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なぜ日本には女王が誕生したのか ――乳児死亡率から読み解く縄文社会仮説
現代では七五三は子どもの成長を祝う年中行事である。しかし、その起源をたどれば、『七歳まで無事に生きること』そのものが奇跡に近かった時代の記憶である。江戸時代でさえそうであったなら、縄文時代の乳幼児死亡率はさらに高かった可能性がある。
江戸時代の最高権力者である将軍家ですら、約3割が乳児期に死亡し、約半数が3歳までに死亡していた。そうであるならば、医療も衛生もはるかに未発達だった縄文時代では、人口維持が共同体最大の課題であったと考えるのは自然ではないだろうか。
私は、この厳しい現実こそが縄文社会の制度を形づくった最大の要因だったのではないかと考えている。
もし人類が滅亡寸前になったら、私たちはどのような社会をつくるだろうか。
小松左京は『復活の日』でその問いを描いた。
花沢健吾は『アイアムアヒーロー』でその問いを描いた。
私は、その答えが縄文時代にすでに存在していたのではないかと考えている。
私は長い間、歴史の中にある三つの大きな謎について考え続けてきた。
一つ目は、なぜ日本には卑弥呼という女王が誕生したのか。
二つ目は、なぜ日本神話の最高神はアマテラスという女性なのか。
世界を見渡せば、最高権力者も最高神も男性である社会が圧倒的に多い。古代中国、ローマ、ギリシャ、インド、中東など、多くの文明では男性が政治と宗教の中心を担ってきた。
そして三つ目は、なぜ縄文時代は一万年以上という、人類史上でも類を見ない長い期間にわたって続いたのか。
これらは一見すると別々の問題のように見える。
卑弥呼は古代史の問題であり、アマテラスは神話の問題であり、縄文時代は考古学の問題である。
しかし私は、これら三つの謎は、実は一つの答えによって説明できるのではないかと考えるようになった。
その答えは、これまでほとんど注目されてこなかった「乳児死亡率」という視点である。
現代の日本では、医療の発達によって乳児死亡率は世界でも最も低い水準にある。しかし縄文時代には医療はなく、出産は命懸けだった。母親が命を落とすことも珍しくなく、多くの乳児が成長する前に亡くなったと考えられている。
もしそのような社会で、一人の母親が一人だけで子どもを育てていたとしたら、共同体は長く存続できただろうか。
私は難しかったと思う。
そこで私が考えたのが、女性たちによる共同生活である。
複数の女性が一つの共同体で生活し、共同で出産し、共同で授乳し、共同で子どもを育てる。誰かの子どもではなく、共同体全体の子どもとして育てる。母親が病気になっても、他の女性が育児を引き継ぐことができる。乳児が亡くなった母親も、母乳を別の子どもに与えることで共同体に貢献できる。
このような制度が存在したならば、乳児死亡率の高い社会でも子どもの生存率は高まり、人類はより安定して存続できたのではないだろうか。
そして、その共同体には秩序を維持する人物が必要になる。
それが女王である。
私が考える女王とは、巨大な権力を持つ支配者ではない。女性共同体の代表者であり、交渉役であり、調整役である。
男性は狩猟や漁労で得た食料を共同体へ運び、女王は共同体の窓口として受け入れを調整する。共同体の秩序を乱す者には一定期間の参加停止を命じることもあったかもしれない。しかし、その目的は処罰ではなく共同体を守ることにあった。
私は、このような女王像こそが、後の卑弥呼につながる原型だったのではないかと考えている。
さらに、このような女性共同体の長い伝統が神話として語り継がれ、日本神話の最高神が女性であるアマテラスになったのではないかというのが、私のもう一つの仮説である。
