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フリースタイル・法哲学

窪田 勝義

BLUE SKY出版



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 目 次

<プロローグ 法実証主義の方法的欠缺>

対話篇・「法実証主義の方法的欠缺1」
対話篇・「法実証主義の方法的欠缺2」
対話篇・「法実証主義の方法的欠缺3」

<第一部 人権・民主主義・平和>

第一回 人権の本質について
第二回 人権と民主主義
第三回 人権の普遍性と「建設的な対話」
第四回 積極的平和主義について

<第二部 公共的正当化と人格の価値性>

第一回 公共的正当化の倫理的資格
第二回 ラートブルフの法の目的観の再解釈
第三回 ジョン・ロールズとの対話
第四回 ドゥオーキンの「正解テーゼ」を読み解く

<エピローグ>

UNITED IN HUMANITY

プロローグ 法実証主義の方法的欠缺

対話篇・「法実証主義の方法的欠缺1」

法実証主義者アオ:「ぼくたちに与えられている所与には、価値と事実が混沌としている。所与の事実から価値判断を切り離し、自然の王国を生み出すのが、認識の第一の作用でなければならない。」

自然法論者ソラ:「その自然の王国に、国際法の客観的事実が含まれているというのかい?」

法実証主義者アオ:「まさしく。ぼくたちは、これによって、あるべき法から在る法、すなわち、実定法を認識できるのさ。」

自然法論者ソラ:「どうして実定法一元論を採用しなければならないのさ。」

法実証主義者アオ:「君は、価値の多様性を知ってるだろう。価値と事実を分離させなければ、国際法の客観性は失われるだろう。」

自然法論者ソラ:「でも、君だって価値判断はするだろうに。」

法実証主義者アオ:「ぼくたちは、価値中立的な立場から、国際法の事実に向き合うんだよ。」

自然法論者ソラ:「いいかい。価値中立性というのは、価値判断をしないことで保持されるわけではないんだよ。」

自然法論者ソラ:「法学のような実践分野においては、特に、認識主体の実践的な問題関心が視座を形成する。一つ聞きたいが、君はどの事実が国際法にとって関連性を有し、重要性をもつかを、なにによって知るんだい?」

法実証主義者アオ:「事実によってだよ。」

自然法論者ソラ:「国際法の事実なるものは、一枚岩ではない。視座が異なれば、集められる国際法の事実も異なる。そこには、異なる法的世界観、つまり認識主体の価値判断が介在しているとはいえないかい?」

法実証主義者アオ:「理論の対立を調停するのは、事実の客観性だよ。」

対話篇・「法実証主義の方法的欠缺2」

自然法論者ソラ:「思うに、君は客観性の意味をはきちがえてないかい?」

法実証主義者アオ:「どういうことだい?」

自然法論者ソラ:「そもそも、事実と規範の区別ができてないんだよ。法は規範であり、規範は規範によってしか基礎づけられない。事実は規範を生むだろう。でも基礎づけられないんだよ。」

法実証主義者アオ:「どうして事実によっては基礎づけられないんだい?」

自然法論者ソラ:「じゃあ、君は強盗が金を出せと命令するのと、官吏が税金を払えというのは、どこが違うと思う?」

法実証主義者アオ:「それは、官吏の命令は、法律によって授権されているのだから、法的効力をもつさ。」

自然法論者ソラ:「じゃあ、なぜぼくたちは議会が制定した法律を守らなきゃならないんだい?」

法実証主義者アオ:「憲法に規定されてるからだろ?」

自然法論者ソラ:「法は規範だから、今の例のように、その法的効力は上位の規範に求めなきゃならないのさ。」

法実証主義者アオ:「それくらいは分かるよ。じゃあ、憲法はなにによって基礎づけるんだい?法の妥当性の連関も、究極的には、客観的事実に依拠せざるをえないんじゃないか?」

