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中国の少数民族(貴州省編)

清水正弘

深呼吸出版



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目次

黔西南プイ族ミャオ族自治州

貴州省のミャオ族とは

季刀村

黄果樹瀑布

黄果樹瀑布のプイ族

貴州省の名刹・万峰林

黔西南プイ族ミャオ族自治州


黔西南プイ族ミャオ族自治州(けんせいなん-プイぞく-ミャオぞく-じちしゅう)は、中華人民共和国貴州省西南部に位置する少数民族自治州である。

歴史

もともとチワン族と関係の深いタイ語系のプイ族住居地帯で、明代には安順軍民府の普安衛、安南衛などが設置される土司(少数民族封建領主)支配地であったが、清の乾隆帝時代に天災や戦乱などで現・黔東南苗族侗族自治州一帯に住むミャオ族が移住してきた。

清代には貴州省興義府などが設置されて直接統治地域となり、民国時代から新中国初期には自治州は設置されていなかったが、一九五六年黔南布依族苗族自治州に属し、一九八二年五月一日に現自治州が成立した。中国の少数民族自治州としては最も新しい。


貴州省に住むミャオ族への論考



中国の貴州省に暮らすミャオ族(苗族)は、独自の歴史、豊かな物質文化、そして強固な集団アイデンティティを保持し続ける東アジアの代表的な少数民族である。彼らの存在は、近代化の波と伝統の継承という、現代の先住・少数民族が直面する普遍的な課題を浮き彫りにしている。

ミャオ族の歴史は、絶え間ない移動と辺境への定住の歴史に他ならない。古くは中原地域(黄河流域)から南下し、歴代の中央王朝による圧迫や同化政策に抵抗しながら、最終的に貴州省の険しい山岳地帯に安住の地を見出した。この地理的な隔絶は、結果として彼らの言語や習俗、信仰を外部の均一化から守る防壁の役割を果たした。

彼らの文化の象徴とも言えるのが、極めて精巧な銀飾りと刺繍である。祭りや冠婚葬祭で女性が身にまとう壮麗な銀の装飾品は、単なる富の誇示ではない。それは文字を持たなかった彼らが、自らの民族の起源や神話、移動の歴史をデザインとして刻み込んだ「着る歴史書」としての意味を持つ。一針ごとに込められた自然への畏敬や祖先崇拝の念は、彼らの精神世界が今なお健在であることを示している。

しかし、現代における観光資源化は、彼らの社会に二面性をもたらしている。西江千戸苗寨(貴州省雷山県)に代表される大規模なミャオ族の集落は、世界中から観光客を引き寄せ、地域経済を大きく潤した。一方で、商業化の進展は伝統的な生活様式の変容を促し、若者の都市部への流出に伴うコミュニティの空洞化という危機も生み出している。

貴州省のミャオ族を巡る考察は、文化の「保存」とは単に過去の遺物を維持することではなく、変化する現代社会の中でいかに主体的にアイデンティティを再定義していくかという問いを投げかける。彼らの歩みは、独自の伝統を誇りつつも、グローバル化の潮流といかに調和していくかという、多民族国家における文化共生の未来図を示唆している。

貴州省のミャオ族

ミャオ族とは

ミャオ族(中国語: 苗族、拼音:Miáozú)は、中国の国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。自称はモン族(英語: Hmong、Hmongb)であるが、Hmongは狭義にはミャオ族の一支族に用いられる呼称である。中国では55の少数民族の一つである。

「ミャオ族」は自称ではなく漢民族による他称である。中国国内では「ミャオ」と称せざるを得ないが、「ミャオ」は差別と結びついて、やや低く見られるニュアンスを伴う。中国以外の地域では主として自称モンの人々が居住しており、近年は「ミャオ/モン」と併記することが増えてきた。

なお、現在のタイのランプーン付近にハリプンチャイ王国(十一十三世紀)を建てたモン族は、全くの別系統の人々である。東南アジア研究者の著作などでは、必ずどちらのモン族に言及するか断りを入れるのが普通である。近年では、中国国外の人々は、総称をモン (Hmong) と表記することが多い。

タイやラオスではモン (Hmông, ม้ง, mong) で、白モンと青モンに分かれる。ベトナムではモン(ベトナム語: H'Mông)といい、黒モン族、赤モン族、花モン族と多彩に分かれる。タイ・ベトナムではメオ (Mẹo, แม้ว, mεεo) とも呼ばれるがこれは侮蔑語である。

