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晴れ渡る青空。
友人と過ごす夏休み。
花火の輝き。
夕立の雨音。
祭りの灯り。
台風が残した静けさ——。

七月を彩る六つのショートストーリーを収録。


 目 次

夏のはじまり

夏休み

花火

夏祭り

台風

扇風機

夏のはじまり

「りくー、起きなさい! ラジオ体操遅れるわよー!」
 お母さんの大きな声が下の階から聞こえて、僕はベッドの上でモゾモゾと体を動かした。どうしてこんなに暑いのに朝早くから叩き起こされないといけないんだよ。ベッドに横になったまま、窓から差し込む強い光を睨みつける。それでも窓の外のお日様に変化が起こるはずもなく、ゆっくりと体を起こした。タンスから今日の服を出して着替えると、一階に降りる。
「ラジオ体操から帰ってきてから、ご飯食べなさいね」
 お母さんは朝ご飯を食べる時間すらもくれなかった。僕は首にスタンプカードをぶら下げると、玄関で靴を履いて、近くの公園まで向かう。公園にはすでにたくさんの人が集まっていた。友達のワタルを見つけて、声をかけた。
「暑いね」
「朝七時前なのに、この暑さだもんね。お昼はどうなるんだろうね?」
 ワタルは真上にある太陽を見ながら「うーん」と伸びをする。近所の川島のおばちゃんが「始めますよー!」と公園中に聞こえるように声をかけて、スマホを触ると、ベンチに置かれたスピーカーからラジオ体操の音楽と元気なおじさんの掛け声が流れ始めた。僕はワタルの横に立って、スピーカーから流れる指示に合わせて、体を動かす。朝の気だるかった感じが少しずつなくなっていく。これがおじさんの力なのかどうかはわからなかったが、毎日同じような感覚になるから不思議なパワーの持ち主なんだと思う。おじさんの深呼吸の合図を聞き終えると、僕とワタルは川島のおばちゃんにスタンプを押してもらうために、自然とできた列に並んだ。僕は首からぶら下げていたカードを外して、ラジオ体操に参加した印をつけてもらった。ワタルに「また明日」と声をかけてから家に帰る。

 家の前に着くと、夏休みに入る前に持って帰ってきた水色の植木鉢の朝顔が紫色の花を咲かせているのに気がついた。
「きれいな色の花がついてる! もっといっぱい咲いてね」
 僕は朝顔に小さく声をかけて、じょうろで水をやった。紫色の花びらの上に乗った小さな雫が太陽の光でキラキラと輝いていた。

「ただいまー!」
 勢いよく玄関に入ると「おかえりー」とお母さんから返事がくる。体を動かしてから、夏休みの宿題を片付けた。気がつくと、お昼になっていてお腹が少し空いていた。お母さんのいる台所へ向かうと、銀色の器に入ったそうめんが目に飛び込んでくる。
「そうめんだ! 食べていい?」
「手を洗ってからね」
 僕は洗面所で手を洗うと、ぺこぺこのお腹をそうめんでいっぱいにする。

「りく、虫取りに行くか!」
 そうめんを食べ終えると、お父さんが虫取り網と小さい虫かごを持って僕の方へやってくる。ラジオ体操で少し動かし、冷たいそうめんでお腹を満たした僕の体は、元気いっぱいになっていた。
「うん!」
 お父さんは車に僕を乗せると、三十分ほどかけて山に連れて行ってくれた。
「ここは昔からカブトムシがよく取れるんだ! りくも探してみな! お父さんとどっちが先に捕まえられるか競争だ」
「わかった!」
 僕はお父さんには負けられないと思い、山の中に生えている木を一本ずつ見て回る。なかなかカブトムシは見つからず、お父さんが言ったことが本当なのかも信じられなくなり、つまらなくなってくる。
「りくー! いたぞ!」
 僕の少し先を歩いていたお父さんが僕を呼んだ。僕はお父さんがいる場所まで全速力で走っていくと、目の前にある大きな木にカブトムシが捕まっているのが見えた。
「りく、網貸せ! 網!」
 お父さんは僕から網を受け取ると、カブトムシを上手に捕まえた。
「やったー!」
 カブトムシが逃げないようにそっと虫かごの中に入れると「頑張って育てような!」と、お父さんは手をグーにして親指を立てる。
「うん!」
 僕が大きくうなずくと「帰るか!」と来た道を二人で戻って、車に乗り込んだ。

