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アンコール遺跡群・写真集

清水正弘

深呼吸出版



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 目 次

アンコールワット遺跡群

アンコールワットの日の出

アンコールトム遺跡群

タ・プローム遺跡群

タ・ケウ遺跡

パンテアイクデイ遺跡

パンテアイスレイ遺跡

アンコール国立博物館

追補・キリング・フィールド
   (ワット・トメイ寺院)

※各所のガイダンスはウェブより抜粋

アンコールワット遺跡

アンコール・ワットは、カンボジア北西部に位置する世界最大級の石造寺院遺跡である。十二世紀前半、クメール王朝のスーリヤヴァルマン二世によってヒンドゥー教寺院として建立され、のちに仏教寺院に改修されている。

「アンコール」はサンスクリット語で「王都」、「ワット」はクメール語で「寺院」を意味し、その名の通り「王都の寺院」として機能していた。当時の王が自らの権威を誇示し、死後に神と一体化することを目指して建設されている。

ヒンドゥー教の宇宙観を完璧に表現しており、中央の五つの塔は神々が住むとされる聖なる山「須弥山(しゅみせん)」を模している。また、回廊の壁面には壮大なヒンドゥー教の神話「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」をはじめとする細密なレリーフが彫り込まれており、クメール美術の最高傑作とされている。

周辺のアンコール・トムなどの遺跡群とともに、一九九二年にUNESCOの世界遺産に登録されている。カンボジアの国旗の中央にも描かれており、国家の象徴として世界中から多くの観光客が訪れている。

アンコール・ワットの歴史的変遷


アンコール・ワット(クメール語で「王都の寺院」)は、古代カンボジアのクメール王朝(アンコール王朝)の最盛期に築かれている。スールヤヴァルマン二世が、ヴィシュヌ神に捧げるヒンドゥー教寺院として建立。

同時に、神と王を一体化させ、自らの権威を知らしめる目的があったのである。十二世紀後半、ジャヤヴァルマン七世の時代などに、国家の宗教がヒンドゥー教から大乗仏教へと移行したことに伴い、仏教寺院へと改修されている。

十六世紀には王朝が衰退し、周辺国の影響を受ける中で上座部仏教の寺院となり、今日までその信仰が受け継がれている。十七世紀、徳川時代初期の江戸時代には、日本人旅行者(森本一房など)が参拝に訪れ、落書き(現在は参拝記録として重要視されている)を残したことでも知られている。

十九世紀後半、フランスの植民地時代にヨーロッパに広く紹介され、本格的な修復・調査が始まっている。 内戦による被害(ポル・ポト政権下)を受けたが、一九九二年にはユネスコの世界遺産に登録され、国際的な支援のもとで修復・保護活動が進められている。

アンコールワットの日の出

アンコール・トム遺跡群

アンコール・トム (Angkor Thom) は、かつてのクメール王国の古代首都アンコールに位置する、巨大な城郭都市の遺跡であり、クメール王国の最後の首都であった。現在はカンボジアシェムリアップ州に位置する。周囲の遺跡とともに世界遺産に登録されおり、特に中央に建つバイヨン (Bayon) 寺院が有名である。

「アンコール」は、サンスクリット語のナガラ(都市)からでた言葉。また「トム」は、クメール語で「大きい」という意味。

特徴

アンコール・トムは約3キロメートル四方の京城であり、幅100メートルの堀と、ラテライトで作られた8メートルの高さの城壁で囲まれている。外部とは南大門、北大門、西大門、死者の門、勝利の門の5つの城門でつながっている。各城門は塔になっていて、東西南北の四面に観世音菩薩の彫刻が施されている。

また門から堀を結ぶ橋の欄干には乳海攪拌を模したナーガになっている。またこのナーガを引っ張るアスラ(阿修羅)と神々の像がある。 京城の外の東西には、大洋を象徴するバライと呼ばれる巨大な人工の池がある。

アンコール・トムの遺構にはヒンドゥー教と大乗仏教の混淆が見られるが、都市建築の基本はヒンドゥーの宇宙観を基に成り立った古代インドの建築理念の影響が見られ、中央に世界の中心である山岳メール山を象徴するバイヨン寺院があり、49基ある仏塔の四面に彫られた微笑む観世音菩薩の顔は、クメールの微笑みと呼ばれ非常に有名である。その周囲にも象のテラスやライ王のテラス、プレア・ピトゥなどの遺跡も残っている。

歴史

889年に即位したヤショーヴァルマン1世は、現在の東バライとアンコール・トムの南半分を含む地域に王都ヤショダラプラを建設した。その後ヤショダラプラは一旦放棄されるが、944年に即位したラジェンドラヴァルマン2世(英語版)は再びアンコールに遷都し、東バライの南にプレループ寺院を建設した。

