徴づけられるサットヴァを養うことです。ヨーガの修練が深く大きなものになると、日常生活においてもサットヴァが拡大します。しかし、人間の性質は非常に習慣的なものなので、ヨーガのサーダナを規則正しく、辛抱強く、粘り強く行わなければなりません。また、落とし穴や障害物を認識し、それらを越えることができるように「道を示す地図」あるいはヨーガの聖典から情報を得る必要もあります。障害物とは、病気、精神的不活発、疑念、不注意、怠惰、対象への耽溺、誤った知覚、確固とした基盤を確立することができないこと、不安定(ヨーガスートラ第1章第30節)です。サーダナによってサンスカーラが弱まり、習慣的に反応するのではなく、意識的に行動することができるようになります。
その場に在ることによって、気づきが生じ、気づきがある時、至福も生じます。実在、意識、至福の状態にある時、行為のすべてが、エゴの妨げを受けることなく行われます。ひとつの道具として巧みに行為を為し、結果に執着しません。喜びは、独立したものであり、行為が望まれた結果、予想された結果を生み出そうが生み出すまいが、左右されません。
まずは、日々の雑用を行っている時に観察者の状態でいる練習をします。つまり食器を洗っている時、部屋を掃除している時、歩いている時、食べている時、風呂に入っている時、最初から最後まで意識して行うのです。観察者の状態がより安定してくるにつれて、今度はもっと集中力、注意を必要とする活動をしている時、つまり、何かを修理している時、買い物をしている時、電話で誰かと話をしている時などに観察者の状態を思い出します。さらに、その状態がより強固なものになった時には、読書をしている時など、さらに注意力を必要とする活動をしている時に、観察者の状態を養います。こうした活動の時でさえ、意識の一部が、「内なる意識」の状態で観察者として留まり、意識の他の部分は、関わっている仕事や問題に集中することができます(「外なる意識」)。もしも「外なる意識」を非常に必要とするような難しい活動に、自分の時間のほとんどを取られているのなら、もっと単純にする方法を探すことです。そうすれば、「内なる意識」を養うことのできる娯楽にもっと時間を割くことができます。
なぜこれが重要なのでしょうか。私はこれを「意識のゲーム」と呼びたいと思います。そのゲームをする時、言い換えればその場に存在して、気づいている状態である練習をする時、つまり観察者でいる時には、必ず至福が生じます。これは保証します。そして観察者でいることを忘れると、必ず苦痛が生じます。自動的にそうなります。これは簡単に試してみることができます。気づきは、人生でいつでも勝てる唯一のゲームです。他のゲームでは、最後には負けます。なぜなら実在・意識・至福のみが永遠で無限なものだからです。他のものはすべて時と空間に限定され、ゆえにはかないものなのです。
問い:アドヴァイタ・ヴェーダンタでは、真我だけを意識します。ババジのクリヤーヨーガでは、なぜ他のものを意識するのですか。
回答:インドには六つの主要な哲学があります。この中に、一元論の「アドヴァイタ・ヴェーダンタ」と、ヨーガの基礎となるサーンキヤがあります。アドヴァイタ・ヴェーダンタの目的は、霊体の中に在り永遠の存在である真我を悟ることです。他のすべては、邪魔物とは言わないまでも、外に見える幻想だと捉えます。これに対して「シヴァを知る者の最終的、完全な真理」を意味するシャイヴァ・シッダーンタは、ババジのクリヤーヨーガの元祖であるタミル・ヨーガ・シッダが実際的なヨーガの行法に具現化させたものを表します。シッダーンタでは、世の中を幻想、マーヤーとは捉えません。無知のために、マインドは幻想に陥るかもしれませんが、それによって世の中の客観的現実が変わることはありません。自分の性質も含めて世の中を理解し、シッダは、存在の五つの次元のすべて、つまり肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体のすべてで潜在能力のすべてを発達させることができたのです。
シャイヴァ・シッダーンタはヴェーダンタが終わったところから始まる、と現代においてシッダの教えを代表する人物のひとりであったヨーギー・ラマイアは、サットグル・ババジ・ナーガラージのインスピレーションを受けて言いました。シッダの教えは、「タミル・ヨーガ・シッダーンタ」として知られ、我々はこの教えに属しています。霊体との合一を成し遂げた後、タミル・ヨーガ・シッダは、最終的な真理は、霊体、知性体、メンタル体、生気体、肉体のすべてにおいて自らを明け渡すことである、ということを悟りました。シッダは、五つの体のすべてにおいて人間の性質を統御できるようにクリヤー(技法)を開発しました。霊体で神を実現すると、人は「聖者」、つまり神を知る者、知性体で神を実現すると、「賢者」つまりいかなる分野においても直観によって知識に到達できる人物、メンタル体で神を実現すると、シッダつまり研ぎ澄まされた五感、透視、透聴などのヨーガの奇跡的な能力「シッディ」を持つ人物と呼ばれます。そしてエゴを神意識に生気体で明け渡すと、物質化、非物質化、物質を支配するマインド、思いの実現、原子のレベルや宇宙規模で本質を知る力を持つ、さらに偉大なシッダが現れます。さらに、これは非常に稀なケースですが、ババジやババジのグルであるアガスティアやボーガナタルのような「マハーシッダ」の場合には、肉体の細胞の意識も神意識に明け渡されており、これによって神と同じ永遠の存在になります。いかに霊的に高いレベルに到達しようが、悟りを得ても肉体が病気なのであれば、完璧、シッディ(成就)であるとは考えられません。
実際問題として、我々の存在の最も崇高な部分である真我にだけ霊体のレベルで集中しようとすることは、確かに最も直接的な手段です。しかし、それができる根気や意志力を持ち合わせている人はほとんどいません。低位の性質が非常に強力なのです。ですから、シッダは、低位の性質を克服する手助けとなるように実際的な技法、クリヤーを開発したのです。パタンジャリのようなシッダは、サマーディに到達するために必要となる純粋さ、肉体的・精神的落ち着き、集中力、感覚器官の制御を徐々に育んでいけるように段階的な方法を開発しました。こうした方法を用いずに霊体で直接サマーディに到達しようとすると、たいてい肉体、生気体、メンタル体、知性体からの抵抗に圧倒されてしまいます。
また、マインド、生気体、肉体を統御する力を養うことによって、我々はこの世でより完全な神の道具となることができるのです。天国、あるいはこの世から解放されることを求めるのではなく、ババジのようなシッダは、この世に生きるすべての存在の進化を手助けするために自らを捧げたのです。
問い:ババジのクリヤーヨーガとヨガナンダやその後継者のクリヤーヨーガとはどのように異なるのでしょうか。
回答:ヨガナンダは、非友好的な場所にヨーガを紹介する先駆者として非常に困難な状況に出くわしました。キリスト教原理主義的な文化は、ヨーガに対して全く無知であり、懐疑的で、恐れさえも抱きました。1920年から1925年まで、アメリカに来てから最初の五年間、アメリカで最も進歩的な土地のひとつであったケンブリッジの北、マサチューセッツ州のアーリントンにヨガナンダは住んでいました。ヨガナンダは自らが学んだように、ヨーガやインドの霊的教えを伝えようとしました。しかし興味を示す人々はほんのわずかでした。ヨガナンダは、自分の使命は西洋のたくさんの人々に伝えることである、と感じていたので、髪の毛を切り、特別な場合以外は黄土色の服を着ることをやめ、自分の使う語彙(ごい)や教義をヒンドゥー教のものからキリスト教のものに変えました。アメリカを講演して回るために、主要な後援者であったルイス博士に1万ドルの援助を求めました。これは人生における岐路であり、ヨガナンダはクリヤーヨーガの教えをシンプルなものにし始めました。ポーズを削除し、瞑想は単純なもの二つ、「オーム」と「ホン・ソウ」という音を用いるものに集中し、クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマは非常に単純なものにしました。原理主義的なキリスト教徒の気持ちを害さないように「ヴァー・シー」は「アー・イー」になりました。原理主義的なキリスト教徒は、「シヴァ」の名を繰り返すことを冒涜だと感じる可能性があったのです。こうして、一時間かからずに講堂に座った1千人の人々にまとめてイニシエーションを施すことができたのです。二段階目のイニシエーションに関しては、比較的少数の人々だけに、チャクラ・マントラへの瞑想が与えられました。またヨガナンダは、たいてい動きのない状態で様々な筋肉の部位を緊張させる「活力増進」運動も奨励しました。これは、伝統的な技法を変形させたものでしたが、これによって多くの西洋人たちはハタヨーガを行わなくても健康を保てるようになりました。1920年代から1930年代には、民族の違いに関する様々な理論があり、西洋人の体はヨーガのアーサナ(ポーズ)には向いていないので、アーサナを行うことはできない、と60年代まで一般に信じられていたのです。
しかし、ヨガナンダの大きな貢献には、大勢の人々をヨーガの道に導いたこと以外にも、霊的な著作があります。これらのほとんどは書籍として出版されています。SRFのイニシエーションを受ける前に必ず読まなければならない通信講座は、これらからの抜粋です。この講座は、いかに生きるべきかということに対して、すばらしい手引きとなります。ヨガナンダは「アファメーション」の使用を強調しました。アファメーションは、より現代的な「自己催眠」や「神経言語プログラミング」のように、潜在意識に深く根づいたものを変えるために用いられます。
ヨガナンダの個人としての宗教的態度は、「母なる神」に向かうというものでしたが、我々の文化では神は「男性」としてのみ表されますので、このことは強調せず、キリスト教の教義と献身的な修練を、ヨガナンダは文章を書く時の中心に置きました。ヨガナンダが組織立てた儀式は、特に賛美歌、祈り、イエスへ向けられた歌を持つプロテスタント系の教会が行う儀式に沿うものでした。ヨガナンダは、西洋のキリスト教徒と東洋のヨーガの融合の支えとなるように、新約聖書からの引用を適切に解釈し、我々に「キリスト意識」に至ることを求めました。ヨガナンダは、ババジやクリヤーヨーガの起源、自らの使命については、1946年に『あるヨギの自叙伝』の初版が発売されるまで明らかにしませんでした。
ヨガナンダはこの世を去る時にも、西洋の宗教様式に忠実なままでした。自らの使命を組織であるSRFに引き継がせ、SRFにはもう「グル」は存在しない、通信講座がその役割を果たす、と言いました。
SRFはヨガナンダの教えを熱心に守ってきました。SRFは、主に出版物、三年間に及ぶ週に一度の通信講座、SRFの僧が遠くの都市に出かけて行う講義や一時間ほどのイニシエーションを通して、教えを広めています。SRFはまた嫉妬深い組織でもあります。アーナンダ・チャーチ・オブ・セルフリアライゼーションが、ヨガナンダの著作や写真を販売し始めた時、一千万ドル以上の裁判費用をかけて、ライバルを潰(つぶ)そうとしたのです。SRFは今では自分たちのことをひとつの宗教だと言い切り、信者には他の霊的な教えに関する本を読んだり、他の教師や教えに従わないように警告しています。ヨガナンダの教えにあまりにも固執してしまっているため、SRFのレッスンでは取り扱われていないことに関して疑問が生じたとしても、「重要ではない」として退けられてしまうのです。
読者のみなさんは、これらのことと「ババジのクリヤーヨーガ」の五つの道を比較することができます。ババジのクリヤーヨーガでは、アーサナ、クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマ、様々なディヤーナ・クリヤー、マントラ、バクディヨーガに重点が置かれます。ババジのクリヤーヨーガは、百四十四のクリヤーつまり技法からなる複雑で緻密なシステムであり、人間の存在次元の五つ、つまり肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体のすべてを包含しています。これには段階を追って行われる何年にもわたる訓練が必要です。
我々はクリヤーヨーガの実践者のために崇拝すべき神を選ぶのではなく、各々が自分のハートに従うことを奨励します。ババジのクリヤーヨーガは世の中にあるすべての宗教の実際的な面を表します。ババジのクリヤーヨーガは、特定の信念体系を持つ宗教ではありません。ババジのクリヤーヨーガは、科学的な技法であり、修練と技術を必要とするものであり、科学と同様でその結果は常に同じものになります。ババジのクリヤーヨーガは、他の信念体系は避けなさい、と実践者に言うような信念体系ではありません。ババジのクリヤーヨーガの実践者はあらゆるものに神と真我実現を求めて構いません。ヨガナンダ自身も数名のグルからクリヤーヨーガを学び、また『あるヨギの自叙伝』に書かれているようにたくさんの人々から刺激を受けました。
インドの霊的教えでは常にそうであるように、情熱は魂から魂へ受け継がれるのであって、組織からではありません。インドでは、世代から世代へと霊的真理を伝達することを確実にしているのは聖典とグルであり、歴史的に見ると、これは大部分、正式な組織なしで行われます。西洋では、宗教は組織によって、つまり信者の興味よりも組織の成長と存続を優先させる組織によってコントロールされます。アブラハム系統の宗教は、恐れが基盤となっており、信者は、自分たちを地獄から救ってくれる組織や宗教に属することを多くの場合好みます。しかし、近年、東洋の教えの影響により、西洋での「組織化された宗教」への執着はだいぶ弱まっています。ますます多くの人々が、自分のことを敬虔というよりも「霊的」である、と言うようになっており、特定の組織に属さずにあらゆる教えからインスピレーションを受けています。
インドでは、信念体系はマインドを構成するものとして捉えられ、霊的探究の出発点でしかありません。神の恵みも求められますが、カルマと個人の努力によって運命が決まります。ある組織を信奉したから、あるいはある宗教や哲学を信じたから悟りを得ることができた、こういう人物はいないと言って差し支えないでしょう。現代のあるインド人のグルが「父と祖父が悟りを得たので、私もその『血筋によって』悟りを得た」と言っているのと同じぐらい強引なことです。
書籍や文章では知性の範囲を超えることはできません。言葉や書籍は我々を分け隔てる傾向があります。ですから、ババジのクリヤーヨーガでは、五つの部門からなる「ヨーガのサーダナ」を実践することが強調されます。ヨーガのサーダナによって、その場に在ること、真我実現を思い出すことができるのです。ババジのクリヤーヨーガは、霊体だけではなく、肉体、生気体、メンタル体、知性体においても個人を変容させるバランスの取れた道です。
ババジはこの教えの中心にいます。グル・タットヴァ、つまりグルの原理は、真理、無条件の愛、叡智を明らかにしてくれるものであり、ババジと、そしてババジが古(いにしえ)の秘教の統合体として発展させたクリヤーヨーガを通して現れます。ババジはこの教えの生ける源であり、手本とインスピレーションによって我々を導きます。ババジはこの教えの唯一のグルです。SRFはババジをグルのひとりと見なしますが、SRFの文献にはババジに関する記述がほとんどありません。ババジは、もはや肉体を持たず、我々から離れた存在であり、接触することができず、我々を指導することもない歴史上の人物と見なされています。
SRFは会員資格が必要なキリスト教の教会です。自分たちのことをひとつの宗教だと言っています。「キリスト」を、クリヤーヨーガの実践によって到達すべき意識状態であると解釈します。SRFの考えによれば、こうして人は「救われる」のです。キリスト教の教会と同じように、宗教的な儀式を行い、教えはSRFの僧によって広められます。信者が他の教師や組織から教えを受けることを禁止しています。
ババジのクリヤーヨーガのイニシエートは、あらゆる教えからインスピレーションを受けて構いません。会員にならなければならない組織はありません。イニシエートとババジとの関係は、完全に個人的なものです。ババジのクリヤーヨーガは、自ら進んで奉仕するイニシエートたちのネットワークによって広められます。ババジのクリヤー・ハタヨーガと基本的な呼吸法、瞑想法、ヨーガ哲学を教えるための訓練を受ける人もいますし、さらに進んだ生徒は、Babaji’s Kriya Yoga Order of Acharyas という在家の教師からなる小規模の集団に招かれることもあります。厳格な条件を満たした後、ババジのクリヤーヨーガのクリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマと瞑想法を伝授する資格が与えられ、さらにその後にマントラや百四十四のクリヤーを伝授するようになる人もいます。
ババジのクリヤーヨーガでは問いは奨励されます。疑うためではなく、疑いを真我実現への踏み台に変えるための建設的な方法として奨励されます。ババジのクリヤーヨーガは、生ける、口頭による教えであり、実践する者のハートと経験において成長するのです。ババジのクリヤーヨーガは、書籍、指導者たちの物語、組織という形態の中に閉じ込められるものではありません。
ババジのクリヤーヨーガは、『ティルマンディラム』のような、十八人のタミル・ヨーガ・シッダの教えやインドの「サナタナ・ダルマ」「永遠の宗教」にインスピレーションを与えられます。しかし、シッダは、神は寺院や複雑な儀式だけではなく、無知、欲望、エゴイズムのヴェールを剥(は)ぎ取ることによって、自らのハートに見出すことができる、と強調しました。すべての人がババジのクリヤーヨーガを学び、神を実現し、五つの存在のすべてにおいて永遠の安らぎと喜びを享受できますように。
用語
マインド(世の中や自らの体験を認識し、思考し、感じる部分)
真我(本来の自分・永遠の存在としての自分)
カルマ(行為とその結果。自分の行いが自分に返ってくるという考え)
ヨーガ・シッダ(完全な状態に到達した存在)
アファメーション(肯定的な言葉を繰り返し、潜在意識に根づいた否定的な思考を取り除くこと)
サンスカーラ(潜在意識に蓄積された印象・癖)
生気体(肉体にエネルギーを送る体。個性・欲望・感情に支配されている)
メンタル体(五感を通しての知覚、物事に対する思考の反応、話すという行為による考えの表明を行う体)
知性体(識別力をもち、インスピレーションを受け取る理性と分析の体)
マントラ(聖なる音の塊)
霊体(個人と真我とを繋ぐ至福の体)
アーサナ(坐方、つまりヨーガの一連のポーズ)
グル(教師、師匠)
シャクティ(エネルギー、力、女性原理)
サマーディ(マインドが対象物に完全に集中している状態。あるいはマインドが機能を停止し、純粋意識だけがある状態)
クリシュナ(ヴィシュヌ神と一体視されるインド神話に登場する神)
シヴァ(ヨーガの創始者。至高の存在。ヒンドゥー教の三神のひとつ)
クンダリニー(人間の持つ潜在的な力と意識。脊柱の基底部にあるチャクラ、つまりムーラーダーラに存在している)
ハタヨーガ(肉体の浄化を扱うヨーガ。ポーズ、バンダ、ムドラ)
著作権について
この電子書籍『クリヤーヨーガ:道を照らす光』は著作権法で保護されている著作物です。著作権はババジのクリヤーヨーガに属します。著作権者の許可なくこの電子書籍の一部、あるいは全部をいかなるデータ蓄積手段(印刷物、ビデオ、テープレコーダー、インターネットなど)により複製、および転載することを禁じます。
「グ」は闇を意味し、「ル」は光を意味します。ですからグルは「闇を駆逐するもの」という意味です。グルプアニマーは、太陽の光が初めて地上に達した日であると言われています。知恵の日、光の日です。
グルプルニマーは、霊的な年の始まりです。チャトゥアマースという4ヵ月間の節制と霊的活動の期間の始まりを示します。この日に、求道者は自らの献身と、修練という果実を感謝と愛の形で、大師に捧げるのです。すべての弟子が新たなサンカルパを行います。サンカルパとは、もっと修練を行い、グルの教えをもっとよく理解し、グルに奉仕し、グルの恩寵を受けるに値する者になるという誓いです。グルプルニマーに、我々はグルからの祝福を求めます。この日には、自らのマインド、プラーナ、真我を通して、グルに集中することにより、深遠な体験、つまりグルのダルシャンが受けられるのです。
グルとは誰のことか
グルとは、弟子を霊的な道へと導き、解脱への道を指南する霊的教師のことです。グルとは、自分はそれ、つまりすべてのものの源それ自身であると悟り、他者を同じ悟りへと導く責任を担っている存在です。こうして、神はグルとして顕現するのです。肉体をまとったグルがいない人にとっては、神自身がグルなのです。
肉体を持ったグルは、肉体を離れ、実在・意識・至福と一体になったとしても、接触可能であり、真の弟子を喜んで手助けします。霊妙な形態で存在するグルは、恩寵を授ける神の力として留まります。グル、神、真我、遍在する意識、シャクティ、すべてはひとつです。真の弟子がグル・マントラを唱えたり、グルのことを瞑想する時には、たとえ肉体を持っていなくても、グルは弟子が発する崇高な思考の流れを感じることができます。グルは、広大な超意識の領域で崇高な思考の波動に反応し、弟子との間にあるまばゆい光の線を見ることができるのです。これは、恩寵の強力な光です。
グル・タットヴァ、つまりグルの原理とは、我々が無知から知恵へ、エゴイズムから真我実現へと移行するために必要なあらゆる方法を用い、我々の内なる宇宙においても外なる宇宙においてもすべての生命を創り、維持し、破壊する原理のことです。グルの原理は宇宙が生み出される以前から存在しているので、時間と空間を超越しています。グルの原理は内なる真我としてすべての人の内に存在しています。ですから、外に現れたグルに敬意を表す時には、自分自身の真我にも敬意を表すことになるのです。グルの原理は、非人格的なシャクティ(エネルギー、力、女性原理)であり、サーダナを最高のものにするために必要とされるものを自動的に生み出す力です。内なる真我は常に接触可能であるので、外に現れたグルよりも強力なのです。
グルとグナ。「グル」という言葉は、「グナ」という言葉に由来します。グナとは、プラクリティ(根本質料)の構成要素です。ラジャス(活動)、タマス(不活動)、サットヴァ(均衡)の三つです。グルとは、求道者にラジャスとタマスの影響を克服し、真我実現の入り口であるサットヴァに留まる方法を示す人物です。一般に、我々は人間性のために活動と不活動の間を行ったり来たりします。我々は、一日の中でこれを経験します。朝、目を覚ました時にはタマスでいっぱいであるために、布団から出るのが難しいと感じる人がいます。しかし、シャワーを浴びたり、水やコービー、お茶などを飲んだり、ちょっと運動をしたりすると、活力を感じ始めるのです。自然は、我々を普遍的な力で動かします。ラジャスが頂点にある時には、我々はせわしなくなります。しかし、時間が進んでいくにつれて徐々に疲れを感じ始めます。帰路につく頃には、タマスが支配的になります。そして夜が更けるとタマスが支配的な眠りの状態へと戻るのです。落ち着き、満足、明晰さ、喜び、愛、無執着が特徴であるサットヴァ(均衡)の状態に我々がいることは滅多にありません。ヨーガには、生活の中でラジャスとタマスの影響を減少させ、サットヴァの影響を増加させる効果がある、とグルは言います。ヨーガのポーズとプラーナーヤーマを早朝に行うことにより、タマスの感覚を払いのけ、自らを活気づけることができます。また、夜に行うと、気持ちの乱れや不安などのストレスを処理し、ぐっすり眠ることができます。身体とマインドから過度の不活動性と活動性が取り除かれ、バランス、均衡がもたらされます。瞑想とマントラを実践することにより、生気体とメンタル体に同様の効果がもたらされます。これらのすべてを実践することによって、ホメオスタシスと落ち着きが促進されます。この状態は、内に入り、霊的次元で真我(魂)の視点を保持するために必要なものです。グルは、「教えと叡智」として体験されます。この教えと叡智は、ヨーガの技法を伝えるアーチャリヤ(教師)を通してもたらされ、ヨーガの技法によって、我々は真我実現の入り口に導かれるのです。
グルが必要ですか
ほとんど例外なく、この世に生を受けている魂のすべては、二元性に囚われているので、グルを必要とします。好き嫌い、得失、高低、善悪によって我々は絶えずかき乱されます。自分を肉体・マインドと同一視してしまっているので、エゴの罠にはまり、自分の本当の姿がわからなくなっているのです。ゆえに、ほとんどすべての人間にとって、真我実現を果たすまで、外的なものであれ、もっと精妙なものであれ、グルの恩寵と導きが必要なのです。
グルとグルの教えは同一のものです。真の霊的成長は、教えを実践することによってのみ成し遂げられます。スピリチュアルな本は道を指し示してくれはしますが、エゴの限定された視点を明け渡した時にもたらされる本質的な体験、言い換えれば恩寵を与えてはくれません。カルマヨーガ(神に対する無私の奉仕の道)であれ、バクティヨーガ(神に対する献身の道)であれ、ヤーナヨーガ、ラジャヨーガ(神の知識へと導いてくれる道)であれ、我々を二元性の世界に留めているサンスカーラ(習慣的な傾向)を克服することによって、我々は成長していかなければなりません。
どうすれば自分のグルを見つけた時がわかるのか
人は、謙虚さ、誠実さ、尊敬をもってグルに近づかなければなりません。グルの教えに熱心に、そして心を開いて向かわなければなりません。物理的なレベルであれ、あるいはもっと精妙なレベルにおいてであれ、グルと一緒にいる時に安らぎを味わい、自分の疑念がなくなるのを感じるのならば、その人を自分のグルと考えていいでしょう。誰かを自分のグルとして受け入れるということは、相手のほうではずっと以前からあなたを弟子として受け入れていたということです。相手に受け入れられていなければ、自分が相手をグルとして受け入れることはできなかったでしょう。質問を言葉に出す前に、回答が受け取れるならば、グルを見つけた、ということです。まさに自分の知りたいことが、必要な時に聞こえるのです。
その時が来るまでは、グルを見つけるためにできる最善で唯一のことは、自分の準備を整えておくということです。弟子の準備ができた時に、グルが現れる、それはハート・チャクラが開いた時である、と言われます。ですから、弟子として、ヨーガの規律とグルによって唱えられている教え(グルとして受け入れられている人の教え)に自分を適応させるのです。自分がどう影響されるのか注意してみるのです。グルとグルの教えは同一のものです。真のグルは、個としての自分よりも、教えを強調します。
霊的知識は、グルから弟子へ伝えられます。グルの教えは、ウパデシュと言われます。この言葉は、「場所の近く」という意味を表します。ウパデシュの目的は、遠くにあるものを近くに示すことです。グルは、弟子が遠くにあって自分とは異なるものだと思っている神、つまり実在・意識・至福が実は近くにあり、自分と異なるものではない、ということを弟子に悟らせます。弟子は、グルの教えを熱心に実践すること、自己探究を誠実に行うこと、そしてグルへの奉仕によってヨーガを学ぶのです。
内なるグル
弟子は最終的にはいつか外に現れたグルを超え、自分の内に霊的原理、つまりタットヴァとしてのグルを見出さなければならないのですが、西洋人の場合は、悟ることを焦るあまり、自分の準備が整っていないのにもかかわらず、グルを捨て、エゴイズムという泥沼の中で混乱に陥ることが多いのです。
平均的な人にとって内で接触できるグルは、エゴなのです。エゴは、我々が悟りに至らない原因であり、エゴのために、弟子はさらなる無知、混乱、自己欺瞞(ぎまん)、そして絶望へと陥ります。
グルの力 力と機能でグルを理解することも可能
1.イニシエーターとしてのグル
グルには、秘教の教えを伝え、弟子を霊的次元に導く責任があります。これによって、弟子の解脱と悟りが始動するのです。
2.伝達者としてのグル
グルは、単に指導し、情報を伝える教師ではなく、叡智を伝道し、自らの性質で霊的現実を明らかにする存在です。グルは、弟子の霊的プロセスを始動させ、そして鼓舞しさえします。グルが完全な悟りに至っていない場合には、伝道作用のすべてがグルの意思と努力によるわけではありません。神の恩寵によって、グルが媒体として用いられることがあるのです。
サットグルは、完全な悟りに至ったグルであり、言葉と動きのすべて、そして存在そのものが霊を顕現します。伝道作用は並外れたものであり、自動的で、そして絶えず行われます。
3.導き手としてのグル
グルは、言葉を通して、生きた見本として、聖典を解説しより深い意味を示すことによって、弟子を導きます。グルは、師に教えられたことと自らの経験や悟りによって、聖典をよみがえらせることができるのです。
4.イルミネーターとしてのグル
グルは、霊的な闇を取り除きます。自らの真我が見えなくなっている弟子に視力を取り戻させます。これは、グル自身の真我実現の度合いによって行われます。
5.因習へ一石を投じる者としてのグル
グルは従来の価値観や営みに逆らって進みます。グルのメッセージは急進的なものであり、我々に対して、次のことを求めます。意識的に生きること、自分の動機をよく見ること、エゴからくる感情を超えること、無知を克服すること、他人とうまくやっていくこと、そして人間性の核、つまり霊を実現することです。これらは、従来の価値観に全精力を注いでいる人にとっては戸惑うようなことです。
6.弟子道とグル
グルが提供してくれる、解脱をもたらす叡智から利益を得るためには、グルと密な関係、自らを変容させてくれる関係、つまり弟子道に入らなければなりません。これには、自らを変容させるという強い意志、弟子道に自らを捧げることが必要であり、これによってマインドから従来の習慣が取り除かれます。また、グルのほうには愛情溢れる思いやりがあります。グルは、個人としてではなく、宇宙の機能として見なされなければなりません。グルは、個人的な関係ではなく、弟子の幻想を破壊し、弟子に至高の存在、つまり真我を悟らせることに関心があるのです。
7.グルの権威
グルの仕事は、プラジュニャー(洞察)とカルナ(思いやり)がある時に効果を発揮します。プラジュニャーとカルナは、個人を超え真我へと関心を向けた能力であり、いずれ消え去る人格へと向けられたものではありません。もしもグルが思いやりだけを持っているとしたら、弟子から幻想を取り除くことはできないでしょうし、弟子は思いやりというものを、今の弟子の状態を気遣うこと、と勘違いしてしまうでしょう。グルは、弟子の真の性質、つまり真我を愛しているのです。もしもグルが賢明ではあるが思いやりに欠けているならば、弟子は自己変容のためにしなければならないことに圧倒され押しつぶされてしまうでしょう。弟子は、誤解、責任転嫁、幻想、錯覚を抱きがちであり、これらによりグルとの建設的な関係が妨げられるのです。
グルと繋がる 明け渡しと恩寵
ヨーガでは、精妙な器官のいろいろな部分にグルが座す、と述べられますが、最も強力なところは、サハスラーラです。また、グルは精妙な音として内で聞くこともできます。内なるグルは、沈黙、拡大したハートの無限なる空間という形のないものとして感じられることもあります。真の内なるグルはサハスラーラに座し、マントラを用いることによって繋がることができます。シッダが好むイニシエーションの形態は、グルの足を弟子の頭頂に置くというものです。グルはマントラを通して自分のシャクティを伝導します。グルがマントラを唱えると、シャクティが弟子に注がれるのです。マントラは、グル自身のひとつの形態です。
自らを明け渡すことが、非常に重要です。グルへ自らを明け渡すことによって、何らかの形でイニシエーションが起こります。自らを明け渡すことによってのみ、人は無限の存在と一体になることができ、限りない恩寵を自らの内に引き入れることができるのです。恩寵によってあらゆる障害が取り除かれます。恩寵なしでは、完全な合一を達成することはできません。明け渡すことと恩寵は相補的な関係なのです。グルは、至高の存在から霊エネルギーを受け取り、無限に蓄え、そしてそのエネルギーを弟子に向けることができます。自らを明け渡した弟子だけが、グルから流れる強力な霊エネルギーを吸収することができ、吸収できる量はグルへの忠誠と献身に比例するのです。
自らのグル、あらゆる形態のグルを礼拝する
深い愛でグルに敬意を示すのです。グルをハートに保持し、原理としてのグルと共にあり、グルに波長を合わせ続けることが重要です。
1.すべてに浸透しているプラナヴァ、「アウム」という音としてのグルに礼拝。
2.サット・チット・アーナンダ(実在・意識・至福)という言葉に示されるグルに礼拝。
3.無知のすべてを駆逐する者としてのグルに礼拝。
4.至高の「私という意識」に確立されたグルに礼拝。
5.神の恵を与える力としてのグルに礼拝。
6.至高の知識、知性、記憶、錯覚、あらゆるものの原因と結果としてのグルに礼拝。
7.普遍の存在、すべてのものの中にあり、そしてすべてのものがその中にある存在として、グル自らを悟らせてくれるグルに礼拝。
8.直観という囁(ささや)きで話しかけるグルに礼拝。
9.グルの中のグルであり、自らの魂がすべての存在の魂であると悟らせてくれるグル、クリヤー・ババジ・ナーガラージに礼拝。
10.無限の恵と力を通して、信者を、やさしくそして段階を追って導き、肉体的なものであれ精神的なものであれ潜在しているエネルギーに光を注いでくれるクリヤー・ババジ、神秘的な力と無上の幸福感を実現させ、至高の存在との合一へと我々を導いてくれるクリヤー・ババジに繰り返し礼拝。クリヤー・ババジの恩寵が我々全員に注がれますように。
グルを瞑想
1.自分のマントラを唱え、自分の選んだグルの形態を瞑想し、グルの神聖な足を礼拝するのです。グルの足は、微細体でのグルのエネルギーの表れです。足、あるいはサンダルには、マントラが持つ解放をもたらす力が含まれています。
2.グルの姿と性質をマインドに保持し、それについて熟考し、そしてグルの教えと指示に喜んで従うのです。
3.形のある(サグナ)グルを瞑想するのです。グルバーヴァ(献身)は、グルと弟子の関係を強固なものにしてくれます。グルが自分のすべての部分に存在していると想像しながら、グルを瞑想します。自分の体をグルで満たすのです。布地は糸からなり、そしてすべての糸の中に布が存在しているように、自分がグルの中にあり、そしてグルも自分の中にあるということを忘れないことです。この視点から、グルと自分を同一のものと考えるのです。ババジと自分の間に相違を持ち込まないこと。グル・オームとマインドの中で唱え続けるのです。グル・オームを唱え、自分の体のすべての部分にグルを吹き込むのです。こうしてババジが自分の内に宿るのです。
2.向上心
立ち上がれ、ひれ伏せ、明け渡せ、抱きしめろ、驚嘆せよ。
神の神聖な御足に至らしめるすべての方法に訴えるのだ。
これによりこの人生が実りあるものとなる。
恭しく神を抱きしめろ。そうすれば神が応えてくれる。
『ティルマンディラム』 第1499節
我々は個人としても全体としても変容のプロセスに従事しています。このプロセスには、古い人間性を拒絶し、内なる神の意識に自らを明け渡すことが必要です。宗教もヨーガも共に禁欲生活、神の意思と恵みへと自らを明け渡すことの必要性を説きますが、ヨーガの道とゴールは、宗教のそれとは全く異なるものです。宗教とは異なり、ヨーギーはこの世を離れ天国を探すことを求めたりはしませんし、また自らの経験よりも聖典や組織に信頼を置くということもしません。宗教とは異なり、ヨーガは真理を体験し、自らの性質を支配するための実際的な方法を提供してくれるのです。ヨーガは、人間の性質を罪深いものとして非難したりはしませんし、また放棄することを求めたりもしません。ヨーガは、この世で生活しながら、自分を浄化する方法、つまり無知、エゴイズム、愛着、神の恵みが降る妨げとなるもののすべてを洗い流す方法を提供してくれるのです。この世の中にありながら変容をもたらすことのできる方法を知っている時にのみ、変容を起こすことが可能なのです。この方法を携えている時にのみ、真の向上心と拒絶と自らの明け渡しにより、神の恵みを受け、意識を変容させることができるのです。
信仰深い人間やヨーギーが恩寵を受けるためには、何が必要なのでしょうか。どちらの場合にも意志、熱意、そして拒絶しなければならないものを拒絶するという向上心、神を抱きしめ、神に自らを明け渡すという向上心が必要です。宗教は地図を提供してはくれますが、道具を与えてはくれません。ヨーガは、地図と共にプロセスを促進してくれる様々な道具も提供してくれるのです。
向上心と欲望はどう違うのでしょうか。向上心と欲望を混同してはいけません。なぜなら、欲望は常にエゴから起こるものだからです。エゴは分離していること、特別であること、勝っていることを求め、特別であることを強化するために欲望を抱きます。欲望とは、分離したエゴ意識から起こる決して満たすことのできない欲求の表れなのです。しかし、エゴの力は限定されたものなので、無限に所有する、完全に所有するという思いを満たすことはできません。それゆえ、求めるものと実際に手にするものとの間に大きな隔たりが生じるのです。これにより、常に満足できない状態に陥ります。エゴは、分離感を手放さない限り、神との合一と遍在性を得ることはできないということを忘れているのです。エゴは世界を所有したがりますが、世界に影響を与えることは霊的な方法でのみ可能であるということを知らないのです。そのため、エゴは何ももたらさない自分自身の方法に従うのです。外から物を集めます。自分とは異なるものだとエゴが感じているものから集めます。飽くなき欲望を満たすために次から次へと快楽をもたらすものを集めるのです。
純粋な向上心はこれと正反対です。エゴに縛られた存在の欠点と不完全さとよく知っているので、エゴの欲望を手放そうとします。向上心から起こる動きはすべてエゴの意識ではなく、エゴから離れることに向けられます。この基準によってのみ、サーダク(サーダナを実践する者)はその瞬間自分が抱いている衝動が欲望からきているものなのか、それとも向上心からきているものなのかを見極めることができるのです。向上心は、魂から、つまり神聖な愛、光、美、善、純粋、進歩を求める思いから生じます。奮闘、そして時には激しさがあるのですが、いらだちや欲求不満はないのです。
