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この日、徴用命令により、東京蒲田にある、配電板を製作している勝亦電機の工場に宿舎生活をしていた下の兄が、偶然にも帰ってきて、父と母、私の4人で、兄を囲んで久々の団らんを穏やかに過ごしたあと、16才の私は勉強をしていました。
まず警戒警報がなり、ラジオから「敵機らしきもの、駿河湾より本土に近づきつつあり!」とアナウンサーの叫び声が流れた途端に空襲警報と『ドカンドカン』の音が同時に響いた。
父は当時、東京本所区緑町の28番地の郡長でした。 郡長つまり、町会の役員で消防の世話役だったので、素早く身支度をして28番地の皆さんに注意を促しに表に飛び出していったのですが、すぐに引返してきて、
と怒鳴るような声で言い放した後、また走り焦るように見回りに出かけました。父の尋常ではない声に驚き、慌てて母と下の兄とともに、電気を消して表に出て周囲を見ると、なんとも言えない匂いがしました。思わず手で鼻をふさぎ見上げると空が…。
厳冬の3月のはじめ、その前日か、前前日に雪が降り、ところどころに残っている白が街色を変え、冷えて重たく暗いはずの空が、何となく暖かくそして色づいているのです。
近所の人たちも穏やかでない雰囲気に、家に入ったり、出たりしているうちに、森下町の方が赤くなってきました。
風が出てきた!
その違和感がある風に「いつもと様子が違うなぁー。」と思いつつ、ボンヤリと空を仰いでいたとき、大きく鋭い怒鳴り声が響いた。
オレンジと黄色、赤の小さくきらめく星がチラチラと光りながら緩やかに灰色の闇に舞っている中に、見回りから帰って来た父が鬼の形相で立っていました。 そのとき初めて、近所に火がつきはじめていることに気がつき、事態の異様さに立ち尽くしてしまった私を、父や母は急き立て、避難仕度ができたころには、私達家族4人は最後の避難者でした。
私達は父の先導でまず、 自宅から歩いて数分のところにある大横川にかかっている撞木橋の上に立ちました。
ここまでスムーズに来れたわけではありません。 途中にある菊花橋の四つ角が人波で大混乱していたのです。それというのも、撞木橋の先にある江東橋の方が、炎に包まれはじめている最中だったのです。 だから、人の流れは江東橋とは反対の方向に進んでいましたから、橦木橋の上に立っている人達はあまりにも少ないのでした。
ここで父が言うのです。
立っている橋の周囲の川の辺りは材木屋が多く、その材木屋では火が燃えさかっている最中です。
1軒の家が燃えているのではありません。 よく「火の海」というけれど、それは大変な炎であり、紅蓮の炎とはこのような事かと思う程でした。 その炎が襲い掛かってくる、火の中に向かっていくことなど、想像も出来ません。火から逃げることしか頭にありません。 幼いころより、体が弱く泣き虫だった私は、あわてて、
と答えると、めっぽう腕っぷしが強く、いつも外で喧嘩ばかりしている下の兄も同じように答えたのです。
その答えに、父も母も、私たちを説得せずにじっと黙っていました。 刻々と時間が過ぎて行きます。 私は決断しました。
すると、「俺も行く。」下の兄も同じように、決断したのです。 この時の時間はどの位経過したのかわかりません。瞬時ではなかった事だけは確かです。 父と母は周囲が燃え盛る中で焦らず忍耐強く一言も語らず、私たち兄弟に無理やりに恐怖と闘わせることをせず、考える時間を与え、自分の意志で覚悟を決めるまで待っていたのです。 そして、私たちの決断に頷くと、黙ったまま、周囲が燃え盛る火から逃げる人で大混乱している菊花橋の四つ角に戻り始めました。
菊花橋の方では、大勢の人達がウロウロして、先に進めず、早くに避難した近所の人達とも、菊花橋を渡った先にある菊川小学校横の辺りで合流をしてしまいました。 菊川小学校は、堅川にかかっている菊花橋を渡ったとこにあり、自宅から5~6分ほどしか離れていない位置にありました。
火は後ろから吹いて来るように追いかけて来て、混乱がますます激しくなる中、突風で菊川小学校の手前の四つ角にある家が吹き飛ばされたのを境に、何千人が一度にパニックに陥り、叫び泣く声・悲鳴・怒声が巻き起こり、狂乱の地獄図の光景が繰り広げられました。
