小日向樋代は、恋人である東雲翼に日々暴力を振るってしまっていた。衝動を抑えることのできない自分と、鬱々とした言動を繰り返す翼に辟易する中、属している不良グループで訪れた海で、とあるものを目撃する。
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真っ直ぐに歪んだ、ボロボロの背骨。
穴だらけで傷だらけ。
スカスカになっていつかは腐り落ちる。
きっとこれじゃあ綺麗な羽は生えてこない。
「良いおこないをした人はね、死んだら天使になれるんだよ」
ひいおばあちゃんがいつも言っていた。
辿る過程がどんなに曲がりくねっていてもいい。
最初と最後を繋いだ時に、美しい直線が描ければそれでいいのだと。
「じゃあ、悪いことをした人はどうなるの?」
ひいお婆ちゃんはなんて言っていたっけ。
思い出せないけれど、もしも私の彼なら言うだろう。
「お前は天使なんかにはなれない」
でも、なりたいものはなりたいのだから仕方ないじゃない。
長い黒髪が二本、薬指と小指の間に絡まっていた。
胸の奥がちくりと痛む。目を逸らし、指を下に向けて振り払うと、妙にこそばゆかった手の違和感はなくなった。それでも、右手にまとわりついた罪悪感は消えない。
暗い部屋の中、ベッドに仰向けになって、眩しい液晶に目を細めながら、たいして好きでもないパズルゲームをしている。数字と数字の間の空白に正しい数字をきっちり当てはめて図を完成させていく。大層な目的も美意識もなく、単純な作業としてただ数字を打ち込み続けている。
無心で計算をしていると頭が冷える。数分もすればその不毛な時間の浪費作業に飽きてきて、冷静に言葉を紡げるようになる。
このちゃちな無料アプリを制作した人間も、まさか男子高校生の精神安定剤代わりに使われているとは思いもしないだろう。
「なあ翼。お前ってなんで俺んとこくんの」
俺の手も目も、今はパズルをするのに忙しい。お前はこのくだらない暇つぶしコンテンツ以下の存在だ。なんてパフォーマンスは、ベッドサイドの床に転がるこの女にどれほど伝わっているのか。
眠ってもいないくせに、死んだ虫のようにじっと動かずにいた彼女、はわざとらしく鼻をすんと鳴らして起き上がったようだ。
「そんなの、シロくんが好きだからに決まってる」
聞き慣れた台詞だ。翼は、蚊の鳴くような弱々しい声色で、人の神経を逆撫でするような強い言葉を使う。そういうところが俺のストレス数値を急増させて、余計にゲームを捗らせることを分かっているのか、いないのか。
構われたがりの翼はスマホをいじってばかりの俺を時々咎めるが、それを承知の上で当てつけのように手遊びし続ける自分のガキ臭さに辟易する。そしてそんな俺の性格を分かっている翼は、俺の興味を惹きつけたいがために、強い言葉を使うのだ。
結局、俺は翼の狙い通り、掻き乱されずにはいられない。
勝敗の定義すらも曖昧な、堂々巡りの心理戦。敗北するのはいつも俺の方だ。
「……あぁー……くっそ!」
大きめに舌打ちをしてスマホを乱暴に放る。久しく干していない掛け布団の上に、沈むと形容するのもおかしいくらいに間抜けな音を立てて落ち着いた。
スタイリッシュな緑色のラインが入ったスマホケースは、四月の俺の誕生日に翼から贈られたものだった。薄い布団の上に乗ったそれを、硬いフローリングに叩きつけてやりたい気持ちが込み上げたが、同時に、その後の自分の気持ちを想像してしまった。
柄は悪い方だが、翼がこの程度で怯む女ならここまで苦労はしていない。
「……嘘ついてんじゃねえよ」
長い黒髪の隙間から、泣き腫らした目元が覗く。
ベランダへ続く窓の前で風に当たっていた翼の、血が滲み真っ赤に染まった唇が、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がった。カーテンの隙間から漏れるその光は、月明かりなんてロマンチックなものではなく家の正面にある蛍光灯の点滅だった。人工的なその灯りが、彼女の浮世離れした独特な不気味さを殊更に演出していた。
「ホントだもん」
丈の長いキャミソールに上着を羽織っただけ、なま白い脚は力なく床に投げ出されている。あどけなさと色気の同居するアンバランスな姿で、翼は俺に訴えかける。普段の彼女の屈折した思考からも、鬱鬱とした言葉からも、想像もつかない程に真っ直ぐにこちらを見据えてくる。
口調の割に拗ねているわけでも、微笑んでいるわけでも、泣いているわけでもない。ただ本当に、心底俺が好きだという表情で、見ている。
俺は悔しいことに、そんな翼の眼差しに釘付けになって、どうしようもなく、好きだなあと思うのだ。
これに捕まるともう目は逸らせない。諦めて目を閉ざすと、自らの腹の中で煮立っていたものがふっと冷めていくのを感じた。
「じゃ、なんで泣くの」
「……シロくんのそばにいると安心するの。小日向樋代は私の安息そのものなの」
そう言って、歪みきった彼女は微笑んだ。度し難いことに、俺の名前を呼ぶ声の一音一音に、確かな愛情を感じる。尖らせた唇の裏側を噛みながら、俺は重たい腰をあげた。
「そんなんになっといて、よく言えるな」
『そんなん』とは彼女の身体のあちこちに浮き出た痛々しいアザと擦り傷を指していた。新しいものもあれば、治りかけの中途半端なものもある。はがれて埃まみれになった不衛生な絆創膏の横に、赤い血のにじむ生傷が刻まれている。中でも、今日は脇腹が一際ひどい。
冷凍庫から取り出した保冷剤にタオルを巻いて渡す。これも、俺の誕生日に翼が買ってきたケーキについてきたものだ。
「でもシロくん、そのまんまにはしないよ」
「うるせ」
折れるほどの力で殴ったりはしていないが、当たりどころが悪ければ、翼の細腕など簡単に壊れてしまいそうだ。頭に血が昇っている状態では、力の加減ができているかも怪しい。自分の所業ながら、ゾッとする。
脇腹の患部にと渡したはずの保冷剤は、側頭部に当てられた。先ほど突き飛ばした時に机の角にぶつけていたのかもしれない。目に見えない傷に手を伸ばす。触れた肌は柔く暖かい。後悔の念で、胸が一杯になる。
「ごめん」
ただの言葉だ。言葉一つで傷が言えるわけでもないだろうに、他に適切な方法が思いつかない。
「いいよ」
数十分前まで嗚咽を漏らして泣いていた奴が、俺の安い一言で笑顔を見せる。作り笑いではないご機嫌な表情で、俺が好きだという顔で笑う。簡単に許されてしまうことがはがゆい。
俺はベッドに投げ出されたままになっていたスマホを持ち上げて、ケースに描かれたデザインラインをなぞるように撫でた。
当然、傷一つ付いてはいなかった。
******
倉庫のような外観の目的地が、低い山の傾斜地に突き刺さるようにして建っている。周囲にはドラム缶や塗装のハゲたベンチから部品の足りない自転車、バイクに至るまで、何に使えるかも分からないガラクタが所狭しと並んでいる。
立て付けの悪い扉を一気に開く。コンクリート打ちっ放しの部屋に、耳障りな音が響き渡るが、手狭な空間に篭った多種多様な音によって一瞬でかき消された。
お笑い芸人のコント動画を見て、爆笑しながらサンドバッグを殴る者たち。都合よく設えられたトレーニング器具で筋トレに励む者たち。割れた窓ガラスでパズルをする者たち。部屋の中心に置かれたボクシングリングには、フラットシートよろしく寝転びながら、積まれた漫画の読破を目指す者もいる。
「ここは世紀末か」
「よおシロ、どうしたー?」
騒々しい室内をぼうっと見渡していた俺に、仲間の一人が目ざとく声をかけてきた。
彼はこの集団のムードメーカー的存在で、曲者揃いのこの場において唯一の良心でもある。この場にいる派手な容姿の面々の中でも、一際目立つ真っ赤な髪色が特徴的だが、不思議と違和感にはならない。つまり似合っているのだと思う。
見慣れてしまっただけかもしれないし、見た目よりも中身の方がインパクトが強かったのかもしれない。
ここには一癖も二癖もある連中が集まるから、感覚がバグを起こしている可能性すらある。
あからさまに沈んだ風な俺も、こんな混沌の空間の中では誰の目にとまることもなく飲まれて消えてしまっても不思議はない。だからこそ、こうして反応して構ってくれる彼の優しさが、俺のくたびれた心にじんと染みた。
「あかくれぇ……」
「おう?」
俺はサンドバッグを前にきょとんとしている彼を情けない声で呼び、崩れるように肩に腕を回して倒れ込む。名前の通り夕暮れ時の太陽のような赤髪が頬を掠めた。
「……また、やらかした」
体幹の優れた赤暮は、急に飛び込んできた俺をものともせず、慣れた体捌きで受け止める。
「またかよ!」
「だってよお……」
スライムのように赤暮へまとわりつく俺を面白がって、仲間達はガヤガヤと囃し立て始めた。
「何? シロのやつまたやったん? バカじゃん」
「うわサイテー」
「なんですぐ手が出るかね」
「でぃーぶいやろう」
「クズ」
「まだ付き合ってたんだ」
「振られちまえ」
「別れろー」
文字通り、十人十色のヤジが飛んでくる。先ほどまで俺の存在に見向きもしなかったくせに、調子のいい奴らだ。
俺の気質は周知の事実である。公言している俺もまともじゃないが、口先だけで咎めて面白がるこいつらも決してまともとは言えない。
「俺も別れられるもんなら別れてえよ」
ほとほと困り果てていますってポーズで泣き言を吐く俺は、みんなから見たら滑稽以外の何者でもないだろう。人の不幸は蜜の味。遠慮も配慮も思いやりも捨てて、自由気ままに生きているこいつらにとっては格好の餌だ。
「いてっ」
突然、ふくらはぎのあたりに打撃をくらった。思わず赤暮に巻きついていた腕を離して足元を見ると、後ろからパイプ椅子が押し付けられていた。ところどころ破れて中のクッション材が飛び出てきている。
「ん」
分厚いレンズ越しにこちらを睨んでいたのは、俺の天敵である星野青葉だった。
長い前髪と眼鏡とマスクで顔はほとんど見えないが、その声からは不機嫌さが伺える。よく見ると、自らも壁際の椅子に座ったまま、もう一つのパイプ椅子を足蹴にしていた。無駄に長い足を無遠慮にこちらに向け続けているのが腹立たしい。
「なにすんだ」
「ん」
青葉は先程よりもあからさまに低い声で、パイプ椅子を足で押し込んできた。顔の半分を覆う黒いマスクは他人を拒絶する明確な壁だ。心を開いた相手以外には敬語でしか話さないこいつは、俺とは会話をする気もないらしい。
「……いらねえよ」
不安も不明瞭も不要も、怒りのタネでしかない。
自分の思う通りに行かなかった時、予想した通りに事が進まなかった時、血水を張った鍋に火をかけたような感覚に陥る。最初はところどころボコっと小さな泡が現れて、それは段々増えていく。やがてボゴボゴと煮立つ音がして、水面全体が揺れる。
極端で幼稚な俺の感情の振り幅は、未だ俺自身には操れない。鍋にかけた火が消える日は遠い。
真意の見えない表情で、ただ足を向けている青葉に敵意があるのかは知ったことではないが、少なくとも好意的ではないだろう。ないのだろうか。こいつが俺に向ける視線なんて、敵意に決まっている。
「何とか言えよ」
ガキンッ、ガシャンという耳障りな音を立ててパイプ椅子が床を転がる。足の裏を使って蹴ったつもりだが、感覚からして、どこかは歪んだだろう。壁に傷ができようと、どうでもいい。俺の視線は青葉の目一点にあった。
部屋が静まり返った。部屋の奥で破片パズルをしていた奴らも、リングの上で漫画を読んでいた面々も、音に反応してこちらの様子に注目し始めたようだ。
青葉はため息を吐く。眼鏡を外す。億劫そうに立ち上がる。上背がある分、少し上からこちらに視線をやる。その一挙一動が鼻につく。
力のこもった拳が、体をめぐる血の熱が、俺の意識よりも先に脳に伝えている。
平静と理性をかなぐり捨てて、青葉をぶん殴れ、と。
「うるせえ」
冷たい声がその場に響いた。
爪が肉に食い込むほど握りしめ、振りかぶる準備をしていた俺の右手首を、どこからか現れた華奢な片手が掴んで咎めている。
「黄栗」
派手な金髪、獲物を狙う獣のような鋭い目、ノースリーブから伸びる肩や腕は簡単に折れそうなほど細く肉付きが悪いのに、掴まれた腕は全く動かせない。
「パズルが進まねえんだよ」
一言目で空間が凍り、二言目で心臓に刃物が当てられた。
黄栗は、このグループ、いやこの町において最も怒らせてはいけない人間だ。
シャープだが丸みのある輪郭、ピンク色の薄い唇、黄栗は紛れもなく同世代の女の子だ。背は高いが、細身なシルエットはとてもではないが男に見紛うことはない。しかし、その凶悪な迫力と身に纏うオーラが、彼女をただの「女の子」にはさせておかない。
そして青葉は彼女のお気に入りだ。
急速に頭が冷える。先程まで茹っていた血液は無理矢理凍らされて震えていた。
かろうじて捻り出した選択肢は、口八丁で笑って誤魔化すか、素直に謝るか。簡単に機嫌を取られてくれる相手ではない。黄栗は気まぐれだ。こういう奴が相手の時ほど、俺は『正解』が導き出せない。
「いやいや仲間うちで喧嘩すんな! ほら、離れろ離れろ」
張り詰めた糸を無理やりにでもませようと、対峙したままだった俺と青葉を赤暮が物理的に引き剥がす。青葉はわかりにくい表情のまま眼鏡を掛け直した。
俺も拳の力を抜く。意外にも、黄栗はあっさりと手を離してくれた。ただ、痛みを感じるほど強く握られた訳ではない筈なのに、彼女に制された腕はじんじんと痺れて動かしにくかった。
間髪入れず、赤暮は青葉にフォローを入れている。彼が喋り出したおかげで、室内はいつもの温度に戻っていく。
俺だけを一人、残したまま。
「で、今回はどうしてやらかした」
「え?」
黄栗からの予想外の言及に反応が遅れた。
「いつもの、また彼女に手ぇあげちゃったーっていう懺悔の時間だろ?」
いつのまにかリングに上がっていた彼女は、だらりと広げた腕をロープに引っ掛けて器用にぶら下がっている。どんな体幹をしているんだ。
「あー」
相変わらず真意は読めないものの、本能的に機嫌を取らなければならないとまで警戒した先ほどまでの迫力は鳴りを潜めていた。単なる疑問として投げかけられたそれをやっと飲み込んだ時には、再び仲間たちの注目が集まっていた。
「……なんなんだろうな、ほんと」
誤魔化すように呟くと、俺の様子を物珍しそうに眺めているだけだった奴らが口々に質問し始めた。
「殴るってことは気に食わないってことだろ?」
「本当は嫌いとか?」
「いや、すげえ好きだよ。間違いなく好き。表情豊かで女の子らしくて、顔可愛いし、料理できるし、何より俺のことめっちゃ好きだし、あとは」
「おっぱいでかいから?」
「おっぱいでかいから……って何言わせんだよ!」
どさくさに紛れて茶々を入れてくる後輩の頭を鷲掴むも、女子陣からの視線が痛い。
「うっわサイテー」
「ちげえって!」
段々、当初の狙い通り、彼らは面白がって俺の周りに近寄ってきた。余計な打算を抜きにして、俺も自然に笑えている。この場所は、これがあるから居心地が悪くない。
「でも、好きなのに散々傷つけて俺から振るとか、流石にクズだろ」
「何言ってんだクズ」
その通り。俺はクズだ。社会や人を否定することに躊躇のないこいつらには、自虐や後悔の言葉へ軽率な情や優しさをかけたりしない。
「黄栗ぃ、クズな俺を殴ってくれ」
「どのくらい本気出していい?」
「やめとけほんとに死ぬぞお前」
「ごめんなさい」
赤暮の声のトーンが本気だった。黄栗も目が笑っていなかったし、彼女の真意はただでさえ掴みにくい。雑な絡み方は控えよう。やりやすいのかやりにくいのか。
何にしても、恋人である翼へのやりにくさとは比べ物にならないが。
「いやー、まじで、お前らみてえに殴り返してくれて、はいイーブン。なら、話は早いんだけどなあ」
若干の蒸し暑さを感じて、換気のために部屋の奥の窓を開ける。申し訳程度に取り付けられた手すりに体重をかけると、みしりと嫌な音がした。
虫の鳴き声が近い。外には木々と草むら、少し先に畑が広がっており、ぽつぽつと住宅地の明かりが見える。
ここは東京郊外にある小さな町、『此方ヶ丘』の山の麓にあるボクシングジム跡地だ。数年前にオーナーが蒸発し、俺たちのボスがチームの拠点として引き取って管理させている。
チームといってもおよそ二十人弱の問題児たちが集まって、遊んで騒いでたまに喧嘩をしているだけの、町の掃き溜めのようなものだ。ゴリゴリのヤンキーもいれば、元引きこもりやただのギャルなんかもいる。群れて珍走をするでも、犯罪行為に加担をするでもなく、何者かもわからない権力者によって小さな非行を許された奴らの寄せ集めだ。
ただ一応、俺たちは『ピエロ』と呼ばれる不良グループらしい。
というのも、いつの間にかそうなっていたという表現が正しいのだ。件のボスはとんでもない狂人で、学校も年齢も違う、此方ヶ丘周辺の訳アリな奴らを集めて上手いこと統率している。俺なんかには想像もつかないが、彼の中では一定の審査基準があるのかもしれない。
チームに明確な規則はないが、皆がボスの言葉を絶対視している。彼との関係性は人それぞれ。神聖視しているもの、協力関係にあるもの、恩を返そうとするもの、利用するもの。俺たちはそうやって彼に欲しいものや居場所を与えられ、好きなだけ暴れられる自由な環境に食いついたに過ぎない。
謎だらけの歪な居場所。俺はこの自由と勝手の楽園で、もう三年ほど、彼に飼われている。
「樋代」
喧騒の中心から散歩下がり、風に当たっていると、黄栗に名前を呼ばれた。ピエロの面々は大抵俺をシロと呼ぶ為、少し反応が遅れた。
「ん?」
「いや、なんでもない」
金髪のサイドテールが揺れる。風で別れた前髪の隙間から白いおでこがになって、普段より表情がよく見えた。
