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閉鎖病棟の四季
長い入院を経て、今もどこかで生きているはずの、あなたへ贈るための手紙。
私たちなら、大丈夫だよ。きっとこれから先も。
春 小麦色の誓い
夏 しょっぱいアイス
秋 セピア色のパレット
冬 雪解けロボット
小麦色の誓い
「本来の春の色は深いネイビーなのかもしれない」
看護学校で出会った友人と久しぶりにお茶した時、私がそう呟いた。
友人は一瞬言葉を詰まらせたあと、納得したように頷き言った。
「朝倉、真面目に仕事しすぎだよ。もっと肩の力抜かないと、患者に吸い取られるよ?」
「真面目一直線なのが、今まで取り柄だったのよ」
「でもそれ、この世界で生きてくの、苦しくなるって、うちら知ってるはずだよ」
生きること、死ぬこと。
病院勤務の私たちには日常茶飯事に起こる身近なことだ。
四月に精神科病棟へ配属された時、私は希望に燃えていた。
患者の正義のヒーローになれるんだと信じていた。
しかし。
待っていたのは深いネイビー。
普段はとても静かな沈黙の病棟。
それを破くかのように、叫ぶ患者の怒り。
暴れる患者を力で抑え込み、場をしのぐ看護士。
何かの影に怯えてすすり泣く声や、行き場を失った停滞した願いが夜の深海を思わせる。
窓のない病棟に溜まっていくブルーは、通勤時にみる快晴の青空と比べ物にならない、深く悲しい残酷な色だった。
今日も白いナース服に袖を通す。
少し赤みを帯びた腕をみて、何日も日焼け止めすら、塗るのを忘れていたのに気づく。
ああ、焼けちゃったな。
昔は赤くなったら皮が剥けて白く戻っていた肌も、最近は色素沈着するようになっていた。
こんなの患者の悩みに比べたら些細なことだけど。
私の初めての担当患者は、白川彩乃さんという。
ここの病棟では、みんな彼女を「彩さん」と呼んでいた。
彩さんは統合失調症の陽性症状がひどく、入院した当初は五感すべてに幻覚症状が現れていた。
視界にはいないはずの虫が映り、耳には知人からの悪口が届き、食事を食べれば舌がピリピリ痛み、これは苦くて臭い、毒の味がすると叫んだ。
私が配属された四月には、すでに落ち着いていたので、前任の担当看護士に情報共有されて知ったことである。
初めて耳にした時、驚いてしまった。
五感すべてに幻覚症状が出ているって、どのくらいの恐怖なのだろう。本物の幽霊よりも怖いかもしれない。
私より三つ年上の彩さんに、担当になったことを告げると、曇った目の色で「よろしくお願いします」と事務的に返答された。
陽性症状の次は、陰性症状がでていて、彼女は表情が乏しくロボットのようだった。
「何か好きなことあるんですか?」
できるだけ優しい笑顔で尋ねる。
少し話題を広げようとして、慎重に言葉を選んだつもりだった。
彩さんは一瞬目を輝かせて言った。
「絵が好きです。・・・あ、でも、もう描けないかもしれない」
そう言ってまた不安そうに目を伏せてしまった。
心を通わせるって難しい。
患者のヒーローになるなんて、おこがましい浅はかな希望だったのだ。
患者に執拗に怒鳴られ、心が悲鳴をあげていた。
トイレの個室に隠れて泣いていると、香織ちゃんの声がした。
「もしかして、朝倉さん?」
ぎくり、とする。
先程の患者とのトラブルを香織ちゃんも目撃していたのだ。
泣きたくて仕方なくて、一番近くにあった患者も使えるトイレに入ってしまったのが失敗だった。
「ごめんね、バレちゃったか。看護士失格だよ、私」
香織ちゃんは高校生の可愛らしい女の子で、心を許して話せる患者だった。
年下ってだけで、なんか安心するんだよなあ。ここには、年上・・・年配の人が多すぎる。
私はトイレから出て泣き腫らした目を無理やり細めて笑った。
香織ちゃんは首を振った。
「無理に笑わなくていいんだよ。ここの病棟には、涙がよく似合うんだから」
「・・・優しいね」