 「りく、着いたぞー!」
 気がつくと、車は家の前に止まっていた。いつの間にか僕は寝てしまっていたようだった。カブトムシを捕まえたことが夢だったんじゃないか? と不安になり、抱えていた虫かごの中を確認する。虫かごの中で、たくましいツノを生やしたカブトムシが元気に動いていた。

 僕は今日の出来事を絵日記に残すことにした。ラジオ体操のスタンプカード、きれいな紫色の花をつけた朝顔、お母さんが作ってくれた冷たくておいしいそうめん、お父さんが捕まえてくれたカッコいいカブトムシ。

 僕の夏はまだ始まったばかりだ。

夏休み

「このテスト期間さえ乗り越えれば念願の夏休み突入だよ!」
 大学に入学して初めての夏休みを目前に控え、私たちの前には学期末試験という難関が立ちはだかっていた。美穂の言葉に私は夏休みに対する期待よりも、春からこの日までに学んだことが身についているかを試される不安のほうが募る。そんな私の表情を読み取った美穂は怪訝そうに見つめる。
「なんて顔してんの? 入学して初の夏休みだよ! しかも鬼のように長い期間! 嬉しすぎるよー」
 そんな美穂の楽しそうな表情を見ると、テストへの心配は全くしていないように思えた。
「美穂、夏休みの前にテストがあるんだよ? 大丈夫?」
 私の質問に答える前に美穂は目の前にあるオムライスをスプーンですくって、口に運ぶ。
「わぁくぁってるよ。にゃんとかにゃるって」
 もぐもぐと口を動かしながら答える姿に「はぁー」とため息が出てしまう。美穂の楽観的な考え方に対して、羨ましさと、こうはなりたくないという気持ちの両方が私の中を満たしていた。楽しいことだけがある人生なんてどこにもないのだ。その現実を受け止めている私と楽しいことで頭がいっぱいな美穂。
 
