spine
jacket

───────────────────────



なぜ日本には女王が誕生したのか

Chan

Chan出版



───────────────────────

 目 次


なぜ日本には女王が誕生したのか ――乳児死亡率から読み解く縄文社会仮説


はじめに


女性共同体の誕生


男性の役割


父親より母親


女王とは何者だったのか


縄文時代のメタファーとして――「アイアムヒーロー」の「おばちゃんの若返り」


卑弥呼とアマテラス


世界との違い


縄文文化の名残


おわりに

なぜ日本には女王が誕生したのか ――乳児死亡率から読み解く縄文社会仮説



 もし人類が滅亡寸前になったら、私たちはどのような社会をつくるだろうか。

小松左京は『復活の日』でその問いを描いた。

花沢健吾は『アイアムアヒーロー』でその問いを描いた。

私は、その答えが縄文時代にすでに存在していたのではないかと考えている。

 現代では七五三は子どもの成長を祝う年中行事である。しかし、その起源をたどれば、『七歳まで無事に生きること』そのものが奇跡に近かった時代の記憶である。江戸時代でさえそうであったなら、縄文時代の乳幼児死亡率はさらに高かった可能性がある。私は、この厳しい現実こそが縄文社会の制度を形づくった最大の要因だったのではないかと考えている。

はじめに— 三つの謎から始まった旅

私は長い間、歴史の中にある三つの大きな謎について考え続けてきた。

一つ目は、なぜ日本には卑弥呼という女王が誕生したのか。

二つ目は、なぜ日本神話の最高神はアマテラスという女性なのか。

そして三つ目は、なぜ縄文時代は一万年以上という、人類史上でも類を見ない長い期間にわたって続いたのか。

これらは一見すると別々の問題のように見える。

卑弥呼は古代史の問題であり、アマテラスは神話の問題であり、縄文時代は考古学の問題である。

しかし私は、これら三つの謎は、実は一つの答えによって説明できるのではないかと考えるようになった。

その答えは、これまでほとんど注目されてこなかった「乳児死亡率」という視点である。

現代の日本では、医療の発達によって乳児死亡率は世界でも最も低い水準にある。しかし縄文時代には医療はなく、出産は命懸けだった。母親が命を落とすことも珍しくなく、多くの乳児が成長する前に亡くなったと考えられている。

もしそのような社会で、一人の母親が一人だけで子どもを育てていたとしたら、共同体は長く存続できただろうか。

私は難しかったと思う。

そこで私が考えたのが、女性たちによる共同生活である。

複数の女性が一つの共同体で生活し、共同で出産し、共同で授乳し、共同で子どもを育てる。誰かの子どもではなく、共同体全体の子どもとして育てる。母親が病気になっても、他の女性が育児を引き継ぐことができる。乳児が亡くなった母親も、母乳を別の子どもに与えることで共同体に貢献できる。

このような制度が存在したならば、乳児死亡率の高い社会でも子どもの生存率は高まり、人類はより安定して存続できたのではないだろうか。

そして、その共同体には秩序を維持する人物が必要になる。

それが女王である。

私が考える女王とは、巨大な権力を持つ支配者ではない。女性共同体の代表者であり、交渉役であり、調整役である。

男性は狩猟や漁労で得た食料を共同体へ運び、女王は共同体の窓口として受け入れを調整する。共同体の秩序を乱す者には一定期間の参加停止を命じることもあったかもしれない。しかし、その目的は処罰ではなく共同体を守ることにあった。

私は、このような女王像こそが、後の卑弥呼につながる原型だったのではないかと考えている。

さらに、このような女性共同体の長い伝統が神話として語り継がれ、日本神話の最高神が女性であるアマテラスになったのではないかというのが、私のもう一つの仮説である。

もちろん、本書で述べることを直接証明する考古学的資料は存在しない。

本書は既存の学説を紹介する本ではなく、一つの思考実験であり、一つの仮説である。

しかし、この仮説を考えるきっかけになったのは、歴史学だけではなかった。

小松左京の『復活の日』では、人類滅亡後、生き残った人々は人類再建という課題に直面する。原作では出産可能な女性はわずか十六人という極限状態である。そこでは恋愛や結婚よりも、人類という種を存続させることが最優先となる。

