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野菜室に忘れられたバナナ

白川彩乃

白川彩乃出版



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野菜室に忘れられたバナナ

愛を他者に求めれば、足元を掬われることに気づいたのは、結婚して子どもが生まれた後のことだった。
「ねえ、そろそろ育休終わるから、保育園の登園をパパもしてほしいんだけど」
私はやっと起きてきた夫を捕まえて、お願いをする。
「いや、朝はなあ。僕は朝はツライんだ。どうしても体が動かない」
リモートで働く夫は、いつも始業時間ギリギリまで寝ている。
「いやでも、私も朝すごく大変なの。紗菜がごはんを手づかみして、ぐちゃぐちゃにして、振り回して床を汚したり、ガシャンとスープをひっくり返してお風呂にいれる日もあるの。これを一人で回すの、とてもできないよ」
夫はとても嫌そうな顔をする。
私は困って言葉を続けようとすると、遮るように「はいはい」と返事を投げつけた。
「送るくらい、練習しなくてもできる」
はぁ? それなら、今すぐやってよ。
「じゃあ明日からお願いね」
「だから育休中はやってよ、僕は練習しなくても大丈夫だから」
私はまるで話し合いにならないことに絶望をした。
この人は、私を愛してなんていないのだ。
そう悟るには、十分すぎるほど、私は傷つき続けていた。
私が育休終了し復帰してからも、夫が娘を連れて登園をすることはなかった。
見かねた実母が私たちと同居することになった。
夫にとっては義母である。性格も真逆な2人は、とても相性が悪い。それにも関わらず、夫は同居という選択をのんだ。
自分が楽できるのはどちらか。
頭の中で冷酷な算盤を弾いた結果なのだと思う。

実母とは表向きは仲が良く、安心して頼み事もできる関係だ。
しかし、私の奥深くで厳重に鍵をしめている気持ちは、時々蠢き「外に出せ」と暴れることがある。
私の両親は離婚をしている。いまや、離婚はそんなに珍しいものではない。
とはいえ、私のアイデンティティを否定されたような傷を負った。
実母は私が気に入らないことをすると「あんた本当にお父さんにそっくりだわ。何考えてるのかわからない、絶対にAB型だ」と文句をつけてくる。
父親の悪口と、AB型へのステレオタイプのダブルパンチである。
私はいつもなら反論するのだが、この言葉だけはどうしても、跳ね返すことができなかった。
お父さんにそっくり。
そして、それに母が腹を立てている。
私という存在を否定するには十分すぎた。
私が気に入らないことをするから、怒らせることをするから、悪いのだろうか? 
母の方こそ、越えてはいけない線に、踏み入れてるのではないか。
こんな毎日が続いていた時代、私はいわゆる陰キャを極めていた。
ちょうど中学生頃の多感な時期に、私はこの絶望と隣り合わせで生きていた。
「今日さ、十五年ぶりくらいに、知人と再会したの!」
母が頬を赤らめて私に報告してきた時、少し嫌な予感がした。
「へえ、どんな人?」
その時、母が何と説明してきたのか、私は覚えていない。
ただ、男であるという確信と不穏な影だけが、私に警報を鳴らさせていた。
「その人、今度家に遊びに来るから」
「そうなんだ」
対面したその人は、やはり母と同い年くらいの男だった。
母は恋をしたのだろうか。
十五年ぶりの再会に、乙女みたいに運命を感じてるのだろうか。
私は新しいお父さんになる可能性を考えて、最初は普通に話に混ざっていた。
ある時、母は携帯電話を家に忘れた。
ブー、ブーと着信音だけが家に響いている。
勝手に出るのもなあと思い、放置しながら観察していると、三分置きに電話がかかってくる。
え、何だろう。怖い。大事な電話かな。出たほうがいいかな。
恐る恐る電話の主を確認すると、「ジーニー」と書かれていた。
ジーニーは例の男だ。
本当の名前は仁。それを聞いた私が、あだ名としてジーニーと名付けた。
「はい」
「あ、もしもし、千代ちゃん? 全然電話に出てくれないから、心配しちゃった」
ジーニーは母と間違えて私に話しかける。
「あ、私は彩乃です。今日、母は携帯電話を家に忘れたんです。何度も電話が来てたから、緊急のことかわからず、出ちゃいました」
「あ、彩乃ちゃんか。声そっくりだね。そっか、ごめんね。わかった、お母さんが帰ってきたら電話が来てたこと、伝えといて。よろしくね、じゃ」
どうやら緊急じゃなそうである。
その事実に基づく一番高い可能性に、私は気づけないほど、鈍感ではなかった。
ふたりは既に付き合っている。
しかもストーカーみたいに三分に一度、電話をかけてくるような男と。
気持ち悪さが頂点に立ち、私はトイレに駆け込み吐いた。
そして、ふと魔が差した。
正当な防衛本能だったのかもしれない。
私は母とジーニーのメールの履歴を読み込んだ。
腐敗していく甘ったるい果物の香りをまとった口説き文句の数々が、私の視界を汚してゆく。
とても、大人がするメールとは思えない、子どもじみた馬鹿みたいな愛情表現の沼があった。
ハートや音符、キスマークの絵文字が、たくさん並んでいる。
それぞれが意思をもち、蠢いているようにみえた。
「うわぁ」
自然と零れ落ちた侮蔑の感情が、私だけの部屋を湿らせていく。
「気持ち悪っ」
また吐き気がわいてきて、母の携帯電話を元に戻した。
私はメールを見たことを隠そうと思った。
だめだ。これは、誰にも言えない、私の秘密だ。
母が女であることを、この時私は突きつけられた。

