spine
jacket

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通りの馬酔木

せきでん ひろし

灯りの書房



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目 次


表題作と他短編併録


通りの馬酔木

第一章 鹿撃ち帽

貸し借り問答
問答終わって
頼まれた舞
2つの帽子
沙和との遭遇
おだて上手な舞

第二章 錯覚

映画のチケット
喫茶店で
笠本の思い込み
実家――沙和のこと
店舗裏の駐車場
舞は見た
沙和のお礼
舞から求められる別れ

第三章 結界と二つの世界

導かれた舞
再会
日本庭園
磁場の異なる2つの世界
母親の旅立ち

第四章 赤山家の命運

妻との再会
舞のこと
豊の電話での催促
数日後、赤山宅を訪れる
後日、再び
その翌日、内容証明郵便が
数珠の力
久江が豊の店に行く
あれから半年以上経って
笠本に反対する父親
舞と笠本、喫茶店で
舞の回想


ベガスの片隅で

アパート
続く――アパート
カジノバー
続く――カジノバー
秘密の部屋
続く――秘密の部屋
夜の公園


おたふく島の夏伝説

出港
時化
時計
入港
熱烈歓迎
レディー
おたふくとひょっとこ
旅館


つきまとう影――老占い師

ある囁き
指の出血
不倫の過去を
気になる赤い点
赤い点に隠された気と病
男の影
紙包みの男



  通りの馬酔木


 第一章 鹿撃ち帽

貸し借り問答

「忙しいところ、急に呼び立ててすまんな。店は、なかなかの盛況のようだが、しずさんは元気かのう?」
「母は、お陰様で元気にしてます」
「そうか、そりゃあよかった。……実は、折り入って、君に頼みがあるんだがね」
 赤山は、ポットを引き寄せた。急須の蓋を取り、テーブルに置く。ゆっくり、ポットから注ぎ始める。――ある程度、注いだところで、そこにある蓋の中央をつまみ、元に戻す。そして、湯呑に、とくとく、とくとく――。
 緑がかった湯が急須の口から、湯呑に注がれて行く。とくとく、とくとく――。入れ終わると、一客をゆたかの前に差し出した。
「さっ、どうぞ」
「恐縮です」

「実はな、君も知ってのとおり、最近の物価高には凄まじいものがある。その影響で、取引先への支払いが滞ってしまってな。それで、これはいかんと、来てもらったというわけさ」
 豊は、それを聞くと、うつむき加減で赤山から横に視線を逸らした。電話では、丸太を移動させなきゃならんから、少しばかり手伝ってくれないかと言っていたんではないのか。その口ぶりからすると、どうも話が違うようだ。ひょっとして、また、あれか?
「赤山さん、本当に、丸太なんですか?」
「すまん、すまん、悪気があったわけじゃないんだ」
 ――ここへ来る前は、その手伝いをするつもりでいたが、ところがどうだ。すぐにこれだ。人を何だと思っているんだ。下僕じゃないんだ。
「――ギャンブルは、もう、おやめになられたらどうですか。儲かるわけもないですし……」
 冷静さを装いながら長々と話している。赤山は、豊の知り合いの失敗談に、真剣な面持ちで耳を傾けていた。
「……だがな、そう言うやつは、熱くなるタイプで、そこにくるとワシなんざ、家を担保にカネを借りようとは思わん。ただの趣味でやってるようなもんさ。いつも言ってるが、馬券を買う資金が足りないから借してくれと言うわけじゃない。会社の設備投資が裏目に出てしまってな。おまけに人は集まらないは、資材の高騰で仕入れもままならなくなるはで、お馬さんじゃないが、悲鳴を上げてるところさ。前は、すぐに銀行が融資してくれたんだが、今じゃ、経営状態を見透かされ、びた一文、貸さない。だから、この通りだ。頼むよ」
 赤山は、背中を丸め、手をすり合わせるようにして豊に懇願するのである。それを見ていた豊は、突然、自分の頬を平手で2・3発、叩いてみせた。――何だ、こいつは。何やってるんだ。赤山は思った。
「この通り、音がするでしょ。僕は、生きてるんですから拝むのだけは、よしてくださいよ」
 豊のその言葉に、赤山は、スキありと踏んだ。
「そうか、わかってくれたか」
 しかし、豊は、まともに受け取らなかった。自分の頬を叩いて見せたのは、半分はそれを拒否するためだった。
 僕が、あなたのカマシに乗るとでも……? 思い通りにはいきませんよ。だが、そう考えても相手は、母親とは幼馴染である。むげに、拒絶していいものかどうか。いいわけがない。――豊には、どうしても断り切れないもう一人の自分がいた。
「……しょうがないですね。けど、赤山さん、目を見開くのは、やめていただけませんか? 怖いじゃないですか、そんなに大きな目をしてこっちを見られたんじゃあ」
「何だと、このワシの目が怖いだと。それだけ、真剣に話しているということだ。君のことは、子どもの頃から知っておる。そのワシに対して、そんなものの言い方があるか!」
 赤山は、幾分、興奮気味に言った。

「わかりました――それじゃあ、何か担保にできるものは、お持ちですか?」
「残念だが、そう言うものはない」
 豊は、しばらく考えたところで、口を開く。
「家があるんでは……?」
「土地も家屋もワシのもんじゃない。妻の所有だ!」
 赤山は、声を荒らげた。
 豊は、テーブルの上に置いてある借用書を覗いていた。
「この程度の額になりますと、普通、保証人に加え担保がいるんですが……」
 豊は、自らの呼吸を整えつつ、ゆっくりと言った。
 前は、保証人も担保もいらないと条件を付けなかったが、急に条件を付けるとはどういうことだ。赤山は、眉間にしわを寄せながら、彼の顔を見ていた。
「……お馬さんをしようというわけじゃない。わかってくれ。経営の立て直しのために貸してくれと言ってるんだ」
 赤山は、沈黙した。声にこそ出さなかったが、腹の中では、もう一つの考えを持っていたようである。――こいつは奥の手を出せば、ワシになびくはずだ。赤山は、うつむき加減で、ほくそ笑んだ。
「担保はないが、その代わりといっちゃあ何だが、うちの娘が君の店を手伝うよう説得してみるから、頼むよ。君のところも、人手が足らなくて困ってるんだろ……」
 このとき、豊の顔が、にわかに紅潮し始めたのを見逃さなかった。――やはりか。赤山は思った。


問答終わって

 赤山は、先ほどから豊の傍らに置かれた紙袋が気になっていた。あの図柄から察するに中味は、娘の好物のあれかもしれない。豊は、手土産のことを忘れていたわけではなかったが、わずかに動いた彼の視線に気づき、それに手を伸ばした。
「これ、店のフライドポテトです」
「すまんな。いつも気を遣わせて」
「ところで、奥さんがお見えになられないようですが……」
「まあ、ちょっとな」
 豊は、どうしたのかと気にはなったが、遠方にでも行かれたのだろうと思うと、それ以上のことは訊ねることもなかった。
 赤山は、その豊の話を耳にすると、思い出したかのようにTVをつけた。その原因は、口にこそ出さないが、やはり、内心では妻のことが気になっていたのだろうか、それとも、たまたまニュースの時間だからスイッチを入れたのか、TVを食い入るように見つめていた。
「最近は、物騒な世の中になったもんだな」
「トクリュウの仕業らしいです。闇バイトのあれですよ」
「SNSとかいうものを使って、素人が簡単に引っかかる、あれか。最近、多いようだな、その手の事件が」
「高い報酬に目がくらんで乗るようですね」
「宝石店の映像を流しているようだが、狙われたのか。――ガラスは割られ無茶苦茶やりおるわい」
「どこに押し入るか、わからなくて、怖いですね」
「君のところも気をつけろよ」
「はあ」
 豊は、座っていたソファーから立ち上がった。
「もう帰るのか、ゆっくりして行けよ」
「店があるものですから、そういうわけにも行かなくて……」
「そうか、それじゃ、しょうがないな」
「――では、奥さんと娘さんによろしくお伝えください」
 赤山は、何かが吹っ切れたように、
「もちろん、伝えておくよ。静さんにもよろしくな」と、返した。
 豊は、ツイードの帽子を手に取った。赤山は、ふと、それに目をやった。
「なかなか、洒落てるじゃないか、その帽子……」
「これですか。鹿撃ち帽と言われるもので、例のシャーロック・ホームズが被ってたあれですかね。一九世紀のイギリスで狩猟用に使われたのが、始まりのようです。母からの贈り物なんですよ」
「そうか。静さんにか」
 赤山は、帽子屋で彼女に、何で同じ種類の帽子を2つも買う必要があるんだと尋ねた手前、ここでは豊にその話を伏せておくことにしたのだった。これを話せば、どうなるかくらいは、わかっていた。静からも時期が来るまで言わないでほしいと、口止めされていた。
「――また、こちらから連絡するが、それでいいか」
 赤山は、言った。
「はい。僕は、いつでも大丈夫です」
 豊は、ソファーを背にそれを被ると、リビングルームを後にした。

 そこに座ったまま、赤山は、先ほどの豊の話を思い出していた。
「……僕の知り合いなどは、元を取り戻そうとして散々つぎ込んだ挙句、借金が膨れ上がり、奥さんが3人の子どもさんを連れ、家を出てしまったそうなんですよ」
 豊の告げたその言葉が、なぜか、脳裏に焼き付いて離れなかった。――確かに、そう言うこともあるのかもしれない。しかし、ワシは、違う。だが……、もし、そうなったらどうする。……否、そんなことはあるはずがない。限度さえわきまえていれば、間違いはない。しかし、絶対にそういい切れるか……。
 体を前屈みにしながら考えていると、部屋の外で、突然、バタンという音がした。その音を聞いて、まいは、すぐに階段を下りてきた。
 リビングルームのドアが開いた。
「――パパ、大丈夫?」
「どうしたんだ、舞。そんなに慌てて……」
「大きな音がしたものだから、倒れたんではないかと……」
 息が荒くなっていた。
「たぶん、豊君が、ドアを閉めたんだろう」
「そうなの。それなら、いいけど……」


頼まれた舞

「……どんな用事だったの?」
 舞にそう言われ、赤山は、一瞬、ハッとした。
「実はな、今、店のほう、人手が足りず困っているらしい。募集しても、人が集まらないってことで、ワシのところに来たというわけさ」
「そうだったの」
 舞の顔を見て、赤山は、表情を緩めた。
「舞のタイプかな……」
「――まさかでしょう」
「そうか……、まあ、それもよかろう。しかしな、それは置くにしても、困っている者を助けてやろうという心は、大事なことかも知れんぞ」
「それ、どういうこと?」
「実は、舞に頼みがあってな」
「何? 頼みって……」
「やつの店のことだが、おまえ、少し手伝ってやらんか」
「急に、言われても……。普段は仕事があるし……」
 そう返したものの、舞は、どうしたらいいものか、一寸、考えた。
「パパが、そういうなら、考えてみる。うちの会社、週休2日だから。休みのときなら、調整が利くかもしれないわ。でも、期待しないでね」
 舞は、そう言うと、2階に上がった。

 聞くところによると、静さんのところは、状態が酷かったらしい。前の亭主が酒と暴力、それにギャンブルで、相当、彼女を追い詰めてしまった。だから、結果としては、ああいう風になってしまったんだろう。その点、ワシなんかは、そこまではしない。女房に逃げられはしても、帰ってくるからな。まだ、救われているほうだ。だが、今回ばかりは、ちょいと長いな。――赤山は、腕組みをして考えるのである。
 ふと、帽子店で出会った静のことを思い出していた。しかし、面食らったな。彼女が同じ2つの帽子を買うんだからな。同種、同色、しかも、同柄のをだ……。


2つの帽子

「なんだ、静さんじゃないか」
「あら、お久しぶりね。今日は、どういう風の吹き回し……?」
「ちょっと、店主に用があってね。商工会のあれさ」
 赤山は、指で酒を吞む真似をして見せた。
 静にしてみれば、元夫に散々な目に遭ってきただけに、一瞬、表情を曇らせた。
「お仲間と一杯ですか。いいですね」
 しばし、沈黙が続く。
 静は、帽子を2つカゴに入れていた。
「ところで、また、どうして同じ帽子を……」
「あっ、これ?」
 静は、カゴに入れた鹿撃ち帽を1つ取ると、それを見つめながら、愛おしそうに触っている。
「実は、私には、別れた亭主との間に男の子が一人いますのよ。これまで、何もしてあげられず、もう、今年で二〇年なんです」
「へー、それは知らなかった」
「その子、日頃から、身なりに気を遣うものですから、これを贈ろうかと思って、立ち寄ったというわけですの……」
「それで、2つ?」
「いえ、もう1つは、義理の息子のですのよ。いつも、私のためには気を遣わせてますし、今まで、あまりしてあげたこともないものですから」
「それで、2つというわけですね。それにしても同じ帽子ってのが、わからないな」
 赤山は、1つは、他の帽子にしてもいいのではないか、せめて色違いの帽子にすれば、と考えていたのである。
「わかりませんの?」
 静は、不思議そうに赤山の顔を眺めた。
「息子への愛は同じだからですよ。――二人とも、早く、いいお嫁さんをもらってくれれば、いいんですけどね」


沙和との遭遇

 この日は、店の従業員が休みのためその補充要員として、どうしても午後から店を手伝ってほしいと豊に頼まれていた。本来は、土・日だけなのにと思いつつも慣れてくれば、そう言うわけにもいかなくなることくらいは自覚していたようで、舞は、会社を午前中で切り上げると、早々に電車を乗り継ぎ、自宅にほど近い駅のバスターミナルに来ていた。
 3駅手前で降りれば、笠本かさもとのマンションではあったが、昼間に行っても、彼はいないし、部屋の掃除をしようにも、時間がそれほどあるわけではない。舞は、しばらく彼のことを考えながらも、視線はチケット売り場に向かっていた。
 交通情報を目にする。――感情のこもらない無機質な文字が、まるで音のないドミノ倒しのようにフレームの側辺に吸い込まれたかと思えば、また先頭に戻り、同じことを繰り返している。どうして、こうも味気ないのかしら。えっ。ラッシュアワーでもないのにそうだったんだ。乗客にとっては、たいへん役立つ掲示板であったのである。
 道路工事の影響で、現在、国道〇号線は渋滞していて、〇〇方面行きのバスは、三〇分ほど遅れているとのこと。それなら歩いて帰っても、あまり変わらないじゃないの。――そうだわ。今日は天気もいいし、久しぶりに家まで歩くことにしようかしら。
 大通りを真っすぐ歩くより、住宅街を抜けるほうが、車も少なく安全で、しかもかなりの近道になる。狭いが、この道を行こうと決めた。歩き始めて約一〇分くらいが経った頃、再び、笠本のことを考えていると、一人の女性が、トートバッグと紙袋を持って前方からやってくる。しかし、門扉のところで立ち止まっては次へ、また、立ち止まっては次へと、しきりに何かを気にしながら近づいてくるのである。――どこかのお宅を探しているのかしら。そう思ったとき、女性は、はたと、舞に気づいた。
「――あのう、確かこの辺りのはずなんですが、笠本さんのお宅をご存じないでしょうか?」
 女性は言った。
「ごめんなさい。この辺りに住んでいるわけではないので、知らないんですよ……」と、舞は返した。
「そうなんですね……」
 女性は、残念そうな顔をして彼女を見た。
 そんな顔をして見つめられても……。舞が思いつくとすれば、お付き合いしている彼の姓だけである。当然、彼が、この辺りに住んでいるわけではないし、他に心当たりのある姓を知っているわけでもない。返す言葉に窮していると、突然、何かを思い出したように、――そういえば、彼の実家がこの地区にあるようなことを、前に言ってなかったかしら……。と、考えた。
 ――そのときだった。
「ありました。ここにありました。笠本〇〇という表札が……。ご心配をおかけしました。ここで間違いありません」と、感極まったような声が聞こえたのである。
 舞は、彼女に近づき、表札を確認してみると、確かに、笠本〇〇とあり、その横には、奥さんの名前だろうか、〇〇と記されていた。
 舞は思い出した。笠本と付き合い始めた頃、彼が実家の話をしていたことがあるわ。――その話をしてくれた状況を含めて、このとき、それがはっきりと蘇っていたのである。この町の名は、彼が言っていた町名と一致するのではないかしら。
 でも、この表札にある女性の名前、彼の口からは、一度も出たことはなかった。笠本違いの笠本さん宅とも考えられるわね。舞は、思った。
 一方で、女性は、このとき、チャイムを鳴らしていたようである。その音を聞いたのか、表てで声がしていたのを聞きつけたのかは定かではなかったが、ドアが開くと、玄関先に人が現れた。
「何かご用ですか」
 老婦人は、言う。
「私、沙和さわと申しますが……」

 沙和は、舞のほうを見るや、
「お忙しいところ、本当に、ご親切にありがとうございました」と、深々と頭を下げた。
「見つかって、本当に、よかったですね」
 舞は、そう言って会釈で返すと、その場を後にした。


おだて上手な舞

「ただいま」
「早かったじゃないか……」
 舞が門扉を開けると、赤山の姿が目に入った。
「きょうは、どうしても手伝ってほしいとお願いされて、会社、早めに切り上げたの」
「そうだったか。店は忙しいんだな」
「平日の勤務は、本業の方だけでローテーションを組んでやっているんだけれど、それじゃ間に合わないこともあるらしくて、それで仕方なく四時から入ることになったのよ」
「まあ、おまえのやっていることだ。ワシがとやかく言う立場にはあるまい。人様の役に立っているなら、それでいい、それで」
 舞は、きょとんとしていた。

「TVの音がうるさいわね。ひょっとして、つけっぱなし?」
「ああ。――消すの忘れてたらしい。すまんが、消してきてくれないか」
「しょうがないわね」
 リビングルームの窓が開いていた。どうりでね。舞は、そこから部屋に上がるとスイッチを消した。
「パパ。また、死体遺棄事件のニュース、やってたわ」
「そうか。よくあるなあ、最近」
 赤山は、剪定の真っ最中であった。
「どこであったのか知らないけど、いやだわね。聞くだけでもぞっとするわ」

 赤山は、庭の手入れに集中している。木を見ながら、まさに自画自賛の体で、
「枝ぶりがいいんだ、これは」と、言った。
「何ていうの?」
「決まってるじゃないか。松だ。舞は知らないかもだが、昔、まつのき小唄って流行っててな、あのまつ﹅﹅じゃないぞ」
「わかってるわよ。パパが家のカラオケで歌ってたあのまつ﹅﹅じゃないことくらい」
「そうだったか?――見てのとおり皮が黒いだろ、これを黒松と言ってな。このどっしりとした風格から別名、男松とも言うんだな」
「へー、そうなの」
 赤山に似て、舞は、人を乗せるのがうまい性格だった。あまり興味なさそうなのはわかっていたが、娘が、そう言ってくれたのは、彼にとっては、この上もない幸せだった。
「ところで、お前、仕事は休みか?」
「今日は、午後から休みをもらったのよ。さっき、言ったじゃない」
「それならいいんだが……。ところで、先週、おトヨさんが店に行かなかったか。舞が、ファーストフード店で土・日に働いていることを伝えたら、様子を見に行くって言ってたんだがな」
「バスで?」
「歩いて行ける距離ではないから、車に乗せてもらって行ったんだろう」
「けど、それらしき人は、見なかったわね」
「……だとすると、店に入らず、帰ったのか」
「曜日の線もあるわよ。それに、まだ、来てないかもね」
「……そうかもだな」
 赤山は、続けた。
「それはそうと、おトヨさんと言えば、ワシが金物屋に用があったとき、偶然、出くわしたことがあってな。『あら、新ちゃんじゃないの』、『なんだ、おばさんか』から始まって、しばらく、おトヨさんの話が止まらなくなったことがあるのさ。聞くかい」
「聞くに決まってるでしょ、もう……」
「そうかい。それじゃあ、話そう。――籐の乳母車を押してる割には、意外に話すときは、シャンとしているから、驚いたよ」
「えっ。どういうこと?」
「他愛もない話だが、ワシが、仕事で中国へ行ったとき――上海から奉天まで列車で移動したというと、おトヨさんが言うのさ。『火車(ホオチャー)は、懐かしいね。あの頃のことが目に浮かぶようだよ』と。よく中国語を思い出したもんだと感心させられたね。だが、話はそこで終わらず、まくし立てるように次から次に奉天の話が出たのさ」
「そうだったの。隣のおばさん、中国に住んでたなんて知らなかったわ」
「ワシも、おトヨさんの子どもの頃の話を聞いたのは、初めてだったものだから、2度びっくりだ」
「それで、おばさん、何話したの?」
「――実はな、おトヨさんのご両親、満蒙開拓団として大陸に渡り、そこで生まれ育ったということさ。戦後の混乱期には、奉天で家族と生き別れ、路頭に迷っていたところを現地の方に助けられ、随分、お世話になったらしい。ところが、その話になると、壊れたレコードのように、また、話が元に戻るんだな。それ、聞きましたよと、尋ねても全く聞く耳を持たずで、ワシは、しょうがないな、と思いながらも最後まで話に付き合うはめになってしまったというわけさ」
「パパのしょうがないは余分だけど、そんな体験をされてたの、あのおばさん」
「涙、涙の話さ、舞」
「――いい話じゃないの、パパ」
 赤山は、急に目頭を押さえた。
「あっ、――パパ、また泣いてるの」
 とっさに、タオルで顔を拭った。
「違うんだ。ホースの水が、目にかかっただけさ」
 そのとき、舞は見た。水なんか出てないじゃない。やっぱりね、と思った。



 第二章 錯覚

映画のチケット

「お待たせしました」
 トレーを持って席に移動した。カウンターの奥には、調理場が見える。大型冷蔵庫が邪魔をし、はっきりとは確認できなかったが、舞の姿が時折、見え隠れしていたのはわかっていた。笠本は、深く帽子を被り、日頃は掛けない眼鏡をかけて店に来ただけに、このときは、彼女に気づかれることはなかった。
 じっと目を凝らし彼女を見ている。そこに白いワークキャップを被った男が現われた。こちらに気づく様子はない。男の帽子には、他のスタッフにはない黒い線が入っている。やつが、オーナーか。――たぶん、そうだろう。
 彼女が話していた背の高い男に、ぴったり一致していたのである。
 舞とオーナーが向かい合って何かを話している。と、彼女は、エプロンのポケットから封筒のようなものを取り出し、ニコッと微笑んだ。それを男は、黙って受け取った。笠本は、半ば、嫉妬めいた感覚にとらわれる。――中味は、一体、何なんだ。
 渡し終わると、舞は、そこに立ったまま一人の客の熱い視線を感じ始める。――誰かが、私を見てるようだわ。彼は、トレーを持つと、カウンター横のトラッシュボックスへ移動した。彼女には、このとき、それが誰であるか、はっきりとわかったのである。すぐにカウンターにやってくる。
「あら、来てたの。――チェック柄の帽子に眼鏡なんかして、どうしたの? まるで、シャーロック・ホームズみたいじゃない?」
「……変装しているわけではないんだ。おふくろにもらった鹿撃ち帽に、眼鏡を掛けただけの話さ」
「じゃあ、それって変装じゃない」
 一瞬、沈黙が漂った。
「……ところで、私に何か用があったの?」
「別になかったんだが……」
 笠本は、そこから先を話そうかどうか、躊躇っていた。
「俺がここに来た理由は、またの機会に話すことにするよ。――あす、空いてるかい」
「あすは、あいにく月曜日で仕事がたまっているから無理よ。金曜日にしない?」
「俺は、それでいいよ」
「会社は、定時に終わるけど移動時間もあるし、六時頃になるわね」
「わかった。それじゃ、あの喫茶店で……」
 笠本は、言った。


喫茶店で

 ――舞は、電車を降りる。駅のコンコースを歩きながら、ふと、腕時計に目をやった。あら、たいへん。もう、こんな時間だわ。外へ出て前方を見ると歩行者信号は青だった。急ぎ足になって間もなく信号が点滅し始め、赤に変わった。
 足踏みをしながら、明かりの灯った雑居ビルの8階辺りを眺めている。なかなか青にならないわ。この信号、おかしいわね。もしかして壊れたのかしら。しかし、信号が変わると、そんなことはすっかり忘れ、先ほど目にしていた方向へ意気揚々と歩みを進めた。
 もう、来てるはずだわ、急がなくっちゃ。2階へ駆け上がる。そこには、1台のエレベーターが待機していた。△ボタンを押す。ウインチの唸りが聞こえ始めた。ガシャンと突然、音がしたかと思えば、眼前にフロアが広がった。舞は、息を整える間もなく店のドアを引いた。そこにぶら下がっているベルが、客の気持をよそに、いつになくけたたましく鳴り響くのである。
「いらっしゃいませ」

