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こちらの芝は冷えた青
お馬鹿さん
面白くない男
乗らない女
同居人さん
妻の独白
「お馬鹿さん」
僕の妻は、お馬鹿さんだ。
「♪ 暗い夜道は〜ピカピカのぉ〜パパの頭がぁ〜役に立つのさぁ〜」
今耳に届いてくる実に愉快な「赤鼻のトナカイ」の替え歌は、洗面所で妻が歌っている。
「歯磨きをしたくない!」の一点張りの娘が思わず笑って口を開けた。
今だ! とばかりに、口へ歯ブラシをねじ込もうとする。
作戦に気づいた娘がキュッと口を結ぶ。
この騒がしい攻防は、もう十分も続いている。
「…娘にパパの老化を刷り込むのはやめてくれないか」
僕が呆れて声をかける。
妻は大真面目な顔で反論する。
「これは紛れもない真実だよ、パパの頭は家族の光なんだ」
意味不明な悪口としか思えない供述をしている。
かつて妻は静謐な日本画を描く人だった。
初めて僕に出会った頃は、岩絵具の美しさに惚れ込んでいること、特に緑青という色に魅了されたことを、おしとやかに話していた。
日本画を描く妻は、もういない。
日本画の絵の具は体に害があるものもあり、取り扱いに注意が必要らしい。愛する娘がうっかり舐めたりしたら怖いし、乾くのに待つ時間が長いし、絵の具は高いし、スペースもないからもういいや、と妻は言う。
でも、日本画に触れない妻は少し寂しそうにみえた。
ところが。
ある日妻は息を巻いて「この子をゆるキャラ界のスターにする!」とリーゼントの羊の絵を見せてきた。
「羊は本来群れるけど、この子は孤高の存在にしようかな。ね、どう思う?」
どう思う? え、なんで? いきなりゆるキャラ?
普通に僕は謎だった。
まじまじと絵を見つめる。
三白眼の目つきの悪い羊は、ゆるキャラなのに可愛くなくて、独特な味があった。
半年くらいは粘ってSNSにヤンキーひつじのイラストを投稿していたと思う。
妻はブランド化や人との交流が絶望的ヘタクソで、なかなか芽が出なかった。
「私、やっぱり似顔絵作家になろうと思うの」
ゆるキャラはどこへ行ったんだ?
呆気にとられる僕の気持ちなどお構いなく、せっせと明石家さんまの出っ歯の大きさをどのくらいにするか、真剣に悩み始めた。
そして、今だ。
「これからの時代は言葉が大切だと思うの。だから私は」
出た。また急な方向転換がくる。
言葉? もしかして。
「私は作詞家になる」
ズコーッと、僕は心の中で転んだ。
絵ですらなくなっている。
この人、実にクリエイティブすぎるのだ。
僕はため息をつく。
数年前の夜のことを、今でも思い出す。
感情を出すのが苦手で、唯一饒舌に話せるのは論理立てた話のみ。
そんな僕の態度が、妻を傷つけていたらしい。
「私のこと、本当に好きで一緒にいるの? あなたの態度って、好きな人に対するものなの? たまに嫌われてるとさえ、思うの」
妻は静かに泣きながら僕に尋ねた。
不器用なりにちゃんと愛しているつもりだった。なのに、妻は孤独だという。
馬鹿だなあ。こんなに僕は…。
どうしても先が言えない。
何故僕はこんなに言葉足らずで、妻を安心感で包めてあげられないのだろう。妻の涙を沈黙しながら見つめる僕をみて、妻は大きくため息をつき言った。
「あなた、嘘とかつけなそうなくらい、不器用なのね」
その後からだと思う。妻のテンションがおかしくなった。
日本画という静かでエモーショナルな世界を飛び出し、ヤンキーひつじだの、似顔絵だの、酷い替え歌だの、作り出したのは。
無関心にみえる僕ですら思わず振り返るような、騒がしい舞台へと妻は躍り出た。
「そういえば結婚十年目らしい。あ、結婚記念日先週だったわ」
豪快に笑う妻の隣で、僕はハッとする。
十年。これだ。
いつもは何もできない僕、言わない僕だけど、この十年という切り札を使って、伝える時がきたはずだ。
正確な日にちは過ぎてしまっている。でも、今まで忘れていたのは、お互い様だ。
次の日、僕は妻へのプレゼントを買った。妻の名前が刻印された、高級な万年筆だ。
「ただいま」
「おかえり〜」
妻は娘とお尻プリプリダンスに勤しんでいた。
「あのさ」
これから言うんだ。ずっと伝えられなかった感謝と愛を。