どうしたら向上心を持てるようになるのでしょうか。これは段階を経て高まるものであり、通常は、人間の性質から生じる習慣的な行いに対して強い不満を抱くことによって起こります。ある朝目を覚まし、もう無意識のままに生活を送りたくない、何も知らない状態で生きたくはないと思うのです。理由もわからずに物事を行い、そして感じ、矛盾する思いを抱きながら生きること、習慣、決まりきった行い、反応、何も分からないまま生きることは嫌だと思うのです。そういった状態にもはや満足できなくなるのです。しかし、こうした思いにどう対処するかは様々です。
たいていの人にとって、魂からくる最初の反応は、知りたいという思いですが、自分の人生の意味を見出すためには何をすればよいのか、という反応を持つ人もいます。この問いにより、次に(第二に)真理、愛、安らぎ、喜び、存在を見出すために、世の中の煩(わずら)わしさから逃れたいという強い思いが生じます。こうしたものは非常に曖昧(あいまい)な概念なので、我々が為さなければならないことは、無知と不完全さに蝕(むしば)まれた人格を変革するということです。強い思いを抱き続ければ、後に(第三に)、恩寵により無知のヴェールが一時的に破かれ、人生の霊的側面を体験するのです。光を見たり、神の愛を感じたり、至福を味わったり、神の存在や真理を知るかもしれません。これは個人の能力や性向によって様々です。体験することはひとりひとり異なりますが、これまでに通常の生活で経験してきたことのすべてがこれにかないません。そして次に(第四に)この新たな体験が終わってしまいます。この時、我々はこの体験を忘れたり、この体験に疑いを持ったりするのではなく、この体験を生き生きと保ち、再度この体験ができるように意識を向け続けなければなりません。第五に、サーダクは、自分が徐々に高次の人生に引かれるようになり、以前の低級な人生に対する執着が弱くなっていることに気がつきます。これは、内面、つまりメンタル体や生気体上でだけ起こるのではなく、外面でも、つまり友人や仕事、娯楽に対しても起こります。新たな思いや決意でハートやマインドが満たされます。「神よ、私はあなただけを求めているのです」という言葉で現れるかもしれません。第六の段階では、向上心は非常に強力なものなので、言葉に出そうが出すまいが、言葉や祈りは必要ではなくなります。霊的熱意の炎は、深遠な沈黙の背後で常に燃え盛るのです。神の元へ帰りたいという思いにより、真理、変容、完全を求めるようになるのです。
向上心が高まるにつれて、神が恩寵で応えるようになり、人間の意思を超えた力が存在するということがわかるようになり、人間性のすべてにおいて変容が可能になります。しかしこれを実現するためには次のことを心に留めておかなければなりません。
1.常にやり続けること。一日に十二時間向上心を抱いたとしても、他の時間はすっかり忘れているのであれば、何にもなりません。一日中常に意識していなければなりません。
2.いらいらを起こさないこと。これはただ、疑念ややる価値がないという思い、反抗を生むだけです。
3.毎日、観察者として物事を見る時間を取ること。すべてのものの中に神を見るのです。
4.自分の気をそらせ、向上心を欲望に置き換えようとするものが自分の性質上に現れたら、そのすべてを拒絶し続けること。
5.サットグル、クリヤー・ババジ・ナーガラージから恩寵を受け取る。
私の師匠であるヨーギー・S.A.A.ラマイアは、ババジから恩寵を受け取るために必要な三つの事柄を挙げて「受け取る恩寵の量は、サーダナの量、カルマヨーガの量、自分が示す愛と献身の量によるのだ」とよく言っていました。ラマイアは、アシュラムの住人として弟子たちに、言葉だけでなく、生き方の中にもそれを求めました。「恩寵」「サーダナ」「カルマヨーガ」「愛と献身」という言葉は正確にはどのような意味を表していたのでしょうか。弟子たちの実際の生活の中でどのように表されていたのでしょうか。ここでは簡潔に説明することにします。ババジの生徒たちにとって理解の助けになり、存在の五つのレベルで成功を収めるのに役立つでしょう。
恩寵
「恩寵」という言葉は、精神世界の多くの伝統で見られる言葉であり、我々を進化させ神へと近づけ、最終的にはワンネスを体験させてくれるもののことを表します。これは、我々が神からの恵みだと思うような、幸運なでき事という形を取ることが多いのですが、何かを失うという苦しみの形を取り、神からの恵みが隠されていることもあります。また、神聖な光、ヴィジョン、恍惚(こうこつ)状態、深い安らぎの訪れのような形で経験されることもあります。自然に訪れるものなので、我々はこういった経験をしたのは、自分の外にある何らかの力や存在、たいていは自分が献身している神のおかげであると考えます。我々は、努力しているにもかかわらず、霊的な進化をほとんど遂げていないと思われる時間を長期にわたって経験するので、神の恩寵が自分の気づきや経験を新たなレベルに引き上げてくれることを望みます。進歩には恩寵と努力の両方が必要なのです。エゴを放棄するという我々自身の努力がなければ、我々の生活の中に恩寵が入り込む余地はありません。エゴの考えでは、自分に起こる良いことは全部自分のおかげであり、悪いことは全部神のせいです。しかし、我々がエゴの眠りから覚めると、これは全く逆であることが分かります。
私の師匠は「良いことは全部ババジの恩寵のおかげ、悪いことは全部エゴの仕業」とよく言ったものです。恐れやプライドからくる身勝手な衝動に従ったり、欲望からくる利己的な衝動に従うことによって、エゴは作用と苦痛を生み出す反作用の鎖を作り出します。しかし、我々が無意識を浄化し神意識に目覚めると、我々は、神が織りなす創造の中に存在する目撃者、意識的に導かれている参加者となります。魂の静寂からくる内なる声のちょっとした励ましに耳を傾け、それに従うようになります。エゴからくる欲望、恐れ、プライドの大音量はますます退けられるようになります。
神の恩寵、サーダナ、奉仕、献身を通して、エゴから神意識へと変容を遂げるには、サットグルと協力することが不可欠です。サーダナ、奉仕、献身は、正確にはどのような意味を表しているのでしょうか。
サーダナ
「サーダナ」は「訓練」という意味であり、神の存在を思い出すために行う努力、真我を体験するために行う努力のすべてを表します。この目的のためにヨーガを実践する者は、「サーダク(サーダカ)」と呼ばれます。「クリヤーヨーガ・サーダク」は「ババジのクリヤーヨーガ」の道を歩み、クリヤーヨーガの技法を実践し、ババジの教えに従う者のことです。技法はイニシエーションやリトリートで伝授されます。教えについても同様ですが、出版物からもある程度知ることができます。これらはひとまとめで「タミル・ヨーガ・シッダーンタ」と呼ばれています。ババジの教えの大半は口頭でのみ伝えられているので、これらを書籍や雑誌の記事として出版するには相当の年月が必要でしょう。ババジの教えは「タミル・ヨーガ・シッダーンタ」つまり十八人のタミル・ヨーガ・シッダの教えの精髄、教えが凝縮されたものです。十八人のタミル・ヨーガ・シッダの著作の中で最も重要なものには、「ティルマンディラム」(解説つきの英語翻訳版が出版されています)、ボーガナタルの著作集(翻訳され、出版されています)、アガスティアの著作集(すべての著作を収集できていませんし、翻訳もされていません)があります。ババジの二人のグルは、ボーガナタルとアガスティアであるので、ババジの教えを完全に理解するためには、いつか二人のグルの著作が出版されなければならないでしょう。ババジは自分自身で文を書くよりも、二人の偉大なシッダ(成就者)の教えを「クリヤー」つまり「ヨーガの技法」に具現化し、道具として用いることのできる献身的な魂を通して、これらを普及させることを好みました。その魂の一つが私の師匠であるヨーギー・S.A.A.ラマイアであり、すべての行動がババジへの献身で満ち溢れていました。ラマイアは「ババジに自らのすべてを明け渡すのならば、ババジが聖者、賢者、シッダのレベルまで引き上げることができる魂の数に限りはない」と言っていました。また別の魂はニーラカンタンであり、ヨーギー・ラマイアと共に1952年にクリヤー・ババジ・サンガを設立しました。
クリヤーヨーガ・「サーダク」とは、ババジと十八人のシッダの教えと技法の実践を通して、エゴを神意識へと明け渡す努力を意識的に行っている者のことです。クリヤーヨーガ・サーダナとは、ババジの五つの道で提示される技法と活動をすべて実践することです。1.クリヤー・ハタヨーガであり、肉体を浄化するためのアーサナ、バンダ、ムドラ、2.クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマとそれと関連する呼吸法であり、生気体のプラーナの流れを整え、変容をもたらします、3.クリヤー・ディヤーナヨーガであり、マインドを統御するための科学的な技法で、種々の瞑想法、4.クリヤー・マントラヨーガであり、力を秘めた音を使い、神性の様々な様相を呼び起こし、チャクラなどを目覚めさせます、5.クリヤー・バクティヨーガであり、神と神の創造物への愛と献身を養います。
この五つを体系的に実践することによって、エゴが生み出す苦しみが徐々に消え、五つの身体すべてにおいて、苦痛は幸せに置き換えられるのです。例えば、クリヤー・ハタヨーガを実践することによって、肉体に光り輝く健康・くつろぎ・マインドの平安がもたらされ、病気・不活発・苦痛という肉体の持つ傾向を気にかけなくてもすむようになります。こうしてもっと精妙な肉体に意識を向ける余地が生まれ、紐の結び目のように、苦痛をもたらす作用と反作用の中に我々を縛りつけている意識状態から、徐々に解放されていくのです。
クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマやその他の呼吸法を実践することによって、膨大なエネルギーが感じられ、クリヤー・ディヤーナ瞑想法を合わせて用いることで、そのエネルギーを怠惰、物忘れ、うつを克服するための燃料として使うことができます。プラーナーヤーマと瞑想を合わせて用いることにより、クリヤーヨーガ・サーダクはますます神の存在に気づくようになっていきます。クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマは、高次の気づきをもたらす生気体上の中枢にますます多くのプラーナを供給します。ハートの中枢に合うと、神や他者へ対する愛がますます多く顕現されるようになり、のどの中枢に合えば、様々な媒体を通して自己表現を行う能力がもたらされ、眉間の中枢に合うと、直観、創造性、千里眼が、そして頭頂の中枢に合えば、宇宙意識が実現され、すべてに神の存在を見るようになるのです。
クリヤー・ディヤーナヨーガを実践することによって、無意識が浄化され、習慣となっている思考や行動に代わって気づきがもたらされ、どんな活動をしていても導きを受けるようになります。まず瞑想の中で、自分の思考や感情に気づき、ただ観察するようになり、そして日常生活の中でも気づきが伴うようになり、さらには睡眠中でも意識していられるようになります。注意して見守り、マインドの平安を乱す習慣的な思考を見極め、拒絶するようになるのです。これにより最終的にはサマーディ(マインドが対象物に完全に集中している状態。あるいはマインドが機能を停止し、純粋意識だけがある状態)へと導かれます。最初に、無呼吸状態で神との繋がりを経験するサルヴィカルパ・サマーディを経験し、これを繰り返し経験すると、日常生活でも絶えずあらゆるものに神を経験するニルヴィカルパ・サマーディがもたらされます。しかし、無意識の中に存在する恐れや欲望、肉体の細胞レベルまでをも含めてすべての意識を完全に明け渡すまでは、エゴや自分の名前、関係、経歴、野望などと自分を同一視してしまう習慣的な思考は残ります。意識のすべてを明け渡すには、とてつもない量のサーダナが必要であり、エゴが完全に根絶されるまでは五つの身体すべてにおいて害が生み出され続けます。どこかにエゴが残っている限り、神への完全な明け渡しという「タミル・クリヤーヨーガ・シッダーンタ」の目標を達成することはできません。この完全な明け渡しを証明するものは「ソルバ・サマーディ」であり、ここにおいて肉体の細胞がいわゆる「光り輝き」、神我によって導かれるようになります。神の恩寵が五つのレベルのすべてに降臨するのです。肉体が病気になったり、死を迎えるのならば、偉大な聖者の場合といえども、肉体のレベルまでは明け渡されておらず変容を遂げていないことを示します。不死が重要なのではありません。完全なる明け渡しが為されれば、人は神の意思に従います。しかし、クリヤーヨーガの目標である完全なる明け渡しは、聖者の場合のように霊体においてのみ神を実現するものでもなければ、賢者やシッダの場合のように知性体、メンタル体、生気体で神を実現することでもありません。十八人のシッダたちのようないわゆる「マハー・シッダ」と呼ばれる、シッダの中で最も偉大な存在と、神智学で言及されている覚者方のみが、完全に自己を神に明け渡したと見ることができるのです。
クリヤーヨーガ・サーダクは修練に使う時間を徐々に増やし、その修練で培った気づきを日常生活に結びつける必要があります。瞑想自体が目的なのではなく、瞑想は目的のための手段です。日常生活の一瞬一瞬に気づきがもたらされるようにならなければなりません。こうして、我々の経験することのすべてがサーダナを実践する場所、言い換えれば真我の意識を思い出すための場所となるのです。
カルマヨーガ
「カルマヨーガ」という言葉の意味は、クリシュナ(ヴィシュヌ神と一体視されるインド神話に登場する神)の「義務を為し、行動の結果は私に任せなさい」という言葉に端的に表されるでしょう。イニシエーションの場において、我々はこの言葉がクリヤーの実践にも当てはまるということを心に留めながら果物を供えます。
一般に、人は、金銭的なものであれ、名を高めてくれるものであれ、喜びのためであれ、個人的な利益を期待したり願ったりしながら、物事を行います。しかし賢者が発見したように、欲望は自らにえさを与えるだけであり、新たな欲望を生み出し、人を欲望の悪循環へと閉じ込めてしまいます。望むことを手にしようが手にしまいが、最終的なものは常に苦しみなのです。望むものが手に入らなければ、欲求不満になり混乱します。望むものが手に入れば、失うことを恐れるようになったり、あるいは手にしたものに魅力を感じなくなり、飽きてしまいます。カルマの法則によれば「自分がまいた種を収穫する」ということであり、聖書の言葉を用いれば「自分が相手からしてもらいたいように、相手にしてやること」になります。あるいは「良いことを為しなさい、そうすれば良いことが自分に戻ってくる。悪いことを為せば、当然の報いとしてそれを受けることになる」ということです。人間は呼吸をしている限り、活動から逃れることはできません。そこでクリシュナは我々に「個人的な欲望に基づく活動ではなく、自分自身の義務を為しなさい」と言ったのです。
個人的な利益のために行動を取るという条件づけから徐々に解放されるために、ババジは弟子たちに週に数時間カルマヨーガ(無私の奉仕)のために割くことを求めています。見返りを求めずに奉仕するということです。これによって、人は狭いエゴの欲望を超えたより広大な領域へと自らのエネルギーを向け、我々を通して働くことを願う普遍的な愛の力のための経路となることができるようになるのです。
私の師匠はこのことを強調し、この目的のために毎週弟子たちを集めたものです。世界中に活動拠点を持っていた時期には、その拠点の維持と発展もカルマヨーガに含まれていました。また、クリヤーヨーガの活動を宣伝すること、貧しい人々に食べ物を与えること(特にインドにおいて)やクリヤーヨーガの普及に役立つことはどんなことでもカルマヨーガに含まれていました。個人が受け取る効果は目を見張るものでした。自らの想像で作り出した個人的な問題は忘れ、鼓舞され、思考・言葉・行動において力づけられたのです。枯れることのないと思われるほどのエネルギーを私たちは与えられ、すばらしい計画をたくさん実行することができました。後年、この時生み出したものは徐々に消えていきましたが、それは別の話です。重要なことは、その組織や組織の発展に何が起きたかということではなく、カルマヨーガによってエゴが溶かされ、真我実現が進んだこと、大師の手の内で道具となることができたということなのです。
人は、見返りを期待せずに手を貸そうとしたり、無私の状態で何かを為そうとすることでカルマヨーガを開始します。これは、いわゆる準備運動の段階です。ここにはまだ複数の存在があるのです。つまり「私」と「彼ら」です。しかし、本当の意味で人がカルマヨーガに入り込むと、そこに行為する者は存在しなくなります。物事と力の非常に複雑な相互作用から、これは起こり、この時人は何事においても原因ではなくなります。自分は何者か、自分のことを何者であると認識しているのかということは忘れられ、実在だけが残ります。「良いことはすべて神の仕業、悪いことはすべてエゴの仕業」という言葉が自明のこととなるのです。もちろん、エゴという小さな存在はなかなか消えません。エゴは文句を言ったり叫んだりします。
これを根絶するために、マラソンのように続くカルマヨーガの活動の最中に、私の師は我々を夜遅くまで寝かせないことがよくありました。例えば、私たちは午前二時に外へ出て雑草を抜くことを求められたのです(今ではわかるのです、これが内で起こっていることを比喩(ひゆ)として的確に表していたということが)。しかも、これは何時間も前に用意された夕食を取る前のことだったのです。なぜでしょう? 私たちの中の、疲労し抵抗している部分を手放さなければならなかったのです。みながみな長く留まっていたわけではありません。実際には、この修練の激しさに耐えることのできる者はほとんどいませんでした。血糖値が下がりエゴが反抗しだした時、第一の瞑想法とマントラが非常に役に立ちました。
私の師は、実践すべきカルマヨーガをよく「大師の仕事」と呼んでいました。これは、ヒンドゥー教や仏教の聖典で、人生における義務や使命を意味する「ダルマ」を表すのによく用いられる表現でした。自らのダルマは、道を進んで行くうちに示され、内なる導きに耳を傾けられるようになった時に明らかになります。ですから、これは、「クリヤー」すなわち「意識を伴った行為」へと導くすべての「技法(クリヤー)」と密接に関係しているのです。
なぜ恩寵を受け取れるかどうかはカルマヨーガの量に左右されるのでしょうか。人が天国の門を通過できるほど点数を稼いだのかどうか査定するために、誰かがひとりひとりの貸借表をつけているわけでありません。カルマヨーガとは、無意識の条件付けによって支配されているありふれた状況の中に、高次の意識を実際にもたらすことなのです。瞑想の領域、あるいは献身的な活動の領域からもたらされる愛を、人間が必要とするものの核心へと持ち込み変容させることなのです。カルマヨーガは、本質的には奉仕ではないのです。奉仕というものは、「こんなことをするなんて自分は何と偉大で慈悲深いのか」というような心の態度を伴い得るからです。カルマヨーガというのは、実際のところは、少なくともしばらくの間だけでも個人的な欲望を取り除いておくことなのです。これによって、神が顕現する余地、そして無限の真我を知る余地が生まれるのです。
ヨーガは時に「行動の技術」と定義されます。これはカルマヨーガの重要な要素のひとつです。何かがうまく為された時、それは十分な意識を向けて行われたということになります。マインドの小さな欲望に乱されなければ、知性は力とインスピレーションを持ち、個人を通して十分に働くことができるのです。
形而上学的に言えば、カルマヨーガによって我々は、新たなカルマを生み出すことなく行動する方法を教えられるのです。人は自分の過去の行為からくる影響を逃れることはできません。しかし、新たなカルマの種をまいてしまう個人的な欲望を持たず、どんな状況においても意識的に行動することはできるのです。例えば、誰かがあなたを罵(ののし)ったとしましょう。この時に、怒ったり言い返してやろうという思いに駆られて自己を見失うのではなく、冷静に対応することができれば、怒ったり他人を傷つけるという習慣を強めずにすますことができるのです。
カルマヨーガの精神で行動し始めるのです。自分の行動を神に捧げるのです。何かを完成させた時、給料をもらった時、他の人に対して何か良いことをした時はいつでも、「あなた(神)に捧げます」という意味の「オーム・タット・サット」と言うのです。毎週数時間ボランティア活動をし、活動領域を広げるのです。そして愛があなたを通して現れるようにし、自分の才能を用いる領域を常に拡大させるのです。クリヤーヨーガを他の人に伝え、エゴの作り出したカルマの鎖から我々全員が解放されるように無私の精神で働くのです。自分は「行為者」ではないということを忘れてはいけません。
愛と献身
愛と献身のヨーガについて、シッダ・ティルムーラルが『ティルマンディラム』の第270節で適切に述べられています。
無知な者は愛とシヴァは別のものであると言う。
しかし彼らは愛だけがシヴァであることを知らない。
愛とシヴァは同一であり、
シヴァのように愛する時、人は永遠に生きる。
また、第274節では
愛に溶けたハートで神を崇めよ。
愛をもって神を求めよ。
我々が自らの愛を神に向ける時
神も愛をもって我々に近づく。
また、第280節では
我々があざ笑ったこと、我々が努力して手にしたこと、神はこれを知る。
公正な愛の主は実績に応じて報いる。
燃ゆる熱意、愛のハートで神を求める者を
非常に喜び、神は恩寵を与える。
また、第283節では
男女間の甘い愛と同じように
偉大な愛の中においても、自らを神に委ねなさい。
こうして愛の中で浄化され、感覚器官は静まる。
至福の中で跳ね上がり、個はそれとなる。
また、第288節では
神は知る。夜となく昼となく
ハートの中心に留まり、愛の中で高揚し神を崇める者たちを。
彼らは内なる光によって賢明となり、恍惚状態で不動である。
神が現れ、そして目の前に立つ。
これらの詩によって我々は、世界中にある精神世界の伝統において秘教の信者たちが、愛は真我実現の道具であると共に最終的な結果でもあるという事実に同意しているということを思い起こします。
どうやって神に対するこのような愛と献身を養うのか
神であろうが、人間であろうが、動物であろうが、植物であろうが、他のものに対して愛を感じる方法を求めることによって養うのです。人は、非人格的なもの、つまりサッチダナンダ、「実在、意識、至福」としての神の栄光と偉大さについて瞑想をする時、至福を味わい、そしてこれと一体感を持つようになります。我々が、イエスや仏陀やババジのような人間の姿をとった神や、あるいは個々の神々について瞑想をする時も、愛を通して神の性質、本質と一体感を持つようになります。例えば霊的な儀式、宗教的な儀式、聖歌の斉唱、チャンティングに加わったり、神が人格となって現れた姿を見ることのできる聖地を訪れた場合にこういったことが起こることもあります。我々は頻繁に考えたり瞑想したりする対象と同じようになるのです。人生という試練の中で、困難を克服するための力と微笑を絶やさないための喜びを見出すために、人格神からインスピレーションを受けるのです。自分が今いる所で神に出会うことができるのだということを理解し、自らが出会うすべての人に気づきと優しさを持って接するのです。
4.弟子道
人が特定の教師、あるいは特定の道に引きつけられ、その教えを吸収するようになった時、その人は「信者」になっていると言っていいでしょう。そうした人は、同じようにその道に引かれている他の人たちと交流し、教えを学び、講義を聴いたり、情報提供のためや参加者を鼓舞するために開催される活動に参加したりします。疑問や問いが生じ、信者は答えを探します。この期間は、今までの関係や理解との葛藤が生じたり、あるいは自分の愛している人たちが自分と同じようにはその道に引かれないために、精神的に非常に混乱する時期になることがあります。教師がその人の真剣さを試すこともあります。
教えを自分の人生に応用し、疑念に対する答えを探し求めるにつれて、その教えが実際に役立つということがわかり、この道が自分にとっての「正しい」道だと思うようになります。あるいは、何かが欠けていると感じ、また探し続けます。熟していく果物と同じように、経験を通して、色と甘さが信者の中に形作られます。つまり、成熟し、自信を持つようになります。この期間には、様々な教師や教えに触れて、それらを比較したり、試したりすることもあります。
しかし、ある地点で、ひとりの教師、あるいは教えの弟子になると覚悟を決めます。弟子とは、自らの全存在、つまりハート、マインド、肉体、魂を教師に明け渡す覚悟をした者のことです。この覚悟は、揺るぎなく、生涯にわたるものです。ファスト・フードであれ、洋服であれ、予約であれ、人間関係であれ、悟りであれ、自分の求めるものをできるだけ短期間、例えば2週間で手にすることに慣れている北米の文化においては、自らの準備が整い、こうした覚悟をするために必要となるプロセスを経る人はほとんどいません。自称グル、自称「マーハラージャ」に、自分の弟子になれば、数ヵ月で悟らせてやる、と言われた場合を除いては。特に自称グルからスピリチュアル・ネームを与えられてエゴが喜び、みんなが一目置くようにおだてあげられた場合を除いては。拒絶できる人がいるでしょうか。こうした見せかけに、人はすぐに魅了されてしまいます。悲しいことに、夢から覚め、悟りのセールスマンの欠点や口先だけの約束が明らかになると、求道者は幻滅するのです。そして、元弟子は、自分が不誠実な「弟子」であったにもかかわらず、自分がどれだけ失望したかということを述べ、教師を痛烈に批判します。西洋文化において、プロポーズされる前に結婚する人がいますか。まず信者にならないで、弟子になる人がいるでしょうか。これは、教師や教えに対する覚悟が一般に口先だけのものである北米においてだけなのです。
教師や教えを試し、質問し、弟子になる前に十分な時間を使わなければなりません。グルは、弟子を取る前に、弟子が疑問に向き合う機会、教えを応用する機会を与え、信者の誠実さを試さなければなりません。悲しいことに、真のグルはほとんどいませんし、真の弟子はさらに稀です。
ペースを落とし、焦らず、悟りたいという思いさえも明け渡すのです。さもなければ、無節操なセールスマンの餌食(えじき)になってしまいます。あなた自身が「それ」なのです。それを人にくれてやってはいけません。
5.イニシエーションの重要性
ババジのクリヤーヨーガにおいて、イニシエーションの重要性は、見過ごされがちです。イニシエーションは神聖な行為であり、イニシエーションにおいて、人は、真理を知るための手段を初めて体験します。その手段が、クリヤーと呼ばれるヨーガの技法であり、真理は永遠無限なる一者への入り口です。真理は呼び名や形を超えているため、言葉や記号で伝えることはできません。しかし体験することはできるので、自らの真理の体験を分かち合ってくれる教師がすべての人に必要なのです。教師は、生徒が真理を自らの内で体験するための手段、ヨーガの技法という手段を提供するのです。
イニシエーションの間、受け手は気づかなくても、イニシエーター(伝授者)と受け手(生徒)との間には常にエネルギーと意識の伝導が行われています。生徒が疑問や疑いに満ちていたり、気が散っている場合には、効果的な伝導は行われません。そのため、イニシエーターは妨害が最小限になるように、あらかじめ生徒の準備を整えたり、環境をコントロールしたりします。実際、イニシエーターは生徒の意識を自分の意識に取り込み、生徒のメンタル的、生気的な限界線を拡大させるのです。イニシエーターと生徒の間のメンタル的、生気的な境界が溶けるようなものです。これによって意識が上位の界層に移行するのが非常に楽になります。こうしてイニシエーターは生徒を魂の体験へと導くのです。たいていの人の場合、魂の経験はヴェールで覆われてしまっています。生徒は自分の意識が上げられたおかげで、初めて何らかの潜在的意識や潜在的能力を垣間見ます。弟子のクンダリニー(人間の持つ潜在的な力と意識。脊柱の基底部にあるチャクラ、つまりムーラーダーラに存在している)を上昇させる理由は、これなのです。初めての場合、あまり劇的でないことがほとんどです。しかし、学んだことを実践に移す生徒の熱心さによりますが、時を経て徐々に劇的になっていくのです。
イニシエーションが効果的に行われるためには二つのことが必要です。生徒の準備ができていること、真我を悟ったイニシエーターが存在することです。生徒のほとんどは後者すなわち完璧なグルを見つけることを重要視し、自らの準備についてはほとんど気にかけません。「自分のためにそれをしてくれる」人、つまり真我実現、あるいは神実現を与えてくれる人を探そうとする人間性の欠点によるものです。グルが正しい方向を指す時、生徒はその方向に進む決心を自らしなければなりません。頭では決心しているけれども、人間性のために気を散らしたり、疑念や欲望にはまってしまうことがよくあります。だから、たとえ完璧な教師を見つけたとしても、信念、忍耐、誠実さ、根気のような質を生徒が身につけていなければ、イニシエーションはコンクリートの歩道に種をまくように、無駄なものになってしまうのです。
こうした理由により、伝統的にイニシエーションは準備のできた者、時には何年もの準備期間を経た者だけに与えられていました。初めのイニシエーションは多くの求道者に与えられるかもしれませんが、より高度なイニシエーションは弟子としての質を身につけた者だけに与えられました。イエスが言っているように「呼ばれる者は多いが、選ばれる者は少ない」のです。弟子道に必要な厳しい要件を満たす者はほんのわずかなのです。
ディボーティ(信愛者)とは、道や教師を求めている者です。道や教師を見つけるまでには非常に長い期間を要するかもしれません。一人の教師、一つの道に打ち込む準備がまずできなければなりません。品物を比べる買い物客のように、少しずつ見たり、聞いたり、体験したりしながら、ある教師から別の教師へと動き回ります。この段階を経てようやく、弟子となり自らの教師が示した霊的訓練に打ち込むようになります。霊的訓練の結果が現れるまでには長い期間続ける必要があるので、生徒は訓練、忍耐、教師の援助、神の恩寵の効果を信頼する必要があります。真の教師はいつでも生徒の要望に応える準備や、生徒の要望に応えることのできる人物を見つける準備ができています。神の恩寵に自らを開く方法を知っていれば、いつでもそれを受け取ることができます。したがって、問題なのは生徒の信念と忍耐なのです。教師あるいはグルは、イニシエーションを通して生徒の成長を後押しし、霊感や刺激を提供することができますが、生徒は信頼と粘り強さを持たなければなりません。
イニシエーションを受けずに技法を学んだとしたら、それは効果のあることでしょうか? これまで話したことを理解すれば、答えは明らかに「効果はない」ということになります。ゆえに、書籍や、自らが真理の体験をしていない偽りの教師から技法を学ぼうとしても、霊感は与えられないのです。イニシエーターと受け手との間に起こる意識とエネルギーの伝導には技法に力を与える神聖なものがあります。こういったわけでイニシエーションの伝統は世代から世代へと効果的に真理の実体験を伝えることができているのです。イニシエーションの強みは、熱心に修練を積み真理を悟った者たちの力と意識にあります。イニシエーションで学んだことを規則正しく熱心に実践し、イニシエーションに敬意を表すことは、自らの高位我に敬意を表すことなのです。
6.ババジのクリヤーヨーガとは
ババジとババジのマントラ
オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウム。クリヤー・ババジとババジのマントラを語らずして、ババジのクリヤーヨーガについて話を進めることはできません。ババジのマントラには人の鼓動をババジの鼓動に調和させる力があります。このマントラは、人のハートを宇宙の鼓動に繋げることができるのです。このマントラは、伝説的なヒマラヤのシッダ、クリヤー・ババジ・ナーガラージの恩寵へと人を導きます。こうして、ババジは信者に自らを現すのです。クリヤーヨーガの技法を通して、ババジは、求道者をサーダナにおいて、そして間接的にそれぞれの人生において導くのです。弟子は、サハスラーラに宿る内なるグルにマントラを使って繋がることができる、と言われます。マントラはシャクティ、つまり強力なエネルギーです。グルはマントラを通してシャクティを送り、そのシャクティはマントラを通して弟子の中に入るのです。マントラはグルの一形態です。グルは自然の原理、タットヴァだからです。自然の原理であるため、グルは生命を創り、維持し、外なる宇宙も内なる宇宙も、つまり全宇宙を指揮する力なのです。グル・タットヴァは時空を超えています。なぜなら時間と空間は、この創造原理と生命力が生み出したものだからです。
グルの原理は、宇宙が生み出される以前から存在しており、水、地,風、火、空の5要素のように、宇宙創造以来、創造物に内在しています。グルの原理は、すべての者の中に内なる真我として存在しています。我々がマントラを唱えると、我々は内なるグルに尊敬を表す、つまり自らの真我に尊敬を表すのです。グルは真我であり、真我は至高の意識、至福なのです。
オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウムの説明
オームはプラナヴァ、つまりプラーナを流れる音です。
クリヤーは三種類のシャクティ(エネルギー)のひとつです。行為のシャクティが、クリヤー・シャクティ、意志のシャクティが、イッチャ・シャクティ、叡智のシャクティが、ヤーナ・シャクティです。
ババジはクリヤーヨーガの生ける源、サットグル、父としての神、パラマハンサ・ヨガナンダが『あるヨギの自叙伝』で言及したババジです。
ナマは「挨拶」あるは「私の名前は」という意味です。
アウムは人の内部での宇宙の音です。ナマ・アウムは至高我、サットグルへの呼びかけ、祈りです。
人は、真我、至高我に気づくにしたがって、神の手、少なくとも神の指をどのような状況においても感じられるようになります。神を見るようになるのです。自分が導かれていること、受け入れられていることが感じられるようになります。常にグルと繋がっていられるようになるにつれて、サットグルから課せられた仕事がどのようなものであっても常に導かれるようになります。これが「クリヤーヨーガ」なのです。
このクリヤーヨーガの起源
クリヤー・ババジは、偉大なヨーガの大師であり、外の世界にはあまり知られていない状態でチベットやインドのヒマラヤ山脈で何百年も暮らしています。1946年にパラマハンサ・ヨガナンダが『あるヨギの自叙伝』を出版した時に、ババジの存在が注目されるようになりました。ヨガナンダによれば、ババジは数え切れないほどの別の存在を通して働くので、ほとんどの場合、名前を明かさずに多大な影響を与える、と言うのです。
実際、ヨガナンダは、1986年にババジがラヒリ・マハサヤにクリヤーヨーガの技法を授け、この技法によってラヒリ・マハサヤは真我実現に至ったと述べています。そしてラヒリがシュリ・ユクテスワに技法を授け、ユクテスワがパラマハンサ・ヨガナンダに伝え、ヨガナンダがこの技法を西洋に持ち込みました。1920年にヨガナンダはセルフリアライゼーション・フェローシップ(SRF)を設立し、1952年にヨガナンダがこの世を去ってからは、この団体が書籍や通信講座を通して教えを伝え続けました。
ババジのクリヤーヨーガは、インドの伝統的なクリヤー、十八人のシッダとして知られる、シヴァ・ヨーガの完成された大師たちの流れを引いています。ババジ自身にもグルが二人います。アガスティアとボーガナタルです。『ババジと十八人のシッダ』にはこの二人の偉大なシッダとの生活について、ババジが明かしたことが書かれています。この本にも、ババジが1952年、53年に弟子のV.T.ニーラカンタンに書き取らせ、今日『ヴォイス・オブ・ババジ』という題名で出版されている書籍と共に、ババジがV.T.ニーラカンタンとS.A.A.ラマイアを通して始めた新たな活動についての初期の頃のことが書かれています。
ババジのクリヤーヨーガは百四十四のクリヤー、つまり技法を持ち、徐々に高度になるものであり、長年にわたる一連のイニシエーションで伝授されます。五つの部門からなるこのヨーガは、1955年、バドリナート近郊のヒマラヤ山脈で数ヵ月にわたり、ババジから直接、ヨーギー・S.A.A.ラマイアに伝授されました。初めのイニシエーションには、クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマの非常に重要な技法が含まれています。この技法は、今日SRFで教えられている技法と非常に似ているものです。パラマハンサ・ヨガナンダは、クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマを実践することによって、人の内部での神意識の発達を促進することができる、と言いました。
1983年、ヨーギアーとして知られていたヨーギー・ラマイアは、弟子の一人であるマーシャル・ゴヴィンダンの訓練を開始し、ゴヴィンダンが百四十四の技法を教えることができるようになるために厳しい条件を満たすように求めました。ゴヴィンダンは、1983年までに、十二年以上途切れることなく週に少なくとも五十六時間以上クリヤーヨーガを実践してきていました。十二年というのはクリヤーヨーガを実践する上でひとつの理想的な期間だとヨーギー・ラマイアはよく言っていました。加えて、198一年には、スリランカの海岸近くの小屋で独居し、休みなくヨーガを実践し、一年間沈黙を保っていました。ゴヴィンダンが他の条件を満たすのに三年を費やした後、ヨーギアーは「後は待つのだ」と言いました。弟子を「グル」の足元へ連れて行けば、自分の仕事は終わり、とヨーギアーはよく言っていました。1988年のクリスマスイヴ、一連の深遠な神秘体験の中で、ババジからゴヴィンダンへ「ヨーギアーのアシュラムと組織を離れ、クリヤーヨーガを他者へ伝授し始めなさい」という驚きのメッセージが与えられました。
これ以後、ゴヴィンダンの人生は、グルの、絶え間ないインスピレーションの光に導かれ、他者に道を示すことに集中するようになりました。1989年以降、ゴヴィンダンの人生は新たな方向に動き始めました。扉が自然に開き、あらゆることが新たな使命を後押ししました。1992年、ゴヴィンダンは、ケベックにババジのクリヤーヨーガのアシュラムを設けました。1997年には、Babaji’s Kriya Yoga Order of Acharyas という在家教師の団体を設立しました。この団体は現在、カナダ、アメリカ、インド、スリランカで教育関係の慈善団体として登録され、税金を免除されています。2008年時点で、十二カ国に十五人以上の教師がいます。この団体は、十八人のシッダたちの著作を、調査、保存、転写、翻訳、出版するプロジェクトに2000年以来出資し続けています。十八人のシッダたちの著作は、『ヴォイス・オブ・ババジ:クリヤーヨーガに関する三部作』と同様にババジのクリヤーヨーガの起源となるものです。ババジのクリヤーヨーガは、人生を豊かにし、万人を人生の究極的なゴール、つまり真我実現と神実現へと導くことのできる媒体です。シッダたちの著作は、この媒体になくてはならない道路地図なのです。