 両極端な性格の私たちが意気投合したのは、入学してすぐのこと。新入生歓迎会のとき、テニスサークルの勧誘を受けてコートに向かうと、そこで楽しそうに先輩たちと談笑する美穂の姿があった。まだ入学して間もない上に見ず知らずの人と和気あいあいと話すなんて私の中ではありえない話で驚きを隠せなかった。私を勧誘してきた先輩が「行ってみる?」と声をかけてくれたが、緊張であんなふうに楽しく話せる自信がなかった。
「いや、大丈夫です。一旦、他のサークルも見たいので……。ちょっと失礼します」
 その場をサッと離れて、他のサークルの勧誘をいくつか受けたが、あの光景の衝撃がどうしても頭から離れず、私はテニスサークルのコートに戻ってきてしまっていた。
「あれ? 戻ってきてくれたんだ。他のサークルはどうだった?」
 さっき勧誘してきた先輩が私を見つけ、近寄って話しかけてきた。私は別にテニスに興味があったわけではなく、まるで既にサークルメンバーの一員であるかのように打ち解けていた美穂が気になったのだ。
「あ、えっと……」
 私が言葉に詰まっていると、視線の先にいた彼女がこちらへやってくるのがわかった。その姿に「え⁉︎ こっちに来る!」と胸が高鳴り始めるのを感じた。
「あなた新入生? 私も今年入学したんだ。高梨美穂。よろしく!」
 やっぱりだ。私の思ったとおり、この人は先輩だろうと新入生だろうと関係なく、急に距離を詰めてくる。そんな驚きで頭がいっぱいになる。
「どこの学部? テニスサークルに入るの?」
 私が戸惑っているのを気にも留めず、美穂は自分のペースに引きずり込んでいく。いや、正確には気に留めていないのではなく、彼女は人の不安や戸惑いに鈍感なのだ。
「安岡由美です。経営学部です」
「あ、そうなの? 一緒じゃん! 私も経営学部なの! テニスにも興味ありって感じ?」
 彼女はさっき先輩たちに囲まれていたときに見せた屈託のない笑顔を私の目の前で見せた。そんな態度になぜか、自然とこっちも笑顔になってしまう。
「テニスには特に……」
「あはは! ここでそれは禁句だよー」
 その言葉に「確かに」と小さくつぶやいて、目を逸らす。
「先輩、由美も入らないみたいなので、私も入部はやめときまーす。由美、行こー」
 美穂は私の手を掴んで、先輩たちの間をかいくぐって外へ連れ出した。彼女の行動を見た先輩たちの視線を私は強く感じたけれど、美穂は何も気にかけていなかった。「この子は空気が読めないんだな」と、初対面ながらも認識したが、同時に私を下の名前で呼んだ彼女になぜか好感を覚えてしまう。
「ありがと! 由美!」
 テニスコートから離れた私は美穂に突然、お礼を言われた。
「え?」
 私は身に覚えのない感謝に戸惑ったが、彼女は私の戸惑いをひとつも感じ取っていなかったようだった。
「テニスサークル入る気なかったのよ、あたし。だから抜け出せてよかった」
 彼女は戸惑いや不安を感じ取れない。その一方で、私は先輩たちに囲まれて笑って話していた美穂の心の中を読み取れなかった。それに気がついた瞬間、「この子のことが知りたい」と強く思ってしまった。

——そんな出会いから数か月。
「本当に大丈夫なの?」
「ん? 何が?」
 私の言葉の意味をなかなか読み取ってくれない美穂に「テストだよ」と小さく返したが、彼女はオムライスをおいしそうに頬張っていた。