年下とは思えない深みのある言葉だった。
ごめん、香織ちゃん。さっき年下だからって、ちょっと舐めていたかもしれない。
「香織は朝倉さんのこと、好きだよ。外の世界を教えてくれる少し日焼けしたこの腕。太陽の匂いがついていて、希望みたいに映ってるの」
「えっ、太陽の匂い?」
私は意外すぎる言葉に目を丸くした。
この腕が希望?少なくとも香織ちゃんにとっての光なのだとしたら。
日焼け止めを塗らないで良かったなんて、初めて考えた。
そんな世界線があるなんて、私は知りもしなかった
私の世界がぐるんとひっくり返る音がした。
ネイビーに染まる病棟に、小麦色の肌を連れてくる看護士の私。
鬱屈とした日常への細やかな抵抗であり、外を知らない患者へのエールでもある。
私は真夏の強い日差しを胸に描く。私は憎いと思っていた紫外線を受け入れる。私にもキラキラとした希望の光に見えたから。
しょっぱいアイス
この病室には、向日葵も、太陽のギラつきも、受験に向かって死に物狂いで勉強する香織もいない。何もかも無い。ここには季節という概念さえも無い。
もしあるというのであれば、新人の看護士の朝倉さんの腕が、美味しそうな小麦色に変わったことくらいだ。
何もないかわりに時間だけはたっぷりあった。
あまりに退屈なので、二時間おきに寝ることで時間をショートカットすることを覚えた。一回の昼寝はだいたい三十分くらいだ。
そんなに長い時間ではないが、この病棟での三十分は、永遠のような長さなのだ。
短い廊下を何度も往復して歩いても、頑張って五分しか経過していない。
疲れのほうが先にきてしまう。
休憩ルームに移動して、他の患者さんと話しても十分くらいが限界だ。
お互い心を病んでる身なので、話題には神経を削るし、反応もイマイチなことが多くて楽しい会話ではなかった。
未成年の香織は、この病棟で一番若い患者だった。そして、この病棟の主でもあった。
香織は誰よりも長くここに入院している。
誰かを見送るのは正直飽きてしまった。
最初のうちは素直におめでとうと思えたのだ。
そして、次は香織の番かもしれないと、希望を胸に抱いたりして。
でも、もう一年も経っても香織の番はこなかった。
大好きだった岬ちゃんが退院してからも、半年くらい経つ。
あれは桜が咲く少し前だった。
「このハンドクリーム良かったら使わない?あたしのお古で申し訳ないけど」
退院する日、岬ちゃんはそう言って、香織に譲ってくれた。
岬ちゃんは美容関係のお仕事をしていて、職場で受けた陰湿なイジメが原因で鬱になり、ここへ来たと言っていた。
どんなに心が壊れても、岬ちゃんはいつもこのハンドクリームをお守りのように、優しく手をマッサージしながら塗っていた。
興味津々でそれをみていると。岬ちゃんは香織にもハンドクリームを塗ってくれた。手のツボを優しく押しながら、まるで心までほぐすかのように。
そんな思い出のつまったハンドクリームを譲ってもらえたのは、とても嬉しかった。
会えなくなる寂しさを、少し埋めてくれる感じがした。
「香織ちゃんは賢いし未来もあるから、きっと大丈夫だよ。何にでもなれるよ」
「岬ちゃんだってそうだよ」
「あたしも?うーん、もうあんなにキラキラしたところ、戻れる気がしないよ」
弱音を吐く岬ちゃんの手を、香織はぎゅっと握った。
「こんなに優しい手、してるんだもん。大丈夫だよ。もし大丈夫じゃなかったら、香織が神様に怒ってあげるよ」
少し泣きそうな目で香織を見つめた岬ちゃんは、その二週間後に退院して外の世界へ帰っていった。
残された香織は、あの夜誰にも聞こえないように、静かに泣いた。
岬ちゃんと入れ替わるように入院してきたのは、彩さんだった。
香織は本能的に察していた。彼女もまた、香織を置いて退院するのだろう。
彩さんは落ち着きのある二十代半ばのお姉さんだった。
岬ちゃんより少し年上。
でも、岬ちゃんがいない今、香織と一番歳が近いのは彩さんだった。