「あら、いけない」
 一瞬、舞は、何が起こったのかわからなかった。首を後ろに引かれ、圧迫感を覚えた。顧みると、何よ、これ。ドアに挟まってるじゃない。いやーね、もう……。
 そこへ女性店員が、足早にやってくる。
「どうもすみません」
 店員は、言った。
 ドアが少し開いたと同時に、舞は、スカーフをそっと外した。
「ありがとう」
 店内を見渡した。あそこだわ。窓側の席から一人、手を振っている。舞は、そこへ向かった。

「ごめん、ごめん、待たせちゃって……」
 舞は、言った。
「俺のことは、気にしなくてもいいんだ。わかってたよ、舞ちゃんが遅くなることくらいは。いつものことだから……」
 笠本は、不機嫌そうな顔をして言う。
「会社を出ようとしたら、急に用事を頼まれたの」
 舞は、彼の表情に違和感を覚えたが、それに釣られることなく、笑みを浮かべて返した。
「いいのさ」
 笠本は、幾分、つっけんどんに応えた。舞は、少し戸惑っている。しかし、私が遅れたんだから……。気持ちを切り替えてテーブルを挟んで座った。
「ところで、どうしたんだい。さっき、ドアの前で、しばらく立っていたようだが……」
「あれね。――スカーフがドアに挟まれたのよ」
「そうだったのか」
 笠本は、それをまじまじと見ながら、
「――遠目でも赤は鮮やかだが、近くから見ても縞模様が入ってきれいだね」と、言った。
「そうかしら」
 コーヒーカップを持ち、窓の外を眺めるふりをして、そこに映る笠本の様子を窺っている。彼は、うつむいていた。

「ところで、君が、始めたバイトなんだが、もう、一か月半か」
「何言ってるのよ。やがて二か月がくるわ」
 舞は、そう返すと、クラクションが、遠くに聞こえた。下を見ると、幾筋もの車のヘッドライトが、クロスしたり、曲線を描いたりして行き交っている。その向こうには、赤や青のネオンサインが、まるで親し気に会話でもしてるかのようにチカチカと瞬いている。
 しばらく、その光景を眺めていた。
「たまには、二人で、お茶するのもいいもんだね。――ところで、先日、俺が店を覗いたときの話だが、オーナーに何を……」
 笠本は、言った。
「ああ、あのときね。映画のチケット、頼まれたのよ。それで、手渡したってわけ」
「そうだったのか。俺、君が、てっきり……」
「てっきりって?」
「いや、いいんだ。ところで、いつからだい?」
「いつからって?」
「映画の上映のことだよ」
「それが、今日からなのよ」
「そりゃあ、よかった」
 変な人ね、何が、「そりゃあ、よかった」のよ……。舞は、笠本が何を考えているのか、さっぱり掴み切れないでいた。奥歯に物の挟まったような言い方が、彼女をそう思わせたのだった。
 笠本は、表面的には納得してみせたものの、相変わらず、複雑な表情を滲ませている。

「家に帰ってパパの食事をつくらなきゃならないから、もうそろそろ出ない?」
「そうだな、遅くなってもいけないから、そうしようか」
 彼が、紙の伝票を手に持とうとしたときだった。
「……何で、あのとき、店に来たの?」
 彼女の唐突な問いに、
「大したことはないんだ。君の働く姿を見に行っただけのことさ」
 思わず、口を濁した。
 笠本は、表情を曇らせると、俺にもプライドがあるから、そこまでにしてくれないかという思いでいた。その口ぶりから、これ以上のことを訊けば、彼がどういう反応をするか、おおよそ、舞には、察しは付いていた。


笠本の思い込み

 舞を駅まで送ると、人ごみの中を一人歩きながら考えていた。――上映初日は、今日だったな。どうも、釈然としない。ひょっとすると……、改札を入って行ったのは、それを隠すためのカムフラージュだったのか?――彼は、一瞬、その方角を振り返った。
「危ねえじゃねーか、こんなところに突っ立って。――ボーッとしてんじゃねーよ」
「どうも、すみません」
 笠本は、軽く頭を下げた。
 一言、謝ってはみたものの、そんなことには、ほとんど頓着せず、頭の中は舞のことで一杯だった。
 本当のところどうなんだろう。……いくらなんでも、それはないよな。だからこそ、彼女は、俺に話してくれたんじゃないか。そうでなければ、わざわざ俺に、その話をすることもない。
 たぶん、男と観に行く予定はなかったということだろう。男が自分で買いに行く暇がないからアルバイターの彼女を使って、チケットの購入を頼んだんだ。だが、そう思ってはみたものの、彼の思考の裏では、肯定と否定の2つが、潮の満ち引きのようにせめぎ合っていたのである。
 ――本当に、そう言い切れるか? 当初より彼女と行くつもりで、彼女にチケットを買わせたのではないか。否、そうじゃない。彼女が、それを不安に思い、俺にそのことを打ち明けたわけだから、その線はないはずだ。
 しかし、それが事実だとすれば、どうも、腑に落ちない点が出てくる。どうして彼女が、あの場面で、ニコッと笑う必要があったのか。俺には、その辺りが、全く解せない。もしかすると、まんざらでもなかったのでは? 少なくとも、彼女のあのときの表情には、そう描いてあった。
 疑いなく彼女の本心は、駅で男と待ち合わせ、シアターに二人で足を運ぶつもりだったのだ。そうに違いない。それにしても、俺に気づかれないようにわざわざ駅から電車に乗る振りをするとは、どういう神経をしてるんだろう。まあ、いい。俺は、これからどうしたらいいか、お陰で、わかるというものさ。

 ところが、困ったことに、駅前付近にはシアターが3か所あったのである。
 笠本は、考えた。――入るとすれば、どこなのかをである。確かに大通りに面したところが、一番大きなシアターで、その横の路地を入ってしばらく歩くと、2か所、シアターが並んでいた。
 カップルが入りそうな場所は、奥のシアターか? しかし、人通りの多い通りで待っていれば、路地に入って行ったとしても二人を目撃することはできる。――手前で待つとしよう。コンクリートの柱に隠れ、顔を半分覗かせると、出入り口付近の人の往来を逐一、確認していた。時は、刻一刻と経過して行く。
 彼は前方を見ている。二人のカップルが目に入る。だが、あの二人ではなさそうである。もし、彼らであるとすれば、服装がもっと若い。それに歩き方をよく見ると二人とも年を取っているように思える。彼は、ふと、腕時計を見た。最終上映時間まで、あと一〇分か。
 時間は、無情にも流れて行き、もう来ないかと諦めかけたそのときだった。それらしき、カップルが手と手を取り合って、シアターに入ろうとしていた。男は上背があり、女のほうは、赤いスカーフを首に巻いている。彼女に違いないと思うが、今いち、こちらからでは顔がはっきりしない。――ちくしょう。街明かりだけでは無理だ。とはいえ、赤いスカーフがすべてを説明している。

 途中、書店に寄る。漫画本を1冊買うと笠本は、ほどなくして家に着いた。収まりそうにもない気持ちをぶつけるように、スマホを触っている。一通り今日のニュース記事を確認し終わり、円相場をチェックした。ポジションを見ると、驚くことに真っ白になっていた。
「やっぱり、ついてないときはついてないんだ」
 そう呟くと無造作に時計を見た。もう映画は、終わってる頃だな。舞に電話をして見るか。呼び出し音が鳴る。
 プルルル、プルルル、――。
「もしもし、俺だけど。――おまえさ、それ、おまえの言い分じゃないのか。俺は、そんなことを言ってるんじゃないのさ。――おまえは、そこまでよく言えるね。――だから、電話してるんじゃないか。観に行ったなら、観に行ったと言ってくれれば、それでいいんだ。俺は、一部始終を見てるんだからな」
 プツッ
 電話を切られた。なんだ、こいつは。何、考えてるんだ。


実家――沙和のこと

 部屋を見渡す。あれ、誰もいないのか。電気は点いているが、台所にもいない。おかしいな。そこへ義母が現れた。
「おかえり」
「親父は?」
「ああ、今、町内会の集りに出たようね。――ご飯は?」
「すぐに帰るから、何もいらない。しかし、残念だな、親父に会えないとは。せっかく、寄ったのに」
「お父さんの顔、見るくらいの時間はあるんでしょ」
「わからない。親父しだいじゃないのかな」
「そうなの。それは残念だわね」
「いいさ。いつでも来ようと思えば、これるから。――俺としては、何か、特別な話があるわけでもないし……」
 そう言うと、急に昔のことを思い出していた。

 今だから、俺は、そういうのんきなことを言っておられるんだな。おふくろと三人で暮らしていたときは、そんなもんじゃなかった。親父は、毎日、酒を呑み、暴れて手をつけられないことも多かった。その頃の親父は肝硬変を患っていて、酒が手放せない有様だった。医者からは、これ以上、酒を呑み続ければ余命二年と言われていた。それでも呑んでいた。しかし、おふくろが家を出て行ってからというもの、ピタッと酒をやめた。ギャンブルも一切しなくなった。これほどまでに人が変わるものかと思わせるくらい変わって行った。だけど、おふくろは……。

「顔色がすぐれないようね」
「何でもないのさ」
「それはそうと、数日前ね、沙和という女の人が来られたのよ」
「誰だい、その人は」
「知らないの?」
「知らないな。……家に上げたのかい」
「要件だけ話すと、すぐに帰られたよ。よろしくお伝えくださいって」
「えっ。……誰だろう?」
「確か、ご迷惑をおかけして……と、言ってたわね」
「(う~ん) なんだ、彼女か」
「じゃあ、知ってるんじゃないの」
「知ってるわけでもないんだ。偶然にぶつかってきたのさ。――俺がコーヒー飲んでてトイレに立とうとしていたとき、彼女が帰り際、そこを通りかかってね。たぶん、横にも人がいて、彼女はその人を避けるために、俺のほうに寄り過ぎて、テーブルのコーナーにカバンの持ち手を引っ掛けてしまって、それが発端だったんじゃないかな、と思うのさ。そこで、コーヒーがこぼれて、椅子は濡れるは、ズボンにひっかかるはで、てんやわんやの大騒ぎになってね」
「そうだったの」
「……で、後でクリーニング代を払うからと言って、住所・氏名を聞いてきたから、ここの住所を教えたというわけ」
「なるほどね。――とにかく、預かっているものがあるから、ちょっと待てて」
 義母は、隣の部屋へ取りに行った。戻ってくると、白い紙袋を差し出す。
「これを俺に。へー。何だろう。どれどれ。――『先日は、大変、ご迷惑をおかけしました。少ないですけど、クリーニング代にしてください。沙和より』。何だ、お礼のメモ書きと現金が添えてあるじゃないか」
「……でも、今どきいないわよ。それだけ律儀で上品なお嬢さんは」
「知ってるさ。しかし、俺は、どうも、そう言うの苦手で」
 義母は、少し躊躇いながら、
「携帯の電話番号、教えておいたから……」と、小声で言った。
「――えっ! 余計なことをするんじゃないよ」


店舗裏の駐車場

 あのときは、俺の思い過ごしだったんだ。そうに違いない。舞が、愛おし過ぎて、そう言う気持ちに駆られただけなんだ。確かに自分で自分がわからなくなることもあった。こともあろうに、はなっから舞を疑うなんて、どうかしてたんだ。
 とはいえ、俺には先日の、エプロンのポケットから封筒を取り出し、ニコッと笑って見せた舞のあの顔がどうも、目に焼きついて離れない。だが、それは、彼女の好意の感情がさせたものだろうか。俺には、わからない。
 笠本は、オーナーに一度、会って話をしようと考えていた。彼女にどんな思いで接しているのかを知りたかった。互いに好意は抱いてなかったとしても、笠本は、そこのところを直に尋ねて見なければ気が済まなかった。率直に言えば、釘を刺しておかなければならないという思いでいた。いつにするか、その日を。できれば、早いほうがいい。このままでは自分の気持が持たない。そうだ。ついでだ。この足で行ってみるか。
 店まで、車を走らせた。

 閉店する時間帯になって、笠本は、店を訪れたのである。近くに、トラックの行き交う音が聞こえてくる。夜の一一時を回っていただろうか。――間に合わなかったらしい。店のシャッターは、閉まっていた。街灯を頼りに見渡すと、裏の駐車場へ歩いて行く男の姿が目に入った。やつだろうか。男の風貌からは、やつだとは、はっきり確認できなかった。
 見た感じでは、やせ型で背が高く、随分、派手な服装をしているようである。笠本としては、その出で立ちからして、不気味な印象を受けた。――俺が話しかければ、今にも、相手が襲いかかってきそうな気配すら感じられる。内心、警戒心を募らせながら、男の様子を隠れるようにして窺っていた。
 男が、向きを変えたとき、鹿撃ち帽の下から鋭い眼光が、一瞬、車のヘッドライトに反射するかのように、ピカッと光った。犬や猫でもあるまいし、本来、人の目がそれほど光るわけはないのだが、昼間の男の印象から、本能的にそう見えたのだろう。ここは、声をかけてみるしかない。気を取り直し、俺は声をかけた。
「あのう。ちょっと、すみませんが……」
「何だね、こんな時間に。君は、誰かね」
 男は、懐中電灯で俺の顔を照らした。
「いや。――あの、その。失礼しました」
 男は、言った。


舞は見た

 今日は、補充として手伝った日のお返しにと休みをもらっていた。腕時計を見る。午後七時であった。先日の電話のことを謝りに、彼のマンションの前まできていたのだが、この時間に来るのは稀で、何かなければ訪ねることはなかった。そして、何よりも躊躇いがあった。
 まだ、夜の冷え込みは厳しい。前屈みになって掌に2・3回、息を吹き掛けている。そのときだけは温かったが、すぐに、温かさは水蒸気と共に闇の彼方へと消えて行った。いっときして、笠本の部屋の明かりが消えた。何だろう。就寝には、早い時間だわ。しばらく待つことにした。マンションから出てきたようである。舞は、声をかけようと思ったが、言い過ぎたことのわだかまりが邪魔をして、声をかけられずにいた。
 どこへ行くのかしら。――笠本の後を付けるつもりはなく、ただ、無意識裡に彼の後を付いて行くのである。コンビニだったらもっと手前にあるのに、彼ったら……。気がつくと、1キロくらい歩いていた。通りの角を曲がるとそこには、一軒のカフェがあった。
 入って行くつもりかしら? でも、後ろにいるのは、どこかで見たことのある女性のようだわ。もしかして、このあいだの……? はっきり見えなかったが、続くようにその女性が入って行った。この状況では、中で待ち合わせているのか、それとも……。それを見極めるためにも、人通りのある表で待つことにした。二〇分くらい経った頃だった。
 ――出てきたわ。舞は目を疑った。あの二人に間違いない。女性は、先日、偶然に出会った沙和であった。彼女が笠本と並んで歩いている。どうして、あのとき、笠本宅を探していた彼女がここにいるのか、見当もつかない。しかし、それは、紛れもない事実であった。


沙和のお礼

「電話をかけてくれて、どうも……」
 笠本は、言った。
「実際、また、お会いできるなんて、思いもしませんでしたわ」
 沙和は、返した。
 笠本としては、本当は、会うつもりはなかった。電話がかかってきて、会ってくれと言われたから仕方がないな、という程度の気持ちで会ったのである。できれば、電話をかけてきてほしくはなく、この上もなく迷惑なことであった。しかし、電話がかかってきた以上、また、会ってほしいと言われた以上、会わないわけにはいかなかった。
「俺は、かまわないんです。どのみち、何もやることはなかったわけですし……」
「どうもすみません」
「ただ、何ゆえに、俺なんですか」
「いえ、それは、あの……」
 現実問題として、他の人間では、埒が明かなかった。ここにいる笠本だからこそ会うのだった。彼の代わりになる者がいるはずもなかった。
「……笠本さん、私を覚えていますか」
 沙和は、笠本をじっと見つめる。
「覚えているって、どういうことでしょうか」
「あの喫茶店で、でしょ……」
「そうです。しかし、もう一人の女性としては?」
「……わからないですね。さっぱり、意味が」
「ほら、あのときの。思い出せませんか」
 笠本は、考えた。しかし、どうしても、心当たりがなかった。
「すまないです。俺は、あなたとどこかで、お会いしましたっけ」
 何度も、記憶の糸を手繰り寄せてはみるが、思い出せないのである。
「いいんですよ。思い出せないものを無理に思い出せとは言いませんから。あなたが、何かの拍子に思い出せたときで、いいんです」
「はあ」
 彼女は、すでにこの世の人ではなかった。交通事故で亡くなっていた。車は大破、炎上。皆、傍観していた、あのとき。初めて見る彼の眼差しに心打たれたのである。命を賭して手を差し延べてくれた彼に、お礼が言いたかったのである。たとえ、命は助からなくとも……。
 笠本は、半信半疑の体で、彼女を見た。
「それじゃ、これで失礼させてもらいますは、俺」
「一緒に出ましょ」

 どういうわけか、沙和は、急に嬉しそうに笠本のほうを向いて何かをしゃべり始めた。傍からは、それはまるで意気投合した恋人同士のように楽しそうに見えるのである。人が変わったかのように、そうしてくる。これは、一体、なんだ。俺は、何かの罠にはまっているのではないか。
「おい、やめてくれないか、誰かに見られたらどうする?」
「大丈夫よ、……」
「おい、やめてくれったっら。ほら、あいつも、また、あいつも、そして、あいつも、こっちを指して、笑ってるではないか」


舞から求められる別れ

「――あなたとは、やっぱり、やっていけないわ」
「どうしてそんなことを言うんだ。俺が何か悪いことをしたかよ」
「したんじゃない。街で見たのよ。女の人といい仲なのね。しかも、私の知ってる人よ」
「おまえ、見たのか。あれはだな。違うんだよ。成り行きでそうなったまでの話なんだ。というより、一方的なんだ。俺が、そうされた被害者なんだ」
「何言ってるのよ。すべては身から出た錆で、あなたが、悪いのよ。あなたにそういうスキがあるから、いけないのよ。私はね、怒ってなんかいないわ。そういう、あなたに我慢ならないのよ。何で、あなたは、そういうことをするの。普通、しないわよね。しないことをあなたはしたのよ。わかる? 私が言っていること」
「俺には、さっぱりだ。何を俺がしたと言うんだい」
「街灯が明々している人通りのある場所で、女性といちゃついていたじゃない。それだけで、十分なのよ。もう金輪際、私の前に、現れないでちょうだい」
 そう言うと、舞は、マンションを出て行った。

 部屋に一人残された笠本の胸中は、穏やかではなかった。
 少しでも冷静な自分を取り戻すために、考えた。否、考えざるを得なかった。それを怠れば感情が攻めてくる。感情を抑えるには、理性しかない。理性的になるには、考えるしかない。自分勝手に考えるのではない。相手のことを少しでも思って考えることだ。そうできるまで、考え続けるんだ。それが、あるべき人としての務めというもの……。
 当然、舞が悪いのかと言えば、舞に罪のあるはずはない。すべては俺が悪い。しかし、その別れを俺が受け入れなければならないかと言えば、そうではないだろう。だが、別れてくれるなと言えば、嫌われるだけ。やはり、俺は、彼女の前から消えて行ったほうがいいのか。



 第三章 結界と二つの世界

導かれた舞

 舞は、ハッとした、オーナーが屈んだとき、なぜ、彼の頭上が光らなければならないかと……。それもそのはず、彼の頭のてっぺんには、湯呑の底程度の傷痕があったのである。彼は、その傷には気づいていたが、上背もあり、あまり気にする様子はなかった。それに、普段は、至って自然な髪形に見える。確かに、外見ではそうであっても、髪が乱れたときなどにそこを覗けば、ちょっとした円形広場の持ち主という事実を隠すことはできない。当初は1円玉くらいの大きさであったのだが、頭部が、幾度となく外から強い光にさらされるうちに、周囲の毛髪が徐々に抜け落ちて行った。彼は、それでも気に留める様子はなかった。愛用のナチュラルな髪用のヘアスプレーを信じでいたからであった。当然、深くもない舞との関係からは、彼女にそのことを口にすることもなかった。だから、それを見て驚いた舞のほうも、降って湧いたようなオーナーの恥部を、その場の勢いでわざわざさらすようなことは、しなかったのである。
 舞は、言葉数が少なく、オーナーとの会話といえば、仕事上の頼まれごとや日常のあいさつくらいのものだった。だが、彼にしてみれば、自分は独身でもあり、ひょっとして好意を持たれているのではないかと、思うこともないではなかった。彼女がニコッと笑って、「おはようございます」、「おつかれさまでした」のあいさつを毎日見ていると、彼の心には、自然にそこのところだけが切り取られ、大きな意味合いを持って受け止められるようになって行くのだった。勘違いというものは、思い込みによって、相手が、あたかも自分に好意を抱いているように映ってしまうから、恐ろしいのである。もちろん、彼女にとっては、そういう気持ちで、そうしていたわけではなかったのは言うまでもない。
 人というものは相手を意識すれば、それに比例して滑稽なほど相手に対する見る目が変わって行く。全く、当てにならない自分の推測を、さも、本当かのように錯覚する。透明な眼鏡に、色をつけたように違って見える。まことに妙なものである。オーナーもまた、いつの間にか、その仲間に属していた。心は、独り青春を取り戻したかのように舞を横目で見たり、柱に隠れるようにして彼女を見つめたり、すっかり、心を射抜かれた片思いの脇役のように、一挙手一投足をエスカレートさせて行くのであった。
 ある日、オーナーは思った、「一度、食事に誘ってみよう」と……。舞が自分をどう思っているか試してみたかったのである。そして、舞は、ほどなくして彼からレストランに誘われた。一旦は断ったものの、日を置いて何度も誘ってくるうちに、彼女は、その熱心さに心を許し、一度だけなら一緒に行ってやってもいいかもしれないわね。という軽い気持ちで彼の誘いに乗るのである。しかし、この安易な決断が、後の運命を変える出来事になろうとは、思いもしなかった。
 食事が終わって店を出ようとしたときのこと、オーナーから突然、「結婚を前提に付き合って欲しい」と告白された。舞は自分より一回り歳の離れた相手でもあり、初めは受け流していた。しかし、彼の目は真剣そのもので、あまりの真剣さに怖くて断ろうにも断り切れなかった。これが、彼をますます増長させて行った。もう一軒、付き合ってくれないかと……。バイト先とはいえ、オーナーでもあり、その場の雰囲気からして、むげに断ると店にも出づらくなる。そう思った舞は、不承不承ながらもその誘いを承諾するのである。付いて行った先は、赤ちょうちんだった。彼の行き付けの店だった。
 店員が、注文を取りに来ると彼は、「とりあえず、生中」と言った。決して酒が飲めないわけでもなかった舞は、少しくらいならと同じものを注文した。勧められるうちにビールが、酎ハイに変わり、度を越えたのか、何杯か飲むうちに酩酊状態に陥った。

 ――目が覚めると、そこはベッドの上。レースのカーテンが風に揺れている。外は一面、暁闇である。照明をフェードインさせた。ここは、どこ? どこよ。何気に部屋の奥のほうに目を向けた。自分に似た人物が鏡越しにこっちを見ている。
「あなたは誰? 鏡なんか覗いたりして、何かあったの? 随分、悲し気な顔をしてるのね」と、声をかけた。――紛いもなく、そこに映るのは、自分自身であった。私が私を見ている。どうしたというの。なぜ、ここにいるのかしら。そこに、男の声がする。
「おはよう……」
 周囲を見渡すが、誰もいない。
「おはよう……」
 再び、声が聞こえてくる。――人影はない。
 怖くなって、布団を被って目を瞑っていた。時間が経過する。――目を開けると空が徐々に白み始めていた。窓の外は、オーシャンビューである。自宅の部屋から見える景色とは、まるで違っていた。それにしてもホテルは物音一つせず、部屋は隅から隅まで掃除が行き届いているわ。そう思った瞬間、
 プルルル、プルルル――
 びっくりするじゃない。電話が鳴るのである。誰かしら。……まあ、いいわ。受話器を取ることにした。
「もしもし……」
 フロントからである。このホテルは、特別な場所にあるということだけ、舞には告げられた。何のことかわけがわからない。ただ、女の人から伝言があり、そのことだけはお伝えしておきます、とのことであった。それ以上は、フロントに行かなければわからない。何が何だか、さっぱりわからない。相変わらず、ここが、どこなのかもわからない。まずは、このホテルの場所を知る必要があった。そして、伝言をもらった相手の要件を聞く必要があった。舞は、フロントに降りて行った。