自然法論者ソラ:「ぼくはね、法の客観性は法的効力、すなわち法的妥当性を意味しなければならないと思うのさ。その規範的な本質は、憲法をも基礎づけるだろう。」

法実証主義者アオ:「でもね、認識主体が存在する以前から、社会的な営みはあって、法的実践は客観的事実として存在するんじゃないのかい?」

対話篇・「法実証主義の方法的欠缺3」

自然法論者ソラ:「君は、法的効力の本質を考えたことがあるかい?」

実証主義者アオ:「当たり前だろう。法的効力は、法と非法を識別する基準である形式的法源に基礎づけられている。形式的法源とはね、法規範成立の瞬間を定式化した概念だよ。」

自然法論者ソラ:「その形式的法源の概念もまた、客観的事実によって認識可能というわけだね。」

実証主義者アオ:「そのとおりさ。」

自然法論者ソラ:「法はある言明ではなく、べき言明だ。そして、法的効力の主張は、一種の規範的主張だと思う。だから、法的効力の基礎は主体間で妥当する公共的規範でなければならない。」

自然法論者ソラ:「ぼくは、この公共性という点に、法規範の特質があると思うのさ。人間の主体としての対等性、平等性という価値が、法的効力の本質にはある。」

実証主義者アオ:「すなわち、法規範の紐帯は、人間の尊厳の平等にある、とでも言いたいんだろう。ぼくから言わせれば、あるべき法とある法の混同だな。」

自然法論者ソラ:「君のいう在る法だって、べき言明であり、規範であることを忘れてはいけないよ。」

自然法論者ソラ:「ぼくは、自然法論と法実証主義を対立軸として見ない。むしろ古典的な自然法論では、自然法と実定法は相互補完にある。」

自然法論者ソラ:「実定法の認識には価値の視座が不可欠だ。それとともに、社会的な営みという事実の世界に向き合わなければならない。」

第一部 人権・民主主義・平和

第一回 人権の本質について

1.最高の実践根拠の形式と内容

人権を基礎づける最高の実践根拠は、人間の尊厳の平等を内容とし、普遍性の形式を保持する。人間の尊厳の平等は、あらゆる人間を目的自体として尊重し、それゆえに、あらゆる人間の対等な主体性を尊重する。したがって、誰も客体として扱うことなく、普遍的に妥当する形式を備えなければならない。

2.具体的権利と普遍化可能性の関係性

では、女性の権利のような具体的な権利は、人権の普遍的形式とどのような関係に立つのだろうか。

思うに、あらゆる実質的平等は、平等な権利に基礎をおく。女性の権利も、人間の尊厳と権利における平等に基づいて主張されるものであって、その普遍妥当性は、女性の権利の根拠となっている平等の権利にさかのぼって検証されなければならない。

3.形式的平等と実質的平等の意義

形式的平等の意義は、実質的平等が基づくべき平等の権利を定立・明確化することにある。しかし、形式的平等は、実際の社会における格差や不平等を放置したまま適用されるなら、人権の精神に反するだろう。

そこで、必要となってくるのが、実質的平等である。実質的平等は、平等の権利に基づき、実際の社会における格差や不平等を是正するために、人びとの扱いに正当な区別を設ける。

それが、人権の具体的権利・弱者の保護であり、国際人権法が、世界人権宣言や人権規約において、まず平等の権利を宣言・規定し、具体的な人権条約において、女性の権利、子どもの権利、障がい者の権利など、具体的権利の採択へと進んだことを説明するものである。

第二回 人権と民主主義

1.人権と民主主義の関係性

人権と民主主義の関係は、前者が目的であり、後者がそのための手段であるという関係にある。人権にも民主主義にもそれ自体で正当性があり、その正当性の基礎は同一である。「人間の尊厳の平等」である。

人権とは、人間であることを理由に保有される権利である。民主主義は、誰が人権を定めるのか、という問題視座を有するが、それは人権の本質ではなく、むしろ実定法秩序の「法源論」の問題である。

われわれには、所与としての人権の歴史・規範・制度がある。人権の本質は、その内容的正当性にあり、批判的精神をもって、既存の人権規範の妥当性を吟味・理解し、一市民として人権に対し、どのような態度をとるべきかをまず問うべきである。

2.民主主義の正当性

民主的手続の正当性は、「公共的理由」に基づく合意の形成にある。それは、人民の平等な配慮と尊敬を受ける権利を、合意形成の前提とし、人権の保障を、合意形成の規範上の制約とすることを要する。