花火

 私は夕飯の買い物から帰る途中で、夕立に打たれてしまった。自転車のカゴにエコバッグを載せて急いでサドルにまたがると、愛する人の待つ家まで力いっぱいペダルを漕ぐ。家に着いたときには、上から下までびしょ濡れになってしまった。ドアの鍵を開けると、いつもならすぐに出迎えてくれる悠馬がこちらに来ない。不思議に思いつつも、私はびしょ濡れの状態では中には入れないため、大きな声をあげる。
「ゆうまー! タオルちょうだいー!」
 そんな私の声が届いたのか、悠馬はバスタオルを一枚持って玄関まで走ってきてくれた。
「はい。このタオルで大丈夫?」
 私の体をさりげなく心配してくれる悠馬の優しさが胸に刺さる。
「ありがと! ちょっと荷物持って入ってくれる?」
 バスタオルを受け取ると、悠馬にエコバッグを手渡す。そんなに多くのものを買ったわけではないから、重さはそれほどなかった。
「今日、何にしたの?」
「じゃがいもと玉ねぎとにんじんが安かったから、カレー」
 悠馬はエコバッグの中をのぞきこんで、「そっか」と小さくつぶやいた。
「なに? 今日はカレーの気分じゃない?」
 あまり気乗りしていないような彼の言葉に私は少し笑いながら尋ねる。
「そんなことないけど……」
 悠馬の態度が明らかにふてくされているのがわかった。私が作る夕飯にケチをつけたことはこれまで一度もなかったため、その態度が目につく。
「どうかしたの?」
「いや、ひかりが作るカレー嫌いじゃないけど、多分僕が作った方がおいしいだろうなー。と思って」
 その言葉にカチンときてしまった。
「なにそれ? なら、悠馬が作ればいいじゃん。人に夕飯作ってもらっといて、まずいってなに? むかつく」
 玄関で靴を脱ぐと、バスタオルを、エコバッグを持ったまま立っている男に向かって、勢いよく投げつける。
「別にいいけど、おいしいカレーができたら文句言わないでよ?」
 さらに大口を叩いてくる態度により一層、腹が立つ。返事はせずに、リビングのソファに腰をかけた。ふと、ベランダを見ると洗濯物がそのままになっていることに気がついた。
「もう! 洗濯物ぐらい入れてよ!」
「夕立じゃん。そのうち止むよ。別に今、入れなくても」
 なぜか今日に限って、悠馬は口答えをしてくる。「湿るの!」と強い口調で言い放ってから、急いでベランダに出て洗濯物を取り込む。
「細かいなー」
 ふてぶてしい態度で私に当たってくる彼に私の頭にはさらに血がのぼる。
「なんなの? ケンカしたいの? もう知らない」
 同じ空間にいると、もっと激しい言い合いになりそうだと思った私は寝室に向かって、ベッドに体を預ける。少し経ってから寝室のドアをノックする音が聞こえてきた。
「ひかり、開けるよ?」
 寝室の電気をつけていなかったから、小さな明かりが差し込む。
「なに?」
 私の怒りはまだ落ち着いてはいなかった。
「花火しにいかない?」
 彼の手には手持ち花火のセットが握られていた。どこに忍ばせていたのかもわからない。おそらく、私が寝ている間に目の前のコンビニに買いに行ったのだろう。
「雨降ってるんじゃないの?」
 びしょ濡れで帰ってきて、洗濯物も入れてなかったことをあえて思い出させてくるような気がして、また少しイライラしてくる。
「もう止んだよ。話したいことがあるんだ」
「花火しながら?」
 私はわざわざ花火なんてしなくても今、この場で言えばいいじゃないかと思ってしまう。
「うん。せっかく買ってきたし」
 やっぱり私が寝室にいる間に買ってきたようだった。悠馬が持っている花火のセットを見て、何かわけがあるのだろうと予想できた。
「わかった。用意するから待って」
「用意って? そのままでもいいよ?」
「雨のせいで化粧落ちたから、直したいの」
 女性の気持ちをなにもわかっていない目の前の男にどうしても苛立ってしまう。私も今日に限って、悠馬の態度が変なのは感じていた。
「夜だから、そんなに見えないと思うけどなー」
 ボソッと呟く彼の言葉をよそに女性としての身だしなみを整える。
「できたよ。行こう」
 二人で家の目の前にある公園まで手持ち花火とバケツを持って向かった。
「何からやるの?」
 悠馬は花火のセットを開けて、中から二本花火を抜き取ると私に一本くれる。
「どっちが最後まで火の玉を落とさないか勝負ね」
 ライターで火をつけると、二人してしゃがみ込んだ。暖かい色を放つ小さな玉はジリジリと音をたてる。
「実は今日、ひかりに僕の気持ちを話してみたんだよ。気がついてた?」
「なんかいつもと違うなーとは思ってた」
 私たちは手元の火の玉から目を逸らさずに話を続ける。
「一緒に住み始めてから、僕は自分の気持ちを言わないようにしてた。言ったら嫌われると思ったから」
 悠馬の声が小さくて、ジリジリという音が耳に残る。
「だけど、今日初めて自分の気持ちを勇気出して言ってみたんだ。そしたらさ、わかったんだよ」
 小さかった声が少しだけ強くなった気がした。
「なにがわかったの?」
 私はこれまで本音を話さなかったから、彼からようやく本当の想いが聞けると思うと、少しドキッとする。
「ひかりと一緒にいても僕は自分らしく生きられない」
「え?」
 突然、告げられた言葉に私は動揺してしまう。
「もう終わりにしよ」
 その瞬間、私の持っていた花火の小さな光は「ポトッ」という音をたてて地面に落ちた。
「ひかりの負けだね。帰ろ」