ババジのクリヤーヨーガは何を目標にしているのか
クリヤーヨーガによって、人生が豊かになります。肉体、マインド、魂が強くなります。クリヤーヨーガの様々な修練によって、実践者は健康になり、神経系統が強固になります。すべての感覚が研ぎ澄まされ、マインドと知性が非常に鋭くなります。人間の潜在能力が開発され、個人の能力が高まります。しかし、クリヤーヨーギーは自分の利益のためにエネルギーや個人の能力を開発するのではなく、社会にとってより役立つ存在になるためにそうするのです。クリヤーヨーガは隠遁(いんとん)者のためのものではなく、人類に奉仕しようと願う者たちのためのものなのです。
ヨーガとは、霊的な人生を送るための実際的な科学です。クリヤーとは、「意識を伴った行為」です。ゆえに、クリヤーヨーガは、行為の中で、行為を通して、いわゆるヨーガの修練においてだけではなく、日常生活においても為されなければならないのです。
ババジのクリヤーヨーガについて、ババジが『ヴォイス・オブ・ババジ』の中で語っています。
「サーダナが通常生活と切り離されたものになってはならない。通常の生活も見方を変えることによって、強力なサーダナになり得る。適切な感情は、通常の生活をヨーガの生活に変える賢者の石になる。極めて実際的であるクリヤーヨーガによって、純粋な哲学からなる理想とこの世の厳しい現実との間に合理的な繋がりがもたらされる。クリヤーヨーガは、現代人に、単なる理論家が持つ完全に抽象的な思索と頑固な現実主義者が持つ過度に実務的な態度の中間に立つことを求める。クリヤーヨーガは達観した人生と関係しているが、何一つ当然のことと見なさないことが求められる。人は、明確な方法に従い、具体的な結果を自らの人生で経験する。クリヤーヨーガは包括的なもの。クリヤーヨーガは、人間の能力のすべてが開花することを目指す。現在の人間が進化して到達することになる超人、この超人の先駆けである。クリヤーヨーガの目標は、開眼し高尚なヴィジョンを持つ新たな人間を創り出すこと、そしてこの結果、新たな世界秩序、サティア・ユガ、つまり真理の世の中を打ち立てることである。
現代社会では、ヨーガが非常に神秘的で実際的なものという見方から、馬鹿げたもの、滑稽(こっけい)なものという見方まで様々である。相反する見方と、とっぴで奇抜な見解がヨーガとサーダナという言葉に関連づけられてしまっている。やせて、半裸で、灰を塗りたくったぼさぼさ頭の人物が大きな木の下で足を組んで座っているイメージを抱かれるのが一般的である。わざと不正確に伝えられたことと長期間こうしたイメージが存在したために、これが根づいてしまっている。ヨーガを実践していて起こる神秘的な現象や肉体より上位の界での体験は疑いの目で見られ、手品と見なされる。今日、この点はもっと明確に理解できる。クリヤーヨーガは、空想上のものでもなければ、異常な事柄も一切含んではいない。クリヤーヨーガは恵まれたわずかの者のためのものではない。クリヤーヨーガは、奇妙な、あるいは並外れた目標を達成するために少数の者が実践する風変わりな手段ではない。クリヤーヨーガは経験的に有効性の証明された、理にかなった方法であり、より充実して、より神聖な人生をもたらすものである。こうした人生は、未来の世界においては自然に万人が送るものである。こうした人生は特異な能力を身につけ行使することによるのではない。必要なことは、自分の中に既に存在しているがまだ眠った状態にある能力を発達させることだけである。用いる主要な道具は、人類全体に共通のもの、つまり人間のマインドである。
ゆえにクリヤーヨーガは、ヒマラヤの洞窟で隠遁生活を送る者だけにかなうもの、修練ではない。クリヤーヨーガは、ぼろを着ている者、石を枕にしている者、両手の範囲内で手に入るものだけを食べている者、暑さと寒さを切り抜ける者、大空の下で暮らす者だけのものではない。クリヤーヨーガは、様々な場所で暮らしている者たち、世の中で暮らしている者たち、世の中に奉仕しながら暮らしている者たちのものでもある。クリヤーヨーガは、サンヤーシン、あるいはヨーギーたちのものでもあり、また、すべての人のものでもある。クリヤーヨーガは、都市に暮らす者、町に暮らす者、村に暮らす者、森に暮らす者によって、深く学び、誠実に実践されなければならない万人のための科目なのである。クリヤーヨーガは、最高の科学であり、成果は争いではなく、真の平和から生じるものであり、魂、無限の喜びから生まれるものである。
クリヤーヨーガには、細かい違いを持った様々な年齢、そして様々な人々にかなうという独特の強みがある。全く同じ方法が用いられるということがクリヤーヨーガの最高の長所なのである。
何百万人もの人々と関わりながらも『人間の手で損なわれていない』方法には神聖さ、上質さ、純粋さがある。その方法の純粋さに疑問をさしはさむ余地はない。ヴェーダや聖典が重んじられるのは、その中に最高の真理や叡智(えいち)が含まれているからだけではなく、『人間の手で損なわれていない』純粋さがそこにあるという事実にもよるのである」
スヴァダルマ 我々が生きている理由
我々全員の最終の目標は同じです。「求道者」が人生で最も切望することは、永遠の幸福です。一般人は、欲望を一時的に満足させることに、この幸福を見出そうとします。求道者は、この一時的な幸福の向こうに目をやり、他のものを求めます。求道者は、欲望を満たしても満足できない原因は内なる存在にあること、そして内なる存在が圧力をかけ、自分をスヴァダルマへと向かわせていることを知っています。スヴァダルマとは、自らの義務であり、「自分自身を知る」責任、「真我に忠実である」責任、「自分は何を学ぶために来たのか、何をするために来たのかを知る」責任のことです。
我々はこの人生に生まれ、そしてほとんどの者は、自分の存在の意味を深く探求することなく、自分がここにいることを当然のことと考えます。我々がこの地球に存在する理由がただひとつだけあり、それはスヴァダルマである、とヨーガでは言われます。スヴァダルマは、幸せになるということではありません。我々がここにいる理由は、自分自身を知り、自分自身に忠実になることです。真の自分を知り、偽りの自分を手放すことです。ゆえに、真の自分を知るために行うことのすべて、真の自分ではないものを手放すために行うことのすべてが、重要なサーダナなのです。これを行う上で、ババジのクリヤーヨーガが助けになります。意識していようが、していまいが、我々はみなそこに向かって進んでいます。しかし、毎日サーダナ、つまりプラーナーヤーマ、瞑想、ハタヨーガ(肉体の浄化を扱うヨーガ。ポーズ、バンダ、ムドラ)を行い、絶え間のない修練、自己探究、神への献身を実践すれば、もっと速やかに進化することができるのです。
ヒンドゥー教によれば、人間には四つの目標があります。一番目は富を得ること、二番目は肉体的な心地よさ、感情面での健康、そして知的な刺激を得ること、三番目は道徳的な人生を送ること、そして四番目は真我実現、言い換えれば、解脱です。ババジのクリヤーヨーガは、この四つの目標のすべてにおいて、我々の助けになってくれます。なぜならババジのクリヤーヨーガは、我々を目覚めさせ、我々を真我実現へと導くように体系づけられている霊的教えだからです。しかしババジのクリヤーヨーガはそれと同時に、包括的で実際的な訓練でもあり、豊かな人生を送るための懐の深い方式なのです。この教えは、シヴァ・ヨーガの大家であるシッダたちの流れを直接引いています。技法は、隠遁者ではなく、多くの場合家庭持ちであったシッダによって開発されました。シッダたちは結婚しており、社会意識を持ち、人類の幸福を求め、科学や医学の分野で新たな発見をし、人類を支えたのです。
クリヤーヨーガというこの科学的技法を開発したシッダたちが、有名な格言を残しています。「人生における幸せの量は、修練に比例する」というものです。クリヤーヨーガにおける修練とは、本当の自分を思い出すために行うこと、そして偽りの自分を手放すために行うことです。これは、人間の状態に関してシッダが行った原因分析に基づいています。「我々は目を開けた状態で夢を見ている」とシッダたちは言います。世の中の外見だけが存在しているように見えます。人生とは夢、人生とはつかの間のもの、あらゆるものが夢のようにやって来ては過ぎ去っていきます。長い年月をかけて獲得する経験、所有物、尊敬、屈辱、幸運、不幸、人間関係、すべてが夢のように去来するのです。
さらに、クリヤーの修練は、気づきを養うことから始まります。しかし、我々が通常していることのほとんどは、無意識、つまり習慣から為され、気づきを伴いません。我々は世の中に対して目が行くと、本当の自分、つまり気づきそのものに対して眠った状態になります。世の中に目が行くと、意識内を通過する思考の動きに気づきません。ところが思考がもたらす喜びと痛みは受け入れます。
世の中に目が行くと、プラーナ(体の中にあるビオプラスマ、あるいは生命エネルギー)の動きに気づかず、マインドが興奮し、感覚も高ぶります。マインドが興奮するのはプラーナの流れが体の中で滞ったり、阻害された時だけです。生命エネルギーの乱れや滞りはマインドの混乱が原因であり、この混乱によって体内の新陳代謝が乱れます。精神的な混乱のために、食べ物が毒に変わることがあります。肉体的な病気を引き起こすことがあるのです。
肉体、マインド、感情の動きに対して常に気づきを保つことによって、精神的、肉体的な不調を正常な状態に戻すことができます。これを実践することによって、マインドを落ち着かせ、プラーナを整えることができるのです。これが「気づきを伴った行為」であり、ババジのクリヤーヨーガの目標達成のための手段であり、また目標そのものでもあります。
さて、気づきとは何であり、またどうすればそれを持つことができるのでしょうか。意識の一部が、それ以外の意識の部分が行っていること、感じていること、あるいは考えていることから離れて立ち、観察する時、気づきが生じます。これは、普通に生活している時にはなかなか起きません。なぜなら通常我々は注目の対象、つまり見ていること、聞いていること、考えていること、あるいは行っていることに意識を入り込ませてしまうか、または様々な方向に意識を分散してしまうからです。朝日が昇るのを見ている自分を観察したのはいつでしょうか、読書をしている自分を観察したのはいつでしょうか、怒っている自分を観察したのはいつでしょうか、ハタヨーガをしている自分を観察したのはいつでしょうか。何かをしている自分を観察するために自分の内に入るということを我々は滅多に行いません。
この気づきの感覚がある時、我々はどうなるのでしょうか。我々は内に留まれば留まるほど、物事に囚われなくなり、そうしてマインドはどのような状況においても落ち着き、プラーナも静まり、どのような状況においても乱れず、マインドが浄化され、幸福感と満足感がハートに生じます。簡単に言えば、これがクリヤーヨーガの目指すところです。
クリヤーヨーガは総合ヨーガです。つまり、五つの体を完全にするために五つの部門からなっています。
クリヤーヨーガは人間の存在のすべての部分に働きかけ、外側に現れる性質を完全に変えることができます。人生で行うこと、そして自分ができると考えることさえ変えることができます。クリヤーヨーガによって、潜在能力が開発されます。クリヤーヨーガは非常に強力なヨーガ、変容をもたらすヨーガなのです。
総合ヨーガとは、存在のすべての部分と存在の活動のすべてを包含するヨーガのことです。しかし、同じ修練を行っても人によって強さの度合い、統合性の度合いが異なることに気づきます。これは、人それぞれに統合性の度合い、つまり進化の度合いが異なるからです。すべての部分を統合し完全にするためには、存在のすべての部分を訓練しなければなりません。
肉体は神の神殿です。肉体は霊を表現します。肉体は、物理的な人生と精神的な人生を送るためだけのものではありません。しかし、我々のほとんどは、物理的・精神的人生のみを生きているので、我々は自分の肉体が霊的な能力を開発できるように教育しなければなりません。我々は、知的な能力を獲得し、感情をよりバランスの取れた状態にするために、肉体的、生気的、メンタル的、感情的な欠陥と欠点を矯正しながら、自分の霊体を体系的に発展させなければなりません。これは、我々の存在のすべてのレベルがヨーガの日々の修練に参加する時にのみ可能になるのです。
ババジのクリヤーヨーガは、気づきと真我実現をもたらす真のシステムです。ババジのクリヤーヨーガには、百四十四の技法があり、五部門からなります。アーサナ、つまり十八種類のポーズ、プラーナーヤーマ、つまり体内のプラーナと意識を導く呼吸法、ディヤーナ、つまり強力なマインドと感覚、視覚化能力、ヴィジョンを実現する力を開発するための瞑想法、潜在能力と意識につながる知性を目覚めさせるためのマントラ、そしてバクティ、つまり「神の恩寵」を呼び起こすための愛と献身です。バクティは、感覚を統御するために必要となる確固とした基盤を作るために必要であり、感覚を統御することによって、感覚内に生じるエゴの欲望や嫌悪感を捌(さば)くことができるのです。
五つの部門のそれぞれの目標
クリヤーヨーガとは「意識を伴った行為」です。クリヤーヨーガは、自己認識、つまり我々という存在についての真理を知るための手段です。ババジのクリヤーヨーガでは、アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想、マントラを行う時に気づきを持ち込み、また思考、言葉、夢、欲望のすべて、そして行動のすべてに気づきを持ち込むことが教えられます。このサーダナには我々をもっと意識的な人間にしてくれる強力な力があります。しかしこのためには、肉体、マインド、ハート、意思が、浄化と完成を強く望み、進んで魂と調和しなければなりません。ババジのクリヤーヨーガのサーダナは、自己開発のための運動と霊的修練の集合体です。しかしまた同時に、自らの存在のすべてを生きるための生き方そのものでもあります。
クリヤー・ハタヨーガの最初の目標は肉体も精神も深くリラックスさせることです。アーサナは肉体が関係する部分に直接働きかけます。十八種類のアーサナによって、肉体から不調や異常が取り除かれます。肉体上の神経系統が強化され、マインドが静まります。様々なアーサナを行うことによって、肉体が柔軟になり、体が軽く感じられ、重力の影響が軽減されるのです。
この一連のポーズを欠かさず実践することによって、肉体からの妨げを克服し、深い瞑想に入りやすくなります。十八種類のポーズを実践することで、徐々に怠惰、落ち着きのなさ、苦痛、病気から解放されます。肉体的にも精神的にも疲労をあまり感じなくなり、疲れた時にも、エネルギーを再充電しやすくなります。自らの存在のより精妙な部分に調和し、肉体内のエネルギーの流れに気づくようになり、そしてそのエネルギーを方向づけることができるようになります。アーサナ、バンダ、ムドラによって、瞑想のための強固な土台が築かれます。ハタヨーガの実践によって、最終的には肉体、マインド、神経系の準備が整えられます。より精妙な神経系統が強固になり、脊柱(せきちゅう)に沿って存在する精妙なエネルギーセンターが刺激され、そしてクンダリニーが解け、上昇の動きが促進され、潜在能力と意識が目覚めるのです。
呼吸とマインドを支配するための科学的技法であるクリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマは、ババジのクリヤーヨーガの中で最も潜在的な力を秘めた技法です。少々複雑ですが、プラーナとマインドを繋げてくれる強力な呼吸法です。緩やかにクンダリニー(我々の潜在能力と意識)を目覚めさせ、生気体に存在する七つの主要なチャクラを通し、脊柱の基底部から頭頂までクンダリニーを循環させます。それぞれのチャクラに対応した意識状態を目覚めさせ、存在の五つのレベルのすべてにおいて活力を増加させます。
プラーナーヤーマは、シッダが行うヨーガの修練の中で最も重要なものでした。プラーナーヤーマは長寿をもたらすものであり、また自らの内に神を見ることができようになるためのものでもあります。
不規則な呼吸は我々の健康を害し、肉体の構成要素の老化を速めます。肉体の衰えを克服するためには、プラーナーヤーマを欠かさずに実践することが必須になります。
プラーナーヤーマの最初の目標は、神経系統を浄化し、すべての神経とエネルギーの経路(ナーディ)で生命エネルギー(プラーナ)のバランスを取り、そして滞ることなく循環させることです。最終的には、クリヤーヨーガのプラーナーヤーマにより、両方の鼻孔と微細なナーディを通る息の流れのバランスが取られます。そして、これにより微細なプラーナのバランスが取れ、安定します。プラーナーヤーマはマインドをより安らいで安定した状態にする手助けとなり、これによりダーラナー(一点集中)がしやすくなり、そしてディヤーナ(瞑想)が生じるのです。クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマはエネルギーの中心経路(スシュムナー)を開き、より多くの生命エネルギー、プラーナをそこに集中させ、そして上昇させ、生気体に存在し、気づきと関わる高次のセンターを刺激します。ババジのクリヤーヨーガの技法には、通常の意識を超えた次元へと我々を導く力があるのです。
マインドを支配するための科学的技法であるババジのクリヤーヨーガ・ディヤーナでは、我々が目を覚ましている時の意識状態に、内なる意識で悟られた真理が浸透し、そしてその真理が、目覚めている時の意識状態で機能することが求められます。我々の意識によって、我々が送る人生の様相と質が決まります。ですから、思考をやめ、空に入ろうとするのではなく、ババジのクリヤーヨーガの瞑想では、マインドの力を強化し、我々が人生で直面する難題や我々の人生での使命に応用できる直観やインスピレーションの流れを刺激することに焦点を合わせます。この独特なディヤーナ、つまり瞑想法は、我々の意識のすべてを魂の願いへ順応させるために、集中力と視覚化能力を養う助けになります。最終的には、このディヤーナにより、真我の気づきがもたらされます。
瞑想は順を追って進められ、各瞑想は前の瞑想が基になり、他の意識レベルを開発する助けになっています。ババジのクリヤーヨーガのディヤーナは、五つの体すべてに働きかけ、我々の意識のすべてのレベル、つまり潜在意識、無意識、マインド、知性、そして超意識に影響を及ぼすことができます。ディヤーナによって、我々は自分が持つ条件づけ、欲望、嫌悪、渇望を自覚するようになり、そして意識的にそれらを手放す過程を経るのです。内なる感覚が養われ、直観の流れに自らを開くようになります。クリヤー・ディヤーナヨーガを実践することにより、潜在意識が浄化され、習慣的な思考と行動が自覚に変わり、何を行う場合でも真我によって導かれるようになります(これはまず、瞑想中に自分の思考や感情に気づくことから始まり、次にこれが日常の活動をしている時に起こり、そして日常の活動を行う中で自分が導かれているということに気づくようになります。眠っている時でさえ気づくようになることもあります)。これらの瞑想を通して、注意深くいられるようになり、そしてまた安らぎや幸せを妨げる否定的な思考を見極め、そして手放し、それらを建設的な思考や行動で置き換えることができるようになるのです。
人間には豊かな創造力があります。「人は自分が考えるとおりのものになる」と頻繁に言われます。我々は無から自分の想像するものを生み出すことができます。我々には大いなる想像力と強力な投影力があります。クリヤーヨーガのディヤーナでは、想像力を養い、そして活用します。想像力は実際の人生の先を行くことができます。想像力には、現実に現れている物事の外へ、そして実現可能な物事の方へ自らを投影し、投影することを通してそれらを引き寄せる力があります。
通常、我々は想像力を用いるのが下手です。つまり、限られた情報に基づいて最悪の事態を想像したり(恐れ)、他人を最悪に想像したり(判断)、あるいはあることがどんなに素晴らしいか(欲望)、またはどんなに嫌か(嫌悪)想像します。悩みを例に取ってみれば、我々はみな悩みます。悩みというのは、自分の欲しないことについて瞑想することではないでしょうか。最も肯定的なことを想像してみてはどうでしょう。自分の人生において、肯定的で健全な結果を想像できるのにどうして最悪の不幸を想像することがあるでしょうか。
想像力は、訓練を必要とする道具です。現実的に一貫して詳しく、熱意や願いを持って作り上げた想像は、現実に生じる力を帯びます。我々が生命エネルギーをこの過程に加えれば、想像は生き生きとした力になります。我々の想像のほとんどは安定していませんし、生命エネルギーも備えていません。なぜなら、我々はたいてい興味を失って、別のことを想像し始めるからです。熱意と信念と信頼を持って上手に作り上げられた想像は、やがて実現します。クリヤー・ディヤーナは、人生の目的に向かって想像力を使えるようになるための訓練を提供してくれます。瞑想法の中には、新たな現実を作り上げるために、想像力を特に開発してくれるものもあります。
クリヤー・マントラヨーガは、我々の存在のすべてを静め、意識を魂と調和させてくれます。ババジのクリヤー・マントラヨーガで伝授されるビージャ(種)マントラによって、我々はチャクラを通過する神聖な上昇エネルギー(クンダリニー・シャクティ)と我々のもとに降りてくる恩寵に自らを開きます。また、愛、思いやり、優しさ、鋭い洞察、自制、忍耐力などのような神の持つ性質を育んでくれるマントラもあります。マントラは、人の注意を「私」「私のもの」という感覚から、内にも外にも存在する神へと向けさせてくれるのです。
クリヤー・バクティヨーガは、神、言い換えれば形のない真理へと向かう向上心、つまり絶対的なものとの合一、そしてエゴとの一体、欲望、執着という牢獄からの解放へと向かう向上心を育成するものです。最終的には、人生において素晴らしい至福を得るために、「神の愛」が、肉欲、怒り、欲望、プライド、嫉妬を根絶させなければなりません。我々を苦痛や苦しみへと導くのは、感覚と関係のある欲望であり、神ではありません。バクティは、「物を所有することではなく、すべてを観察することが必要なのだ」と我々に理解させてくれる手段なのです。バクティのおかげで、「我々は神という糸につながれた単なる数(じゅ)珠(ず)玉に過ぎない」ということが理解しやすくなります。その糸は決して切れることがなく、我々は決してばらまかれることはありません。バクティは、内にも外にも存在する神との合一と神への奉仕、その両方のための手段なのです。
クリヤーヨーガにおいては自己探究が欠かせない
クリヤーヨーガを誠実に実践するためには、進んで自分自身を観察しなければなりません。繰り返し努力することによって、人はマインドと人格の両方に変化をもたらすことができます。ババジのクリヤーヨーガは、浄化のために日々集中的に行われる修練であり、弱点や欠点を取り除くために行うことができ、そして安らぎと内なる繁栄をもたらす手助けになってくれます。
ババジのクリヤーヨーガを秩序正しく日々実践することによって、内に熱が生み出されます。この熱は、相違、つまりマインドや肉体が作り上げ、好き嫌い、嫌悪感や欲望、不快や肉体的快楽と関係のある相違を焼き尽くす助けになってくれます。物事に否定的に反応する習慣を変えることができますし、あるいは何度も何度も繰り返し練習することによって、肯定的な態度を養うこともできます。クリヤーヨーガを実践することがもはや努力ではなくなり、生き方そのものになった時、物事に対する肯定的な捉え方と態度が、新たな生き方になっているでしょう。
プラーナとプラーナーヤーマに関して
プラーナーヤーマは深呼吸ではありません。鼻孔を通して行う通常の呼吸と、微細体を通るプラーナの動きは別物であり、こちらのほうがはるかに重要なのです。プラーナーヤーマの目的は肉体により多くの酸素を取り込むことではなく、プラーナとマインドを繋ぐこと、プラーナと意識を体内で規制し、方向づけることができるようになることです。プラーナは活力に満ちた生命エネルギー、ビオプラスマ(生命活動を行っている物質)です。プラーナはとぐろを巻いたクンダリニーと符合するエネルギーです。
シッダは鼻孔を通る空気の流れを調べ、その流れが、イダー、ピンガラー、スシュムナー内のプラーナの流れと関連していることを解明しました。シッダは、体内のプラーナの流れが、月と太陽の周期にも影響を受け、プラーナは通常、月や太陽の周期と一致して鼻孔を通るということ、つまり体に備わった生命リズムにしたがって流れるということを発見しました。月が満ちる時、そして欠ける時に、ナーディ(エネルギーの経路)の優位も変わるのです。新月から満月まで(月が満ちていく期間)は、左の鼻孔が優勢になり、満月から新月まで(月が欠けていく期間)は、右の鼻孔が優勢になります。月が満ちていく期間は、一日目、二日目、七日目、八日目、九日目、十四日目、そして満月の日の日の出の時には左の鼻孔が優勢ですが、他の日の日の出の時には右の鼻孔が優勢になります。また、約二時間ごとに空気の通る鼻孔が変わりもします。
プラーナーヤーマという言葉は、エネルギーを意味する「プラーナ」と、「アヤーマ」という二つの部分からなります。「弓のように広がる」という意味を表す二つの言葉でアヤーマも構成されており、アヤーマは発展や拡大という意味を表します。よって、「プラーナーヤーマ」は、エネルギーを集め、生気体、つまりプラーナマーヤー・コーシャにある妨害物を除去するためにそのエネルギーを方向づけるプロセスを意味します。このプロセスにより、我々は内なるプラーナの力を支配しやすくなり、そしてこれにより、体とマインドを支配しやすくなるのです。
シッダはプラーナーヤーマを「内なるアグニホトラ(生贄の火)」と呼び、その火に呼吸で毎日生贄を行うものとしてプラーナーヤーマを実践することを奨励しています。シッダは、マインド、体、欲望を浄化するための拠(よ)りどころとしてプラーナーヤーマを捉えます。プラーナーヤーマはマインドをコントロールすることを目指します。プラーナーヤーマによってエネルギーが増加するので、すぐに体とマインドがリラックスします。このエネルギーは適切に方向づければ、怠惰や物忘れ、意気消沈といった傾向を克服するために用いることができます。プラーナがコントロールできるようになると、マインドもコントロールできるようになり、気性・気分・欲望・嫌悪を自分でコントロールできるようになるので、思考や感情に乱されることがなくなります。マインドに起こる自然な揺らぎにますます気づくようになるのです。
プラーナーヤーマは粗い外側のプラーナと精妙な内側のプラーナを発展させます。出ていく息と入ってくる息が調和するにつれて、我々は内側のプラーナに触れるようになり、軽い感覚、上昇する感覚、拡大する感覚を味わいます。プラーナは体とマインドを癒やしてくれるものです。プラーナーヤーマによって体が浄化され、そして活気づけられ、より高い瞑想ができるのです。「プラーナ」は生命力、「アヤーマ」は拡大を意味するので、プラーナーヤーマは生命力の拡大です。内側のプラーナ、言い換えれば高次の生命力を発現させるために、息を緩やかに、そして長くするのです。これによりマインドが緩やかに、そして静かになり、瞑想が容易になるのです。
精神状態は呼吸の速さに対応します。脳波は体内の呼吸の状態に応じて変化します。浅い呼吸はベータ波を生み出し、腹式呼吸はアルファー波を生み出します。マインドの注目があるものから他のものへ移るのは、脳の落ち着きのなさが原因です。アルファー波はリズミカルであり、脳が静かでリラックスし、目覚めた状態にあることを示します。アルファー波は癒しのエネルギーと瞑想を活性化し、強烈な幸福感と関係があります。体とマインドは深い呼吸に自動的に反応します。プラーナーヤーマを通して呼吸をコントロールすることにより、マインドが集中します。プラーナーヤーマによって、集中力、明晰さ、記憶力、創造性が高まることがよくあります。
クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマの技法は、「気づきを鍛練する」プロセスです。プラーナーヤーマには常に気づきが伴います。一方、単なる呼吸の練習はそうではありません。自分が内部で行っていることに十分に注意しなければなりません。注意することによって、気づきに溶け込むことができるのです。注意することによって、意識的な脳(新皮質)が活動しだし、気づきの状態が保たれます。気づきは注意と共に起こります。クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマを毎日二回行うことによって、ヨーガの気づきを養うためにふさわしい基盤が築かれます。瞑想と組み合わせることで、批評的な思考であれ、ハートからの感情であれ、直観であれ、我々の人格に必要なバランスと成熟がもたらされます。プラーナーヤーマを上手に行うこつは、プラーナーヤーマを行う時に完全に専念するということです。
微細体 ナーディ・チャクラ・クンダリニー
微細体について述べずに、ババジのクリヤーヨーガを実践し始めることはできません。我々の肉体はエネルギーの経路であるナーディから構成されており、この経路が我々の体内のプラーナを支えているのです。機能のみが異なる主要なプラーナが五つあります。プラーナ、アパーナ、ヴヤーナ、サマーナ、ウダーナです。体はおよそ七万二千のナーディからできていますが、ここで我々にとって重要なものは三つだけであり、そして純粋に霊的な機能を持ち合わせているのは一つだけです。イダー、ピンガラー、スシュムナーです。すべての人の中でイダーとピンガラーは活動しています。
我々が鼻孔を通して呼吸すると、プラーナがこれらのナーディを通って出たり入ったりします。しかし、生活での様々な活動がスシュムナーなしでは不可能にもかかわらず、ほとんどの人の場合、スシュムナーが活動していません。これら三つのナーディは微細なレベルで脊柱の中に存在しています。スシュムナーは脊髄の中にあり、イダーは左側に、ピンガラーは右側にあります。スシュムナーは脊柱の基底部から頭頂まで伸びています。スシュムナーの展開が解脱への道です。
スシュムナーの基部にクンダリニー・シャクティがあり、これは「我々の潜在的な力と意識」と定義することができます。クンダリニー・シャクティは、口をスシュムナーの方に向けてとぐろを巻いているヘビに譬(たと)えられます。クンダリニーには二つの面があり、ひとつは世俗的な存在として現れている外側の側面であり、我々の生活を支えるために常に幾分か機能しています。母なる自然として、クンダリニー・シャクティは我々すべての感覚や行動のための力です。しかし、我々を高次の意識状態へと導く内側の側面もあり、目覚めさせなければならず、通常は眠った状態にあります。クンダリニー・シャクティが目覚めると、我々の存在のすべてのレベルが変容し、我々の人生をも取り扱うようになります。偉大な創造力が解放されるのです。
人間には、チャクラと呼ばれる心霊エネルギーセンターの主要なものが、脊柱に沿って七つあり、男性では生殖器から、女性では膣(ちつ)から頭頂まで体の軸に沿って存在しています。これらのセンターは肉眼では見えませんが、感じることはでき、目覚めたクンダリニーにいったん貫かれると、それぞれのセンターに関係する明確な精神状態を帯びるようになります。通常、我々は下位の三つのチャクラ、つまりムーラーダーラ、スヴァーディシュターナ、マニプーラで機能しています。これらはエゴ中心的なものであり、生存、性的関心、プライドと意志に関係します。これらはマインド、マインドのパターン、マインドの好みに関係があります。理想的には、これらの下位のチャクラを流れるエネルギーは、霊の高次のエネルギーと我々の持つ最高の能力を現すための強力な基盤となります。肉体の心臓の位置にあり、偉大な霊センターである4番目のチャクラ、アナーハタ・チャクラが開くと、霊妙な経験が現れだし、また内部の浄化も始まります。内なる自己を経験し、無限の存在である自分を感じるようになります。無条件の愛と人間精神の拡大を経験します。波動、つまり愛の感激を味わうことがよくあります。神への愛と他者の必要は自分自身の必要と同様に重要であるという感情と共に、体のすべての毛穴から流れ出てきます。このチャクラが開くと、癒しの能力がもたらされることもあります。のどにあるヴィシュッディは、創造性と真理の座です。このチャクラが開くと、我々の思考に中身がもたらされ、そしてより創造的に、より正しく、より雄弁に表現することができるようになります。第三の目であるアージュニャー・チャクラが開くと、マインドが一点に集中し、深い瞑想状態で思考が静まります。透視や透聴という形で直観を経験することもあります。内界からの芳香や天界の音ナーダに圧倒されることもあります。頭頂のチャクラ、サハスラーラが開くと、直観の流れに完全に繋がります。ここは実在の座であり、あらゆる所に神の存在を感じるようになります。
クンダリニーの浄化力
クンダリニーがサハスラーラまで上昇する時、感覚器官のすべてを通過し、それらを浄化すると共に新たな力を刺激します。感覚器官のチャクラが浄化されていない時は、五感は通常の働きをし、浄化されると、神聖な力を獲得し、肉体上の感覚さえ研ぎ澄まされ、洗練されたものになります。クンダリニーはプラーナ・シャクティと呼ばれることもあります。
プラーナ・シャクティ、つまり宇宙のエネルギーは、肉体の通常の機能を行う時、リタと呼ばれるエネルギーとして用いられる、とアーユルヴェーダに書かれています。リタ、言い換えるとビンドゥは本質的には精液、男性(白)と女性(赤)の性的分泌液であり、体で自然に作り上げられ、肉体的要求で使用されます。エネルギーを増加させ続け、収集し、熱つまりタパスに変換するために、エネルギーを保存するための鍛練、あるいは純化するための鍛練を行っていない限り、通常は、エネルギーが過多になると体外に排出されます。ビンドゥの動きは、呼吸と、プラーナーヤーマに関係のある生命エネルギーの循環と密接な関連があります。ビンドゥ、あるいはリタは、タパス、つまり創造性を持つ熱に変わります。我々が作り出すものはすべてタパスに由来します。タパスを生み出せば生み出すほど、我々はより多くの創造エネルギーを利用することができます。
タパスが体内で形成されると、生命力がとてつもなく増加し、活発さとして現れます。我々はより活発になります。タパスによって、意志の力が活性化されます。浪費することなく、熱の増加を気にかけ、栄養を送り、大事にし、促進すれば、その熱がテージャスに変わります。テージャスは、光、輝きです。テージャスは、顔の光、体の光として示されます。テージャスは、脳に直接影響を与えます。脳が活性化されるのです。テージャスによって脳の力が向上し、記憶力が増すのです。
タパスとテージャスが増加すると、電気に変わります。電気が体内を勢いよく流れると、活力と知性の輝きが生まれます。電気はテージャスをオージャスに変えます。オージャスはエーテルから生じる最初の創造エネルギーです。これはとても純粋なものです。エーテルのエネルギーは、物質次元で最も純粋な創造エネルギーです。人には物を創造する力があります。浄化し続けていくと、オージャスがヴェーリャに変わります。ヴェーリャは霊的な力であり、超意識での恍惚状態と真我実現を促進します。生命力の一形態であるこのヴェーリャは、超意識、言い換えれば真我の輝きなのです。
クリヤーヨーガ・サーダナ
クリヤーヨーガのサーダク(サーダナを実践する者)として、霊的修練に使う時間を徐々に増やしていくのです。霊的修練によって、日々の生活に気づきが確実にもたらされます。アーサナ、プラーナーヤーマ、マントラ、瞑想はそれ自体が目的ではなく、目的のための手段です。クリヤーヨーガの修練を総合的に行えば、最終的にはサマーディ、無呼吸状態での神との合一に至ります。しかし、サマーディに至る前でさえ、修練によって、「人生の些細な事柄」の中にもますます気づきがもたらされるようになります。こうして、経験することのすべてが、「サーダナ」を実践する場になるのです。自分がその瞬間を意識できれば、あらゆる瞬間が、進歩のための機会になるということがわかるようになります。そして、人生を発展させ、完全なものにしようという思いを持って生きるようになるのです。
7.想像
新たな一年が始まります。どんなものになるでしょうか。これまでと同じでしょうか。そうでなければならないということはないでしょう。自分が人生の目的を果たしながら人生を送っていると想像するのです。あなたは今、自分の必要を満たしてくれない人間関係や仕事や場所にはまり込んでしまっているように感じているでしょうか。凝り固まった思考、恐れ、自己不信、否定的な態度を手放しさえすれば、どんなことでも変わり得ます。
「でもどうすればよいのでしょうか」とあなたは尋ねます。この問いによって、我々は自分がこの世に存在している理由について考えます。この問いに対する答えを求めなければ、風に吹かれる葉のようになり、物質文明からなだれ込む欲望に揺さぶられます。我々が見出さなければならないことは、自分の「ダルマ」、つまり人生での使命、義務です。我々の究極のダルマは、神、真理、真我、「自分は何者であるか」ということを悟ることです。『バガヴァッド・ギーター』『ティルマンディラム』『パタンジャリのヨーガスートラ』『ウパニシャッド』などの書物は、こうしたものを実現するために、我々が歩んでいく道を決定する際の手助けになってくれます。しかし、この真我実現のための道において、我々は自分の過去の行い、つまり「カルマ」の結果に遭遇します。カルマは、我々がどれだけ意識できているかに応じて、習慣的な反応をさらに強めることもありますし、あるいは我々が目覚め、我々を通して神を機能させる機会にもなり得ます。日々、新たな状況やでき事がたくさんあり、我々に選択する機会を提供します。癖になっている精神的感情的なパターンで無意識に反応することもできますし、あるいは静かに自己の中心に向かい、耳を澄ましさえすれば手にすることのできるインスピレーションに自分を合わせることもできます。
クリヤーヨーガを実践する中で、我々には日々新たな自己認識の高みに立ち人生に向かい、常に至福の中にいる状態を養う機会があります。毎日我々には、神、真我のハートの中心に深く入り込む機会、実在・意識・至福に深く入り込む機会があります。
自らのハートに意識を向け、我々は何をすべきか?