人権は、民主主義において、多数者の専制を防止し、マイノリティの権利を確保するだけではなく、民主的合意の正当性の必要条件として機能するものである。

ルソーにおける「一般意志」の本質は、民主的合意が「公共的理由」に基づく点にあり、直接民主制も間接民主制も、もし人権規範を欠くなら、自己の利益に自閉する「特殊利益」やその総計にすぎない「全体意志」が、マジョリティを占める危険を生む。

3.立憲民主主義とは

ハーバーマスは人権保障と民主主義は「同根的」と考えた。それはつまり、人権保障が民主主義の対話の前提をなし、民主主義の対話が人権を定めるというのだろう。しかし、民主主義の対話が人権を定めるというのは、人権保障の一面しか捉えていない。

人権の本質は人権の普遍性にある。それは、「人間の尊厳の平等」を意味する。民主的手続は国家意思の形成手続でもあり、憲法の保障する「国家からの自由」を侵害できず、「国家による自由」を実現しなければならない。

立憲主義は、「人間の尊厳の平等」を核心とする権利保障と権力分立を不可欠の要素とする。現代民主主義は、未完の近代プロジェクトの中で位置づけられなければならず、人権と民主主義は不可分なのである。

第三回 人権の普遍性と「建設的な対話」

1.人権は西洋文化の押しつけ?

人権の歴史的な起源は西洋文明にある。では、人権の主張は、西洋文化の押しつけなのだろうか。ここで注意が必要である。人権の事実的な成立は、人権の規範的な妥当性から区別されなければならない。

人権は、規範的主張である。事実は規範を生むだろう。しかし、規範を基礎づけないのである。規範を基礎づけるのは、つねに規範であるから。これは、方法二元主義と呼ばれている。

話を戻そう。人権が西洋文明の中で成立した事実は、人権の妥当性を基礎づけるものではない。人権の妥当性は、その妥当根拠に求められなければならない。

2.人権の基礎としての普遍性

人権の妥当根拠は、その普遍性にある。これには、内容と形式に区別され、内容的には、人間の尊厳の平等を意味し、形式的には、普遍妥当性を意味する。

すなわち、人権は、全ての人間を目的自体として扱うことを要請する根本原則に基づいており、その基礎において、全ての人間に妥当する形式をそなえたものである。

人権は多元性に対する制約であると同時に、その基礎なのである。

3.国家報告制度に見る「建設的な対話」

人権の妥当根拠を理解するなら、人権は決して押しつけであってはならないことが分かる。押しつけは、目的自体として存在する他者の対等な主体性の尊重を意味しないからである。

ここで注目されるのは、人権条約の国家報告制度に見られる「建設的な対話」の重要性である。

これは、締約国の側に、報告書を作成し、審査の質疑において、誠実な姿勢が求められると同時に、審査をする側の委員会にも、多元的な国際社会の中で、文化的・宗教的な背景を勘案しながら、締約国自ら人権基準を徐々に受け入れていけるように、寛容の精神をもって対話するものである。(芹田他 2017, p. 148)

4.人権の普遍妥当性と対等な主体性の尊重

「建設的な対話」は、目的自体として存在する当事者の対等な主体性を尊重するものであり、自己の視点からのみならず、他者の視点からも正当化可能な共通の正当化理由の同定を目指す、公共的正当化を具体化するものである。

異なる文化的・宗教的な背景をもつ当事者同士でも、具体的な人権規定を、普遍妥当な基本原則にさかのぼることにより、その妥当性を相互に承認することは、原理的には、可能なはずである。

そのためには、まず、人間の尊厳の平等に基づき、自分も他者も、それぞれの視点にコミットした対等な主体であることの承認から、出発しなければならない。「建設的な対話」は、人権条約レジームの外においても、求められるものだろう。

自国では当然視されている人権規定も、自己の前提を反省し、対話の当事者との共同作業によって、一つ一つその人権規定の理解を深めていく誠実性が、求められているといえるだろう。