歴史

ミャオ族の淵源を、漢代の『書経』「舜典」記載の「三苗」や、『後漢書』西南夷伝の長沙「武陵蛮」に遡る説もあるが、現在のミャオ族との連続性は明らかではない。古代の「三苗」以降、中国の史書は長い間南方民族を「蛮」と表記し、現在に繋がるとされる文献上の「苗」の初出は、宋代の紹熙五年(一一九四年)、朱子が潭州(現在の長沙)に役人として赴任した際の、「苗」を「五渓蛮」の一つの「最軽捷者」とする記録(『朱子公集』巻71)である。

ただし、「三苗」の国は揚子江中流域や、洞庭湖から鄱陽湖にかける地域(現在の湖南・湖北・江西)にあったとされ、現在でも貴州省のミャオ族には、先祖は江西にいた、もしくは東方の大きな川の畔や水辺にいたという口頭伝承が残っているので、相互を結びつけようとする学者や知識人が多い。

恐らくミャオ族の先祖は宋代以降の漢族の南下に伴って、揚子江流域から山岳内陸部に移動してきたと推定されるが、史料上で歴史的変遷を確定するのは難しい。一九九五年頃からは、ミャオ族の祖先を蚩尤とする言説が急浮上した。これは、中国古代の伝説に登場し、漢族の先祖とされる華夏民族の黄帝と涿鹿(現在の河北省涿鹿県付近)で争って(涿鹿の戦い)敗北した蚩尤を非漢族の代表と見なし、蚩尤と一緒に闘った九黎の子孫が南方に逃げて、後に「三苗」になったと説く。

「三苗」は揚子江の中下流域にあったと推定し、北方からの漢族の圧力で、西南中国の山岳地帯に移動して、現在のミャオ族になったと主張する。しかし、伝説中の「三苗」と、古代の楚や呉を構成した人々と、現在のミャオ族との関連を実証する史料は存在しない。

「三苗」「苗民」「尤苗」などの記述は秦漢以前の記録にとどまり、漢代の長沙・武陵蛮などを経て、宋代に至るまで、南方の人々は「蛮」と記されている。学問的には蚩尤とミャオ族の関係は否定される。[要出典]これは費孝通が唱えた「中華民族多元一体格局」(一九八八年)の議論に基づいて一九九〇年代に「中華民族」の統合を強調する中央の学説や、一九九四年に中国全土に展開した漢族主体の愛国主義の運動に抗して現れた、ミャオ族の知識人による新たな対抗言説である。

文字が無く口頭伝承で歴史を伝えてきた苗族には古代と現代を結ぶ客観的史料は存在しない。しかし、民族意識の高揚に伴い、蚩尤始祖説は定説の如く語られるようになってきている。 敗北した蚩尤を非漢族の英雄に祀りあげ、ミャオ族の先祖は蚩尤であるとする考えは、ミャオ族の知識人の間では定説化して反論することができなくなっている。ミャオ族は文字を持たず、口頭伝承によって歴史を語り伝えてきたが、まさにそれゆえに、実証的な歴史とは異なる独自の歴史意識を新たに作りあげようとしている。

明代から清代へ

中国の明代の統治政策は、各地域の首長の世襲支配権を認めて土司に任命して間接統治をする政策をとっていたが、次第に現地との乖離が大きくなり、ミャオ族の反乱も多発するようになった。清代には貴州省などミャオ族地区への漢族の移住が増え、中央が地方官の「流官」を任命する直接支配に展開した。これを改土帰流政策(土司=少数民族首長支配を改め、流官=中央任命の地方官支配に帰すこと)という。

同化政策や清朝の増税に抵抗して、ミャオ族は三次(一七三五年 - 一七三八年:ミャオ族の反乱 、一七九五年 - 一八〇六年:一八五四年 - 一八七三:咸同起義にわたる反乱を起こした。特に張秀眉が指導した最後の反乱は大規模で、咸同起義(かんどうきぎ)と呼ばれ、ミャオ族人口の三分の一だけが生き残ったともいう。

その後は、多くの漢族商人が現地にはいり、林業を中心とした商業網を確立し、ミャオ族をはじめとする現地の人々は抑圧されることになった。清代末期の一九〇二年から一九〇三年にかけて鳥居龍蔵が現地にはいり、貴州省のミャオ族と雲南省のイ族の現地調査を行って、緻密な記録『苗族調査報告』(一九〇七年)を残し、当時の状況を克明に伝えている。