小松左京の『復活の日』では、人類滅亡後、生き残った人々は人類再建という課題に直面する。原作では出産可能な女性はわずか十六人という極限状態である。そこでは恋愛や結婚よりも、人類という種を存続させることが最優先となる。
また、花沢健吾の『アイアムアヒーロー』では、文明崩壊後の八丈島に新しい共同体が築かれ、「種なんてどうでもいい」「全部私の子だ」という価値観が語られる。私はそこに、人類存続を最優先にした社会の姿を見た。そして、共同体の中心に立つ「おばちゃん」の姿に、原始の女王のひな形を重ね合わせた。
人類が極限状態に置かれたとき、作家たちが想像した社会は、私が考える縄文社会と驚くほど共通していた。
本書は、「縄文時代とはどのような社会だったのか」を論じる本であると同時に、「人類は危機に直面したとき、どのような社会制度を選ぶのか」を考える本でもある。
なぜ日本には女王が誕生したのか。
なぜアマテラスは女性なのか。
なぜ縄文時代は一万年以上も続いたのか。
私は、この三つの謎は、一つの鍵によって解けるのではないかと考えている。
その鍵とは、人類を存続させようとした女性たちの知恵である。
本書が、読者にとって縄文時代を「過去の歴史」ではなく、「未来の社会を考えるためのヒント」として見つめ直すきっかけになれば幸いである。

「男女(おのこめのこ)族(うから)同じく臥(ふ)し、父子(かぞこ)別(わく)こと無し」
私はこの一文を読んだ瞬間、日本の歴史は書き換えられるのではないかと思った。
学校で教わる日本史は、稲作が伝わり、ヤマト朝廷が日本を統一し、国家が成立したという物語である。
しかし、『日本書紀』は、その物語の片隅に、まるで異世界を見るような一文を書き残している。
「男女は一緒に寝起きをし、父と子を区別しない。」
長い間、この文章は「野蛮な蝦夷の風俗」と説明されてきた。
本当にそうだろうか。
私は違うと思う。
ヤマト朝廷が見たのは、野蛮な人々ではない。
自分たちとはまったく異なる社会制度だったのである。
ここで一度立ち止まって考えてみたい。
もし現代の日本人が未知の文明へ行き、
「家族という制度が存在しない。」
そんな社会を見たらどう思うだろう。
「未開だ。」
そう考えるかもしれない。
しかし、その文明にも彼らなりの合理性がある。
ヤマト朝廷も同じだった。
彼らは農耕国家である。
土地を耕し、家を継ぎ、血統を守る。
父親が誰であるかは極めて重要だった。
ところが蝦夷社会では、
「父子別こと無し。」
父親という概念そのものが、ヤマト朝廷ほど重要ではなかった可能性がある。
私は、この一文は日本列島に存在したもう一つの文明を示していると思う。
それは国家が違うという意味ではない。
社会を動かす基本OSが違ったのである。
私は、このOSを縄文OSと呼びたい。
ヤマト朝廷のOSは農耕である。
土地を所有し、
財産を相続し、
家を守り、
父系で血統を管理する。
しかし縄文は違う。
狩猟、採集、漁労。
自然から命をいただく生活である。
そこでは土地より人が重要になる。
家より共同体が重要になる。
父親より子どもが重要になる。
つまり、
社会を維持する仕組みそのものが違う。
私は『日本書紀』のこの一文を読んだとき、
それは単なる風俗ではなく、
縄文文明が最後に残したメッセージだったのではないかと思った。
では、
なぜそのような社会が必要だったのか。
私は長い間、その理由が分からなかった。
しかし人口史を調べていて、一つの事実に出会った。
縄文時代、日本列島の人口はわずか数万人から二十数万人程度で推移したと考えられている。
さらに乳児死亡率は現代とは比較にならないほど高かった。
生まれた子どもの多くが大人になる前に命を落としていた。
共同体は常に消滅の危機にあったのである。
そう考えると、
社会制度はまったく違って見えてくる。
社会の目的は、
財産を守ることではない。
人口を維持することである。
そこから私は、