この世の何にも興味がないような顔をしていながら、俺の顔色を伺ってきた彼女は、一体何を考えているのだろう。
*****
DV彼氏という言葉があるらしい。
感情の起伏が激しくプライドが高い為、相手を暴力や暴言で支配しようとする。嫉妬深く束縛が激しい傾向にあり、相手を追い詰めて優しくしてを繰り返して、自分に依存させるタチの悪い怪物だ。そのくせ外面は良く普段は温厚であることが多いという。
俺という人間は典型的なそれである。DV彼氏、特徴と検索して上に出てくる条件にはほぼ全て合致する。どんなに自分に都合の良い解釈をしたとて、俺が翼にしていることは愛情表現なんかじゃない。一方的な暴力だ。そして実際、翼は俺に依存をしている。
ここまでくれば馬鹿でもわかる。俺の行為は異常で、絶対的に間違ったことだ。
客観的な自己認識があるにも関わらずなぜやめられないのか。どうすれば彼女に暴力を振るわずに済むのか。どうしたら、穏便に彼女と別れられるのか。
考え続けても答えに辿り着けない理由は一つ、結局俺というクズは、現状を悪くないと思えてしまっているからだろう。俺ではなく翼の方から、俺を拒絶してくれる日を待ち望んでしまっている。それなのに、翼が俺に愛を囁くたびに、安心してしまう自分もいる。
「弱えなぁ」
「なんか言ったか?」
声にしたつもりのなかった言葉が拾われて調子が狂う。部屋に散乱するゴミを適当なコンビニ袋に詰めて、無心で片付けをしている内に、考え込んでしまっていたらしい。
「いや、ゴミくらい捨ててけよってぼやいてただけだ」
会話の脈絡は最早記憶にないが、誰かが唐突に山に登ろうと言い出して、赤暮辺りが便乗して青葉たちを引っ張って飛び出して行った。此方ヶ丘の山は標高が低く、一時間程度で山頂まで登ることができる。山道はあまり舗装されていないが、私有地の為危険な動物は少なく、夜景もなかなかのものだ。
ピエロではたまに予定になく登りに行って、疲れてジムで寝てしまい、朝になったら慌てて帰っていく流れが通例となっていた。明日は普通に平日の為、学校のあるものはそのどさくさに紛れて帰っていった。
今回は傷心中だからと言い訳して留まった俺と、シンプルに乗り気じゃないと断ってゴロゴロしていた黄栗を残して、ノリと勢いのままに出かけたあいつらの気ままさには尊敬の念すら抱ける。正直、平日に軽装で山登りとか正気ではない。俺は赤暮が気を回してくれたからやっとその流れから抜けられたが、気まぐれが許される奴は楽で良い。
「ふーん、あ」
口に出さずに少しは手伝ってくれてもいいのではという視線だけ向けると、黄栗が突然立ち上がった。
「どした」
「あー、さっき言いかけたことなんだけど」
「おう?」
不満が顔に滲んだかと内心焦ったが、いくら黄栗が化け物といっても、心まで読めるわけはない。そういえば、先ほども何かを言い淀んでいた。
「や、お前がバカなのはもうしゃーないんだけどさ」
珍しく言いにくそうにしていると思ったら、躊躇のない罵倒が飛んできた。脈絡のなさによる困惑で怒りが湧く隙もない。
「急に喧嘩売るじゃん」
「ちげえ」
試しに冗談めかしてみると、食い気味に否定された。口をもどかしそうに動かしている。仲間としての付き合いはそろそろ二年に及ぶが、初めて見る顔だった。言葉を選んでいるようだが、果たして選べているのか。二人きりの室内に、隙間風と虫の音だけが響く。
数秒考え込んで、黄栗はこう言った。
「たとえバカでも、バカのフリはすんなよ」
「は」
間抜けな声が出た。目を見開き硬直する俺を置いてきぼりにして、予想もしていなかった言葉が続く。
「他人にバカにされんのと、自分で自分を下げんのはちげえんだ。本当にバカになることはない」
「お……おお」
咄嗟の相槌は自分で思っていたよりもあやふやだった。彼女の言葉への理解が及ばなかったわけではない。正解の反応が導けなかった。
往々にして、人の頭の中には正解が用意してある。コミュニケーションとは、いかに個々の望む正解を探っていくかだ。だから、何を求められているかはっきりしないことほど不安なことはない。
「他人を自虐に使うなつってんだよ。テメェに制裁してえなら、もっと他に方法があんだろ」
あまりに真っ直ぐな目で、真っ向から俺の内心を否定された。彼女の目には、最初から俺への過度な期待がなかった。
ピエロのボスは別にいるが、実質のリーダーは黄栗だ。何かあってもこいつがいれば大丈夫だと思える強い存在感がある。喧嘩が強くてただ目立つというだけで、ピエロの顔役になっている訳ではない。彼女が人に畏怖だけを与える者ではないと分かっていた筈なのに、それが今やっと腑に落ちた。
カリスマ性に理由をつけようとすることは愚かだ。ただ、彼女は見ていないようで、誰よりも物事がよく見えている。
醜い自分を責めて欲しくて、俺は今日も笑いながら語った。
自分は最低で醜悪なクソ野郎なのだと、冗談混じりで仲間に零した。
誰かに責めて欲しいのに、本気で責められるのも怖いから、笑顔をまぶしてまた逃げる。
その繰り返しだった。
しかし、陳腐なごまかしは彼女には通用しなかった。他に方法があると黄栗は言った。ずっと抱えていた後ろめたさを、表に出すことを許してくれたような気がして、全身が震えた。俺はきっと、正解なんて不明瞭なもの探していたことすらバカらしくなるような、彼女の言葉の力に感激していた。
「ああ、そうだよな」
俺は俺が思っていたよりも、愚か者ではないのかもしれない。直接そう言われたわけではないのに、そう思わされるほど、疑いようのない強さが黄栗にはあった。
「で、理由は?」
「理由?」
「好きなのに殴っちまう理由。本当は心当たり、あるんだろ」
明け透けな物言いだが、不快感はない。俺を知らない人間の無神経な問いかけではないことが、少しのやり取りでよく分かったからだ。
「あー」
しかしそれとこれとは話が別で、他人へ説明をするには差し障りがあり過ぎる。
「あーってなんだよ。嫌いだから殴る、ならわかるけど、そうじゃないから追い詰められてんだろ」
ひらひらと軽快に振っているその手に刻まれた古傷の数々が、黄栗という人間をよく表している。
「いや、嫌いだから殴るも普通じゃねえけど……」
一瞬畏敬の念を抱いたものの、黄栗は黄栗だった。基本的にやることなすことめちゃくちゃなんだよな。ピエロと揉めた別の地域のチームを一人で、一晩で潰してきたとか、ヤクザに顔が利くとか、本来気分屋で群れるタイプではないのにピエロのボスの手駒になっているのは犯罪の隠蔽をして貰ったからだとか。都市伝説まがいの噂は嘘か本当かもわからないが、どれが真実であっても驚きはしない。
なるようになれだ。先程のお言葉に免じて、正直に話そう。
「翼がさ。あ、彼女、翼って言うんだけど。まあ、よく泣くんだよ。ほっといてもかまっても、飽きもせずずっと泣いてんの」
「ほお」
「めんどくさい性格って一括りにしちまえば簡単だけど、そこにはきっと理由があって、喋ってくれさえすれば、俺も同調なりサポートなりできるのに。口では好きだの頼りにしてるだの言う癖に。俺は翼を信じてやりたいのに、翼のせいで翼を疑っちまうのが、一番腹立つ」
「なるほど」
「そりゃ、傷つけたくはない」
痛みを上書きしてやろうと思った。恨んでくれても構わないと思った。感情のまま、剥き出しの自分を見せることで、翼が本当を見せてくれることを期待した。でもその期待は最悪の形で裏切られた。
「いっそ泣き言混じりに本音を言ってくれりゃよかったんだが、頑固でさ。殴られて泣きながらでも、謝るか、言い訳するか、自虐するかで、話にならない」
だからと言って殴っていいわけはない。翼のことを考えていると、段々と自分が嫌いになっていく。翼のせいにしたくないのに、俺の中には翼とは切っても切り離せない感情が多過ぎる。
遠慮なく愚痴を吐いた無様な俺を、黄栗はどう思っただろう。そっと顔を上げようとした時、開けっ放しだった入り口から声がした。
「喋らないなら調べたらいいんじゃない」
「えっ」
そこに立っていたのは、俺たちピエロのボスであり、此方ヶ丘の『王様』だ。
「やあ」
襟足を少し伸ばしたラフなヘアスタイルと、上から下まで真っ黒な服であること以外、目立った特徴のない普通の青年だ。雰囲気は大人びているものの、見た目だけの印象だと、少し浮世離れしたいいとこのお坊ちゃんと言ったところか。実際、此方ヶ丘では有名な大地主の家の長男だ。
夜空はサンダルで床を鳴らしながら、笑顔で近づいてきた。そのゴキゲンな姿はとても不良集団を束ねるボスとは思えない。
「夜空さん、驚かせないでくださいよ」
「ごめんごめん」
他のメンバーのように騒いだり大笑いしたりしない分、親しみやすい性格ではないが、いつもどこかで見守られているような、ピエロの保護者のような立ち位置でもある。決して、話しにくい性格の人ではない。ただ、微笑みを浮かべていても尚、暗然たる瞳の奥に、真っ黒な光を湛えているように思えて、得体が知れない。
黄栗のような純然たる恐ろしさを感じないからこそ、未知の恐怖を感じることがある。しかし仲間である以上、警戒をする理由もない。
「俺、席外した方がいいっすか」
話をどこまで聞かれていたのかは知らないが、追及されない限りは話を逸らしたい。
「いいよ。ただの、夏休みの相談だから」
窓もドアも全開とはいえ室内は暑いのか、夜空さんは黒シャツの袖をまくる。血管の浮き出た筋肉質な白い腕がのぞき、着痩せするなあなんて余計なことを考えていた。
「夏休み? どっかいくんすか?」
「それをこれから決めようと思っていたんだけれど、もう決まったからいいよ」
「え?」
「海に行こう」
いつだって、突拍子のない彼のひとことから事件は始まる。
気づいた時には、もう抜け出せない。
渦を起こす人間が誰とも知らず、俺たちはただ波に巻かれることしかできない。陸を削る水も、嵐を起こす風も、渦に逆らう者も、結局は波の流れを変えた者の意志のもとに動いていることを知る由もない。
ただ一つ言えること、夜空は多分、渦の外側の人間だ。
ピエロの溜まり場は高校の最寄り駅から十五分ほど歩いた場所にあり、俺の下宿は此方ヶ丘から急行で二つ先の、学園前駅の近くにある。
二駅くらい歩こうかとも思ったが、日中の茹るような暑さに思いの外体力を削られていて足が向かなかった。諦めて、山側の人気のない住宅街を通り抜け、線路沿いの暗い道を歩いく。
実家は同じ都内の世田谷区なのだが、少々複雑な事情があって高校から一人暮らしを始めた。そうは言っても、学校に紹介された共有部つきの学生マンションで、セキュリティは万全、住人には友人も多い。規則のない寮のようなものだ。部屋の広さも一人には持て余す。夕方五時以降は管理人も帰宅する為、頻繁に翼を招いても問題はない。
彼女がバイトのない日は大抵、来訪の連絡があるのだが、そういえば今日は珍しく音沙汰が少なかった。付き合いたての頃は、俺発信の会話が多かった。段々と翼のお喋りに付き合うことが増えて、そっちの方が性に合っていて、彼女の紡ぐ文字の羅列を見返しては癒された。
最近のトーク画面は、待ち合わせのためのツールと化して、無駄で幸福なあのやり取りは鳴りをひそめてしまった。
切ない画面を見ながら歩いていると、小石を蹴り飛ばした感覚があった。路上を転がっていく小石を目で追うと、正面から見覚えのあるツインテールの人影が近づいてきていることに気がついた。
「シロくん」
「翼」
上から下までふりふりの、黒とピンクのゴシックワンピース、胸元のレースは透けていて、スカートの裾は不思議な形に広がっている。靴は十センチ以上ある厚底で、でかいリボンがついていて、ラメが光っている。涙袋を強調し、赤を基調とした派手なメイクは地雷系というダークで可愛い流行りのファッションらしい。
この、わざとらしい痛々しさは好みが分かれるらしいが、目が大きくて鼻の小さい翼によく似合っているので俺は割と好印象を抱いていた。
都心では景色に溶け込む装備でも、郊外ではやけに違和感を覚える。見慣れた俺は、彼女がすっぴんからこの状態に至るまでの手間ひまを知っている故の感慨深さすらある。化粧無しでは外出は絶対にしない。
もっとも、翼の独特なオーラに馴染む出で立ちは、まるで元からそうであったかのように他人を拒む、壁のような、隙のない鎧だ。
「お買い物してたの」
そう言って、両手に持っていたアパレル店のロゴ入りの大きなショッパーを掲げる。妙に重そうだなと思ったら、一つのショッパーの中にいくつか別の店の袋がまとめられているのが見えた。
「また洋服か? 荷物多いな、持つよ。言ってくれたら一緒に行ったのに」
「ううん、私の行く店だいたい女の子しかいないし。あ、たまに連れてこられたっぽい『おとーさん』もいるけど」
含みのある言い方から察するに、文字通りの父親という意味合いではないのだろう。
「別に気にしねえけど」
「女の子たちが気にしちゃうの。仲良い店員さんも多いし。それに、どうせシロくんと出かけるなら、一緒に楽しめるところにデートに行きたいな」
「そか」
少し方向を変えて、商店街の脇道に構えた翼の実家のクリーニング店へ向かう。だからと言う訳ではないのかもしれないが、洋服が好きな翼は、いつも皺のない綺麗な服を着ている。
視界の端で、これでもかというくらいふわふわに巻かれたバイオレットピンクのツインテールが揺れる。やけに眩しい街頭の下に差し掛かった時、ふと、翼のツインテールの根元にボリュームがあることに気がついた。これは、お団子だろうか。しかもよく見ると、団子とその先の髪の束の間が離れているような気がする。
「なんか、染めた? てか、髪伸びてね?」
「これ? 付け毛だよ。ほら、リングの先の部分はエクステになってるの。染めなくても巻かなくてもいいし、可愛いでしょ」
よく観察して見ると、頭の高い位置でお団子を作り、丸いカラビナを三つ繋げてエクステをつけているようだった。遠目で見たらまるで毛束が浮いているみたいに見えるかもしれない。女性もののファッションに詳しくはないが、知らないなりに便利だなと思った。これなら校則にも違反しないし髪を傷めることもない。
俺より頭一つ分小さなところで、首を振ってお団子からぶら下がったつけ毛を主張する小さな頭に手を置いた。白いうなじに目がいく。襟の隙間から、黄土色になったアザが見えた。
「今日やっぱ、泊まってくか?」
俺がそう言うと、翼は振り向いて大きな目でじっと俺を見つめる。思わず離した手が宙を彷徨った。濃いピンクのまつ毛がくりんと上向きになっている。カラコンで濁った瞳からは、翼の心は読み取れない。
「うん」
翼は嬉しそうに笑って俺の手を取った。ほっとして華奢な指の隙間に指を入れると、翼は照れ臭そうに握り返してくれた。
*****
眩しい太陽に目を凝らしながら見上げると、澄んだ青空が広がっている。小学生の頃の家族旅行が最後だっただろうか。海とはこんなにも体力が奪われる場所だったのか。記憶の海を漁っても、あの後味の悪いしょっぱさくらいしか出てこなかった。
ビーチと言われたら、俺はまず果てしない水平線と山に囲まれた広大な自然の風景を想像する。薄らいだ思い出にも、メディアで情報として目にする際も、海とはそういう場所だとあった。だが残念ながらここは対岸にビル群が立ち並ぶ大都会である。
見渡せば、少し先に大型車両の行き来する忙しない橋や色とりどりのコンテナを乗せた輸送船が確認できる。
ここは此方ヶ丘から電車で約二時間、東京湾岸の埋立地にできた大型遊戯施設の一部だ。ビーチの他にショッピングモールや水族館、公園なども隣接している。
本来は腰から上を海水につけることが禁止されているが、数年前から期間限定で都の許可のもと、遊泳が開放されている地域らしい。その為、人が海を満喫するだけの整備はされているが、現在はその期間外である為泳ぐことはできない。
人口の砂浜には、城ではなく何故かナスカの地上絵のような謎の模様が描かれ始めている。レジャーシートの横にレンタルパラソルを立てて日陰で涼む様子も窺える。すぐ近くに建てられた海の家からは、潮風に乗って焼きそばの香りが漂ってきた。
二十人ほどの人影が思い思いに過ごすビーチ。一見しただけではただの初夏のリゾートスポットである。しかし、普通ではないのだ。
今、思い思いに海を満喫している客たちは全員、もれなくピエロのメンバーである。
「何だこれ」
遊泳期間でもなければプライベートビーチでもない東京湾の浜辺が、顔見知りで賑わっている異様な光景をご理解頂けるだろうか。
「聞いてなかったんか? 此方ヶ丘の学生が数人働いているあそこの海の家に、地元のヤンキーが絡みに来るんだと」
偶然近くで俺の呟きを聞き取った赤暮が、焼きそばを片手に持ち、箸を口に咥えて歯と片手を使って豪快に割った。
「いや、それは聞いたけど」
ピエロは別に自警団ではないが、此方ヶ丘の治安や内情に深く影響して来そうな事柄であれば、夜空さんの指示で首を突っ込むことが多い。都内では悪名高いピエロのメンバーが贔屓にしている施設ともなれば、その辺の輩なんぞは軽率な行動は控える可能性が高い。まるで縄張りを管理するギャングかヤクザのようだ。
当事者としてはそんな大層な組織のつもりはないのに、集団として大きく動くことの少ない割に、不自然に上がり続けるネームバリューには、ピエロの存在意義を形作ろうとする明らかな意図を感じる。それに気付いているのは自分だけでは決してないだろうに、連中は元凶であろう夜空さんへ絶対的な信頼と安心を向けている。
かくいう俺も、ピエロという大きな船の上で、流されるままに過ごす。波に逆らうこともなく、彼を疑うこともなく、今の生き方を選んでいる。