ギュッと拳を握る。
「僕は君といてとても楽しい。ずっと君が…」
「えっ!」
妻が興奮気味に僕を見つめて言葉を遮った。
そ、そんなに期待されると、緊張してしまう。
「その頭、すっごくクリエイティブな光の反射してる! 待って、今私に歌詞が降りてきた」
僕の決意を、妻は簡単に粉砕してしまった。
何という間の悪さだ。だいたい人の話を最後まで聞くのが礼儀だろう。
「あちゃ〜私天才すぎるわ」
うんうん、と納得する妻を横目に、僕もまた納得する。
やっぱり妻はお馬鹿さんだ。
でも、いい。僕は妻と一緒にいる道を、これからも選び続けたいのだ。
「これ、万年筆。その天才的な歌詞を書き留めればいい」
僕はぶっきらぼうに万年筆を差し出す。
「え? ありがとう!」
素直にお礼を言われ、嬉しくなったのも束の間。
凛とした達筆で書かれた文字に愕然とする。
「パパの頭こそ 家族の光」
なんていう酷い悪口だ。
高級万年筆が泣いているだろう。
でも、
一番最初に書いたのが、僕のことなんだな、と少し嬉しくなる。
「どう?」
イタズラな瞳がキラキラと僕を見つめてくる。
「どうって…本人目の前にして堂々と悪口ですか?」
愛の言葉を伝えられない僕と、ひたすら僕をいじってくるお馬鹿さんの妻。
悪くないのかもしれない。
「面白くない男」
私の伴侶であるこの男は、実に面白くない。
論理的で無口で感情の起伏が乏しい。
どのくらいつまらないかと言うと、
「今日雨降るかなあ」と窓を見つめる私に
「天気予報を見ればいいじゃないか」と至極真っ当な返事をする。
さては私が天気予報の存在を知らないとでも思っているのだろうか?
天気予報を見たうえで、雨の心配をしているのだ。今日は絶対に、晴れてほしい理由があったから。
これは、夫へのラブレターなんかじゃ決してない。美味しい食卓を守るための、私なりの優秀な料理のレシピ集なのだ。
この男はきっとジャガイモなのだ。
そのままの味では淡白すぎて、美味しくない。でもこのジャガイモを揚げて、塩をひとつまみかけるだけで、とびっきり美味しい、誰もが大好きなフライドポテトに変身する。
この男はジャガイモだ。そう気づいた時、私は料理人へと変貌を遂げたのだ。この家庭の一皿を、鮮やかに彩るために。
この境地に至るまで、私は何度か泣いた。
夫の前で勇気を振り絞って「私のこと本当に好きなの?」と聞いた夜、この男は何とフリーズしたのだ。
私は悟った。ジャガイモに愛の言葉を求めるなど、間違っていた。私が美味しく調理する側なのだから。
救いようのないほど不器用なジャガイモ男の世界を、彩る仕掛けに私がなろうではないか。
「この子をゆるキャラ界のスターにする!」
渾身の出来のヤンキーひつじを描いて、私は夫にみせた。困惑したように眉をひそめて、疑問符を顔に貼り付けていた。
ヤンキーひつじは、SNSで半年くらいは粘ったのだが、あまり人気もでず、面倒になり辞めてしまった。
次の仕掛けは決まっている。似顔絵だ。
「明石家さんまの出っ歯の大きさをどのくらい誇張すればいいと思う?」
私は夫に相談する。
「似顔絵なんだし、大げさなくらいが良いんじゃない?」
困惑しつつもやはり正解であろう答えを返してくる。
似顔絵もある程度描いたら少し飽きてしまった。
次は。
「私は作詞家になる!」
夫が心の中で派手に転ぶ音が聞こえた。
よっしゃー! と心の中でガッツポーズをとる。これこそ私が狙っている料理のスパイスである。ジャガイモ男を動揺させることこそ、私の真の創作活動だ。
日本画を描くよりもずっと刺激的で、贅沢な私の遊びである。
そして今日、私は気づいた。
「結婚十年目らしい。あ、結婚記念日先週だったわ」
次の日、出かけてくると夫が言った。
「今日は晴れだよ」
当てつけのように天気予報を教える。
「はーい」
見送ったジャガイモ男の頭はキラッと輝いている。
当人はハゲたことを気にしているが、私には美味しいネタでしかない。
この感情を申し訳ないとは思わない。私の最上級の仕返しなのだから。
「ただいま」
「おかえり〜」
娘とお尻プリプリダンスを踊っていると、夫が帰ってきた。私たちをみて、珍しく突っ込まない。
何やら少し表情が固い。