彩さんは回復力が凄まじく、この病棟には珍しく意欲的な人だった。
絵を描くらしく、下手になるのが怖いと言って、看護士さんを捕まえては、似顔絵を描いていた。
新人看護士の朝倉さんが、彩さんのことを心配していた。
「完璧主義で生きてると、辛いことも多いのよね」と。
「香織にもわかる気がするよ」
分厚い赤本と、訂正された赤ペンのコメントを思い出し、ぞっと身震いした。
赤は受験戦争に挫折した香織にとって、トラウマな色だ。
本当はもっと早く退院できるはずだった。でも、赤をみると香織は過呼吸を起こしてしまうのだ。苦しくて、もがいて、震える手で薬に手を伸ばす。
朝倉さんが青ざめた顔で、香織の背中をさする。
気づけば病室で三時間も寝ていたらしい。少し元気になったかもしれない。
休憩ルームにいくと、彩さんがいて、にこっと笑いかけてくれた。
今年は桜が見れないまま終わりそうだねと、ラジオの満開のニュースを聞きながら話す。
彩さんは少し虚ろな目をしていた。
今日は疲れているのかな。
香織はすぐに話題を変えることにした。
「香織さ、退院したら、いっぱいアイスクリーム食べたいの」
その時、彩さんの目に少し光が戻った気がした。
世間ではゴールデンウィークと呼ばれる時期に、彩さんは退院した。
「香織ちゃんが夏までに退院して大好きなアイス食べれるといいなって思って、向日葵の絵を描いてみたの。向日葵って、夏の代表って感じするじゃない?」
そう言って渡してくれた彩さんの向日葵は、ボールペンで描かれた線画の状態だった。
「なんか、ぬりえみたいなイラストだね」
私がぽつりと言うと、ぱあっと彩さんの目が輝いた。
「そうなの!伝わってくれて、嬉しい」
「えっ?どういうこと?」
香織は面食らって首を傾げた。
「香織ちゃんは、これから好きな色で未来を塗っていけるの。まだ何色でもない香織ちゃんだからこそ、できることがあるの」
完璧主義という白黒の世界で生きているような彩さんが、グラデーションを覚えたんだなと悟った。
「まだ何色でもない、か」
トラウマになった赤。
私はてっきり心を赤くずたずたに塗り潰されたと思っていた。
でも、確かに彩さんの言う通りかもしれない。
私は香織。まだ、それ以外の属性を持ち合わせていない。
進路なんてありもしない。だからこそ、限りなく澄んだ色なのだ。
香織は八月末に退院できることになった。
長かった。本当に、長かった。
でも、これで念願のアイスが食べられる。
香織は何味のアイスにするか、心に決めていた。
岬ちゃんのくれたハンドクリームからは、甘いイチゴの香りがする。イチゴといえば、かつてトラウマだった赤色だ。
でももう大丈夫。
赤って何種類もあるのよ。香織が苦手なのは、赤本の色。大好きなイチゴの色とは違うの。
両親に付き添われて、重い扉を開ける。
ここから先は外の世界。
「ねぇ、パパ、ママ。香織、コンビニに行きたい。イチゴ味のカップアイスが食べたいの」
「もちろんいいよ、行こう」
優しい眼差しの両親をみて心底安心した。
病院からの帰り道にコンビニで買ったアイスを、部屋にこもり一人であける。
安っぽいイチゴの甘味料の香りが心地よかった。
そうそう、これ。
受験の息抜きにいつも食べていたこのアイス。香織の毎日の細やかなご褒美だったのだ。
一口食べて、一気に記憶が蘇ってくるのを感じた。
今までのことが走馬灯のように流れ込んでくる。
勉強しすぎて心が壊れたこと、入院が長引いてしまい高校を中退したこと、周りの人に置いてきぼりにされた不安。
香織は一瞬焦った。
でも次の瞬間、イチゴの香りが優しく香織に語りかけた。
「大丈夫だよ、香織ちゃん」
岬ちゃんと彩さんの声が重なるように優しく聞こえた気がした。
ぶわっと涙がこぼれ落ちる。
大丈夫、そう、私はもう大丈夫。
声を押し殺すのもやめて、わんわん泣いた。
ここは香織の家なのだ。もうあの病棟ではないのだ。
