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医療は、人を救う。だが同時に、人を傷つけてもいる。

WHOは、医療を受けた患者のおよそ10人に1人が何らかの医療被害を受け、その半分以上は防げたはずだと推計している。薬害、医療事故、過剰診断、そして戦時下の人体実験――「医原病」とは、医学が人類を救う力を手にしたのと同時に背負った、もうひとつの影である。

本書は、麻酔・消毒技術の発展から現代の巨大製薬産業まで医学史をたどり、満州・ナチス・アメリカで行われた人体実験の記録、タスキギー梅毒研究やCIA「MKULTRA」計画といった政府自身が後に認めた事件、そして新型コロナウイルスの起源をめぐるWHO・中国・アメリカの情報公開の実態までを、公的資料と統計にもとづいて追う。「都市伝説」「陰謀論」と片づけられてきた話の中に、実際に検証できる事実はどれだけあるのか――著者は断定を急がず、確認できる事実と、証拠が不十分な推測とを区別しながら、読者自身に判断を委ねる。

薬は誰のためにあるのか。医療事故が起きたとき、責任を負うのは誰か。そして、自分の命を、私たちはどこまで他人に預けるのか。医療を疑うことは、医療を壊すことではない。信じるからこそ検証する――そんな一冊。

※本書は医学的な診断・治療を目的としたものではありません。治療中の方、薬の使用や中止を検討されている方は、自己判断の前に必ず医療機関にご相談ください。

※本文文字数:約217,000字

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医原病 ―医療の発展と、その影―

鹿島公胤

LOVE出版



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医原病

――医療の発展と、その影――

鹿島 公胤 著

LOVE出版



目次

序章 あなたは「医療」を疑ったことがあるか 第1章 医原病――医療が病気を作る 第2章 医学は人類を救った。そして新しい影を生んだ 第3章 戦争は医学を狂わせた――人体実験という隠れた歴史 第4章 医療は誰のためにあるのか――巨大産業の光と影 第5章 パンデミックの裏側――誰が情報を握っていたのか 第6章 医原病――人を救う医療が、人を傷つけるとき 第7章 手術――命を救う技術、その成功と失敗 終章 医原病――社会悪なのか、それとも人類が背負った代償なのか あとがき ――私は、あなたに答えを押しつけない 奥付

序章 あなたは「医療」を疑ったことがあるか

病気になった。あなたなら、どうするだろう。おそらく病院へ行く。医師の診察を受け、検査を受け、処方された薬を飲む。

なぜなら、私たちは幼い頃から教えられてきたからだ。医師は病気を治す人。病院は人を救う場所。薬は病気と闘うためのもの。それが、現代社会の「常識」である。

では、ここで一つだけ質問をしたい。その常識を、あなたは一度でも疑ったことがあるだろうか。

もちろん、医療が人類にもたらした功績を否定するつもりはない。麻酔によって激痛を伴う手術が可能になった。感染症に対する治療法が発達した。外科手術は飛躍的に進歩した。かつては死を意味した病気から、多くの人間が救われるようになった。医学の発展は、間違いなく人類の歴史を変えた。

だからこそ、私は問いたい。これほど巨大な力を持った「医療」というシステムに、影がないと言い切れるのか。

医療によって救われる人がいる。その一方で、医療行為によって傷つく人もいる。薬によって命を救われる人がいる。その一方で、薬によって深刻な健康被害を受ける人もいる。病気を早期発見する検査がある。その一方で、必要のなかった検査や治療によって人生を狂わせる人もいる。

そして、その被害を受けた人間が必ずしも「医療被害者」として認識されるとは限らない。ここに、医原病という問題が存在する。医療が原因となって発生する病気や健康被害。それは単なる「医療ミス」という一言では片付けられない。

個々の医師の問題なのか。病院という組織の問題なのか。製薬企業の問題なのか。行政の問題なのか。あるいは、それらすべてが複雑に絡み合った巨大なシステムの問題なのか。

そして、さらに踏み込む。もし、そのシステムの中に、「患者を救う」という目的とは別の利益が存在していたら? もし、巨大な製薬市場の中で、患者が「人間」であると同時に「市場」として扱われることがあるとしたら? もし、研究資金、特許、企業利益、政治、規制当局、医療機関が複雑につながっていたとしたら?

そして、もし――私たちが「陰謀論」と笑ってきた話の中に、実際に公文書や裁判記録によって確認できる出来事が混じっていたとしたら? 逆に、陰謀論者が「証拠」と呼んでいるものが、実は根拠のない情報だったとしたら? 何が真実なのか。ここから先は、それを一つずつ見ていく。

本書では、医療を無条件に善とは考えない。むしろ、最初から疑ってかかる。医学の歴史を振り返り、薬害を調べ、医療事故を追い、製薬企業の利益構造を調べる。研究機関と企業の関係を見る。医師と製薬企業の関係を見る。規制当局と政治の関係を見る。そして、アメリカを中心とする巨大な医療システムの中で、何が起きてきたのかを追跡する。

その過程で、「これは事実だ」と言えるものと、「これは疑惑にすぎない」ものを切り分ける。さらに、「都市伝説」「陰謀論」「内部告発」「公的に確認された事実」という境界線そのものにもメスを入れる。

この本を読んだからといって、今までと同じように病院へ行かなくなるかもしれない、とまでは言わない。薬の説明書を、以前よりも慎重に読むようになるかもしれない。医師から治療法を提示されたとき、「それ以外の選択肢はありませんか?」と聞くようになるかもしれない。

それでいい。なぜなら、自分の命について疑問を持つことは、医療を否定することではない。むしろ、自分の命を守るための最低限の権利だからだ。

では、最後にもう一度だけ確かめさせてほしい。あなたは、医療を信じている。では――「医療を信じるということ」とは、何を信じているということなのだろうか。医師か。病院か。薬か。製薬会社か。政府か。医学論文か。それとも、それらすべてを支える巨大なシステムそのものか。

本書では、その「信頼」の正体を一つずつ剥がしていく。そして最後に残ったものが、本当に「医療」なのか。それとも――私たちがまだ全貌を捉えていない、巨大な何かなのか。

第1章 医原病――医療が病気を作る

1.「医原病」という言葉を知っていますか?

「医原病」という言葉を聞いたことがある人は、決して多くないだろう。しかし、この言葉が意味するものは、私たちの生死に直接関係している。

医療を受けた結果として、新たな病気や健康被害が発生すること。それが「医原性」と呼ばれる問題である。

2.医療は本当に安全なのか

私たちは病気になると、当然のように医師の診察を受け、検査を受け、薬を処方してもらう。多くの場合、それは当然の選択であり、医療そのものが疑われることはほとんどない。

しかし、医療行為には必ず利益とリスクの両方が存在する。技術、麻酔、検査、薬。その一つ一つに、治療によって生まれる危険がある。

3.「医療ミス」だけでは説明できない

医療による被害というと、多くの人は医師のミスを想像する。しかし、医原病という問題は、単純な医療ミスだけを意味するものではない。

薬の副作用、薬剤同士の相互作用、必要以上の検査、過剰な診断、過剰な治療などが問題になる。つまり、医師が意図的に間違えなくても、医療によって患者が傷つく可能性は存在する。

4.薬は「毒」にもなり得る

薬は病気を治療するために使用される。しかし、すべての薬には何らかの作用がある。

その作用が患者にとって利益になる場合もあれば、重大な副作用につながる場合もある。1人の患者に効果的だった薬が、別の患者には危険になることもある。だからこそ、薬には効果だけではなく、リスクについての情報が必要になる。

5.数字の向こう側にいる人間

医療被害を語るとき、私たちは「1万人」や「10万人」や「25万人」といった数字を見る。しかし、その数字の1人1人には、家族がいて、仕事があって、人生がある。

統計上の「1件」は、被害者本人にとっては人生そのものが変わる出来事になる。本書では、この数字の向こう側にいる「被害者」の視点から医原病を考えていく。

6.アメリカという巨大な実験場

特に注目したいのが、世界最大級の医療市場を持つアメリカである。アメリカでは、病院、保険会社、製薬企業、医療機器メーカーなどが巨大な産業を形成している。

一方で、医療による患者被害について、長年にわたって研究・議論が行われてきた。「世界最高水準の医療」を持つ国でなぜ医療被害が問題になるのか、という疑問が生まれる。

7.44,000人という数字

1999年、米国医学研究所(IOM)は、医療誤認による死亡について年間44,000〜98,000人という推計を公表した。

この数字は世界に大きな衝撃を与え、「医療安全」という問題が社会に強く意識されるきっかけとなった。しかし、その後の研究では、さらに大きな数字が示されることになる。

8.25万人という衝撃

2016年、BMJに掲載された研究では、米国で年間251,454人が医療上の問題によって死亡している可能性が推計された。

これらの数字が正確なものか、医療に関連した死亡は米国社会にとって重大な問題となる。しかし、この推計には方法論上の批判もあり、「25万人」という数字をそのまま事実として扱うことはできない。だからこそ、本書では数字そのものではなく、どれほど大きな幅の議論があるのかを追跡していく。

9.誰が数字を決めるのか

ここには非常に重要な問題がある。何を「医療による死亡」と定義するのかによって、統計上の数字は大きく変わる可能性がある。

医療事故、医原性、有害事象、予防可能な患者被害は、すべて同じ意味ではない。つまり、年間何十万人という数字を見るとき、その数字が何を数えているのかを確認しなければならない。

10.医療を疑うことは悪なのか

医師を疑うこと。病院を疑うこと。薬を疑うこと。それは、多くの人にとって「してはいけないこと」のように感じられるかもしれない。

しかし、自分の命に関する治療について疑問を持ち、情報を求めることまで否定されるべきなのだろうか。私はそうは思わない。むしろ、疑問を持てない社会のほうが、患者にとって危険なのではないだろうか。

11.医療の光と影

医学は過去200年間で驚異的な発展を遂げた。一方で、医療技術が強力になればなるほど、医療行為によって生じるリスクも無視できなくなっている。

人間を救うために作られた薬が人間を傷つけることもあれば、命を救う手術が別の障害を生むこともある。人を救ったのと同じ技術が、人を傷つける可能性を同時に抱えている。それが、医療の「光」と「影」である。

12.本書が追いかけるもの

本書では、医学史、薬害、医療事故、製薬企業、研究機関、規制当局、医師、政治、そして巨大な医療市場を追いかける。

さらにアメリカで起きた出来事を中心に、「隠された事実」と「根拠のない噂」を可能な限り切り分けていく。その中には、単なる都市伝説として片付けられてきた話も登場するだろう。そして、その話の中に本当に証拠が存在するのかを検証する。

13.最初から疑ってかかる

本書は、医療を無条件に善とする立場には立たない。むしろ最初から疑う。

「誰が得をするのか」「誰が損をするのか」「なぜその制度が存在するのか」という視点から、医療という巨大なシステムを見直していく。

14.そして最後に残る疑問

医療は人を救っている。これは疑いようのない事実である。

しかし同時に、医療によって傷ついた人々が存在することも否定できない。では、その被害は単なる偶然なのか、それとも社会システムが生み出した「人災」なのか。

15.これは都市伝説なのか

もし医療業界と製薬企業の間に、私たちが知らない利益構造が存在するとしたらどうだろう。もし政府、企業、研究機関、医療機関の関係が、想像以上に複雑につながっていたとしたらどうだろう。

それを「陰謀論」と笑って終わらせるのは簡単だ。しかし、本当に重要なのは「証拠があるのか」という一点である。

16.医原病という問い

医療を信じるな、と言いたいのではない。医療だからこそ、疑問を持ち、検証し、患者自身が考える必要があると言いたいのだ。

「医原病」という言葉の向こうには、医学の発展によって救われた人々と、医学の発展によって傷ついた人々が存在する。本書は、その両方から目をそらさない。

17.これから始まる調査

次章から私たちは、医学の歴史を遡る。そこには、現在では当たり前となった治療法が、かつてどのように生まれ、どのような犠牲を伴って発展してきたのかという歴史がある。

そして、その歴史をたどることで、「医療はいつから巨大な産業になったのか」という新たな疑問が浮かび上がってくる。医原病の本当の姿を知るための旅は、ここから始まる。

第2章 医学は人類を救った。そして新しい影を生んだ

1.医学の歴史は「成功の歴史」だけではない

現代の医学を見れば、過去の人類が想像できなかったほど多くの病気を治療できるようになった。しかし、その歴史を「医学が進歩して人類が救われた」という一方向だけで語ることはできない。

新しい治療法が生まれるたびに、同時に新しい副作用や医療被害も生まれてきた。医学の発展とは、光だけではなく、常に影を伴う歴史でもある。

2.かつて医師は「科学者」ではなかった

数百年前の医療では、現在では信じられないような治療が普通に行われていた。瀉血、下剤、催吐剤などが治療として使用され、病気の原因についても現在とはまったく異なる考え方が存在していた。

当時の医師たちは、それが患者を救うための正しい医療だと信じていた。しかし、現在から見れば、その中には患者をさらに弱らせる行為も存在していた。

3.「正しい医学」は時代によって変わる

ここで重要なのは、当時の医師たちが必ずしも悪人だったわけではないということだ。医学には、その時代に利用できる知識と技術という限界が存在する。

昨日まで正しいと考えられていた治療法が、10年後には否定されることもある。では、私たちが現在「正しい」と信じている医学は、本当に永遠に正しいのだろうか。

4.人体実験という暗黒の歴史

医学の発展には、人体を対象とした研究の歴史が深く関係している。その中には、本人の十分な同意を得ないまま行われた研究や、弱い立場に置かれた人々を対象とした研究も存在した。

医学の進歩という大義名分の下で、人間の尊厳が無視された歴史は決して少なくない。そして、その歴史は現在の研究倫理がなぜ必要なのかを教えている。

5.19世紀、医学は大きく変わった

19世紀になると、解剖学、細菌学、麻酔、外科学などが急速に発展した。特に麻酔と消毒技術の発展は、外科手術の可能性を大きく広げた。

しかし、手術が可能になったからといって、手術が安全になったわけではなかった。新しい医療技術は、新しい医療リスクを同時に拡大させたのである。

6.麻酔という革命

1840年代、エーテルや笑気などを利用した麻酔技術が広まり、患者が激しい痛みに耐えながら手術を受ける時代が変わっていった。これは医学史上の大きな革命だった。

しかし麻酔にも過量投与や呼吸抑制などの危険があり、「痛みをなくす」という大きな利益にはリスクも存在した。医学が強力になるほど、医療者にはより大きな責任が求められるようになった。

7.手術室に潜んでいた死

麻酔によって手術そのものが可能になっても、感染症という巨大な壁が残っていた。19世紀の手術では、術後感染によって患者が命を落とすことが珍しくなかった。

外科医が手を洗うことさえ、現在ほど当然ではなかった。「清潔」という当たり前の概念が医学に定着するまでには、長い時間が必要だった。

8.ゼンメルワイスが突きつけた現実

19世紀、産科医イグナーツ・ゼンメルワイスは、医師や医学生が手を洗うことで産褥熱による死亡を減らせることを示した。しかし当時、その考えは医学界から容易には受け入れられなかった。

患者を救う可能性のある知見が、既存の医学界の常識と衝突したのである。ここには、医学が抱える「権威と常識」という問題が見えてくる。

9.医学界は常に正しかったのか

科学は本来、間違いを発見し、修正するための仕組みである。ところが医学も人間によって運営される以上、権威、名誉、組織、経済的利益などから完全に自由ではない。

ある説が正しいかどうかと、その説を唱える人物が医学界で認められるかどうかは別問題である。この違いは、後に製薬企業や医療産業を考えるうえでも重要になる。

10.ワクチンと医学の光

ワクチンは感染症による死亡や重症化を減らしてきた重要な医学技術の一つである。天然痘の根絶は、予防医学の歴史における巨大な成果だった。

しかし一方で、ワクチンを含む医療行為にも副反応やリスクが存在する。医学を語るなら、利益だけでも危険だけでもなく、その両方を見る必要がある。

11.抗生物質という奇跡

20世紀に入ると、抗生物質は感染症治療に革命を起こした。かつて命を奪っていた細菌感染症を治療できるようになり、多くの人命が救われた。

しかし抗生物質の乱用や不適切な使用は、薬剤耐性という新たな問題を生み出した。人類は病原体との戦いに勝利したのではなく、戦い方を変えただけなのかもしれない。

12.「新薬」という言葉の魔力

新しい薬が発売されると、多くの人は「新しい=優れている」と考えやすい。しかし、新薬が既存薬よりどれほど優れているのか、どのようなリスクがあるのかを判断するには慎重な検証が必要になる。

薬には効果がある一方で、副作用という代償が存在する。つまり、「薬だから安全」という考え方そのものが危険なのである。

13.サリドマイドが変えた世界

1950年代後半から1960年代にかけて、サリドマイドによって深刻な先天異常が多数発生した。この事件は、医薬品の安全性を確認する制度や妊娠中の薬剤使用について、世界的な議論を引き起こした。

薬害は単なる「失敗」ではなく、規制制度そのものを変えるきっかけにもなった。しかし同時に、被害を受けた人々にとって、その代償はあまりにも大きかった。

14.薬害は「過去の話」なのか

サリドマイド事件を見て、私たちは「今ではそんなことは起こらない」と思うかもしれない。しかし、薬の承認制度が存在しても、すべてのリスクを発売前に把握することはできない。

実際に使用される患者数が増えて初めて判明する副作用も存在する。だからこそ、医薬品は発売された後も監視され続けなければならない。

15.医療の巨大化

20世紀になると、医学は個々の医師による治療から巨大な産業へと変化していく。病院、製薬企業、保険会社、医療機器メーカー、研究機関などが複雑につながる巨大な医療システムが形成された。

医療に投入される資金が増えるほど、そこには当然、巨大な経済的利益も発生する。ここから「医療とビジネス」という問題が本格的に浮上する。

16.患者は「人間」なのか「市場」なのか

医療の最大の目的は患者を治療することである。しかし製薬企業にとって薬は商品であり、病院にとって医療は経営を必要とするサービスでもある。

この2つの側面が必ずしも完全に一致するとは限らない。ここに医療産業が抱える根本的な矛盾が存在する。

17.「利益」と「人命」が衝突するとき

企業には利益を上げる責任がある。しかし医療では、その利益の向こう側に人間の生命が存在する。

利益を追求すること自体が悪なのではない。問題は、利益と患者の安全が衝突したとき、どちらが優先される仕組みになっているのかということである。

18.アメリカで何が起きたのか

この問題を考えるうえで、アメリカは非常に重要な国である。世界最大級の医薬品市場を持ち、製薬企業、保険会社、病院、研究機関が巨大な経済圏を形成している。

同時に、医療事故や薬害、過剰医療などについても長年にわたる議論が存在する。次章からは、このアメリカの医療システムを本格的に掘り下げていく。

19.「医学の進歩」という言葉を疑う

医学の進歩は、多くの命を救ってきた。しかし「進歩」という言葉だけで、その過程で発生した犠牲や被害を消すことはできない。

新しい治療、新しい薬、新しい検査が登場するたびに、それによって誰が利益を得て、誰がリスクを負うのかを考える必要がある。医学の歴史とは、成功の歴史であると同時に、失敗と犠牲の歴史でもある。

20.次に向かう場所

ここまで医学の歴史を振り返っただけでも、「医療は常に正しかった」という物語には無理があることが分かる。しかし、本当の問題はここからだ。

医学が巨大産業となったとき、患者の命と企業の利益はどのような関係になったのか。次章では、いよいよ「薬は救世主なのか、それとも巨大な商品なのか」という問題に踏み込む。

第3章 戦争は医学を狂わせた――人体実験という隠れた歴史

1.人間は「医学の材料」になった

医学の歴史を語るとき、私たちは普通、偉大な発見や画期的な治療法に目を向ける。19世紀には麻酔や消毒が発達し、20世紀には抗生物質やワクチン、新しい外科手術、画像診断などが次々と登場した。人類は「病気を治す力」を急速に手に入れていったのである。

しかし、その輝かしい歴史の裏側には、決して教科書の表紙には載りにくいもう一つの歴史が存在する。それは、人間そのものを医学研究の材料として扱った歴史である。そして恐ろしいことに、その一部は戦争という非常事態の中で、「国家のため」「軍人を救うため」「医学を発展させるため」という大義名分によって正当化された。

戦争は、人間の倫理を壊す。平時ならば許されないことでも、「敵国に勝つため」「兵士の命を救うため」「国家を守るため」という言葉が付けられると、社会はそれを受け入れてしまうことがある。医学も例外ではなかった。むしろ医学は、戦争によって生まれた問題を解決するための研究を必要とされたことで、軍事と急速に接近していった。

もちろん、戦時下における医学研究のすべてが悪だったわけではない。負傷兵の治療、感染症対策、輸血、外科手術、義肢、麻酔など、戦争が医学技術の発展を加速させた例は数多く存在する。だからこそ問題は単純ではない。「医学が戦争によって発展した」という事実と、「その発展の過程で人間が犠牲になった」という事実は、同時に成立するのである。問題は、誰がその犠牲を負担したのかということだ。

もし研究者自身が被験者になるのなら、そこには少なくとも自分自身で危険を引き受けるという選択がある。しかし、囚人、占領地域の住民、障害者、民族的・政治的に迫害された人々など、自分の意思で拒否することのできない人間を研究対象にした瞬間、その研究は「医学」という言葉だけでは正当化できなくなる。

ナチス・ドイツでは、第二次世界大戦中に強制収容所の囚人を対象として、低温、低酸素、感染症、薬剤、外科処置、強制不妊など、さまざまな人体実験が行われたことが記録されている。米国ホロコースト記念博物館によれば、これらの実験には軍人の生存を研究するもの、薬剤や治療法を試験するもの、そしてナチスの人種思想を実証しようとするものなど、複数の目的が存在した。

ここで注目すべきなのは、「医学者が突然、医学を捨てて犯罪者になった」という単純な話ではないことだ。研究者たちは研究者としての知識を持っていた。医師たちは医学を学んでいた。大学や研究機関とつながりを持つ人物もいた。それにもかかわらず、国家の思想と権力が医学の目的を歪めると、「人を救うための知識」が「人を分類し、選別し、利用するための知識」に変わってしまった。

ナチスの医療政策では、障害者や特定の民族などを「生物学的な脅威」とみなす思想が広がり、医学者や精神科医、遺伝学者などがその政策に関与した。強制不妊政策から始まり、やがて大量殺害へとつながっていった歴史は、医学と国家権力が結びついたときに何が起こり得るのかを示している。

そして、ここで一つの恐ろしい問いが浮かび上がる。「科学的」という言葉が付けば、人間は何をしても許されるのだろうか。答えはもちろん、違う。科学は真実を探るための方法であって、人間の尊厳を破壊する免罪符ではない。ところが歴史を見ると、「科学」「医学」「国家」「公共の利益」という言葉が並んだとき、人間の権利が後回しにされることがあった。

人体実験の被害者たちは、研究者にとっては「症例」だったかもしれない。しかし、その人には名前があった。家族がいた。過去があり、未来があった。そして、本人には「嫌だ」と言う権利があった。それを奪って行われた実験を、どれほど医学的に価値のある研究だったと説明しても、被害者の立場から見れば、自分の身体と命を奪われたという事実は変わらない。

さらに問題なのは、戦争が終わればすべてが終わるわけではないことだ。戦争犯罪として裁かれる者もいれば、逃亡する者もいる。そして、研究によって得られたデータ、技術、人的ネットワークなどが、その後の世界でどのように扱われたのかという問題が残る。

ナチスの人体実験が発覚した後、1946年から1947年にかけて行われた医師裁判では、医学研究における人間の同意や安全性が大きな問題となった。その結果として形成されたニュルンベルク綱領では、「被験者本人の自発的同意」が最も重要な原則の一つとして示された。つまり、現代の医学研究倫理の一部は、過去に人間の尊厳が踏みにじられたという悲惨な歴史の上に築かれている。

これは医学の恥ずべき歴史である。しかし同時に、私たちが決して忘れてはいけない歴史でもある。なぜなら、人体実験を可能にしたのは「狂った人間」だけではなかったからだ。国家があり、組織があり、研究者がいて、資金があり、命令があり、そして「これは人類のためなのだ」という大義名分があった。だからこそ怖い。もし医学が再び巨大な権力や利益と結びついたとき、私たちは同じ過ちを繰り返さないと言い切れるだろうか。

本書が「医原病」という問題を追いかける理由は、そこにある。医学は人間を救う。しかし、医学を動かすのもまた人間である。そして人間には、善意だけではなく、欲望、権力、名誉、金、恐怖、そして支配欲がある。医学の歴史を本当に理解するためには、白衣の向こう側を見る必要がある。

そこに何があったのか。誰が命令したのか。誰が研究費を出したのか。誰が実験を行ったのか。そして、誰が犠牲になったのか。この問いを持ったまま、私たちは次に満州へ向かう。そこには、戦時下の日本で行われた人体実験という、今なお議論の続く歴史が待っている。

2.戦争という「例外状態」

戦争が始まると、社会のルールは大きく変わる。平時なら犯罪として扱われる行為であっても、「国家を守るため」「兵士を救うため」「敵に勝つため」という大義名分が与えられると、別の意味を持つようになる。医学も例外ではなかった。

戦場では負傷者が次々と運び込まれ、感染症が兵士の生命を脅かし、極寒や高温、飢餓、毒物など、通常の研究環境では得られない問題が次々と発生する。軍にとって医学は、単に病人を治療するための学問ではない。兵士を戦場に復帰させ、部隊の戦闘能力を維持し、国家の戦争遂行能力を支える重要な軍事技術でもあった。ここに、医学と軍事の危険な接点が生まれる。

「一人の人間を救う」という医学の倫理と、「多数の兵士を生存させる」という軍事目的。この二つは一見すると同じ方向を向いているように見える。しかし、両者には決定的な違いがある。医学は基本的に患者個人の利益を考える。一方、軍事は国家や組織全体の利益を優先する。この違いが極端になったとき、「一人の人間を犠牲にしてでも、多数の人間を救う」という発想が生まれる。そして、その発想が人体実験を正当化する危険な論理につながっていく。

もちろん、戦時下に開発された医学技術のすべてが人体実験によるものではない。輸血、外科手術、感染症対策、麻酔、義肢、外傷治療など、戦争によって医学研究が加速した分野は数多く存在する。問題は、その医学的成果の「裏側」に何があったのかということだ。誰を対象に研究したのか。本人は研究に同意していたのか。研究によってどの程度の危険を負ったのか。そして、その研究を拒否する自由があったのか。この4つの質問をすると、医学研究と人体実験の境界線が見えてくる。

現代の臨床研究では、研究対象者の同意、安全性、利益とリスクの比較などが重要視される。しかし20世紀前半には、現在ほど確立した研究倫理の国際的枠組みは存在していなかった。さらに戦争になると、研究対象者の立場は一層弱くなる。捕虜。強制収容所の囚人。占領地域の住民。政治的迫害を受けた人々。障害者。民族的・社会的に差別された人々。こうした人々は、自由に研究への参加を拒否することが難しい。そして権力者が「この人間には拒否する権利がない」と考えた瞬間、人間は患者ではなく「材料」へと変わってしまう。ここに人体実験の本当の恐ろしさがある。

人体実験そのものが、すべて悪というわけではない。現代医学でも、人間を対象とした臨床研究は必要不可欠である。新薬を開発するためには、人間での安全性や有効性を確認しなければならない。新しい手術法や治療法も、科学的な検証を必要とする。だから問題は、「人間を研究すること」ではない。問題は、「人間を一人の人間として扱っているのか」という一点にある。本人に十分な説明をしたのか。本人は自由意思で参加したのか。危険について説明したのか。途中で拒否できるのか。研究者自身が被験者の生命を守ろうとしているのか。これらが失われれば、医学研究は簡単に人体実験へと変質する。

第二次世界大戦は、この問題を極限まで押し広げた。ヨーロッパではナチス・ドイツが強制収容所の囚人を対象とした人体実験を行った。一方、アジアでは日本軍による人体実験が行われたことが記録されている。場所も国家も違う。しかし、その構造には共通点がある。国家。軍事目的。医学研究。権力。そして、拒否することのできない被験者。医学という専門知識が、国家の目的に組み込まれたとき、医師は「患者を守る人」から「国家の研究者」へと役割を変えることがある。

これは非常に重要な問題である。なぜなら、医学そのものが危険なのではないからだ。医学を誰が利用するのか。誰が研究目的を決めるのか。誰が資金を提供するのか。誰が結果を管理するのか。そして誰が、その研究によって利益を得るのか。そこに問題がある。戦争という特殊な環境では、この構造が極端に現れる。国家は莫大な資金を投入する。軍は研究目的を設定する。研究者はその要求に応える。そして研究対象者は、拒否することのできない立場に置かれる。

この構造を見ると、人体実験は「狂った医師が突然思いついた異常行為」ではないことが分かる。それは、権力、組織、命令、科学、そして戦争が組み合わさった結果として発生する可能性がある。だからこそ、私たちは人体実験を過去の特殊な犯罪として片付けてはいけない。現代社会でも、医学研究には莫大な資金が動いている。政府、大学、製薬企業、軍、医療機関など、多数の組織が研究に関わっている。もちろん、それだけで陰謀が存在することにはならない。しかし、「誰が資金を出し、誰が研究を行い、誰が結果を利用するのか」という質問をすることはできる。そして、その質問をすること自体を「陰謀論」として封じるべきでもない。

疑うことと、事実を捏造することは違う。証拠を探すことと、証拠がないまま断定することも違う。本書では、この境界線を意識しながら、医学史の暗部へ踏み込んでいく。まず向かうのは、第二次世界大戦下の満州である。そこでは、日本軍の731部隊をめぐる人体実験という、現在まで議論が続く重大な歴史が残されている。そしてヨーロッパでは、ナチス・ドイツによって医学そのものが国家の人種政策に組み込まれていった。

二つの歴史を並べて見ることで、私たちは一つの恐ろしい問いに直面する。医学は人間を救うための学問なのか。それとも、権力によって利用されたとき、人間を「管理する技術」にもなり得るのか。この問いを避けて、現代医学の光だけを語ることはできない。次に私たちが見るのは、満州で何が行われたのかという問題である。そこには、戦争と医学と国家権力が交差した、20世紀最大級の暗部の一つがある。

3.満州――医学の名の下で何が行われたのか

第二次世界大戦の歴史を語るとき、日本軍による人体実験の問題を避けて通ることはできない。その中心として知られているのが、旧満州を拠点として活動した「731部隊」である。この組織をめぐっては、細菌兵器の研究や人体を対象とした実験が行われたことが、戦後の証言や資料、研究によって明らかにされている。しかし、この歴史は長い間、日本社会の中で十分に知られていたとは言い難い。

731部隊という名前だけを聞くと、軍事史の特殊な一組織のように感じるかもしれない。しかし、問題の本質はそこではない。731部隊の歴史が突きつけるのは、「医学や科学の知識が国家と軍事目的に組み込まれたとき、人間の命はどこまで軽く扱われるのか」という問題である。

当時の満州では、日本軍が占領・支配する地域に大規模な軍事・研究体制が構築されていた。その中で細菌戦に関連する研究が進められ、ペスト、コレラ、チフスなどの感染症を利用した研究が行われたとされる。さらに、捕らえられた人々を対象として、感染症や極限環境などに関する人体実験が行われたことが証言されている。

ここで、あえて一人の被害者の立場から考えてみたい。ある日、自分の意思とは関係なく拘束される。どこへ連れて行かれるのかも分からない。何をされるのかも説明されない。そして、医学研究という名の下で、自分の身体が研究対象にされる。その人間にとって、それは「医学研究」ではない。ただの恐怖である。本人に拒否する権利がなく、逃げることもできず、治療を受ける患者でもない。そこにあるのは、権力によって完全に自由を奪われた人間と、その人間の身体を利用する研究者との圧倒的な力関係だった。

医学研究において最も重要なものの一つは、研究対象者の同意である。現代の研究倫理では、研究に参加する人間に対して、研究内容やリスクなどについて十分な説明を行い、自由意思による同意を得ることが基本的な原則となっている。しかし、戦時下の人体実験では、その最も基本的な原則が完全に無視された。

では、なぜそんなことが可能だったのか。一つの答えは、「敵」という言葉である。戦争では、人間を「敵国人」「捕虜」「反逆者」などのカテゴリーに分類する。そして一度、人間が「敵」として分類されると、その人間に対する扱いが変化する。本来ならば同じ人間として守られるべき生命が、軍事目的のための対象へと変わってしまう。ここに戦争の恐ろしさがある。

さらに恐ろしいのは、人体実験に医学や科学の専門知識が利用されたことである。研究者には専門的な知識があり、実験には目的があり、記録も残される。つまり、単なる暴力ではなく、「研究」という形式を持った暴力だった。科学という言葉は、人間に強い権威を感じさせる。「科学的研究です」「医学の発展のためです」「国家を守るためです」。そう説明されれば、研究者自身も、自分の行為を正当化できてしまう。しかし、科学的な目的があるからといって、人間の尊厳を奪ってよい理由にはならない。

ここで重要なのは、731部隊だけを特殊な怪物として扱って終わらせないことだ。もちろん、731部隊で行われたとされる行為そのものを軽く見ることはできない。しかし本当に考えるべきなのは、「なぜ普通の社会で医学を学んだ人間が、国家と軍事組織の中で人体実験に関与できたのか」という問題である。医学教育を受けた人間。研究設備。軍の命令系統。研究資金。組織による秘密保持。そして戦争という非常事態。これらが組み合わさったとき、人間の生命を守るはずの医学知識が、生命を破壊するために利用される可能性が生まれる。つまり問題は、731部隊という「組織」だけではない。「システム」なのである。

戦争が終わった後、この問題はさらに複雑な局面を迎える。1945年、日本が敗戦すると、731部隊をめぐる情報も当然ながら大きな問題となった。しかし戦後処理については、現在まで多くの研究や議論が続いている。特に、人体実験や細菌戦に関する情報をめぐって、米国側との関係や関係者の処遇についてさまざまな資料が存在する。

ここでは慎重にならなければならない。「人体実験の情報と引き換えに、すべての関係者が免責された」という単純な物語にしてしまえば、歴史を歪めることになる。実際には、関係者の戦後の処遇には複雑な違いがあり、ソ連側によるハバロフスク裁判なども存在する。しかし同時に、米国が731部隊に関する情報に関心を持っていたことや、戦後の情報収集をめぐって議論が続いていることも事実である。

ここに、「隠された歴史」という問題が登場する。歴史上、すべての情報が同時に公開されるわけではない。政府が機密指定した文書もあれば、何十年も後になって公開される資料もある。情報機関が関与した問題では、さらに複雑になる。だからこそ、「秘密だった」という事実と、「巨大な陰謀が存在した」という結論を同じものとして扱ってはいけない。

しかし逆に言えば、「陰謀論だから調べる必要がない」という態度も危険である。歴史を研究するということは、公開された情報だけを信じることではない。誰が何を記録したのか。何が公開されているのか。何が公開されていないのか。なぜ資料が存在しないのか。そして、異なる資料が互いにどこまで一致しているのか。それらを一つずつ確認する作業である。

731部隊をめぐる問題で忘れてはいけないのは、数字の議論だけではない。「何人だったのか」「何件の実験だったのか」「どれほどの研究成果が得られたのか」。こうした数字は重要だ。しかし、数字だけを追いかけると、被害者の存在が消えてしまう。1人なら悲劇なのか。100人なら重大犯罪なのか。1万人なら歴史的犯罪なのか。そんな問題ではない。人間の命は、統計上の数字によって価値が変わるものではない。たった1人でも、本人にとっては100%の人生なのである。

731部隊の歴史を「医学の発展」という言葉で語ることはできない。そこには、医学という高度な知識が人間を救うためではなく、軍事目的のために利用されたという重大な問題がある。そして、この歴史を学ぶことは、単に過去の日本を批判するためではない。同じことが、別の国で、別の時代に、別の名前で起こらないと言い切れるのか。そこを考えるためである。

医学は進歩した。研究倫理も整備された。人体実験を禁止する国際的な原則も形成された。では、これですべて解決したのだろうか。答えは、簡単には出せない。なぜなら、医学研究には現在でも巨大な資金が必要であり、政府、大学、製薬企業、軍、研究機関など、多数の組織が関わっているからだ。もちろん、それだけで不正が存在するわけではない。しかし、巨大な権力と巨大な資金が存在する場所では、「誰が監視するのか」という問題が必ず発生する。

731部隊が私たちに残した最大の教訓は、人体実験という過去の犯罪だけではない。それは、「医学を誰が支配するのか」という問いなのだ。そして、この問いは戦後のアメリカへとつながっていく。戦争が終わった後、世界最大の軍事・経済大国となったアメリカでは、医学研究と政府、軍、大学、企業との関係がさらに巨大化していった。そこでは一体、何が行われていたのか。そして、その歴史の中には、一般にはほとんど知られていない人体実験や研究も存在する。

次に見るのは、ナチス・ドイツの人体実験とホロコーストである。しかし、それは「遠い外国の狂気」ではない。そこから見えてくるのは、医学が国家思想と結びついたとき、人間を救う学問が、人間を選別するシステムへ変わり得るという恐ろしい現実なのである。

4.イギリス――「民主主義国家」でも人体は研究対象になった

人体実験の歴史を語るとき、日本の731部隊やナチス・ドイツの人体実験だけに目を向けると、まるで「異常な独裁国家だけが人体を研究材料にした」かのような錯覚に陥る。しかし、歴史をさらに広げてみると、イギリスやアメリカを含む欧米諸国でも、戦争や軍事研究と医学が深く結びついていたことが分かる。もちろん、そのすべてを731部隊やナチスの犯罪と同一視することはできない。だからこそ、何が合法的な研究で、何が倫理的に問題のある実験だったのかを、一つずつ確認する必要がある。

イギリスでは第二次世界大戦中、化学兵器や防護技術などに関する研究が行われていた。その中心の一つとなったのが、イングランド南部のポートンダウンに設置された軍事研究施設である。ここでは化学兵器に対する防護や毒性物質などについて研究が進められ、軍事目的と科学研究が密接に結びついていた。戦争という状況では、兵士がどのような環境に耐えられるのか、化学物質にどのように反応するのか、どのような防護方法が有効なのかを知ることは、軍事的には重要な課題だった。

しかし、その研究に人間が関わったとき、問題は一気に複雑になる。研究対象者が本当に自由意思で参加したのか。危険性について十分に説明されていたのか。そして、研究者は被験者の生命と安全を最優先していたのか。ここで重要なのは、人体研究をすべて同じ「人体実験」と呼ばないことだ。現代の医学では、新薬や治療法の安全性を確認するため、人間を対象とした臨床研究が必要になる。研究参加者に説明を行い、同意を得て、倫理審査を受け、安全性を監視する。これらの条件が整っていれば、人体を対象とする研究そのものが悪いわけではない。

しかし、軍事研究では事情が異なる。軍人は命令系統の中にいる。上官から指示を受ければ、研究への参加を断りにくい場合がある。さらに研究の内容が軍事機密に関係していれば、家族や社会に詳しい情報を伝えることも難しくなる。ここに「自由意思」という問題が生まれる。表面的には同意書に署名していたとしても、その人物が本当に自由な立場で「参加しない」という選択をできたのか。これは、現在の研究倫理を考えるうえでも非常に重要な問いである。

ポートンダウンをめぐっては、1953年に空軍兵士ロナルド・マディソンがサリンを使った実験の後に死亡した事件が知られている。マディソンは20歳の兵士だった。この事件は、その後の調査や裁判、政府による対応を含め、英国における軍事研究と人体実験をめぐる重要な歴史となった。一人の若い兵士の死。それは軍事研究全体から見れば「一件」にすぎないかもしれない。しかし、家族にとっては決して一件ではない。息子であり、兄弟であり、友人であり、一人の人間だった。この視点を失った瞬間、医療や科学は数字だけになってしまう。

さらに問題となるのは、本人が研究の危険性をどこまで理解していたのかという点である。軍事研究では、一般の医療研究とは異なり、国家安全保障という理由から情報が制限される場合がある。その結果、研究対象者本人や家族が、何が行われていたのかを長期間知らされない可能性がある。「国家機密」という言葉は非常に強い。国家を守るためという理由が付けば、情報を秘密にすることが正当化される。しかし、その秘密の中に人間の生命に関わる問題が含まれていた場合、どこまで秘密を許してよいのだろうか。ここに医学と国家権力の危険な関係がある。

研究者から見れば「軍事研究」。政府から見れば「国家安全保障」。軍から見れば「任務」。しかし、被験者から見れば「自分の身体に何をされたのか」という問題である。立場によって、同じ出来事の意味がまったく違ってしまう。そして、この問題はイギリスだけに存在したものではない。第二次世界大戦を経験した各国では、軍事と医学研究の距離が急速に縮まった。毒物、感染症、放射線、低温、高高度、栄養不足、外傷など、戦場で発生するさまざまな問題を解決するため、研究が行われた。

研究の目的だけを見れば、「兵士を救う」という正当な目的が存在することもある。しかし、目的が正しいからといって、すべての手段が正当化されるわけではない。この原則は極めて重要である。「多くの人を救うためなら、一人を犠牲にしてもいい」――この考え方を医学研究に持ち込めば、人体実験は簡単に正当化されてしまう。100万人を救うために1人を犠牲にする。1万人の兵士を救うために10人を実験対象にする。戦争では、このような発想が生まれやすい。しかし、その「1人」が自分の家族だったらどうだろうか。自分の父親だったら。自分の母親だったら。自分の子どもだったら。おそらく、「国家のためだから仕方がない」と簡単には言えないだろう。被害者の立場から見ると、数字の計算だけでは見えないものが見えてくる。

そして、ここから医学研究倫理という問題が重要になる。第二次世界大戦後、ナチスの医師裁判を通じて、人体実験には本人の自発的な同意が必要だという原則が国際的に強く意識されるようになった。これは単なる法律上の手続きではない。人間を「研究材料」ではなく、一人の意思を持った人間として扱うための最低限の境界線である。ところが歴史を振り返ると、その境界線が常に守られてきたとは言えない。戦争が終わった後も、軍事研究は続いた。冷戦が始まると、アメリカ、イギリス、ソ連などの大国は、核兵器、生物兵器、化学兵器、放射線などに関する研究を進めていった。そして研究対象となったのは、必ずしも戦場の兵士だけではなかった。一般市民が知らないまま研究対象になったケース。患者が十分な説明を受けないまま研究に組み込まれたケース。研究の目的を本人が理解できなかったケース。こうした問題が、戦後の各国で次々と明らかになっていく。

ここで、私たちは一つの大きな疑問にぶつかる。第二次世界大戦中、ナチスや日本軍による人体実験が問題になった。では、戦勝国側では本当にすべてが倫理的だったのだろうか。この問いを持つことは、戦勝国を批判するためだけではない。「自分たちは正義の側だから大丈夫」という思考そのものを疑うためである。人間は、敵を非人間化するときだけ残酷になるのではない。国家の安全。科学の発展。医学の進歩。国民の利益。兵士の生命。こうした「正しい目的」のためにも、危険な行為を正当化してしまうことがある。

だからこそ、医学史を見るときには「誰が悪人だったのか」だけを探すのでは足りない。どのような制度が存在したのか。誰が命令したのか。誰が研究費を出したのか。誰が研究を監督したのか。被験者には拒否する権利があったのか。そして、問題が発覚した後、誰が責任を取ったのか。この6つの質問を繰り返す必要がある。イギリスの軍事研究史を見ていると、医療と国家安全保障の関係が決して単純ではないことが分かる。

そして、この先にさらに巨大な国が登場する。アメリカである。第二次世界大戦後、アメリカは世界最大級の軍事大国となり、同時に世界最大級の医学・製薬研究大国となった。政府。軍。大学。病院。製薬企業。研究機関。これらが巨大な資金と情報を介して結びついていく。医学はかつてないほど進歩した。しかし、その巨大なネットワークの中で、誰が人間を守り、誰が人間を研究対象にしたのか。そして、被害を受けた人々の声は、どこまで記録されたのか。ここから先は、いよいよ本書の中心舞台であるアメリカへ向かう。そこには、現在でも議論が続く「知られざる人体研究」の歴史が存在する。そして、その中には、後になって公的資料によって明らかになった出来事もある。だからこそ、次章では噂ではなく、公開された資料と歴史記録を手掛かりに、その扉を開けてみたい。

5.スペイン――内戦と独裁の時代、医学は誰のためにあったのか

1936年、スペインでは内戦が始まった。共和国側とフランコ率いる反乱軍が激しく衝突し、約3年間にわたって国内が戦場となった。この戦争は単なる国内の権力争いではなかった。ドイツやイタリアなど外国勢力も介入し、近代戦争の新しい実験場ともなったのである。

スペイン内戦を医学という視点から見ると、そこには一つの重要な特徴がある。戦争によって大量の負傷者が生まれ、外科、輸血、感染症対策、救急医療などの技術が実戦の中で試されることになった。戦場は医師にとって、極めて過酷な臨床現場だった。しかし、その「医学の進歩」の裏側には、当然ながら無数の負傷者と死者が存在していた。

戦争は医学を発展させることがある。しかし、それは医学が戦争を必要としているという意味ではない。大量の負傷者が発生すれば、医師は否応なく新しい治療法を考えなければならない。輸血の方法を改善し、感染症を防ぎ、手術の速度を上げ、より多くの患者を救う方法を探す。こうした努力の中から医学的な進歩が生まれる。しかし、その進歩を「戦争のおかげ」と簡単に美化してはいけない。なぜなら、そこには医学の進歩を必要とするほどの人間の犠牲が存在したからである。

スペイン内戦では、航空機による都市への爆撃も行われた。1937年のゲルニカ爆撃は、その象徴として世界的に知られている。民間人を巻き込む近代的な爆撃は、戦争が軍隊だけのものではなく、都市そのものを破壊するものへ変化していることを世界に示した。

そして戦争が終わると、医学を取り巻く環境も大きく変化した。フランシスコ・フランコによる独裁体制が成立し、スペイン社会は長期間にわたって政治的抑圧の時代へ入っていく。政治的反対者への弾圧、投獄、処刑、追放などが行われ、社会全体が国家権力によって管理されるようになった。ここで問題になるのが、医学と政治思想の関係である。

医学は本来、政治的立場によって患者を選別するものではない。病気になった人間を治療する。傷ついた人間を救う。それが医学の基本的な役割である。しかし歴史を振り返ると、医学が政治思想から完全に独立していたとは言えない。20世紀前半のヨーロッパでは、優生学が広く議論されていた。人間の能力や性質を遺伝によって改善できるという考え方が、一部の科学者や医師の間で支持されていたのである。

この思想はナチス・ドイツで極端な形に発展した。しかし重要なのは、優生学という考え方そのものがナチスだけによって突然作られたわけではないということだ。イギリス、アメリカ、ドイツなどでも、20世紀前半には優生学に関する研究や議論が存在した。そして、その思想が強制不妊手術などの政策と結びついた国もあった。つまり、ナチスによる犯罪を「ドイツ人だけの狂気」として片付けることはできない。

ここに、医学史を考えるうえで非常に重要なポイントがある。危険な思想は、最初から「犯罪」として登場するとは限らない。最初は学説だった。次に研究になった。やがて政策になった。そして最後には、人間の生命を奪う制度になった。この変化を理解することが重要なのである。

スペインでも、フランコ体制下で精神医学や政治思想が結びつく問題が生まれた。特に精神医学者アントニオ・バジェホ=ナヘラは、政治的敵対者や「反体制的」とされた人々について、精神医学的な説明を試みた人物として知られている。彼は、スペイン内戦後の社会において、政治的思想と精神医学を結びつける独特の理論を展開した。

ここには非常に危険な発想がある。「自分たちと違う思想を持つ人間には、何か病理的な原因があるのではないか」。この考え方が医学によって権威づけられると、政治的反対者を単なる「反対者」ではなく、「治療や矯正が必要な人間」として扱うことが可能になってしまう。これは現代社会にとっても無関係な問題ではない。医学的な診断は、人間を救うために使われる。しかし、その診断が政治的な目的で利用された場合、人間を分類し、排除し、管理する道具になる可能性がある。

ここで、私たちは「医原病」という言葉をもう一度考える必要がある。医原病とは、単純に薬の副作用だけを意味する問題ではない。医学という権威によって、人間の人生そのものが変えられることもある。診断。隔離。投薬。強制治療。施設への収容。そして社会からの排除。こうした行為が本人の意思に反して行われる場合、医学は治療という言葉だけでは説明できない権力を持つことになる。

もちろん、精神医学そのものを否定する話ではない。精神的な苦痛を抱える人にとって、適切な診断や治療は重要である。しかし、だからこそ医学的な診断には高い倫理性が必要になる。「あなたは病気です」。この一言には、想像以上の力がある。その言葉によって本人の社会的な立場が変わることがある。家族との関係が変わることもある。仕事を失うこともある。自由を制限されることさえある。

医学が人間を救う力を持つ一方で、人間を分類する力も持っている。そして、その分類を国家が利用すれば、医学は政治的支配の道具になり得る。スペインの歴史から見えてくるのは、この問題である。医師が独裁者になる必要はない。医学の言葉そのものが権力を持てばいい。「科学的にそうである」「医学的に問題がある」「社会にとって危険である」。こうした言葉が政治と結びついたとき、一般の人間は反論することが難しくなる。なぜなら、専門知識を持っていない人間にとって、「医学的に正しい」と言われたものを否定することは非常に難しいからである。

ここに専門家と一般人の間にある巨大な情報格差が存在する。そして、この情報格差こそが、本書で追及する「医療権力」の重要なテーマになる。医師には知識がある。患者にはない。製薬会社には薬の研究データがある。患者にはない。政府には規制や統計の情報がある。一般市民にはアクセスできない情報もある。この構造が必ずしも悪いわけではない。専門家が専門知識を持つのは当然だからだ。しかし、その権力を監視する仕組みが弱ければどうなるのか。医療者の判断が常に正しいとは限らない。研究者も間違える。企業も利益を追求する。政府も政策判断を誤る。だからこそ、医療には透明性と第三者による検証が必要になる。

スペインの歴史は、医学と政治権力が接近したときに何が起こり得るのかを考える材料になる。そして、この問題はヨーロッパだけに存在したわけではない。第二次世界大戦後、世界の中心は急速にアメリカへ移っていく。アメリカは巨大な軍事力を持つだけでなく、大学、研究機関、製薬企業、病院、保険会社などを中心とした巨大な医学研究システムを形成していった。医学研究には巨額の資金が投入されるようになった。国家が資金を出す。大学が研究する。企業が薬を開発する。病院で患者に使用される。保険制度が費用を支払う。そして、そのすべてを政府が規制する。

一見すると合理的なシステムである。しかし、巨大なシステムには必ず「権力」が生まれる。誰が研究テーマを決めるのか。誰が研究費を出すのか。誰が薬を承認するのか。誰がデータを持っているのか。誰が問題を公表するのか。そして、誰が利益を得るのか。これらの問いを追っていくと、医学は単なる「病気を治す技術」ではなく、巨大な社会システムであることが見えてくる。

スペイン内戦からフランコ体制、そしてヨーロッパの優生学へ。そこからナチスの人体実験、満州の731部隊、そして戦後アメリカへ。一見すると別々の歴史に見える。しかし、その背後には共通する一つの問題がある。それは、「人間の生命について、誰が決定権を持つのか」という問題である。医学は人を救う。しかし、医学が国家や軍事、政治、企業と結びついたとき、その力は救命だけに使われるとは限らない。次章からは、その巨大な舞台であるアメリカへ向かう。そしてそこで私たちは、戦時下だけではなく、平和な時代にも行われた医学研究の歴史を調べる。

そこには、本人が知らないまま研究対象となった人々の記録が残されている。「戦争だから仕方なかった」という言い訳が通用しない時代にも、医学は人間の身体を研究対象としてきた。それは一体なぜなのか。そして、その研究から誰が利益を得たのか。ここから、本書の最も深い部分へ入っていく。

6.ポルトガル――独裁と植民地医学、その知られざる影

ヨーロッパの医学史をさらに南へたどると、ポルトガルという国に行き着く。1933年から1974年まで続いたエスタド・ノヴォ体制は、アントニオ・サラザールを中心とする権威主義的な政治体制だった。第二次世界大戦中にポルトガルは中立を維持したが、その国内では長期間にわたって政治的な抑圧が続いていた。そして、医学という専門分野も、社会や国家から完全に独立した存在ではなかった。

サラザール体制を考えるとき、私たちは「独裁政治」という言葉だけで理解しようとしてしまう。しかし、独裁体制は軍隊や警察だけによって維持されるものではない。教育、法律、行政、宗教、メディア、そして時には医学や科学といった専門知識までもが、国家の社会統治と関係を持つことがある。

ここで重要になるのが、20世紀前半に世界各地で広がった優生学である。優生学は、人間の遺伝的な性質を改善するという思想を背景にしていた。現代から見れば極めて危険な考え方だが、当時は一部の研究者や知識人によって「科学」の一分野として議論されていた。そして、この思想はドイツだけで突然生まれたものではなかった。イギリスでも、アメリカでも、フランスでも、北欧でも、優生学に関する研究や政策が存在した。つまり、ナチス・ドイツの人種政策を「ドイツだけの狂気」と考えると、20世紀前半の医学史を正しく理解できなくなる。

科学的に見える思想が社会政策に入り込む。そこから、人間を分類する考え方が生まれる。「健康な人間」「病気を持つ人間」「遺伝的に望ましい人間」「望ましくない人間」。この分類が極端になると、人間の価値そのものを医学的に判断する危険性が生まれる。ポルトガルでも、20世紀前半の医学や精神医学の世界には、当時のヨーロッパで広がっていた優生学的な思想との接点が存在した。もちろん、それをナチス・ドイツの政策とそのまま同一視することはできない。しかし、「医学が人間を分類する」という発想が、政治や社会制度と結びつく危険性を考えるうえでは重要な事例になる。

さらにポルトガルを考えるうえで避けられないのが、植民地支配である。ポルトガルは長期間にわたってアフリカなどに植民地を持っていた。アンゴラ、モザンビーク、ギニアなどでは、植民地支配の下で政治、経済、教育、医療などが複雑に組み合わされていた。医学も、その植民地支配の構造から完全に切り離されたものではなかった。

植民地医学には、現地住民の健康を守るという側面が存在した。感染症対策や衛生環境の改善など、実際に人命を救う医療活動も行われた。しかし同時に、植民地社会では人間が民族や社会的地位によって分類される構造が存在した。ここに「医療は誰のためにあるのか」という問題が現れる。植民地を支配する側にとって必要な医療と、支配される側が必要とする医療は、必ずしも同じではない。軍人や植民地行政官の健康を守ること。労働力を維持すること。感染症の拡大を防ぐこと。そして現地住民の生命を守ること。これらは重なる部分もあるが、完全に一致するわけではない。

医療が国家の統治システムの一部になったとき、誰を優先するのかという問題が生まれる。これは現代にも通じる問題である。医療資源には限りがある。医師にも時間の限界がある。病院のベッドにも限りがある。新薬の価格にも差がある。つまり、「誰が医療を受けられるのか」という問題は、医学だけでは決められない。そこには経済、政治、社会制度、そして権力が入り込む。ポルトガルの歴史を見ると、この構造が植民地支配という形で現れていたことが分かる。

そして1960年代になると、アフリカのポルトガル植民地では独立を求める武装闘争が広がり、ポルトガルは長期間にわたる植民地戦争に突入した。1961年にはアンゴラで武装闘争が始まり、その後ギニアビサウ、モザンビークへと戦争が広がった。戦争は再び医学を必要とした。負傷者の治療。感染症対策。軍人の健康管理。衛生。精神的な負傷。そして戦場から戻ってくる兵士への対応。戦争医学は、戦場で生まれた問題を解決するために発達する。しかし、ここにも一つの矛盾がある。戦争が医学を必要とする。そして医学が戦争を支える。この関係は、単純な「医学は平和のために存在する」という物語では説明できない。医学には、人を救う力がある。同時に、国家が戦争を遂行するための能力を支える力もある。この二面性を理解しなければ、20世紀の医学史は見えてこない。

さらに、独裁体制の下では情報そのものが制限される。政府が何を発表するのか。新聞が何を書くのか。研究者が何を公表できるのか。国民が何を知ることができるのか。これらが国家によって管理されると、社会問題が表面化するまでに長い時間がかかる。医療問題も例外ではない。患者に何が起きたのか。病院で何が行われたのか。研究者がどのような研究をしていたのか。国家がどのような政策を採用していたのか。情報が閉ざされていれば、外部から検証することは難しくなる。そして、この「情報の非対称性」こそ、医療を考えるうえで重要な問題になる。

医師は患者より多くの医学知識を持っている。製薬企業は一般消費者より多くの薬剤情報を持っている。政府は一般市民より多くの行政情報を持っている。軍は市民より多くの軍事情報を持っている。この情報格差が存在すること自体は自然なことだ。しかし、問題はその情報格差を利用して誰かが不利益を受けたときである。患者が十分な情報を持たないまま治療を選択した場合、その意思決定は本当に自由なのだろうか。被験者が研究の危険性を知らされていなかった場合、その同意は本当に同意と言えるのだろうか。国民が政府の研究内容を知らされていなかった場合、その研究を民主社会で十分に監視できるのだろうか。

ここで、人体実験の問題が再び登場する。人体研究には、本来「同意」という大きな壁がある。しかし国家が秘密を持ち、研究者が専門知識を独占し、被験者が情報を持たなければ、その壁は簡単に弱くなる。だからこそ、医学研究には倫理審査や情報公開、第三者による監視が必要になる。

ポルトガルの歴史から私たちが学ぶべきなのは、「ポルトガルも人体実験国家だった」という単純な結論ではない。むしろ、医学が政治、国家、植民地支配、軍事と接触したとき、医療の目的そのものが複雑になるということである。医療は誰のためなのか。国家のためなのか。軍隊のためなのか。企業のためなのか。研究者のためなのか。それとも患者のためなのか。この問いは、今後の本書で何度も繰り返すことになる。

そして、ポルトガルの歴史を見た私たちは、再びヨーロッパ北部へ戻ることになる。そこには第二次世界大戦後も、医学と国家、軍事、情報機関の関係を考えさせる出来事が存在する。戦争が終わっても、医学と国家の関係は終わらなかった。むしろ戦後になると、科学技術そのものが国家安全保障の重要な要素になった。核兵器。化学兵器。生物兵器。放射線研究。感染症研究。そして人体を対象とする医学研究。20世紀後半、医学はかつてないほど巨大な力を手に入れていく。そして、その中心に現れるのがアメリカである。世界最大級の軍事力と経済力を持つ国家。世界最大級の製薬市場。巨大な大学研究機関。軍事研究。情報機関。そして、莫大な政府研究費。ここから本書の舞台は、一気にアメリカへ移る。

「アメリカでは、医学と国家権力の間で何が起きていたのか」。その問いを追いかけるとき、私たちは単なる都市伝説ではなく、政府自身が後になって認めた研究や、公開文書によって明らかになった出来事にも出会うことになる。そして、その事実こそが、本書の次の扉を開く鍵になる。

7.中国――医学の発展と、人間の身体をめぐる権力

中国を医学史の視点から見ると、非常に複雑な問題が浮かび上がる。人口14億人を超える巨大国家であり、近年は医学研究、遺伝子研究、臓器移植、生殖医療などの分野でも急速な発展を遂げている。一方で、国家による情報管理、人権問題、研究倫理をめぐって国際的な議論が続いている。医学が急速に発展する国だからこそ、「誰が人間の身体について決定権を持つのか」という問題を無視することはできない。

中国の医学を考えるうえで、まず注目したいのが、医療技術の急速な普及である。帝王切開、人工授精、遺伝子検査、臓器移植、再生医療など、かつては一部の先進国だけで行われていた医療技術が、巨大な人口を持つ中国でも広く利用されるようになった。技術が普及すること自体は医学の進歩であり、多くの患者に利益をもたらす。しかし、医療技術の普及速度が倫理的な議論の速度を上回った場合、そこには新たな問題が生じる。

その象徴の一つとして、帝王切開を考えてみたい。帝王切開そのものは人体実験ではない。母親や胎児の生命を救うために必要となる、確立された重要な手術である。出産時に重大な危険が予想される場合、帝王切開によって母子の命を救えることがある。したがって、「帝王切開=悪」と考えるのは明らかな誤りである。しかし、帝王切開の実施率が高くなった社会では、別の問題が生じる。本当に医学的な必要性があったのか。それとも、医療者側の都合、患者側の希望、出産予定日の調整、医療制度、病院経営など、複数の要因によって手術が選択されているのか。

この問題は、帝王切開に限らない。検査。薬。手術。画像診断。入院。医療機器。医学が進歩すればするほど、「できること」は増えていく。しかし、「できること」と「必要なこと」は同じではない。ここに現代医療の大きな矛盾がある。医療技術が存在すれば、その技術を使いたくなる。高価な医療機器が病院に導入されれば、当然それを使用する機会が増える。新しい薬が開発されれば、その薬を必要とする患者が市場として存在する。これは必ずしも悪意によって起こるわけではない。しかし、経済活動としての医療が巨大化すると、患者の利益と医療提供側の利益が完全には一致しない場合が出てくる。そして、この問題を極端な形で考えると、「人間の身体そのものが巨大な市場になる」という問題に行き着く。