中国国内のミャオ族

中国国内での総人口は八九四万一一六人に達し、中国の少数民族としては、チワン族(約一六一七万人)、満洲族(一〇六八万人)、回族(九八一万人)に次ぎ四番目である。居住地域別人口は多い順番に並べると、貴州省(四二九万人)、湖南省(一九二万人)、雲南省(一〇四万)、重慶市(五〇万人)、広西チワン族自治区(四六万人)、湖北省(二一万人)、四川省(一四万人)、広東省(一二万人)、海南省(六万人)、浙江省(五万人)、江蘇省(二万人)、福建省(二万人)などである。

山間盆地や斜面に集落を営む山地民である。焼畑を営んで陸稲や畑作物を作って移動を繰り返してきた人々と、棚田を巧妙に作って水稲稲作を行う定着した人々がいる。ただし、中国国内の「苗族」は、一九四九年の中華人民共和国の成立後に、民族識別調査を行った結果、政府から公認された「創られた民族」であり、政治的な統制と支配を行うための社会制度としての性格もある。

中国国内のミャオ族は漢・蔵(チベット)語族、苗・瑶(ヤオ)語派に属し、三つの方言集団に分かれ、各々の「自称」が異なる。湖南省西部のコーション (Qo xiong)、貴州省東南部のムー (Hmub)、貴州省西部と雲南省のモン (Hmong) である。従来は女性の服飾の色や文様に基づいて、黒苗・白苗・青苗・紅苗・花苗などと区別されることが多く、清代には『苗蛮図冊』などの図録が作成されて、当時の漢族の苗族観を知ることが出来る。

地域で言えば、湖南西部(湘西)は紅苗、貴州東南部(黔東南)は黒苗、貴州西部(黔西)から雲南(文山、屏辺)では花苗・白苗・青苗などと呼ばれる。黒苗もスカートの長短から長裙苗と短裙苗に分かれる。後者の自称はガノォウ (Ghab nao) である。漢語表記の「苗族」は、各集団の自称に近い「総称」であり、民族識別によって多様な人々が「苗族」の名称でまとめられた。

民族識別は一九五三年に始まり、一九五四年に三八の少数民族を確定し、一九六五年に十五、一九八二年に二つの少数民族が加わり、現在の中国は五五の少数民族と圧倒的多数の漢族という総計五六の民族から構成される多民族国家とされている。民族識別は、スターリンが提唱した言語、地域、経済生活、文化に現われる心理素質の四つの共通性が基準とされたが、問題点も多い。

中国における「民族」概念は政治性を帯びており「創られた民族」の性格が強い。中国国内のミャオ族について考える場合、中国の古代~近代の歴史文献上で「苗」と記述されている人々と、一九四九年中華人民共和国成立以降の民族識別で「苗族」と認定された人々とを区別して論じる必要がある。

現在のミャオ族は山地で常畑や焼畑を営む人々と、盆地や平野で水稲耕作を営む人々に分かれる。分布は広域にわたり、他民族と高度を住み分けたり、雑居する場合もある。焼畑を営む人々は移動がさかんで山伝いに移住した結果、現在のラオス、ベトナム、タイにも同系統の言語や類似する文化を持つ人々が生活することになった。(関連ウェブより)


季刀村

季刀村(季刀苗寨)は、中国貴州省黔東南ミャオ族(苗族)侗族自治州凱里市三棵樹鎮にある、バラ河のほとりに位置する伝統的なミャオ族の集落である。「季刀」という名前はミャオ族の言葉で「深い淵」を意味し、村のそばを流れるバラ河に深い淵があることに由来する。

村は山あいに建ち、水辺に寄り添うようにして存在し、古い木々が空を覆い、風景が美しいことで知られている。この村は、数百年の伝統を保つ建築様式や生活習慣を維持しており、その素朴な民族風情と豊かな文化で訪れる人を魅了している。

二〇〇四年には貴州省のバラ河乡村旅游区の村寨の一つに指定され、二〇一九年には国家森林乡村にも選ばれている。清の道光年間に建てられた共同の「百年粮倉」では、昔の人々の防火・防犯の知恵に思いを馳せることができる。

ミャオ族の口承文化である「百年古歌」を聴くことができ、古老たちが歌う民族の叙事詩は貴重な文化遺産ともいえるだろう。村のシンボルである大きな「風水樹」の下で、村民の催す祭事には、歴史の流れを感じることができる。

ミャオ族の伝統的な歓迎儀式である「攔門酒」を体験できる。また、「苗王魚」や「酸湯魚」に代表される、ミャオ族の伝統的なバラ河風味の料理を味わうことができるのである。