選ばされているとしても、いつか波に飲まれても、きっと誰も文句など言わない。
「しかし、目の前に海があるのに泳げないってもどかしいなあ」
大きな口を開け、音を立てて焼きそばを啜る赤暮の格好は、完全に海水浴に来た客のそれだった。男の目線からも惚れ惚れするよく鍛えられた魅力的な腹筋だ。一般の女性客がいなくて良かった。首にはシュノーケルゴーグルまでつけている。まさか潜る気だったのか。
「あんま綺麗じゃなさそうくね?」
「意外とじゃね?」
「まじで?」
波の寄せてくるギリギリの辺りまで進み、足だけつけようとする赤暮を控えめに制止する。水の色は澄んでこそいないが、濁ってはいない。
「大丈夫だと思いますよ。ちゃんとした施設なので、安全性は保証されていますし」
いつのまにか近づいて来ていた青葉は、この暑いのに分厚いパーカーを着て、いつもの眼鏡とマスクを身につけたままだった。赤暮とは別の意味で、一般の客がいなくて良かったと思わせる不審者っぷりだ。
「そう言う割に入る気なさそうだな、お前」
「焼けると痛みが酷い方なので遠慮しておきます。お気になさらずどうぞ」
「別に誘ってねえよ」
必要以上に距離をとる淡々した言葉に苛立ちが募り始めたあたりで、突然首筋に衝撃が走った。
「うわっ!」
瞬く間に背中に広がる冷たさに鳥肌がたった。振り向くと、つい先ほど貸し出しのゾーンで目にしたばかりの大きな水鉄砲を構えてニヤニヤしている黄栗と目が合った。
「いきなり首狙うかよ!」
「おかしいなあ、顔を狙ったのに」
「黄栗おまえ……」
白々しいそのポーズに腹が立ち、足元の海水を思い切り蹴り上げる。腹の底が熱くならない。この苛立ちは気持ち悪くない。
「くらえ!」
「あ」
ただ、浅瀬で蹴り上げたために、海水だけでなく砂を巻き込んで黄栗のシャツとショーパンに泥の飛沫痕が残る。横で見ていた男二人が青い顔をする。黄栗は自分の衣服を確認すると、ニヤリと凶悪な表情を浮かべて俺を見据えた。
「いい度胸だ、樋代」
「ひっ!」
勢いをつけて踏み出した黄栗の足首には、歪な鎖の刺青が彫られていた。
太陽が天頂に達したのを肌で感じる。生粋の夜行性である彼女が、夏の日差しの元で健全にはしゃいでいる。表情は極悪そのものでも、共にいる時間の長い俺には彼女の上機嫌が確かに見て取れた。
「黄栗、最近なんかシロと仲良くなったなあ」
本心から出た言葉だったが、複雑な心境が滲んでしまったようで、察しのいい青葉に「ん」と歯切れの悪い相槌を打たせてしまった。
「そんな顔すんなよ。仲間と仲良くできてんのは良いことだろ」
これも本心だ。良くも悪くも黄栗は人を惹きつける。他が言っても響かない言葉も、彼女の口からなら力を持って伝わる。だが、その代わり、遠いのだ。黄栗は、強く、大きく、恐ろしく、そして届かない。
まるで空のようだと思う。
雨を降らすのも、嵐を起こすのも、人を照らすのも、全て空の機嫌次第だ。
ピエロの人間の大半は、黄栗に憧れて、もしくは恐れているが故に加入を決めている。夜空さんは黄栗を中心として、彼女と交わした何らかの取引に則って人を集めている。だからこそ個人差が大きく難しいのが彼女との距離で、ピエロに必要不可欠な存在でありながら、個人としてはどこか、浮いているのだ。
ついこの前までは、中学からの付き合いである俺と青葉くらいとしかまともに会話できていなかった。ところが、最近になって黄栗がシロに絡みだした。良い変化ではあるが、よりにもよって青葉と因縁深いシロと、なぜ急に関わり出したのか。
「でも赤暮、黄栗が海で泳いだことないって言うから、それ持ってきたんでしょ? 日焼け止めも押し付けて」
他に対してより砕けた口調の青葉が、俺の装備しているシュノーケルゴーグルを指して言う。図星を突かれた俺は「うっ」と口を尖らせる。砂浜に出てくる前、更衣室前で日焼け対策を一切せずに走り出そうとした黄栗を制して日焼け止めを塗らせたのは、あからさま過ぎたかもしれない。
青葉と黄栗に対して過保護になりすぎるのは自分の悪癖だ。三人で一つの精神で過ごした中学時代、揃ってピエロに入っても根本的には変わっていない。
シロの手で掬われた海水が、勢いよく黄栗の服にかかる。薄手のシャツの色が変わり、激しい動きで裾が揺れているのを見て、ひやりとした。
「嫉妬?」
珍しく明け透けな青葉の言葉に仰天した。笑って誤魔化そうとも思ったのに、青葉の妙に真剣で不安そうな面持ちが俺にそうさせてくれなかった。
黄栗のことを考える。永遠に憧れてやまない俺のヒーロー。焦がれてやまない愛しい、女の子。
目を閉じて、想像した黄栗の笑顔の隣には、青葉がいる。そして、二人は俺の方を見ている。俺が愛しているのは、一番大切なのは、これだ。
「いや、多分寂しいだけだなあ」
「そう」
親友が別の友だちと仲良くなって寂しいなんて、女々しくて照れ臭くて、青葉の方を見れない。
「青葉もそろそろシロと普通に喋ってみたらどうだ? 今はもう、悪い奴じゃねえよ」
「……考えとく」
軽い調子で和解を進めてみたものの、二人の確執から二年と少し、溝はまだ深そうだ。気長に様子を見よう。
「おらあ!」
「よけんなこら」
水の掛け合いがヒートアップしたのか、いつのまにか怒声が聞こえ始めている。
シロが長い足を水平にして海水を蹴り上げる。日差しに照らされて光る飛沫を、人間離れした反射神経で掻い潜り、黄栗が身を低くして水鉄砲を打つ。更にその斜線を見切り、シロが体を捻って避ける。いつのまにか、最初の浅瀬から随分と水深のある地点まで移動していた。繰り広げられる決死の攻防を、砂と戯れていたピエロのメンバーたちも見守っている。
「どこまでいくんだあれ。もう腰まで浸かってんぞ」
「うわあああ!」
連れ戻そうか悩み始めた時、突如大きめの波がシロの背後から迫ってきた。頭からずぶ濡れになったシロは、なんとも言えない表情で大爆笑の黄栗を睨んでいる。様子を見るに、黄栗がシロの背後が沖になるように追い込んだようだ。問題はそこではなかった。
「あ、青葉! 上着貸してくれ」
「えっ?」
「いいから早く!」
「なに? どうしたの赤暮」
「黄栗のばか! 泳がないからってシャツの下、水着じゃねえんだよ!」
叫びながら、全てを察した青葉と一緒にザバザバと二人の佇む沖側に向かって、重たい水を蹴って進んでいく。早く止めなければ。自分が女の子であることを蔑ろにしがちな黄栗に、説教をできるのは俺たちしかいないのだから。
夜の砂浜を制す俺たちはさながら海賊だ。
鮮やかな赤が重力に従って垂れてくる。
波のような曲線を描く青で枠組みされ、黄色が輝くように散りばめられ、重ねられた原色が視界いっぱいを占める。
いつのまにか額からは汗が流れてきた。拭った手には混色の乾いた塗料がこびりついて、シンナーの刺激臭に、鼻はすっかり慣れて麻痺している。
空になったスプレー缶を放る。衝撃は湿った砂に吸収され、鈍い音をたてる。今の俺には、そう遠くない場所で煌めく都会の夜景よりも、目の前に映るただの壁が何倍にも美しく思えた。
「めっちゃよくね?」
「俺ら天才かもしれん!」
「やべー写真撮っとこ」
「一応言うけど、ぜってぇSNSにはあげんなよ」
野郎どもの興奮気味な会話が聞こえる海の家の裏、地味な灰色だった壁は今や見る影もない。おまけに体中に飛沫模様ができている。この場にいるほぼ全員が、シャツも海パンもぐちゃぐちゃにして、一つのものを作り上げた達成感に浸っていた。
俺は充足と疲労に身体を支配されながら、ここまでに至った過程を振り返る。
まず最初に、黄栗がバケツに溜めた黒いペンキをぶちまけ、飛び散った液体がメンバーたちを汚し、奇声が上がった。その時点で躊躇していた連中も諦めがついたのか、各々がカラースプレーを手にとった。出遅れたせいで残ったでかい白スプレーを持たされた俺はメインの『PIERROT』の七文字を探り探りに描くことになる。
初めてにしては上手く描けた『P』の字に、予想以上に消費した集中力と体力、先の長さに絶望しかけた。
若干歪んでしまった『IERR』を、うちで一番器用な後輩のが、黒スプレーで縁取りしてくれる。それだけでも不思議と様になる。
線の途切れていた『O』の中には、人を小馬鹿にしたような道化師のイラスト、『T』の先には大きく膨らんだ風船、思いの外形になっていてらしくもなく感動した。
たかが文字に、愛なんてものを感じる日が来るとは思ってもみなかった。
何色ものカラースプレーとペンキをつけたハケを振り回し、素人たちは壁を彩る。
「紫かしてー! あと緑いる人ー?」
「おい! 俺の絵にかぶせてくんな!」
「最悪、眼鏡にかかった」
「青葉のそれは何だ? 猫? モグラ? カモノハシ?」
「ご想像にお任せします」
雑多なモチーフ、訳のわからないオリジナルキャラクター、下手くそな似顔絵、スペルの間違った格好良さげな単語、ネットから引っ張ってきた画像を見て模写をしたり、意味もなくスプレー缶を二本持ちしてみたり、どこからか取り出したステッカーを不規則に貼りつけたり、不良たちは各々の尖ったセンスを存分に発揮した。
中には妙に手際の良い落書きアーティストもおり、短時間で相当な情報量のスポットが出来上がっている。重ね描きするスペースなど残さんとばかりに隙間なく壁面を埋めていく。
「手慣れてんなお前ら」
「そうか、前に歩道橋下に描いた時には、お前いなかったもんな」
初耳だ。でも思い当たる節がある。街中の落書きなんてマジマジと観察しないとはいえ、仲間内に犯人がいると思いたくはなかった。俺もついに加担してしまった訳だが、アレの背景にこんな苦労があったとは新しい発見だ。
「このあとは仕上げに防水スプレーをかける」
「プロか」
いつのまにか俺の文字に陰影が入り、グラフィティーアートらしくハイライトやヒビのような装飾が入っている。部分的なクオリティの差が激しい。所々歪んで、ミスをして、統一感もない、整合性に欠けたそれは、それでも確かに作品と表現でき得る代物となった。
空気が詰まるような音がして最後のスプレーがなくなると、その場は耳が痛いくらいに盛り上がった。
あまりにもうるさい。ヴィジュアル系バンドのライブ会場でももう少しマシだろ。行ったことないけど。
「どうだよシロ、やってやった感想は」
「……くっそ疲れた」
体力の限界がきて、汚れることも厭わず地面に大の字に寝転がる。すると、少し陸に上がった所のテラスの灯下で、夜空さんが満足げに微笑んでいる姿が見えた。道具を全て用意しておいて、言い出しっぺのボスは文字通りの高みの見物だ。どうせ俺たちのこの雰囲気ですら、全て夜空さんの描いたシナリオ通りなのだろう。
いや、これを描いたのは俺たちか。
「疲れた……けど、くっそたのしいわ」
たまにこういうのがあるから、手のひらの上に甘んじている。
寝転がったまま下からのアングルで壁を写した。色んな人間が映り込んだが、この際よしとして、後で翼に送ろう。不思議な顔をされるかもしれないが、帰ったら夏の思い出話を聞かせてやりたい。
まるで青春の一ページのような、俺の情けない非行の記録だ。
いつか大人になって見返した時、どんな気持ちになるのやら。
「疲れたあ……」
「これ帰れるのか?」
「夜空さんがバス手配してるってよ」
「やばすぎ。いつも思うけど、資金源はどこなん」
「至れり尽くせりだな」
「飯うっま」
泳げなかったものの、施設の用意していた遊び道具は幅広く、ピエロのメンバー二十人強が、全員満足げに海の家で夕食をご馳走になっている。
これだけ人数が揃っていると、ピエロも当然一枚岩ではない。複数の机をそれぞれ取り囲む形で、グループの輪ができている。
俺は赤暮や青葉、黄栗、夜空さん、明と、組織の幹部格の並ぶ机に座らされていた。俺自身には特筆した能力なんてないが、最近は何かと黄栗と遊んでいるから、赤暮に誘われるがままここまできてしまった。
青葉からは徹底的に無いものとして扱われている。お互い様なので別に構わない。
まあ、結構楽しんだな。翼は日差しが嫌いだから、多少は渋られるかもしれないけど、泳げるビーチに誘ってみるのも悪くはないか。
ふと人の輪の外に目をやると、海の家の縁側から、後輩たちが遠くを見つめて騒いでいた。妙に気になって、黄栗の方を見ると、彼女も同じところに注目していたようで、お互いに首を傾げて席を立った。
「どうした?」
「崖の上に誰かいるんすよ」
「崖の上?」
後輩の中でも一際イキのいい茶髪の奴が、湾岸沿いの崖を指差す。示した方向は便益施設とは反対側で、整備されているエリアのギリギリの辺りだ。低いが危険には変わりないので柵のない崖の上は当然立ち入り禁止の筈、マップ上には確かその先には駐車場しかないとあった。
「あーよく見たら?」
「さっきからずっといるんすよ」
「釣りでもしてんじゃね?」
「あんな高いとこから?」
そもそも既にこの施設は閉館しており、特例でビーチ一帯のみ俺たちが貸し切っている。人影は明らかに不審だ。
熱帯夜の浜辺、雰囲気も相まって、幽霊が通ったかのような沈黙が訪れた。背中を冷たい汗が伝った。
喧嘩も虫も絶叫系も怖くはないが、こういった系統の話は得意ではない。表面上は平然としているように見せているが、肩に乗せられた細い腕からは嫌な気配しかしない。
「食後の肝試しがてら、様子見に行くか」
「言うと思ったけど、まじかあ」
ピエロ怖いもの知らず代表の黄栗が先陣を切り、後輩二人は面白半分についてくる。浜辺を歩いて崖の下まで行っても、陸側の駐車場方面から出ないと上には上がれないのではないか。聞くタイミングを逃したが、このまま何もなく帰還できればそれでいいか。
波は昼間より随分と落ち着いている。テトラポットの並ぶエリアのさらに先、崖の下は険しい岩場が広がっていた。
ぼちゃん──
どぷん──
ぽちゃ──
ぼちゃ
不規則な間隔をあけて、何かが海に投げ込まれているようだ。音の大きさも不揃いで、物を特定することは難しい予感がする。不気味な音が静かに鳴り響く。俺の第六感が、物音を立ててはいけないと告げていた。後輩も顔を見合わせてじっとしている。黄栗もそれに乗っかり、息を潜めて岩場に隠れた。そこから五分ほど音は鳴り止まなかった。
「音、止んだな」
小声で言うと、重苦しかった緊張感が少しだけマシになった。
「よし」
「わ」
黄栗は唐突にスマホと財布を後輩に預け、シャツの裾を結ぶと、躊躇なく夜中の海に飛び込んだ。
「は?」
冷たい水飛沫が顔にかかって不快だが、それどころではない。一瞬、足を滑らせて落ちたのかとも思ったが、うまいこと体をぷかぷか浮かせながら笑う黄栗の顔を見て拍子抜けした。
「はは! 何変な顔してんだよ」
「するだろ!」
「何落としたのか知れねえけど、まだ浮いてっかもしれねえだろ? このままじゃ気になって寝れねえし」
「だからって、飛び込むか普通」
「お前らはタオル持ってきてくれー」
「は、はい!」
後輩二人は海に向かってピシッと返事をすると、黄栗さんやべーよすげーよと尊敬の念をこぼしながら去っていく。待て、俺を置いていくな。
「お前もこいよ」
黄栗の言葉が俺に手を伸ばす。見つかったら、怪我をしたら、そんな当たり前の懸念が、俺の中で急速に小さくなる。
ずるいな。
日常と非日常の境目を簡単に捩じ切って手を差し伸べる。彼女にとってはこの世に境界なんてなくて、彼女の存在する場所こそが、非日常で異常だということを実感する。
この引力に、ただの凡人が逆らえるわけがない。
気づくと俺は目を閉じて、両足は地から離れて飛んでいた。
暗く恐ろしい海へ、黄栗の待つ非日常へ。
泳ぐのは得意な方だ。とはいえ着衣泳なんてそれこそいつぶりだろう。肌に張り付いた服に服が張り付き、絡まった布同士が水を纏ってまた布と肌の隙間に入り込んでくる。動くたびに変化する状態に体はなかなか慣れてくれない。ベタつく髪をかき上げて夜空を仰ぐが、手から滴り落ちた海水が目に滴を垂らした。
「服重すぎ!」
苛立ちともどかしさを逃すように叫んで舌打ちをする間に、息継ぎのペースが乱れた。
「溺れんなよ。助けねえから」
「そこは助けてくれよ」
「気が向いたらな」
「水冷てえし」
「水につかってないとこの方が寒くね?」
「何してんだよこれ」
だんだんと、文句ばかり口から出てくるようになって、気持ちはイライラしているはずなのに、なぜだか心が躍っている自分がいることに気がついた。
どういうことだろう。
ああ、ずっと黄栗が楽しそうだからか。
俺も、楽しいんだ。
下手をしたら海の藻屑、誰にも見つけてもらえないかもしれない。危険極まりない状況で、俺は今を楽しめちまってる。自覚すると、腹の底から込み上げてくるものがあった。
「あははははっ!」
「なんで急に爆笑?」
「いや、ちょっと状況が意味わかんなすぎて、いやわからん。なんか、面白すぎる」
自分でも何がツボだったのかわからない。ただ、げらげら笑いながら必死に泳いでいることすら面白くて、言葉がうまく声にならない。そんな俺につられて笑う黄栗を見て、また面白くなって、冷たい水が冷たく感じないくらい、自分の中を巡る血液があったかく感じた。
頬が痛くなるほど大笑いしたのはいつぶりだろう。
笑い疲れて、一旦体の力を抜いてみる。海の上で仰向けになってみても、東京の明るい空じゃ星なんて見えない。
ただの黒い広がりだ。人工的な赤い点滅が空を横切っていく。月の周りだけが白んでいる。
よく夜景を宝石に例える奴がいるが、一ミリも共感できない。
この夜空に、価値なんてつけようがない。
「あは、都会の海も悪くねえなあ」
目を閉じて呟くと、手に何かが当たった感触がした。
「ん?」
魚か? こんな水面近くに?