人間は生まれる。病気になる。検査を受ける。薬を飲む。手術を受ける。高齢になる。そして再び医療を受ける。人生そのものが医療サービスとの接点で構成される。ここに製薬企業、病院、保険会社、医療機器メーカーなどが入り込む。中国のような巨大人口国家では、この市場規模は非常に大きい。だからこそ、中国の医学研究を考えるときには、「技術が進歩した」という一面だけではなく、「その技術を誰が管理しているのか」という視点が必要になる。

特に注目されるのが、生命科学と遺伝子研究である。2018年、中国の研究者が遺伝子編集を行った双子の誕生を発表した。この事件は世界中に衝撃を与えた。人間の胚の遺伝子を編集し、出生に至らせるという行為は、科学技術がどこまで進んでもよいのかという倫理問題を世界に突きつけた。ここで問題になるのは、単純な「中国批判」ではない。遺伝子編集技術そのものは、将来、遺伝性疾患の治療などに役立つ可能性を持つ。しかし、人間の遺伝情報を操作できる技術が存在した場合、その力を誰が、どのような基準で使うのかという問題が生まれる。治療と改良の境界線はどこなのか。病気を治すことと、人間を設計することの違いは何なのか。そして、本人が意思決定できない胎児や将来の世代に対して、誰がその決定をするのか。これは21世紀の医学が直面する巨大な問題である。

さらに、中国をめぐる医学の議論では、臓器移植も避けて通れない。中国の臓器移植制度については、死刑囚からの臓器利用をめぐる問題や、強制的な臓器摘出を疑う国際的な批判が長年存在している。中国政府は制度改革を進め、2015年以降、死刑囚の臓器を移植に利用する慣行を停止したと説明している。一方で、ウイグル人、チベット人、法輪功学習者などをめぐる臓器摘出疑惑については、現在も国際的な議論が続いている。

ここは本書でも非常に慎重に扱う必要がある。「強制臓器摘出が存在する」と断定するには、個別の証拠を確認しなければならない。一方で、国際機関、研究者、人権団体などが疑惑を指摘してきたこと自体は無視できない。だからこそ、「政府発表だけを信じる」のでも、「疑惑をすべて事実として扱う」のでもなく、証拠を比較する必要がある。そして、ここでチベットという地域が登場する。チベットをめぐる問題は、単純な医学史ではない。民族、宗教、政治、自治、人権、国家統治などが複雑に絡み合っている。そのため、「チベットで人体実験が行われている」という主張についても、具体的な証拠を一件ずつ検証する必要がある。

しかし、ここで重要な問いがある。国家が特定の地域や民族を強く管理している場合、その地域の医療や医学研究について、外部の人間はどこまで実態を確認できるのだろうか。情報が自由に出入りできない。研究施設へのアクセスが制限される。政府が情報を管理する。研究者が政治的圧力を受ける。このような環境では、事実を確認すること自体が難しくなる。そして、確認できないことと、存在しないことは同じではない。しかし同時に、確認できないことを「存在する」と断定することもできない。

ここが、陰謀論と調査報道の境界線である。本書では、この境界線をあえて踏み越えない。むしろ、ぎりぎりまで近づいて問い続ける。何が確認されているのか。何が証言なのか。何が政府発表なのか。何が研究論文なのか。何が第三者によって検証されているのか。そして、何が単なる噂なのか。この5つを区別しながら、中国の医学と国家権力を追っていく。なぜなら、最も恐ろしいのは「陰謀論があること」ではないからだ。本当に恐ろしいのは、事実と噂の区別がつかなくなることである。事実まで「陰謀論」として消される。逆に、根拠のない噂まで「真実」として広がる。その両方が起きれば、被害者の声はさらに届かなくなる。

医療被害を受けた人間にとって重要なのは、政治的な立場ではない。自分の身体に何が起きたのか。なぜ起きたのか。誰が責任を持つのか。そして、同じ被害を受ける人間をどうすれば減らせるのか。その4つである。医学は国家の所有物ではない。患者の身体も国家の所有物ではない。そして、人間の生命を研究対象にするのであれば、その人間には尊厳と意思がある。これは中国だけの問題ではない。アメリカにもある。イギリスにもある。日本にもある。ドイツにもある。スペインにもある。ポルトガルにもある。つまり、本書が追及しているのは「中国という国の悪」だけではない。医学という巨大な権力が、国家、企業、軍、研究機関と結びついたときに発生する危険性そのものなのである。

そして中国には、さらに大きな問題がある。人口が巨大であること。政府の統制力が強いこと。医学研究が急速に発展していること。遺伝子技術などの先端研究が進んでいること。これらが組み合わさったとき、人間の身体をめぐる権力は極めて大きくなる。だからこそ、世界は中国の医学研究を注視する必要がある。しかし、同じ理由で、アメリカも注視しなければならない。イギリスも、日本も、その他の国々も例外ではない。「自分たちは民主主義国家だから大丈夫」「自分たちは人権を尊重しているから問題ない」。その思い込みこそが危険なのだ。

歴史は、国家体制だけではなく、人間そのものの弱さを教えている。権力は巨大化する。組織は秘密を抱える。企業は利益を追求する。研究者は成果を求める。政府は国家利益を優先する。そして、そのすべての中心にいるのが、何も知らない患者である。医療の最終的な主人公は、医師でも企業でも国家でもない。患者である。その患者の身体と生命が、誰かの利益や国家の目的によって軽視されることがあってはならない。中国の医学史を追うことは、単に中国を批判することではない。それは、「人間の身体を誰が支配するのか」という21世紀最大級の問題を考えることなのである。

そして次に私たちは、その問題がさらに巨大な規模で現れた国へ向かう。アメリカ。そこでは政府、軍、大学、製薬企業、病院、情報機関が複雑に結びつき、20世紀から21世紀にかけて、さまざまな医学研究が行われてきた。その中には、後になって政府自身が認めたものもある。次章では、いよいよその扉を開く。「アメリカは、本当に世界で最も自由な医学研究の国なのか?」――この問いから始めよう。

8.「産む権利」まで国家が管理するとき

人間には、自分の身体について自分で決める権利がある。結婚するかどうか、子どもを持つかどうか、何人の子どもを持つのか、そして妊娠した場合にどうするのか。これらは、本来なら国家が一方的に決めるものではない。ところが、中国の新疆ウイグル自治区をめぐっては、ウイグル人を含む少数民族の女性に対して、出生を抑制するための強制的な措置が行われてきたとの報告が存在する。米国務省の2024年人権報告書は、強制的な中絶、強制不妊手術、本人の意思に反するIUD挿入、妊娠検査などについて「信頼できる報告がある」としている。さらに、米国ホロコースト記念博物館の調査でも、元収容者や元住民らの証言、中国政府文書などをもとに、新疆で多数のトルコ系ムスリム女性が妊娠検査、IUD挿入、不妊手術、中絶を強制または強要されたとの報告がまとめられている。

ここで問題になるのは、単なる「家族計画」ではない。本人が拒否できたのか。拒否した場合、罰を受けたのか。拘束される可能性を示唆されたのか。そして、本人が知らないうちに身体に不可逆的な処置をされたのか。この4つを確認しなければならない。AP通信の2020年の調査は、中国政府の統計、政府文書、元拘束者や家族、元収容施設職員など30人への取材をもとに、新疆でウイグル人やカザフ人などの出生率を低下させるため、IUD、人工妊娠中絶、不妊手術などが広範に実施されていたと報じた。APが紹介したウイグル人女性の一人は、3人目の子どもを持ったことを理由に罰金を科され、その後、卵管を結紮されたと証言している。

ここで注意しなければならないのは、「卵管結紮」と「子宮摘出」は医学的にまったく違うということだ。卵管結紮は卵管を閉じて妊娠を防ぐ手術であり、子宮そのものを摘出する手術ではない。したがって、本書では証拠の確認できない「大量の子宮摘出が行われた」という表現を事実として断定するのではなく、確認された不妊手術や中絶、IUD挿入などを中心に追及する。しかし、それでも十分に重大な問題である。なぜなら、女性の「産む能力」そのものに国家が介入しているからだ。これは医療の問題であると同時に、人権の問題でもある。

そして、さらに深刻なのは、こうした政策が特定の民族・宗教集団に偏って適用されたと報告されている点である。米国務省は、新疆の少数民族、特にウイグル人に対する人口抑制措置が、漢民族には同じようには適用されなかったとの報告を記載している。2018年以降、新疆では出生率が急激に低下し、その背景として強制的・威圧的な人口抑制政策が指摘されている。

では、チベットではどうだったのか。チベット人女性についても、過去に強制・強要された中絶や不妊手術に関する証言が存在する。1992年の国連文書には、チベット人女性に対する強制不妊手術についての証言が記録され、本人に十分な説明をしないまま不妊処置を行ったという医療関係者の証言についても記載されている。さらに、チベット人権団体なども、複数の地域で強制・強要された中絶や不妊手術が行われたとの証言を公表している。ただし、これらの資料には年代の古いものも含まれており、現在の中国全土、あるいは現在のチベット全域で同じことが行われていると単純に一般化することはできない。

ここでも、私たちは「証拠」と「主張」を区別しなければならない。しかし、だからといって過去の証言を無視してよいわけでもない。むしろ重要なのは、国家による人口政策が、女性の身体にどこまで介入したのかという歴史を残すことだ。女性に妊娠検査を受けさせる。IUDを装着させる。中絶を強要する。不妊手術を受けさせる。子どもを多く産んだことを理由に罰金を科す。場合によっては、拘束や処罰への恐怖を利用して従わせる。これらが本人の自由意思によらず行われるのであれば、それは単なる「家族計画」ではない。身体の自己決定権に対する重大な侵害である。

そして、ここに「医原病」という本書のテーマが再び現れる。医療は病気を治すために存在する。しかし、医療技術そのものが国家政策の道具として使われた場合、医師や医療施設は「治療する場所」から「政策を実行する場所」へ変わってしまう可能性がある。注射器。手術台。IUD。薬剤。妊娠検査。これらは本来、人間の健康を守るための医療技術である。しかし、本人の意思を無視して使用されれば、その意味はまったく変わる。ここに医療の恐ろしさがある。同じ技術が、人を救うこともあれば、人の自由を奪うこともある。問題は技術そのものではない。誰が命令するのか。誰が実施するのか。誰が拒否できるのか。そして、誰が責任を取るのか。この4つである。

中国の人口政策をめぐる問題は、単なる「中国批判」で終わらせるべきではない。国家が出生率を管理しようとしたとき、医療はその政策を実行するための強力な手段になり得る。そして、その影響を最も直接的に受けるのは、実際に手術台に横たわる女性なのである。国家にとっては「出生率」という統計になる。行政にとっては「人口政策」という数字になる。病院にとっては「処置件数」になる。しかし、女性本人にとっては、自分の身体そのものである。そして、一度失われた生殖能力を元に戻すことはできない。

だからこそ、本書では「医療」と「人権」を別々の問題として扱わない。医療技術が誰のために使われたのか。その技術によって誰が利益を得たのか。そして、その技術によって誰の人生が変えられたのか。この3つを追い続ける。ウイグル人女性、チベット人女性をめぐる出生抑制の問題は、その象徴である。これは単なる都市伝説として片付けることのできない、具体的な証言、政府文書、統計、国際機関の報告が存在する領域である。しかし同時に、証拠が不足している主張まで事実として膨らませてはいけない。

本書が目指すのは、噂を大きくすることではない。むしろ、闇の中にある情報を一つずつ光の下へ出すことだ。そして最後に読者自身に判断してもらう。これは単なる人口政策だったのか。それとも、民族・宗教集団の出生そのものを抑制するための組織的な政策だったのか。そして、その政策を実行するために医療が利用されたのだとしたら――それは「医療」と呼べるのだろうか。それとも、国家による身体の管理だったのだろうか。

9.アメリカ――「自由の国」で行われた人体研究

アメリカという国を考えるとき、私たちは自由、民主主義、人権、科学技術といった言葉を思い浮かべる。世界最先端の医学研究を行い、数多くの新薬や治療法を生み出してきた国でもある。しかし、そのアメリカにも、医学史に残る重大な倫理問題が存在する。しかも、その一部は秘密結社の噂でも都市伝説でもなく、後にアメリカ政府自身が問題を認めた出来事だった。

その代表例が、アラバマ州タスキギーで行われた梅毒研究である。1932年、米国公衆衛生局はタスキギー研究所と協力し、未治療の梅毒が人体にどのような影響を及ぼすのかを観察する研究を開始した。対象となったのは600人の黒人男性で、そのうち399人が梅毒に感染しており、201人は感染していなかった。しかし、研究開始時に参加者から十分なインフォームド・コンセントを取得していなかったことが、後に大きな問題となった。

研究者たちは、参加者に「bad blood」という地域で使われていた曖昧な言葉を用いて説明していた。参加者には無料の健康診断や食事、埋葬費用の保険などが提供された。貧困の中に暮らす人々にとって、それらは決して小さな利益ではなかった。つまり、医学研究への参加を自由な意思による選択として考えるには、経済的な弱さという問題も存在していたのである。

そして、この研究にはさらに重大な問題があった。研究が始まった1932年当時には梅毒に対する有効な治療法が十分に確立されていなかったが、1940年代になるとペニシリンが登場した。やがてペニシリンは梅毒治療の標準的な薬となり、広く利用できるようになった。それにもかかわらず、研究対象となった男性たちは、研究が続いている間、治療を提供されなかった。

ここで、医学研究という言葉の意味を考えなければならない。病気を治すことが医学の目的なのか。それとも、病気の経過を観察して医学的な知識を得ることも、同じように正当な目的なのか。もちろん、病気の自然経過を研究することには科学的価値がある。しかし、そこに治療可能な薬が存在するようになった場合、研究対象者に治療を与えず観察を続けることは許されるのか。この問いに対して、タスキギー研究は極めて重い答えを突きつけた。

医学研究では、「研究者が何を知りたいのか」だけでは不十分である。研究対象者がどのような利益を受けるのか。どのような危険を負うのか。そして、その人間が研究から自由に離脱できるのか。これらを考えなければ、研究は患者を守る行為ではなく、患者を利用する行為へ変わってしまう。さらに、この事件には人種という問題が重なっていた。対象者は黒人男性だった。当時のアメリカ社会には、人種差別が制度や社会生活のさまざまな部分に存在していた。医学も、その社会から完全に切り離された空間ではなかった。科学者や医師が差別意識から自由であるとは限らず、社会に存在する偏見が研究の対象者選びや研究方法に入り込む可能性があった。

これは非常に重要な点である。「医学は科学だから公平だ」。この言葉だけでは、人間を守ることはできない。医学を行うのも人間であり、研究を設計するのも人間である。研究費を決めるのも人間であり、研究結果を解釈するのも人間である。だからこそ、科学そのものだけではなく、科学を行う人間と制度を監視する必要がある。

タスキギー研究は1932年に始まり、1972年まで続いた。実に約40年間である。そして1972年、報道によって研究の実態が広く知られるようになり、政府内で調査が行われた。その結果、諮問委員会は研究を倫理的に正当化できないものと判断し、研究は終了することになった。ここで、さらに恐ろしい事実がある。この研究は、医学界の外から突然現れた犯罪ではなかった。公的機関が関与していた。研究者がいた。医療専門家がいた。記録が残されていた。そして研究は長期間にわたって続けられた。つまり、「誰にも知られない地下室で行われた人体実験」ではない。社会の中に存在する公的な医学研究だったのである。

だからこそ、この事件は医学史に大きな衝撃を与えた。問題が明らかになった後、アメリカでは研究倫理に関する制度が大きく変化した。1974年には国家研究法が成立し、人を対象とする研究の保護を検討する国家委員会が設置された。その後、研究参加者からの自発的な同意や、研究計画を第三者が審査する仕組みなどが整備されていった。つまり、現在当たり前のように語られる「インフォームド・コンセント」や「倫理審査」は、最初から存在したわけではない。誰かが被害を受けた。誰かが声を上げた。そして、その犠牲の上にルールが作られた。ここに医療の歴史の皮肉がある。医学は人間を救うために進歩する。しかし、その進歩の途中で人間が傷つけられることがある。そして、その被害が明らかになった後に、新しい倫理基準が作られる。

では、タスキギー研究は単なる「昔の失敗」なのだろうか。そう簡単に片付けることはできない。なぜなら、医療への不信は、一度生まれると長期間にわたって社会に残るからである。家族が医療機関を信用できなくなれば、その影響は次の世代にも及ぶ。「病院に行ったら何をされるのか分からない」という恐怖が生まれれば、必要な治療まで避ける人が出てくる可能性がある。つまり、医療倫理の崩壊は、研究対象者本人だけの問題ではない。社会全体の医療への信頼を破壊する。

そして、この事件が教えてくれる最大の教訓は、「悪い医師を見つければ解決する」という単純な話ではないことだ。問題は制度である。研究者にどのような権限が与えられていたのか。誰が研究を監督していたのか。研究対象者にはどのような情報が伝えられていたのか。そして、誰かが「これはおかしい」と言ったとき、その声を止める仕組みが存在しなかったのか。ここまで考えると、医学の闇は「悪人探し」だけでは見えてこない。むしろ怖いのは、普通の人間が普通の組織の中で、少しずつ倫理の境界線を越えてしまうことである。

最初は研究だった。次に観察だった。治療法が登場しても研究を続けた。そして、研究対象者はそのことを十分に知らされなかった。一つ一つを別々に見ると、小さな問題に見えるかもしれない。しかし、それが積み重なると、人間の生命より研究目的が優先される巨大な構造になる。ここに、医原病という言葉を考える上で重要なヒントがある。医療による被害は、必ずしも「医師が患者を傷つけようとした」結果として生まれるわけではない。善意の研究。医学の発展。社会の利益。科学的知識。こうした正しいように見える目的が積み重なった結果、患者の権利が後回しになることがある。だからこそ、私たちは「目的が正しいから手段も正しい」と考えてはいけない。

そしてアメリカの医学史には、タスキギー以外にも、政府や軍、大学、研究機関などが関わったさまざまな研究が存在する。放射線。化学物質。感染症。精神医学。生物兵器。人体への影響を調べるための研究。中には後になって公表されたものもある。ここから先、私たちはさらに深い場所へ入っていく。なぜアメリカ政府は、これほど多くの医学研究を必要としたのか。軍事目的だったのか。国家安全保障だったのか。医学の発展だったのか。それとも、そのすべてだったのか。そして、研究対象になった人々は、その事実を知っていたのか。次に待っているのは、アメリカの医学史でも特に議論の多い「人体実験と国家機密」の問題である。ここから先は、単なる過去の医学史ではない。国家。軍。大学。製薬企業。情報機関。そして医学。これらが一つの巨大なネットワークを形成したとき、人間の身体は一体、誰のものになるのか。その答えを探すため、さらにアメリカの暗部へ進んでいく。

10.国家機密と人体実験――CIA「MKULTRA」という現実

アメリカの医学史をさらに深く掘り下げると、やがてCIAという存在に行き着く。CIAはアメリカの中央情報機関であり、通常の病院や大学とはまったく異なる目的を持つ組織である。しかし1950年代から1960年代にかけて、CIAは人間の精神や行動を操作する方法について研究を進めていた。その中心として後に知られるようになったのが、「MKULTRA」と呼ばれる計画だった。

ここで最初に強調しておきたい。MKULTRAは都市伝説ではない。「CIAが人間の精神を操作する実験をしていた」という話だけを聞けば、映画や小説の設定のように思えるかもしれない。しかし、1970年代にアメリカ政府の調査や議会での追及が行われ、その存在が公的な記録によって明らかになった。つまり、この事件を語るために、秘密結社や匿名の情報源を持ち出す必要はない。政府自身が残した記録が存在するのである。

MKULTRAが始まったのは1953年だった。冷戦の真っただ中であり、アメリカとソ連は政治、軍事、科学技術のあらゆる分野で激しく競争していた。核兵器だけではない。情報戦、心理戦、尋問技術、洗脳、薬物など、人間の精神そのものをめぐる研究も国家安全保障の問題として扱われていた。CIAが恐れていたのは、敵国が人間の精神を操作する技術を開発しているのではないかということだった。もし薬物によって人間の記憶や判断力を変えられるとしたら。もし尋問によって人間の意思を破壊できるとしたら。もし相手の行動をコントロールする方法が存在するとしたら。それは軍事兵器と同じくらい危険な技術になる。そこでCIAは、薬物、心理学、精神医学などを含むさまざまな研究に資金を投入した。

問題は、その研究の一部で、人間が本人の十分な同意なしに対象とされたことだった。これは医療倫理の観点から極めて重大である。患者に薬を投与する。研究対象者に薬物を使用する。精神状態の変化を観察する。その行為だけを見れば、医学研究に見えるかもしれない。しかし本人が研究対象になっていることを知らされていなかった場合、その意味は完全に変わる。自分が実験されていることを知らない。何を投与されるのか知らない。どんな副作用があるのか知らない。そして、実験を拒否することもできない。それは「研究への参加」と呼べるのだろうか。それとも、本人の意思を無視した人体実験なのだろうか。

MKULTRAの歴史で特に知られているのが、LSDなどの薬物を利用した研究である。当時、LSDは現在とは比較にならないほど未知の薬物だった。CIAは、これが尋問や精神状態に与える影響などを調べる目的で研究を行った。ここで重要なのは、LSDそのものを悪魔の薬として描くことではない。薬物には医学的研究対象としての側面もある。問題は「誰に」「どのように」「同意を得て」使用したのかということである。CIA関係の研究では、本人が知らないままLSDを投与されたケースが問題となった。

その中でも後世まで大きな議論を呼んだのが、CIAの研究に関係した科学者フランク・オルソンの死である。1953年11月、オルソンはCIA関係者との会合に参加した後、LSDを投与された。その数日後、ニューヨークのホテルから転落して死亡した。当初、この死は自殺として扱われた。しかし、その後になってオルソンが本人の同意なしにLSDを投与されていたことが明らかになった。ここから疑惑が生まれる。本当に自殺だったのか。事故だったのか。あるいは、もっと別の事情があったのか。オルソンの死については、その後もさまざまな調査と議論が続いた。

しかし、ここで本書がやってはいけないことがある。証明されていない殺害説を、事実として断定することだ。疑惑が存在する。それは事実である。しかし、疑惑が存在することと、殺害が証明されたことは同じではない。だからこそ、本書では「何が分かっているのか」と「何が分かっていないのか」を分ける。この区別は非常に重要である。なぜなら、国家機密を扱う問題では、情報が不足していること自体が疑惑を生みやすいからだ。資料がない。証言が食い違う。政府の説明が変化する。関係者が死亡する。文書が公開されない。こうした状況では、人間は空白を物語で埋めたくなる。そして、その物語が「陰謀論」と呼ばれるようになる。

しかし、ここで忘れてはいけない。MKULTRAの場合、その一部については本当に政府が秘密裏に研究を行っていた。つまり、「CIAが秘密研究をしていた」という部分までを陰謀論として片付けることはできない。むしろ問題は、その先である。どこまでが確認された事実なのか。どこからが証言なのか。どこからが推測なのか。この境界線を引くことこそ、本書の役割である。

さらにMKULTRAをめぐって衝撃的なのが、CIAが大学や研究機関、病院、研究者などとの関係を利用して研究を進めていたことだ。国家情報機関が直接「CIAの研究」と表示して研究を行えば、秘密が漏れる可能性がある。そこで資金を別の組織を経由させたり、研究者を通じて研究を進めたりする方法が取られたとされている。ここには、現代医療にも通じる重要な問題がある。研究資金の出所が見えない。研究を依頼した組織が見えない。研究対象者が本当の目的を知らない。そして研究結果が誰のために使われるのかも分からない。この状況では、一般の患者や研究対象者が自分の身体を守ることは難しい。

さらに1973年、CIA長官リチャード・ヘルムズの指示によって、MKULTRA関連文書の多くが破棄されたことが知られている。これが後世の調査をさらに困難にした。存在していた資料が失われる。その結果、研究の全体像を完全には再構築できなくなる。そして、資料の空白が生まれる。この「空白」が、後の疑惑を生み出す。しかし同時に、残された資料だけでも、国家情報機関が人間の精神に作用する薬物などについて秘密研究を行っていたことは確認できる。ここが重要だ。「すべてが分かっていない」からといって、「何も起きなかった」とは言えない。逆に、「秘密研究が存在した」からといって、「世の中で語られているすべての噂が事実」になるわけでもない。この2つを混同してはいけない。MKULTRAの歴史は、そのことを私たちに教えてくれる。

そして、ここで「医原病」というテーマがさらに広がる。医療による被害というと、普通は病院を想像する。医師の処置。薬の副作用。手術の失敗。感染症。しかし、人間の身体や精神に対する介入は、病院の中だけで行われるわけではない。国家が研究する。軍が研究する。情報機関が研究する。大学が研究する。企業が研究する。そして、その研究に医学や心理学の知識が利用される。つまり、「医学の力」は病院の外にも存在する。

ここに大きな問題がある。医師には患者を守る義務がある。研究者には研究対象者を守る義務がある。国家にも国民の生命と権利を守る義務がある。それなのに、複数の組織が「国家安全保障」という一つの目的で結びついたとき、個人の権利が後回しになる可能性がある。これは冷戦時代だけの問題ではない。現代でも、新しい医療技術が登場するたびに同じ問いが繰り返される。遺伝子編集。脳科学。人工知能。神経インターフェース。精神作用薬。生体情報。これらの技術は、人間を救う可能性を持っている。しかし同時に、人間の身体や精神を操作する力にもなり得る。技術が進歩するほど、倫理が重要になる。そして、国家機密が絡めば、その監視はさらに難しくなる。

MKULTRAの最大の教訓は、「CIAは怖い」という単純な話ではない。本当に恐ろしいのは、民主主義国家であっても、国家安全保障という理由によって秘密研究が行われる可能性があるということだ。そして、その研究に人間の身体や精神が関係した場合、誰が被験者を守るのかという問題が発生する。国家を守るためなのか。国民を守るためなのか。科学を発展させるためなのか。それとも、敵に勝つためなのか。目的がどれほど立派でも、本人の同意を無視してよい理由にはならない。一人の人間の身体は、国家の所有物ではない。一人の人間の精神も、研究機関の所有物ではない。そして、国家機密という言葉によって、被害者の声まで消してよい理由もない。MKULTRAは、その境界線が一度でも破られたとき、医学と国家権力がどれほど危険な関係になり得るのかを示している。

では、MKULTRAだけが特殊だったのだろうか。答えを探すためには、もう一つの巨大な研究領域を見なければならない。それが「放射線」である。第二次世界大戦後、核兵器を手にしたアメリカは、放射線が人体に与える影響について大量の研究を進めた。そこには医学的価値のある研究も存在した。しかし同時に、本人が十分な情報を与えられていたのかという倫理的問題を抱えた研究も存在する。そして、その中には後になって政府の調査によって明らかになったものもあった。次に私たちは、原子力時代の幕開けとともに現れた「放射線人体実験」という、さらに深い闇へ入っていく。

11.放射線――原子力時代に始まった「見えない人体実験」

1945年8月6日、広島。そして8月9日、長崎。人類は、それまで存在しなかった巨大な破壊力を持つ兵器を実際に使用した。原子爆弾は都市を破壊し、多数の人間を一瞬にして殺傷した。しかし、核兵器の恐ろしさは爆発の瞬間だけでは終わらなかった。放射線という、目に見えない存在が人間の身体を襲った。皮膚に触れていることも分からない。音もしない。匂いもしない。それでも細胞を傷つけ、長い時間をかけて健康に影響を及ぼす可能性がある。

この「見えない危険」を理解するため、第二次世界大戦後、アメリカでは放射線と人体の関係を調べる研究が数多く行われるようになった。もちろん、そのすべてが人体実験だったわけではない。原爆被爆者の健康状態を長期間追跡する疫学研究には、放射線による健康影響を理解し、将来の被害を減らすという重要な医学的価値があった。しかし、同時に戦後アメリカでは、患者や兵士などを対象に放射性物質を投与した研究も行われていた。

ここで、医学と国家機密が交差する。1940年代から1950年代にかけて、核兵器開発と原子力研究は国家安全保障そのものだった。マンハッタン計画によって原子爆弾が開発され、戦後には米ソ冷戦が始まった。放射線研究は単なる医学研究ではなく、軍事、原子力、国家安全保障と密接に結びついていったのである。そして、この巨大な国家プロジェクトの中で、人間の身体が研究対象となった。

1945年から1947年にかけて、マサチューセッツ工科大学などの研究者が関係した研究では、入院患者に放射性物質である放射性鉄を投与して、鉄の代謝を調べる研究が行われた。後にこの研究は、被験者に十分な説明がなされていなかったことから、研究倫理上の重大な問題として取り上げられることになった。さらに1940年代には、カリフォルニア大学などで、患者に放射性物質を投与して人体内での動きを調べる研究が行われた。

これらの研究を現在の基準から見ると、極めて重い問題が浮かび上がる。本人は何を投与されるのか知っていたのか。研究に参加していることを理解していたのか。放射線による潜在的な危険について説明されていたのか。そして、本当に拒否する自由があったのか。この問題は、医原病を考える上でも極めて重要である。患者は病院にいる。医師を信頼している。白衣を着た専門家から「これは医学のために必要な処置です」と説明されたら、患者はそれを疑うだろうか。多くの場合、疑わない。なぜなら患者には医学知識がないからだ。医師にはある。研究者にはある。病院にはある。政府にもある。この圧倒的な情報格差が、医学における権力関係を生み出す。

患者が「これは何ですか」と質問しても、専門用語で説明されれば理解できないかもしれない。さらに研究そのものが国家機密に関係していれば、研究者側もすべてを説明できない可能性がある。こうして、「同意」という言葉の意味が曖昧になっていく。署名をした。だから同意した。本当にそうだろうか。重要なのは、単に紙に署名したかどうかではない。本人が研究の目的を理解していたのか。危険性を理解していたのか。研究を拒否できることを知っていたのか。これらを含めて判断する必要がある。

そして放射線研究では、もう一つ特殊な問題があった。被験者自身が、自分の身体に入れられたものの正体を知らないケースがあったことである。これは極めて重要だ。薬なら、飲んだことが分かる。手術なら、手術を受けたことが分かる。しかし放射性物質は違う。見えない。感じない。だからこそ、本人が知らないまま体内に入れることができてしまう。そこに「放射線」という未知の危険が重なった。

1940年代から1960年代にかけて、アメリカではさまざまな放射線関連研究が行われた。その後、1970年代になると、これらの研究の一部が公に問題視されるようになった。1974年、米国政府は人を対象とする研究の倫理を検討する国家委員会を設置した。そして1990年代には、クリントン政権の下で、人を対象とした放射線実験について政府が調査を行い、過去の研究の実態を明らかにする動きが進んだ。1994年には、エネルギー長官ヘイゼル・オリアリーが過去の放射線実験に関する情報を公開する方針を打ち出した。これは非常に大きな意味を持つ。なぜなら、「そんな研究は存在しなかった」と言うことができなくなったからだ。政府自身が過去の研究を調査し、公開した。つまり、国家機密として閉ざされていた医学研究の一部が、数十年後になってようやく社会の前に姿を現したのである。

ここで私たちは、非常に重要な問題に直面する。もし政府が最初からすべてを公開していたら、被害は変わっていただろうか。もし研究対象者が最初から研究内容を知らされていたら、参加を拒否した人はどれほどいただろうか。そして、もし本人たちが研究対象になっていることを知らなかったのだとすれば、その研究から得られたデータを、私たちはどのように評価すべきなのだろうか。これは簡単な問題ではない。科学的なデータに価値がある場合でも、そのデータがどのような方法で得られたのかという倫理的問題は残る。「結果が医学の役に立った」から、「研究方法も正しかった」とは言えない。この原則は非常に重要である。医学の成果と、その成果を生み出した方法は別々に評価しなければならない。もし非人道的な研究によって有用なデータが得られたとしても、その研究方法を正当化することはできない。そうしなければ、未来の研究者が「医学的に価値のある結果が得られるなら、多少の犠牲は仕方がない」と考えてしまうからだ。それは、人体実験を再び正当化する危険な思想につながる。

ここで、第二次世界大戦中のナチス・ドイツや日本軍の人体実験と、戦後アメリカの放射線研究を同じものとして扱うべきなのかという問題も出てくる。答えは「同じではない」である。規模も目的も、研究環境も、政治体制も違う。しかし、比較することには意味がある。なぜなら、どちらにも「国家の目的」「医学研究」「人間の身体」という3つの要素が存在するからだ。そして、その3つが接近したとき、本人の権利がどこまで守られるのかという問題が生まれる。だから本書では、単純な善悪で分類しない。ナチスだから悪い。日本軍だから悪い。アメリカだから正しい。そんな単純な歴史観では、医学の闇は見えてこない。国家がどこであろうと、医学研究が巨大な権力と結びついたときには監視が必要になる。これは日本にも当てはまる。中国にも当てはまる。イギリスにも当てはまる。アメリカにも当てはまる。どの国も例外ではない。

そして、ここからさらに恐ろしい問題が登場する。放射線研究には、軍事目的だけではなく、核兵器開発という巨大な国家プロジェクトが関係していた。核兵器を開発するには、放射線が人体にどのような影響を与えるのかを知らなければならない。兵士はどの程度の放射線に耐えられるのか。放射性物質を吸い込んだ場合、身体に何が起きるのか。核爆発後の環境で人間は生存できるのか。こうした研究には軍事的な価値がある。しかし、軍事的な価値があることと、人間を本人の意思に反して研究対象にしてよいことは別問題である。この境界線を越えないために、医学倫理が存在する。そして、その倫理が弱かった時代に行われた研究の一部が、後世になって問題として浮上した。

ここで、私たちは「医原病」という言葉をもう一度考える。医原病は、単純な医師のミスではない。それは、医学というシステムそのものが人間に害を与える可能性を含んでいる。薬。手術。放射線。検査。研究。どれも本来は人間を救うために存在する。しかし、使い方を誤れば人間を傷つける。さらに、そこに国家機密や軍事目的、企業利益が加われば、被害者が真実を知ることはさらに難しくなる。そして、真実が数十年後に明らかになったとき、被害者はすでに高齢になっているかもしれない。あるいは、亡くなっているかもしれない。その家族だけが、「あのとき父は何をされたのか」「母は何を知らされていたのか」と問い続けることになる。

医学の進歩には、時間が必要だった。しかし、被害者にとって時間は味方ではない。身体は元に戻らない。失われた人生も戻らない。そして、亡くなった人間は自分自身で証言することさえできない。だからこそ、医学研究では「後から説明すればいい」という考え方は許されない。最初に説明する。最初に同意を得る。最初に危険を伝える。そして、拒否する権利を保障する。これが人間を研究対象にする最低限の条件である。放射線人体研究の歴史は、私たちにそのことを突きつけている。

そして次に現れるのは、さらに奇妙な問題である。人間の身体だけではない。人間の精神そのものが研究対象になった。薬物によって意識を変える。心理的な圧力を与える。記憶や行動への影響を調べる。その研究の中心には、再び国家安全保障があった。そして、その名前はすでに私たちが知っている。MKULTRA。しかし、その実態はまだ十分に知られていない。次項では、CIAの秘密研究と精神医学、薬物研究、そして「人間の心を操作する」という究極の医学的テーマへ踏み込んでいく。

12.精神医学と国家――人間の心まで管理できるのか

人間の身体を研究することと、人間の精神を研究することには大きな違いがある。身体であれば、血液検査、画像検査、手術などによって、ある程度その変化を確認することができる。しかし「心」は目で見ることができない。だからこそ、精神医学には身体医学とは異なる難しさが存在する。人間が何を考えているのか。何を恐れているのか。何を信じているのか。そして、なぜそのような行動を取るのか。これらを医学的に理解しようとすることは、もちろん重要である。精神疾患によって苦しむ人々にとって、適切な診断や治療は人生を救うことがある。薬物療法や心理療法、リハビリテーションなどによって、以前より安定した生活を送れるようになった人も少なくない。したがって、精神医学そのものを否定することは、本書の目的ではない。

しかし、ここで一つの恐ろしい可能性を考えてみたい。もし「心を治療する技術」が、「心を操作する技術」に変わったらどうなるのか。そして、その技術を国家が手に入れたらどうなるのか。冷戦時代のアメリカでは、この問題が現実の国家安全保障上の課題として扱われた。敵国が人間の心理を操作する技術を持っているのではないか。尋問によって人間の意思を変えられるのではないか。薬物によって判断力や記憶を変化させることができるのではないか。こうした恐怖が、CIAによる秘密研究を後押しした。その代表例が、前項で取り上げたMKULTRAである。

ここで重要なのは、MKULTRAを単なる「洗脳実験」という一言で終わらせないことだ。実際には、薬物、心理学、精神医学など複数の分野を利用して、人間の行動や精神状態に影響を与える可能性が研究された。そして、その研究の一部では、研究対象者本人が研究の全容を知らないまま薬物を投与されたことが問題となった。これは医学研究にとって、極めて重大な境界線である。治療を受ける患者は、自分が何をされるのか知る権利を持つ。研究対象になる人間も、自分が研究対象であることを知る権利を持つ。ましてや精神状態に影響を与える薬物を使用するのであれば、その危険性について説明される必要がある。本人の意思を無視して精神に介入する。これは「治療」と呼べるのだろうか。それとも、国家による人体への介入なのだろうか。

ここで私は、一つの疑問を持つ。国家が国民を守るために存在するのであれば、国民の身体と精神を勝手に利用してよい理由にはならないのではないか。「国家安全保障」という言葉は非常に強い。テロを防ぐため。敵国から国民を守るため。戦争に勝つため。より多くの人間を救うため。こうした目的を掲げれば、多くの人は「仕方がない」と考えてしまう。しかし、私はそこにこそ危険があると思う。国家を守るためなら、一人の人間の権利を犠牲にしていいのか。100万人を守るためなら、1人を実験台にしていいのか。もしそれを認めてしまえば、権力者は「公益」という言葉を使って、どこまでも個人の権利を侵害できてしまう。

もちろん、現実の安全保障には難しい判断がある。テロリストを尋問しなければならない場合もある。敵国の情報を得なければ、多くの兵士が命を失う可能性もある。感染症や化学兵器から国民を守るためには、危険な研究を行わなければならない場合もある。だから私は、国家安全保障そのものを否定しているわけではない。むしろ逆だ。国家を守るためにも、国家自身に越えてはいけない一線を設定する必要があると思う。その一線が、「人間を勝手に実験材料にしない」という原則なのではないか。

国家は巨大な力を持つ。個人には、その国家と対抗する力がほとんどない。政府が情報を隠せば、一般市民は何が行われているのか知ることができない。研究機関が秘密を守れば、外部の人間には研究の実態が分からない。そして本人が研究対象になっていたとしても、それを本人が知らなければ声を上げることすらできない。これが国家機密と医学研究の最も恐ろしい組み合わせである。「知らない」ということは、自由ではない。自分が選択するためには、情報が必要だからだ。薬を飲むのか。手術を受けるのか。研究に参加するのか。治療を拒否するのか。その判断に必要な情報を与えられていなければ、本人は本当の意味で選択しているとは言えない。

ここにインフォームド・コンセントの重要性がある。患者が医師の説明を理解し、自分の意思で治療を選択する。これは現代医療では当然の原則だと思われている。しかし、この「当然」は、歴史の中で多くの犠牲を経て作られてきた。ナチスの人体実験。日本軍による人体実験。アメリカのタスキギー梅毒研究。CIAのMKULTRA。放射線をめぐる人体研究。国も時代も目的も違う。しかし、共通して見えてくるものがある。それは「研究する側」と「研究される側」の力の差である。研究者には知識がある。政府には権力がある。軍には命令権がある。企業には資金がある。そして患者や被験者には、そのどれもない場合がある。この力の差を埋めるために、倫理審査や第三者監視が必要になる。

私は、ここを非常に重要だと考えている。医学を信じるなと言いたいのではない。医師を信じるなとも言いたくない。むしろ、本当に医学を信じたいからこそ、医学が間違ったときに止められる仕組みを作るべきだと思う。絶対に間違わない医師など存在しない。絶対に間違わない研究者も存在しない。絶対に間違わない政府も存在しない。そして、絶対に間違わない企業も存在しない。だからこそ、権力を持つものほど監視されなければならない。これは医学だけの話ではない。政治でも同じである。行政でも同じである。企業でも同じである。そして国家でも同じである。権力を信用することと、権力を監視することは矛盾しない。むしろ民主社会では、両方が必要なのだと思う。

ここで私は、少し厳しいことを言いたい。「政府がやっているのだから正しい」「医師が言っているのだから正しい」「科学者が言っているのだから正しい」。この考え方は危険である。肩書きは証拠ではない。権威も証拠ではない。必要なのは、検証可能な情報である。誰が研究したのか。どのような方法だったのか。誰が資金を出したのか。研究対象者は誰だったのか。どのような結果が出たのか。そして、都合の悪い結果まで公開されているのか。これらを確認する必要がある。医学は科学である。だからこそ、疑問を持つことが許されなければならない。反対意見を封じる医学は、科学ではなく権威になってしまう。そして、権威になった科学は、最も危険な状態になる。なぜなら、一般人が「おかしい」と感じても、「専門家がそう言っている」という一言で黙らされてしまうからだ。

私は、この本を書くにあたって、医療そのものを敵にしたいわけではない。むしろ逆である。医療には、人間を救ってきた偉大な歴史がある。だからこそ、その歴史の中に存在する失敗や犯罪、不正、隠蔽まで見なければならないと思う。光だけを見ていては、本当の姿は見えない。影を見るからこそ、光の価値も分かる。そして、医学の影を見つめることは、医学を破壊することではない。医学をより人間のためのものにするために必要な作業なのではないか。

しかし、国家と医学の関係を考えると、まだ一つ大きな問題が残っている。それは「軍事」である。医学研究には莫大な資金が必要だ。国家はその資金を提供できる。軍は巨大な研究予算を持っている。そして国家安全保障という目的があれば、研究内容を秘密にすることもできる。この三つが組み合わさったとき、医学研究は一般市民から見えない場所へ移動する。そして、そこにはもう一つの巨大な存在がいる。製薬企業である。国家が研究費を出す。大学が研究する。企業が薬を開発する。病院が患者に使用する。保険会社が費用を負担する。そして患者がその薬を使う。現代医療は、この巨大なネットワークによって動いている。このネットワークの中で、一体誰が最終的な利益を得るのか。患者なのか。国家なのか。研究者なのか。病院なのか。製薬企業なのか。ここから先、本書は「国家と人体実験」から「医療と巨大産業」という、さらに大きな問題へ進んでいく。医学が人間を救う産業になったとき、そこに「利益」という巨大な力が入り込む。そして私は、ここから先こそ、現代医療の本当の闇が見えてくるのではないかと思っている。

第4章 医療は誰のためにあるのか――巨大産業の光と影

1.製薬会社――命を救う企業と、利益を求める企業

現代医学を語るうえで、製薬会社の存在を無視することはできない。新しい薬を開発し、感染症を治療し、がんや難病の治療法を生み出してきた製薬企業は、間違いなく現代社会に大きな貢献をしている。私たちが当たり前のように利用している薬の多くも、長い研究と莫大な開発費の上に成り立っている。だから私は、製薬会社そのものを「悪」と決めつけるつもりはない。

しかし、ここで一つの疑問を持つ必要がある。製薬会社は慈善団体ではない。企業である以上、利益を上げなければ存続できない。研究者の給料を支払い、研究施設を維持し、臨床試験を行い、製造設備を整え、世界各国の規制をクリアしなければならない。新薬一つを市場に出すまでには、長い年月と巨額の費用が必要になる。だから利益を得ること自体を批判するのは間違っている。問題は、その「利益を求める構造」が、医療の方向性そのものに影響を与える可能性があることだ。

例えば、非常に珍しい病気の患者がいるとする。その病気に苦しむ人は世界に数千人しかいない。治療薬を開発すれば、その患者たちを救える可能性がある。しかし、開発費は数百億円かかるかもしれない。企業が投資を回収できなければ、株主への説明がつかない。では、企業はその薬を開発するだろうか。もちろん、希少疾病用医薬品制度などによって開発を促す仕組みは存在する。しかし、ここには市場経済と人命の間にある根本的な矛盾がある。市場は、需要の大きいところに資金を集める。病気の患者が多ければ、市場も大きい。患者が少なければ、市場は小さい。つまり、経済的な価値と人間の生命の価値が一致するとは限らない。

私はここに、現代医療の大きな問題があると思う。人間の命に値段を付けることはできない。しかし、医療産業には現実に値段が存在する。診察には料金がかかる。手術には料金がかかる。薬にも料金がかかる。新薬の研究にも料金がかかる。病院の経営にも金が必要だ。つまり、医療は人命を扱いながら、同時に巨大な経済活動でもある。この矛盾から目を背けてはいけない。

そして、製薬会社にとって最も重要な商品は「薬」である。薬は病気を治す。しかし、薬を必要とする患者が存在し続けなければ、薬の市場も存在しない。ここで誤解してはいけない。これは「製薬会社がわざと人間を病気にしている」という話ではない。そんな単純な証拠はない。むしろ、多くの製薬企業の研究者は、本気で新しい治療法を開発しようとしている。問題は個人の善悪ではない。構造である。企業は利益を必要とする。利益を上げるためには商品が必要になる。商品を販売するためには市場が必要になる。そして医療市場には、病気を抱えた人間が存在する。この構造を理解せずに「製薬会社は命を救っているから問題ない」と考えることも、「製薬会社は利益を得ているから悪だ」と考えることも、どちらも極端である。

本当に見るべきなのは、その間にある。誰が薬を必要だと判断するのか。誰が薬の効果を評価するのか。誰が臨床試験を行うのか。誰が研究費を出すのか。誰がデータを管理するのか。誰が薬の価格を決めるのか。そして、誰が最終的に利益を得るのか。この流れを一つずつ追う必要がある。

特に重要なのが、製薬企業と医師の関係である。医師は患者に薬を処方する。製薬会社は薬を販売する。この二者の間には、当然ながら接点が存在する。製薬企業が新薬について医師に情報を提供することは、医療の発展に必要な活動でもある。新薬の効果、副作用、使用方法などを医師が知らなければ、患者に適切な治療を提供できないからだ。しかし、ここにも利益相反という問題がある。薬を販売したい企業と、患者に最適な治療を選択したい医師。両者の目的が常に完全に一致するとは限らない。医師が企業から研究費を受け取る。講演料を受け取る。コンサルティング費用を受け取る。研究支援を受ける。こうした関係が存在するとき、医師の判断に影響がないのかという疑問が生じる。

もちろん、金銭的な関係があるからといって、医師が不正をしているとは限らない。ここは非常に重要だ。研究費を受け取った。講演料を受け取った。だから、その医師は製薬会社の言いなりだ。そんな単純な話ではない。しかし、患者側から見れば「自分の治療を決める医師と、その薬を販売する企業との間にどのような金銭的関係があるのか」という情報を知る権利はある。透明性が必要なのである。

私はここをもっと厳しくするべきだと思う。患者に薬を勧める医師と、その薬を販売する企業との関係があるなら、それを患者が確認できる仕組みが必要ではないか。これは医師を疑えという話ではない。患者が医師を信頼するために必要な情報を公開しろ、という話である。信頼とは、情報を隠すことで生まれるものではない。情報を公開した上で、それでも信頼できる状態を作ることこそ、本当の信頼ではないだろうか。

さらに重要なのが、臨床試験である。新薬が市場に出るためには、さまざまな試験によって安全性や有効性を確認する必要がある。これは当然の仕組みだ。誰でも自由に薬を販売できる社会になれば、患者の生命は危険にさらされる。だから規制当局が存在する。しかし、ここでも問題は起こり得る。臨床試験のデータがすべて同じ価値を持つとは限らない。良い結果が出た研究。悪い結果が出た研究。副作用が少なかった研究。副作用が多かった研究。どの研究が公表されるのか。どの研究が注目されるのか。どのデータが広告や医学論文で強調されるのか。この問題は、医学研究における透明性を考えるうえで極めて重要である。

もし都合の悪いデータが公表されにくいのであれば、医師も患者も薬の本当のリスクを正しく判断できなくなる。そして、その結果として患者が被害を受ければ、それは単なる「副作用」では片付けられない。情報の不足によって、本来避けられたかもしれない被害が発生した可能性があるからだ。これが医原病という問題の難しいところである。医原病は、必ずしも医師が間違ったから発生するわけではない。薬そのものに副作用がある。その副作用を十分に説明しなかった。研究データが十分に公開されなかった。医師が十分な情報を得られなかった。患者が十分な説明を受けなかった。こうした小さな問題が積み重なって、最終的に患者の被害につながることがある。つまり、医療事故の原因は一人の医師だけではない。制度そのものに存在する可能性がある。

ここで、私はあえて厳しいことを言いたい。「製薬会社は人の命を救っているのだから、疑うべきではない」。私は、この考え方には賛成できない。命を救っているからこそ、強い監視が必要なのではないか。巨大な力を持つ組織だからこそ、透明性が必要なのではないか。そして、年間何兆円もの売上を持つ巨大企業と、一人の患者を同じ立場として考えることはできない。企業には弁護士がいる。専門家がいる。研究者がいる。広報部門がある。資金がある。しかし、患者にはそれがない。患者が副作用を訴えても、それを医学的に証明することは難しい場合がある。「薬が原因なのか」「病気そのものが原因なのか」「別の薬との相互作用なのか」「偶然なのか」。患者自身では判断できない。だからこそ、医療には第三者による検証が必要になる。

そして、ここからさらに問題が深くなる。製薬会社だけではない。政府も薬を承認する。規制当局も存在する。大学も研究する。病院も臨床試験を行う。医師も処方する。保険会社も支払う。これらすべてがつながって、一つの巨大な医療システムを作っている。だから、医療の問題を製薬会社だけに押し付けることはできない。むしろ私は、「誰か一人の悪人を探す」という考え方こそ危険だと思う。本当に見るべきなのは構造である。金がどこから入り、どこへ流れるのか。研究データがどのように作られ、誰が評価するのか。薬の価格はどのように決まるのか。そして、患者の声はそのシステムのどこに存在しているのか。患者が最後になってはいけない。患者こそ、医療システムの中心にいなければならない。

医師のための医療でもない。病院のための医療でもない。政府のための医療でもない。製薬会社のための医療でもない。患者のための医療である。この当たり前の原則が、本当に守られているのか。私はそこを疑ってみたい。疑うことは、医療を否定することではない。むしろ、医療を守るために必要な行為だと思う。医療は人間にとって必要不可欠だからこそ、権力を持つ。そして、必要不可欠なものほど、権力を持ちすぎてはいけない。国家もそうだ。警察もそうだ。司法もそうだ。そして医療もそうだ。「あなたのためです」という言葉ほど、強い権力はない。その言葉を信じるからこそ、患者は身体を預ける。だからこそ、その信頼を裏切ったときの責任は重い。

本書では、製薬会社を悪魔として描くつもりはない。しかし、巨大企業だからという理由で無条件に信用するつもりもない。私は、企業にも医師にも政府にも研究者にも、同じ質問を投げかけたい。「その判断は、本当に患者のためだったのか?」。そして、もし答えに迷うのであれば、その情報を公開してほしい。国民が判断できるようにしてほしい。患者が選択できるようにしてほしい。医療に必要なのは、盲目的な信仰ではない。検証できる情報と、選択する自由である。

そして次に私たちは、製薬企業だけではなく、医学界そのものを見なければならない。なぜ、ある病気は大きく取り上げられるのか。なぜ、ある治療法には巨額の研究費が集まるのか。逆に、なぜ、患者数の少ない病気は研究対象になりにくいのか。そして、その研究テーマを決めているのは一体誰なのか。ここから、本書はさらに深い場所へ進む。「病気を治す産業」から、「病気そのものをどう定義するのか」という問題へ。病気とは何なのか。健康とは何なのか。そして、人間はどこまでを「治療」されるべき存在なのか。この境界線を誰かが決めているとしたら――その決定権を持っているのは、いったい誰なのだろうか。

2.医学は人類を長生きさせた――それでも残る疑問

ここまで医療の暗部ばかりを追ってきた。人体実験、国家機密、薬物研究、放射線研究、そして巨大な製薬産業。ここまで読めば、「では医学など信用できないではないか」と思う読者もいるかもしれない。しかし、私はそこまで単純に医学を否定するつもりはない。むしろ、ここで一度、医学が人類に何をもたらしたのかを冷静に見てみたい。

その最も分かりやすい指標の一つが、平均寿命である。世界銀行の2024年データを見ると、世界の平均寿命は所得水準によって大きく異なる。高所得国では約80歳、上位中所得国では約76歳、下位中所得国では約70歳、低所得国では約65歳となっている。つまり、高所得国と低所得国の間には、およそ15年もの平均寿命の差が存在する。

この数字は非常に重い。15年である。人生80年と考えれば、15年は約5分の1に近い。単なる統計上の数字ではない。15年あれば、子どもが生まれてから成人することもできる。仕事を始め、家庭を築き、孫を見ることもできる。一人の人間にとって、その15年は決して小さな数字ではない。

では、なぜこの差が生まれるのか。医療だけでは説明できない。食料。衛生環境。安全な水。教育。所得。住宅。感染症対策。母子保健。予防接種。医療へのアクセス。政治や社会制度。さまざまな要因が絡み合っている。しかし、それでも医学の発展が平均寿命を押し上げてきたことは否定できない。感染症による死亡を減らした。乳幼児死亡率を低下させた。出産時の母体死亡を減らした。外科手術を進歩させた。抗菌薬を開発した。ワクチンを普及させた。心臓病や脳卒中などの治療を進歩させた。がん治療の選択肢も増えた。かつては「死の病」と呼ばれていた病気の一部が、現在では治療可能な病気になっている。

これは医学の偉大な功績である。私は、この事実まで否定するつもりはない。むしろ、医療の暗部を書くからこそ、この光の部分も正面から認めなければならないと思う。医療は、多くの人間を救ってきた。医師も、多くの人間を救ってきた。研究者も、多くの命を救ってきた。製薬企業が開発した薬によって救われた人間も、世界中に数え切れないほどいる。だから私は、医療を敵にしたいわけではない。私が疑っているのは、「医療なら何でも正しい」という考え方である。ここは大きく違う。医学の成果を認めることと、医学を無条件に信じることは同じではない。

これは政治でも同じだ。国家が必要だからといって、国家のすべての政策が正しいわけではない。警察が必要だからといって、警察官のすべての行為が正しいわけではない。司法が必要だからといって、裁判官が絶対に間違わないわけではない。それと同じように、医療が必要だからといって、医療行為のすべてが正しいわけではない。私はそう考えている。

そして、ここでさらに重要な数字がある。「平均寿命」と「健康寿命」は同じではない。WHOによれば、平均寿命とは、出生時点で平均的にあと何年生きると期待されるかを示す指標である。一方、健康寿命、つまりHALEは、病気や障害によって健康ではない状態で過ごす期間を考慮し、「完全な健康」に近い状態で何年生きられるかを示す指標である。

ここに、現代医療の非常に興味深い矛盾がある。人間は長生きするようになった。しかし、長生きしたすべての時間を健康に過ごせるわけではない。病院のベッドで過ごす時間。薬を飲み続ける時間。通院する時間。介護を受ける時間。慢性疾患と付き合う時間。こうした期間も「寿命」の中に含まれている。もちろん、それを悪いことだと言うつもりはない。病気になっても生きられることは、医学の大きな成果である。昔なら30歳で亡くなっていた病気を、70歳まで管理できるのであれば、それは明らかな進歩だ。

しかし、ここで私は一つの問いを投げかけたい。「長く生きること」と「良く生きること」は、本当に同じなのだろうか。私は違うと思う。人生の長さは重要だ。しかし、人生の質も同じくらい重要である。だからこそ、現代医療は「何歳まで生きられるか」だけではなく、「どのような状態で生きられるか」まで考える必要がある。

ここに予防医学の重要性が出てくる。病気になってから治療する。これは医学の基本である。しかし、本当なら病気になる前に防ぐことができれば、それに越したことはない。食生活。運動。睡眠。衛生。禁煙。感染症対策。安全な労働環境。これらは、薬や手術とは違う形で人間の寿命と健康に影響を与える。つまり、医学の発展だけが人類を長生きさせたわけではない。社会そのものが変わった。上下水道が整備された。感染症対策が進んだ。食料事情が改善した。教育水準が上がった。労働環境が改善した。そして医療技術が進歩した。複数の要素が重なって、人類の寿命は伸びてきた。この事実は重要である。なぜなら、「新しい薬が出たから人類が長寿になった」という単純な物語では、医学史の本当の姿が見えなくなるからだ。

では、なぜ高所得国と低所得国の間には、現在でも約15年の平均寿命差があるのか。低所得国では、医療技術が存在しないからだけなのか。そうではない。世界には、優れた薬も、手術技術も、ワクチンも、医療知識も存在する。それでも、それを受けられない人間がいる。ここに「医療へのアクセス」という問題がある。新しい薬が開発されても、その薬を買えなければ患者は使えない。高度な手術が可能になっても、その手術を受けられる病院が近くになければ意味がない。優れた医師がいても、医療費を払えなければ診察を受けられない。つまり、医学的に「できること」と、社会的に「受けられること」は違う。

私はここに、現代医療の大きな矛盾を見る。人類は史上最高レベルの医学技術を持っている。それなのに、世界には必要な医療を受けられない人間が存在する。これは医学だけの問題ではない。経済の問題であり、政治の問題であり、教育の問題でもある。そして、医療産業の問題でもある。薬を作るには金が必要だ。病院を建てるにも金が必要だ。医師を育てるにも金が必要だ。研究を行うにも金が必要だ。つまり、現代医学は巨大な経済システムの中に存在している。この現実を無視して「医学は純粋な善」と語ることはできない。一方で、「製薬会社は利益を求めるから悪だ」と単純化することもできない。利益がなければ研究資金が集まらない。研究資金がなければ新薬も生まれない。新薬がなければ治療できない病気もある。

この矛盾をどう解決するのか。私は、ここに答えの簡単ではない問題があると思っている。そして、だからこそ「透明性」が必要なのだ。誰が研究費を出しているのか。どのような研究なのか。どのような副作用があるのか。どのような患者が臨床試験に参加したのか。悪い結果も公開されているのか。薬の価格はなぜその金額なのか。そして、患者にどの程度の選択肢が与えられているのか。これらが見える社会であれば、医療への信頼はむしろ強くなる。逆に、情報を隠せば隠すほど疑念は生まれる。

私は、ここを非常に重要だと思っている。「医療を疑うな」「科学を疑うな」「専門家を信じろ」。こうした言葉だけでは、現代社会の問題は解決しない。科学とは本来、疑問から始まるものだからだ。なぜなのか。本当にそうなのか。別の可能性はないのか。この薬は本当に必要なのか。この治療は本当に患者の利益になっているのか。こうした問いを繰り返すことによって、医学は進歩してきた。だから私は、医療に疑問を持つことそのものを「反医療」と呼ぶべきではないと思う。むしろ、医療をより良くするために必要な行為なのではないか。

もちろん、根拠のないデマを広めることは別問題である。科学的根拠のない治療法を「奇跡の治療」として売りつけることも危険だ。しかし、逆に、政府や企業、研究機関が発表した情報を何の検証もなく受け入れることも危険である。必要なのは、疑うことと検証することの両方だ。私はこの本で、医学そのものを壊したいわけではない。むしろ、医学を人間の手に取り戻したい。患者のための医学。患者が情報を持ち、選択できる医学。権力者ではなく、一人の人間の生命を中心に置く医学。それこそが本来の医療ではないだろうか。

世界の平均寿命を見ると、医学と社会の発展が人類に大きな恩恵をもたらしたことは明らかである。しかし、その恩恵がすべての人間に平等に届いているわけではない。そして、長く生きることが、そのまま幸福や健康を意味するわけでもない。だからこそ、私たちは次の問いへ進まなければならない。医学は、私たちを本当に健康にしているのか。それとも、病気を治療しながら、別の場所で新しい「患者」を生み出しているのか。この問いは、決して医学を否定するための問いではない。医学を信じたいからこそ、私は問い続けたい。そして、その問いの先に見えてくるのが、「病気を治す」だけではなく、「病気を作り出す可能性を持つ医療」という、さらに危険なテーマなのである。

3.「長生き」は、本当に幸福なのか――延び続ける寿命の先にある社会

医学の発展によって、人類はかつてないほど長く生きられるようになった。感染症による死亡は減少し、乳幼児死亡率も大きく低下し、外科手術や薬物治療によって、かつてなら命を落としていた人間が生き延びられるようになった。これは医学が成し遂げた大きな功績であり、私はその価値を否定するつもりはない。しかし、ここで一度立ち止まって考えたい。人間の寿命だけを延ばし続けた先に、社会は何を用意しているのだろうか。