女性共同体という考え方にたどり着いた。
この本は、
縄文文化を紹介する本ではない。
蝦夷を礼賛する本でもない。
私が本当に知りたいのは、
たった一つのことである。
なぜ、日本の最高神アマテラスは女性だったのか。
私は、その答えは神話ではなく、
『日本書紀』が何気なく書き残した
「男女族同じく臥し、父子別こと無し」
という一文の中に隠されていると考えている。
この本は、その謎を解く旅である。
私は、縄文時代の社会を考える上で、すべての出発点は極めて高い乳児死亡率にあると考えている。
現代のように医療も衛生も栄養も整った社会ではない。妊娠や出産は命懸けであり、生まれた子どもの多くは幼いうちに命を落とした。もし人口を維持できなければ共同体そのものが消滅する。そのような社会では、狩猟や土器づくりよりも重要な課題は、「いかに多くの子どもを産み、育て、生き残らせるか」であったはずである。
私は、この課題に対する縄文人の答えが女性共同体だったのではないかと考えている。
従来の歴史観では、家族を夫婦と子どもから成る単位として考えがちである。しかし、それは近代や父系社会の価値観である。縄文時代には、そのような家族制度はまだ成立していなかったのではないだろうか。
私が想像する女性共同体は、現代で言えば女性だけが暮らすシェアハウスに近い。しかし、その役割ははるかに重要である。
そこは、子どもを育てる場所であると同時に、子どもを授かる場所でもあった。
つまり、共同保育所であると同時に、生殖という共同体の未来を担う場所でもあったのである。
女性たちは集団で生活し、妊娠した女性を皆で支え、出産を助け、母乳が出る女性は自分の子だけではなく他人の子にも授乳する。子どもは母親一人ではなく、共同体全体で育てられた。
一方、男性は狩猟や漁労を行い、獲物や魚を女性共同体へ運んだ。
ここで重要なのは、私はそれが単なる食料の配達ではなかったと考えていることである。
男性にとって女性共同体を訪れることは、生殖の機会を得ることでもあった。
危険を冒して鹿を仕留め、魚を大量に獲る。その成果を共同体へ持ち帰れば、自らの評価が高まり、女性との性行為の機会を得られる。狩猟は食料獲得であると同時に、次世代へ命をつなぐための競争でもあったのではないか。
もちろん、これは現代の恋愛や結婚とは異なる。
生殖は個人だけの問題ではなく、共同体全体の存続に関わる社会的な営みだったのである。
そのため、この女性共同体は、現代の価値観で見れば「子育て施設」であるだけでは説明できない。
子育ての場であり、子作りの場でもあった。
私は、この二つの機能が一体となって初めて、縄文社会は長期間人口を維持できたのではないかと考えている。
そして、この共同体には必ず調整役が必要だった。
それが私の考える女王である。
女王は神秘的な巫女ではなく、共同体を運営する実務家だった。
男性が持ち込んだ食料を受け取り、それを女性や子どもたちへ公平に分配する。
共同体の秩序を守る。
暴力的な男性には一定期間の立ち入り禁止という処分を与える。
共同体に大きく貢献した男性には歓迎の意を示し、女性たちとも相談しながら性交サービスを提供する。
この共同体は現在でいえば風俗店、ソープランドのようなところでもあったと思う。
私は、この女王には、近世の遊郭で女性たちをまとめ、客との交渉を行った「やり手婆」のような現実的な交渉能力もあったのではないかと想像している。
もちろん、それは女性に命令する支配者ではない。
女性たちの意思を尊重しながら共同体全体の利益を考える調整者である。
きれいごとだけでは共同体は一万年も続かない。
人間の欲望も競争心も利用しながら、争いを最小限に抑え、共同体を存続させる知恵が必要だったはずである。
私は、女性共同体とは単なる住居ではなく、出産・生殖・共同保育・食料分配・男女の交流という五つの機能を一体化した社会制度だったと考えている。