また、花沢健吾の『アイアムアヒーロー』では、文明崩壊後の八丈島に新しい共同体が築かれ、「種なんてどうでもいい」「全部私の子だ」という価値観が語られる。私はそこに、人類存続を最優先にした社会の姿を見た。そして、共同体の中心に立つ「おばちゃん」の姿に、原始の女王のひな形を重ね合わせた。

もちろん、これらの作品が縄文時代を描こうとしたという証拠はない。しかし、人類が極限状態に置かれたとき、作家たちが想像した社会は、私が考える縄文社会と驚くほど共通していた。

本書は、「縄文時代とはどのような社会だったのか」を論じる本であると同時に、「人類は危機に直面したとき、どのような社会制度を選ぶのか」を考える本でもある。

なぜ日本には女王が誕生したのか。

なぜアマテラスは女性なのか。

なぜ縄文時代は一万年以上も続いたのか。

私は、この三つの謎は、一つの鍵によって解けるのではないかと考えている。

その鍵とは、人類を存続させようとした女性たちの知恵である。

本書が、読者にとって縄文時代を「過去の歴史」ではなく、「未来の社会を考えるためのヒント」として見つめ直すきっかけになれば幸いである。

女性共同体の誕生

 そこで考えたのが女性共同体である。

現代風に言えば女性専用シェアハウスである。

そこには、

妊婦

授乳中の女性

子育て中の女性

祖母

若い女性

などが共同生活を送る。

子どもは実母だけではなく共同体全体で育てられる。

母親が病気になれば別の女性が世話をする。

母乳が不足すれば別の女性が授乳する。

乳児が死亡した女性も、別の乳児に授乳することで乳房の張りを和らげることができる。

共同授乳は乳児だけではなく女性自身にも利益がある。

この制度なら乳児の生存率は高くなる可能性がある。

男性の役割

 

 男性は女性共同体とは別に生活する。

役割は

狩猟

漁労

採集

食料運搬

である。

食料を女性共同体へ届け、その対価として一定期間だけ宿泊を許される。

後の通い婚や夜這いには、このような古い生活様式の名残があるのではないかと考えている。

父親より母親


 この制度では多くの男性が女性共同体を訪れる。

すると父親は分からない場合がある。

しかし母親は明らかである。

したがって血縁は父系ではなく母系で管理した方が合理的になる。

母系社会とは思想ではなく、

生活様式から自然に生まれた制度だった可能性がある。

女王とは何者だったのか



 私の仮説では、縄文時代の女王とは、巨大な権力を持つ支配者ではなく、女性共同体を維持するための「運営責任者」であった。

縄文時代は乳児死亡率が極めて高く、一人の母親だけで子どもを育てることは非常に困難だったと考えられる。そのため、多くの女性が共同生活を送り、共同育児や共同授乳を行う「女性共同体」が形成されたのではないだろうか。

男性は狩猟や漁労によって得た食料を女性共同体へ運び、その共同体との関係を築いていたと私は考える。その際、共同体の窓口となる女性が必要になる。それが女王である。

女王は共同体の門番であり、男性との交渉役でもあった。食料を受け取り、それを共同体に分配し、共同体への受け入れを調整する。ここで重要なのは、女王は女性に男性との関係を強制する存在ではなく、女性たちの意思を尊重しながら共同体全体の利益を考えて調整する立場だったという点である。

共同体には秩序が必要である。暴力を振るう男性や、共同体の規律を乱す男性に対しては、一定期間、共同体への立ち入りを禁止するような措置があった可能性もある。しかし、その処分は永久追放ではなく、数か月程度の期限付きだったのではないか。永久に排除すれば報復や対立を招き、共同体そのものが危険にさらされるからである。

一定期間が過ぎれば、男性は再び共同体に参加できる。その際には、狩猟で得た獲物などを共同体に提供し、自らの誠意を示した可能性も考えられる。これは現代の意味での罰金ではなく、共同体との信頼関係を回復するための「償いの贈与」であったのかもしれない。