私たちは帰りの夜道でひと言も喋ることはなかった。家に帰ると、二人で最後の夕食の時間を過ごした。
悠馬の作ったカレーは私の作るものよりもずっとおいしくて、文句は言えなかった。

夏祭り

 私は地元の友達である朋子とともに朝日町の夏祭りに来ていた。朝日町の夏祭りはそれほど大きなものではないものの、町に住んでいる人たちがこぞって集う。やぐらの上には、大きな声で盆踊りの音頭を歌う自治会のおじさんと司会を担う外部から雇われた女性が立っている。
 夏祭りは小さな公園ではなく、町で一番大きい中学校で開催される。グラウンドには夏祭りには欠かせない出店もいくつも並ぶ。くじ引きや射的、金魚すくいといったエンタメ要素の強い屋台とかき氷、焼きそば、わたがしなどの食べ物の屋台。今日、この日にしか楽しめないものばかりが目の前に広がっていた。
 私と朋子は高校の同級生で唯一、親友と呼べる存在だ。私たちは進学を機に朝日町を出た。私は東京の大学生に、朋子は大阪の専門学校生になった。東京と大阪は物理的にも遠く、高校時代のように、毎日簡単に顔を合わせることもできない。それでも夏休みになると、お互い地元のこの町に帰省する。しかし、大学と専門学校の夏休み期間が微妙にズレるため、毎年休みが重なるタイミングは限られていた。そして、そのタイミングは決まって夏祭りの日程と重なるため、一緒に足を運ぶのが恒例になっていた。
 今年も屋台が並ぶ道を二人で歩きながら、私はかき氷を手に持ち、朋子はわたがしをちぎっては口に運ぶ。
「どうして夏祭りで食べるかき氷は、コンビニのかき氷よりおいしく感じるんだろうね?」
「夏の風情ってやつじゃない?」
 赤色に染まったフワッとした氷を先が弧を描いているストローですくい上げて、口の中に入れると、甘いシロップの味が広がる。朋子が食べている割り箸にまとわりついている白い雲のようなものも口の中でとけて消えていく。互いに食べているものは違えど、同じような感覚が私たちの中に生じていた。
「ちょっとちょうだい」
 朋子は私のいちごの蜜がかかった氷を見ながら、声をかけてくる。私はそっと、かき氷の入ったヨットが描かれているカップを渡す。同時に朋子は持っていたわたがしを私の手に持たせた。私は朋子から受け取った砂糖菓子をちぎって、口に入れた。いちごの味で満たされていた私の味覚は、さらに甘いものに反応する。
「わたがしって、夏祭りでしか食べないよね?」
「確かに、日頃から好んで買ったりはしないね。てか、そもそもあんまり売ってないし」
 朋子は「だから、食べたくなるんだよ」と付け加えた。私が「そんなもんかな?」と、首をかしげて聞くと「そんなもん」と一言だけ返ってきた。私はかき氷を朋子から受け取り、わたがしを元の持ち主へ返す。
「その浴衣、きれいだよね。毎年着てるけど、体型も変わってない証拠だね」
 朋子は私の着ている青を基調にした浴衣を上から下まで見ながら、感慨深そうにつぶやく。
「これ、お母さんが昔着てたんだって」
 私が浴衣の出どころを話すと、朋子は「そっか、おさがりかぁー」と首を後ろに少し引いて、うなずいた。
「朋子は着ないの? 浴衣」
 毎年、高校生の頃と同じようにTシャツとジーパン姿で夏祭りにやってくる朋子に問いかけてみる。
「なんか苦しいじゃん? 締め付けられるの嫌なんだよね」
 朋子の言うとおり、浴衣の悪いところは体が締め付けられるところだった。
「でも、年に一度だけだよ? 着るの」
「一度でも締め付けられるのはごめんなの。恋愛と一緒だよ」
 朋子のその言葉にハッとする。朋子は高校時代から彼氏がいても男友達とカラオケに行くぐらい自由奔放な生活を送っていた。対照的に私は今、付き合っている和馬以外の男性と遊ぶことは、まずない。それが私にとっての普通だった。
「朋子、今、彼氏は?」
 私は和馬の顔が浮かんだと同時にわたがしを無邪気に食べる顔を横目に見ながら聞いた。
「あー、最近別れた。結構長かったんだけどね。期間的には一年半ぐらいかな」
「どうして別れたの?」
 私は一年半も一緒にいたら、お互いのことが全くわからないような長さではない気がしていた。むしろ、いろいろ知っていくなかで、さらに愛が深まっていく最適な長さだと思う。
「浴衣だよ」
 これまでの会話の流れで、朋子が別れた理由のすべてが理解できた。
「私は好きだけどな。浴衣」
 私の言葉に朋子は「Tシャツとジーパンが一番!」と力強く言い返す。私は自分の着ている浴衣を見てから、朋子のTシャツとジーパンを上から下までまじまじと見た。
「そっか」
 渦を巻いた白い綿を頬張る身軽な格好の親友の隣で、赤い色をした細かい氷を口の中で溶かしながら、小さく返した。