再会

 エレベーターで1階に着くと、ここは、どこ? フロントに用があったのに、フロントがない。振り返ると、乗ってきたエレベーターも消えている。辺りは、一面、森が広がっているだけだった。舞は、再び、顧みた。――ない。何もない。おかしいわね。確かに私は、ホテルの一室で寝ていたはずなのに、そこには、ベッドも、レースのカーテンも、電話も、窓から見えるオーシャンビューも、あったはずなのに、何もない。建物も消えていた。
 そもそもリゾートホテルに、なぜ、私が泊るの。そして、その部屋も見当たらないとは、どういうこと? おかしい、何かが違っている。私は、時空を飛び越え、迷い込んだのかしら。それにしても、なぜ、私が……。まあ、いいわ。やがて、わかるはずよ。舞は、そう思うと、さらに、森の中を一人、歩いて行くのである。森と言っても、獣道ではなく人の通る道である。道路は、舗装されている。
 5キロ、10キロは、歩いたかもしれない。――少し疲れたわ。休憩を取ろうかしら。そのほうがいいわね。あれは、ベンチ? こんなところにどうして……? 舞は、またもや不思議な気分に襲われた。ベンチが、まるで舞のために用意されているかのように、置かれていたのである。しばらく、座っていると体も軽くなり、再び、歩き出した。あれ? あれは……。どこかで、見たことのあるような人が、こっちを見ているわ。ひょっとして、あのときの女性ではないかしら。きっと、そうに違いない。――やっぱり、そうだわ。話のできる距離に接近したところで、舞は、声をかけて見た。
「あなたは、私が、家に帰る途中、あの住宅街でお会いした人ですか?」
「はい、私は、あの日に笠本宅を訪ねた沙和です。その節は、いろいろとありがとうございました」
 そう言うのである。
「いえ、こちらこそ」
「ところで、あなたは、今、もう一つの世界に来ておられますのよ。ご存じでしたか」
「はあ。何となく、それは感じています」
「あなたも、この世界へ来られている以上、身の上に、何か異変があったかとは思いますが……」
「おしゃる通りですの。……少しばかりありました」
「そうですのね、やっぱり、思っていた通りです。私は、日頃、冥府にいます。今日は、あなたがここに来られていることを知り、肉体という衣を纏って、お待ちしていたのです」
「えっ!」
「そういう意味では、この空間は、冥府と現世をつなぐ世界、現世へ行く前のオアシスのような存在かもしれません。生活に必要なものは、何でも揃っています。ないのは欲だけでしょうか。本能では欲、精神的には利己心がないために、現世にないものもこの世界には存在します。私のいる冥府では、現世は、一種のシンメトリーであるという位置づけで、空間二分割理論の中で、それぞれに人々が暮らす世界であると紹介されています。欲の強い人、そうでない人という具合にですね」
「それじゃあ、ここは、現世とは異なる空間なんですか?」
「いいえ。――少し、難しい話になってしまいましたが、ダイレクトに現世というより、この空間も2つの異なる磁場に分かれる一方の現世です。ここに来る前のもう一方の空間も現世です。言い換えますと、あなたがこれまで生活していた、もう一方の世界は、過去の現世で、この世界は、今存在する場所という意味で今の現世となります。私の場合、居場所が冥府ですから、この空間にある結界を越え、先日は、もう一つの現世に行ってきました。あなたが、ここに来る前に暮らしていた現世――元の世界です」
「えっ!」
「ここでは私の境界線は結界だけとなりますから、磁場には影響されず、いつでも磁場の異なった二つの現世を行ったり来たりできるのです」
 彼女は、自由自在に瞬間移動できる霊的な身体を持っていた。だから、沙和はそのとき、肉体のない姿で移動できるのである。

「現世では、笠本さんご本人を探すのに苦労しました」
「そうでしたか。それが一般的なんですよ。一度、出会ってからは約束をすれば会えますけど、初めてだとか、疎遠になっていますと、調査しても難しい場合が多いんです」
「出会いの原則は、偶然の法則でしょうけど、それですと、物事が、前に進まなかったのです。私自身、日頃は霊魂で冥府にあります。その当たり前のことを自覚しましたら、その途端、とんとん拍子に事が運びました。お陰で私の願いが叶い、あなたには、心からお礼を言わなければなりません」
「それ、どういうことですの」
 沙和は、単にお礼が言いたかった。しかし、受け取りようによっては、違う意味を持ってくる。彼女には、内心複雑なものがあった。ここは慎重に応答しなければならない。
 舞は、笠本と、あの夜、キスまでしていた沙和に、その理由を尋ねたかった。しかし、こちらから切り出すわけには行かない。少なくとも、今は、助けてもらっている身の上である。
 その舞の気持ちは理解していたつもりだったが、しかし、実のところ沙和には、彼女の心を慮る言葉が見つからなかった。
「そのことをお話しするときは、私は、以後、あなたとお会いしないことを条件にお話しすることになります。私はまだ、あなたをお手伝いしなければならないことがあるかと思いますので、今は、お話することができませんが、――それでいいですか」
 沙和は言った。
 少し考えながら、
「わかりました。それじゃあ、今は、これ以上、何も伺わないことにします」、と舞は返した。
 しばらく、二人の間に沈黙が流れる。

「実は、私は、あなたのお母さまの居場所を知っていまして、ご案内しようと思っているのですが、お会いなさいますか?」
「えっ! ママのところへですか、――もちろんです」
「お母さまは、近くにおられます。ここからですと距離にして、100キロほど離れています」
 近くと言っても、遠いのである。冥界と今いるこの空間――現世とでは、距離の感覚が大きく違うらしい。
「ママは、生きてるんですね」
「そうです。――旅館の仲居をしておられるようです、住み込みで」
「あなたは、どうしてそれを……」
「私にはわかるのです。わかるというより、見えるんです。――このようにして、十字架の付いた数珠を持って、胸に当てるんです。しっかり握りしめるようにして。ただ、これは、冥府の人間でないとできないことです。あなたには、肉体があります。そして、感覚もあります。しかし、感覚はあるものの、これまで生活をしていた現世よりそれが弱くなっています。磁場の影響で制御されるのです。肉体がある以上、感覚がなくなったわけではありません。肉体を持つとは、そういうことです。
 感覚が、ある程度、制御されても完全に制御できるわけではありません。それを制御できない強磁場の現世では、感覚のまま生きることを余儀なくされます。だから、感覚が感情を生み、欲を育て、その欲が利己心を増長させる。最後には、対立を惹き起こし相手を責め立てます。個人の場合なら磁場に比例する利己心で、正義を振りかざし人を蹴落とすこともしますが、国の場合なら戦争に発展することもあるでしょう。
 つまり、人は、勝者を好み、そこに勝者、敗者をつくります。システムが上と下の二元で成り立っているからおのずとそうなるのです。というより、人がそれを求めているからシステムがそうなるのです。際限のない苦悩が繰り返されるのが、あなたがいた現世で、今は、肉体が、ある程度、制御されるとはいえ、1パーセントでも不足があれば完全ではありませんから、感情の起こることは避けられません。――磁場の影響を受ける人は、残念ながらこの呪術は使えないのです」
 そういうと、沙和は、何やら呪文のようなものを唱え始めた。
「こうすると、頭の中に映像がくっきりと映るんです」
「……私は、母のいる旅館へ行くことはできますか?」
「できますが、もうしばらく、お待ちください」
 沙和は、言った。
「はあ……」
 舞は、返した。

 このとき、沙和は、懐から数珠を取り出した。
「お近づきの印に、この水晶の数珠を1つ差し上げます。何かあった時に天空に掲げてください」
 思ってもいなかった沙和からの贈り物であった。
「この数珠は、どなたでも使えますが効果を期待されるなら、なるべく近い方のほうがよろしいですよ」
 沙和は、言った。
「これを私にですか、ありがとうございます」
 そうこうしているうちに、一瞬にして舞の体は、空に舞い上がり母親のいる場所に飛んだ。


日本庭園

 古びた旅館が目の前に見える。その旅館の歴史は長く、どうやら江戸中期に建てられたものらしい。もっとも、その頃は、旅館ではなく旅籠と呼ばれていた。そこには、少し離れているが一軒のだんご屋が併設されていた。店の正面の角には、のぼり旗が2本立っていた。「だんご」、「お茶」と書かれた旗が見える。庭には、邪魔にならない程度に数本の木が植えられ、その下には、赤い野点傘のだてがさと共に2・3の縁台があった。玉砂利を踏み締めながら歩いていた。目を凝らすと、縁台を覆う緋毛氈ひもうせんに日が射し、陰にならないところだけが際立っている。所どころに葉陰ができる場所があり、その陰が、時折、風に揺れていた。陰でないところと陰とが、風という現象を借りて騒めいている。素敵ね。まるで人が集まって、会話でもしているように見えるわ。――突然、池の鯉が跳ねた。ふと、縁台から正面に目を移すと、
「もしかして、ここは日本庭園かしら」
 舞は、呟いた。
 店番みせばんには、旅館の仲居が、交代で来ているようで、2・3人ほど、働いていただろうか。舞が、そこへ腰かけると、「いらっしゃいませ、何にいたしましょうか」と声がかかる。さて、何にしましょうかと言われたって、私は、お茶を飲みに来たわけではないし、ましてだんごを食べに来たのでもない。しかし、いらっしゃいませ、と声をかけられた以上、何も頼まないわけには行かなかった。そこで、「だんご1つください」と、言ってみた。だが、果たして財布の中にあるおカネで、間に合うだろうか。しかし、それは、杞憂に過ぎなかった。舞の思いをフォローするかのように、「恐れることはない」と、どこからともなく声が聞こえてくるのである。その声で多少は、安心したが、実際は、おカネを払ってみなければ、わからないというのが彼女の本心ではあった。
 池の鯉を眺めていると仲居が、皿に入っただんごをお盆に乗せ、運んできてくれた。食べても大丈夫かしら。舞は思った。朝から何も食べていない割には、お腹はあまり空いていない。それでも、何かを入れておいたほうがいいと思い、一つだけ串から取って食べてみた。が、あまり味はしない。何よ、これ。そう思ったが続けて、もう一口食べてみた。やっぱりこれは、駄目だわ、何を食べているかわからない。どういうこと。ならば、これから先この状態が続くってこと? 味覚は若干、残っているが、これじゃあ、食事がつまらないじゃない。しかし、それこそが2つ目の杞憂であった。最初は、味がしなくても、それに慣れて行けば、味覚はそこから元に戻って行く。その少しの味で、ちょうどよくなる。すべては、慣れによって徐々に解消されて行くのである。

「お水をいただけませんか?」
 仲居に、声をかけた。
「はい。すぐにお持ちします」
 そう言うと、別の仲居が奥から出てきた。見ると、どうも母親に似ているような気がする、あの人。その仲居は、遠目に、もしかして……? その若い女性が誰なのか、薄々気づいていたのである。そそくさと歩く姿がそっくりだわ。うつむきながら、水の入ったコップをお盆に載せて持ってくる。思い切って、舞は、声をかけて見た。
「あのう……」 と、言った瞬間、ふと、仲居は顔を上げた。
「ママでしょ、ねぇ」
 やはり、その仲居は、母親の久江であった。
「あら、舞ちゃん。――どうしたのよ?」
 突然の再会に、舞は、驚いたような顔をしていた。まさか、こんなところで会えるなんてことは、思いもしなかった。それは、久江も同じであった。感極まって、舞は、しだいに涙腺が緩んで行く。
「私、わたし……」
 涙が、こぼれ始めた。
「電車やバスに乗り継いで来れるような場所ではないのよ。あなた、ここをどうやって探し当てたの……」
「探したんじゃないの。偶然が重なったのよ」


磁場の異なる2つの世界

「ここにTVはあるの?」
「あるわよ。ただ、争いごととは、無縁の世界だからどんな内容の番組をやっているか、想像し辛いかもしれないわね。低俗なもの、過激なものはやってないの。正義が悪を懲らしめるドラマとか、事件を扱ったニュースとか、人を貶めるバラエティー番組は、ないのね。もともと治安がいいから」
「そうなの? 元の世界では、なくてはならない番組ではあっても、その必要がないってことね。もしあればそのような番組は、目に見えないところで、視聴者にも制作するほうにも負担がかかりそう。――元の世界とは、全然、違うわね」
 舞は、言った。
「でも、もし、ここで、そういった番組に触れても、考えることが習慣化されている世界だから、感化される人は少ないと思うわよ」
 久江は、返した。
「なるほど。そうなるのね」
 舞は、弱磁場じゃくじばの世界に入ると、徐々に考え方が変わり始めていた。だが、自分では、変わって行くことに気づく感覚はなかった。しかし、母親は、それに薄々、気づいていたようである。
「ここに来る前は、情報の垂れ流しに遭ってそれを鵜呑みにし、自由に考えたりすることができているようで、できていなかったのかな。――できていなかったってことになると、人の心にも影響し、たいへんよね」
 舞は、言った。
「番組を選べば、いいんじゃないの」
 久江は、舞がどう答えるか、試してみた。
「……選ぶと言っても元の世界には、似たような番組しかやってなくて、どうしても勧善懲悪に意識が向かうわ。その普通の感覚が、ここに来ておかしいと思えるから、不思議でならないのよ」
 やはり、舞は、想像していた通りの答えを返してきた。
「何でも偏り過ぎたり、やり過ぎたり、伝えなきゃならない物事を伏せてしまうと、人をあるところへ誘導しているように思えて、全体がウソに塗れるのよね。舞も、そこのところに気づいてきたのかしら?」
 舞は、久江の話を聞いて、元の世界にいたときの番組内容が、弱磁場の状況とあまりにも乖離していたために、頭を整理するのに、かなり腐心していた。そこに、何者かがやってきて、ここぞと彼女に憑りつくのである。その状況は、久江が、この地に来た当初、通ってきた道のりでもあった。
「あなた何か悩んでいる? そのようね。あなたの悩みを一緒に考えてみましょうか」
 舞は、突然、何者かの声を聞いた。
 これはいかんと、彼女は、大慌てで、その声を振り払おうとした。だが、振り払おうとしても、無駄だった。霊の仕業――この霊は、悩みのある者に憑りつき、悩みを払い除けるこの地の精霊であった。
 精霊は、言った。
「この弱磁場の世界では、自由に考える環境が無限に広がる。たぶん、元の世界では、その前提がなかったのではないかしら。強磁場きょうじばにいると、良心は、無残にも切れた凧のように風に煽られ、宙を舞う。そうなると、人々は、自由とは無縁の環境に投げ出される。――善の一方に悪があり、悪事を働いたら酷い仕打ちが待っているからと、わざわざ上段に構え、心を律するという掟に従っていたのね」
 舞の真剣な眼差しを確認すると、精霊は、続けた。
「それをするということは、どういうことかわかる?」
「いいえ。それはまだ……」
「世の正義を保つために、まずは、自分を正義の側に立たせて、悪を語るのに似ているわ。でも、それをしても、一向に悪のなくなる気配はない。自分もまた同じく正義ではなく、悪の因子を引き摺っていることに気づいてないからよ。それがかえって、世の治安を逆回転させるほうに力を貸しているとは、思っていないの」
「正義だと思って、やっていることでも、何を基準にそうしているのか、はっきりしないってこと? その状況で言葉が、右から左に一方的に流れて行けば、ますます人は考えられなくなりそう。流れる情報が、すべてであると思うから、その時点で、偏った考えを植え付けられるような気がするわ」
 舞は、返した。
「だから、日常では、自分を正義とし、お前が犯人か、それともお前かという、人を見れば犯人は誰だと、一種、心の視野狭窄に陥る――偏った頭が形成されるのかもね。ある意味、二元的思考を軸にして、社会全体が、すでにそうなっていると見たほうがいいのよ」
「そうよね。それで、世の中、利己心で溢れる。人々は、欲求を持ち、必要のない過度な感情を抱えてしまうのだわ。その感情を善としてしまうから世の中が混乱するのよ。それが、人の感覚を狂わせる強磁場の宿命であるのかもしれないわね」

 舞は、過度と両極端のない世界に、縁あって来ていた。
「あなたは、今日から、弱磁場の人間よ」
 精霊は、この言葉を残し、去って行った。
「磁場の流れに沿えば、きっと、おカネのことも一緒だわ。多くを持つより多くを持たないほうが、心の面では豊かなのかもしれないってことかしら……」

「しばらく、ボーッとしていたようね。何か、考えごとでもしていたの」
 久江は、言った。
「まあね。ママ、元の世界から持ってきたおカネ、使えるのかしら?」
「どこの通貨でも使えるわよ。でも、できるならここの通貨を使うことよ。両替には手数料がかからないし。自動販売機で何かを買う場合には、とくに、この世界の通貨でないとね」
「私は、来たばかりで、情報が聞けるだけでも、ありがたいわ。ママのお陰よ」
「そういってくれる舞には、感謝するわ。けど、何もあげないわよ」
 ……情報と倫理的感覚はまるで違っていた。倫理的感覚は、確かに磁場の違いによって、ダイレクトに外からの影響を受けやすく、一度、中に入ると良くも悪くも不動だが、情報は、信頼のおけるもの﹅﹅に尋ねるか、あるいは自分の目と耳で確認し、はじめて理解できるのであった。しかし、当然、そこには揺らぎが起こり、外れることもある。

「これまでいた世界と比べ、似たところがある一方で、まるで違うところもあるのが、少しはわかったような気がするわ。それにしても、誰が、何のために、二つの世界を創ったのかしら」
 舞は、言った。
「……磁場の違いによって人の心が変わるってことは、欲のある世界の一方に、欲のない世界が、有史以前から用意されていたということかしらね。これしか思いつかないわね」
 久江は、返した。
「なるほど、ママが言うように、磁場の強弱は、欲の強弱としてすでに決まっていたことなのね」
「――舞がそこまで考えているとは、思いもしなかったわ」

「ところで、まだ、伝票がきてないみたいだけど……」
「大丈夫よ。お母さんが、払っておくから」
「いいの?」
 久江は笑みを浮かべ、頷いた。
「――ありがとう、ママ」
「……今日の宿は、決まっているのかい」
「まだよ。……できたら、ママの旅館で泊ってもいいかしら」
「いいわよ。泊まるなら、私の部屋にいらっしゃい。――あら、いけない。少し、待ってて」
 店のほうを窺うと、思い出したように久江は、店の中へ入って行った。
 実りある時間を与えてくれた仲居さんたちには、感謝しかないと思いつつ、舞は、久江の仕事が終わるまで、ここ、日本庭園で待つことにした。


母親の旅立ち

 庭園の横には、沢が流れていた。そのせせらぎに包まれるようにして、どこからともなく鳥のさえずりが聞こえてくる。
「ここは、この世の楽園ね」
 舞は、言った。
「本当に静かでいいところよ」
 久江は、返した。
「生まれて初めてだよ。こんなに、自然を満喫できるところがあるなんて」
「そうね。街に住んでいれば、こんな環境には、出会わないものよね。今までは、お父さんのことで悩んでいたけど、何を悩んでいたのかしらと思うのよ。本当に、小さなことばかりに気を取られていたわ。ところで、舞は、どうしてここに……?」
「私は、男女間のことかしら。付き合っていた人が、やきもち焼きで、ちょっとしたことで私のことを勘ぐるのよ。それで最後には、居場所がなくなってしまって。――その後も、いろいろあってね。
 バイト先のオーナーとお酒を呑みに行ったはいいけど、呑み過ぎたらしく、お店で眠ってしまって。そしたら、彼は、私を連れ、そこを出たの。気がついたら、私は、……。度が過ぎた男の欲求には、抵抗できなかったわ。これ以上、言わなくてもママにはわかるでしょ」
「そうだったの、酷い目に遭ったのね。――そのことは、誰かに話したの?」
「ええ。――ママの他には、友達の沙和という女性に」
 舞は、天井を見上げている。何かを言いかけたが、これ以上、言葉は出なかった。
 久江のほうは、すでに、心の準備はできていた。そのことばかりではない。亭主のことが気になっていたのである。
「明日は、どうするの。仕事……?」
「しばらく休んで、元の世界に行って来るわ。――舞がここへ来る前から職場の仲間には、伝えてあることなのよ」
「そうなの」
「舞は、どうするの?」
「ここにいるわ。来たばかりだもの」
「そう。ゆっくり休んで、自然を見て回るのもいいわね。きっと、あなたは、幸せの意味を噛みしめることができるはずよ」
 舞は、都会生活の疲れもあってか、自然に触れたかった。その言葉を聞いて、ぜひ、いろいろな生き物を目にしたいと思うのである。久江も、それで彼女の心が少しでも癒されればと思っていた。
「ママ……やっぱり、帰るの?」
 明日は、2月29日、ちょうど、磁場が乱れる日に当たっていた。その機会を逃すと、次は9月9日を待たなければならなかった。
「心配なのよ、お父さんが」
「そうね。パパも大切にしなきゃね。――そこで、相談なんだけど、いいかしら」
「お母さんにできることなら。……ところで、何?」
「会社とバイト先に、私が辞めることを伝えてくれない? その代わり、何かで、助けが必要なときには、私の友達が力を貸すから」
「いいわよ。でも、友達って?」
「ママが、心配することないわ。この数珠を空に掲げるだけ……」
 舞は、沙和にもらった水晶の数珠を差し出した。
「これは、役立ちそうだわ。舞、ありがとう。――お母さんだって本当は、まだ、この世界にいたい。できればここで死ぬまで暮らしたいと思っていたの。けど、お父さんが、今、借金を相当抱えていて大変な時期に来ているでしょ。ギャンブルをやめさせないと、これから先、にっちもさっちもいかなくなると思うのよ」
「わかった、ママ」

 久江は、磁場変動の時間が訪れるまで、旅館で待つことにした。
「私は、部屋にいるから、あなたは出かけていらっしゃい。その後で、滝にでかけることにするわ」
 舞は、バードウォッチングと自然の花々に会いに行くことにした。部屋にいた久江は、午後になると、滝へ向かった。そして、ゼロ磁場で待つこと小一時間、静かに磁場変動が始まった。徐々に霧がかかってくる。やがて辺りは、深い霧に包まれた。その状態の中に身を預けていると、そこに一瞬、強烈な光が射し込めた。と、見る見る間に霧が晴れて行く。



 第四章 赤山家の命運

妻との再会

 赤山のギャンブルのせいで、久江は、これまでにも何度か家を空けることがあった。いつもなら、すぐに帰ってくる。今回もそうだろうと思っていた。ところが、そういうわけにもいかなかった。待てど暮らせど帰ってこない。しかし、2月29日の今日、突然、彼女が、自宅のキッチンに現れたのである。
 あのことで、お百度参りをしていて以来であった。99回を数えた後、残りの一回を残し、神隠しに遭ったように彼女は、消息不明になっていた。なぜ、そうなってしまったのか、当の本人にも、その理由はわからなかった。
 リビングルームにいた赤山は、ドアが開いていたせいか、トントントンと、軽快に野菜を刻む音が聞こえた。気になった彼は、ふと、廊下を跨いだ隣のキッチンを覗いてみた。
「びっくりするじゃないか」
 赤山は、声を発した。
「あら、元気そうね。――安心したわ」
「おまえ、どこへ行ってたんだ。ワシが悪いことはわかっている。が、いくら何でも、電話の1本でもかけるのが、常識というものだ」
 久江には、赤山の言葉が、本心であることを願ってはいたが、それは単に上辺だけの話ではないかとも考えていた。今の赤山にとって大切なのは、何かを知っていたからであった。
「何、頭を抱えてるんですか」
「ワシの事業はうまく行ってないんだ。取引先への支払いは滞っている。それに個人的な借金も膨らんでしまった。これから、どうやって借金を返したらいいのかわからんのだ。……おまえ、少しばかり持っているか?」
「何、言ってるのよ。あるわけないでしょ」
「ほら」
 久江は、財布を取り出すと中味を見せる。小銭だけだった。
「おまえ、パチスロのメダルが入っているじゃないか。どこのだ。この地域のじゃないな。――ときどきやっているのか」
 実際には、もう一つの世界のコインだったが、久江は、これ幸いに赤山の言葉にあやかることにした。本当のことを言っても、信用してもらえるわけはないし、言うだけ無駄だとわかっていた。
「そうね。メダルが混ざっていたんだわ、きっと」
 赤山としては、混ざっていようがいまいが、どうでもよかった。
「ちょっと、おまえに頼みがあるんだがな。実はな、ワシ、……滞っている返済があるのさ。10万円ばかり貸してくれないか。取引先のじゃないんだ。個人的な支払なんだ」
「もう借金はしないって、言ってたじゃない。どうして、借金するのよ。借金すれば返さなければならないことくらいわかるでしょ。今のあなたに返す力があるの!」
 久江は、幾分、興奮気味な口調で言った。
「そんなこと、言ってくれるなよ。な、この通りだ」
 赤山は、手を合わせた。
「拝んでも貸せないわ。私は、仏さんじゃないのよ。これまで、何回、貸したと思ってるの。今回ばかりは、責任は自分で取りなさい。きちっと……」
 久江は、こうと思ったら、自分の考えを譲らないところがあり、一度、赤山には、痛い目に遭わせないと、いけない人だと考えていた。
 赤山は、競馬で外れればどうなるか。そのくらいのことはわかっていた。一か八か、勝負に出たのであった。大穴狙いではなかったが、単勝1本に残りの人生を賭けたのである。当たれば、1000万、2000万にはなる。清水の舞台から飛び降りるつもりで、否、東尋坊の崖から飛び降りたつもりで賭けたのである、300万円を。ところが、その目論見は無残にも裏目に出た。肩を落とすというより、本当に自殺しなければならないくらいに心は動揺した。一時は、その衝撃で立っていられなくなった。無意識にしゃがみ込んで両の掌で頭を覆った。勝てば天国だが、負ければ地獄とはよく言ったものだ。今回も例外ではなかった。どんよりとした雲が心を埋め尽くすと、目の前が真っ暗になった。打ちひしがれる。そして、次の瞬間には、そんな心をよそに、何かに憑りつかれたようにして緞帳が上がる。今度こそは、と思うのである。――明らかに赤山は、ギャンブル依存症に罹っていた。