芹田健太郎・薬師寺公夫・坂元茂樹(2017)『ブリッジブック国際人権法第2版』、信山社

第四回 積極的平和主義について

1.日本国憲法と国連憲章

日本国憲法前文には、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」と規定しており、そこには、単に戦争がないという意味での消極的平和ではなく、全ての人が圧制や人権侵害、貧困などから解放される積極的平和が追求されている。(松井 2011, p. 287)

この点で、日本国憲法は、国連憲章と思想的基盤を共有しており、国連憲章においても、国際の平和と安全を維持することを第一の目的とした上で、人民の同権及び自決の原則の尊重、経済的・社会的・文化的または人道的性質の国際問題の解決、全ての者の人権及び基本的自由の尊重などが、国際連合の目的として明記されている。

2.人間の安全保障と全世界の平和的生存権

とりわけ、日本国憲法前文における平和的生存権の確認は、現代的な意義が大きい。それによれば、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と規定されている。

この規定は、その後日本外交の柱となる人間の安全保障を先取りするものである。人間の安全保障の二大目標は、恐怖からの自由と欠乏からの自由である。それは、日本国憲法前文の「恐怖と欠乏から免かれ」という文言と思想的に共鳴している。

3.積極的平和主義と消極的平和

積極的平和主義は、戦争がないという消極的平和を決して軽視するものではない。国連の第一の目的が、国際の平和と安全の維持にあるように、積極的平和主義は、消極的平和を優先課題とする。

むしろ、積極的平和主義は、消極的平和の実現手段としての意味も有するのである。それは、現代の国家の安全保障が、領土の防衛のためにミサイルを作るなどの軍備拡大のみによっては、決して実現しうるものではなく、社会的不公正などの紛争の原因を除去しようとする人間の安全保障のような考え方の実践によって、補完されることを要することを意味する。

4.政治道徳の普遍性

日本国憲法前文には、「政治道徳の法則は、普遍的なもの」であるという規定がある。「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって」、普遍的な政治道徳に従うことは、「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務である」と結んでいる。

すなわち、政治道徳の規範的条件として、普遍妥当性が考えられており、そこには、人民の同権および自決の原則の尊重、人権および基本的自由の尊重などが、国際関係の基礎になければ、積極的平和はもちろん、消極的平和さえも実現しえないという、第二次世界大戦の反省があるのである。

5.結びにかえて

理想ではなく、現実を見る。それは手段の目的化である。現実の中に理想を見出さなければならない。批判的精神は、理想を否定するためではなく、価値の源泉を保つために必要である。国家の政策に哲学は不要であるという認識は、完全に誤りである。

松井芳郎(2011)『第3版国際法から世界を見る』、東信堂

第二部 公共的正当化と人格の価値性

第一回 公共的正当化の倫理的資格

1.主観的な受容可能性と間主観的な受容可能性

公共的正当化とは、自己の視点からのみならず、他者の視点からも受容可能な「共通の正当化理由」を同定し、自己の主張をこのような「公共的理由」に基づかせることを意味する。

他方、カントの定言命法の普遍的方式は、自己の格率を全ての人間が採用した場合に、その帰結を自分が受容可能かを問うものである。

2.主観的な自己吟味と対話における対等性

両者の規範的な共通性は、人間の尊厳の平等にある。公共的正当化は、自己と他者を、それぞれの視点にコミットした存在として対等に扱い、それぞれが納得しうる「共通の正当化理由」を求めることで、お互いを目的自体として扱っている。

他方、カントの定言命法は、自分の採用すべき格率が、全ての人間が採用しうる普遍性をそなえているかを、自分自身に問うことによって、自分を行為の規則の例外としないという「特殊意志」の排除になっている。

2.共通の規範定立のための倫理的資格の要請

すなわち、公共的正当化にとっては、対話の当事者は、まず、自分自身にしか妥当しない「特殊意志」を排除することを求められるのであって、その意味で、カントの定言命法のように、自己の規範的主張の普遍化可能性を問うことにより、自己の視点のうち、「特殊意志」と「共有可能な意志」を区分する。

さらに、実際に、公共的正当化のプロセスを踏むことによって、自己および他者の「共有可能な意志」を、それぞれの視点から受容可能な「共通の正当化理由」の同定へと展開させ、お互いが依拠しうる公共的な規範の定立へとつなげることができる。