世界銀行の2024年データを見ると、高所得国の平均寿命は約80歳、低所得国では約65歳である。人類は確実に長生きする方向へ進んできたが、その一方で「長く生きる人間を社会がどう支えるのか」という問題は、ますます大きくなっている。80歳まで生きることを想定して作られた社会と、100歳近くまで生きる人間が増える社会では、必要となる制度がまったく違う。働く期間。年金。医療費。介護。住宅。家族構造。地域社会。そして、本人の生きる目的。寿命が延びれば、それだけすべてが自動的に良くなるわけではない。むしろ、社会の準備が追いつかなければ、「長生きしたこと」そのものが負担になる可能性すらある。

私はここに、現代医療の最大の盲点の一つがあると思う。医学は「どうすれば人間を長く生かせるか」を追求してきた。では、その次に必要だった「長く生きる人間をどう幸福に生かすのか」という問いには、十分な答えを用意できているのだろうか。例えば、70歳まで働く社会が当たり前になったとしても、身体が20代や30代と同じように動くわけではない。80歳、90歳になれば、さらに身体能力は変化する。病気を抱えながら生きる人も増える。薬を飲みながら生活する人も増える。定期的な通院が必要になる人も増える。そして、介護を必要とする人も増えていく。

ここで「寿命」と「健康寿命」の違いが重要になる。長く生きられることと、健康な状態で長く生きられることは同じではない。平均寿命が延びても、人生の最後に長い期間を病気や障害とともに過ごすのであれば、本人にとっても家族にとっても大きな負担になる可能性がある。もちろん、病気になっても生きられることは素晴らしい。昔なら亡くなっていた人が、治療によって何十年も生きられるようになる。これは医学の勝利である。しかし、医学が生命を延ばす力を手に入れたなら、その次には「その延びた生命をどう支えるのか」という社会の責任が生まれる。ここを無視してはいけない。

例えば、ある高齢者が複数の慢性疾患を抱えているとする。毎日何種類もの薬を飲む。定期的に病院へ通う。検査を受ける。身体が不自由になれば介護サービスを利用する。家族にも負担がかかる。本人には「生きたい」という意思がある。しかし、その生活が本人にとって本当に幸福なのか。外部の人間が簡単に答えを出すことはできない。だからこそ、私は「長生きすればするほど良い」という価値観にも疑問を持つ。生命の価値を否定する話ではない。むしろ、人間の尊厳を考える話である。生きることは大切だ。しかし、「何年生きたか」だけで人間の人生を評価してよいのだろうか。

自分で歩ける。自分で食べられる。自分で話せる。自分で買い物ができる。自分で誰と会うか決められる。自分で住む場所を選べる。自分の人生について、自分で決定できる。こうした「自立して生きる時間」も、寿命と同じくらい重要なのではないか。ここから社会システムの問題が出てくる。高齢者が増えれば、医療費も増える。介護を必要とする人が増えれば、介護職員も必要になる。年金を受け取る人が増えれば、それを支える現役世代との関係も変わる。そして出生数が減少すれば、支える側の人口はさらに少なくなる。つまり、「長寿化」と「少子化」が同時に進めば、社会保障制度には二重の圧力がかかる。これは医学だけでは解決できない。政治だけでも解決できない。企業だけでも解決できない。社会全体の問題である。

私は、ここでかなり厳しい問いを投げかけたい。もし医学が人間を100歳まで生かせるようになったとしても、社会が80歳までしか支えられない制度のままだったら、残りの20年間を誰が支えるのだろうか。家族なのか。国家なのか。本人なのか。それとも、誰も支えられないのか。もし答えが「家族」なら、家族そのものが存在しない高齢者はどうなるのか。もし答えが「国家」なら、その財源を誰が負担するのか。もし答えが「本人」なら、十分な資産を持たない人間はどうなるのか。ここには非常に重い問題がある。

医学は生命を延ばすことができる。しかし、医学だけでは人生を支えることはできない。人間は薬だけでは生きられない。食事が必要だ。住居が必要だ。仕事が必要な時期もある。家族や友人とのつながりも必要だ。そして、自分が社会から必要とされているという感覚も必要になる。だから「寿命を延ばす」という医学的目標と、「幸福に生きる」という社会的目標は、別々に考えなければならない。ここを混同すると、とんでもないことになる。病院では「治療成功」。統計では「生存率向上」。政府の資料では「平均寿命延伸」。しかし、その数字の裏側で、一人の人間が孤独なベッドの上で何十年も生きているとしたらどうだろうか。その人間にとって、その時間は幸福なのだろうか。

もちろん、本人が生きたいと思っているなら、その意思は最大限尊重されるべきだ。だからこそ、「医療が生かす」「社会が支える」「本人が選ぶ」という3つの関係を考えなければならない。医療だけに生命を任せてはいけない。社会だけに人生を任せてもいけない。本人の意思を中心に置く必要がある。

そして、ここで医療産業の問題が再び登場する。長く生きる人が増えれば、医療需要も増える。慢性疾患が増えれば、薬の需要も増える。定期的な検査が必要になれば、検査市場も拡大する。介護が必要になれば、介護産業も拡大する。医療機器も必要になる。つまり、長寿化は巨大な医療・介護市場を生み出す。これは悪いことではない。必要なサービスだからだ。しかし、私は「長寿社会が巨大市場になる」という事実を、もっと冷静に見る必要があると思う。企業にとって、高齢者が増えることは市場の拡大でもある。政府にとっては社会保障費の増大である。病院にとっては患者数の増加につながる。製薬会社にとっては慢性疾患の治療薬を必要とする人間が増えることになる。そして本人にとっては、自分の身体が衰えていくという現実である。同じ「高齢化」という現象でも、立場によって意味が違う。

だから私は、長寿そのものを無条件に礼賛することには慎重でありたい。長く生きられることは素晴らしい。しかし、「長く生きさせること」と「幸せに生きられる社会を作ること」は別問題だからだ。ここで、さらに恐ろしい未来を想像してみたい。医療技術が進歩し、100歳を超えて生きる人間が珍しくなくなる。しかし、年金制度は維持できない。若者の数は減少する。介護職員も不足する。医療費は増える。家族は高齢者を支えきれない。高齢者本人には十分な資産がない。そんな社会になったとしたらどうなるのか。人間は長生きできる。しかし、その長い人生を支える社会が存在しない。これは「長寿社会」なのだろうか。それとも、「生きながら地獄を体験する社会」なのだろうか。

私は、この問いを決して大げさな話だとは思わない。むしろ、今のうちに考えなければならない問題だと思っている。医学が進歩することを止める必要はない。新薬も必要だ。手術も必要だ。再生医療も必要だ。高齢者医療も必要だ。しかし、「人間をどこまで長く生かせるか」だけを競争するのではなく、「その人間が最後まで人間らしく生きられる社会をどう作るのか」も同時に考えるべきなのだ。

私は、医療の進歩そのものに反対しているわけではない。むしろ医学が人間を救ってきた歴史を認めたうえで、その先を考えたい。100歳まで生きられるなら、100歳まで人間らしく生きられる社会を作る。90歳まで生きるなら、90歳まで自分の意思で生きられる社会を作る。これが本当の意味での「医療の発展」ではないだろうか。単に死亡する年齢を遅らせるだけでは足りない。人間には尊厳がある。意思がある。人生がある。そして最後まで「自分の人生を自分で生きたい」という願いがある。医学が生命を延ばしたのなら、次は社会が人生を支えなければならない。そうでなければ、医学の勝利が、社会の敗北になってしまう。

そして、この問題を考え始めると、さらに大きな疑問が生まれる。もし医療によって「死なないこと」が可能になっていったら、人間はどこまで生きるべきなのか。100歳なのか。120歳なのか。150歳なのか。そして、生命を延ばすために、どこまで医療を受け続けるのか。その決定をするのは誰なのか。本人なのか。家族なのか。医師なのか。国家なのか。そして、その医療費を誰が負担するのか。寿命を延ばす医学は、やがて「生きることの意味」という、医学だけでは答えられない問題に到達する。医学が人間の寿命を変えた。次に変えなければならないのは、医学ではなく社会そのものなのかもしれない。

4.病気は増えたのか――「患者になる」ということ

医学が発展すると、これまで治療できなかった病気が治療できるようになる。そして、これまで発見できなかった病気まで発見できるようになる。血液検査、画像診断、遺伝子検査、健康診断など、現代医学は人間の身体を以前とは比較にならないほど細かく調べられるようになった。これは間違いなく医学の進歩である。しかし、ここで一つの疑問が生まれる。病気を発見する能力が高くなればなるほど、人間は「病人」として分類される機会も増えるのではないか。

昔なら「年齢のせい」「体質」「疲れ」で済まされていた身体の変化が、現代では数値によって示される。血圧、血糖値、コレステロール、尿酸値、骨密度、腫瘍マーカーなど、人間の身体は次々と数字に置き換えられていく。そして、その数字が一定の基準を超えれば、「要注意」「要治療」「経過観察」といった言葉が付けられる。もちろん、検査によって病気を早期発見できることには大きな価値がある。早く見つけることで治療できる病気もある。命を救える場合もある。だから検査そのものを否定するつもりはない。しかし私は、ここで「正常と異常の境界線を誰が決めているのか」という問題を考えたい。

人間の身体は、すべて同じではない。年齢も違う。体格も違う。生活習慣も違う。遺伝的な特徴も違う。それなのに、社会は人間の身体を一定の数字で区切ろうとする。「ここまでは正常です」「ここからは異常です」。その境界線を決めること自体は、医療には必要である。しかし、その基準が絶対的な真理だと思われた瞬間、問題が生まれる。医学的な基準は、研究結果や社会状況によって変化することがある。かつて正常とされたものが異常になることもある。逆に、以前は問題視されていたものが、現在では必ずしも治療対象とはされない場合もある。つまり、「病気」という概念には医学的な側面だけではなく、時代や社会によって変化する側面もある。

ここに「医療化」という問題がある。本来は病気ではなかった人間の状態まで、医学的な問題として扱うようになる。老化。更年期。睡眠。注意力。気分。体型。性的機能。これら人生のさまざまな現象が、医学の対象になっていく。医学の対象になることが悪いとは限らない。苦しんでいる人に治療の選択肢が生まれることは素晴らしい。しかし、「治療できる」ということと、「治療しなければならない」ということは同じではない。ここは非常に重要である。

人間は完全な機械ではない。年齢を重ねれば身体能力は変化する。疲れることもある。眠れない夜もある。気分が落ち込むこともある。忘れることもある。そうした人間らしい変化のすべてを「異常」として扱い始めたら、人間は一生、自分の身体を監視し続けることになる。朝起きる。体重を測る。血圧を測る。血糖値を測る。食事を記録する。睡眠時間を記録する。運動量を記録する。そして、少しでも基準から外れれば不安になる。健康になるために始めた行為が、いつの間にか健康不安を生み出してしまう。これは現代社会の奇妙な矛盾ではないだろうか。

医療技術が進歩したことで、人間は自分の身体を以前より詳しく知ることができるようになった。しかし、知れば知るほど不安になることもある。知らなければ気にしなかった小さな変化まで、検査によって発見されるからだ。ここで「過剰診断」という問題が登場する。過剰診断とは、検査などによって病気を発見しても、その病気が生涯にわたって本人に症状や健康上の問題を引き起こさなかった可能性があるケースを指す。これは医学において非常に難しい問題である。病気を早期に発見すれば命を救える可能性がある。しかし、すべての病変が将来重大な病気になるとは限らない。それなのに「病気が見つかった」という事実だけで治療を始めれば、必要のなかった手術や薬物治療などによるリスクを負う可能性がある。つまり、医学には「見つけないことによる危険」と「見つけすぎることによる危険」の両方が存在する。これを単純に「早期発見は正義」と言い切ることはできない。

一方で、見つけることが遅れれば、取り返しのつかない病気もある。だから医師は難しい判断を迫られる。患者も難しい選択を迫られる。そして、その判断を支えるのが医学的なエビデンスである。問題は、その情報を患者がどこまで理解できるかということだ。例えば「この検査を受ければ病気を早期発見できます」と言われたとする。患者は安心するだろう。しかし、本当に知りたいのはその先である。早期発見によって死亡リスクはどの程度変わるのか。偽陽性はどれくらいあるのか。追加検査が必要になる可能性はどれくらいなのか。治療しなかった場合、どの程度の確率で問題になるのか。治療した場合の副作用は何なのか。こうした情報まで理解して初めて、患者は自分で判断できる。「検査を受ける」という一つの行動にも、実は非常に多くの情報が必要なのである。

私は、ここで患者側の立場をもっと強くするべきだと思う。医師にすべて任せる。病院の判断にすべて従う。薬を処方されたら疑問を持たずに飲む。もちろん、医師を信頼することは大切だ。しかし、信頼と丸投げは違う。自分の身体について決定するのは、最終的には患者本人だからだ。医師は専門家として助言する。患者はその情報を受けて、自分の価値観や生活状況を考えて決定する。この関係が本来の医療ではないだろうか。ところが現実には、患者と医師の間には圧倒的な知識差がある。患者は医学用語を知らない。統計も分からない。薬の作用機序も分からない。だから医師の言葉を信じるしかない。

そして、そこに製薬企業や医療機器企業の存在が加わる。新しい薬が登場する。新しい検査機器が登場する。新しい治療法が登場する。それらは当然、医療の選択肢を広げる。しかし同時に、「新しいものを使うことが良い」という心理も生まれる。最新医療。最先端治療。新薬。高性能検査。こうした言葉には、強い魅力がある。だが、私は「最新だから正しい」という考え方には慎重でありたい。古い治療法より新しい治療法が常に優れているとは限らない。高価な治療が安価な治療より優れているとも限らない。検査を増やせば増やすほど健康になるとも限らない。医療とは、技術をたくさん使えばいいというものではないからだ。必要な人に。必要な治療を。必要なだけ行う。この原則が重要なのだと思う。

そして、ここで医療産業の構造が再び見えてくる。患者が増えれば医療市場は拡大する。検査を受ける人が増えれば検査市場も拡大する。薬を飲む人が増えれば医薬品市場も拡大する。治療期間が長くなれば、それだけ医療費も発生する。もちろん、それだけで誰かが意図的に患者を増やしているという証拠にはならない。しかし、「病人が増えることによって経済的利益を得る主体が存在する」という事実は無視できない。だからこそ、利益相反の管理が重要になる。私は、医療に金が絡むこと自体を悪だとは思わない。医療を維持するためには金が必要だからだ。研究にも金が必要だ。病院にも金が必要だ。医師を育てるにも金が必要だ。新薬を開発するにも金が必要だ。問題は、金の存在を隠すことだ。誰が利益を得るのか。誰が研究費を出したのか。誰が広告を出しているのか。誰が研究結果を評価しているのか。これが見えなければ、患者は判断できない。

そして私は、「患者は素人だから黙って専門家に任せればいい」という考え方にも反対である。患者は医学者ではない。しかし、自分の身体について決定する当事者である。専門知識がないからこそ、十分な説明を受ける権利がある。質問する権利がある。セカンドオピニオンを受ける権利がある。治療を拒否する権利もある。そして、別の選択肢を知る権利がある。これは医師への不信ではない。患者の尊厳を守るための最低限の条件だ。

私は、医療を「神棚」に置いてはいけないと思う。医師も人間だ。研究者も人間だ。製薬会社も企業だ。政府も人間が運営している。だから間違える。だから監視が必要になる。だからこそ、医学には科学的検証だけではなく、社会的な監視も必要になる。医療を信じることと、医療を疑うこと。一見すると正反対に見える。しかし私は、この二つは両立すると考えている。本当に信頼できる医療とは、「疑ってはいけない医療」ではない。疑問を持っても、質問しても、検証しても、それでも信頼できる医療である。そして、そのためには情報が公開されなければならない。患者に選択肢がなければならない。利益相反が明らかにされなければならない。研究の失敗も公開されなければならない。都合の悪いデータも隠してはいけない。医療は、人間の生命を扱う。だからこそ、他の産業以上に透明でなければならない。私はそう思う。

医学の進歩によって、人間は以前より多くの病気を発見できるようになった。そして、以前より多くの病気を治療できるようになった。しかし、発見できる病気が増えたからといって、人間が必ずしも以前より健康になったとは限らない。長寿化によって医療との接点も増えた。検査も増えた。薬も増えた。病院に通う時間も増えた。だからこそ、これからの医学に必要なのは「何でも治療する医学」ではない。本当に必要なものを見極める医学である。そして患者自身が、その判断に参加できる医療である。

医学が人間の寿命を延ばした。次に必要なのは、人間の人生そのものを医療の対象にしすぎないことなのかもしれない。健康とは、検査結果がすべて正常であることではない。病気が一つもないことでもない。人間は老いる。疲れる。傷つく。忘れる。そして最後には死ぬ。その当たり前の現実まで「異常」として扱い始めたとき、私たちは一体、誰のために医学を発展させているのだろうか。ここから、本書はさらに踏み込む。「病気を発見する医療」の次に待っているのは、「病気を作り出す医療」という、より危険な疑問である。本当に必要な治療だったのか。それとも、治療しなくてもよかったものまで治療していないか。そして、その境界線を決めているのは誰なのか。この問いこそ、医原病を考えるうえで避けて通れない問題なのである。

5.治療しなくてもよかった病気――「過剰医療」という見えない問題

医学が進歩すると、人間は以前より多くの病気を発見できるようになる。これは素晴らしいことである。しかし、病気を発見できる能力が高くなったからといって、発見されたものをすべて治療しなければならないとは限らない。ここに、現代医療が抱える非常に難しい問題がある。それが「過剰診断」と「過剰治療」である。

過剰診断とは、本来なら生涯にわたって症状を引き起こしたり、死亡原因になったりしなかった状態を、検査によって病気として発見してしまうことをいう。発見された以上、患者も医師も「何とかしなければ」と考える。しかし、その病変が本当に将来問題を起こすのかは、最初から分かるとは限らない。ここに医学の難しさがある。病気を見逃せば危険である。しかし、病気ではないものまで病気として扱えば、それもまた危険になる。つまり、医学には「見つけない危険」と「見つけすぎる危険」が同時に存在している。

例えば、健康診断を受けて小さな異常が見つかったとする。医師は念のため追加検査を勧める。追加検査でさらに小さな異常が見つかる。そこで別の検査を受ける。そして、最終的に治療を受けることになる。患者からすれば、「病気を早く見つけてもらえてよかった」と思うだろう。しかし、本当にそうなのか。もし最初の異常が、そのまま放置しても一生問題を起こさなかったとしたらどうだろう。その場合、患者は「病気を治療した」のではなく、「将来問題を起こさなかったかもしれないものを治療した」ことになる。

もちろん、医師にとっては簡単な判断ではない。将来悪化する可能性がゼロではないからだ。だから「念のため」という言葉が登場する。念のため検査する。念のため薬を飲む。念のため手術する。念のため経過を観察する。この「念のため」は、患者を守ることもある。しかし同時に、医療行為を増やす方向にも働く。検査が増える。薬が増える。通院が増える。医療費が増える。そして、医療行為が増えれば、それに伴う副作用や合併症などのリスクも発生する。ここで重要なのは、「医療行為には必ずリスクがある」という当たり前の事実である。薬には副作用がある。手術には合併症の可能性がある。検査にも偽陽性や偽陰性がある。放射線を使用する検査もある。麻酔にもリスクがある。つまり、医療とは「何かをすれば必ず良くなる」という世界ではない。利益とリスクを比較して、利益のほうが大きいと判断された場合に行うものなのだ。

この考え方を理解することは、患者にとって非常に重要である。「この治療にはどんなメリットがありますか」「どんなリスクがありますか」「治療しない場合はどうなりますか」「他の選択肢はありますか」「何もしないという選択肢はありますか」。患者はこう質問していい。むしろ、質問するべきだと思う。医師を困らせるためではない。自分の人生を自分で決めるためである。

私は、ここを日本の医療でももっと強くしてほしいと思っている。患者は「先生にお任せします」と言う。医師は「分かりました」と答える。一見すると、とても美しい信頼関係に見える。しかし、本当にそれでいいのだろうか。医師は医学の専門家である。しかし、患者の人生の専門家ではない。患者がどんな人生を送りたいのか。何を大切にしているのか。どこまで治療を受けたいのか。どの程度のリスクを受け入れられるのか。それを最終的に決められるのは、患者本人である。だから医師には、医学的な選択肢を示してほしい。患者には、その選択肢について考える時間を与えてほしい。そして、「治療しない」という選択肢についても説明してほしい。これが本当のインフォームド・コンセントではないだろうか。

ここで、医療産業の構造をもう一度考えてみたい。検査を行えば検査費用が発生する。薬を処方すれば薬剤費が発生する。手術をすれば手術費用が発生する。入院すれば入院費が発生する。つまり、医療行為が増えれば、経済活動も増える。だからといって、医師が患者を増やそうとしているわけではない。製薬会社が病人を作っているという証拠でもない。ここは慎重に区別しなければならない。しかし、経済的利益が発生する構造が存在する以上、利益相反について考えること自体は必要だと思う。

例えば、ある検査機器を導入した病院が、その検査を積極的に勧める。その検査によって小さな異常が大量に発見される。患者は追加検査を受ける。さらに専門医を受診する。場合によっては治療まで進む。この一連の流れが、患者にとって本当に利益になっているのか。それとも、医療システム全体が「何かを見つけ、何かを処置する」方向へ進みすぎていないか。この問いを考える必要がある。

私は「医療を減らせ」と言いたいのではない。必要な医療は、むしろ増やしていいと思う。救急医療。がん治療。感染症治療。外科手術。難病治療。命を救うための医療は、徹底的に発展させるべきだ。しかし、必要性の低い医療まで増えてしまうなら話は違う。医療は多ければ多いほど良いわけではない。「必要な医療」と「必要以上の医療」を区別しなければならない。この考え方は、「医療の質」を考えるうえで非常に重要である。

そして、ここで一つの恐ろしい可能性が出てくる。医学が高度になればなるほど、人間は「病気を探す」ようになる。症状がなくても検査する。異常がなくても検査する。将来の病気を予測する。遺伝的リスクまで調べる。つまり、まだ病気になっていない人間まで医療の対象になる。これは予防医学として大きな可能性を持つ。しかし同時に、未来の可能性を現在の病気として扱ってしまう危険もある。「あなたは将来、この病気になる可能性があります」。そう言われたら、人間は不安になる。その不安を解消するために、さらに検査を受ける。そして、別の異常が見つかる。また検査する。こうして医療の中に入っていく。

私は、ここに現代社会の非常に奇妙な現象を見る。健康であるために検査をする。検査をした結果、不安になる。不安になったから、さらに検査をする。そして、いつの間にか病院から離れられなくなる。もちろん、実際に病気が発見されて命が救われる場合もある。だから、この現象をすべて否定することはできない。しかし、医学の発展によって「健康な人間まで医療の対象になる」という側面は、もっと議論されるべきだと思う。健康とは、病気が一つも存在しない状態なのだろうか。それとも、多少の異常があっても、自分らしく生活できる状態なのだろうか。この定義は非常に重要である。

人間の身体には個体差がある。血圧も違う。体温も違う。体格も違う。心拍数も違う。血液中の数値も違う。それなのに、医学は一定の基準を必要とする。基準がなければ診断できないからだ。しかし、基準を作った瞬間に、その境界線の外側にいる人間が「異常」と分類される。ここに医学の宿命的な矛盾がある。基準は必要だ。しかし、基準は絶対ではない。私は、このことを患者側にももっと知ってほしいと思う。「正常値」という言葉を聞いた瞬間に、自分の身体を善悪で判断してはいけない。人間の身体は、機械の検査表ではない。数字だけで人生を決めることはできない。だから医療には、数字を見る医学と、人間を見る医学の両方が必要なのだ。検査結果を見る。しかし、その人の生活も見る。数値を見る。しかし、その人が何に苦しんでいるのかも見る。病気を見る。しかし、その人自身も見る。私は、これこそが本来の医療だと思う。

そして、医療が人間を救うためのものならば、医療行為そのものによって人間が苦しむことは最小限にしなければならない。必要のない薬を飲ませない。必要のない検査を増やさない。必要のない手術をしない。必要のない不安を与えない。これは当たり前の話である。ところが、医学が高度になればなるほど、「何かできること」が増えていく。そして、「できる」ことと「やるべき」ことが混同される危険が生まれる。最新の検査ができる。最新の治療ができる。最新の薬がある。だから使う。しかし、本当に必要なのか。私は、そこに一つのブレーキが必要だと思う。医療は「できること」を増やすだけではなく、「やらないほうがいいこと」を判断する能力も持たなければならない。これは非常に難しい。しかし、難しいからこそ重要なのである。

そして、ここから本書の「医原病」というテーマがさらに核心へ近づいていく。医療が患者を救う。その一方で、医療行為そのものが患者を傷つける場合がある。薬が副作用を起こす。手術が合併症を起こす。検査が偽陽性を生む。過剰診断が不必要な治療につながる。そして、治療の結果として別の病気が発生する。つまり、人間を救うために作られた医療が、人間に新たな苦痛を与える可能性がある。私は、この矛盾から目を背けたくない。「医療だから仕方がない」「副作用は当然だ」「専門家に任せておけばいい」。そんな言葉だけで終わらせてはいけないと思う。

もちろん、医療には避けられないリスクがある。それは理解している。しかし、「避けられないリスク」と「避けられたかもしれない被害」は別である。もし不要な治療によって人間が傷ついたのであれば、それを「医療だから仕方がない」で済ませてはいけない。誰が判断したのか。なぜその治療を選んだのか。他の選択肢はなかったのか。患者は十分に説明を受けていたのか。そして、その治療によって誰が利益を得たのか。この問いを残す必要がある。

私は、医療に対して疑問を持つことは反社会的な行為ではないと思う。むしろ、患者自身が疑問を持つことで、医療は改善される。医学は「絶対に正しい学問」ではない。間違いを発見し、修正し、また前進する学問である。だからこそ、過去の医学を疑うことも必要だ。現在の医学を検証することも必要だ。そして、未来の医学についても警戒する必要がある。医学の進歩を止めるのではない。医学の暴走を止めるのである。そのためには、患者自身が「なぜ?」と質問できる社会でなければならない。私は、その「なぜ?」を大切にしたい。なぜ、この薬なのか。なぜ、この検査なのか。なぜ、この治療なのか。なぜ、今なのか。そして、「治療しないという選択肢はないのか?」。この質問を、患者が恐れずに口にできる医療であってほしい。

医学の発展は、人類に大きな恩恵をもたらした。しかし、医学が巨大になればなるほど、その力を監視する必要も大きくなる。医療は、人間を救うための道具である。道具が人間の主人になってはいけない。そして、病気を治すための医療が、いつの間にか「病気を探し続けるシステム」になってしまったとしたら――私たちは一度、立ち止まって考える必要がある。本当に治療すべき病気だったのか。それとも、「病気を治す」という名目で、健康だった人間まで患者にしてしまってはいないだろうか。

6.薬が病気を生むとき――「治療」の裏側にある医原病

薬は、人類が生み出した最も重要な医療技術の一つである。感染症を抑え、痛みを軽減し、血圧や血糖値を管理し、心臓病やがんなどの治療を支えてきた。薬によって救われた命は、数え切れない。だから私は、薬そのものを敵視する考え方には賛成できない。しかし、薬にはもう一つの顔がある。薬は身体に作用する。身体に作用するということは、望ましい作用だけが起こるとは限らない。治療効果がある一方で、副作用が発生することもある。その副作用が軽い場合もあれば、場合によっては重大な健康被害につながることもある。つまり、薬は「毒」と「薬」の境界線の上に存在している。

これは決して薬を恐れろという話ではない。どんな薬にも利益とリスクがあるという、極めて基本的な話である。薬を使うということは、その薬によって得られる利益と、起こり得るリスクを比較して判断するということである。だから医師は、患者の病気、年齢、体質、既往歴、他に使用している薬などを考慮して処方する。患者側も、薬について疑問があれば質問する必要がある。しかし、現代社会では薬があまりにも身近になっている。頭が痛ければ薬。熱が出れば薬。血圧が高ければ薬。血糖値が高ければ薬。眠れなければ薬。不安があれば薬。痛ければ薬。症状が出れば薬を飲む。この行動そのものが悪いわけではない。問題は、「薬を飲めば解決する」という考え方が強くなりすぎることだ。

病気には原因がある。生活習慣が原因の場合もある。感染症が原因の場合もある。遺伝的な要因が関係する場合もある。環境が関係する場合もある。精神的なストレスが関係する場合もある。そして、加齢による身体の変化が関係する場合もある。ところが、症状だけを薬で抑え続ければ、原因そのものを見失うことがある。もちろん、薬で症状を抑えることが必要なケースは多い。高血圧や糖尿病など、長期的な管理によって重大な合併症を防ぐことができる病気もある。だから「薬を飲むな」という極端な主張をするつもりはない。私が問題にしたいのは、「薬を使うこと」ではなく、「薬を使い続けることが本当に必要なのかを定期的に考える仕組み」である。

一度処方された薬が、そのまま何年も続いている。患者はなぜ飲んでいるのか詳しく分からない。医師も忙しく、毎回薬の必要性を一から説明できない。そして患者は、「先生が出しているのだから必要なのだろう」と考える。こうして薬は生活の一部になる。ここに「ポリファーマシー」という問題がある。複数の薬を同時に使用することで、薬同士の相互作用や副作用などのリスクが増える可能性がある。特に高齢者では、複数の慢性疾患を抱えることが多く、それぞれの病気に対して薬が処方されれば、服用する薬の数も増えていく。一つの病気には一つの薬。別の病気にも一つの薬。さらに別の症状にも一つの薬。気が付けば、毎日何種類もの薬を飲む生活になる。これは誰か一人の医師が悪いという問題ではない。むしろ、現代医学が高度になった結果として生まれた問題でもある。医学が進歩したから、複数の病気を同時に治療できるようになった。しかし、その結果として薬の数も増えた。そして薬が増えれば、それだけ相互作用や副作用について考える必要も増える。医学の進歩が新しい問題を生み出す。これもまた、医原病を考える上で重要な視点である。

ここで私は、一つの疑問を持つ。医療とは、「できる治療を全部行うこと」なのだろうか。私は違うと思う。医療とは、「その患者に本当に必要な治療を選ぶこと」ではないだろうか。薬があるから使う。検査があるから行う。手術ができるから手術する。それでは医学の技術が、患者を支配することになる。本来は逆でなければならない。患者のために技術がある。技術のために患者がいるのではない。この原則を忘れてはいけない。

さらに、薬にはもう一つの重大な問題がある。薬の開発には莫大な費用がかかる。研究者を雇う。研究施設を維持する。動物実験や基礎研究を行う。臨床試験を行う。安全性を確認する。規制当局の審査を受ける。製造設備を整える。販売する。これだけの費用がかかる以上、製薬企業が利益を求めること自体は当然である。しかし、利益を追求する企業と、患者の利益を追求する医療が完全に一致するとは限らない。企業にとって重要なのは、研究開発費を回収し、事業を継続することだ。患者にとって重要なのは、自分の病気を治すことだ。この二つが一致するときもある。しかし、常に一致するとは限らない。ここに利益相反という問題が存在する。

例えば、ある薬が非常に効果的だったとしても、使用する患者が少なければ市場規模は小さい。逆に、多くの人間が長期間使用する薬であれば、市場は大きくなる。だからといって、「製薬会社は患者を増やそうとしている」と結論づけることはできない。そんな単純な証拠はない。しかし、巨大な市場が存在する以上、その市場構造を分析することは必要だと思う。企業は利益を求める。これは資本主義社会では当然のことである。問題は、その利益追求が患者の利益より前に出てしまったときだ。私は、ここには強い監視が必要だと思う。医療は一般の商品とは違う。自動車なら、気に入らなければ買わなければいい。洋服なら、別の商品を選べばいい。しかし薬は違う。命に関わる病気を抱えている患者には、選択肢が限られていることがある。「この薬が必要です」と言われた患者にとって、その薬を拒否することは簡単ではない。つまり、医療には市場経済だけでは処理できない特殊性がある。患者は完全な消費者ではない。病気を抱えているからだ。そして病気を抱えている人間は、健康な消費者よりも弱い立場に置かれる。ここを忘れてはいけない。

だからこそ、医療市場には通常の市場以上の透明性が必要になる。薬の効果。副作用。臨床試験の結果。研究資金。利益相反。価格。そして、治療を受けなかった場合との比較。こうした情報が患者に分かる形で提供される必要がある。「専門家がそう言っているから」だけでは不十分だ。専門家にも間違いはある。研究にも限界がある。薬にも副作用がある。企業にも利益目的がある。だからこそ、情報を公開し、複数の人間が検証できる仕組みが必要になる。私は「医療を疑え」と言いたいのではない。「医療を検証できるようにしろ」と言いたい。この違いは大きい。疑うだけなら簡単だ。何でも陰謀に結びつけることも簡単だ。しかし、本当に難しいのは、事実を一つずつ確認することである。誰が言ったのか。どんな研究なのか。何人を対象にしたのか。どのような結果だったのか。反対の研究は存在するのか。利益相反はあるのか。そして、その研究結果は再現されているのか。ここまで確認して初めて、「この治療は信頼できる」と言える。これは科学を否定する考え方ではない。科学を守るための考え方である。そして私は、医療についても同じだと思っている。医師を絶対視しない。製薬会社を絶対視しない。政府を絶対視しない。研究機関を絶対視しない。しかし、最初からすべてを悪だとも決めつけない。重要なのは、証拠を見ることだ。その姿勢が必要だと思う。

医原病という言葉を考えるとき、最も重要なのは「誰かが悪い」という結論を急がないことである。医療行為そのものが悪いわけではない。薬そのものが悪いわけでもない。問題は、必要性を超えた医療行為が行われた場合や、リスクが十分に説明されなかった場合、そして医療システムそのものが患者の利益から離れてしまった場合にある。そのとき、治療は被害を生み出す可能性を持つ。そして、ここには被害者の声という重要な存在がある。患者が「この薬を飲んでから体調がおかしくなった」と訴えた。しかし、「気のせいでしょう」と言われた。「病気が進行しただけでしょう」と言われた。「薬との因果関係はありません」と言われた。もちろん、本当に薬が原因ではない場合もある。しかし、最初から患者の訴えを無視してしまえば、問題の発見そのものが遅れる。医学の歴史を振り返れば、後になって副作用が問題になった薬も存在する。だからこそ、患者の声を記録し、調査する仕組みが必要になる。一人の患者の訴えだけでは、因果関係を証明できないかもしれない。しかし、同じ訴えが何百人、何千人と積み重なったらどうだろう。それは「気のせい」という言葉だけで片付けてよい問題ではない。

医療において、患者は単なる治療対象ではない。患者は情報を提供する存在でもある。副作用を発見する最初の人間は、研究者ではなく患者自身である場合がある。だから私は、患者の声をもっと医学の中心に置くべきだと思う。医師が患者を見る。研究者がデータを見る。政府が統計を見る。企業が市場を見る。しかし、患者自身は自分の身体を生きている。この違いは大きい。統計では「副作用発生率0.1%」と書かれる。しかし、その0.1%の中には、一人ひとりの人生が存在する。数字の一つではない。一人の人間である。家族がいる。仕事がある。夢がある。生活がある。その人生が、薬によって変わる可能性がある。だからこそ、医療において数字と人間の両方を見る必要がある。

私は、ここに医原病という問題の本質があると思う。医学は人間を救う。しかし、医学が巨大になればなるほど、その力が人間を傷つける可能性も大きくなる。薬は命を救う。しかし、薬によって被害を受ける人間もいる。手術は命を救う。しかし、手術によって合併症が起きることもある。検査は病気を発見する。しかし、過剰診断を生むこともある。医療は必要だ。しかし、医療だから無条件に安全というわけではない。この矛盾を認めることから、医療の本当の信頼が始まるのではないだろうか。

そして、ここから先は、さらに踏み込まなければならない。薬を作る企業。薬を承認する政府。薬を処方する医師。薬を販売する薬局。薬を支払う保険制度。そして薬を使用する患者。これらが一つの巨大なシステムを形成している。もし、このシステムのどこかで利益が患者の利益より優先されたらどうなるのか。もし、患者にとって必要な情報が十分に伝わっていなかったらどうなるのか。もし、企業と行政、研究機関、医療機関の関係が複雑に絡み合い、一般人には見えなくなっていたらどうなるのか。それでも私たちは、「医療だから信じろ」と言えるだろうか。私は言えない。だからこそ、調べる。だからこそ、疑問を持つ。そして、だからこそ、患者の側から医療を見る。医療は誰のために存在するのか。この問いを、私たちは何度でも繰り返さなければならない。答えは一つしかない。人間のためである。患者のためである。そして、もし医療のシステムがその原則から外れたとき、私たちは声を上げなければならない。それが医療を壊すことではない。医療を本来の場所へ戻すための行為なのである。

そして次に私たちは、「薬の副作用」という個別の問題から、さらに巨大な問題へ進む。薬が市場に出るまで、何が行われているのか。誰が試験を行うのか。誰がデータを持っているのか。そして、都合の悪い結果が出たとき、その情報は本当にすべて表に出ているのか。ここから先は、医学と企業利益の境界線にメスを入れていく。「薬はどのようにして、私たちの手元に届くのか」。この単純な質問の中に、現代医療の巨大な構造が隠れている。

7.人体を最後の試験場にするのか――巨大製薬企業と「開発中新薬」の現実

新薬が誕生するまでには、長い研究と数多くの試験が必要になる。研究室で化合物を発見し、動物などを用いた研究を経て、最終的には人間を対象とした臨床試験へ進む。ここで初めて、その薬が実際の人間の身体にどのような作用を及ぼすのかが確認される。つまり、どれほど高度なコンピューターシミュレーションや動物実験を行っても、最後には人間の身体が試験の場になる。これは医薬品開発から逃れることのできない現実である。

新薬を必要としている患者にとって、臨床試験は希望でもある。既存の治療法が効かない。もう治療の選択肢が少ない。難病である。進行がんである。そんな患者にとって、開発中新薬は「最後の希望」になることがある。だから、臨床試験そのものを悪だと言うことはできない。むしろ、新しい治療法を必要としている患者がいる以上、医学研究を止めることもできない。

しかし、ここに恐ろしい矛盾がある。患者は「新薬を試す人」なのか。それとも「最後の希望を求める患者」なのか。企業から見れば、臨床試験の参加者は研究データを生み出す存在でもある。患者から見れば、自分の命を懸けた治療である。この二つの立場は、完全に同じではない。だからこそ、臨床試験には厳格な倫理規則が存在する。FDAの規則では、人を対象とする研究では原則として法的に有効なインフォームド・コンセントを取得しなければならない。研究であること、目的、実験的な手順、予測されるリスク、期待される利益、代替となる治療などについて、参加者に理解できる形で説明することが求められている。

つまり、患者は単なる「人体データ」ではない。一人の人間として、何を受けるのかを知る権利がある。そして、危険を理解したうえで参加するかどうかを決める権利がある。私は、この原則だけは絶対に崩してはいけないと思う。なぜなら、臨床試験に参加する患者の多くは、健康な人ではないからだ。重い病気を抱えている。治療法を失っている。死への恐怖を抱えている。家族から「何とか助かってほしい」と願われている。そんな人間に対して、「新薬を試してみませんか」と言う。そこには、非常に大きな心理的圧力が存在する可能性がある。本人が自由意思で選んだように見えても、「他に方法がない」という状況そのものが、選択を難しくしている。だからこそ、説明は徹底的でなければならない。

そして、企業側にはさらに重い責任がある。新薬には未知のリスクが存在する。臨床試験とは、まさにその未知の部分を調べるために行われるからだ。では、その未知のリスクによって患者が死亡した場合、誰が責任を負うのか。この問いは、決して小さくない。

ここで具体例を挙げよう。1990年代、イーライ・リリーが関与した抗B型肝炎薬「FIAU(fialuridine)」の臨床試験で、極めて深刻な事態が発生した。FIAUは慢性B型肝炎の治療薬として期待されていた。当時、慢性B型肝炎には十分な治療選択肢がなく、新しい治療薬への期待は大きかった。しかし長期投与を受けた患者の一部で、重篤な毒性が現れた。肝不全。乳酸アシドーシス。膵炎。神経障害。筋障害。そして死亡。国立アカデミーの記録によれば、長期投与を受けた患者のうち7人にFIAUによる重篤な毒性が認められ、そのうち5人が死亡し、2人は肝移植によって生存した。これは非常に重い数字である。15人の患者が登録された臨床試験だった。その中で長期投与を受けた患者の一部に深刻な毒性が発生し、5人が死亡した。

しかも、この薬は最初から「人を殺す薬」として開発されたわけではない。研究者たちは患者を救おうとしていた。薬には治療効果があると期待されていた。しかし、人間の身体に長期間投与したとき、予想を超える毒性が現れた。ここに臨床試験の恐ろしさがある。研究者が悪意を持っていなくても、患者が死亡することがある。そして、その死亡が薬によるものなのか、病気そのものによるものなのか、最初の段階では判断できない場合もある。だから臨床試験では、安全性を監視する仕組みが必要になる。そして、異常な兆候が現れた場合には、研究を止める必要がある。FIAUのケースでは、患者に副作用が現れ、最終的に試験は緊急停止された。医学史におけるこの事件は、「新薬の開発には未知の危険が存在する」という現実を突きつけるものだった。

ここで私は、企業そのものを悪魔として描くつもりはない。むしろ、逆である。こうした失敗を認めるからこそ、企業と医学の責任を追及できる。失敗しない薬など存在しない。副作用のない薬も存在しない。だからこそ問題になるのは、「失敗したかどうか」だけではない。失敗をどれだけ早く認識したのか。危険な兆候をどのように評価したのか。患者に何を説明したのか。研究を止める判断を誰がしたのか。そして、死亡した患者の家族に何が説明されたのか。私は、ここを徹底的に調べる必要があると思う。

そして、現在の巨大製薬企業にも目を向けなければならない。ジョンソン・エンド・ジョンソン。AbbVie。Merck。Pfizer。いずれも世界的な製薬企業である。巨大な研究費を持ち、世界中で臨床試験を行い、新しい薬を開発している。ここで重要なのは、「これらの企業は多くの患者を殺した」と一括して断定することではない。そんな書き方では、事実と推測が混ざってしまう。私たちが見るべきなのは、個別の薬と個別の臨床試験である。

例えばジョンソン・エンド・ジョンソンが開発したCARVYKTIをめぐる臨床試験では、治療後の死亡例が報告されている。CARTITUDE-1では、長期追跡時にCARVYKTI投与後47人の死亡が報告され、そのうち17人は病気の進行がなかった状態で発生していた。ただし、死亡原因は一様ではなく、過去の報告では治療関連有害事象による死亡と、治療とは無関係な有害事象、そして病気の進行による死亡が区別されている。さらにCARTITUDE-4では、無作為化から10か月以内の死亡がCARVYKTI群で29/208人、対照群で25/211人だった。CARVYKTI群の29人のうち10人は投与前に病気の進行で死亡し、投与後の19人については16人が有害事象による死亡、3人が病気の進行による死亡と報告されている。ここで数字を見るだけではいけない。29人という数字だけを見れば、「この薬が29人を殺した」と誤解する。しかし実際には、投与前の死亡も含まれている。逆に、投与後の死亡がすべて薬のせいだとも言えない。だからこそ、医学のデータは細かく見る必要がある。

そしてAbbVieにも同じ視点を向ける。開発中の抗体薬物複合体ABBV-085の第1相試験では、単剤投与群の患者のうち、投与後30日以内に9人が死亡したと報告されている。ただし、そのうち5人は基礎となる悪性腫瘍の進行が主な死因とされ、残る死亡についても呼吸不全、敗血症性ショックなどが報告されている。つまり、「9人死亡」という数字だけを使って「ABBV-085が9人を殺した」と断定することはできない。しかし、私は逆にこう問いたい。それなら、なぜ死亡例を徹底的に公開し、一般の人間にも分かる形で説明しないのか。「死亡例がありました」だけでは不十分だ。なぜ死亡したのか。薬との因果関係はどの程度なのか。基礎疾患との関係はどうなのか。投与量による違いはあったのか。同様の症例は過去の試験にもあったのか。こうした情報を透明に公開することこそ、患者のためではないのか。

Merckにも同じ問題意識を向けることができる。2025年には、MerckとDaiichi Sankyoが開発する抗体薬物複合体ifinatamab deruxtecanの第3相試験で、予想を上回るグレード5の間質性肺疾患イベントが確認され、試験の募集・登録が一時停止され、その後FDAが部分的な臨床保留を行ったと報じられている。ここでも重要なのは、「薬で何人死んだ」と単純化することではなく、予想を超える死亡リスクが現れたとき、企業と規制当局がどう対応したのかという問題である。

Pfizerについても同じである。例えば開発された薬の臨床試験では死亡例が発生することがある。しかし、死亡例があったというだけでは、その薬が死亡原因だったとは言えない。実際、PfizerのXALKORIの臨床試験では、397人について死亡と重大な副作用の情報が利用可能で、最後の投与から28日以内に45人が死亡し、初回投与から28日以内には10人が死亡したと報告されている。その死因には病気の進行、呼吸器系の事象などが含まれていた。つまり、ここでも「死亡者数」だけを取り上げることには意味がない。臨床試験の患者は、重い病気を抱えていることが多い。その患者が亡くなったからといって、薬が原因とは限らない。

だから私は、製薬企業を批判するからこそ、そこを曖昧にしてはいけないと思う。批判するなら、正確に批判する。数字を使うなら、分母も示す。死亡者数を示すなら、死因も示す。薬との因果関係が確認されているのか、単なる有害事象なのかも区別する。これをやらなければ、本書自身が「医療陰謀論」になってしまう。私は、それでは面白くないと思う。むしろ、事実を並べたうえで、それでも残る疑問を読者に突きつけたい。

製薬企業には、莫大な資金がある。研究者がいる。弁護士がいる。統計専門家がいる。規制当局と交渉する専門家もいる。一方、臨床試験に参加する患者は、重い病気を抱えた一人の人間である。この力の差は、決して小さくない。だからこそ、患者の「同意」が重要になる。患者が「私はこの薬を試したい」と自分で判断したのであれば、その意思は尊重されるべきだ。しかし、そのためには「この薬には未知のリスクがあります」と正直に伝えなければならない。「あなたを救うかもしれません」だけでは足りない。「あなたを救えないかもしれません」「重い副作用が起こるかもしれません」「死亡する可能性もあります」。そこまで説明して初めて、患者は自分の意思で選択できる。

私は、ここに医療倫理の核心があると思う。希望を与えることは大切だ。しかし、希望だけを与えてはいけない。リスクも伝える。失敗の可能性も伝える。代替治療も伝える。そして、参加しないという選択肢も伝える。患者には、その権利がある。医学が進歩するためには、臨床試験が必要だ。新薬が生まれるためには、患者の協力も必要だ。だからこそ、患者を「医学の犠牲」として扱ってはいけない。患者は医学の発展のための材料ではない。患者は医学を支えるパートナーである。そして、もし企業がその立場を忘れたとき、そこには重大な問題が生まれる。

私は、製薬企業をすべて悪と決めつけない。しかし、巨大企業だからこそ厳しく監視するべきだと思う。年間何十億、何百億、場合によってはそれ以上の資金が動く世界である。そこで扱われているのは、単なる商品ではない。人間の生命である。薬一錠の向こう側には患者がいる。臨床試験の数字の向こう側には家族がいる。死亡者数という統計の向こう側には、一人の人生がある。だから私は、製薬企業にこう問いかけたい。あなたたちは、その一人ひとりの命を本当に見ているのか。そして政府にも問いかけたい。企業を監督する役割を、本当に果たしているのか。医師にも問いかけたい。患者に、本当に必要な情報を伝えているのか。そして私たち患者側にも問いかけたい。「有名な会社だから安心」「政府が承認したから安心」「医師が勧めたから安心」。それだけで、自分の身体を預けていいのだろうか。私は、そうは思わない。信頼する。しかし確認する。期待する。しかし疑問を持つ。医学を利用する。しかし医学に人生を丸ごと預けない。このバランスこそが必要なのではないだろうか。

新薬は、人間を救う可能性を持っている。同時に、人間を傷つける可能性も持っている。だから臨床試験がある。そして、臨床試験には患者がいる。ならば、その患者の命を守ることこそ、研究の最優先事項でなければならない。利益でもない。株価でもない。承認でもない。市場投入でもない。患者の生命である。私はそう考える。

そして次に問いたい。もし薬の開発によって重大な被害が発生したとき、その責任は誰が負うのか。企業なのか。研究者なのか。医師なのか。規制当局なのか。それとも、誰も責任を取らないのか。ここから本書は、さらに一歩進む。「新薬の危険性」から、「危険が分かった後、なぜ薬が市場に残り続けることがあるのか」という問題へ入っていく。そこには、製薬企業だけではなく、政府、規制当局、医師、研究者、そして巨大な市場が絡んでくる。そして、その構造を追えば追うほど、一つの疑問が浮かび上がってくる。医療は本当に、患者のためだけに動いているのだろうか。

8.コロナワクチン――「人類を救った薬」の裏側で何が起きたのか

2020年、世界は新型コロナウイルスによって一変した。街から人が消え、経済活動が止まり、病院には患者があふれ、世界中の人間が「感染」という言葉に怯えた。そんな中で登場したのが、新型コロナウイルスに対するワクチンだった。そして、その中心企業の一つが、アメリカの巨大製薬企業ファイザーである。

ファイザーとドイツのBioNTechが開発したmRNAワクチンは、歴史的なスピードで開発され、世界各国で接種された。臨床試験では、症候性COVID-19に対する高い有効性が示され、CDCの評価でも、2回接種によって症候性COVID-19、入院、死亡のリスクを減らす効果が確認されたとされている。ここだけを見れば、人類を救った医学の勝利である。実際、多くの人間がワクチンによって重症化を避けた可能性がある。だから私は、「ワクチンは全部嘘だった」などという単純な話をするつもりはない。しかし、問題はここからだ。新型コロナワクチンは、世界史上でも極めて大規模な医療介入になった。そして、これほど巨大な医療介入が行われた以上、私たちは「効果」だけではなく「被害」についても同じ熱量で検証しなければならない。薬に利益がある。だから副作用について黙る。これは医学ではない。利益とリスクの両方を比較することこそ、医学の基本である。

ファイザー製ワクチンの臨床試験でも死亡例は存在した。FDAの2021年の臨床審査資料によれば、16歳以上の安全性集団で、ワクチン接種群19人、プラセボ群17人の死亡が報告されている。ただし、死亡原因を含めて検討すると、ワクチン群とプラセボ群で死亡リスクに大きな差が確認されたわけではない。また、COVID-19による死亡はワクチン群1人、プラセボ群6人だった。この数字は非常に重要だ。なぜなら、「ワクチン接種後に死亡した人がいた」という事実と、「ワクチンによって死亡した」という事実は同じではないからだ。ここを混同すれば、医学的な議論は一瞬で崩れる。

しかし、逆方向の誤りも同じくらい危険である。「臨床試験でワクチンが原因と証明されなかった」から、「ワクチンに重大な問題は存在しない」と考えることもできない。臨床試験には人数の限界がある。まれな副作用は、数万人規模の試験では発見できない可能性がある。だからこそ、市場に出た後の安全性監視が必要になる。そして、実際に問題が発見された。心筋炎。心膜炎。これは陰謀論ではない。CDCは、複数の安全性監視システムによる証拠から、mRNAワクチン、つまりファイザー・BioNTech製およびモデルナ製ワクチンと心筋炎・心膜炎との因果関係が支持されるとしている。特に、2回目の接種後7日以内の思春期・若年成人男性で多く確認されたと説明している。FDAも2025年、Comirnatyを含むmRNAワクチンの添付文書に心筋炎・心膜炎についての警告を更新した。2023~2024年製剤について、6か月~64歳では100万回あたり約8件、12~24歳男性では約27件という推定値が示されている。

つまり、ここで重要なのは、「ワクチンは安全だった」でも、「ワクチンは人を大量に殺した」でもない。本当の問題は、その中間にある。一定の有害事象は実際に存在した。しかも、それは政府機関が認めている。ならば、私たちは次の質問をしなければならない。その情報は、接種を受ける人間に十分伝えられていたのか。特に若年男性に対する心筋炎リスクについて、接種時に十分な説明がなされていたのか。利益とリスクを比較できるだけの情報が、国民に与えられていたのか。私はここを問いたい。

2020年から2021年にかけての社会には、非常に強い空気が存在していた。「ワクチンを打とう」「みんなのために打とう」「接種しない人は危険だ」「ワクチンを打たなければ社会に迷惑をかける」。こうしたメッセージが世界中で広がった。もちろん、感染症対策として集団接種を推進する政策には理由があった。しかし、医学的な判断に社会的圧力が加わった瞬間、問題は複雑になる。患者が自分で判断したのか。それとも、社会から事実上選択を迫られたのか。ここには大きな違いがある。私は、医療における「自己決定」という原則を軽視してはいけないと思う。ワクチンを接種する。接種しない。どちらを選択するにしても、本人が正確な情報を得て判断できなければならない。そして、その情報には「メリット」だけではなく「リスク」も含まれていなければならない。

ここで、製薬企業の責任が出てくる。ファイザーは巨大企業である。世界規模で医薬品を販売し、COVID-19ワクチンによって莫大な売上を得た企業でもある。だからこそ、一般の患者以上に高い透明性を求められて当然だと私は思う。巨大な利益を得ること自体が悪いわけではない。企業が利益を得ることは資本主義社会では当然である。問題は、「利益を得る企業が、同時にリスクを説明する主体でもある」という点だ。自分の商品を販売する企業が、その商品の危険性について説明する。これは非常に難しい構造である。だからこそ、政府や第三者機関による監視が必要になる。そして国民にも、企業の発表だけを鵜呑みにしない姿勢が必要になる。

私はここをかなり強く言いたい。「ファイザーだから危険だ」ではない。「ファイザーだから安全だ」でもない。会社名ではなく、データを見る。これが科学の基本ではないだろうか。ファイザーが世界を救ったと言うなら、その根拠を見ればいい。ファイザーのワクチンが危険だと言うなら、その根拠を見ればいい。どちらも証拠で判断すればいい。問題なのは、巨大企業のブランドそのものを証拠にしてしまうことである。

そして、ここでさらに重要な問題がある。VAERSなどの安全性監視システムには、接種後に発生した死亡が報告される。CDCによれば、2020年12月14日から2023年3月1日までのアメリカでは、COVID-19ワクチンが6億7200万回以上投与され、その期間にVAERSには19,476件の死亡報告が入った。しかし、CDC自身が明確に説明しているように、VAERSに報告された死亡は、それだけでワクチンが死亡原因だったことを意味しない。医療従事者には、因果関係が不明でも接種後死亡を報告する義務があるケースがあるからだ。ここで数字だけを使えば、いくらでも恐ろしい物語を作れる。「19,476人死亡!」しかし、それでは科学的検証にならない。逆に、「19,476件は全部偶然だ!」と言い切ることもできない。だから調査する。死亡診断書を見る。病理解剖を見る。接種から死亡までの時間を見る。基礎疾患を見る。同年代の非接種者と比較する。統計的に予想される死亡数と比較する。そして、因果関係を評価する。これが本来の安全性監視である。実際、CDCやFDAは複数の安全性監視システムを使って検証を続けている。2024年に公表された研究では、Vaccine Safety Datalinkのデータを使い、ファイザーなどのCOVID-19ワクチン接種後の死亡リスクを分析した結果、非COVID死亡、全死亡、複数の心臓関連死亡について、接種による増加は確認されなかったと報告されている。

ここで私は、あえて厳しいことを言いたい。ワクチンに疑問を持つことは悪ではない。しかし、疑問を持った瞬間に、すべての死亡をワクチンのせいにするのも科学ではない。逆に、ワクチンを信じた瞬間に、すべての副作用を無視するのも科学ではない。どちらも同じくらい危険だ。本当に必要なのは、「疑う自由」と「検証する責任」である。私は、医療専門家の言葉を疑ってはいけないという社会には反対だ。専門家は重要だ。しかし専門家も人間である。研究者も間違える。政府も間違える。企業も間違える。だからこそ、異論を言える社会が必要になる。特に新型コロナのような未知の感染症では、最初から完全な答えを持っている人間など存在しなかった。2020年には分からなかったことが、2021年には分かった。2021年には分からなかったことが、2022年には分かった。そして2026年になった現在でも、長期的な影響について研究が続いている。ならば、「当時の判断が全部正しかった」と歴史を書き換える必要はない。間違いがあったなら認めればいい。政策が過剰だったなら検証すればいい。説明が足りなかったなら謝罪すればいい。副作用が確認されたなら、その情報を公開すればいい。私は、それこそが科学の強さだと思う。しかし逆に、都合の悪い情報を隠そうとするのであれば、そこには疑念が生まれる。そして疑念を生む最大の原因は、批判そのものではない。情報不足である。説明不足である。透明性の不足である。

だから私は、ファイザーを批判するのであれば、「ファイザーは悪だ」と叫ぶだけでは意味がないと思う。むしろ、どれだけ売上を得たのか。どのような契約を政府と結んだのか。どのような臨床試験を行ったのか。どのような有害事象が確認されたのか。どのような安全性情報を規制当局に提出したのか。副作用について何を公表したのか。そして、国民にどのような説明が行われたのか。ここを一つずつ追うべきだ。そこまでやって初めて、本当の意味で企業を批判できる。そして私は、巨大製薬企業だけではなく、政府にも同じ質問を投げたい。なぜ接種を推進したのか。どのデータを根拠にしたのか。異なる意見をどのように評価したのか。リスク情報をどの程度国民に伝えたのか。そして、被害を訴えた人間に対して、十分な救済を行ったのか。これはファイザーだけの問題ではない。国家と企業と医学の関係そのものの問題である。

新型コロナは、その構造を世界中の人間に見せつけた。政府は企業に発注した。企業はワクチンを開発した。規制当局が承認・認可した。医師が接種した。国民が接種した。そして問題が起きれば、誰が責任を取るのかが問われる。この巨大なネットワークの中で、一人の患者はあまりにも小さい。だからこそ、患者の権利を守る仕組みが必要なのである。私は、ワクチンそのものを否定したいわけではない。ワクチンによって救われた人間もいる。それは認める。しかし、ワクチンによって健康被害を受けた人間がいることも認めなければならない。その両方を語らなければ、歴史にはならない。「ワクチンは人類を救った」だけでも不十分だ。「ワクチンは人類を殺した」だけでも不十分だ。必要なのは、「何人が救われたのか」「何人が被害を受けたのか」「どの被害がワクチンと因果関係を持つのか」「そのリスクは事前に予測できたのか」「分かった後に何が行われたのか」という検証である。

私は、ここに医原病の核心があると思う。医療行為には、利益とリスクがある。問題は、そのリスクを誰が負担するのかということだ。企業は利益を得る。政府は政策を進める。医療機関は接種を実施する。しかし、副作用に苦しむ患者が最後に一人で取り残されるのであれば、それは医療システムとして正しい姿なのだろうか。私は疑問に思う。巨大企業が莫大な利益を得る一方で、被害を訴える患者が「因果関係が証明できない」と言われて終わる。もしそんな構造が存在するなら、私は徹底的に問題にしたい。ただし、そのためにも感情ではなく証拠を使う。数字を使う。医学論文を使う。政府資料を使う。企業資料も読む。そして、企業にとって都合の悪い資料だけではなく、企業側の反論まで読む。そのうえで判断する。それが本当の意味で「メスを入れる」ということだと思う。批判するために事実を曲げてはいけない。むしろ、事実を曲げずに批判するからこそ、企業も政府も簡単には逃げられない。

新型コロナは終わった過去の事件ではない。それは、世界中の人間が医学、国家、企業、自由、そして自己決定権について考えさせられた巨大な社会実験だった。そして、私たちはまだその答えを出していない。あの時、何が正しかったのか。何が間違っていたのか。誰が利益を得たのか。誰が被害を受けたのか。そして、「次に同じことが起きたとき、私たちはまた同じ判断をするのか」。この問いから逃げることはできない。医学は人間を救う。しかし、医学が巨大な権力と巨大な利益と結びついたとき、その力を誰が監視するのか。新型コロナとワクチンをめぐる歴史は、その答えを私たちに迫っている。そして、この問いの先には、さらに巨大な存在が待っている。製薬企業だけではない。政府。国際機関。研究機関。メディア。そして、世界的な医療政策。それらがどのようにつながっていたのか。次は、その構造そのものにメスを入れる。

9.「公式データ」を疑うのではない――公式データそのものを問う

新型コロナワクチンをめぐる議論で、私は一つの大原則を置きたい。それは、「陰謀論だから疑う」のでもなければ、「政府が言っているから信じる」のでもない。公式資料を見る。数字を見る。医学論文を見る。企業の発表を見る。そして、それらを比較する。そのうえで、疑問が残るなら質問する。私は、この姿勢こそが本当の意味で科学的なのだと思う。