舞のこと

「ところで舞は、どこへ行った」
「海外旅行にでも出かけたんじゃないですか?」
「何だって。――行くと聞いてたのか?」
「ええ……。友達と行ったんですよ、きっと。自分の都合ではなく、友達に合わせて……。あの子は、そうする子なんですよ」
「まあ、それならいいが……」
「今は、休みをもらっているようですが、旅も長くなれば、あの子、会社を辞めるかもしれませんよ」
「そんな大事なことをワシに相談もなしにか」
「いまさら、怒っても、しょうがないですよ。若いうちはとくに、ふらっと出かけたくなるときが、あるもんなんですから」
「若いならまだしも、とうが立っているのに、そうする人もいるからなあ、困ったもんだ……」
「私に……。失礼ね!」
 久江は、小声で言った。
「そういうわけじゃないさ。――母親似のところがあるかもなあと、言いたかったのさ」
 一呼吸間をおいて、赤山は、続けた。
「旅に出るなら出るでいいが、一言いってくれれば、ワシも安心なんだがな……」
「気ままな旅は、そういうもんなんですよ。もし、長くなりそうなら、会社に迷惑がかかりますので、途中で引き揚げるのが普通なんですが、そうでなければ、会社のために、思い切って辞めるという選択肢もあり得るかもしれませんよ」
「そういうもんかな……」
 実際には、友達と旅行に出かけたわけではなかったが、そう言っておかないと、久江は、赤山の機嫌を損ねると思ったのだった。舞に対する母親としての防衛本能が働いたのである。一方、それを聞いた赤山は、首を傾げながらどうにもこうにも合点がいかない表情をしていたが、ただ、そうは言っても、妻がそういうならそうだろうと、あえて自らを納得させようとするのだった。


豊の電話での催促

 電話のベルが、午後の廊下に鳴り響く。
 トゥルルル、トゥルルル――
 赤山は、出た。
「もしもし、赤山さん。豊ですが、もしもし、聞こえてますか。――まだ振り込みがないんですが、もう、お済でしょうか?」
「ああ、わかってる。もう少し待ってくれ、今、手が離せなくてね。振り込むカネはあるんだ。明日、送金するから、ちょっと待ってくれ」
 また、この手を出してきたかと豊は思ったが、待つことにした。
「頼みましたよ」
 赤山には、実のところ、全く、カネの工面ができておらず、払える当てはなかった。

「あなた。誰からですの」
「豊君だよ、ほら、静さんの息子の」
「借りたの」
「いや、それが――少しばかりな」
「いくら借りたの」
「300万円ばかりさ」
「えっ、300万?」
「何のために、そんな大金を」
「すまんが、いつものあれだ」
「競馬!――まさか、全額ではないでしょうね」
「いや、それが……その……」
「何やってるのよ。信じられない。……取引先への支払いなら、まだしも、競馬で300万円、……冗談じゃないわよ」
「すまん」
 赤山は、深々と頭を下げた。


 日を置いての豊からの電話である。
「もしもし、赤山です」
「赤山さん、もう何回、こちらから電話をかけているかわからないですよ。いい加減、払ってくださいよ」
「ないんだ」
「カネなら、あるとおっしゃったじゃないですか」
「悪いが、それがないんだ」
 豊は、しびれを切らしていた。何言ってるんだ、あのおやじは。人にカネを貸してくれと言っておいて、これか。もう、何回、貸したかわからない。トータルで2000万円程度になっているんだ。――そうだ。内容証明という手がある。まずは、これで催促してみるか。

 そこへ妻が、やってきた。
「相手は、豊君ね。何をあんたは、やってるの。取引先への支払いはどうなったのよ?」
「実は、不渡りを出してしまったんだ。取引先には悪いが、一銭も払えない。金庫には金めのものはない。払おうにも払えないんだ。あるのは借用証書だけだ。だから、ワシは、巻き返しを図ろうと、競馬で一攫千金を夢見たのさ。勝てばデカい。――だが、見事、根こそぎ持っていかれてしまった」
「救いようのないおバカさんね。開いた口が塞がらないとはこのことね」
「めんぼくない」
「……で、これから、どうするのよ!」
 久江は、声を大にして言った。
「わからん。わかっていることは、取引先には、残ってる木材を返すことくらいかな。だが、私事で借りた分をまだ、返していないが、さて、これをどうするかだ」


数日後、赤山宅を訪れる

 玄関のチャイムが鳴る。
「あら、誰かしら」
「豊です。開けてもらえませんか」
 赤山は、リビングルームにいた。
「あなた、豊君が来たわ」
「通してくれ」
 久江は、玄関に向かった。そして、ドアを開ける。
「あら、お久しぶりね。元気そうで何よりだわ。さあ、お上がりになって」
「はあ」
 豊は、返事をした。
 リビングルームへ向かう。ドアを開けた。

「やあ、久しぶりだな」
「今日は、例の件で、お話がありまして……」
「ああ、あれか。わかってる。振り込みのことだろ。もう少し、待ってくれ。毎月の10万円は、なかなか大変な額となる月もあるんだ。そこのところをわかってほしい」
 赤山は、言った。
「そろそろ、赤山さん、元金を入れてもらわないと、こちらも困るんですがね……」
「わかってはいるが、なかなか、そこまでは手が回らない」
「こちらは、慈善事業で貸しているわけではないんですよ」
「君の言うとおり、それはわかる。だが、1週間待ってくれ」
「そう言われても、当てがあるんですか? 事業もうまく行ってないようですしね」
「売掛金が少しはあるんだ。それを回収しているところさ。だから、あと、1週間、頼むよ」
 赤山は、苦し紛れに言った。これを渡せば、どういうことになるかわかっていた。業務上横領罪か、特別背任罪は免れない。できもしないことを言って、豊の催促をかわそうとするのである。豊が、そうなることを知っていたかどうかは、定かではなかったが、借金を返す気持ちがあることを伝えるために、赤山は、あえて、禁じ手も辞さない構えなんだ、と言いたかったのである。すべては、豊を安心させるためであった。
「そうですか。そこまでおしゃるなら……」
「君には、助かるよ」
 赤山は、頭を下げた。
「それじゃ、お願いしておきますよ」
 豊は、リビングルームを出る。久江は、キッチンでお茶を入れていた。のれん越しに廊下を見ると、玄関へ歩いて行く彼の後ろ姿に商魂を感じた。
 玄関で、靴を履いている。背中に、久江の視線を感じながら、
「今日のところは、これで失礼します」と、豊は、言った。

 久江は、リビングルームに向かうと、ドアを開けた。赤山は渋い顔で彼女を見た。
「話の内容は、おまえの聞いてた通りだ。今日のところは何とかなったが……」
 久江は、赤山の目を見ながら、
「私が、あなたに言いたいことは一つ。私を巻き込まないで欲しいということね。あなたが作った借金だから、あなた自身で何とかしてくれないと困るのよ」と、躊躇わずに言った。
 赤山は、これ以上、返す言葉はなかった。


後日、再び

「おーい、すまんが出てくれないか」
 キッチンから廊下に出る。久江は受話器を取った。

「もしもし、赤山です。はい、それは承知しています。……はい、そうです。……はい、しかし、そう言われても今は、……」
 豊からの催促の電話だった。
 久江が、リビングルームに入ると、赤山は、うつむいていた。
「1週間待ったんだから払ってくれないと困るんです。そう言ってましたよ」
「そう言われてもな。ない袖は振れない。あれば、払うんだが。あの300万円で、勝っていればなあ、と思うと泣けてくるよ、全く……」
「また、言ってる。そんなものは、当たるわけがないんですから」
 赤山は、不渡りのせいで、銀行には信用がない。あれほど、一つ返事でつなぎ資金を貸してくれていた金融機関が、手形が焦げ付けば、会社再建の話が飛んで債権管理部におつなぎしますとは、冷たいもんだ。それだけならまだしも、いつもの担当者が電話に出ない。こちらから出向けば外出しているという。
 手形の件では大いに反省点はあるが、ここは汚名返上で、家を売って何とか巻き返すことを考えていた赤山であった。家を売れば、目途がつく。そうでなければ、ワシの会社も、ワシらの生活も本当におしまいだ。
 赤山は、今さらながらに悔やんでいた。家は、当初、夫婦の共有名義だった。途中で、何かあってからでは手遅れになると、名義を妻に変えた。それが、ここにきて足を引っ張られることになろうとは、……。そのときの家の評価額は、土地合わせて2000万円、贈与による所有権移転であった。しかし、妻の承諾なしには、事が運ばない。
「土地と家屋の名義は、都合でおまえにしてあるが、もともと半分はワシのだ。家を売ってカネに換えんか。利益の20%ほどの譲渡所得税はかかるが、な、頼むよ」
「何、言ってるんですか。いまさら……」
 久江は、先を読んでいた。これでいいのだと。
「そういわずに、――な、頼むよ。うんと言ってくれないか」
「冗談じゃないわ。こんなことで、売ってたまるもんですか」

 その後、豊からの電話で……。
「豊君、――そういうことで、家の売却でしか返済に充てることはできないのさ。しかし、ワシは、何度も言ってるが家は売れない。妻が、反対なんだ」
「そうですか。赤山さん、あなたのご意向は、わかりました」


その翌日、内容証明郵便が

 ピンポーン、ピンポーン――
 やけに今日のチャイムは、音がうるさいな、と赤山は、思った。

「赤山さん、書留ですよ」
 配達員は、ドアを叩いた。
「はい。――少々、お待ちください」
 久江が、玄関に出た。
「印鑑はお持ちですか。ここにお願いします」
 配達員は言った。
「いつも、ご苦労様です」

 そのとき、赤山は、リビングルームでTVを視ていた。
「はい、これ」
「えっ」
 差出人は、砂川豊とある。内容証明郵便か。
「〇〇年〇月〇日までに、2150万円を一括でお支払いください。さもなくば、訴訟に移行します」

 何だと…‥。
 ワシの気持がわからんやつだったとはな。――やつがまだ、子どもの頃、三輪車に乗ってこの辺をうろつくもんだから、あめ玉をやったら、それを咥えて嬉しそうにしていたこともあったな。「おじさんありがとう」と言ってた、そのお返しがこれか。まあ、そうはいっても、カネを借りたワシも悪い。ただ、何ということをするんだ、とは思うが、致し方あるまい。

「この次は、いよいよか……」
「そうだわね」


数珠の力

 困ったときには、数珠を使うようにと舞が言ってたことを、久江は思い出していた。しかし、この場合、数珠の力に与るべきかどうかを考えていた。でも、どうしても先が見えない。力を借りれば、何か、いい知恵をもらえるかもしれないわ。久江には、訴訟の知識はまるでなかったが、裁判にまで発展すれば、勝ち目はないことくらいわかっていた。
 久江は、考えに考え、数珠を持って表に飛び出した。祈るように、それを空に高々と掲げてみた。しばらく経つと、不思議なことに久江は、自分の体の中に何者かが入り込んでいるような気分に襲われた。そうか、そうだわね。なるほど。――パズルが解けるように、いくつかのキーワードが久江の脳裏にもたらされた。久江は、豊に会うことを、このとき決心する。後は、何とかなるという確信を得ていた。まさに他力本願、自分の力ではない感覚がそこに走った。


久江が豊の店に行く

「いらっしゃいませ」
「ちょっといいかしら」
 きょろきょろと、辺りを見渡しながら久江は、言った。
「何かご用でしょうか」
 男性店員は、言った。
「実は、オーナーに用があるのですが、おられますか? 赤山の家内が来たとお伝えください」
「今、手が離せませんので、少しばかり、お待ちいただけませんでしょうか」
 男性店員は、返した。
「こちらへ、どうぞ」
 女性店員は、久江を、奥のテーブル席へ案内した。
 そこで、久江は、しばらく待つことにした。なかなか、いいお店ね。傾斜の付いた窓ガラスの向こうには、湾岸沿いに国道が伸びている。下方が店内に入り込むよう斜めに設計されている窓ガラスってのも珍しいわね。ここは登り勾配だけあって車が途絶える間がない。だが、眺めていると車が止まり始めた。渋滞だわ。登り切った丘の上に信号があるせいかしら。よく見ると、車と車の間から、レンガ造りの倉庫が目に映る。随分、時代を感じるわね。その建物は、明治中期に建てられた米蔵であった。今は、米蔵としては、使用されておらず、全国の地酒を集めた酒博物館になっていた。
 豊が、スタスタとやってくるのが、久江の目に留まった。
「忙しいのに、すみませんね」
 久江は、言った。
「いえ、こちらこそ、遅くなって失礼しました」
 豊は、返す。
「実は、舞のことなんですが、ここでお話してもよろしいですか」
「全然、かまいませんよ。―― 一体、何でしょうか」
 久江は、話し始めた。
「たぶん、舞の旅行は、長くなると思うんです。ですから、まことにすみませんが、今日をもって、お店を辞めさせていただけませんか。勝手なお願いで、恐縮ですが舞の代理で、このことを伝えに来たのです」
「そうですか。しかし、急に言われても……。こちらも土日だけのバイトですが、あてにしている以上、困りましたね。……ですが、1つだけ、受け入れてもいい案がありますよ」
 豊は、言った。
「何ですの?」
「働いた分のバイト代を受け取らないということであれば、僕のほうは、了解してもいいのですが……」
 久江は、このとき、豊の本性を見たような気がした。一言でいえば、せこい。一円でも無駄にしない感覚は見上げたものだが、搾り取ろうとする性根が、許せなかった。当然、払わないと労基法違反になるだけでなく、豊のようなケースでは犯罪になり得ると聞いたことがあるわ。どういう了見の狭さなの。しかも、その守銭奴ぶりは、経営者としては失格ね。亭主の借金と娘のバイト代は、別物よ。支払わなきゃならない賃金が、たとえ僅かでも本人にとっては労働の対価よ。少しばかりのバイト代さえこの男は、惜しいのかしら。世に中には、このようなタイプの人間が、実際に存在することを久江は、初めて知ったのである。
「しょうがないわね。バイト代のことはいいとして、あなた、舞と何かあったでしょ」
 一瞬、豊の顔色が変わった。
「やっぱり、あったのね」
 久江は、このことは、自分の胸にしまっておくつもりだったが、相手の出方が、あまりにも常軌を逸していたために、口に出してしまったのである。
「わかりました。バイト代は、お支払いします」
「そういうことを言ってるんじゃないの」
「はあ」
「ところで、先日、うちの亭主に内容証明郵便を送りつけたでしょ」
 ああ、……そのことかと、豊は思った。
「僕のほうとしては、毎月、月末にお支払いいただければ、それで十分なんです」
「あなた、何か、隠してるわね」
「いえ、そんなことはありません。ただ、回収の仕方が、内容証明郵便でいいのかどうかわからなかっただけです」
「その先は、裁判に持ち込もうと思ったんでしょ」
「滅相もございません。そんなことは生まれてこの方、考えたこともないです。赤山さんとは、昔からのお付き合いですし、だから、僕は、お貸ししたのですから……」
「そうね。考えて見れば、確かに、そう言ったところはあるわね。でも、あなた、肝心なところで逃げるのね」
「……」
 外には、誰も立っていないのだが、豊はガラス越しに、舞が見ているような錯覚に捉われ、内心動揺していた。久江は、彼の指の震えを見逃さなかった。

 家に戻ると、久江は、早速、赤山に話した。
「家は、売らなくて済みそうよ」
「ほう。そりゃまた、どういうわけだ」
「豊君の店に行って、話をしてきたの。いろいろ事情を説明したら、毎月の返済でいいってことだったわ」
「どんなおまじないを使ったのかな」
 赤山は、何も知らなかった。また、久江も、そのことは何も言えなかった。それを口にすれば、亭主は、途轍もない剣幕で憤慨するだろう。憤慨どころか、暴力沙汰に発展するかもしれないと、久江は恐れるのだった。


あれから半年以上経って

 代理人弁護士を立てて、会社の残務整理の最中であったが、赤山は、あれから新しい仕事に邁進していた。今は、隣町の会社に軽トラを持ち込んで日用品を運んでいる。その業界は、ドライバー不足で、庸車ようしゃで入っている人の割合も多い。赤山も、今では、その仲間だった。帰宅するのは、毎晩、九時過ぎになる。
 久江が、食事の支度をしていると、突然、そこに舞が帰ってきた。

「ただいま」
 舞は、キッチンに立っている。
「あら。舞ちゃん、びっくりするじゃない。――そろそろかなあと、思っていたところよ。今日は、磁場変動の起こる9月9日だから。やっぱり、この日を狙って、帰ってきたのね」
「今日を逃すと、また、来年まで待たないといけないから、ママが教えてくれたあの場所に行って霧に包まれたのよ。ところで、パパは?」
「仕事よ。いろいろあって材木問屋はやめたようね。今は、配達の仕事をしてるわ。帰りは、いつも遅いのよ」
「へー、そうなの。ママは、引き続き専業主婦やってるの」
 久江は、しばらく黙った。言おうか言うまいか迷った。が、隠す必要もないことと思い、口を開いた。
「スーパーで、レジ打ってるのよ」
「へー、そういうことになってるんだ……」
 舞は、言った。
 しかし、母親が働くってことは、相当な借金を抱えてしまったのではないかと、逆に心配した。父親は、ギャンブルにのめり込んでいたから、会社をつぶした理由も、ひょっとして、それではないかと考えていたのである。それにしても、楽しみでやるのなら、いいけど、会社をつぶすまでやり続けるとは、よほど、頭の回転が悪いおやじね。確率を計算してみれば、わかりそうなものなのに。第一、競馬の主催者が存続するってことは、どういうことか考えないのかしら。収益金の一部は、施設運営費におのずと充てられる。また、寄付金に回されてもいる。つまり、たとえ負けてもあなた方の賭けたおカネは、立派に社会のために役立っているのですよ、ということでギャンブラーをほっとさせる狙いがあるのが、わからないのかしら。客が、初めから損をするようにできていることは、そこを見ても明らかなことよね。それでも、やるんだから、どうかしているとしか言いようがないわ。舞は、そう考えていた。

「ところで、舞の勤め先には、辞表を送っておいたわよ。後は、直接電話をかけることね。それにファーストフード店のほうにも、伝えておいたから、大丈夫よ」
「私が、しなきゃならないことをしてもらって、助かったわ、ママ」
「でも、帰ってきて、何もすることがないから、退屈なんではないかしら」
「そんなこともないのよ。心配いらないわ。向こうでは、こっちの世界と違って、あくせくすることがなかったから……。また、行こうかと考えているくらいよ」
「あら、もう、行くことを考えてるの?」
「そうではないけど、向こうの世界のほうがのんびりしていて、私には合っていると思うの。でも、彼のことがあるから、けじめをつけてからね。――あっ、パパかしら、車の音がしたけど」
「たぶん、そうね。少し待ってて……」
 食事の支度が残っていた。――舞は、明日、笠本に会ってみようかと考えていたのである。


笠本に反対する父親

「おう。帰ってきたか、舞」
 赤山は、言った。
 舞は、父親の顔を、まじまじと見た。
「パパ、少し、痩せたんじゃない?」
「まあ、いろいろあってな。会社も閉めたし、今じゃ、軽トラの運ちゃんだ」
「そう、ずいぶん様変わりしたもんだね。半年以上、見ないうちに」
「今は、お父さんと二人三脚で、新規一転、頑張っているところよ」
 久江は、言った。
 そのことは、先ほど聞いたことだが、久江は、赤山の前で、それが言いたかったのだろう。舞は、思った。
「明日は、彼氏と会うんでしょ」
「もちろん、会う予定にしてるわ」
 舞が、そう言うと、いきなり、
「会うのは、やめとけ。やつは、元ヤクザだ。関わりになったらいかん」と、赤山が、諭した。
「知ってるわ。でも……」
「元暴5年条項というのがあってな。口座もつくれないんだぞ。そんなやつは、社会のゴミだ。第一、世間様がどんな顔をすると思ってるんだ。この馬鹿者!」
「今は、ヤクザじゃないわ。口座だって、ちゃんと持ってるわ」
 舞は、内心、父親の言葉にいらだちを覚えた。人間は、いつまでも同じところに留まっているわけではなく、変わって行く生き物で、それが当たり前じゃない。と言いたかったようである。つまり、今日は、まともな人でも、明日は罪人に豹変している。また、昨日は罪人であっても、まともな人に変わって行く。彼女は、ここへ戻ってくる前、かの地で教わった諸行無常という言葉を思い出していた。
 笠本は、確かに今でこそ口座を持っているが、5年間はつくることができなかった。その5年が経過しての口座開設であった。だが、現実には、そんなになまやさしいものではなく、5年経ってもつくれない者のほうが、はるかに多いのが現状であった。たまたま、彼の場合は、雇用主が元暴力団員の社会復帰を手助けする支援者であったため、幾度も銀行を訪れ、七重の膝を八重に折り「ぜひ、口座をつくってやってください」と、深く頭を下げ、それで実現したものだった。普通なら断られて当たり前だった。それだけ、元暴力団員であることのハンディーは大きい。だから、赤山は言うのである。
「しかしな、舞。よく聞けよ。世間様が許さないんだ。お付き合いはするんじゃない」
 ――そうは言ったものの、世間が許さないのではなかった。本当のところは、赤山が頭の中で世間を過剰に膨らませ、恐れていたのである。
「世間のために、生きているわけではないわ。私は、私のために生きているのよ。世間が、どう言おうが、最後に責任を取るのは私なのよ」
 売り言葉に買い言葉だった。舞は、こんなはずではなかったのに、と思った。弱磁場にいれば、怒りなんて起きようがなかった。強磁場にいるお陰でこのざまだわ。

「おまえ、まだ、目が覚めんのか。このあまのじゃくが……!」
 赤山は、舞に怒鳴り散らした。


舞と笠本、喫茶店で

 舞は、喫茶店への道すがらあのことを、ふと考えていた。第一は、オーナーと映画など見に行ってないということを伝えたかった。しかし、うまく、それが伝わるかどうか。もう一つは、夜、街で見た沙和とのことであるが、これは、弱磁場で再会したことで、彼女のことは理解できた。だから、今さら、訊く必要もなくなっていた。
 舞は、喫茶店に着くと、いつもの、あの席に座った。
「遅いわね」
 本当に来るのかしら。少しばかり緊張している。舞が、映画のことを話題にするのは、笠本もわかっていただろう。あれから半年以上、経っているが、事がことだけに、どうリアクションしてくるかはわからない。一抹の不安を抱えて待っていた。と、そこにドアベルの音がした。舞は、そちらに目を移す。笠本が現れた。心が、落ち着かない。

「やあ、久しぶり。どこかへ行ってたのかい。連絡もつかず、心配してたんだ」
 テーブル席に近づくと、舞に話しかけた。舞は、視線を上に向けた。
「旅行に行ってたのよ。あなたが、まだ、一度も見たことのない世界に……」
 舞は、言った。
「えっ」
 そこに、ウエイトレスがきた。
「ご注文は、何にいたしますか」
「俺は、いつもので……」