人々を断末魔の恐怖という魔物が襲ったのです。
そのパニックの渦中で母が、
その為に分散しようとの提案でした。私はこの段階でも両親のそばに居たいと思っていたので、母親の提案に納得が出来ず、
と騒ぎたてました。 しかし、メソメソしているような状態ではないことは、自分でも理解していたので、すぐに気分を切り替え、菊川小学校の前で独りで行動することを決めたのです。そして、両親・下の兄・私と三組に分かれました。
その時、先に行く人達の中に親友だった沢田君が親子で避難している姿を見かけましたが、それが彼をみた最後になったのです。 単独行動が怖くて、沢田一家と行動をしていたら、私はこの世にいなかったでしょう。
私は小学校の校内に入るのだが、入ったというより、人々に押し流されたという方が正しい。 人波や炎をぬうように進み、たどり着いたのは玄関を入って真正面の職員室であり、更に隣の掛け図室、現在でいう図書室でした。
今考えると馬鹿な事です。 燃える物ばかりある部屋でしたから、4~5人位しか、いませんでした。 そのうちに「イヤー」という悲鳴が遠く、近く一斉に学校内に響きました。 その死の声に誘われるように、はいずり廊下を見ると、校内に不気味な悪魔のような炎が入ってきました。
掛け図室から2メートルほど下がったところに、校庭はあり、かなりの高さです。それでも横に紅蓮の炎が流れた瞬間、とっさに校庭に逃げようとしたが、鍵がかかっていて窓が開きません。
そう思い立つと、握っていた銃剣術の桧の木銃で網ガラスを破り2メートルほど下の校庭に飛びおりていたのです。
校庭に跳び降りた私は、立っている事が出来ないような、強い突風と火の海の中でとっさに、地面を這うように進む、ほふく前進で校庭から逃げました。 後ろを見るとその破られた窓からは、一緒にいた人達が続いて降りてくるのを確認しましたが、その人達は立って逃げたので、炎に巻き込まれてしまいました。
その紅蓮の炎は3階より吹き下ろして校庭を這い、そして、又、上の方に吹き上がり、屋上にまで達していきました。 その炎に小さな子が吸い込まれました。その衝撃的な場面を私はただ、見ている事しかできなかったのです。
悪魔の化身のような炎は人を吸い込みながら校庭を這いずり回っていました。
その合間を抜くようにほふく前進で進みました。
それからどの位の時が過ぎた頃なのか…。
やっと校庭に隣接している公園の境にある側溝に辿りつき、そこで気を失ったのか気力が絶えたのか? それは、たとえようのない気持ちのよさ。何かウットリするような心持ちでした。
「シッカリしなさい。ズキンに火がついているよッ。」
遠くからの声に、変な眠りから覚め、ハッとして首に手を回すと、思わず「アチッ」と叫び、事態を察知しました。
避難する前、父に言われ防空ズキンの上に鉄兜を被っていたので、まず鉄兜を脱いでからズキンを取ればよいのですが、慌てていたので鉄兜をそのまま取ろうとしていたのでした。 首は熱くなる「何くそっ」と焦る内に冷静になり、鉄兜の紐をほどいてズキンも取り、後ろ半分が燃えてしまったものを捨てると、ホッとして立ち上り、勇気が出て来ました。
防空頭巾の上に鉄兜をかぶっていなければ、死なずとも大やけどを負っていたでしょう。またしても父の一言が私を救ったのです。
なんとか公園に入りトボトボと歩いている内に、寒気がしてきたので、立ち止まり周囲を見回すと、目線の先で、穴の周りに2、3人の人が固まって焚火をしていました。
私は、黙ってその場所に近づくと、燃えている火が異常に青いのです。手をかざしてもそれほど暖かく感じません。そのうち、他の人たちが「人間もこうなってしまうとなぁ。」というのです。
穴の中で不気味な匂いを放ちながら、青い火が細く燃えているものを『ジーッ』と目を凝らすと…。
思わず驚き叫んでいました。始めて見近かにみる黒焦げになった人間でした。
その時、強い憤りが沸き上がりました。 犠牲となった人々の言い尽くせない悲惨な実情・無残さをどう伝えればいいのでしょうか?