「ぜんっぜん甘くないな、このアイス」
香織の涙と鼻水が混ざって溶けたアイスを、香織はとても大切に完食した。
セピア色のパレット
私の手は魔法のようだとお客様が興奮気味で伝えてくれた時間を思い出す。
色々なことがありすぎて、そのお客様の顔はセピア色でぼやけている。あのときは確かに鮮明に見えていたはずなのに。
私は大げさな言い方をすると、特殊能力があった。
お客様の肌に触れると、彼女たちが持っているカラーパレットがふんわりと脳裏に浮かぶのだ。その色に導かれるように、お客様に接客をする。
少し意外にみえる色さえも、驚くほど、お客様に似合うのだ。
不安そうな顔が、メイクを施され明るく光放つ瞬間は、とてもやり甲斐があった。
化粧品販売員として働く私には、この才能は強力な武器だった。
しかし、光には闇も伴うものだ。この力も例外ではなかった。
高卒の入社二年目という若さで、私はこの才能を生かし、売上成績ナンバーワンに登りつめていた。
若き才能あるエース。
表向きはそう褒めてくれたお局様は、陰であたしの根も葉もない噂を、同じデパートで働く人達に流していた。
周りの人の視線が日に日に痛くなってくる。
少しずつ同僚があたしから離れていく。
別のショップで働く仲良しだと思っていた舞さえも、気まずそうに目を逸らすようになった。
「あの、あたし、何かしちゃったかな?」
恐る恐る舞に尋ねた。
「ちょっと場所移動しよっか」
周りの人から逃げるように、私たちは人の出入りの少ない倉庫へ移動した。
「実は岬ちゃんの妙な噂が流れてるの」
「えっ、そうなの?」
きょとん、とするあたしの目をじっと見つめて舞ははぁっとため息をついた。
「そうだよね、岬ちゃんがあんなことするわけない。ごめんね、避けてて。一瞬でも信じそうになった私が悪かった」
「あの、なんの話?」
「岬ちゃん、サクラを使ってお客様をかさ増ししてるって、みんな言ってるの。岬ちゃんの話はいつも的確でお客様が綺麗に輝いて帰っていく。あんなに魔法みたいにで
きるのは、念の為用意したサクラがいて情報を知っているからだって」
あの噂を聞いた日から、私の中で色が失われていくのを感じた。
お客様の中で眠っている輝きが見えなくなってきた。
焦り、痛み、絶望、恐怖、それらはあたしの力を蝕んでいった。
弱くなったあたしをみて、お局様は気をよくしてトドメを刺しにきたのだ。
「次はどんな仕掛けで騙すのかしら?魔法の秘密、ぜひ教えてほしいわあ」
カラーパレットがぐちゃっと泥色に染まった瞬間だった。
アイシャドウの色もあんなに鮮やかだったはずなのに、違いがわからなくなった。
この粉、ただの泥じゃん。
退職届を出して帰った日。
「あああああ」
あたしは家の中で暴れていた。
止めようとした母を思わず殴ってしまった。父の怒鳴り声が聞こえたが、心には届かなくて、何と言っていたのかわからなかった。
両親が手に負えないと判断し、警察に通報したようだ。状況を理解した警察に病院を紹介され、精神科の閉鎖病棟へ放り込まれた。
閉鎖病棟は意外にも居心地が良かった。
たぶん、いや、絶対に香織ちゃんのおかげだ。
香織ちゃんは高校生の女の子で、この病棟の主だと自分で話していた。
「誰よりも長く入院しているから、裏事情たくさん知ってるの。岬ちゃんには教えてあげるね」
にやっとイタズラっぽく笑う香織ちゃんは、普通の年頃の女の子にみえた。
あたしはこの寂れた病棟で、友情を育める喜びに出会った。
いつものようにハンドクリームをつけながら、自分の手をマッサージしていると、香織ちゃんが興味深そうに見ていた。
「香織ちゃんもやってみる?」
「いいの?わーい、岬ちゃん大好き」
私は香織ちゃんの手をマッサージしながらハンドクリーム塗り込んでいく。
香織ちゃんの手に触れて、カラーパレットのことを久しぶりに思い出した。
泥色ではなかった。でも、色を感じなかった。
何というか、澄んだ透明な空気?