「君といるととても楽しい…」
私はハッとする。
何ということだ。この男、長年私に秘密にしている言葉を、今まさに発しようとしている。
…言わせるものですか。
私は夫の頭を指さして遮る。
「その頭、すっごくクリエイティブな光の反射してる!」
ジャガイモ男は呆気にとられて、沈黙をした。
「あちゃ〜私天才すぎるわ」
笑いながらご機嫌な私に、彼は確かな温度で万年筆を差し出す。
「この万年筆で、その天才的な歌詞を書くといい」
私は新しいレシピの1行目を、丁寧に書き記した。
「パパの頭こそ 家族の光」
「なんという酷い悪口だ」
彼は不服そうにいう。
ふふ、っと私は笑う。
こんな日は鼻歌が出てしまう。
いいの、それがいいの。
今日はこのジャガイモ男を、どんな調味料で美味しく料理しようか考える。
これは、かつて愛した日本画よりも、ずっと魅力的な、私の宿命なのだ。
「乗らない女」
「ママがいいっ! やだ、パパこないでええ」
娘の絶叫が部屋へ響いている。
窓を閉めていても外に漏れていないか、心配になるような声量だ。
娘は僕を全力で拒否して暴れているというのに、当の妻はリビングの机でタブレットをみて何か作業をしている。
「ママ、呼ばれてるよ」
妻からの返答がない。
この人は少し耳が悪く、何かに熱中すると周りが見えなくなるタイプだ。
聞こえなかったのかもしれない。
「ママ、聞いてる?」
僕はもう一度、妻を呼んだ。
妻はぴくりとも動かないで、じーっとタブレットを見つめている。
その間にも娘は騒ぎ続けている。
うるさいな。早く宥めてくれよ。
僕は妻の腕をトントン、と軽く叩いた。
ようやく妻は僕の方をじろりと見た。
そして何も返事はせずに立ち上がり、娘のところへ行く。
「どうしたの〜、泣いてるの? うーん、そうかそうかぁ、嫌だったのねえ」
ニコニコしながら娘を抱きしめる妻。
ようやく安心したのか、娘の泣き声はどんどん小さくなり、こくこくと頷いていた。
僕の日常はだいたい娘の全力拒否でできている。
そして、それに苛立つことが増え、声を荒げてしまうこともある。
僕は感情のコントロールが難しくなっている。
妻の勧めでメンタルクリニックに通い始めてからも、もう一年が経つ。
症状は良くなるどころか、どんどん薬の量が増えて、副反応で手が震えることもある。
はぁ、本当にイライラする。何をしても、上手くいかない。
こんな状態で仕事が上手く行ってるわけもなく。現在、休職をしている。
ハッと目が覚めると、家の中はとても静かで、時計の針の音が家族の不在を主張していた。
今、何時だろう?
重い頭を無理やり起こして、眼鏡を見つけかける。
もう、午後なのか。
時計は十三時を過ぎていた。
また妻に文句を言われるかもしれない。
今日は平日だから、妻と娘と同居してる義母は仕事や保育園へ行っている。
僕の世界だけ、社会から切り離されている。
憂鬱な気持ちで本を手に取る。
今日は通院の日だから、待ち時間にはこれを読もう。
半年くらい前に図書館で予約をしていたミステリーが、ついこの間届いたのだ。
我が家は洗濯乾燥機を使っているので、シャツがとてもシワシワになる。アイロンをかけてくれる人はいない。
まぁいいやと思って、シワシワのシャツを着て、チノパンを履く。どちらも黒色だ。
男なんて黒だけもってれば、とりあえず成り立つのだ。
前に妻にそれを言ったら、「ふーん」と冷たく返された。
ここ最近、塩対応ばかりされている。
僕の存在をほぼ無視している感じだ。
何もかも口を聞かないわけではないが、明らかに返事の温度が低い。
たまに思い出したかのように、僕の今の状態への文句を垂れるLINEが届く。
いつも僕は「はい」とだけ返す。
あまりにも内容がキツい時は既読だけつけている。
「このLINE、病院の先生に見せてくれてもいいよ? もし先生に言って、私が冷たいというならば、考え直すこともある」
長文の恨みつらみのメッセージは、そう締めくくられていた。
病院へ着き、名前を呼ばれたので診察へ入る。
「あれから体調はいかがですか」
僕が椅子に座ると、主治医は感情のこもってないトーンで、事務的に質問をした。
いつものパターンだ。
僕が答えることも大して変わっていない。