 彼女は、弱磁場の話をしようとしたが、話をしたとしても、たぶん、信じてくれるわけがないわ。私の胸の中にしまっていたほうが、いいのかもしれない。そう思うと、話題は、おのずと変わった。
「仕事、やめたのよ。会社もバイトも」
「そうだろうな。バイト先には、何度も足を運んだんだ。それに君の家には電話をかけたり、行ったりもしたが、居場所がわからないとしか返事はなかった」
「誰が、出たの」
「君の父親だよ」
「そうだったの。それで、何か言ってなかった」
「何も……」
「それならいいけど……」。そして、その話が終わると、彼女は、唐突に、
「でも、長く留守したお陰で、頭は、以前の私よりスッキリしてるかも知れないわよ」と、言った。
「それは、また意味深だね」
「そう……。そう受け止められたのね。では、今日からまた、よろしくお願いしますね」
「ああ、こちらこそよろしく。ところで、あの事なんだが、あれから考えてね。結局、俺が間違ってたんじゃないかと思ったのさ。つまらぬことで心配かけて、本当にすまなかった」
 その言葉に、舞は、呆気にとられた。
 穏便に、そしてスッキリ解決することはいいことだと思ったが、それでは、どこか物足りなさを感じた。何で、あんなことになったのか、尋ねようと思っていたのである。しかし、どういうわけか、舞も笠本と同じように、当たり障りのない言葉を選んでいた。
「あなたに迷惑をかけたのは、私のほうかもしれないわ。あれから黙って姿を消したりして、ごめんなさいね」
「そう言ってくれると、俺も、肩の荷が降りるよ。時が、すべてを解決してくれるとは、よく言ったものだな。あのときのわだかまりなんて、全くないよ。何もかもがクリアさ」
 笠本の思いと舞の思いとでは、多少違いがあった。舞には、もう一つ、豊とのことが脳裏に焼き付いて離れなかったのである。
「今日は、これで失礼するわ」
「どこか、具合でも悪いのかい」
「いえ、そんなことはないわ。ただ、一人になりたくて。おカネ、置いとくね、2人分」
「そんなことをしなくていいって、俺が出すからさ」
「今日は、私のほうからあなたを誘ったの。会いたくって電話をかけたの。だから、私が」
「そうかい、それじゃ。――俺、せっかくだから、このコーヒー飲んでから出ることにするよ」
 舞は、そういうと席を立った。やはり、気になっていたようである、あのことが……。


舞の回想

 家に向かう途中、舞は、考えていた。
 未だ夜も覚めやらぬあの日、気がつくと私は、一人、リゾートホテルのベッドの上にいた。男の人の声を聞いたわ。たぶん、それは、あなただったのかもしれないし、他の誰かだったのかもしれない。でも、あの、時の流れは、一体、何だったのかしら。
 ホテルを出て、森を歩いていると沙和に再会した。彼女は、母の勤める旅館へと私を導いてくれた。だんご屋で母に会うことに……そこで、いろいろ話をした。そして、母が帰った後、私は、しばらく、その旅館で働くことを選んだの。弱磁場での体験は、私の血となり肉となったわ。
 思い出すのよ。豊が、赤ちょうちんに誘った日のことを。彼は、私を愛してくれていた。弱磁場で過ごすうち、初めてわかり始めた。私も、心の中では、あなたが嫌いではなかったのかもしれないと。
 でも、あの夜、どうして……。
 人を恨めば、自分が苦しいだけ。どんな場合でも自分は、自分よ。救われるためには、本能から沸き立つ迷いを捨て、一切を空っぽにし、感情を乗り越えて行くのよ。私は、その大切さが今、ようやくわかるようになったの。
 それだけではない。あの世界では人々が、それぞれに配慮を持ち、怒りとは無縁の生活をしていたわ。自分がした行為が、相手の気分を害したと思えば、こちらから、「気がつかなくて、ごめんなさい」、「こちらこそ、心配なさらないでね」、という言葉を交わし、常々、相手を労わりながら暮らしていた。利己心を募らせる者がいなかったせいか、虚勢を張る者は、誰一人として存在しなかった。
 そこでは、場の空気を読む必要もないし、読むように外から仕向けられることもない。組織の成員でありながら、集団に左右されることなくのびのびと過ごすことができたわ。配慮のほうが、その場の空気を読むより大切であると、誰から言われるわけでもなく自然にそうできていた。けど、強磁場の世界では、人は、欲を前面に出す。それが人間の当然の営みだと、言わんばかりに……。
 欲求の強い世界では、一度、強い刺激を体験すると、より強い刺激を求めて生きることになるのね。よくて、それを維持しようと努めてしてしまう。物を生産することも、それを消費することも、おカネを稼ぐことも、そして、人によっては、他人を落とし入れることも。きっと、私は、強磁場では、正か邪か、善か悪か、上か下か、優か劣かの本能由来の二元によって支配され、おカネと仕事と人為的災難に明け暮れる毎日を送っていたのだわ。
 彼女は、弱磁場の生活で、心が本能に背を向けることによってのみ、楽に生きられる方法を知った。でも、それは磁場のなせる業で、そこに通ずる桃源郷を人の手によって開拓するのは至難の業。開拓すれば、背負わされる苦も軽くなるというのに、その道には人の力が及ばない。なぜかしら。――きっと、それは強磁場が唯一無二の存在だと信じ、この世界がシンメトリーで成り立っていることを知らないせいかもしれないわ。すべてを物理的に、というより合理的観念の介在なしに考えれば、それも致し方ないことなのよね。





  ベガスの片隅で

アパート

 ふと、壁にかけられた白い丸時計に目をやると、すでに針は、午後一〇時を指そうかとしていた。アリーは、こんな時間にどこをほっつき歩いているというのか。遅くなったにしてもいつもなら六時半には来ているはずだ。どういうことなんだ。――電話もかかってこない。
 ザックは、ベッドに腰掛け、うな垂れていた。アリーが、なぜ、来ないかを考えていた。そこには、ある種の不安が伴っていたのである。先日、アリーが来たとき、手相占いに興味があると言っていたが、話を最後まで聞いてやればよかったのか。確かに俺は、あのとき、彼女の話を理由もなく遮ってしまった。やつらのことを考えていて、とてもそんな気分にはなれなかったからだ。それで、来ていないのか。――否、そうじゃあるまい。

 靴音が、アパートの廊下に響き渡っている。もしかして、アリーか。――この音は違う。1回、靴音が、ポツと大きく音を立てて消えた。
「誰だ。そこにいるのは……」
 ドアが、パタッと音を立て、閉まった。

 何だ隣のやつか。――電気音が微かに唸りを上げている。ザックの足は、そちらへと導かれた。と、もう一つの不安がその音を掻き消し、砂漠を転がるタンブルウィードのように、音のわからぬ音を立て彼の心に押し寄せて行く。冷蔵庫を開けると、その明かりの中から缶ビールを1本取り出した。

 プシュッ

 それを片手に、窓辺に佇んでいる。場末のバーのネオンサインがチカ――チカ、チカ――チカと、瞬いているのが見える。ザックの顔にその明かりが映っては消え、消えては映っていた。――そんなばかなことはない。そんなばかなことがあってたまるか。心の中でそう叫んだ。彼は、大きく目を見開くと、息を吐いた。こういうときだからこそ冷静にならないといけないんだ。ザックは、自分にそう言い聞かせる。
 顎の骨ががっしりしている割には面長、そして、その顔に不釣り合いな丸い目と毛数の少ない眉毛を彼は、常々気にしていた。その特徴的な顔は、誰から見ても不気味で冴えない男の証であると周囲から揶揄されることもしばしばあった。それが、災いしてか、とんと、彼女には縁がなかったのである。しかし、今のザックは違った。おしゃれにも気を遣うし、シャワーも毎日浴びるようになっている。俺は、何を言われてもいいんだ。人にミスマッチと言われようが構いはしない。俺は俺だ。誰が、そう言って回ってるんだ。あいつか、それともあいつか。

 そういうと、ザックは、はたと気付いた。そんなことを考えている場合ではない。大事なのは、アリーが約束の時間を過ぎても訪ねて来ないということだ。しかし、ザックは、待っている自分と彼女への執着心から、そこに心を差し挟むことなどできずに、自分をかせてしまうのである。それは、ちょうど、ぬかるみの中で空回りする車輪のように、前へ進もうとすればするほどに前には進めない状況に似ていた。

続く――アパート

 ザックは、先ほどから部屋のソファーに腰掛けていた。
 テーブルの上のたばこを取る。
「空か」

 体を起こすと棚のほうに目をやった。銀製のシガレット・ケースが目に止まった。アリーのものである。彼は苛立つ気持ちを抑えながら、そこへ向かった。それを手に取ると掌に載せた。そっと指をクロスさせる。

 パチッ

 ケースの中を食い入るように見詰めている。数本のたばこが残されていた。これを見ていたところでアリーが無事であるかどうか、確認する手立てになるわけもない。ザックは思った。人並み以上に浅黒いザックの指が伸びる。そこから、1本のたばこを不器用に取り出した。

 スパッ、スパッ――

 ふいごにでも吸わせているかのような格好で、彼はたばこを吹かしている。火の点いたその先端は煙がくゆる間もなく、赤く矢のように尖って行った。
 たばこを吸い終わり鏡を覗くと、たばこに酔ったのか、アルコールに酔ったのかザックの顔からはすっかり生気が失われていた。そこにあるのは 苦虫でも噛んだような表情と目の下の隈である。アイシャドーをすっと1本入れたような青黒いそれは幾分、腫れぼったく見えていた。

 思わず、溜息を吐く。
 ベッドに向かう。

 寝転んで天井を見上げていると、自らの不甲斐なさが二重に三重に膨れ上がり、それが、低俗映画でも観終わった後のようなその何とも言えぬ虚無感に変化して行くのに、さほど時間はかからなかった。――ザックは、自分に押し潰されそうになっている。ベッドの上で大の字になったかと思えば、枕を顔に当てうつぶせになってみたり、そうかと思えば、横になって枕を抱えてみたりしていた。と、そのとき、突然、ブザーが鳴るのである。その音に、彼は、即座に反応し、目覚まし時計に手を伸ばした。これじゃない。一体、どうなっているのか、一瞬、状況がのみ込めなかった。そうか、誰か来たのか。ひょっとして――。

「アリーだろ、そこにいるのは。わかってるんだ」
 枕を抱えたまま、半身で声を発していた。

「俺だよ、ボビーだ。開けてくれ」
「何だ、お前か」
 ザックは、起き上がるとドアへ向かい、彼を招き入れた。

「お前が、探してくるって言って、部屋を出てから、もう二時間だ。遅いじゃないか。ところで、アリーはいたのか?」
「見たんだ」
「どこで?」
「以前、俺たちが入ろうとしたことのある、あの小さなカジノバーだよ。確かに、アリーだと思うんだが……」
「出るのをか?」
「いや、入って行くのをだ」
「えっ!」
 安堵したのも束の間、もう一つの不安が、ザックの心を突き上げていた。

「お前は、部屋に残れ。今度は、俺が行く」
 ザックは、いきなり、ソファーの背もたれに掛けてあったジーンズを手に持つとクローゼットのほうへ向かった。そこから1枚のヴィンテージもののスイングトップを取り出す。ノブに手が掛かった。そして、階下へと駆けて行った。

カジノバー

 アパートから1・5マイルほど離れているだろうか。ようやく、バーの立ち並ぶ一角で彼の足は止まった。ここ裏通りは、華やかなダウンタウンから少し北に位置するが、行き交う人もまばらで、ラスベガス・ブルーバード沿いに比べても、はるかにネオンサインが少ない。というよりも、ザックの住む裏通りと同じように、人に合図するのを忘れかけたようなネオンが、時折、光る程度である。
 確か、この近くに「Z」というカジノバーがあったんだが……。あの店はオールナイトで営業している店だ。とはいえ、深夜も近づくと、看板の灯を消す店もある。彼はどこからともなく犬の遠吠えが聞こえる薄明かりの中、低い建物に取り付けられた文字看板を丹念に確認するようにして歩いていた。と、一軒の店の前で歩みが止まった。ザックは、店名を見詰めている。……ここだ。間違いない。

 ――心は、相変わらず不安に彩られていた。アリーの無事を祈っている。ドアの前に立って思わず、十字を切った。

 ドアの軋む音に不安を募らせながらも足を進めた。店内は、暗いが、要所要所にスポットライトが取り付けられていて、その明かりを頼りに人の動きを見ていると、心臓の鼓動が高鳴って行くのがわかった。命の保障はないぞ、と言わんばかりの色合いの違った不安が、ザックの心を襲っている。何なの?あの男は。――彼の目に、突然、スキンヘッドの男が飛び込んできた。そして、辺りを見回しながら、前に進み、男の前を通り過ぎようとしていたときだった。
「ここは、ガキが来るところではねぇーんだ」
 彼の耳には、その怒鳴り声が、巨大スピーカーのボリュームを、一瞬、下げ損なったときの炸裂音のように聞こえた。

 ザックの膝が小刻みに震え始めた。彼の目に映ったのは、色付きのタトゥーである。男の太い二の腕にあるのは、赤い花びらが取り巻くドクロの彫り物らしい。有無を言わせぬほどのその毒々しい模様に圧倒され、彼は、一歩一歩、後ずさりする。しかし、次の一歩を後ろに運ぼうとしたとき、足が何か硬いものに触れた。思わず、ザックは、「ソーリー!」と声を発した。そのためか、バランスを崩し体が左右に振れ始める。もうだめだ。そう思った瞬間、彼の腕に何かがタッチした。

「俺の安全靴に当たったようだが、君は、大丈夫かい」
 スロットに興じていた男が、手を差し伸べたのである。
「た、助かりました」
 ザックがそういうと、男は、ニヤリと笑った。さっきのあの男とは、何もかもが、まるで違う。この人なら、何か知っているかもしれない。ザックは、思った。
「……ちょっと、お尋ねしますが、若い女の子、ここで見かけませんでしたか。アリーというんです」
「さっきここに来たばかりでな。知っていれば、教えてあげるんだが、すまないね」
 男は、そういうと、ザックをじっと見ていた。
「いいんですよ。気にしないでください」
 ザックは、言った。
 その柔和な表情といい、その話し方といい、彼には、男がスロットで負けが込んでいる状況にはなさそうに思えた。勝っているのだなあ。勝てば、こうなるのか。否、そうとばかりは言えまい。たぶん、天性のものなんだろう。――ところで、安全靴と言っていたが……。思い立ったように、彼は、視線を下に向ける。結構、幅があり分厚くできているようだ。俺の革靴とどう違うんだろう。ただ、足が普通より横に広がり甲が高いのか、それとも、靴そのものがでかいのか……。妙なところに、興味を持つザックであった。

 その横でスロットに夢中になっていた男は、ザックが去ったのを見計らうや否や、安全靴の男に、
「さっき、トイレに行ったとき、廊下の奥の方で若い女を見かけましたぜ、兄貴」
と、先ほどのやり取りの確認を促すように、耳打ちをしている。安全靴の男は、その言葉に頷き、
「この店に若い女とは。まったく、珍しいこともあるもんだな」
と、返した。
 安全靴の男は、そのことには気づいていたのだが、これ以上、話すことは何もないと言わんばかりに、その話をはぐらかしたのである。答えにならぬチグハグさを感じた横の男は、
「先日も見かけましたぜ」
と、ダメ出しをするようにそういうと、安全靴の男は、視線を逸らし、再び、頷くのだった。

 一方、ザックは、スロットが数台並ぶその場所から離れ、この店のほぼ中央に位置するテーブル近くに立っていた。そこで繰り広げられるバカラを見ていると先ほどのことが頭に浮かんでくる。つまずきかけた俺を救ってくれた、あの安全靴の男ならと思って訊いたのだが、知らなかった。勘が外れたのか、……。そのことが、どういうわけか気になっていると、店内に響き渡る歓声とどこからともなく染み入ってくる嘆きに交じって、もう一つ、ザックの耳に刺さるような声が聞こえていたのである。「まだ、いるのか、あのガキは」――。もしかして、先ほどのタトゥーの……。ここで人探しをする俺が目障りなのか。それとも、負けた腹いせか。ザックは、薄明かりの中、その声が、耳元から入って抜けて行くのではなく脳裏に留まって、叫び続けているような感覚を覚えた。
 それにしてもだ、この店が恐怖に思えるのは、……というより、殺気さえ感じさせられるのは、一体、何なのだろう。命がいくつあっても足りやしないという気がしてくる。

 ザックは、思わず、口に手を当てた。
「ゴホン、ゴホン」
 咳のせいか、これまで、まっすぐに立ち上っていたたばこの煙が、くねくねと曲がり始めた。天井に当たると、どこからともなくやってきた他の煙に交じって一本の道を描いている。どうやら、奥に強力なダクトファンがあるらしい。その唸りに追い立てられるようにして、煙は外へ吐き出されるのだ。やはり、俺も、流れに沿ったほうがいいのか。あの煙のように。――そうではあるまい。
 気を取り直したザックは、再び、視線を戻した。テーブルのディーラーが、ザックの気配に気づいたようである。ディーラーは、トランプを配りながら、彼を怪訝そうな顔つきで見ている。このとき、ザックは、思った。一体、なぜなんだ。たぶん、プレイもせず、尋ね回る俺を怪しいやつだと思っているに違いない。だからと言って、俺が、天井を這う煙のように、このまま外につまみ出されるわけには行かないのだ。
 意を決すると、ザックは、そのディーラーから、距離を置くように進み、手の空いたゲストを見つけては、尋ねた。だが、声をかければ、知らないと言われるか、そっぽを向かれるか、そのディーラーと同じ表情が返ってくるかのいずれかであった。もはや、これで終わりかと思っていたとき、店の奥にあるキャッシャーが目に入る。そこへ導かれるようにして、独り彼は、バーカウンター横のコーナーへと向かった。

続く――カジノバー

 辺りは暗いが、前方に明かりの灯るキャッシャーが見える。視界を遮るものは何もないというのに、この店のその空間だけが、なぜか、音が遮断されているように感じられるのである。ここから少し距離はあるが、そのほぼ正面の位置から見ると、そこに一人の男の姿が確認できた。もしかすると、あの初老男がこの店のマネージャーかもしれない。しかし、たとえ、そうじゃなくても店でプレイするなら、一度は、あそこに立ち寄るはずだ。であるなら、アリーの居場所をあの人が知っている可能性は高い。ザックは、そう考えた。
 男は、椅子に腰かけたまま、微動だにしない。おまけに、日の出模様の壁を背にしているせいもあり、ザックには、かつて日本の友人が見せてくれた東洋美術史の仏のにすがたのように思えてきた。だが、それは、単に虚像でしかなく、男が動いた瞬間、いかにも泡銭で食い繋いできた山師のような雰囲気を漂わせているのである。ザックがその不気味さに気づくと、男は、ゲストと話しながらも、彼の視線を捉えていた。またか。男がこちらを見て、顔をしかめている。後退しようにも、今の俺には、それができない。ここで諦めれば、最後のチャンスを失ってしまう。行くしかない。ザックは、恐る恐る前に進んだ。

「あのう」
「何かな 坊や」
 男は、ぬっくと立ち上がった。ザックは、思わず、見上げた。何という巨漢なのだろう。サスペンダーが、はち切れそうな横幅に、上背は、ざっと、7フィートはあろうかという体格をしている。彼は、動揺を隠しきれないでいた。男の醸すその異様な雰囲気にそれが重なり、小刻みに膝が震えていたのである。――人間というもの、恐怖が限界に近づくと言葉が出辛くなるものなのか。次の言葉を口にしようとしても、言葉が出てこない。こんなことは、今までに経験のなかったことだ。
 傍にいるゲストが葉巻を咥えている。口に含んでいた煙を男は、ザックのほうに向かって、フッーと吹きかけた。すると、その香りに心地よさを感じたのか、彼は、極度の緊張状態から解放されたような気持になるのである。男は、ザックの心理状態をお見通しだった。――まだ、膝は震えていた。

「お、俺、人を探しに来たんです……」
「どんな人かな」
 男は、言った。
「アリーという女の子ですが、知りませんか」
「かわいいのかい」
「ええ、……」
「イギリス系だろ」
 ザックは、しめたと思った。そして、返した。
「そ、そうです」
「やっぱりか」
「どうして、わかるんですか」
 目を輝かせながら、言った。
「君のイギリスなまりの英語で、わかるのさ」
 一転、落胆の表情を滲ませた。
「そ、そうですか。……あのう」
 男には、ザックの表情とその口ぶりから、何を言わんとしているか、大体、察しは付いていた。
「知らねえな」
 男は、急に、そっぽを向いた。
 変な男だなと、ザックは思ったが、これ以上、何も言えなかった。彼にしてみれば、男とのやり取りを途中で諦めることは想定していなかったが、口を閉ざしてしまう相手に、しかも、恰幅のいい男に、執拗に尋ねてもかえって、感情を逆なでするばかりでいいことのあろうはずはない、自分の身に危険が及だけだと考えた。しかも、近くには、黒チョッキの男が立っていて、彼の様子をしきりに窺っていた。

「おーい。こっちに来てくれ」
 その呼び掛けに、黒チョッキの男が反応した。マネージャーが俺に何の用だろう?
「すぐに行きます――」
 男は、黒チョッキの男を呼んだあと、なにやら、耳打ちをし始めたようである。ザックには、彼が何を話しているのか、わかるはずもなかった。
「今夜は、白髪で白い顎ひげを蓄えられた先生が、秘密の部屋の当番占い師になっている。オーナーから直接、聞いていると思うが、占い師の先生たちは、予約を取らない者には、その部屋の存在を知らせないという取り決めがある。そして、それは、お客様にも徹底されておられるようだ。だから、もし、ふいに、ここを訪ねてきた者が占いやその部屋のことを訊いてきたり、何かを尋ね回る怪しい者がいたら、決して相手にするんじゃないぞ。――これは箝口令だ。わかったな」
 男は、言った。
「イエス、サー」
 黒チョッキの男は、軍隊上がりだったのか、敬礼を伴って、そう返したのだった。

 ザックは、店の出入り口付近に立って、もう一度、店内を眺めて見たが、やはり、彼女の姿は、どこにもなかった。それでも、彼は、アリーのことを諦められずにいた。彼女は、もしかして、この店のどこかにいて、身に危険が及ぶような酷い状況に置かれているのではないか。この思いを彼は、拭い切れないでいるのである。
 ――店に残るか。そうかといって、いないのであれば、店を出るか。彼は、迷いと不安の入り混じった複雑な感情が脳裏で絡み合い、もつれ合いながら身動きが取れない状態にあった。しかし、これ以上、ここにいても、埒が明かないことくらいは承知していた。ここは一旦、店を出るしかない。ザックは、そう決意し、夜の街を探すという、もう一つの選択肢に賭けてみたのである。それでもなお、躊躇いは残った。

秘密の部屋

「日本に観光で行ったとき、一度、おみくじを引いたことがあるんですよ。先生、『待ち人来たらず』ってどういう意味ですか? 知り合いの人に尋ねますと、あまりいい意味はないって言ってたんですけど……」
 アリーは、言った。

「『待ち人来たらず』ねぇ……。一見、悪い意味のようにも受け取れるが、そのときに願いが叶わなくとも準備を怠らず、待っていれば報われる日がくるという意味もあるから安心なされ。おみくじも、手相もそうなんじゃが、右から左に事が成就するというもんでもないんじゃ。そもそも、明確に何かが起こる事をその時点で決め付けるような占いは存在せんと言ってもよかろう。つまりじゃ、人の生き様というもんは、生きていればその人の持つ運命の振れ幅の中で動いて行く。ワシは、こう考えとる。ただ、中には直感にすこぶる優れた占い師もいるようで、人の内面を見通したり、人やその場に霊を感じたりと、持ち前の能力を駆使することによって当たる確率を上げている者もいると聞く。実は、ワシも、その一人なんじゃがのう」
 聞き耳を立てていたアリーは、表情をこわばらせ、占い師をじっと見た。
「――冗談じゃ、冗談。そんなに怖い顔、せんでいい」
 突然、ワッハハハ、ワッハハハ――と、占い師は、高らかに笑い始めた。だが、アリーにしてみれば、なぜ、それが笑うほどおかしいことなのか、きょとんとするばかりである。

「どれどれ、観てみようかのう」
 占い師は、言った。
「お願いします」
 アリーも、そろそろかと待ち構えていた矢先だった。彼女が、両手を差し出すと、占い師は、テーブルに置いてあるルーペを手に持った。
「なるほど。――この手相を見る限り、月丘が一般の人に比べ発達しているようじゃな。それに生命線が長く、しっかりしている。ここから察するに、人間関係が充実し、近い将来、幸運が訪れる可能性があるのう。ワシには、そう映る。それに、今は、何かにつけて活動的なようじゃな。これが、幸運を呼ぶ。じゃがのう、ここに、それを邪魔する障害線が出ている。とくに恋愛関係には要注意じゃぞ」
 アリーは、間髪を入れず、
「彼のことでしょうか?」と、思わず、返した。