1006年に即位したスーリヤヴァルマン1世は、現在のアンコール・トムとほぼ同じ位置に新王宮と護国寺院ピミアナカスを建て、西バライを建設した。 12世紀後半、ジャヤーヴァルマン7世により現在のアンコール・トムが建設されたといわれている。

タ・プローム遺跡

タ・プローム(Ta Prohm クメール語:តាព្រហ្ម)は、カンボジアの古都アンコールに存在する、かつてのラージャヴィハーラ(Rajavihara; 王立精舎)の現代における名前である。12世紀末にクメール人の王朝、アンコール朝の王ジャヤーヴァルマン7世により創建され、大乗仏教の僧院であった。後にヒンドゥー教寺院に改修されたと考えられている。


ガジュマルによる浸食が激しい。三重の回廊に覆われた遺跡には、文字通り樹木が食い込んでいる。あまりの酷さにインド政府はタ・プロームの修復計画を発表した(インドはタ・プロームの修復を担当している)。しかし、現在ここで議論が沸き起こっている。熱帯の巨大な樹木は遺跡を破壊しているのか、それともいまや遺跡を支えているのかという議論である。

タ・ケウ遺跡

タ・ケウ(Ta Keo)は、アンコール遺跡の1つ。「クリスタルの古老」の意味を持つ。10世紀末にジャヤヴァルマン5世により建設が開始されたが、王の死去により未完成のまま放置されたピラミッド型ヒンドゥー寺院。

タ・ケウのタは、おじいさんの意味で、直訳すると「ケウじいさん」の意。タ・プロームやタ・ソムも同様である。地元ではプラサット・ケウと呼ばれる。ジャヤ・ヴァルマン5世の死と、その後の内乱により建設が中止されたとされるが、建設中に中央祠堂に落雷があり、神の怒りだと信じ建設を中断したとの説もある。

構造

回廊の外観部に偽窓を造営し、内部に採光や通気のための真の窓を設けている。東西120m、南北100m、5層基壇の美しいピラミッド型をしている。四方に副祀堂を持つ5塔主堂型平面構造寺院。東西南北の四方向に塔門を持つ。現在は水のない環濠の内側にある二重の周壁に囲まれ建つ。建築が途中で中止されたために、当時の石材の積み上げ方を初めとする建築方法や手順などを解明するために役立った。

砂岩を積み上げた構造体。彫刻が施されていないため荒々しい概観が独自の雰囲気を醸している。
建材は主に砂岩が用いられ基部にはラテライトが使用されている。高さは50mにもなるために、威圧感がある。中央塔にはシヴァ神が祀られる。クメール建築としては初めて回廊を設置した寺院でもあり、新しい造形への挑戦がなされている。

完成されていれば、ピラミッド型寺院の中でも造形上、最上のもののひとつに数えられた可能性が高い。建設が中断されたために他のアンコール遺跡に多くみられる彫刻が施されていない。このためにかえって建築工程を知る貴重な情報を与える結果となっている。見学時には通常にぎやかな南門へ案内されることが多いが、真の正門は東側になる。現在は寂れた印象の東側だが、境界石と参道跡が残されており、この参道は500mはなれた東バライ西岸へと通じている。

他の遺跡とは雰囲気を異にするのは、建設中断のための石が積まれたままの彫刻のない荒々しい外観とともに、もう一点、伽藍を取り巻く回廊の外観部に偽窓を造営し、内部に採光や通気のための真の窓を設けたが、この窓の構成が遺跡全体に閉鎖的、あるいは堅苦しい印象を与えているとの指摘もある。

バンテアイ・クデイ遺跡

バンテアイ・クデイ(Banteay Kdei、クメール語: ប្រាសាទបន្ទាយក្តី ; プラサット・バンテアイ・クデイ、Prasat Banteay Kdei)は、カンボジアのアンコール遺跡において、「チャンバ族の砦」(英: "Citadel of Chambers")、または「僧房の砦」(英: "Citadel of Monks' cells")として知られる仏教寺院である。

この寺院はタ・プロームの南東、アンコール・トムの東に位置する。12世紀半ばから13世紀初頭のジャヤーヴァルマン7世(在位1181年-1218年頃または1219年ないし1220年頃、死後 "Maha paramasangata pada" と称された)の統治中に築かれたものである。バイヨン様式で、構成はタ・プロームやプリヤ・カーンに似るが、複雑ではなく、より小さい。その構造物は2重の周壁に囲まれており、そして塔門から2重の中央回廊を構成し、東面前方には前柱殿がある。