まさぐるように手をばたつかせてみると、上手いこと浮遊物がキャッチできた。
「あ、なんかあった!」
「まじ?」
バシャバシャと元気な音を立てて黄栗が近寄ってくる。その無尽蔵な体力はどこから湧いてくるのか。
手で弄ってみると、シリコンゴムのような感触だ。硬い部分と柔らかい部分がある。明らかに自然物ではない何か。
「んー?」
「上がってみるか」
この時から、嫌な予感はしていた。けれど、まさかという気持ちがずっと前面にあって、無意識の内にマイナスの可能性を除外していた。それでも最悪の想定としては、魚類の死骸だとか、ポイ捨てだとか、色んなものが脳裏を過っていた。
片手でなんとか岩の上にあがると、一息つくまもなく手のひらの上に乗ったそれを、黄栗が岩の上に置いた俺のスマホの灯りで照らした。
海賊が宝島で獲物を見つけたような心持ちで確認したそれを見た時、俺たちはしばらく認識できなかった。
白い塊だった。
楕円形に近いが、内側に凹凸があって、うっすらと毛が生えているようにも見える。
縁の部分には、よく見ると針を通したような小さな穴が二つ空いている。
赤黒い乾きかけの液体が付着していた。
そのうち、やっと俺たちはそれが生き物の一部であると言うことに気がついた。
人間の耳だ。
「っ! ぅっ! うわあああああ!」
声は急には出なかった。喉の奥が震えて、痙攣のように全身に悪寒が走った。走った感覚を外に逃すように、俺の絶叫があたりに響く。
「樋代! バカ! 落とすな! 流れちまう」
尋常じゃない震え方をした俺の腕を、黄栗が冷静に掴む。俺を諌めながらも声を落としているのを聞いて、これの落とし主がまだ近くにいる可能性を危惧しているのだと思い至った。
「きもいきもい無理だってまじで! むりむりむり!」
思い至ったところでパニックになっている事実は変わらない。
「持って帰って夜空に見せるぞ。流石に手に負えねえ」
「何で普通に触ってんだよ……夜空さんなら手に負えるみたいな言い方やめろよ……」
半ば黄栗に引っ張られる形で、震える足を押さえて、何度も足を滑らせそうになりながらも何とか岩場を渡りきった。
海の家に戻ると、黄栗は迷わず夜空さんのところへ見つけたモノを持って行った。取り残された俺がまずとった行動は、トイレで手を洗うことだった。気分は最悪で、吐いてしまおうかとも思ったが、ショックの方が大きくてそれもできない。
食事処に戻ってもあまりにも顔色の悪い俺を気遣って、仲間が水を用意してくれた。黄栗と夜空さんは見当たらない。
なんなんだよ。
衝撃と、苛立ちと、気持ちの悪さと、ぐちゃぐちゃになった感情と体調を、夜風の当たる席で頭を落ち着かせていると、斜め前の席で、撮った写真を見返している明の姿が目に止まった。
「おい明、さっき崖の方の写真撮ってたろ」
芸術肌の明は、壁落書きのクオリティを担保した今回の立役者だ。持参したカメラで一日中、景色とみんなの写真を撮影していた。
「あ、うん」
「見せてくれ」
「いいよ」
明がショルダーストラップを外してカメラを見せてくれる。やはり確実に誰かが何かを海に投げ捨てている。それも数回に分けて。中身を想像して鳥肌が立つ。
写真を確認するまで気が付かなかったが、複数の人影があった。崖の先に立つ人物が一番はっきりと写っていた。髪の長さ的におそらく女だろう。
いつのまにか集まってきた数人で、明を囲む形で画像を見送っていると、誰かが言った。
「ん? 髪の毛のとこ変じゃね?」
「ほんとだ。なんか変な隙間が」
テレビの中の出来事を見ているような心地でありながら、自分のことを扱われているような不安感と不快感で、視野が急激に狭くなる。
「ここだけ、空中から髪の束が生えてるみたい」
既視感が、俺の心臓を一層脈打たせた。
海旅行は散々な結末を迎えた。楽しい夏休みの皮切りとしては、これより最低な出来事はないだろう。
好奇心に負けて非日常を望んだ自分を恨む。
荷物をまとめて駐車場に集合すると、学校行事で用いられる典型的な旅行バスが用意されていた。運転手のおじさんは一体どのように説明を受けて運転をしていたのだろう。
東京湾から此方ヶ丘までの一時間と少しの旅、蓋を開けてみれば騒がしいヤンキー遠足だ。煩かったのは海を出発した時だけで、乗車後は気が抜けたようにみんな眠り出した。
俺は目が冴えてしまって、窓の外を過ぎて行く東京を眺めながら、あの忌まわしい感触を忘れようと必死だった。
同じ経験をした黄栗も、経緯を聞いて耳を回収した夜空も、帰りのバスでは平然としていた。頼もしいを通り越して少し怖い。殺人事件が起きているのだから、普通に警察に通報してくれよ。
一番後部の座席で、赤暮と青葉に挟まれた黄栗は、年相応の自然な笑顔を見せる。赤青黄色、名前を文字って信号組と呼ばれる三人には、彼らにしか無い空気があるように思う。定型や集団に縛られない確かな繋がりがある。
例えピエロが無くなろうと、もしかしたら地球が滅んだ世界でも、彼らは変わらないのかもしれない。誰がどう関わろうと核心には触れられない、三人だけの世界。あそこには、異物を拒むまでもなく、他人の入る隙なんてないのだろう。
初めて壁に落書きを施したこと、海の家での夕食の時間、化け物たちに囲まれた哀れな自分、黄栗と共に飛び込んだ海の冷たさを順に想起して、やめた。
本当の出来事がまるで空想のようにすら思える。
収まるべき場所に収まっただけのことだ。あれは俺の場所じゃない。あの危険で不可思議な世界は魅力的かもしれないが、蚊帳の外の空気の方が心に優しい。
黄栗や夜空さんは知る由もないが、俺にはもう一つ引っかかっていることがある。可能性にも満たないほんの小さな違和感が、数日間俺の中で燻り続けた。
「シロくん、紅茶入れたよ」
ルーズリーフにシャープペンシルを突き立てたまま動かなかった俺に、翼がそっと紅茶を差し出した。
夏真っ盛りの今日日に、薄手とはいえ長袖を着ている。シャツにプリントされた毒々しい色のクマの可愛さは、俺にはいつまで経ってもわからない。
「ありがと」
俺の家に二人、いつものようにローテーブルを囲んで宿題やらゲームやらをして寛いでいた。
ちなみに俺は夏休みの宿題を最初に終わらせておく派だ。翼は最後に追い込むタイプ。どうせなら今一緒に進めてしまえば後が楽なのに、と思うが口には出さない。
座りっぱなしだが、室内は冷え切っていて、足元はひんやりとして心地が良い。
翼の勧めで購入した夏用の接触冷感ラグマットが、最も簡単に俺の生活に溶け込んでいる。
ラグマットだけではない。ベッドの横にはゲーセンで獲得したゆるキャラのぬいぐるみが寝転がっている。洗面所には俺には縁のない多種多様のスキンケア用品が置かれ、クローゼットには翼の部屋着がいくつか備えてある。
彼女の気配が至る所からするこの部屋で、これ以上不信感を抱いたまま過ごすことはできない。翼に悟られる前にはっきりさせてしまおう。
少し逡巡して、俺は指先で弄んでいたシャーペンを置いた。
「翼、最近、海とか行った?」
「海?」
置いたシャーペンを持ち直して、読めもしない問題集に目を落とす。
その声色に不自然な点はない。恐る恐る右を向くと、なぜか笑顔の翼が至近距離で俺の顔を覗いていた。
「行ってないよ? 最近バイト三昧だったから」
顔をさらに近づけてきて心臓が跳ねる。しかし、その視線は俺の手元の教材とノートに向かってくる。問題文を目で追って首を傾げている。先程から俺が苦戦していたせいで内容が気になっただけらしい。俺の質問に違和感を持った様子はない。
「そか」
やはり、勘違いだ。たかが髪型だけで個人を判断できる筈がなかった。直近で物珍しかったから結びつけてしまっただけ。何も問題はない。
スマホを見せながら「ほらみてシフト、今週も超詰まってるのー」と、俺の膝に小さな頭を乗せてくる。
細い髪が俺の膝を撫でる。少しくすぐったい。顔にかかった横髪を根本からなぞるようにどかしてやると、満面の笑みを浮かべて俺の手に擦り寄ってきた。
これを疑った直前までの自分がいかに血迷っていたのか痛感する。海での経験に心を引っ張られすぎていた。
「癒される~」
未だ俺の手を好き放題に触っていた翼が、ため息を吐きながら言った。
聞くところによると、彼女は実家のクリーニング屋の手伝いに加えて、系列店のサービスの一環であるオフィスやマンションの清掃にも出張で行っているらしい。
綺麗好きな翼は、俺の部屋を頼んでもいないのに来る度に整理整頓してピカピカに磨いていく。
仕事としての清掃は体力も消耗するだろうし、親の手伝いを兼ねているとはいえ、ストレスも多いのだろう。
もしかしたら、翼の秘密は仕事や家庭に根付いているものかもしれない。ならば俺にできることは一つだ。
「おつかれ」
「ええ? 今日のシロ君あまあまだね」
日頃の自身の行いのせいか、今の精神状態のせいか、労りに対する喜びの表現が、どうにも普段の俺への皮肉に聞こえてしまった。翼にはきっと、そんなつもりはないのに。
「ごめん」
「なんで謝るのー? 翼は今日もシロ君が大好きですよ」
言われ慣れたその愛情が、今日はやけに素直に受け取れた。
「俺も」
プライドや恥に邪魔されながらもすんなりと出た返事に、翼は幸せそうにしている。
「ふふ。シロ君は海、楽しそうだったね。貰った写真、素敵だったよ」
「まあ、疲労感が酷くて昨日は一日中寝てたけど」
穏やかな時間だ。夕飯もお腹いっぱい食べて、風呂にもゆっくり浸かって、夜更かししながら、笑顔の翼に、優しくしている。
この時間を守る為にも、早く大人になろう。
翼の抱えているものを黙って一緒に背負えるくらい。大きくて優しい人間になりたい。
夜空の助言を思い出す。要は本人に直接聞いて傷口をえぐるなということなのだろう。それで結局ままならない俺が苛立って物理的にダメージを与えてしまっては負の連鎖でしかない。
ピエロの面々のおかげか、いつもより客観的になれている。
「女の子もいるんだね」
いつのまにか目の前に差し出されたスマホの写真は、俺が送った件の海旅行での一枚、隅に写っていたのは明るい金髪を一括りにした細いシルエットの人物だった。
「まあ二、三人くらい? いや、流石に黄栗は女とかっていう感じではないけど」
「黄栗さん? 名前かわいいね」
耳馴染みのない単語の組み合わせに背筋が凍る。ここでの会話を本人が知る由もないというのに鳥肌が立っている。
「可愛いっていう発想が湧かないわ。本人に言ったら殺されそう。喧嘩強いし怖いし、行動は理解不能だし、なんかこう、話の通じない野生動物みたいな、やばさが」
「なにそれえ」と砕けた調子で言いながら、翼は俺の膝から起き上がる。
「ただ凄え人ではあるな。ここ最近で、ピエロはこの人中心に回ってるんだって実感したわ」
彼女といると、自分もまるで特別な存在になれたような気がしてしまう。初対面から印象は変わらない。あれは平和とは対極にある、魔力を持った怪物だ。
自分のスマホの画像フォルダを漁りながら、思い出に浸る。
「へえ」
なんだろう。何が起きた訳でもないのに、翼の空気が変わったことだけが分かる。笑っているし、怒っているわけではないんだろうけど。俺の方を向いて座り直した彼女に、心臓が妙に脈打つ。何を言おうとしているのか構えていると、拍子抜けする一言がその小さな口から飛んできた。
「シロ君その人のこと好きなんだね」
「は?」
「優しい顔だ。私には向けてくれないやつ」
そこでやっと気づいた。微笑みを浮かべている翼の目の奥が、数分前からずっと俺をみているようで俺をみていない。
「何言ってんの」
空気を無理にでも変えようと茶化すような口調になったが、彼女には通用しない。
「私には優しくないのに」
「そ、れは、話違うだろ」
「違くないよ。私には苛立つのに、その人と、ピエロの人たちといたらそんな風にはならないでしょう?」
早く否定しなければ、頭ではそう思うのに、全てを否定するには彼女に対して後ろめたいことが多すぎる。
「やっぱり私となんかいない方がいいんだよ。シロ君にはもっと素敵な人がいるもん。シロ君のこと怒らせて、謝らせてばっかりの私じゃダメなんだ。シロ君はいつも優しいのに、私なんにも返せてないよね」
「いっかい落ち着けよ! なんでそうなる」
目に涙を浮かべて捲し立てる翼を落ち着けようと、両肩に手を置いてやる。
よかった。いや、よくはないが、これはいつもの発作とは別の何かだ。俺に何か非があるとか、地雷を踏んだとか、そういう興奮の仕方だ。面倒ではあるが、俺が落ち着いてさえいれば、翼を傷つける最悪の事態にはならない筈だ。自分に言い聞かせて、翼の言葉を精一杯聞く姿勢をとる。
「だって、シロ君あんまり私と出かけてくれないし」
「それは、平日は学校あるし、土日はお前バイトだし」
「もう夏休みだよ」
「それは、そのうち予定合わせてどこ行くか相談しようと」
「言い訳だよそんなの」
泣き出す翼を抱きしめてなだめる。
「悪かったって」
我ながら典型的なDV彼氏のような行動だ。しかし感情の浮き沈みの激しい翼を宥めるには、身体的な接触が一番安心させてやれるのだということをこの一年でよく理解した。
「会いにくるの私ばっかで、デートにも誘われなくて、こんなこと思いたくないけど、そういうこと目当てで私と付き合ってるんだろうなって思っちゃう。殴ってストレスも発散できるし、都合いいよなあって、思いそうになる」
「は? そんなわけねえだろ。変な勘違いすんなよ」
「思ってないってば!」
ヒステリックに声を荒げると、心配になる嗚咽を溢して目を擦りだす。これは、俺の言動と行動が裏目に出たということだろうか。
そもそも、俺たちは始まりが悪かった。
ちょうど一年前の夏、例に漏れず、今とは少し異なるピエロの面子で渋谷に遊びに行った時のことだ。
街中で揉めている同年代の派手な女子グループが偶然目に映った。何があったかは知らないが、三、四人の女子が一人を囲んで怒鳴りつけている。その囲まれていた独特なファッションの女子こそが、当時中学三年生の翼だった。
一年前の翼は、今以上に顔色が悪くて、自分を責める女子たちを冷め切った目で見ていた。それに余計に腹が立ったのか、グループのリーダー的存在らしき女子が彼女を突き飛ばした。
おいおい、路上だぞ。危な。
高い靴のせいでバランスが取れずそのまま床に這いつくばってしまった少女に、俺は思わず駆け寄ってしまった。
「大丈夫?」
「何お前」
「翼の知り合い?」
案の定周りの視線が痛い。助けた相手の名前はここで初めて知った。追い詰められた中坊の俺は、変に格好つけるよりもと、波風を立てないような安牌をとった。
「いや、君らかわいいなあって」
「は? ナンパ?」
「やば、空気読めよ」
全く持ってその通りだ。言葉の矢が突き刺さる。若干恥ずかしいし、不自然な棒読みになった気もするし、この後どうしようとテンパって死んだ空気を醸す中、救世主が現れた。
「シロ、どしたー? 知り合い?」
急に走り出した俺を追いかけて、仲間たちがゾロゾロとやってきたのだ。集団の先頭に立つ赤暮は、染め直したばかりの赤髪をワックスで固めていた。厳つめの見た目とは裏腹に、爽やかな笑顔を浮かべて駆け寄ってきた奴を見て、鬼の形相だった女子たちは目の色を変えた。
そう、赤暮はビジュアルが良いのだ。顔は小さいしまつ毛はバサバサだし、鍛えているからガタイは割といいのに清潔感があって女ウケがいい。そのくせ馬鹿ばっかやっていて黄栗一筋だから、他人に媚びることもしない。
黄栗のカリスマ性とか、夜空さんの黒幕感とは別の何かが赤暮にはある。羨ましい限りだ。小物の俺は、その力に肖っていこうと思う。
「いや、ナンパ! 俺ちょっとこの子と遊んでくるから、あとよろしく!」
俺は翼の細すぎる手首を掴んで、小走りでその場を去る。
「は?」
唖然としていた赤暮に脳内で謝罪スタンプを送りながら、道玄坂を走り抜ける。
俺はこの後どうしようか、黙り込んだままの彼女にら何と声をかけようかと、体温の高い左の手汗を気にしながら足を動かした。
開店前の居酒屋と自動販売機くらいしかない脇道の階段に腰掛けると、彼女も俺に合わせてぽすんと座ってくれた。
「ありがとう」
第一声は、ストレートな感謝だった。可愛い声だなと思った。
「いや、ごめん、その場の解決にしかならないとは思ったんだけど」
「ううん。へいき。学校じゃ多分、もう私に話しかけてこないし」
足を伸ばして、先ほど地面についた部分の汚れを払う。
億劫そうなその仕草が、どうにも魅力的に見えた。
落ち込んでいるのだろうか。
物憂げな表情に、放っておくとすぐに消えてしまいそうな儚さを感じとって、俺は務めて明るい声を出した。
「な、この後本当に遊ばね」
「いいけど」
そこからはスムーズな流れで、彼女の希望で洋服を見に行ったり、ゲームセンターで遊んだり、夜遅くまで渋谷を満喫した後、俺の家に泊まって行った。
最初は最寄駅まで送っていこうとしたのだが、ピエロが拠点としている此方ヶ丘に自宅があると聞いて、昼間の件が気まずい俺から誘った。
今思うと軽率だったのかもしれない。
お節介なナンパから始まった俺たちの関係は、どちらからともなく自然に好意を伝え合って、恋人という形に収まった。収まったものの、当時の翼の目線では、俺は相当チャラかったのではないか。否定はできない。