第二回 ラートブルフの法の目的観の再解釈

1.正義の平等と法の目的観の関係

ラートブルフによれば、正義の平等は、誰を等しいものとして、誰を等しくないものとして扱うべきかを言明しないで、むしろその原則自体からは引き出されえない一つの観点の下に、平等または不平等がすでに確定されていることを前提としている。

この一つの観点というのが、ラートブルフにおける法の目的観なのであって、私見では、正義の平等の意味は、人間の尊厳の原則と結び付けていることから、ラートブルフの分類にしたがえば、個人主義的法律観ということになると思う。

2.ラートブルフの法の目的観

ラートブルフによれば、経験的世界の全領域において、絶対的な価値性を担いうる対象は、ただ三種しかない。すなわち、人間的個人人格、人間間的全人格、人間的作品である。

ラートブルフによれば、個人主義的見解にとっては、作品価値および団体価値は人格価値に奉仕する。文化は個人的教養であり、国家および法は個人の保障および向上のための制度にすぎない。(ラートブルフ 1961, p. 182)

ただし、ラートブルフ自身は、この三種の絶対的価値の担い手に対し、相対的な態度をとる。

3.人間的個人人格の絶対的な価値性

最高の実践的な行為原則を、人間の尊厳の平等に求める立場にとって、絶対的な価値性の担い手は、人間的個人人格をおいて他にない。そして、ラートブルフが指摘したように、この観点において、作品価値および団体価値は、個人の人格に奉仕するものとして位置づけられることになる。

(1)団体価値

団体価値を問う場合、法は本質的部分において国家意思であるがゆえに、国家の存在理由を問うことになる。そして、現代の「責任ある主権」が定義するように、それは、個人の尊厳と基本的権利の確保という個人主義的な価値性に奉仕するものとして、位置づけられるものである。

その際、大切なのは、団体価値は「公共的理由」に基づく点であるだろう。「公共的理由」とは、各人を目的自体として承認した上で、各人が共有しうる「共通の正当化理由」である。この「公共的理由」によって、国家のような団体はその価値性を引き出し、個人の人格に奉仕するのである。

(2)作品価値

また、作品価値も個人の人格に奉仕することによって、その価値性が認められるものである。作品価値というものは、各人にとって「共通の資産」なのであって、社会の共同事業者である各人の「共通の資産」として還元されるべきものである。

作品価値は、文化として個人の教養に奉仕するものであり、自己の人格の向上を志す者など、さまざまな個人の人格形成にとって積極的な意義を創出する点で、その価値性を担うものである。

ラートブルフ(田中耕太郎訳)(1961)『法哲学』、東京大学出版会

第三回 ジョン・ロールズとの対話

1.「共通の資産」という考え方

自然の資質や社会的出発点の違いは、「共通の資産」として捉えられうる。これは、優れた才能や恵まれた環境を持って生まれた人は、その才能を使って得た成果や利益を、社会の共同事業者である各人の共通資産として還元しなければならいという考え方である。

2.全員が等しく自由であること

全員が等しく自由であることは、言論の自由や投票権、身体の自由といった自由権のみではない。自由の実質化には、社会権も不可欠であり、自由権と社会権は相互補完の関係にある。最不遇者への焦点を絞った格差原理を議論する前に、自由権は社会権を前提し、社会権は自由権を前提することを認めなければならない。

3.格差原理の意義の再考

格差原理の機能は、共通の資産をどう社会全体に還元させていくかという観点から、再チャレンジを保障し、自己のもつ可能性を追求するための社会的セーフティネットであるべきと考える。

最不遇者にも、自由権と社会権の保障は必須であり、その上で、共通の資産を享受する権利を有するとともに、自分自身の可能性に再チャレンジすることを保障するような社会であってほしいものである。

第二回 ドゥオーキンの「正解テーゼ」を読み解く

1.法解釈における適合性の次元

ドゥオーキンによれば、ある法解釈が既存の法実務の解釈とみなされるためには、既存の法実務と一定程度適合していなければならない。これは、法解釈における客観性への志向であると同時に、法秩序における法的安定性の要請をも意味しうるだろう。