黄果樹瀑布


黄果樹瀑布(こうかじゅばくふ、中: 黄果树瀑布, 拼音: Huáng Guǒshù Pùbù フアングオシューバオブー)は中国国内ないし東アジアにおける最大級の滝の一つである。貴州省安順市鎮寧プイ族ミャオ族自治県の六枝河にかかる。

滝全体の高さは七七・八メートルで、幅は一〇一メートルであり、本滝の高さは六七メートルで、幅は八三・三メートルである。亜州第一大瀑布(アジアで一番の滝)とも呼ばれる。

この滝は裏見の滝としても有名であり、長さ一三四メートルの「水簾洞」と呼ばれる鍾乳洞の中の数カ所から滝を望むことができる。

一帯は一九八二年に「黄果樹風景名勝区」として中華人民共和国国家重点風景名勝区に指定され、二〇〇七年に中国国家観光局により国家AAAAA級旅遊景区に認定されている。


貴州省住むプイ族への論考


中国貴州省を中心に居住するタイ・カダイ語族の定住農耕民族であるプイ族(布依族)は、近現代の人文・社会科学研究において、エスニシティの動態、言語的適応、そして東アジアの基層文化という多角的な文脈から論じられてきた。彼らを対象とした学術的言説は、単に固定化された少数民族の伝統を記述するにとどまらず、国家や周辺民族との絶え間ない交渉の中で変容を遂げる動的な集団としての姿を浮き彫りにしている。

人類学やエスニシティ研究の領域において最も議論を呼ぶのは、彼らの重層的なアイデンティティと祖先観念の構造である。貴陽市周辺をはじめとするプイ族のコミュニティには、明代以降の漢族の流入に呼応する形で、自らのルーツを江西省などの漢族地域に求める移住伝説が定着した。これは現地の社会構造において優位性を確保するための歴史的な生存戦略、あるいは文化的記憶の再構築として学術的に分析されている。

しかし、彼らの精神世界が完全に漢化したわけではない。内的な領域、特に葬送儀礼の局面においては、死後に自民族の原初的な発祥地である南方へと魂を帰す固有の信仰が今なお厳格に維持されている。このように、外向的には漢族的な意匠をまといながら、内向的には独自の民族的根源性を保持するという重層的なエスニック・アイデンティティのあり方は、近代の民族境界論における典型的なエイジェンシーの実践として評価されている。

言語接触と多言語運用の観点からも、プイ族は社会言語学的に極めて興味深い事例を提供している。彼らは伝統的な祝祭や婚姻の場において、即興の掛け合い歌である「山歌」を媒介としたコミュニケーションを行うが、ここには固有言語によるものと中国語(西南官話など)によるものの双方が存在する。

この二つの言語体系が状況や文脈、対峙する他者との関係性に応じてどのように切り替えられるかという、いわゆるコードスイッチングのメカニズムに関する研究は、彼らが近代化や漢化の潮流に埋没することなく、むしろ民族言語の社会的役割を状況に応じて再定義し、適応させている実態を証明している。

さらに、物質文化や生態人類学の文脈においては、東アジア全域に広がる「照葉樹林文化」の基層をなす存在として位置づけられてきた。プイ族が古くから培ってきた水田稲作農耕技術、モチ米を主食として尊ぶ食習慣、大豆を用いた発酵食品の製造技術、そして歌垣の風習は、日本を含む周辺地域の伝統文化の源流を探る比較民族学的なミクロコスモスとして日本の研究者からも重視されてきた。

しかし近年の地域研究では、現代の市場経済化や農地制度改革に伴って彼らの自給自足的な農業構造が変容し、経済作物への転換がもたらす栄養構造の変化や、近隣のミャオ族といった他の少数民族との間に生じる社会経済的な格差についてもリアルタイムな論考が重ねられている。

グローバル化と中国国家の開発政策が交錯する現代においては、プイ族のコミュニティは観光人類学や開発学の言説の最前線となっている。世界銀行の融資による文化・自然遺産保護プロジェクトなどにみられる住民参加型の開発理念が、現地の政治・社会的文脈の中でいかに受容され、あるいは修正されたかという検証は、国際開発論における重要なケーススタディである。

固有の石造建築や蝋染めといった文化資源が商業化されるプロセスにおいて、文化の静的な「保存」と動的な「消費」のジレンマ、さらには観光地経営における住民のエンパワメントや利益分配の非対称性といった課題が、持続可能な発展という枠組みを超えて批判的に考察され続けている。