「あまり体調は良くないです。眠くて眠くて朝も起きれなくて」
「そうですか、薬が合っていないようなら、また変えてみましょうか」
「はい」
主治医の顔色はちっとも変わらない。
変に同情したり、意見を押し付けてきたりしないので、少し安心して話せる。
「他に気になることはありますか?」
大丈夫です、という言葉を発しようとした時、脳裏に妻からのLINEが浮かんだ。
僕は妻からたまに長文の文句LINEが届くこと、普段はほぼスルーされていることを話した。
「そうですか」
主治医は妻の態度を肯定も否定もしなかった。
「朝はしっかり起きて、散歩とかでもいいので運動して、規則正しい生活を送りましょう。メンタルの症状は、薬だけで改善するのは、なかなか難しいですよ」
当たり前のことを淡々と話す主治医を眺めながら、それが難しいからここに来てるんだよ、と毒づきたくなった。
もちろん心の中で留めている。
あぁ、この人はお医者様だもんな。
恵まれた環境に生まれ、恵まれたお仕事をして。
僕の辛さなんて、本当はわかりっこない。
卑屈になってる自分に気づき、少しショックを受けながら、診察室の扉を閉めて、また外の世界へと戻った。
ここしばらくやっていない。
この惨めな気持ちを忘れたくて、久しぶりに妻を誘ってみようかと考える。
最近はずっと「嫌だ」と断られている。
それでも食い下がると、三回に一度くらい妻は僕の部屋にきてくれる。
「なんで嫌なの」
「眠いから」
妻からはいつも、呆れた答えが返ってくる。
挨拶のように「嫌だ」と断られるのは、僕はとても不服であり、嫌気が差している。
娘が義母とお風呂に入っている隙を狙って、妻に声をかける。
「今日の夜、呼ぶから」
「嫌だ」
妻は能面のような顔で答える。
またか。
チッ、と舌打ちしたくなる。
「私、あなたのこと同居人としか、思ってない。前にLINEしたでしょ。同居人に性生活は必要ないわ」
妻は意味不明なことを供述しだした。
「いや、夫婦じゃん」
「私があなたにイライラしないために、自分がご機嫌でいるために、同居人って思うことにしたのよ。あなた、逆の立場になってごらんよ。普通に腹を立てると思うわ」
妻の声に感情が宿っていない。
淡々とまるで用意していたかのように、言葉が発せられていく。
僕はいつの間に同居人になったんだろう。
妻にとって、僕はもう夫ではないんだ。
薬の副反応で震える手が、いつもより小刻みに泣いていた。
「同居人さん」
この人にはもう、積極的に関わる価値がない。
本来の肩書きは夫である同居人を横目に、私は高級ブラシで髪の毛を整える。
この同居人は娘に近づいただけで威嚇されてグーパンチを食らっている。
「やめてよっ、なんで殴るの!」
同居人の目つきはギラギラと娘を睨んでる。
大人気なく本気で怒っている。
これは叱るというより、感情の発散でしかないな、と私は思う。
正直なところ、私はこの神経を逆なでする声が大嫌いである。
でも、もういいんだ。私はいちいち腹を立てるメリットがないことに気づき、自分で自分の機嫌を取れるようになった。
この高級ブラシで髪の毛をとかす時間は、私のテンションを通常に戻すための、神聖な儀式である。
髪の毛に関してだけいうと、周りの人から羨ましがられたことしかない。
私の艷やかな美しい黒髪は数少ない自慢であり、心の拠り所だった。
同居人と娘の攻防を華麗に無視して、私は脱衣所に向かう。
洗面鏡に映る自分をみながら口角をあげてキメ顔をする。
うん、大丈夫。今日も笑えてる。
この心境になるまで、私は本当に苦労した。
毎日のように夫に殺意を覚え、会社の同僚に愚痴っていた頃もあった。
「優しい白川さんがそこまで言うって、旦那さんなかなかだよね」
同僚も私と一緒に怒ってくれて一瞬はスッキリするのだけれど、口に出して話すせいで嫌な記憶が定着しているのだと、私はある日気づいた。
そこから私の革命と静かなる抵抗が始まった。
まず、夫は同居人だと思うことにした。
同居人だと思えば、家賃は払ってくれてるし、重い食材の買い出しはしてくれるし、十分な気がした。
夫や娘の父親だと思うから、そのわりに戦力外だと怒りたくなるのだ。