2.法解釈における正当化の次元

ドゥオーキンによれば、ある解釈が政治道徳の観点から見て法実務を最善にするかどうかを検討するのが、正当化の次元である。法解釈者の抱く政治道徳が、法秩序の政治道徳であるとは限らない。

しかし、適合性の次元と正当化の次元の視点の往復により、法解釈者は自己の政治道徳を法実務に内在する価値・理念に近づけて理解することが可能になるのであって、法解釈においては、あくまで法秩序に内在する価値・理念に基づくことが志向されている。

3.法秩序の体系的解釈に基づく唯一の正解

ドゥオーキンにおいては、法実務の整合的な理解は、誰も二級市民として扱われることなく、平等な配慮を受ける権利を持っているという政治道徳のために、求められるものである。このような法秩序に内在する価値・理念までさかのぼり、「最善の光の下で」、法が一つの声で語ることが要請されるため、法解釈は一つの正解として提示されなければならないのである。

4.「困難な事案」・再説

法律家の意見が対立し解決の難しい事案は、法実証主義者のように、ルールの欠缺として理解するか、ドゥオーキンのように、ルールが存在しなくとも、法原理が妥当しており、一定の法的結論へと方向づける法原理の適用によって、裁判立法によるのではなくて、法発見のプロセスとして法解釈を導くことができるという考えが可能である。

法律家の意見の対立は、法原理と法原理の対立でもあるだろう。その場合、その調停は、さらなる上位の法源理へとさかのぼるのであって、最終的には、法秩序に内在する正当化の基礎から、「最善の光の下で」、唯一の正解が導かれることが要請されるだろう。

それは、適合性の次元と正当化の次元の視点の往復により、客観的な世界の法秩序に内在する価値・理念が目指されているのだから、裁判官の好みや選好に還元するのは、適当でないだろう。また、ドゥオーキンのような立場は、方法二元主義とも親和性があることも、理論的な美点である。

瀧川裕英・宇佐美誠・大屋雄裕(2014)『法哲学』、有斐閣

エピローグ

UNITED IN HUMANITY

1.自由には、失敗や過ちが伴う

道徳は、自由な意志を前提する。それゆえ、法は、道徳を強制できない。その代わり、法は、道徳を行う外的な諸条件を整える。自由の第一の意味は、個人に行動の自由を与えることを指す。

したがって、法の許容した範囲で、人間が過ちや失敗をしても、罰せられることはない。ある者は、そこから学び、立ち上がるだろう。ある者は、学ぶことをしないかもしれない。

2.自由には、学びと成長が伴う

人間は、環境次第で善人にも悪人にもなりえる。しかし、道徳が前提する自由な意志の本質は、自律である。これが、自由の第二の意味である。過ちや失敗をしない人はいない。大事なのは、そこからなにを学び、再起するかということである。

再起とは、自分の意志でなければ、本当の再起とはならない。人格の成長は、自律的な成長なのである。良心の声に嘘をつき、自分自身からの疎外にさえ気づかない人びと。彼らもまた、目的自体として存在する。

3.自由には、共生と連帯が伴う

また、法の話に戻ろう。法は、各人に人権を保障し、行動の自由を与えるが、道徳については沈黙し、不道徳の可能性も生む。自律的な成長につながる、共通の財産を生み出すのは、法だけではなく、市民社会の役割でもある。

全ての人は、社会の中で自己実現を目指し、共通の財産を生み出し、享受する権利を有している。勇気ある人びとは、人道的ニーズに応えるだろうし、知識ある人びとは、教育のニーズに応えるだろう。

保障された自由を、自己実現につなげ、共通の財産として社会に還元していく。それも、グローバルな社会に。その本質にあるのは、服従でもなく、他律でもなく、意志の自由に基づく自律なのである。それが、共生と連帯の礎となるだろう。

フリースタイル・法哲学

2026年8月18日 発行 初版

著  者:窪田 勝義
発  行:BLUE SKY出版

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窪田 勝義

専攻:国際法・国際人権法・法哲学。学士(法学)。修士(法学)

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