「香織ちゃんなら、何にでもなれるよ」
心の奥の純粋な気持ちで発した言葉だった。
「岬ちゃんも大丈夫だよ、こんなに優しい手をしてるんだもん。もし大丈夫じゃないことがあったら、香織が神様に怒ってあげるね」
逆にあたしが励まされてしまった。
香織ちゃんの言葉には、深い慈悲がある。
どうしたらこんな聡明な美しさが出るんだろう。
あたしはちょっと泣きそうになって、ぐっと堪えて言った。
「ありがとう」
母を殴ってしまった手を、香織ちゃんは優しい手と握ってくれた。
退院する日、私は香織ちゃんのことが心残りで、お守りにしていたハンドクリームを託すことにした。
新品じゃなくて申し訳なかったけど、香織ちゃんはキラキラした笑顔で喜んでくれた。
迎えにきた母の顔をみた時、五ヶ月会わなかっただけなのに、とても老けて小さく見えて、あたしは辛くなった。
「お母さん、あの時ごめんね」
「いいのよ。岬が一番辛かったんだから。大丈夫よ、私はあなたを生んだお母さんなのよ」
お腹をぽんぽんと叩くお母さんをみて、何だか幼子に戻った気がした。
「そうだ、裕太くんに返信してあげて」
お母さんは没収されていたあたしのスマホを取り出した。
久しぶりに起動すると、彼氏からたくさんLINEがきていた。
岬なら戻ってくるって信じてるよ。
俺、ちゃんと待てるから。
震える手でメッセージを返す。
お待たせ、と。
まだ待ってくれてるのかな?という不安はあった。でもこの言葉が一番しっくりきたのだ。
凄い速さで裕太から返信がきた。
「退院おめでとう」
「できない」
あたしは震える手でメイク道具を見つめていた。
神聖だと思っていたかつての相棒たちが、泥にしかみえない今の自分に打ちのめされる。
せっかく裕太と久しぶりのデートなのに。
すっぴんで会うのも怖い。でも、メイクするのは、もっと怖い。
やばい、時間がない。腹をくくって、行くしかない。
公園に着くと、すでに裕太はベンチに座っていた。
お待たせ。
LINEでは言えた言葉を、実際に発するのが怖くて、あたしはちょっと立ち止まった。
裕太はスマホから目を離すと、あたしを見つけた。
「岬!」
嬉しそうな顔で、無邪気な子犬のように、あたしの元へ駆けくる。そして、あたしをギュッと抱きしめた。
温かい。
ずっとセピア色の秋の中に閉じ込められていたあたしは、今日が春だとようやく気づいた。
裕太の肩越しに満開の桜がみえた。
花びらがひらひら落ちて、まるで再会を祝福しているかのようだ。
カラーパレットが泥に変わった秋から、あたしは歩き続けていたのだ。
必死にこの日を求めて。
「あ、会いたかったよお…」
そういえば涙も温かいんだったなと、泣きながら考える。
急にあたしの中に温もりが蘇ってくる。
「岬、結婚しよう」
「えっ?!」
急展開に頭が追いつかない。
「これからはずっと隣にいるからさ。岬が言ってた泥色が綺麗なセピアに変わっても、カラーパレットが復活しても、ずっと、隣にいるから」
家に帰って、久しぶりに鏡をまじまじと見つめる。
人工的なチークには出せない頬の血色が、とても美しいピンク色だと思った。
セピア色の世界に似合う、優しいカラーパレットを、これからは裕太とともに探していこう。
雪解けロボット
秋が終わりを告げる音がした。
歩道橋の階段をくだりながら、私は口元をキュッと結んだ。
階段を一段降りるごとに、ズシンと足に響いてくるこの重みは、季節によって変わると思う。
一番重力の強い季節は、冬だ。
冬のセンサーが搭載されている、私が言うのだから、間違いない。
苦虫を噛んだような、バツの悪い感情が蘇ってくる。この味こそ、冬だ。
「彩ちゃんってさ、名前に反して世界がモノクロに見えてそうだよね。なんかぁ、ロボットみたい」
当時高校生だった私に、クラスメイトが浴びせた水がこれだ。
私は突然の雨に濡れて故障した機械のように、わかりやすくフリーズしてしまった。
ハッと我に返った時には、クラスメイトはもう別の子と楽しそうにお喋りをしていた。
「え〜なにそれぇ」
「きゃははは!」
断片的に聞こえる中身はないけど、楽しそうな声が届いてきた。
きっとあれが鮮やかなカラーの世界なのだろう。
かたやロボットと定義された私と言ったら。