答えは、「オーケストラの指揮者」である神が奏でる音に耳を澄ますことです。クリヤー・ババジ・ナーガラージの美しい姿を思い浮かべるかもしれません。日々、意識を上昇させ、拡大し、すべてを抱きしめ、いわゆる「この世」での仕事や人間関係、家事、買い物に戻る時には、深い瞑想中に育んだ神聖な空間にしっかりとしがみつくのです。この神聖な空間で、「行為者」という意識を手放し、次のように唱えるのです。「私の意思ではなく、あなたの意思が為されますように」と。この神聖な空間で、イメージとインスピレーションが流れ込んでくるままにし、未来の仕事や難題に対する指針を提供してもらうのです。覚者に意識を合わせ、指導を仰ぎ、耳を澄ますのです。想像力を発達させていくにつれて、インスピレーションが強化され、この世での自分の使命を果たすために必要な手引きと資源が、「必要とするその時に」もたらされます。自らの役割を果たすのです、サットグルが築いているリズムに常に耳を澄ますのです。
8.真我を悟ること、そしてその状態を維持すること
我々は、個人としても全体としても真我実現を成し遂げ、そしてその状態を保つことに日々取り組んでいます。ヨーガの修練中、あるいは自然に、絶対的実在の自明の真理「サット・チット・アーナンダ(実在・意識・至福)」がわかり始める時があります。このような時には、I AM(私は在る)という自ら輝く意識の中心にあるか、またはその意識が前面に出てきており、経験は(肉体、生気体、メンタル体、知性体いずれのレベルにおいてであれ)後ろへ退き、見られる対象となります。真の自己を認識し、経験を幻影だと知る時、一つの状態、つまり神に帰っているのです。疑いは微塵(みじん)も存在しません。まばゆいばかりの真我認識、周りのすべてに自己を見ます。実際に存在する場所と存在したいと願う場所の隔たりは消えます。欲望は去り、マインドは静まります。行動すること、学ぶこと、何かになることはもはやなくなります。至福だけが存在するのです。
またある時には、真の自己に対する認識が後退し、マインドがいつものパターンに帰ってしまいます。不安・欲望・感覚的な経験・様々な感情・思考を自分だと思い込んでしまいます。意識そのものではない、経験の対象を自己と同一視している時、我々は「真我実現を成し遂げたい、神を知りたい」と言いながら、自己を偽っています。大勢の人がイニシエーションを受けますが、しかし、さまよいます。「どうして神を認識できないのか」と。ヨーガの技法の使い方を学びさえすれば、自分の熱望を達成できると思っています。
道具と向上心(どんなにかすかであろうと)がある一方、瞬間瞬間を生きようという意志が欠けています。ヨーガ、真我実現において重要なことは、過去に何をしたか、これから何をしようとしているかということではなく、瞬間瞬間をどう生きているかということなのです。あらゆる行動、日常生活のあらゆる瞬間に気づきをもたらすこともできれば、あるいは散漫、惰性、無意識という古いパターンで人生を送ることもできます。選択するのはあなたなのです。
ヨーガのサーダナ(修練)によって、常に意識を自己の中心に置き、気づきをもたらすことができます。I AM(私は在る)が真の自己だと知り、自分の経験と一体化することも経験に囚われることもなく、自己の経験を移りゆくものとして見ることができます。ヨーガのポーズ、プラーナーヤーマ、瞑想、マントラ、バクティヨーガ、ヤーナヨーガ。目的はすべて同じです。意識を純粋で自由な状態に保つこと、この状態が自然なものになるまで意識を訓練することです。マインドの習慣が妨げとなるため、これには長い年月を要します。失敗は当然起こります。失敗は、成功への足がかりとして受けとめることです。「諦めなければ、いつか必ず目的を達成することができる」と私の師はよく言っていました。
結局のところ、サーダナの目的は、次の問いに対する答えを真に知ることです。「私は何者なのか?」「誰が悩んでいるのか?」「この感情を感じているのは誰か?」「そう反応しているのは誰か?」。光の意識、純粋な存在、思考・感情・経験から離れたI AMという存在に帰ると、答えがわかります。深い睡眠によって、毎晩この純粋な自己に帰ることができます。睡眠中に真の自己に帰りたがらない人がいるでしょうか? これは喜びに包まれた普遍的な時間です。深い睡眠は至福に満ちています。深い瞑想状態や、アーサナのポーズに深く入り込めた時にも同様の状態を経験します。
真我実現を成し遂げ、この状態を保つことは、瞬間瞬間を生きるということです。ぐずぐずしてはいられません。一瞬一瞬をかけがえのないものにしましょう。それがまるで最後の瞬間であるかのように。ありふれたことや些細なことであっても、あらゆるでき事を真の自己に帰る機会、真の自己に気づく機会としましょう。この真我認識を邪魔しようとする古い習慣に気づきましょう。呼吸に注意しましょう。現在に生きていない時には呼吸が教えてくれます。神は離れて存在しているのではありません。あなたが、夢の中でさまよい、見失っているだけです。今に生きることによって、大いなる存在を讃えましょう。宇宙には、たった一つの絶対的実在だけが存在していることを知りましょう。気づきを保ち、至福の中に存在していましょう。
9.瞑想という技法 自分と自分ではないもの
瞑想を実践することは、ますます一般的になってきています。しかし、瞑想は、瞑想の実践を勧める人にさえまだ誤解されている状態です。「私は『瞑想』を実践しているんです」と誰かに言えば、「へえ、マインドを真っ白にしようとしているんですね」と言われるでしょう。もしもこれが瞑想のすべてだとすれば、瞑想は単なる無意識状態であると言われるかもしれません。瞑想の本質と瞑想の効果を誤解して、瞑想を恐れる人が出てくるかもしれません。多くの場合、我々は自分のよく知らないことを恐れます。瞑想のプロセス、瞑想の多大な効果、始め方を幾らかでも理解していただきたいと思い、私はこの文章を書いています。
ここ数十年、なぜ瞑想は一般的になったのか
瞑想が一般的になった理由は幾つかあります。
1.ストレスを処理し、心臓病を好転させ、血圧を下げ、幸福感を高める効果が瞑想にはあると、多くの科学的な研究によって証明されました。この結果、こうした症状に悩む患者に医者が瞑想を勧めたのです。
2.霊性に対する関心の増大。教会に通う多くの人が、例えば教会でただ単に知的な経験や感情的な経験をするだけでは満足しなくなっているのです。霊的な経験も望んでいるのです。宗教とは明確に異なり、霊性では形のないものが強調されます。これはマインドが静まった時に体験できることです。瞑想は、マインドを静める手段の一つです。
3.人生に関する重大な問い、「なぜ善良な人々に不幸なことが起こるのか。なぜ私は苦しむのか。神は存在するのか」という問いへの宗教でのアプローチの仕方に対する不満の増大。人々は、自分自身で考えるようになるにつれて、ドグマ、つまり宗教団体の信念体系に縛られずに、自分自身で物事の真理を見出したいと望むのです。
4.たくさんの書籍、そして瞑想の歴史が長く、瞑想が発達しているアジアから、瞑想の指導者がやって来たおかげで、瞑想がずっと身近なものになったのです。修道院に入らなくても瞑想が学べるわけです。覚者方が手本となり、多くの人々が人生の目標として「真我実現」を求めるようになりました。
瞑想とは何なのか
私は瞑想を「選んだ物体やテーマに関して常に意識を保ち続けること」と定義したいと思います。瞑想によって、我々は本当の自分でいることができるのです。なぜなら純粋意識である人間の高次の性質は、常に瞑想状態にあり、常に気づきを伴っているからです。しかし、人は滅多に高次の性質が持つ視点、魂の視点、観察者の意識の視点と言っても構いませんが、その視点に立たないために、困難が生じます。人には、五感や記憶や感情に刺激され、マインド内に生じる経験に完全に入り込んでしまう癖がついています。あるいは、様々な方向に意識を分散してしまっています。読書をしている時や映画やテレビを見ている時のように、こうした事柄にマインドが入り込んでしまうのは、人間の低次の性質が原因です。瞑想は、何気なく入り込んでしまう事柄を手放し、本当の自分を思い出せるようにマインドを訓練するプロセスです。言い換えれば、瞑想によって、人は自分と繋がることができるのです。
瞑想を教えている流派はすべて、先に述べた瞑想の定義に異論を唱えません。「常に気づきを伴っている状態」になろうとすることが、すべての流派の目標です。流派によって異なることは、物体やテーマです。マインドを訓練して、マインドが通常囚われているものを手放すことができるように用いる物体やテーマです。多くの流派が呼吸を用います。コントロールしようとはせず、ただ呼吸に従います。マントラ、つまり繰り返し唱えると高次の気づきに導いてくれる音の固まりを勧める流派もあります。あるいは曼荼羅(まんだら)(小宇宙内に存在する大宇宙、つまり人間の内に存在する宇宙を表す幾何学図形)に焦点を合わせる流派もあります。こうすることで、マインドを集中させ、あちこちにさまようマインドの傾向を相殺することができるのです。また、愛、真理、美、苦しみ、運命などのような抽象的なテーマに関して思考する流派もあります。
何を目標とするかによって、技法は異なります。多くの流派では、マインドを超越し、内にある深い安らぎと静けさを見出すためにマインドを静めようとします。ババジのクリヤーヨーガの伝統において、瞑想は「マインドを支配するための科学的技法」と定義されます。マインドには多くのレベルと機能があり、また、まだ開発されていない潜在的な能力も持っているので、この定義には様々な目標に対する幅広い行動方針が含まれています。ババジのクリヤーヨーガの瞑想法には、潜在意識に存在する習慣的な傾向を浄化するための技法があります。この習慣的な傾向は、多くの苦しみの源です。人生におけるすべての分野で成功するために必要となる集中力を養うために用いられる技法もあります。また、大いなる洞察や直観に我々を開くと共に、知性や概念を形成する力を養うための技法もあります。さらに、直観、超能力、超意識を養いながら、人生で出遭う経験を自ら創造していけるようになるための技法もあります。こうした理由から、ババジのクリヤーヨーガではたくさんの瞑想法が教えられます。技法の一つ一つが、特別な道具であり、異なる目的のために用いられるのです。
瞑想の障害
瞑想は科学であり、また技術でもあります。正しく行えば、誰にでも同じ結果と利益がもたらされます。しかし、瞑想がもしも科学のみであるとすれば、やり方を理解し、そして瞑想を試みた瞬間に約束された結果がもたらされるでしょう。残念なことに、我々の低次の性質、つまり散漫や怠惰、落ち着きのなさ、倦怠、眠りが瞑想に抵抗するのです。瞑想をするためには、肉体的なものでも精神的なものでも習慣になっている傾向を変える必要があるので、瞑想は技術でもあります。どんな技術でもそうであるように、瞑想においても、変化に抵抗する癖や人間性を克服するために技術を身につけるには、長期間、真面目に練習しなければなりません。癖は、繰り返し抱く思考、言葉、行動によって、築かれます。このような癖に欲望や恐れが関わっている場合には、その欲望や恐れに動かされてしまい、高次の自分からの気づき、魂からの気づき、つまり純粋意識が存在している霊的次元を失ってしまいます。瞑想によって、人は思考や言葉や行動が起こる前でさえも、それらに接触することができるのです。
継続的な気づきを妨げる九つの障害
1.病気。病気とは、肉体的なもの、精神的なものの両方を指します。病気というのは、生活の中のストレスにどのように反応したかの結果です。あなたが病気のとき何が起きますか。不快、痛み、疲労など病気の症状に気を取られて注意が散漫になってしまいます。その症状に取り込まれてしまうのです。私があなたに「あなたは病気ですか」と尋ねれば、「私は病気です」とあなたは答えます。しかし、あなたは病気ではないのです。あなたの体が病気なのです。ですから、病気に取り込まれそうになった時には、自分をよく観察することです。その病気を外から見るのです。もちろん、予防は治療に勝りますから、病気にならないように健康的な生活習慣を持つようにすることが大切です。食事・運動・休息のバランスを取りましょう。同様に、日常生活の中で抱く扱いにくい感情をやり過ごせるようになって、心の病気も避けましょう。心の病気には悩み・恐れ・執着が含まれます。誰しもこういった思考を経験するのですが、健全な心はそういったものを大きくしないでやり過ごすことができます。目の前にある問題に対処するために精神的なエネルギーを取っておきましょう。否定的な思考は手放し、肯定的な思考・自己暗示・アファメーションで置き換えましょう。良くない心の習慣を大きくしてしまうような活動や人物は避けましょう。怒り、悩み、恐れ、不平などが避けるべきものです。否定的な思考に浸りきらなければ、悪い習慣は徐々に弱まっていきます。
2.精神的不活発。気づきを継続するために注がれるエネルギーが足りないと精神的に不活発な状態になってしまいます。真我実現が確立されるまでは、観察者として意識の一部を常に保つための努力が必要です。これにはエネルギーが必要です。働き過ぎや睡眠不足によって疲れ過ぎると、自分の思考・言葉・行動を観察者として見ることができなくなります。 病気を克服する時の手段と同様、自分のエネルギーを高く保つために、健康でバランスの取れた生活習慣を持ち、またエネルギーを奪ってしまうような事柄、例えばアルコール、食べ過ぎ、話し過ぎ、テレビの見過ぎ、働き過ぎなどを避けなければなりません。生活を簡素化し、不必要な活動や責任を手放す必要があるのです。
3.疑念というのは物事を疑うマインドの傾向であり、答えを見つけようという思いがないと、努力を続けることに対して皮肉的になってしまうものです。これは特にあまりにも理性的な人に現れる問題です。満足のいく回答を与えられた時でさえ、疑うこと自体を楽しんでしまうのです。知性が、疑いそして新たな刺激を求めるというゲームから過度の満足感を得てしまうのです。疑念は良い問いかけを為す助けになりますが、多くの場合は答えが得られるまで辛抱強く待たなければなりません。ですから、自分が持っている疑念を明確な質問にして、ノートに書き留め、教師や聖典から、あるいは瞑想中に答えを求めることが大切です。
物事に対する自らの見方を変えないと答えが得られない問いというものがあります。例えば、人は決して神を「知る」ことはできません。また、意識が何であるかということも知ることができません。というのは、「知ること」には知る者と知られる事柄と、そしてその二つの関係の分離が伴うからです。神や意識の存在しない場所があるのでしょうか。神や意識があまねく存在するのなら、自分とは違ったものとして神や意識を知ることは不可能です。しかしながら、見方を変えること、つまり完全に現在に存在し真我の中心と一体になることによって、神に気づき、意識とは何なのかを自覚することはできます。肉体やマインドが苦痛を受けている時に「私」は肉体でもマインドでもないと知り、苦痛がこのことを真に理解するための助けになっているのだと悟ることができるのです。
4.不注意とは、注意の足りないこと、注意が散漫であること、習慣的な注意不足のことです。スピードの速い現代生活において、多くの人は一度にたくさんのことをしなければならないと感じ、そのために注意が欠如してしまいます。一度にたくさんの事柄に意識が向かってしまうのです。あるいは食べたり飲んだりしながらラジオを聞いたりテレビを見たりというように複合的な気晴らしを求めてしまいます。多くのことをすればするほど、五感を通してより多くのことを吸収すればするほど、より幸せになれると思っているのです。しかし、真実は全くの逆です。自分が行っていることと共にその瞬間に存在することによって、自然に喜びが湧(わ)き起こるのです。今という瞬間に存在していない時、人は外部のものが存在していること、あるいはしていないことと、幸せというものを混同してしまいます。一度に一つのことだけに注意を向け、事を為しながら自分を観察できるようになると不注意な習慣を克服することができるのです。
5.怠惰は、習慣の一つで熱意不足や落胆が原因で起こります。本質的には感情の状態であり、意志によって左右することができます。休息や健康的な生活習慣によって改善することができる精神的な不活発は疲労が原因ですが、怠惰は疲労によって引き起こされるわけではありません。やる気をなくしていると感じたら、「この状態をやり過ごせるか」と自分に問いかけたり、聖歌の朗唱のような行動で肯定的な感情の状態を生み出したり、あるいは否定的な感情を相殺する自己暗示を行いましょう。また、修練を規則的に行うことや気持ちを高めてくれる書籍を読んだり、鼓舞したり励ましてくれるような人と会うというような習慣を養い、徐々に怠惰と置き換えていくことによっても、克服することができます。自分が何に時間を使ったかを記録し、テレビの見過ぎ、働きすぎ、運動(エンドルフィンを刺激し、やる気を起こさせてくれる)不足といった活動を取り除いていくのです。
6.対象への耽溺は、欲望を手放すことができず助長する時に起こります。欲望の対象を実際に体験するというよりも、対象について空想することを言います。あの食べ物を食べられなければ、あの飲み物を飲めなければ、あの人と一緒にいられなければ、あの欲望を満たせなければ自分は幸せにはなれないと思ってしまうのです。人間ですから欲望を持つことは不思議ではありません。しかし気づきが生まれるに従って、それらを手放し、性欲・食い意地・空腹感といった思考を抱き続けることを拒否できるようになります。こういった思考に耽(ふけ)ることによって、幸せの真の源、つまり内なる実在・意識・至福を否定してしまうことになります。現代の物質文化において、我々はこういった空想をもたらす情報を絶えず浴びています。この商品を手に入れればあなたは満たされます、と広告は思わせようとします。悲しいことに現実は逆です。肉体感覚に関わる活動をするな、と言っているわけではありません。食べたり、飲んだり、皮膚で感じたり、物を消費したり所有すること自体は何も悪いことではありません。対象への耽溺というのは、そういった経験をしたり、物を所有した時に、どれだけ気分がいいか、どれだけ幸せを感じるか、と空想することです。これは、幸せの源と外部のものとを混同してしまうという根本的な無知からくるマインドの混乱です。ですから、五感を通して何かを楽しむ時には、観察者として思う存分楽しむことです。空想が起きたら、それを手放すのです。その瞬間に体験していることと共に存在するのです。
7.誤った知覚とは、根元的な現実を見ないことです。これは自分が何者であるかに対する根本的な無知が原因です。利己主義のために、我々は「私は在る」という主体と自分が経験する対象物とを混同してしまいます。永遠と非永遠とを混同してしまうのです。五感を通して体験される事柄にマインドは常に乱され、我々の意識は目の前を通るショーに見入ってしまいます。映画館に行って映画に夢中になる人のようなものです。自分が何者であるかを忘れているのです。プロジェクターの光とその光を映し出すスクリーンという常に変わらぬものが見えなくなっているのです。現在に留まること、つまりその一瞬だけを扱うことによって、この誤った知覚を克服することができます。内にも外にも常に存在しているものは容易に知覚することができます。自分が、人生のドラマ、映画に囚われていると感じる時には、深呼吸をし、その時そこで起きていることを観察するのです。誤った知覚という習慣を捨てるために、毎日瞑想の時間を確保し、休暇には日々の喧騒から離れる時間を取ることです。誤った知覚という問題は徐々に小さくなっていくでしょう。
8.忍耐や我慢強さが足りないと、確かな基盤を築くことができません。ヨーガの生徒、特に西洋の生徒はよくインスタントコーヒー、インスタントティー、インスタント真我実現を期待してしまいます。真我実現をもたらすために一生懸命、長期にわたって取り組む準備ができていないのです。難なくすぐに起こるだろうという期待を持ち、自分の中に抵抗が生まれるとすぐに我慢ができなくなってしまいます。たいてい、自分に真我実現をもたらしてくれる人を探して、様々な教師の元を転々とします。自分が持つ悪い習慣に取り組もうとはしません。高みへと到達する人と到達できない人との最も大きな違いは、「忍耐」です。転んでしまったり、自分の思ったとおりにできなかった時には、無能・落胆・いらだちという感情に入り込むのではなく、その失敗を成功への足がかりと考えることです。修練の習慣を養い、徐々に修練に使う時間を増やしていくのです。まずはちょっとした悪い習慣から取り組むことです。自己暗示と無執着でそれを克服すれば、手ごわい習慣を克服する自信が得られます。
9.不安定とは、人生の浮き沈みの中で平静さを保てない時に起こる、精神的・感情的な状態のことです。修練に一貫性がない時にこれは起こります。日々の、移ろいゆくショーの中で自分を見失ってしまうのです。物事がうまくいって大喜びしている時や、物事がうまくいかず失望したり、いらいらしたり、欲求不満になっている時にこの状態が現れます。人の幸せは、失敗ではなく成功、損失ではなく獲得、非難ではなく称賛に負うと考えてしまうのです。しかし、二元性はすべて不安定なものであり、どんなにしがみついても、すべて儚(はかな)いものです。どうして過ぎゆくものに信頼を寄せるのですか。不安定を避けるためには、上に挙げたような二元性の中で平静さを保てるようになることです。どんなカルマが自分に降りかかろうと、内に持つことができる幸福感に気づくことです。リラックスするのです。悩まず、この瞬間に留まり、元気にしているのです。困難なことが起こり、マインドや身体が怒りや欲求不満を帯び、習慣的になっている否定的な反応を起こし始めたら、深呼吸をするのです。「この悪い状態だって過ぎ去っていく」ということを忘れないこと。物事がうまくいっている時でさえ同じだということを忘れないことです。
継続的な気づき(瞑想の終着点)を妨げるこれら九つの障害は、パタンジャリの『ヨーガスートラ』第1章第30節で述べられています。こうした古典を読むことは助けにはなりますが、規則的にそして勤勉に修練を行うことに代わるものはありません。自らの体験に勝るものはありません。ですから、瞑想用にと、これまで推薦してきた事柄を実践し、これまでに経験したことのない、より高い意識を味わいましょう。今すぐ始め、今を完全に生き、一瞬一瞬を実りあるものにしましょう。
どうやって始めるか
「我々は目を開けた状態で夢を見ている」。これは、ヨーガの大家であるシッダたちの言葉です。この言葉は、人間としての存在が抱える根本的なジレンマを言い表しています。我々がマインドの動き、つまり、パタンジャリが『ヨーガスートラ』で述べていることによれば、五感を通じての知覚、思考、空想、記憶、眠りに入り込んでいる時には、我々は「夢を見ている」のです。鋭い指摘を受けたこの症状を改善するためには指導が必要であり、シッダたちは我々を夢の状態から目覚めさせるために様々な技法を開発しました。パタンジャリは、マインドを静めるために十二の瞑想法を示しています。人によって性質は様々なので、ある技法が他の技法よりも効果的なこともあります。したがって、自分にとってどれが一番適しているのかを知るために、幾つかの技法を試してみるのがよいでしょう。
瞑想とは、本当の意味では人が行うことではありません。瞑想は本来の我々自身なのです。瞑想は我々の人生から切り離すことのできないものです。ですから、自分の生活の仕方に、瞑想への取り組みが邪魔されないように、まず準備から始めます。瞑想は今という瞬間に留まることから始まり、このためには必要なことが幾つかあります。現在に留まっている時、人はその瞬間に起きていることに全神経を集中させています。我々は過去の経験によって条件づけられ、過去のことをいつまでも考えたり、未来を憂えたりするので、習慣に操られたマインドを元の状態に戻すためには準備が必要なのです。東洋の伝統的なヨーガのようなものでは、瞑想の正式な訓練には幾つかの段階があります。最も有名なものの一つは、八部門(アシュターンガ)です。
1.ヤマ、つまり五つの制限事項によって、社会上の関係が最適なものとなり、その関係のために内面が乱されることがなくなります。制限事項は次の五つです。①他人を傷つける言葉や行為、そして思考さえも避けること。②事実に即したことだけを話すこと。③他人を霊的な存在として捉え、性の対象として見ないこと。④他人のものを取らないこと。⑤欲張らないこと。
2.ニヤマ、つまり五つの遵守事項。①純粋な愛の思考、言葉、行為。②満足、つまり自分が持っているものに感謝すること。③高次の自己を思い出し、マインドの動きと一体にならないように誤った認識を手放し続けること。④自己探究。聖典を読んだり、瞑想を記録したりするなど。⑤神の顕現物のすべてに対して愛と尊敬を抱き、常に神に意識を向け続けること。
3.アーサナ、つまり安定とリラックス状態をもたらしてくれるヨーガのポーズを実践すること。
4.プラーナーヤーマ、つまりマインドを静め、我々が持つ潜在能力と意識を開発するための特別な呼吸法を実践すること。
5.プラティアーハーラ、感覚器官から意識を引き離し、不必要な活動に意識が分散するのを避けること。
6.ダーラナー、一つの対象物に集中する力を養うこと。
7.ディヤーナ、先に述べた瞑想法であり、対象物が何であれ常に気づきを養うこと。
8.右記のことを行うことによって、瞑想の最終目標であるサマーディに達し、サマーディにおいて、経験の対象物と自分とを異なる存在として見るエゴの視点を超え、真我実現が起こる。
肉体、健康、精神的な癖、社会上の関係など様々なものが、我々の瞑想に影響を与えるということを理解すれば、瞑想から最大限の利益を得、初心者が陥りがちな罠の多くを避けられるでしょう。ですから、様々な種類の単純な瞑想法を学び、試してみると共に、先に述べたアシュターンガ・ヨーガの最初の五部門を実践することが推奨されるのです。
特に、瞑想を始める前に、数種類のポーズと呼吸法を行うことが肉体とマインドにエネルギーを与え、そしてリラックスさせてくれ、瞑想中によく起こる障害である眠りを避ける手助けになるということが、初心者にはわかるでしょう。
瞑想のための姿勢
瞑想を行う時の姿勢で最も良いものは、自分が最も心地よく感じるものです。ですから、いろいろな姿勢を試してみてください。膝が固くて、足を組んで床に座ることが難しいのであれば、背骨が自然なS字を描くようにして椅子に浅く腰掛け、手は膝の上に置くか、あるいは両手を重ねて手のひらを上にして置くのです。腰を開き、膝を強化し、背骨を強く、そして柔軟にしてくれるポーズを行えば、床に座れるようになります。クッションや低い椅子を用いても構いません。様々な座り方がありますので、試してみて、自分が最も心地よい姿勢を見つけるのです。
呼吸
瞑想を行う前に深呼吸を数回行うことは、非常に効果的です。吸う息と吐く息の長さを数え、吐く息が吸う息の二倍の長さになるようにすると有効です。例えば、六秒間、息を吸うとすれば、十二秒の長さで息を吐きます。吸気は交感神経と関係があり、「戦うのか、それとも逃げるのか(闘争かそれとも逃走か)」という反応を司ります。呼気は副交感神経と関係があり、緩和反応(リラックス)を司ります。呼気を際立たせることによって、肉体とマインドをリラックスさせ、瞑想状態に入っていくことができるのです。
初歩的な瞑想法
先に述べたように、瞑想法には様々なものがあり、目的によって異なります。
1.ハムサ
深呼吸を数回行います。息を吸いながら、自分がエネルギーで満たされるのを感じます。息を吐きながら、緊張と疲労が自分の中から出ていくのを感じます。
次に、リラックスして通常の呼吸に戻り、「私」と繰り返します。「私」と次の「私」の間に少し間隔をおきます。「私」と言うたびに、自分が意識しているものに気づきます。おそらく初めは、肉体的な感覚でしょう。次は、思考や感情でしょう。「私」と言うたびに、顕微鏡のレンズが調整され、自分が映し出されていきます。そしてある地点で、感覚と思考と感情のすべてが、テレビ画面の映像のように、スクリーン上に現れては消えていくことに気づきます。そのスクリーンは光の粒子でできていることに気づきます。「私」という言葉を繰り返しながら、深く内面に入っていくにつれて、これらの粒子が動いていることに気づきます。光の粒子があらゆる所に存在しています。自分の中にも、自分の周りにも、さらに自分を通り抜けても動いています。このレベルにおいては、自分がどこで終わり、他のものがどこで始まるのか区別することは困難です。粒子と粒子の間の空間が広がっていきます。
もしも私が今、「あなたは誰ですか」と尋ねたら、何と答えるでしょうか。自分の名前や記憶や気持ちに関して言っても、もう適切ではありません。ここでは、ヨーギーのように、「私はそれである」と言うことができます。私はすべてのものがそこから現れ、そこへ戻っていくあの無限の存在です。私はたくさんの波が表面に現れてくる広大な海のような存在です。今までは、あなたは自分の存在の表面だけで生きてきました。意識の焦点が個々の波、つまり思考、気持ち、感情に合っていました。今やあなたの意識は拡大し、あなたを超え、あなたを支え、あなたを内に含んでいる、無限で永遠なるあの存在の海に気づいています。「私はそれである」とヨーギーは言います。私は生まれたことはありません。本来の私であるそれは、常に存在していました。すべてのものが私の内に存在しています。私はすべてのものの中に存在しています。すべてのものはやって来ては去っていきます。思考も、感覚も、感情も。しかし私は留まっています。私の人生で起こるすべてのでき事やドラマの間中、常に変わりません。この唯一普遍なものに気づくと、その存在の確かさは疑いを差しはさむ余地がなくなります。説明の必要がないのです。
どうしたらこの視点を維持できるのでしょうか。呼吸がこの視点の真理を常にそして自然に思い起こさせてくれます。呼吸が自然に思い出させてくれるのです。吸気ごとに、サンスクリット語で「私は」という意味を表す「ハム」というかすかな音が出ます。呼気の時には、サンスクリット語で「それ」という意味を表す「サ」という音が生じます。吸気に気づくたびに、内で「ハム」と言い、「私は」を思い出します。呼気に気づくたびに、内で「サ」と言い、「それ」を思い出します。呼吸をコントロールしようとする必要はありません。ただ呼吸に従うのです。他の思考が入り込んできたら、追い払おうとする必要はありません。ただ「ハム・サ」に戻るのです。少しずつ呼吸が緩やかになるにつれて、思考が治まってきます。これは実在の主体的な面を少し強調します。つまり「私は」という部分です。逆にすれば、客体の面が少し強調されます。「それ、私は」となります。硬貨の表と裏のような関係です。私はそれ、私は。少なくとも10分間、静かに呼吸に意識を合わせ、吸う息と共に「ハム」、吐く息と共に「サ」を繰り返します。そして、私はそれ、と思い出すのです。
2.ジャパ、マントラの復唱
次のような言葉を声に出して、あるいは内面で繰り返し唱えます。「私は在る」「安らぎ」「すべては神聖な母なる自然」「オーム、オーム、オーム(すべてのものの中に、振動あるいは音として存在している普遍エネルギーの音」「アーメン」「タット・トゥヴァン・アシ(それ私(あなた)は)」。これはジャパ、つまりマントラの復唱です。これによって、すべてはひとつであり、あらゆるものは見かけに過ぎないということを思い出すことができます。これによって、どのような活動をしている時でも第三者の視点に立つことができます。溝を掘っているあなたがいて、掘られている溝があり、しかしそこには第三者、つまり私心なく全くの愛と状況に対する完全な理解とを持ち、すべてを見ている存在もいます。こうして、溝を「私が掘っている」という通常のエゴ的な見方を超えることができ、観察者の視点を養えるようになるのです。
3.トラタク
自分の顔から約五十センチ離れた所にろうそくを立てます。ろうそくの炎がちょうど目の高さにくるようにします。背筋を伸ばして座ります。目を開けて炎を見つめます。目が乾いたらいつでも瞬きをして構いません。まずは五分間から始め、徐々に時間を延ばしていきます。思考は、ただ去来するがままに任せ、力を加える必要はありません。炎と一体になるまで、炎を見つめ続けます。もしも望むなら、マントラを唱えながら行っても構いません。
今まで述べてきた1から3までの正式な瞑想は、目を開けて行うトラタクを除いて、目を閉じて行います。これらはすべて、次に説明する瞑想を日常生活で行うために、我々の状態を整えてくれるものです。
4.観察
あなたという存在は何百も存在し、その一つ一つがあなたの人格の様々な面を表します。幾つか例を挙げれば、怒っているあなた、悲しんでいるあなた、神経質になっているあなた、堂々としたあなた、傷ついたあなた、性欲に囚われたあなた。これらのどれもが過ちを犯す可能性があり、そのために他のあなたは長い間、つけを払うことになるかもしれません。しかし、これらの存在は現れては去っていきます。ところが、これらの背後にはいつでももう一人のあなたが存在しています。観察者と呼ばれている存在です。何も行動はしません。すべてが為されるのを観察しています。何も考えません。思考が現れては去っていくのを見ています。何の感情も抱きません。感情が生じては治まるのを見ています。正式な瞑想を行っている時にこの存在を意識することもできますし、活動している時に意識することもできます。初めは日課を行っている時でしょう。
まずはスピードを落として、数回深呼吸し、観察者の視点を取り、何をしている時にも自分を観察します。初めに静けさを養おうとするでしょう。静けさとは、思考の存在しない状態ではなく、思考と共に存在していることです。意識の本体は、平静なままであり続け、思考や感覚や感情は、空を飛ぶ鳥の群れが空をかき乱さないように、通り過ぎていきます。
自分が歩く様子、食べる様子、物を持ち上げたり、整理する様子を観察します。電話が鳴り、受話器を取って話し始めます。この時、別の「自分」が前面に出てきてしまい、観察者でいることを忘れます。しばらく時間がたってからやっと、観察者であろうとしていたことを思い出します。次は忘れない、と決意し、再び試みます。しかし、様々な「自分」に邪魔され続け、決意を忘れてしまいます。しばらくすると、忘れることがまだ多いけれど、思い出すまでの時間が短くなっているということに気づきます。眠りに入るとアラームが鳴り、また起こしてくれるのです。これは、観察者の意識を養う上で重要な段階です。自動的にこれが起こるようになるのです。
この練習を続けていくと、扱いにくい感情があることに気づくようになります。しかし、観察者の状態であれば、その感情が生じる前にその感情を手放すことができるのです。
様々な古い「自分」と一体になることをやめ、観察者として、より静かに生きるようになるにつれて、鋭い直観によってもたらされる視点から、宇宙の法がどのように機能しているのかがわかるようになります。人生が困難な時でさえ、観察者の視点に留まり続ければ、至福の状態が持続します。分離した視点は、観察者として、ある段階にくるとなくなります。二元論的なこの視点に慣れていましたが、見る者としての自分と、見られるものとしての他のすべてのものを超越してしまうと、この視点も超えられるのです。残るものは、唯一ひとつのものです。沈黙がマインドを支配します。そしてこのマインドの中に、高次の知性から深遠な洞察が降りてくるのです。
辛抱強さ、根気強さ
初心者は、瞑想している時間のほんの一割の時間しか実際には瞑想できないかもしれません。なぜなら他の九割の時間は、マインドがさまよったり、眠ってしまったり、体に邪魔されてしまうからです。しかし、辛抱強さを持てば、瞑想が徐々に継続するようになります。何らかの技術を身につける時は常にそうであるように、自分自身について辛抱強くいなければなりません。瞑想を行うには注意力と技術が必要であり、これらは少しずつ身につきます。毎日同じ時間に、そしてできれば一日に少なくとも二回行えば、上達を速めることが可能です。先に述べましたように、日常生活で気づきを持続させることの妨げになる九つの障害に対処する方法を考えれば、より速く「自分のマインドを支配する」ことができるようにもなるでしょう。
10.満足することによって、至福が得られる
ヨーガの修練と「満足」とはどんな関係があるのでしょうか。ヨーガに関する最初の書物の一つを書いたパタンジャリは、「クリヤーヨーガ」を実践する前に、準備となる修練を幾つか提示しています。これらの修練を、パタンジャリは『ヨーガスートラ』第2章29節で「八つの部門からなるもの」つまり「アシュターンガ・ヨーガ」と言っています。「ヨーガの八つの部門」は次のものです。1.ヤマ(制限事項)、2.ニヤマ(遵守事項)、3.アーサナ(ポーズ)、4.プラーナーヤーマ(呼吸の制御)、5.プラティアーハーラ(感覚器官から意識を引き離すこと)、6.ダーラナー(集中)、7.ディヤーナ(瞑想)、8.サマーディ(認識作用の没入)。
ヤマ(制限事項)は、非暴力、正直、不盗、貞操、不貪です。ニヤマ(遵守事項)は、純粋、満足、苦痛を生じさせるのではなく苦痛を受け入れること、自己探究、神への献身からなります。ヨーガを教えている現代の学校では、ヨーガのポーズだけが強調され、ヤマやニヤマがたいてい無視されてしまっています。ヤマやニヤマが示す道義と関わりたがらないことが原因かもしれませんし、あるいは現代が物質主義的文化であるために、ヤマやニヤマが反体制的なものだという印象を与えてしまうことが原因かもしれません。しかし、文化的な影響で見えなくなっているものを理解しなければ、我々がヨーガを実践しようと努力しても、繰り返し欲求不満に陥ることになるでしょう。
『スートラ』の第2章第42節で「満足」というニヤマを説明し、パタンジャリは「満足によって、至福が得られる」と述べています。満足(サントーシャ)には好きも嫌いもありません。満足は、ただ単純に自分自身である時に生じます。我々の存在の本質は、至福(アーナンダ)です。何も為さず、ただ正しく認識しているだけです、ただ観察しているだけです。
満足とは内にある落ち着きであり、ここには調和、自分自身に対する喜び、内なる愛があり、この状態にある時、困難に出遭っても動揺しないのです。人が満足を感じているかどうかは、満足に対して自分を開いているかどうかによります。ババジのクリヤーヨーガの二段階目のイニシエーションで伝授される「ニッティヤーナンダ・クリヤー」を行うと、自然に満足が生じます。
問題なのは、文化的な条件づけのために、我々は満足することを忘れてしまっているということです。まるで、苦しむことによって、幸せになることができると信じ込まされているようです。
先日、生徒から『金持ち病』という題名のビデオをもらいました。このビデオは『消費社会』によって引き起こされている無気力、肉体上の病気や精神的病気、そして環境が原因で駄目になってしまった人々を取り上げていました。また、「自ら進んで質素な生活を送る」という運動の一部を担っている北米の二十パーセントの人々についても好意的に取り上げていました。
『文化創造者』という著書の中でポール・レイは、北米の5千万人もの人々が「文化創造者」、つまり地球を守ること、豊かな関係を育むこと、平和を発現すること、社会正義を体現すること、誠実さ、自己実現、霊性、自己表現を涵養(かんよう)することを心から気にかけている人間になってきているということを伝えています。
最近、三百二十人のアメリカの仏教指導者たちが北カリフォルニアで一堂に会し、自由市場資本主義、貪欲、競争、他人が持っているものに対するねたみの強いアメリカ文化と、貪欲、ねたみ、物質的な物を求めることを超越しようとすることに重きを置く仏教とを調和させることの難しさについて、何にも増して話し合われました。ダライ・ラマは基本、つまり同情心を養い、怒りと貪欲さを持たないことに立ち帰ることを促しました。参加者の一人が指摘したように、問題はお金そのものにあるのではなく、人の内面と生活で果たすお金の役割にあるのです。
不満は、言うまでもなく満足の反対です。不満もまた、我々の競争心や我々が高い地位を求めること、もっと多くの物を持ち、もっと多くのことを行い、もっと多くのことを知りたいという我々の欲求に見られる現代の物質主義的文化を駆り立てるものです。現代の「自己啓発」セミナーでさえ、ただ参加するだけで深い意味を探らなければ、あまりにも多くの場合、我々に繁栄や体験を約束してこの不満を増長させるのです。
貪欲にならないこと(アパリグラハ)には、物質的なものを所有することについて空想しないこと、それから他人のものを欲しがらないことも含まれます。人は、宝くじに当たったり、金持ちと結婚したり、株で儲(もう)けたりして、突然、金持ちになれば、ずっと幸せでいられる、と思うことが多いのです。これは全く愚かなことです。このような空想に浸ってしまうと、自分の内に常に存在する喜びから離れてしまうだけです。
どうすれば我々は、消費文化によって我々のマインド内に深く植えつけられてしまったこのような傾向を克服し、満足することができるのでしょうか。『スートラ』の第2章第33節でパタンジャリは、解決策を提示してくれています。「否定的な思考に囚われたら、その反対の(つまり肯定的な)ものを培うべきである。これは、プラティパクシャ・バーヴァナンである」と言っています。否定的な思考に耽ったり、正当化するのではなく、パタンジャリは直接的な行動、つまり反対の思考を培うことを示しているのです。例えば、我々がねたみを抱いたら、自分がすでに持っているものに対する感謝や満足の感情を呼び起こすことができるのです。パタンジャリは実践の仕方に関しては詳しく説明していませんが、パタンジャリのようなシッダは、一流の心理学者でもあることを我々は知っています。否定的な思考をする根深い傾向を相殺するためには、アファメーションや自己暗示、自己催眠などのようなことを定期的に、そして熱心に行わなければなりません。コンピューターとは違い、潜在意識は、たとえ有害であったり、苦しみをもたらすものであっても、幼い頃から浴びせられている暗示にしたがって機能し続けます。こうした暗示は、親、教師、友人、マスコミ、文化的な価値観やシンボルからもたらされます。この節でパタンジャリが示している自己暗示やアファメーションのような科学的技法を、教師や関係機関がほとんど重視しない、教えないのは不思議なことです。
霊的な生活を始める場合に、霊的な修練によって、根深い心理的な葛藤が自然に癒やされると思い込む人があまりにも多くいます。心理療法は最初は役に立つかもしれませんが、多くの場合、霊的な広い視点を欠いています。結局、癒すためには、各人が有害な思考や感情を抑圧することなく、それらを上手に相殺しなければならないのです。無執着を実践することは、我々が日常生活で満足を持つ助けになり、パタンジャリが約束しているように、「至福」へと導いてくれます。
11.各人の家がアシュラムである
我々が霊的な生活に目覚めると、絶えずさまよい続けるマインドに直面します。人間が直面する普遍的なこのジレンマでは、意識が、記憶、感覚による認識、睡眠、概念化、誤謬(ごびゅう)のような「ヴリッティ」、つまりマインドの揺らぎの中に入り込んでしまいます。パタンジャリは、『ヨーガスートラ』の第1章第5節から11節でこれを分析しています。またパタンジャリは、マインドのこれらの揺らぎ(見られるもの)と真我(見る者)を明確に区別し、『スートラ』全体を通して真我実現を説明しています。『スートラ』第1章第3節で、「そうして見る者が本来の姿に留まる」と述べ、次の節では、「そうでない場合は、意識の揺らぎとの(自我の)同一化が起こる」と述べ、我々がいかにこの真我実現を忘れやすいかということを指摘しています。真我と非真我、見る者と見られるもの、永遠と非永遠を取り違える根本的な無知(アヴィドゥヤー)をどうしたら我々は克服できるのでしょうか。現在、ヨーガは我々が常に目覚めた状態でいるのに役立っているのでしょうか、それとも我々を眠らせてしまっているのでしょうか?