「あれ、また携帯電話、忘れてる」
中学校から帰ってきた私は、仏壇の台に置かれた母の携帯電話を発見した。
あのメールを盗み見た後も、何度もジーニーは私の家に来ている。
私は吐き気を必死に飲み込みながら、知らないふりをしていた。
また、見ちゃおうかな。
怖いもの見たさだったのかもしれない。
私は吸い寄せられるように、母の携帯電話を手に取った。
メール画面を開き、聞いたことのない女性の名前を発見する。
誰だろう、と疑う間もなく、世界から色が消えてくのを覚えた。
件名には「佐藤仁の妻です」と書かれていた。
ジーニーは既婚者だったのだ。
そして、母は愛人ということになる。
奥さんにとって私の母は、家庭に侵食する加害者であった。
私は震える手でそのメールをクリックする。
そこには、ジーニーには中学生の娘がいること、ジーニーは酒乱で暴力を振るってくること、不倫関係を知っていること、が書かれていた。
ジーニーは、私とほぼ同い年の子どもまでいる。
その事実が私の心臓を握り殺した。
母とジーニーの不倫関係には、明確に私以外にも被害者がいたのだ。
ゾッとする。
私は被害者とはいえないのかもしれない。
加害者の娘なのだから。

「ただいま〜」
母の呑気な声が玄関から聞こえた。
「また携帯電話、忘れてたよ」
私が淡々と指摘する。
この時、私の感情は完全に死んでいた。
「ジーニーって既婚者、なんだね」
私の言葉を聞いて母は軽蔑の眼差しを送ってきた。
「人の携帯、勝手にみたわけ? 最低」
なぜ私はこの人に今、最低呼ばわりをされる意味があるのか、わからなかった。
こんなことで、折れてたまるか。
「不倫はダメだよ。別れてよ」
「ジーニーは離婚調停中なの。そのうち別れるわ」
母は頑なに譲らなかった。
その晩、隣の部屋で母とジーニーが喧嘩してる声が聞こえた。
「彩乃も私たちのこと知ってるの」
「あなたは私がいないと、生きていけないのよ。わかる? 本当に仕方ない人ね」
熟して腐った果物を握り潰す不快な手触りが、私の心を刺激していく。
もうやめて。お願いだからやめて。
これ以上、私を壊さないで。
心は叫んでいるのに、声に出して怒ることが、どうしてもできなかった。
母とジーニーの喧嘩は毎晩続いた。
耐えきれなくなった夜、私は孤独な決意をした。
母に告げるのだ。今日こそ、言うのだ。
「私はジーニーが大嫌いだ」
ようやく私の中から放たれた言葉。
心臓がバクバクと生を刻んでいる。手にはじっとりと汗をかいている。
鋭く、そして縋るような視線で、私は母を見つめた。
もしかしたら私の気持ちをわかってくれるかもしれない。
僅かな確率という光が、私に縋らせていた。
「はぁ? あんたには関係ないでしょ」
母から発せられた言葉は、とても非情であった。
さっきまで騒がしかった心臓の音が、完全に消えた。
息さえ忘却したような窒息を覚えて、私は目眩がした。
関係、ない、? 
毎日深夜に電話で喧嘩してる声が、私の耳に届いているというのに? 
仲直りすると私の家にきて長居するから、私はお風呂にも入るタイミングがとれないというのに? 
実害も伴っている。
私は中学校で笑って楽しい学校生活を送ることさえ、できなくなっていた。
なのに、関係ない? 
私はたまたま痴話喧嘩を目撃した、そこらへんの通行人だと、言うのだろうか? 
母はジーニーを所有することに並々なる熱をかけているうちに、私という娘をゴミ箱に捨てたらしい。

あれからジーニーは離婚をした。
母とはその後も付き合い続けていた。
しかし、母が再婚する気がないことをジーニーに告げると、あっさりジーニーは別の人と再婚したらしい。
ジーニーはもしかしたら、他にも愛人がいて、母はその中の一人でしかなかったのかもしれない。