最初の印象が糸を引いて、更にはこれまでの暴力の数々、クズ男のイメージ脱却には、今後の俺が誠実な対応を重ねていく必要がある。翼の不安定な情緒に引き摺られてはいけない。自分のペースを保って、俺の手の届く涙は拭いてやろう。
「ごめんて、そんなこと思わせるつもりねえよ。一回水飲め。持ってくるから」
テーブルの上には先ほど翼が入れてくれた飲み掛けの紅茶があったが、冷たい水の方が冷静になれるだろうと立ち上がる。
浄水器のついた水道の水を、洗ったばかりのグラスに多めに入れて、俺が先に一口飲ませてもらう。特に上手くも不味くもないそれが喉元を通ると、熱くなった身体が芯から冷えてくれるような気がした。
グラスを翼に差し出すと「ごめん」と、蚊の鳴くような声が聞こえた。
「いいよ。でも、俺の気持ち疑うようなこと、言わんでくれ」
ちくしょう、情けない声が出た。
「ごめんね、仲良さそうだなって思っただけで他意はなかったの。最近遊びに行けてないから羨ましくて。シロ君に新しいお友達ができてなによりだよ」
真意の掴めない彼女の様子を伺っていると、
「ねえ、また殴る?」
乾いた喉が空気で切り裂かれたような心地だった。
「いや」
「いいんだよ。シロ君がそうしたいなら、したいようにして良いよ」
「違う」
殴りたいだなんて思ったこと一度だってない。嘘だ。今だって身体の芯が煮え始めてきている。力の籠る手に苛立って、内に籠る煩悶と悪意の循環が止まらない。
「私のこと嫌い?」
「そんなわけない。さっきのやりとりなんだったって話だろ」
ついさっきまでお前だって幸せそうにしてたのに。何でずっとあのままでいられない。そんな簡単なことがどうして叶わない。
「でも、目、あわない」
「一回黙れ」
こうなった翼は止まらない。全ての事象がネガティヴにしか捉えられなくなる。加えて、俺の神経を逆撫でするようによく喋る。返事が頭を通さず勝手に口から飛び出るようになる。
「別れたい? 別れよっか」
頭が痛い、だんだんと翼の言葉の意味が腑に落ちなくなって、感情に飲まれる。つい先ほど決意したばかりだというのに、自分は本当に短気で愚かな人間だ。ヒーローを気取っても、良い彼氏を演じても、結局いつも上手くいかない。
そうしていつの間にか、俺の衝動を抑えることではなくて、翼の歪みを矯正すべきだという都合のいい思考のすり替えが起こる。
薄いガラスの割れるパリンッという鈍い音で視界が晴れた。ハッとして足元を見ると、今しがた汲んできたグラスの破片がパラパラと転がっていた。
焦る思考回路で瞬時に自分のやらかしたことを理解して、顔を庇うようにしてうずくまった翼に手を伸ばす。
「悪い、大丈夫か?」
口に出してから、苦虫を噛み潰したような心地になる。優しいフリをするな。
「……うん」
驚きで仕切りに瞬きをしてはいるが、相変わらず怯えてはないようだ。グラスは翼に直接ではなく、フローリングに敷かれたラグマットに叩きつけられてバウンドしたようで、粉々ではあるが、パッと見たところ翼に怪我はなさそうだ。
「目とかは?」
「閉じてた」
テーブルを端に避けて、ラグマットを少し引く。手頃な下敷きを使って破片を一箇所に寄せる。
グラス一つで済んでよかった。少し前なら思わず殴ってしまっていたかもしれない。衝動が制御できたわけでもないが、直接手を出さなかったことに少し安心してしまった。
翼の表情は、先ほどよりも殊更に暗い。捨てられた仔猫のように縮こまる彼女に、いつも通り罪悪感と不信感が募る。
「ほんとに、ごめん」
「へいき」
「どっか痛くないか? あ」
床に投げ出された翼の白い足に、綺麗な赤一線が滲んでいた。ガラスの破片が勢いよく飛んだのだろう。
「翼、傷、風呂でゆすいでこい。片付けとくから」
掃除機もかけて念入りに回収しておかねば、後々また怪我をしてしまいそうだ。そうこうしていると、翼がよろっと危うげな動作で立ち上がる。
「シロ君が、やって」
「ああ? 別に良いけど、一旦周り片すから動くなよ」
そう言うと、翼は唇をキュッと結んで、迷わず俺の方へ歩いてくる。
「おいバカバカ、動くなって」
破片が足の裏になんか刺さってしまったら大変だ。右手で集めていた大きな破片をなるべく遠ざけるも、容赦なく抱きついてきた。仕方なく一旦、左の腕で翼の体を支えながら、半ば引き摺るようにして部屋の奥へ移動する。
「シロ君の手はあったかいね」
ひんやりとした細い指が触れる。怖がられないことが不思議でならない、傷つけることしかしない俺の手を、翼が両手で包む。
俺の心境を察しているのかいないのか、翼は微笑む。
「変なこというけどね、この手につけられた傷だって思うと、全然痛くないの。治らないで欲しいって思うことすらあるよ」
「バカ言ってんなよ。早く行ってこい」
ゾッとしない言葉に、箪笥の中からだしたバスタオルを上向きに投げる。弧を描いて宙を舞っていった白いタオルは、ちょうど翼の頭にかぶさった。
翼は少しだけ不満げな表情を浮かべて、やっと風呂場へ歩いていく。
あれは翼なりの慰めだったのだろう。不器用な言葉選びではあるが、少しだけ気が紛れた。
一人になれた今のうちに落ち着こうと、冷めかけの紅茶に口をつける。翼が勝手に選んだ、銘柄も知らない紅茶、底に溜まった茶葉のカスまで飲み干して、苦味に顔を顰める。
最近、ふとした瞬間に思ってしまう。
翼は、わざと俺に暴力を振るわせているのかもしれないと。
翼は自傷をしない。死にたいなんて口に出さない代わりに、今にも死んでしまいそうな表情で泣き続ける。夜も震えて魘される。
今日は矛先が俺に向いていただけまだマシだった。
おそらく今回は俺が女子と絡んでいると知って不安にさせてしまったのだろうが、引き金が何だったのか本当に分からない時も頻繁にある。
俺には手が出せないところで翼は自分を追い詰める。
同じなのかもしれない。
都合の良い妄想だ。我ながら気持ちが悪い。責任転嫁にも程がある。
たまに、翼のことが本当にわからなくなる。
ガラスの破片を拾うたびに、心に憂鬱が積もっていく。
いっそ、一度バラバラにしてしまえば楽なのに。
それでピエロの連中みたいに破片パズルでもして、好きなように組み替えられたら、どんなにいいだろうか。
慣れ親しんだピエロの基地で、無駄に長い夏休みを行き当たりばったりに過ごす。そんな連中が十人ほど揃ったある日、夜空さんが顔を出した。
そして前触れもなく、「例の耳だけど」と、話を切り出した。
耳を疑う俺の肩を、諦めろとでも言いたげに黄栗が叩く。
首を傾げる何人かに向けて、黄栗が大まかな経緯を説明してくれた。
やめろ。真夏の怪談風に話すな。後輩たちを怖がらせるな。
冗談では済まない事件の全貌に震え上がった面々を置き去りに、夜空さんは話を続ける。
「噂によるとあの辺は元々その筋の人たちの中で死体処理場として有名だったらしい。潮の流れが特殊で、流した物が砂浜に打ち上がることはほぼないんだそう」
「俺もうあそこで泳ぎたくねえわ」
流石に赤暮も初耳だったようで、顔面蒼白でボヤいている。彼はあの施設が相当お気に召していたので、この夏もう一度泳ぎに行く気だったらしい。伝えられてよかった。
「どうすんのそれ、流石にその筋の人とは関わりたくねえっすよね」
「でも、もうあそこに流すのは、やめてもらうしかないよね」
「え、どうやって?」
その質問に、笑みを深めた夜空さんは、悪巧みをするようにわざとらしく声を抑える。
「死体の処理って誰がしていると思う?」
物騒な話の中で、より物騒なクイズが出題された。幽霊でも通ったかのように、その場がしんと静まる。
「そりゃ、組の下っ端とか?」
「逆じゃね? バレたら即アウトだし、エライ人がやってそう」
「専門家だろ」
「いるかそんなもん」
普段空気を読むこととは縁遠い彼らが、ソワソワ周りと目配せをしながら考え始める。疑問符を浮かべる面々に、夜空さんは正解を提示する。
「そう。死体処理とか証拠の隠滅って意外と専門的でね、計画的なケースであればあるほど、組員が直々にやることはまずない。これもまた調べがついていて、なんと此方ヶ丘に専門業者がいるんだ。犯行現場の清掃なんかも一緒にやってくれる優良なサービスだよ」
「うわ、俺らも頼みてえ」
「喧嘩の後な、荒らしたままだと下手すりゃ通報されるかんな」
「それな。地味に面倒なんだよな。ほら前に喧嘩でシロが頭打って血ダラダラになった後とか」
「わかるーあれこそ犯行現場だもんな」
「てか、あれってあの後誰か拭いたん?」
「しらん」
「どうしたっけ」
その場の全員が記憶を辿ってみたものの、やがて返事が尽きる。騒がしかった部屋に、また不気味な静寂が訪れた。
まさか。と、誰もが思い至っただろう。
夜空は彼らが全員漏れなく押し黙った様子を見て、ただにっこりと微笑んでいる。自ら答えを与える気はなさそうだ。
それを聞く勇気のあるものはその場にはいなかった。
耳発見直後、黄栗と夜空さんが通報しなかった理由はこれか。
元々俺たちとも深く繋がっていたのだ。突如行われたこの集会は、口止めも兼ねている。理解した瞬間、ドッと体力が削られたような感覚に陥った。
立つのも座るのも億劫で、部屋の中央のリングに寝そべる。汚いし固いが床よりもマシだ。
砂利が鬱陶しく肌を擦る。
全てが馬鹿らしい。手のひらの上で転がされるどころか、俺が勝手に無いものに怯えてでんぐり返っているようだ。
ぐわんと視界が歪んだ。
主要なメンバーがまだ何かを話しているが、右から左へ抜けていく。
俺はここにいるべきなのか。翼のそばにいるべきではないのか。何が正しいのか。思考だけがぐるぐると駆け巡る。
コツ、と頭に何かが当てられた。
「顔赤えぞ」
寝返りを打つと、そこにはペットボトルが置かれていた。そういえば、この暑い中密室でしばらく何も飲んでいなかった。
どうせ誰も俺のことなんて気にしない。後ろ向きな気持ちで静かに横たわった俺を気にかけてくれたのは、やはり黄栗だった。
慌てて渡された水を飲む。ぬるいが乾いた俺の身体には十分だった。
いつも通りちゃらけたポーズで誤魔化そうとしたが、心と身体の健康は繋がっているらしい。うまく言葉が出ない。
起き上がると、リングの正面に立っていた黄栗と目が合った。
他人を自虐に使うな。
本当にその通りだ。俺はまた無意識に、みんなの無神経さに甘えようとしていた。
顔に貼り付けかけていた笑顔を取り去って、あくまで正直であろうと意識をしながら淡々と告げる。
「彼女と喧嘩して、殴りそうになって、すんでの所でとどまったけど、コップ投げちゃって結局怪我させました」
内容はほとんど変わりない割に、普段と調子の違う俺に困惑した様子の一同に、今すぐ情けなく喚いて笑いを取りたい衝動に駆られる。
「終わってんなあ」
誰かの呆れた声が聞こえた。いつもならホッとする言葉なのに、どうしてか自分を否定された気分になる。他人に言わせるのではなく、相手から自然に溢れた言葉の方が、よほど制裁になるとやっと気づいた。
リングの上に一人、自分で登ったのに、まるで処刑台で晒し者にされているようだ。この後何か言えることがあるわけでもないのに、どうにも降りる気にならない。
大きなため息を吐いて、もう一度固いリングマットに横たわろうとすると、上から、場違いなくらい威勢の良い声が聞こえてきた。
「でもとどまりはしたんだろ? 成長じゃねえか! 東雲翼のことは、心の整理つけてゆっくり解決していけよ」
「そっすね」
リングロープを掴んで跳ね上がるように俺の目線まで上がってきた赤暮の笑顔が眩しい。こいつは俺と同じ場所にいながら、どこまでも純粋に人を肯定できる。彼だったら、翼のヒステリーにどう対応するだろう。うまく想像できなかった。
他人を他人に当てがっても仕方がない。
日焼けしそうなほど眩しい赤暮に慰められていると、突然、水を差すどころか氷柱を落とすくらいの勢いで、青葉までリング上に登ってきた。
「今初めて聞きましたけど、彼女さんのフルネーム、東雲翼ですか?」
人口密度が高くクーラーの効きにくい真夏の部屋で尚、マスクを外さない根性は見上げたものだ。同じ集団に属していながら、互いを唾棄すべき敵として扱っている俺たちが、喧嘩以外でこんなに至近距離で話す機会は滅多にない。つまり、ただごとではない。
「急にどうした」
何か引っ掛かったような青葉の表情は緊迫しており、晒された範囲が狭くとも真剣だということが分かった。
「多分小学校の頃、塾で一緒でした」
「え、塾なんか行ってたんか?」
赤暮が首を傾げる。俺も予想外の角度から判明した繋がりではあったが、それにどうして青葉はここまで顔を曇らせているのだろう。
「翼は行ってたな。中学受験してるから。でも、わざわざ新宿の方の頭いいとこ行かせてもらってたって」
勿論まだ知り合う以前の話だが、都心にある中高一貫の私立に進学したものの、女子グループとの諍いが絶えず、去年の渋谷での揉め事をきっかけに内部進学に見切りをつけて此方ヶ丘の高校を受験した。今は俺や赤暮の通う此方ヶ丘高校よりも少し偏差値の高い、西此方ヶ丘学園高等に通っている。
しかし青葉は俺と同じ中学出身だ。学年首席常連だった優等生の青葉が、ここから電車で手間をかけて塾に通っていたとなるといささか辻褄が合わない。
「こいつ、中学上がるタイミングで、都心から親の都合で引っ越してきたんだぜ」
俺の心境を察した赤暮が、言葉足らずの青葉の補足をする。
それならそうと説明をしろ。省くな。
無意識に睨みつけてしまったが、そんな俺など目に入ってもいないらしい。口元のマスクの位置を直すような仕草をして、「なるほど」と頷いた。
「何を納得してんだよ」
だんだん腹が立ってきた俺には一瞥もくれず、青葉が小さく手を挙げて夜空に問う。
「夜空さん、業者ってもしかして、表向きクリーニング屋か、ビル清掃業か何かじゃないですか?」
不意に放たれたその言葉に心臓が跳ねる。霧散した懸念が、まだ固まって一つになろうとしている。
「そうだよ。親会社は別だけど、近い所だと商店街の方にも店舗を構えてる」
「なあ、それって」
言葉が見つからない。一度そうかもと思ってしまえば、欠けていた部品が埋まるが如く、今度は否定の材料が失われていく。手が震えている。俺の方を見る赤暮の不安げな表情が、俺を惨めにした。そんな俺に、いけすかない低い声が追い打ちをかける。
「小学生の頃、東雲は虚言癖のある悪童でした。塾の先生も扱いに困っていたので記憶に残っています」
「虚言癖?」
子どもなんてみんな嘘をつく生き物だ。しかし歯切れの悪さと語気の迷いから、思っているようなあどけない嘘ではないのかもしれないと覚悟させられる。
脂汗が額から顔にかけてをつたって、リングマットの色を濃くしていく。
「自分は人を殺しているだの。実は親が犯罪者だの。あとは、天使がどうこう言っていたような気がしますが、俺は興味が無かったので詳しくは覚えていません」
それが全部、嘘じゃなかった可能性が出てきた。青葉が言わんとしていることがやっと嚥下できて、俺はぐちゃぐちゃになった内面を表に出すように、セットした髪に構わず頭皮を掻く。
「ちょっと、外の空気吸ってくる」
心配そうに俺を見る赤暮の姿が見えた。凍えきった場の空気はきっと、俺が去った後に赤暮がどうにかしてくれる。押し付けがましい信頼だ。そんな役回りばかりを任せて、赤暮をそういう奴にしているのは、実は俺たちなのかもしれない。
太陽が眩しいのではなく、俺たちが太陽を眩しがっているだけだなんて、おかしな話だ。
*****
基地の奥には小さな石畳と木材でできた階段があり、少し高台に行ける。此方ヶ丘北町を見渡せるこの場所は、夜空さんの実家が所有する山の関係者しか知らない。
時刻は午後六時五十分、日の長い夏場は大体七時をすぎると日没だ。
基地からの声が届かないくらいの距離まで登ると、少し開けた場所に出る。街の方向には比較的新しい肩丈の柵が並んでおり、文字の掠れた落下注意の看板が傾いている。
俺は柵に足と腕をかけて斜め下に広がる景色を眺める。夏場でも心地の良い風に身を任せて、しばらく現況と思考の整理をつけていた。
いつから尾けてきていたのだろう。軽快な足音が近づいて、ゆっくりと隣に立った。夕陽に照らされた金色の髪が、いつもより淡い光を纏っている。
「あたしにとって暴力は救いだ」
脈絡のない台詞だ。俺に一切気を遣わない不変的なそれが今はありがたい。物憂げに街を眺める彼女の言う『暴力』に、どんな意味が込められているのか。俺には想像する余裕がない。
「なあ、樋代、お前にとっての暴力は愛なのか」
「そんなわけない」
カッとなって感情が顕になる。柵を掴む手に力が籠る。
「こんなのが愛な訳あるか」
あってたまるか。望んだことなんてない。コントロールできない感情の波に、俺がどれほど思い悩んで、変わりたいとずっと思っていたか。
言葉にすると陳腐で安っぽい表現になる。全身を支配する葛藤を伝えられない歯痒さに唇を噛む。
暴力にまつわる俺の全てを、愛だなんて綺麗なものに形容したくない。暴力は、忌むべきものだ。翼にとっても俺にとっても、必要のないものだ。
「俺にとって暴力は、制するべきものだ」
随分と時間をかけて答えた。その間、黙って陽を浴びていた黄栗は、納得したように俺を見てケタケタと笑った。