ヨーガは今日、一大産業になっています。『ヨーガ・ジャーナル』の最近の記事によれば、一千八百万人以上のアメリカ人が何らかの形のヨーガを行い、平均で一年間に十五万円を使うというのです。一年で二兆七千億円を生み出す産業であり、マイクロソフトが一年に生み出すものにわずかに及ばない規模なのです。消費と企業社会のアメリカ、物質主義文化の陰と陽がヨーガを乗っ取ってしまっているのです。
アメリカのヨーガのこの消費に関する要素が妄想を生み出しているのではないでしょうか。消費すればするほど、我々は幸せになる、と教え込む文化・経済システムに我々は突き動かされているので、精神世界の市場で、ヨーガ教室、セミナー、カセット、小道具、書籍、教師、教えといったものを、我々は消費するのです。自分に欠けたものを求めていつも外を見ているのです。例えば、ヨーガ教室に通う人のほとんどが、自宅ではヨーガをやりません。自分に欠けていると思っているものを、他の誰かから得ようとしているのです。物質主義の大神殿であるアメリカのショッピング・モールで急成長している何千というあまりにも多すぎるヨーガ教室が、この妄想をかき立てています。決して誤ってはいけません。ここでは文化の戦いが起こっているのです。商品やサービスが気分や見た目、健康を改善してくれたり、よく言って霊的成長の道を思い出させてくれるかもしれませんが、しかし本来のヨーガの目的、真我実現にはあまり役立っていないのです。
我々が自分を、見られるもの、体験されるものではなく、見る者として認識する真我実現は、洞察というひらめきによってもたらされるかもしれません。しかし、パタンジャリが『スートラ』の第1章第40から51節で述べている真我実現、言い換えるとサマーディ(認識作用の没入)は、自分をマインド、つまり意識内に生じる思考、感覚による経験、記憶といった揺らぎ、つまりヴィリッティと同一化し続ける限り、理解しがたいものです。スートラの第1章第2節でパタンジャリは、「ヨーガとは、意識の(内に生じる)揺らぎと(自己との同一視を)やめることである」と述べ、その揺らぎを分析した後「継続的な修練と無執着によって、(意識の揺らぎとの同一視が)やむ」(第1章第12節)と述べ、特定の方法ではありませんが、一つの解決策を提案しています。
しかし、期間はどれくらいかかるのでしょうか。我々は条件づけられているために、より速く、より簡単な道を求めます。そしてそれのためなら喜んでお金を使います。しかし、「サマーディに到達するまでの期間は、修練が熱心なものか、中程度のものか、弱いものかによる」(1章22節)とパタンジャリは述べ、ヨーガという領域で唯一価値をなすものは誠実さである、と言っています。
弱い修練とは、むらがあり、散発的で、疑念に満ち、浮き沈みがあり、気が散っているもののことです。中程度のものとは、熱心で献身的な期間と、真我を忘れ否定的な思考や習慣に落ちてしまう期間が交互にあるもののことです。熱心なものとは、真我を常に意識するという決意と、成功と失敗、喜びと苦痛の中で平静を保つという決意に特徴づけられ、他者に対する愛、信頼、忍耐、同情を育んでいくもののことです。物事や状況の影響がいかなるものであろうと、目の前で繰り広げられる幻想がいかに大きくても、神性を見続けるのです。
我々はよくマインドが次のような言い訳をするのを耳にします。「ヨーガを行う時間がない、仕事に行かなければならない」「修練する時間がもっとあればなぁ」と。また、もっと理想的な時間や場所を、マインドが求めることもあります。「退職したら、インドに行って、アシュラムで暮らそう」「来年、山中にあるあのアシュラムで行われるリトリートに参加するつもりだ」というように。もちろん、これはマインドが習慣的に行う反応であり、外部に何かを求め、好き嫌い、成功失敗、損得といった二元性に入り込んでいるのです。我々がヨーガを消費するもの、どこか外で消費するものと考えている限り、マインドの揺らぎを強めるだけなのです。
あなたはマインドではありません。あなたはマインドを持ち合わせているだけです。あなたは、実在、意識、至福、つまりサッチダナンダなのです。あらゆる瞬間この状態でいるために、あなたは意識に関する勝負をしなければなりません。つまり、常に真我を認識し続けるという勝負です。ババジのクリヤーヨーガでは、あらゆる瞬間、存在のすべてのレベルに気づきをもたらすため、多くの技法(クリヤー)が教えられます。肉体に対してはアーサナ、生気体はプラーナーヤーマ、メンタル体はディヤーナ(瞑想)、知性体はマントラ、霊体はバクティヨーガです。これによって総合的な発展が起こり、究極的には霊体・上昇方向だけでなく、すべてのレベルにおける完成体、言い換えればシッディがもたらされます。
いつ、そしてどのようにすればこれを達成することができるのでしょうか。これは、そうしようと思い出すたびに起こるのです。結局あなた次第なのです。ヨーガの修練、つまりサーダナはすべて次の言葉に要約されます。「真の自己を思い出すためにすることのすべて、自己ではないものを手放すためにすることのすべて」と。おそらく、あなたは今この瞬間、家でこの文章を読んでいることでしょう。文章を読みながら、意識の一部を観察者として引き離し、マインドがこの文章を読んでいるのを観察することができるでしょうか。意識を二つに分け、一方は見たり、聞いたり、行動したり、考えたり、感じたりすることに浸り、もう一方では行われているすべてのことにただ気づいているだけの状態を保てるでしょうか。これができれば、あらゆる瞬間に至福を見出すことができます。気づきがある時にはいつでも、この至福を手にすることができます。この「意識の勝負」だけが、唯一価値のある勝負なのです。自分が勝負をしているのだと思い出すたびに、あなたが勝ち、観察者であることを忘れるたびに、あなたは苦しみ、負けるのです。あなたのカルマがあなたのもとに、腐ったトマトではなくバラを運んできたとしても、目の前のドラマに浸りきっていては、マインドがすぐに「この良い状態はいつ終わってしまうのだろうか」と悩み始め、そして苦しむのです。
ですから、自分の家を常にサーダナを行う練習場とするのです。家であなたは何をしますか。食べる、寝る、顔を洗う、リラックスする、遊ぶ、家事をする。これらすべてを意識の場に持ち込むのです。つまり、ババジのクリヤーヨーガで伝授されたように気づきをもたらすための機会とするのです。次に幾つか例を挙げておきます。
1.食事の時:食事の準備の時から、食卓の時間を神聖なものにしましょう。聖歌、チャント、あるいはマントラを唱え、食材を切り、調理し、給仕しながら観察者としての姿勢を養いましょう。食卓につき、料理に対する祈りやマントラを唱えます。「アーム、ヒリーム、クラーム、サワハー、チトリャ、チトラ、グプトラヤ、ヤマルピィ、ドリャー、オーム、タット、サット、オーム、クリヤー、ババジ、ナマ、アウム」。観察者の姿勢を意識しながらよく噛(か)みます。食器を洗ったり、ごみを出す時でさえ、真我認識を養い続けます。
2.家事、請求書の支払い:「清潔さは敬虔(けいけん)さの次に位置する」という格言を適用しましょう。神様の訪問をいつも待っているように、家を清潔に保ちましょう。整って輝いている清潔な空間をつくると内面がより平静になるでしょう。家を清潔に保つための仕事をする時も観察者の姿勢を養いましょう。自分の収入に合わせて支出の計画を立て、期日どおりに支払いを済ませることを身につけると、多くのストレスが避けられ、マインドが揺らぐのを抑えられます。
3.運動、入浴、着替え:毎日、アーサナを行う時、入浴する時、着替えをする時、マインドを内に向けるように訓練しましょう。意識の一部を感覚やマインドの動きから引き離し、一度に一つのことを行います。
4.子供との遊び:子供は、自然さ、笑い、今に生きることの取り戻し方を教えてくれます。あなたの好きなことを子供と共にする機会を見つけ、子供に自分の考えを述べさせましょう。子供にだけでなく、自分のマインドの反応やおしゃべりにも耳を傾けましょう。行為者ではなく、観察者でいましょう。
5.友との分かち合い:霊に形はなく、真に重要なことはより多くの時間、真の自分でいることである、ということを思い出し、気の合う人をサットサンガ(真理の分かち合い)に招待しましょう。サットサンガでは、誰かが理解したことや悟ったことの最良の部分を分かち合ったり、あるいは歌、チャント、友情、瞑想、アーサナ、食事、愛の表現や行動を分かち合うこともあるでしょう。
6.ヨーガ・ニドラを練習し、徐々に睡眠に置き換えましょう。まずは疲れていない時に練習しましょう。そうすれば眠ってしまう危険を避けることができます。肉体から意識を引き離さずに、真我認識を保ったままで肉体を休められるようになりましょう。
活動のさなかにありながら自己認識を保つ術を身につけることによって、無常の喜び、つまり至福を味わうことができます。至福(アーナンダ)は、外の状況が好ましいとか好ましくないとか、欲しいものを手にしたとか、欲しくないものを手にしたとか、そんなこととは関係がありません。自分がこの瞬間に存在し、その瞬間に起きていることを意識できているかどうかによるのです。
もし家庭で気づきを維持できるようになったら、次はどんな場面でも意識できるようになりましょう。人生の浮き沈み、苦痛や喜びの瞬間、幸不幸にかかわらず、常に平静さを保つ訓練をすることによって、徐々にあなたは霊的な物質主義の消費者ではなく、ヨーギーになっていきます。真我を実現した状態のままでいることになります。精神世界の市場はあなたという顧客を失ってしまいますが、世界は計り知れないほどあなたの悟りから恩恵を受けるでしょう。我々にはアシュラムがもっと必要です。アシュラムはヨーギーのすみかと定義することができます。ですから、ヨーギーでありなさい。そうすれば自動的にあなたの家がアシュラムになります。
12.サットサンガ
ババジのクリヤーヨーガのイニシエーションを受けた後、自分は何をしたらよいのか、次に何を学んだらよいのかと思う人がたくさんいます。「修練」が第1であり、そして「修練、修練、修練」なのです。しかしながら、深く染みついてしまった癖である怠惰や散漫に対抗するには努力が必要なので、疲れてしまったり、クリヤーヨーガの道に対する興味や熱意が薄れていくのを感じるかもしれません。人間のマインドはたいてい非常に不安定であり、マインドは多くの場合、刺激、つまり何か新しいことを必要とします。解決策の一つは、「サットサンガ」つまりヨーガを実践している仲間との「真理の分かち合い」です。マインドは、「なぜ自分と同じような人々との会合に行かなければならないのか」という疑問を持ち、抵抗するかもしれません。これに対する回答は、真理を求める者たちが集まる時に生じる独特の作用にあります。つまり、イエス・キリストが「2名、あるいは3名の者たちが私の名の下に会する時、私もそこにいる」と言ったことです。
キリスト教徒たちは、ただ彼らの信念に基づいてこの言葉を受け入れます。もし、我々がそれを分析し、試してみようとするならば、結果は、科学的な実験と同じように反復可能なものです。まず、イエスとイエスの名を特定します。我々はしばしばイエスその人、つまりヨセフの息子(Jesus bin Joseph)のイエスと、イエスが到達した悟りの状態、つまり「キリスト意識」「神の息子」の状態を混同します。これはイエスに特有の状態ではありません。イエスは「神の息子でありなさい、そして天の父が完全であるように、あなた自身も完全でありなさい」と言いました。また「私が為したこれらの奇跡よりもさらに偉大なものを、あなた方は為すであろう」と言いました。ですから、人々が彼の名の下に集うように、イエスが人々を促した時、イエスはキリスト意識、つまり我々が既に教えられていて、思い出すことだけが必要なあの気づきについて語っていたのです。これこそ、インドでいう「サットサンガ」の真の目的なのです。
サットサンガは、我々が聖者のいる所にいる時、出現します。しかし、我々が数名で自分自身の高次の真理に集中する時にも出現します。定義づけや言葉を超えたこの真理への焦点の合わせ方は様々です。瞑想もあるでしょうし、チャンティングをしたり、インスピレーションを与えてくれるものを読んだり、質疑応答や、神に捧げる何らかの活動でもよいでしょう。しばらくの間、日々の生活のことを忘れると、我々の真我が太陽(神の息子)のように輝くのです。インスピレーションや喜び、安らぎが流れ出します。自分自身の中にも他者の中にも神性が見えます。これは、頭での経験ではなく、我々のハートが求めていること、つまり永遠なる時、無限なる存在なのです。
例えば、我々が神の名を唱え、自分のことを忘れると、何が起こるでしょうか。利己主義に囚われた小我は、時の存在しない領域へと溶けていきます。サットサンガの質疑応答の時に、何の準備もしていない状態で、自分の中心に向かい、高次のインスピレーションに自分を開くと、エゴは退き、インスピレーションが流れ出します。我々は力を与えられ、オーロビンドが「サイキック」と言ったもの、つまり我々のマインドと神とを橋渡ししてくれる意識を通して、真理が語りだすのです。
我々が、経典や聖典、インスピレーションを与えてくれる書物に書かれている真理の言葉に意識を合わせると、我々は、低次の感覚や欲望に波長が合わさったマインドの習慣的な視点を超越します。書物の著者を通して語った高次の意識と調和するようになるのです。
サットサンガの概要は次のようなものです。
1.最初に「オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウム」のようなマントラを唱える
2.ひとりひとり簡単な自己紹介
3.聖典やインスピレーションを与えてくれる書物を読む
4.チャンティングと聖歌を交互に行う
5.「オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウム」を、ひとりひとりが順番にリーダーになりながら唱える。リーダーは最低16回は唱える
6.クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマや瞑想
7.質疑応答
8.シャンティ・マントラを唱える
9.くつろいで食事
時間の関係や、必要や興味に応じて、これらに他のものを加えたり、あるいは省いても構いません。例えば、十八種類のポーズのすべてを加えたり、あるいは一部を加えても構いません。週末ちょっと遠出したり、自然の中でキャンプしながらサットサンガを行うことも可能です。長期の休暇が取れる時には特別なサットサンガを催すのもよいでしょう。
すべての読者が電話に手を伸ばし、ババジのクリヤーヨーガを実践している仲間に電話をし、自宅での「サットサンガ」に招待しますように。もしも幸運にもサットサンガが定期的に開催されている地域に住んでいるのならば、責任者に電話してみましょう。誰が責任者なのかわからないのであれば、ホームページ www.babajikriyayoga.net をご覧ください。あるいはアシュラムに問い合わせていただいても結構です。インターナショナル・サットサンガにご興味がおありなら、年に一度、カナダのケベック、ドイツ、フランス、ブラジルで開催されていますので、ご参加ください。
たとえ、他の実践者と交流する必要を感じていないとしても、サットサンガに参加することを、しかも定期的に参加することをお勧めします。道は起伏に富んでいます。サットサンガに参加して初めて、自分がどれだけ低い所まで下がってしまっているのかということに気づくこともあります。逆に、あなたの存在が、苦しんでいる人たちを鼓舞することもあります。真の霊性の本質は拡大であり、愛の力を通して他人を包含します。あなたの愛と光がサットサンガで輝きますように。
13.聖なる空間
つい最近、ケベック・アシュラムのヴィジョンを教えてください、と言われました。この質問に対する回答はこうです。アシュラムとは何でしょうか。それはヨーギーの家のことです。学校でもありませんし、施設でもありませんし、寺院でもありません。なぜならヨーギーはあらゆる所に神の存在を見るため、神を崇拝するための特別な建物を必要とはしないからです。
長年、私は同じ考えを持った魂からなるコミュニティを形成することを考えてきました。クリヤーヨーガの実践者が共に暮らす居住型のものになるのだろうと思っていました。そのための設備を建設していますので、これはいつか現実になるでしょう。しかし、大師は、クリヤーヨーガのコミュニティが多くの国々に現れるように、常に物理的な形でというわけではなく、霊的に、知的に、精神で、感情の面で、(インターネットによって)繋がれるように手配していたようなのです。
ケベック・アシュラムは、1992年以来、静修の場として非常によく機能し、イニシエーションや静修のために数千人の人々が今までにやって来ました。また、アシュラムとしても機能し、長期間クリヤーヨーガの修練に励むためやカルマヨーガを行うために生徒たちがやって来ます。これからもそうあり続けるでしょう。誰もが自分の真我に意識を合わせることができる神聖な場所としてケベック・アシュラムを維持することが、私の優先事項です。今では、ヨーガの膨大な修練と体験による聖なる波動で包まれています。このような神聖な場所では、誰もが安らぎや喜び、そして神の臨在さえをも比較的容易に感じることができます。
1989年以前に私は、ヨーギー・ラマイアと共に二十三のヨーガセンターとアシュラムを設立し、そして維持することに関わってきました。ですから、こうした施設を維持することがどれだけ大変なことかということを知っています。何といっても、我々は神の存在に対する無知が蔓延(はびこ)る物理的な世界にいるのです。人々はやって来ては去っていきます。彼らは去っていきます。自分の期待が満たされない時、エゴが脅かされた時、自分にどれだけの仕事が求められているかがわかった時、あるいは自分の優先事項が変わった時に去っていきます。
他者とのサットサンガに投資することは、アシュラムを建てるためのレンガやモルタルに投資することよりも重要だと私は思います。アシュラムやクリヤーヨーガを実践する者たちのコミュニティに対する私のヴィジョンは、ネットワークが徐々に花開き、神を悟ったヨーギーの集団へとなり、そして自分たちの家がいわゆるアシュラムになることです。
アシュラムはまず神聖な場所から始まります。ですから家全体が神聖な場所でなくとも少なくとも1部屋はヨーガの実践のために取っておくことです。実在に対する愛の意識を持たずに為されるような事柄はその部屋には持ち込まないことです。その空間を、簡素で、機能的で、美しく保つことです。自分や他者を鼓舞してくれるような絵や壁掛けを張りましょう。ごちゃごちゃした不必要なものはのけましょう。空間をこぎれいにし、ババジがやって来られるようにしましょう。お香やランプ、ろうそくを用いましょう。できる限り多く神の名を唱えましょう。早朝と晩にサーダナのための時間を取りましょう。一人でもあるいは誰かと一緒でも構いません。規則的に二十四時間の沈黙や断食、サーダナのために時間を取りましょう。クリヤーヨーガの修練を行うために、定期的にその空間へ他者を招待しましょう。内面を高めてくれるような本を読み、マインドを散漫にするだけのものは避けましょう。
読者のみなさんがヨーギーになりますように。神聖な空間が二十一世紀には全世界を圧倒しますように。これを成し遂げるために必要なもののすべてをみなさんは自分の手の中に持っています。サーダナに打ち込みさえすれば、自分の家が神聖な空間となり、磁力、癒し、霊的な波動で満たされます。こうして神聖な空間を見つけるためには、ただ自分の家に帰りさえすればよくなるのです。
パート3
人生をヨーガにする
1.平静へ 静かに活動的で、活動的で静かである
我々の生活は、予測できないでき事によって、乱されることがよくあります。また我々のマインドもさらに厄介な思考や欲望、恐れに侵されることがよくあります。これらのものが連鎖反応を引き起こします。この連鎖反応には、感情、言葉、生理的な反応、そしてさらに厄介な思考が関係します。我々は、こうした妨害に直面し、自分ではどうしようもないと感じたり、さらには感情や思考の嵐が静まった時に、自分の弱さを悔やんだり、罪悪感を抱いたりしがちです。
何が起きているのでしょうか。ヨーガは、我々が人間の性質を支配できるようになり、乱れを引き起こす反応にさらわれないために、どのように我々を援助してくれるのでしょうか。
パタンジャリは、『ヨーガスートラ』の最初のほう、第1章第16節でこの問題を取り上げています。「真我実現により(生じる)(性質の)構成要素からの解放は、至高のものである」。性質の構成要素とは、ヨーガの基盤になっているサーンキヤ哲学で言うグナのことであり、それらはラジャス(活動性)、タマス(不活発性)、サットヴァ(安定性)です。ほとんどの時間、我々はラジャスかタマスに動かされます。例えば、落ち着かなかったり、どこかに行く必要や何かに注意を向ける必要を感じる時には、我々の中で機能しているのは遍(あまね)く存在するラジャスの力です。我々が疲れを感じたり、マインドが空想したり、混乱している時には、遍く存在するタマスの力に支配されています。しかし、我々は利己的なので、自分の落ち着きのない状態や疲れを単なる個人的な問題と見なし、喫煙、おしゃべり、運動、飲食などで払いのけようとします。これらは短時間の気休め的な効果はありますが、これらの普遍的な力から本当に我々を解放してはくれません。
パタンジャリのような賢者は、人間の持つこの普遍的なジレンマを認識し、第3の普遍的な力であるサットヴァを強化するための手段としてヨーガの技法を開発しました。我々は、落ち着いていて、安らいで、満足し、インスピレーションが湧いている時には、いつでもこの力を感じることができます。サットヴァと共に聡明感がもたらされます。「静かに活動的で、活動的で静かである」状態を経験します。アーサナ、プラーナーヤーマ、ディヤーナ、マントラ、バクティヨーガを行うことによって、サットヴァが増し、タマスとラジャスの影響が軽減されます。その結果、内面の揺らぎ、つまりヴリッティが静まり始め、かつては喜びや苦痛の源であった欲望の対象物から距離を取るようになります。記憶の影響下にある限り、空想が生じます。サンスカーラ、つまり習慣的な傾向のために、過去と同じようにタマスやラジャスの力に反応してしまいます。ですから、離れるためには努力が必要なのです。
パタンジャリのように、「グナやサンスカーラの影響を克服するためには努力が必要である」と認識した古典ヨーガの支持者たちと、「唯一の実在は真我であるから真我を悟るために何かを『する』必要はない、ただ『在り』さえすればいいのだ」と主張するアドヴァイタ・ヴェーダンタの支持者たちとの間で論争があります。「不二一元論」の哲学であるアドヴァイタ・ヴェーダンタは、tat tvam asi つまり「私はそれである」と言い、世の中は幻である、と主張します。それゆえ、ヨーガを実践することは不必要であるだけでなく、邪魔でさえあるのです。グナは見かけだけのものであるから、その影響を相殺するためにしなければならないことは何もない、ただ真我で在りさえすればいいのだ、とヴェーダンタの支持者は言います。古典ヨーガは、ヴェーダンタと、真我実現と変容に対しての実際的なアプローチであるサーンキヤという二つの哲学から発展しました。
どちらの哲学が正しいのでしょうか。答えはあなたの考え方次第だと私は思います。落ち着いていて、バランスが取れていて、今に存在し、気づきがある時には、何もする必要がありません。言い換えれば、真我を悟るために努力する必要はありません。この時、サットヴァが優勢になっています。ただそこに在りさえすればいいのです。しかし、たいていの場合、我々はこうした状態にはいません。我々がストレスを抱え、心が乱れ、落ち着きがなく、疑いや不安や疲労でいっぱいである時には、真我を実現した状態にいつも変わらず留まっていられるまで、タマスとラジャスの影響を相殺するために努力をする必要があるのです。真我を実現した状態に常に留まると、喜びと安らぎによってただ満たされ、自然に真我と非真我との区別がつき、潜在意識から生じる空想にさえ関わりたいとは思わなくなります。欲望にはもはや影響力がありません。真我を実現した魂にとって、無執着と欲望を持たない状態は、コントロールするようなものではなく、すべての状況に浸透し、常に喜びに満ちている真我に対する自然で間断なき気づきによって生じるのです。真我を実現した魂にとって、最高の無執着は努力を必要とはしないのです。
この平静な状態において、人は様々な欲望と自分とを同一視することはありません。この状態を保つ方法は何でしょうか。それは、無執着、満足、忍耐、恐れを持たないこと、快活さ、どのような状況にも適応する能力を養うことによって為されます。もしもある状況でこれを感じることができないのなら、「なぜ」と自分に問いかけてみるのです。この問いに正直に答えることによってのみ、真我実現を妨げているものから、永遠に、そして難なく解放されるのです。
2.世の中が今必要としているものは、愛と思いやりである
苦しんでいる世の中
この一年のでき事、つまりイラクでの戦争、スーダンでの大量虐殺、イラクの刑務所やグアンタナモ・ベイでのアメリカ人による囚人虐待、ハリケーン、地震、そして津波は、他者に無限の苦しみを与えただけではなく、非常に深いレベルで我々ひとりひとりに影響を及ぼしています。シッダであるスワミ・ラーマリンガは、我々に偉大な真理、我々が理解しなければならない真理、つまりすべての魂はそっくりであり、みな平等であり、互いに繋がっているということを伝えています。兄妹のひとりが苦しんでいるのを見たり、聞いたり、知ったりすると、その人もまた苦しみます。なぜなら二人の間には肉体的な繋がりが存在しているからです。我々は誰でもこの真理を経験しています。
世界中に存在する問題の中にある問題は、どうすれば我々みなが平和で幸せな生活を送れるかということです。毎年持ち上がる問題は、「国が異なり、宗教が異なり、言語が異なり、文化が異なる我々が、どうすれば幸せに協調しながら生きることができるか」ということです。今日、政治家たちは、「文明の衝突」あるいは「文化の衝突」によって必然的に戦争がもたらされるのかどうか議論します。この問題に取り組んでいるすべての人とすべての国に与えられるような回答はあるのでしょうか。おそらく、神のみが知っているのでしょう。
世の中のすべてと共に調和し、害を与えずに生活するためには、我々は個人として、徳、人格、人間の持つ通常の能力を発展させなければならない、とシッダは言うでしょう。ババジは、自分の人格を発展させ、人格を普遍の愛と思いやりに根づかせることによって、取り組み始めることができる、と言います。ババジは枠組みを提供してくれています。「まず人格を形成することに焦点を合わせる。次に献身を養うこと。その次に神の知識を獲得することに焦点を合わせる。それから奉仕のサーダナ。つまりバクティと、ヤーナ(叡智(えいち))と自己探究が相互に浸透し合うまで交互に行うのです。なぜなら、我々のすべてが到達できるレベルがあり、そこでは神の至高の愛を経験し、人格、献身、行動のすべてが完全に神の意思と調和し、表されるものは常に愛と思いやりから出てくるから」
愛という浄化力
この愛とは何なのでしょうか、そしてどうすれば我々は愛の道具になれるのでしょうか。ババジは「愛とは引きつけられること、一緒にいることに喜びを感じること、あるいは願うこと、あるいは誰かや何かのために犠牲になる覚悟ができていること以上のものである」と言います。愛とはあらゆる徳の源であり、一体への熱望の源です。愛は、限界を持たず、神秘的であり、奇跡的です。愛は、力であり、勇気であり、復活と再生の万能薬です。愛は、謙虚であり、忍耐であり、受容であり、我慢強さです。愛は、拡大と変容の力をもたらします。我々はみな何らかの形で愛を知っているので、我々が為さなければならないことは、愛が外へ現れたものを浄化し、すべてのものとすべての瞬間に浸透している真の愛を実現するために、執着と感情を取り除くことです。愛という徳の中には力があります。我々に高い視点を与え、この世に存在している霊を見ることを可能にしてくれる力があるのです。
神の愛が一回注がれるだけでも人の人生の性質が変わり得る、とシュリ・オーロビンドは言います。魂の間に存在する霊的な関係を悟って初めて、この愛が生じます。この「愛」によって神のエネルギー、つまりシャクティが目覚め、我々の行動に叡智が加わります。愛は、意識に本質的に備わっているものであり、我々が霊的な浄化を経るにつれて、つまり我々が無知、利己主義、執着、反感を手放した時、現れ出てきます。我々が真理と叡智を抱きながら、世の中の活動に関わると、愛が広がります。すべてを支配し、地上のものすべての上にいる存在として神を愛すことはそれほど難しくはありません。難しくもあり、そして必要でもあることは、すべてのもの、すべての人の中に現れている神を愛すことです。
ババジは「思いやりとは、魂が安らいでいる時の、魂の内面の自然な状態である」と言います。我々の内面の純粋な状態は、強力な力であり、安らぎの波動は世の中全体に利益をもたらすことができます。愛と同じように思いやりもハートの性質であり、魂の美徳です。思いやりは、我々のハートが神との繋がり、他者との繋がりに対して開放されていくにつれて育ちます。ですから、どうして宗教心の篤い人々が憎しみを抱いたりするのでしょうか。シッダは、「常に自分を観察すること、つまり愛と思いやりという徳を育みながら内省と無執着のサーダナを常に行うことが、すべての憎しみを徐々に取り除くためには必要である」と言います。ですから、宗教心の篤(あつ)い人たちはどうして常に他者に対して思いやり深くいないのでしょうか。通常、人間は自分自身の欠乏感に意識が向かっているので、他者に対して思いやりを抱く余裕がありません。強力な霊的鍛練によってのみ、平静と思いやりを育むために必要な内面の状態がもたらされ、平静と思いやりを育むことによって、他者を除外するのではなく、他者を包含するまで愛が拡大するのです。シュリ・オーロビンド・アシュラムのマザーは、「思いやりとは、値する値しないにかかわらず、すべてのものの苦しみを癒やすことを求めるものです」と言います。
他者を自分だと思い、自分の世界を広げて他の人全員を抱きしめることによって、真の思いやりが養われます。平静を養うことによってのみ、人はすべての人を真に抱きしめることができるのです。なぜなら、真に平静なマインドだけが、穏やかであり、人間がさらされている恐れや悲しみ、不安、憎しみ、罪悪感を持たないからです。マインドが平静であると、人は、他の人すべてと共に愛情に溢れ、思いやり深く生きていくために必要なだけの勇気を持つことができます。自由、愛、思いやりは拡大し、他者の関心事を受け入れるようになります。他者の見方を理解し、最終的には他者を兄妹と捉え、自分のやり方で他者に奉仕するようになるのです。
平静によってどのように浄化が起こるのか
感情に左右されない練習をすることによって、思いやりが徐々に生じます。初めは、思考において、次は日常生活で接するすべてのものに対して、その次は自分の暮らす社会に存在するすべてのものに対して、そして最後には世界に存在するすべてのものに対して。ハートからますます多くの愛が流れ出し、思いやりの根本にある、すべてのものを変容させる巨大な力に開かれていくのです。なぜなら、思いやりは神の力であり、特定の宗教の力ではなく、神の徳だからです。
どうすれば平静を養うことができるのか
ほんの少しの不安、悲しみ、怒り、嫉妬でさえ、つまりマインド内のどんな乱れも拒絶することです。どんなに妥当、正当だと思われようと、乱れた思考に対していかなる言い訳も正当化も認めないこと。内面が乱れている時には、プラーナが乱れているのだということを忘れないこと。乱れたプラーナから自分を切り離し、自分の高次の性質の中心に留まるように努めること。恐れ、欲望、反感、執着に囚われないこと。乱れを生じさせるのであれば、「ハート」から起こる感情をも拒絶すること。
シュリ・オーロビンドは「内面の乱れが自分の意思や知性から生じているのであれば、この乱れをコントロールすることはさらに難しい」と言います。自分の意思と知性を、平静という目標に意識的に調和させるのです。
アーサナ、バンダ、プラーナーヤーマ、マントラ、瞑想を含めて我々のヨーガのサーダナには、すべて浄化作用があり、平静を養う助けになりますが、真の平静を養うには「私、私のもの」というエゴの感覚を超えなければなりません。平静であるためには、行為者という感覚を超えなければなりません。こうして初めて、どのような状況に自分がいても、静かなハートで満たされた気づきに留まることができるようになるのです。
3.判断、他者も自分も傷つけない方法
1970年代に『私もOK、あなたもOK』という本がベストセラーになりました。この本は、それ以後の多くの本と同じように、人間関係についてと人間関係を最大限に活かす方法について書かれたものでした。この本の題名は我々のほとんどがいつも無意識にしてしまうこと、つまり他人を判断するということを表しています。不幸にも、我々の判断のほとんどは、「OK」というものではなく、むしろ他者も自分も傷つけてしまう見解を表すものです。その結果、我々の人間関係は分離や争いの源になってしまいます。過去数十年、心理学の多くの部分は、争いを処理し、我々の個性がもっと社会的に受け入れられるようにしながら、我々の社会的な関係を改善することに注目してきました。しかしながら、社会関係における判断の役割は一般には理解されていません。
共感と反感
心理学の研究によって、ほとんどの人は数秒のうちに、他人に対するかなり正確な印象を形成するということが明らかになりました。まるで人間が他人を素早くスキャンして、直観的にと言ってもよいほど多くの妥当な情報を取り入れるように。しかし、これらの印象は、我々自身が持つ傾向や感情にたいていの場合影響を受けている反応を引き起こします。そしてこの反応によって判断が生じます。例えば、面接を受ける人に関する最近の調査により、面接官に共感した志願者が、たとえ受け答えや資格が十分でなくても採用され、一方、面接官に嫌な印象や反感を抱いた志願者は、たとえ受け答えや資格が非常に良いものであったとしても採用されない、ということが明らかになりました。このことから、面接官は、客観的な事実よりも、感情や、直観さえも含めて、主観的な事柄に基づいて、志願者に関する判断をする、ということがわかります。言い換えれば、我々は、他人が我々のことをどう判断しているのか感じる能力があるということです。
判断の定義
判断とは、狭い経験、時にはうわさに基づいて為される見解のことです。他者についてのうわさを共有し、我々は早合点して、判断を下します。判断に関して問題なのは、それが事実に基づいているものではなく、しかも手にしている事実を吟味しないうちに固定してしまいがちである、ということです。さらに悪いことは、あまりにも多くの場合、判断は偏見、恐れ、想像に基づいているということです。例えば、あなたは、人がたくさんいる空港や地下鉄で若いイスラム教徒の男性を見かけたら、即座に反応してしまいませんか。あるいは、自分とは違う人種の男性同士や男女が親しく話しているのを見かけたら、反応しませんか。
つまり判断とは、あまりにも少ない情報、多くの場合は、第一印象、想像、過去からの連想に基づいた不完全な見解のことです。判断は、我々の偏見や好みを反映します。我々は自分の見たいものや恐れていることを見る傾向があります。ですから、判断は、我々の知らないうちに我々に働きかけている潜在意識にあるものに刺激されるのです。
良い判断
我々の問題は、判断を避けるということよりもむしろ、「良い判断」をする方法を身につけるということです。「良い判断」は非常に望ましいものであり、出所はあまり理解されていません。良い判断は、熟考の産物であり、叡智とまでは言わないまでも、常識で溢れています。感情や先入観は全く関わりません。良い判断には鋭い理解力もあります。なぜなら関係するすべての要素を比較考察しようと試みるからです。良い判断は「良い」ものなのです。なぜなら関係する人すべてにとって啓発的なものだからです。良い判断は我々を向上させ、喜びをもたらします。誰も傷つけません。人が友人に本当のことを言っても、相手はそれを聞き入れる準備ができていないかもしれません。その場合、拒絶され、争いが生まれ、友情が壊れてしまうかもしれません。ですから、「良い判断」は、関係するすべての人に喜びを見出させるとまでは言わないまでも、苦しみを取り除けるように表されるのです。良い判断はマインドの産物であり、直観であれ、経験であれ、鋭い分析力によってであれ、その状況の真実に到達することができます。良い判断は、ほとんどの場合、経験によってもたらされます。ですから、興奮や反抗で満ちた感情的な判断をすることの多い若者よりも、年配者のほうがたいていの場合、良い判断を持っていると見なされます。さらに、「良い判断」は賢人の持つ性質であり、賢人は物事の真理に繋がっている、つまり存在の根底に触れることのできる直観的な力、何にも増して持続する力を持っているように思われます。
なぜ判断は有害なのか
判断は、一般に三つの理由のために有害です。一つ目は、判断をする人のマインドの状態を反映するということです。心理学の研究によって、平均的な人は全時間の三分の二以上の時間、否定的か感情的な精神状態にいるということが明らかになっています。ふさぎこみ、悲しみ、怒り、いらいら、プライドに平均的な人は支配されています。こうした状態を統御できるようになるまで、あるいは統御できるようにならない限り、判断はたいてい自分の精神状態が現れたものになります。すなわち、自分自身が経験していることを他者に投影しているのです。我々は、他の人も自分と同じことを経験していると思い込みます。なぜなら我々の認識は自分自身の内面の状態に影響されるからです。間違ったとは言わないまでも否定的な反応を他者に投影することによって、我々の認識は他者に害を与えるのです。
第二に、判断は固定された状況を想定してしまうので有害です。我々が他者について判断を述べる時、そこには、判断を下された他者が変わりそうもない、という暗黙の想定があります。人間の性質はおおむね習慣的である一方で、多くの場合一定しないものです。誰にだってひどい日、悲しいでき事、感情が爆発してしまうことがあります。そうした行為はその人に典型的なものではなく、その人の基本的な性格を反映してはいません。ですから、ひどい日に当たっている人、自分の本来の性格とは違った行動をしている人について判断を下すことは、誤りです。また、若者たちは未熟な行動を克服しながら成長します。意志の強い人は、良くない振る舞いを克服し、改心します。ゆえに、判断というものは、成長、つまり良い方向に変わることを考慮に入れないので、有害なのです。概して、判断は人とその人の行為を混同してしまうのです。
人とその人の行為とは異なるということを認識するためには、知恵が必要です。知恵を持つことによって、自分が肉体でもマインドでも個性でもないという悟りがもたらされます。そうではなく、我々の中にあるこのような側面は、衣服のようなもの、つまり変えることのできるもの、習慣から切り離すことのできるものです。知恵によって、我々は、人の真のアイデンティティーが純粋な意識、魂、見る者、観察者であり、この真のアイデンティティーには、意志を用いることによって習慣から起こる行為を変える力があるということがわかります。
第三に、これが最も重要なものであり、判断は決めつけられた性質を強化してしまうということです。それは判断された人の中にあるものだけではなく、何よりも重要なことに、判断を下しているその人の中にあるその性質も強化してしまうのです。我々が誰かについて判断を下す時、例えば「あの人は非常に欲張りだ」と考えるとすると、実際我々は欲張りという性質を長々と考えることになり、このために自分の中のその性質を強めているのです。「自分の望まないことについて考えること」と定義することのできる心配のように、他人を判断することは、自分の中にある嫌いなものについて考えるような状態になることが多いのです。
古典ヨーガの創始者の一人であり、イエスと同時代の人物であるパタンジャリは「幸せな人々に対しては親しみを、不幸せな人々に対しては思いやりを、徳の高い人々に対しては喜びを、徳の低い人々に対しては平静さを養うことによって、意識は乱されることのない静けさへと戻る」と述べています(『ヨーガスートラ』第1章第33節)。これを行わないと何が起こるのでしょうか。我々のマインドが、判断、悪い感情、憤慨、怒り、嫌悪によって、乱されてしまうのです。その結果、我々は、神実現に必要な基本的な事柄、つまり落ち着き、安らぎ、純粋さ、純真さを失ってしまいます。世の中は我々の内にあります。世の中を悪の場所から「天国」に変えるためには、我々は自分の思考を変えることができるし、また変えなければなりません。我々は他者の誤りを許し、他者の短所に注目することをやめるようにならなければなりません。
アヒムサー、非暴力、判断に対する対応策
他者に害をもたらす判断を避けるためにはどうすればよいのでしょう。賢者は「非暴力の態度、インドで『アヒムサー』と言われる態度を養う必要がある」と言います。これには思考、言葉、行動が含まれます。これは、思考でさえ原因になり得る結果、つまりカルマが存在するという認識に基づいています。思考は繰り返されて習慣となり、習慣が我々の人生を方向づけます。もしも習慣に欲望が関わり、そしてその欲望が満たされないと、人生における幸せの源、つまり魂の持つ常に存在している内なる喜びについて、人は混乱してしまいます。
イエスは十字架にはりつけられた時「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちのしていることがわかっていないのです」と自分に苦難を強いた人々について言いました。イエスは、自分の苦しみについて考えたり、自分に苦しみを与えている人々に仕返ししてくれるように神に求めるのではなく、自分を迫害している人々の行動がもたらすカルマの結果に関心があったのです。イエスは、カルマの法則により、彼らの行動が重大な結果をもたらすということを知っており、自分がもとで彼らに苦しみを味わってほしくはなかったのです。ですから、イエスは父に許しを求めたのです。許しは愛から生じます。判断からではありません。パタンジャリが『ヨーガスートラ』で「否定的な思考や感情でいっぱいになっている時には、その反対のものを養うことである」と述べていることの最高の実例です。許しによって、イエスは安らぎも見出し、怒りという自分を蝕(むしば)むものからも解放されたのです。
他者を判断するよりも、祝福し愛するほうが常に良いやり方です。我々の思考や祈りは他者に大きな影響を及ぼします。我々は良い思考と祝福により他者の人生を変えることができます。超自然的なレベルにおいては、思考は生命を有しています。良いようにであれ悪いようにであれ、我々が他者のことを考えると、その人に張りつき、その人の振る舞いや経験に影響を与える思考を生み出します。ある若い女性が、結婚して数週間後に夫が浮気をしていることを知った時、夫が亡くなるように祈りました。すると数日後、夫は交通事故に遭い、首が切れて亡くなるというひどい死に方をしました。若い花嫁は罪悪感でいっぱいになり、その後一年以上も、夫がまだ生きているような生活を送り、夫に食事を用意し続け、最後には家族に説得されてカウンセリングを受けるようになりました。
