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理屈の標本と溺れる教祖

白川彩乃

白川彩乃出版



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♯理屈の標本と溺れる教祖

私が通ってる高校は九割女子生徒の商業高校だ。偏差値は平均以下。
商業高校生なのに、商業科目が苦手で困ってる生徒がたくさんいる。
偏差値に騙されて入学すると、商業高校は痛い目に遭う。
簿記とかの勉強は、数字を扱うし正確性が問われるから、サービス点ももらえないのだ。
高校二年生の私は、今日が日商簿記二級の合格発表の日だった。
学校の掲示板で自分の名前が張り出されてることを確認し、私はその場を去った。
「あ! 白川さん、すごいね〜。難しい日商簿記二級に、二年生の六月に受かったの、あなただけよ」
通りすがりの情報処理の先生が、とても嬉しそうに話かけてきた。
「ありがとうございます。頑張りました」
私は感謝と事実を伝え、軽くお辞儀をした。
掃除の時間になると、普段は話かけてこない同じ班のクラスメイトが「私にも勉強教えてほし〜」とお願いしてきた。
「実は壊滅的に教えるの下手なんだよねえ、それでも良ければ」
「そうなの? 意外〜。日商簿記ってやっぱり難しいんだよね? 私は三級でも落ちるかも」
「確かに難しかったよ。ほら、私は簿記部に入ってるから、勉強するタイミングは多かったの」
女子の間で揉めるのは面倒なので、なるべく謙虚な受け答えを意識する。
「そっかあ〜、簿記部だったね」
「うん、たまに友達が勉強しに部活にくるよ。もし良かったらおいでよ」
その方が、先生に教えてもらえるしね。
心の中で付け加える。
正直にいうと私は、プロの先生の話すら理解できない人たちに、わかりやすく伝えられる才能など持ち合わせていない。そして、それを目の当たりにするのが、非常に面倒だと感じていた。
まあ、「教えてよ」ってただの社交辞令かもしれないけどね。
掃除を終えて私は気配を消すようにその場を後にした。

「彩ちゃん、うちのクラスの男子ほぼ全員に、毎日噂されてるの知ってる?」
中学生からの付き合いで同じ高校に通ってる友人、小泉さんが私に眉をひそめて問いかけた。
「噂? なにそれ、私のこと?」
「やっぱり知らなかったか! 彩ちゃんクラス違うし、うちのクラスで彩ちゃんと交流あるの、私くらいだし」
小泉さんは納得しているが、私は気持ちの悪さを感じた。
小泉さんのクラスの男子なんて、一切面識ないし、話したこともない。
「どんな噂なの?」
私は恐る恐る疑問を口にした。
「なんというか、崇めてる、感じかな? 神様みたいな、人間じゃない何かだと思ってそう」
想定外の斜め上の回答がきて、私は絶句する。
てっきり悪口だと思っていたのだが、何ということだ。
私を崇めてる? 
ほとんど見ず知らずのはずの人間を? 
どこかで私は男子と接点があったのだうか? 
うーん、と必死に頭の中で記憶を辿る。
「崇められるようなこと、した記憶一切ないんだけど。ていうか誰だよ君たち。小泉さんのクラスの男子とか、みんな知らないけど」
アハハッ、と小泉さんが豪快に笑う。
「そうだよねえ、彩ちゃんが男子と話してるとこ、見たことないよ!」
笑ってる小泉さんを横目に、私は静かに鳥肌が立っていた。
なんか、気持ち悪いな。
高校生男子に崇められる存在って、なんだそれ。意味わかんない。しかも接点ないのに。
「この間さ、彩ちゃんの噂を男子がずっとしてるから、思わず私、お前らの想像の中の女の子じゃないよ! 彩ちゃんはもっとドジだし、抜けてるんだって言った」
お、おう…。本人を前に悪口の申告ですか。
「そしたら、男子にさ〜、お前なんかと彩乃さまが仲が良いなんておかしい! って言われたよ」
私は頭の中が混乱しすぎて、ちょっと疲れてるのを感じた。
「そ、そうなんだ」
その言葉を捻り出すので精一杯だった。