台風

「まもなく台風九号が本州付近に接近します。強い暴風域を伴うため、万全の対策をとるようにしてください」
 テレビをつけると、指示棒を持ったメガネをかけた気象予報士が日本列島の下に渦巻いている白い円をさしながら注意を促していた。
「もうすぐ来るってよー」
「植木鉢とか家の中に入れたほうがいいかな?」
 父と母の動きが自然と慌ただしくなっていくのを、私はソファに座って携帯ゲームを片手に見ていた。台風の影響で電車が止まる可能性もあると、テレビの中の男性は続ける。明日、会社には行かなくていいかもしれない。そんな淡い期待さえ抱いてしまう。
「ちょっとー、あんたの自転車も飛ばされるかもしれないから紐でくくっといてよー。ゲームばっかりして!」
 母の言葉に「はぁー」と、小さいため息を吐き出してからゲームの電源を切った。私は渋々、腰を上げると玄関に向かう。扉を開けると「ゴォー」という音とともに強い風が私を襲う。台風はもうすぐそこまで来ているようだった。これだけの強風がすでに吹いているということは「明日は大荒れだな」と、頭がそんなによくない私でも体感でわかった。母に言われたとおり、家の前にある駐車場に置いていた自転車を固定しようと、何か支柱になるようなものがないかを探す。
「お母さーん。どこに止めればいいの?」
 玄関から少し大きめの植木鉢を懸命に運んで、家の中に入れている母に問いかける。
「もう! あんた、台風は今年初めて来たわけでもないのに、なんでわからないの! 支えになりそうなものであれば、なんでもいいわよ!」
 母のあいまいな答えに私は「そんなのわからないって」と愚痴をこぼしながらも、近くにある強そうなポールを探す。目についた倒れそうにないものは、黒色のポストだった。
「ポストならすぐには倒れないか。自転車の重さに耐え切れるかどうかは知らないけど」
 私はポストの支柱に自転車が飛ばされないようにロープを結ぶ。作業を終えると、母と父は家の外に置かれていた植木鉢をすべて家の中に入れ終わっていた。
「ねぇー、お姉ちゃん、明日学校休みかなー?」
 家に入ると、小学三年生になる弟の孝介が不安そうな顔で私に声をかけてきた。高校を卒業して社会人になって間もない私と孝介は歳の差が十も離れている。私もこのぐらいの年齢だったときは同じような顔をして、母に問いかけていた気がする。
「多分、明日は暴風警報が出るからお休みだと思うよ」
 孝介は私の返答に「やったー!」と喜びを爆発させる。そんな様子を見て、私は自分の会社もおそらく休みになるだろうという気持ちから「やったね!」と孝介とハイタッチをした。