この制度があったからこそ、高い乳児死亡率という過酷な環境の中でも、日本の縄文社会は一万年以上という人類史上まれに見る長い安定を実現できたのではないだろうか。
「なぜ日本には卑弥呼やアマテラスのような女性を中心とする伝統が生まれたのか」「なぜ縄文文化は一万年以上も続いたのか」という謎を説明する一つの仮説として、私はこの女性共同体という社会制度を提示したい。
男性は女性共同体とは別に生活する。
役割は
狩猟
漁労
採集
食料運搬
である。
食料を女性共同体へ届け、その対価として一定期間だけ宿泊を許される。
後の通い婚や夜這いには、このような古い生活様式の名残があるのではないかと考えている。
この制度では多くの男性が女性共同体を訪れる。
すると父親は分からない場合がある。
しかし母親は明らかである。
したがって血縁は父系ではなく母系で管理した方が合理的になる。
母系社会とは思想ではなく、
生活様式から自然に生まれた制度だった可能性がある。
私の仮説では、縄文時代の女王とは、巨大な権力を持つ支配者ではなく、女性共同体を維持するための「運営責任者」であった。
縄文時代は乳児死亡率が極めて高く、一人の母親だけで子どもを育てることは非常に困難だったと考えられる。そのため、多くの女性が共同生活を送り、共同育児や共同授乳を行う「女性共同体」が形成されたのではないだろうか。
男性は狩猟や漁労によって得た食料を女性共同体へ運び、その共同体との関係を築いていたと私は考える。その際、共同体の窓口となる女性が必要になる。それが女王である。
女王は共同体の門番であり、男性との交渉役でもあった。食料を受け取り、それを共同体に分配し、共同体への受け入れを調整する。ここで重要なのは、女王は女性に男性との関係を強制する存在ではなく、女性たちの意思を尊重しながら共同体全体の利益を考えて調整する立場だったという点である。
私の考える縄文の女王は、王座に座る支配者ではない。むしろ、共同体の玄関口に立ち、外部の男性と交渉し、食料を受け取り、女性たちの意思を尊重しながら秩序を守る調整者だったのではないか。その姿は、近世の遊郭で女性たちをまとめ、客との交渉を担った「やり手婆」の役割に、どこか通じるものがある。もちろん制度も目的も全く異なるが、「女性集団を守る年長の交渉役」という機能には共通点が見いだせる。
そこは子どもを共同で育てる場であると同時に、新しい命を授かる場でもあった。
食料の提供の報酬として性行為を提供する場所でもあった。
だからこそ、男女の感情や嫉妬、競争心を調整する能力が何より重要だったのである。
現代に最も近い役割を探すなら、私は「やり手婆」という存在を思い浮かべる。
女性たちを守り、外部の男性と交渉し、共同体の秩序を維持するという「役割」の比喩である。私は、縄文の女王には、このような現実的な交渉力と人間観察力が備わっていたのではないかと考える。
共同体には秩序が必要である。暴力を振るう男性や、共同体の規律を乱す男性に対しては、一定期間、共同体への立ち入りを禁止するような措置があった可能性もある。
つまり、この男性は性交の機会がなくなる。
しかし、その処分は永久追放ではなく、数か月程度の期限付きだったのではないか。永久に排除すれば報復や対立を招き、共同体そのものが危険にさらされるからである。
一定期間が過ぎれば、男性は再び共同体に入室できる。その際には、狩猟で得た獲物などを共同体に提供し、自らの誠意を示した可能性も考えられる。これは現代の意味での罰金ではなく、共同体との信頼関係を回復するための「償いの贈与」であったのかもしれない。
つまり女王の最大の仕事は、共同体への出入りを管理し、人間関係を調整し、争いを未然に防ぐことであった。権力によって人々を支配するのではなく、対話と調整によって共同体を維持する存在だったのである。