「そうじゃったな。彼がいたんじゃのう。じゃが、彼ばかりとは、言えんのう。お嬢さんに密かに好意を寄せている男が、突然、現れんとも限らんからのう。そんな顔せんでいい。美人さんが台無しじゃ」
 アリーは、その指摘に動揺を隠せなかった。
「しかし、じゃ。お嬢さんの場合は、彼がすでにいなさるとのことで、ここに出ている線は、主に彼を示しているものと考えてよかろう。短期的には、邪魔をする者もいていろいろあるかも知れんが、長い目で見れば、うまく行くから、安心しなされ」
「――短期的には、だめなんですか」
 アリーは、小声で言った。
 占い師は、ルーペを通してアリーの掌をじっと見つめる。
「右手に運命線を渡る線がありますな。そして、中指の付け根にあるこの恋愛停滞線じゃ。この2つは、いずれもトラブルがすでに起こっているか、起こりそうな気配がある兆候じゃ。お嬢さんが原因なのか彼が原因なのか、わからんがのう。――じゃが、幸い、左手には、その2つが出ておらんようじゃ。だから、今後、そのことを頭に入れて、彼と、うまくやって行くがよかろう」
「そうなんですね」
 アリーは、言った。

 初めは、心配そうな表情をしていたが、占い師のその一言に気を取り直したアリーは、彼との現状を少しずつではあったが、語り始めていた。占い師に全幅の信頼を寄せていたのである。

続く――秘密の部屋

「――先生、どういうことかわからないんですけど、私が部屋に行くと、彼は決まって友達を連れてきているんです。本当は、初めから2人きりでいたいときもあるんですが……。いつだったか、私は、友達を連れてくるのはやめてくれない、と言いましたら、『何で君が俺に命令するんだよ』って言うんです。おまけに、『俺たちは、一心同体なんだ。連れて来ようが来まいが、勝手じゃないか』とも……。そこで、友達が帰った後、決まって彼とは口論になるんです。酷いときは、テーブルを叩いたり椅子を蹴ったりするんですよ。先日も、それでした」
「それで暴力は?」
「そういうことは、幸いに一度も……。けど、エスカレートした後、その反動からかどうかはわかりませんが、私に甘えてくるところがあって……。私は、それで彼を許してしまうんですが、でも、部屋にいる友達以外のことでは、相変わらず……」
「友達以外のこととは……? 差し支えなければ、話して見なされ」
「は、……はい」
 躊躇いながらも、アリーは、続けた。

「……実は、酷く罵るところがあるんです。『あいつは、×××××なんだ。ざまは、ないのさ』、などと言ったりして。初めは、うん、うん、と聞いているんですけど、その相手が同じ人のときもあれば、そうでない人のときもあったり……。ちょっと、この人どうかしているわ、と思ったときには、私は、いつも聞いて聞かない振りをしてしまい、それで、また、彼は、怒り出すんです」
「なかなか、難しい問題じゃな。――特定の男同士の友情が強すぎるのも、異性としては厄介じゃが、部屋にくる友達以外の者を次から次に貶してしまうというのも、どうかしてるのう」
「やっぱり、先生も、そう思われるんですね」
「……じゃが。彼のその友達に彼女でもできれば、部屋には来なくなるのと違うかのう。少し、様子を見なされ。いずれ、変化があるかも知れん」
「はい」
 アリーは、占い師の目をまじまじと見ていた。

「ところで、彼には、甘えん坊のところがあるということじゃな。そして、一心同体の友人には優しく、それ以外の者には冷酷で、ときには差別とも受け取れる言葉を平気で吐いてしまうような一面もあると……」
「そうなんです」
 アリーは、身を乗り出した。
「これ以上、近づかんでいい。ワシは、時々、咳をして痰を飛ばすことがあるんじゃ」
 アリーは、一瞬、仰け反った。と、すぐに占い師は、返した。
「それは、冗談じゃ」
 また、冗談なの。真剣に話を聞いているのに、こっちこそ、全く冗談じゃないわよ。アリーは思った。
 自らが放ったリップサービスに、ニンマリしていた占い師であったが、何を思ったのか、急に口を真一文字に結ぶと、表情をいつもの真顔に戻していた。そして、続けた。

「――お嬢さんの話から察するに、彼は、よく言えば感情が豊か、悪く言えば人よりも不平不満を抱きやすい気質を持っていなさるようじゃ。ということは、自分と他人の区別がつき難いお方とみてよかろう。つまりじゃ。他人へ発している言葉は、相手に配慮がなければ、自分の心が原因の危険信号になる。だからのう、それは、自分へ向かっての叫びになるんじゃな。彼は、相当、利己主義の強いタイプであるとワシはみる」
 アリーの顔色が一瞬にして嫌悪感のある表情に変化した。――何を言ってるのよ、この爺は。そんなことよく言うわよ。親密にしている人を相手が悪くいうのは構わないけど、他人に指摘されると、いい気分はしないのが人間の性と違うん。占い師は、彼女の思う、その言葉こそ聞いていなかったが、おおよそのことは、そのただならぬ表情から見当がついていた。――やはりのう。ここにその一端があったか。彼女も例外なく自分には甘いが、他人には厳しいタイプの一人であるようじゃ。――すでに精神的な依存関係が始まっとるわい。それが、癒着につながらなければいいんじゃが……。彼女がそこに駆り立てられてしまう理由を、占い師は、すべてお見通しであったのである。

「彼を大切にして上げなされや。そうでなければそれが災いして、他人をささいなことで傷つけたり、他人を罵倒したりして独善がいつまでも直らない。お嬢さんが愛の手綱で彼をしっかりつかまえておけば、彼は、きっと、いつかはそのつまらぬ行為に気づくことじゃろう。つまりじゃ、自分の感情が発する独善の虚がわかるようになれば、おのずとじつが見えるようになる。見えれば、その実を分けることもできるからのう」
 占い師は、壁にかかっている絵を見つめていた。
 アリーは、その言葉を聞いて、占い師が彼のことを言っているものと信じて疑わなかったのであるが、しかし、占い師としては、その場にいるアリーに対しても、同じように助言をしていたのである。
 占い師は、続けた。
「この理屈は、恋愛に留まらず、友人や知人、広く人種や民族との関係を見ても同じなんじゃ。互いが配慮し合わないとな、吠えるばかりで区別と差別のどちらが外に向かう混沌で、どちらが内に向かう昇華かその違いすらも、わからぬことになるからのう。すべての鍵は実が握っているということじゃ」
 アリーは、何を言っているのか、初めのうちは、きょとんとしていて理解に苦しんでいるようであったが、彼女もミレーの『落穂拾い』を眺めながら何となく、それが何を意味するのか気づいたようである。――そうだったのね。アリーは、自らの思いを口にすることなく、黙って頷いた。

夜の公園

 アリーは、カジノバーを出ると、寂として静まり返った夜の公園に来ていた。
 古びた数本の街灯が寒々と辺りを照らしている。銀白色の、薄暗い明かりに映し出されたベンチが物憂くアリーに何かを語りかけているようでもある。彼女はそこに腰を下ろし、うつむき加減で先ほどのことを思い出している。考えても考えても、アリーは、占い師が何を自分に伝えようとしたのか、わかっているつもりでも、そこにはわからないことも多かった。虚だとか実だとか言われてもわかるわけないわよ。顔をおもむろに上げると、噴水の方角には、占い師の顔が、ぼんやりと浮かび上がって見えるのである。
「人の行動は、大概、心の現われじゃ。だから、彼も例外なく、迷いの中にあって、そこから逃れようと、必死になっているのかも知れんのう。それが、お嬢さんに向けられることもあるとは思うが、表面だけを見て、彼の実を取り損なっては2人とも、結果として、つまらぬ重荷を抱えなければならなくなるから気を付けなされ。実が見えなければ、実のわからぬ人間として一生涯それを背負って生きなければならなくなるのかもじゃ。そんなことがあってはいかん。今が大切な時期じゃ。周囲の目を気にせず、本当の自分はどこにいるのか、一度、探して見なされ、それが相手を大切にすることにもつながるのじゃ。大切にできれば、お互いに幸せになれることは、この爺の目が保証する」
 アリーには、店を出るとき、告げられた占い師の言葉が聞こえてくるのだった。

 彼女は、水面に映る銀白色の薄灯りを見つめている。時折、吹き寄せる風が、彼女には、温かくも冷たくも感じられた。ザックは、部屋にいるのだろうか。もし、いるのなら私がいないせいで、心配してはいないだろうか。いえ、心配しているわけはないわ。アリーの思いは、そこに現れるさざ波のように、立っては消え、消えては立っていた。
 ――と、道の方角から誰かを探しているような男の声が聞こえ始めた。
 しだいに大きくなる声に注意を傾けると、アリーは、その声の特徴からして、ザックではないかと期待を募らせて行った。傍らにあるこんもりとした木立が街灯を遮っているせいで、辺りは暗く、目視ではそれが彼だと判断することも、また、人の名を呼ぶ声も耳には入らなかったが、今日の約束﹅﹅を思えば、間違いなく、その声の持ち主は、彼だと直感した。

「ザック、私を探しに来てくれたのね。ザック――」
 アリーが、声を大にしてそう言うと、2人は、暗闇の中、どちらからともなく歩み寄った。
「今日は、ごめんね。部屋に行けなくて」
 アリーが、その一言を口にしたことは、男にも聞こえていた。すぐにそのあと、2人は抱擁を交わした。だが、そのとき、アリーは違和感を覚えたのである。彼なら、毎日、シャワーを浴びて身ぎれいにしてるはずだわ。体から、臭いなど漂ってくるわけがない。しかし、この男には、頑固な体臭がある。声は、確かにザックによく似ていて、誰が聞いてもその低い声に区別は付かない。アリーは、噴水を見ながら、背中に回した手で男の背丈と筋肉を確かめ始めた。ザックも背は低いほうだけれど、この男も低い。でも、この男は、痩せすぎているわ。このとき、アリーは、ザックでないことに確信を持ったのである。
「あなた、誰ですか?」
「ザックの友人、ボビーというものです」
「えっ――?」
 男は、アリーの驚きに仰天して、アリーから離れた。
「なんで、あなたが、ここにいて、この私に抱きつくわけ――?」
 アリーは、声を荒らげた。
「それが、あのう……愛する人を探すザックに心打たれ、彼と一心同体だという気持ちが優ってしまい――気づいたら、こうなってしまっていたんです」
「何が、一心同体よ!――あなたは、自分と他人の区別ができないのですか?」




  おたふく島の夏伝説

出港

 二人して、神社仏閣ぶらり旅をする予定ではあったが、ジムは、船に乗っていた。銅鑼どらが鳴り響いている。これでよかったのか。ボブに押し切られ、港に来たことを彼は、後悔しているようにも見える。荷物を客室に置くと、アウトデッキへ急いだ。途中、乗船券売場の看板が見える。階段を上り切ると、そこからは、港の景色が彼の目前に広がった。
 約束なんてものは、所詮、破られるためにあるのか。友といえども、当てにはならないものだと、彼は、ふと、思った。先ほどまで、けたたましく音を立てていた船のエンジンが急に音を消した。いよいよ、船が、沖へと航行し始めたようである。――船尾が吐き出す白い泡の筋を見ていると、あのぶらり旅の約束は、初めから、その泡のように、そうなるべくしてなった予定調和の中に置かれていたのではないか。そう思えてならなかった。航跡が、音もなく消えて行くように、港が、フェードアウトして行くのが、彼の目には映っていた。
 少し、風を伴ったうねりが出てきたようだ。船首の方角に目を向ければ、ところどころに白波が立っているのが見える。そろそろ、部屋に入ったほうがよさそうだな。階下へ通ずる鉄の扉を引いた。彼には、それがこの旅の行く末を暗示する重い扉のようにも思えた。旅の中味に加え、天候がどうなって行くかを考えながら降りて行くと、乗降口の前に立っていた。いまさら、降りるわけにもいかない。また、降りることもできない。正面を見れば、一本の廊下が続いている。――あそこにあるのは、自動販売機の明かりだろうか。探していたわけではなかったが、そこで、缶コーヒーを2本買うことにした。

「どこに行ってたんだよ」
 連れのボブは、言った。

 顔は、かなり不安そうな表情に見え、声は、少し、興奮気味であるように聞こえた。その状態からすれば、連れも、幾分、船に揺れを感じ始め、天候を気にかけているように思えた。ジムが、缶コーヒーを差し出すと、連れは、何も言わず、受け取った。相当、この状況がショックだったのだろうと、リアクションのない態度から、ジムは、それを察した。

「これ以上、海が荒れなければいいのだがなあ」
 ジムは、言った。
「ああ、そう願っているよ。俺、さっきまで、窓から外を眺めていたんだが、白波が見えたんだな」
 ボブは、返した。

 無事、目的の島へ辿り着くことができるのだろうか、気になり始めていたのである。連れは、ジムの顔を見るなり、
「俺、実は、船に弱いのよ」と、言う。

 だが、船旅をしようと言ってきたのは、ジムではなくボブのほうであった。その島に何があるというのか、彼は、連れから聞かされてはいなかったが、連れが、そういうならと彼は、神社仏閣巡りを取りやめて急遽、二人して電車とバスを乗り継ぎ、船旅の出発点となる霧笛港にやって来た。それでいて、連れがその言葉を口にしたものだから、何を考えているのかわからんやつだと、彼は、思ったのだった。

「へー。船酔いを恐れるなら、なんで、船旅を思いついたのかい」
 ジムは、言った。すると、ボブは、
「俺にもわからないんだ。理由があると言えばあるが、ないと言えばないかな。見ただろ、海の広大さを……」と、返した。

 それを聞いたジムには、連れが、大事なことをはぐらかしているように思えてならなかった。だが、何かを隠しているにしても、それなりの理由があるに違いないと、彼は、自分に言い聞かせた。とはいえ、彼は、内心では、自らの気持ちとは裏腹に、神社仏閣巡りを望んでいたことも確かである。しかし、短期の旅であることに加え、船上の人となっている今では、それも難しい。そう考えると、連れの願いであるおたふく島へ行くことを快く受け入れるほうが、それを拒み続けるより、連れにとっても自分にとっても、ハッピーな旅となるではないか。彼は、そう思い直した。その島に執着するからには、何か、珍しい体験ができるのかもしれないし、叶わないことをあれやこれやと悔やむよりは、よほどそのほうが賢明である。それが旅の醍醐味であろうとも……。

時化

 出港から、やがて一時間が経つ。船の揺れが酷くなり始めた。船窓から外に目をやると、先ほどより近くに、白波が発生しているのが見える。ジムは、そろそろ、この船にもその影響が出てくるのではないか、と考えていた。彼が予期していた通り、その心配が現実になるのに、さほど時間はかからなかった。本来なら、それはもう少し、先にあるはずの時間だったが、その進行を遮るように、突然、時化が割り込んできたのである。――船が、ローリングし始めた。乗客の叫び声があちこちから上がった。揺れに揺れている。船は、次から次に押し寄せる高波に、担がれては落とされ、落とされては担がれるという不安定な状態に入った。船底が海面に叩きつけられるようなドンという音が、間を置きながらも単発的に聞こえる。人々は、あっちだと思えばこっち、こっちだと思えばあっちにまるで、フライパンで煎られる落花生のように、右へ行ったり左へ行ったりしている。二人も他の乗客に交じって、船に大きく揺さぶられながら、毛布と枕の他には何もない客室の中で、高波の収まるのを待つ以外にはなかった。しかし、波は、収まるどころか、一層、激しさを増しているような気さえしていた。そのときである、隣から突然、連れの苦しそうな声が聞こえたのは。目をやると、案の定、彼の心配していたことが的中していたのである。

「もうだめ……もうだめ……」
 ボブの顔は、青ざめていた。

「もう少しで港だ。辛抱してよ」
 ジムは、言った。

 彼は、時折、連れに声をかけては、壁にかけられた丸時計を見ていた。それを眺めていたところで、時化が収まるわけでもないのだが、乗船している以上、この密閉空間でそれを確認しながら待つ他はなかった。連れの様子を窺ったり、時計を見ている間にも揺れは続いた。しかし、確実に時間は経って行った。まだ、安心とはいかないまでも、――あの揺れから数時間が過ぎた頃、先ほどの揺れを感じなくなる程度には、揺れは収まりつつあった。連れと数人の乗客を除いては、いつもと変わらぬ時が、戻っていた。船窓から外を覗くと、波も先ほどよりは、穏やかになっているようである。彼の視界の先には、この辺りの海域では、最も広大な面積を誇る、南北に細長い島が、姿を現し始めた。

 ようやく、彼は、あの危機的状況から脱したように思えた。あの時化がうそのように客室は、平常を取り戻し、船は、港に近づいて行く。若干のうねりは残っていたものの、それは乗客に支障のない範囲であり、気にするほどの揺れではなくなっていた。――そこに、突然、船内アナウンスが流れた。人々は、どこかで聞き覚えのある懐かしい声にでも触れたかのように、壁と天井の間に設置されたスピーカーを、じっと見つめ、そこから聞こえる声に耳を傾けていた。

「先ほどは、北上する低気圧のため、船内放送の一部機器が故障し、乗客の皆様には、たいへんなご不安とご迷惑をおかけしましたこと、船長以下、乗組員一同より、心からお詫び申し上げます。さて、本船は、まもなく姉島姉妹桟橋に着岸します。どなた様もお手荷物など、お忘れになりませぬよう係員の指示に従って、順番に下船ください。……」

 ディーゼルエンジンの音が急に激しくなり始めたかと思えば、船首を旋回させながら、船は、微調整を繰り返していた。

「本日は、姉島汽船をご利用いただき、誠にありがとうございました。またのご利用をお待ちしております。なお、おたふく島へ向かわれるお客様は、このまま船内で、お待ちいただけますようお願いいたします。……」

 下船を待ちかねていたかのように、風呂敷包みを背中に担ぐ老婆、手に持ちきれないほどのお土産袋を提げた労働者風の男、リュックを背負った若者ら、大勢の人々が思い思いの格好で列を作り、出口へと向かっていた。

 多くの乗客が降りた後、船内は、閑散としていた。残された乗客は、ジムとボブの二人だけで、他には、客室の外を通って行くスタッフの姿を時折、見かけるくらいであった。二人は、次の島で下船予定である。――しかし、再び、海が荒れるようなことがあれば、連れは、ただでさえ、先ほどの揺れで青ざめ、言葉も出ぬほどの状態が尾を引いていることから見て、今以上の船酔いが待っているだろうことは、ジムには、容易に推測できた。そうなれば、また、あの状態を目の当たりにしなければならない。もし仮に、そうならない確率があるとすれば、この曇天の隙間から晴れ間が覗くのと同じ程度に難しいくらいのことは、わかっていた。

時計

 ジムは、丸時計を見た。その白い時計盤の長針が12を指し短針が2の位置にあった。乗船券を買った霧笛港を出てから、やがて六時間か。彼は、心ここにあらずというような冴えない表情をして桟橋に目を移すと、出港を知らせる2度目の銅鑼の音が、耳に入っていた。その音が止むと、なぜか彼は、目的地の島のことが気になり始めた。やつが選んだ観光地でもあり、また、おたふく島という島の名称からして、おもしろいところに違いないだろうが、やはり、神社仏閣を巡ったほうが、俺たち二人とっては理想的な旅ができたのではないか、そして、連れの体にも負担はなかったのではないかと、あれやこれやと思いを巡らせていたのであった。

 船窓を覗くと沖合は、随分、波が収まっているようではある。それでも、左舷にポツンと浮かぶ岩礁に目を移せば、岩肌に波が押し寄せるごとに時折、激しい白波が立ち上がっていた。目的地に向かって進む船の航行には影響はないかもしれないが、再び、あの揺れが襲ってこないという保障はどこにもない。こればかりは、気を付けようにも気を付けようがないことだと、ジムは、思った。

 そこに、再び、船内アナウンスが流れる。

「ただ今、海上の波は、収まってきているよう見えますが、本船は、北上する低気圧のため、若干、うねりの影響を受け航行しております。今後、大きく揺れを感じることも予想されますので、船内を移動される際には、……」

 ジムが、何気に横を見ると、ボブの姿がない。どうしたことだろう。彼は、急に心配になった。もしや、さっきの港で降りてしまったのか。否、そうではあるまい。確か、連れは、船が出港するまでは、船内にいたはずだ。とすれば居場所は、……。すぐに、あそこしかないと気付いた。急いでデッキに向かった。――そこには、独りポツンと柵に手をもたせ掛け、しゃがみ込んでいる男の姿が見えた。間違いない、連れである。駆け寄ると、ジムは、声をかけた。

「大丈夫か?」
「ああ」

 返事は、その一言であった。ジムは、それ以上、連れに言葉をかけられず、しばらく様子を傍から、窺うことにした。

 船が海原を航行するうち、姉島港を出港してから、随分、時間が経っているように思えた。だが、ジムが、自らの腕時計をみると長針が真上にあり、短針の位置が、先ほどとほとんど変わっていない。何だ、これは? 時計が壊れたのか。縁起でもないことだ。
 この現象は、時計だけのことか? ……。俺たちの道中に何か不吉なことが起こる前触れでなければいいのだが……。ただ、秒針は、まだ動いているようである。ということは、突然、何かの弾みで、長針、短針が動き出せば、それをきっかけに、いつもの状態に戻るということか。だが、待てよ。逆に、何かの弾みで、秒針までも動かなくなってしまったらどうなる ――最悪の事態に直面する可能性だってあるのではないか?
 しかし、……現状は、すでに長針と短針が止まっているのだから、予期せぬ事態へのカウントダウンがすでに始まっているともいえる。そう考えれば、避けられない事態が、いつ、どんな状態で、その場にいる自分や他の者に降りかかってきたとしても、おかしくはないはずだ。この思いが、最初の恐怖の扉﹅﹅﹅﹅として、彼の心に纏わり付いて離れないのである。

入港

 目の前に小高い山を頂く、丸い島影が見え始めた。そこに船内アナウンスが流れる。船は、もうすぐ、おたふく島に入港するらしい。ボブの耳にも、それは聞こえていたはずである。連れを見ると、歯を食いしばり、体を起こしにかかっている。――船が、島に近づくにしたがい、磯の香りが漂ってくる。そこには、海苔筏が点在していた。その光景を見ているうち、港を小さく囲む堤防が近づいてくる。再び、船内アナウンスが始まった。

「本日は、姉島汽船をご利用いただき、誠にありがとうございました。またのご利用をお待ち申し上げております。なお、……」

 船が港に入ると、ボブは、デッキの手すりに掴まり、桟橋のほうを眺めていた。その視線の先には、複数の人影が見えているようだった。カラフルな衣装に身を包んだ女たちが、手を振っている。連れは、先ほどまでの船酔いが、うそのようにニコニコしながら手を振り返していた。

「おーい。もう少しで着くからな」
 ボブは、叫んだ。

 どうも、変だな。なんで女たちが、出迎えに来ているんだ。もしや、連れが予約を入れていたのか? ジムは、思った。

 係員たちが、桟橋にタラップを架け始めた。女たちが、がん首を揃えて、そこに立っている。糸目の女と、目の下にくまのある女、それにやせた犬1匹が見えた。そして、犬の横に目をやれば、旅館の案内板を掲げた麦藁帽の女、その後方には、厚化粧の女たちが、数人いたようだった。麦藁帽の女が一歩前に出ると、船内の様子を窺うようにして手を振っている。ジムは、その女と目が合ったが、さすがに、連れのように手を振り返す気分にはなれなかった。だが、表情だけでもつくらねば……、との思いに駆られるようにして、彼は、笑って見せていた。しかし、彼にとっては、手を振るより笑うほうが、数段難しかったらしい。どうも笑いが、不自然なのである。それに気づくと、ジムは、すぐに笑うのをやめた。傍にいる連れは、彼のニッと笑っては、口元をムッと閉じるその表情を見逃さなかった。しかし、その笑いを見て、妙な癖のあるやつだな、と思ったのも束の間、彼に釣られるように連れも、麦藁帽の女のほうに向かって、ニッと笑っているのであった。

 麦藁帽の女が、手招きしていた。連れは、足早に出口の方へ向かう。ジムも、その後に続いた。最初にタラップを降りた連れは、その光景に圧倒されたのか、ポカンと口を開けて女たちの一団を見つめていた。その顔は、うっとりしている表情の何ものでもなかった。彼には、そう映った。

「一杯飲み屋の女たちか」
 ジムは、呟いた。

 麦藁帽の女は、連れに声をかけた。

熱烈歓迎

「遠いところから、ようこそおいでくださいました。海と海苔、それに盆踊り以外には、何もない小さな島ではございますが、心から歓迎いたしますわ。ご紹介が遅れましたが、女将の御多福笑子と申します。こちらの者たちは、仲居です。この子たちからは、ママと呼ばれていますのよ。うふふふ」

「俺、ボブと言います」
「お隣の方は?」
「俺、ジムです」

 このとき、ジムには、外見が物語る姿とは裏腹に、割と人としてセンスのある女将のように感じられていたのである。だが、彼は、それだけに、腕時計のみぞ知る恐怖の扉が、今にも開きそうな胸騒ぎを覚えていたのだった。女将は、ボブのほうを向くなり、
「そうそう、わざわざ、予約のご連絡だけでなくお写真まで送っていただき、たいへん、ありがとうございました。ところで、アメリカは、どちらから、おいでになられましたの?」と、尋ねた。