アメリカのデューク大学の研究者たちは、祈りが、患者が病から回復する助けになるということを、多くの場合奇跡的に回復する助けになるということを立証しました。ほとんどの場合、他の人が回復のために祈ってくれると、健康を回復するために必要な時間が大幅に短くなるのです。超自然的なレベルにおいては、祈りによって、他者を直接助けることのできる強力な思考が生み出されます。交通事故に遭い重態に陥ったある女性は、全く見知らぬ人が見舞いに来た時、その人が彼女のために事故現場で祈ってくれた人だということがわかりました。その女性は、この人の祈りのおかげで私は生き返ったのです、と言ったのです。ですから、苦しんでいる人を見た時には、我々は日課として、その人に祝福と祈りを静かに捧げるべきなのです。誰でもそうする機会がたくさんあります。道路で誰かが割り込んできたり、車が故障していたり、あるいは通りを歩いている人が悲しそうに見えたり、問題を抱えているように見えたら、「この人に祝福を」「この人が安らぎを見出せますように」「肩の力を抜くことができますように」「幸せを見つけられますように」と祈ることができるのです。我々は幸運な人に嫉妬するのではなく、共に喜ぶことができます。「この人は神に祝福されている。この祝福が続きますように、そしてこの祝福が他の人にも分かち合われますように」と祈ることができるのです。
最終審判それとも許し? イエスの言葉、たとえ話
イエスは「人は他人を判断する尺度で、自分も測られる」(マタイ伝第7章第1節から2節)と言いました。イエスはあの時代の宗教的な規範に疑問を呈しました。ユダヤ教はあまりにも法にこだわる宗教でした。神が法の制定者であり、神がシナイ山でモーゼに十戒を与えたのでした。神が最高の裁判官であり、法を犯した者をとがめ、法を尊重する者に報いると考えられました。これは、金の子牛を崇拝したカナン族のような他の宗教よりも進んだものでした。原始的な宗教は恐れに基づいていました。特に死や苦痛に対する恐れでした。ですから、未開人たちは自然界のでき事や現象の神秘的な源と見なしたもの、自分たちの生活を脅かすものを、生贄(いけにえ)でなだめようとします。人が社会を形成するようになると、互いを傷つけ合うのを避けるために、法律を作り、社会的規範を用いて人の行動を取り締まります。こうした法律には最高の権威が必要なので、統治者、一般には王や首長は、自らの権威を神と結びつけるのです。また、正義という感覚を保つために、人は、公平で最高の裁判官であり、悪人を罰し、善人に報いる神というイメージを作り上げます。例えば、旧約聖書の中では、多数の預言者たちが「最終審判」について言及しているのが見られます。また、インドでは「プララバ・カルマ」、つまり今の人生での行動が次の人生で結果として現れるという考えがあります。ですから、この段階の宗教にいる人々は、自分の罪、悪いカルマを、法を犯したことに対する償いで相殺しようとします。このための手段は、懺悔(ざんげ)や禁欲のような簡単なものかもしれませんし、中世のキリスト教のように、そうすることで罪が許された教会への寄付、免罪符を伴った寄付かもしれません。
イエスは「なぜ友人の目の中のごみには気がつくのに、自分の目の中の丸太は見過ごしてしまうのですか。自分の目の中に丸太があるのに、どうして友人に『目からごみを取ってあげる』と言えるのでしょう。これは誠実ではありません。まず自分の目から丸太を取り除くのです。そうすれば、よく見えるので友人の目からゴミを取り除くことができるのです」(マルコ伝第7章第3節から5節)と言いました。言い換えれば、批評家は自分自身を正すことに集中すべきであるということです。さらにイエスは「法や預言者をやめさせるために私がやって来たと考えてはいけない。そうではなく、これらを成就させるためにやって来た」(マタイ伝第5章第17節から20節)。これはどういう意味でしょうか。イエスは法を無視しろ、と言っているのではなく、神が人を愛しているということを悟りなさい、と言っているのです。繰り返し、イエスはこの「福音」言い換えれば「良い知らせ」を説明するために、放蕩(ほうとう)息子の話(ルカ伝第15章第11節から32節)のようなたとえ話をします。神が人を愛しているので、人は他者を愛することができるのです。人のことを愛している神が、地獄での永遠の生活を人に宣告するはずがありません。これは、最も重要なイエスの教えです。純粋な目を持ちさえすれば見えるとイエスが言った、いつでも我々の周りにあるとイエスが言った天国に入るために、弟子や聴衆に互いに愛し合いなさい、物質的な執着を取り除きなさい、とイエスは繰り返し説きました(ルカ伝第17章第20節から21節、マタイ伝第18章第2節)。常に存在するこの天国に入るためには、小さな子供のように無垢(むく)にならなければならない、とイエスは言いました。「敵を愛しなさい。自分を迫害する人々のために祈りなさい」(ルカ伝第6章第27節)。「誰かに一方の頬を叩かれたら、もう一方の頬も差し出しなさい」(ルカ伝第6章第29節)とイエスは言いました。ですから、愛は法や判断に取って代わるのです。旧約聖書の預言者が言ったように「目には目を」と言うこともできますが、マハトマ・ガンディが言ったように、「目には目をでは最終的に全世界が盲目になってしまう」のです。つまり、判断や仕返しで盲目になると、我々全員が人間家族の一員であるということが、そして愛によれば、どんな相違でも克服できるということが見えなくなるのです。
マハトマ・ガンディ 現代世界における非暴力の提唱者
マハトマ・ガンディは「罪のすべては秘(ひそ)かに行われる。神は我々の思考さえ見ているということを我々が悟った瞬間、我々は解放される」と言いました。つまり、罪とは、神が臨在しているということを忘れていることなのです。ゆえに、他人が罪を犯していると判断することによって、我々は自分の罪が見えなくなるのです。ガンディは自ら真理の学徒であると公言し、四十年間に及ぶ闘争の末に、1947年、ついに「アヒムサー」つまり「非暴力」を用いて、暴力を用いずに大英帝国にインドを放棄させました。ガンディは自らが用いた方法を、ジャイナ教と、非暴力を強調したイエスのたとえ話を学ぶことによって発展させました。ジャイナ教の僧はマスクで口を覆い、うっかり昆虫さえ殺すことがないように地面を掃除します。ガンディの非暴力、アヒムサーという方法は、1960年代にアメリカにおいてマーディン・ルーサー・キング牧師によって市民権運動の基礎として用いられました。また他の労働運動や社会運動の基礎ともなり、これらの運動では受動的な抵抗、非暴力による抗議とデモが用いられ、一般大衆に彼らの理想が伝わりました。インドでは、何千人もの男女がガンディのサティアグラハ運動に忠誠を誓い、他者に害を与えることなく真理(サティア)に沿った生活に自らを捧げました。イギリス駐留軍に対する大規模なデモにおいて、何千人もが抵抗することなく棍棒(こんぼう)で叩かれ命を落としたり、ひどい傷を負わされました。彼らが「反対の頬を差し出すこと」に非常に忠実であったので、イギリスは三百年以上にわたるインドの植民地支配から撤退することを余儀なくされたのです。ガンディはイギリスの牢獄で数十年を過ごし、長期にわたる断食を行い、イギリスとイギリスの政策に対する反対を示しました。イギリス製の織物のインドへの輸入に対して、ガンディが反対運動を行った時、イギリスの織物労働者たちからも共感を得ました。インドのボイコットにより、彼らの職がなくなってしまっていたのです。ガンディの人生と方法は、他人を負かすために他人を判断する必要はないことを示しました。我々はただ自分の信念に固く依拠し、他者の共感と理解を得るために、他者を害することなく妥協を見出しさえすればいいのです。ガンディは「頑固なハートとはなはだしい無知は、怒りもなく敵意もない苦しみという日の出の前では、消滅しなければならない」と言いました。
ガンディは「暴力が野獣の法であるように、非暴力は我々人間の法である。精神が野獣では眠った状態にあるので、野獣は物理的な力以外の法を知らない。人間は気高さのために、高次の法、つまり精神の力に従うことになるのである」と言いました。さらに「精神力は、社会にも個人にも用いられる力である。精神力は家庭での問題にも政治にも用いられる。何にでも応用できることは、精神力の永遠性と無敵さを示している。男性も、女性も、子供も同様に用いることができる。暴力に暴力で対抗することのできない弱い者たちだけが用いる力だというのは全く間違っている」と言いました。
インドを解放するためにガンディが始めた政治運動に関して、「サティアグラハは、寛大であり、決して傷つきません。サティアグラハは怒りや敵意の結果ではありません。神経質なものでも、いらいらするものでも、騒がしいものでも全くありません。強制とは全く正反対のものです。暴力に完全に代わるものとして考え出されたのです」と言いました。
多様の中に一体を見る
ですから、判断は、それが他者に対する我々の個人的な感情に関係していようが、あるいは我々が神や、魂の行く道をどのように捉えようが、最終的な見解にはなりません。我々の文明の賢明で、思いやりがあり、霊的な英雄たち、つまり仏陀からイエス、ガンディまでは、愛、許し、思いやり、非暴力が判断に取って代わるということを発見しました。ですから、判断することでマインドが乱れてしまうのなら、それは割に合いません。判断が他人を傷つけるなら、それはあなたの中でも響きます。ヨーガの大家、賢者であるシッダたちは、神を「善」と呼び、我々はみな一つの家族、一つの土地の一部であると言いました。賢者は、他者の中に善なるものを見、他のものには目を向けません。判断は分離をもたらします。愛は結びつけます。愛と許しは法に優り、新たな視点をもたらし、この視点において、全員が本質的に一体であることがわかるのです。
4.社会運動としてのヨーガ
インド人のヨーギーが西洋で教えるようになってから百年以上が経過しています。歴史家や社会学者、政治家、メディアはほとんど認めていませんが、彼らの影響は大きなものです。例えば西洋の宗教団体の指導者がその影響を認識しているところでは、たいてい警告という形を取ります。西洋の宗教団体は、自分たちの影響力が失われることを恐れたり、あるいは無知から、東洋の霊的慣習には有害なもの、あるいはキリスト教に反するものがあるとし、ヨーガの教えによって脅威にさらされていると感じるのです。
これは新しいことでは全くありません。組織化された宗教は、いつでも自分たちの権力を維持しようとしたり、メンバーを犠牲にしても自分たちの影響力を強めようとします。メンバーの必要よりも自分たちの必要と立場を優先することは、いかなる組織にも関わる性質であり、もともとこのために組織化されているのです。組織化された宗教団体は一般に、恐れと罪に基づいた事業体であり、まずは地獄や悪魔、天罰に対する危険に警告を発することにより、自らの権力を維持し、そしてその後にそのような想像上の脅威に対する保護手段、たいていは西洋では「罪」、東洋では「カルマ」と呼ばれる悪い行いの影響を相殺するとされる教えや儀式が提供されるのです。
しかし、霊的な道を真剣に歩む者たちは、たいてい孤独であると感じます。ミスティック(神秘主義者)には道を一緒に歩む仲間や導き手がいるかもしれませんが、これはたいてい比較的短期間しか続きません。歴史的に言うと、ミスティックが集まり、修道院やコミュニティを建設すると、普及している宗教団体にしばらくは寛大な目で見られましたが、完全に信頼されることは決してありませんでした。このことは、例えば、今日イタリア全土に、住む人のいない修道院があることに見受けられます。四百年前は、これらの修道院はミスティックで溢れ、活気に満ちていました。しかし、ミスティックには教皇はおろか、司祭さえ必要ではありません。なぜなら彼らは自分たちの団体の瞑想法によって、直接神とコミュニケーションを取ることができるからです。したがって、しばらくの間は寛大な目で見られましたが、こうしたコミュニティは教会には奨励されませんでした。人々が科学や科学技術をますます信頼するようになり、宗教に対する信頼が薄れていくにつれて、修道院から徐々に人がいなくなったのです。
ミスティック、これはヨーギーに対応するキリスト教の言葉ですが、ミスティックは、社会の不幸に気づいていないわけではありません。また社会を無視しているのでもありません。意識が拡大し、ハートのチャクラが開いているので、ミスティックはほとんどの人々よりも感受性が鋭いのです。しかし、ミスティックは現代社会でどのように自分たちを表現することができるのでしょうか。ミスティックは多くの場合、懐疑的な目で、そして彼らの行いや体験のために、無知から生じる恐れの目で見られます。
それでは、孤独に生活している現代のミスティックは、社会に対してどのように影響を与えることができるのでしょうか。組織化されなければならないのでしょうか。ヨーガは実際の社会運動なのでしょうか、それともただ単にその力を秘めているということだけなのでしょうか。
「誰ひとりとして島ではない」とイギリスの詩人、ジョン・ダンは言いました。これは、ミスティック、つまりヨーギーにも当てはまります。古典ヨーガにおける最初の部門である「ヤマ」つまり制限事項は、ヨーギーの社会での振る舞いを規定します。非暴力、不盗、正直、不貪、貞操です。これらを守るのは、道徳に従うためではなく、これらを守ることが悟りを得るために必要不可欠なものであり、また悟った状態を表すものでもあるからです。これらを守ることによって、「他人」というものはなく、唯一ひとつなるものだけが存在するということが体験としてわかるようになります。これは究極の社会的状態です。
敬虔な多数のヨーギーがこうした制限事項に固い決心で従うならば、社会に大きな影響を与えることができますし、与えることになるでしょう。これには誰かが政治の指導者になる必要はありません。クリヤーヨーギーであり、インドの独立やアメリカの市民権運動を導き、南アフリカのアパルトヘイトに終止符を打った非暴力運動の父であるマハトマ・ガンディの場合とは異なります。社会的なやり取りにおいては、それが家族間のものであれ、職場の同僚やお客さん、上司、全く見知らぬ人とのものであれ、必ずエネルギーのやり取りが存在します。そのエネルギーには愛や思いやりが込められるかもしれません。これは非常にヨーガ的なものです。あるいは怒り、貪欲、苛立ち、競争心、反感が込められるかもしれません。我々は互いに愛や思いやりを送り合い、互いが本当の自分になること、意識的で普遍的な存在になることを手助けすることもできますし、あるいはエゴ的な性質を送り合い、互いに悪影響を与え合うこともできます。一方、対極のものに固い決心で従うならば、例えばイスラエルとパレスチナの争いや北アイルランド、カトリックとプロテスタントの争いの過激派のように従えば、終わりのない悲しみを生み出すだけです。もしもパレスチナ人たちが国の解放のために非暴力を採用していたなら、30年前に自分たちの国を手にしていたことでしょう。
ヨーガは社会運動です。なぜなら、ヨーガは、通常のエゴ的な状態から人を目覚めさせ、そして変容させることを目指すからです。現代の社会的多元性の文化は、多くの場合、エゴイズムの原因となる個人主義、物質主義、消費主義によって刺激されます。人が制限事項であるヤマ(先に述べた事柄)と遵守事項であるニヤマ(純粋、満足、自己探究、苦行、神への献身)から始めて、ヨーガを実践すれば、世間一般の文化に対してゲリラ戦を行うようなものです。culture という言葉は、ラテン語で「崇拝」を意味する culte という言葉に由来します。ですから、現代の物質的、消費主義的、個人主義的文化において、社会のほとんどのメンバーは、物質的なもの、消費することができ、自分は特別であるという意識を高めてくれるものを何よりも崇拝、言い換えれば重んじるのです。
一方、ヨーギーは神、つまり実在を重んじます、言い換えれば崇拝します。最初は、悟るまでは、つまり超自然的にすべてのものの中に神を見るようになるまでは、これは内に、つまり存在の霊的次元に見出されます。ヨーギーは自分を特別な存在とは感じませんし、自分を「行為者」とさえ見なしません。ヨーギーは、あらゆる段階で人を導き、人に権限を与えている神の手を認識するのです。
見方を変えるということが、ヨーガの関心事であり、ヨーガの実践者のひとりひとりが自分自身を(自分自身の努力によって)高めなければならないのですが、ヨーガを実践するメンバー間で、つまりサンガで提供される明白な援助というものもあります。サンガという言葉、タミル語(南インドの言葉)ではサンガンは、文字的には、川が合流する場所、という意味を表します。ですから、この意味では、我々のひとりひとりが川であり、我々が集う時、交流が行われるのです。誰かがやる気をなくしたり、混乱したりした時、これは多くの経験を積んだヨーガの達人にも起こり得ることであり、こうした場合、仲間のヨーギーの存在が通常、癒やしや励みになります。この交流は、二者間での生気エネルギーのやり取りに最も顕著に現れるのですが、メンタル界での優しい言葉や思考、知性界でのちょっとしたアドバイス、霊界での微笑みや喜びの表現もやる気の無さや混乱を取り除くのに十分であることがあります。ゆえに、ヨーガの実践者は、原則として孤立しないことが極めて重要なのです。愛と思いやりを分かち合うことによって、ヨーガの実践者は、より思いやりがあり、意識的で、神に鼓舞された社会を実現する中で、存在のすべてのレベルに霊的な悟りを持ち込むこと、エゴイズムを克服すること、神の純粋な道具として奉仕することを学んでいくのです。
ある統計によれば北米では二千万人もの人々がヨーガを実践し、その九十パーセントが肉体的なエクササイズだけを行っているのですが、だからと言ってヨーガの影響が健康やフィットネスの領域に制限されているということではありません。ヨーガを実践し続ければ、影響が神経系統やマインドにも及ぶようになり、その結果、意識が霊的な次元まで拡大します。これは、自分でそうしようとしなくても、自然な結果として生じます。肉体的な必要から、あるいはストレスを軽減するために始めたものが、結果的に霊的な道になるのです。霊的な道は、社会的な条件づけが原因で身についてしまった習慣的な傾向からますます人を解放してくれます。我々が無執着(ヴァイラーギャ)の練習を常に行うようになるにつれて、社会的な条件づけも含めて、真の自分ではないものを手放し、そして真の自分を経験するようになります。真我実現の体験が、エゴイズムの混乱、つまり真の自分ではないもの、思考、感情、記憶、習慣、感覚と一体になってしまう癖に取って代わります。意識が拡大するにつれて、我々は観察者、そして唯一の観察者になるのです。「私は男です、何々の専門家です、黒人です、白人です、アジア人です」とエゴは言います。「私は存在しているそれである」と目覚めたヨーギーは言います。こうした意識の変化の社会的な意義は、深く広範囲に及びます。ヨーギーが、一緒にいる人々の安らぎや幸福の源になるだけではなく、並外れた明晰さと洞察に導かれたエネルギーの発電機にもなるのです。こうした人物は善に対する強力な力として作用することができますし、またそうなり、思いやりと知恵の精神でこの世界の問題を解決するのです。
我々は歴史上かつてないほどこの惑星上で互いへの相互依存が大きい時期に生きています。世界の一部でのインフルエンザの流行や自殺が即座に他の地域での経済や政治に影響を与える社会危機には、何百万人にも上る啓発されたヨーガの実践者による規律が必要なのです。メディアは、社会を脅迫しようとする者たちの最大の道具になっています。テロに対する最大の防御策は、ヨーガです。なぜなら、ヨーガは、テロを有効なものにしてしまう恐れを源で断ち切るからです。恐れとは、その出来事が起こる可能性を正確に評価せずに、苦しむ可能性を想像してしまうことです。恐れに打ち勝つためには、内面の規律、無執着、冷静で明晰な思考が必要であり、これらはヨーガによって促進されます。さらに、強力なヨーギーひとりによる肯定的な思考あるいは祝福が社会に与える影響は、一般人一千人の散り散りになった否定的な思考よりも強力なのです。
ヨーガを実践する者たちのすべてが、自分の中に、世界の様々な問題に対して安らぎと賢明な解決策をもたらす力があるということを認識するようになりますように。
5.すべての国が私の故郷であり、すべての人が私の家族である
1997年、六カ国で十四以上のイニシエーション・セミナーを行い、三ヵ月に及ぶ旅行から帰ってきた時、私は、十八人のタミル・シッダの右の格言をしみじみと感じました。しかし、この惑星上のすべての人々が今どれほど密接に結びついているかという感覚を、私のように得るために、旅行をしなければならないということはありません。ネットに入りさえすれば、世界中の何百万人もの人々と繋がることができます。
フランスの偉大な哲学者、アンドレ・マルローは、冷戦時に、「来世紀は霊的なものになるだろう。さもなければ、来世紀はありえない」と述べました。次の千年期の始まりに大惨事を予言している人たちがいますが、それを示す証拠を見つけるためにずっと遠くを見る必要はありません。ノストラダムス、エドガー・ケイシーのような予言者や、そしてヨガナンダもこれからの数年の間に大災害が起こると予想しました。こうした予想が現実のものになりそうであることを示すものがますます多くなっています。地球温暖化の影響、地震、大規模な山火事、集団殺戮(さつりく)を行う戦争、鳥インフルエンザの流行、エイズ、他の新たな疾病、国際的なテロ、何百万人もの人々を消し去ることのできる大量破壊兵器を持った原理主義者たち。
私はしばしば尋ねられます。こういった予言をどう思いますか。人はどうしたらいいのでしょう、と。新たな千年期が始まる前の日に、この日を多くの人たちは大破壊が起こると予想していますが、私は、私が持つ固い信念でみなさんを安心させたいと思います。もしも我々全員が、この星に暮らすすべての人のためにババジのクリヤーヨーガを実践し続けるならば、タミル・シッダが行ったように続けるならば、今後どのような大災害や破壊が起ころうとも、それらの力を大きく弱めることができるでしょう。我々は、世の中の安らぎと調和からなる新たな時代をもたらすための手段として一端を担うことになるでしょう。
これは、我々が過去と同じような生活を送り続けることができると言っているのではありません。そうではなく、これは、ヨーガの修練にもう一度自らを捧げ、自分の周りにいる人々に手を差し伸べるための警鐘なのです。我々が持つ関係のすべての中に神の存在を思い出すこと、そして内へ深く入るために、我々の力とインスピレーションのすべてが見出される静寂の源へと入っていくために、より多くの時間を確保するということもここには含まれます。
この観点に立ち、私は、1994年の暮れ、ババジのクリヤーヨーガを世界中の人々に届けるためにフルタイムで活動できるように、二十五年間の社会人生活から引退しました。ババジの恩寵により、私はこれまでにほぼ十カ国でクリヤーヨーガの教師の訓練を施し、その他十あまりの国々でクリヤーヨーガの活動を行い、今までに約一万五千人にイニシエーションを行ってきました。
ここで、読者のみなさんに、私が初めて1997年10月20から24日に「ロシアへの巡礼」を行った時のことをお話ししたいと思います。この巡礼は、私にとって、1972年に初めてインドを訪れた時と同じくらい感動的なものでした。私は自分の人生でずっと国際関係を学んできましたが、私がそれまでに読んできたロシアに関することは、その時にロシアで経験したことの何の役にも立ちませんでした。ロシアの物理的な環境やロシアの生徒たちの状態、ババジのクリヤーヨーガの美しさをどのように伝えるかということについて私は十分に理解してロシアを訪れました。
到着した時、私は1968年に東欧を訪れた時のことを思い起こさずにはいられませんでした。ベルリンを東西に分断していた「壁」に不注意にも近づいたために、東ベルリンで捕まり、拘留され、かつてはゲシュタポの本部であった場所で何時間にもわたって尋問を受けたのでした。セルゲイとのインターネットを通じたやり取りで私の訪問に対する準備は容易に整っていたにもかかわらず、お役所仕事からくるビザの発給の遅れで、この訪問は寸前でキャンセルされかかっていたのです。ほぼ三十年後に、モスクワの暗く不気味な国際空港に到着し、出口の外にいる人ごみの中へ歩くうちに、私の懸念は薄れ始め、セルゲイ、アイラ、ギャリヤと自己紹介した三人の笑顔に迎えられたのです。
ギャリヤの古いラーダ(ロシア製の車)で空港を後にする時、私はロシアのユーモアに触れました。「私たちは先生が白ずくめの服装で現れると思っていました。全身白の乗客の後について行ってしまい、しばらくして別人だとわかったんです」
我々は驚くほど車の少ない道を走り、小学校にたどり着きました。ここでイントロダクションが行われることになっていたのです。教室では、二十八人のロシア人たちが輪になって座り、期待しながら待っていました。誰かが小さな祭壇を備え、ろうそくに火が灯されていました。私はババジの絵をその祭壇に置き、オーム・クリヤー・ババジ・ナマ・アウムとみんなで唱え始めました。私はババジの存在を感じ、ゾクゾクッとしました。それから、ババジとババジのクリヤーヨーガについて、通訳のセルゲイ・ガブリロフがついてこられるようにゆっくりと話しました。後で、私は参加者たちがかつてのソ連邦の全土、カザフスタン、ウラル、ベラルーシ、そしてシベリアの太平洋側からも来ていることを知りました。参加者のほとんどが、一年前にモスクワで出版されていた『ババジと十八人のシッダ』のロシア語翻訳版をすでに読んでいました。
講義は彼らの琴線に触れ、私の伝えたメッセージに対して、彼らから愛と理解の光が放たれました。彼らのほとんどは40歳代であり、彼ら全員がたくさんの苦難を、特に過去三年のうちに起こったソ連邦と経済の崩壊によって、苦難を受けてきたことを私は感じました。講義の後、私は赤の広場とクレムリンまで数マイルの距離を車で移動し、小雨の中を歩き、そしてそこに入った時、時計がちょうど零時を打ちました。私は、自分が巨大な壁と帝政ロシアの象徴である聖ヴァシーリー大聖堂に囲まれていることに驚嘆しました。我々は広場の反対側にある小さな礼拝堂に入り、そこで聖母マリアや子供たちの時代物の聖像画を目にしました。そのすべてが金の枠にはめられ、明るくライトアップされ、霊的な波動を放っており、私はインドの寺院を思い起こしたのでした。
次の三日間、私は幾つかの教会と修道院を訪ね、またモスクワ中を見て回りました。七十年間共産党政権に支配されていたにもかかわらず、ロシア正教の霊的な伝統が多くのロシア人たちの生活に明白に表れていました。私は多くのロシア人が非常に霊的であり、愛と知恵に溢れていることがわかりました。ロシアで起きていることが、まるで「春」のように思われました。古い物事の多くが生命を失い、雪が解けた後の地面のあちらこちらにある落ち葉のようであり、新たな事業、お店、刷新、霊的な活動は、まるで芽を出しかけている美しい花のように見えたのです。
セミナーの後、毎晩遅くイラのアパートに戻る時、多くの老人たちが地下鉄の駅で、アルコールと寒さのために顔が赤く腫れた状態で、アメリカのタバコやトイレットペーパー、家庭用品を売り懸命に生きようとしている姿に感動しました。
一方、協力、科学技術、精神科学に基づいた新しい社会を築くという若者たちの決意とヴィジョンにも深く心を動かされました。私は彼らの視点に感心したのです。科学や工学で高度な訓練を受け、非常に霊的であり、非常に不利な状況にもかかわらず、私が新たに知り合ったロシアの友人たちは、世の中に対し長期にわたる貢献をしようという強い決意を持っていました。ロシアにはこうした人々がいるので、二十一世紀のロシアには非常に期待ができる、と私は確信しています。
イニシエーション・セミナーは、公立の学校の教室で、毎晩七時から十一時に行われました。二十六名がイニシエーションを受けました。生徒たちは誠実であり、彼らの多くは、呼吸法、瞑想法、ポーズを非常に上手に行うことができました。モスクワにグループが誕生し、月例会のスケジュールが決められました。仮のプランとして、一年後に二段階目のセミナーが組まれました。
ジャイ・ババジ! ジャイ・クリヤーヨーガ! タミル・クリヤーヨーガ・シッダーンタの香りが世界中に広がりますように。
6.神聖な狂気、クンダリニー、シャクティパート、エゴの粉砕
私は最近ゲオルグ・フォイヤーシュタインの著書『神聖な狂気―風変わりな賢人、高徳な愚か者、ごろつきのグルたちのショック療法と過激な教え(邦題:聖なる狂気―グルの現象学)』を読みました。著者から頂いたのでした。ヨーガに関心を持つ現代人たちは、この本に書かれているような得体の知れない教師に出会う可能性があるので、この本は価値があります。様々な教えに見られるこうした有名人たちの話や場所を古い順に取り上げた後に、グルジェフ、ラジニーシ、チョガン・トゥルンパ・リンポチェ、スワミ・ニッティヤーナンダ、そして著者自身のグルである狂った賢人、アディ・ダ(ババ・フリー・ジョン)のような現代の例を取り上げています。こうした教師を信奉することの意義と落とし穴について、バランスの取れた鋭い分析をしています。
私自身の師、ヨーギー・ラマイアもこうした風変わりな賢人だったので、この本は私にとって有意義なものでした。師はよく自分のことを「無鉄砲なヨーギー」と言い、全般的には厳しい規律に従い、また弟子のために困難な状況を生み出すのが非常に得意でした。弟子たちはその状況において、自分の中の最悪の反応、つまり恐れ、憤慨、プライド、当惑、不安、欲求不満、混乱に直面するのでした。笑うことが最高の方法のようであり、他人にそれがどんなものだったのか説明するのは不可能だ、と我々はよく言ったものでした。師の行動はたいてい謎めいたものでした。ゲオルグ、本当の知見に富む本を書きましたね、おめでとう。
重要な文を幾つか抜粋します。「我々が自分のレベルで霊的な達成に至っていない限り、師に対する我々の評価は常に主観的なものであるということを受け入れつつも、グルの中に見出せる基準が少なくとも一つはあります。師が純粋に弟子の成長を促進しているかどうかということ、または明らかに、あるいははっきりとはしないが師自身の成長を傷つけていないかどうかということです。弟子志願者は、将来のグルの周りにいる生徒たちを冷静によく観察すべきです。グルのより近くにいる人々を吟味すべきです」
「道の途上で自ら体験する教えが、すばらしいもの、喜ばしいものであろうが、不快で厳しいものであろうが、あるいはそのどちらとも言えなくても、すべてのものが我々の目を開くために必要なことだということです。わずかな反応もわずかに執着していることを示します。それは、自分がまだ何にしがみついているのかを教えてくれる大切なものです。自分の反応を観察することによって、どんなことでも教えになるのです」
「義務と責任は、師と弟子の間で起こる霊的なプロセスのバランスを取る重要な道具です。これらがはねつけられれば、近年、アメリカなどの精神世界や宗教界の堕落した聖人たちによって広く示されているような権力闘争と虐待に陥ります」
「私は個人的に、やがて今の時代に独特の霊性が起こり、これによって新しい種類の霊的な教師が生まれると確信しています。伝統的なグルは、一般に現代の細やかな感性に対してはあまりに独裁的で家父長的であると思います。ゆえに、東洋的なグル中心のやり方は西洋ではうまくいかず、我々は別の方法に目を向けるようになるのです。「音楽にも関心のある」霊的な人は、新たなマエストロ、つまり自らも学び手であり、後光を軽めにまとい、特権を持つ白人の中産階級ではない人々をも含めた仲間と共に歩くために、地に足を下ろすことを厭(いと)わない教師を探し求めるでしょう」
「ですから、この本で取り上げられた伝統的で、風変わりな賢人や常軌を逸した覚者についての不安にもかかわらず、彼らはひょっとするとまだ、有益な社会的機能、つまり大多数が認める現実の『異常さ』を映し出す鏡として、また我々が自分たちの生活から排除してしまいがちなより大きな現実、つまり実在を表すものとして役割を果たすことができるかもしれません。彼らが、我々から実在や我々自身(真我)を見えなくさせているものを取り除く助けになってくれるならば、彼らのメッセージに注意を払うのが賢明でしょう。また、彼らは古い時代の霊性の名残であり、自己超越をもたらすもっと総合的な方法にいずれ取って代わられる、と私は感じています。この新たな方法は、高徳な愚か者たちをも含めた教師、指導よりも個人の成長と統合に、伝統に忠実なことよりも現実に、社会に期待された自らの役割よりも思いやりとユーモアに重きを置く教師によって支えられることになるでしょう」
これは、私が「風変わりな賢人」である師の下を離れてから、行おうとしてきた取り組みを表しています。生徒たちが修練に取り組んでいるならば、彼らは成功していると言えるでしょう。多くの人々は自分が受け取ったものの価値がわかっていません。この分野で成功できるだけの時間と努力を注ぐ準備ができている者は、ほんの一部にすぎないということを私は理解しています。
シャクティパート、グルによる伝導
過去や現代のインド出身の「聖者」たちは、「シャクティパート」と呼ばれることのある、意識の変革をもたらすエネルギー伝導を行うと約束することによって、大きな注目と帰依者を引きつけることに成功しました。スワミ・ムクタナンダとヨーギー・アムリト・デサイがその例であり、長年にわたりこれを行いました。しばしば、これを受けた者が意識の変革を体験したり、あるいは自分の肉体を制御できなくなり、犬のように突進することさえありました。さらに悪いことには、長期に渡る精神病的な状態に陥り、精神の錯乱を起こしてしまう者も出ました。証拠記録は芳しいものではなく、この二人の教師の評判はひどく傷ついたのでした。
私の師はいつも、霊的体験の約束、「シャクティパート」に関して、「そういう約束よりも自分自身のサーダナをもっと信頼しなさい」と言ったものです。これには幾つかの理由があります。一つ目は、サンスカーラ、つまり癖を抱えた我々の人間性は、変化に抵抗するということです。ゆえに、エネルギーか何かのいわゆる体験をした後でさえ、習慣的な意識状態、神経症的な状態に戻ってしまいます。二つ目は、ヨーガの文献のどこにも、意識の永続的な変化を得るための手段として「シャクティパート」は推奨されていないということです。パタンジャリは、潜在意識に深く根ざした欲望や傾向、つまりサンスカーラに関して、繰り返しその根源に戻ることによって、すなわちサマーディ状態に帰ることによってのみ、それらを根絶することができる、と述べています。三つ目は、そうした約束によって、目的が自分自身の支配者、つまり肉体、人生、マインドを自分で支配できるようになることであるにもかかわらず、人は「聖者」に依存してしまうということです。四つ目は、「悟り」はセミナー代金を払えば、あるいは体験の結果として、お金で買えてしまうという印象を与えてしまうということです。悟り、言い換えればサマーディという真我実現の状態に意識を確立することは達成し難いものであり、ほとんど例外なく、規律の取れたサーダナや霊的、ヨーガ的な鍛練を長期にわたって実践した結果としてのみ達成されるにもかかわらずです。五つ目は、肉体、生気体、メンタル体でのいかなる体験も時間と効果に限界があるということです。霊体においては、人は体験、時間と空間を超え、純粋意識を悟ります。これがヨーガ、そしてまがい物ではない霊的教えのすべての唯一の目的です。六つ目は、シャクティパートによって人が他者に悟りを伝導することができるということは、人を欺(あざむ)くことであるということです。「悟り」に至る近道などありません。最後に、本当に「悟った」教師は、自分は特別である、他人よりも優れているというようなことを言いません。人は悟りに達すると、「他者」は存在しなくなり、体験する者がもはや存在しないので、体験をする必要も、体験を与える必要もなくなるのです。至高の真理と一体であり、体験や形態のすべてを超越しているのです。悟った教師であるラマナ・マハルシは、自分と他者との間にグルと弟子の関係さえ認めませんでした。
誰もが気に留めておくべき重要なことは、我々のサーダナには、超越、言い換えれば霊への垂直方向の上昇だけではなく、我々の生活領域のすべてに真我実現を統合するという水平方向の動きも含まれるということです。
グルによるエゴの粉砕
十八人のヨーガ・シッダの文献に関して、私は過去七年間、調査、翻訳、研究をしてきましたが、一般にグルによる「エゴの粉砕」と呼ばれる、生徒に変容をもたらす手段を推奨する記述は一切見つかりませんでした。「エゴの粉砕」は、弟子がうまく処理できない反応を弟子に起こさせるために、グルによって意図的に為される行為あるいは言葉と定義できます。
例えば、グルは、証拠が何もなくとも、何らかの過失に対して弟子を人前で非難するかもしれません。弟子は、恐れを覆い隠す手段のひとつである、防御的になろうとする欲望を統御しなければなりません。「エゴの粉砕」は、パタンジャリやボーガナタル、ラーマリンガ、ティルムーラルの作品で言及されていないだけではなく、あまり知られていない十八人のヨーガ・シッダの著作の中にも見当たりません。自分自身や兄弟弟子に対するこの手段の影響を通して、私はこの方法はほとんどの場合、弟子を遠ざけてしまうこと、そして内面に深い傷を残し、ずっと傷が癒えないままであることも見てきました。最後まで私の師の元に留まった者たちに関してでさえ、エゴを根絶する手段として、そしてエゴを弱める手段としてでさえ、その効果は疑わしいことが明らかです。
「エゴ粉砕」が弟子の成長を促すよりも弟子を虐待することになる危険性が非常に大きい、と私は考えるようになっています。虐待か援助かの違いは非常に微妙であり、弟子になろうとする生徒の意志と能力、その役割の中で常に成長しようという生徒の意志と能力だけではなく、グルのマインドの状態にも左右されます。もしもグルがわずかでも好みを持っているのであれば、それはグルのエゴから生じているということです。教師の理想的なサポートは、弟子の訓練に教師がいること、そして教師の意識があることだと私は思います。これによって、教師は理想的な状況を提供し、その中で弟子は、今という瞬間により留まっていられるように、そして自分の内面の変えなければならない部分をより意識できるようになるのです。これは、パタンジャリがスヴァディヤーヤと呼んでいること、つまり自己探究の支えとなります。
自分の中にあるエゴの部分を認識するために、それぞれの魂が必要とする体験のすべてを人生が提供してくれるということ、それゆえ、最も効果的なことは、スヴァディヤーヤ、つまり自己探究に集中することである、と私は考えるようになりました。自己探究には、自己観察も含まれます。日記を道具として用い、自分のサンスカーラ、つまり習慣的なパターンを示してくれる癖的な、繰り返し生じる反応に気づき、そしてパタンジャリが「それと反対のことをする」と言った方法によって、その反応を徐々に弱めていくのです。スヴァディヤーヤにはまた、深い瞑想を通して、定期的に自分の真我を知り、気づいていることに気づくこと、そして聖典を研究することも含まれます。これらによって、我々は、実在、つまり人生の表面に現れる夢の背後にあるものを思い出すことができるのです。
また、霊的な道のどのレベルにいようと、共に道を歩む人たちが、それが教師であれ、同士であれ、友人であれ、家族であれ、最高の鏡になってくれ、自分のエゴとそこから現れたものを映し出してくれる、と私は考えるようになりました。ですから、我々は、社会での関係によって明らかなる執着や反感を、観察することによって手放すことができるのです。気づいていること、そしてエゴから現れたものを処理することに集中している人と共にいる時に、こうした関係はエゴを最も映し出してくれます。これは、「霊的な」人が一人で暮らし、自分はほとんど完璧だ、と思い始める時によく起こることに対して、最大の防御となってくれます。
ですから、「神聖な狂気」は必ずしも必要ではありません。正気を、変化に対応する能力と定義することができるなら、最も正気な人たちは、世の中にいながら、世の中に乱されない人たちです。悟りの状態を説明してください、とラマナ・マハルシが尋ねられた時に、「今では、何も私を乱すことはできない」と答えたようにです。今日の現代社会は常に変化し、その変化によって生じる問題によって、我々はエゴの執着と反感に直面し、そしてそれらを超えるために必要なすべてのことを手にします。我々全員が、魂の視点にしっかりと立ち、不変の実在、つまり変化の中に存在する至高の真理を見ることができますように。現代社会の狂気の中にありながら、聖なるもの、清浄なものを見出すことができますように。
7.どうすれば霊的に進歩していると知ることができるのか
どうすれば我々は霊的に進歩していると知ることができるのでしょうか。これは、求道者が時々自問する重要な問いです。簡単な答えはありません。霊的な道は徐々に発展するものであり、霊には形がないので、測定することが難しいのです。ですから、進歩を定義する前に、どのような意味で「霊的」という言葉を使っているのかを考えてみましょう。
ヨーガにおいて、我々はエゴイズムに関する人間のジレンマ、つまり肉体やマインドと一体になってしまうジレンマについて話します。我々は五つの体、つまり肉体(アンナマーヤーコーシャ、文字的には食べ物の体)、生気体(プラーナマーヤーコーシャ、肉体を動かす体であり、感情の座)、メンタル体(マノマーヤーコーシャ、潜在意識、記憶、五感、認識作用が含まれる)、知性体(ヴィヤーナマーヤーコーシャ、論理的に思考する能力が含まれる)、霊体(アーナンダマーヤーコーシャ、文字的には至福の体であり、魂であり、純粋意識、観察者)。通常はエゴイズムのために、人は「私」は体、「私」は感情、「私」は記憶、思考だと思いながら、考えたり、行動したりします。例えば、人は「私」は寒い、「私」は怒っている、「私」は結婚している、あるいは「私」は「ジェーン・ドウ」、「私」は共和党員などと言います。しかし、一カ月後には、全く正反対のことを言うかもしれません。「私」は暑い、「私」は満足している、「私」は離婚している、「私」は「ジェーン・スミス」という新しい名前になった、私は支持政党を変え、「私」は今は民主党員、というように。明らかなことですが、我々は対極のものの両方でいることはできません。我々がいられるのは、常にそこにあるものだけです。しかし、エゴイズムの力は非常に強力であるため、我々は真の自分が何者であるのか、つまり純粋な存在、意識であるということを常に忘れるのです。