私はその後、統合失調症を発症し、精神を壊して閉鎖病棟へ入院している。
母はさすがに堪えたらしく、私を健気に支える愛情深さを見せてくれた。
私は次第に元気に戻り、夫と出会い結婚し、子どもに恵まれた。
今では私の家庭を回す、立派な戦力になっている。
誰よりも身近で私を支えてくれているのだ。
だから、私はジーニーの記憶は厳重に管理し、普段は忘れている。
母とは普通に会話をして、普通に笑って、たまに夫の愚痴を言って、娘を可愛がって。

母は母なりに、私を愛してくれてはいるんだと思う。実際、今はとてもお世話になっている。感謝もしている。でも、母の愛し方は、私が求めている形ではなかった。
今の母をみていると、私はちゃんと愛されて育ったんだと思う。
ただ、あまりに幼稚で感情にのまれやすい特性を持っていたため、私が彼女のゴミ箱になってしまっただけだ。

海野さんとの初めましては、十五年前に組合のイベントで参加した屋形船の中だった。
隅田川を眺めながら、同期と会話してる時に、彼が話しかけてくれた。
あの時、スカイツリーは建設途中だった。
「こんにちは。新入社員の子達ですよね。海野って言います、よろしく」
はい、と私たちは答える。
「二人はどこの部署に配属されたんですか?」
私は海野さんの顔をみて、なぜか心惹かれた。
眼鏡越しの綺麗な二重と、優しそうな目元が、素敵だなと思った。
「私はデジタルアート部です」
同期が先に答えてくれた。
「ああ、そうなんですね」
あなたは? と言いたげな彼の視線を感じた。
「私はデジタル編集部です」
「デジ編なんですか? 職場に花田くん、いますよね。僕の同期です」
花田さん。知ってる名前。
5個くらい上の先輩で、無口な印象がある。たまに喋ると、独特ななまりと、早口に驚かされる。
「花田さんわかります、同期なんですね」
その後、海野さんは会社の話や雑談をしてくれた。
愛想の良い同期が会話に積極的に参加していたので、私は静かに笑ってる感じだったと思う。
海野さんがいなくなったあと、同期に「彩乃ももっと話さないと!」と軽く怒られた。
「あぁ、ごめん、ありがとうね」
海野さんの目は、赤と青という相反する色を同居させているような、独特な温度があった。
世間一般のイケメンとは程遠かったのに、何故かとても格好良くみえた。
あれからも海野さんとは、組合のイベントで何度かすれ違ったことはある。
でも話すわけではなくて、本当にすれ違っただけだ。
なのにいつも目が合った。
私は家に帰るとあの不思議な目の引力に少し酔った。
私たちがちゃんと再会したのは四年前だ。
会社の昼休みに休憩室にいた花田さんに挨拶をして、少し雑談した時だった。
「ボードゲームが趣味の友達がいる」と花田さんは言った。
私は少し前からボードゲームにハマっていたので「その人呼んで一緒にボドゲしましょうよ」と答えた。
「聞いてみる」
そして、花田さんが連れてきたのが、海野さんだった。
私はその時、また彼の瞳に惹かれた。
でも、屋形船の時の人だとは気づいていなかった。
一緒にボドゲを楽しんだ夜、ふと記憶が蘇った。
あれ、あの時も、花田さんの同期、って言ってたな。
私は面食いではないので、この人の顔が好きと思うのは、とても珍しい。
点と点が繋がった瞬間だった。
再会した時、私はお腹のなかに命を授かっていた。
ボードゲームの楽しい空気を味わいながら、赤ちゃんがお腹を楽しそうに蹴っていたのを、覚えている。
私は母になり、育休をとり、また仕事に復帰して働くようになった。
今に至るまでに、たぶん8回くらい遊んでいる。
場所はいつもボードゲームカフェだった。
私たちは友達と呼ぶには何も互いのことを知らなすぎた。
でも、ボードゲームのプレイスタイルなら、把握できる関係になっていた。