 何だ、そこから先は、覚えてないのかよ。ボブは、一瞬、表情を曇らせた。

「コロラド州デンバーですよ。隣にいるこいつがデンバーで、俺の場合、同じ都市圏に入るオーロラです。デンバーからは、東に最短で約8~9マイル、中心部からだとそれよりは長くなりますが、車で移動する分なら大して変わりません。ロッキー山脈の東の麓ということで、俺たちの住む町には、近くに海がないものですから、子供の頃から海に強い憧れを持っていましてね。それで、この島を訪れた知り合いから、日本に行くなら、ぜひ、珍しいものが見られる夢の島を、と勧められ、ここに決めたという、まあ、こんなわけなんです」

 連れは、少々、声を大きくして、語っていた。
「えっ!」
 ジムは、連れの話に、呆気にとられた。

 観光の目的が、当初よりこの島にあったとは、初耳であった。彼にとってその一連の話は、噂話が時に、別種の生き物のように進化を遂げるように、自分と交わしたあの約束が、連れの強烈な利己心により新たな舞台が作り上げられ、全く別の生命体に変貌した姿を見せつけられているような気がしたのである。もはや、そうなった後では、その中に割って入り、それは違うんだ、それは、決して人にしてはならないアンフェアな行為なんだと、声を大にして叫んだところで、物事の理非善悪が反転しているこの状態を、彼には、押し返す力のあるはずもなかった。というのも、彼の心のどこかに、自らの持つお人好し気質が、招いてしまった禍ではなかったかと感じる部分がないではなかったからである。

 ジムの思いとは、まるで異なり、女将は、先ほど聞いたマイルが気になっていた。それが、どのくらいの距離になるのか、皆目見当もつかなかった。彼女は、連れを見るなり、
「8マイル、いえ、9マイルですって?」と、尋ねた。すると、連れが、
「えーと……。さしずめ日本なら、約13キロから14キロ半ばの距離になるかと思いますよ」と、力説して語っているのを俺は、見ていた。

 この説明といい、先ほどからの説明といい、討論の場ではないにもかかわらず、やけに連れは、ボディーランゲージを駆使して話しているのである。そうして見せるほどの内容であるわけもなかったが、連れは、利己心が強い一方で、もともと、はにかみ屋のところがあって、自分の弱い心を見透かされないように、思わず、話に力が入ってしまったのだろうか。初対面の者に対しては、とくにそうなってしまう癖があったのを俺は知っていた。
 しかし、彼女は、自分にはない身振り手振りで熱心に説明するその姿に、いたく感心したらしくジムには一切、目もくれず、連れのほうに釘付けになっていた。

「そんなにも、中心部から離れているのですか?」
 彼女は、日本からアメリカまでの距離はわからなくても、その距離が、どの程度のものかは、島の周囲と比べれば、およそイメージができた。そして、続けた。
「まあー、すぐに、それがおわかりになられるとは、頭も、相当、およろしいのですね。……」

 彼女にしてみれば、連れの言葉より、日系人としての珍しさのほうに、気を取られていたために、彼女の発する上滑りな言葉には、深い意味があるわけではなかった。それは、ほんのリップサービスのつもりで、受け答えをしていただけだった。

「いえ、そんなことはないですよ」

 ボブは、ニコニコしながら、頭を掻いた。そこに一瞬だが、連れが首を傾げたのをジムは、見逃さなかった。だが、その仕草の中に意味があったのを彼は、このとき、わかるはずもなかった。

レディー

「とにかく、俺、会えて、嬉しいです」
 ボブは、言った。
「写真を送ってくれたお陰で、あなたが船を降りたとき、すぐにわかりましたのよ」
 女将は、言った。そして、ボブの顔をまじまじと見つめながら、
「――お写真と比べ、随分、お若いんですね」、と続けた。
「ええ、……まあ。――というか、俺は、先月のバースデーで、もう30ですよ、30……」
 連れは、不機嫌そうに返した。

 それを隣で聞いていたジムは、考えていた。なぜ、連れの表情が、先ほどから、冴えないのかをである。すると、連れは、すかさず、
「あなたこそ、老けては見えますが、まだまだお若いじゃないですか」と、続けたのである。

 俺は、そのただならぬ言葉に、ピンときた。女将から発せられた一連の言葉が、連れの癇に障ったのだと。――つまり、それは連れの内面が、そう感じているに過ぎないのではないかと、思ったのである。というのも、連れの、言葉の取り違えや妙に絡んでくるように感じられてしまう彼女の態度は、本当は、連れ自身の内面の問題であるにもかかわらず、利己心が強いがため、それに気づけないでいるだけではないか。だから、連れに、そう映ってしまった。
 連れは、生粋の日系人ということもあって、どちらかと言えば、欧米人の中に入ると童顔に見られることも多々あった。それを常々気にしていた。そのようなナーバスな面を日頃から強く意識するところがあったがゆえに、彼女の姿勢や言葉を曲解し、過度に反応することになり、自らの意図しない方向に向かって行ったのだろう。そう思えて仕方がなかった。また、そのように返すしか、連れには、自らの怒りを沈めようがなかったのだろうとも、俺は、考えていたのである。

「ところで、隣のあなたもお若いのね。……」
 女将は、言った。
「えっ!」
 ――と、いうことは、俺も童顔ということか。俺は、連れと同じ日系人だが、これまで童顔に見られたことはない。ジムにしてみれば、その言葉は、連れが観光に選んだこの島にある奥深そうな芸能と同じように、謎のまた謎にしか映らなかった。
 ジムは、それを聞かぬ振りした。視線を移すと、女将の麦藁帽に目が向かった。そこには、タオルに隠れるようにして白髪が覗いていたのである。

「僕ですか、そりゃあ、若いですよ。連れと同い年なんです。ところで、おばさんも若いですよ」
 ジムは、つい、口を滑らしてしまった。

「まあ、失礼ねー。レディーに向かって、そんな言葉を使っていいのかしら?」
 女将は、声を荒らげて、返した。

 その声にジムは、驚いた。――何事もわきまえているように見えるこの人が、お客としてここに来たこの俺に、まさかそんな荒い口調で、食ってかかってこようとは……。
 さすがに、彼は、閉口した。ところが、横で聞いていたボブが、彼に向かって、
「おばさんは、レディーなんだから、ジム、――謝ったほうがいいよ」と、返すのである。
「えっ?」
 ジムは、その言葉の意味がすぐには、呑み込めなかった。
 彼にとって、連れの本心は、ジムに向けられた純粋な気持ちではなく、連れが、自らの粗を隠すために働かせた連れの奸智であったのではないかと、耳に付いて離れなかったその残響から察しがついていたのである。

 このとき、だった。――もしかして、最初の恐怖の扉は、これかもしれない、そう、ジムは考えた。

 人から人へ乗り移って行く人の心は、確かに心理現象ではあるが、その正体は、人にコントロール不可能な物のエネルギーに相違ないと、彼は、その一連の状況から気づくのであった。――だから、人の意識の外で、突然、それがここに現れたのだと……。まさに、起こるべくして起こった現象であると彼は、そう確信したのである。だが、仮に、自分を含め、彼らが自らの利己心を捨て、配慮という認識をその一方に持てば、それは起こらなかったのではないかとも、考えていた。これをその橋頭堡に置けば、残る秒針が持つ恐怖の扉の進行を止めることができるかもしれない。――しかし、実際には、すでに起きたそれが証明しているように、人の心理現象は、多数が、その気にならない限り、いくら一人で足掻こうがもがこうが、その思いは、夢の浮桟橋に着岸する帰り船を待つようなものだと思った。彼には、長針と短針に続き、ここに動く秒針が、いつ止まってもおかしくはない状況にあるのは、容易に推測がついたのである。

 一方の女将は、先ほどの二人の言葉を聞いて、呆れ返っていた。――この人たちは、年を取っても乙女心を密かに隠れ持つ女性の繊細さというものが、全くわかっていないのだわ。そう思うと、なぜか、おかしくもない場面で、彼女は、急に二人に向かって笑って見せたのである。
 この笑いにジムは、自らが下船の際に見せたあの笑いにどこか似通ったものを察知したようである。連れも、きっと、それは同じだろう。だが、他方では、どうも、自分たちのあの状況とは、異質なものを、ジムは、その笑いの中に感じ取っていたことも確かだった。
 案の定、彼女は、怒り冷めやらぬと言った風で、
「私から言わせたら、あなたたちの心は、まだ子どもよ。冗談じゃないわ。とくに、レディーの前で、年の話題を持ち出したあなたがいけないのよ」
 女将が、連れに向かってそういうと、連れは、一瞬、躊躇いの表情を浮かべ、
「俺、そんなこと、言ってないよ。女将さんが先にその話題を口にしたから、こういうことになったんじゃないですか」と、ボブは、返したのである。

 ジムは、腕時計を見て、ゴクッと生唾を飲んだ。秒針の動きが、遅くなり始めていたのである。この調子だと、止まるのは時間の問題かもしれない。彼は、そう思った。

 全く、わかってないようだわね、この子たちは。そこじゃないのよ、私が言いたいのは。――このままじゃあ、まるで、私が、とんだピエロじゃないのさと、女将は、思った。

おたふくとひょっとこ

 その様子を隣で窺っていた厚化粧の女が、女将の反応がなかったことに心配し、
「にいちゃん、ここは我慢して。ね、お願い」と、手を合わせながら言うと、ボブは、怪訝そうな顔をして、
「絶対、俺は、受け入れられない」と、返すのである。女将は、うつむき加減で、
「もう、これ以上、何も言わなくていいのよ」と、言うや否や、手をパチパチと2回、叩いた。それを聞いた仲間の女たちは、一斉に踵を返し、気づけば、この島には不釣あいなピンヒールをひきずりながらぞろぞろと来た道を戻り始ていたのである。
 ジムは、このとき、腕時計の秒針が止まったように感じた。しかし、見れば、秒針は、まだ動いていた。

「ノー、ノー、ノー。もう、帰りの船がないよ」
 連れは、とっさに言葉を放つ。そして、続けて、
「この人たちを何とかしてよー!」と、叫ぶと、犬が吠えに吠えた。いつのまにか、犬の数は増え、十数匹に膨れ上がり、桟橋に通ずる広場は、犬の吠え声一色に染まっていた。
「たいへんだ。この場から急いで逃げるんだ!――早く」
 ボブは、声を張り上げた。
 ジムとボブは、一目散に駆け出したのだが、後から犬の群れが吠えながら走ってくるのを察知するや、立ち止まった。このとき、二人は、吠え続ける犬に囲まれた。ジムのほうは、運悪く、一匹の犬に纏わりつかれていた。「あっちに行くんだ。あっちへ……」と、足で蹴ったり、体をひねったりしていると、突然、しっぽを振りながら犬の群れは、その場から走り去って行った。一体、どうした?……もしかすると、誰かが、犬笛を吹いたのか? たぶん、そうに違いない。ジムは、胸を撫で下ろした。何気に腕時計に目をやると、――ない。あるはずの俺の腕時計がない。すぐに彼は、辺りを探し回った。だが、いくら探しても、それらしきものは、どこにも見当たらなかった。今の騒動で俺の腕から落ちてこの坂道を転がって行ったのか。それとも犬が咥えて行ったのか、……。

 頭の中が、そのことに捉われていると、女の声がどこからともなく聞こえてきた。その方角に目を移せば、さっきの女たちだった。茂みの向こうに隠れていたらしい。目の下にくまのある女と糸目の女の二人が、そこにいた。
「ママさん、さっき、気づいてたみたい。にいちゃん、時差ボケか何かで、頭が、まともに働かなくなったんじゃないかって……」
 糸目の女は、言った。
 そして、目の下にくまのある女が、すかさず、
「弘法も筆の何とかやら、とは言うけれど……」と、ジムの顔を見ていうのである。
 ジムは、それが、日本のことわざだということは、理解していた。しかし、それって、連れのことじゃあなかったのか? だが待てよ、考えてみれば、ある意味、俺も同じ穴のムジナかもだな、と彼は、思った。
 二人の若い女は、互いの顔を見合わせると、おたふくづらで、ジムとボブをまじまじと見ている。 突然、一人、もう一人と、次々におたふく面をした女たちが姿を見せ始めるのである。そして、いかにも、おんな親分という風格を醸しているその中の一人が、こっちを見ると、
「うふふふ」と、笑うではないか。
 彼は、その含み笑いと一緒に今にも覆い被さってきそうなおたふく面に、一瞬たじろぎ、吹き出しそうになった。そして、彼は、その女に向かって、
「おかしいよ、その顔」と、声を発した。
「うふふふ。もう、あなたたちは逃げられないわ」
と、女は、言うのである。
 連れの顔をちらっと見ると、口は横を向いて尖り、目が丸くなっているではないか。もしかして、……。とっさに、自分の顔を手で撫でてみた。
「これって、ひょっとこ?」

 彼の目の前にいるもう一人のひょっとこが、どこからともなく聴こえてくる笛の音に囃し立てられるように踊り始めた。すると、彼の体も無意識に動き始めるのである。さながらそれは、人形遣いに操られている人形のような状態であった。手も足も軽い。それに上げた両腕も右に左に軽快に動く。だが、一方では、彼が、その妙な踊りをやめようとしても、体全体が言うことを利かないのである。――俺を操るのは、一体、誰?
 そこには、先ほど、含み笑いをしたおたふく面の女が立っていた。そこで、彼女が、2回、手を叩くと、踊っていたひょっとこ面の体が、その場でピタッと止まった。すると、突然、彼は、その状態から人間に目覚めるのである。
 手を鳴らすのを聞いたのは、今回が初めてではなかった。そうだったのか、……と、彼は、考えていた。――『世の中って不思議なものよ。名は体を表すってことが、人にはよくあるものなのよ』。彼は、母親から聞かされたことのある話を思い出していた。なるほど、これが、今の状況をいうのか。おたふくと笑い、――これが福を招くってことか。

 次の瞬間、女将はジムに近づき、彼女の身に付けている腕時計を彼の前に差し出した。現れたのは、人形遣いに操られていたひょっとこではなく今度は、自前のひょっとであった。彼は、それをじっと見ていた。なぜだ。なぜ、女将が持っている? このとき、彼は、はっきりと、それが自分の腕時計であることを確信した。
 女将が、それを付けている理由は、推測するしかなかったが、何はともあれ、これで、救われたと、彼は、思った。しかし、問題はここから先だった。果たして、文字盤の針はどうなったのか、その一点に気持ちを集中させた。目を凝らして秒針を見ようとしたものの、なかなか見ることができない。時間は、刻一刻と過ぎ去って行く。――気持ちが飛んで、体が、ついて行かなくなっていた。
 女将は、彼の妙な躊躇いに業を煮やしたのか、腕時計をさらに近づけると、その瞬間、ジムの体が、ガタガタと震え始めた。文字盤の上で動いているはずの秒針が、完全に止まっている。――彼は、その現実から逃れるように、空を見たり、海を眺めたりしているうちに、桟橋とは逆の方向にバス停があるのに気づくのである。
 こんなところに、なんで、バス停があるんだ。そう思っていると、間もなくして、そこにバスが停車するのである。しかも、乗り降りする乗客の気配はない。方向幕を見ると、さんず浜行きと書かれていた。

「あなたが、探していた腕時計は、これね」
 女将は、腕から外し、ジムに渡した。
「でも、壊れているらしいわ。この島には、あいにく時計屋さんはないから修理は難しいのよ。あのバスは、おたふく旅館の前で停まるから、そこで降りて、明日の船で本土へ渡ったらいいわ」
 女将が、そう言うと、ジムは、時計が直るならとバスに乗った。ボブも、彼に続いた。
「それじゃあ、お先に失礼します……」
 ジムは、バスのことはともかく、時計の謎が解け、晴れ晴れとした表情をして、車窓から、女将たちに挨拶をした。直接、腕時計に接点がなかった連れは、言葉を口にすることもなく、軽く会釈をした。窓の外から彼女たちは、手を振って二人を見送っている。バスが動き出すと、長いクラクションが一回、鳴った。――ジムは、この島に来る前、大勢の喪服姿の人々に見送られるようにして、動き出した屋根付きのキャデラックを見かけていた。

旅館

 しばらく沈黙していたジムだったが、ボブが、こちらを見ているような気配を感じると、おもむろに口を開いた。

「実は、俺、あの光景が、目に焼き付いているんだ……。だから、さっきのバスのクラクション、ちょっと変かな、と思ったのさ。――その音を聞いてしまったことは、しょうがないにしても、なんで、あの状況で、バスがあんな音を鳴らすんだ。鳴らしちゃあ、いけない音なんじゃないのか」、そう言うと、ボブは、
「俺も、そう思う。……実に怖い話だよ」と、返した。
「そりゃあ、怖いさ。考えてもみろよ、女将たちがあのバス停にいて、どうして俺たちがバスに乗らないといけないんだ。お前も俺も、生きてるのかって思うよ」
 ジムは、言った。
「……けどな。そうは言っても、実際にバスに乗っているわけだから、疑ってもしょうがないよ」と、ボブが、返すと、不意にジムの腕をつねった。
「痛いじゃないか」
「ほらね。生きている証だ。言われたとおり、旅館前のバス停で降りてみようじゃないか」
 ボブは、言った。すると、ジムは、
「間違っても乗り過ぎないようにしたいもんだ。終点の名前が、このバスに乗る前から、どうも気になってしょうがないんだ。――それに、こんな小さな島にバスなんてあるのかい」と、返した。
「気色の悪いことをいうなよ。それじゃあ、まるで喜劇だぜ。というより、あり得ないだろ」。それを聞くなり、ジムは、
「俺たちが宿に着いたとき、もし、女将たちが、出迎えたりしたらどうする?」と、言った。
「冗談じゃないよ」と、ボブは、返した。

 尽きることのない互いの不安をぶつけ合っている間に、二人の乗ったバスは、おたふく旅館前で停まった。

「俺、降りるの怖いよ」
 ボブは、言った。
「お前が、ビビッて、どうする?」
「理由はないが、何となく、怖いんだよ」
「それじゃあ、さんず浜まで行くか」
 ジムは、返した。
「滅相もない」
 ボブが、そう言うと、二人は、バスを降りていた。――連れの目は、前方の看板に釘付けになっている。そして、続けた。
「やっぱり、行くのやめとこうか。見てみろよ、おたふく旅館と書かれている。――寒いな、寒くなってきたな」
「おいおい、今、ブル、ブルと聞こえたが、おまえ、自分の口を震わせたのか」
「すまん、すまん。実は、そうなんだ。あまりにも寒いもんだから、俺の知らないところで、口が勝手にブルってしまったんだ」
「夏だぜ、今は」
 ジムは、言った。

 砂利を踏みしめながら、前へ進むと、生け垣の向こうには、一目でそれとわかる和服姿の女将他、仲居と見られる数名が、ずらっと並んでいる。その光景を目の当たりにすると、ジムは、体から血の気が引いて行くのを覚えた。

「いらっしゃいませ」

 彼は、これが現実か、幻か――冥途か、現世か。自分がどこにいるのか、一瞬、わからなくなった。

「お写真を送っていただいたボブさんと、それにお隣はジムさんでしたね。はじめまして、私、女将の御多福です。お待ち申し上げておりました。さ、こちらへ……」

 よく見ると、似ているようで、どうも似ていない。ジムは、首を傾げた。
「失礼ですが、下のお名前のほうをお尋ねしてもよろしいですか?」
 ジムは、言った。

「京子と申します」
「そうしたら、笑子さんという方は……?」
「笑子ですか。私の祖母でして、三〇年前に他界しました。先々代の女将となりますの。それが何か?」

「いえいえ、それならいいんです。失礼しました」

「毎年、この季節になりますと、今、お客様が言われたことと同じことを、他のお客様もお尋ねになられます。それもあって、送り盆には、お墓参りの後に、必ず、さんず浜まで行くんです。今日がその日に当たりますのよ。これからご先祖様の霊を見送らないければなりませんので、それでは私は、ここで、……」





  つきまとう影――老占い師

ある囁き

 ヴィンテージクローズ、雑貨など古いものを売る店が軒を連ねているせいか、長閑な街並みが広がっている。――カフェを出ると、どこからともなく吹き寄せる穏やかな風に誘われながら、パームツリーが聳え立つ通りを、再び、歩いていた。
 新婚間もないローラは、最近、この地域に越してきたばかりで、見るもの見るもの珍しく、週に一、二度は、メルローズに足を運んでいた。しかし、今日は、いつものウインドウショッピングとは違い、買いたいものがあって訪れていたのである。それは、一枚のポスターリトグラフであった。だが、あちこちの店を覗くが見つからず、そのためか、家で待つパートナーのことなどすっかり頭になかった。――もう、こんな時間なの? そろそろ帰らなきゃいけないわ。ローラは、そう思うと、探すのを諦め家路を急いだ。

 彼女にとって夢は、まさに現実のものとなっていた。家の出入口には古びた門扉があり、庭には芝が敷き詰められ、その深いグリーンに紛れ込むようにして、タンポポの花がところどころに咲いている。ローラのハズバンド、ベンは、庭に置かれている白い丸テーブルを挟んだ椅子に腰かけ、ローラの帰りを待っていた。

「遅いな。もう帰ってきてもいい時間なんだが……」
 ――道行く人を見ては、時折、愛嬌を振りまくタンポポであったが、この日は、その黄色い花々が、右を見たり左を見たりして、ベンに語りかけるように、「遅いね、遅いね」と、風に揺られていた。

 2月には、まだ入っていないというのに道を歩いていると、汗が出てきそうな日和だった。ローラは立ち止まって上着を脱ぎ、首に纏っていたスカーフを外した。
「暑いわね」
と、呟いた瞬間、横をトラックが通過して行く。
 彼女は、このとき、風圧を感じた。しかし、圧を持つその風は、単なる風ではなく、何か、それまでとは違った空気感を伴っていた。再び、スカーフを首に纏い、腕に抱えていた上着の袖に手を通す。
 この季節、六八度を超える日も珍しくなかった。ところが、彼女にとっては、なぜか、体が、震えるくらい寒いのである。雲一つない空だというのに、急にそうなるものなのかしら? 辺りを見渡しても道を行く人は、上着を脱いで歩いている。彼女は、思い出していた。――確か、あの日もそうだったわ。
 外気のせいではなく、心の中を通り抜けるような寒さを感じたのは、これまでにも何度かあった。そして、それが生じたときには、決まって何者かが耳元で、囁くのである。

『――知ってるわ、あなたが不倫したことは。この私は見たのよ。その現場を』、と。
 しかし、あれは、もう過ぎたことよ。――彼女は、その囁きを振り払おうと両耳を手で塞ぐが、塞げば、一層、彼女の耳元で声を響かせ、聞こえてくるのであった。

 空に舞う一羽の鳥を導くように、夕日が雲の切れ間から覗いていた。あと数分ほどで家にたどり着こうかとしていた。ローラは、歩きながら前方に目をやると、遠くのほうに人影が見える。その人影が徐々に大きさを増して近づいてきたときのことである、突然、彼女の顔色が変わったのは。あれは、ひょっとして……?
「似ている。――元上司のあの人に」
 男の風貌が、はっきりと確認できるまでに至ったとき、ローラには、その男の姿が、漠然から確信に変わった。――やはりだったわ。
 そのまま、通り過ぎるに越したことはなかった。だが、そんなに広くもなく人通りも、まばらな道であり、このまま、真っ直ぐに歩いたら、あの男に、私だということがわかるかもしれない。彼女は、そう考えていた。横道に逸れたらやり過ごすことができるか、それとも真っすぐ歩いて、すれ違うときに会釈を交わすか……。しかし、会釈をすれば、あの男が、また再び、付き合ってほしいと迫ってくるに違いない。もし、そのような状況に陥ったら……?
 今のローラにとっては、当時の、あの不快な出来事は、もう過去のものとして封印したつもりでいたが、男が再び、近づいてくれば、そういうわけにも行かない。幸い男は、右に向きを変えると、白い民家の立ち並ぶ、路地へと入って行った。ローラは、胸を撫で下ろした。