人の尊厳が無視されている現実。 敬愛されていた人、期待や慕われた親子・兄弟・隣人など多くの人が、戦争の犠牲者になるなんて、誰も予測することができません。
飛行機の爆音とともに、炎の色に染まったB29の巨大で鬼のような姿が映し出され、身体が奮えるほどの怒り、悲しみ、苦痛ありとあらゆる感情が入り乱れ「この野郎ッ」と私を叫ばせたと同時に、下の兄が久々に帰ってきて、父も母も嬉しそうだった夕飯の光景が思い出されました。
不安が全身を覆い、自分が壊れてしまうのではないかと思いました。
その不安と戦うように火の中に累々と遺体が散乱している、まだ燃えている町を自宅に向かって歩きだしたのです。
私は不安や心配で落ち着きを失いつつも、公園を菊花橋方面に出ました。 いつもだったら、自宅まで5~6分の距離です。
菊川小学校の前の材木屋の資材が、まだ燃えていて、その中を気の狂った人が、さ迷うように歩いている…。
両国方面に向かい、堅川にかかっている菊花橋はまだ燃えていたので、その橋を見ながら、両国方向に下水局の通りを三の橋に向かいました。
その道筋にも、遺体は累々としていた。
鉄製の三の橋は燃えていませんでしたが、遺体が重なっていたりして、歩くという状態ではありません。でも、橋を渡らないと自宅に帰ることができないのです。どうしても、この遺体が折り重なっているところを通らなければならなかったのです。
三の橋を渡り、見当をつけて右に折れていくと、全くの焼け野原となっていて、家のあった場所さえ、見当がつかず、不安と焦りの中、私は、遺体の折り重なる、焼け野原の中を家を探し歩きまわっていました。
あたり一面にゴロゴロと転がっている遺体の一つ一つは、温かく人情味がある言葉や笑顔があふれていた下町の江戸っ子たち。 昨夜まで息をしていた知り合いばかり…。 多くの遺体のその中で自分はただ独り生きている…。なんでだろう? そう思うと消えた町が蘇るように豊かな私たちの町の風景が、ありありと思い浮かんできました。
えーと…。
うちの前が『柏館支店』その左隣が『山城屋』右隣が『川越屋』。
そうそう『山城屋』の一部が「矢場」に改装された。お店は4間か5間位の間口であったかな?
うちの右憐がマル中と言う食堂、親友の沢田君の家。
緑町4丁目の千葉街道から両国に向かって左側を『花町』でドヤ街だ。
小さい頃はヤクザはのさばるし、日雇いの人たちはこれらのドヤに泊まってその日暮らしの生活をしている人が大勢いたな。
ドヤ街にあった屋台のレバーカツフライがうまかった。
ヤクザが露店で賭場を開き、そこへ巡査が乗り込むと『一斉に逃げる』のだが、そのときに屋台をひっくり返していく。屋台のその横にはドブがあってそこには10銭玉や50銭が落ちているのだ。それを我先に争って拾う様は餓鬼のようだった。
近所でも負けず嫌いで有名だった私は一番先にかけよったものだ。
それから…。
『三の橋』の右脇にある玄徳稲荷の縁日…。
三つ目通りの両側に堅川町まで続く様々な屋台が出るんだ。ある時、お小遣いがなくてヤキモキしていたら、粂徳自転車店まで天どん5つの出前があり、上の兄から「出前をしたらお小遣いをやる」と言われ、初めて天どん5つを持った事があった。そりゃあ、重くて粂徳に着くまでに大変な苦労したな~。
「お客さんのごひいきでまたまた売れました………」 バナナの叩き売り、飴売り。
玄徳さんの横を竪川沿いに右に行くと『竹徳』と言う竹専門の卸屋があって、竹が好きな私は、その店にはよく行った。どうなったかな? 気がつかなかった。
三つ目通りには、ちょうど粂徳の前位にミルクホール。三つ目通りの角にいたお年寄りの人はどうなっただろうか?
『猿飛左助』『岩見重太郎』『加藤清正』『日の丸旗の助』『冒険ダン吉』『フクちゃん』本も燃えちゃったんだろうな。 本屋さんは床屋さんの手前だったけれど…。
床屋も消えたかな? もう、嫌いな丸坊主にならなくていいのか? バリカンで刈るのは痛いから嫌なんだ。
その先の角に都湯と言う銭湯も消えたかな?
風呂の後、都湯の前にあった露店の寿司屋さんがうまかった。
下の兄が『いかげそ』を10個注文し、私は同じ料金で『鉄火巻』を1本注文したな。 私が食べている最中に下の兄は何かと話かけてきてさー。 「誰それが通った」とか言うので表に出てみると、私の居ない間に私の『鉄火巻』を食べちゃうんだ。くそ! あいつめ! よく食うやつだからな…。
お店の休みの日は大抵、どこかでみんな一緒に食事をしたな。 須田町食堂はいいよ! 大衆的な店で、また行きたいな…。
みんなは無事だろうか? 暗雲のように不安が全身を覆っていきます。 目に沁みるように激痛が走り焦りはどんどん大きくなっていきました。そんな中…。
隣の沢田君の家のセメントで作られた防空用水の桶があったのです。
何も残っていない場所に呆然として佇んでしまいました。 くすぶるように、まだ火の残る焼け跡に立っていると、悲しみが湧きあがって来ました。