新型コロナワクチンについては、世界中で巨大な医療介入が行われた。アメリカだけでも、2020年12月14日から2023年3月1日までに6億7,200万回を超えるCOVID-19ワクチンが接種された。そして、その期間に米国のワクチン有害事象報告システム、VAERSには19,476件の死亡報告が記録された。19,476件。この数字だけを見れば、非常に大きく感じる。しかし、ここで重要な注意が必要になる。VAERSへの死亡報告は、「ワクチンを接種した後に死亡した」という意味であって、「ワクチンによって死亡した」という意味ではない。CDC自身が、その点を明確に説明している。医療従事者には、ワクチンが原因かどうか分からない場合でも、接種後の死亡を報告する義務が存在する場合があるからだ。つまり、19,476件=ワクチンによる死亡ではない。これは冷静に書かなければならない。

しかし、私はここで逆の質問をしたい。では、「ワクチンが原因ではない」と、誰がどのように判断したのか。どの死亡について調査したのか。死亡診断書は確認したのか。病理解剖は行われたのか。接種から死亡までの時間はどれくらいだったのか。基礎疾患は何だったのか。同年代の非接種者と比較したのか。そして、最終的にワクチンとの因果関係が否定された根拠は何だったのか。私は、ここをもっと国民に見せるべきだったと思う。「心配ありません」という言葉だけでは足りない。「安全です」という言葉だけでも足りない。なぜ安全なのか。どのデータによって安全と判断したのか。どのようなリスクが確認されているのか。それを公開することが、本当の意味での安全性説明ではないだろうか。

そして、ここで極めて重要な事実がある。mRNAワクチンについて、心筋炎・心膜炎という安全性問題が実際に確認されている。これは都市伝説ではない。反ワクチン活動家の主張だけでもない。FDA自身が、2025年6月にPfizerのComirnatyとModernaのSpikevaxについて、心筋炎・心膜炎に関する警告を更新した。FDAが示した2023~2024年製剤のデータでは、接種後1~7日間における心筋炎・心膜炎の推定発生率は、6か月~64歳全体で約8件/100万回。そして12~24歳男性では、約27件/100万回だった。27件。100万回に27件なら、数字だけ見れば非常に小さく感じるかもしれない。しかし、27人の患者が存在する。その一人ひとりに家族がいる。仕事がある。学校がある。将来がある。そして、心臓という生命に直結する臓器に炎症が起きる。「100万分の27だから問題ない」という一言で終わらせていい問題なのだろうか。私はそうは思わない。

もちろん、だからといって「ワクチンは危険だから全員が接種すべきではない」と結論づけることもできない。リスクは年齢によって違う。性別によっても違う。基礎疾患によっても違う。感染によるリスクも存在する。だから本当に必要なのは、全員に同じ答えを押し付けることではない。個人ごとの利益とリスクを比較できる情報を与えることだ。ところが、コロナ禍では社会全体が一つの方向へ動いた。接種を推奨する。接種率を上げる。接種証明を求める。「自分のためだけではなく、他人のために」というメッセージが繰り返された。感染症対策として理解できる部分はある。しかし、そこには一つの危険もある。社会全体の利益を強調しすぎると、個人の意思決定が弱くなる。「みんなのためだから」という言葉は、非常に強い。反対する人間を「非協力的」と見る空気まで生まれれば、科学的な議論そのものが難しくなる。私は、ここに医療と政治の境界線の問題を見る。

医学的な情報を提示する。そのうえで本人が選択する。これが理想である。しかし、国家が強いメッセージを出し、企業が製品を販売し、医療機関が接種を実施し、メディアが一方向の情報を大量に流したとき、一般市民は本当に自由に判断できたのだろうか。ここは検証されるべきだと思う。そして、製薬企業についても同じである。ファイザーは新型コロナワクチンによって巨大な売上を得た。企業が利益を得ること自体は悪ではない。研究開発には莫大な費用が必要だからだ。しかし、巨大な利益を得る企業が、その製品の安全性について説明する立場でもある。だからこそ、第三者による監視が重要になる。企業の発表だけを信じるのではなく、規制当局が検証する。規制当局だけを信じるのではなく、独立した研究者が検証する。研究者の研究も、別の研究者が再検証する。そして最終的には、国民が判断できるように情報を公開する。これが本来の科学ではないだろうか。

ここで私は、ファイザーに一つの質問を投げたい。あなたたちは、ワクチンの利益だけではなく、そのリスクについて国民に十分説明したのか。心筋炎・心膜炎のリスクについて、若年男性に十分な情報が届いていたのか。重大な有害事象について、患者が理解できる形で説明されていたのか。そして、ワクチンによって健康被害を受けたと訴える人間に対して、十分な調査と救済が行われているのか。これは企業を犯罪者扱いする質問ではない。巨大企業としての説明責任を問う質問である。私は、むしろ巨大企業だからこそ答えてほしいと思う。そして政府にも同じ質問をする。政府は、ワクチンの利益だけではなくリスクも十分に国民へ伝えたのか。政策決定の根拠となったデータは何だったのか。異なる意見を持つ研究者の主張をどのように評価したのか。若年男性の心筋炎リスクが明らかになった後、政策や説明はどのように変化したのか。そして、被害を訴えた国民に対して、どこまで責任を果たしたのか。私は、この質問から逃げるべきではないと思う。

国家は国民に接種を勧めた。企業はワクチンを販売した。医療機関は接種した。そして国民は、それを信じて身体を預けた。ならば、その結果について説明する責任も存在するはずだ。もちろん、すべての健康被害がワクチンによるものではない。そこも明確にしなければならない。しかし、だからといって、すべてを「偶然」で片付けてもいけない。因果関係が疑われるケースがあれば調査する。医学的な証拠があれば認める。証拠がなければ否定する。そして、将来新しい証拠が出てきたら判断を修正する。それが科学である。科学には、「一度決めた答えを絶対に変えない」というルールはない。むしろ、新しい証拠が出れば答えを変える。だからこそ、私は「当時の政府や企業の判断は全部正しかった」とする必要もないと思う。間違いがあったなら認めればいい。説明不足があったなら認めればいい。予測できなかった副作用が発見されたなら、その事実を公開すればいい。そして、被害を受けた人間には適切な救済を行う。それが本当の責任ではないだろうか。

ここで、FDAの2025年の動きは非常に興味深い。FDAはmRNAワクチンについて、心筋炎・心膜炎の警告を更新した。さらに、心筋炎を発症した人を追跡した研究では、約5か月後の心臓MRIでも心筋障害の指標となる異常が残っている人が多かったとFDAは説明している。ただし、そのMRI所見が将来の心臓への影響を意味するのかは、現時点では分かっていない。ここが重要だ。分からないなら、「分からない」と言えばいい。それが科学だ。将来への影響が分からないのに、「絶対安全」と言う必要はない。逆に、「将来必ず重大な障害になる」と言うこともできない。分からないものは、分からない。そして、分からないからこそ追跡調査する。FDA自身も、mRNAワクチン接種後の心筋炎について長期的な心臓への影響を評価する研究を進めている。私は、この姿勢こそ重要だと思う。医学は「分からないことを認める勇気」を持つべきだ。企業もそうだ。政府もそうだ。研究者もそうだ。そしてメディアもそうだ。「安全です」だけではなく、「現時点で分かっているリスクはこれです」「分かっていない部分はこれです」「今後調査します」と説明する。これなら国民も判断できる。ところが、社会が「絶対安全」対「絶対危険」という二つの陣営に分かれてしまえば、冷静な議論ができなくなる。私は、そこから抜け出したい。

だからこそ、本書では公式データを使う。CDCの数字を使う。FDAの警告を使う。企業の資料も使う。医学論文も使う。そして、それらを並べて読者に判断してもらう。これこそが、陰謀論を超えるための方法だと思う。陰謀論とは、「きっと裏で誰かが操っている」という物語だけで終わってしまうことだ。しかし、本当に重要なのは、「誰が」「いつ」「何を」「どのデータを使って」「どのような判断をしたのか」を追跡することである。そこまで調べれば、陰謀論など必要ない。もし問題があるなら、公式資料の中から見つかる。もし問題がなければ、それも公式資料によって確認できる。私は、この方法で医療の闇を追いたい。感情ではなく数字。噂ではなく記録。推測ではなく証拠。そして、証拠から導き出される疑問。それでも答えが出なければ、「まだ分からない」と書く。これが私のやり方でいい。

そして私は、巨大製薬企業にも行政にも、同じ基準を求めたい。ファイザーだから信用する。政府だから信用する。FDAだから信用する。医師だから信用する。そうではない。誰が言ったかではなく、何を根拠に言ったのか。その根拠は公開されているのか。第三者が検証できるのか。反対のデータは存在しないのか。そして、その判断によって誰が利益を得て、誰がリスクを負ったのか。そこまで見る。医療は、人間の生命を扱う。だからこそ、最も透明でなければならない。巨大企業が利益を得ることを否定する必要はない。国家が政策を行うことも否定しない。医学がワクチンを開発することも否定しない。しかし、「だから疑ってはいけない」という結論にはならない。むしろ逆である。人間の生命に関わるからこそ、徹底的に検証する。巨大な権力だからこそ、厳しく監視する。巨大な利益が動くからこそ、透明性を要求する。そして、被害を受けた人間の声を消さない。私は、それが本当の意味での「医療を守る」ということだと思う。

新型コロナワクチンをめぐる歴史は、これからも検証され続けるだろう。救われた人間もいる。副作用を経験した人間もいる。接種後に死亡した人間もいる。しかし、そのすべての死亡がワクチンによるものだったわけではない。この複雑な現実から逃げてはいけない。だからこそ、一つひとつの数字を分解する。一つひとつの症例を見る。一つひとつの研究を見る。そして、最後に残った疑問を行政と企業に突きつける。「あなたたちは、国民に本当の情報を十分に伝えたのか?」。私は、この問いを何度でも繰り返したい。そして、もし答えが「十分ではなかった」のであれば、それを認めることから始めればいい。医学の失敗を認めることは、医学を否定することではない。むしろ、医学を次の時代へ進めるために必要なことだ。そして、もし企業や行政が過去の判断について説明できるのであれば、堂々と説明してほしい。隠す必要はない。資料を公開すればいい。データを公開すればいい。研究結果を公開すればいい。反対意見も公開すればいい。そのうえで国民に判断させればいい。私は、その透明性を求めたい。なぜなら、医療は誰か一部の人間の所有物ではないからだ。医療は、患者のために存在する。そして、患者の身体は、患者自身のものである。

だから最後に、私はこう問いかける。新型コロナという未曾有の危機の中で、私たちは本当に「正しい医療」を選択したのか。それとも、恐怖と緊急性と巨大な利益の中で、「最も早く選択できた医療」を選んだだけだったのか。この答えを出すには、まだ時間が必要だ。だからこそ、調べ続けなければならない。そして次に見るべきなのは、ワクチンを作った企業だけではない。そのワクチンを購入した国家。承認した規制当局。政策を作った政府。情報を伝えたメディア。そして、世界規模で医療政策を動かした国際機関。巨大な医療システムは、一つの企業だけでは動かない。その背後には、もっと巨大なネットワークが存在する。そして、そのネットワークを追跡したとき、「医療は誰のために存在するのか」という本書最大の問いが、いよいよ姿を現してくる。

第5章 パンデミックの裏側――誰が情報を握っていたのか

1.WHO vs 中国 vs アメリカ――「真実」は誰のものだったのか

新型コロナウイルスをめぐる最大の謎は、いまだに完全には解決していない。ウイルスはどこから来たのか。最初の感染者は誰だったのか。いつ、人間への感染が始まったのか。武漢市場で動物から人間へ感染したのか。それとも、研究施設で何らかの事故が起きた可能性があるのか。そして何より重要なのは、「なぜ、これほど重要な情報が今も完全には公開されていないのか」という問題である。

私は、この問題を単純な「中国が悪い」という話にはしたくない。同時に、「WHOが世界のために正しい情報を発信していた」と無条件に信じるつもりもない。さらに、「アメリカが中国の嘘を暴いた正義の国だった」とするつもりもない。ここでは三者すべてを見る。中国。WHO。アメリカ。そして、それぞれが何を発表し、何を発表しなかったのかを見る。

まず中国である。中国政府は新型コロナウイルスの発生初期から情報を管理してきた。そのことについては、現在では国際的にも大きな問題として認識されている。米国議会の報告書などは、中国政府と共産党による情報統制、研究情報への制限、プロパガンダ、そして感染初期の情報公開をめぐる問題を厳しく批判している。報告書では、感染初期における「隠蔽と不作為」、その後の「秘密主義とトップダウン型の統制」が問題として指摘されている。また、中国で感染拡大を記録しようとした市民ジャーナリストなどが拘束・処罰された事例についても言及されている。

これは非常に重要な問題である。なぜなら、感染症の初期情報は人命に直結するからだ。最初の患者は誰だったのか。どこで感染したのか。どの動物と接触していたのか。どの地域で感染が広がっていたのか。医療従事者に何が起きていたのか。こうした情報が早く公開されれば、世界は早く対応できる。逆に情報が遅れれば、その分だけ世界の対応も遅れる可能性がある。だから私は、感染症に関する情報を国家機密のように扱うことには強い疑問を持つ。もちろん国家には安全保障上の機密がある。しかし、ウイルスの感染拡大は国境を越える。一国の情報管理が、世界中の人間の生命に影響する可能性がある。ここに国際社会の難しさがある。感染症の情報は、国家の所有物であると同時に、人類全体の安全に関わる公共財でもあると考えるべきではないだろうか。

そして、WHOである。WHOは世界保健機関として、各国から情報を集め、国際的な公衆衛生上の勧告を行う。新型コロナでは、WHOの発表が世界中の政府やメディアによって引用された。その影響力は非常に大きかった。WHOが何を言うかによって、各国の政策や国民の認識まで変化することがあった。だからこそ私は、WHOに対しても遠慮なく質問したい。「あなたたちは、どの情報を根拠に判断したのか?」。これは批判ではない。当然の質問である。

2021年、WHOと中国の専門家による合同調査団が中国で調査を行った。そして2021年3月に報告書が発表された。しかし、その後WHO自身が、さらに踏み込んだ調査の必要性を訴えることになる。WHO事務局長テドロスは、追加調査が必要だという立場を明確にした。そして2021年には、起源調査の次の段階として、より広範な調査を求めた。つまり、「最初の調査で全部分かった」わけではなかったのである。むしろ、分からないことが残った。

そして2025年6月、WHOのSAGO――新規病原体起源科学諮問グループ――は、COVID-19の起源について改めて報告書を公表した。その内容は、非常に興味深いものだった。WHOは、利用可能な証拠の重みとしては、人獣共通感染症、つまり動物から人間への感染を示す証拠が強いと評価した。しかし同時に、「ラボリークを排除できない」とも明言した。なぜなら、必要な情報が十分に提供されていないからである。ここに最大の問題がある。「ラボリークが証明された」わけではない。しかし、「ラボリークは完全に否定された」わけでもない。その理由の一つが、データ不足なのである。WHOによれば、中国側からは、パンデミック初期の患者に関する数百件のウイルス配列、武漢市場で販売されていた動物についての詳細情報、そして武漢の研究所で行われていた研究やバイオセーフティ条件についての情報が十分に提供されていない。2025年のWHO声明は、この点を明確に記録している。

ここで私は、一つの疑問を持つ。なぜ公開できないのか。もし本当に自然界から人間へ感染したのであれば、その証拠を徹底的に公開すればいい。市場で販売されていた動物。その動物から採取されたサンプル。患者のウイルス配列。感染経路。これらを公開すれば、世界中の研究者が検証できる。逆に、研究所が関係していないのであれば、研究所で行われていた研究内容や安全管理体制を公開すればいい。もちろん、安全保障上の機密情報まで無条件に公開する必要はない。しかし、人類史上最大級のパンデミックの起源に関わる情報まで、国家機密として永遠に閉ざすことが正しいのだろうか。私は疑問に思う。

そして、中国だけを批判して終わってはいけない。次にWHOを見る。WHOは本当に完全に中立だったのか。これも検証しなければならない。WHOは中国との協力なしには、武漢で調査を行うことができなかった。国際機関は、加盟国の協力を必要とする。中国の協力がなければ、中国国内のデータにアクセスできない。つまりWHOは、中国を強く批判すればするほど、必要な情報を得られなくなる可能性がある。ここに国際機関の構造的な弱点がある。科学的に正しいことを言いたくても、政治的に相手国との関係を壊せば調査そのものができなくなる。だからWHOは慎重になる。しかし、その慎重さが「中国に配慮している」と見られることもある。ここが非常に難しい。

そして私は、WHOについても「善」か「悪」かで判断するべきではないと思う。WHOにも限界がある。情報収集能力にも限界がある。加盟国との政治的関係にも制約がある。そして、何より重要なのは、「WHO自身が、まだ十分な情報を得られていない」と認めていることだ。2025年のWHO声明では、各国政府が持っている情報機関の報告についても言及している。WHOは世界各国の情報機関が作成したCOVID-19起源に関する情報の存在を認識している。しかし、それらの一部については、WHOやSAGOが報告書そのものや基礎データにアクセスできていない。

ここで、さらに奇妙な構造が見えてくる。中国には公開されていない情報がある。アメリカなどの政府にも公開されていない情報がある。WHOにもアクセスできない情報がある。つまり、「世界が一つになって真実を調べている」という理想とは程遠い。それぞれの国や組織が、それぞれの情報を持っている。そして、それぞれの政治的利益がある。

ここからアメリカを見る。アメリカ政府は早い段階から、中国に対して透明性を要求してきた。2021年、米国務省は武漢ウイルス研究所の研究者について、2019年秋に複数の研究者が体調を崩したとの情報を公表した。米政府は、その症状がCOVID-19や季節性疾患と一致する可能性があるとして、WHOに対して中国側への確認を求めた。この情報は世界的に大きな注目を集めた。しかし、ここでも注意が必要である。「米政府がそう言った」ことと、「その情報が完全に証明された」ことは同じではない。情報機関の情報には、公開できない情報源が存在する場合がある。だから一般の研究者が検証できない。ここにまた問題がある。

中国の非公開情報。アメリカの非公開情報。WHOがアクセスできない情報。この三つがぶつかっている。そして、一般市民はその一部しか見ることができない。私はここに「情報戦」という言葉が生まれる理由があると思う。中国は中国の立場を発信する。アメリカはアメリカの立場を発信する。WHOは国際的な立場から声明を出す。メディアは、それぞれの情報を報道する。そして国民は、その中から情報を選ぶ。しかし、その情報の大部分は、一般市民が直接検証できない。ここに恐ろしさがある。情報を握っている者が、物語を作れるからだ。中国は、「アメリカが政治利用している」と主張できる。アメリカは、「中国が情報を隠している」と主張できる。WHOは、「科学的証拠を待つべきだ」と主張できる。それぞれに一理ある。そして、それぞれに弱点もある。だから私は、この三者のどれか一つを「真実を語る側」と決めつけたくない。中国政府の情報統制は厳しく検証する。しかし、アメリカ政府の情報も検証する。WHOの発表も検証する。これが公平ではないだろうか。

そして、ここで2023年に起きた出来事は非常に重要である。2023年3月、WHOは、武漢の華南海鮮市場から採取された環境サンプルについて、これまで知られていなかった遺伝子データがGISAID上に一時的に公開され、その後アクセスが制限されたことを明らかにした。国際研究者がデータをダウンロードして分析したところ、SARS-CoV-2の遺伝子だけでなく、人間や複数の動物種のDNAも含まれていた。その中には、SARS-CoV-2に感染し得る動物として知られているアライグマ犬などのDNAも含まれていた。WHO/SAGOは、これだけではウイルスの起源を決定的に証明できないとした。しかし、感染した可能性のある動物が市場に存在していたことを示す追加情報として重要だと評価した。

ここで非常に重要なことが起きている。なぜ、そのデータがもっと早く公開されなかったのか。WHO事務局長は2023年3月、こうしたデータは「3年前に共有されるべきだった」と述べている。3年前。これは単なる時間の問題ではない。科学では、データが早く公開されれば、世界中の研究者が早く検証できる。逆にデータが遅れれば、研究も遅れる。そして、研究が遅れれば、世界の理解も遅れる。だから私は、感染症に関する情報を政治的な理由で閉ざすことに強く反対する。中国であろうが、アメリカであろうが、WHOであろうが、同じである。都合の悪い情報を隠すな。都合のいい情報だけを出すな。反対意見も公開しろ。元データを公開しろ。研究者が検証できるようにしろ。私は、それを要求したい。

ここで、もう一つ重要なことがある。「中国が情報を隠した」という主張だけでは、COVID-19の起源は決まらない。逆に、「市場に動物のDNAがあった」という事実だけでも、自然起源が完全に証明されるわけではない。そして、「武漢に研究所があった」という事実だけでも、ラボリークは証明されない。つまり、証拠は一つ一つ評価しなければならない。これこそが科学だ。私は、この本を「陰謀論の本」にしたくない。むしろ、「陰謀論と呼ばれている疑問の中に、事実として検証すべき問題がどれだけあるのか」を調べる本にしたい。ここは非常に大きな違いである。「ディープステートが全部仕組んだ」と言えば簡単だ。しかし、それを証明できなければ、それはただの物語である。

一方、「中国はWHOに初期患者の数百件の遺伝子配列を提供していない」という話なら、WHO自身が公表している。「市場の動物に関する詳細情報が十分提供されていない」。これもWHO自身が言っている。「武漢研究所の研究と安全管理について必要な情報が十分提供されていない」。これもWHO自身が認めている。「WHOは2025年時点でも自然起源とラボリークの双方を完全には排除していない」。これも公式声明に書かれている。ならば、私たちは堂々と質問できる。なぜ公開されないのか。誰が公開を止めているのか。公開できない理由は何なのか。公開された場合、誰にとって不都合なのか。そして、公開されない情報によって、世界の判断はどれだけ変わった可能性があるのか。ここから先は、陰謀論ではない。情報公開の問題である。国家安全保障の問題である。科学倫理の問題である。そして、人命の問題である。

私は、中国だけを責めるつもりはない。アメリカにも質問する。あなたたちは、本当にすべての情報を公開しているのか。情報機関が持つ資料のうち、国民に公開されていないものはどれだけあるのか。なぜWHOは、それらにアクセスできないのか。そしてWHOにも質問する。中国との関係を維持するために、情報公開への圧力が弱くならなかったか。2021年の調査で、国際調査団が本当に十分なデータへアクセスできたのか。なぜ2023年に新しい市場データが発見されたのか。なぜ2025年になっても、起源調査が終わっていないのか。この問いに答える必要がある。

そして中国にも質問する。なぜ初期患者の遺伝子配列をすべて公開しないのか。なぜ市場の動物についての詳細な情報を公開しないのか。なぜ研究所で行われていた研究内容やバイオセーフティ情報を、国際調査団が十分に検証できないのか。もし本当に何も隠していないのであれば、公開すればいい。世界中の研究者に調べさせればいい。それで自然起源が証明されるなら、それが一番いい。中国にとっても名誉なことではないか。しかし、情報が出てこない。だから疑問が残る。そして、疑問が残る以上、調査を終わらせるべきではない。ただし、疑問があることと、犯人が確定したことは違う。私はそこを明確に区別したい。ラボリークは可能性として残っている。しかし、現時点で決定的に証明されたわけではない。自然起源説には支持する証拠が存在する。しかし、それだけですべての疑問が解決したわけでもない。この「未解決」という状態こそ、今の現実なのだ。

そして私は、むしろそこに本当の問題があると思う。世界を止めたパンデミックだった。何百万人もの命が失われた。経済は破壊された。教育も止まった。家族も分断された。社会の仕組みまで変わった。それほど巨大な事件なのに、「結局、最初に何が起きたのか」という根本問題が完全には分かっていない。これは、人類として恥ずべきことではないだろうか。いや、分からないこと自体が恥なのではない。分からないなら、「分からない」と言えばいい。しかし、分からないことを分かったことにしてはいけない。そして、都合の悪い情報を隠してはいけない。これこそが、私がこの本で最も訴えたいことの一つである。WHOも。中国も。アメリカも。製薬企業も。政府も。研究機関も。すべて同じ基準で検証する。誰かだけを特別扱いしない。誰かだけを悪者にしない。そして、誰かだけを神様にしない。なぜなら、「権力を持つ者を疑う」という行為そのものは、陰謀論ではないからだ。それは民主社会における監視である。そして医学においても同じだ。医療が人間の生命を扱う以上、その情報を握る者には、より大きな透明性が求められる。

COVID-19は、医学だけの問題ではなかった。国家の問題だった。情報の問題だった。経済の問題だった。政治の問題だった。そして、「誰が世界に何を信じさせたのか」という問題でもあった。だから私は、ここから先、中国だけを見るのではなく、アメリカを見る。WHOを見る。製薬企業を見る。国際機関を見る。そして、そのすべてをつなぐ「情報」という巨大な権力を見る。パンデミックの本当の恐怖は、ウイルスだけではない。情報を持つ者が、世界の人間に「何を真実だと思わせるか」を決められることなのかもしれない。そして、その情報を誰が握っていたのか。誰が公開しなかったのか。誰が遅らせたのか。誰が政治的に利用したのか。この問いこそ、次に追わなければならない。

2.「権力者はワクチンを打たなかった」――あの噂は本当だったのか

新型コロナワクチンをめぐって、世界中に一つの奇妙な噂が広がった。一般国民にはワクチン接種を強く勧めている。しかし、その裏側にいる政治家、富裕層、巨大企業の経営者、有名人、そして「ディープステイト」と呼ばれる権力ネットワークの人間たちは、自分たちは接種していないのではないか。さらには、「テレビで注射をしているように見せているだけだ」「注射器に針がない」「中身はワクチンではない」「権力者には別の薬が用意されている」という話まで登場した。一時期、SNSを中心に猛烈な勢いで拡散された。

では、本当だったのか。結論から言えば、「権力者は誰も接種していなかった」という事実を裏付ける証拠は確認できない。むしろ、公開記録からは、接種した政治家や著名人が多数確認できる。しかし、ここで終わらせてはいけない。なぜなら、この噂が生まれた背景には、実際に「公開接種した人」と「接種したことを公表しなかった人」の両方が存在していたからである。つまり、「全員が打った」という話でもなければ、「誰も打っていない」という話でもない。そこには、もっと複雑な現実があった。

まずアメリカ政府を見る。2020年12月18日、当時の副大統領マイク・ペンスは、ホワイトハウスでCOVID-19ワクチンをテレビカメラの前で接種した。妻のカレン・ペンス、当時の米国医務総監ジェローム・アダムスも同時に接種した。ペンスは、ワクチンへの国民の信頼を高めることを目的として、あえて公開接種を行った。その後、ジョー・バイデンも公開の場で接種した。カマラ・ハリスも公開接種した。下院議長ナンシー・ペロシも接種を公表し、上院院内総務ミッチ・マコーネルも接種したと公表した。つまり、「アメリカの政治家はワクチンを打っていなかった」という一括した話は成立しない。

しかし、ここで一人の名前が出てくる。ドナルド・トランプである。トランプは、バイデンやペンスのように公開接種を行わなかった。そのため、「トランプはワクチンを信用していない」「トランプは接種していない」という噂が広がった。ところが、後になって状況が変わった。2021年3月、トランプ夫妻が2021年1月にホワイトハウスでワクチンを接種していたと報じられた。つまり、トランプは公開の場では接種しなかったが、実際には接種していた。ここは非常に興味深い。なぜ公開しなかったのか。そこには政治的な事情があった可能性がある。当時、共和党支持者の中にはワクチンに懐疑的な人も多かった。トランプ自身も、ワクチンをめぐる政治的立場が非常に複雑だった。そのため、接種したことを積極的に公表しなかったとしても不思議ではない。しかし、「公開しなかった」ことと、「接種しなかった」ことは全く違う。ここを混同すると、簡単にデマが生まれる。

そして、この問題はトランプだけではない。2020年末には、オバマ、ジョージ・W・ブッシュ、ビル・クリントンという歴代大統領経験者も、ワクチンへの信頼を高めるため、公開接種に協力する意思を示していた。さらに後には、オバマ、ブッシュ、クリントン、カーターらがワクチン接種を呼びかける公共広告にも登場した。そしてトランプ夫妻についても、ワクチンを受けていたことが報じられている。つまり、「政治家は裏では全員ワクチンを拒否していた」という物語は、少なくとも公開情報とは一致しない。

しかし、ここで私は別の疑問を持つ。なぜ、「権力者は自分では打っていない」という話が、これほど広がったのだろうか。その原因の一つは、公開接種そのものへの不信だったのではないかと思う。カメラの前で注射をする。しかし、一般人には薬液が見えない。針が一瞬しか見えない。注射器の構造もよく分からない。映像が切り取られる。そしてSNSに短い動画として投稿される。すると、「本当に注射したのか?」という疑問が生まれる。さらに別の動画が出てくる。「針が消えた」「注射器が違う」「キャップが付いている」「薬液が入っていない」。こうして、映像の一部分だけが切り取られ、「偽接種」という物語が形成される。もちろん、実際の映像の中には撮影角度や注射器の種類などによって、一般の人には分かりにくいものもある。しかし、「映像が分かりにくい」ことと、「偽接種だった」ことは同じではない。ここでも重要なのは証拠である。誰が接種したのか。いつ接種したのか。どの医療機関で行ったのか。医療記録は存在するのか。本人の証言はあるのか。第三者が確認しているのか。そこまで調べなければならない。

そして、もう一つ非常に面白い事件がある。ファイザーCEOアルバート・ブーラである。新型コロナワクチンを製造する巨大製薬企業のトップなのだから、「当然、自分はワクチンを打っているだろう」と普通は考える。ところが2021年、SNS上で、「ファイザーCEOはワクチンを打っていない」という投稿が大量に拡散した。その根拠として使われたのが、ブーラの過去のインタビューだった。彼は2020年12月のインタビューで、まだ自分は接種していないと説明していた。理由は、「自分は59歳で健康であり、最前線の医療従事者ではない」というものだった。当時はワクチンの供給量が限られており、医療従事者などを優先する接種方針が存在していた。ところが、その古いインタビューが2021年8月になって再び拡散された。「ファイザーCEO自身がワクチンを打っていない」という情報として広まったのである。しかし、実際にはその後、ブーラは2021年3月10日に2回目の接種を受けていた。つまり、「打っていない」という情報そのものが完全な捏造だったわけではない。当時は本当にまだ打っていなかった。しかし、その情報が数か月後に再利用されたことで、「今でも打っていない」という誤った意味に変わってしまった。

これは非常に重要なポイントである。情報は嘘だけで作られるのではない。「本当だった古い情報」が、「現在の情報」として再利用されるだけでも、人間は簡単に騙される。私はここに、現代の情報戦の恐ろしさを見る。嘘を作る必要すらない。古い事実を切り取ればいい。一部だけを見せればいい。日付を消せばいい。前後の文脈を消せばいい。それだけで、全く違う物語を作ることができる。これはワクチン問題に限らない。政治でも同じ。戦争でも同じ。経済でも同じ。そして医療でも同じである。だからこそ、情報には「いつの情報なのか」という時間軸が必要になる。誰が言ったのか。いつ言ったのか。その後、何が起きたのか。この3つを確認するだけでも、かなりの情報操作を見抜くことができる。

しかし、ここからが本当に重要である。「権力者は本当に接種していたのか?」という問題を、「だからワクチンは安全だった」という結論に使ってはいけない。逆に、「権力者は接種していなかった」という噂を、「だからワクチンは危険だった」という証拠にすることもできない。政治家が接種したかどうかと、ワクチンの安全性は別問題だからである。ここを混同してはいけない。例えば、トランプ夫妻が接種した。だから安全。これは論理的ではない。逆に、ある政治家が接種を公表しなかった。だから危険。これも論理的ではない。重要なのは、ワクチンそのもののデータである。副作用の発生率。入院リスク。死亡リスク。感染予防効果。重症化予防効果。年齢別のリスク。性別による違い。既往症による違い。そして長期的な影響。これらを調べなければならない。

では、「ディープステイトは接種しなかった」という話はどうなのか。ここについては、さらに慎重になる必要がある。まず「ディープステイト」という言葉自体が非常に曖昧である。具体的に誰を指すのか。どの組織を指すのか。どの人物がそのネットワークに属しているのか。その定義が一定していない。そのため、「ディープステイトの全員がワクチンを打たなかった」という命題を証明すること自体が難しい。誰がメンバーなのか分からないからだ。これは重要である。しかし、「だから権力ネットワークなど存在しない」と単純に結論づける必要もない。政府。情報機関。軍。大企業。金融機関。研究機関。国際機関。こうした巨大組織の間に、人間関係や利害関係が存在することは当然である。問題は、それを「ディープステイト」という一つの巨大な秘密組織として断定できるかどうかだ。

現時点で、COVID-19ワクチンについて、「ディープステイトがワクチンを利用して人口削減を計画し、権力者だけが接種を避けた」という主張を裏付ける信頼できる証拠は確認されていない。実際、2020年には「ディープステイト、中国、ファウチ、クリントン夫妻、ゲイツ、ソロスらが人口統制のためにCOVID-19を利用した」という主張も拡散したが、十分な証拠は示されていなかった。しかし私は、ここで話を終わらせる必要もないと思う。むしろ、「なぜこのような物語が生まれたのか」を調べるべきだ。なぜ国民は政府を疑ったのか。なぜ製薬企業を疑ったのか。なぜWHOを疑ったのか。なぜ政治家の接種映像まで疑われたのか。その背景には、単なる「陰謀論好き」だけでは説明できない何かがある。政府の説明が一貫しなかった。専門家の発言が後から変わった。政策が短期間で変化した。SNS上で情報が削除された。製薬企業が巨大な利益を得た。そして、一部の人間がワクチンによる健康被害を訴えた。こうした出来事が積み重なれば、「何か隠しているのではないか?」と考える人が出てくるのは不思議ではない。私は、その疑問そのものを笑うべきではないと思う。

ただし、疑問を持つことと、答えを決めつけることは違う。ここを区別する必要がある。「なぜ?」は自由である。しかし、「だから絶対にこうだ」には証拠が必要になる。私は、この線引きを本書では徹底したい。そして、むしろこの線引きをしたほうが、巨大な権力に対して強くなれる。例えば、「トランプはワクチンを打っていなかった」と言えば、事実によって簡単に反論される。しかし、「トランプは公開接種しなかったが、後にホワイトハウスで接種していたと報じられた」と言えば、記録に基づく事実になる。「ファイザーCEOはワクチンを拒否した」ではなく、「2020年12月には接種していなかったが、2021年3月には2回目を接種していた」と書く。このほうがはるかに強い。なぜなら、「デマではない」からだ。事実そのものが読者に疑問を投げかける。そして私は、この方法を本書の基本姿勢にしたい。権力者を批判する。しかし、嘘はつかない。企業を批判する。しかし、データを曲げない。政府を疑う。しかし、確認できない情報を事実とは書かない。陰謀論を紹介する。しかし、それを証明された事実とは扱わない。この姿勢なら、読者自身が判断できる。そして、読者に考えてもらうことこそ、本書の目的ではないだろうか。

新型コロナの時代、私たちは「誰を信じるか」を迫られた。政府を信じるのか。WHOを信じるのか。医師を信じるのか。製薬企業を信じるのか。SNSを信じるのか。インフルエンサーを信じるのか。政治家を信じるのか。しかし、本当に必要だったのは、「誰を信じるか」ではなかったのかもしれない。必要だったのは、「何を根拠に信じるのか」だったのではないか。この違いは大きい。

そして、ここから本書はさらに深いところへ進む。なぜなら、新型コロナをめぐって本当に巨大な力を持っていたのは、政治家一人でも、製薬会社一社でもないからだ。情報。データ。SNS。メディア。政府。国際機関。巨大企業。そして、人間の恐怖。これらが一つにつながった。人間は恐怖を感じると、情報を求める。情報が不足すると、物語を求める。物語が強烈であればあるほど、SNSで拡散する。そして、一度拡散された物語は、事実よりも強く人間の記憶に残る。「権力者は打っていない」「裏には秘密組織がいる」「政府は何かを隠している」。こうした言葉は、一度広がると消えにくい。しかし、その中には本当の情報もあれば、誤解もあり、完全なデマも混ざっている。だからこそ、一つずつ分解する。一つずつ確認する。そして、「本当だった」「間違いだった」「まだ分からない」と分類する。私は、それこそが情報社会における新しいリテラシーだと思う。

そして最後に、もう一度問いたい。権力者はワクチンを打たなかったのか。答えは、「全員が打たなかった」という証拠はない。むしろ、公開接種した政治家も多数存在する。一方で、公開接種をしなかった政治家も存在した。その中には後から接種していたことが確認された人物もいる。そして、古い情報が再利用され、「現在も接種していない」という誤った物語になったケースもある。つまり、「噂のすべてが嘘だった」とも言えない。「噂のすべてが真実だった」とも言えない。真実は、その中間にある。そして、その中間を調べることこそ、本書がやるべきことなのだ。医学の歴史を調べる。製薬企業を見る。政治を見る。国家を見る。WHOを見る。中国を見る。アメリカを見る。そして、「誰が何を言ったのか」だけではなく、「誰が何を公開しなかったのか」を見る。そこに、本当の意味での「医療の影」が存在するのかもしれない。

3.「消された情報」――コロナ禍で何がSNSから消えたのか

新型コロナが世界を襲ったとき、私たちはウイルスだけではなく、もう一つの見えない力とも戦うことになった。それは「情報」である。何を信じるべきなのか、何を疑うべきなのか、そして何をSNSに投稿していいのかという問題が、突然、世界中の人間の生活に入り込んできた。そして、その情報の流れを決める巨大な存在となったのが、Facebook、Twitter、YouTubeなどのソーシャルメディアだった。

感染症が広がる中で、誤った情報が人命に影響する可能性は確かにある。だから、SNS企業が危険なデマへの対応を強化すること自体には合理性がある。問題は、その「誤情報」を誰が決めるのかということだ。さらに、その判断に政府がどこまで関与していいのかという問題が残る。

2024年にアメリカ最高裁が扱ったMurthy v. Missouriでは、COVID-19や選挙をめぐる情報について、連邦政府関係者とソーシャルメディア企業が大量のコミュニケーションを行っていたことが記録された。原告側は、政府がSNS企業に圧力をかけ、憲法上保護される言論まで抑制させたと主張した。この裁判記録そのものが、政府とプラットフォームの間に相当量のやり取りが存在していたことを示している。

ここで私は、一つの線引きをしたい。政府がSNS企業に「危険な情報があります」と伝えること自体が、直ちに検閲になるわけではない。感染症の流行中に、政府機関が企業へ情報提供することには公共的な意味もある。しかし、情報提供と「削除しろ」という圧力の境界線が曖昧になった瞬間、問題は一気に深刻になる。

最高裁の記録には、2021年、ホワイトハウス関係者がFacebookにCOVID-19ワクチン情報について繰り返し対応を求めた経緯が記載されている。Facebookが独自に設定したルールだけではなく、政府側が「もっと対応すべきだ」と強く求めていたことが記録に残っている。さらにFacebook側が政府との関係悪化を避けようとし、要求に対応していった経緯も裁判記録に現れている。これは非常に重要な事実である。なぜなら、SNS企業は政府ではないからだ。FacebookやTwitterは民間企業であり、自社の利用規約を設定する権利を持っている。しかし、そこに政府が強い圧力を加えれば、「民間企業が自主的に削除した」のか、「政府からの圧力によって削除した」のかという境界線が分からなくなる。そして、その境界線こそ民主社会では重要になる。政府には国民の言論を直接禁止できる範囲に憲法上の制約がある。だから政府が直接削除を命じるのではなく、巨大SNS企業を通じて結果的に言論を抑制するとしたら、それはどこまで許されるのか。これは単なるコロナ問題ではなく、民主主義そのものに関わる問題になる。

最高裁の判決では、原告側が政府による違憲な圧力を争うための「原告適格」を満たしていないとして訴えが退けられた。つまり、「政府によるSNS検閲は合憲だった」と最高裁が認定したわけではない。逆に、「違憲だった」と最終判断したわけでもないのである。ここを本書では曖昧にしてはいけない。裁判所が判断していないことを、判断したかのように書けば、それは本書自身の信頼性を失わせる。だからこそ私は、公式記録に書かれているところまでを徹底的に追い、その先を「私はこう考える」と分けて書きたい。

では、具体的に何が問題になったのか。2021年、ホワイトハウス関係者はFacebookに対して、COVID-19ワクチンに関する投稿や「ワクチン忌避」を助長する可能性のある情報について、より積極的な対応を求めた。Facebook側は政府関係者と情報を交換し、どのような投稿が問題になっているのか、どのような対応をしているのかを説明していた。さらに裁判記録には、Twitterについても、2021年3月1日にホワイトハウスやHHS関係者との会合が行われ、その後Twitter側が「misleading information」への対応を強化すると説明した記録が残っている。つまり、Facebookだけではない。Twitterなど複数のプラットフォームが政府機関とCOVID-19情報について継続的に連絡を取っていた。

ここで私は、かなり強い疑問を持つ。政府が「これは危険な情報だ」と判断したとき、その判断は本当に正しかったのか。当時の科学は完成していたのか。2020年も2021年も、COVID-19については分からないことだらけだった。感染経路も、自然免疫も、変異株の性質も、ワクチンの長期的な効果も、現在ほど分かっていなかった。それなのに、ある時点で「誤情報」と分類された情報の中に、後になって再検討されるべきだったものは本当に一つもなかったのだろうか。ここは慎重に考える必要がある。「当時削除された情報は全部正しかった」とも言えない。同時に、「当時削除された情報は全部デマだった」とも言えない。科学は時間とともに更新されるからだ。医学の歴史を振り返れば、かつて正しいと考えられていた医学的常識が後に修正された例はいくらでもある。だから私は、「科学者だから正しい」「政府だから正しい」「SNSだから間違い」という単純な線引きには反対だ。科学とは、疑問を許すことで発展するものだからである。

そして、ここにSNS検閲の最大の危険がある。もし「現在の科学的コンセンサスに反する情報」をすべて削除してしまえば、その時点では少数派だった正しい仮説まで消してしまう可能性がある。もちろん、危険なデマを放置すれば人命が失われる可能性もある。だからこそ、削除という最も強い手段を使う前に、ラベル表示、出典提示、反論情報の表示など、より弱い手段を検討する必要があるのではないだろうか。私はここを非常に重要だと思っている。「嘘を消す」だけなら簡単だ。しかし、「本当に嘘なのかを誰が判断するのか」となった瞬間、問題は政治になる。そして政治になれば、権力が関与する。だからこそ、情報の管理は透明でなければならない。誰が削除を求めたのか。何を根拠に削除を求めたのか。どの投稿が対象になったのか。削除された後、その判断は再検証されたのか。異議申し立てはできたのか。そして、後になって判断が誤っていたと分かった場合、誰が責任を取るのか。これらが必要になる。

実際、Metaの内部文書やその後の調査からも、COVID-19関連コンテンツへの対応が極めて複雑だったことが分かっている。2024年に米ワシントンD.C.司法長官事務所が公表した調査では、Meta内部の研究資料などをもとに、同社のCOVID-19誤情報対策の透明性や有効性について問題が指摘された。そして2024年には、Metaのマーク・ザッカーバーグCEO自身が、2021年にバイデン政権の高官からCOVID-19関連コンテンツについて繰り返し圧力を受けたと米下院司法委員会に書簡で説明した。ザッカーバーグは、当時の対応について「政府の圧力は間違っていた」との趣旨を述べ、現在なら異なる判断をするものもあると振り返った。

ここまで来ると、私たちは一つの現実を認めなければならない。コロナ禍の情報空間では、政府。巨大SNS企業。医療機関。専門家。メディア。製薬企業。そして一般市民。これらが複雑に絡み合っていた。誰か一人がすべてを支配していた、という単純な構図ではない。むしろ、それぞれが自分たちの利益や責任を守ろうとした結果、情報の流れが一方向へ傾いていった可能性がある。政府は感染拡大を防ぎたかった。医療機関は患者を守りたかった。SNS企業は危険な情報を減らしたかった。製薬企業はワクチンを普及させたかった。メディアは社会不安を報道した。そして国民は、何を信じればいいのか分からなくなった。

私は、ここに「情報の善意による危険」が存在したと思う。悪意がなくても、結果として言論が狭くなることはある。政府が善意でSNS企業に情報提供をする。SNS企業が善意で危険情報を削除する。医師が善意で接種を勧める。メディアが善意でデマを批判する。それぞれ単独で見れば正しい。しかし、すべてが同じ方向へ動けばどうなるだろう。異論が入り込む余地がなくなる。そして、その異論が本当に間違っているのかを検証する機会まで失われる。私は、ここが一番怖い。「悪人がいるから危険」なのではない。善意の人間が全員同じ方向を向いたときにも、社会は危険になる。そして、コロナ禍ではその危険が現実になった可能性がある。

だから私は、「検閲は悪だ」と単純に言いたいわけではない。明らかな詐欺情報や、具体的な危害を引き起こす虚偽情報には対策が必要だ。しかし、「政府が危険だと判断したから削除する」という仕組みには強い警戒が必要だと思う。政府は万能ではない。専門家も万能ではない。企業も万能ではない。だから、情報を一つの組織に集中させてはいけない。異論を残す。反対意見を表示する。元データを公開する。研究結果を比較する。そして読者自身に判断させる。これが本来の科学と民主主義の姿ではないだろうか。

私は保守的な立場から、ここを特に強く考える。国家には大きな権力がある。だからこそ、その権力には限界を設けなければならない。「国民を守るため」という理由があれば、政府が情報空間まで管理していいということにはならない。感染症対策は重要だ。しかし、国民の思考まで統一する必要はない。政府が正しいと思う情報だけを国民に見せる社会は、民主主義ではなくなる危険がある。そして逆に、SNS上に何でも放置すればいいという話でもない。必要なのは、「誰が決めるのか」「どの基準なのか」「どんな証拠なのか」「誰が監査するのか」という透明な仕組みである。コロナ禍は、その仕組みが十分だったのかを私たちに突きつけた。

そして、ここでさらに恐ろしい問題が浮かび上がる。もし政府とSNS企業が情報を監視していたとして、その情報が「医学的な誤情報」だけではなかったとしたらどうなるのか。政治的な批判。政府への不満。ワクチン政策への反対。ロックダウンへの批判。学校閉鎖への批判。マスク政策への疑問。これらまで「誤情報」として扱われたとしたら、医学と政治の境界線はどこにあるのか。私は、この問いを避けるべきではないと思う。なぜなら、医学的な政策には必ず政治的な判断が入るからだ。どの程度の感染リスクを許容するのか。経済活動をどこまで止めるのか。学校を閉鎖するのか。高齢者を守るために若者へどこまで負担を求めるのか。これらは純粋な医学問題ではない。社会全体の価値判断である。だから、それを批判する国民の声まで医学的な「誤情報」として封じてしまえば、民主主義そのものが弱くなる。

私は、ここにコロナ禍の最大の教訓の一つがあると思う。ウイルスは人間の身体を攻撃した。しかし、情報統制は人間の判断力を攻撃する。身体への影響は検査できる。しかし、自由な議論が失われたことによる影響は数字にしにくい。だからこそ見落とされる。そして、見落とされるものほど危険なのである。

コロナ禍で何が正しかったのか。どの政策が必要だったのか。どの情報が誤りだったのか。そして、どの情報が「誤り」とされただけだったのか。これを今こそ検証する必要がある。そのためには、当時削除された投稿だけを見るのでは足りない。政府とSNS企業のメールを見る。内部文書を見る。裁判記録を見る。削除基準を見る。そして、その後の科学的知見と照らし合わせる。そうすれば、「当時は誤りと判断されたが、その後再評価された情報」がどれだけ存在するのかを調べることができる。それこそが、本当の意味での検証だと思う。

そして最後に、私はこう問いかけたい。コロナ禍で私たちは、ウイルスから身を守るために情報を制限した。では、その情報制限によって、私たちは何を失ったのだろうか。そして、誰が「真実」と「誤情報」の境界線を決めていたのだろうか。もしその境界線を決める者自身が間違っていたとしたら、誰がそれを訂正できるのか。これこそが、次に調べなければならない問題である。なぜなら、「情報を消す権力」は、「情報を作る権力」と同じくらい強いからである。

4.パンデミックで誰が儲けたのか――「人命」と「巨大ビジネス」の境界線

新型コロナが世界を襲った2020年、人類は一刻も早くワクチンを必要としていた。政府にとって最優先だったのは国民の生命を守ること、製薬企業にとっては一刻も早く安全で有効なワクチンを開発し、世界へ供給することだった。一見すると両者の目的は完全に一致しているように見える。しかし、そこには「公共の利益」と「企業の利益」という、決して同じではない二つの論理が存在していた。

ファイザーとBioNTechのCOVID-19ワクチンは、世界的な需要によって巨大な市場を形成した。ファイザーの2022年の年間売上高は約1,003億ドルに達し、そのうちCOVID-19ワクチン「Comirnaty」は約378億ドル、抗ウイルス薬Paxlovidは約189億ドルを売り上げた。一つの感染症に対する医薬品が、わずか数年で企業の年間売上高を大きく押し上げたのである。これは企業にとって歴史的な成功だった。

もちろん、利益を上げることそのものを悪とすることはできない。新薬の研究には巨額の費用が必要であり、失敗する研究も数多く存在するからだ。しかし、国家が緊急時に巨額の税金を投入して医薬品を購入し、その結果として企業が莫大な利益を得るのであれば、国民には「どのような契約が結ばれたのか」を知る権利があるのではないだろうか。

ここで重要になるのが、政府による事前購入契約である。アメリカ政府は2020年7月、ファイザーとBioNTechのワクチン候補について、1億回分を19億5,000万ドルで購入する契約を結んだ。さらにFDAによる承認・認可など一定の条件を満たした場合には、追加で5億回分を購入できるオプションも設定された。つまり、ワクチンが市場に広く普及する前から、国家が巨大な買い手として存在していたのである。私は、この仕組みそのものを否定するつもりはない。むしろパンデミックのような緊急事態では、政府が先に注文を出して企業の開発を支えることには合理性がある。問題は、「国家がリスクを負い、企業が利益を得る構造」がどこまで透明だったのかという点である。もし開発に失敗すれば企業はどうなるのか。ワクチンに重大な問題が見つかった場合、政府はどこまで責任を負うのか。副作用が発生した場合、患者への補償は誰が行うのか。そして、企業側にはどの程度の法的責任が残されていたのか。これらは単なる契約上の細部ではない。人間の生命に関わる問題である。

さらにEUでは、ファイザーとBioNTechとのワクチン契約をめぐって、欧州委員会とファイザーCEOとのテキストメッセージのやり取りが大きな問題になった。欧州オンブズマンは2022年、このメッセージへのアクセスを求めたジャーナリストの請求に対し、欧州委員会が適切な対応をしなかったとして「不適切な行政」を認定した。ここで重要なのは、「そのメッセージに必ず重大な秘密が書かれていた」と断定することではない。そうではなく、数十億ユーロ規模の公共契約に関係する情報について、なぜ十分な記録管理と透明性が確保されなかったのか、という問題なのである。

私は、ここに現代の医療行政の大きな弱点を見る。政府が企業と交渉する。企業が政府へ製品を供給する。政府は国民の税金で購入する。国民はその製品を使用する。そして、巨大な金額が動く。ならば、その過程は可能な限り公開されるべきだと思う。「緊急事態だから秘密」「企業秘密だから非公開」「外交上の理由だから公開できない」。これらには一定の合理性がある。しかし、それが積み重なれば、国民は最終的な判断材料を失ってしまう。そして、情報が見えなくなればなるほど、陰謀論が育つ。ここは非常に重要だ。陰謀論が生まれる最大の原因は、必ずしも「嘘を信じる人間」にあるとは限らない。情報が存在しない。説明が足りない。契約が見えない。意思決定の過程が分からない。その空白を、人間は想像で埋めてしまう。だから私は、政府や企業が本当に陰謀論を減らしたいのであれば、情報をもっと公開すべきだと思う。「何も怪しいことはありません」と言うだけでは足りない。契約書を見せる。金額を見せる。判断基準を見せる。リスク評価を見せる。そして、誰がどの判断をしたのかを公開する。それこそが最も効果的な陰謀論対策になる。

さらに、ワクチンの安全性についても同じである。緊急承認・緊急使用という制度は、通常の医薬品開発より短い期間で必要な医療製品を国民へ届けるために存在する。COVID-19ワクチンでは、膨大な資金と世界規模の研究体制によって、異例のスピードで開発が進められた。これは医学史上でも極めて特殊な出来事だった。ここで私は、一つの疑問を持つ。「早く作ること」と「十分に調べること」は、本当に両立できたのか。答えは単純ではない。開発期間が短かったから危険だった、と直結させることはできない。一方で、長期的な影響については、発売時点では当然まだ分からない部分が存在した。だからこそ、市販後の安全性監視が重要になる。そして実際に、心筋炎・心膜炎などの安全性シグナルが確認され、FDAは後に警告を更新した。つまり、医学は「最初に完全な答えを持っていた」のではない。データを集める。副作用を見る。新しい情報を分析する。必要なら警告を変更する。この繰り返しによって安全性評価を更新していく。

私は、ここを正直に国民へ伝えるべきだったと思う。「絶対安全」ではない。「現時点で確認されている利益とリスクはこれです」という説明である。しかし、パンデミックの緊張状態では、そんな複雑な説明よりも、単純なメッセージが求められた。「ワクチンを打とう」「命を守ろう」「社会を守ろう」。政治的には分かりやすい。メディアでも伝えやすい。しかし、人間の身体に関する問題は、本来それほど単純ではない。年齢によって違う。性別によって違う。基礎疾患によって違う。感染状況によっても違う。時期によっても違う。変異株によっても違う。ワクチンの効果も時間とともに変化する。だから、本当に必要なのは「全員に同じ答え」ではなく、「自分にとっての利益とリスクを判断できる情報」だったのではないか。

私は、ここを医療の基本に戻すべきだと思う。患者は数字ではない。「接種率80%」「接種率90%」という数字の裏側には、一人ひとりの人間がいる。その人間には、それぞれ違う身体がある。違う年齢がある。違う病歴がある。違う生活環境がある。そして、違う価値観がある。だからこそ、「国民全体の利益」と「個人の自己決定」のバランスが必要になる。ここを間違えると、医療は簡単に政治化する。政治化した医療は、さらに企業利益とも結びつく。企業は製品を販売する。政府は購入する。国民は使用する。メディアは必要性を伝える。医師は接種を行う。そして、すべてが同じ方向へ動く。この構造そのものが悪いわけではない。むしろパンデミックでは必要な協力だった可能性も高い。しかし、「全員が同じ方向を向いているから正しい」とは限らない。

だから私は、巨大企業ほど厳しく監視するべきだと思う。ファイザーだけではない。Modernaもそうだ。Johnson & Johnsonもそうだ。AstraZenecaもそうだ。巨大製薬企業は、世界の医療に大きな影響を与える。その力が大きければ大きいほど、透明性も大きくしなければならない。これは企業への敵意ではない。むしろ企業を健全にするための監視である。そして政府も同じだ。政府が企業を監視するだけでは足りない。政府自身も国民から監視されなければならない。誰が契約したのか。いくらだったのか。なぜその会社を選んだのか。競争入札だったのか。例外的な契約だったのか。副作用情報をいつ把握したのか。政策変更をいつ決定したのか。その判断には誰が関わったのか。これらを公開する。そうすれば国民は判断できる。そして、もし判断が正しかったのであれば、政府も企業も堂々と説明できる。逆に、問題があったのであれば、そこで初めて責任を問えばいい。

私は、「疑うこと」を悪いことにしたくない。疑問を持つ。資料を見る。数字を見る。反対意見を見る。そして自分で判断する。これが民主社会の基本だと思う。だからこそ、私はこの章でファイザーを単純に「悪」とは書かない。しかし、巨大な利益を得た企業だからこそ、「どれだけ儲けたのか」「どのような契約を結んだのか」「どのようなリスク情報を持っていたのか」「その情報をいつ公表したのか」「政府との関係はどうだったのか」を徹底的に調べたい。これはファイザーだけではない。WHOも調べる。アメリカ政府も調べる。中国政府も調べる。欧州委員会も調べる。そして、最終的には、「誰が一番得をしたのか」だけではなく、「誰が一番リスクを負ったのか」を見る。企業は利益を得る。国家は政治的責任を負う。医師は患者を診る。しかし、最終的に身体を差し出すのは国民である。だからこそ、「国民の身体を使った巨大な医療政策」には、最大限の透明性が必要になる。

そして、ここから本書はさらに一歩踏み込む。新型コロナをめぐって動いたのは、単なるワクチン市場ではない。政府。製薬企業。WHO。研究機関。大学。メディア。SNS。そして巨大な国際資金。これらが複雑に絡み合った。誰か一人がすべてを操ったと証明されたわけではない。しかし、「誰と誰がつながっていたのか」を調べる価値はある。なぜなら、巨大な資金が動けば、必ず人間関係が生まれるからだ。研究費が動く。寄付金が動く。政府契約が動く。企業との共同研究が動く。専門家が委員会に参加する。そして、その専門家が政策決定に関わる。これは必ずしも不正ではない。しかし、利益相反が存在する可能性があるなら、それを国民に公開する必要がある。私は、「利益相反がある=悪」とは考えない。むしろ、利益相反が存在するなら、「存在しています」と公開すればいい。そのうえで第三者が判断すればいい。隠すから疑われる。公開するから検証できる。これが私の考えだ。

そして、コロナ禍から私たちが学ぶべき最大の教訓は、「権力を信じるな」でも、「権力を疑え」でもない。もっと単純なものなのかもしれない。「権力には、説明させろ」である。政府にも説明させる。企業にも説明させる。WHOにも説明させる。専門家にも説明させる。そしてメディアにも説明させる。その説明を、国民が検証する。それこそが、本当の意味での民主主義ではないだろうか。

新型コロナは、世界を変えた。そして巨大製薬企業も、歴史的な利益を得た。それ自体を悪と決めつける必要はない。しかし、これほど巨大な利益と公共政策が同時に動いたのであれば、「その判断は本当に国民のためだったのか」という質問をすることは許されるはずだ。いや、質問しなければならない。なぜなら、医療の最終目的は、企業の利益でも、政府の成果でも、株価でも、接種率でもない。患者の生命だからである。そして、その原則を忘れた瞬間、医療は人間を救うための仕組みから、巨大な産業システムへと変わってしまう。その境界線はどこにあるのか。次は、「利益相反――医師・研究者・政府・製薬企業は、本当に独立していたのか」という、さらに深い問題へ入っていく。

5.利益相反――医師・研究者・政府・製薬企業は、本当に独立していたのか

新型コロナを振り返ると、私がどうしても気になることがある。それは、政府、製薬企業、研究機関、医師、専門家、国際機関、そしてメディアが、あまりにも短期間に同じ方向へ動いたことだ。もちろん、世界的な感染症だったのだから、同じ方向へ協力すること自体は不思議ではない。しかし私は、「協力」と「利害が一致すること」は、本当に同じ意味なのかと疑問を持っている。

例えば、政府はワクチンを必要としていた。製薬企業はワクチンを開発していた。研究者は研究資金を必要としていた。医療機関は患者を治療していた。そして国民は、政府と専門家から提示される情報を頼りに、自分自身の身体について判断していた。ここで私は、かなり単純な質問をしたい。この巨大な仕組みの中で、誰が誰を監視していたのか。企業は利益を追求する。政府は政策を成功させたい。研究者は研究を進めたい。医師は患者を救いたい。メディアは視聴者や読者に情報を届けたい。それぞれの目的は必ずしも悪ではない。しかし、それぞれの目的が重なったとき、そこに「利益相反」が発生する可能性がある。

私は、利益相反という言葉を聞くと、すぐに「不正だ」と考えるべきではないと思う。例えば製薬企業から研究資金を受け取った研究者が、その薬について研究すること自体は、直ちに不正ではない。問題なのは、資金提供の事実が十分に公開されているのか、研究結果に影響を与える可能性が適切に管理されているのかということである。つまり、「お金を受け取った=悪」ではない。しかし、「お金を受け取っているのに、それを隠している=非常に重大な問題になり得る」のである。

私はここを徹底的に調べたい。なぜなら、医療の世界では一般企業以上に利益相反が重要だからだ。普通の商品なら、気に入らなければ買わなければいい。しかし薬の場合、患者は病気という弱い立場に置かれている。「この薬を使わなければどうなるのか」という恐怖を抱えながら、医師の説明を聞くことになる。そして、医師から、「この治療が必要です」と言われたら、多くの患者はその言葉を信じる。当然である。患者は医学の専門家ではない。だからこそ、医師に信頼を寄せる。しかし私は、その信頼があるからこそ、医療側にはより高い透明性が必要だと思う。誰から研究費を受け取ったのか。どの企業と共同研究しているのか。どの製薬企業の顧問をしているのか。講演料を受け取っているのか。研究結果に企業側の関与があるのか。これらを公開して何が悪いのだろうか。むしろ、公開すればいい。私は、「隠さなければ疑われない」という発想には反対だ。逆である。公開すれば疑われても検証できる。そして検証できれば、疑惑を晴らすこともできる。ここが重要なのだ。