指の出血

「――お目当てのリトグラフは、あったのかい」
「それがね、……なかったのよ」
「そうか。残念だが、またの楽しみとするか。ところで、ローラ、指にハンカチーフ巻いているようだが、……」
 ベンとの想い出のつまったハンカチーフであった。
「ほら、見て。大したことはないわ」
 ローラが、それを取ると、ベンは、彼女の薬指に目を凝らした。
「血は止まっているようだが、また、どこかで、打ったのかい……」
「いつものことよ」
 そう返しながらも、ローラは、不安そうな面持ちで、少し首を傾げた。彼は、そっと彼女の手を握ると、何気に掌を見た。薬指の下をまじまじと見つめている。
「ローラ、赤い小さな点が1つあるようだね。――実はおれもなんだよ。ほら」
 ベンは、自らの掌を開くと、赤い小さな点を見せた。このとき、彼女には、先日、占い師に観てもらった記憶が蘇っていた。
「ほんとだわ」
 薬指の下、しかも同じ位置に赤い点がある。――てことは、やっぱり、ベンと私とは、運命のソウルメイトではないかしら。ローラは、そう思いながらも、なぜか、顔色がさえないようである。

 庭には薄日が射している。ベンは窓辺を見ていた。すると、そこに一人の男の影が目に留まった。男は茶色い紙包みを小脇に抱え、先ほどからローラの様子を探るようにして、門扉の陰からしきりにこの家の様子を窺っている。
 ベンに気づいたのか、男は踵を返すと、逃げるようにその場を立ち去った。彼は、急いでおもてに出た。玄関先に立って、その男の姿が見えなくなるまでじっと見つめている。どうやら、男は東へ少し行った路地に姿を消したようだ。男が走り去った道は、ローラが買い物の行き帰りによく利用するあの白い民家が立ち並ぶ方角でもあった。

 ローラは、ベンのもとへ歩み寄り、
「どうしたの、急に外に飛び出したりして……」
と、言った。
「何でもないんだ。ちょっと……」
 ベンは、口を閉ざした。
「何よ、ちょっとって」
「気にするほどのことでもないさ。君こそ、指の怪我には気を付けないとな。休んでいたほうがいい。夕食の支度は、俺がするからさ」
「それじゃ、今日は、せっかくだから、あなたにお任せすることにしようかしら」
 ローラは、返した。

 ベンは、彼女に心配かけまいとそうは言ってみたものの、自らが口にした言葉とはおよそかけ離れたところに彼の気持ちはあった。あの店のことは二度と思い出すまいとしていた。しかし、先ほどの男が、例の男にあまりにも似ていたことから、いつかのあの光景が、突然、ドブから噴き出た泡のように浮かんでくるのである。普段から、その思いが脳裏をかすめる度に、彼女は自分が守ってやらなければいけない大切な人なんだと、心に誓うベンであったが、今の出来事で、なおさらその気持ちを強くした。
 ――ローラは、ベンを見るが、彼が、何を考えていたのかは、彼女にわかるはずもなかった。

不倫の過去を

 ベンが、ローラと生活を共にする一年前のことである。彼は、カフェに入り、本を読みながらコーヒーを飲んでいた。その後、二人連れの客が、テーブル席に座った。彼としては、聞きたくもない話ではあったが、隣の席ということもあり、おのずと聞こえてくるのである。内容は、男女関係のそれであった。

 ローラには、当時、付き合っていた彼氏がいて、相当、悩んでいたらしい。そのことを聞きつけた勤め先の上司が、彼女をカフェに誘ったことが、そもそもの始まりだった。男は、ピンホールのカッターシャツに小紋プリントの赤いネクタイ、おまけに金縁の眼鏡をかけていた。見るからに癖のある男のように、ベンには映っていた。
 ローラの彼氏というのは、妻子持ちの男のようで、付き合い始めた当初から、彼女に妻子がいることを知らせていなかった。男の夫婦関係は至って良好であり、近所からはおしどり夫婦と羨ましがられるくらい仲が良い関係にあった。ところが男の妻は、亭主の浮気が原因で体調を崩し入院することになる。妻は、その後、2週間程度で家に戻ったものの、夫とは家庭内別居となり、挙句の果てには幼子2人を連れて家を出ることとなった。その後、離婚に至ったかどうかは定かではなかったが、ローラは、それを知ると自責の念に駆られ、今後、自らがどのように振る舞えばいいのかわからず、上司に打ち明けた。
 ところが、男は、一通り話を聞き終わると、これ幸いに彼氏のことを会社でばらされたくなかったら、「俺と付き合うんだ」という脅迫まがいの態度でローラに迫ったのである。
 隣で、その話を聞いていたベンは、当然、見ず知らずの男と女の間に割って入り、それは間違っていることだからと、相手を諭すことのできる立場にもない。ただ、できることと言えば、静観するくらいのことだった。――そのときである、本を読む振りをしていると、他人の話を隣で聞いている自分は、一体、何者なんだという思いが、ふと、心によぎったのは。と、同時に思い出したくもない自らの過去が蘇ってきたのである。
 彼は、一瞬、頭の中がうまく整理できなくなった。自分は他人のことを、とやかく言えるのか、……。そう思うと、やりきれなくなり、彼は、店を出た。確かに、彼にも男女関係で悩んだ経験があるとはいえ、第三者が現れる妙な状況に発展したことはなかった。それだけに、彼は、よくよく運のない人だと、彼女を憐れむ思いが強くなって行ったのである。

 ベンは、通りを歩きながら、そのことを考えていた。と、何かを思い出したように立ち止まる。――忘れたんじゃないか? カバンを開けて見るが、そこにはない。入れたはずの本がない。やはり、忘れたのか。彼が、店に戻ろうと、坂道を下って、しばらく経ったときのことだった。もしや、あの人は。――似たような服を着た女性が、通りを挟んだ横断歩道の前で、ひとりポツンと佇んでいる。
 歩行者信号が青だというのに、彼女は、その場から動こうとはせず、信号が変わっても、車が行き交う道路の一点を見つめている。ベンは、ただならぬ状況に出くわしているのかもしれないと思うと、信号が青になるのを待って、急いで横断歩道を渡った。幸いにも、それは杞憂に終わった。――やはり、間違いなかった。

「どうかされたんですか?」
 ベンは、声をかけた。――すると、彼女の目から涙がこぼれていた。
「このハンカチーフ、使っていませんから、どうぞ……」

「何、物思いに耽ってるの、ベン」
 ローラは、心配そうに声をかける。
「ちょっとね……」
 ベンは、そう言うや、冷蔵庫に向かう。そこから野菜を取り出すと、ローラは、
「あら、手伝ってくれるの」
と、言った。
「いいさ、たまにのことさ。おれに任せろってことよ」
 ベンは、返した。
 彼は、ベッド・ルームへと入って行き、チェストから1枚のエプロンを取り出した。すぐさまキッチンへ戻ると、ベンは、ぎこちない包丁さばきで、野菜を刻み始める。
「あっちっ」
「どうしたの」
「ちょっと、しくじっちまった」
 ベンは、顔をしかめた。
 リビングルームにいたローラは、すぐに彼のもとへ駆け寄ると、彼女は、
「どこ、――見せて」
と、言った。
 ベンは、手を差し出す。人差し指から血が滲んでいた。ローラは、覗くようにして、彼の腕をそっと持ち上げ、その指を注意深く見つめている。
「ちょっと、待っててね」
 ――ローラは、棚の引き出しを開けた。だが、そこには傷を手当する適当な救急用具は入っていなかった。

 彼女は、家に帰ってくる前、いっとき、耳に付いて離れなかったあの囁きのことを思い出している。今度は、ベンが怪我をするなんて、全く、どういうことかしら。――こういうときだからこそ、あの占い師を訪ねるべきかもしれないわ。
「どうした? ローラ……」
「何でもないの。バンデージ、買ってくるわね。ハンカチーフを当てていれば大丈夫だと思うけど、安静にしてて。すぐに戻ってくるから」
「じゃ、俺、TVでも見ているよ」
 ローラは、早速、ダウンタウンにほど近い、ドラッグストアに立ち寄り、用を済ませると、その足で占いの館に車を走らせるのである。しばらくすると白い建物が見えた。ここだわ。彼女は、車を駐車場に入れた。足早に建物に向かう。――そのビルの〇階でエレベーターは止まった。

気になる赤い点

 彼女は、ドアをノックした。
 部屋には、如何にも東洋人風の、白く長い顎ひげをたくわえた老人が、何をするでもなく壁側の椅子に腰かけていた。占い師は、木製のテーブルを前におもむろに立ち上がると、
「カム イン」と、声を発する。
「ハーイ」
 ローラは、老人の顔を見ながら軽やかな口調で、応えた。
「よう来なすったな」
 老人は、言った。
「お久しぶりです、先生。相変わらず、お元気そうでなによりでした……」
 笑みを浮かべながらあいさつを交わしたものの、彼女は、あのことが頭を離れなかった。ふと、左手のほうに目をやる。と、外はすでに暗く、ブラインドの隙間から部屋の様子を窺っているようなパームツリーが見える。

「さあ、さあ、まずは腰かけなされ」
 老人は、そう言うと、ドア側の椅子のほうへ彼女を導いた。
「今日は、どうなされたんじゃな」
「……実は、怪我のことで、ご相談があったんです」
 ローラは、神妙な面持ちで、言った。
「怪我とは、どういうことじゃ。話してみなされ」
「はい、今は、何ともないのですが、近頃、指から出血することが多くて、何かの前触れかもしれないと思いまして、……」
「そうじゃったか」
 老人は、普段は、とりとめもない話を交えながら本題に入るのであるが、このときばかりは、ローラのただならぬ表情から、早速、傍にあったルーペを手に持つのだった。
 それを見ていたローラは、老人に促されるようにして、何も言わず両手をテーブルの上に置いた。と、老人は彼女の仕草を見るや、――自ら進んで手を差し出すとは、いつにない不安を抱えているのだろうと、察した。

「なるほど、なるほど……」
 ルーペを片手に、真剣な眼差しでローラの手相を隈なく眺めている。そして、何かに気づいたように、
「薬指の下の太陽丘じゃが、富や名声、あるいは名誉にまつわる丘と言ったのを覚えていなさるかのう」
と、老人は、言った。
「はい、覚えています」
と、ローラは、返した。
「ここは、運気が良いか悪いか、物事がうまく行くかどうかを見極める場所でもあるんじゃ。現在を含めて、物事が成就するかどうかの兆しが、この丘で読み取れる。ところがじゃな、あなたの場合は、この丘が平坦で薄い。これは、運気が弱い印じゃ」
 ローラは、一瞬、うつむくと、不安げな面持ちで、
「それって、……?」と、質問した。
「……そうじゃな。日常的な視点から申せば、恋愛だとか、出会い、芸術といった領域が、この丘に関係している。付け加えると、この場所は、人気のあるなしを見るのに適しているともいえる。たとえば、ふっくらした血色のよい丘となっていれば、ベストじゃ。」
「……血色ですか?」
「そうじゃ。――それに、カリスマ性を持つ強運の持ち主の場合、ここに見える太陽線が薬指の付け根辺りから下に濃く、しかも長く伸びている。そういう線を持つ者は稀じゃな……」
 ローラは、自らの太陽丘に目をやる。確かに血色がなかった。というより掌が白かった。――彼女は、薬指の下辺りの線を、いっとき、探していた。だが、そこには、極端に短い薄っすらとした線が、申し訳なさそうにあるだけだった。
 ローラを見ながら、老人は、話を続けた。
「……そんなに深刻にならんでいい。考えてみなされ。昨年、あなたは、めでたく結婚されたわけじゃ。それこそが運気上昇の証というものじゃぞ。確かに、今は、この丘を見る限り、満点とは言えまい。じゃが、旦那さんと出会った頃は、血色もよかったんじゃなかろうか。それに、この場所に太陽丘を強める赤い点があったお陰で、運気が倍増したんじゃな。ワシには、そう映る」
 ローラは、緊張の中にも、幾分、救われたような表情をして占い師の話に耳を傾けていた。老人は、続けた。
「ところで、指にちょくちょく怪我をされているとのことじゃったが、……」
「はい、……」

赤い点に隠された気と病

「出血の原因は、太陽丘の影響があると考えられようのう。そうなると、あなたの場合は、赤い点の意味も反転する。言い換えると、手相と体とは、一見、関係がないように思われるが、実に深い関係にあるんじゃな」
「ひょっとすると、私の指の怪我は、……」
「そのとおりじゃ。人間という生き物は、手相だけでは収まらんところがあるから結構、ややこしいんじゃ。そこには体のコンディションも少なからず関わっているからのう。あなたは、以前、名のある企業で働いておられたようじゃが、競争を勝ち抜いてきたエリート層の集まる組織だったのと違うかな。――随分、そこで悩んだと、顔にも描いてあるようじゃぞ」
「私は、大した学歴を持っているわけではありませんから、余計に、そう感じたのかもしれません……」
「そうじゃったか。――あなたには、わかるとは思うが、だからこそ、メンタルを含めた健康管理を侮ってはならんのじゃなかろうかのう」
「……健康管理にメンタルも入るんですか?」
「当たり前じゃ。しかし、あなたばかりではないから、心配せんでいい。たとえ、エリート層であっても、ことメンタル面においては、あなたと同じ状況に置かれている。たとえばじゃ、何かの権威に支えてもらったり、すがったりしても、一人の人間としてのメンタルは、皆、一緒じゃということ。もし、それで、人一倍、強くなったと感じるならば、それは依存という装置によって人としての機能が麻痺しているだけの話じゃ。これが、メンタルの根っこの部分かも知れんのう。そして、恐ろしさかな」
 根っこ、恐ろしさ……? メンタル……? 健康管理……? ローラは、考えている。他方、老人は、彼女の表情を見ていた。

「……その麻痺は、自分をわからなくさせるから、その支えを取り除かれたときに初めてわかるんじゃ。しかしのう、気づきがなければわからぬことでもある。だから、強い何かに巻かれていようが巻かれていまいが、人は迷うし、苦悩する。というより、相対的な何かへの依存が強ければ強いほど、その傾向も頑固であるかもじゃ。人間、知らずしらずのうちに人様に害を与えたり、加えたりするのも、原因はそのギャップにあるんじゃな」
 老人は、言った。
 ローラは、このような話には、もとより疎かった。――そして、続けた。
「もともと、人はそれほどメンタルが強くできていないからそうなるのじゃ。病は気からとはよく言うが、逆にいえば、気から病ともいえるのう。あなたのようなケースはそれかも知れぬ。――これに、フィジカルが影響を受けるんじゃな」
 老人の話にローラは、頷いた。というより、実際は、わかっているようでわかっていなかった。しかし、わからないともいえず、彼女は、
「お話は、わかりましたけど、手相で、おしゃった名声だとか名誉といったものと、それとは、どこでどう、つながっているんですか? 私には、どうも、はっきりしないんですが……」と、話を逸らした。
「いい質問じゃな。先ほど言った相の良し悪しを考えればわかるとおり、これも指の怪我と全く理屈は同じなんじゃ」
「えっ、……」
 ローラは、突然、椅子を引いてテーブルに近づいた。
「すでに気づかれているとは思うが、太陽丘がポイントになる。そこに、赤い点があるということはどういうことか、考えてみなされ」
 先ほど、占い師が言った赤い点の説明を思い出していたが、言葉にはできないでいる。
「つまりじゃ。血色が悪いときに問題が起こる――心が不健康なときに禍を抱える。ということは、あなたに隙があるときに、足音を忍ばせ、突然、何かが心に入り込んでくるんじゃな。そして、あなたに悪さをする。後は、言わなくてもわかるとは思うが、そのプロセスこそが禍の原因というものじゃ」
 彼女には、どうにも、腑に落ちなかった。
 老人は、自分の得意な話となると、目をキラキラと輝かせながら、まるで少年のように語る癖があった。―― 一方のローラは、話の内容より老人の熱い姿勢に心を揺り動かされ、目と表情で相槌を打つことに力を注いでいるようである。

「先生、その何か……とは、一体、何ですの?」
 ローラは、言った。
 老人が、気づいていたのか否かはわからなかったが、そこには、老人へのリップサービスが、半分以上は、入っていたようであった。
「そうじゃったか。――ワシの説明が手相から離れすぎてしまったようじゃのう。全く、すまんことじゃ」
 老人は、ローラの掌をルーペ越しに見た。
「すでに申したように、太陽丘が輝きを持たないときは、ここに赤い点があるために運気が極端に下がり、人気運にも支障が出やすい。つまり、知らないうちに、自身の名誉が酷く傷つくような問題を抱えてしまっているんじゃな」
 老人は、ローラの顔を、じっと見た。
「――あなたは、これまでに何か、人様にそれらしい仕打ちを受けられたことがありますかな」
 ローラは、その言葉を聞いた途端に、忌まわしいあの話をしなければならないときが、とうとう来てしまったのだわと、感じた。――躊躇いながらも、彼女は、
「は、はい。以前に一度、先生には、私の悩みをお伝えしたと思うんですが、そのときには、最後までお話ができずに、……」と、答えた。
 老人は、やはり、そうであったかと、頷く。そして、
「差し支えなければ、ワシに詳しく話してみなさらんかな」
と、言った。ローラは、うつむきながら、
「はい」と、返した。
「……無理せんでいいんじゃぞ」
「いえ、そんなことはないんです」
 たとえ、占い師といえども、そのことにはあまり触れられたくはないというのが、彼女の正直な気持ちではあった。しかし、これを言わなければ、今、直面している問題は解決することはできないと思うと、意を決し、話を始めたのである。
「……実は、以前、勤務先の上司に、付き合っていた彼のことを相談したことがあります。そしたらその上司に、『君の秘密を他の社員にばらされたくなければ……』――真顔で、『わかっているな』と、言われたんです」
 占い師は、かけていた老眼鏡を指で押し下げ、彼女の顔を上目遣いでまじまじと見つめている。
「……すまんが、今、思い浮かんできたことがあってのう。運命線と、小指の下の月丘と呼ばれる丘から、掌に向かう人気線じゃが、この話は、またの機会にしようと思う。――よかろうかな」
 ローラは、それに頷くと、老人は、顎ひげを撫でながら目を瞑った。

男の影

 老人には、自らの脳裏に、ある光景がありありと映っていたのである。だが、それだけに、直接言葉に置き換えて伝えることが、果たして、彼女のためになるのかどうか、考えていた。しかし、起こり得ることを知らせることで、彼女を危険から守ることができるなら、との思いが優っていたのか、老人は、何かが吹っ切れたようにして、
「実はな、あなたに言い寄ってきた男、つまり、先ほど話に上った男じゃが、近々、謝罪に訪れる。というより謝罪の振りしてあなたの様子を窺いに来る」と、老人は、話を切り出した。
 ローラは、深い目をした老占い師の予言に、内心、戦慄を覚えた。しかし、彼女にとっては、ここへ来る前の経緯を思い浮かべてみるならば、それも十分にあり得る話となる。――しかし、もし、それが現実に起きたら……と思うと、また、それとは違った感覚が、彼女の脳裏を駆け巡った。理性と感情が、無意味に居場所を求めて衝突し合い、目の奥で火花を散らす。その2つの葛藤は、収まるところを知らず、彼女の呼吸を荒くして行った。
 老人は、そのローラの表情を見て、これ以上の話は酷なのではないかと、思った。だが、彼女のためを考えれば、これだけは伝えておかなければならないと、決意を新たにするのである。
「よいかな。この爺の言うことをしっかりと、頭に留めておいてくだされ。――男は、茶色い紙包みを持っている。あなたの様子を窺った後で、あなたの家の玄関ブザーを鳴らすが、決して、その紙包みを受け取ってはなりませぬぞ。もし、それを受け取れば、今まで以上の災難が、あなたの身に降りかかってくる。そして、これまでとは一八〇度異なる人生を迎えることになる。それは、天と地がひっくり返るような災難じゃから、くれぐれも気を付けなされ……」
 ローラは、占い師の言葉を、半ば、茫然自失の体で聞いていた。
 彼女は、顔を強張らせ、茶色い紙包み――災難が降りかかってくる――今までとは一八〇度異なる人生――天と地がひっくり返るような災難が……と、その言葉が、念仏のように頭に付いて離れないのである。

 ――しばらく間を置くと、血色の悪そうな顔をして、
「その理由って、……わかりますか」と、尋ねた。
 老人は、すぐに口を開いた。
「ワシの話が、現実になるとすれば、相手の思いが叶わなかったことが原因の恨みに間違いあるまい。そして、その恨みは、日増しにエスカレートして行き、相当な念が、男の心にとぐろを巻いた。この念――即ち、怨念というやつが、時折、生霊となってあなたの周りを飛びよったんじゃ。怪我もそれに襲いかかられたときに起こったと、ワシには思える」
 彼女は、小さく頷いた。そして、声を震わせながら、
「それって、どうすれば、避けられるんでしょうか……」と、言った。
 老人は、その弱り切った彼女の言動から、しっかりするんだという気持ちを、自らの目に込めて、再び、話を続けた。
「方法がないわけじゃない。――しかし、あなたが相手と同じような気持ちで、相手を意識しているうちは、無理じゃ。不思議なもので、それも元を正せば、メンタルからきていてのう。メンタルが整えば、それもしなくなる。だから、逆に、あなたもメンタルが整わず、抵抗することに執着すれば、生霊は、それに引き寄せられる。これが生霊の性質、否、恐ろしさというものじゃ。言っておくが、くれぐれも、あなたは、そこから逃げようとしてはならん。逃げるのではなく、真正面から相手の幸せを願ってあげなされ……。そうすることで、あなたに恨みを持つ相手は、あなたからやがて遠ざかり、あなたも幸せになれるはずじゃ」
「はい」
 ローラは、小声で返事をした。

紙包みの男

 桎梏のとばりの向こうには薄っすらとした空が街並みを覆い、徐々にその街並みは、日の出とともにいつもの明るさを取り戻して行く。庭のこずえには小鳥たちが戯れ、あまたの命に向って、今日一日の始まりを告げていた。
 ローラの耳にも、その命のさえずりが聞こえていたようである。
「朝だわよ」
 彼女は、ベンが寝ているベッド横のカーテンをさっと引いた。
「起きなさい。もう七時半よ。早く食べないと会社に遅れるわよ」
 遠くの方から、人の声が聞こえるような気がしたベンは、虚ろな目をして壁にかかる時計のほうに顔を向けた。
「いけない、もう、こんな時間か――」
 ベンは、カッターシャツに腕を通し、ズボンを穿き終えると、ダイニング・ルームへ向かった。テーブルに着くや、そそくさと食事を済ませる。
「もう、終わったの。あら、スクランブルエッグ、残してるじゃない。全くしょうがないわね。ベン、――替えのバンデージは持ったの」
 ローラの声は彼には聞こえていたが、それを聞き流すようにして彼は玄関へ向かった。それでもローラは彼の一見、冷たそうに見えるそんな仕草にさえ、幸せを感じていた。
 ドアが開く。まばゆいばかりの朝の光が玄関に射し込めている。外には一本の小径が、深いグリーンの芝を割くように門扉へと続いている。ガチャッ。ドアが閉まった。ダイニング・ルームにいたローラは急いでベンの後を追った。片手でノブを掴んだまま、独り玄関に立って、ベンの去って行く後ろ姿を見送っていた。
 ローラは思うのだった。どんなことがあってもこれから先、彼を裏切るようなことがあってはいけないと。もしも、自らの身に再び何かが起こるようなことがあったなら、静かに彼のもとを去って行こうと……。それが今のローラの、言葉では言い表せない感謝の気持ち、あの日、道端で、そっとハンカチーフを差し出してくれた彼への愛の証でもあると、思っていた。

 彼女はダイニング・ルームへ戻ると、テーブルの上に残された朝食の後片付けをしていた。と、突然、そこにドアベルが鳴り響く。
「あら、こんな早くに、だれかしら」
 ローラは、手を休める間もなく玄関へ出た。
「どなた様ですか」
 返事がない。
「全く、いたずらにもほどがあるわ」
 洗い物も終わり、ほっと一息ついたとき、再び、ドアベルが鳴る。

 ブーッ、ブーッ、――ブーッ、ブーッ。

「そこにいるのは、だれ?―― 一体、だれなの?」
 ピープホールを覗くと、茶色い紙包みを持った男が、目の前に立っていたのである。



巻末

・本書の補足説明
本書は、電子書籍+紙本(オンデマンド印刷、セルフパブリッシング)によります。表紙画像にはAIを採用。作品内容はすべてオリジナルです。

『通りの馬酔木』では、当初、第一章、第二章で完結した作品でした。後に思い当たるところがあり、ストーリーを展開させてみました。そのため、第一章、第二章の内容に大きな変化はありませんが、数か所、微調整を行なっています。
即ち、本文は、前編で2章、後編で2章の全4章構成です。

・『通りの馬酔木』は二〇二六年執筆。残りの短編三作は、昔書いた未発表の作品に後で手を加え、併録したものです。

・著作権について
この本の引用・転載等の可否に関しましては、著作権及び各種関係諸法に従います。

以上、あしからず、ご了承ください。

通りの馬酔木

2026年6月18日 発行 初版

著  者:せきでん ひろし
発  行:BCCKS出版

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