黄果樹瀑布のプイ族集落


プイ族(プイ語:Buxqyaix、IPA /pu˧˩ˀjai˧˩/)は、中華人民共和国、ベトナムに住む少数民族。中国語での名称は布依族、ベトナム語での名称はボイ(ベトナム語:Bố Y / 布依)と呼ばれている。

中国では、貴州省黔南プイ族ミャオ族自治州、黔西南プイ族ミャオ族自治州、黔東南ミャオ族トン族自治州、安順市、銅仁市、遵義市、畢節市、六盤水市、雲南省羅平県、四川省寧南県、会理市に分布、ベトナムではハザン省、ラオカイ省に分布している。

プイ族の英雄

王 阿従(おう あじゅう、Wang Acong、一七七七年 - 一七九七年十二二十四日)、清朝のプイ族の蜂起の指導者。王阿崇とも書く。

貴州省南籠出身。幼時より武術を学び、巫術で人を治したことから嚢仙(プイ語で仙女の意)と呼ばれた。一七九七年一月、プイ族が清朝に対して蜂起をおこすと、群衆は王阿従と韋阿信を指導者に選び、王阿従は皇仙娘娘と称した。

群衆は数十万にも達し、地主の荘園を焼きながら普坪鎮に向かい、普坪鎮を攻め落とした。さらに蜂起軍は南籠府城を陥落させ、知府の曹廷奎は自殺した。その後蜂起軍は冊亨・興義・興仁・貞豊を攻略し、長順・恵水・織金を攻撃した。各地のプイ族・ミャオ族・イ族も蜂起して、省城の貴陽を目指した。

清朝は雲貴総督の勒保を派遣し、広西総督の吉慶も援軍に駆けつけた。激戦の結果、蜂起軍は徐々に苦境に追い込まれ、八月にプイ族の根拠地が陥落し、王阿従ら指導者たちは捕らえられた。王阿従は北京に送られて、凌遅刑に処せられた。

貴州省の名刹・万峰林

万峰林は貴州省の南西部、黔西南(けんせいなん)プイ族ミャオ族自治州の州府である興義市に位置している。興義市は中国南西部、貴州省黔西南プイ族ミャオ族自治州に位置する県級市。雲南省と隣り合わせている興義には独特の地形が広がっていて、自然観光スポットの多い地域でもある。

万峰林は、カルスト地形代表的な景勝地で、有名な水墨画の世界である桂林、張家界の武陵源のカルスト地形の源とされている。ポコポコと特徴的な形の山が無数に連なっていき、林立する山の間を縫って川が流れ、川筋の谷間にはたくさんの谷戸田が開かれている。のどかな田園風景とタワーカルストの山々のコントラストが魅力の観光名所ともなっている。

海抜二〇〇〇メートルの七捧高原の麓から海抜七〇〇メートル余りの万峰湖の北岸、黄泥河の東岸へと扇形のように広がっていく。万峰林は国内でも面積最大、最も典型的な原生林でもある。列陣峰林、宝剣峰林、群竜峰林、羅漢峰林、畳帽峰林の五つのタイプがあり、それぞれに特色を持ち、希少なカルスト景観を展開させているのである。

明代地質学者の徐霞客(一五八七~一六四一年)は二度この地を訪れており、万峰林について「数千里歴遊しても、なお南西の風景は天下一」と語っている。また、万峰林は「陸上の桂林」と称されるが、桂林ほどには国際的に有名ではないので、比較的静かに観光することも可能である。

中国の少数民族(貴州省編)

2026年7月4日 発行 初版

著  者:清水正弘
発  行:深呼吸出版

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清水正弘

二十歳の時にダライ・ラマ十四世と個人的に出会った事が、世界の山岳・辺境・秘境・極地へのエスノグラフィック・フィールドワークへのゲートウェイだった。その後国内外の「辺(ほとり)」の情景を求めて、国内外各地を探査する。 三十歳代にて鍼灸師と山岳ガイドの資格を取得した後は、日本初のフリーランス・トラベルセラピストとして活動を始める。そのフィールドは、国内の里地・里山から歴史的、文化的、自然的に普遍価値を有する世界各地のエリアである。 また、健康ツーリズム研究所の代表として、大学非常勤講師を務めながら、地方自治体における地域振興のアドバイザーとしても活躍している。 日本トラベルセラピー協会の共同創設者でもある。

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