もしこのような制度が存在したならば、女王は政治と宗教を兼ね備えた存在として共同体から尊敬され、その伝統は後の卑弥呼へ、さらには女性の最高神であるアマテラスへと受け継がれていった可能性もある。
私は、この視点に立つことで、「なぜ日本には女王が存在したのか」という長年の謎を、一つの筋道だった物語として説明できるのではないかと考えている。
小松左京の『復活の日』は、人類滅亡を描いたSF小説として知られている。しかし、私が最も注目したのはウイルスでも核戦争でもない。その後に待ち受ける「人類をいかに再建するか」という問題である。
作中では致死性ウイルスによって人類のほとんどが死滅し、南極にいたわずかな人々だけが生き残る。原作小説では、その中で出産可能な女性はわずか十六人という極めて厳しい設定になっている。
ここで重要なのは、もはや恋愛や結婚という個人の問題ではなく、「人類という種を存続させること」が最優先課題になることである。
もし一夫一妻制をそのまま維持すれば、人口の回復には何世代もの時間が必要となる。しかも女性の数が極端に少ない以上、人類再建は極めて困難になる。そこで小説では、人類全体の未来を考えた再建計画が議論される。
私は、この設定を読んだとき、縄文時代も本質的には同じ問題を抱えていたのではないかと考えた。
縄文時代には世界的な感染症こそなかったが、医療技術は存在せず、乳児死亡率は極めて高かった。多くの子どもが幼いうちに亡くなり、母親も出産で命を落とした。つまり縄文時代とは、一万年以上にわたって「人類存続の危機」が続いた社会だったのである。
危機の原因は異なる。しかし、人類を存続させるという課題は同じである。
『復活の日』では、その課題に対して人類再建計画という答えが提示された。
私は、縄文人もまた同じ課題に直面し、その答えとして女性を中心とする共同体を築いたのではないかと考えている。
女性たちは共同で子どもを育て、授乳し、次の世代を守る。その共同体を代表し、秩序を維持する存在が女王だったのではないだろうか。
もちろん、小松左京は縄文社会を書いたわけではない。しかし、人類が滅亡寸前という極限状況を徹底的に考え抜いた結果、「従来の社会制度では人類を存続させることはできない」という結論に至った点は重要である。
私は、『復活の日』の人類再建計画は、縄文社会を考える上で大きな示唆を与えてくれると思う。
もし人類が再び滅亡の危機に直面したとき、私たちはどのような社会を築くのだろうか。
その問いに対する答えは、未来ではなく、一万年以上続いた縄文社会の中にあるのかもしれない。
終盤では、ヘリコプターで脱出した生存者たちが島(一般には八丈島と解釈されています)にたどり着き、新しい共同体を築きます。そこでは「おばちゃん」と呼ばれていた女性が若返り、子どもを産んでいることが描かれます。また、従来の家族制度ではなく、生存者全体で次世代を残していくことを示唆する。
* 人類存続が最優先になる。
* 一夫一妻という近代的家族制度は事実上意味を失う。
* 女性が共同体の将来を担う中心的存在になる。
漫画家の花澤健吾の人類が滅亡寸前になった世界を描くと、そこには一夫一妻制ではなく、人類存続を最優先する共同体が現れる。私はその姿に、縄文社会の原型を見た。
花沢健吾は、人類滅亡後の共同体を描く中で、「種なんてどうでもいい」「全部私の子だ」という価値観を登場人物に語らせた。
そこでは父親は重要ではなく、子どもは共同体全体の未来である。
私はこの場面を読んだとき、「これは縄文社会の論理ではないか」と感じた。
私は、花沢健吾の漫画『アイアムアヒーロー』の終盤に描かれた「おばちゃん」の存在に、縄文時代を象徴するメタファー(比喩)を見た。