 その日の夜、台風は西日本に最接近し、夕飯時を迎えた十九時には雨と風は激しくなった。これだけ強い風が吹いているけれど、私が結んだ自転車は大丈夫だろうか? 自分に命じられた作業がしっかり果たされているかが気になった。とはいえ、すでに外は大荒れだ。自転車の安否を確認するのは難しかった。そんなことを考えていると、ふと会社で編集しておいてほしいと言われていた書類があるのを思い出した。
「まぁ明日、電車止まるだろうし、まだいっか」
 私はかばんに入っている書類を出すこともせず、安全な家の中のソファに腰を下ろし、孝介と一緒にゲームを始める。
「お姉ちゃん、ちょっとは手加減してよー」
「あ、ごめん。ごめん」
 孝介が横で口を尖らせているのを見て、つい本気でやってしまっていたことに気がつく。自分の大人げない行動を反省した。
 時計が夜九時を指したタイミングで、母が「孝介、もう寝る用意するよ」と声をかけた。孝介は「えー」と渋っていたが、母に連れられて歯磨きをしに洗面所に向かっていった。そんな孝介を横目に見ながら、私はゲームを続ける。これが大人の特権というやつかもしれない。

 私の予想と反して、翌日、強い風と雨はおさまっていた。孝介が眠そうな目をこすりながら、私の顔を見るなり昨日のゲームでやられていたときの顔をして声をかけてくる。
「お姉ちゃん、台風いっちゃったじゃん。学校行かなきゃいけないよー」
「行っちゃったね。お姉ちゃんの予想外れちゃった。ごめんね」
 私の言葉に孝介は嫌そうな顔をしながら学校へ行く準備を始める。実際、完全に電車が止まることを期待していた私もがっかりしていた。孝介が用意をするのを見て、私は自分の準備を始める。
 家を出てみると、ポストに頑丈に結び付けられている自転車が目に入った。昨日、私が命じられた仕事はまっとうできていたのだと、ほっと胸を撫で下ろす。同時に私は一つ大事なことを思い出した。
「あ! 書類……」
 額から溢れ出る汗が台風が去ったあとのカンカン照りの太陽のせいなのか、これから上司にどんな言葉をかけられるのだろうという恐怖からなのかわからなかった。しかし、「台風のせいで」という言い訳が通じないということだけはわかっていた。

