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『兵馬俑』とは兵士や馬をかたどった像のことである。
古代中国では、死後の世界での従者として、兵馬俑を陵墓に納める習慣があった。現在は色褪せているが、当時の姿は色鮮やかな着色がなされていた。ちなみに、統一秦以前の春秋戦国時代では、生身の人間を死者の墓室に納める従死(殉死)も行われていたという。
「俑」とは、人や動物の姿をかたどった像のことであり、個人の死後の世界のため地下世界に納められたものを指す。とくに有名なのが、秦の始皇帝の兵馬俑である。一九七四年に発見され、当時は「二十世紀最大の発見」とも言われた。いまも、約八〇〇〇体の兵士たちが始皇帝の墓の近くで主を守り続けている。
始皇帝の兵馬俑は、等身大の大きさで写実的につくられている。だが、その前後の時代の俑は、小さいし象徴的なつくりになっている。秦の統一王朝時代は、わずか十五年ほど。なぜ、その時代の兵馬俑だけが大きかったのか? なぜ始皇帝の兵馬俑だけが写実的で等身大だったのか。
長い中国史を見渡しても、リアルで等身大の兵馬俑がつくられたのは、秦の始皇帝の墓だけだった。それは秦という国の地理的特徴にある。秦は中国大陸の西側高原地帯にあった。狩猟をし良馬を育ててきた国であり、自ずと動物を大切にする文化が根付いていった。
そんな彼らだからこそ、実物大の馬の俑をつくるという発想にたどり着き、一緒に埋める兵士の俑も馬にあわせて大きくなったのかもしれない。また、西域はヨーロッパ文化が、いち早く伝わる地域でもあるので、ギリシア的な写実的で等身大の彫刻文化が影響を与えたとも考えられる。
秦の始皇帝の兵馬俑が発見されたのは、一九七四年のこと。井戸を掘削中の農民が、兵馬俑の陶片を偶然見つけたことが発見のきっかけとなったというが、始皇帝の陵墓から約1.5kmほど離れていたため、始皇帝の兵馬俑だとわかるのには、少し時間がかかったという。
ではなぜ、これほど大規模な遺跡が、人々から忘れ去られてしまったのか? それは、兵馬俑坑が完成後には地中に埋められてしまうからだ。時が経つとそこはただの平地になり、地下に空洞があるため水はけがよいその場所は果樹などが植えられ、時間の経過とともに、その存在が忘れさられてしまったというわけだ。
兵馬俑の発見は「二十世紀最大の考古学的発見」と称され、世界中に衝撃を与えた。 発見当時のドラマチックな状況と、最新研究(二〇二五〜二〇二六年)を踏まえた現在の謎を解説しよう。
きっかけは農民の井戸掘り(一九七四年)であった。地元の農民が偶然井戸を掘っていた際、等身大の陶器の破片を見つけたことが始まりである。当時は文化大革命の最中で歴史遺産が破壊されかねない時代であったが、研究者たちが極秘裏に遺跡を保護した。1975年に国営の新華社通信が報じると、世界を揺るがす大ニュースとなったのである。
推計約八千体におよぶ実物大の兵士や馬が、一糸乱れぬ戦闘態勢で並んでいる姿に世界中が驚嘆したのである。すべての像の顔立ち、髪型、髭、体型、服のシワが異なり、「実在した兵士をモデルにしたのではないか」と大きな話題になった。
兵馬俑はもともと、赤や水色など十種類以上の鮮やかな色で彩られていた。しかし、出土して外気に触れるとわずか十五秒で酸化が始まり、四分で色が剥がれ落ちて灰色になってしまうという致命的な問題があったのである。
現在は、中国とドイツのチームが退色を防ぐ薬剤を開発したほか、近年は専用の「スマート発掘システム」が導入され、本来の色彩を保ったまま保護する技術が進化していると言われている。では、古代にこれほど高度な技術がどこから来たのか、という謎が残るのである。
始皇帝より前の時代、中国には等身大の精巧な彫刻を作る文化はなく、二十センチ程度の単純な人形しかなかったと言われている。ではなぜ突然、これほどリアルな八千体もの軍団を作れたのかが大きな謎である。
衣服の表現や曲芸師のポーズなどから、「古代ギリシャの彫刻芸術や技術がシルクロードを渡って影響を与えたのではないか」という国際的な仮説が注目され、今も議論が続いているのである。
近年、兵馬俑の接合部や表面から、二千二百年前の「職人の指紋」が次々と確認されている。これにより、粘土を成形・接合する高度な専門技術を持った膨大な数の職人集団(陶工)が、現場周辺の集落に暮らして大規模な分業を行っていた実態が徐々に明らかになってきているのである。
最新発掘(二〇二五〜二〇二六年)による新事実としては、二号坑から新たに戦車二台や多数の武器が出土している。この分析により、従来司令部の一部と考えられていたエリアが「車兵方陣(戦車隊の陣形)」であったことが判明している。
始皇帝(しこうてい)は、紀元前三世紀に中国史上初めて天下を統一し、「皇帝」の称号を最初に使った秦の君主である。彼には3つの大偉業があると伝えられている。
(一)天下統一
紀元前二二一年に、戦国七雄と呼ばれた六つの強国をすべて滅ぼして中国を一つにまとめた。
(二)中央集権化
王に代わる最高権力者「皇帝」の位を新設し、全国を国が直接管理する「郡県制」を導入した。
(三)規格の統一
国ごとにバラバラだった貨幣(半両銭)、文字(小篆)、度量衡(長さ・重さ・量)、車軸の幅をすべて統一した。
さらに、次のような功績や批判もあると言われている。
万里の長城: 北方の遊牧民族(匈奴)の侵入を防ぐため、それまで各城壁をつなぎ合わせて大改修しました。
始皇帝陵: 自身の巨大な墓を建設した。
兵馬俑: 墓の近くに、自分を守るための実物大の兵士や馬の陶器人形(数千体)を埋めさせた。
思想統制: 医薬や農業などの実用書を除く本を燃やし(焚書)、政権を批判した儒学者を生き埋め(坑儒)にした。
不老不死の追求: 死を極度に恐れ、伝説の霊薬を求めて方士(学者)を派遣したり、全国を巡幸したりした。
その最期は、紀元前二一〇年、五度目の巡幸の途中に四九歳で急死している。その後、秦はわずか数年で滅んだのである。
2026年7月2日 発行 初版
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二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。