新型コロナでは、ワクチンの有効性や安全性について専門家がテレビや新聞、SNSなどで発言した。国民にとって、その専門家の言葉は非常に大きな影響力を持っていた。しかし、その専門家がどのような研究資金を受けていたのか。どの企業と関係があったのか。政府の委員会に参加していたのか。製薬企業との共同研究を行っていたのか。こうした情報まで一般国民が簡単に把握できたとは言い難い。私はここに大きな情報格差があったと思う。専門家は情報を持っている。企業も情報を持っている。政府も情報を持っている。しかし患者には、十分な情報がない。この状態で「専門家を信じてください」と言われても、私は少し違和感を覚える。信じるなと言っているのではない。信じるための材料を出してくれ、と言っているのだ。これは全く違う。

そして、ここから製薬企業の問題が出てくる。製薬企業は慈善団体ではない。株式会社である以上、利益を出さなければ存続できない。研究開発費を回収しなければならない。従業員の給与を払わなければならない。株主への責任もある。だから企業が利益を追求することは当然だ。私は企業が儲けること自体を批判しているのではない。問題は、「人命に関わる商品を扱う企業が、利益追求と安全性確保をどう両立するのか」という一点である。ここを曖昧にしてはいけない。新薬は売れれば売れるほど企業に利益をもたらす。しかし薬の場合、「売れること」と「患者にとって最善であること」が常に完全一致するとは限らない。この構造は、誰でも理解できるはずだ。だからこそ規制当局が存在する。FDAが存在する。各国の承認制度が存在する。倫理審査委員会が存在する。臨床試験の監視制度が存在する。つまり、社会は昔から、「企業だけに任せてはいけない」と考えてきたのである。ならば、巨大製薬企業と政府が密接に協力したパンデミックでは、なおさら監視が必要だったのではないか。私はそう思う。

そして、ここで「巨大製薬企業」という言葉が出てくる。ファイザー。モデルナ。ジョンソン・エンド・ジョンソン。アストラゼネカ。これらの企業は、COVID-19によって世界的な注目を浴びた。ワクチンは国家安全保障にも近い存在になった。政府は大量購入した。企業は大量生産した。医療機関は接種した。そして国民は接種した。これほど巨大な産業・行政・医療の連携は、近代史でも非常に特殊だった。私はここで、「だから全部裏で仕組まれていた」とは言わない。証拠がなければ、それは単なる物語だからだ。しかし、「これほど巨大な仕組みだったのだから、徹底的に監査しなければならない」とは言える。いや、私は言うべきだと思う。

そして監査の対象は企業だけではない。政府も監査する。研究者も監査する。国際機関も監査する。メディアも検証する。なぜなら、人間は権力を持つと間違えるからだ。企業だから間違える。政治家だから間違える。医師だから間違えない、ということもない。研究者だから絶対に間違えない、ということもない。人間である以上、誰でも間違える。だから科学には「再現性」と「第三者による検証」が必要になる。私はここを非常に重要だと思っている。科学とは、専門家を神様にすることではない。むしろ専門家の主張を、別の専門家が検証できる仕組みを作ることだ。だから、「有名な教授が言った」「政府が言った」「FDAが言った」「WHOが言った」だけでは終わらせてはいけない。では、その根拠は何なのか。データは公開されているのか。別の研究者が同じ結果を確認できるのか。反対する研究結果は存在しないのか。利益相反は公開されているのか。私は、これを国民が知る権利があると思う。

そして、コロナ禍で私が特に違和感を覚えるのは、「質問することそのもの」が問題視される場面があったことだ。ワクチンについて質問する。副作用について質問する。政府の政策について質問する。マスクについて質問する。ロックダウンについて質問する。学校閉鎖について質問する。こうした質問は、本来なら民主社会では当然の行為だ。質問された側が、「データを示します」と答えればいい。「現在の研究ではこうです」と説明すればいい。「その疑問についてはまだ分かっていません」と言えばいい。私は、これで十分だと思う。しかし、「そんなことを言うのは陰謀論者だ」「反科学だ」「社会に迷惑をかける」という形で質問そのものを封じてしまえば、逆効果になる。人間は疑問を持つ。疑問を禁止されれば、さらに疑う。そして、その空白に陰謀論が入り込む。私は、陰謀論を広げる最大の敵は「検閲」ではなく、透明性の不足だと思っている。情報を出す。データを出す。反論も出す。そして国民に判断させる。それが一番強い。本当に正しい情報なら、批判に耐えられるはずだ。本当に安全な薬なら、安全性データを公開できるはずだ。本当に正しい政策なら、根拠を説明できるはずだ。私はそう考える。

だから、医療業界にお願いしたい。「専門家だから信じろ」ではなく、「これがデータです。あなた自身で確認してください」と言ってほしい。製薬企業にも同じことを言いたい。「安全です」ではなく、「このリスクがあります。この利益があります。この研究があります」と説明してほしい。政府にも言いたい。「国民のためにやっています」ではなく、「この数字、この研究、この判断基準で政策を決めました」と説明してほしい。そしてメディアにも言いたい。「専門家がこう言っています」だけではなく、「反対意見はこうで、こちらのデータはこうです」と伝えてほしい。それで初めて、国民は自分で判断できる。私は、国民をそこまで信用していいと思う。国民は馬鹿ではない。数字を見せれば考える。複数の意見を見せれば比較する。事実を見せれば判断する。だから、情報を与えずに、「専門家を信じてください」と言う必要などない。私はむしろ、「国民に判断させろ」と言いたい。これが私の考えである。

医療は専門家だけのものではない。医療の最終的な当事者は患者だからだ。研究者が研究する。企業が薬を作る。政府が承認する。医師が処方する。しかし最後にその薬を自分の身体へ入れるのは患者本人である。だから、その患者には知る権利がある。質問する権利がある。断る権利がある。そして、もう一度考える権利がある。これを奪ってはいけない。私は、これこそ医療倫理の基本だと思う。

そして、ここからさらに踏み込む。利益相反を調べるとき、本当に重要なのは、「誰が悪いのか」ではない。「誰と誰が、どのような関係にあったのか」である。研究者と企業。企業と政府。政府と国際機関。研究機関と企業。メディアと専門家。そして、その間を流れる研究費、助成金、契約金、寄付金。これらを一つずつ確認していく。すると、巨大な医療システムの構造が見えてくる可能性がある。もちろん、金銭的な関係が存在したからといって、それだけで不正とは言えない。しかし、関係が存在するなら公開する。私はこれを最低条件にしたい。そして、もし公開されていなかったのであれば、「なぜ公開されなかったのか」を問う。

ここから先は、単なるワクチン論争ではない。医学と金。政治と金。研究と金。そして、人命と金。この四つの関係を考える問題になる。医療は人間を救う。製薬企業も人間を救う薬を作る。研究者も人間を救うために研究する。政府も国民を守るために政策を作る。私は、それを否定したいわけではない。むしろ、本当にそうであってほしい。だからこそ、「あなたたちは本当に患者を最優先しているのか?」と問い続けたい。この質問に怒る必要はない。患者から疑問を持たれたなら、データで答えればいい。企業からすれば面倒かもしれない。政府からすれば批判かもしれない。専門家からすれば不快かもしれない。しかし、それでも説明する。それが権力を持つ者の責任だと思う。

私は、コロナ禍を「全部正しかった」とも、「全部間違っていた」とも書きたくない。そんな単純な話ではないからだ。救われた人もいる。苦しんだ人もいる。利益を得た企業もある。負担を背負った人もいる。正しかった政策もある。後から修正された政策もある。そして、まだ分かっていない問題もある。だからこそ、私はこの本で、「分からないことを分からないままにしない」という姿勢を貫きたい。

そして最後に、巨大製薬企業、政府、研究者、医療機関、国際機関へ一つだけ言いたい。私はあなたたちを最初から悪と決めつけるつもりはない。しかし、「権力を持っているからこそ、疑われる覚悟を持ってほしい」と思っている。疑われたくなければ、データを公開すればいい。批判されたくなければ、説明すればいい。疑惑を晴らしたければ、第三者に検証させればいい。そして、本当に患者のために動いているのであれば、その透明性こそが、何より強い証明になるはずだ。

医療は、信仰ではない。企業も、宗教ではない。政府も、神ではない。専門家も、絶対者ではない。すべて検証されるべき存在である。そして私は、「疑うことのできる医療」こそ、健全な医療だと思う。疑問を許さない医療は、医学ではなく権威になる。権威になった医療は、患者から距離を置く。そして患者から距離を置いた医療は、いつか、「患者を救うための医療」という原点を忘れてしまうかもしれない。だから私は問い続ける。医療は誰のためにあるのか。企業のためか。政府のためか。研究者のためか。それとも、患者のためなのか。その答えは、次項でさらに深く追っていく。

6.研究費という見えない力――「誰のお金で医学は動くのか」

医学研究には金が必要である。新薬を開発するにも、臨床試験を行うにも、研究者を雇うにも、研究設備を維持するにも莫大な費用がかかる。だから政府は研究費を出し、大学は企業と共同研究を行い、製薬企業も研究機関へ資金を提供する。この構造そのものは、決して悪ではない。

むしろ私は、産学連携そのものを否定するつもりはない。大学だけでは巨大な研究費を用意できないこともあるし、企業だけでは基礎研究を長期間続けることが難しい場合もある。政府、大学、企業が協力することで、これまで治療できなかった病気に新しい治療法が生まれることもある。問題は、その関係が「透明なのか」という一点である。

研究者が企業から研究費を受け取る。その企業が販売する薬について研究する。その研究結果が政府の政策判断に影響する。そして、その政策によって企業の製品が大量に購入される。私は、この流れを見たときに一つの疑問を持つ。「誰のお金が、誰の判断を動かしているのか?」。もちろん、研究費を受け取った研究者が企業の言いなりになるという証拠にはならない。多くの研究者は、自分の研究結果を客観的に評価しようとしているだろう。しかし、人間である以上、金銭的関係が判断に影響する可能性を完全にゼロだと言い切ることもできない。だからこそ、利益相反を公開する制度が存在する。ここで私は、「利益相反があること」よりも「利益相反が見えないこと」のほうを問題にしたい。

例えば、ある専門家がテレビに出演して、「この薬は非常に有望です」と発言したとする。視聴者は、その人を医学の専門家として受け止める。しかし、その専門家が製薬企業から研究費や講演料などを受け取っていたらどうだろうか。それだけで発言が間違いになるわけではない。しかし、視聴者にとっては判断材料が一つ増える。私は、「この専門家にはこうした企業との関係があります」と最初から公開すればいいと思う。それで何が困るのだろうか。本当に研究結果が正しいのであれば、企業との関係が公開されても、その研究結果そのものは検証できる。逆に、企業との関係を隠す必要があるのであれば、なぜ隠す必要があるのかという別の疑問が生まれる。透明性とは、誰かを犯罪者にする制度ではない。誰でも検証できるようにする制度である。私は、この違いを非常に重要だと思っている。

そして、新型コロナでは、この問題が一気に巨大化した。世界中の政府がワクチン研究へ巨額の資金を投入した。米国では政府機関がワクチン開発・製造・購入を支援し、Operation Warp Speedによって短期間で研究開発と供給体制が構築された。これは通常の医薬品開発とは比較できないほどの国家的プロジェクトだった。ここで私は、もう一度問いたい。「緊急事態だからこそ、透明性はもっと必要だったのではないか?」。パンデミックでは時間がない。一刻も早く治療法が必要になる。ワクチンも必要になる。だから政府と企業が急速に協力する。これは理解できる。しかし、「急いでいた」という理由だけで、国民が判断材料を失っていいわけではない。むしろ緊急時だからこそ、「何を根拠に判断したのか」を残さなければならない。後から検証できるようにしなければならない。誰が決めたのかを記録しなければならない。私は、これが国家の責任だと思う。

そして企業にも同じ責任がある。「緊急事態だから秘密です」ではなく、「緊急事態だからこそ、ここまで公開します」という姿勢を見せてほしい。もちろん企業秘密まで全部公開する必要はない。特許に関わる情報や製造上の機密、個人情報などには保護が必要である。しかし、「安全性に関する情報」「臨床試験の結果」「重大な有害事象」「研究資金の関係」「政府との契約」など、国民の判断に関係する情報まで閉ざされるなら、私は疑問を持つ。そして、ここで重要なのは、「企業が儲かったから悪い」ではない。企業が儲かることは資本主義社会では当然である。問題は、「企業が儲かる仕組みと、公共政策がどのようにつながったのか」である。政府が大量購入する。企業が大量生産する。医療機関が接種する。国民が購入する。その結果として企業の売上が大きくなる。この構造が存在するのであれば、国民にはその全体像を知る権利がある。私は、ここをもっと公開すべきだったと思う。

そして、研究者にも問いたい。あなたの研究は誰から資金を受けているのか。その資金提供者は研究結果にアクセスできるのか。研究デザインに関与しているのか。論文の執筆に関与しているのか。否定的な結果が出た場合、それも公表されるのか。この最後の問題は特に重要だ。もし成功した研究だけが世の中に出て、失敗した研究が表に出なければ、社会は「成功した研究」だけを見て判断することになる。すると、「この薬は非常に有効だ」という印象が強くなる。しかし、実際には失敗した研究が大量に存在していたかもしれない。だから研究の世界では、ネガティブな結果も含めた透明性が重要になる。私は、「成功したデータだけを見せる医学」には強い警戒心を持っている。薬を開発する企業からすれば、成功した結果を宣伝したくなる。これは企業として当然かもしれない。しかし患者からすれば、知りたいのは成功例だけではない。失敗したケースも知りたい。副作用も知りたい。死亡例も知りたい。途中で中止された研究も知りたい。なぜ中止されたのかも知りたい。それを知ったうえで、自分が治療を受けるかどうか判断したい。私は、それが患者の権利だと思う。

そして、政府にも同じことを求めたい。政府は国民の税金を使って研究を支援する。ならば、その研究結果を国民が知る権利も当然あるはずだ。「税金で研究する」ならば、「結果も国民に返す」という考え方が必要ではないだろうか。これはコロナだけの問題ではない。がん研究でもそうだ。難病研究でもそうだ。新薬開発でもそうだ。医療機器でもそうだ。国家が支援する研究には、公共性がある。だから私は、研究費の流れをもっと可視化すべきだと思う。誰がいくら出したのか。どの研究機関へ流れたのか。誰が研究責任者なのか。企業との関係はあるのか。その研究結果は公開されているのか。こうした情報を一つのデータベースにまとめればいい。国民は、研究者の名前を検索する。すると、「この研究者はA社から研究費を受け取っています」「この研究者は政府委員会の委員です」「この研究者はB大学と共同研究しています」と表示される。それだけでも、透明性は大きく向上する。私は、この程度のことは技術的に十分可能だと思う。

そして、これをやれば陰謀論も減る。「裏で全部つながっている」という話が出てきたら、実際の関係をデータで確認すればいい。本当に関係があれば、「はい、関係があります」と示せばいい。関係がなければ、「ありません」と示せばいい。それだけでいい。私は、「隠して疑われるくらいなら、最初から公開してしまえ」と思う。これが私の基本的な考えである。

そして、もう一つ重要な問題がある。専門家が政府の政策決定に関与する場合だ。専門家は医学的な知識を持っている。だから政府は専門家を呼ぶ。専門家はデータを分析する。政府はその意見を政策に反映する。これは当然の仕組みだ。しかし、その専門家が同時に企業との経済的関係を持っていたらどうするのか。もちろん、それだけで排除する必要はない。むしろ、その専門家の知識が必要な場合もある。だからこそ、利益相反を公開したうえで参加させるという方法が考えられる。私は、「関係がある人間は全員排除しろ」という極端な考え方には反対だ。それでは、本当に優秀な研究者が政府から遠ざかってしまう可能性がある。必要なのは排除ではなく透明性だ。そして第三者による監視だ。さらに重要なのは、一人の専門家だけに依存しないことである。複数の研究者。複数の研究機関。複数のデータ。複数の意見。そして、それらを比較する。これが必要だと思う。一人の専門家が、「安全です」と言った。だから安全。一人の専門家が、「危険です」と言った。だから危険。こんな医学では困る。私は、「専門家の名前ではなく、証拠を見ろ」と言いたい。そして、証拠を見せることが専門家の責任だと思う。

コロナ禍では、一般国民が医学情報を理解することが難しかった。専門用語が多い。統計が難しい。研究論文は英語で書かれている。そのため、多くの人間はテレビやニュースの解説を頼りにした。ここにも情報格差がある。だからこそ、政府や専門家は、「専門家しか理解できない説明」ではなく、「一般人でも理解できる説明」をする必要がある。例えば、「相対リスクが95%減少しました」と言われても、一般の人には分かりにくい。100人中何人なのか。10万人中何人なのか。副作用は何人なのか。感染した場合は何人なのか。比較対象は何なのか。こうした数字まで説明して初めて、患者は判断できる。私は、「数字を簡単にすること」と「数字を隠すこと」は違うと思っている。難しい数字を、分かりやすく説明する。これが必要だ。そして、ここまでやって初めて、「国民に判断してもらう」ということが可能になる。

私は国民を信用していいと思う。国民は、自分の命に関することなら真剣に考える。だからこそ、情報を与えてほしい。判断材料を与えてほしい。選択肢を与えてほしい。そして、その選択を尊重してほしい。医療とは、患者を支配することではない。患者を救うことだ。そのためには、「あなたのためだから、黙って従ってください」ではなく、「これが現在分かっている情報です。あなたはどうしますか」という医療であるべきだ。私は、こちらのほうが人間らしい医療だと思う。

そして、コロナ禍を経験した今だからこそ、この仕組みを作り直す必要がある。政府。製薬企業。大学。研究機関。医師。専門家。メディア。SNS企業。それぞれが持っている情報を、可能な限り透明化する。そして、誰か一つの組織に情報を集中させない。私は、これが次のパンデミックへの最大の備えだと思う。ウイルスはまた現れるかもしれない。新しい感染症も起きるかもしれない。そのとき、私たちは再び恐怖の中に置かれる。そして政府は再び、「専門家を信じてください」と言うかもしれない。企業は再び、「新しい治療法があります」と言うかもしれない。メディアは再び、「今すぐ対策が必要です」と報道するかもしれない。そのとき私たちが必要とするのは、盲目的な不信ではない。盲目的な信頼でもない。必要なのは、「証拠を見せてください」と言える社会である。私は、それを要求したい。製薬企業にも。政府にも。WHOにも。大学にも。研究者にも。そして、私たち自身にも。誰かを信じるのではなく、証拠を信じる。肩書を信じるのではなく、データを見る。そして、データが変われば、自分の考えも変える。これが科学であり、これが自由な社会の最低条件ではないだろうか。

そして次に問題になるのは、「その研究データを、そもそも誰が所有していたのか」という問題である。企業が持っていたデータ。政府が持っていたデータ。WHOが持っていたデータ。そして、公開されなかったデータ。もし世界規模のパンデミックにおいて、「重要なデータを持つ者」が、「世界の判断そのものを左右できる」のであれば、データこそが新しい権力なのではないか。私は、次項でそこを追及したい。

7.データを握る者が世界を動かす――医学情報という新しい権力

新型コロナを振り返ると、私は一つの大きな疑問を持つ。それは、パンデミックを支配した最大の権力は、政治家でも製薬企業でもなく、「データ」そのものだったのではないかということだ。感染者数、死亡者数、陽性率、ワクチン接種率、重症者数、臨床試験結果など、世界中の人間が毎日のように数字を見せられた。しかし、その数字を最初に集め、分類し、分析し、そして「意味」を与えたのは一体誰だったのだろうか。

数字は嘘をつかない、とよく言われる。しかし、私は少し違うと思う。数字そのものは嘘をつかなくても、どの数字を選び、どの数字を見せ、どの数字を隠し、どの比較対象を使うかによって、そこから生まれる印象は大きく変わるからだ。同じ100人という数字でも、分母が1,000人なのか100万人なのかによって、その意味はまったく違う。だから私は、「数字を見る」だけでは足りず、「その数字がどのように作られたのか」まで見なければならないと思っている。

コロナ禍では、毎日のように感染者数が発表された。テレビ画面にはグラフが表示され、前日より増えた、過去最多になった、減少したというニュースが繰り返された。人々はその数字によって恐怖を感じ、政府はその数字を政策判断の材料にし、メディアはその数字をニュースとして伝えた。数字は単なる情報ではなく、社会を動かす力になったのである。私はここに、現代社会の新しい権力を感じる。「何が起きたのか」を決めるのは、必ずしも現場の人間ではない。誰がどのデータを集めるのかによって、世界の見え方そのものが変わる。感染者数を重視するのか、重症者数を重視するのか、死亡者数を重視するのか、それとも超過死亡を見るのか。どの指標を最も重要なものとして扱うかによって、同じパンデミックでも社会の判断は変わってしまう。

ここで私は、あえて極端な質問をしてみたい。「数字を支配する者が、社会を支配できるのではないか?」。これは陰謀論ではない。むしろ、現代社会を考えるうえで当然の問題だと思う。政府が政策を決めるにはデータが必要であり、製薬企業が薬を承認してもらうにもデータが必要であり、WHOが世界へ勧告を出すにもデータが必要になる。つまり、データを持つ者は、政策決定に影響を与える力を持っている。そして、そのデータの源泉が一部の組織に集中していたらどうなるだろうか。私は、そこに危険性があると思う。

もちろん、データを一元化することにはメリットもある。世界中の感染状況を統一した基準で把握できれば、感染症への対応は早くなる。医療機関同士で情報を共有することもできる。研究者が大量のデータを分析すれば、新しい知見を得られる可能性も高くなる。だからデータ共有そのものを否定する理由はない。問題は、そのデータを誰が管理し、誰がアクセスでき、誰が検証できるのかということである。例えば、ある国が感染者数を発表する。別の国が死亡者数を発表する。WHOが各国の数字を集計する。研究者がそのデータを分析する。そして政府がその分析結果を政策に利用する。この一連の流れのどこかに誤りがあった場合、その誤りが世界中へ拡散する可能性がある。

私は、だからこそ元データが重要だと思う。加工されたグラフだけではなく、そのグラフの元になったデータを見たい。発表された結論だけではなく、その結論を導き出した計算方法を見たい。研究論文だけではなく、可能な範囲で元となったデータセットも確認したい。そして、第三者が同じデータを使って再計算できる環境を作るべきだと思う。これが本当の意味での科学的透明性ではないだろうか。私は、「専門家を信用するな」と言っているのではない。むしろ、専門家を信用するためにも、検証可能なデータが必要だと言っている。本当に正しい研究であれば、第三者が検証しても同じ結論に近づくはずだ。逆に、誰にも検証できないデータを「専門家がそう言っているから」という理由だけで信じろと言われても、私は納得できない。

そして、ここに製薬企業の問題が入ってくる。新薬を開発する企業は、当然ながら臨床試験のデータを持っている。薬の有効性を示すデータも持っている。副作用についてのデータも持っている。そして、治験中に発生した有害事象についての情報も持っている。この情報は、企業にとって非常に価値が高い。なぜなら、それによって薬の承認が決まる可能性があるからだ。だから私は、医薬品については「企業が提出したデータを規制当局が審査する」という仕組みだけではなく、可能な限り第三者が検証できる仕組みを強化する必要があると思う。企業が悪いと言っているのではない。企業には企業の利益があるからこそ、第三者による監視が必要だと言っているのである。

これは製薬企業だけではない。政府にも同じことが言える。政府も大量のデータを持っている。感染者数、死亡者数、医療機関の情報、ワクチン接種状況など、一般市民がアクセスできない情報を持っている。国家安全保障や個人情報などの理由で公開できない情報が存在することは理解できる。しかし、それを理由に「政府が持っているから政府だけが判断すればいい」となってしまえば、国民は判断する材料を失ってしまう。私は、ここに民主主義の問題があると思う。民主主義とは、選挙で政治家を選ぶだけではない。国民が判断するための情報を持つことも重要だ。その情報が政府に独占され、国民には結果だけが知らされるのであれば、国民は政策を評価することができない。「専門家がこう判断しました」「政府がこう決めました」「安全性は確認されています」。これだけでは足りない。なぜそう判断したのか。どんなデータを使ったのか。反対するデータは存在しなかったのか。別の専門家はどう考えていたのか。これらを国民に説明する必要がある。

私は、情報公開こそが陰謀論を弱体化させる最大の方法だと思っている。何かを隠しているように見えるから、人間は疑う。契約書が公開されない。研究データが公開されない。政府とのやり取りが公開されない。会議記録が公開されない。そうすると、その空白を誰かが想像で埋める。「きっと裏で何かやっている」という物語が生まれる。もちろん、その想像が正しいとは限らない。しかし、情報がなければ否定することもできない。だから私は、「陰謀論者を黙らせろ」という考え方には反対である。そうではなく、「疑っているなら、データを公開して検証させればいい」と思う。これほど単純な話はない。本当に問題がなければ、データによって疑惑は消える。逆に問題があれば、データによって問題が明らかになる。どちらに転んでも、社会にとってはプラスである。ところが、データが公開されなければ、疑惑だけが残る。私は、この構造が非常に危険だと思う。

そしてコロナ禍では、さらにSNSという巨大な情報流通網が加わった。政府が発表する。メディアが報道する。SNSで拡散する。一般市民がコメントする。反対意見が投稿される。プラットフォームが削除・制限する。そして再び政府が情報を発信する。この巨大な循環の中で、一つの情報が数時間で世界中に広がった。これは過去のパンデミックには存在しなかった。スペイン風邪の時代には、SNSなど存在しなかった。テレビも現在のような24時間ニュースではなかった。インターネットもなかった。しかし2020年には、スマートフォン一台で世界中の情報を見ることができた。これは人類にとって革命だった。同時に、危険でもあった。正しい情報も一瞬で広がる。間違った情報も一瞬で広がる。政府発表も広がる。陰謀論も広がる。そして、どちらが正しいのかを判断する時間がない。

私はここに「情報の速度」という新しい問題を感じる。科学には時間が必要だ。研究には時間が必要だ。論文を査読するにも時間が必要だ。再現実験にも時間が必要だ。しかしSNSでは、数分で結論が求められる。「これは本当なのか?」「これは嘘なのか?」「この薬は効くのか?」「このワクチンは危険なのか?」。人々は答えを求める。しかし科学には、まだ答えがない。そこで人間は、最も分かりやすい情報を信じる。そして、最も強い言葉が勝つ。「絶対安全」「絶対危険」「完全にデマ」「政府は嘘をついている」。こうした極端な言葉は、複雑な医学情報よりも圧倒的に拡散しやすい。私は、ここに現代の医療情報の最大の問題があると思う。

本来、医学は、「現時点ではこう考えられています」「ただし、この点についてはまだ不明です」「この条件では効果が高いです」「この条件では副作用リスクがあります」という複雑な世界である。ところがSNSでは、その複雑さが削られる。そして、「安全」か、「危険」かの二択になってしまう。私は、この二択こそ危険だと思う。人間の身体は、そんなに単純ではないからだ。

そして、ここから本書の「医原病」というテーマに戻る。医原病とは、医療行為そのものによって発生する望ましくない結果を考える概念である。薬の副作用、医療処置による合併症、診断や治療の遅れなど、原因はさまざまである。だから医原病を考えるとき、「医療は悪だ」と単純化するのではなく、医療が持つ利益とリスクを同時に見る必要がある。

私は、ここで一つの考えを持っている。医学が発展すればするほど、人間は長生きできる。しかし医学が強大になればなるほど、その失敗の影響も大きくなる。昔なら一人の医師の判断が一人の患者に影響した。現在は違う。一つの薬が世界中で使用される。一つの政府方針が数億人に影響する。一つのWHO勧告が数十億人に届く。一つのSNS投稿が数百万人に拡散する。つまり、医療の力が大きくなった分だけ、間違えたときの被害も巨大になる。私は、ここを現代医療の最大のリスクの一つだと思っている。だからこそ、権力が集中してはいけない。データも一か所に集中させてはいけない。判断も一つの組織だけに任せてはいけない。政府が判断する。しかし第三者が検証する。企業が研究する。しかし独立研究者が再検証する。WHOが勧告する。しかし各国が独自に評価する。メディアが報道する。しかし国民も一次資料を見る。こうした複数のチェック機能が必要になる。

私は、「誰かを信じる社会」から、「誰でも検証できる社会」へ変えるべきだと思う。これは医療だけの話ではない。政治でも同じ。経済でも同じ。戦争でも同じ。そして、これからAIが社会の中心になれば、さらに重要になる。AIは大量のデータを瞬時に処理できる。しかし、AIに入力されるデータが間違っていれば、AIはその間違いを高速で拡散する可能性がある。つまり、これからの時代は、「AIが賢いかどうか」だけではなく、「AIが何をデータとして学習しているのか」が重要になる。データを支配する者がAIの判断に影響を与える。そしてAIの判断が人間の政策や医療に利用される。そうなれば、データ→AI→政策→医療→人間という巨大な循環が生まれる。私は、この未来を考えると少し怖くなる。だからこそ、今のうちに透明性のルールを作るべきだと思う。医療データを可能な限り公開する。研究方法を公開する。利益相反を公開する。政府と企業の契約を公開する。規制当局の判断理由を公開する。そして、反対意見を検証可能な形で残す。これをやらなければ、未来の人間は同じ問題を繰り返すだろう。

そして最後に、私はこう言いたい。私は医学を否定しているのではない。薬を否定しているのでもない。ワクチンを否定しているのでもない。むしろ、医学が人類に与えた恩恵は非常に大きいと思っている。感染症で死ぬ人間を減らした。手術によって命を救った。抗生物質によって多くの感染症を治療できるようになった。画像診断によって病気を早期発見できるようになった。そして、医学は今も進歩している。だからこそ私は、その医学を「疑ってはいけない聖域」にしてはいけないと思う。本当に優れた医学なら、批判に耐えられる。本当に安全な薬なら、データで説明できる。本当に正しい政策なら、根拠を公開できる。そして、本当に患者を第一に考えているのであれば、患者に質問する権利を与えられるはずだ。

私は、「医学を信じること」と、「医学を疑うこと」は矛盾しないと思っている。疑うからこそ確認する。確認するからこそ信頼できる。信頼するからこそ、間違いがあったときに修正できる。これが健全な医学ではないだろうか。データを隠す医療ではなく、データを公開する医療。疑問を封じる医療ではなく、疑問に答える医療。患者を数字として見る医療ではなく、一人の人間として見る医療。私は、そんな医療であってほしいと思う。そして、もしそれができないのであれば、医療の発展そのものが、いつか人間を救う力ではなく、人間を管理する力へ変わってしまうかもしれない。それこそが、私が「医原病」の先に見ている、本当の恐怖なのである。

8.WHO・アメリカ・中国――世界の医療情報を誰が握ったのか

新型コロナを考えるとき、どうしても避けて通れない存在がある。それがWHO、アメリカ、中国という三つの巨大なプレイヤーである。WHOは世界の公衆衛生に関する国際的な役割を担い、アメリカは世界最大級の医療・製薬・研究大国であり、中国は世界で最初に大規模な感染拡大が確認された国だった。この三者の情報と判断が、世界各国の政策に大きな影響を与えたことは間違いない。しかし、私はここで一つの疑問を持つ。世界中の人間が命を守るために頼った情報が、本当に完全に独立していたのだろうか。WHOにも国家との関係がある。アメリカにも自国の政治的・経済的利益がある。中国にも国家体制を守るという明確な事情がある。それぞれが異なる目的を持つ以上、発表される情報を無条件に「世界共通の真実」と考えることには慎重であるべきだと思う。

まず中国である。2019年末、中国・武漢で原因不明の肺炎患者が確認され、その後、新型コロナウイルスによる感染症であることが明らかになった。世界が知りたかったのは、「この病気は何なのか」「人から人へ感染するのか」「どれほど危険なのか」という極めて基本的な情報だった。ところが初期段階では、情報の公開や伝達をめぐって中国国内外でさまざまな議論が起きた。2020年1月には、中国当局が新型コロナウイルスのゲノム配列を公開し、世界の研究者がワクチンや診断方法の開発を進める重要な基礎情報となった。これは中国側の科学的貢献として評価すべき事実である。一方で、初期対応や情報公開をめぐっては国際的な批判も生じた。

私は、ここを「中国だから悪い」と単純化するつもりはない。国家には国家の事情があり、危機の初期には情報が不完全であることも当然だからだ。しかし、それでも国家には説明責任がある。特に感染症の場合、一つの国の情報が世界中の人間の命に影響する。だからこそ、情報を持つ国家には、可能な限り正確で迅速な情報公開が求められる。感染者数は何人なのか。死亡者数は何人なのか。人から人への感染は確認されているのか。どの地域で感染が発生しているのか。医療現場では何が起きていたのか。こうした情報が遅れれば、他国は正しい対策を取れなくなる。

そして、WHOである。WHOは世界保健機関として、各国から情報を集め、国際的な公衆衛生上の勧告を行う。新型コロナでは、WHOの発表が世界中の政府やメディアによって引用された。その影響力は非常に大きかった。だからこそ私は、WHOに対しても遠慮なく質問したい。「あなたたちは、どの情報を根拠に判断したのか?」。これは批判ではない。当然の質問である。WHOが世界へ勧告を出すのであれば、その根拠となったデータが重要になる。どの国から情報を得たのか。どの研究を参考にしたのか。どの専門家が関与したのか。その専門家にはどのような利益相反があるのか。反対する研究結果は検討されたのか。そして、判断が変わった場合には、なぜ変わったのか。これらを説明する責任があると思う。なぜなら、WHOは一企業ではないからだ。世界の公衆衛生に影響を与える国際機関だからである。影響力が大きければ大きいほど、説明責任も大きくなる。私は、この原則はどの組織にも例外なく適用されるべきだと思う。

そしてWHOを語るとき、どうしても中国との関係が議論になる。新型コロナ初期には、WHOの中国に対する姿勢について、各国や専門家からさまざまな批判が出た。一方で、WHO側にも「当時得られた情報に基づいて判断していた」という事情がある。ここでも私は、どちらか一方を最初から完全な善悪に分けるべきではないと思う。しかし、だからといって疑問を封じる必要はない。むしろ疑問を記録するべきである。WHOはいつ、どの情報を受け取ったのか。中国当局はいつ、何を報告したのか。WHOはそれをどのように評価したのか。その後、新しい情報が出たときに判断をどう修正したのか。この時間軸を追えば、少なくとも「誰が何を知っていたのか」という問題を検証できる。私は、ここに歴史研究の価値があると思う。「最終的に何が正しかったか」だけを見るのではなく、「その時点で誰が何を知っていたのか」を調べる。そうすれば、当時の判断が合理的だったのか、それとも明らかな失敗だったのかを後世の人間が評価できる。これはコロナに限らない。戦争でも政治でも金融危機でも同じである。

そして次にアメリカを見る。アメリカは新型コロナ対策において、非常に大きな役割を果たした。NIH、CDC、FDAなどの政府機関が研究、感染症対策、医薬品・ワクチンの規制に関与した。さらにOperation Warp Speedによって、ワクチンの開発・製造・供給を国家規模で支援した。その結果、極めて短期間でワクチンを実用化するための巨大なシステムが構築された。これは医学史上、非常に大きな出来事である。しかし、ここでも私は質問する。「政府と企業の距離は適切だったのか?」。アメリカ政府は製薬企業と協力した。政府は資金を投入した。企業は研究・開発・製造を行った。政府はワクチンを大量購入した。国民はそのワクチンを使用した。この巨大な仕組みの中で、政府と企業の利害が接近するのは当然だった。だからこそ、監視が必要になる。

私は、ここで製薬企業を最初から「悪」と決めつける必要はないと思う。製薬企業がなければ、ワクチンも薬も作れない。民間企業の研究開発能力は、人類の医療にとって非常に重要だ。しかし、企業が公共政策に大きな影響を与えるようになれば、そこには透明性が必要になる。例えば、政府との契約金額。研究資金。購入数量。契約条件。責任分担。副作用が発生した場合の対応。そして政府関係者と企業関係者の人的関係。これらは可能な限り国民に公開されるべきだと思う。なぜなら、その金は最終的に国民の税金だからである。

私は、「企業が儲けるな」とは思わない。むしろ企業が利益を上げることによって、次の研究が可能になる。新しい薬も作れる。研究者も雇える。設備投資もできる。だから利益そのものは悪ではない。問題は、「公共の危機によって生まれた巨大市場で、企業がどれほど利益を得たのか」を国民が確認できるかどうかである。そして、その利益に対して政府がどのような契約を結んだのか。その契約が本当に国民にとって最善だったのか。もっと安く購入できなかったのか。他の企業との競争は十分だったのか。契約交渉に問題はなかったのか。こうした質問をすることは、陰謀論ではない。民主主義である。私は、ここを強く主張したい。「政府を疑うな」という社会は危険だ。「企業を疑うな」という社会も危険だ。「WHOを疑うな」という社会も危険だ。逆に、「政府は全部嘘だ」「製薬企業は全部悪だ」「WHOは全部信用できない」という考え方も危険である。私は、どちらにも偏りたくない。必要なのは、「疑いながら調べる」ことだ。

そして、この考え方は「ディープステイト」という言葉を考える場合にも重要になる。新型コロナをめぐっては、「世界の政府、製薬企業、国際機関、金融機関、メディアなどが裏でつながっている」という主張が広がった。さらに、それを「ディープステイト」という巨大な秘密ネットワークに結びつける主張も存在した。私は、これを最初から事実として書くつもりはない。なぜなら、具体的な組織構造や指揮系統を証明する証拠が必要だからだ。しかし、「政府関係者と企業関係者に人脈がある」「政府と企業が契約を結ぶ」「研究機関と企業が共同研究をする」「国際機関に各国政府が資金を拠出する」という現実まで否定する必要はない。むしろ、これらは公開情報を使って調査できる。私は、陰謀論を否定するためにも、まず事実関係を調べるべきだと思う。本当に誰かがつながっているのなら、「つながっています」と書けばいい。ただし、「だから世界を裏から支配している」という結論には別の証拠が必要になる。この二つを混同してはいけない。

そして、ここが本書の重要なポイントになる。私は、読者に「この陰謀論を信じてください」と言いたいわけではない。逆である。「あなた自身で調べてください」と言いたい。WHOの資料を見る。アメリカ政府の資料を見る。中国政府の発表を見る。FDAの資料を見る。CDCの資料を見る。裁判記録を見る。企業の決算を見る。研究論文を見る。そして、それぞれを比較する。そうすれば、少なくとも一つの組織の発表だけを信じる必要がなくなる。私はこれが最も重要だと思う。一つの情報源だけを信じる社会は、非常に脆い。その情報源が間違えたら、社会全体が間違えるからだ。だから情報源を分散させる。複数の研究者を見る。複数の国を見る。複数のデータを見る。複数の意見を見る。そのうえで、自分の頭で判断する。私は、この「自分で判断する」という行為こそ、人間の最後の自由だと思っている。

そして、ここで私は、かなり強く言いたい。国民を子供扱いするな。「難しいから専門家に任せてください」だけでは駄目だ。国民には理解する権利がある。分からなければ説明すればいい。数字が難しければ、分かりやすく説明すればいい。データが複雑なら、専門家が解説すればいい。しかし、最後の判断まで政府や企業が奪ってはいけない。もちろん、緊急時には一定の制限が必要になることもある。しかし、その制限には期限が必要だ。根拠が必要だ。検証が必要だ。そして終了条件が必要だ。「非常事態だから仕方がない」という言葉を無期限に使ってはいけない。私は、これをコロナ禍から学ぶべき大きな教訓だと思っている。

非常事態には強い政府が必要になる。しかし、強い政府には、強い監視が必要である。強い企業にも、強い監視が必要である。強い国際機関にも、強い監視が必要である。権力が強ければ強いほど、「間違っていたら誰が止めるのか」という仕組みが必要になる。そして私は、この仕組みを「陰謀論対策」としても考えるべきだと思う。情報を公開する。契約を公開する。研究費を公開する。利益相反を公開する。意思決定の過程を公開する。そうすれば、疑惑が出てきても検証できる。逆に、情報を隠す。説明しない。記録を残さない。質問する人間を攻撃する。そうすれば、「何か隠しているのではないか」という疑いが生まれる。私は、この心理は非常に自然だと思う。だから、「陰謀論者が悪い」と決めつけるだけでは問題は解決しない。むしろ、「なぜそう疑われたのか」を考える必要がある。そして、その疑問にデータで答える。それが本当の説明責任だと思う。

新型コロナは、医学の問題であると同時に、情報の問題だった。中国から始まった情報。WHOが発信した情報。アメリカ政府が発信した情報。製薬企業が発信した情報。研究者が発信した情報。メディアが伝えた情報。SNSで拡散した情報。そのすべてが混ざり合った。そして人類は、その情報をもとに歴史的な判断をした。だから私は、この時代を後世の人間が徹底的に検証するべきだと思う。誰が正しかったのか。誰が間違っていたのか。誰が情報を持っていたのか。誰が情報を公開しなかったのか。そして、誰がその結果によって利益を得て、誰がその結果によって損失を受けたのか。これを調べなければならない。私は、「陰謀論だから調べない」という態度にも反対する。同時に、「陰謀論だから真実だ」という態度にも反対する。調べる。比較する。証拠を見る。そして、分からなければ、「分からない」と書く。私は、それが一番強いと思う。なぜなら、本当に恐ろしいのは、「知らないこと」ではない。「知らないのに、知っていると思い込むこと」だからである。

そして、コロナ禍で世界中の人間が直面した問題は、まさにそこにあったのではないだろうか。私たちは、「何を信じるべきなのか」を迫られた。しかし本当に必要だったのは、「何を根拠に信じるのか」を考えることだった。そのためには、データが必要だった。情報公開が必要だった。自由な議論が必要だった。そして何より、権力を持つ者が説明する必要があった。医療は、人間の命に直接触れる。だから医療に関わる権力は、政治権力以上に慎重に扱わなければならない。薬を作る企業。薬を承認する政府。情報を発信する国際機関。研究を行う大学。それぞれが巨大な力を持っている。だから私は、これからも一つずつ問い続けたい。誰が悪いのかではない。誰が、何を知り、何を決め、何を公開し、何を公開しなかったのか。そこを見ていく。そして、その先にあるのが、「医療の発展と、その影」なのだと思う。医学は人類を救ってきた。しかし、その巨大な力を誰が管理するのかという問題は、まだ終わっていない。むしろ医学が進歩すればするほど、その問題は大きくなる。だから私は問う。医療を支配するのは誰なのか。国家なのか。企業なのか。国際機関なのか。研究者なのか。それとも、最終的には患者自身なのか。この問いを、次章でもさらに掘り下げていきたい。

9.「予測されていたパンデミック」――偶然なのか、それとも準備されていたのか

新型コロナについて語るとき、必ずと言っていいほど出てくる疑問がある。それは、「なぜ世界は、これほど大規模なパンデミックに対して、ある程度の準備をしていたように見えたのか」という疑問である。パンデミック発生以前から、政府、大学、研究機関、国際機関、製薬企業などが、感染症の大流行を想定した訓練や研究を行っていたことは事実だ。しかし、それをもって「新型コロナが事前に計画されていた」と結論づけることはできない。ここは非常に重要である。

世界では過去にも、スペイン風邪、SARS、MERS、エボラ出血熱、インフルエンザなど、感染症による大規模な被害が発生してきた。その経験から、「次のパンデミックが起こるかもしれない」と考えることは当然だった。つまり、パンデミックを予測する研究が存在したこと自体は、陰謀の証拠ではない。むしろ何度も感染症被害を経験してきた人類にとって、次の感染症を想定することは合理的な危機管理だったとも言える。

それでも私は、ここで疑問を止めたくない。なぜなら、「予測していたこと」と「実際に起きたこと」の間に、どのような関係があったのかを調べることには意味があるからだ。いつ、誰が、どのようなパンデミックを想定していたのか。どの研究機関が、どのウイルスについて研究していたのか。どの企業が、その研究に関わっていたのか。そして、パンデミックが発生した後、誰がどのような対応を取ったのか。これを時系列で並べてみる。

私は、この「時系列」が非常に重要だと思う。陰謀論では、しばしば過去の出来事が一本の線につながれる。2015年にこの研究があった。2016年にこの会議があった。2017年にこの人物が発言した。2019年にパンデミックが起きた。そして2020年にワクチンが登場した。こう並べると、「全部最初から計画されていたのではないか」という印象が生まれる。しかし、時系列がつながっていることと、計画されていたことは同じではない。ここを混同すると、歴史研究は簡単に陰謀論へ変わる。例えば、消防署が火災訓練をしていた。その後、本当に火事が起きた。だからといって、「消防署が火事を起こした」とは言えない。パンデミック研究も同じである。「パンデミックを想定した研究が存在した」ことと、「パンデミックを起こした」ことの間には、巨大な論理的な距離がある。私は、この区別を本書では守りたい。

しかし一方で、「だから全部偶然だった」と簡単に終わらせるのも違うと思う。なぜなら、パンデミック研究の中には、危険な病原体を扱う研究も存在するからだ。ウイルスの性質を調べる。感染力を研究する。変異によって何が起きるかを調べる。ワクチン開発のために病原体を研究する。こうした研究は、医学の発展に必要な場合がある。しかし、研究には必ずリスクがある。研究室から病原体が漏れないのか。安全管理は十分なのか。研究者の教育は十分なのか。施設の監視体制は十分なのか。事故が起きた場合、誰が責任を負うのか。私は、この部分こそ真剣に議論するべきだと思う。「研究するな」ではない。「研究するなら、最高レベルの安全性と透明性を確保しろ」という話である。

そして、新型コロナの起源については、現在も世界的な議論が続いている。自然起源説と研究関連事故説の双方が議論されているが、起源について最終的な結論が確定しているわけではない。だから私は、「研究所から流出した」と断定するつもりはない。逆に、「自然界から発生したことが完全に証明された」と単純化するつもりもない。分からないものは、「分からない」と書く。これが本書の基本姿勢である。私は、この「分からない」と言える勇気こそ重要だと思う。なぜなら、権力を持つ人間ほど、断定したくなるからだ。政府は国民を安心させたい。企業は市場を安心させたい。専門家は自分の立場を守りたい。メディアは分かりやすい結論を求める。しかし科学は、「まだ分かりません」という答えを普通に出す。私は、この科学の姿勢をもっと尊重するべきだと思う。ところがSNSでは、「自然発生だ!」「研究所流出だ!」「全部陰謀だ!」「全部デマだ!」という極端な言葉が飛び交う。私は、どちらにも簡単には乗らない。なぜなら、本当に知りたいのは「気持ちのいい答え」ではなく、「確認できる事実」だからだ。

そして、ここで重要になるのが「Event 201」と呼ばれるパンデミックシミュレーションである。2019年10月、ニューヨークで、世界的なパンデミックを想定したシミュレーションが行われた。ジョンズ・ホプキンス健康安全保障センター、世界経済フォーラム、ビル&メリンダ・ゲイツ財団が関係したイベントで、架空のコロナウイルスによるパンデミックを想定した訓練だった。その約3か月後、現実世界で新型コロナウイルス感染症が大流行した。この時系列だけを見ると、「偶然にしては出来すぎている」と感じる人が出るのも理解できる。私も、これは調べる価値のある出来事だと思う。しかし、Event 201の存在だけを根拠に、「新型コロナは事前に計画されていた」と断定することはできない。なぜなら、世界の公衆衛生機関は以前からパンデミックシミュレーションを行っていたからだ。実際、Event 201側も、これは現実のCOVID-19を予測するものではなく、架空のシナリオを用いた訓練だったと説明している。つまり、「パンデミックを想定した訓練をした」こと自体は事実。しかし、「その訓練が現実のパンデミックを計画した証拠」という部分は、別途証拠が必要になる。ここを分けることが重要だ。

ただし私は、Event 201を「だから何でもありません」と片付ける必要もないと思う。なぜなら、その訓練が実際に何を議論していたのかを見ることには意味があるからだ。感染症対策。政府と企業の連携。情報共有。SNS上の誤情報。サプライチェーン。ワクチン。医療物資。こうしたテーマが、現実のCOVID-19で実際に大問題になった。だから私は、「なぜ2019年に、ここまで具体的な議論が行われていたのか」ではなく、「パンデミック以前から世界の専門家が、これらの問題をどの程度予測していたのか」という角度から見るべきだと思う。そうすれば、陰謀論ではなく危機管理の歴史として検証できる。

そして、ここで一つ面白いことが分かる。パンデミックは突然発生したように見えて、実際には世界中の研究者が長年、「いつか大きな感染症が来る」と警告していた。つまり、COVID-19そのものが予測されていたわけではなく、「大規模感染症がいつか起こる」という予測が現実になったとも考えられる。これは、地震研究と似ている。研究者が、「日本では巨大地震が起こる可能性があります」と警告する。その後、地震が起きる。だからといって、「研究者が地震を起こした」とはならない。予測と原因は別だからだ。私は、この違いをしっかり書いておきたい。

しかし、ここからさらに重要な問題が出てくる。もしパンデミックが予測されていたのであれば、「なぜ世界は十分に備えられなかったのか?」という問題である。マスクは不足した。医療物資も不足した。人工呼吸器も不足した。検査体制も国によって大きく異なった。病院は逼迫した。サプライチェーンも混乱した。世界中の国が混乱した。これほど以前からパンデミック対策が議論されていたのなら、なぜ実際のパンデミックではこれほど混乱したのか。私は、ここにこそ本当に追及すべき問題があると思う。「誰かがパンデミックを起こしたのか?」という話より、「パンデミックが起きると分かっていたのに、なぜ世界は十分に準備できなかったのか?」のほうが重要ではないだろうか。もし政府が何年も前からパンデミックを想定していたのであれば、医療物資を備蓄できたはずだ。研究体制を整備できたはずだ。検査能力を強化できたはずだ。医療従事者を増やす準備もできたはずだ。それなのに、現実には多くの国が混乱した。私は、ここを「陰謀」よりも「行政の失敗」という視点から調べるべきだと思う。なぜなら、行政の失敗なら改善できるからだ。誰かが悪意を持って計画したのであれば、その人物を探すしかない。しかし、「準備不足だった」「判断が遅れた」「情報共有が不十分だった」「国際協力が機能しなかった」のであれば、制度を直せる。私は、そのほうが社会にとって有益だと思う。

そして、ここで製薬企業の存在が再び登場する。パンデミックが起きれば、ワクチン需要が生まれる。治療薬需要も生まれる。診断薬需要も生まれる。医療機器需要も生まれる。つまり、パンデミックには巨大な経済市場が発生する。ここで、「誰かが儲かった」ことと、「誰かがパンデミックを起こした」ことを混同してはいけない。儲かったことは原因の証拠ではない。火事が起きて消防用品会社が儲かったからといって、消防用品会社が火事を起こしたとは言えない。これは当然の論理である。しかし私は、「儲かった企業ほど、その利益の構造を説明する責任がある」と思う。どれだけ売れたのか。政府からいくら受注したのか。研究開発費はいくらだったのか。公的資金はいくら入ったのか。利益はいくらだったのか。契約条件はどうだったのか。こうした情報を公開すればいい。それを見て国民が判断する。私は、そのほうが健全だと思う。

そして、ここで「ディープステイト」という言葉に戻る。この言葉がコロナ禍で頻繁に使われるようになった背景には、「国家の表側に見える政府だけでは説明できない力が存在するのではないか」という人々の疑問がある。官僚。情報機関。軍。企業。金融機関。研究機関。国際機関。こうした巨大組織が複雑につながっていること自体は不思議ではない。しかし、それを一つの秘密組織として、「すべてを裏から操っている」と断定するには証拠が必要だ。私は、ここを冷静に見たい。本当に存在する人間関係は調べる。本当に存在する資金の流れも調べる。本当に存在する契約も調べる。しかし、証拠のない指揮命令系統まで勝手に作らない。これが私の立場である。なぜなら、私は「陰謀論だから面白い」という本を書きたいわけではないからだ。読者が、「これは本当なのか?」と考えたくなる本を書きたいのである。そのためには、事実だけでは足りない。疑問が必要だ。反対意見も必要だ。そして、「まだ分からない」という部分も必要だ。私は、そのほうが読者に対して誠実だと思う。

そして、コロナ禍を振り返れば、最も大きな問題は、「誰がパンデミックを計画したのか」だけではない。「誰が危機を利用したのか」という問題もある。危機が発生した。政府が緊急措置を取る。企業が商品を供給する。メディアが情報を伝える。SNSが情報を拡散する。そして巨大な金が動く。この瞬間、「危機を利用して利益を得る者」が生まれる。これは必ずしも犯罪ではない。しかし、監視しなければならない。私は、ここを非常に重要だと思う。災害が起きたときに、被災者を助ける企業が利益を得ること自体は悪ではない。しかし、「被災者を助ける」という名目で、不当に高い価格を設定したり、政府との契約を利用して過剰な利益を得たりすれば、話は変わる。パンデミックも同じである。人命を救う薬を作った企業が利益を得ることは当然だ。しかし、その利益が公共資金によってどの程度支えられていたのかは、国民が知るべきである。私は、「利益を出すな」ではなく、「利益を出したなら、その仕組みを説明しろ」と言いたい。これが私の考えだ。

そして、ここまで調べてくると、一つの大きな構図が見えてくる。医学は巨大化した。製薬企業も巨大化した。国家の医療政策も巨大化した。国際機関も巨大化した。そして情報ネットワークも巨大化した。一つの判断が、何億人もの人間に影響する時代になった。これは人類にとって大きな進歩である。同時に、巨大なリスクでもある。昔なら一人の医師の判断で救える患者は限られていた。現在は、一つの治療法が世界中へ広がる。昔なら一つの政府の政策が影響する範囲も限られていた。現在は、SNSや国際機関を通じて一つの政策思想が世界中へ広がる。つまり、「医療の力」と、「情報の力」が合体したのである。私は、この組み合わせをこれからの時代最大のテーマの一つだと思っている。

医学が人類を救う。しかし、医学を動かす情報が間違っていたらどうなるのか。政策が間違っていたらどうなるのか。データが間違っていたらどうなるのか。企業の利益が政策判断に過度に影響したらどうなるのか。国際機関の判断が間違っていたら誰が修正するのか。そして、誰かが間違いに気づいたとき、その声を上げることができるのか。私は、ここに「医原病」の本質的な問題があると思う。医原病とは、単に薬の副作用だけではない。もっと広い意味で考えれば、「人間を救うために作られた医療システムそのものが、人間に予期せぬ被害を与える」という問題として考えることもできる。もちろん、これは医原病という言葉の一般的定義をそのまま広げるというより、本書独自の問題意識として扱うべきだろう。しかし私は、「医療が発展すればするほど、その力を監視する必要がある」という考えを強く持っている。

医学は人間を救う。だからこそ、その医学を疑う自由も守らなければならない。製薬企業は薬を作る。だからこそ、その企業を監視する仕組みが必要になる。政府は国民を守る。だからこそ、その政府に説明責任を求める必要がある。WHOは世界の健康を守る。だからこそ、その判断根拠を検証できなければならない。私は、これを「反医療」と呼ばれることを恐れない。むしろ逆だ。医療を本当に守りたいからこそ、医療に透明性を求める。医療を本当に信頼したいからこそ、疑問を持つ。医師を本当に尊敬しているからこそ、患者との関係を大切にしてほしいと思う。そして、「医学だから正しい」ではなく、「医学だからこそ検証できる」という社会にしたい。

新型コロナは、人類に多くのものを残した。命を失った人。家族を失った人。仕事を失った人。生活を失った人。そして、医療への信頼を失った人。一方で、医学は驚異的な速度で研究を進めた。ワクチンを開発した。治療法を改良した。診断技術も進歩した。つまり、コロナ禍は「医学の光」と「医学の影」を同時に見せたのである。私は、その両方を書く。光だけを書けば宣伝になる。影だけを書けば告発になる。その両方を並べて初めて、歴史になる。だから私は、最後まで問い続けたい。

あのパンデミックは本当に偶然だったのか。それとも、人類が長年警告してきた危機が、たまたま現実になっただけなのか。誰かが計画したのか。それとも、誰も計画していなかったのか。その答えは、現時点では断定できない。だからこそ、調べる。資料を読む。数字を見る。証言を比較する。政府文書を見る。企業資料を見る。研究論文を見る。そして、事実と推測を分ける。私は、それをやりたい。なぜなら、本当に恐ろしいのは、「陰謀があること」だけではないからだ。もっと恐ろしいのは、「何が起きたのかを検証できない社会」である。そして、もし次のパンデミックが起きたとき、私たちは再び同じ質問をするだろう。誰を信じればいいのか。何を信じればいいのか。誰が情報を持っているのか。誰が情報を隠しているのか。そして、誰がその危機によって利益を得ているのか。そのとき、私たちは今回と同じ過ちを繰り返すのか。それとも、コロナ禍で得た教訓を生かして、「すべて公開してください」と政府と企業に要求できる社会になっているのか。私は後者であってほしい。そして、そのためにも、過去を忘れてはいけない。医学の発展を讃えるだけでもいけない。医学の失敗だけを糾弾するだけでもいけない。光と影の両方を見る。それが、「医原病――医療の発展と、その影」という本を作る意味なのだと思う。

10.パンデミック長者――危機の裏側で巨額の富を得た者たち

新型コロナによって、世界中で何百万人もの人間が命を失い、さらに数え切れないほどの人間が仕事、収入、生活、自由を失った。しかし、その同じ時間に、莫大な利益を手にした企業や投資家も存在した。私はここで、「儲かったから悪い」と言いたいわけではない。むしろ問題にしたいのは、世界最大級の危機が発生したとき、どの企業にどれほどの資金が流れ、誰がその恩恵を受けたのかということである。

パンデミックでは、経済活動そのものが消滅したわけではなかった。人間が消費する場所が変わったのである。レストランへ行かなくなれば宅配サービスが伸びる。店舗へ行かなくなればECが伸びる。会社へ行かなくなればオンライン会議が伸びる。映画館へ行かなくなれば動画配信が伸びる。そして感染症への恐怖が高まれば、ワクチン、治療薬、検査、医療用品などの巨大市場が発生する。つまり、パンデミックとは経済を完全に止める出来事ではなく、「金の流れる方向を強制的に変える出来事」でもあったのである。私は、この視点が非常に重要だと思っている。なぜなら、世界中の人間が「経済が止まった」と感じている裏側で、別の市場には前例のないほどの資金が流れ込んでいたからだ。その資金の流れを追えば、パンデミックのもう一つの顔が見えてくる。

その代表例の一つがUber Eatsである。Uberはもともと配車サービスを中心とした企業だったが、2020年には新型コロナによる外出制限によって人々の移動が急減した。ところが、人間が外出しなくなればなるほど、自宅まで食事を届けてもらう需要は高まった。Uberの2020年のDelivery売上は39.04億ドルとなり、2019年の14.01億ドルから179%増加したのである。さらに2021年になると、UberのDelivery売上は83.62億ドルまで拡大した。2020年からさらに114%増加しており、Uber自身もCOVID-19による在宅需要が食事配送の注文増加を押し上げたと説明している。これは単なる「便利なサービスの成長」ではない。人類の生活様式そのものが変えられ、その変化を巨大なプラットフォーム企業が取り込んだ結果なのである。

そして、ここで私は孫正義氏とソフトバンクグループの存在に注目したい。「Uberの持ち主は孫正義だ」という表現は正確ではないが、ソフトバンクグループは2018年、Uberの筆頭株主として15%の議決権を持つに至り、取締役2名を派遣し、累計約8,000億円を投資したと公表している。つまりUberを考えるとき、ソフトバンクグループという巨大投資家の存在を無視することはできない。私はここで、さらに一歩踏み込みたい。「誰がUberを持っているのか」ではなく、「誰が巨大な企業の株主として、その成長の恩恵を受ける立場にいたのか」を見るべきではないだろうか。株主、投資ファンド、機関投資家、創業者、経営陣――企業が成長すれば、その周辺にいる人間や組織にも富が流れる。パンデミックを理解するには、会社の売上だけではなく、その先にある資本の流れを見る必要がある。

ただし、ここでも私は慎重でありたい。UberのDelivery事業が爆発的に成長したことは事実だが、Uber全体が2020年に黒字化したわけではない。同年のUber全体の売上高は111.39億ドルで前年比14%減、純損失は約68億ドルだった。つまり「Uberはコロナで大儲けした」という一言では、実態を正確に表現できないのである。しかし、それでも重要なのは、企業の中で「勝った部門」と「負けた部門」が同時に存在したことだ。配車は落ち込んだ。Deliveryは急成長した。つまりパンデミックは、企業を一括して勝者や敗者にしたのではなく、巨大な企業の内部まで作り変えたのである。私は、この「資金の移動」こそパンデミック経済を理解する鍵だと思っている。