図星を突かれただけでフリーズして、気の利いた言葉も返せない。もっと笑いに変えて、「ソレハドウイウ意味デショウカ?」とか、聞き返せば良かったんだ。きっと、そう。
頭のネジがギリギリと痛みに耐えながら、キツくしまっていくのを感じる。
この痛みは重症で、冬になると必ず私に挨拶しにくる。あの人の記憶を連れて。
八年前、モノクロだった私の世界に、ひときわ輝く存在が現れた。彼はブラックコーヒーのような人で、鮮やかで艶っぽい黒のイメージがあった。解像度の低いグレースケールの世界に、モノクロの階調がグンと足された気がした。
そうか、白黒でもこんなに、豊かなのか。
彼の紡ぐ文字列や、絵から、私はそんな印象を受けて、迂闊にも惹かれてしまった。
ようは、SNSでネットサーフィンしていた時に、見つけた人だった。
私は声をかけずにいられなかった。
彼の絵は紙の白と、ペンの黒インクだけで、表現されていた。白か、黒かの世界なのに、線で緻密に表現された黒は、豊かな色彩を連想させ、私の心はすっかり熱を帯びた。感動で震える体験だった。
何て声をかけたのかは覚えていない。気づけばかなり親密に、話せる仲になったのだけは、確かだった。
「彩さんに会ってみたいです」そんな言葉が、彼から私へ発信された時は、驚きのあまり、スマホを落とした。
私は東京に、彼は大阪に住んでいた。
会いに行くだけでは遠い距離だった。しかし、私はこのチャンスを逃がす気は毛頭もなく。
「ちょうど十月に京都に行く予定があるので、その時で宜しければ私もお会いしたいです」
「本当ですか、ぜひお願いします」
この時既に、二段階認証を通り抜けていたのだと思う。恋というウイルスが。
そして、信じられないことに、三段階認証まで、クリアしてしまうとは。
顎がやたらと長くてひょろりとした体型の彼が、私の前に恥ずかしそうに現れた時、迷わず手を振った。
見た目に関する情報は何も知らなかったはずなのに、すぐに彼だとわかった。
彼だけが、京都駅の人混みの中で、ぱっと輝いていたのだ。
二人で食事処に入ると、彼が見せたいものがあると鞄から、あるものを取り出した。
それは大きな青いクリアファイルで、私は何だろうと首を傾げた。
照れくさそうに、渡されたクリアファイルを開けると、彼の原画が目の前にあった。クリアファイルの全てのページを埋め尽くす彼の絵に、私は興奮を隠しきれなかった。
そして、気づいた。今日は雷鳴が轟くほどの、悪天候だと言うことに。
「えっ?これ、原画ですよね?えっ今日の天気」
嬉しさと心配で感情がグチャグチャになってる私を、目を細めて見つめて、彼は「ビニール袋二重にしてるから大丈夫やで」と言った。
ガツン、と殴られた衝撃が走る。
彼の優しい目が、私の頬を熱くさせた。
少しずつ緩んでいく頭のネジが、ついに飛んでいった瞬間があった。
「そういえばこの絵は、ポストカードにしないんですか?」
「あ〜これですか?父が病気したときに、書いた絵で、なんというか、欲しい人、いないと思うで」
「そうかなぁ、私はなんか、すごく」
言い淀んだ私は、必死に言葉を探していた。そして、ヒットした言葉が、ポロリと口から出た言葉がとんでもなかったのだ。
「好きです!」
変なタイミングで区切ったせいで、告白したみたいになってしまった。
彼もまた告白されたみたいに感じたようで、お互いに「あれ?今何が起きた?」と目を泳がせている。
そして、数秒の動揺の後、先に会話の流れを理解した彼が言った。
「わかった、これもポストカードにするわ!また手紙と一緒に送るで」
あの日、一番の笑顔をみせてくれた。
帰り際、彼にじっと無言で目を見つめられた。
私は意図がわからず、でも声も発することができずに、ただ見つめ返した。
そうして気づいたのだ。彼が描き続ける孤独な姿に。
ああ、そうか。きっと。寂しいんだな、この人は。
憧れの人だと思った彼が、急に人間味を帯びて、私の中で解釈された。
その時、愛おしさが私の中で自然と湧き上がり、ニコリと優しく笑ったんだと思う。
「っぁ?!」
何か変な声が彼から漏れた。
ん?何だ、今の。
矢先、彼が壊れた機械のように挙動不審にな動きをしていた。
スタスタと早歩きで進んだと思えば、遅れてくる私を待って立ち止まる。