それから、同僚に愚痴るのも辞めた。同僚も私の変化を受け入れて、とくに何も触れてこなかった。
私は自慢の髪の毛を触り、人差し指でくるりと回した。
ふわっと肩に落ちる毛先が、今日は大吉だと言っている。
「パパはいつになったら、パパになるんだろうね。本当に父親失格だよ。朝は一度も顔出さないで寝てる。あなただけが、こんなに頑張ってるの、おかしいわ」
同居してる実母が憤慨しながら私に詰め寄る。
あー、また始まったよ。
「パパじゃなくて、同居人だからさ。そう思って期待してないの」
私はさらっと返して、会話を終わらせる。
「でもさぁ」
だが、それで引き下がるような実母ではない。
「お給料だってあなた以下。人を喜ばせるより怒らせるほうが得意。顔だって不細工だわ」
たぶん実母にとっては、最後の不細工が一番気に入らないポイントだと、私は思っている。
実母はとても面食いなので、顔が良くて外面がいいタイプにはころっと騙される。
でもまぁ、言いたいことはわかる。
同居人には、これと言って良いところが見つからないのだ。
何で結婚したんだっけ。もう、何が良かったのかも忘れてしまった。
多分だけど、あのときは精神的に辛い時期だったから、しつこく構ってくれる同居人が新鮮で、嬉しかったのだ。
結婚なんて、きっと判断能力が鈍ってる時にしかできないのだ。
同居人ほど酷い人はなかなか珍しいかもしれないが、世の中完璧な人なんていない。それは当たり前だ。
一緒に住むということは、どこかでお互いがお互いを認める必要がある。
ここまで私が強い女になれたのは、きっと同居人が出来損ないだからだと思う。
私はお陰様でタフになり、最強モードを手に入れた。
「まあ、結婚しちゃったんだから、仕方ないじゃん。離婚するのは面倒だし、娘にも影響が出ちゃうし。現状維持のほうが、まだマシなのよ」
私は母の目を宥めるように見つめて言った。
「お母さんは、あなたの味方だからね」
「うん、ありがと」
私の味方だというなら、感情を刺激しないでほしいんだよなぁ。自分の中で上手に処理してるんだから。
まぁ、実母にそれは難しいとはわかっている。
さて、娘を起こしましょうか。
今日もまた朝の闘いが幕を開ける。
「あ、明日は台風だってよ〜」
天気予報を見ていた実母が、私に声をかける。
「うげぇ〜」
毎日が戦場だけれど、明日は今週の山かもしれないな。
昨晩、娘が通ってる保育園から、連絡帳アプリでお知らせが届いた。
「明日は台風がきます。朝の時点で警戒レベルが三以上だった場合、休園をします。また明日お知らせをします」
そして、今朝届いた通知をみて、私はがっくりと肩を落とした。
「現在、警戒レベルが二の為、開園します」
私は電車の状況も検索した。
通常通り運転している、だと?
ちぇっ、これだと仕事を休むわけにはいかないから、保育園に連れて行かないといけない。雨は結構降っている。
やはり同居人は起きてこない。
娘と一緒に玄関まで行き、大きな声で「今日台風だからお迎え要請あったら行ってよね」と伝えた。
「はい」と同居人の弱々しい声が耳に届いた。
豪雨の中、娘を保育園まで連れて歩く。
車も自転車も持っていないので、登園手段は徒歩一択だ。距離も大人の足で歩けば三分の距離。近いので何とか耐えられる。
風がびゅうっと娘の体をさらおうとするので、私はしっかりと手を握り引き寄せた。
左手には暴れる傘、右手にはふらふらする娘の手が握られている。
やっとのことで登園を終え、会社へ着いた。
スマホを見ると保育園から通知がきていて、私は慌てて凝視する。
「現在、警戒レベルが三になっています。登園の自粛や早めのお迎えをお願いします」
「えーっ!」
思わず私は会社で大きな声を出した。
「どうしたの?」
先輩の問いかけに、私は経緯を説明した。
「うちの子の小学校も休校になってるよ。今日は休むと思ってたよ」
「だって開園してるって連絡きたし、電車も動いてたんですよ」
始業時間間近だったので、私は同居人に「お迎えしたほうがいいかも、保育園から通知きてるよ。確認してね」とLINEを送った。
「今こっちも通知みてた」
ただの報告の返信が届く。
だからお迎え行けって。休職してて家にいるんだから。