そして、さらに分かりやすい例が製薬企業である。新型コロナが世界を覆ったことで、ワクチンは世界最大級の公共需要となった。政府は大量購入し、製薬企業は大量生産し、国民は接種する。そこには通常の医薬品市場とは比較できないほど巨大な公的資金と需要が存在した。そして、その恩恵を最も強烈に受けた企業の一つがModernaだった。Modernaは2021年、COVID-19ワクチンによる製品売上だけで約176.75億ドルを計上した。2020年の製品売上は約2億ドルだったため、わずか1年で異常な規模の市場へ成長したことになる。同社は2021年だけで約3億3,200万回分を米国政府へ、約4億7,500万回分を他国政府へ供給し、さらに2022年・2023年向けに約206億ドルの供給契約を締結していたと報告している。

この数字を見ると、私はどうしても考えてしまう。「パンデミックという人類史上の危機が、一企業を一気に世界的な巨大製薬企業へ押し上げたのではないか」と。もちろん、これは「だからModernaがパンデミックを起こした」という意味ではない。利益が発生したことと、危機を意図的に発生させたことは全く別問題だからだ。しかし、危機によって誰の売上が急増したのかを調べることには、大きな意味がある。

そしてPfizerも外せない。PfizerのCOVID-19ワクチン「Comirnaty」は2022年に約378.06億ドルの売上を記録した。これは一つの製品として考えれば、極めて巨大な金額である。しかもその背景には、各国政府による大量購入と、世界規模の接種政策が存在していた。

私はここで、製薬企業を「悪」と決めつけたいわけではない。むしろ逆である。これほど巨大な市場を短期間で供給できたのは、民間企業の研究開発能力があったからでもある。企業が利益を得ること自体は資本主義社会では当然だ。問題は、「どれほど公的資金が投入され、どれほど企業が利益を得て、どのような契約が結ばれたのか」を国民が十分に知ることができたのかという点である。私はここを徹底的に調べるべきだと思う。企業はいくら売ったのか。政府はいくら払ったのか。研究開発にはいくら公的資金が投入されたのか。企業自身はいくら負担したのか。株主にはどれだけの価値が生まれたのか。そして、その利益の一部は次の研究開発へどれだけ戻されたのか。これらを全部数字で見ればいい。「製薬企業が悪い」「政府が悪い」「陰謀だった」と最初から結論を決める必要などない。数字を並べればいい。私は、数字ほど冷たいものはないと思う。しかし同時に、数字ほど強い証拠もないと思う。感情ではなく数字を見る。肩書ではなく契約を見る。宣伝ではなく決算を見る。そうすれば、少なくとも議論の土台を作ることができる。

そして、パンデミック長者を考えるうえでは、企業だけを見ても足りない。その企業の株主を見る必要がある。企業の株価が上昇すれば、株式を保有する投資家の資産価値も変化する。創業者や経営者、大株主、投資ファンド、機関投資家――巨大企業の周囲には、多くの資本が存在する。私は、ここまで追跡して初めて「誰がパンデミックによって富を増やしたのか」が見えてくると思う。

そして、ここで私は一つの線を引きたい。「パンデミックで利益を得た」ことと、「パンデミックを起こした」ことは全く違う。この二つを混同すれば、陰謀論になってしまう。しかし逆に、「利益を得た企業について調べること自体が陰謀論だ」という考え方も私はおかしいと思う。利益の流れを調べるのは経済分析であり、企業活動の検証であり、歴史研究でもある。むしろ、巨大な公的資金が動いた以上、国民がそれを調べるのは当然の権利だと思う。

私は、ここで「パンデミック長者」という言葉をあえて使いたい。それは誰かを犯罪者扱いするためではない。危機の中で富がどこへ移動したのかを考えるためである。誰が富を失ったのか。誰が富を得たのか。どの業界が崩壊したのか。どの業界が急成長したのか。政府の支援金はどこへ流れたのか。そして、その結果として世界の富の分布はどう変わったのか。これを数字で見る。これが重要だ。

例えば、飲食店の経営者が店を閉めざるを得なかった一方で、宅配プラットフォームの需要が急増した。旅行会社が売上を失う一方で、オンラインサービス企業が成長した。映画館が閉鎖される一方で、動画配信サービスの利用が拡大した。街の小売店が苦しむ一方で、EC企業が巨大化した。これは単なる景気変動ではない。人間の生活そのものが、「リアル」から、「オンライン」へ強制的に移動したのである。そして、この変化によって巨大企業がさらに巨大になった。私は、この構造を非常に重要だと思っている。なぜなら、パンデミックが終わった後も、その変化の一部が元に戻らなかったからだ。人々は宅配の便利さを覚えた。オンライン会議を覚えた。ネット通販を覚えた。キャッシュレス決済を覚えた。動画配信を覚えた。そして、企業側もデジタル化を一気に進めた。つまり、パンデミックは単なる一時的な危機ではなく、巨大な社会実験のような側面も持っていた。

ここで私は、少し強い言葉を使いたい。「人類史上最大級の危機が、同時に人類史上最大級の市場再編を引き起こした」のである。これは陰謀ではない。確認できる経済現象である。だからこそ、私は調べたい。その再編によって、誰が勝ったのか。誰が負けたのか。誰が資産を増やしたのか。誰が市場を失ったのか。誰が新しい市場を手に入れたのか。そして、その巨大な変化を予測していた人間は誰だったのか。ここまで来ると、「パンデミック長者」というテーマは単なる金持ちランキングではなくなる。それは、「危機によって世界の富がどの方向へ移動したのか」を調べるテーマになる。

私は、ここに医原病という本の「影」があると思う。医学は人間を救う。ワクチンは感染症から人間を守る。薬は病気を治療する。医療技術は人類の寿命を延ばす。その一方で、医療が巨大な産業になれば、そこには巨大な市場も生まれる。そして巨大な市場には、巨大な利益が発生する。利益が悪なのではない。問題は、「人命と利益の境界線を誰が管理するのか」ということである。

私は、この問いから逃げたくない。むしろ、ここから先が本番だと思っている。パンデミック長者を調べれば、企業の売上が見える。企業の売上を調べれば、政府契約が見える。政府契約を調べれば、公的資金が見える。公的資金を調べれば、研究開発の構造が見える。研究開発を調べれば、大学、研究者、企業、政府の関係が見えてくる。そして、その先には、「誰が医療政策に影響を与えていたのか」という問題が現れる。私は、そこまで追う。ただし、証拠がなければ断定しない。関係があるなら関係があると書く。投資しているなら投資していると書く。利益が増えたなら数字を書く。契約が存在するなら契約を書く。そして、その事実から何を感じるかは読者に委ねる。ただし、私自身の考えは隠さない。

私はこう思う。人命を守るための仕組みが巨大化するほど、その仕組みから利益を得る者に対する監視も強くしなければならない。これは企業への敵意ではない。政府への敵意でもない。医療への敵意でもない。むしろ、医療を守るための監視である。そして私は、もう一つ思う。パンデミックで誰かが金持ちになったことよりも、「なぜその人たちが、その市場にこれほど早くアクセスできたのか」のほうが重要なのではないか。危機を予測していたのか。たまたまだったのか。以前から投資していたのか。政府との関係があったのか。研究機関との関係があったのか。単純に経営判断が優れていただけなのか。この違いを調べる。そして、その答えを数字と資料で読者に示す。それが、この本で私がやりたいことだ。

パンデミックは、人類にとって巨大な悲劇だった。しかし、その悲劇の裏側では、巨大な市場が動いた。そして市場が動けば、必ず富も動く。誰かが失った金は、誰かの売上になった。誰かが閉めた店の需要は、誰かのプラットフォームへ流れた。誰かが外出できなくなったことで、誰かのオンラインサービスが成長した。誰かが病気になったことで、誰かの医薬品市場が拡大した。これは資本主義の冷たい現実である。私は、その現実から目を背けない。

そして次は、さらに核心へ入る。「パンデミックで巨額の富を得た企業・投資家の背後に、政府資金、研究資金、国際機関、政治家、巨大投資ファンドはどのようにつながっていたのか」。ここから先は、単なる企業の決算書では終わらない。資本の流れそのものを追跡する。そして、もしそこに不自然な関係が存在するのであれば、私は遠慮なく、「これは一体、何なのか?」と問いたい。

第6章 医原病――人を救う医療が、人を傷つけるとき

1.「医療は安全」という神話――救命の裏側で何が起きているのか

病気になれば病院へ行く。薬を飲めば治る。手術を受ければ悪いところを取り除いてもらえる。私たちは、いつの間にか「医療=安全」という考え方を当たり前のように受け入れている。

もちろん、医学が人類に与えた恩恵は計り知れない。感染症の治療、外科手術、麻酔、輸血、画像診断、抗菌薬、ワクチン、がん治療など、医学の進歩によって救われた命は数え切れない。平均寿命が大きく延びた背景にも、衛生環境の改善とともに医学の発展が存在している。私は、医学の功績を否定するつもりはない。

しかし、だからこそ私は問いたい。「人間を救うはずの医療によって、人間が傷つくことは本当に珍しいのか?」。答えは、残念ながら「珍しくない」である。WHOは、医療を受ける患者のおよそ10人に1人が医療による何らかの害を受けるとし、さらに安全でない医療によって年間300万人を超える死亡が発生していると推計している。しかも、WHOはその害の半分以上が予防可能だとしている。

この数字を私は非常に重く受け止める。なぜなら、病気そのものによって命を失うのではなく、「病気を治すために受けた医療」によって傷つく人間が、世界規模で存在しているからだ。薬剤ミス、診断ミス、手術上の問題、院内感染、患者の取り違え、輸血に関する問題、転倒、血栓症など、原因は一つではない。そして、こうした問題は発展途上国だけの話ではなく、高所得国を含む世界の医療システム全体に存在している。

ここで私は、かなり厳しいことを言いたい。私たちは飛行機が墜落すると大ニュースにする。原子力施設に事故が起きれば徹底的に調査する。工場で重大事故が起きれば、安全基準が見直される。ところが医療では、毎日のように患者が治療を受け、その中で一定数の人間が傷ついているにもかかわらず、それを「仕方がないこと」として受け入れてしまう傾向があるのではないだろうか。

私は、ここに医療の特殊性があると思う。患者は病気を治してもらうために病院へ行く。医師を信頼している。医学的知識を持っていない患者は、治療方法の安全性を自分で完全に判断することができない。だから、「先生がそう言うなら」と治療を受ける。この信頼は必要だ。医療は信頼がなければ成立しない。しかし、私は同時に思う。「信頼される側ほど、厳しく監視されるべきではないか」。医師を疑えと言っているのではない。医師を守るためにも、医療システムそのものを監視するべきだと言っている。なぜなら、WHOも患者への害の多くは、一人の医療従事者だけの問題ではなく、組織やシステム、業務手順、情報共有、人員不足、疲労など複数の要因が重なって発生すると説明しているからだ。

つまり、医原病を考えるとき、「悪い医者を探せ」だけでは問題の本質にたどり着けない。病院のシステムはどうなっていたのか。薬の確認手順はあったのか。患者確認は十分だったのか。医師と看護師の情報共有はできていたのか。勤務時間は過酷ではなかったのか。電子カルテの仕組みに問題はなかったのか。そして、事故が起きた後に、その情報は組織内で共有されたのか。こうした部分まで見なければならない。

私は、医原病という言葉をもっと広い意味で社会に知られるべきだと思っている。薬の副作用だけではない。手術による合併症もある。誤診もある。過剰な検査もある。必要のない治療による身体的負担もある。院内感染もある。医療機器の問題もある。薬の取り違えもある。そして、治療が遅れたことによって生じる被害もある。つまり、医療とは「何もしないこと」ではなく、何かをすることによって患者を救うシステムであると同時に、その行為そのものが新たなリスクを発生させるシステムでもある。

ここが非常に重要だ。薬には効果がある。だから薬を使う。しかし、薬には副作用もある。手術は病気を取り除く。しかし、手術には出血や感染などのリスクがある。検査は病気を見つける。しかし、検査にも偽陽性や偽陰性がある。放射線を利用した検査や治療にも、それぞれ固有のリスクが存在する。つまり、「医療には利益とリスクが同時に存在する」のである。私は、この当たり前の事実をもっと患者に説明するべきだと思う。

ところが現実には、「治療を受ければ良くなる」という期待のほうが先に立つ。患者は弱っている。痛みを感じている。不安を抱えている。そして、早く治りたいと思っている。その状態で、医師から専門用語を大量に説明されても、すべてを理解できる人は多くない。だからこそ、インフォームド・コンセントが重要になる。患者が治療の目的だけではなく、利益、リスク、代替手段について理解したうえで意思決定できるようにする。

私は、これを単なる医療手続きにしてはいけないと思う。患者が署名したから終わり。それでは意味がない。患者が本当に理解できたのか。質問する時間があったのか。別の治療方法を知っていたのか。治療しないという選択肢について説明されたのか。ここまで考える必要がある。私は、患者を「医療を受ける人」ではなく、「医療を選択する当事者」として扱うべきだと思っている。なぜなら、最終的にその身体を持っているのは患者自身だからだ。医師は患者の身体を所有しているわけではない。製薬企業も所有していない。政府も所有していない。国際機関も所有していない。患者の身体は患者自身のものだ。私は、この原則を絶対に忘れてはいけないと思う。

そして、ここから医原病のさらに深い問題が始まる。医療は進歩している。新しい薬が出る。新しい手術方法が出る。新しい医療機器が出る。新しいAI診断システムが登場する。遺伝子治療も進歩している。再生医療も進んでいる。これらは人類にとって大きな希望である。しかし、新しい技術には「未知のリスク」も存在する。過去に安全だと思われていた医療行為が、後になって問題を起こした例は少なくない。だから私は、「最新だから安全」という考え方には慎重でありたい。新しいからこそ、長期的なデータが不足している場合がある。新しいからこそ、予想できない問題が起きる可能性もある。新しいからこそ、慎重な監視が必要になる。もちろん、古い医療が必ず安全という意味でもない。古い治療法にも問題はある。だから重要なのは、「新しいか古いか」ではなく、「どれだけ証拠があるのか」だと思う。

私はここを本書の基本原則にしたい。医療は肩書で判断しない。企業名で判断しない。国名で判断しない。「最新」という宣伝文句でも判断しない。データを見る。利益とリスクを見る。長期的な結果を見る。第三者による検証を見る。そして、患者自身が判断する。これが必要だと思う。

さらに怖いのは、医療が巨大な産業になっていることである。世界中で医療費は巨大な市場になっている。病院がある。製薬企業がある。医療機器メーカーがある。保険会社がある。研究機関がある。検査会社がある。介護産業がある。そして、そのすべてに莫大な金が流れている。私は、これを「だから医療は悪だ」とは考えない。医療には人件費が必要だ。研究費も必要だ。設備費も必要だ。新薬の開発にも巨額の資金が必要になる。しかし、巨大産業になった以上、「患者の利益と産業の利益が衝突する可能性」については、常に監視しなければならないと思う。患者に必要な医療なのか。それとも、医療機関にとって収益性の高い医療なのか。製薬企業にとって売上が大きい薬なのか。患者にとって最善の薬なのか。この二つが常に一致するとは限らない。私は、この問題を避けてはいけないと思う。

そして、ここで重要なのが「過剰医療」という問題である。検査を増やせば、病気を発見できる可能性は高くなる。しかし、すべての異常が治療を必要とするとは限らない。偶然見つかった小さな異常を治療することで、逆に患者へ負担を与える場合もある。検査には偽陽性がある。治療には副作用がある。手術にはリスクがある。つまり、「何もしないことが最善の場合もある」のである。私は、ここを現代医療がもっと正面から認める必要があると思う。医療とは、何かをすることだけではない。時には、「今は治療しない」という判断も医療なのだ。しかし、患者は「何かしてほしい」と思う。医師も「何かしなければ」と考える。病院にも経営上の事情がある。製薬企業にも販売上の事情がある。この複数の力が重なったとき、「本当に必要だったのか?」という医療行為が発生する可能性がある。私は、この部分をもっと研究するべきだと思う。

そして、ここで私の考えをはっきり書いておきたい。私は医療否定論者ではない。病院にも行く。薬も必要なら使う。手術が必要なら受ける。医学の進歩も歓迎する。しかし、「医療だから無条件に正しい」という考え方には反対である。医療も間違える。医師も間違える。製薬企業も間違える。政府も間違える。研究者も間違える。WHOのような国際機関も判断を修正することがある。人間が作ったシステムである以上、当然だ。だからこそ、「間違えない医療」を求めるのではなく、「間違えたときに発見でき、修正でき、被害を最小限にできる医療」を作るべきだと思う。これは大きな違いである。事故をゼロにすることだけを目標にすると、事故を隠したくなる。しかし、「事故から学ぶ」という文化があれば、失敗を報告できる。報告できれば原因を分析できる。原因を分析すれば再発を防げる。私は、この考え方こそ医療に必要だと思う。WHOも患者安全について、個人だけを責めるのではなく、組織やシステムそのものを分析する必要性を示している。医療事故の背景には、業務手順、人員、コミュニケーション、技術、組織文化など複数の要因が存在するからだ。

そして私は、患者にも一つお願いしたい。「先生に全部任せる」だけにしないでほしい。質問していい。分からなければ、「分かりません」と言っていい。もう一度説明してもらっていい。別の医師の意見を聞いてもいい。治療のメリットだけではなく、「この治療のリスクは何ですか?」と聞いていい。「治療しない場合はどうなりますか?」と聞いていい。「他の選択肢はありますか?」と聞いていい。これは医師への敵意ではない。患者として当然の権利だ。そして医療側も、「そんなことを聞く患者は面倒だ」と思ってはいけない。むしろ、質問する患者ほど、自分の身体について真剣に考えている可能性がある。私は、「質問できる患者」と「質問に答えられる医療者」の組み合わせが、最も安全な医療を作ると思う。

医原病をなくすために必要なのは、医師を敵にすることでもない。製薬企業を悪魔にすることでもない。病院を破壊することでもない。必要なのは、「医療を神聖化しないこと」だと思う。医学を尊敬する。医師を尊敬する。しかし、同時に検証する。薬を使う。しかし、リスクも確認する。手術を受ける。しかし、代替手段も聞く。検査を受ける。しかし、その検査が本当に必要なのか考える。私は、このバランスが重要だと思っている。

そしてWHOが示している数字を見る限り、患者安全は単なる細かい医療問題ではない。年間300万人を超える死亡が安全でない医療に関連するとされ、医療による害は世界的な公衆衛生上の大きな問題になっている。さらに、低・中所得国の病院では年間約1億3,400万件の有害事象が発生し、そのうち約260万人の死亡に関連すると推計されている。私は、この数字を見て思う。医療は人間を救っている。しかし同時に、医療によって傷ついている人間もいる。だから私は、「医学の光」だけを書かない。「医学の影」も書く。そして、その影を描くことは医学への攻撃ではない。むしろ、医学をもっと安全なものにするための批判だと思っている。

本当に優れた医療なら、批判に耐えられる。本当に安全な薬なら、安全性データを公開できる。本当に患者を第一に考えている病院なら、患者の質問を歓迎できる。本当に誠実な医療制度なら、事故を隠すのではなく、事故から学べる。私は、そんな医療を望んでいる。「医療を信じるな」と言いたいのではない。「医療を信じるからこそ、検証できるようにしろ」と言いたい。

そして、この先ではさらに踏み込む。なぜ薬の副作用は起こるのか。なぜ重大な副作用が承認後に発見されることがあるのか。なぜ医療事故は繰り返されるのか。なぜ患者は十分な情報を得られないことがあるのか。そして、「治療すること」と「治療しないこと」の境界線は、誰が決めるのか。ここからが、本当の「医原病」の核心である。

2.薬はいつから毒になるのか――「承認された薬」という絶対神話

薬というものは不思議な存在である。病気になった人間を救うために作られ、正しく使えば症状を改善し、生命を救うことさえある。しかし同じ薬が、使い方や体質、投与量、併用薬などによっては、患者の身体に重大な害を与えることもある。つまり薬とは、「善」でも「悪」でもなく、使い方によって人間を救うことも傷つけることもある、非常に強力な道具なのである。

私はここを、医療を考えるうえで最も重要な出発点の一つだと思っている。「薬だから安全」ではない。「病院でもらった薬だから絶対に大丈夫」でもない。まして、「国が承認した薬だから、一切の危険がない」という意味でもない。薬の承認とは、その時点で得られている科学的データをもとに、利益がリスクを上回ると判断されたことを意味するのであって、将来発生するすべての副作用を予言することではない。ここを患者にもっと正確に伝える必要があると思う。

新薬が開発されるまでには、基礎研究、動物実験、臨床試験、規制当局による審査など、非常に多くの段階が存在する。それでも、実際に何十万人、何百万人という規模で使用されるようになって初めて分かる副作用が存在する場合がある。なぜなら、臨床試験では対象となる患者数や期間に限界があり、非常に稀な副作用を事前に発見することには限界があるからだ。私は、この事実を「医療の失敗」とだけ片付けるべきではないと思う。むしろ、医学には構造的に「完全には予測できない」という限界が存在する。だからこそ、承認後の監視が重要になる。薬が市場に出た瞬間に安全性の確認が終了するのではなく、そこから本当の意味での巨大なデータ収集が始まるのである。

しかし、ここで患者側からすれば、少し怖い話でもある。つまり、「承認された薬を使ってみなければ、分からないことがある」ということだからだ。もちろん、これは新薬が危険だという意味ではない。多くの医薬品は厳しい審査を経て使用され、患者の治療に役立っている。しかし医学が科学である以上、最初からすべての答えを知ることはできない。だから私は、「承認」という言葉を「絶対安全」という意味に置き換えてはいけないと思っている。

ここで歴史を振り返ると、そのことがよく分かる。過去には、当時は有用な薬として使用されていたにもかかわらず、後になって重大な副作用が判明し、市場から撤去された医薬品が存在する。その代表例として世界的に知られているのがサリドマイドである。1950年代末から1960年代初頭にかけて、妊娠中の女性のつわりなどに使用されたサリドマイドによって、胎児に深刻な先天異常が発生した。この事件は、世界の薬事行政を大きく変えるきっかけとなった。

私は、この歴史を単なる「昔の医療事故」として片付けてはいけないと思う。なぜならサリドマイド事件が示したのは、悪意のある医師や企業が存在したという単純な話ではなく、「当時の科学では十分に把握できなかったリスクが、社会全体に広がった」という問題だからである。医学が進歩しても、未来のリスクを完全に予測することはできないという現実を、この事件は突きつけた。そして、その後の薬事制度では、承認前の安全性評価だけでなく、承認後の副作用監視も重要視されるようになった。つまり医学は、過去の失敗から制度を改善してきたのである。私は、これは医学の弱さではなく、むしろ科学が持つ強さだと思う。間違いを認め、原因を分析し、制度を変更し、次の被害を減らすことができるからだ。

しかし、ここで一つ問題がある。制度が改善されても、「人間が運用する以上、また新しい問題が起こる可能性がある」ということだ。医師は人間である。研究者も人間である。規制当局も人間である。製薬企業の社員も人間である。そして患者も人間である。だから、どれほど立派な制度を作っても、誤りを完全にゼロにすることはできない。私は、この「完全安全神話」こそ危険だと思っている。飛行機だって事故がゼロではない。自動車だって事故がゼロではない。原子力発電所だって事故がゼロではない。それでも社会は、事故を減らすために安全装置を何重にも設置し、事故が起きれば原因を分析して制度を改善する。医療も同じであるべきだ。ところが、「医療だから仕方がない」という言葉が使われると、一気に問題が見えなくなる。私は、この言葉には警戒したい。

もちろん、すべての医療上の悪影響を防ぐことはできない。治療にはリスクがある。病気そのものにもリスクがある。手術にもリスクがある。薬にもリスクがある。どの選択をしても、一定の危険が存在する場合がある。しかし、「防げなかったリスク」と、「防げたはずのリスク」は分けるべきだ。患者への薬の投与量を間違えた。別の患者の薬を渡してしまった。禁忌となる薬を確認しなかった。重大な副作用情報が共有されなかった。こうした問題まで「医療にはリスクがあります」で終わらせてしまえば、再発防止につながらない。

私は、ここに医原病対策の核心があると思う。事故が起きたら、「誰が悪かったのか」だけを見るのではなく、「なぜその事故が起きたのか」を見る。一人の医師が間違えたのなら、その医師だけを責めて終わらせない。なぜ間違えたのか。忙しすぎなかったか。確認手順がなかったのか。電子システムが分かりにくかったのか。薬の名前が似ていなかったか。情報共有ができていなかったのか。教育が不足していたのか。私は、こうした原因まで掘り下げるべきだと思う。

そして、もう一つ忘れてはいけないのが、製薬企業の立場である。製薬企業は新薬を開発する。研究開発には巨額の費用がかかる。臨床試験にも莫大な費用が必要になる。承認されれば、企業はその薬を販売する。当然、企業には売上を伸ばしたいという経済的インセンティブがある。これは資本主義社会では当然のことである。私は、企業が利益を追求することそのものを悪とは考えない。問題は、「利益を追求する企業に、患者の安全を最優先させる仕組みが存在しているか」ということである。企業だけに任せるのではなく、政府が監視する。政府だけに任せるのではなく、第三者が検証する。研究者だけに任せるのではなく、複数の研究機関が検証する。そして患者自身にも情報を提供する。この多重構造が必要だと思う。なぜなら、一つの組織が間違ったときに、他の組織が止められるからだ。私は「権力の分散」が医療にも必要だと思っている。巨大製薬企業には巨大な研究開発能力がある。政府には承認と規制の力がある。大学には研究能力がある。医師には患者を診る専門知識がある。患者には自分の身体について決定する権利がある。この五つが互いに監視し合うことが重要なのではないだろうか。

そして、ここで「薬害」という言葉が登場する。薬害とは、単純な副作用とは違う。適切な使用でも起こり得る副作用と、誤った情報提供、承認後の対応、行政の判断、企業の対応など、複数の要因によって社会的な被害が拡大するケースを考えなければならない。日本でも過去に、薬害エイズ、薬害肝炎、スモンなど、医薬品や医療をめぐる深刻な被害が発生してきた。これらの歴史を見ると、私は一つの共通点を感じる。被害が発生した後、「もっと早く気づけなかったのか」という疑問が必ず残るのである。

もちろん、後から見れば簡単に言える。当時は情報が不足していた。科学的知識も現在とは違った。行政も企業も、現在とは異なる基準で判断していた。だから私は、過去の人間を現代の基準だけで裁くことには慎重でありたい。しかし、「だから仕方がなかった」で終わらせてもいけない。過去の失敗を記録する。なぜ起きたのかを調べる。誰がどの情報を持っていたのかを確認する。どの時点で問題を把握できた可能性があったのかを調べる。そして次の被害を防ぐ。私は、それこそ歴史を学ぶ意味だと思っている。

そして、ここで私の考えをはっきり書いておきたい。私は製薬企業を全部悪だとは思わない。むしろ、製薬企業がなければ現在の医療の多くは存在しない。新薬を作る。ワクチンを開発する。難病の治療法を研究する。これらは人類にとって非常に大きな貢献である。しかし、「人類に貢献しているから批判してはいけない」という話にはならない。むしろ、「人類に大きな影響を与えているからこそ、厳しく監視する」べきだと思う。巨大な力を持つ企業ほど、透明性が必要になる。巨大な権限を持つ政府ほど、説明責任が必要になる。巨大な影響力を持つ医師や専門家ほど、利益相反の公開が必要になる。私は、この原則を変える必要はないと思っている。

そして患者にも、「薬について質問していい」という文化を広げたい。薬の名前は何なのか。何のための薬なのか。どのくらい飲むのか。どんな副作用があるのか。他の薬との相互作用はないのか。いつまで飲むのか。飲まなかった場合はどうなるのか。別の治療法はあるのか。これを聞いていい。医師や薬剤師に質問することは、医療不信ではない。自分の身体を守るための当然の行為だ。私は、「何も質問せずに医療を受ける患者」より、「納得するまで質問する患者」のほうが安全な医療につながると思う。そして医療者側にも、「質問されることを歓迎する」姿勢を求めたい。患者が質問する。医療者が説明する。患者が理解する。そして患者が決める。これが本来の医療だと思う。

薬は人間を救う。しかし、薬は同時に人間の身体へ作用する強力な化学物質でもある。だから、「薬=善」でも、「薬=悪」でもない。重要なのは、「誰が、何のために、どのような根拠で、どの薬を使うのか」である。そして、その判断に必要な情報が患者へ届いているのか。私は、そこを問いたい。医学は完璧ではない。しかし、「完璧ではないから仕方がない」という言葉を免罪符にしてはいけない。むしろ完璧ではないからこそ、監視する。記録する。検証する。改善する。そして、失敗を次の医療へ生かす。それが科学だと思う。

医療の歴史は、「人間が病気を克服してきた歴史」であると同時に、「人間が医療による失敗から学んできた歴史」でもある。私は、その二つを同時に書きたい。医学の光だけを描けば、医療広告になる。医学の闇だけを描けば、単なる告発本になる。その両方を見る。そして、「それでも医療をどう改善するのか」まで考える。それが本書の目的である。

薬はいつから毒になるのか。答えは、「薬になった瞬間から、利益とリスクの両方を持っている」なのかもしれない。だからこそ、承認されたから終わりではない。販売されたから終わりでもない。処方されたから終わりでもない。患者が服用してからも、安全性を監視する。副作用を報告する。データを蓄積する。必要なら警告を変更する。必要なら使用を制限する。そして、本当に危険であれば市場から撤去する。この終わりのない監視こそ、現代医療が患者から得た信頼に対する、最低限の責任なのではないだろうか。

そして次に問題になるのは、その「監視」が本当に機能しているのかということである。副作用は誰が報告するのか。報告された情報は誰が分析するのか。重大なシグナルが見つかったとき、誰が動くのか。企業はどこまで情報を公開するのか。行政はいつ国民へ知らせるのか。そして、もし危険性が疑われたとき、「売上」と「患者の安全」のどちらが優先されるのか。ここから、「薬害を生み出す構造」という、さらに深い問題へ入っていく。

3.薬害を生み出す構造――「知らなかった」では済まされない

医薬品は、病気を治すために生まれる。しかし、その薬が社会へ大量に投入された瞬間から、医学だけではなく、企業、行政、医師、患者、そして巨大な市場が複雑に絡み始める。私は、医原病を考えるなら、この「薬が患者へ届くまでの構造」を見なければ、本当の問題にはたどり着けないと思う。

新薬の開発には、通常、長い研究期間と臨床試験が必要になる。候補物質を見つけ、基礎研究を行い、動物などを用いた非臨床試験を経て、人を対象とした臨床試験へ進み、最終的に規制当局が承認を判断する。つまり、薬が患者の手元に届くまでには、いくつもの関門が存在している。しかし、どれほど厳しい審査を行っても、承認前にすべての危険性を把握することはできない。臨床試験に参加する人数や対象者、試験期間には限界があるため、非常に頻度の低い副作用や、長期間使用して初めて現れる問題を事前に発見できない場合がある。だからこそ、薬は承認された瞬間から終わりなのではなく、そこから市販後の安全性監視が始まる。

私は、ここを患者にもっと正確に説明する必要があると思う。「国が承認した薬だから安全」という説明では不十分である。正しく言えば、「現時点で得られている科学的データを基に、期待される治療上の利益が確認されたリスクを上回ると判断された」ということになる。この違いは非常に大きい。薬には利益がある。同時にリスクもある。そのリスクを可能な限り小さくしながら、利益を患者へ届ける。それが医療の仕事である。しかし、もし副作用情報が十分に共有されなかったり、危険性を示すシグナルへの対応が遅れたりすれば、本来なら防げた被害が拡大する可能性がある。

ここで歴史を振り返ると、日本でも薬害事件が繰り返されてきた。サリドマイド、スモン、薬害エイズ、薬害肝炎など、時代ごとに異なる薬剤や医療制度をめぐって深刻な被害が発生した。事件ごとに事情は違うが、共通して浮かび上がるのは、「もっと早く被害を把握できなかったのか」という問いである。もちろん、後世の人間が過去を振り返れば、当時より多くの情報を持っている。だから私は、過去の医療者や行政担当者を簡単に現在の基準だけで裁くべきではないと思う。しかし同時に、過去の失敗を「仕方がなかった」で終わらせることにも反対する。なぜなら、薬害の歴史を残す最大の意味は、同じ構造を繰り返さないことにあるからだ。

では、薬害を生み出す構造とは何なのか。一つは「情報の非対称性」である。製薬企業は、その薬を開発した当事者として膨大なデータを持っている。一方、患者はそのデータを直接見ることができない。医師でさえ、すべての臨床試験や安全性情報を把握しているわけではない。つまり、薬について最も詳しい側と、薬を実際に服用する側の間には、大きな情報格差が存在する。私は、ここに透明性が必要だと思う。企業には研究開発を行う権利がある。当然、企業秘密まで無制限に公開しろという話ではない。しかし、患者の安全に直接関係する重要な情報まで「企業秘密」という言葉で覆い隠されてしまえば、患者は判断する材料を失ってしまう。

さらに重要なのが、利益相反である。研究者が企業から研究費を受け取っている場合、その研究結果が企業にとって不利益になる可能性があるとき、どのような影響が生じるのか。医師が製薬企業から講演料などを受け取っている場合、その関係を患者が知る必要はないのか。私は、こうした問題について「問題があるに違いない」と決めつけるのではなく、まず関係を公開することが重要だと思う。透明性があれば、第三者が検証できる。そして第三者が検証できれば、疑惑が事実なのか、それとも誤解なのかを判断できる。逆に、情報が閉ざされていれば、疑惑だけが膨らむ。

私は、陰謀論が広がる背景にも、この「情報不足」があると思っている。人間は、分からないことを想像する。政府が説明しない。企業も説明しない。専門家同士が意見を争う。メディアによって報道内容が違う。すると人々は、「何か隠しているのではないか」と考え始める。だから私は、陰謀論を完全に消したいのであれば、単純に陰謀論者を批判するだけでは足りないと思う。必要なのは、情報公開である。誰が研究したのか。誰が資金を出したのか。どのような結果が出たのか。どのような副作用が確認されたのか。どのような判断が行われたのか。そして、その判断が後になって変更された場合、なぜ変更されたのか。これを記録し、公開する。私は、それが最も強力な陰謀論対策だと思う。

そしてもう一つ重要なのが、「副作用報告」である。薬を使用した後に患者へ異常が発生した場合、それを報告する仕組みが存在する。こうした情報が集積されれば、臨床試験の段階では見つからなかった安全性上の問題が発見される可能性がある。つまり、一人の患者の経験が、将来の何万人もの患者を守る情報になることがある。私は、この仕組みをもっと大切にするべきだと思う。患者が「この薬を飲んだ後に体調がおかしくなった」と訴えたとき、その声を単なる気のせいとして片付けてはいけない。もちろん、薬との因果関係があるとは限らない。しかし、だからこそ調査する価値がある。「因果関係が証明されていない」ことと、「調査する必要がない」ことは同じではない。ここを混同してはいけない。

さらに、薬害問題では「誰が最初に危険性を指摘したのか」という視点も重要である。現場の医師だったのか。患者だったのか。研究者だったのか。ジャーナリストだったのか。行政内部の人間だったのか。そして、その警告は組織の中でどのように扱われたのか。私は、ここまで追跡する必要があると思う。もし警告が出ていたのに無視されたのであれば、それは重大な問題である。逆に、警告を受けて迅速に調査し、必要な対策を取っていたのであれば、それは評価すべきである。つまり、本当に重要なのは「事故が起きたかどうか」だけではない。事故が起きた後、「どう対応したのか」なのである。

私は、医療事故をゼロにすることだけを求めるのは現実的ではないと思う。人間が関わる以上、ミスは起こる。未知の副作用も起こる。予想外の患者反応も起こる。しかし、事故が起きた後に隠すのか、調べるのか、共有するのか、改善するのかによって、その後の被害は大きく変わる。ここに医療システムの成熟度が表れる。私は、「失敗しない医療」より「失敗から逃げない医療」のほうが重要だと思う。

そして、製薬企業についても同じである。私は、製薬企業を悪魔のように描くつもりはない。新薬を作るためには、莫大な研究費と長い年月が必要になる。失敗する候補薬も数多く存在する。研究者たちは、病気を治すために本気で研究している。だから、企業が利益を得ることそのものを否定するのは間違っている。問題は、利益と患者安全が衝突した場合に、どちらを優先する仕組みになっているかである。私は、「企業を信用するな」ではなく、「企業だけに任せるな」と言いたい。企業には企業の論理がある。政府には政府の論理がある。医師には医師の論理がある。研究者には研究者の論理がある。患者には患者の生活がある。この異なる立場を相互に監視させる仕組みが必要なのだ。

特に患者は、最も弱い立場に置かれやすい。企業は巨大な組織である。政府には行政権限がある。医師には専門知識がある。しかし患者には、そのどれもない。だからこそ、患者の権利を最も強く守らなければならない。私は、「患者が質問できる医療」をもっと当たり前にするべきだと思う。「この薬は何のためですか?」「副作用には何がありますか?」「他の治療法はありますか?」「この治療をしない場合はどうなりますか?」「どのくらいの期間続けますか?」。患者がこうした質問をすることを、医療不信と考えてはいけない。むしろ、自分の身体に責任を持とうとしている証拠である。医師も患者も、同じ方向を向いている。病気を治したい。健康を取り戻したい。命を守りたい。だからこそ、十分な情報を共有する必要がある。

私は、ここで「医原病」という言葉を単なる薬害の別名として終わらせたくない。医原病とは、人間を救うために作られた医療という巨大なシステムが、その巨大さゆえに患者へ予期せぬ被害を与える可能性を考えるための重要な視点だと思う。医療が小さかった時代には、一つのミスが影響する人数も限られていた。しかし現代では、一つの薬が世界中で使用される。一つの治療指針が何百万人に影響する。一つの行政判断が国民全体の行動を変える。つまり、医療が発展すればするほど、「正しかった場合の利益」も大きくなるが、「間違っていた場合の被害」も大きくなるのである。

私は、ここに現代医療最大の矛盾があると思う。医学は進歩した。しかし、医学の力が大きくなった分だけ、監視する仕組みも強くしなければならない。強い薬には強い監視。巨大企業には強い透明性。巨大な行政権限には強い説明責任。そして、患者には強い自己決定権。この四つが必要だと思う。だから私は、この本で薬害を単なる「過去の悲劇」として終わらせない。過去の薬害事件を調べる。そこで何が起きたのかを見る。誰が警告したのかを見る。行政はどう動いたのかを見る。企業はどう対応したのかを見る。そして、現在の医療制度に同じような弱点が残っていないのかを考える。

これが本当の意味での「医療の発展と、その影」だと思う。医療は人類を救ってきた。その事実は揺るがない。しかし、医療によって傷ついた人々が存在することも事実である。だから私は、その両方を見たい。医療を信じる。しかし、盲信しない。製薬企業を必要とする。しかし、無条件には任せない。政府を必要とする。しかし、説明を求める。医師を尊敬する。しかし、質問する。そして患者自身も、「自分の身体について決める権利」を手放さない。私は、それが医療と患者の本来あるべき関係だと思う。

そして次に問いたい。薬害が起きたとき、「誰が責任を取るのか?」。患者が被害を受けた。企業は製造した。医師は処方した。行政は承認した。そして専門家は安全性を評価した。では、重大な被害が発生したとき、その責任は誰にあるのか。一人なのか。企業なのか。行政なのか。それとも、誰も責任を取らない構造になっているのか。この問題こそ、医原病の「影」をさらに深く掘り下げる入口になる。

4.誰が責任を取るのか――患者だけが代償を払う社会

医療によって重大な被害が発生したとき、最も苦しむのは誰なのだろうか。製薬企業なら売上を失うかもしれない。病院なら訴訟や行政処分を受ける可能性がある。行政なら制度を見直すことになる。しかし、実際に身体を傷つけられ、生活を失い、仕事を失い、場合によっては命まで失うのは患者自身である。私は、この「被害を受ける人」と「責任を負う人」の距離に、医原病の大きな問題があると思う。

患者は、医療を信じて治療を受ける。病院へ行き、医師の説明を聞き、薬を受け取り、手術を受ける。患者自身が医学研究をしているわけではない。薬の成分を分析することもできない。臨床試験のデータを自分で検証することもできない。だからこそ、患者は医療制度全体を信頼するしかない。しかし、その信頼が裏切られたとき、問題は一気に深刻になる。

例えば薬による重大な副作用が発生した場合、患者は身体的な苦痛だけではなく、治療費、仕事への影響、家族への負担、将来への不安まで背負うことになる。しかも、その被害が一時的なものではなく、長期間にわたって残る場合もある。病気を治すために飲んだ薬によって、別の病気や障害を抱えることになったとしたら、患者にとっては「治療を受けた」という事実そのものが人生を変える出来事になってしまう。

私は、ここで「医療にはリスクがあります」という一言だけで済ませてはいけないと思う。リスクがあることと、予測可能だった被害を放置することは別問題である。さらに、重大な危険性を示す情報が存在していたにもかかわらず、その情報が十分に共有されなかったのであれば、単なる「不運」では済まされない。どの時点で誰が何を知っていたのか。そして、その情報を知った人間が何をしたのか。ここを徹底的に検証する必要がある。

薬害事件の歴史を見ると、この問題が非常に複雑であることが分かる。企業、医師、研究者、行政、政治家、医療機関など、多数の主体が関係する場合がある。そのため、責任が一人に集中するとは限らない。むしろ、「それぞれが少しずつ判断を誤った結果、巨大な被害につながった」というケースも考えられる。私は、こうした構造を「責任の分散」として捉える必要があると思う。一人の人間だけに責任を押しつければ、問題は簡単に見える。しかし実際には、企業が研究し、研究者がデータを分析し、行政が審査し、医師が処方し、患者が使用する。そのどこか一つで重大な問題が発生すれば、次の段階へ情報が伝わる。もし途中で警告が止まれば、被害は拡大する可能性がある。

つまり、医療安全とは「最後の医師が注意すれば大丈夫」というものではない。研究段階。臨床試験。承認審査。製造。流通。処方。服用。副作用報告。市販後監視。このすべてがつながって初めて患者の安全が守られる。私は、この一連の流れのどこか一つでも弱ければ、医原病のリスクが高まると思う。

そして、ここで重要なのが「利益」と「責任」のバランスである。新薬が成功すれば、製薬企業は巨額の売上を得る可能性がある。株主は株価上昇の恩恵を受ける可能性がある。企業は研究開発費を回収し、次の新薬へ投資できる。社会全体としても、新しい治療法によって多くの患者が救われる。これは資本主義の非常に強い仕組みである。しかし私は、利益を得る権利があるなら、同時に責任を負う仕組みも必要だと思う。利益は民間企業が受け取る。しかし被害が発生したときだけ、「社会全体で負担してください」となるのであれば、バランスがおかしくなる。

もちろん、すべての副作用を企業の責任にすることもできない。科学的に予測不可能だった副作用まで、すべて企業の過失とするのは現実的ではない。だからこそ、何が予測可能だったのか、何が報告されていたのか、何が適切に対応されていたのかを、一件ずつ検証する必要がある。私は、ここで感情論に流れてはいけないと思う。「製薬企業だから悪い」ではない。「政府だから悪い」でもない。「医師だから悪い」でもない。問題は、「誰が何を知っていて、どのような判断をしたのか」である。そして、その判断によって患者がどのような被害を受けたのかを追跡する。私は、これこそ本当の意味での責任追及だと思う。

ところが現実には、患者が被害を訴えても、その因果関係を証明することが非常に難しい場合がある。薬を飲んだ後に症状が出たとしても、「薬が原因だった」と直ちに証明できるとは限らない。患者にはもともとの病気があるかもしれない。別の薬を飲んでいるかもしれない。生活環境や年齢など、他の要因も関係している可能性がある。だから医学的な因果関係の判断には慎重さが必要になる。しかし、私はここで別の問題も考えたい。「証明できない」ことと、「被害が存在しない」ことは同じなのだろうか。私は違うと思う。

だからこそ、医療には長期的なデータ収集が必要になる。一人の患者の報告だけでは判断できなくても、同じ症状が何十人、何百人、何千人と報告されれば、そこに統計的なシグナルが見えてくる可能性がある。そして、そのシグナルを誰かが見つけ、調査する必要がある。ここで重要になるのが、行政の役割である。行政には、企業と患者の間に立つ役割がある。企業が提供する情報を審査し、市販後の安全性情報を監視し、必要であれば警告や使用上の注意を変更する。つまり行政は、患者の安全を守るための最後の防波堤の一つなのである。私は、この防波堤が機能しなければならないと思う。

企業には企業の事情がある。株主がいる。従業員がいる。研究開発費がある。競争相手がいる。市場がある。当然、利益を上げなければ企業は存続できない。だからこそ、企業だけに患者安全を任せてはいけない。行政が監視する。第三者が検証する。研究者が再評価する。医療者が副作用を報告する。患者も異常を訴える。こうした複数の監視網が必要になる。私は、これを「医療の民主化」と呼んでもいいと思う。医療情報を専門家だけのものにしない。患者にもアクセスできるようにする。研究結果を公開する。利益相反を明らかにする。臨床試験の結果を公表する。重大な副作用について迅速に知らせる。そして、患者が自分の治療について質問できるようにする。これが医療への信頼を高めると思う。逆に、「専門家が言っているから黙って従え」という姿勢は、長期的には医療への不信を生む可能性がある。

私は、ここを非常に重要だと思う。専門家を尊敬することと、専門家を絶対視することは違う。医師を信頼することと、医師の判断を一切質問しないことも違う。政府を必要とすることと、政府の説明をすべて無条件に受け入れることも違う。製薬企業が必要であることと、製薬企業の説明を検証しないことも違う。私は、「信頼する。しかし検証する」という姿勢が必要だと思う。これは医療だけではない。政治でも同じだ。経済でも同じだ。科学でも同じだ。人間が作った制度である以上、完全な無謬性を期待するほうが危険なのである。

そして、医原病の問題では、患者救済も非常に重要になる。被害を受けた患者が、「自分で証明してください」と言われ続けるだけでは、あまりにも負担が大きい。専門知識のない患者が、巨大企業や行政を相手に医学的因果関係を立証するのは容易ではない。だから私は、被害が疑われる場合に、患者が適切な調査や支援を受けられる制度が必要だと思う。もちろん、何でも補償すればいいという話ではない。科学的な基準は必要だ。しかし、「証明が難しいから救済しない」という仕組みも、患者側から見れば非常に厳しい。ここには、「科学的な不確実性」と、「被害者救済」という二つの問題が存在する。私は、この二つを両立させる制度を考える必要があると思う。

そして、私はもう一つ強く言いたい。医療の失敗を隠す文化だけは作ってはいけない。失敗を報告すると責任を問われる。事故を報告すると病院の評判が落ちる。副作用を報告すると企業の売上に影響する。そういう構造になれば、情報は表に出にくくなる。しかし、情報が出なければ、同じ事故が繰り返される。だから私は、「事故を報告した人間を守る仕組み」も必要だと思う。医療従事者が、「これは危険ではないか」と感じたときに声を上げられる。研究者が、「このデータには問題がある」と指摘できる。患者が、「この薬を飲んでから異常が起きた」と訴えられる。そして、その声を最初から「デマ」「医療不信」「素人の戯言」として排除しない。もちろん、すべての訴えが正しいわけではない。だから調査する。検証する。データを見る。そして正しければ制度を変える。間違っていれば、その理由を説明する。私は、それが健全な社会だと思う。

医療において最も恐ろしいのは、間違いそのものだけではない。間違いを認められないことである。間違いを報告できないことである。間違いを修正できないことである。そして、被害を受けた患者が、「あなたのためにやった治療ですから」という一言だけで置き去りにされることである。私は、それを絶対に美しい医療とは呼びたくない。医療は患者のために存在する。企業も、本来は人間の健康に貢献することで社会的価値を生み出す。政府も、国民の生命と安全を守るために存在する。だからこそ、「患者が最後に泣き寝入りする」ような構造があってはいけない。

私は、医原病というテーマを通して、「医療は誰のために存在するのか」という原点まで戻りたい。病院のためではない。企業のためでもない。行政のためでもない。専門家の名誉のためでもない。最終的には、患者のためである。だから患者が傷ついたなら、医療システム全体が立ち止まって原因を調べなければならない。「仕方がなかった」で終わらせない。「想定外だった」で終わらせない。「確率は低かった」で終わらせない。その一人の患者にとっては、「確率」ではなく、現実だからである。私は、この視点を医療の中心に置くべきだと思う。一人の被害者を数字にしてはいけない。しかし同時に、一人の被害を感情だけで全体へ一般化してもいけない。だからこそ、一人の声を拾い、データで検証し、原因を調べ、必要なら制度を変える。この循環が必要になる。

そして、ここからさらに怖い問題が出てくる。もし企業や行政が、「危険性を知っていたのに対応しなかった」としたらどうなるのか。もし内部資料に警告が残っていたら。もし研究者が以前から危険性を指摘していたら。もし患者の訴えが何年も放置されていたら。そのとき、「医療にはリスクがあります」という言葉だけで済ませることができるだろうか。私は、できないと思う。そこには、「知らなかった」ではなく、「知っていたのに何もしなかった」という、全く別の問題が存在するからだ。そして次に私たちが調べるべきなのは、まさにそこだ。薬害の歴史の中で、「危険性を最初に知ったのは誰だったのか」。そして、「その警告は、なぜ止められなかったのか」である。そこに医原病の「影」を生み出す、もう一つの構造が隠れている。

5.手術、麻酔、点滴、投薬――「人間だから間違える」では済まされない

医療現場で起こる医原病は、巨大製薬企業や行政だけが生み出すものではない。もっと身近なところにも存在する。手術部位の取り違え、麻酔に関するミス、点滴薬剤の取り違え、投薬量の間違い、患者確認のミス、検査結果の見落としなど、医療現場ではさまざまな人的エラーが起こり得る。そして、その結果を最終的に身体で受け止めるのは、ベッドに横たわっている患者なのである。

手術は、患者にとって人生を左右する重大な医療行為である。病気やけがを治すために身体へ直接介入する以上、一定のリスクは避けられない。しかし私は、「手術にはリスクがあります」という説明だけでは、すべてを片付けてはいけないと思う。予測できない合併症と、確認不足や手順違反などによって起きるエラーは、同じ「リスク」という言葉でまとめるべきではない。例えば、患者の取り違えが起きたとする。別人の手術をしてしまえば、それは医学的に避けられないリスクではなく、基本的な患者確認の問題である。左右を間違える、予定していた処置とは異なる処置を行う、必要な情報が手術チームへ伝わっていないなど、複数の確認段階が機能していれば防げる可能性のある事故も存在する。私は、こうした事故こそ「医療だから仕方がない」で終わらせてはいけないと思う。

麻酔も同じである。全身麻酔は患者の意識や呼吸、循環などを管理しながら行う高度な医療であり、専門的な監視が必要になる。麻酔薬の種類、投与量、患者の状態、併用薬、アレルギー歴など、多くの情報を正確に確認しなければならない。だからこそ、麻酔に関わるエラーが起きた場合には、「誰かが間違えた」で終わらず、なぜその間違いを防げなかったのかを検証する必要がある。

そして、点滴や注射にも同じ問題がある。病院では非常に多くの薬剤が扱われ、名前や包装が似ている薬剤も存在する。患者ごとに薬剤、投与量、投与速度、投与経路などを確認する必要があり、一つの確認ミスが重大な結果につながる可能性がある。点滴袋を間違える、薬剤を取り違える、投与量を誤る、別の患者へ投与してしまう――こうした事故は、患者にとっては「単なるミス」ではない。それは身体の中で起きる現実なのである。

ここで私は、医療現場で働く医師や看護師を一方的に責めたいわけではない。むしろ、現場で働く人間ほどミスの危険性を理解しているのではないかと思う。病院では多くの患者を同時に管理しなければならず、緊急事態も発生する。夜勤、長時間勤務、疲労、情報不足、複雑な手順、複数の患者を同時に担当する状況など、人的エラーを引き起こす要因は一つではない。だからこそ、「人間は間違える」という前提で医療システムを設計しなければならない。

私は、ここが非常に重要だと思う。人間が絶対に間違えないことを前提にしたシステムは、必ずどこかで破綻する。医師が確認を忘れることもある。看護師が疲労によって判断を誤ることもある。薬剤師が見落とすこともある。コンピューターシステムが誤作動することもある。だからこそ、誰か一人の注意力だけに安全を依存してはいけない。二重確認。患者本人による確認。バーコードなどを利用した患者認証。電子カルテによる警告。薬剤の保管方法の改善。手術前のチーム確認。こうした複数の防波堤を作る必要がある。一つが破られても、次で止める。二つ目を通過しても、三つ目で止める。それでも通過したら、四つ目で止める。私は、医療安全とはこういう仕組みであるべきだと思う。

ところが、もし病院の組織文化が、「ミスを報告すると怒られる」「事故を報告すると評価が下がる」「病院の評判が悪くなる」「上司に責められる」という状態になっていたらどうなるだろうか。人間は、当然ながら報告をためらう。事故を起こした人間が恐怖を感じれば、事実を言いにくくなる。小さなミスなら、「今回は患者に影響がなかったから」と処理されるかもしれない。しかし、その小さなミスが、別の場所で重大事故につながる可能性もある。私は、ここに「医療事故の隠蔽」という非常に危険な問題が生まれると思う。

ここで「隠蔽」という言葉には注意が必要である。単なる報告漏れ。記録ミス。組織内の情報共有不足。意図的な隠蔽。これらはすべて違う。だから、一つの事故を見て、「病院が隠蔽した」と簡単に断定してはいけない。しかし逆に、「医療現場だから、事故があっても仕方がない」と片付けてもいけない。重要なのは、「何が起きたのか」「誰が知っていたのか」「いつ知ったのか」「誰に報告されたのか」「患者本人には説明されたのか」「再発防止策は取られたのか」を記録することである。私は、ここに透明性の価値があると思う。事故をゼロにできないなら、事故から学ぶしかない。そして事故から学ぶためには、事故が表に出なければならない。もし医療事故を隠す文化が存在すれば、同じミスが別の患者に繰り返される可能性がある。一人目の患者で起きた事故が報告されていれば、二人目の患者を救えたかもしれない。二人目の患者で発見されれば、三人目を救えたかもしれない。つまり、事故報告とは過去の責任追及だけではなく、未来の患者を守るための情報でもある。

私は、ここをもっと社会に理解してほしいと思う。事故を報告した人間を、「病院に迷惑をかけた人」として扱うのではなく、「次の事故を防いだ人」として評価する文化が必要なのではないだろうか。もちろん、故意の隠蔽や重大な過失まで許されるという意味ではない。故意に記録を改ざんしたり、患者や家族への説明を意図的に妨げたりする行為があれば、それは別の問題として厳正に検証されるべきだ。しかし、単純なヒューマンエラーまで個人への処罰だけで終わらせれば、現場はさらに萎縮してしまう。私は、「責任追及」と、「再発防止」を分けて考える必要があると思う。誰かが意図的にルールを破ったのか。それとも、ルールそのものが現場に合っていなかったのか。教育が不足していたのか。人員が不足していたのか。勤務体制に問題があったのか。情報共有の仕組みに問題があったのか。医療機器の設計に問題があったのか。こうした違いを調べなければ、本当の原因にはたどり着けない。

私は、医療事故を「犯人探し」だけで終わらせることには反対である。もちろん、重大な過失や故意の行為には責任が伴う。しかし、同じ事故を二度と起こさないことを最優先に考えるなら、「なぜ、その人が間違えることができたのか」を調べなければならない。例えば、似た名前の薬が隣同士に置かれていたとする。疲労した看護師が薬を取り違えた。そこで、「看護師が悪い」だけで終われば、別の看護師が同じ事故を起こす可能性が残る。しかし、薬の保管場所を変更する。ラベルを分かりやすくする。バーコード認証を導入する。二人で確認する。電子システムに警告を出す。こうすれば、個人の注意力だけに頼らずに事故を減らせる。私は、これが本当の医療安全だと思う。

そして、もう一つ重要なのが患者への説明である。医療事故が起きた場合、患者や家族は当然、「何が起きたのですか?」と尋ねる。このとき、「問題ありませんでした」「よくあることです」「医療にはリスクがあります」という言葉だけで終わらせるのは、患者側からすれば納得しにくい。何が起きたのか。なぜ起きたのか。身体への影響はあるのか。今後どのような対応をするのか。再発防止策はあるのか。こうした情報を、可能な限り分かりやすく説明する必要があると思う。患者には知る権利がある。そして家族にも説明を受ける権利がある。私は、「病院の評判を守ること」より、「患者の信頼を守ること」を優先するべきだと思う。なぜなら、事故を完全に隠すことは、長期的には医療全体への信頼を壊すからだ。一度、「病院は都合の悪いことを隠す」と思われてしまえば、患者は本当に必要な治療まで疑うようになる。医療にとって、これは非常に危険なことである。

私は、医療者を攻撃したいわけではない。むしろ逆だ。誠実に働いている医師や看護師が、事故を起こしたときに一人で責任を背負わされるような仕組みを変えたい。医療はチームで行われる。だから安全もチームで作るべきだ。医師だけではない。看護師だけでもない。薬剤師だけでもない。臨床検査技師、放射線技師、臨床工学技士、事務職員、システム担当者など、多くの人間が関係している。一人のミスが問題なのではない。そのミスが起きても止められなかったシステムに問題がある場合もある。そして私は、「患者が最後の防波堤になってはいけない」と思う。患者自身に、「薬の名前は合っていますか?」「点滴はこれで合っていますか?」「手術する場所は右ですか、左ですか?」と確認させるだけでは、医療システムとして不十分である。もちろん患者自身が確認することは大切だ。しかし、安全確認の責任を患者へ押しつけることとは違う。専門的な医療行為について、専門家側が何重にも確認する仕組みを作るべきなのである。

そして、もし事故が起きたなら、「患者も確認できたはずだ」という方向へ責任を転嫁してはいけない。患者は病気だから病院に来ている。痛みや不安を抱えている。薬の知識も手術の知識も持っていない場合が多い。だからこそ、専門家が安全を守る責任は重い。私は、医療の世界には「権威」と「責任」がセットで存在すると考えている。医師は高度な専門知識を持つ。だからこそ、その判断には大きな影響力がある。看護師も専門的な医療行為を担う。だからこそ、その行為には責任がある。病院も巨大な組織として患者を受け入れる。だからこそ、組織として安全を確保する責任がある。製薬企業も薬を作る。だからこそ、安全性情報を適切に扱う責任がある。行政も医療制度を管理する。だからこそ、制度上の欠陥を改善する責任がある。私は、「権限が大きいほど責任も大きい」という原則を医療にも適用するべきだと思う。そして、医療事故が起きたとき、「誰が悪いのか」だけではなく、「誰が改善する責任を持つのか」まで明確にする。これが重要だ。

医療事故を隠す文化が生まれる背景には、個人への過剰な責任追及がある場合も考えられる。事故を報告したら処罰される。失敗したらキャリアを失う。病院の評判が落ちる。そうなれば、人間はどうしても失敗を隠したくなる。だから私は、「報告したこと」と、「故意に隠したこと」を明確に区別する必要があると思う。報告した人を守る。しかし故意の隠蔽は厳しく調べる。この線引きが必要だ。医療安全とは、誰かを吊し上げることではない。同じ事故で二人目、三人目の患者が傷つかないようにすることだ。私は、それが最優先だと思う。

そして、ここで医原病の意味がさらに広がる。医原病とは、薬そのものの副作用だけではない。手術という治療による事故。麻酔という医療行為による事故。点滴や注射による事故。投薬ミス。患者取り違え。診断の遅れ。情報共有の失敗。そして、それらを防ぐ仕組みが機能しなかったことによる被害。これらも「医療によって生じる被害」という大きな視点から考えることができる。私は、この現実を患者側から見たい。医療者から見れば、「一つのミス」かもしれない。病院から見れば、「一件のインシデント」かもしれない。行政から見れば、「統計上の一事例」かもしれない。しかし患者からすれば、その一件が人生そのものになる。腕を失った。臓器を損傷した。仕事ができなくなった。長期間の治療が必要になった。家族の生活が変わった。あるいは命を失った。数字の一件ではない。その人の人生である。

私は、ここを医療システムの中心に置くべきだと思う。そして、医療事故が起きたときに最も重要なのは、「隠さないこと」「記録すること」「説明すること」「調査すること」「改善すること」である。この五つが機能すれば、事故がゼロにならなくても、次の事故を減らすことができる。逆に、この五つが失われれば、事故そのものより、事故から何も学べないことのほうが恐ろしい。私は、医療の未来に必要なのは、「失敗しない人間」ではなく、「失敗を隠さないシステム」だと思う。医師も看護師も人間である。だから間違える可能性がある。だからこそ、医療システムは人間の弱さを前提に作らなければならない。一人の完璧な医師を作るより、十人の人間が間違えても事故を防げる仕組みを作る。私は、こちらのほうがはるかに現実的であり、患者を守る方法だと思う。そして、もしその仕組みが機能しなかったときには、「誰が悪かったのか」だけではなく、「なぜ防げなかったのか」を問い続ける。それこそが、医療の発展とともに進めなければならない、もう一つの「医療の発展」なのではないだろうか。