扇風機

 今年の夏も私たち家族は祖父母の家にやってきていた。正確には私の両親の家なので、子供たちにとってのおじいちゃんとおばあちゃんになる。祖父母の家は都会の喧騒から離れた山や川に囲まれた自然豊かな場所にポツンと佇んでいる。田舎特有の大きな家は都会にあれば、莫大な家賃になるだろう。小学二年生になる息子と幼稚園の年長に上がった娘は、いつも過ごしている小さな場所ではなく、広い部屋が連なる家の中を大声をあげて走り回る。
「ここはいつ来てもいいですね。空気が澄んでますし、慌ただしい日常を忘れられます」
「その口ぶりだと、仕事が忙しそうだね」
「そうですね。最近は午前中に外回りをして、午後は職場に戻ってパソコンにデータ入力してって感じで。この歳になると、体力的にもキツいんですよね」
 私たちは大きな台所が備え付けられた広い部屋の真ん中に置かれている丸いちゃぶ台を囲んで、夫は父に仕事の愚痴をこぼす。
「それでも同じ会社に勤めているのはすごいことだよ。今はどこを見ても転職の時代だろ?」
「そうですね。転職を考えたこともありますが、会社に引き止められてる感じです。お義父さんが毎日畑を耕していることを考えると甘い考えだと思いますが」
 夫は少し苦笑しながら父が現役で体を動かしているのを称賛する。そんな二人の会話を聞きながら、私は母と話し始める。
「お父さんの体の調子どうなの?」
「うん。今のところ安定してる。畑耕せるくらいまで体力も戻ってるしね」
 父は私たちが来る数週間前にぎっくり腰になってしまい、体を動かすこともできない状態だった。母から連絡をもらったときは「父が動けなくなった」という言葉に慌てたが、普通に動けている父を見ていると大したことがなくてよかったと思う。
「それにしても暑くない? まぁ夏だから仕方ないけど」
「そこの扇風機つけなさいよ」
 母は部屋の隅に置かれた古い扇風機を指差す。その扇風機は私が子供の頃から使っているものだった。羽は青色で、四角い土台の部分には角ばったボタンが「切・弱・中・強」と四つ並んでいる。私は扇風機のコードをコンセントに挿すと、弱のボタンを押す。すると、五枚の青い羽が勢いよく回り始めた。一番弱い力で動いているはずなのに、うちの扇風機の強ぐらいの風が来る。
「相変わらず、この扇風機涼しいね」
「昔のだからね」
 私は母の言葉に「まだ動いてるのがすごいよ」と返す。
「物持ちがいいんじゃなくて、丈夫にできてるんだよ。昔のものだからといって、簡単には壊れない」
 私と母の会話に父が口を挟んだ。
「でも、消費電力すごいんじゃない? さすがに省エネには対応してないでしょ?」
 弱でも強い風が吹く扇風機は少し運転させただけでも電気代が高くつくような気がした。
「省エネではないけど、動かす時間を調整すれば電気代はかからない。ものは使いようだ」
 父の説明に「なるほどね」と小さく納得する。
「人も一緒だ。年を取ると動きが鈍くなるというが、短時間の労働であれば全然動ける。まだまだ若者には負ける気は俺もない」
  父が長時間ではなく、短時間で少しずつ畑を耕すように力の配分をしているのが伝わってきた。
「だけど、新しいものの力も借りた方がいいときもあるわよ」
 母は部屋の上に備え付けられた真新しいエアコンに視線をやった。
「あれ、エアコン買い替えたの?」
「えぇ。前のはもう限界でね。電気代も高くついてたから」
 最新式のエアコンの底面には「省エネタイプ」と書かれていた。
「確かにあのエアコンはすごいぞ。何時間使っても前のと比べ物にならんくらい安い」
 さっき古くても使い方を工夫すればいいと強く言い放った父は、新しいエアコンのリモコンのボタンを押して運転させた。エアコンは静かに動き始め、数秒で涼しい風を私たちに送り始める。
「扇風機消すね」
 私はそう言って、扇風機の「切」ボタンを押した。

——数日後、私たち家族は祖父母の家を後にした。
「お義父さんもお義母さんも元気そうでよかったね」
「そうね。二人には長生きしてもらわないとね」
「二人の様子を見ながら、僕たちも力を貸してあげようね」
 夫の言葉を聞きながら、私は「そうね」と小さく返した。
 後部座席では息子と娘が静かに寝息を立てていた。

月刊「無色」 7月号

2026年7月9日 発行 初版

著  者:兼高貴也
発  行:無色出版

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兼高 貴也(かねたか たかや)

2006年より小説家として活動。
SF、日常系、ヒューマンドラマ、ファンタジーなど、幅広いジャンルの作品を執筆している。
主な代表作に『突然変異〜mutation〜』『LSCO〜大規模犯罪組織〜』『Legend of...』などがある。

2013年からは随筆家(エッセイスト)としても活動を開始。

主な受賞歴
・2013年『日々是好日 闘病記Ⅳ』
・2020年『人生十人十色2』

そのほか、ボーカロイド楽曲の作詞、マンガ原案、オーディオドラマの監督・脚本など、
ジャンルにとらわれない表現活動を行っている。

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