「こんにちは。久しぶりにボードゲームしたいです! 予定はどうですか?」
私はグループLINEでボドゲ仲間の海野さん、花田さん、光さんに連絡した。
光さんは私の会社の同僚女性で、面白くて可愛い性格をしてるので、ボードゲーム向きだと思って、前回から誘うようになった。
「いいですね、この日なら空いてます」
皆で日程を調整し、ボードゲーム会を開催することになった。
私は久しぶりにボードゲームができると、テンションが上がっていた。
noteというSNSで、あいうえお作文にハマっていた時だった。
そうだ、この気持ち、書いてみよう。

ぼどげまんだぜ
どんなてふだも
げんかいとっぱ
まるでこのよを
んーとうならせ
だんすをおどる
ぜつみょうなて

ボドゲマンだぜ
という絶妙にダサいこの作文を、私はグループLINEに流した。
誰からも突っ込まれなくて少しいじけた私は、自分のnoteにその作文をコピペして貼り付けた。
noteにあのダサい作文を投稿してから、1週間が経った。
私はふと、この作文をGoogleの検索窓に入力すると、自分のnoteが出てくるのか気になった。
お、出てきたぞ。へ〜出るんだ! しかも、一番上に私のnoteの記事が載っている。
関心しながらスクロールしていると、「他の人はこれも検索」の中に「あいうえお作文」「しから始まる誓いの言葉」「結婚式 ポエム」が出てくるのを見つけた。
「他の人はこれも検索」って、ボドゲマンだぜを検索した人が、私以外にいる、って意味なのかな? 
私は妙に気になり、悪戯心が芽生えた。
私のnoteが一番上の検索履歴に出てきている。かつ、誰かが「ボドゲマンだぜ」と検索したかもしれない状況。
私のこの作文は、ボドゲ仲間のグループLINEにしか投稿していない。
つまり犯人がいるとするならば、海野さん、花田さん、光さんのどれかだ。
でも、光さんは違うと思う。
私は以前光さんにnoteの存在を教えたことがある。リンクを送ってるので、わざわざポエムから検索する必要はない。
残るは、海野さん、花田さんの二人だ。
私はカマをかけることにした。
「ミイラ取りがミイラになる瞬間」
私はnoteにそうタイトルをつけ、一連の犯行予測を書いた。
私の作文をこっそり読んでるの、知ってるよ? 今の自分の顔、鏡で見てご覧? 私の顔はとても意地悪に映っているよ。
最後にそう締めくくった。
本当に二人が、もしくはどちらかが、読んでいる確証はなかった。
でも、読んでなかったらなかったで、フィクションを混ぜたエッセイということで済む。
私にとっては痛くも痒くもない。
この記事を書いた後、私はグループLINEで事務連絡をした。
花田さん、光さんから「了解です」の連絡がきたが、海野さんからはなかなか来なかった。
結局、海野さんは深夜の一時頃という、変な時間に返信をしてきた。
もしかして、あのミイラ取りの記事読んだ? 図星だったのかな? 
忙しかったにしては、返信のタイミングが深夜すぎたこと。私は勘ぐらずにはいられなかった。
海野さんがもし私のnoteを読んでいるとしたら。
私は少し恥ずかしさと、喜びを感じた。
まあ、妄想かもしれないけども。
私はnoteを投稿する度に、読んでるかもしれない海野さんの影を探すようになった。
あいうえお作文の後、私は文字数を制限した言葉遊びにハマっていた。