私は苛立ちながらも、目の前の仕事を片付けていく。
今日は午後半休を取って、帰らないといけないから、効率よく作業しないとならない。
トイレにいきたくなり席を立ったタイミングで、また保育園から通知が届いてるのを見つけた。
「早めのお迎えをお願いします」
先ほどとほぼ同じメッセージが届いている。
早めのお迎えとは、きっと今すぐお迎えに来てほしい、という意味だろう。
全家庭に電話をするのも大変なので、アプリの通知で一斉送信してるのだ。
私は同居人に電話をかけた。
「お迎え行った?」
「行ってない」
「なんで? 保育園からお迎え要請きてるよね」
「早めのお迎えでしょ?」
「今すぐ来いって意味だよ、遠回しに言ってるだけ。わかんないの?」
「わかんなかった」
夫の情けない声に、久しぶりに腸が煮えくり返る。
「早く迎えに行ってよ、私も午後半休とるから」
昼には台風が通り過ぎ雨が弱まっていた。
電車の窓から景色を眺めながら、深くため息をつく。
離婚、という言葉が頭を過った。
どうやら夫は同居人以下かもしれない。
同居人と思って心を落ち着けていたけれど、今日みたいな命に関わるかもしれない大事な場面ですら頼りにならないのだ。むしろ、足手まといである。
同居人以下だとしたら、何なんだろう。
うーん、と頭を捻りたどり着いた答えは、なかなか残酷だった。
粗大ゴミ、である。
捨てるにはお金がかかるし、重くてゴミ捨て場まで出すのも大変だし、家にあれば邪魔だし。
なかなか的確な表現であると同時に、私はこんな人としか結婚できない女だったのだろうか、と虚しくなった。
もっと大切にされたかった。ちゃんと愛されてみたかった。
病める時も、健やかなる時も。
結婚式の誓いの言葉を思い出す。
病める時、か。
なかなかハードルの高い誓いなんだな、これ。
髪の毛を触った拍子に、左手の薬指がキラッと光った。
指輪の裏に、名前なんて彫刻しなきゃ良かったな。
名前の彫刻がない方が、高く売れるって聞いたことがあるのを思い出す。
世間体のためにつけてる輝きすら、もう不要なものに思えてきた。でも。娘は。娘はどうなるんだろう。
私の両親は離婚している。私はとてもそれが辛かったし、心に傷を負ったのも覚えている。
まだ頑張れるかな、いや頑張らなきゃ。
粗大ゴミでもいいから、まだ処分はできない。
可愛い娘の写真を眺めて、心を落ち着ける。
期待値を下げるんだ、もっと、もっと。
暴力を振るわない、借金をしない。
それだけで、まだ良いじゃないか。
仮面夫婦でもいい。
まだ私たちは共に生きる必要がある。
「妻の独白」
朝、いつものように保育園に娘を連れて行く。
あれ? 美乃ちゃんママだ。
この時間帯にいるのは珍しいな。
美乃ちゃんママとは、娘がゼロ歳児クラスの時から一緒なので、
一番交流をしている。
朝は私たちより遅いのだが、お迎えのタイミングが被ることは多く、お喋りしながら一緒に帰ることもある。
でも最近は会っていなかった。
夫がお迎えに行くようになったからだ。
私としてはお迎えではなく、朝の登園をしてほしいと思っている。
お迎えのタイミングは、ママ友さんとの貴重な交流の場でもあるから。
でも、きっと今の夫にそれを押し付けることはできない。
お迎えしたくらいでパバになった気でいられるのは、少々胸がムカムカすることもあるのだが、何もしなかったあの日よりマシだろう。
「おはようございます」
よそ行きの爽やかな笑顔で、美乃ちゃんママに挨拶をする。
「おはようございます。なんだかお久しぶりに会いましたね」
「ええ、そうですね」
こちらから余計な情報は出さないようにしている。
ただ肯定をして、次の言葉を待つ。
「最近はパバがお迎えしてるんですね。いいなあ〜」
美乃ちゃんママは世間話のように、ちょっと羨ましそうな素振りで探りをいれる。
隣の芝生は青い。
この言葉がふと降りてきた。
そうか、私の芝生も青くみえてるのか。
いいえ、こちらの芝は冷えた青ですよ。
私はこの言葉と温度の冷たさを、上手に隠し微笑んだ。
「ありがとうございます」
2026年6月11日 発行 初版
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