この仏教寺院複合体は、これまで不完全な建設およびその建築に質の悪い砂岩が使われていたために荒廃し、現在修復を受けている。バンテアイ・クデイは1960年代まで何世紀にもわたってさまざまな間隔で僧侶により占有されていた。

地理

バンテアイ・クデイは、多くの アンコール寺院の1つであり、400平方キロメートル(150平方マイル)のアンコール遺跡公園内に位置する。クメール王朝時代におけるアンコールの古代都市はトンレサップからクーレン丘陵にかけて広がる1,000平方キロメートルの広大な領域にわたっている。この寺院はタ・プロームの東の塔門(ゴープラ、gopura)より600メートルとなる経路沿いに通じている。この経路はバンテアイ・クデイの西塔門入口につながる。寺院はアンコール・トムの東3キロメートルにある。

歴史

クメール王朝は802年から1431年の長きにわたっており、当初12世紀末まではヒンドゥー教徒の敬虔な信仰のもと、その後は仏教徒の厚い信奉のもとにあった。その時代に壮大な寺院が建造されるようになり、1191年まではスーリヤヴァルマン2世の統治中において、その後12-13世紀にはジャヤーヴァルマン7世のもとにおいて頂点に達した。

バンテアイ・クデイを含め、多くの仏教寺院が12世紀半ばから13世紀初頭に構築された。ジャヤーヴァルマン7世は多くの寺院を建造した功績が評価されるが、彼はまた社会および他の職務を犠牲にした途方もない寺院の建築計画における散財が非難されている。ジャヤーヴァルマン7世は聖観音菩薩を主に崇める仏教寺院を構築した。

この寺院は、ジャヤーヴァルマン7世による同時期の近隣にあるタ・プロームやプリヤ・カーン寺院の様式と同様に構築されたが、規模は小さく、ラージェンドラヴァルマン2世により建てられた10世紀の寺院の位置に、仏教僧院複合体として築かれた。いくつかの小さな碑文は、ジャヤーヴァルマン7世および王室建築家 Kavindrarimathana により本寺院が建造されたことを証明している。

ジャヤーヴァルマン7世は、アンコールに攻め入り徹底的に破壊し支配したチャム族を倒した後、55歳で政権を握った。彼の「驚異的な活動」は、その廃墟からカンボジアの復興をもたらした。ジャヤーヴァルマン7世はまず第一にアンコール・トムにおいて首都を再建し、「偉大な建造者」と呼ばれた。

彼は多くの寺院を建設する役目を果たし、それはバンテアイ・クデイとは別に、バイヨン、プリヤ・カーン、タ・プロームおよび他の多くの主要な寺院や、また巡礼者のための多くの休泊所などが含まれる。本寺院がその現存する場所に築かれた理由はわかっていない。

しかしながら、その寺院がアンコール・ワットと同時期のものであることが、両寺院間およびタイのピマーイ寺院において、多くの類似点が確認されることで立証されている。寺院は、貯水池であるスラ・スランの向かい側に、西暦1181年、ジャヤーヴァルマン7世によって構築された最初の寺院とされるが、碑文の欠落により詳細は不明である。

13世紀には、ジャヤーヴァルマンによって築かれた大部分の寺院が破壊された。しかし、大乗仏教による破風(フロントン、fronton 〈ペディメント、pediment〉)やまぐさ(リンテル、lintel)のいくつかは、まだ良好な状態として見られる。また、一部の考古学者おいて、寺院は彼の宗教上の師を記念してジャヤーヴァルマン2世(英語版)により建設されたという見方もある。

寺院は、クメールの支配が終わった後、数世紀にわたって放置され、植物で覆われたままだった。1920–1922年に周囲の植物の繁茂を取り除いた後、その寺院は姿を現した。この作業には、「インドネシアにおいてオランダ当局により非常に有効に用いられていた復元の方式」として知られた保全方式が採用され、アンリ・マーシャル(当時アンコール遺跡の修復士)と Ch. Battuer の指揮のもとで行われた。そこは1960年代まで仏僧によって一部占有されていた。

1991年3月より、日本の上智大学を中心とした調査団すなわち「アンコール遺跡国際調査団」が、バンテアイ・クデイ寺院で多くの考古学調査を実施している。これらの調査において、2000年8月の石版状仏像の出土を皮切りに、2001年3月および8月、青銅製の小型の2体と砂岩で作られた大小272体、計274体の仏像の断片が、北小祠堂付近[23]の埋納坑より発掘された。彫像を収める保管室の建設が計画され、2007 年 11 月、シハヌーク・イオン博物館が完成した。2010年8月には、また内環濠の南面で6体の仏像が発見された。