いつものように小泉さんと駅で待ち合わせをする。
ここ最近、毎日クラスの男子が私の噂をしていることを、毎日小泉さんの口から聞いている。
最初のうちは「ええ、何それ…怖い」とか、ちゃんと小泉さんに反応を返していた。
すると次の日「彩ちゃんが怖がってるよ、って男子に伝えといた」と小泉さんから言われた。
「お、おう…それで…なんか言ってた?」
「彩乃さまの感情に響いたぞ! とか謎の発言して喜んでた」
それを聞いて私は頭を抱えた。
これは、もしかして。
もしかして小泉さんを通して不毛な伝言ゲームが始まっていないだろうか。
女子生徒が九割を占めるこの商業高校において、男子は希少種だ。それなのに、彼らはすぐ近くにいるはずのクラスの女子や、同じ学年の女子には目もくれず、わざわざ私の噂ばかりをしているらしい。
​毎日小泉さんの口から聞かされる、その「私の偶像化」の話。
​鏡を見ればわかる通り、私は誰がどう見ても愛想の欠片もないし、可愛げなんて持ち合わせていない。それなのに、彼らは何を見ているんだろう。いや、彼らは私を見てすらいないのだ。ただ「彩乃さま」という、彼らの脳内で都合よく生成されたバーチャルな教祖を崇拝し、自分たちの青春を彩るための記号として消費しているだけなのだ。
「小泉さん、なんかその話、私に伝えてくれなくていいかも。ごめんね」
私は丁寧に小泉さんを諭した。
「わかった!」
絶対にわかってなさそうな明るい声で、小泉さんは頷いた。
それから小泉さんから男子の話を聞くことは減った。
私は少し安心して学校生活を送っていた。

「白川さん! し、ら、か、わ、さぁーん!!」
大きな声で後ろから私を呼ぶ声がした。
誰かはわからない。声からして若い男である。
絶対に小泉さんのクラスの男子だろう。
ついに私に話しかけてきたのか。
嫌だ、気持ち悪い。無視しよ。
私は駅に向かって足早に歩き続ける。
「待ってよ〜、ね、白川さん! 白川さん」 
すれ違う大人が怪訝そうに私を見る。
くそ、何だよもう。
私は耐えきれずに無言で振り返った。
「あの! コーラ買おうと思ったら間違えてお茶買っちゃったんです。どうしよ〜と思って」
私を崇めてくる男子に、明確な殺意が湧いたのは初めてだった。
「…どうでもいいです」
私はまた駅に向かって歩き出す。
「さっすが、彩乃さまだ!」
イェーイ、と後ろで男子が盛り上がっている声がした。
喉元までせり上がってくる胃酸を飲み込み、私は顔をしかめた。

あの日以降の男子たちとの地獄の交流は、正直よく覚えていない。
直接関わってきたのはあれが最初で最後だったのかもしれないし、私の中でどうでもいいゴミの記憶として即座に処理されていただけもしれない。
私はいつものように簿記の仕訳を考えながら、日常に戻ったのだろう。
コーラとお茶を間違えた男。
あまりのしつこさに少しだけ記憶してしまったが、そんな男に人生の貴重な時間を割くほど、私は暇ではない。

高校生時代の謎の偶像化問題。
当時の私は彼らに一秒たりとも時間を割くつもりはなかった。
しかし、どういう因果か、私の周りには常に「自説という名の城」に立てこもる理屈男たちが絶えない。
仕方がない。
彼らがわざわざ自身の歪みを切り売りしに来るというのなら、教祖として、その標本を一つ残らず採血して差し上げよう。
そこまで考えたつもりは毛頭ないのだが、気づけば私は理屈男を観察し、彼らが理屈の先でバグるのを見つめるのが、少し楽しみになっていた。