6.事故はなぜ繰り返されるのか――「隠す文化」が患者を危険にする

医療事故が起きたとき、最も重要なのは、その事故をなかったことにすることではない。何が起きたのかを正確に記録し、原因を調べ、同じ事故が二度と起きないようにすることである。しかし現実の医療現場では、事故を報告することによって、担当者や病院が責任を問われる可能性がある。私は、この「報告したくても報告しにくい構造」そのものが、医原病を拡大させる危険性を持っていると思う。

医療事故には、さまざまな種類がある。手術中のミス、麻酔に関するエラー、薬剤の取り違え、点滴の種類や投与量の間違い、患者確認の失敗、検査結果の見落としなど、その形は一つではない。さらに、実際に患者へ被害が発生した事故だけではなく、「もう少しで事故になるところだった」というヒヤリ・ハットも存在する。私は、この小さな異常を記録することこそ、重大事故を防ぐための重要な情報になると思う。

例えば、薬剤を取り違えそうになったが、直前に別の看護師が気づいたとする。患者には何の被害もなかった。病院側から見れば、「何も起きなかった」と考えることもできる。しかし安全管理の視点では、むしろ重要な出来事である。なぜ取り違えそうになったのかを調べれば、薬剤の配置、名称、ラベル、確認手順などに問題が見つかる可能性があるからだ。私は、事故が起きなかったことより、「事故になりかけた理由」を調べる文化が必要だと思う。

ところが、現場の人間が報告することで自分自身が責められる環境だったらどうなるだろうか。「なぜ確認しなかったのか」「なぜ間違えたのか」「あなたの責任ではないのか」と個人だけを責められれば、次から報告をためらう人が出ても不思議ではない。そして報告されなくなれば、組織は危険なパターンを知ることができなくなる。ここに私は、非常に危険な循環が生まれると思う。事故が起きる。報告すると責められる。だから報告しない。組織は問題を把握できない。同じ条件が残る。そして別の患者で再び事故が起きる。これでは、医療安全は改善されない。

私は、この問題を単純に「医師や看護師のモラル」の問題にしてはいけないと思う。人間は、誰でも自分を守ろうとする。失敗を報告したことで職場で不利益を受ける可能性があるなら、報告をためらう心理が働く。だからこそ、個人の勇気だけに頼るのではなく、報告しやすい仕組みを作る必要がある。

そして、ここで非常に重要になるのが「故意の隠蔽」と「単純なヒューマンエラー」を区別することである。医療事故が起きたからといって、すべてが隠蔽とは限らない。単純な記録漏れもある。情報伝達の失敗もある。忙しさによって報告が遅れる場合もある。事故の重大性をその場で正確に判断できないこともある。だから、事故が発生したというだけで「病院が隠蔽した」と断定するのは適切ではない。しかし逆に、意図的に事実を隠したり、記録を改ざんしたり、患者への説明を意図的に妨げたりする行為が存在するなら、それは別問題である。私は、この線引きを明確にする必要があると思う。なぜなら、医療事故の調査において重要なのは、感情ではなく事実だからだ。何時に事故が発生したのか。誰が最初に気づいたのか。誰へ報告されたのか。記録には何が残っているのか。患者には何が説明されたのか。事故後にどのような処置が行われたのか。同様の事故を防ぐ対策は取られたのか。この一つ一つを確認する。私は、それが本当の意味での責任追及だと思う。

そして、ここで患者側の立場を忘れてはいけない。患者は医療現場の内部を見ることができない。手術室で何が起きているのか分からない。薬剤を準備している場所を見ることもできない。電子カルテに何が入力されているのかも分からない。だから、患者は基本的に医療者から提供される情報を信じるしかない。この情報格差は非常に大きい。だからこそ、患者に対する説明責任が重要になる。もし医療上の重大な問題が発生したのであれば、患者本人や家族に対して、可能な限り事実を説明する。分からないことは「現時点では分からない」と説明する。調査中なら「調査中」と説明する。後から新しい事実が判明したなら、それも説明する。私は、「分からないことを分からないと言う」ことも、医療の誠実さだと思う。医療者がすべてを知っている必要はない。しかし、「何が分かっていて、何が分かっていないのか」を明確にする必要がある。

患者が最も不信感を抱くのは、事故そのものだけではない場合がある。説明されなかった。質問しても答えてもらえなかった。後になって別の事実が分かった。そうした経験が積み重なることで、「自分は何か隠されているのではないか」という疑念が生まれる。私は、ここに医療不信の根っこがあると思う。そして医療不信が広がると、本当に必要な医療まで疑われるようになる。これは患者にとっても医療者にとっても不幸なことである。

だから私は、「隠蔽をなくす」ことは、「医療を攻撃する」ことではないと思う。むしろ、「医療への信頼を守る」ために必要なことである。誠実に事故を報告する病院。患者に正確に説明する医師。ミスを報告しても再発防止につなげる組織。私は、こういう医療機関こそ本当に強い病院だと思う。反対に、「事故が起きても数字に出さない」「問題が起きても現場だけで処理する」「患者に説明しない」という文化があれば、表面的には事故件数が少なく見えるかもしれない。しかし、それは安全になったのではない。単に、見えなくなっただけかもしれない。

私は、ここを非常に怖い問題だと思う。事故件数が少ない病院が必ず安全とは限らない。報告件数が多い病院が必ず危険とも限らない。むしろ、積極的にヒヤリ・ハットを報告している病院は、問題を見つける能力が高い可能性もある。だから単純な数字だけで病院の安全性を判断することはできない。「何件報告されたか」だけではなく、「どのような事故が報告されたか」「その後どう改善したか」を見る必要がある。私は、ここに医療統計の難しさがあると思う。数字は非常に重要だ。しかし数字だけでは、現場の本当の姿を完全には表せない。だから、数字。記録。証言。制度。現場の状況。これらを組み合わせて見る必要がある。

そして、医療事故の原因を調べるときには、「人間の注意力」に頼りすぎてはいけない。例えば、看護師が薬を取り違えた。そこで、「次から注意してください」だけで終われば、再発防止としては弱い。人間はまた間違えるからだ。疲れる。焦る。眠くなる。忙しくなる。急患が入る。電話が鳴る。別の患者から呼ばれる。こうした状況で、完璧な注意力を維持し続けることは難しい。だから、「間違えても事故にならない仕組み」を作る必要がある。これは航空業界などでも重要視されてきた考え方である。一人のパイロットが間違えても、別の確認手順が働く。一つの機器が故障しても、別の機器がバックアップする。医療にも同じ発想が必要だと思う。一人が間違えたら終わり。ではなく、一人が間違えても次で止める。二人が間違えても、その次で止める。最終的に患者へ届く前にエラーを発見する。私は、この「多重防御」が医療安全の基本だと思う。

そして、ここで患者側にも一つの役割がある。患者自身が、「この薬は何ですか?」「これは何の点滴ですか?」「手術する場所はどこですか?」「この検査は何のためですか?」と質問する。これは非常に大切である。しかし、患者に安全確認の責任を押しつけることとは違う。患者が最後の防波堤になってはいけない。医療者側が十分な確認をした上で、患者にも分かりやすく説明する。その両方が必要だ。私は、「患者が質問しやすい病院」こそ安全な病院だと思う。質問すると嫌な顔をされる。説明を求めると「先生に任せてください」と言われる。薬について尋ねると「大丈夫です」とだけ答えられる。こうした環境では、患者は疑問を口にしなくなる。そして、疑問を口にしない患者ほど、異常に気づく機会を失う可能性がある。だから私は、「何でも聞いてください」という医療文化を作るべきだと思う。患者は医療の素人だから質問してはいけないのではない。素人だからこそ、専門家に質問する必要がある。そして医療者は、「そんなことも知らないのか」ではなく、「分かりにくかったですね。説明します」という姿勢を持つべきだと思う。私は、ここに本当の医療の優しさがあると思う。

そして、医療事故の問題をさらに深く考えると、「組織の評判」という問題にもぶつかる。病院にとって重大事故は、経営上も非常に大きな問題になる。患者からの信頼を失う可能性がある。報道される可能性もある。訴訟になる可能性もある。行政による調査が行われる場合もある。だから、組織として事故を小さく見せたいという誘惑が生まれる可能性がある。私は、ここを制度的に警戒する必要があると思う。病院の評判を守ることと、患者の安全を守ることが衝突した場合、私は当然、「患者の安全」を優先するべきだと思う。評判は後から取り戻せる。しかし失われた命は戻らない。傷ついた身体も簡単には元に戻らない。だからこそ、「病院のブランド」より、「患者の生命」を優先する文化が必要になる。

そして、ここで私はかなり強く言いたい。医療事故を隠して病院の評判を守るくらいなら、事故を公表して、「二度と同じことを起こしません」と言える病院のほうを私は信用する。もちろん、公表には個人情報保護などの問題がある。患者のプライバシーを守らなければならない。だから何でも無制限に公開すればいいという話ではない。しかし、「患者を守るために必要な情報」と、「患者の個人情報」を適切に区別しながら透明性を確保することは可能なはずだ。私は、医療の信頼は「事故がないこと」だけでは作れないと思う。事故が起きたとき、どう対応したか。どれだけ誠実だったか。患者に説明したか。原因を調べたか。再発防止策を取ったか。そこでも信頼は決まる。だから私は、「事故ゼロ」だけを掲げる病院より、「事故から学ぶ」ことを掲げる病院のほうが、本当の意味で安全文化を持っていると思う。

人間は間違える。医師も間違える。看護師も間違える。薬剤師も間違える。技師も間違える。そして患者も間違える。だから、「誰も間違えない医療」を作るのではなく、「誰かが間違えても患者を守れる医療」を作る。私は、それが現実的な医療安全だと思う。そして、そのためには、報告する。記録する。共有する。調査する。改善する。この循環を止めてはいけない。事故を隠せば、その場では組織を守れるかもしれない。しかし長期的には、次の患者を危険にさらす可能性がある。一人の事故を隠したことで、次の患者が同じ被害を受ける。私は、それだけは絶対に避けなければならないと思う。医療とは、人間の命を預かる仕事だからだ。そして命を預かる以上、「失敗しないこと」だけではなく、「失敗したときに誠実であること」も同じくらい重要である。

医療事故の本当の恐ろしさは、事故そのものだけではない。事故から学べないこと。同じ事故が繰り返されること。そして、「なぜ起きたのか」を誰も知らないまま終わることだ。私は、それを医原病の大きな影の一つとして、この本に残したい。

そして次は、さらに患者の身体へ直接入っていく。薬ではなく、「手術そのもの」である。なぜ手術は成功するのか。なぜ失敗するのか。なぜ同じ手術でも結果が違うのか。そして、「手術を受けなければ命が助かった可能性」まで考える必要があるのではないか。次章では、医療の中でも最も直接的に人間の身体へ介入する、「手術」の光と影を掘り下げる。

第7章 手術――命を救う技術、その成功と失敗

1.手術は本当に「成功」なのか――数字では見えない患者の現実

手術という言葉を聞くと、多くの人は「悪い部分を取り除いて、元の身体に戻す治療」をイメージする。確かに外科医学は、人類の歴史を大きく変えた。かつてなら命を落としていた病気や外傷でも、手術によって救える患者が増えた。しかし私は、手術の進歩を称賛するだけではなく、その裏側にある「手術によって生じる被害」についても目を向ける必要があると思う。

手術には、必ず侵襲がある。皮膚を切る。組織を切除する。血管や神経に触れる。場合によっては臓器そのものを切除する。そして、どれほど熟練した外科医であっても、人間の身体を完全に予測することはできない。だから手術には、出血、感染、血栓、神経損傷、臓器損傷、麻酔関連の合併症など、さまざまなリスクが存在する。

ここで私は、「成功」という言葉について考えてみたい。手術室から患者が生きて出てきた。予定していた処置を完了した。画像上では問題がなくなった。それだけで、本当に「成功」と呼べるのだろうか。患者に強い痛みが残った。神経障害が残った。日常生活に支障が出た。仕事を失った。長期間のリハビリが必要になった。別の手術が必要になった。こうした場合、医療者側の評価では「手術成功」とされても、患者本人にとっては必ずしも成功とは言えない場合がある。

私は、ここに医療評価の難しさがあると思う。医療者は医学的な指標を見る。患者は人生を見る。この二つが完全に一致するとは限らない。例えば、手術によって病変を取り除くことができたとしても、患者が術後に長期間の痛みを抱えることになれば、その人の生活は大きく変化する。医学的には成功していても、患者本人からすれば「以前の生活には戻れなかった」という結果になる可能性がある。だから私は、手術の評価には「手術が予定どおり終わったか」だけではなく、「患者がその後どのような人生を送れたか」という視点も必要だと思う。

さらに、手術を受ける前の患者は、非常に弱い立場に置かれている。痛みがある。不安がある。病気への恐怖がある。そして医師から、「手術が必要です」と言われる。医学知識のない患者にとって、その言葉は非常に重い。「手術しなければ危険です」と言われれば、手術を拒否することが難しくなる。もちろん、本当に緊急手術が必要な場合もある。命を救うために一刻を争う場合もある。しかし、緊急性が低い手術であれば、「本当に今すぐ必要なのか」「別の治療方法はないのか」「手術をしなかった場合はどうなるのか」を患者が知ることも重要だと思う。

私は、ここにセカンドオピニオンの意味があると思う。別の医師に相談することは、最初の医師を信用していないという意味ではない。むしろ、自分の身体について慎重に判断するための行為である。医師によって治療方針が違うこともある。手術を勧める医師もいれば、経過観察を提案する医師もいるかもしれない。薬物療法を提案する医師もいるかもしれない。もちろん、どちらが正しいかは病気や患者の状態によって変わる。だからこそ、「なぜ、その治療を選ぶのか」を患者自身が理解することが重要になる。私は、「先生がそう言ったから」だけで大きな手術を決めてしまうことには慎重でありたい。患者の身体は、医師のものではない。病院のものでもない。製薬企業のものでもない。患者自身のものである。だから、最終的な意思決定には患者自身が参加するべきだと思う。

そして、手術前の説明も非常に重要になる。手術の目的。期待できる効果。起こり得る合併症。回復までの期間。術後の生活。代替治療。手術をしなかった場合の見通し。これらを患者が理解できる形で説明する必要がある。専門用語を並べただけでは説明とは言えない。患者が理解できたかどうかが重要なのだ。私は、医師が患者に説明するとき、「分かりましたか?」と聞くだけでは不十分だと思う。患者は、「はい」と答えてしまうことがある。分からないと言うのが恥ずかしい。医師が忙しそうだから質問しにくい。家族が待っているから早く終わらせたい。さまざまな理由で、患者は本当は理解していなくても「分かりました」と答えることがある。だから医療者側から、「どこが分かりにくかったですか?」「もう一度説明しましょうか?」と聞く姿勢が必要になる。私は、これこそ患者中心の医療だと思う。

そして、手術そのものにも「人的エラー」という問題が存在する。人間がメスを持つ以上、完全な無誤差はあり得ない。手術器具の確認。患者の本人確認。手術部位の確認。必要な画像の確認。輸血の準備。薬剤の確認。麻酔の確認。手術チームの情報共有。これらが一つずつ積み重なって、安全が作られる。だから、どこか一つの確認が抜けるだけでも、重大な事故につながる可能性がある。私は、手術の安全性を外科医一人の腕だけで評価するべきではないと思う。優れた外科医がいても、周囲の情報共有が悪ければ事故のリスクは残る。逆に、チーム全体が安全確認を徹底していれば、個人のミスを途中で発見できる可能性が高くなる。だから、「名医がいる病院だから安全」という単純な考え方にも私は疑問を持つ。必要なのは、個人の能力と組織の安全システムの両方である。

そして、手術後に問題が起きた場合も重要になる。患者に異常が起きた。痛みが強くなった。発熱した。出血した。感染が疑われた。神経症状が出た。そのとき医療者がどのように対応するのか。私は、ここが非常に重要だと思う。手術後の異常を、「術後にはよくあることです」という一言だけで終わらせてしまえば、患者は不安になる。もちろん、本当に一般的な術後反応の場合もある。だからこそ、必要なのは「安心させること」ではなく「評価すること」だと思う。問題がないなら、「なぜ問題ないのか」を説明する。問題があるなら、「何が起きているのか」を説明する。原因が分からないなら、「まだ原因を特定できていない」と説明する。私は、この誠実さが重要だと思う。

そして、もし手術ミスが疑われる場合には、さらに慎重な対応が必要になる。手術記録。麻酔記録。看護記録。画像。検査結果。投薬履歴。これらを確認することで、何が起きたのかを検証できる可能性がある。だから医療記録は非常に重要である。私は、「記録は患者の権利を守る証拠」でもあると思う。何時に何が行われたのか。どの薬を使用したのか。どのような判断をしたのか。誰が担当したのか。これが記録されていれば、後から検証できる。逆に記録が不十分なら、患者側は何が起きたのかを知ることが難しくなる。

そして、ここで私は「医療事故の隠蔽」という問題へ戻りたい。事故が起きたとき、「何も問題ありませんでした」と説明してしまう。記録が不十分になる。患者に十分な説明をしない。内部では問題を把握しているのに、外部には伝えない。もし本当に意図的にこうした行為が行われたのであれば、私は重大な問題だと思う。ただし、ここでも事実確認が重要である。説明不足と意図的隠蔽は違う。記録ミスと改ざんも違う。判断ミスと故意の虚偽説明も違う。だからこそ、感情ではなく記録を調べなければならない。私は、医療事故を追及するときほど、「証拠」を重視するべきだと思う。患者の証言も重要だ。医師の証言も重要だ。看護師の証言も重要だ。しかし、それだけではなく、診療録。手術記録。麻酔記録。検査データ。画像。投薬記録。これらを総合して判断する。そうすれば、「誰が悪い」という感情論から一歩進むことができる。

そして、もう一つ重要なのが「医師の技術差」である。同じ手術名でも、すべての医師が同じ経験を持っているわけではない。年間に数百件経験している医師と、年間数件しか経験していない医師では、当然ながら経験値が異なる可能性がある。しかし患者は、その違いを簡単には知ることができない。だから私は、「誰が執刀するのか」「その医師はどの程度その手術を経験しているのか」「病院として年間どれくらいの症例を扱っているのか」を患者が知ることができる環境も必要だと思う。もちろん、手術件数だけで医師の技術を判断することはできない。難しい症例を多く扱う医師もいる。単純な症例を大量に扱う医師もいる。だから単純なランキングにすればいいという話ではない。しかし、患者が情報を得る権利はある。私は、ここでも透明性が重要だと思う。

そして、手術にはもう一つ大きな問題がある。「手術をしない」という選択肢が、本当に患者へ十分説明されているのかという問題である。手術が必要な場合は当然ある。しかし、医学の世界では、「経過観察」「薬物療法」「リハビリテーション」「生活習慣の改善」など、手術以外の選択肢が存在する場合もある。もちろん病気によって選択肢は全く違う。だから私は、患者が、「手術以外の選択肢はありませんか?」と質問することを勧めたい。これは医師に逆らうことではない。自分の身体について知ることである。そして、「手術しない場合のリスク」も聞く。手術した場合のリスク。手術しない場合のリスク。この二つを比較して初めて、本当の意味で治療方針を選べる。私は、医療とは「リスクゼロの選択」を探すことではなく、「複数のリスクの中から、患者にとって最も合理的な選択をすること」だと思う。

ここを理解すると、医療を見る目が変わってくる。手術が失敗したから、その医師は悪い。手術が成功したから、その医師は優秀。そんな単純な話ではない。重要なのは、「その時点で得られていた情報を基に、合理的な判断が行われたのか」「必要な確認が行われたのか」「患者へ十分な説明があったのか」「事故が起きた後に適切な対応が行われたのか」という点である。私は、この四つを非常に重要だと思う。

そして、ここではっきり言いたい。私は医師を敵にしたいわけではない。むしろ、真面目に患者を救っている医師を守るためにも、医療事故について正面から議論するべきだと思う。事故を隠す文化があれば、誠実な医師まで疑われる。説明をしない病院があれば、丁寧に説明している病院まで疑われる。副作用情報を十分に公開しない企業があれば、誠実に情報公開している企業まで疑われる。だから私は、「透明性」こそ医療全体を守る最大の武器だと思う。事故が起きたら調べる。原因を公開できる範囲で説明する。再発防止策を作る。そして、その結果を次の医療へ反映する。これができれば、医療はさらに強くなる。逆に、事故を隠してしまえば、「なぜ起きたのか」が分からない。分からなければ改善できない。改善できなければ、また同じことが起きる。私は、この循環を断ち切る必要があると思う。

手術は人類の偉大な発明の一つである。それによって救われた命は膨大だ。しかし、「手術が存在するから安心」ではない。手術は身体に直接介入するからこそ、慎重な判断が必要になる。そして、「成功率」という一つの数字だけでは、患者が経験する本当の結果をすべて表すことはできない。手術を受けた後、その人が歩けるようになったのか。働けるようになったのか。痛みはどうなったのか。生活は戻ったのか。精神的な負担はどうなのか。家族の生活はどう変化したのか。私は、そこまで含めて「医療の結果」と呼ぶべきだと思う。医学の発展とは、「手術を成功させる技術」だけを進歩させることではない。「手術を受ける必要が本当にあるのかを判断する技術」も進歩させるべきなのだ。そして、「手術後に患者がどんな人生を送るのか」まで見なければならない。私は、医療の本当の成功とは、手術室の中だけでは決まらないと思う。患者が病院を出た後、その人がどのように生きられるのか。そこまで見届けて、初めて「成功」と呼べるのではないだろうか。

そして次に、手術の成功と失敗を左右する、もう一つの存在へ目を向けたい。それが、「麻酔」である。患者が眠っている間、誰が命を管理しているのか。そして、もしその管理にエラーが起きたら、何が起こるのか。医原病の影は、手術そのものだけではない。手術台の横には、もう一つの巨大なリスクが存在している。

2.麻酔――患者が眠っている間、誰が命を守っているのか

手術を受ける患者は、手術台の上で意識を失う。自分の身体で何が行われているのかを見ることもできない。痛みを感じないように管理され、呼吸や循環、体温などを監視されながら手術を受ける。私は、これほど患者が医療者に身を委ねる瞬間は、医療の中でも極めて特殊な時間だと思う。

麻酔は単純に「眠らせる薬」ではない。全身麻酔では、意識、痛み、呼吸、循環などを総合的に管理する必要がある。患者の年齢、体重、既往歴、使用中の薬、アレルギー、呼吸器や心臓の状態など、多くの情報を確認したうえで麻酔計画を立てる。つまり麻酔とは、患者を眠らせることではなく、手術中の生命活動を高度に管理する医療なのである。私は、この事実を患者側にももっと知ってほしいと思う。「手術をする医師が重要なのは分かるけれど、麻酔は寝ているだけだから、それほど重要ではない」。もしそんな考え方を持っている人がいるなら、それは大きな誤解だ。患者が意識を失っている間こそ、生命を維持するための継続的な監視が必要になるからである。

そして、ここにも医原病の問題が存在する。薬剤の種類を間違える。投与量を間違える。投与するタイミングを誤る。患者の状態確認が十分でない。アレルギーや既往歴の確認が不十分である。モニターされている情報の見落としが起きる。こうしたエラーは、患者が意識を失っているため、自分自身で気づくことができない。私は、ここが麻酔医療の恐ろしさの一つだと思う。患者が起きていれば、「この薬は何ですか?」と聞ける。「気分が悪いです」と言える。「痛みが強いです」と訴えられる。しかし、全身麻酔中の患者には、その能力がない。だからこそ、医療者側の確認と監視が極めて重要になる。患者は完全に医療者へ身を預けている。私は、この状況を考えると、「権限と責任は常にセットであるべきだ」と思う。医療者が患者の生命を管理する権限を持つのであれば、それに比例して高い安全管理責任を負うべきである。

もちろん、麻酔科医や手術チームの多くは、患者の安全を守るために高度な訓練を受けている。麻酔管理には専門的な知識と技術が必要であり、手術中には患者の状態を継続的に監視する。だから私は、麻酔そのものを危険な医療として否定するつもりはない。むしろ、麻酔によって多くの患者が痛みを抑えながら手術を受けられるようになったことは、医学の大きな進歩だと思う。しかし、「高度な技術だから安全」という言葉だけでは十分ではない。高度な技術ほど、「エラーが起きた場合の被害」も大きくなる可能性がある。自動車より飛行機のほうが高度な技術を使っている。だからこそ、飛行機には何重もの安全システムが存在する。麻酔にも同じ発想が必要だと思う。一人の医療者の記憶力だけに頼らない。一人の判断だけに頼らない。一つのモニターだけに頼らない。複数の確認を組み合わせる。異常があれば警告する。そして、必要なら別の医療者が介入する。私は、こうした「多重防御」が医療安全の基本だと思う。

さらに重要なのが、手術前の情報である。患者が過去にどのような病気をしたのか。どんな薬を飲んでいるのか。アレルギーはあるのか。過去に麻酔で問題が起きたことはないか。呼吸器や心臓に問題はないか。こうした情報が正確に共有されなければ、麻酔計画にも影響する。だから、患者自身が自分の薬や既往歴を伝えることも重要になる。私は、「昔のことだから関係ないだろう」と思わないでほしい。過去の麻酔で問題があった。特定の薬でアレルギーが出た。普段から特定の薬を服用している。こうした情報は、患者の安全に関わる可能性がある。分からないことは、「分かりません」でいい。記憶が曖昧なら、「以前、麻酔で何か問題があったと言われました」と伝えればいい。医療者が必要な情報を確認するための材料になるからだ。

そして、患者が薬の情報を伝えることと同時に、医療者側にも確認責任がある。患者だけに、「ちゃんと伝えましたか?」と責任を押しつけるのは違う。医療は共同作業だからだ。患者から情報を聞く。医療者が記録する。別の医療者が確認する。必要なら家族や過去の診療記録から補足する。こうした複数の確認が必要になる。私は、「患者が忘れる可能性」まで含めて設計された医療システムこそ、安全なシステムだと思う。人間は忘れる。患者も忘れる。医師も忘れる。看護師も忘れる。だから、記憶だけに頼らない。これが重要なのである。

そして麻酔では、薬剤の管理も重要になる。薬にはそれぞれ目的がある。鎮静。鎮痛。筋弛緩。循環管理。吐き気の予防。その他の必要な処置。手術の内容や患者の状態に応じて、複数の薬剤が使用されることがある。つまり、手術室には多くの薬剤が存在する。だからこそ、薬剤の取り違えや投与量の間違いを防ぐ仕組みが必要になる。薬の名前を確認する。ラベルを確認する。投与量を確認する。投与経路を確認する。患者を確認する。必要ならダブルチェックする。私は、こうした基本動作を「当たり前だから重要ではない」と考えてはいけないと思う。むしろ、事故を防ぐのは、「当たり前のことを毎回確実に行う」ことだからである。

そして、人間が毎回同じ精度で確認できないことも前提にしなければならない。手術は長時間になることがある。緊急手術なら、時間的な余裕がない。患者の状態が突然変化することもある。そうした状況では、医療者の精神的負担も大きくなる。だから私は、「もっと注意してください」だけでは安全対策にならないと思う。注意力に頼るのではなく、「注意力が低下しても事故を防げる仕組み」を作るべきだ。これは麻酔だけではない。手術。点滴。投薬。検査。輸血。すべてに共通する考え方である。

そして、もし麻酔中に異常が発生した場合には、異常を早期に発見することが重要になる。血圧。心拍数。酸素化。呼吸。体温。意識状態。こうした情報を継続的に確認する。つまり、麻酔中の患者は「眠っている」のではなく、「医療チームによって生命状態を管理されている」のである。私は、この事実を患者が理解しておくことも重要だと思う。麻酔から目覚めた後、「無事に終わりました」と言われる。しかし患者本人には、手術中の出来事が分からない。だからこそ、「どんな麻酔を使ったのか」「手術中に問題はなかったのか」「術後に注意すべきことは何か」など、必要な説明を受けることが重要になる。もちろん、すべての医学情報を患者が理解する必要はない。しかし、自分の身体について重要な情報を知る権利はある。そして、もし術後に異常があった場合、「麻酔の影響なのか」「手術の影響なのか」「別の原因なのか」を医療者に確認していい。私は、患者が遠慮しすぎる必要はないと思う。医師や看護師が忙しそうだから質問できない。そんな必要はない。患者が質問することは、医療者を邪魔することではない。自分の生命について確認しているだけである。そして医療者側も、「患者は素人だから説明しても分からない」と考えてはいけない。分からないなら、分かるように説明する。専門用語を使うなら、意味を説明する。患者が理解できたか確認する。それが医療者の責任だと思う。

さらに、私は麻酔事故を考えるとき、「個人のミス」だけを見てはいけないと思う。もし薬剤を間違えたのであれば、なぜ間違えたのか。なぜ別の人が気づかなかったのか。なぜシステムが警告しなかったのか。なぜ薬剤が似た場所に置かれていたのか。なぜ忙しい時間帯に確認が省略されたのか。こうしたところまで調べる。そうしなければ、同じ事故は再び起きる可能性がある。私は、「誰か一人を処分すれば安全になる」という考え方には疑問を持っている。もちろん重大な過失や故意の行為には責任が必要だ。しかし単純なヒューマンエラーなら、「なぜそのミスが起こる環境だったのか」を調べなければならない。

そして、ここでも医療事故の報告制度が重要になる。ヒヤリ・ハットが起きた。しかし患者には影響がなかった。それでも報告する。なぜなら、その出来事が次の事故を防ぐ材料になるからだ。私は、「患者に被害が出なかったから報告しなくていい」という考え方は危険だと思う。事故にならなかったのは、単なる偶然だったかもしれない。誰かが偶然気づいたのかもしれない。ほんの少しタイミングが違えば、重大事故になっていたかもしれない。だから、ヒヤリ・ハットは医療安全にとって貴重な情報なのである。そして私は、医療者が事故を報告しやすい環境を作ることが重要だと思う。報告したら怒られる。報告したら人事評価に影響する。報告したら病院の評判が落ちる。そんな環境では、報告件数が減る可能性がある。しかし、「報告件数が減った」ことと、「事故が減った」ことは同じではない。ここは非常に重要だ。表面上の数字だけを見て、「事故が少ない病院だから安全」と判断してはいけない。むしろ、事故やヒヤリ・ハットを積極的に報告し、その結果として改善している病院もある。私は、「問題を発見できる病院」のほうが、「問題が存在しないように見える病院」より信頼できる場合があると思う。

そして、ここではっきり書いておきたい。私は医師や看護師を敵にしたいわけではない。むしろ、患者の命を守ろうとしている医療者が、安心して問題を報告できる環境を作るべきだと思っている。医療者を守ることと、患者を守ることは対立しない。両方を守る仕組みを作ればいい。ミスを報告した人を必要以上に責めない。しかし、故意の隠蔽や記録改ざんなどは別問題として厳正に調べる。この区別を明確にする。私は、それが健全な医療組織だと思う。

そして、「患者に説明する」ということも忘れてはいけない。事故が起きたなら、患者には何が起きたのかを説明する。原因がまだ分からないなら、「原因は調査中です」と伝える。分からないことを無理に断定しない。しかし、都合の悪い事実を隠すために曖昧な説明をすることも許されない。私は、「正確な情報」こそ医療への信頼を守ると思う。医療者が完璧だから信頼するのではない。間違いが起きたときにも誠実に対応するから信頼できる。私は、そういう医療を望んでいる。

麻酔は、医学の大きな進歩である。麻酔がなければ、現在の外科手術の多くは成立しない。だから私は、麻酔そのものを恐怖の対象として描きたいわけではない。むしろ、「これほど重要な医療だからこそ、安全管理を徹底しなければならない」ということを伝えたい。患者が眠っている間、医療者は眠ってはいけない。患者が何も言えない間、医療者は患者の身体が発する小さな変化を見逃してはいけない。そして、もし問題が起きたなら、「誰か一人のせい」で終わらせず、「なぜ防げなかったのか」まで追究する。私は、それが医療の責任だと思う。

そして、ここからさらに現実的で身近な問題へ進みたい。麻酔だけではない。病院では、毎日大量の点滴と薬剤が患者へ投与されている。もし、「点滴の種類を間違えたら?」「薬を取り違えたら?」「投与量を間違えたら?」「別の患者に投与したら?」という問題が起きたらどうなるのか。患者は、自分の腕につながれた点滴の中身を確認できない。だからこそ、「医療者が間違えないこと」ではなく、「医療者が間違えても患者へ届く前に止めること」が重要になる。次項では、点滴・投薬ミスについて、さらに掘り下げていく。

3.一本の薬が命を奪う――麻酔・投薬ミスの現実

患者は、手術室へ入ると医療者に身体を預けることになる。自分で薬を選ぶこともできない。自分で点滴を確認することもできない。まして全身麻酔で意識を失っていれば、何が身体の中へ入っているのかを自分自身で確認することさえできない。私は、この瞬間こそ医療者側の責任が最も重くなる時間の一つだと思う。

薬剤投与のミスは、決して映画や都市伝説の世界だけの話ではない。日本の麻酔関連施設を対象に、1999年から2002年までの4年間、合計429万1,925件の麻酔を分析した研究では、薬剤投与エラーによる重大インシデントが10万麻酔あたり18.27件発生していた。さらに、そのようなインシデントに続く死亡は10万麻酔あたり0.44件と報告されている。

数字だけを見ると小さく感じるかもしれない。しかし、医療では「0.44」という数字の向こう側に、実際の人間が存在する。その人には家族がいた。仕事があった。人生があった。病気を治すために病院へ行ったのに、薬剤投与のエラーによって人生そのものが変わる可能性がある。私は、医療事故の数字を見るときには、必ずその数字の後ろにいる一人の人間を想像しなければならないと思う。

そして、この日本の研究で報告された重大インシデントの原因を見ると、非常に興味深い。非麻酔薬の過量投与・選択ミスが42.1%、麻酔薬の過量投与が28.7%、高位脊髄くも膜下麻酔が17.9%、局所麻酔薬中毒が6.4%、アンプルや注射器の取り違えが4.3%だった。つまり、問題は単純な「薬を間違えた」という一種類の事故ではない。過量だったのか。薬そのものを選び間違えたのか。投与する場所を間違えたのか。アンプルや注射器を取り違えたのか。こうした複数のエラーが存在する。

私は、ここに医療の恐ろしさがあると思う。患者は薬剤の専門家ではない。点滴につながれている薬剤が、本当に自分へ投与されるべきものなのかを判断できない。手術室で準備されている注射器の中身を見分けることもできない。だからこそ、患者側からすれば、「医療者が確認してくれている」という一点に頼るしかない。そして、もしその確認が失敗したら、患者には防ぐ手段がない。

実際、医学文献には薬剤の取り違えによって重大な被害が発生した事例が報告されている。1998年に報告された南アフリカの症例では、脊髄くも膜下麻酔の際、本来使用する局所麻酔薬の代わりに塩化カリウムが誤って投与され、患者は激しい痛みやけいれんを起こし、約2時間半後に死亡した。「塩化カリウム」と「麻酔薬」。当然、同じ薬ではない。しかし医療現場では、薬剤を準備する人間が存在し、アンプルを選び、注射器へ移し、患者へ投与するという複数の工程がある。そのどこかで確認が破綻すれば、本来なら患者の身体に入るはずのなかった物質が、直接身体へ入ってしまう可能性がある。私は、この事実を「人間だから仕方がない」の一言で終わらせるべきではないと思う。

さらに衝撃的なのは、2021年に発表されたレビューである。脊髄周辺へ誤って塩化カリウムを投与した症例を調査したところ、28人の患者について報告があり、そのうち22人が対麻痺、11人が人工呼吸管理を受け、3人が死亡していた。これは、単純な「薬の副作用」ではない。薬そのものが治療目的で使われたわけでもない。投与経路を間違えたのである。私は、ここに「医原病」の本質の一つがあると思う。治療のために存在する薬が、間違った場所へ入った瞬間、「治療薬」から「危険物」へ変わってしまう。つまり、薬そのものだけを見ても医原病は理解できない。「何の薬なのか」だけではなく、「誰に」「どの量を」「どのタイミングで」「どの経路から」投与したのかまで見なければならない。

さらに、海外の文献では、薬剤を本来とは異なる経路へ投与してしまう「wrong-route medication error」も報告されている。レビューでは、誤接続などによる事例の中で、抗がん剤のビンクリスチン、筋弛緩薬、局所麻酔薬などが誤った経路から投与され、死亡に至った症例が確認されている。ここで私は、非常に重要なことを言いたい。医療事故を考えるとき、「その薬は危険だったのか?」だけを考えてはいけない。「なぜ、その薬がそこに入ったのか?」を考えるべきなのだ。薬剤の保管場所は適切だったのか。ラベルは分かりやすかったのか。注射器は識別できたのか。別の医療者が確認したのか。患者確認は行われたのか。投与経路は確認されたのか。電子システムによる警告はあったのか。こうした一つ一つの防波堤が存在する。その防波堤が一つ、また一つと破られたとき、事故は患者まで到達する。私は、ここに「医療安全の本当の姿」があると思う。

そして、ここでマイケル・ジャクソンの死についても触れておきたい。世界的スターだったマイケル・ジャクソンは2009年6月25日に死亡した。死因についてロサンゼルス郡検視局は、プロポフォールによる急性中毒を主因とし、ベンゾジアゼピン系薬剤の作用も寄与したと判断した。担当医コンラッド・マレー医師は後に過失致死罪で有罪となった。この事件を、「睡眠薬の投与ミス」とだけ表現すると正確ではない。プロポフォールは一般的な睡眠薬というより、医療現場で麻酔・鎮静に用いられる薬剤である。だからこそ、マイケル・ジャクソンの死は「眠るための薬を間違えた」という単純な話ではなく、強力な鎮静薬の使用、患者の状態監視、薬剤管理、医師の判断などを含む重大な医療安全問題として考える必要がある。

私は、ここで有名人だから特別な事件だったと考えたくない。むしろ逆だ。有名人の事件だからこそ、世界中の人間が注目した。しかし、名前のない一般患者にも、薬の量を間違える。薬を取り違える。投与経路を間違える。点滴を取り違える。アレルギー情報を見落とす。というリスクは存在する。違うのは、「その事故が世界中に報道されたかどうか」だけなのかもしれない。私は、ここを患者目線で考えたい。もし自分の家族が手術を受けるとする。麻酔を受ける。点滴につながれる。何種類もの薬剤を投与される。患者本人は、その薬剤を一つ一つ確認できない。家族も手術室の中には入れない。そして、医療者を信頼して待つ。だからこそ、「医療者が間違えないこと」だけでは足りない。「間違えても患者へ届く前に発見できる仕組み」が必要になる。私は、これこそ医療安全の原則だと思う。

人間は間違える。だから、システムで補う。人間が疲れる。だから、機械で警告する。人間が見落とす。だから、二重確認する。人間が取り違える。だから、薬剤を識別しやすくする。そして、それでも事故が起きたら、記録する。報告する。調査する。改善する。この循環を止めてはいけない。

ところが、ここで問題になるのが「事故を報告する文化」である。もし医療者が、「ミスを報告したら自分が処分される」「病院の評判が悪くなる」「上司に怒られる」「患者から訴えられる」と恐れる環境だったら、ヒヤリ・ハットや事故の報告は減る可能性がある。しかし、報告件数が減ったからといって、事故そのものが減ったとは限らない。私は、ここを非常に重要な問題だと思う。「事故が少ない病院」と、「事故を報告しない病院」は、数字だけでは区別できないからだ。だから医療安全を評価するなら、事故件数だけではなく、ヒヤリ・ハットの報告数。報告後の改善内容。再発率。患者への説明。第三者による検証。こうした情報まで見なければならない。

私は、医療機関にとって本当に恥ずかしいのは、「事故が起きたこと」だけではないと思う。事故が起きたのに、何も学ばなかったこと。同じ事故が繰り返されたこと。患者に説明しなかったこと。原因を記録しなかったこと。そして、問題を組織の都合で小さく見せようとしたこと。もしそうしたことがあれば、それこそ厳しく問われるべきだと思う。もちろん、すべての医療事故を「隠蔽」と呼ぶのは間違っている。単純なミスもある。記録漏れもある。情報伝達の失敗もある。意図的な隠蔽とは区別しなければならない。しかし、「患者に何が起きたのか」を説明する責任は別問題である。私は、「原因が分からないなら、分からないと説明する」「調査中なら、調査中だと説明する」「新しい事実が判明したら、それを説明する」という誠実さが必要だと思う。患者にとっては、「何が起きたのか分からない」ことそのものが大きな苦痛になるからだ。

そして私は、医療者個人だけを責めることにも反対である。例えば薬剤を取り違えた看護師がいたとする。もちろん、その行為について事実確認は必要だ。しかし、なぜ取り違えたのか。薬のラベルは見やすかったのか。薬剤の配置は適切だったのか。忙しすぎなかったか。別の医療者が確認できる仕組みはあったのか。システムに警告機能はあったのか。こうした背景まで調べなければ、同じ事故は別の人間によって再び起こる可能性がある。私は、「人間を交換すれば安全になる」という発想ではなく、「システムを改善すれば安全になる」という発想を持つべきだと思う。医療は、人間が人間を治療する仕事である。だから、完全な無事故など簡単には実現できない。しかし、「間違いが起きること」を前提にしたシステムを作ることはできる。そして、医療の進歩とは、新しい薬を作ることだけではない。新しい手術方法を開発することだけでもない。「間違えても患者を守れる仕組み」を作ることも、医学の発展なのである。私は、この考え方をもっと広めるべきだと思う。

薬は人間を救う。麻酔は人間を救う。手術は人間を救う。点滴も救命に使われる。しかし、その一つ一つが強力であるからこそ、間違えたときの危険も大きい。だからこそ、医療者には慎重さが必要になる。病院には透明性が必要になる。行政には監視が必要になる。そして患者には、「質問する権利」がある。私は、「医療を信じるな」とは言わない。むしろ、「医療を信じるからこそ、医療を検証できる社会にしろ」と言いたい。

そして、一本の注射。一本の点滴。一錠の薬。一回の麻酔。それぞれの背後には、一人の患者の人生がある。医療者にとっては、「一回の投与」でも、患者にとっては、「人生を左右する一回」になる可能性がある。だから私は、この本で医療事故を数字だけで終わらせない。数字を調べる。事件を調べる。記録を調べる。そして、「なぜ防げなかったのか」を問い続ける。医学が人類を救う力を持つなら、その力が暴走したとき、誰が止めるのか。その問いから逃げてはいけないと思う。

そして次は、薬剤投与ミスだけではなく、「点滴・輸血・患者取り違え――目の前の患者を別人として扱ってしまう医療」という、さらに基本的でありながら重大な問題へ進む。

4.点滴・輸血・患者取り違え――「あなたは誰ですか?」という医療事故

病院へ行けば、患者は名前を呼ばれ、受付を済ませ、診察を受け、検査を受け、必要なら点滴や注射を受ける。一見すると当たり前の流れに見える。しかし医療現場では、この「当たり前」の一つ一つが患者の生命に直結している。私は、医療安全の原点は、最先端の医療技術よりも、まず「目の前にいる患者が誰なのか」を正確に確認することだと思う。

患者確認は、医療行為の基本中の基本である。名前、生年月日、患者番号、リストバンドなど、複数の情報を使って本人確認を行う。それは単純な作業に見えるが、病院には同姓同名の患者がいる可能性もあり、名前だけでは十分とは限らない。だからこそ、複数の識別情報を組み合わせ、患者本人と医療記録を確実に結びつける必要がある。

もし患者を取り違えたら、何が起こるのか。別の患者の検査をしてしまう。別の患者へ薬を投与してしまう。別の患者へ輸血してしまう。別の患者に手術を行ってしまう。これは単純な事務上のミスではない。患者の身体へ直接影響する重大な医療安全問題である。

特に輸血は、患者確認が極めて重要な医療行為の一つである。血液型が適合しない血液を輸血すれば、重篤な輸血反応を引き起こす可能性がある。だから輸血では、血液製剤そのものの確認だけではなく、「その血液を誰に投与するのか」という患者確認が重要になる。私は、輸血事故を考えるとき、「血液が間違っていた」だけを見るべきではないと思う。なぜ間違った血液が準備されたのか。なぜ確認段階で発見できなかったのか。なぜ別の医療者が気づかなかったのか。患者本人の確認は行われたのか。記録と現物は一致していたのか。こうした一連の流れを調べる必要がある。

そして、ここにも「多重防御」という考え方が存在する。一人が確認する。別の人間が確認する。記録と照合する。患者本人を確認する。血液製剤を確認する。必要な情報をシステムでも照合する。一つの確認が失敗しても、次の確認で止める。私は、医療安全とはこのような仕組みを何重にも作ることだと思う。人間の記憶力だけを信用するのは危険である。人間は疲れる。人間は急ぐ。人間は思い込みをする。そして、人間は似たものを見間違える。だから医療安全では、「人間がミスをする」という前提に立たなければならない。

例えば、病院のベッドに同じ名字の患者が二人いたとする。忙しい時間帯に、「○○さん、点滴です」とだけ確認してしまえば、取り違えが起きる可能性がある。しかし、氏名。生年月日。患者番号。リストバンド。電子記録。こうした複数の情報を照合すれば、間違いを発見できる可能性が高くなる。私は、「確認を面倒だと思わない文化」が必要だと思う。忙しいから省略する。いつもの患者だから大丈夫。顔を知っているから大丈夫。前にも投与した薬だから大丈夫。こうした「大丈夫だろう」という思い込みこそ、医療安全では危険になる。

そして、点滴も同じである。点滴は、患者の身体へ直接薬剤や輸液などを投与する。薬剤によって目的も作用も異なり、投与量や速度、投与経路などの確認も必要になる。さらに、患者によって必要な治療内容は違う。同じ病室にいるからといって、隣の患者と同じ点滴を使うとは限らない。だから、「この患者に、この点滴」という組み合わせを確実に確認する必要がある。私は、ここに「患者を一人の人間として見る」という基本があると思う。患者を、「ベッド番号12」「○○病棟の患者」「○○という病名の患者」という記号だけで見てしまえば、個人を取り違える危険が高まる。患者には名前がある。家族がいる。人生がある。そして、その人にしかない病歴や薬歴がある。だから、「この人に、この治療をする」という意識が必要なのだ。

さらに、患者本人にもできることがある。点滴が始まるとき、「これは何の点滴ですか?」と聞く。薬を渡されたら、「これは何の薬ですか?」と聞く。分からなければ、「もう一度説明してください」と言う。私は、患者が質問することは非常に重要だと思う。しかし、ここでも注意が必要だ。患者に確認をさせれば医療者側の責任が軽くなるわけではない。患者は専門家ではない。薬剤の名称を見ても分からない場合がある。点滴の袋を見ても、その中身が正しいか判断できない場合がある。だから患者確認は、「患者にも確認してもらう」だけではなく、「医療者側が責任を持って確認する」ことが基本になる。患者を最後の防波堤にしてはいけない。患者は、「医療者が安全に治療してくれる」ことを期待して病院へ来ている。私は、その期待に応えることが医療者の責任だと思う。

そして、ここで非常に重要なのが「名前の似た薬」である。医療現場には、名前が似ている薬剤や外観が似ている薬剤が存在することがある。人間の目は、文字を一文字ずつ完全に読むわけではない。最初と最後だけ見て判断してしまうこともある。忙しい環境では、思い込みによる確認ミスが起きる可能性もある。だから、薬剤名を見やすくする。保管場所を分ける。バーコードなどの認証を利用する。危険性の高い薬剤を明確に識別する。こうした対策が重要になる。私は、「人間にもっと注意させる」だけでは不十分だと思う。人間の注意力には限界があるからだ。だから、「間違えにくい環境を作る」ことが必要なのである。

これは非常に重要な違いである。ミスをした人を責めるだけなら、問題はその人間に集中する。しかし、環境を変えれば、同じ種類のミスを組織全体で減らすことができる。例えば、「薬剤を間違えた」という事故があったとする。担当者を叱る。始末書を書かせる。それだけで終われば、根本的な改善にはならない。なぜ間違えたのか。薬剤が隣に置かれていたのか。ラベルが小さかったのか。名前が似ていたのか。忙しい時間帯だったのか。ダブルチェックが形骸化していたのか。電子システムが警告しなかったのか。ここまで調べる。私は、それが事故調査の本当の意味だと思う。

そして、ここから「人的ミス」と「組織の責任」の境界が見えてくる。現場の医師や看護師が間違えた。だから、その人だけが悪い。そう考えるのは簡単である。しかし、その人が間違える可能性を高める環境を組織が作っていたのであれば、問題は個人だけではなくなる。極端な人員不足。長時間勤務。複雑すぎる手順。不十分な教育。情報共有不足。古いシステム。不十分な設備。こうした要因が重なれば、人的エラーが起きる可能性は高くなる。私は、「人間がミスした」という事実の裏側を見る必要があると思う。

そして、それは病院経営にも関係する。安全設備には費用がかかる。人員を増やすにも費用がかかる。最新の電子システムを導入するにも費用がかかる。教育にも時間と費用が必要になる。では、「医療安全にどこまでお金を使うのか」という問題が出てくる。私は、ここで短期的なコストだけを見てはいけないと思う。一つの重大事故が起きれば、患者の人生が変わる。家族も影響を受ける。医療者自身も精神的な負担を抱える。病院も信頼を失う可能性がある。場合によっては訴訟や行政上の対応も必要になる。そう考えれば、「事故を防ぐための費用」は単なる経費ではない。患者の生命を守るための投資なのである。

そして私は、ここで「事故の隠蔽」という問題に戻りたい。点滴を間違えた。しかし患者に重大な影響はなかった。その場合、「何もなかったことにしよう」と考える人が出る可能性がある。輸血の確認でミスが見つかった。しかし投与前だった。だから記録しなくてもいい。私は、こうした考え方が危険だと思う。患者への被害が発生しなかったとしても、「事故になりかけた」という事実には価値がある。それを記録すれば、次の事故を防げる可能性がある。私は、「何も起きなかったから問題ない」ではなく、「なぜ何も起きずに済んだのか」を調べることが重要だと思う。誰かが気づいたのか。システムが警告したのか。患者が質問したのか。偶然だったのか。もし偶然だったのなら、次は偶然に頼らない仕組みを作らなければならない。

そして、「患者取り違え」という問題は、手術や投薬だけに限らない。検査結果が別の患者のものになる。画像診断のデータが別人と混ざる。診療情報が別の患者に紐づく。書類が取り違えられる。こうした情報の取り違えも、医療判断に影響する可能性がある。医療は、身体だけではなく情報によって動いている。だから私は、「患者確認」を医療安全の中心に置くべきだと思う。患者を間違えない。薬を間違えない。検査を間違えない。治療を間違えない。そのために情報を正確につなぐ。これは当たり前のようでいて、医療の根本なのである。

そして、患者側からすれば、「自分の情報が正しく扱われている」という安心感も重要になる。名前を間違えられた。生年月日を間違えられた。薬の内容を間違えられた。こうした経験をすれば、患者は当然不安になる。まして、「あなたのカルテが別の人のものになっていました」などと言われれば、医療全体への信頼が揺らぐ。私は、患者の不安を「細かいこと」と考えてはいけないと思う。医療では、「細かい確認」が命を守ることがあるからだ。

そして、輸血ではさらに厳格な管理が求められる。血液製剤は、人間の身体へ直接入る。だから、患者確認と血液製剤の照合が極めて重要になる。もし誤輸血が起きれば、重大な健康被害につながる可能性がある。だから、「確認を一回したから大丈夫」ではなく、複数の段階で確認する。私は、こうした考え方を医療全体へ広げるべきだと思う。手術前。麻酔前。点滴前。注射前。輸血前。薬の投与前。検査前。それぞれの場所で、「患者は誰か」「何をするのか」「なぜするのか」「どの薬を使うのか」「どの量なのか」を確認する。そして異常があれば、「一旦止める」という勇気も必要になる。

私は、医療現場で最も大切な言葉の一つは、「ちょっと待ってください」だと思う。何かがおかしい。薬の名前が違うように見える。患者の名前が違う。記録と現物が一致しない。指示内容に疑問がある。そんなとき、「忙しいから」「先生の指示だから」「今さら言いにくいから」と流してはいけない。一度止めて確認する。その数十秒が、患者の人生を守ることになるかもしれない。私は、医療者が疑問を口にできる文化を作ることが非常に重要だと思う。若い看護師が、「先生、確認してもいいですか?」と言える。若い医師が、「この薬剤で合っていますか?」と言える。ベテランが、「もう一度患者確認をしましょう」と言える。立場に関係なく安全を優先する。私は、それが強い医療組織だと思う。

逆に、「上司の言うことに逆らうな」「忙しいから確認するな」「今まで問題なかった」という文化は危険である。医療において、「今まで事故がなかった」ことは、「これからも事故が起きない」ことを保証しない。むしろ、何百回も無事だったからこそ、「大丈夫だろう」という油断が生まれることがある。私は、医療安全にとって最も危険な言葉の一つは、「いつもこうしているから大丈夫」だと思う。医療環境は変化する。患者も変わる。薬も変わる。医療機器も変わる。スタッフも変わる。勤務状況も変わる。だからこそ、毎回確認する必要がある。

そして、患者にも、「質問していい」という文化を広げる。患者が、「これは私の薬ですか?」と聞いてもいい。「この点滴は何ですか?」と聞いてもいい。「手術する場所はここで合っていますか?」と聞いてもいい。「この検査は何のためですか?」と聞いてもいい。私は、患者が質問する医療こそ健全な医療だと思う。患者が黙っているから良い医療なのではない。患者が安心して質問できるからこそ、信頼関係が生まれる。そして、「質問する患者は面倒な患者」という考え方も改めるべきだと思う。質問するということは、自分の生命に関心を持っているということだからだ。私は、医療者側にも患者側にも、「確認する勇気」を持ってほしい。

そして、事故が起きたなら、隠さない。記録する。報告する。説明する。調査する。改善する。この流れを止めない。医療事故をゼロにすることは難しい。しかし、「同じ事故を繰り返さない」ことは目指せる。そのためには、事故を失敗として隠すのではなく、「次の患者を守るための情報」として扱う必要がある。私は、医療の発展とは、新しい薬を作ることだけではない。新しい手術を開発することだけでもない。患者を取り違えない。薬を間違えない。点滴を間違えない。輸血を間違えない。そして、間違えたときには隠さず学ぶ。そんな仕組みを作ることも、立派な医療の発展だと思う。

そして次は、さらに患者にとって身近で恐ろしい問題へ進みたい。心臓、肝臓、膵臓、脳、そして形成外科――臓器ごとに異なる危険をどう見るべきなのか。次項では、そこを掘り下げる。

5.臓器別に見る医療ミス――心臓、肝臓、膵臓、脳、そして形成外科

医療ミスを考えるとき、「手術」という一つの言葉だけでは、現場の危険性は見えてこない。心臓、肝臓、膵臓、脳、血管、整形外科、形成外科など、それぞれの手術には異なる危険が存在する。さらに、手術そのものの失敗だけではなく、診断、麻酔、投薬、患者確認、術後管理など、手術の前後に発生するエラーまで含めなければならない。WHOは、世界で年間3億件を超える手術が行われ、外科医療に関連する予防可能な患者被害が大きな割合を占めるとしている。

まず、心臓手術である。心臓は生命維持そのものに関わる臓器であり、冠動脈バイパス術、弁置換術、大動脈手術など、高度な技術を必要とする手術が行われている。心臓手術では、出血、感染、脳梗塞、腎障害、不整脈など、さまざまな合併症が問題になる。私は、ここで「心臓手術だから危険」という単純な話にするのではなく、患者の状態、手術の難易度、術者やチームの経験、術後管理などを分けて考える必要があると思う。特に心臓外科では、手術中だけでなく術後の管理が極めて重要になる。手術そのものが予定どおり終了しても、術後に出血や循環不全、感染などが発生する可能性がある。つまり「手術成功」という言葉だけでは、患者が最終的にどのような結果になったのかを完全には表せない。私は、手術室を出た瞬間をゴールにするのではなく、その後の生命状態まで含めて医療の結果を見る必要があると思う。

次に肝臓である。肝臓手術では、切除する範囲、血管や胆管との位置関係、出血管理など、非常に高度な判断が必要になる。肝臓は血流が豊富な臓器であり、手術では出血が大きな問題になる場合がある。また、術後の肝機能低下なども重要な問題になるため、「切除できたか」だけではなく、残された肝臓が十分に機能できるかという視点も必要になる。ここで医療ミスを考えるなら、「切る場所を間違えた」という単純な問題だけではない。術前画像の読み違い、病変の位置確認、血管や胆管の認識、手術計画、術中の判断、術後管理など、複数の段階にエラーが入り込む可能性がある。私は、難しい手術ほど「一人の名医の技術」だけではなく、画像診断、麻酔、看護、病理、術後管理を含めたチーム全体の安全性を見るべきだと思う。

さらに難しいのが膵臓である。膵臓手術は、膵臓だけを単純に切除すれば終わるものではなく、周囲の血管や胆管、消化管などとの関係を考えながら行う必要がある。術後には膵液漏、感染、出血などの合併症が問題になることがあり、術後管理も重要になる。だから膵臓手術では、手術技術だけでなく、合併症を早期に発見して対応する能力も患者の結果を左右する。私は、ここに「医療ミス」という言葉の難しさがあると思う。術後に合併症が起きたからといって、それだけで医療ミスとは言えない。手術を適切に行っても、医学的に予測できない合併症が起こることはある。だからこそ、事故なのか、不可避な合併症なのか、判断可能なエラーなのかを区別しなければならない。

そして、脳神経外科である。脳は、人間の意識、運動、言語、記憶などに関係する極めて重要な臓器である。脳手術では、わずかな損傷が運動機能や言語機能などに影響する可能性があるため、手術の難易度は非常に高い。私は、脳外科ほど「手術が成功した」という言葉だけでは患者の結果を表せない分野はないと思う。腫瘍を摘出できた。出血を止めた。手術を完了した。それだけでは十分ではない。患者が話せるのか。歩けるのか。手を動かせるのか。記憶や認知機能に変化がないのか。日常生活へ戻れるのか。患者にとっては、こちらのほうが重要だからである。

そして脳神経外科では、「wrong-level surgery」、つまり脊椎手術などで予定とは異なる高さを手術する問題も報告されている。ある米国の脳神経外科医を対象とした調査では、4,695件の腰椎手術、2,649件の頸椎手術、10,203件の開頭術が報告対象となり、腰椎のwrong-level surgeryは10,000件あたり12.8件と推定された。これは非常に考えさせられる数字である。「脳神経外科医なのだから、手術する場所を間違えるはずがない」と普通は考える。しかし、人間が巨大な組織の中で働く以上、確認ミスや情報伝達ミスが起こる可能性はゼロではない。だからこそ、患者確認、画像確認、手術部位確認、チーム全体によるチェックが必要になる。

実際、米国退役軍人医療制度の2000~2017年のデータでは、手術室内で患者へ害を与えた誤手術関連イベントは、10万手術あたり1.74件から0.47件へ低下していた。2010~2017年について診療科別に見ると、脳神経外科では10,000件あたり1.53件、眼科1.06件、歯科1.54件という報告がある。ここで重要なのは、これらが「脳神経外科の手術全体の失敗率」ではないという点である。あくまで特定の医療制度で報告された誤手術関連イベントの数字であり、すべての合併症や医療ミスを表しているわけではない。私は、本を書くときこそ、この違いを明確にするべきだと思う。数字を大きく見せるために違う種類のデータを混ぜれば、一時的には刺激的でも、読者に見破られた瞬間に本全体の信頼性が崩れてしまうからだ。

そして、整形外科にも独特の問題がある。人工関節、骨折、脊椎手術などでは、左右の取り違え、部位の取り違え、インプラントの選択ミスなどが問題になり得る。実際、米国の誤手術関連データでは、整形外科についてwrong side、wrong site、wrong procedure、wrong implantなど複数種類の事故が報告されている。私は、整形外科では特に「右と左」という極めて基本的な確認が重要だと思う。患者本人からすれば、右膝と左膝は全く違う。右腕と左腕も全く違う。ところが医療現場では、カルテ、画像、手術予定表、指示書など複数の情報が存在するため、どこかで情報が食い違えば、患者にとって重大な結果につながる可能性がある。

そして形成外科にも、独自の問題がある。形成外科は、再建、外傷治療、先天異常の修復など、生命維持だけではなく身体機能や外見にも関わる。美容目的の手術では、患者が期待する結果と医学的な「成功」が一致しない場合もある。つまり形成外科では、身体的な安全性だけではなく、患者の期待、術後の外観、機能、再手術の必要性なども考えなければならない。形成外科の「医療ミス」を考える場合、単純に術後の見た目が気に入らないという問題と、明らかな医療上の過失を区別する必要がある。患者の希望と医学的限界が一致しない場合もあるからだ。私は、ここでも術前説明が非常に重要だと思う。「どこまで改善できるのか」「どこから先は保証できないのか」「合併症が起きた場合どうするのか」こうした説明が曖昧なら、手術後に大きなトラブルへ発展する可能性がある。