バンテアイスレイ遺跡

バンテアイ・スレイ (Banteay Srei) はカンボジアにあるアンコール遺跡の一つで、ヒンドゥー教の寺院遺跡。アンコール・ワットの北東部に位置する。バンテアイは砦、スレイは女で、「女の砦」を意味する。大部分が赤い砂岩により建造されている。

規模こそ小さいが、精巧で深くほられた美しい彫刻が全面に施されている。こうしたことから観光客には大変な人気があり、「アンコール美術の至宝」などと賞賛されている。中でもデヴァターの彫像は「東洋のモナリザ」とも呼ばれている。

歴史

967年、ラージェンドラヴァルマン王が臨席する下で着工式が行われ、息子のジャヤーヴァルマン5世の代に完成する。建立は、近くの土地を領し王師を務めていたヤジュニャヴラーハが行った。アンコール朝の衰退に伴い忘れ去られていたが、1914年に再発見される。1923年にはフランス人のアンドレ・マルローがデヴァター像を盗み出して逮捕され、注目を集めた。マルローは後にこの体験を基に小説『王道』を記している。


伽藍

外周壁の塔門をくぐり75mの参道を進むと、第一周壁とその塔門に着く。周壁はラテライトで築かれ南北94m東西109mあり濠を囲んでいる。塔門をくぐり土を盛った橋を渡ると、第二周壁とその塔門があり、正面に祠が見え始める。

塔門をくぐると次は左右にリンガが並んだ参道を進み、第三周壁の塔門に入ると、中には刻まれた碑文が見られる。それを抜けると中央祠堂の前室に至る。ここまでの塔門は、中央に近づく程に間口と高さを狭めており、遠近により狭い寺院を広く見せている。

南経蔵破風

前室の左右には経蔵があり、それぞれ東側の偽扉と西側の入口を持ち、三重の破風で飾られている。破風にはヒンドゥー教の神話が、精密かつ立体的に彫られており、南経蔵の破風では、下段に世界を揺らす悪魔と逃げ惑う動物が、上段に神とその妻が彫られている。

中央祠堂と前室

寺院中央の南北に三つ並んだ祠堂と前室は、丁字型の基段上に築かれており、基段上へ登るには、前室の三方と南北祠堂の正面に加え、中央祠堂の背面に階段が有る。祠堂は全面が彫刻で飾られており、中央の祠堂には門衛神の「ドヴァーラパーラ」が、南北の祠堂には「東洋のモナリザ」と評されるデヴァターの像が柔らかな曲線で彫られ、美しい姿を見せている。


アンコール国立博物館


アンコール国立博物館(クメール語: សារមន្ទីរជាតិអង្គរ)は、カンボジアのシェムリアップにある考古学博物館である。

アンコール時代の遺物の収集、保存、展示に特化しており、クメール文明の芸術と文化に関する情報や教育も提供している。所蔵品は主に9世紀から14世紀頃のクメール帝国のアンコール時代に遡る。遺物のほとんどは、近隣のアンコール遺跡群とその周辺で発見されたものである。

2007年11月12日に開館したアンコール国立博物館は、オーディオビジュアルマルチメディア技術を活用し、クメール帝国の黄金時代を網羅している。博物館は8つのギャラリーでクメールの歴史、文明、文化遺産を扱っている。

現在、プノンペンのカンボジア国立博物館から借り受けた考古学的遺物を展示している。遺物のもう1つの供給源は、1908年にフランス極東学院によって設立され、現在カンボジア文化省が管理している約6,000点の収蔵施設であるコンサベーション・ダンコールである。

キリング・フィールド
(ワット・トメイ寺院)

カンボジアにおける虐殺の歴史

ポルポトという政治家のもと、カンボジアでは知識人の大虐殺が行われた。それは、そんなに遠くない過去である。処刑、飢餓、病気や過労で当時700~800万だった全人口のうち150万人ほどが亡くなったのである。わずか4年ほどで全人口の4~5人に1人亡くなった計算になる。

ポルポトは教養や技術があるものを反逆者とし、片っ端から虐殺していったのである。メガネをかけていただけで殺された人もいるそうである。そして、残った子どもたちを洗脳し少年兵として自らを崇拝するよう教育していったのである。

ポルポトが当時掲げていたスローガンが、「我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである。したがって伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない。たとえ親であっても、社会の毒と思えば微笑んで殺せ。今住んでいるのは新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる。泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。」であった。

キリングフィールドとは

ポルポト政権による大虐殺が行われた刑場跡、それがキリングフィールドである。カンボジア全土に300個以上ある。処刑された人々の骸骨や、場所によっては埋められていた場所、赤子が打ち付けられ殺された木なども残されているところがある。このワット・トメイ寺院もその一つである。シェムリアップ中心部からアンコール・ワットへ向かう途中に位置している。

アンコール遺跡群・写真集

2026年7月2日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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