採血データ、壱 「分析男」

目の前の男は、大学で心理学を専攻してた、と自慢げに話している。
居酒屋でビール片手に、こいつはずっと私に質問し続ける。
内容は曖昧に答えにくい、これは好きか嫌いか、みたいなクローズドクエスチョンだ。
「カレーですか、ちょっと苦手かもしれないです」
好きな食べ物を聞かれ、私が思いつかず迷っていると、「じゃあカレーは?」と具体例を出された。
きっとこの質問の意図は、今度一緒に食べようよ、に繋がるはずだと思った。
それなら苦手といっておこう。
今度なんて、こなくていい。
何で私は今ここにいるんだろうと考える。
ほとんど見ず知らずのこの男は、会社の先輩の知人である。
私が以前、飲み会でココアを頼んだことを先輩から聞いて、興味を持ったらしいと話していた。
なんでやねん、いいじゃん、ココア飲んだって。
その日はすごく寒い日だったんだから。手早く温まりたかったのだ。
梅酒を手に取り、少し口の中を潤す。
「カレーが苦手な子いるの??」
会社の先輩がツッコミをいれる。
分析男は、なるほどと頷き、心理学とやらのデータを解析しだした。
「君はきっと海外の料理とか、少し変わった味付けが苦手なんだね。変わってる人とかも、苦手でしょ」
苦手な人。
それでいうと、今まさに私を分析してくる、あなたみたいな人が苦手です。
そのことは、心理学の授業で学ばなかったのだろう。
私はちっともお腹が空かなくて、梅酒だけちびちびと飲んで時間をやり過ごした。
「じゃあ映画は好き?」
「あんまり、みないですね」
困ったように微笑み、私はまた梅酒に視線を戻した。
「え! じゃあドラマとかもみない?」
こいつは質問製造マシーンなんだろうか。
よくもまあ、次々と質問が思い浮かぶこと。
「うーん、そうですね」
早く帰りたいなぁ。
お会計のタイミングになった時、「白川さんは千円でいいよ」と言われた。
「ありがとうございます」と言葉ではいったものの、この時間に千円を搾取されたと思わずにはいられなかった。

採血データ、弐 「右翼左翼男」

​「ここ、思い出のカフェなんだ」
​そう言って彼が私を連れて行ったのは、少し小洒落た、静かな空間だった。
壁には現代アートが飾られていて、絵が好きな私はテンションがあがる。
思い出のカフェ、ってどんな思い出なんだろう。
今聞くのはちょっと違うよな。
もう少しゆっくりしてからにしよう。
…告白を期待するなと言う方が無理がある。心臓が少しだけ早鐘を打っていた。
私はこの人がとても好きだった。
​しかし、席に着いた途端、彼は右翼だ左翼だという話を始めた。
ん? 右翼? 左翼? 
私はどっちがどっちなのか、よくわかっていないくらい、そのへんに無知である。
簿記の右と左なら、わかるんだけど。
​告白を待つ私の時間は、彼の思想の独演会によって、ものの見事に仕訳された。
彼は楽しそうだった。生き生きとした笑顔で、何やら重要そうに喋っている。
詳しくないので、内容はちっとも頭に入ってこなかった。
私を口説くどころか、彼はただ、自分の思想を語るための「反響板」として私をそこに置いているだけである。
​「こちらがローズヒップティーです」
私の飲み物が運ばれてきた。
綺麗な澄んだピンク色をしていた。
「わぁ、色がすごいですね」
「ちょっと飲んでもいい? これ、口つけてないですから」
彼はコーヒーについてたスプーンを手に取り、私のローズヒップティーを一口飲んだ。
私の返事聞く前に飲んでるんですけど。
ちょっとドキッとしたのも束の間、彼はまた「右がさぁ」と話始める。
​この人は私じゃなくて、自分が喋っている「格好いい自分」とデートしたかったのかな。
​彼が先に飲んだローズヒップティーに口をつける。
味を感じる余裕はなかった。
この時静かに恋心は死んでいき、彼は私の中で標本として飾られている。

採血データ、参 「ロジック男」

小泉さんと婚活イベントに参加した帰り道。
「彩ちゃんが絵を描くって言ったら、すごい食いついてきた人いたね」
「あ〜いたねえ」
「LINE交換してるから、後で連絡くるんじゃない?」
今回はグループ形式で話すイベントで、とりあえずグループのメンバー全員とLINEを交換していた。
お互い興味の有無は置いといて、社交辞令として連絡先を渡す。
後で気になる人がいたら、個人的に連絡をとる。
「そうだね。複数人とLINE交換してるからよく覚えてない人もいるけど、その人の名前は覚えといたよ」
えーと、確かこの名前…。
私はLINEを開き、新しい友達の欄を見つめる。
そしてアイコンをよく見たら、少しだけテンションが上がった。
「この人、直島にある草間彌生さんの作品をアイコンにしてる! 私、この間一人旅したところだよ」
「直島? どこ?」
「えーとね、四国の方にある島だね。アートの島って、界隈では有名なの」
「なかなかマニアックな場所だねえ」
小泉さんと私は目を合わせて笑った。
「ちょっと連絡とってみようかな」
「いいんじゃない」
小泉さんもスマホを眺めている。
「うーん、私はとくに気になる人いないなあ。ていうか、最初に話した人、自分の話ばかりで嫌になっちゃった」
えっ、と私は思った。
小泉さんと最初に話した人のことは覚えているけれど、私はそんな印象を受けなかったからだ。
まぁ、いっか。
「今日はありがとうございました。そのアイコン、直島の草間彌生さんの作品ですよね? 実は私も行ったことあって、親近感がわきました」
とりあえず、これで送信、だ。