ゆえに、「霊的な進歩」には、アーナンダマーヤーコーシャつまり霊体との繋がりが強まり、肉体、感情体、メンタル体、知性体、言い換えればそうした次元と一体になってしまうことを手放していくことも必然的にかかわります。これは、エゴイズム、つまり欲望や怒り、貪欲、プライド、のぼせあがり、悪意などとして現れるものから、徐々に自分を浄化することです。初めのうちは、そして長期間、この浄化のためには、倫理的、道徳的、宗教的な指示、例えば傷つけない、盗まない、性的対象として人を見ないというようなことを守るために、努力が伴います。この努力によって、愛、満足、受容に基づくバランスが徐々に内に見出されるようになります。現代にたとえると、エゴによって我々は、自分の人生というテレビ番組のあまりに近くに座らせられるのです。その結果、ドラマの中に入り込んでしまい、本当の自分を忘れるのです。性欲、貪欲、怒りを浄化することによって、テレビ画面から離れることができ、人生内のドラマがあるにもかかわらず、自分はテレビ番組ではない、観察者であるとわかるようになるのです。瞑想のような霊的修練を通して為されなければならないことは、離れた状態で留まり、徐々に自分を高次の視点で見られるようにするということです。
最終的には、この文章の最後で取り上げるように、真我実現の状態に熟達すると、その状態が知性体、メンタル体、生気体、肉体にも降りてきて、それらを変容させます。我々が霊的に進化するためには、この世よりも上昇して、この世から立ち去る必要はありません。霊的進化には、いずれ分かるように、五つの次元のすべてで総合的に発展することも含まれ得るのです。
しかし、最初は、霊的な部分で進化し、自分の中の純粋意識、つまり観察者をますます本当の自分だと認識するようになります。これが、真我実現と言われるものです。これは、次のように起こります。
1.静けさが養われる。静けさは、思考がない状態ではなく、思考と共に存在している状態です。ですから、我々がこの最初の段階を進む時、習慣となっているやり方で反応する癖を、例えば、怒りや不安で反応する癖を、静けさで置き換えるようになっていきます。マーヤーと呼ばれるマインドの中にある錯覚、汚れが、静けさを養うことによって、徐々に弱まります。ポーズ、体系的な呼吸、マントラ、瞑想、バクティを含めたヨーガの修練のすべてが、この段階において、静かさ、落ち着き、平静(サットヴァ)によって、興奮や不必要な活動(ラジャス)を減少させ、不活発や疑い、怠け(タマス)を弱めるための助けになります。これによって、その場にあること、つまり実在(サット)が生じるのです。無執着を養う練習をすることによって、我々は自分の体験の中に入り込んでしまう衝動を手放すようになります。
2.観察者、言い換えればチット、純粋意識が養われる。我々は意識の一部を引き離すことによって、つまり観察することによって、新たな視点を持ちます。観察者は、何もしませんし、何も考えません。観察者は、行為が行われる様子や、思考、感情、感覚が去来するのをただ見ているだけです。我々の意識の一部は活動に関わっていますが、他の部分は離れて立ち、受け身の状態です。常に観察者の状態に留まる練習をするためには、初めは努力が必要です。比較的短い期間かもしれませんし、あるいは初めから終わりまで必要かもしれません。この練習は、特に、あまり集中力を必要としない日課を行っている時、あるいは癖がついてしまっているようなことをする時に行えます。その次に、難しいこと、あるいは初めてのこと、例えば事故に遭ったり、転んでしまったような時にも行います。この視点を保つために努力が徐々に必要ではなくなり、日常生活にますますこの視点が組み込まれるようになります。
3.「私は行為者ではない」。観察者の意識が養われるにしたがって、我々は、自分を肉体や内面の動きとは考えなくなり、自分が何かを行っているとは感じなくなります。自分は観察しているだけであり、自分の肉体とマインドは道具である、と感じます。歩いている時であれ、話している時、働いている時、食べている時であれ、意識の一部は、活動に関わっていますが、意識の他の部分は離れて立っています。その部分は何もしません。その部分は、受け身の状態で、判断もせずにただ見ているだけです。自分がひとつの道具であり、神がすべてを行っているように感じます。自分の中に「行為者は存在しない」と感じます。しかし、すべてのことが為されます。でき事、偶然の一致、結果の流れを楽しみます。行為、言葉、思考がどのように結果、つまりカルマを生じさせるのかということ、そして他者に苦しみではなく幸せをもたらすために、この法をどう用いることができるのかということに対して、理解がますます深まります。自己の感覚がこのように拡大し、他者の必要を自分の必要であるように感じます。他者に愛を示し、他者が幸せを見出せるように援助します。
4.「私は存在しているそれである」。深い瞑想において、我々は、気づいているということがどういうことなのかに気づきます。意識自体が対象になるのです。「自分はすべてのものの中に在る」、「すべてのものが私の中に在る」と感じます。そして徐々に、真我に対するこの悟りが、目を覚ましている時の日常生活にも浸透してきます。神実現は、この段階が深まると生じます。あらゆる霊的教えの聖者やミスティックがこの状態を言い表そうとしましたが、一般には言葉では言い表せません。実際、それを言い表そうとすればするほど、その状態から遠ざかってしまうのです。なぜなら、それを言い表すこと、それについて考えることだけでさえ、その状態を概念まで低めてしまうからです。「それ」は名称と形態のすべてを超越し、すべてのものに浸透し、無限で永遠であるので、他のものはすべて見劣りしてしまうのです。ゆえに、「それ」を本当に知っている人たちに好まれる指導手段は、沈黙なのです。十九世紀の末にアメリカに初めてヨーガをもたらしたヨーギー、スワミ・ラーマ・ティールサが力強く「神が定義されれば、神は制限されてしまう。つまり、神について話すことはできないし、それを求めることもできないのである」と述べたようにです。
これまで述べてきた段階は一直線に起こるわけではありません。マインドの不安定さ、我々の癖(サンスカーラ)、カルマ、マーヤー、グナの動きのために、我々はこれらの段階を行ったり来たりしながら進んでいきます。しかし、一般には、我々が霊的に進歩しているのならば、これが辿(たど)る道になります。肉体や感情、内面の動きと自分とを同一視することが弱まり、それ、つまり名称と形態を超え、真我、純粋意識であり、全く神聖なものであるそれを自分だと見なすようになるのです。
徐々に獲得される神の概念と視点
神、つまり至高の存在に対する我々の概念も、先に述べた霊的な進化と類似の段階を経て、徐々に発展します。「外に」在るものから、「自分の内に」在るものへ発展します。我々が神についてどのように考えるか、そして何と一体感を持つかということを分析することはためになり、この二つは我々が霊的な道を進むにつれて進化していきます。こうすることによって、我々は低い段階に留まることを回避することができます。神学者は、宗教上の、神に対する幾つかの概念を分類しています。どの宗教もどの文化も、神に対する自分たちの概念が唯一正しいものである、と思っています。人が持つ神の概念は、その人の教育、自然に対する理解、経験、想像力、欲望、恐れによって制限されていることは明らかです。人間の置かれている状況は、人が持つ神に対する概念に投影されています。これから述べることがこのことをよく表しています。
第一段階:神は私の味方である。私は肉体。
人は恐れに気づくようになると、至高の存在を信じるようになります。恐れの最たるものは死に対するものです。原始人は、自然界のでき事は超自然的なものが原因となって引き起こされる、と捉えることで、恐れを克服しようとしました。恐れを鎮めるために、原始人は生贄を捧げ、雷、洪水、干ばつ、戦争、病、死をもたらす怒れる霊をなだめようとしました。超自然的な存在は、それが悪意を持つものであれ、善意を持つものであれ、初期の多神論の宗教においては、敵にも味方にもなり得ました。信者たちは、邪悪で悪意に満ちた力とその力がもたらす苦しみを撃退するために、神々や女神に庇護を求めました。超自然的な力は、気まぐれで、執念深いことさえありました。人生は短く、非文明的であり、生存が最大の問題であったので、何よりも庇護(ひご)が必要とされました。この段階においては、人は主に肉体を自分と見なし、生存が最大の問題です。もしも私が肉体に過ぎなければ、悪は私の生存を脅かすものです。善は安全、食物、避難所をもたらすものです。ですから、私は神に祈り、神は私の味方として、生きるために必要なものを私に提供してくれるのです。真の自分に対する無知という汚れ、そしてその結果としてエゴイズムが、肉体に深く根づいてしまいます。
第二段階:神は全能。私はマインド、人格。
社会が安定すると、生存は最大の問題ではなくなり、人間は社会上の行為を統制するために法律を作ることを求めました。人は法の権威を「全能」の神にしました。ここでは、神はあらゆる力と権威の源です。力を持つ者は力を行使します。なぜなら神がその力を自分に与えているからです。首長は王になり、裁判官は聖職者になります。しかし、権力は人を虜(とりこ)にします。なぜなら権力を持てば持つほど、欲望によってますます権力を求めるようになるからです。人間は、この段階では生存の問題からは解放され、マインドと生気体上の欲望と一体になります。エゴ、つまり肉体とマインドを自分だと見なす癖は、欲望が拡大するにつれて、ほとんど何もかもが可能であるように考えます。人は他人と争い、利己的です。権力を持ち、人は何かを成し遂げようと、他人を支配しようと、野望を果たそうとします。しかし、法を犯した時の罰を恐れているため、神に与えられた法を尊重しながら、これを行います。宗教上の教義や慣例は、知的好奇心の拡大に呼応して手の込んだものとなり、人間性をコントロールし、人間性が支配者に服従し続けるように意図されたものになります。科学が発展し、宗教に疑問を呈するようになります。宗教同士の衝突が起こります。文化同士が衝突します。政治上の慣例と宗教上の慣例が密接に結びつきます。敵を倒すため、あるいは考え方の異なるものを改宗させるために神に祈りさえします。「彼ら」対「我々」という構図です。
第三段階:神は静寂。「静かな状態になり、自分が神であると知れ」。私は観察する。
多くの人がこの状態に到達します。何らかの理由で、肉体、感覚、マインドの動きの背後に在る内なる存在を見出した時に到達します。これは、自然に生じる霊的な体験であり、この時、人は超越状態にあります。これは整然とした瞑想を実践した結果かもしれません。痛みを伴うような激しい肉体上の体験の結果として生じるかもしれませんし、あるいは高度の集中によって、通常の意識状態から離れた結果かもしれません。こうして、これまで自分が抱いてきた神に対する概念が単なる概念に過ぎないということを悟ります。つまりこれまでは、あらゆる恐れと欲望を伴ったエゴの必要にかなうように神を作り上げてきたということを悟ります。世の中に対する見方、つまり「外のもの」に対する見方は、自分の好き嫌いによって歪(ゆが)められているということを悟ります。しかし、第三段階において、人は安らぎを見出し、そして神が安らぎです。詩篇「静かな状態になり、自分が神であることを知れ」の真理を悟ります。内にある真我、観察者の意識の視点を育むことによってのみ、人は外の世の中の混乱を克服することができる、ということを悟ります。マインドが静まった時、人は純粋意識を見出します。それは部屋の明かりのようなものであり、それまでは明かりに照らされたもの、部屋の中にあるものに心を奪われていたので、その明かりは無視されていました。初めは、内面の生活と外の生活の間に緊張が存在するため、外の生活を拒絶してしまうこともあります。
この段階が進むにつれて、人は人生のすべての瞬間に静かで思慮深い気づきを養おうとします。世の中を拒絶しません。イエスの言葉で言えば、世の中にありながら、世の中に染まらない、ということです。人は、神に対する思考、つまり概念を観察者の新たな視点で置き換えます。この視点においては、思考に入り込まず、マインドが静まり、安らいでいます。実質的に、内面の動きを超え、「意識の光」の中に入ります。言葉では表せません。詩はこのことの証拠を示すことができます。あらゆる霊的教えの聖者や観察者が「それはあらゆる理解を超えた安らぎである」と述べています。この段階において、宗教やその他の理論的な体系のすべては、霊性の中へと沈んでいきます。
第四段階:神は賢明である。私は耳を傾け、私は知る。
恐れ、欲望という最初の問題を超え、内なる安らぎも見出し、人は神が自分を愛しているということ、自分を許しているということ、理解しているということを悟ります。したがって、神は賢明であるのです。神はすべてを知っており、それゆえ、神に耳を澄ますことによって、自分もまた知るのです。私は、静かになり、受動的になり、直観が語るに任せることによって、神に耳を澄まします。私は、学校で学んだからではなく、ただ知るがゆえに知っている存在と一体になり始めます。私は、自分の知る必要のあることに集中すれば、自然に理解がもたらされるようになります。物事が明らかになります。あらゆる物事の背後にある真理がわかり、叡智がもたらされます。永遠なるものと非永遠なるものの違い、喜びをもたらすものと苦痛をもたらすものの違い、自分は何者なのかということ、永遠なる魂、純粋意識が見分けられます。関心事は、ルールに従うことや、苦痛なことを避けることではもはやなくなります。特に、混乱からなる「外の」世界でや、以前のレベルでのように、そうすることではもはやなくなります。人は愛情溢れる超越した神に目を向け、自信に満ち、自分のハートに宿るそれを常に大切にし、自分は愛されている、浄化されている、直観で神に導かれていると感じます。この段階の最後では、正しいことと間違っていること、罪悪感やプライドに関するあらゆる概念を手放し、自分は完全に無垢であると感じます。他者と一体であると感じ、他者を愛し、他者が幸福を見出せるように援助します。
第五段階:神は協働者である。私が創造する。
霊的進化のこの段階において、自分には自分の人生を創り上げる力と責任があるということを悟ります。人は、「目を開けた状態で夢を見ている」という一般人の状態を超え、ヴィジョンを持つ者の状態に移ります。先見の明を持つ者になります。自分の夢、つまり叡智と真我実現の道にかなっていると自らが知っている夢を信頼し続けます。神はもはや遠くの存在ではなく、自分を神の協働者であると感じます。神は慈悲深く物事を与えてくれます。神は鼓舞してくれます。何かを起こそうと意図すると、宇宙がそれを実現させる手助けをしてくれます。人はそれを成し遂げるために努力しなければならないかもしれませんが、自分は行為者ではなく単なる道具に過ぎないと感じます。なりゆきについては辛抱強く、宇宙が物事を適切に為すと信頼しています。人は現在という瞬間に留まり、為されるべきことのすべてが為されます。人がエゴの必要や好みを浄化するにつれて、神の意思とますます調和するようになります。結果がどのようなものであろうと、神の恵みを受けていると感じます。
第六段階:神は不思議なもの。私は光り輝く自己認識。
神を協働者として認識し、人は世の中を創造の奇跡として捉えるようになり、自分の人生が活動の舞台になります。奇跡が溢れています。ヨガナンダの言葉によれば、神は「常に新たな喜び」であり、そしてあらゆる瞬間、あらゆるでき事が荘厳であるのです。人は、神を原因のすべてを超えたもの、創造に影響を受けないもの、意識の光として捉えます。自分の内奥に存在する真我も同じ光り輝く自己認識であることを悟ります。光は意識を表す比喩ですが、光はミスティック、ヨーギーが魂の奥深くで体験するものでもあります。神は時と空間を超越し、何にも制限されません。このレベルにおいては、神の恩寵により、多くの素晴らしいでき事がもたらされます。人はありふれた事柄の中に神聖さを見出します。人はヨーギーの目で、あらゆる所に存在する神を見ます。カルマとは違い恩寵は身に余るもの、つまり我々の行為が善いか悪いかに関係しないものであり、名称と形態を超えたそれと一体になりたいという我々の叫び、好き嫌い、獲得と損失、成功と失敗、名誉と不名誉という二元性を手放したいという叫びに対する神の応答なのです。エゴの、あらゆる欲望からなるゲームは大きな罠であるということを認め、頭の中だけではなく、意識的に自らを神に明け渡します。エゴのゲームから解放されることを求めます。内面の動きを超えたそれ、つまり根本の源、意識の光に没入するようになります。
第七段階:神は実在・意識・至福。「私は在る」
マインドの二元性を逃れ、人はサット・チット・アーナンダ、つまり実在・意識・至福という非二元的な状態に到達します。この状態は、何事にも依存しないので、無条件のもの、つまり絶対的なものです。ただ在るだけであり、人は「私は存在しているそれである」と悟ります。人は特別な存在ではなくなります。特別なことを何も経験しません。なぜなら、特別であることには分離していることが暗に示されており、このレベルにおいては、人は二項対立を超え、すべてのものと一体になります。神学者が一元論と分類するこのレベルにおいては、唯一ひとつなるものしか存在しません。有神論(一神論)においては、魂と神が存在し、それらは分離しています。一元論の観点では、ひとつのものしか存在しません。それは、無限、不変、永遠、言葉では表せない、すべての源です。人は、深い瞑想状態で、マインドが静まり、意識が拡大した時に、それに接触します。モーゼが神に「あなたは誰ですか」と尋ねた時、神が燃えている柴の向こうから彼に話した時、「私は存在しているそれである」と答えました。これは、客体と主体の究極の存在状態を表しています。「私」は主体であり、「それ」は客体です。これは空(くう)ではありません。これは、あらゆるものの源です。至高の知性です。ここでは、ここに在ることが唯一の行き先になります。為すことではなく、在ることが手段と目的地になるのです。ドラマがいかなるものであろうと、今に在ることによって、気づきがもたらされ、気づきが至福をもたらします。サット・チット・アーナンダ。「あなたは誰ですか」という問いに、「私は在る」としか答えようがなくなります。他の答えは、自分を誤って捉えている状態、つまりエゴのゲームから生じていると思われるのです。昔の習慣的な傾向、好み、嫌悪は背後へと退き、「私は在る」という感覚が支配します。もはや「他のもの」は存在しません。もはや特別な地位、つまり「大師」、「グル」、「帰依者」、「弟子」は存在しません。唯一ひとつなるものだけが存在します。ヨーガでサマーディと呼ばれるこの悟りは、深い瞑想体験の中で生じます。しかし、一般に人の持つ条件づけは非常に強いので、自分を記憶や肉体、マインドと一体化してしまうために、この悟りは長い間、達成困難なものです。この状態に繰り返し戻ることによって、無知、エゴイズム、錯覚、カルマの汚れが、真我実現という光の中で徐々に洗われるのです。もはや特別な体験を望みませんし、特別な存在になろうともしません。なぜなら特別であることは分離を生み出し、人がすべてのものと一体になると、他のものは存在しなくなるからです。
変容
いかなる霊的教えの出身であろうと、この状態に達した聖者は、この状態があまりにも充実したものなので、この世に留まりたいという思いが他の欲望と共に徐々に弱まるのを感じます。肉体には様々な必要が関わり、相変わらず気をそらさせるものなので、この第七段階に達した高度に進化した聖者でさえ、天国へや輪廻転生からの解放を求めて、文句を言わずにこの世を立ち去ります。
しかし、中国やチベット、インドには、霊的進化が先に述べた7段階目で、霊体において終わるのではないことを予知した大師たちの古(いにしえ)の教えが存在します。神はここに存在するということを悟り、霊体の次元で魂を神に明け渡すことを超えて、自らを神に明け渡したのです。知性、つまり知りたいという欲望を明け渡し、彼らは賢者になり、注意を向けさえすればどのようなテーマに関しても深遠な知識が得られるようになりました。こうした知識は、通常の学習や実験・実地による調査からではなく、関心の対象と直観で一体になることによってもたらされました。この洞察に満ちた知識は、最も深遠な真理を表し、多くの場合筆舌に尽くしがたいものであり、サマーディという深い集中と専心の中での最高の知性からもたらされたものでした。
さらに、マインドのレベルで自らを明け渡し、大師は「シッダ」、つまり透視、予言、透聴のような潜在的な力を現す者になりました。生気体のレベルで自らを明け渡し、マハー・シッダ、つまり偉大で完成された大師は、肉体が浮き上がること、物を物質化すこと、自らを非物質化すること、自然や物事をコントロールするようなさらに高度な力を現しました。さらに、肉体のレベルで明け渡し、細胞さえもこれまでの限定された再生を放棄し、大師の意思と意識に密接につながるようになりました。肉体は傷つくことがなく、不死身で、自然の法則の支配を受けなくなりました。神へのこのような段階的な明け渡しは、苦しみからなるこの世を離れたいという思いではなく、すべてのレベルで、霊体、知性体、メンタル体、生気体、肉体という五つの体のすべてで、自らを通して神を現したいという思いから現れます。物質と精神の分離を見るのではなく、唯一の霊、すべては神である、と捉えるシッダは、人類の進化の最先端を行きます。シッダにとっては、病気にかかった肉体で神を悟ることは、完成ではありません。シッダは、「天にいる父が完全であるように、あなたも完全になりなさい」という弟子に対するイエスの教えを実現したのです。
8.二十一世紀のヨーガ
フランスの哲学者、アンドレ・マルローは、「来世紀は霊的なものになるだろう。さもなければ、来世紀はありえない」と予測しました。核による自己破壊というさしあたっての脅威は、冷戦の終結とともに薄らぎましたが、本当の戦いは、今日の世界で何十億人ものハートとマインドで行われ続けています。「深層生態学」という言葉で現代の思想家の幾人かが表すものは、霊、マインド、肉体、環境の相互関係に対する古くからあるヨーガ的な見方を表します。
昔は、多くの人たちがヨーガを懐疑的に捉えていました。おそらくこれはヨーガが風変わりな外国の文化のものだったからでしょう。しかし、今日、ヨーガは世界中で知られるようになりつつあります。アメリカだけでも、ローパー組合の最近の調査によると、六百万人以上の人々がヨーガを実践している、と見積もられています。これは、成人人口の約五パーセントです。九十五パーセントの人々はまだ行っていないということですが、重要なことは、この五パーセントの人々が周りの人々に与える影響です。ヨーガを実践しているほとんどの人たちは、ハタヨーガのみを実践し、瞑想はほとんど、あるいは全く行いませんが、ヨーガは逆立ちをしたり、体を伸ばすだけのものではない、ということがますます認識されるようになってきています。
このことを知って、我々は何をするでしょうか。最近我々が行った国際集会に参加した人々の意見は、次の三つに要約されます。
1.ヨーガのサーダナを行うこと
2.ヨーガを仕事と家族生活に統合すること
3.他者に情報を提供すること
ヨーガのサーダナを行うことは非常に重要です。これは、我々の個人的な幸せと健康のためだけではなく、自分の周りの人々すべてにとって重要です。我々がヨーガを行うと、我々のいる環境と我々が接する人々にエネルギー上の影響が直接生じます。安らぎ、喜び、気づきはすべて伝染するのです。
ヨーガを仕事と家族生活に持ち込むということは、ストレスを生じさせるような状況の中で平静さを養う練習をし、緊張に気づき、自分の呼吸を観察し、自分の仕事をカルマヨーガとして上手に行い、それでありながら結果には執着しないということを意味します。他者、特に我々が一緒に生活し、一緒に仕事をする人々と共に「その瞬間に存在すること」、そして愛と善意をその人々に放射することを意味します。ヨーガによって、よい聞き手になる技術が養われます。
他者に情報を提供するということは、ヨーガとは何か、その効果はどのようなものかということを教え、頻繁に生じる誤解を解くことを意味します。これには、古来のものと現代のものの両方について研究し、自分の理解を深め、ヨーガの真理を伝達する能力を磨くことが必要になります。ここには、文化的な違いについて敏感であること、そして可能であるのならば、緊張をほぐしたり、良い睡眠を得たり、エネルギー、健康、内なる落ち着きの力強い新たな源を見出すために、ヨーガがどのように機能するのかを実際に示してあげることも含まれます。また、ヨーガに関するお気に入りの本を友人や知り合いに教えたり、雑誌やネット上に記事を書いたり、ポーズや初歩の瞑想法、ヨーガの道について話をしたり、講義することも含まれるでしょう。ヨーガが社会運動となる時が来ました。ヨーガの実践者は、他者に対して手を伸ばし、最高の自分を他者と分かち合うのです。
ヨーガがよく知られたものになるだけではなく、我々の文明を高みへと導く強力な力となる新たな時代に我々は入りつつあるのです。
9.タパス 自ら課す難題
1970年代の初頭、私が若いブラフマチャリアだった時、私の師は、よく私に特別な誓いを立てさせたものでした。これには、週に一日、沈黙の日を設けること、週に一日、断食の日を設けること、四十八日間毎日、ある技法を行うこと、週に一度の沈黙に入る前にクリヤーヨーガの誓いを唱えること、独身でいること、菜食であること、毎日マントラを最低でもある回数は唱えること、一日につき八時間ヨーガのサーダナを行うこと、そしてもっと全体的なものとしては、ババジのクリヤーヨーガを実践すること、全体に対して献身することが含まれました。また、師は、二十四時間休むことなくヨーガを実践すること、つまり「タパス」を行うことを求めました。これらのことを、私は師の指導の下で過ごした十八年の間、規則的に行いました。これらの苦行や体験については『私がババジの弟子になるまで』の中に書かれています。なぜこのようなことをしたのか、と疑問に思われるかもしれません。
タパスと自己浄化
「私は何者か」「どうすれば神を知ることができるのか」「苦しみの世の中にあって、どうすれば永遠の幸せを見出すことができるのか」という人生に関する重要な問いは、偉大な霊的教えによれば、浄化を経ることによってのみ回答がもたらされます。人間として、我々は、真我に対する無知とエゴイズムのために、肉体とマインドを自分だと思い、欠陥だらけの状態です。ヨーガは、人間が持つこれらの欠陥を克服するための実際的な手段を提供してくれます。ヨーガは、様々な観点から捉えることが可能であり、最も有効な見方のひとつは、自己浄化をもたらす完璧な体系であるというものです。タパス、言い換えれば苦行では、自分の持つ習慣から生じる制限を克服し、自己を浄化するために、誓い、意志、忍耐を用います。パタンジャリは、「タパス(苦行)によって、肉体と感覚の不純物が破壊され、完成がもたらされる」(『ヨーガスートラ』第1章第43節)と述べています。
「タパス」という言葉の文字どおりの意味は、「熱」や「白熱光」です。インドの最も古い聖典であるヴェーダでは、ヨーギーは、タパスつまり自ら課した難題を実践する者という意味の tapasvin と呼ばれています。スルヤは、ヴェーダの中で神を表す名であり、太陽神を表します。ヴェーダによれば、スルヤは、タパスの最初の実践者であり、そしてヨーガの創始者であり、Hiranyagarbha(黄金の子宮あるいは太陽)と呼ばれます。『バガヴァッド・ギーター』では、太陽、つまりVivasvat がヨーガの最初の教師であると述べられています。古代のヨーギー、つまり tapavin は太陽崇拝者であり、古代のヨーガの名残は、ハタヨーガのどの教えにも見受けられる太陽礼拝に見て取れます。
パタンジャリは『ヨーガスートラ』の第3章第5節で「自らのありようが真我の純粋さと同じになった時、解脱が生じる」と言い、マインドが鏡のようにきれいになり、真我つまり純粋意識の本来の光輝を反射することができるようになった時、悟りが生じる、と述べています。
タパスは、「熱烈な修練」あるいは「苦行」を意味します。タパスは、真我実現のための熱烈な(長期にわたる)修練を表します。真我実現には、肉体、感情、マインドの生来の傾向を克服することが必然的に含まれます。肉体、感情、マインドに存在する抵抗のために、熱や痛みが副産物として生じることがありますが、これが目的ではありません。目的は、肉体、感情、マインドの支配と、意識がこれらの中に入り込みすぎることを克服することです。
『ヨーガスートラ』の第2章第1節で、パタンジャリはクリヤーヨーガを「タパス(熱烈な修練)、スヴァディヤーヤ(自己探究)、イーシュワラ・プラニダーナ(神への献身)」と定義しています。スートラの第1章第13節では、「この文脈において、(意識の揺らぎと一体になることをやめた状態に)留まるための努力が常修である」と述べ、我々の為すべきことを明確に説明しています。
タパスの三つの要素 意図・意志力・忍耐
タパスは、意図、つまり「あることに耽らない」と誓うことから始まります。これにはあらゆるものが含まれます。肉体的な楽しみ、食べ物、セックス、テレビ、瞑想中ならば不必要な動きなどです。意図を明確にすると、目標が設定されます。希望、あるいは将来行うというものではなく、今これを「私は行っている」という明確なメッセージを潜在意識に送るのです。期間はどれくらいでしょうか。これは誓いや意図によって異なります。例えば、瞑想であれば三十分とか六十分、沈黙や断食であれば一日、特定の食べ物、飲み物、活動であれば一カ月という具合です。
タパスの第二、第三の要素は、意志力と忍耐です。肉体的な力を養うスポーツ選手と同じで、tapasvin は、繰り返しそして規則的に意志を用い、徐々に意志力を養っていきます。まずは比較的短期間、欲望や反感を遠ざけることから始めます。多くの場合、ある執着、反感、あるいは「私はこの感情、感覚、思考」であるという感情や思考から引いて立ち、それを手放すことが含まれます。これは、「ヴァイラーギャ」つまり「無執着」と呼ばれます。これには、努力と意志力、そして相当な期間、常に繰り返すことが必要になります。遠ざけておく期間が徐々に長くなり、最後には完全に手放すようになります。しかし、完成された tapasvin は最終的には平静な状態へと到達し、欲望や反感の対象があろうがなかろうが、ただ楽しみます。このように、意図、努力、忍耐はタパスの重要な要素です。
喜びの追求そして消費主義的である現代のライフスタイルでは、何かを進んで慎む、控えるといったことは、大多数の人にとっては、不合理であり、今日の「良い生活」には合わないという印象を持つでしょう。こうした人々は、我々の内にあり、執着や反感に対する衝動を統御した時に見出される喜びを認識することができません。マインドは常に欲望や恐れのことを考え続けますが、こうしたものに対してほんの少し冷静さを発揮すれば、空の雲のように消えてなくなるのです。
『バガヴァッド・ギーター』(第17章第14節から16節)には、肉体の苦行、言葉の苦行、マインドの苦行という三種類のタパスが述べられています。肉体の苦行には、清潔、純潔、非暴力、礼儀正しさ、思いやりのある行動、献身的な活動が含まれます。言葉の苦行には、よく考えた後に、真実だけ、役に立つことだけ、必要なことだけを語ること、人の感情を害するようなことは言わないことが含まれます。また、神の名を唱えることを含めてもよいでしょう。マインドの苦行には、沈黙、落ち着き、集中、識別、思いやりのない思考を持たないことが含まれます。これらの苦行によって、愛、感謝、勇気、受容と関係する、内面を高揚させてくれる感情が養われます。
タパスは、見返りを期待せず、ヨーガを信頼して行わなければなりません。こうすることによって、悟りの前提条件となる平静さが養われます。成功であろうが失敗であろうが、損失であろうが獲得であろうが、快いものであろうが不快なものであろうが、暑かろうが寒かろうが、元気があろうが疲れていようが、その瞬間に存在するものを静かに受け入れます。こうして二元性を超え、合一へと至るのです。
タパスに励むことによって、強大なエネルギーと意志力が養われ、自分の人生を統御し、どのような障害でも乗り越えられるようになります。超意識の光が発達します。微細体だけではなく、最終的には肉体においても、太陽のように光を放射するようになります。すべての人に対する光、温かさ、愛の源になります。
10.サマーディ
ヨーガを研究し始めて間もない人は、たいていヨーガの究極の目的(幾つかある)が何なのかほとんど、あるいは全くわかっていません。現代においては、ヨーガがスーパーマーケットのようなものになっています。つまり、自分が探しているものを何でもそこで見つけることができるものです。肉体的なものであれ、感情的、メンタル的、知性的、霊的なものであれ、その時のその人の必要が動機となりがちです。今日、多くの場合、人はストレスの影響をコントロールする方法、あるいは心の安らぎを見出す方法を探しています。その方法というのは、たいてい、人生のストレスや緊張という不快な症状から一時的に解放してくれる「応急処置」的な方法です。
人は時々、誰かが「サマーディ」「真我実現」「悟り」のようなより高次の「霊的」目標について話しているのを耳にします。しかし、たいていは一般人がそうした高尚な状態に「達する」のは現実には不可能であるから、やってみる価値があるのだろうか、というような話し方をします。ゆえに究極の目的に関する説明は良くて曖昧であり、悪ければ抜け落ちています。ヨーガの究極の目的が何なのかについて明確に理解していなければ、ヨーガの実践者は必然的にそれを逃してしまいます。実践者がそれを垣間見た時でさえ、その価値がわからないでしょう。さらに悪い場合には、つかの間の霊的な体験を把持するべきもの、繰り返し求めるべきものと勘違いしてしまうかもしれません。
「サマーディ」とは人が考えないこと
この表現は字義的にはかなり正確です。なぜなら「サマーディ」は人が考えないことであり、マインドの沈黙を必然的に伴うからです。そういうわけで、サマーディについて語れば語るほど、サマーディから遠ざかるということもまた真なのです。「サマーディについて語る者はサマーディを知らず、サマーディを知る者はサマーディについて語らない」という格言があります。サマーディは思考の間にある空間です。それは物、対象ではありませんので、理解することはできません。すべての形態と概念を超えています。ですから、サマーディはひとつの体験ではなく、何も特別な体験はしない、自分は特別な存在ではないという準備ができた時に初めて、サマーディを知るのです。サマーディは主体であり、客体ではありません。サマーディを知ることはできませんが、サマーディ状態でいることはできます。この時、意識が、気づいているということがどのようなものであるのかということに気づいています。これこそ、「認識作用の没入」という言葉で表されることです。意識がそれ自身に入り込むのです。サマーディでは、肉体、感情、思考と自分とを一体化することがなくなります。エゴイズムは一時的に停止しています。
人間性の抵抗により、繰り返し通常の意識に引き戻されるので、サマーディは一般に安定しません。サンスカーラ、つまり潜在意識の浄化が十分に進み、肉体上、感情上、メンタル上で平静さが高度に保たれるようになるまで、これが続きます。長い間サンプラジュニャータ・サマーディという低次のサマーディに繰り返し入った後、ようやく、アサンプラジュニャータ、あるいはニルビカルパ・サマーディと呼ばれる高次のサマーディによって、人は悟りに至ります。悟りとは、サマーディ、あるいは真我実現が継続している状態と定義することができます。しかし、これさえも最終的な到達点ではありません。たいていは霊体に限定されているので、悟りを得た人や聖者が、病気の肉体や神経症的なマインドを有していることがあります。こうしたものを神に完全に明け渡して初めて、あるいは明け渡せば、賢者、シッダ、そしてマハー・シッダとなるのです。
三段階目のイニシエーションにおいて、比較的容易にサマーディ状態に入ることができる数種類のクリヤーを学びます。しかし、本当のサーダナはここから始まるのです。というのは、サマーディ状態を断続的なものではなく、継続的で安定したものにできるようにならなければならないからです。
サマーディへと導いてくれる信頼できる手引きを見つける
また別の問題は、現代世界においては、ヨーガと「自己成長」が、書籍やセミナーを通して巨大な産業となり、たいていは実証されていないか、あるいはつい最近できたばかりであるような競合する方法がたくさんある、ということです。どれが本物か、どうしたら判断できるのでしょうか。どの道がヨーガの究極の目標に導いてくれるのでしょうか。究極の目標とは何でしょうか。
こうした問いに答えるには、パタンジャリの『ヨーガスートラ』やティルムーラルの『ティルマンディラム』のような権威ある古典に立ち返ることが有効です。パタンジャリは、ヨーガの究極の目標を「サマーディ」「認識作用の没入」であると定義しています。第1章第17節で、一段階目のサマーディを「サンプラジュニャータ」と呼び、「対象志向的な没入には観察、内省、喜び、私は在るという純粋な状態が伴う」と述べています。通常の肉体意識においては、我々の気づきは、五感の注意の対象物に吸収されます。空想や思考している時には、我々の意識は思考や記憶、感情に吸収されます。この二つの場合には、我々は「気づいている者」に気づいていません。「認識作用の没入」においては、我々は「気づいている者」つまり観察者、純粋な主体に気づくようになるのです。注意の対象物は背後に退きます。真我、観察者が意識の前面に来るのです。我々は、思考や感覚、感情ではなく、観察者と一体になります。
通常の意識においては、五種類の「ヴリッティ」つまり意識内に生じる揺らぎである、正しい知識、誤解、思考、眠り、記憶と我々は一体になってしまう、とパタンジャリは第1章第6節で述べています。
サンプラジュニャータ・サマーディ
「サンプラジュニャータ」つまり区別の存在する没入には、四つの状態があります。これらは単なる「メンタル的な」揺らぎ、つまり「ヴリッティ」ではなく、主体と客体の融合からもたらされるものです。高次のサマーディである「アサンプラジュニャータ」サマーディとは異なり、支え、言い換えれば出発点となる物体や精妙な対象が存在します。これらは、最も崇高な霊的レベルも含めた自然界のものかもしれません。
まず、インド哲学に関わる最も伝統的な概念を説明したほうがよいでしょう。つまり、第1章第16節と第1章第24節で述べられている「プラクリティ(自然)」と「プルシャ(真我)」という言葉についてです。プラクリティは、プルシャ以外のすべてであり、ここには物質から精神的次元までの全宇宙が含まれます。完全に主体的である真我(私は在る)とは異なり、プラクリティは、客観的な現実であり、真我によって観察されるものです。これは、どんなにつかの間のものであっても、現実のものです。プルシャ、つまり真我は純粋な主体であり、意識の中心にあります。プルシャが意識を照らすのです。プルシャがなければ、マインドにも精神にも意識上の活動は起こりません。目には見えない電気がなければ、電灯は光を発しないのと同じです。プラクリティは、神秘的な状態、言葉では表せない状態の自然であり、またここから出現する多様な現れとしても存在しています。
プルシャを知るためには、まずプラクリティを理解しなければなりません。まず初めに、自然の様々な現れについて考えてみる必要があります。
1.ヴィタルカ:物質的な自然を構成要素の特徴まで分析し、観察すること。
サヴィタルカ・サマーディは、マインドが物体に集中している時に生じます。
物体に集中して没入する「トラダク・クリヤー」や五つの精妙な要素を用いたディヤーナ・クリヤーである「ヤーナ・インドリヤ」によって、この状態を知ることができます。
2.ヴィカーラ:物質的なものを用いず、精妙な性質に対して熟考することであり、これにより抽象的な真理を体験する。
サヴィチャーラ・サマーディは、マインドが抽象的なものに集中している時に生じます。
「真理」「愛」「叡智」のような抽象的概念に関するディヤーナ・クリヤーによって、この状態を知ることができます。
3.アーナンダ:純粋な喜び。外的な状況に左右されない喜びが、認識作用の没入によって生じます。
サーナンダ・サマーディは、物体も抽象概念もなく、喜びそのものが唯一の対象である時に生じます。
ババジのクリヤーヨーガの第二、第三段階のイニシエーションで伝授される「ニッティヤーナンダ・クリヤー」を行うことによって、この状態を知るようになります。
4.アースミター:私である。純粋な主体性。
サアースミター・サマーディは、我々が「私である」ということのみに気づいている時に生じます。しかし、サンスカーラ、つまり潜在意識の傾向が依然マインドの中に種子という形で存在していますので、刺激を受けると、現れる可能性があります。
ババジのクリヤーヨーガの第三段階のイニシエーションで伝授される様々な「サマーディ・クリヤー」を実践し、粗大なレベルから最も精妙なレベルまで内面深く入ることによって、プルシャをプラクリティから引き離すことができ、最初の段階のサマーディに関わる四つ状態を理解することができます。
アサンプラジュニャータ・サマーディ
第1章第18節でパタンジャリは「思考に対する無執着(内面の揺らぎに対する)を常に行うことによって、無執着という思考だけが潜在意識内の印象として残る。これがもうひとつのサマーディ、アサンプラジュニャータ・サマーディ(区別の存在しない)であり、前のもの(サンプラジュニャータ)の後に生じる」と述べています。ここではもう支えとなる対象は存在しません。これは、「プラクリティ」を理解した後、言い換えれば自然を四つの現れで「プラジュニャー(識別)」した後、つまり対象志向的な没入の後に生じます。様々な方法を用いて無執着の修練を常に、そして長期間行うことによってのみ、これら四つのものが停止します。「アサンプラジュニャータ(区別の存在しない)サマーディ」は、サンプラジュニャータ・サマーディの後に続き、長期にわたって、瞬間瞬間の無執着と真我認識を実践することによってのみ、可能となります。ゆえに最高の無執着がこれを達成するための手段になります。なぜなら対象物が集中の基礎になっている時には、この状態に達することができないからです。無執着に関する潜在的な印象だけが残ります。
第1章第20節でパタンジャリは「他の者(ヨーギー)にとって、このアサンプラジュニャータ・サマーディは、信念、記憶、認識作用の没入、識別によってもたらされる」と述べています。前の節で言及したヨーギーたち、アサンプラジュニャータ・サマーディに到達する前に肉体を離れたヨーギーたちと対照させて、この状態に到達するヨーギーは、次のことを養うことによって、その域に達すると言います。
シュラッダー:自分の能力、自分が行うサーダナあるいは方法、そして教師を信頼し、ヨーガを完全に信じること。
ヴィールヤ:そうした信頼から生じ、感情もサーダナの支えとなるような熱烈な献身さを生み出すエネルギー、熱意。
スムリティ:記憶。この記憶によって、人は世俗的な視点に戻らないように、常に自分の道、学んできた教訓を思い出し、注意を払っている状態に留まる。
サマーディ:規則的に、認識作用の没入を経験する。マインドの揺らぎや乱れのために安定はしないが、ヨーガのサーダナによって発展する。
プラジュニャー:識別、洞察。瞬間瞬間の研ぎ澄まされた真我認識によって、人生のでき事から洞察や手引きを得る。
霊的なエネルギーと力によって、注意力と用心深さがもたらされます。世俗的な視点に陥らないように、常に自らの道とこれまでに学んできた教訓を思い出します。この記憶によって、常に熟考した状態がもたらされます。