何度かそれを繰り返して、駅の改札につき、私たちは別れた。
恋というウイルスをうっかりインストールした私は故障したあの日の夜、体全身が火照って、眠れなかった。
十月なのにもう暖房がついているのかと思い、宿泊先のエアコンを確認すると、何もついていなかった。
シャワーは浴びたけど、お風呂に浸かったわけでもないし、何でこんなに熱いのだろうと、私は不思議で仕方なかった。
数日後、お土産を渡す名目で遊んだ友達の小泉さんに話すと「彩ちゃん、それ恋してるじゃん。しかもマジのやつ」と笑われた。
その時の私の顔、どんなだったのだろう。
自分で自分の顔が見れないのが悔しいと思うくらい、たぶん間抜けな顔をしていたはずだ。
「こ、こい?!えーと、甘酸っぱいとか、表現される方の恋?魚じゃなくて?」
当たり前のことを真剣に聞く私をみて、小泉さんは笑いが止まらないようだった。
「はぁ…面白い。ついに彩ちゃんにも初恋が訪れたか」
感慨深そうにウンウンと頷く小泉さんは、中学校からの付き合いであり、私がその辺に疎いことはよく知っていた。
「彩ちゃん、それで、その人とはどうするの?」
私は気持ちを消そうと思っているんだよ。ウイルスが消えるまで、SNS断ちをして、彼とは連絡を取らないと決めてるんだよ。
楽しそうな小泉さんをみたら、言えなかったので、心の中で呟いた。
一ヶ月経っても興奮が冷めない私に、爆弾のような手紙が届いた。彼からだった。
「最近お見かけしないので心配です。お元気でしょうか?」
そして、あの時、私が好きと告白した絵のポストカードが添えられていた。
これは返事を書かないわけには。
私はアンインストールできていない気持ちを胸に、また彼と交流をしてしまった。
外れたネジの修理は済んでいないのに、なんと私は次に会う約束をしてしまった。しかも、クリスマスシーズンの十二月に。
これって、デートって呼ばれるやつなのかな。
私はソワソワとしながら、また京都駅で彼を待った。そして顔を見た瞬間、強烈な違和感を感じた。
あれ、何だろう。何かがおかしい。
彼を見てもあまりテンションが上がらなかったのだ。
できるだけ冷静に、慎重に、彼と話しながら、心の中では違和感の正体を考えていた。
そして、食事処で夕飯を食べたあと、プレゼントがあると、彼が私に鞄からB5サイズの額を取り出した。
まずい、と思った。私はまだ心の準備ができていなかった。
この絵をどんな顔で受け取ったらいいのか。私は。
「あ、ありがとうございます」
私の視線の先には、私と彼が親しげにダンスしている絵が描かれている。
「今日の新幹線代にはなるかもしれんから、売ってくれて大丈夫やで」
明るい口調で彼が言った。
「そ、そんなこと、できるわけないじゃないですか」
苦しみながらも返した言葉は、本当だった。
五年後、生ごみの日に私はその絵を捨てた。
売るなんてできなかった。でも、持っていることもできなかった。
私には、大切にしたい家族ができたから。
あの冬、ボタンをかけ違えた私と彼は、泥沼のお別れをした。
私が初めての恋に対応できずに精神的に狂って傷つき、気づいたら彼に意味不明なことを口走っていた。
そして、私は本当に意味不明なロボットと化し、精神科の閉鎖病棟へと入院することとなった。あのデートから三ヶ月経った日だった。
「外では桜が咲き始めたんだって。今年の桜は見れないかもなぁ〜」
同じく入院してる高校生の香織ちゃんが言った。この病院は、窓から外の景色が見えないよう仕組まれている。
「そうだねえ」
香織ちゃんはこの病院で、一番長く入院している患者さんらしい。
なかなか感情のコントロールに苦戦しているようだった。
私と話してるときは、普通の高校生の可愛らしい女の子に見えたのだけれど。
「今年ほんとは受験生だったんだよねえ。進路、どうしよう」
私もどうしよう。これから、先。どう生きていこう。
不安で絶望で真っ暗だった。
この季節に、桜すら見れない場所に、私はいるんだ。
ああ、本当に、私は病気なのだ。恋の病は終わった。でもこの病気は終わらない。
一生薬を飲み続けないといけないらしい。
壊れたロボットは、どう修理すれば、いいんだろう。
主治医が治してくれるのか、薬が治してくれるのか。そんな単純な話だったら、もうとっくに香織ちゃんは退院できているだろう。