つまり女王の最大の仕事は、共同体への出入りを管理し、人間関係を調整し、争いを未然に防ぐことであった。権力によって人々を支配するのではなく、対話と調整によって共同体を維持する存在だったのである。

もしこのような制度が存在したならば、女王は政治と宗教を兼ね備えた存在として共同体から尊敬され、その伝統は後の卑弥呼へ、さらには女性の最高神であるアマテラスへと受け継がれていった可能性もある。

もちろん、このような女性共同体や女王の具体的な役割を直接示す考古学的証拠は、現在のところ見つかっていない。本章は、乳児死亡率という生物学的条件から縄文社会を再構成した一つの仮説である。しかし私は、この視点に立つことで、「なぜ日本には女王が存在したのか」という長年の謎を、一つの筋道だった物語として説明できるのではないかと考えている。

「復活の日」の人類再建計画



 小松左京の『復活の日』は、人類滅亡を描いたSF小説として知られている。しかし、私が最も注目したのはウイルスでも核戦争でもない。その後に待ち受ける「人類をいかに再建するか」という問題である。

作中では致死性ウイルスによって人類のほとんどが死滅し、南極にいたわずかな人々だけが生き残る。原作小説では、その中で出産可能な女性はわずか十六人という極めて厳しい設定になっている。

ここで重要なのは、もはや恋愛や結婚という個人の問題ではなく、「人類という種を存続させること」が最優先課題になることである。

もし一夫一妻制をそのまま維持すれば、人口の回復には何世代もの時間が必要となる。しかも女性の数が極端に少ない以上、人類再建は極めて困難になる。そこで小説では、人類全体の未来を考えた再建計画が議論される。

私は、この設定を読んだとき、縄文時代も本質的には同じ問題を抱えていたのではないかと考えた。

縄文時代には世界的な感染症こそなかったが、医療技術は存在せず、乳児死亡率は極めて高かった。多くの子どもが幼いうちに亡くなり、母親も出産で命を落とした。つまり縄文時代とは、一万年以上にわたって「人類存続の危機」が続いた社会だったのである。

危機の原因は異なる。しかし、人類を存続させるという課題は同じである。

『復活の日』では、その課題に対して人類再建計画という答えが提示された。

私は、縄文人もまた同じ課題に直面し、その答えとして女性を中心とする共同体を築いたのではないかと考えている。

女性たちは共同で子どもを育て、授乳し、次の世代を守る。その共同体を代表し、秩序を維持する存在が女王だったのではないだろうか。

もちろん、小松左京は縄文社会を書いたわけではない。しかし、人類が滅亡寸前という極限状況を徹底的に考え抜いた結果、「従来の社会制度では人類を存続させることはできない」という結論に至った点は重要である。

私は、『復活の日』の人類再建計画は、縄文社会を考える上で大きな示唆を与えてくれると思う。

もし人類が再び滅亡の危機に直面したとき、私たちはどのような社会を築くのだろうか。

その問いに対する答えは、未来ではなく、一万年以上続いた縄文社会の中にあるのかもしれない。

縄文時代のメタファーとして――「アイアムヒーロー」の「おばちゃんの若返り」



 終盤では、ヘリコプターで脱出した生存者たちが島(一般には八丈島と解釈されています)にたどり着き、新しい共同体を築きます。そこでは「おばちゃん」と呼ばれていた女性が若返り、子どもを産んでいることが描かれます。また、従来の家族制度ではなく、生存者全体で次世代を残していくことを示唆する。

* 人類存続が最優先になる。
* 一夫一妻という近代的家族制度は事実上意味を失う。
* 女性が共同体の将来を担う中心的存在になる。

漫画家の花澤健吾の人類が滅亡寸前になった世界を描くと、そこには一夫一妻制ではなく、人類存続を最優先する共同体が現れる。私はその姿に、縄文社会の原型を見た。

花沢健吾は、人類滅亡後の共同体を描く中で、「種なんてどうでもいい」「全部私の子だ」という価値観を登場人物に語らせた。

そこでは父親は重要ではなく、子どもは共同体全体の未来である。

私はこの場面を読んだとき、「これは縄文社会の論理ではないか」と感じた。

漫画「アイアムヒーロー」の「おばちゃん」について

 私は、花沢健吾の漫画『アイアムアヒーロー』の終盤に描かれた「おばちゃん」の存在に、縄文時代を象徴するメタファー(比喩)を見た。

文明が崩壊し、人類が滅亡寸前に追い込まれた世界で、生き残った人々は八丈島に新たな共同体を築く。その共同体では、従来の結婚制度や家族制度は意味を失い、人類を存続させることが何よりも優先される。