この熟考、言い換えればサマーディによって、真我とそうではないものとの識別が生じます。
「アサンプラジュニャータ・サマーディ」は、「サンプラジュニャータ・サマーディ」を繰り返し体験し、潜在意識の傾向が徐々になくなると、生じるでしょう。しかし、『スートラ』で述べられているような肯定的な傾向、つまり信念、熱意、用心深さ、識別、熟考を育むことによっても生じます。これらによって、理想的な状態が生み出され、古い傾向がなくなるのです。
熱意があり、専心する実践者にとって、これ(サマーディ)は近い(『スートラ』第1章第21節)。
サマーディ、つまり真我の体験を垣間見、マインドが内に集中し、至福で満たされることがあります。しかし、本当に大切なことは、これを長期にわたる安定した状態にするということです。そうするために、熱心に専心してサーダナに打ち込み、観察者の意識を養い、散漫な傾向から離れ、マインドと五感を常に内に向けなければなりません。集中と観察者の意識が、自然なものになり、そして継続するようになった時、この状態は熱烈な修練(テーヴラサーマヴェーガ)と呼ばれます。
自らの内なる存在の中でサマーディを垣間見た時には、その状態を外の人生に持ち込むことが賢明でしょう。『シヴァスートラ』には「世の中の至福は、サマーディの至福である」と書かれています。
(サマーディまでに)必要な時間は、修練が、弱いものか、中程度のものか、熱烈なものか、によって異なる(『スートラ』第1章第22節)。
弱い修練は、むらがあり、散発的なものであり、疑念に溢れ、浮き沈みがあり、人の注意を奪ってしまう乱れに満ちているものです。中程度のものは、熱心に打ち込む期間と、忘れっぽく、注意散漫で、否定的な思考や傾向に入り込んでしまう期間が交互に起こるものです。熱烈な修練は、真我を忘れないという決意、成功と失敗、喜びと苦しみの中でも平静さを維持するという決意を常に持ち、愛、自信、忍耐、他者に対する思いやりが増大するものです。自分の選んだ神を崇(あが)めたり、すべてのものに浸透している神を見ようと努めたり、現れ出る自らの欲望を超えようと努めると、修練は熱烈なものになります。出来事や状況がどんなに困難であろうが、マーヤー、つまり錯覚に満ちたドラマがいかに強かろうが、常に神性に目を向け続けるようになります。
修練を熱烈なものにするためには、ヨーガに徹底的に浸ることです。毎日、一歩前に進みます。すべてのものが神の計画の一部であり、人間の進化のために完璧に展開していると見るのです。神の計画に反するものは何もないと見ます。このことを忘れず、粘り強くやり続けるのです。
11.カイヴァリヤ 完全なる解放
ヨーガの最終目的は何か。パタンジャリは『ヨーガスートラ』の最終章である第4章で、この問題を詳しく述べ、それはカイヴァリヤであると述べています。ほとんどの注釈者、特にパタンジャリの哲学の二元性を強調する注釈者は、この言葉を「独存」と訳しています。悟った魂の最終目的は肉体から離れることであると結論づけています。ここでも霊と肉体の分離であり、精神世界に関する文献で何度となく述べられていることです。私は著書『パタンジャリとシッダのクリヤーヨーガスートラ』で、パタンジャリのクリヤーヨーガはプルシャ(意識、真我、見る者、主体)とプラクリティ(自然、見られるもの、客体)によるサーンキヤ哲学に基づいていると述べると同時に、またパタンジャリの哲学と理論は全般的にタントラ、特にシッダーンタの影響を受けていることも示しました。この新しい見解に基づけば、カイヴァリヤの意味を「絶対的自由」と取ることの方がより正確です。
カイヴァリヤが、古典ヨーガの目的であるので、この言葉の意味を明確に理解することが重要です。著名な学者であるゲオルグ・フォイヤーシュタインのように、ほとんどの注釈者は、パタンジャリが述べたカイヴァリヤ(独存)を達成するためには、アサンプラジュニャータ・サマーディとして知られる最高のサマーディに至った者は、この世を後にしなければならないという、かなりわびしい結論を下しています。
この結論はおそらく自然(外的世界)に対する偏見、特に、精神世界の伝統の全般、そして隠遁を奨励する伝統に行き渡った人間性に対する偏見に根ざしています。この偏見には、自然の法則は不変であり、それゆえこれを逃れる唯一の方法はこの世を離れることであるという思い込みがあります。悟った魂が、人間の乗り船である知性体、メンタル体、生気体、そして肉体さえも変容する偉大な潜在能力を備えていることを無視しています。シッダ、最近ではオーロビンド、さらにケン・ウィルバーのような現代の作家が、我々には人間の性質全体を変容する潜在能力があると断言しています。シッダの文献の中には、同様の言及が多く存在します。不幸にも最近まで、イニシエートの世界以外ではこれらの文献が無視されてきました。
パタンジャリは『スートラ』第1章第3節で、「見る者は、本来の姿(スヴァルーパ)に留まる」と述べています。つまり、個別の魂(ジーヴァ)が拡大し、真の性質あるいは形であるシヴァ、つまり最高の意識を帯びるのです。パタンジャリやシッダが述べているように、サマーディが徐々に完成し、これによって多くのレベルで根本的な変容が起こります。『スートラ』第4章第34節によれば、自然を構成するグナによってのみ突き動かされていた人間の性質は、高次の性質(スヴァルーパ)に取って代わられます。スヴァルーパという言葉は、字義的には、「本来の形、性質」という意味を表します。ティルムーラルや他のシッダたちは、しばしばスヴァルーパを「自ら発光する現れ」と言い表します。
『スートラ』第2章第25節でパタンジャリはカイヴァリヤを次のように定義しています。「この無知(アヴィディア)が消えると、そういった統合(サンヨーガ)は起こらなくなる。これが、見られるものからの絶対的自由(カイヴァリヤ)である」。第2章第5節でアヴィディアは「無知」と定義され、「無知は、非永遠を永遠、不純を純粋、苦痛を喜び、非真我を真我と見なすことである」と述べられています。第2章17節でサンヨーガについてパタンジャリは、「取り除かなければならない苦痛の原因は、見る者と見られるものの統合(サンヨーガ)である」と言っています。サンヨーガは、外の体験と真我とを同一視してしまう通常の意識状態と理解することもできます。例えば、我々が「私は疲れている」「私は心配している」「私はあれが欲しい」などと言う時、我々は、見る者と見られるものとの統合(サンヨーガ)を生み出してしまっているのです。
第4章第27節でパタンジャリは、このサンヨーガの状態から逃れる方法は意識内に起こるヴリッティ、つまり揺らぎやそれに伴うクレシャ、つまり苦痛との同一化を捨て去り続けることである、と述べています。そして『スートラ』第1章第12節では方法が説明されています。「継続的な修練と無執着によって、(意識の揺らぎとの同一視が)止む」。またパタンジャリは第2章第26節で「識別を伴う不断の洞察がそれを取り除くための方法である」と述べています。
シッダーンタという言葉は、シヴァ神を信仰する者(シヴァ派)にとって完全という最終目的を意味します。シッダとは、シッディ、つまり完全あるいは特別な力を体現した者のことです。「私は至高の存在である」とヴェーダを信奉する者は言い、「私は至高の存在になるだろう」とシヴァ派の者は言います。カイヴァリヤは最終到達点を意味すると同時に、また無限の可能性の始まりでもあります。絶対的自由の始まりと理解されるカイヴァリヤは、完全な自己放棄によってすべてのレベルに最高の存在を導き入れたシッダの状態そのものです。これによって、精神世界のほとんどの教えで言われるような、この世から離れる上昇的な進化だけではなく、すべてのレベルにおける総合的な発達が起こるのです。このすべてにおける変容のみが、「完全」という言葉に値します。病気の肉体、乱れたマインド、乱れた生気体に霊的目覚めが起こったとしても、それは完全ではありません。シッダが肉体を保持し続けるかどうかは、重要なことではありません。シッダが肉体に残り続けるのは、人間という種族に目覚めと変容をもたらすために道具として用い続けるためです。肉体を離れるとしても、それは肉体の衰えによってそうせざるを得ないからではありません。仏教における、すべての生きとし生ける者が自由を達成するまで、この世に戻り続けるという菩薩(ぼさつ)の誓いとは違って、シッダーンタを信奉する者は想像上のものでも、無価値なものでもないこの世を変容させるために献身するのです。この世は本質的に神聖なものです。この世は神の集合体の「縁」であり、我々を通して神が最高の潜在能力を実現させる場なのです。
ゆえに、第四章が最終章ではありません。我々が潜在能力を現し進化を遂げていくので、最終章はまだ誰にも書かれていないのです。
パタンジャリは第4章第2節で、人類が想像もつかないような可能性を秘めた新たな種へ進化する見込みと、さらにはその公算の大きさについて述べています。「自然に本来備わった大きな可能性(ゆえに)、新たな種への変容(が起こる)」
シッダが個人として達成したことは、我々ひとりひとりの目的、最終到達点、さらには全体としての目的、最終到達点ともなり得ます。人類が種全体として変容を遂げることが、霊的解放を扱う文献で述べられることは滅多にありません。オーロビンドやラーマリンガ・スワーミハルのような現代のシッダは、様々な手引きを提供しています。彼らの手本や教えに従うことによって、ヨーガの熱心な探求者は絶対的自由という目的へ進むことも可能です。完全な自己放棄と完全な変容への道を彼らは示してくれています。完全な自己放棄と完全な変容があって初めて、最高の潜在能力が実現されるのです。また、絶対的自由カイヴァリヤが実現されるのです。
12.人生というサーダナ
サーダナとは何でしょう。サーダナ(sadhana)という言葉は、サンスクリット語の、「ゴールや目標へ一直線に向かうこと、あるいは何かを成し遂げること、あるいは何かをマスターすること」という意味を表す saad という言葉に由来します。サーダナとは、真我を思い出す修練です。サーダナは、自己意識を肉体や思考、感情、経歴から切り離していく時に支えとなってくれる在り方、考え方、生き方と定義することができます。サーダナによって、自分は真我であるという気づきがもたらされます。
ババジのクリヤーヨーガは、「気づきを伴った行為」であり、自らの存在の真理を知るための手段です。クリヤーヨーガのサーダナは、「気づきを伴った行為」からなる日々の修練であり、この「気づきを伴った行為」には大きな可能性が秘められています。我々はただ喜んで参加しさえすればいいのです。我々は肉体、マインド、ハートを進んで自らの魂と調和させなければなりません。クリヤーヨーガは気晴らしではありません。クリヤーヨーガは神我(真我)に没頭することです。サーダナは、単なる百四十四の肉体的・精神的技法の、言い換えれば霊的修練の集合体ではありません。サーダナは、自らの全存在の生き方なのです。真理に仕えて生きるために、マインド、ハート、魂、そして意思が、浄化と完全への熱意の中で、エゴの欲望を放棄する中で調和します。真理に仕えて生きることによって、我々はヨーガから、より大きくより深い人生、外的環境の浮き沈みにほとんど影響されることのない人生を受け取ることができるのです。クリヤーヨーガは、人生を締め出すのではなく、人生と外に現れているもののすべてを、喜びをもたらすものも苦痛をもたらすものも抱きしめること、少なくとも受け入れることを我々に求めます。
クリヤーヨーガは、外の世界を神の外的な現れと見なし、サーダナのための場としてこれを利用します。
人は自らの人生を通して、自らの真理を知るようになります。サーダナは、自らが人生で得る経験の中に含まれています。人が自らのヨーガを最も容易に為すことができるのは、人生というこの体験の場においてです。人生という体験を通して、人は最も成長することができます。魂は人生体験から「本質」を引き出します。そしてこの本質、自らの外的存在が為す熱心な体験の本質によって、人は神意識に引きつけられる人格を築くのです。
クリヤーヨーガが提示する地図は、自己観察、自己浄化、自らの内にある神を実現するために、我々はこの世に暮らす、ということを示唆します。世の中からの解放ではなく、世の中での解放です。ゴールに到達するために、外的なものを放棄する必要はありません。なぜなら、執着、反感、欲望に試されるのは、世の中においてであるからです。真の放棄は、純粋さです。意識内での放棄、エゴの放擲(ほうてき)、つまりハートから「私」「私のもの」という感覚を捨て去ることです。真の放棄とは、世の中にありながら、利己的な思考、欲望、そして好みさえにも打ち勝っているという内なる状態なのです。
不完全な人格に出会わずして、どうして真理が明らかになるでしょうか。世の中にいると、執着や反感、欲望が現れます。自らをヨーギーと呼ぼうが、宗教家であると言おうが、世の中にいると様々な誘惑や苦しみ、教訓、導きに晒(さら)されます。サーダナによって、それらについての真理が明らかになります。世の中は喜びを感じる多くの愛も提供してくれます。美と驚きも提供してくれます。ヨーガのサーダナは、最悪の苦しみの中でさえ、人生のあらゆる瞬間の背後に存在する愛と驚きと美に目を向ける手助けになってくれます。
本質的に言えば、サーダナと呼ぶものと人生と呼ぶものを区別すべきではありません。行為のすべてを、ヨーガという神の火の中で変えられるように、差し出すことができるのです。そして、意識のすべても、同じ火の中で変えられるように、差し出すことができます。クリヤーヨーギーとして、最も誠実な道具としての役割を担い、そうすることによって、行為のすべてが内なる神から流れ出します。神の子として世の中で生きるために、このことが身につけるべき「気づき」なのです。
ここで私の体験をお話ししたいと思います。それは、これまで述べてきたことを、私に明らかにしてくれた体験でした。これは、私が、霊的な美と驚きを放射していた神の子と会っている時に起きました。外に現れる美は、たいていの場合、生気的な力と魅力が混ざったものであり、そこには霊的な力は全く含まれていません。生気的な性質の光は、明るく、白く、冷たいものです。この体験の時までに私は生気的な力と魅力が混ざった美を見たことがありました。しかし、霊的な美は、魅力的で優しく、肉体次元の美よりも他を変容させる力が強力なのです。肉体的には不格好だとしても、霊的な美しさを持った人物は人を引きつけます。
下半身不随でひどく痩(や)せ、体を支えるために助けが必要であるような二十歳ぐらいの少年をイメージしてください。自分では食事ができず、母親が車椅子から自分の膝の上に移動させ、一緒に食事している光景を想像してください。
インドのアシュラムに滞在していた十日間、毎朝私はこの二人が朝食を取るのを目にしました。私と同じぐらいの年齢の母親が、私の息子と同じぐらいの年齢の子供をまるで赤ちゃんのように扱い、抱いて食事を与えていました。まるで二人がこの世で最も素晴らしい秘密を持っているように、いつも二人の顔には優しい微笑がありました。私はこの二人に非常に魅せられたので、彼らと一緒に朝食が取れるように朝早く西側の食堂に行きました。私は彼らと同じテーブルに座りましたが、邪魔にならないように隣には座りませんでした。
この二人が互いに対して持っている愛と献身が周りの空間に溢れ出ていました。私はそれに浸ったのです。これは私にとって霊的な体験でした。まるで太陽の光を浴びているような、純粋な水晶のように透明な湖の輝きに浸っているようなものでした。この少年は、手足が痩せ細り、見た目は不格好で、また話す言葉も不明瞭で私の座っている所からは何を言っているのか理解できませんでしたが、彼には何か美しいもの、私を引きつけるもの、私を魅了するものがありました。毎朝、私は彼らと同じテーブルでできるだけ彼らの近くに座り、母親と息子が行うこの儀式を、横目で見ていました。私たちは話すことも挨拶を交わすこともありませんでした。少年も母親も私のほうを見ることはありませんでした。
アシュラム滞在の最終日、瞑想場所(マンディア)から戻ってくる時、まるで回れ右をしろと押されているように、右の肩越しに強い力を感じました。二重になった非常に美しい虹(ダブルレインボー)がマンディアの真上に掛かっていたのです。マンディアの一方で始まり、もう一方で終わっているように見えました。実際には二つの虹があり、別個の虹が上下にあったので、いわゆるダブルレインボー、つまり中央のオレンジ色の部分が伸びている虹ではありませんでした。明確に二つのものでした。私はこういったものを今までに見たことがありませんでした。私の45メートルぐらい後には、車椅子に乗った少年と母親がいました。彼らは、私が何かを見ているのに気づき、振り返りました。私たちはしばらくの間、虹に夢中になっていたに違いありません。というのは、気がついた時には、百人以上の人が私に背を向けて、空の奇跡に浸っていたからです。私が振り返り、荷造りのために自分の部屋に戻ろうとした時、少年が顔を私のほうに向けました。すると母親は車椅子ごと私のほうに向きを変え、それまでに、そしてそれ以後も見たことのないほど美しい微笑みに、私は捉えられたのです。今でもこの少年の美しさがはっきりと思い出されます。「霊的な美」から生じる純粋な水晶のような輝きが少年から出ていたのです。真の「美」はアーナンダ、つまり至福と喜びから生じるものであるということ、そしてこのアーナンダがこの少年の本質であるということを私ははっきりと理解しました。アーナンダは、神の光明、温かく、慰めとなる、魂の真の喜びの現れなのです。
13.質疑応答
問い:マントラの習練をする時、どうのように集中したらよいのでしょうか。
回答:マントラは意識のレベルを繋ぐ言葉なので、木に成長する種のように、意識が深く広くなるようなやり方で繰り返すことが重要なのです。通常の肉体レベルの意識では、我々の意識は、我々のアイデンティティーでさえ、五感を通して経験する現象に浸りきっています。我々は見たり、読んだり、聞いたり、肌で感じたりすることに心を奪われてしまっています。通常の夢の意識では、白昼夢も含めて、我々の意識は不安、欲望、判断といった記憶や想像に限定されてしまっています。ですから、マントラの効果を得るためには、音や発音だけでなく、マントラの意味や意図にも集中する必要があります。マントラの意味は、愛、放棄、力、英知、豊かさ、輝き、平和などを思い起こさせるバーヴァ(感情)として最もよく理解されるかもしれません。
マントラを伝授された時に感じた意識状態を思い出すことができれば、マントラの効果はさらに上がります。マントラは、本質的に意識の乗り物であり、我々に伝授された時の意識状態を思い起こさせてくれます。マントラの伝授は神聖な儀式であり、伝授する者と伝授される者の両方に十分な準備が必要です。例えば、マントラの伝授に先立ち、我々は沈黙の行を一日行い、ヨーガの修練を熱心に実践し、マントラヤグナの周りでチャンティングをします。これは稀有な機会です。ですから、マントラ伝授の前や最中に生み出した意識状態、つまり愛、純粋、平静を伴った広大な静けさとエネルギーを思い出すことです。
マントラ伝授の際に種が発芽します。それが後に、習練を通して植物のように成長していくのです。他の関心事を退けマントラに励む時、成長するのです。歩いていたり、乗り物に乗っていたり、あるいは交通量の少ない通り慣れた道を運転しているような、集中力をあまり必要としない日課を行っている時にマントラの習練をすることもできます。これは、我々から精神のエネルギーを奪う不安や取るに足らない思考といったものを取り除く助けにもなってくれます。
愛、英知、力、豊かさ、悟りなど何であれマントラが符合するものに対する熱意を持って習練を行えば、理想的な状態が生み出され、そういったものがメンタル次元から降り物質次元で顕現します。我々の生活は主として過去の思考、言葉、行動、つまりカルマの結果であるため、古い習慣的な思考をマントラで置き換えることによって、カルマの傾向が弱まり、消散します。しかし、この熱心さに焦りや期待や疑念があってはなりません。マントラの有効性への信頼と神の意思への全託が必要なのです。最高の志は「私の意思ではなく、神のご意思が為されることを」というものです。こうして、何を受け取ろうとも、それは神の意思のもとにあるものであり、人は「行為者」というエゴに基づいた幻想を克服していくのです。
生活上の難題に直面しマインドが乱れた時、マントラの習練は一種の慰め、つまり不安、悲しみ、動揺を鎮めてくれる役割を果たしてくれます。マインドがマントラの復唱に対抗する時でさえ、マントラは徐々にマインドのおしゃべりを弱めさせ、平静へと導いてくれます。
マインドを静め、集中力を高め、瞑想のウォーミングアップとなるものとして、マントラを瞑想の前に行うことができます。
意志を鍛えるために、時間を決めてその間ずっと唱え続けるか、あるいは決めた数だけ唱えるのがよいでしょう。しかし、注意を他のところに向けなければならない状況にある時には、完全な集中、あるいはそれに近い状態の集中が保てる状況になるまで、ひとまずマントラの習練は忘れたほうがよいでしょう。
問い:内なる意識と外なる意識の両方を最高のものにするために、どうバランスを取ればよいのでしょうか。
回答:「内なる意識」という言葉は、おそらく観察者の意識状態を表し、「外なる意識」は、おそらく目の前の仕事に集中すること、あるいは注意深い状態を表すでしょう。どちらの状態も重要であり、それぞれに時と場所があります。我々がヨーガで求めることはこれらのどちらか一方ではなく、「私は行為者」「私は肉体、マインド、個性」と感じさせるエゴの感覚を、マインドから浄化することです。
「内なる意識」はほとんどの霊的教えによって奨励されるものであり、現代の文化が勧める物質主義と快楽に基づいた通常の意識状態に、必要なバランスを与えてくれます。特に今日、我々は文化によって、より多くの経験をすればするほど、より幸せになれると信じ込まされます。しかし、これによって、我々は、常に内で経験する幸せを、外のもの、外の人、外の現象と混同してしまいます。瞑想や霊的な教えでは、まず初心者にスピードを落とすこと、単純に捉えること、内を向くことを教えます。気づき、光、平静、超越、喜び、安らぎを備えた静かな内面、自分の中心、霊、あるいは魂を見出せるように手助けします。
しかし、霊的次元の自分を発見することには、他の次元の自分、つまり物質次元、感情次元、メンタル次元、知性次元の自分を否定してしまう危険があります。特に、マーヤーヴァディン、つまり世の中を幻と見なす文化や教えにおいて危険があります。多くの場合、世の中を放棄することが奨励されます。これは、今日でさえ、アジアで広く行き渡っている教えであり、ルネッサンス以前の西洋でもそうでした。しかし、現代の物質主義的文化においては、こうした極端なものに引きつけられる人は少数です。西洋で瞑想を行っている人の大多数は、日常生活のストレスを軽減するための手段、良くて、通常は無視されている霊的な特質を育むための手段として瞑想を行います。
しかし、霊的な特質に内在している喜びと幸せが、いつか日常生活の中にも溢れ始めます。広大な静けさ、そして安らぎを感じ、物事をありのままに受け入れるようになります。日課をこなしている時にも、困難な経験をしている時にも感じるようになります。しかし、まだ古い習慣、つまりサンスカーラに基づいて機能していますので、これらが十分に弱まり、サットヴァ、言い換えれば叡智に基づいた傾向に置き換わるまで、静かで安らいだ状態は、日常生活の出来事にのみ込まれてしまいます。
ですから、「内なる意識」と「外なる意識」のバランスをどのように取ればよいのかという問いに対する答えは、「静かに活動的で、活動的で静かである」というものになります。ヨーガの技法のほとんどの目的は、この中間の道を取れるようになることです。つまりバランス、光、気づき、安らぎ、静けさ、知性で特徴づけられるサットヴァを養うことです。ヨーガの修練が深く大きなものになると、日常生活においてもサットヴァが拡大します。しかし、人間の性質は非常に習慣的なものなので、ヨーガのサーダナを規則正しく、辛抱強く、粘り強く行わなければなりません。また、落とし穴や障害物を認識し、それらを越えることができるように「道を示す地図」あるいはヨーガの聖典から情報を得る必要もあります。障害物とは、病気、精神的不活発、疑念、不注意、怠惰、対象への耽溺、誤った知覚、確固とした基盤を確立することができないこと、不安定(ヨーガスートラ第1章第30節)です。サーダナによってサンスカーラが弱まり、習慣的に反応するのではなく、意識的に行動することができるようになります。
その場に在ることによって、気づきが生じ、気づきがある時、至福も生じます。実在、意識、至福の状態にある時、行為のすべてが、エゴの妨げを受けることなく行われます。ひとつの道具として巧みに行為を為し、結果に執着しません。喜びは、独立したものであり、行為が望まれた結果、予想された結果を生み出そうが生み出すまいが、左右されません。
まずは、日々の雑用を行っている時に観察者の状態でいる練習をします。つまり食器を洗っている時、部屋を掃除している時、歩いている時、食べている時、風呂に入っている時、最初から最後まで意識して行うのです。観察者の状態がより安定してくるにつれて、今度はもっと集中力、注意を必要とする活動をしている時、つまり、何かを修理している時、買い物をしている時、電話で誰かと話をしている時などに観察者の状態を思い出します。さらに、その状態がより強固なものになった時には、読書をしている時など、さらに注意力を必要とする活動をしている時に、観察者の状態を養います。こうした活動の時でさえ、意識の一部が、「内なる意識」の状態で観察者として留まり、意識の他の部分は、関わっている仕事や問題に集中することができます(「外なる意識」)。もしも「外なる意識」を非常に必要とするような難しい活動に、自分の時間のほとんどを取られているのなら、もっと単純にする方法を探すことです。そうすれば、「内なる意識」を養うことのできる娯楽にもっと時間を割くことができます。
なぜこれが重要なのでしょうか。私はこれを「意識のゲーム」と呼びたいと思います。そのゲームをする時、言い換えればその場に存在して、気づいている状態である練習をする時、つまり観察者でいる時には、必ず至福が生じます。これは保証します。そして観察者でいることを忘れると、必ず苦痛が生じます。自動的にそうなります。これは簡単に試してみることができます。気づきは、人生でいつでも勝てる唯一のゲームです。他のゲームでは、最後には負けます。なぜなら実在・意識・至福のみが永遠で無限なものだからです。他のものはすべて時と空間に限定され、ゆえにはかないものなのです。
問い:アドヴァイタ・ヴェーダンタでは、真我だけを意識します。ババジのクリヤーヨーガでは、なぜ他のものを意識するのですか。
回答:インドには六つの主要な哲学があります。この中に、一元論の「アドヴァイタ・ヴェーダンタ」と、ヨーガの基礎となるサーンキヤがあります。アドヴァイタ・ヴェーダンタの目的は、霊体の中に在り永遠の存在である真我を悟ることです。他のすべては、邪魔物とは言わないまでも、外に見える幻想だと捉えます。これに対して「シヴァを知る者の最終的、完全な真理」を意味するシャイヴァ・シッダーンタは、ババジのクリヤーヨーガの元祖であるタミル・ヨーガ・シッダが実際的なヨーガの行法に具現化させたものを表します。シッダーンタでは、世の中を幻想、マーヤーとは捉えません。無知のために、マインドは幻想に陥るかもしれませんが、それによって世の中の客観的現実が変わることはありません。自分の性質も含めて世の中を理解し、シッダは、存在の五つの次元のすべて、つまり肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体のすべてで潜在能力のすべてを発達させることができたのです。
シャイヴァ・シッダーンタはヴェーダンタが終わったところから始まる、と現代においてシッダの教えを代表する人物のひとりであったヨーギー・ラマイアは、サットグル・ババジ・ナーガラージのインスピレーションを受けて言いました。シッダの教えは、「タミル・ヨーガ・シッダーンタ」として知られ、我々はこの教えに属しています。霊体との合一を成し遂げた後、タミル・ヨーガ・シッダは、最終的な真理は、霊体、知性体、メンタル体、生気体、肉体のすべてにおいて自らを明け渡すことである、ということを悟りました。シッダは、五つの体のすべてにおいて人間の性質を統御できるようにクリヤー(技法)を開発しました。霊体で神を実現すると、人は「聖者」、つまり神を知る者、知性体で神を実現すると、「賢者」つまりいかなる分野においても直観によって知識に到達できる人物、メンタル体で神を実現すると、シッダつまり研ぎ澄まされた五感、透視、透聴などのヨーガの奇跡的な能力「シッディ」を持つ人物と呼ばれます。そしてエゴを神意識に生気体で明け渡すと、物質化、非物質化、物質を支配するマインド、思いの実現、原子のレベルや宇宙規模で本質を知る力を持つ、さらに偉大なシッダが現れます。さらに、これは非常に稀なケースですが、ババジやババジのグルであるアガスティアやボーガナタルのような「マハーシッダ」の場合には、肉体の細胞の意識も神意識に明け渡されており、これによって神と同じ永遠の存在になります。いかに霊的に高いレベルに到達しようが、悟りを得ても肉体が病気なのであれば、完璧、シッディ(成就)であるとは考えられません。
実際問題として、我々の存在の最も崇高な部分である真我にだけ霊体のレベルで集中しようとすることは、確かに最も直接的な手段です。しかし、それができる根気や意志力を持ち合わせている人はほとんどいません。低位の性質が非常に強力なのです。ですから、シッダは、低位の性質を克服する手助けとなるように実際的な技法、クリヤーを開発したのです。パタンジャリのようなシッダは、サマーディに到達するために必要となる純粋さ、肉体的・精神的落ち着き、集中力、感覚器官の制御を徐々に育んでいけるように段階的な方法を開発しました。こうした方法を用いずに霊体で直接サマーディに到達しようとすると、たいてい肉体、生気体、メンタル体、知性体からの抵抗に圧倒されてしまいます。
また、マインド、生気体、肉体を統御する力を養うことによって、我々はこの世でより完全な神の道具となることができるのです。天国、あるいはこの世から解放されることを求めるのではなく、ババジのようなシッダは、この世に生きるすべての存在の進化を手助けするために自らを捧げたのです。
問い:ババジのクリヤーヨーガとヨガナンダやその後継者のクリヤーヨーガとはどのように異なるのでしょうか。
回答:ヨガナンダは、非友好的な場所にヨーガを紹介する先駆者として非常に困難な状況に出くわしました。キリスト教原理主義的な文化は、ヨーガに対して全く無知であり、懐疑的で、恐れさえも抱きました。1920年から1925年まで、アメリカに来てから最初の五年間、アメリカで最も進歩的な土地のひとつであったケンブリッジの北、マサチューセッツ州のアーリントンにヨガナンダは住んでいました。ヨガナンダは自らが学んだように、ヨーガやインドの霊的教えを伝えようとしました。しかし興味を示す人々はほんのわずかでした。ヨガナンダは、自分の使命は西洋のたくさんの人々に伝えることである、と感じていたので、髪の毛を切り、特別な場合以外は黄土色の服を着ることをやめ、自分の使う語彙(ごい)や教義をヒンドゥー教のものからキリスト教のものに変えました。アメリカを講演して回るために、主要な後援者であったルイス博士に1万ドルの援助を求めました。これは人生における岐路であり、ヨガナンダはクリヤーヨーガの教えをシンプルなものにし始めました。ポーズを削除し、瞑想は単純なもの二つ、「オーム」と「ホン・ソウ」という音を用いるものに集中し、クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマは非常に単純なものにしました。原理主義的なキリスト教徒の気持ちを害さないように「ヴァー・シー」は「アー・イー」になりました。原理主義的なキリスト教徒は、「シヴァ」の名を繰り返すことを冒涜だと感じる可能性があったのです。こうして、一時間かからずに講堂に座った1千人の人々にまとめてイニシエーションを施すことができたのです。二段階目のイニシエーションに関しては、比較的少数の人々だけに、チャクラ・マントラへの瞑想が与えられました。またヨガナンダは、たいてい動きのない状態で様々な筋肉の部位を緊張させる「活力増進」運動も奨励しました。これは、伝統的な技法を変形させたものでしたが、これによって多くの西洋人たちはハタヨーガを行わなくても健康を保てるようになりました。1920年代から1930年代には、民族の違いに関する様々な理論があり、西洋人の体はヨーガのアーサナ(ポーズ)には向いていないので、アーサナを行うことはできない、と60年代まで一般に信じられていたのです。
しかし、ヨガナンダの大きな貢献には、大勢の人々をヨーガの道に導いたこと以外にも、霊的な著作があります。これらのほとんどは書籍として出版されています。SRFのイニシエーションを受ける前に必ず読まなければならない通信講座は、これらからの抜粋です。この講座は、いかに生きるべきかということに対して、すばらしい手引きとなります。ヨガナンダは「アファメーション」の使用を強調しました。アファメーションは、より現代的な「自己催眠」や「神経言語プログラミング」のように、潜在意識に深く根づいたものを変えるために用いられます。
ヨガナンダの個人としての宗教的態度は、「母なる神」に向かうというものでしたが、我々の文化では神は「男性」としてのみ表されますので、このことは強調せず、キリスト教の教義と献身的な修練を、ヨガナンダは文章を書く時の中心に置きました。ヨガナンダが組織立てた儀式は、特に賛美歌、祈り、イエスへ向けられた歌を持つプロテスタント系の教会が行う儀式に沿うものでした。ヨガナンダは、西洋のキリスト教徒と東洋のヨーガの融合の支えとなるように、新約聖書からの引用を適切に解釈し、我々に「キリスト意識」に至ることを求めました。ヨガナンダは、ババジやクリヤーヨーガの起源、自らの使命については、1946年に『あるヨギの自叙伝』の初版が発売されるまで明らかにしませんでした。
ヨガナンダはこの世を去る時にも、西洋の宗教様式に忠実なままでした。自らの使命を組織であるSRFに引き継がせ、SRFにはもう「グル」は存在しない、通信講座がその役割を果たす、と言いました。
SRFはヨガナンダの教えを熱心に守ってきました。SRFは、主に出版物、三年間に及ぶ週に一度の通信講座、SRFの僧が遠くの都市に出かけて行う講義や一時間ほどのイニシエーションを通して、教えを広めています。SRFはまた嫉妬深い組織でもあります。アーナンダ・チャーチ・オブ・セルフリアライゼーションが、ヨガナンダの著作や写真を販売し始めた時、一千万ドル以上の裁判費用をかけて、ライバルを潰(つぶ)そうとしたのです。SRFは今では自分たちのことをひとつの宗教だと言い切り、信者には他の霊的な教えに関する本を読んだり、他の教師や教えに従わないように警告しています。ヨガナンダの教えにあまりにも固執してしまっているため、SRFのレッスンでは取り扱われていないことに関して疑問が生じたとしても、「重要ではない」として退けられてしまうのです。
読者のみなさんは、これらのことと「ババジのクリヤーヨーガ」の五つの道を比較することができます。ババジのクリヤーヨーガでは、アーサナ、クリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマ、様々なディヤーナ・クリヤー、マントラ、バクディヨーガに重点が置かれます。ババジのクリヤーヨーガは、百四十四のクリヤーつまり技法からなる複雑で緻密なシステムであり、人間の存在次元の五つ、つまり肉体、生気体、メンタル体、知性体、霊体のすべてを包含しています。これには段階を追って行われる何年にもわたる訓練が必要です。
我々はクリヤーヨーガの実践者のために崇拝すべき神を選ぶのではなく、各々が自分のハートに従うことを奨励します。ババジのクリヤーヨーガは世の中にあるすべての宗教の実際的な面を表します。ババジのクリヤーヨーガは、特定の信念体系を持つ宗教ではありません。ババジのクリヤーヨーガは、科学的な技法であり、修練と技術を必要とするものであり、科学と同様でその結果は常に同じものになります。ババジのクリヤーヨーガは、他の信念体系は避けなさい、と実践者に言うような信念体系ではありません。ババジのクリヤーヨーガの実践者はあらゆるものに神と真我実現を求めて構いません。ヨガナンダ自身も数名のグルからクリヤーヨーガを学び、また『あるヨギの自叙伝』に書かれているようにたくさんの人々から刺激を受けました。
インドの霊的教えでは常にそうであるように、情熱は魂から魂へ受け継がれるのであって、組織からではありません。インドでは、世代から世代へと霊的真理を伝達することを確実にしているのは聖典とグルであり、歴史的に見ると、これは大部分、正式な組織なしで行われます。西洋では、宗教は組織によって、つまり信者の興味よりも組織の成長と存続を優先させる組織によってコントロールされます。アブラハム系統の宗教は、恐れが基盤となっており、信者は、自分たちを地獄から救ってくれる組織や宗教に属することを多くの場合好みます。しかし、近年、東洋の教えの影響により、西洋での「組織化された宗教」への執着はだいぶ弱まっています。ますます多くの人々が、自分のことを敬虔というよりも「霊的」である、と言うようになっており、特定の組織に属さずにあらゆる教えからインスピレーションを受けています。
インドでは、信念体系はマインドを構成するものとして捉えられ、霊的探究の出発点でしかありません。神の恵みも求められますが、カルマと個人の努力によって運命が決まります。ある組織を信奉したから、あるいはある宗教や哲学を信じたから悟りを得ることができた、こういう人物はいないと言って差し支えないでしょう。現代のあるインド人のグルが「父と祖父が悟りを得たので、私もその『血筋によって』悟りを得た」と言っているのと同じぐらい強引なことです。
書籍や文章では知性の範囲を超えることはできません。言葉や書籍は我々を分け隔てる傾向があります。ですから、ババジのクリヤーヨーガでは、五つの部門からなる「ヨーガのサーダナ」を実践することが強調されます。ヨーガのサーダナによって、その場に在ること、真我実現を思い出すことができるのです。ババジのクリヤーヨーガは、霊体だけではなく、肉体、生気体、メンタル体、知性体においても個人を変容させるバランスの取れた道です。
ババジはこの教えの中心にいます。グル・タットヴァ、つまりグルの原理は、真理、無条件の愛、叡智を明らかにしてくれるものであり、ババジと、そしてババジが古(いにしえ)の秘教の統合体として発展させたクリヤーヨーガを通して現れます。ババジはこの教えの生ける源であり、手本とインスピレーションによって我々を導きます。ババジはこの教えの唯一のグルです。SRFはババジをグルのひとりと見なしますが、SRFの文献にはババジに関する記述がほとんどありません。ババジは、もはや肉体を持たず、我々から離れた存在であり、接触することができず、我々を指導することもない歴史上の人物と見なされています。
SRFは会員資格が必要なキリスト教の教会です。自分たちのことをひとつの宗教だと言っています。「キリスト」を、クリヤーヨーガの実践によって到達すべき意識状態であると解釈します。SRFの考えによれば、こうして人は「救われる」のです。キリスト教の教会と同じように、宗教的な儀式を行い、教えはSRFの僧によって広められます。信者が他の教師や組織から教えを受けることを禁止しています。
ババジのクリヤーヨーガのイニシエートは、あらゆる教えからインスピレーションを受けて構いません。会員にならなければならない組織はありません。イニシエートとババジとの関係は、完全に個人的なものです。ババジのクリヤーヨーガは、自ら進んで奉仕するイニシエートたちのネットワークによって広められます。ババジのクリヤー・ハタヨーガと基本的な呼吸法、瞑想法、ヨーガ哲学を教えるための訓練を受ける人もいますし、さらに進んだ生徒は、Babaji’s Kriya Yoga Order of Acharyas という在家の教師からなる小規模の集団に招かれることもあります。厳格な条件を満たした後、ババジのクリヤーヨーガのクリヤー・クンダリニー・プラーナーヤーマと瞑想法を伝授する資格が与えられ、さらにその後にマントラや百四十四のクリヤーを伝授するようになる人もいます。
ババジのクリヤーヨーガでは問いは奨励されます。疑うためではなく、疑いを真我実現への踏み台に変えるための建設的な方法として奨励されます。ババジのクリヤーヨーガは、生ける、口頭による教えであり、実践する者のハートと経験において成長するのです。ババジのクリヤーヨーガは、書籍、指導者たちの物語、組織という形態の中に閉じ込められるものではありません。
ババジのクリヤーヨーガは、『ティルマンディラム』のような、十八人のタミル・ヨーガ・シッダの教えやインドの「サナタナ・ダルマ」「永遠の宗教」にインスピレーションを与えられます。しかし、シッダは、神は寺院や複雑な儀式だけではなく、無知、欲望、エゴイズムのヴェールを剥(は)ぎ取ることによって、自らのハートに見出すことができる、と強調しました。すべての人がババジのクリヤーヨーガを学び、神を実現し、五つの存在のすべてにおいて永遠の安らぎと喜びを享受できますように。
用語
マインド(世の中や自らの体験を認識し、思考し、感じる部分)
真我(本来の自分・永遠の存在としての自分)
カルマ(行為とその結果。自分の行いが自分に返ってくるという考え)
ヨーガ・シッダ(完全な状態に到達した存在)
アファメーション(肯定的な言葉を繰り返し、潜在意識に根づいた否定的な思考を取り除くこと)
サンスカーラ(潜在意識に蓄積された印象・癖)
生気体(肉体にエネルギーを送る体。個性・欲望・感情に支配されている)
メンタル体(五感を通しての知覚、物事に対する思考の反応、話すという行為による考えの表明を行う体)
知性体(識別力をもち、インスピレーションを受け取る理性と分析の体)
マントラ(聖なる音の塊)
霊体(個人と真我とを繋ぐ至福の体)
アーサナ(坐方、つまりヨーガの一連のポーズ)
グル(教師、師匠)
シャクティ(エネルギー、力、女性原理)
サマーディ(マインドが対象物に完全に集中している状態。あるいはマインドが機能を停止し、純粋意識だけがある状態)
クリシュナ(ヴィシュヌ神と一体視されるインド神話に登場する神)
シヴァ(ヨーガの創始者。至高の存在。ヒンドゥー教の三神のひとつ)
クンダリニー(人間の持つ潜在的な力と意識。脊柱の基底部にあるチャクラ、つまりムーラーダーラに存在している)
ハタヨーガ(肉体の浄化を扱うヨーガ。ポーズ、バンダ、ムドラ)
著作権について
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2026年4月26日 発行 初版
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