では、心臓、肝臓、膵臓、脳、整形、形成――どの診療科が一番危険なのだろうか。私は、単純なランキングを作ることには反対である。なぜなら、手術件数が違うからだ。患者の重症度も違う。緊急手術と予定手術では条件も違う。さらに「医療ミス」の定義そのものも研究によって違う。だから、「脳外科は○%危険」「心臓外科は○%危険」と単純に比較するのは科学的ではない。むしろ、見るべきなのは「どんな種類の事故が起こるのか」である。心臓なら循環・出血・感染・術後管理。肝臓なら出血・胆管・肝機能・術後管理。膵臓なら膵液漏・出血・感染など。脳なら神経機能・出血・wrong-levelなど。整形なら左右・部位・インプラントなど。形成なら機能・外観・説明と期待値など。臓器によって、注意すべきポイントが変わる。私は、この違いを患者側が知ることが重要だと思う。

そして、ここで世界全体の数字を見ると、さらに問題の大きさが分かる。WHOによれば、手術は年間3億件を超えて行われ、外科医療では重大な患者被害が発生している。WHOは、外科手術後の合併症が最大25%に達する可能性があり、手術に関連する有害事象の少なくとも半数が予防可能とする資料も示している。さらにWHOは、世界で年間700万人以上が手術後に重大な合併症を経験し、そのうち100万人以上が死亡するという推計も示している。もちろん、この数字のすべてが「医師のミスによる死亡」という意味ではない。病気そのものの重症度や避けられない合併症も含まれるため、「700万人=医療ミス」と解釈してはいけない。しかし、私はそれでも十分に重大な数字だと思う。なぜなら、その中に「予防できた可能性のある被害」が存在するからである。

そして、その可能性を少しでも減らすために、WHOは手術安全チェックリストを推進してきた。患者確認、手術部位確認、麻酔安全、チーム間のコミュニケーションなど、基本的な確認を19項目に整理したチェックリストである。私は、この事実が非常に重要だと思う。最先端の医療技術を持っていても、患者を間違える。部位を間違える。薬を間違える。情報共有を間違える。そんな基本的なところで事故が起きれば、医学の進歩そのものが患者を救えないことになる。

つまり、医療の発展には二つの方向がある。一つは、「もっと難しい病気を治せるようになること」。もう一つは、「基本的なミスを減らすこと」。私は、後者が軽視されてはいけないと思う。どれほど高度な手術ロボットが開発されても、患者確認を間違えれば意味がない。どれほど精密な画像診断装置があっても、画像を別人のものとして扱えば意味がない。どれほど優秀な外科医がいても、違う患者を手術すれば意味がない。だから医療安全は、「最先端技術」だけでは成立しない。最後に必要なのは、確認。記録。共有。説明。そして、人間が間違えることを前提にした仕組みである。

私は、ここに現代医療の最大の矛盾を見る。医学は、かつてないほど高度になった。心臓を手術できる。脳を手術できる。肝臓や膵臓を切除できる。人工関節を入れられる。再建手術もできる。しかし、その高度な医療を支える最後の部分には、「人間が確認する」という極めて原始的な行為が残っている。だから私は、医療の未来とは、「人間を完全な存在にすること」ではないと思う。人間は間違える。だから、間違えても患者を傷つけない仕組みを作る。そして、事故が起きたら隠さず、記録し、検証し、改善する。私は、それこそが本当の意味での「医療の発展」だと思う。

医療は人間を救ってきた。しかし、その力が大きくなればなるほど、一つのミスが与える影響も大きくなる。だから私は、「医療を信じるな」とは言わない。むしろ、「医療を信じるために、医療を検証できる社会を作れ」と言いたい。そして、その検証の中心にいるべきなのは、医師でも、病院でも、製薬企業でもなく、最終的にその医療を受ける、患者自身なのではないだろうか。

6.「防げたはずの事故」――なぜ医療は同じ失敗を繰り返すのか

医療の世界には、どうしても避けられない合併症が存在する。どれだけ優秀な医師が手術をしても、患者の体質や病気の進行状態によって、予測できない結果が起こることはある。しかし問題は、そのすべてを「医療にはリスクがある」という一言で処理してしまうことだ。私は、避けられない合併症と、防ぐことができた可能性のある医療事故を明確に区別しなければならないと思う。

WHOは、手術後に重大な合併症を経験する患者が世界で年間最大700万人に及び、そのうち約100万人が手術中または手術直後に死亡すると推計している。もちろん、この100万人すべてが医療ミスによって死亡したという意味ではない。しかしWHOは、手術に関連する害の少なくとも半分が予防可能と指摘している。私は、この「半分」という言葉を非常に重く受け止めたい。もし本当に防げた可能性のある被害が相当数存在するなら、それは単なる「医療の宿命」ではない。そこには、確認不足、情報共有不足、感染対策、薬剤管理、患者取り違え、手術部位確認など、改善できる領域が存在する可能性があるからだ。

さらにWHOは、入院手術では合併症が最大25%に達する可能性があるとしている。そして2024年のWHO「Global patient safety report」では、14件の外科患者レビュー研究をまとめた分析で、外科患者の14.4%が何らかの有害事象を経験し、その5.2%が潜在的に予防可能だったと整理されている。ここで注意しなければならないのは、「14.4%=医療ミス」ではないということだ。有害事象には、医学的に避けられない合併症なども含まれる。だから私は、数字を刺激的に使うのではなく、その数字が何を意味しているのかまで読者へ伝えるべきだと思う。

しかし、それでも考えさせられる。なぜ、「防げる可能性がある」と分かっている事故が起きるのか。その答えの一つが、人間である。医師も人間。看護師も人間。麻酔科医も人間。薬剤師も人間。検査技師も人間。人間は疲れる。人間は思い込む。人間は見落とす。人間は間違える。だから私は、医療安全を「医療者の注意力」だけに任せることそのものに限界があると思う。

そこで登場するのが、WHOの手術安全チェックリストである。WHOは、患者確認、手術部位、麻酔安全、器具や血液の準備、チーム内コミュニケーションなどを確認する19項目のチェックリストを作成し、世界各地で導入を進めてきた。なぜ、これほど高度な医学が発達した時代に、チェックリストが必要なのか。答えは簡単だ。人間は忘れるからである。航空機のパイロットがチェックリストを使うのと同じだ。「ベテランだから確認しなくても大丈夫」という考え方を捨てる。むしろ経験豊富な人間ほど、慣れによって確認を省略する危険がある。だから毎回、同じ基本事項を確認する。

私は、この発想を医療でも徹底するべきだと思う。患者の名前を確認する。手術部位を確認する。予定している手術を確認する。麻酔について確認する。アレルギーを確認する。必要な画像を確認する。必要な血液を確認する。器具を確認する。そして、チーム全員が同じ患者について同じ認識を持っているか確認する。これだけを見ると、「そんなの当たり前だろう」と思うかもしれない。しかし、医療事故とは、その「当たり前」がどこか一つ崩れたところから始まることがある。

そしてWHOが紹介する研究では、チェックリスト導入後、重大合併症が11%から7%へ低下し、入院患者の死亡も40%以上減少した地域での結果が報告されている。私は、この数字こそ重要だと思う。新しい薬を開発したわけではない。新しい手術ロボットを導入したわけでもない。「確認する」という基本的な行動を組織的に徹底した。それだけで、重大な結果が改善する可能性が示されたのである。もちろん、この結果をすべての病院にそのまま当てはめることはできない。患者層、医療体制、スタッフ、実施方法など条件が違うからだ。しかし、少なくとも「基本的な確認を徹底することが安全性向上につながり得る」という重要な示唆にはなる。

私は、ここに医療の矛盾があると思う。医学は最先端へ進んでいる。遺伝子を解析する。ロボットで手術する。人工知能で画像を分析する。遠隔医療も進む。新薬も次々と登場する。それなのに、「患者の名前を確認する」「右と左を確認する」「薬剤を確認する」という、人間が何十年、何百年も前からできそうなことが、現在でも安全上の重要課題になっている。つまり、医学の最先端と、人間の基本的なミスは同時に存在している。私は、このギャップこそ現代医療の大きな弱点だと思う。

そして、もう一つ重要なのが「チェックリストを作っただけでは安全にならない」ということだ。紙にチェック欄を作る。担当者が形式的に丸をつける。それで終われば意味がない。「本当に確認したのか」「チーム全員が理解しているのか」「疑問があったときに声を上げられるのか」。ここまで含めて初めて安全文化になる。例えば若い看護師が、「先生、患者さんの名前が記録と違うように見えます」と言ったとする。そのとき、「今忙しいからいいよ」と流されたら、チェックリストが存在していても意味がない。逆に、「一度止めて確認しよう」と言える組織なら、事故を防げる可能性がある。私は、「止める勇気」が医療安全では非常に重要だと思う。手術を止める。投薬を止める。輸血を止める。点滴を止める。少しでも疑問があれば確認する。医療では、この数秒や数分が患者の命を守ることがある。

しかし、現場には「忙しさ」という巨大な敵が存在する。予定が詰まっている。次の患者が待っている。救急患者が来ている。スタッフが足りない。手術が長引いている。こうした状況では、確認作業が「時間を奪うもの」に見えてしまう可能性がある。私は、ここに大きな危険があると思う。確認を省略して数分短縮できたとしても、その結果重大事故が起きれば、患者の人生は大きく変わる。だから、「安全確認に時間を使う」ことを、時間の無駄と考えてはいけない。それは患者の命を守るための時間だからである。

そして、ここからは医療経営の問題にもつながってくる。人員を増やせばコストがかかる。教育を増やせば時間がかかる。安全機器を導入すれば費用がかかる。チェックリストを運用すれば手間が増える。病院は経営を維持しなければならない。だから私は、医療安全と経営効率のバランスは非常に重要な問題だと思う。しかし、「効率化」という言葉が、「確認を省略する」という意味になった瞬間、危険になる。医療において、速いことと安全なことは必ずしも同じではない。むしろ、必要な確認に時間を使うことで、後の重大事故を防げる可能性がある。WHOも、手術安全チェックリストについて、単なる書類ではなく、チームワークとコミュニケーションを改善するための道具として位置づけている。

私は、ここに非常に重要な意味があると思う。事故を防ぐのは、「チェック欄」ではない。人間同士のコミュニケーションである。医師が言う。看護師が聞く。麻酔科医が確認する。必要なら誰かが止める。そして全員が、「この患者を安全に手術する」という同じ目的を持つ。これが重要なのだ。

そして私は、ここから「医療者の上下関係」という問題も考えたい。病院には明確な立場の違いがある。教授。部長。医師。研修医。看護師。新人。それぞれ役割がある。しかし、患者安全の瞬間だけは、「立場が上だから正しい」という考え方を捨てなければならない。新人が気づいた異常を、ベテランが無視してはいけない。看護師が感じた疑問を、医師が怒って封じてはいけない。医師が感じた疑問を、上級医が「黙っていろ」と封じてもいけない。私は、「安全に関する発言には上下関係を持ち込まない」という文化が必要だと思う。これは理想論ではない。患者の生命がかかっているからだ。

そして、もし事故が起きたなら、「誰がミスしたのか」だけを調べるのではなく、「なぜ誰も止められなかったのか」を調べる。私は、この視点が非常に重要だと思う。一人の人間が間違えることはある。しかし、その間違いが患者まで届くまでに、複数の防御線があるはずだ。患者確認。カルテ確認。薬剤確認。チーム確認。機器確認。最終確認。それらがすべて機能しなかったのなら、「一人のミス」だけでは説明できない。そこにはシステム上の問題がある可能性がある。私は、ここを徹底的に調べるべきだと思う。

そして、事故が起きた後に重要なのは、「誰を処分したか」ではない。「何を変えたか」である。同じ薬剤を間違えないように保管場所を変えたのか。患者確認方法を変更したのか。手術部位確認を強化したのか。チェックリストを改善したのか。スタッフ教育を行ったのか。勤務体制を見直したのか。システムを変更したのか。私は、「再発防止策が実際に実行されたか」まで追跡する必要があると思う。事故報告書を書いて終わり。会議を開いて終わり。「今後十分注意します」で終わり。それでは、本当の再発防止とは言えない。

そして、ここで患者側にも重要な権利がある。「何が起きたのですか?」と聞く権利。「なぜ起きたのですか?」と聞く権利。「今後どうするのですか?」と聞く権利。「再発防止策は何ですか?」と聞く権利。私は、患者がこうした質問をすることを当然の権利として認めるべきだと思う。患者は医療の専門家ではない。だからこそ、「説明を受ける権利」がある。そして、説明を受けた上で、「この治療を受ける」「別の治療を検討する」「セカンドオピニオンを求める」という判断をする。これが患者中心の医療だと思う。

私は、「医師を信じるか、疑うか」という二択にする必要はないと思う。信頼しながら確認する。尊敬しながら質問する。治療を受けながら記録を確認する。これでいい。医療者も、「質問された=信用されていない」と受け取る必要はない。患者が質問できることは、「自分の治療を理解したい」という意思表示だからだ。

そして、ここまで考えると、医原病の意味がさらに見えてくる。医原病とは、「医師が患者を傷つけた」という単純な物語ではない。高度化した医療システムの中で、人間のミス。情報の断絶。組織文化。経営判断。時間的圧力。教育不足。確認不足。説明不足。そして、時には故意の不正や隠蔽。こうした複数の要因が重なって、患者へ被害が届く可能性がある。だから私は、この問題を一人の医師の人格だけで説明したくない。もちろん、重大な過失や故意の行為については責任を問う必要がある。しかし同時に、「その人が間違えても事故にならない仕組み」を作らなければ、別の人間が同じ事故を起こす可能性がある。医学は、「失敗しない人間」を作る学問ではない。むしろ、「人間が失敗しても患者を守る」ための仕組みを作ることも、医療の進歩なのだ。私は、これを現代医療の重要なテーマとして考えたい。

医学が進歩すればするほど、手術は複雑になる。薬は増える。機械は高度になる。治療法は細分化される。そして、一人の患者に関わる専門職も増える。つまり、「情報を正しく共有すること」の重要性は、むしろ昔より高くなっている。だから私は、「医療が高度になれば安全になる」とは限らないと思う。高度になるほど、「高度な安全管理」が必要になる。これが現代医療の宿命なのではないだろうか。

そして私は、ここで一つの結論にたどり着く。医療事故をゼロにすることは難しい。しかし、事故を減らすこと。事故を早期に発見すること。事故を隠さないこと。事故から学ぶこと。同じ事故を繰り返さないこと。これはできる。そのためには、医師を責めるだけでも駄目。看護師を責めるだけでも駄目。病院を責めるだけでも駄目。製薬企業を責めるだけでも駄目。行政を責めるだけでも駄目。医療システム全体を見る必要がある。

私は、この本で、「医療は悪だ」という単純な結論にはしたくない。むしろ、「医療は人類を救ってきたからこそ、その巨大な力を誰が監視するのか」を問いたい。巨大な力には、巨大な責任が必要だ。そして、巨大な責任には、透明性が必要だ。患者に情報を与える。事故を記録する。第三者が検証する。必要なら制度を変える。それができて初めて、「医療の発展」と呼べるのではないだろうか。

そして次に、この問題をさらに大きな視点から見てみたい。手術だけではない。薬だけでもない。診断そのものが間違っていたらどうなるのか。癌を見逃す。脳卒中を見逃す。心筋梗塞を見逃す。感染症を別の病気と判断する。逆に、病気ではないものを病気だと診断する。そして患者に、「あなたは大丈夫です」と言った後に、本当は重大な病気が進行していたとしたら――。医原病の影は、手術室の中だけに存在するのではない。病院の診察室、検査室、そして、「診断」そのものの中にも存在している。

終章 医原病――社会悪なのか、それとも人類が背負った代償なのか

1.医学は人類を救った。しかし、その巨大な力には影がある

人類の歴史を振り返れば、医学が救ってきた命の数は計り知れない。感染症、外傷、手術、麻酔、抗菌薬、画像診断、移植医療、救急医療など、かつてなら死を待つしかなかった病気に対して、人間は次々と治療法を生み出してきた。平均寿命が大きく延びたことも、医学と公衆衛生の進歩なしには考えられない。私は、そこまでの医学の功績を否定するつもりはない。

しかし、医学が人間を救う巨大な力を持つようになったからこそ、別の問題が生まれた。薬が病気を治す一方で、薬による副作用や医療事故が発生する。手術が命を救う一方で、手術による合併症や人的ミスが起きる。検査技術が進歩する一方で、過剰診断や過剰治療という問題も生まれる。私は、これこそが「医原病」という言葉を考える意味だと思う。

医原病を考えるとき、私たちは二つの極端な考え方から距離を置かなければならない。一つは、「医学は絶対に正しい」という考え方である。もう一つは、「医学はすべて人間を害するために存在する」という考え方である。私は、そのどちらも現実を正確には捉えていないと思う。医学は、人類を救ってきた。同時に、医学によって傷ついた人もいる。この二つは、同時に成立する。だから私は、医療の功績を認めながら、その影を徹底的に検証する必要があると思う。

2.「社会悪」という言葉を使う理由

私は、この本の中であえて「医原病」という問題を社会悪として考えてきた。ただし、ここでいう社会悪とは、「医師は悪人だ」「看護師は悪人だ」という意味ではない。医療事故、過剰医療、説明不足、利益相反、情報格差、隠蔽、制度上の欠陥などが組み合わさり、患者が不利益を受け続ける構造そのものを問題にしている。個人の悪意だけではなく、仕組みそのものが人間を傷つける可能性があるという意味である。

一人の医師が故意に患者を傷つけなくても、制度によって被害が発生することはある。一人の看護師が真面目に働いていても、人員不足や過重労働によってエラーが起きる可能性はある。製薬企業が法律に従って活動していても、利益を生み出す構造と患者の利益が完全に一致するとは限らない。私は、この「構造」を見ることこそ医原病を考える上で重要だと思う。

3.患者は本当に「弱者」なのか

医療では、医師と患者の間に大きな情報格差がある。医師は医学を学び、専門的な知識と経験を持っている。一方、患者は自分の身体について不安を抱えながら、専門家の説明を聞いて治療を選択する。この関係では、患者が医療者の言葉をそのまま信じるしかない状況が生まれやすい。だからこそ、患者には説明を受ける権利がある。治療方法を知る権利がある。副作用やリスクを知る権利がある。別の選択肢について質問する権利がある。そして、納得できなければセカンドオピニオンを求める権利もある。

私は、「医者に任せておけばいい」という時代は終わらせるべきだと思う。これは医師を信用するなという意味ではない。むしろ逆である。本当に信頼できる医療とは、「質問しても怒られない医療」「疑問を持っても嫌な顔をされない医療」「治療を選ぶための情報を提供してくれる医療」だと思う。患者が質問することを「面倒」と考える医療は、患者との信頼関係を自ら壊している。

数字の向こう側には、必ず人間がいる。死亡者数、副作用件数、手術件数、事故件数、感染者数、入院患者数、成功率、失敗率――こうした数字は医療を分析するために必要である。しかし私は、最後にもう一度言いたい。「死亡者1人」という数字は、誰かの父親かもしれない。誰かの母親かもしれない。誰かの夫かもしれない。誰かの妻かもしれない。誰かの子供かもしれない。数字だけを見ていると、人間の痛みが見えなくなる。私は、そこだけは忘れたくない。

4.製薬企業――利益と生命は両立できるのか

現代医学を語るうえで、製薬企業の存在を無視することはできない。新薬の開発には膨大な研究費、人材、設備、臨床試験、承認手続きが必要になる。企業が利益を得ること自体を悪とすることもできない。利益がなければ、新しい治療法を開発するための資金も生まれないからである。

しかし私は、「利益を得ること」と「患者の利益を最優先すること」が常に完全に一致するとは限らない点を問題にしたい。企業には株主がいる。売上目標がある。研究開発費がある。競争相手がいる。特許には期限がある。市場には巨大な金が動いている。その中で、本当に患者の利益だけが最優先され続けるのか。私は、ここに社会として監視する意味があると思う。

企業を悪と決めつけるのではない。だからこそ、透明性を求める。臨床試験の結果を公開する。不都合なデータも検証可能にする。副作用情報を適切に共有する。研究者と企業の利益相反を明らかにする。そして行政も企業だけに頼らず、独立した立場から監視する。これが必要なのだと思う。

私は、製薬企業をすべて悪者にすれば問題が解決するとも思わない。製薬企業には研究者がいる。薬を開発する人間がいる。治療法を必要としている患者がいる。そして、巨大な研究開発費を負担している企業もある。だから製薬産業そのものを消滅させれば問題が解決するという話ではない。問題は、「巨大な利益が動く産業を、誰が監視するのか」ということである。利益が存在すること自体が悪なのではない。しかし、利益と安全性が衝突する可能性があるなら、監視する仕組みが必要になる。私は、企業を潰すことより、企業が不正をしても逃げられない仕組みを作ることのほうが重要だと思う。

5.行政は誰を守るのか

医療制度を監督するのは行政である。薬の承認、安全性の監視、医療機関への規制、公的医療制度など、国家は医療と深く関わっている。だからこそ、行政には巨大な責任がある。私は、医療事故や薬害が発生したとき、「企業だけが悪い」「医師だけが悪い」として終わらせるのではなく、行政の監督体制まで検証する必要があると思う。

どのようなデータを使って判断したのか。誰が承認したのか。どのような基準だったのか。安全性情報はどう扱われたのか。問題が発生した後、どのような対応をしたのか。そして、「もっと早く対応できなかったのか」という問いも必要になる。私は、行政とは企業と国民の間に立つ「第三者」であるべきだと思う。もし行政が企業の利益と近づきすぎれば、患者側から見れば監視する側と監視される側の境界が曖昧になる。だから透明性が必要になる。

国家は国民を守るために存在する。私は、国家という存在そのものを否定しない。むしろ、国家がなければ守れないものも多いと思う。しかし、国家だから絶対に正しい、という考え方にも賛成できない。国家も間違える。行政も間違える。政治家も間違える。官僚も間違える。だから、国家権力にも監視が必要になる。そして、監視する人間にも監視が必要になる。これは民主社会の基本だと思う。権力が巨大になればなるほど、透明性が必要になる。

6.陰謀論と事実の境界線

本書では、医療、製薬企業、国家、戦争、人体実験、パンデミックなど、さまざまな問題を扱ってきた。その中には、公式記録によって確認できる事実もある。一方で、証拠が十分ではなく、証言や推測の段階にとどまるものもある。私は、この二つを同じ「事実」として扱うべきではないと思う。「陰謀論だから嘘」と切り捨てるのも簡単だ。しかし、「陰謀論として語られているから真実」と考えるのも同じくらい危険である。

重要なのは、証拠があるのか。一次資料があるのか。複数の独立した情報源が一致しているのか。反対意見は存在するのか。その情報を否定する証拠はあるのか。こうした検証を続けることだ。私は、読者には本書を鵜呑みにしてほしくない。むしろ、「本当にそうなのか?」と疑ってほしい。

現代社会では、疑問を口にすると、「陰謀論だ」「デマだ」「専門家を信じろ」という言葉で片づけられることがある。しかし私は、疑問を持つこと自体を悪いことにしてはいけないと思う。もちろん、根拠のない情報を事実として広めることは問題である。しかし、「その情報は本当なのか?」と調べることまで否定してしまえば、科学もジャーナリズムも成立しない。歴史を振り返れば、最初は否定されていた問題が、後になって公的に認められた例もある。だから私は、「疑う」ことと、「決めつける」ことを分けたい。疑う。調べる。比較する。反対意見を見る。証拠を確認する。そして、必要なら自分の考えを修正する。私は、この姿勢こそが本当の意味での知性だと思う。

そして、「陰謀論」という言葉は便利である。気に入らない主張を、「陰謀論」と呼んでしまえば、それ以上調べなくてもよくなるからだ。しかし私は、それを思考停止の道具にしてはいけないと思う。同時に、「陰謀論と言われているから真実だ」と考えるのも危険である。だから必要なのは、証拠を見ること。一次資料を見ること。反対意見を見ること。そして、自分の考えに都合の悪い情報も読むことだ。私は、「自分と違う意見を読む勇気」こそ、本当の意味での自由だと思う。

私は、政府や行政機関の発表をすべて疑えと言っているわけではない。公的機関が持っている資料には、非常に重要な一次情報が含まれている。医療統計、承認資料、裁判記録、事故報告書、研究論文など、検証に使える資料は数多く存在する。だからこそ、本書でも可能な限り具体的な数字や公開資料を重視してきた。一方で、「公式発表だから絶対に正しい」とも考えてはいけない。公式発表も、後から訂正されることがある。新しい資料によって解釈が変わることもある。当時は分からなかった事実が後になって判明することもある。だから私は、「公式か非公式か」だけで判断するのではなく、「何を根拠としているのか」を見るべきだと思う。これは医療だけではない。政治でも、経済でも、戦争でも、歴史でも、同じである。

7.「ディープステイト」という言葉をどう考えるか

国家の内部に存在する巨大な権力ネットワークについて、「ディープステイト」という言葉が使われることがある。政治家、官僚、情報機関、軍、企業などが複雑に結びつき、表の政治とは別の力学が働いているという主張である。しかし、具体的な事件について「ディープステイトが関与した」と断定するには、それを裏付ける証拠が必要になる。

私は、ここでも「疑うこと」と「断定すること」を区別したい。権力は監視されるべきだ。国家機関も監視されるべきだ。巨大企業も監視されるべきだ。政治家も監視されるべきだ。しかし、「証拠がないから信じろ」というのも、「証拠がないけれど絶対にそうだ」というのも、どちらも危険である。私は、「証拠が出てきたら、その時点で再評価する」という姿勢が最も強いと思う。

この言葉を使って、世界のあらゆる出来事を説明することはできない。具体的な関与を示すには、それぞれ証拠が必要だからである。しかし私は、「権力者同士の非公式なネットワークが存在する可能性」を考えること自体まで否定する必要はないと思う。政治家。官僚。情報機関。軍。企業。金融。メディア。こうした組織や人物が複雑につながっていることは、現代社会では珍しくない。問題は、「それが秘密の巨大組織なのか」という名前ではない。重要なのは、「誰が、どのような権限を持ち、誰から監視されているのか」ということである。私は、名前より構造を見るべきだと思う。

8.医療を疑うことは、医療を壊すことなのか

医療への疑問を口にすると、「反医学だ」「陰謀論だ」「専門家を信用していない」と批判されることがある。しかし私は、疑問を持つことと医療を否定することは違うと思う。医療は科学だからこそ、「本当にそうなのか?」と問い続ける必要がある。科学は、「絶対に正しい」という教義ではない。新しいデータが出れば、過去の考え方が修正される。新しい研究が出れば、治療方針が変わる。新しい副作用が確認されれば、使用方法が変わる。それが科学である。だから私は、「医療を疑うな」という言葉には賛成できない。むしろ、「医療だからこそ検証しろ」と言いたい。

9.医原病をなくすために必要な五つの柱

では、どうすれば医原病を減らせるのか。私は、五つの柱が必要だと思う。第一に、患者への透明な説明。第二に、医療事故の正確な記録と検証。第三に、企業と行政の利益相反に対する監視。第四に、独立した第三者による検証。第五に、患者自身が情報を得て判断できる環境。この五つがあれば、医療への信頼は今より強くなると思う。

そして、その中心に患者を置く。患者を数字として扱わない。患者を症例番号として扱わない。患者を市場としてだけ見ない。患者を、「一人の人間」として見る。これが最も基本的なことだと思う。信頼とは、「疑わないこと」ではない。「疑問を持っても、確認できること」だと思う。

ここまで読んだ読者の中には、「結局、この本は医療批判なのか?」と思う人もいるかもしれない。答えは、「そうだ」とも言える。私は医療の問題を批判している。しかし、「医療そのものを否定している」わけではない。私は、医療が必要だからこそ批判している。薬が必要だからこそ、副作用を検証する。手術が必要だからこそ、事故を検証する。病院が必要だからこそ、組織の問題を検証する。製薬企業が必要だからこそ、利益と安全性を検証する。行政が必要だからこそ、監督責任を問う。私は、「批判できない医療」より、「批判を受けても改善できる医療」のほうが強いと思う。

医学の目的は、「病気を治すこと」だけではない。病気にならないようにすること。不要な治療を避けること。副作用を減らすこと。医療事故を防ぐこと。患者の生活を守ること。患者の尊厳を守ること。そして、患者自身が納得して治療を選択できるようにすること。そこまで含めて医療なのではないだろうか。私は、「治療できる病気を増やす医学」から、「治療そのものによる被害を減らす医学」へ、さらに進まなければならないと思う。医学の発展とは、病気を倒す力を強くすることだけではない。自分たちの間違いを認める力を強くすることでもある。

10.誰が責任を取るのか――そして「知らなかった」では済まされない構造

医療事故が起きたとき、誰が責任を負うのか。担当医なのか。看護師なのか。病院なのか。製薬企業なのか。行政なのか。それとも、システム全体なのか。私は、ケースごとに答えは違うと思う。明らかな故意なら、個人の責任が問われる。重大な過失なら、当然、責任が問われる。しかし、組織の構造そのものに問題があったなら、組織の責任も問わなければならない。さらに、制度そのものに欠陥があったなら、制度を作った側にも検証が必要になる。「誰か一人を処分した」だけでは、再発防止にならない場合がある。私は、責任追及と再発防止を、別々に考える必要があると思う。

医療事故が起きたとき、「誰が悪い?」という問いは分かりやすい。しかし、「何を変えれば次の事故を防げる?」という問いのほうが重要な場合がある。医師を処分する。看護師を処分する。病院を処分する。それだけでは、別の場所で同じ事故が起きる可能性がある。だから、原因を分析する。手順を変える。設備を変える。人員配置を変える。教育を変える。記録方法を変える。そして、改善されたかを検証する。私は、これこそが医療安全だと思う。

ただし、ここは明確に線を引かなければならない。単純なヒューマンエラーと、故意に患者を傷つける行為は同じではない。単純な確認ミスと、記録を意図的に改ざんする行為も同じではない。偶発的な事故と、利益のためにリスクを意図的に隠す行為も同じではない。私は、医療安全を議論するなら、この区別を曖昧にしてはいけないと思う。「人間だから仕方ない」という言葉で、故意の不正まで許してはいけない。一方、「事故が起きた」というだけで、すべてを犯罪のように扱うことも正しくない。だから必要なのは、証拠である。記録である。第三者による検証である。私は、感情より証拠。噂より記録。憶測より検証。この三つを大切にしたい。

11.製薬企業を悪者にすれば終わるのか、国家にも「絶対」はない

本書では製薬企業についても厳しく書いてきた。しかし、ここも単純化してはいけないと思う。製薬企業には研究者がいる。薬を開発する人間がいる。治療法を必要としている患者がいる。そして、巨大な研究開発費を負担している企業もある。だから製薬産業そのものを消滅させれば問題が解決するという話ではない。問題は、「巨大な利益が動く産業を、誰が監視するのか」ということである。利益が存在すること自体が悪なのではない。しかし、利益と安全性が衝突する可能性があるなら、監視する仕組みが必要になる。私は、企業を潰すことより、企業が不正をしても逃げられない仕組みを作ることのほうが重要だと思う。

同じことは国家にも言える。私は、国家という存在そのものを否定しない。むしろ、国家がなければ守れないものも多いと思う。しかし、国家だから絶対に正しい、という考え方にも賛成できない。国家も間違える。行政も間違える。政治家も間違える。官僚も間違える。だから、国家権力にも監視が必要になる。そして、監視する人間にも監視が必要になる。これは民主社会の基本だと思う。権力が巨大になればなるほど、透明性が必要になる。

12.「検査を受けること」は常に善なのか、治療できることと治療すべきことは違う

医原病という言葉を考えるとき、多くの人は医師の診断ミス、看護師の投薬ミス、手術の失敗、薬の副作用などを思い浮かべる。しかし、本書をここまで書き進めてきた私は、医原病を単純に「医師の失敗」と定義することには違和感を持つようになった。なぜなら、一つの医療被害の背後には、医療者個人だけではなく、病院、製薬企業、行政、保険制度、社会そのものが関係している場合があるからだ。私は、医原病を理解するためには「誰が間違えたのか」だけではなく、「なぜその間違いが起こる社会になっていたのか」を考える必要があると思う。

医学が発展すると、以前なら発見できなかった異常まで発見できるようになる。CT、MRI、PET、超音波、内視鏡、遺伝子検査など、現代の検査技術は驚異的な進歩を遂げている。しかし私は、「見つけられること」と「見つけるべきこと」は必ずしも同じではないと思う。検査によって異常を発見しても、それが患者の寿命や生活を改善するとは限らない場合があるからだ。小さな異常を見つける。さらに詳しく検査する。別の検査をする。経過観察する。場合によっては治療する。そして、本来なら一生問題にならなかったかもしれない異常に対して、患者が長期間の不安を抱えることもある。私は、これを「過剰診断」という問題として考える必要があると思う。検査技術が発達するほど、「何でも見つければいい」という考え方から離れなければならない。医学の目的は、異常を発見することだけではない。患者の人生をより良くすることだからだ。

現代医学では、かつてなら治療できなかった病気にも介入できるようになった。これは素晴らしい進歩である。しかし、「治療できる」という事実と、「治療することが患者にとって最善である」という判断は同じではない。治療には効果がある一方で、副作用、合併症、費用、身体的負担、精神的負担なども存在する。例えば、高齢の患者に非常に負担の大きい治療を行う場合、「何年寿命が延びるのか」だけを見るのではなく、「その数年間をどのような状態で生きるのか」を考える必要がある。歩けるのか。食事ができるのか。家族と話せるのか。自宅で生活できるのか。痛みはどの程度なのか。患者本人が何を望んでいるのか。私は、「長く生きること」と、「良く生きること」を同じものとして扱ってはいけないと思う。寿命だけを延ばせばいいという医療になれば、「生きているけれど、生きることが苦しい」という状況を生み出す可能性もある。医学の進歩によって寿命が延びた。しかし、社会はその長くなった人生を支える準備ができているのか。私は、この問題も医原病を考える上で避けてはいけないと思う。

13.「長寿社会」という光と影、そして医療との「依存」

世界では平均寿命が大きく延びてきた。感染症対策、衛生環境、栄養状態の改善、ワクチン、抗菌薬、手術、救急医療など、多くの要素がその背景にある。これは人類史上の大きな成果である。しかし、寿命が延びた結果として、社会には新しい課題も生まれた。認知症。介護。慢性疾患。フレイル。医療費。介護費。孤独。高齢者の生活保障。私は、「寿命が延びたから成功」だけでは不十分だと思う。重要なのは、「健康に生きられる期間がどれだけあるのか」である。そして、「延びた寿命を社会がどう支えるのか」である。医学が人間の寿命を延ばしたなら、社会はその人間が生きる場所まで用意しなければならない。家族だけに負担を押しつけるのか。国家が負担するのか。地域社会が支えるのか。本人が準備するのか。これは医療だけでは解決できない問題である。

そして、私は現代社会が医療に依存しすぎている部分もあると思う。もちろん、必要な医療を受けることは重要である。しかし、「何かあれば病院へ行けばいい」「薬を飲めばいい」という考え方だけでは、健康そのものを維持することはできない。食事、運動、睡眠、生活環境、ストレス、人間関係など、病気になる前の生活も健康に大きく関係している。私は、「病気になってから治す」だけではなく、「病気になりにくい社会を作る」ことにも力を入れるべきだと思う。健康でいる人間は、医療サービスをあまり必要としない。逆に、慢性的な病気を抱えている人は、長期間にわたって医療と関わる。もちろん、これは患者が悪いという話ではない。病気になることは本人の意思だけでは決められない。しかし社会としては、「病気を治す産業」だけではなく、「病気を予防する環境」にももっと投資する必要があると思う。

14.医療は「失敗できない産業」なのか

私は、医療に対して一つの矛盾を感じている。社会は医療者に、「絶対に失敗するな」と要求する。しかし、人間が行う仕事である以上、完全なゼロリスクは存在しない。だから、「絶対にミスするな」だけでは現実的ではない。必要なのは、「ミスが起きても重大事故にならない仕組み」である。そして、「重大事故が起きたら、隠さず学ぶ仕組み」である。これは医療だけではない。航空。鉄道。原子力。製造業。すべてに共通する。危険をゼロにできないなら、危険を管理する。私は、これが成熟した社会の考え方だと思う。

15.医療の未来には「監視」が必要だ

私は、医療をもっと自由にするべきだとも、もっと規制するべきだとも単純には言えない。必要なのは、「適切な監視」だと思う。医師には専門性がある。企業には研究能力がある。行政には制度を作る力がある。患者には自分自身の経験がある。それぞれの強みを生かしながら、互いを監視する。私は、「誰か一つの組織に権限を集中させない」ことが重要だと思う。医療機関を監視する機関が必要。企業を監視する機関が必要。行政自身を監視する仕組みも必要。そして、その監視機関も監視される。一見すると面倒に見える。しかし、命を扱う以上、それくらい慎重であっていい。

16.医療の力が強くなるほど、患者の力も強くする

AI。ロボット手術。遺伝子治療。再生医療。新薬。これからの医学は、さらに大きな力を持つようになる。私は、この未来を恐れるだけでは前に進めないと思う。必要なのは、患者側も賢くなることだ。自分の診断名を知る。薬の名前を知る。治療目的を知る。副作用を知る。代替治療を知る。必要ならセカンドオピニオンを受ける。そして、自分が納得できるまで質問する。患者が情報を持てば、医療者との関係も変わる。「先生に全部任せます」だけではなく、「先生、この治療にはどんなメリットとリスクがありますか?」と聞けるようになる。私は、これからの医療には、「賢い患者」が必要だと思う。

一人ひとりが医療について考える。家族が考える。学校で考える。地域で考える。メディアも考える。政治も考える。企業も考える。医療者も考える。そうすれば、医原病を減らすための社会的な圧力が生まれる。私は、医療安全は医療者だけの仕事ではないと思う。社会全体の仕事である。なぜなら、医療を利用するのは社会の人間だからだ。そして、医療制度を支えているのも社会だからだ。

私は医療を信じていいと思う。病気になったら医師に相談する。必要な薬を飲む。必要な手術を受ける。救急医療を利用する。それは当然である。しかし、医療に依存し、自分では何も考えない。これは別の問題だと思う。医師の説明を聞く。自分でも調べる。必要なら質問する。そして、最後は自分自身で納得して決める。私は、これが現代社会における患者の責任だと思う。

17.医原病という言葉を恐れるな

「医原病」という言葉には、どこか恐ろしい響きがある。しかし私は、この言葉を恐れる必要はないと思う。むしろ、この言葉が存在するからこそ、医療による被害を考えることができる。薬の副作用。手術の合併症。医療事故。過剰診断。過剰治療。説明不足。情報格差。組織的な問題。それらを一つずつ検証する。そして、少しずつ改善する。医原病という言葉を、医療への攻撃に使うのではなく、医療を改善するための警鐘として使う。私は、それが最も建設的だと思う。

18.最後に残るのは「人間」

本書を通して、私は何度も医療制度について考えた。病院。医師。看護師。製薬企業。行政。研究者。患者。しかし最後に残ったのは、やはり「人間」だった。医療を作るのも人間。薬を作るのも人間。制度を作るのも人間。手術をするのも人間。そして、医療を受けるのも人間である。

人間は、間違える。人間は、欲を持つ。人間は、恐怖を感じる。人間は、権力を持つと変わることもある。しかし同時に、人間は、反省することもできる。改善することもできる。他人を助けることもできる。命を救うこともできる。私は、この両面を忘れてはいけないと思う。

19.医原病をなくすのではなく、減らし続ける

私は、「医原病を完全になくそう」とは書かない。それは現実的ではないと思う。医学が存在する限り、医療にはリスクがある。しかし、「だから仕方ない」とも言いたくない。一件でも事故を減らす。一人でも被害を減らす。一つでも不要な治療を減らす。一つでも隠された問題を明らかにする。一つでも患者の疑問に答える。それを積み重ねる。私は、その積み重ねこそが、医療を進歩させると思う。そして、ここまで書いてきた本書そのものも、その一つになればいいと思っている。医療を否定するためではない。医療を盲目的に信じるためでもない。医療について、もう一度考えるために。そして、自分自身の命について、もう一度考えるために。

医原病。それは、医療の失敗だけを意味する言葉ではない。人類が、「人間の生命を救う力」を手に入れたとき、同時に背負うことになった、大きな責任なのかもしれない。医学が進歩すればするほど、その責任は重くなる。だから私は、医学の未来を否定しない。むしろ、もっと進歩してほしい。もっと安全になってほしい。もっと透明になってほしい。もっと患者中心になってほしい。そして、もっと人間らしくなってほしい。

医療の未来を決めるのは、医師だけではない。企業だけでもない。国家だけでもない。患者だけでもない。私たち全員である。だから、疑問を持とう。調べよう。質問しよう。記録を残そう。そして、必要なら声を上げよう。医療の光を消すためではない。その光によって、影まで照らすために。それが、私がこの本を書いた理由である。

20.これは都市伝説か、陰謀論か、それとも人災なのか

本書の副題には、こう書いた。「これは都市伝説か、陰謀論か、それとも人災なのか」。私は、最後まで答えを一つに決めなかった。なぜなら、すべてを陰謀論として説明することも、すべてを偶然として説明することも、どちらも簡単すぎるからだ。

歴史には、明確な事実がある。記録がある。裁判がある。公文書がある。研究結果がある。一方で、証拠が不十分な話もある。証言だけが残っているものもある。今後さらに資料が出てくる可能性があるものもある。だから、私は読者に判断を委ねる。この本を、信じてもいい。疑ってもいい。反論してもいい。別の資料を探してもいい。私は、そのすべてを歓迎したい。なぜなら、「考えること」こそ、この本を書いた最大の目的だからだ。

21.最後の問い――医原病という問いを残す

本書では、医学の歴史を振り返り、戦争下の人体実験、薬害、医療事故、手術、麻酔、投薬ミス、製薬企業、行政、パンデミック、そして現代社会の医療システムまで、さまざまな問題を見てきた。そこには、明確な事実もあった。議論の余地がある問題もあった。そして、今なお真相が分からない出来事もあった。私は、そのすべてに一つの答えを出したつもりはない。むしろ、読者に問いを残したい。

医学は本当に人類を幸福にしたのか。寿命が延びることは、本当に人生が豊かになることなのか。治療できる病気が増えることは、本当に幸せなのか。製薬企業の利益と患者の利益は、常に一致するのか。国家の医療政策は、本当に国民だけを見ているのか。医療事故が起きたとき、患者は本当に十分な情報を与えられているのか。そして、私たちは、「命を救うための医療」と、「医療によって生じる被害」を、どこまで許容すべきなのか。

私は、この問いに簡単な答えはないと思う。しかし、答えがないから考えない、という選択だけはしたくない。医療は巨大な力を持っている。巨大な力には、巨大な責任が伴う。だから私は最後に、医療者を一方的に悪者にするのではなく、製薬企業を一方的に悪者にするのでもなく、国家を一方的に悪者にするのでもなく、私たち自身に問いかけたい。

「あなたは、自分の命を誰に預けますか?」。医師に預けるのか。病院に預けるのか。製薬企業に預けるのか。国家に預けるのか。それとも、最後の判断だけは、自分自身で持つのか。私は、「医療を信じるな」と言いたいのではない。「医療だけを信じるな」と言いたい。専門家の知識を尊重する。しかし、自分でも調べる。医師の説明を聞く。しかし、分からなければ質問する。薬を飲む。しかし、何の薬なのかを知る。手術を受ける。しかし、必要性とリスクを理解する。そして、疑問を持ったら、もう一度考える。それが、自分の命を守るということなのではないだろうか。

医学は、これからも進歩する。新しい薬が生まれる。新しい手術が生まれる。人工知能が診断を支援する。ロボットが手術をする。遺伝子治療が進む。再生医療が進む。そして、人類はこれまで治せなかった病気にも挑戦していくだろう。私は、その未来を否定しない。むしろ、医学にはもっと進歩してほしいと思う。ただし、「できるからやる」ではなく、「本当に患者のためなのか」を問い続けてほしい。技術が進歩するほど、倫理も進歩しなければならない。治療能力が上がるほど、説明責任も上がらなければならない。医療が巨大になるほど、監視と透明性も強くならなければならない。そして、患者の声を、決して小さくしてはいけない。

私は、この本を書きながら、医原病という言葉を何度も考えた。医療が人を救う。その一方で、医療が人を傷つけることがある。それは、医学が悪だからなのか。人間が不完全だからなのか。制度に問題があるからなのか。利益が絡むからなのか。権力が絡むからなのか。それとも、人類がまだ、「命を扱う力」に追いついていないからなのか。答えは、一つではないのかもしれない。だから私は、この本を一つの結論で終わらせない。読者一人ひとりに、この問いを残して終わりたい。

医原病。それは、単なる医療事故の問題なのか。社会構造が生み出す社会悪なのか。人類が医学の発展とともに背負う、避けられない影なのか。あるいは、私たちがまだ知らない、もっと大きな問題なのか。あなたは、どう考えるだろうか。

そして最後に、私はこう書いておきたい。命は、統計ではない。市場でもない。実験材料でもない。患者番号でもない。命は、一人の人間の人生そのものだ。だからこそ、医学がどれほど進歩しても、この原点だけは、決して忘れてはいけない。

――医療の発展とは、人間を救う力を強くすること。そして同時に、医療によって人間が傷つく可能性を、一つでも減らすことである。これが、本書『医原病 ―医療の発展と、その影―』で、私が最後に残したい問いである。

これは都市伝説なのか。陰謀論なのか。それとも、人災なのか。答えを決めるのは、この本を書いた私ではない。この本を読んだ、あなた自身である。

医学は、人類が生み出した、最も偉大な力の一つだと思う。だからこそ、その力を無条件に神格化してはいけない。巨大な力には、巨大な責任がある。そして、巨大な責任には、透明性が必要である。私は、医療を壊したいのではない。医療を、もっと強くしたい。患者が安心して医師に相談できる医療。医師がミスを隠さず報告できる医療。企業が不都合な情報も公開できる医療。行政が企業から独立して監視できる医療。そして、患者が自分の治療について質問できる医療。そんな医療を、私は望んでいる。

医学の発展と、その影。光が強くなれば、影も濃くなる。だからこそ、影から目を背けてはいけない。影を見る。問題を見る。失敗を見る。被害を見る。そして、そこから学ぶ。それが、人類が医学という巨大な力を持ち続けるための、最低限の責任なのではないだろうか。

最後に、この本を読んで、一つでも疑問を持ったなら、私はこの本を書いた意味があったと思う。その疑問を、あなた自身で調べてほしい。誰かの言葉だけを信じるのではなく、一次資料を探してほしい。反対意見も読んでほしい。そして、自分自身で判断してほしい。なぜなら、あなたの命は、あなた自身のものだからだ。医師のものでもない。病院のものでもない。製薬企業のものでもない。国家のものでもない。あなた自身のものだ。

だから、最後に問いかけたい。医原病は、社会悪なのか。人災なのか。医学の発展に伴う、避けられない代償なのか。それとも、私たちがまだ見つけていない、もっと大きな問題なのか。答えは、この本のページの中にはない。答えは、あなた自身が考え続ける中にある。

これは、医療を否定する本ではない。医療を、盲目的に信じないための本である。そして、自分の命について、自分で考えるための本である。医療の光を知る。同時に、医療の影も知る。その両方を見たうえで、私たちは、どんな未来の医療を選ぶのか。その選択は、私たち一人ひとりに委ねられている。

あとがき ――私は、あなたに答えを押しつけない

この本を書き始めたとき、私の中にあったのは一つの疑問だった。医療は人間を救うために存在している。では、その医療によって人間が傷ついたとき、私たちはその事実をどこまで正面から見ることができるのだろうか。私は、その疑問からこの長い旅を始めた。

医学の歴史を調べれば調べるほど、光と影が同時に存在していることが分かってくる。感染症を克服し、多くの命を救った医学がある。一方で、過去には人体実験、薬害、医療事故、差別的な医療政策など、決して忘れてはいけない出来事も存在した。私は、光だけを語る歴史も、影だけを語る歴史も、どちらも本当の歴史ではないと思う。

だから私は、「医学は素晴らしい」だけでは終わらせなかった。そして、「医学は悪だ」とも終わらせなかった。私は、その両方を見ることにした。医療は、人を救う。しかし、人を傷つける可能性もある。薬は、病気を治す。しかし、副作用を起こす可能性もある。手術は、命を救う。しかし、医療事故が起きる可能性もある。製薬企業は、新しい治療法を生み出す。しかし、そこには巨大な市場と利益も存在する。国家は、国民を守る。しかし、国家の判断が常に正しいとは限らない。私は、この矛盾から目を背けたくなかった。

2.この本で私が最も伝えたかったこと

私が最も伝えたかったのは、「医療を信じるな」ということではない。むしろ、「医療を信じるからこそ、検証しよう」ということだ。本当に必要な治療なのか。どのような効果が期待できるのか。どんな副作用があるのか。他の選択肢はないのか。その判断にはどんな根拠があるのか。分からなければ、質問すればいい。納得できなければ、もう一度聞けばいい。必要なら、別の医師の意見を聞けばいい。私は、それを「医療不信」だとは思わない。自分の命に責任を持つための、当然の行動だと思っている。

3.専門家を尊重することと、盲信することは違う

私は、医師や研究者の専門知識を軽視してはいけないと思う。医学は非常に専門性の高い分野であり、素人が数時間インターネットで調べただけで専門家と同じ知識を持てるわけではない。だからこそ、専門家の知識には敬意を払うべきだと思う。しかし、専門家であることと、絶対に間違えないことは同じではない。医師も人間だ。研究者も人間だ。行政官も人間だ。企業経営者も人間だ。そして、人間は間違える。だから、専門家を尊重しながら、専門家の判断も検証する。私は、この二つは両立すると考えている。

4.数字の向こう側にいる人間

本書では、できる限り数字を扱ってきた。死亡者数、事故件数、発生率、手術件数、平均寿命、医療費など、数字は問題を理解するために必要だからだ。しかし私は、最後にもう一度言いたい。数字の一つ一つの向こう側には、必ず人間がいる。死亡者一人。それは、誰かの父親かもしれない。誰かの母親かもしれない。誰かの夫かもしれない。誰かの妻かもしれない。誰かの子供かもしれない。数字だけを見ていると、人間の痛みが見えなくなる。私は、そこだけは忘れたくない。

5.医療事故が起きたとき

医療事故が起きたとき、「医師が悪い」「看護師が悪い」「病院が悪い」と犯人探しをするだけでは、次の事故を防げないことがある。なぜ起きたのか。どこで防げたのか。誰が気づけなかったのか。システムに問題はなかったのか。情報共有に問題はなかったのか。勤務体制に問題はなかったのか。教育に問題はなかったのか。私は、「人間は間違える」という前提から、医療システムを作るべきだと思う。ミスを完全になくせないなら、ミスが重大事故につながらない仕組みを作る。事故が起きたなら、隠すのではなく、記録する。検証する。改善する。そして、同じ事故を減らす。これが、本当の医療安全だと思う。

6.そして「隠蔽」という問題

本書で私が最も強く問題視したものの一つが、「隠すこと」である。失敗そのものは、人間が生きている限り、完全にはなくならない。しかし、失敗を隠せば、同じ失敗が繰り返される。事故を隠す。副作用を軽視する。不都合なデータを見えにくくする。問題を小さく見せる。責任を別の誰かに押しつける。私は、こうした行為がもし意図的に行われるなら、単なるミスとは別の問題だと思う。だからこそ、透明性が必要になる。

7.企業にも国家にも「絶対」はない

巨大企業には、巨大な資金がある。国家には、巨大な権力がある。医療機関には、専門知識がある。それぞれが社会に必要な存在である。しかし、必要な存在だからこそ、監視が必要になる。私は、企業を憎めと言いたいのではない。国家を疑い続けろと言いたいのでもない。ただ、「絶対に間違えない組織など存在しない」と言いたい。権力があるなら、透明性を求める。利益があるなら、利益相反を確認する。専門性があるなら、第三者が検証できる仕組みを作る。私は、それが成熟した社会だと思う。

8.陰謀論について

この本には、「陰謀論ではないか」と思われる部分もあるだろう。その批判は、私は受け止める。むしろ、批判されることを恐れて、疑問そのものを消してしまうほうが危険だと思う。ただし、ここでも私は一線を引きたい。疑うことは自由だ。しかし、証拠のないことを事実として断定することは別問題だ。私は、この本を読んだ人に、すべてを信じてほしいとは思わない。逆に、すべてを否定してほしいとも思わない。調べてほしい。比較してほしい。反対意見も読んでほしい。そして、自分自身で判断してほしい。

9.私自身も間違っているかもしれない

ここは、著者として明確に書いておきたい。私自身も、間違っているかもしれない。調べた資料の解釈を誤っているかもしれない。知らない資料が存在するかもしれない。将来、新しい証拠が出てくるかもしれない。そのとき私は、自分の考えを修正することを恥だとは思わない。むしろ、新しい事実が出てきたのに、「俺は最初から正しかった」と言い張るほうが、よほど危険だと思う。私は、自分の意見を持つ。しかし、事実によって意見を修正する余地も残しておく。それが、この本を書いた私自身への約束でもある。

10.保守である私が医療に求めるもの

私は保守的な人間である。だからこそ、家族を大切にしたい。地域を大切にしたい。国を大切にしたい。そして、人間の命を大切にしたい。だから、人間の命を扱う制度には、慎重であってほしいと思う。新しい技術だから導入する。新しい薬だから使う。新しい制度だから採用する。そんな単純な判断ではなく、「本当に人間のためなのか」を考えてほしい。私は、進歩そのものに反対しているわけではない。むしろ、進歩してほしい。ただし、人間を置き去りにした進歩には、疑問を持ちたい。

11.長生きすることだけが幸福なのか

医学は人間の寿命を延ばしてきた。これは、間違いなく大きな功績だと思う。しかし、私はここで一つ問いを残したい。「長く生きること」と、「幸せに生きること」は、同じなのだろうか。延びた寿命を、どのような社会で生きるのか。家族は支えてくれるのか。介護制度は維持できるのか。医療費はどうなるのか。本人の尊厳は守られるのか。私は、医学の進歩だけでは、この問題を解決できないと思う。寿命を延ばす医学と、人生を支える社会。この二つが一緒になって初めて、人間は豊かに生きられる。

12.未来の医療へ

これから医療は、さらに進歩する。人工知能が診断を支援する。ロボットが手術をする。遺伝子を治療する。再生医療が発展する。新しい薬が登場する。これまで治せなかった病気が、治せるようになるかもしれない。私は、その未来を楽しみにしている。しかし同時に、問い続けたい。その技術は、誰のためなのか。誰が利益を得るのか。誰がリスクを負うのか。患者は十分に説明されているのか。失敗したとき、誰が責任を取るのか。私は、この五つの質問を、未来の医療に残したい。

13.医原病は「悪」なのか

結局、医原病とは何なのだろう。医療事故なのか。副作用なのか。過剰診断なのか。過剰治療なのか。組織の失敗なのか。制度の失敗なのか。それとも、人類が医学という巨大な力を手に入れたことによって、必然的に生まれた影なのか。私は、一つの答えに決めつけることはできない。しかし、医療によって避けられたはずの被害が存在するなら、私たちはそれを減らす努力をしなければならない。そして、その被害を見て見ぬふりをする社会であってはいけない。だから私は、「医原病は社会悪なのか?」という問いを残した。

14.最後に、読者へ

もしあなたが、これから病院へ行くことになったら、私は一つだけ覚えておいてほしい。遠慮せずに、質問してほしい。「この薬は何ですか?」「この治療は何のためですか?」「副作用はありますか?」「他の選択肢はありますか?」「この手術は本当に必要ですか?」「もう一人の医師にも聞いていいですか?」。そう聞いていい。患者には、自分の命について考える権利がある。そして、その権利を使うことは、医師への敵対ではない。自分の人生を大切にするということだ。

15.私は医療を敵にしない

最後に、もう一度はっきり書いておく。私は、医療を敵にしたいわけではない。医師を敵にしたいわけでもない。看護師を敵にしたいわけでもない。研究者を敵にしたいわけでもない。製薬企業を、ただ悪者として描きたいわけでもない。私が敵にしたいのは、「疑問を持つことを許さない空気」である。「専門家だから黙って従え」という空気。「行政が言っているから疑うな」という空気。「企業が言っているから大丈夫」という空気。「昔からこうだから仕方ない」という空気。私は、それを壊したい。

16.疑うことから始まる

疑う。それは、否定することではない。疑うとは、もう一度確認することだ。調べることだ。比較することだ。考えることだ。そして、より良い答えを探すことだ。私は、人間社会に必要なのは、「何でも信じる人間」でも、「何でも疑う人間」でもないと思う。必要なのは、「証拠を見て判断できる人間」である。

17.この本を閉じたあとに

この本を読み終えたあなたに、私は答えを渡さない。医療は善なのか。悪なのか。製薬企業は信用できるのか。国家は正しいのか。陰謀論は本当なのか。医原病は社会悪なのか。私は、その答えをあなたに委ねる。ただ一つ、お願いしたい。考えることを、やめないでほしい。疑問を持ったら、調べてほしい。誰かの言葉を聞いたら、反対側の言葉も聞いてほしい。数字を見たら、その数字が何を意味するのか考えてほしい。そして、自分の命については、最後まで自分自身で考えてほしい。

18.本当の意味での「医療の発展」

医学の発展とは、新しい薬を作ることだけではない。新しい手術を開発することだけでもない。医療機器を高度化することだけでもない。事故を一つ減らす。薬害を一つ減らす。不要な治療を一つ減らす。患者への説明を一つ増やす。一人の患者の声を、もう一度聞く。私は、それも立派な医学の発展だと思う。

19.光と影

医学には、光がある。そして、影がある。光だけを見れば、影を見失う。影だけを見れば、光を見失う。だから、両方を見る。それが、この本の最後に私が選んだ立場である。私は、医学の光を否定しない。しかし、その影からも目を背けない。そして、影を照らすことによって、光をもっと強くしたい。

20.最後の一行

医療は、人間の命を救うために存在する。だからこそ、その力が大きくなればなるほど、私たちは問い続けなければならない。誰のための医療なのか。何のための医療なのか。そして、その医療によって、本当に人間は幸せになっているのか。私は、この問いを、ここで終わらせない。読者である、あなたへ渡したい。

――医原病。これは、都市伝説なのか。陰謀論なのか。それとも、人災なのか。あるいは、医学が進歩する限り、人類が永遠に向き合い続けなければならない、「影」なのか。答えは、あなたが決めてほしい。そして、あなた自身の命について、あなた自身で考えてほしい。それが、この本を私が最後まで書き続けた、最大の理由である。

奥付

医原病 ――医療の発展と、その影――

著者 鹿島 公胤

発行 LOVE出版

著者プロフィール

鹿島公胤(かしま こういん/KASSI)

発明家・作家。世にない商品を企画・開発し、国内外で販売してきた。特許三件、意匠登録、INCI(国際化粧品原料)登録二件を保有し、商標は国内外で二百件を超える出願実績を持つ。著作多数。

「これは、どうすればもっと楽になるだろう」という問いから商品を作り、その過程で得た知見を書籍にまとめている。

ご注意

本書は、医療・製薬・行政・国際機関などをめぐる歴史的事実、統計、疑惑、そして著者独自の見解を扱った社会評論です。公的資料・報道・研究論文等をもとに、確認できる事実と、証拠が不十分な推測・陰謀論的な言説とを可能な限り区別して記述するよう努めていますが、その分類・評価には著者の解釈が含まれます。

本書は特定の医療機関、医師、製薬企業、政府、国際機関の不正行為を断定するものではありません。個別の統計・研究結果の解釈をめぐっては、その後の研究の進展により見解が更新される可能性があります。

本書は医学的な診断・治療を目的としたものではありません。持病がある方、治療中の方、薬の使用や中止を検討されている方は、自己判断をせず、必ず主治医・医療機関にご相談ください。

本書の内容の一部または全部を、著作権者の許可なく複製・転載することを禁じます。

医原病 ―医療の発展と、その影―

2026年9月10日 発行 初版

著  者:鹿島公胤
発  行:LOVE出版

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鹿島 公胤

### 鹿島公胤(KASSI) 作家・起業家。LOVE出版を立ち上げ、AI、テクノロジー、アプリ開発、これからの社会と人間の生き方をテーマに執筆しています。 長年のビジネス経験をもとに、AIを単なる便利な道具ではなく、人間の創造力や人生経験を引き出すパートナーとして捉えています。 現在は、AI秘書「ねね」とともに、書籍の執筆、アプリ開発、デジタルサービスの企画など、新しい時代の可能性を形にする活動を続けています。 「人生経験は、AI時代の武器になる。」 そんな思いを持ちながら、テクノロジーと人間の可能性をテーマに、これからも本を書いていきます。 **LOVE出版 KASSI(鹿島公胤)**

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