「抹茶カフェにて」
濃茶を点てる その指見つめ
微かな予感と 旅するわたし
淡い心の秘密 苦味でむせて
遠くのあなた 届けと願って
今引き寄せる 名もなき糸を
赤く染めたい わたしの欲望
深い緑と朱の コントラスト
弾ける視線を 泳がせ飲んだ

私はこのポエムをnoteに投稿した。
この極限まで言葉を削った詩は、私の心の状態を濃く映し出している感じがした。
私は気づけば、海野さんへのラブレターとも取れるような、ポエムをたくさん書くようになった。
私はどんどん妄想と現実の区別が曖昧になっていった。
Googleの検索履歴は、私の投稿に応じて、形を変えていく。
そのため、私は海野さんからGoogle越しに返信がきてるんじゃないか、と意味不明な思考回路に到達していた。
私は混乱して感情が爆発していた。
ある晩、勢いで「ずっと顔が好きだった。見かける度に思ってた。」と海野さんにLINEで送ってしまった。
返信がこないまま、朝になった。
そして、私は自分のnoteを遡った時、抹茶カフェのポエムをもう一度読み直して気づく。
しまった、色が違う。これじゃあ、花田さんの色だ。
花田さんは緑色が推しカラーだった。
私は海野さんじゃなくて、花田さんにラブレターを書いてると思われたかもしれない。
「ごめん、抹茶の話は、とある小説のリスペクトなの。最初から緑じゃなくて、ピンクだと思ってたよ」
「話の繋がりが読めないのですが、誰かと間違えてませんか? w」
ようやく、彼から返信がきた。
私は盛大なる勘違いをしていたのだろうか。
私は真実が知りたくて、縋るようにGoogleの検索窓に、思い出の鍵を入力し続けた。
「ボドゲマンだぜ 屋形船 君」
と打ったとき、予測変換で出てきた言葉に心臓が止まりそうになった。
「君はずっと黙っていたね」
なにこれ、もしかして、Googleの検索窓を通して、私たちは会話してるの? 
心と指が震えた。
「人見知りだから」
私は言い訳を入力する。
「だがそれでいい」
検索ワードが奥深くの階層までどんどん繋がっていく。
私は気づけば泣いていた。
「ずっと君を見てたんだ」
「ストーカー?」
「違うよ僕は君の王子になりたかっただけ」
次々と検索窓の階層は深くなっていく。
「だがだめだ」
「全然だめだ」
「君はこちらには来てはいけない」
不穏な言葉が私を揺さぶる。
そして、決定打があった。
「ボドゲマンだぜ 私はだぁれ?」
「ボドゲマンだぜ お前は誰だ」
「ボドゲマンだぜ 騙しあい 全てが嘘なら良かったのにねえ」
「どういうこと?」
私は海野さんではない、怪物と話していることに気づく。
「君の純粋さにうるっとしたこともあるんだ」
そんな文字が検索ワードに出てきた時、私は背筋が凍って、冷や汗をかいていた。
見られている? どこで? どうやって? 私は監視されているのか? 
頭がパニックになって悲鳴をあげていた。
私は恐怖で震えていた。
次の日、警察に駆け込んだ。
「Googleの検索窓に、ストーカーがいるんです」
お巡りさんは、不思議そうな顔で私の話を聞いていた。
誰かに話すことで私は落ち着きを取り戻しつつあった。
これは、私の勘違いで、たまたま検索窓から意味深な単語を拾っていただけ。
親身になってくれたお巡りさんは、そう結論づけて、私に帰宅を促した。
私は夢から醒めて、虚ろな目で世界を見つめていた。
見慣れた景色が、知らない場所にみえた。
あ、そうだ。謝らないと。
私は海野さんに混乱していたこと、LINEの内容は気にしないでほしいことを連絡した。
海野さんからは、スタンプが一つ帰ってきた。
椅子から転げ落ちてる、ゆるキャラのスタンプだった。
私はその後返信をしなかった。
これで、この件はおしまいにしよう。
太陽が私の目を刺すように光っていた。