そこで描かれるのが「おばちゃん」である。

彼女は若返り、多くの子どもを産み育て、共同体の中心的存在となる。そして「種なんてどうでもいい」「全部私の子だ」と語る。その言葉は、父親が誰であるかではなく、子どもたち全員が共同体の未来であるという思想を象徴している。

私は、この「おばちゃん」こそ、原始的な女王のひな形ではないかと思う。

もちろん、花沢健吾が縄文時代をモデルにしてこの人物を描いたという証拠はない。しかし、人類滅亡という極限状況を徹底的に考え抜いた結果として生まれた共同体の姿は、私が考える縄文社会の姿と驚くほどよく似ている。

私の仮説では、縄文時代もまた、人類存続の危機に直面した社会だった。感染症による急激な絶滅ではない。しかし、医療のない時代には乳児死亡率が極めて高く、多くの子どもが成長する前に命を落とした。出産もまた命懸けであり、人類は一万年以上にわたって「慢性的な存続の危機」の中に置かれていたのである。

そのような社会では、一人の母親だけで子どもを育てることは難しい。女性たちは共同生活を送り、共同で育児と授乳を行い、子どもを共同体全体で育てたのではないか。そして、その共同体をまとめ、人々を調整し、秩序を維持した存在こそが女王だったと私は考える。

私にとって、『アイアムアヒーロー』の「おばちゃん」は、そのような原始の女王を現代人にも理解できる形で表現したメタファーである。彼女は権力者ではない。共同体の母であり、人類存続の象徴なのである。

もし私の仮説が正しいなら、卑弥呼やアマテラスもまた、このような女性共同体の長い伝統の上に現れた存在だったのかもしれない。

卑弥呼とアマテラス



 三世紀になると卑弥呼が現れる。

彼女は政治だけではなく祭祀も司った。

日本神話ではアマテラスが最高神となる。

どちらも女性であり、

共同体の中心であり、

宗教的権威を持つ。

もし縄文時代から女性共同体が存在したなら、

その伝統が弥生時代を経て卑弥呼やアマテラス信仰へ受け継がれた可能性も考えられる。

もちろん現段階では証明されていない。

しかし、

「なぜ日本だけ女性の最高権威が存在したのか」

という問いに対する一つの説明にはなり得る。

世界との違い


 世界には一夫多妻社会が多く存在した。

権力者が多数の女性を独占する社会では、

男性同士の競争が激しくなり、

女性の獲得をめぐる争いも起こりやすい。

一方、私が考える女性共同体では、

女性が共同生活を送り、

共同体全体で子どもを育てる。

男性は食料を供給する役割を担う。

もし暴力的な男性が現れれば、

共同体から受け入れられなくなる。

女性共同体が協力して拒絶すれば、

暴力は共同体にとって不利な行動となる。

このような仕組みが共同体の秩序維持に役立った可能性もある。

縄文文化の名残



 日本には縄文文化の名残と思われるものがいくつも存在する。

夜に男性が女性を訪ねる通い婚や夜這い。

土器を使った煮炊きから続く鍋料理。

土間を持つ住居。

自然そのものを神聖視する信仰。

これらは縄文文化との連続性を指摘する研究もある。

私の仮説では、

これらに加えて女王制も縄文社会の名残だった可能性がある。

おわりに—縄文は過去ではなく未来である

本書で私が提示したのは、一つの仮説である。

縄文時代には女性たちが共同生活を送り、共同で出産と子育てを行い、その共同体をまとめる存在として女王がいたのではないか。そして、その社会制度こそが一万年以上にわたって縄文文化を存続させた原動力ではなかったのか、という仮説である。