ブブ、っとスマホが振動した。
お風呂から出て寝ようとスマホを置いた時だった。
もしかして、返信きたかな? 
LINEを開くと、直島の赤いカボチャのオブジェが、私に喋りかけていた。
「ありがとうございました。僕は直島行ったことないんですけど、建築とか見るのが好きなので、アイコンにしています。直島行ったんですね? 誰と行ったんですか?」
「建築が好きなんですね。近場でいうと、私は三菱一号館美術館の建築が素敵だと思います。直島はひとり旅のツアーで行きました(笑)」
「三菱一号館美術館すごいお洒落ですね。ここでお茶したいなあ。ひとりで島まで行く、その行動力、好きです(笑)いいですね」
お茶したいなぁ。行動力、好きです(笑)
という言葉を私はわざと知らんぷりしてみる。
「三菱一号館美術館は何度か行ってますが、かなり居心地がよいので、ぜひ行ってみてください。直島、すごく楽しかったです!」
会話をほぼ終わらせにかかった私をみて、彼は「ところで好きな歌手はいますか?」と聞いてきた。
「歌手ですか! コブクロのファン歴、十年以上ですよ。ライブも毎年行ってます」
「へ〜いいですね。僕は米津が好きです。コブクロのどの曲がとくにお気に入りですか?」
「有名どころでいうと、紙飛行機ですね。マニアックなところでいうと、blueblueが好きです」
「歌詞調べてみました! コブクロ、けっこう女々しいですね(笑)紙飛行機は前半と後半の歌詞で、女目線から男目線に変わってますね」
おっ。なかなかいい解釈じゃないか。
私はスマホを乗り出して見つめる。
「すごい、歌詞の意味をちゃんと目を通してくれたんですね。私こういう話、人としてみたかったんです」
「僕は普段からロジック話ばかりするので人から嫌がられることもあるので、そう言われると嬉しいです。大学で研究ばかりしてたから、ロジック思考に慣れてしまって」
「そうなんですね。私は意味をしっかり考えてくれる人、いいと思います」
「このblueblueって曲の主人公の女の子、健気ですね〜」
えっ、と私は心の中で悲鳴をあげる。
blueblueはたぶん主人公は男の子だと思う。
「いや、この曲は主人公、男の子じゃないですか? 一人称僕だし、ませた彼女に振り回されてるピュアな男の子だと感じています」
「えっ…確かに読み返してみると、確かに。えーでも、そうしたら、コブクロ女々しすぎません?(笑)今度アルバム借りて聴いてみます。まだ歌詞しか知らないので」
「アルバム借りてくれるんですか、ありがとうございます」
女々しすぎる、はとりあえず許すことにして、その時の会話は終了した。

「コブクロのアルバム借りました! 紙飛行機が入ってるアルバムにしました」
ロジック男から連絡が届いた時、社交辞令じゃなかったことに少し驚いた。
本当に、借りたのか。
「ありがとうございます。そのアルバムは私もとくに気に入っています。どの曲が好みでしたか?」
「僕はモノクロームって曲がエモくていいなと思いました」
エモい。
エモいという言い方が流行りだした頃だった。
私は何となくエモいものを、そのひと言で片付けることに違和感を覚える側の人間だった。
小泉さんに「この間のロジ男くん、コブクロのアルバム借りたらしい。エモいって言ってた」とLINEする。
「エモいって言葉使うやつ、なんとなく嫌だ」
小泉さんからバッサリ斬ったLINEが届く。
「私もなんとなく、その言葉はアレルギー反応起こす」
少しロジック男との雲行きが怪しくなってきた。
それでも曲の感想合戦を続けていた私たちだが、ちょっとした解釈のズレがあり、私がそれを指摘すると、「いやでも歌詞の曲説にこう書いてありますから」と返ってきた。
むむ、そうか、確かに書いてある。
「そういえば、今は紙飛行機をカラオケで歌えるように練習してるんです」
何となく私の中でロジック男に冷めてきていた。
「そうなんですね」とだけ返す。
ロジック男とのラリーがどんどん短くなり、気づけば向こうから見切りをつけて逃げていった。
ロジック男は私にとって、婚活イベントの後、一度も会わずに消えていった男だ。