「なら、正しいのはお前かもしれないな」
「何の話?」
「いや、なんでお前みたいな奴が、不良なんかやってんだろって」
話の流れが見えなくなった。不良がみんなお前みたいな異常者でないとやっていけないとでも言うのか。基準値をバグらせないで頂きたい。もっとハードルの低いものというか、いつのまにかなっているもんだろう。不良なんて。
そう言うと、黄栗はさらに大きな声で笑った。
「会ってみてえな、その翼って女に」
「あんまり相性良くなさそうだけど……」
「かもなあ」
心なしか、黄栗の雰囲気が少し柔らかい。彼女の眼は不思議だ。俺とは見えている世界の価値が違うのかもしれないと思わせる。全ての物をくだらないと見離すような暗い光を湛えながら、目に映る物全てがおもちゃにでも見えているような好奇心の鋭い光が宿している。
こいつには、この街がどんな風に見えているのだろう。
「そろそろ行くわ、この後青葉と駅で待ち合わせてるから」
「なあ、駅まで一緒に行っていいか」
「いいよ。近道するけど」
鋭い目をぱちくりとさせてから、黄栗は笑った。その時、俺はすっかり絆されて、この女の本質を見失っていた。
朝見黄栗という女は、結局、誰よりも狂っているのだ。
次の瞬間には、黄栗は柵の上に立っていた。そして俺が声を上げる間もなく、彼女は不揃いに生えた木に手をかけながら、幹と幹の間を軽々と抜けて、山の傾斜を滑り降りて行った。
「いいよって言ったのに!」
いつか赤暮と動画サイトでみて興奮したスポーツのパルクールのような計算された動きではない。不規則で雑な足運びで、金色の化け物は命知らずに落ちていく。
ハラハラと動向を見守っていたが、やがて土を滑る音が止んだ。無事に地上に降りられたのか。柵から身を乗り出してみるも、木々の枝が邪魔でよく見えない。
「黄栗!」
名前を呼んでも返事は聞こえない。
少し離れた柵がカアンッと音を鳴らした。反射的に柵から飛び退くと、先ほどまではそこになかった手のひらに収まるくらいの小石が転がっていた。
声が届かなかったから、代わりに麓から小石を投げてきたらしい。発想が人外すぎる。当たっていたらどうなっていたかと肝を冷やす。
正面からの西陽が地平線に沈み始めた。遮るもののない山の上、ぬるい風が俺を包む。人の手の入っていない荒野のような山の斜面に、ごくりと唾を飲む。
相変わらず、黄栗の起こす危険は魅力的だ。目の前で不可能を可能にされてしまったら、自分にもできるかもしれないと無謀な期待を抱いてしまう。現に恐ろしかったこの山が、心躍るアトラクションのように思えてきている。
赤暮なら、黄栗の身を案じながら一緒になって降りていきそうだ。
俺もあんな風にできるだろうか。黄栗のように、自由に、楽しそうに、迷わず、生を実感して動いてみたい。
どくんどくんと、心臓が強く脈打つ。
「いや普通に無理! 階段で降りるからそこで待ってろ! 馬鹿野郎!」
吐き捨てて、来た道を引き返す。
海での一件は確かに楽しかった。しかしそれ以上に後悔も多かった。俺は反省を生かして成長する人間なのだ。
黄栗みたいな化け物と同じ土俵には立てなくて良い。
俺は赤暮ほど器量のある特別な人間ではないから、他人の全てを受け入れて肯定することはできない。
非日常への入り口に背を向けて、普通の道を走っていく。何もおかしくはない。だって俺は普通の人間なんだから。
勢い任せに出た最後の一言が黄栗に聞こえていないことを願う。
背後では延々と水が噴き上がっては溜まり、また循環している。昔から、この不毛な飾りの存在意義が理解できない。眺めていても待ち合わせの時間潰しにすらならない。
でも、あたしは無用の長物が好きだ。必要なものだけを拾って生きていく人生なんて面白味がない。
無駄には無限の可能性がある。今この瞬間、あたしが意味を与えてやることだってできる。なんて夢があるのだろう。
オブジェの縁に腰掛けて、駅前の街灯の光を反射して無駄に輝く水を見ていると、いっそ暇つぶしに飛び込んでやろうかという気持ちになる。しかし、この後の行き先を思い出して踏みとどまった。
久しぶりに赤暮の家へ遊びにいく。喫茶店を経営している赤暮の家族は、あたしと青葉のこともよく知っていて、閉店後の一席を使うことを許可してくれている。なんなら時々ケーキとか飲み物までご馳走になってしまう。赤暮の部屋は壁が薄いから、あまり集まらないようにしていたのに、あたしや青葉の家に来てばかりでは悪いからと逆に気を遣わせてしまった。だがまあ、良いと言うのなら心置きなく騒ごう。
それにしても青葉が遅い。閉店の時間まで各々時間を潰して駅前広場に集合と言ったのはあっちだというのに。自他共に認める几帳面な性格のあいつにしては珍しいことだ。何を奢らせようか。
「こんばんは」
「ん?」
明らかに待ち人とは違う高い声が聞こえた。顔を上げると、どう見ても自分に話しかけてきている。だが、その姿に見覚えは全くない。当然人違いを疑うが、女は聞いてもいないのに馴れ馴れしく喋りかけてくる。
「ああ、ごめんね、急に話しかけて、人を待ってるんだけど、この時間なのに寝坊しちゃったみたいで全然来なくて。貴女、学校で見たことある顔だったからつい」
「ふーん、別にあたしも暇だからいいけど」
ぶっきらぼうに答えると、女は顔を赤らめて笑った。
「さっき一緒にいた男の子、格好良いね。彼氏?」
聞きながら、自然な身体運びで隣に座る。フリフリの多いスカートが揺れる。よく見れば、全体的にゴシックロリータっぽいというか、暗い色合いの洋服を着ている。
一緒にいた男というのは、ピエロの基地から一緒になった樋代のことを指しているのだろうか。急に人を馬鹿野郎呼ばわりしたと思ったら、息をゼェハァさせながら階段を駆け降りてきた。あたしの中でのあいつは、今のところ「ちょっと変わったまともなダチ」だ。
「違う」
「そうなの? じゃあ、今待っている人が彼氏さん?」
「違う。彼氏いる前提なの何」
どうしてこう、人は愛だの恋だのに結びつけて物事を図るのか。鬱陶しいことこの上ない。その気持ちが分からないでもないということが、もっと解せない。
「ごめんごめん。ただの雑談だよ」
「ふうん。で、用はなに?」
「え? だから、特に用事があって声をかけた訳じゃないの。たまたま……」
退屈な時間を埋めてくれるのかと期待したが、そういうわけでもなさそうだ。白々しいその態度に回りくどさを感じる。無駄は嫌いじゃないが、面倒は嫌いだ。
「てか、学校違うだろ」
虚を疲れたような顔で、何か言い訳をしようと開きかけた女のグロスでテカテカの口を、遮るようにして圧をかける。
「あたしは学校じゃウィッグかぶってスカート丈伸ばして喋り方変えて清楚に茶道部員やってんだよ。クラスメイトでもねえ奴が外で声かけてくるわけねえっつの」
教師に目をつけられるのも面倒で始めた高校デビューだったが、赤暮と青葉と行動を共にしている時点であまり意味を成していない。ただ、学校の中でも外でも大人の監視があって窮屈だった頃と比べたら、メリハリをつけて負担は半減だ。
少なくともこの半年間は上手くやれていた。顔も名前も曖昧な同級生が、あたしの素性に気づくとは到底思えない。こんな炙り出しにも役立つなら、このまま二学期以降も続けてみよう。
あたしの言葉に目を見開くも、女はすぐに調子を取り戻してのらりくらりとしている。
「ふーん、ごめん、じゃあ人違いだったかも」
「しらばっくれてんじゃねえよ」
言葉の節々に、ほんの少しだけ怒気をはらませてみる。ぴくりと女の口角が歪んだ瞬間を見逃さなかった。
「ごめんって。そうだ。お詫びにこれあげるよ。さっき近くのケーキ屋さんで買ったメレンゲクッキー! これほんと美味しいからおすすめだよ?」
「いらねえ」
甘いものは好きだが、得体の知れない女から貰うものを口にする馬鹿がどこにいるのか。
「そんなこと言わずに、ね?」
そう言うと、女はゴテゴテと飾りのついたピンクのハンドバッグを探り出した。
一瞬視界の端で光るモノが見えて、条件反射的に手が動いた。バッグから何かを抜こうとした細い手首を、反射的に逆手で掴む。
声を上げるのにも構わずベンチに押し付ける。その衝撃で自分と彼女の間に落ちたモノは、果物ナイフだった。手軽に持ち運び可能、使い勝手も良く、入手も簡単、殺傷能力と釣り合いの取れない見慣れた武器だ。
暴れた拍子にめくれたスカートの隙間から見えた生白い足には、何か鋭利なもので切ったような点線の瘡蓋があった。
「翼ってあんたか」
「離して」
「無理だな。多分当たりはしないけど、手加減ミスってうっかり刺し返しちまうかもしれねえし」
「ふざけないで」
喧嘩慣れしている様子はないし、力も弱いから抑え込むのは簡単だが、噴水のおかげで死角になっているが、水のカーテンの向こう側には交番がある。騒がれると面倒だ。ナイフを持った翼の腕ごと自分の身体で隠す。
至近距離で見る翼の顔は、実際の肌以上に白い粉で塗りたくられていて、赤く彩られた目元だけが妙に印象的だった。怒っていてもこれは美人だ。樋代が振り回されるのも無理はないなと呆れ気味に思った。
そうなると尚更この襲撃は腑に落ちない。
「なんであたしを狙った?」
「言う必要ある? とっとと刺せば? それとも殴る? 大人からはどう見えるだろうね」
なるほど。不良に絡まれた被害者の構図が出来上がるわけだ。安直だが悪くない嫌がらせだ。警官に顔は割れているし、最悪前科がつく。
「なあ、一回落ち着いて話さね? こっち別に敵意ないし、刺される心当たりも正直ないんだけど」
「馬鹿言わないでよ」
あたしの腕をどかそうと、興奮した翼は空いている左手で顔を殴ろうとしてきた。身体を後ろに少し倒しただけで交わして元に戻る。翼の右手を掴む手にグッと力を込めると、先ほどよりも鋭い視線で睨まれた。
「やめといたら? 手、震えてるじゃん。人なんか刺したことないだろ」
「あるし」
眉間に皺を寄せて何かを堪えている。あ、泣くかこれ。注目を集めるのはまずい。正当な理由があるなら別に刺されても文句は言わない。刺し返しはするかもしれないけれど。そう伝えると、大変怪訝な目で見られた。
「シロ君に近づかないで」
「テンプレートなこと言うなあ」
「貴女、ピエロの中じゃ一番強いんでしょ。一番みんなから尊敬されてて、いっつも周りに男侍らせて、他人の迷惑なんか考えず、好き勝手やって生きてる」
「ああ、へえ、そんな認識なわけ」
表現に悪意は感じるが、概ね否定はしない。つまり、生き方が気に食わないと?
「シロ君のことを利用しないで」
「利用?」
「シロ君はね、普通の人なの。貴女みたいな非日常の塊に気に入られて、調子に乗っちゃう凡人。貴女がいると今の、私のシロ君がいなくなる」
「あー?」
自慢じゃないが感覚派なのもので、普段使わない脳味噌をフル回転させても翼の言い分が理解できない。想像も交えて考察するが、おそらくこれはあれだ。嫉妬か。
「誤解してるようだから若干クサいとは思いつつ言わせてもらうけど、シロのことは普通に仲間だと思ってるよ」
「貴女の気持ちなんてどうでも良い」
それはそうだ。いらんこと言った。
「お前の話も聞いてるよ」
「私の話?」
お、食いついた。なんだか選択肢をミスったら終わるゲームをしているみたいだ。メンヘラ攻略ゲーム。既にどっかにありそう。
「お前にしてること、あいつは毎回わざわざ報告してくんだよ。やったこと後悔してるから、誰かに責めて欲しいんだろ。あと、自分じゃどうにもらならないから周りに尻叩いてもらおうって」
仕方ない奴だなあ。みんなが気付いていないってことも知らないんだろうな。本当、食えない捻くれ者の集まりの中であいつはまだ可愛げがあるよ。
「だからなに」
「つまりあれだろ、ちゃんと好きなんだろお前のこと。愛ってやつだろこれが」
「そんなの関係ない!」
耳がきんとした。うちの母親のヒステリーといい勝負だ。どうやらあたしの精一杯の考察は外れたようだ。ただ、樋代の話を聞いて感じていた違和感に対するもう一つの見解は当たっていたのかもしれない。
「やっぱりそうだ。あんた達のせいでシロくんは!」
測ったかのようなタイミングで、それまでカモフラージュになっていた噴水が止まった。翼の吐き出しそびれた言葉を、代わりにあたしが奪い盗る。
「まともになっちゃった?」
気を遣って他人に聞こえないくらいの音量で囁くと、彼女の表情が固まる。ヒステリックな喚きも止んだ。大当たりの反応だ。
「ああやっぱ、歪んでんのはお前の方だったか」
刺してきた時点で大方そうだろうとは思っていたが、この女は行動の愚直さに反して、考えていることが狡猾だ。そして樋代の真人間っぷりは周知の事実、類い稀なる普遍性を持つあいつが持て余す衝動を、彼女は完全にコントロールできている。
大体腹が立ったら殴ることにも、都合よく進めないから暴れることにも、不思議なことなど一つもない。普通じゃないか。そんなことであそこまで深刻に悩むなんて、どこまでも平和な野郎だ。
あいつは一体何人の手のひらの上で転がされる運命にあるんだろう。目の前の女と、自分のボスの姿を想像してため息が出る。
「お前らの恋愛を否定する気はないけど。樋代には同情するわ」
「思ってたより正しいことばっか言うんだね」
言い当てられて逆上するかと思いきや、翼は案外落ち着いていた。泣き出しそうな気配もないが、どこか哀しそうな目で腕の力を抜いた。
水は止まった。彼女はわかっているのだ。もう、醜い言葉を隠してくれるものは何もない。
「もういいや」
拘束していた手を解放すると、翼はすんなりと果物ナイフをハンドバッグにしまった。そして何事もなかったのように立ち上がり、スカートの土埃を払うと、厚底ヒールの音を鳴らして帰路へと歩み出す。その時、背中を初めて見たが、翼は背中に飾りのついた変わったサスペンダーをしていた。
暇潰しには良い刺激だった。少しだけ名残惜しくその小さい背中を見送っていると、数歩先でこちらを少し振り返った。
「一個だけ訂正させて」
返事の代わりに微笑みを向けると、あちらの口元も緩んだように見えた。
「人、刺したことあるよ」
通りすがった会社員がちらっと翼の方を見たが、訝しむだけで歩幅を緩めることなく駅の方へ消えていく。
表情は見えなかった。感情を殺した声で、女は最後にそう言い残して、高いヒールを鳴らして町の雑踏の中へと消えて行く。
天使の羽を揺らしながら、悪魔は雑踏へ消えていった。
面白い女だなあ。
それにしても、青葉はまだだろうか。
早く来ないかな。
私には好きなものがたくさんある。
お掃除とお料理が好き。家族とシロくんが喜んでくれるから。
真っ黒なお洋服が好き。うっかりついちゃった仕事中のシミも目立たないから。
匂いのきつい香水が好き。死臭と薬品臭が紛れるから。
翼っていう名前が好き。私の憧れてやまない天使そのものみたいな響きだから。
お仕事が好き。昔から細かい作業が得意で、初めて作業場に忍び込んで部品の仕分けをした時も、見様見真似で上手くやれていた。
酸性の調味料と刺激的なスパイスをたっぷりと。この具材はそのままにしておかと腐敗ガスが蓄積されていってしまう。ガス抜きの為に細かく刻んで、魔法の液体に入れて少し時間を置く。
最後に、社員さんに車を出してもらって、世界で一番大きな水槽に収まった塩水につけにいく。
落とす順番には重さや薄さが重要だから、見極めが難しいのだ。その現場は数年毎に変わるが、直近で処理していたところをシロくんたちに目撃されてしまったらしい。あの時ばかりは、施設のスケジュール把握を怠った社員を恨んだ。噛みすぎて親指の爪の中にできたあざが手袋越しに痛む。
仕事の後はシャワーを浴びる。この後は大好きなシロくんとビデオ通話をするから、スキンケアにもお化粧にも時間を割いて、いっとう綺麗な私を見てもらおう。
シロくんのことが好きだ。この世界で一番好きだ。
彼は誰よりも天使に近い存在だから。
「もしもし、シロくん? バイト終わったよ。すっごい疲れたあ」
「お疲れ」と優しく声をかけてくれる彼は、きっと気づき始めている。知られたくない私の秘密に、彼はなんて言うだろう。
私はシロくんの正しさが、怖い。
おんなじところにいて欲しい。
でも、シロくんが変わってしまうのも嫌だ。
電話の先で、シロくんはピエロで起きた愉快な出来事や、後輩の悪ふざけが面白かった話など、なんとはない1日の報告をしてくれる。そこにあの女の名前は一度も出てこなかった。
「へえ! そんなことがあったんだ」
黄栗と言う女は、思っていたより分別があって、私がどうこうできる存在ではなかったし、シロくんをどうこうする気はなさそうだった。あそこまで極端にイカれているなら、きっとシロくんのまともな感性は勝手に制御を効かせてくれる。
私はいつまで、こうして彼を縛るのか。これは間違った行いなのか。私は、天使になれるのか。
考えてもわからないことを、夢見るように、ずっとずっと考えている。
『良いおこないをした人はね、死んだら天使になれるんだよ』
大の仲良しだったひいおばあちゃんが、死んじゃう前にいつも言っていた。
辿る過程がどんなに曲がりくねっていてもいい。
最初と最後を繋いだ時に、美しい直線が描ければそれでいいのだと。
天国のひいおばあちゃん、私は、まっすぐ進めていますか?