文明が崩壊し、人類が滅亡寸前に追い込まれた世界で、生き残った人々は八丈島に新たな共同体を築く。その共同体では、従来の結婚制度や家族制度は意味を失い、人類を存続させることが何よりも優先される。
そこで描かれるのが「おばちゃん」である。
彼女は若返り、多くの子どもを産み育て、共同体の中心的存在となる。そして「種なんてどうでもいい」「全部私の子だ」と語る。その言葉は、父親が誰であるかではなく、子どもたち全員が共同体の未来であるという思想を象徴している。
私は、この「おばちゃん」こそ、原始的な女王のひな形ではないかと思う。
もちろん、花沢健吾が縄文時代をモデルにしてこの人物を描いたという証拠はない。しかし、人類滅亡という極限状況を徹底的に考え抜いた結果として生まれた共同体の姿は、私が考える縄文社会の姿と驚くほどよく似ている。
私の仮説では、縄文時代もまた、人類存続の危機に直面した社会だった。感染症による急激な絶滅ではない。しかし、医療のない時代には乳児死亡率が極めて高く、多くの子どもが成長する前に命を落とした。出産もまた命懸けであり、人類は一万年以上にわたって「慢性的な存続の危機」の中に置かれていたのである。
そのような社会では、一人の母親だけで子どもを育てることは難しい。女性たちは共同生活を送り、共同で育児と授乳を行い、子どもを共同体全体で育てたのではないか。そして、その共同体をまとめ、人々を調整し、秩序を維持した存在こそが女王だったと私は考える。
私にとって、『アイアムアヒーロー』の「おばちゃん」は、そのような原始の女王を現代人にも理解できる形で表現したメタファーである。彼女は権力者ではない。共同体の母であり、人類存続の象徴なのである。
もし私の仮説が正しいなら、卑弥呼やアマテラスもまた、このような女性共同体の長い伝統の上に現れた存在だったのかもしれない。
三世紀になると卑弥呼が現れる。
彼女は政治だけではなく祭祀も司った。
日本神話ではアマテラスが最高神となる。
どちらも女性であり、
共同体の中心であり、
宗教的権威を持つ。
もし縄文時代から女性共同体が存在したなら、
その伝統が弥生時代を経て卑弥呼やアマテラス信仰へ受け継がれた可能性も考えられる。
「なぜ日本だけ女性の最高権威が存在したのか」
という問いに対する一つの説明にはなり得る。
世界には一夫多妻社会が多く存在した。
権力者が多数の女性を独占する社会では、
男性同士の競争が激しくなり、
女性の獲得をめぐる争いも起こりやすい。
一方、私が考える女性共同体では、
女性が共同生活を送り、
共同体全体で子どもを育てる。
男性は食料を供給する役割を担う。
もし暴力的な男性が現れれば、
共同体から受け入れられなくなる。
女性共同体が協力して拒絶すれば、
暴力は共同体にとって不利な行動となる。
このような仕組みが共同体の秩序維持に役立った可能性もある。
日本には縄文文化の名残と思われるものがいくつも存在する。
夜に男性が女性を訪ねる通い婚や夜這い。
土器を使った煮炊きから続く鍋料理。
土間を持つ住居。
自然そのものを神聖視する信仰。
これらは縄文文化との連続性を指摘する研究もある。
私の仮説では、
これらに加えて女王制も縄文社会の名残だった可能性がある。
「男女(おのこめのこ)族(うから)同じく臥(ふ)し、父子(かぞこ)別(わく)こと無し」
――『日本書紀』
『日本書紀』の中で、東国を視察した武将(武内宿禰)が天皇に蝦夷の様子を報告する際、以下のように表現しています。
「彼らは男女や家族の境界なく、みんな同じ場所で雑魚寝をして暮らしており、父親と息子の区別(秩序)すらまともにない」という意味です。当時の朝廷側からすれば、これが極めて「不道徳で野蛮な行為」に映りました。
縄文時代には女性たちが共同生活を送り、共同で出産と子育てを行い、その共同体をまとめる存在として女王がいたのではないか。そして、その社会制度こそが一万年以上にわたって縄文文化を存続させた原動力ではなかったのか、という仮説である。