もちろん、現在の考古学や人類学には、これを直接証明する資料は存在しない。縄文時代には文字がなく、人々がどのような社会制度を築いていたのかを知ることは容易ではない。

しかし、私は一つの疑問を持ち続けてきた。

なぜ日本には卑弥呼という女王が誕生したのか。

なぜ日本神話の最高神はアマテラスという女性なのか。

そして、なぜ縄文文化は一万年以上という世界でも類を見ない長い時間を生き続けることができたのか。

私は、この三つの謎は別々の問題ではなく、一つの問いなのではないかと考えるようになった。

その出発点となったのは、乳児死亡率である。

現代の日本では、乳児死亡率は世界でも最も低い水準にある。しかし縄文時代には医療は存在せず、出産は命懸けであり、多くの子どもが幼いうちに命を落とした。人類は決して安定した環境で暮らしていたわけではない。

私は、この状況を「慢性的な人類存続の危機」と考えた。

そして、その危機に対応するために生まれた社会制度こそが、女性共同体であり、共同育児であり、母系社会であり、その中心に立つ女王だったのではないかという考えに至った。

この考えを強くしたのは、歴史書ではなく文学や漫画だった。

小松左京の『復活の日』では、人類が滅亡寸前となり、生き残ったわずかな人々が人類再建という課題に直面する。そこでは個人の恋愛や結婚よりも、人類という種を存続させることが最優先となる。

花沢健吾の『アイアムアヒーロー』では、文明崩壊後の八丈島で新しい共同体が築かれる。そして「おばちゃん」と呼ばれる女性は、「種なんてどうでもいい」「全部私の子だ」という思想を語る。

私は、この「おばちゃん」に原始の女王の姿を見た。

もちろん、花沢健吾が縄文時代を描こうとしたという証拠はない。しかし、人類滅亡という極限状態を想像した結果として描かれた共同体は、私が考える縄文社会の姿と驚くほど似ていた。

もし人類が再び滅亡の危機に直面したなら、私たちはどのような社会を築くだろうか。

国家は残るだろうか。

戸籍制度は残るだろうか。

一夫一妻制度はそのまま維持されるだろうか。

私は、人類存続が最優先となる社会では、多くの制度が姿を変えるだろうと考えている。

そして、そのとき人類は、未来へ進むのではなく、縄文時代に学ぶことになるのではないだろうか。

私は縄文時代を「原始的で遅れた社会」とは考えていない。

むしろ、一万年以上にわたって戦争や国家権力に依存せず、共同体を維持した世界でも稀有な文明だったのではないかと考えている。

その知恵は、現代社会にも通じるものがある。

本書では国家神道ではなく、そのはるか以前から続いてきた日本人の自然観や共同体の思想にも触れた。もし神話や祭祀の根底に縄文以来の伝統が息づいているのだとすれば、卑弥呼やアマテラスは単なる伝説上の人物ではなく、人類存続のために共同体を支えた女性たちの記憶が形を変えて受け継がれた存在なのかもしれない。

本書は、既存の学説を否定するために書いたものではない。

私は考古学者でも人類学者でもない。一人の読者として、歴史の中に残されたいくつもの謎を、自分なりに一本の線で結んでみたいと思ったのである。

その線が正しいかどうかは、これからの研究によって検証されるべきだろう。

しかし私は、一つだけ確信していることがある。

歴史を学ぶとは、過去を知ることだけではない。

未来を考えることである。

人類が危機に直面したとき、どのような社会が人々を救うのか。

その問いに対する答えは、最先端の技術だけでなく、一万年以上前の縄文人が築いた社会の中にも眠っているのではないだろうか。

本書が、読者の皆さんにとって「なぜ日本には女王がいたのか」「なぜ縄文文化はこれほど長く続いたのか」という問いを、新たな視点から考えるきっかけになれば、著者としてこれ以上の喜びはない。

なぜ日本には女王が誕生したのか――乳児死亡率から読み解く縄文社会仮説

2026年7月19日 発行 初版

著  者:Chan
発  行:Chan出版

bb_B_00184163
bcck: http://bccks.jp/bcck/00184163/info
user: http://bccks.jp/user/131725
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

Chan

電子書籍の作成に興味あり。

jacket