○○○○○
深夜二時、翼との長電話を終えた頃、珍しくインターホンが鳴った。見たばかりの時計を確認して瞠目する。悪戯だろうか。なるべく音を立てないように玄関へ向かい、覗き穴を見ると、絶対にいるはずのない人物が居心地の悪そうな顔で立ち尽くしていた。
「すみませんでした」
武器を警戒してチェーン越しに玄関を開けると、第一声はそれだった。
「あ?」
堂々とした襲撃かと、後ろ手に通報用のスマホを隠し持っていたが、毒気を抜かれてしまった。どう反応していいか分からない完全にオフ状態の俺に、いつも通り眼鏡とマスクで万全装備の青葉は苦々しい声で説明し始めた。
「赤暮が、落ち込んでる時に、無神経だって」
聞くと、夕方に俺が目に見えて調子を崩している中で、翼の小学生時代の話を軽率にしたことを赤暮に咎められたらしい。心当たりがあったとしても内容とタイミングをよく考えなさいと、翼さん本人にとって都合が悪い情報を他人の青葉が流して撹乱させてはいけないと、全くの正論だが、赤暮はお前の親か。
「え? そんなことのためだけにここまで来たのお前」
素直が過ぎる。俺のこと大嫌いな癖に、赤暮に言われてその足で謝罪にここまで来たという謎の行動力には脱帽する。
「でも赤暮が早いほうがいいって」
「赤暮赤暮って、そればっかだなお前」
「黄栗も、あれはお前が悪いって」
普段の気に食わない上から目線が、心なしかしょんぼりと猫背になって鳴りを潜めている。とりあえず敵意はなさそうだし、深夜の玄関先で喧嘩になっても今後の生活に影響しそうなので、本当に渋々家の中にあげることにした。
「水しかねえけど」
本当は紅茶やらコーヒーやらもあるが、この男のために手間をかけて飲み物を用意するというのは癪だった。ローテーブルに案内して、キッチンの棚からグラスを二つ取り出す。
長い脚を綺麗に畳んで座っている青葉に「ほら」とグラスを差し出す。無言のまま受け取り、マスクを顎まで下ろし、一口だけ飲む。そしてまた、マスクをしっかり鼻上まで戻す。
謝りに来ただけにしては、変に緊張感がある。俺の直感は正しかったようで、青葉は正面に座った俺に向かってこう告げた。
「俺と『取引』をしませんか」
『取引』とは放任主義を掲げたピエロに唯一存在するルールのようなものだ。文字通り、互いの利益や目的のために双方の主張を取り入れあって妥協することだ。しかし、その言葉を使ったやり取りは、決して他人に漏らしてはいけない。
取り決められた契約は、破られてはいけない。明かされた秘密は、墓場まで持っていかなくてはならない。
おそらく夜空さんが発祥の、儀式めいたその単語は俺たちの中では神聖視されており、仲間内での軽口にさえ含まることはない。
暗黙の了解だが、ピエロのメンバーは加入する際に必ず夜空さんと何らかの『取引』を交わしている。
言葉にすること自体が本気の証であり、彼は今、相応の覚悟を持って俺に声をかけてきたことになる。
「お前が俺に何をしてくれるって?」
「君の知らない、東雲翼の秘密を教えます」
本題はこれだったようだ。下手に出て油断を誘い、懐に入り込むとは、姑息さに舌打ちが出る。時計の進む音だけが響く。
「俺には何を望む? 過去の清算でもしようってか。その壁越しに」
煽るように吐き捨てると、青葉は押し黙った。しかし、やがて覚悟を決めたように、シルバーフレームの眼鏡を外し、かしこまって正座した膝の上に置く。
青葉は目が悪くない。アレルギーがあるわけでもない。過去のトラウマから、他人に顔を見られることを極端に嫌っている。そしてそのトラウマを作った出来事の原因となったのが、中学生の俺だった。
わざとらしい仮面を身に付けて他人を拒絶し続けるこいつが目に入るたびに、思い出したくもない過去の自分の過ちが一生纏わりついてくる。
眼鏡一つなくなっただけで、青葉は今にも吐きそうな顔で、俺と目を合わせようとしない。できないのだろう。
俺とこいつの時は、あの日のまま止まっている。
誠心誠意謝って反省の色を見せたとして、きっと青葉は俺を許すだろう。警戒心が強くて聡明なようでいて、その本質は真水みたいに純粋な奴だから、時間をかけて俺を仲間にしてくれる。
俺は青葉に許されないことをした。たとえ『取引』でも、許されるつもりはない。
「許すつもりはないです。ただ、ここらでケジメはつけておくべきでしょう」
どうやら過去の話をしたいわけではないらしい。若干呼吸が荒くなってきた青葉に、膝の上に置かれた眼鏡を押し付ける。
「俺は夜空さんを信頼しているので、君が同じ集団に所属していることに対して文句はありません」
含みのある言い方だが、揚げ足をとっていては話が進まない。文句を水と一緒に飲み込んで先を促す。
「結局お前の要求は何?」
「赤暮の恩恵を受ける人間は多い。それ自体はあいつの才能だから、赤暮の光が弱まらない限りは容認できる」
俺はこの回りくどくて小難しい言い回しが鼻について仕方がない。
「赤暮信者が、気持ち悪いんだよ。つまり赤暮に近づくなって言いてえんか? お前はあいつの彼女かよ」
「赤暮の望んだ関係に口を出すつもりはない。でもお前は赤暮の光を吸い取って、利用しているだけだ」
そう言って、青葉は普段以上に鋭い眼差しで俺を咎める。図星を突かれた俺は何も返せない。否めないけれど、致し方ないとも思った。
完敗だ。こいつは本当に赤暮が大事なんだろう。並々ならぬ感情を抱く親友が俺に良いように利用されている姿を見て、黙っていられなかった。
基地でのやりとりを思い返してみても、青葉が絡んでくるのは決まって赤暮と一緒にいる時だった。こいつには俺がどう見えていたんだと、想像して頭を抱える。
今回ばかりは俺が折れようと思った。
「あー、赤暮のそばってさ、妙に生あったかくて、居心地が良過ぎるんだよな」
いつも俺の澱んだ気持ちを晴らしてくれる、赤暮の大口を開けた笑い顔を思い浮かべる。青葉は利用なんて可愛い表現をしたが、俺が彼に抱く気持ちはもっと酷く醜いものだ。嫉妬と羨望が入り混じって、いつのまにか、信頼できる仲間としての彼よりも、都合の良く動いてくれる存在としての彼に寄りかかっていた。
自分の思考を客観視する事自体は癖になりつつある。赤暮への態度だって、今日昨日に気づいた話ではない。自覚があったからこそ、真に赤暮のことを想って俺に挑んでいた青葉へ向ける顔が見つからなかった。本当に俺の周りの人間は眩しい。
黙り込んだ俺が何を考えているのか、どうせ分かりもしないのに、目の前の馬鹿は真剣な顔で言葉を選んでいるようだった。もとより良い空気とはとても言えなかったが、この雰囲気を打開するには、流石に俺の方が何かしらのアクションを起こさねばならない。
「あんたのそばをあったかいって思う人も、どっかにいるんじゃないですか」
当てずっぽうな言葉の筈だった。でも、強い既視感を覚えて、俺の記憶の中にある翼のカケラを掬い上げた。
「シロくんのそばにいると安心するの」
「シロくんの手はあったかいね」
「小日向樋代って、シロくんって感じの名前だよねえ」
「シロくん。ありがとう」
記憶の中の翼はどれも笑顔だった。
最近は彼女のことを考えるたびに、苦しそうな表情ばかりが浮かんできてつらかった。もしかしたら、俺は翼にとって、眩しいって思ってもらえる存在になれていたのかもしれない。それなら、翼を救うこともできるのではないか。そんな淡い期待を再び抱く。
「お前ってムカつくけど、良い奴だよな。だから嫌いなんだけど」
「は?」
今日見せた色んな表情の中でも、一際腹の立つ顔だった。相手を忘れて口走ったことを少し後悔する。
「褒めてんだろ。俺に好かれたいわけでもあるまいし」
「まあ」
こいつは本当に、素直ならなんでも許されると思っている気がする。どうせこの先他人に明かすことのない因縁云々は置いておいても、俺たちは根本的に相性が悪いのだ。
「許すなよ。お前は俺を一生恨んでろ」
「面倒くさい人」
「てめえ」
そして、俺は東雲翼に関する全てを知った。夜空さんの人脈をフルに生かした青葉の情報網は侮れない。この町であの人に隠れて悪いことはできないなと思った。
青葉は最後までムカつく台詞を俺に放り投げながら、玄関で「お邪魔しました」と、少しだけ目元を緩ませて帰って行った。
そのあと俺は、寝て、起きて、何もせずにぼーっとして過ごした。
夜、いつものように翼が俺の家にやってきた。俺は通常運転を心がけたつもりだったが、翼には様子が違うことがお見通しだったらしい。かける言葉は数えきれないほど用意したのに、いざ本人を前にして何も言えなくなった俺の顔をじっと見て、翼は全てを悟ったように笑った。
ベッドの上で二人、寄り添いあって座る。外は雨が降っていて、窓を叩く雫の音が遠くに聞こえた。
ガラスに映った俺たちはまるで泣いているようだった。
「翼がしていること、俺はもう全部知ってる」
「そっか」
翼との沈黙が苦ではなくなったのは、付き合ってどのくらい経った頃だっただろう。最初は俺の方が話題を振っていたのに、いつからか翼が飽きずに俺に話しかけてくるようになった。初めて俺の前で泣き喚いた時は、隙のない雰囲気のあった翼が弱みを見せてくれたようで少しだけ嬉しかった。どんなに慰めても泣き続ける姿に俺の方まで不安になって、抱きしめても震え続ける背中を守りたいと思った。
涙の原因を知りたくて、でも教えてくれなくて、いつからか苛立ちが勝るようになっていった。
俺たちにはきっと、この穏やかな時間が必要だった。
黙っていても、互いの考えていることがわかるようになれば良いのに。自分のことは嫌になる程よく見えるのに、相手のことは未だにわかってやれている気がしない。だから、まだ遅くはないと信じて、翼の口から聞きたい。
「俺にできること、ある?」
「全部忘れて、一緒にいて欲しい」
ただひとこと、助けて欲しいと言ってくれたら、俺は全力で翼をそこから連れ出すのに、翼は多くを願わない。何も聞かなかったことにして、果たして俺たちは先に進めるのか。
いつのまにか、俺も翼も本当に涙を流していた。
「俺さ、お前とおんなじことしてた」
翼はただ、黙って聞いていた。指を絡めた手のひらから、少し低めの体温と落ち着いた鼓動だけが伝わってくる。
自分の衝動を抑えられず、軽はずみに醜態を晒して他人に責めてもらうことで自己満足な精算をした気になっていた。
同じように、敷かれたレールから外れることもできず、裁かれない自分の罪に苦しみ、俺に殴られることで安息を得ていた。
「もうこれ以上、罪を犯さなくていい。俺が一緒に行くから、やめさせてくれって頼もう。無理なら、逃げよう」
翼が大きな目を見開くと、その拍子に大粒の涙が溢れた。嗚咽を漏らす翼の手を握り、背中をさすってやる。こんなに細い腕に、小さな身体に、どうしてあんな悍ましい仕事をさせられる。翼のしてきたことは重い。俺と二人でも、きっと抱え切れる業ではない。それでも、共に背負っていく覚悟がある。
けれど、翼を縛る鎖は一つや二つではない。
「お母さんとお父さんとは、関係が悪いわけじゃないの。いつも、普通に仲良しで、お仕事が上手くいったらちゃんと褒めてくれるよ。私、ちゃんと愛されてる。二人を置いて逃げるなんて」
「そんなの愛じゃない。本当に翼のことを想っているなら、家族なら、人殺しなんて止めるべきだ」
家族には様々な形があると、俺は身をもって知っている。だからこそ断言できた。
「人を殺したことはないよ。私のとこには、生きた人は降りてこない」
それでも、人の命を粗末にする行為に変わりはない。翼を責めるような言葉を選びたくなくて、口を噤む。それが人の道を外れた行為だということは、翼が一番分かっているだろう。
「ねえシロくん、私、天使になれるかな」
良いおこないをした人はね、死んだら天使になれるんだよ。それは翼の名付け親である彼女の曽祖母の口癖だった。翼はその御伽噺が大好きで、同時に恐れてもいた。
悪いおこないをした人は、何にも残らず、海に変えるだけ。聞くたびに不思議な話だと思っていたが、今ならその意味がよくわかる。
不安気に震える翼の唇に、俺はそっと顔を寄せた。
「翼、お前が何になっても、俺がいるよ」
この歪み切った関係性に終止符を打って、お互いを支え合える真っ当な恋人になろう。そしてずっと一緒にいよう。空でも海でもどこにだってついていってやる。
×××××
まだ生暖かい素材が専用の寝台に横たわっている。
微塵も可愛くない、ゴーグルと防護服で全身を真っ白にして、必要な道具を並べ始める。仕事は、勉強や運動と違って、考え事をしながら作業ができるところも好きだった。
俺にできることがあるかとシロくんは聞いてきた。
私は本当に、何も無かったことにして、これまで通り一緒にいて欲しかった。
シロくんは正しい。
不良なのに、成長の過程で身に染みた常識と持って生まれた感性が彼を圧倒的に正しくする。
私達の年代であれば、非行も反抗も珍しい行いではない。シロくんは良くも悪くも普通の人間だ。それが羨ましくもあり、憎らしくもあった。
私とおんなじことをしていたと吐露したシロくん。黄栗が言っていた通り、シロ君は私への行為を心から悔やんでいた。とても嬉しい。けれど、おんなじだなんて見当違い。
暴力は、正しいシロくんが唯一間違っていると思わせる。私は安心したかった。シロくんがまだ天使ではなくて、愚かしい人間だと実感できた。
一緒に逃げてくれるという言葉は嬉しかった。何も分かっていない癖に。出会った頃と変わらない正義の味方のシロくん。綺麗な世界を生きる君には、私の願いは届かない。
そんなものは愛ではないと、シロくんは言った。私は親に愛されていなかったのだろうか。
シロくんの家族は少し変わっている。お母さんが一人いて、お父さんがいっぱいいて、お姉ちゃんが三人いて、妹さんが一人いるらしい。家に居場所がないからと、親元を離れて暮らしているけれど、彼はそれでも家族を尊いものだという。
やっぱりわからない。シロくんがわからない。
だって私、お仕事の何が悪いのか今もわからない。悪いことだということは情報として頭にあるのに、本当の意味で納得はしていない。
幼い内から職場の人間の誰よりも手際が良くて、両親は私の解体処理技術を才能だと言って褒めた。
世の中には沢山の仕事があって、人には十人十色の適材適所がある。それに一生辿り着けない人間も多い中、親に用意された道を歩むことに反発する者もいる中、子どもの頃から進むべき道が定まった人間だということを、私は誇らしくさえ思っていた。
仕事の作業を嫌だと思ったことはない。誰かがやらねばならないことだ。たまたま自分だっただけ。
両親は私に仕事を強制したことはない。あと、本当に人を殺したことはない。人殺しは悪いおこないだから。
シロくんと出会うまで、私はひいおばあちゃんの言った『良いおこない』をしてきたつもりだった。
私はただ、天使になりたかった。
もしも私が一度でも、やりたくないと我儘を言えていれば、何かが違ったのだろうか。
それとも結局、私は根っからの……。
私にとって正しさの象徴だったシロ君。君が私を歪んでいると言うのなら、きっと私はもう天使にはなれない。
「ねえシロくん、私は天使になれるかな」
私がそう聞くと、夢の中のシロくんはいつもこう答える。
「お前は天使なんかにはなれない」
現実でその言葉を聞くことがずっと怖かった。でも本物のシロくんは、簡単に答えを与えてくれるようなことはせず、私に愛を誓ってくれた。
絶望の淵を彷徨う私は、現実のシロくんによって垂らされた一本の糸を希望にして、その日も手癖で仕事を進めていたつもりだった。
そしたら、私一人しかいない作業部屋から聞こえる筈の無い声が聞こえた。
喘ぐような、呻くような、醜い声だった。
ああ、これは、まだ、素材じゃない。私が手をつけてはいけないものだ。
もの、物、モノ? 違う。物じゃない。
いつからだろう。人のことを、モノとしてみるようになったのは。