果てしない道に思えた。
この道、続けないと、ダメなのかな。
直接声に出すのは怖い言葉が脳裏に浮かぶ。
「ねぇ、香織さ、退院したら、いっぱいアイスクリーム食べたいの。桜見るのは無理そうだけど、夏の暑さは凌げるかもって信じてるんだ」
無邪気に笑う香織ちゃんの笑顔に、私は心から癒されて感謝の念を抱いた。
この病棟には、天使がいる。
香織ちゃんの言葉は、些細な希望だったけれど、あの時の私には救いのようだった。
欲しいものを欲しいと言っていいのだと、認めてくれたような安心感があった。
私はきっと寂しいんだなあと客観的な気づきもあった。
退院したら、婚活しようと思った。病気のこともあるから、きっと相手からお断りされることもあるだろう。
だけど、それは仕方ないことで。
私の病気もひっくるめて私だと認識してくれる人に出会えたら、側にいられたら、すごく幸せなんじゃないかな。
ある意味、病気って本物を見抜くための切り札になるんじゃないかな、なんて考える余裕もできた。
仕事に復帰して余裕もできた頃、小泉さんとボードゲームカフェに遊びに行った。
テレビでボードゲーム特集をみかけて、面白そうだねと話していたら、「じゃあ明日行か
ない?」と小泉さんが言ったのだ。
彼女のフットワークの軽さが私は大好きだ。
「本当?いいね、行こう行こう」
始めてのボードゲームカフェは、予想を遥かに上回る楽しさだった。
小泉さんと私はすっかりボードゲームカフェの空気に虜になり「ねぇ、また来週も行こうよ」と話していた。
そして、来週のボードゲームカフェで私の隣に座った男性が、現在の私の夫である。
住んでいるマンションが見えた頃、白いちらちらとしたものが空から落ち始めた。
あれ、雪?
今年の初雪かもしれない。どうりで、寒いわけだ。
凍てつく寒さのおかげで、私はあの人を久しぶりに思い出したことに気づく。
とっくに過去の人だ。あれから八年経ったのだ。
もっと大切な人達が、目の前のマンションの一室で待っている。
はぁ、と吐き出した息が白くて、子どもの頃に遊んだことを思い出した。
娘にも、見せてあげよう。
まだ寝てるかな?
玄関を開けると、もふっとした暖かな空気が私の体に流れ込んできた。
ふぅ、生き返る。ここが私の帰る場所だ。
外で冷やされた手がじんじん熱い。台所に立ちお湯を出し、手を洗う。リビングの先にある暗い部屋では娘が大の字になって眠っていた。
夫はしーっと指を立てて、私にまだ寝てるよと合図する。
こくり、と頷きながら、私は電気ケトルのスイッチをオンにした。
お湯が湧いたので、私は珈琲を取り出した。
ブラックにするか、牛乳をいれるかで一瞬迷う。
こんな温かくて甘い気持ちの日は、たっぷりの牛乳を注ごうと思った。
はぁ、生き返る。
私は血の通った人間だったと当たり前のことを考える。
大の字で寝てる娘の豊満なほっぺを優しく撫でるあの故障から、この幸せに辿り着けた私は、相当なパワーを持っていると思う。
大丈夫、この力は、これから先、愛する娘を守るために、発揮できるだろう。
痛みを知った上での強さは、きっと、未来の糧になる。
だから私はもう大丈夫。
ねぇ、恋を知った日も、故障した日も、絶望した日も、天使がいた日も、ずっと道を続けてくれて、確かに存在してくれて、ありがとう。
すべてが今の私と家族の栄養になってるよ。
あの日から8年経ち、雪解けを迎えたロボットは、静かにほほ笑み目を閉じた。
あとがき
この物語は、私が実際に閉鎖病棟へ入院した時の経験を元にしています。
優しいフィクションを混ぜながら生まれた救いの物語です。
そして私はこの物語を届けたい人がいます。
それは、香織ちゃんです。
四季の章、全てに香織ちゃんが登場するのは、この物語が私から彼女へ、感謝とエールの手紙になっているからです。
もう所在もわからない香織ちゃん。
今何をしているんだろう?
私は今も強かに生きています。
きっとこれからも。
お互いの道で一生懸命咲きましょう。
真夏の太陽に負けない向日葵のように。
2026年6月9日 発行 初版
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