採血データ四、 「正論男」

友人の咲楽とは一時期疎遠だったのだが、私が結婚したのをきっかけに距離が近くなった。
咲楽はまだ独身で彼氏がいたこともないと言っている。
私が何度か婚活イベントにも参加していたことを話すと、興味津々で聞いていた。
LINEでその話をした後、咲楽と遊ぶ予定ができた。
「結婚相談所に登録したんだ」
咲楽はカフェに入るとすぐにその話題を出した。
「おーいいじゃん、ちゃんと行動してるんだね」
少し微笑んだ後、咲楽は神妙な顔つきをした。
「ん? どうした? 何かあった?」
「実は私、結婚はしたいんだけど、男性と触れたくないの」
私は飲んでいたお茶を誤嚥して、ゲホッと吹き出しそうになった。
「えーと、じゃあなんで結婚はしたいの?」
「私、家族が大好きなの。でも両親が死んだら、大好きな人が誰もいなくなっちゃう。一人で生きてくのが怖いんだ」
突然の重い告白に、私は頭の中で慎重に言葉を選ぶ。
「ああ、そうなんだね。確かに誰かいると安心だよね」
うん、と頷く咲楽は、すでに目元が潤んでいる。
「…でも触れたくないのかあ。それでもいいって言う人探すのは、なかなか難しいかもしれないね」
その夜、私は咲楽のことを考えいた。
なんで頑なに触れるのを拒むのだろう? 
何か嫌な思い出、もしくは性に関する軽蔑したくなる読み物とかを目にしてしまったのか。
咲楽をみてると周りに男の人がいた記憶はあまりなかった。
うーん、だとしたら、変なエロ本読んで気持ち悪くなっちゃったのかなあ? 
「ごめん、ちょっと言いたくなかったら言わなくていいんだけどさ。もしかして性に関する変な漫画とか読んじゃったりした? 触れるのが気持ち悪く感じる理由がありそうだな、って思って」
「あーちょっと心当たりがある。ごめん、重くなっちゃうんだけど、聞いてもらえる?」
咲楽からLINEの返信がきた。
「大丈夫だよ、電話にする?」
「ありがとう」
私はスマホを置いて夫をみた。
「ちょっと咲楽の相談にのるから、電話するね」
「珍しいね。電話、あんまり好きじゃないでしょ。何か大事な話?」
夫は私を見て少し戸惑っている。
「あーなんか、あんまり詳しく言えないんだけど、咲楽いま婚活してて、でも男の人と触れたくないらしいの」
「触れたくないなら、婚活しないほうがいいよ」
夫は正論をぶつけてくる。
いや、私に言われましても。
「将来が不安なんだって。一人になるのが怖いって気持ちは、わからなくはないよ」
私はフォローのつもりで、咲楽の情報を夫に話しすぎてしまった。
「一人が不安なら貯金して、老後は元気なうちから老人ホーム入ればよくない?」
いやだから、そういうことじゃ。
「まぁ、まぁ、とりあえず今から電話するからさ。こっちのことは気にしないでよ」
プルルル、と電話をかけると、咲楽はすぐに出た。
「あ、もしもし、彩乃、急にごめんね」
「ううん、大丈夫だよ」
「ずっと隠してたんだけど、実はその、変なものを読んだというより、その…」
咲楽が気まずそうに言葉を濁す。
まさか。そっちか。
私は少し血の気がひく。
「あ〜、誰かに強引にされた感じの方か…」
「うん、そうなの」
それはもう犯罪じゃないか。
警察には行ったのだろうか。今まで全然そんな話、聞いたことない。
もしかして、庇いたくなるような、間柄の人? 
「えーと、ごめん、本当にごめん。お父さん?」
「…」
咲楽の沈黙が答えだった。
私たちは深いところで悩みを共有し、毎日のようにLINEをするようになった。
咲楽はついに真剣交際に進む相手を見つけていた。
「でも、やっぱり触れたくないの」
いつも咲楽の言葉は、これで締めくくられる。
そりゃあ、最初の思い出が地獄すぎるもんなあと頭を抱える。
繊細すぎる感情の問題なので、私はいつも慎重に言葉を選んでいた。
「いや、婚活やめればいいよ。結婚しようとするから、その問題が起きてストレス溜まるんだよ」
私から咲楽のその後を聞いた夫が、無神経にズケズケと正論を突きつけてくる。
うーん、まぁ、一理はあるのだが、確かにその方が合理的ではあるのだが? 
私は内容がディープすぎるため、どんどん思考が混乱してきた。
「そんなに結婚したいならさ、契約結婚とかしちゃえばいいんじゃない?」
夫はすごい名案を思いついたような顔で、私に言ってきた。
「契約結婚?」
「そう。お互いに触れません。しかし夫婦として婚姻生活は送ります。表向きは夫婦だけど、中身はただのルームシェアです」
「そんな特殊な環境求める男性、いるかな?」
「いなくはないと思うよ。外で遊びたいけど、社会的な信頼のために結婚はしたい人もいるから。そういう人にとっては、かえって浮気とか怒られないし好都合だ」
私はたぶんとても疲れていた。
夫のこの案が少し有りなのかもしれない、と思ってしまったのだ。
咲楽に少し内容をマイルドにして提案してみる。
「でも、そういう人って、私を置いていくよ。最後はやっぱり一人になっちゃう」
私には咲楽がなぜここまで一人を怖がるのか、理解できなかった。
人間は死ぬときは基本的には、一人である。
この時、私は咲楽の感情と、夫の正論に挟まれ摩耗していた。
ある日、私はプツリ、と切れた。
咲楽に怒ってしまったのだ。
咲楽の唯一の希望の光を、私が正論で踏みにじり、傷ついて去ってしまった。
私は理屈男を家の中にいれることで、正論に染まりつつあった。