そしてこれらの社会制度は大和朝廷とは全く別のシステムであった。
基本的なOSが全く違う国が日本の中にあった。
私は一つの疑問を持ち続けてきた。
なぜ日本には卑弥呼という女王が誕生したのか。
なぜ日本神話の最高神はアマテラスという女性なのか。
そして、なぜ縄文文化は一万年以上という世界でも類を見ない長い時間を生き続けることができたのか。
私は、この三つの謎は別々の問題ではなく、一つの問いなのではないかと考えるようになった。
その出発点となったのは、乳児死亡率である。
現代の日本では、乳児死亡率は世界でも最も低い水準にある。しかし縄文時代には医療は存在せず、出産は命懸けであり、多くの子どもが幼いうちに命を落とした。人類は決して安定した環境で暮らしていたわけではない。
私は、この状況を「慢性的な人類存続の危機」と考えた。
そして、その危機に対応するために生まれた社会制度こそが、女性共同体であり、共同育児であり、母系社会であり、その中心に立つ女王だったのではないかという考えに至った。
この考えを強くしたのは、歴史書ではなく文学や漫画だった。
小松左京の『復活の日』では、人類が滅亡寸前となり、生き残ったわずかな人々が人類再建という課題に直面する。そこでは個人の恋愛や結婚よりも、人類という種を存続させることが最優先となる。
花沢健吾の『アイアムアヒーロー』では、文明崩壊後の八丈島で新しい共同体が築かれる。そして「おばちゃん」と呼ばれる女性は、「種なんてどうでもいい」「全部私の子だ」という思想を語る。
私は、この「おばちゃん」に原始の女王の姿を見た。
人類滅亡という極限状態を想像した結果として描かれた共同体は、私が考える縄文社会の姿と驚くほど似ていた。
もし人類が再び滅亡の危機に直面したなら、私たちはどのような社会を築くだろうか。
国家は残るだろうか。
戸籍制度は残るだろうか。
一夫一妻制度はそのまま維持されるだろうか。
私は、人類存続が最優先となる社会では、多くの制度が姿を変えるだろうと考えている。
そして、そのとき人類は、未来へ進むのではなく、縄文時代に学ぶことになるのではないだろうか。
私は縄文時代を「原始的で遅れた社会」とは考えていない。
むしろ、一万年以上にわたって戦争や国家権力に依存せず、共同体を維持した世界でも稀有な文明だったのではないかと考えている。
その知恵は、現代社会にも通じるものがある。
本書では国家神道ではなく、そのはるか以前から続いてきた日本人の自然観や共同体の思想にも触れた。もし神話や祭祀の根底に縄文以来の伝統が息づいているのだとすれば、卑弥呼やアマテラスは単なる伝説上の人物ではなく、人類存続のために共同体を支えた女性たちの記憶が形を変えて受け継がれた存在なのかもしれない。
本書は、既存の学説を否定するために書いたものではない。
私は考古学者でも人類学者でもない。一人の読者として、歴史の中に残されたいくつもの謎を、自分なりに一本の線で結んでみたいと思ったのである。
その線が正しいかどうかは、これからの研究によって検証されるべきだろう。
しかし私は、一つだけ確信していることがある。
歴史を学ぶとは、過去を知ることだけではない。
未来を考えることである。
人類が危機に直面したとき、どのような社会が人々を救うのか。
その問いに対する答えは、最先端の技術だけでなく、一万年以上前の縄文人が築いた社会の中にも眠っているのではないだろうか。
本書が、読者の皆さんにとって「なぜ日本には女王がいたのか」「なぜ縄文文化はこれほど長く続いたのか」という問いを、新たな視点から考えるきっかけになれば、著者としてこれ以上の喜びはない。
2026年7月19日 発行 初版
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