カシャンと、道具の散らばる音がした。
こんなの、ほんとに。
「歪んでる、私」
震えた手をぎゅっと握り、私はシロくんの言葉の本当の意味を理解した。
○○○○○
いつまで経っても既読のつかないメッセージに、酷く胸騒ぎがして、翼の実家へ足を運んだ。
その日は台風が近づいてきていて、傘もさせないほどに雨風が強かった。不安に支配された身体は、駅から商店街までの短い距離を永遠にすら感じさせた。
シャッターの降りた臨時休業中の店の前で、びしょ濡れになって立ち尽くす。
すると、シャッターが開き、四十代と思しき女性が外に出てきた。
「あなた、もしかしてシロくん?」
どこか既視感のある目元を真っ赤に晴らした彼女は、俺の顔と名前を知っていた。
彼女は俺を見て、痛々しく微笑むと、一度店の奥に戻り、タオルを持ってきてくれた。
そして、黙ったままの俺に、何度も何かを言おうとしては、飲み込んでといったことを繰り返した。
自分の母親くらいの人が、こんなに苦しそうな顔をしているところを初めて見た。
やっと音になった彼女の言葉は、雨と車の通り過ぎる音に邪魔されて聞き取りにくかった。だが、俺の耳はその事実を鮮明に掬い上げる。指先一本も動かせなくなった俺の様子を見て、聞こえなかったと判断したのか、翼の母は、もう一度俺を地獄に突き落とした。
「……翼は」
それが何を指すのか、過去の自分の発言を後悔しても、もう遅かった。目の前が真っ白になるなんてことはなくて、視界がやけに鮮明だった。
「もう、いないの」
この人に話したいことが色々とあった筈なのに、痩けた頬と腫れた目元が、彼女の精神状態を暗示していて、俺は何も言えなかった。
せめて何か声をかけるべきだ。でも、俺はどの立場からものを言える。俺以上の時間を一緒に過ごして、人生をかけて育ててきた人に対して、一体何が言えるのか。共に涙を流す資格があるのか。ましてや、どうしてだなんて傷口を抉るようなことを、聞けるわけがない。
少なくとも目の前で涙を流すこの人は、普通の、一人娘を愛する素敵なお母さんだ。
この優しい人を前にして、それまで烏滸がましくも翼の唯一だと勘違いしていた俺は、一気に他人の位置までたたき落とされた。
俺は翼の最期に立ち会うことも、その理由を知ることも許されない、ただの部外者だった。
どこまで行っても、誰にとっても俺は、蚊帳の外だったのだ。
*****
翼がいなくなって一ヶ月が経った。
俺の生活は驚くほどにいつも通りだ。
勉強を始めて十分で飽きたり、後輩をパシらせたり、知らない女子高生の写真を撮ってやった流れで連絡先を交換したり。起きて支度して学校へ行って、授業中に少し居眠りをして、昼休みには友人と購買に行って、放課後は駄弁って、家に帰って軽く寝て、夜にはピエロの溜まり場で馬鹿騒ぎをして、家に帰って家事を済ませて、過ぎ去る時間に目を止めることもなく、息を吸って吐いて、寝て起きて、食べて、歩いて、だらけて、ひさしぶりに喧嘩をしてみたり、仲間に勧められた漫画を読んでみたり、音楽を聴いたり、青葉とまた言い合いになる。赤暮とゲームをする。黄栗と木に登る。後輩をパシる。そろそろやばいと思って勉強をしてみたり、ものの十分くらいで飽きてテレビをつけていたり、ふと立ち寄った商店街の脇道にあるクリーニング屋で、忙しなく働くおばさんを見かけたり、近所の女子高生がクレープを片手にきゃっきゃとはしゃいで写真を撮っていたので「撮ってあげよっか?」と声をかけて話の流れで連絡先を交換してみたり、笑って、怒って、調子に乗って、生きている。
何も変わらない。非日常の日常の中で微睡む。
ただ少し、ボーッとすることが増えたくらい。
あれから俺は涙を流していない。
翼が欠けた世界でも、俺は普通に生きている。
翼を忘れて、生きている。
「まだ残ってたの」
油を刺したおかげで少しは開閉が楽になった扉から、夜の闇と風と共に入ってくる人影は、本人の表情とは裏腹に必要以上の不気味な印象を与え、こちらの気を引き締めさせてくる。
「夜空さん
夜空は町の意思そのものだ。
ピエロは子どもたちの集まりに過ぎない。本来ならば成長の過程で更生し、社会へ送り出さねばならぬ彼らの「今」を、夜空は肯定した。俺たちは正しく大人になる機会を奪われ続けているのかもしれない。
夜空の行為は育成と投資だ。
これは想像の範疇の域を超えないが、近い将来、彼は此方ヶ丘にピエロを母体とした大きな組織をつくる気でいるような気がする。きっと此方ヶ丘の町に、拘っているのではない。蓄えている。気を伺っている。いつか両の手のひらに国が収まる日を。
怖い想像だ。町をまるごと足場にしようとしている。
馬鹿げた思考にふっと笑ってしまう。聞かれたかもしれないと、少し照れ臭くなっていると、夜空さんは珍しく真剣な面持ちで俺を見据えていた。
「ボクは一生、此方ヶ丘を出る気はない」
考えを口にでも出していたのだろうか。心の中を覗かれたような気分で、俺は目を見開いた。
「傷心中の君に、ボクの恋愛の話をしてあげよう」
尊大な物言いに唖然として、当然のように翼の訃報を把握している彼の情報網にゾッとしそびれてしまった。棒立ちの俺を他所に、彼は話を続ける。
「守りたい人がいるんだ。この命に換えても、人生をかけてでも。けれどその人は呪われてるんだ。だから、俺はこの町で起こる全てを把握したい。彼女のためなんだ」
噛み砕きにくいその言葉を必死に咀嚼しても、脈絡がない話の内容に、彼の意図がつかめない。それ自体はいつものことだが、俺を混乱させた一番の理由は、夜空さんが今まで一緒にやってきた中で見せたことのない、普通の人間のような表情をしていたことだ。
幸せそうに、目の前にいない想像のその子を想って、見たこともない表情で笑っている。
夜空とかけ離れた話題で、夜空らしい不気味さを備えつつ爛々と輝く瞳が恐ろしかった。
「なんの話ですか」
「ボクが君たちを集めた理由の話さ。守るには、強さが要る」
今にも鼻歌でも歌い出しそうなくらい上機嫌だ。やはりこんな夜空さんは初めてのことで、窺っても仕方のなかったこの人の顔色が、みるみるうちに明確になっていく感覚が、一周回ってまた不気味だった。
「好きな子のために? 不良軍団作って町を支配したいって?」
「馬鹿だと思うかい?」
「正直」
「人って案外そう言うものだよ。それに、ボクは結構君たちが好きだ。みんながボクをどう思っていようと、今この瞬間ボクに愛されてくれるみんなのことを、この上なく愛しいと思うよ」
そう言って、夜空は部屋の隅に描かれたピエロのロゴを撫でた。色んなパターンを作っては、何度も修正され、最終的に完成した思い出のシンボル。ノリと勢いで作られたあの落書きに、繋がりのようなものを感じていたのが、俺だけでなかったことを知った。
誰よりも人間離れしていると思っていた奴が人や愛を語っている。しかし不思議なことに、彼の言葉は妙な説得力を持って、俺の心にストンと落ちた。
「どうして俺にそんな話を?」
「『取引』をしよう」
彼はまた真剣な声色を取り戻す。ピリッとした空気と単語に、窓際に座ったままだった俺はミシッと音を立てて立ち上がった。
「君に、彼女を守ってもらいたい」
結論から伝えられた彼の話は、とても荒唐無稽ですぐに答えの出せるようなものではなかった。ただ、先ほども言っていた通り、俺たちピエロは一人の女の子を守るために作られたこと、そのルーツを確かにする内容だった。それに従うなら、俺に直接ボディーガードをしろという命令を下すこともできただろう。これまでのように何も明かさず、そうなるように仕向けることもできた。
今回、夜空はそれをしなかった。その事実が、俺の首を振らせなかった。もしかしたらこれも、彼の人心掌握の技の一つなのかもしれない。頭の片隅でそう思っても、ピエロのシンボルを愛おしそうに見つめる彼の瞳が浮かんできて、すぐにその霧は取り払われる。そうか。人はこれを、信頼と呼ぶのか。
「承諾してくれたなら、今すぐ君に翼の遺書を渡す。そして卒業後、彼女の最後の言葉を君に伝える」
「なんで、あんたがそんなの知ってんだよ」
「真実を知りたいなら、『取引』に応じてくれ」
答えなんて最初から決まっている。夜空は取引の材料を誤らない。俺の、俺たちの本当に欲しいものを知っているから。
「一つだけ聞きたいんですけど」
「なんだい?」
「あの日、俺を海に連れて行ったのは、本当に偶然だったんですか?」
黒幕は微笑む。
*****
家に帰って、少し迷って開いた真っ白な便箋の中には、書き殴ったような字で翼の本音が綴られていた。文脈も要点もありはしない、心の隙間から漏れ出たバグのような文章だった。
天使になりたかった。
正しい俺が好きだった。
俺の正しさに絶望した。
死んだ人間を汚すことの意味を知らなかった。
生きている人を、殺してしまった。
救って欲しかったんじゃなくて、救う側になりたかった。
自分が歪んでいることを認めたくなかった。
それでも。
やっぱり、天使になりたかった。
概ね、そんなことが書いてあった。それ以上のことは、頭が理解を拒んだ。
罫線を無視した、美しさなどカケラも無い後悔の羅列で、紙一枚がびっしりと埋まっていた。ところどころ滲んだ箇所は涙の跡だろうか。胸が痛くて、頭はクラクラして、翼の言葉を一つ残らず目に焼き付けようと思った。
「俺は、何をしてやればよかったんだ」
かける言葉を間違えた。もしももう一度、一ヶ月前の最後の日に戻れたとして、俺は翼を救う言葉を選択できるだろうか。違う。翼はそんなこと望んでいなかった。
あいつは何を願っていたんだっけ。
そうか。知らないフリをして、なかったことにすればよかったのか。
もう一緒にいることは叶わないけれど、全部忘れてしまいたかった。
その日俺は、久しぶりに夢を見た。
シールやリボンでゴテゴテにデコった天使の輪っかを頭に乗せて、出鱈目な形の大きな羽を生やした翼がそこにいた。
曲がった羽のせいで左右のバランスが悪いのか、足取りは覚束ない。風が吹いただけで転んでしまいそうだ。
不揃いで生え揃わない羽の隙間に折れ曲がった骨が浮き出ていてグロテスクだった。でも、すごく綺麗で、そこにいたのは確かに天使だった。
そうか。
お前はなれたのか。
俺も、お前みたいになれるのだろうか。
ひいばあさんの言ってた良いことって、なんなんだろうな。
いつか俺が死ぬ時に、天国なんてものがあるのかは知らないけど、もしも、そっちに行けるとして、俺を連れて行く天使はお前だったらいいな。
目を覚ました。
起き上がると少し頭痛がしたので、前髪をかき上げて眉間をつまむ。馴染みのある感触にハッとして手を顔から離す。
右手の薬指と小指の間から、俺の長くもない前髪がするりと落ちていった。指の隙間から見える景色の先、布団を被った膝下に、誰かが蹲っているように見えた。
瞬くと視界がぼやけた。喉の奥が締まるような感覚がして、俺はやっと、自分が泣いていることに気がついた。
翼の欠けた世界でも、俺は息ができる。
だけど、翼の欠けた世界はちゃんと寂しい。死にたいくらい悲しくて、逃げたいくらい残酷だ。
それでも俺は、天使になる為に生きていく。
愛おしい傷を抱えて。
私は普段「病む」という言葉に悩まされることが多いです。周囲から相談を受けても、上手い返しができているか分かりません。気軽に扱うこともできません。肯定ばかりするわけにはいかない時もあります。医者やカウンセラーの両分に満たないところでは、私たちに何ができるのでしょうか。
昔、仲の良い友人が自傷行為をしていました。私は当時見て見ぬ振りをして、必要以上に気を遣ってしまったように思います。彼女は私たちにどうして欲しかったのだろうか。叱って止めれば良かったのか、ただ自分の精神の不調を知っていて欲しかったのか、ずっと考えていました。
心を病んだ人に対して、他人は何をしてやれるのか。今回のテーマであり、私が悩みに悩んで出した答えです。
この物語は私が学生時代に課題で執筆した作品『夢と朝日と夕闇に』と『動かない信号機』のスピンオフとして生まれました。
回収されない伏線が多く、モヤついたのではないでしょうか。
赤暮の恋路、青葉との確執、夜空の恋愛模様、黄栗が喧嘩を救いと言っていたわけは?
この本一冊だけでは分からないことが多いです。私の本はどれもそうです。分かりにくくてごめんなさい。
私の創作世界は全て繋がっていて、本一冊は登場人物たちの人生の切り抜きでしかないから、情報漏れがとてもあります。
子どもの頃から創作が好きで、頭の中に架空の町『此方ヶ丘』が存在し、一時期は地図を描いていたくらいでした。
平和なようで危ういバランスで成り立つこの町では、樋代のような平凡な人間の方がレアケースなのかもしれません。樋代も大概個性的な登場人物でらありますが、他のキャラクターに比べると霞むので、実は本編ではモブでした。
学生生活の多くの時間、向き合ってきた作品を別の角度から捉えることで、自分の中でも新たな発見や世界観の広がりを感じられるかもしれない。そんな期待からモブを主人公にして描くことになったのです。
タイトルについて、なぜ歪んだ背骨の天使になったか。
恋愛小説は研究テーマだから前提として、好みの地雷系の女の子を出したい。でも、突飛な感性の子よりも普通の子視点の方が映えそう。本編に登場するモブに主人公になってもらおう。
あらすじが決まった頃、たまたま整形外科を受診しました。学校の胸部X線検査に引っかかったからです。レントゲンをとったら背骨がめっちゃ歪んでました。中学の時ちょっと曲がり気味だねって診断された時よりもめちゃ曲がってました。
面白かったのでレントゲン写真を撮らせてもらってこの作品の表紙にしました。教授からのウケは良かったです。友人には超笑われました。芸大生だもの。
タイトルはこうして生まれました。
登場人物について
ここで全て解説してしまうのはつまらないので、数行で海田まやの印象を連ねておきます。
小日向樋代
普通だしクズだし普通に嫌な奴です。あんまり好きではありません。暴力反対。ただ、主人公としては優秀です。
東雲翼
可愛くて賢い子です。思想が強く、夢見がちで生きにくさをずっと抱えながら育ってきた故に、理想の存在であるシロとの出会いは本当に嬉しかったんだと思います。
赤暮
夕暮れ時のような赤い紙がトレードマークの太陽少年。彼の笑顔には人を浄化するパワーがありそう。とにかく良いやつです。片想い、実って欲しい。
青葉
コンプレックス祭り少年。顔が良いこと、頭が良いこと、高いスペックを持つ故に、中学時代に色々あって人間不信に。でも赤暮と黄栗のことが大好きな可愛いやつです。
黄栗
海田まやの創作人物史上一番好きな子。とにかくぶっ飛んでいてクールかつ、動きが多くて書きやすい。ついつい出番が増えてしまう。登場するだけでわくわくしちゃう。推しです。
夜空
ヤバいやつです。此方ヶ丘の町をいつも上から見下ろしています。ただ、土地にも人に対しても、愛はとても深い人です。
此方ヶ丘には他にも面白い人物がたくさんいて、それぞれにドラマがあります。いつか他の作品も書籍化できるように精進致しますので、今後も何卒よろしくお願い申し上げます。
読んでいただきありがとうございました。
2026年6月28日 発行 初版
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とある推理小説家によって、主人公の探偵役として生み出された少女だったが、とある理由で作者に見捨てられた「ボツキャラ」である。
自分の手で物語の続きを紡ぐため、仲間をつくり、色んなことを経験し、幸せになって作者を見返してやりたい。
キミも海田まやの物語の1ページにならないか!?
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