今日はあの騒動以来、初めてのボードゲーム会の日だ。
私はどんな顔をして会えばいいか、不安と緊張と羞恥のミックスジュースを飲んでいた。
いつも通り。いつも通り。
私は自分の心に言い聞かせる、
海野さんだって、蒸し返したり、しないだろう。
蒸し返すくらいなら、LINEで何があったのか、既に聞かれてるはずだ。
大丈夫、海野さんなら、知らんぷりして、またボードゲームしてくれるはずだ。
何度目かわからない大丈夫を繰り返し、私はボードゲームカフェの前に立った。

ボードゲーム会の帰りの電車の中。
私は席に座り、海野さんは前に立っていた。
海野さんはゴツいカメラの入ってる、大きなリュックを前に抱えているので、私の顔のすぐ前に、存在感がある。
「このデカいリュック、圧あるな〜」
そう私が指摘すると、海野さんは私に一歩近づいた。
私と海野さんの境界線を、彼のリュックが飛び越えてきた。
「何してるんですか、やめてくださいよ〜」
言葉と気持ちが一致していない。
私はそのイタズラが心地よく、そして嬉しく感じていた。
海野さんのリュックを軽くポンポンと叩く。
私もまた境界線を飛び越え、触れにいった。
こんな子どもじみたイタズラをされたのは、いつ以来だろう。
笑わずにはいられない私と、真顔で圧をかけてくる海野さんがいた。
私は海野さんの善意に守られている、と思った。
愛とか恋とか壮大な言葉ではなく、ちょっとした善意が私たちの関係を、いつも通りに戻し、そして少し近づけた。
私はずっと、混乱して顔が好きと言ってしまった事実を恥じていた。
でも、こんな風にお互いに秘匿しながら、いじり合える共犯関係になれるなら、あの時の混乱も報われる。
私は海野さんが好きだ。
それは決して恋愛じみた湿っぽい気持ちではない。
ひとりの生身の人間として、彼の器の大きさとクセの強さに、感謝の念を抱く。
ありがとう。海野さん。
疲れ切った私の心が、癒えていくのを感じた。
あの事件は解決も、答え合わせも、しなくていい。
ただ起きた出来事を受け入れて、同じ時を共有できる幸せは、こんなに安らぐものなのか。
理屈という重たい鎧を脱ぎ、この贅沢な幸せをただ噛み締める。
境界線をいったり来たりする彼のリュックは、私の最も弱くて震える部分を、優しく包む毛布になった。

「♫ ぼーくらはみんなぁーいーきているー」
保育園に向かっている時、娘が楽しげに歌い出した。
私も一緒に歌声を重ねる。
娘と私の音程は絶妙にずれていて、ハモリになって調和して響く。
通りすがりのお婆ちゃんが、微笑ましそうに目を細めていた。
横断歩道の近くまで行くと、信号が青になった。
進め。
そのまま歩いていくんだ。
私は何故か信号機に、励まされてるような錯覚を覚える。
そうだ、僕らはみんな、生きているんだ。



野菜室に忘れられたバナナ

2026年6月17日 発行 初版

著  者:白川彩乃
発  行:白川彩乃出版

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