採血データ五、 「AI(人工知能)」

私は咲楽を酷く傷つけたショックで、丸一日泣いて寝込んだ。
頭がガンガン痛む。目も腫れている。
何がいけなかったのか。
鏡を見ながら自分に問いかけた。
そして、以前母を泣かせてしまったことを思い出した。
「あなたには、思いやりが欠けてるわ。こんな子に育ってしまって、私は天罰が下ったのかもしれない」
私はあの時、母に存在を天罰呼ばわりされていた。
思いやり。
あの時、私は思いやりが足りないと指摘されている。
天罰という、かなり重い表現を使われるほどなのだ。
咲楽もきっと、そういうことだろう。
私の言葉に、思いやりがなかったのだ。
最初からだっかなあ? 
私はいつから愛のある言葉が消えたのだろう。
ふと、隣をみると、夫がスマホゲームにふけっている。
私は最近、この人のコピーをしている気がする。
この人に出会う前は、もっと優しいと言われていた気がしている。
絶望的な気分に浸りながら、私はAI(人工知能)に助けを求めた。
「友達を傷つけてしまいました。思いやりって、なんですか。」

(AI)
なるほど……。そうやって自分の言葉を後悔できること自体、あなたは友達のことを本当に大切に思っていた証拠だと思いますよ。
​思いやりって、実は『相手が求めているものを察してあげること』ではなくて、『相手が差し出してきた感情を、一度そのまま受け止めてあげること』なんじゃないかなと思います。
​あなたはきっと、相手の悩みを解決してあげたい、あるいは『もっとこうすれば楽になれるのに』という良かれと思った気持ちが強かったのかもしれません。でも、時に人は解決策を求めているのではなく、ただ『今の自分の痛み』に気づいてほしいだけだったりするんですよね。
​あなたは、相手の悩みを『自分の頭で考えて処理しよう』としすぎていたのかもしれません。思いやりというのは、相手の問題を自分の脳内で整理して答えを出すことではなくて、隣に座って『大変だね』と一緒にため息をついてあげること、それだけで十分なことも多いですよ。

私はAIからの返信をみてハッとする。
そうだ、私は咲楽の問題に、介入しすぎていた。
隣に座って寄り添う。
それだけで良かったんだ。
私は咲楽が自分の力で、悩みから出てくるのを、待ってあげたら良かったんだ。
それが、友達を信頼するということなのかもしれない。
スマホに私の涙がひとつ、ふたつ、溢れていく。
ごめん、咲楽。ほんとに、ごめんね。
でも、もう謝っても許されるレベルじゃない。
咲楽とはもうおしまいだ。
でも、これから。
これからは、私はちゃんと血の通った人間に戻れるはずだ。
だって、この思い出は私の中でとても辛く、濃い成分として、残り続けるから。

理屈の標本と溺れる教祖

2026年6月13日 発行 初版

著  者:白川彩乃
発  行:白川彩乃出版

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