勿論、家の前の通りにも、焼死体はゴロゴロしていました。
納得すると、突然、家族がいないことに気がつき、私は、力の限り「とうちゃん・かあちゃん・あんちゃん。」と叫び続けました。 何度叫んでも、何も残っていない家の焼け跡から家族の返事はかえってきません。
そう思うと、力尽きその場に座り込んでしまいました。
やっと探し出した家の場所には家族はおらず、独りになってしまった絶望は大きく、必死になにか思い出そうとしても、何も浮かばず、この遺体の山のなかのひとつとなった方がどんなにか楽か…。と思っていました。
しかし、母との約束で上の兄が戦地から戻ってきたときにお迎えをしなければ、ならないのです。家族が残した使命は、とほうもなく過酷で何も考えられずにどうにかなってしまいそうでした。
そして、そのうちにまた走りだしている自分がいました。
どこに向かっているのか、全然わからないのですが、ただじっとしていることができなかったのです。
…ただ、無性に父に連れられて行った場所が次々に思い出され、走りながら父に話しかけていました。
月島、その沖にあるお台場、千葉海岸、検見川で海水浴や潮し狩りに行った。木製の車両の横須賀線に乗って、逗子海岸にも行った事を覚えているよ。
お花見は柴又の江戸川の土手か牛島神社の隅田川沿いにあった墨田公園。
朝早く起きて、鰹節など、築地の魚河岸に家業の蕎麦屋の仕入れに出かける父や上の兄についていった。
緑町から築地に行くには、都電の須田町行きに乗って両国橋で降りて、ちょうど浜町河岸の所から築地行きの始発があり、『乗継ぎ』をつかい料金は5銭位だったかな? もり・かけと同じだったと思う。 築地に着くと、歩いて市場に入ると大変な賑わいだった。
市場内を『場内』。市場に入る手前にあった『場外』。
つきじ獅子祭で有名な波除稲荷神社の場外近くには、乾物などの鰹節屋があるため、海幸橋門から場内に入るんだけど、魚河岸横丁の一号館のズラリと並んだ店は、朝の早い人達の憩いの場だったな。
ひとりで場内の豊ちゃんの『のっけ』というカツカレーを食べて待っていたんだ。 その豊ちゃんの6件先には茂助だんご屋があり『豆大福』と「鰹だしがきいた吸い物ベースにかまぼこ・はんぺん・三つ葉・のり・ゆずが入った東京雑煮の「玉子ぞうに」が特別に美味しい。 母や下の兄達の御土産に豆大福。
市場の中で聞いた、独特の競りの掛け声が聞こえてくるようだ。
大きな鯨がいたな~。
蕎麦屋の休みは、月1回・22日魚河岸の 休みの日だけ、一月と七月は薮入りがあり、16日が休みだった。
お正月に浅草の花月劇場に行った。その時、始めて淡谷のり子とアキレタ・ボウイズと言うトリオなどを見たんだ。
私の大きな声が遺体の散乱する白くグレーの平地に広がり響く。しかし、誰も反応をしてくれない。その恐怖を払いのけるように私は考え続けた。
アキレタ・ボウイズの「地球の上に朝がきたァ。」 って、当たり前でおかしいよ。確か川田義夫・坊屋三郎・益田喜頓などのメンバーだったよね。淡谷のり子は、まだ若かったが、すごい化粧で驚いたよ。
春になって錦糸堀から城東電車に乗って、白木屋デパートが始発~小松川で降りてバスに乗り換えて荒川を渡り、今井までの道は殆ど田園だった。
途中の一の江辺りで降りて、上の兄や下の兄らが空気銃で雀を打ったりしている間、私はバッタなどを採っていた、自然がいっぱいだったのに…。
いつものように 三人兄弟、一緒に有楽町の日劇に連れて行ってもらったときは、主役は、コメディアンの古川ロッパと子役で中村メイ子と言う小さな子だった。
そうそう、途中で気分が悪くなり、ロビーで横になっていた時か? それとも別の時か? ……折角、貰った1円札のお小遣いを落してしまったんだ。 その時、食べたいものは、自分で払うと三人で約束したので、何も食べられなくて、ひどくがっかりしたな~。
1円あれば、親友の中島君たち遊び仲間3人と「円タク」というタクシーに乗って、浅草の松屋デパートに行くのに往復30銭。 残る70銭でスポーツランドで散々遊んで食堂で食事をしても少し余るほどの大きな金額だったのに、失くしてしまうなんて…。
考えるだけでも、あー! 悔しい。
そうそう、お相撲が好きの母方のおじいちゃんが田舎から出てきたとき、上の兄が入場券を買うために朝早くから並んで、やっとはいれても、大変な混雑で、席を離れると、すぐ席がなくなってしまうので、小便をする為に、空の1升瓶を持って行くんだよな。 笑っちゃうよ。
国技館はどうなっただろうか?。
次から次へと消えてしまったものを思い出すたびに、胸は苦しく、自分がどうなってしまうのか? このまま瓦礫の焼け野原のなかにかすみ消えていくように意識はもうろうとしてきます。
すると母の声が聞こえてきました。
痛い目をこすりながらよく見ると、とうちゃん、かあちゃんに、下の兄もいました。私は、あちこちやみくもに走り回り、結局、自宅跡地に戻ってきていたのでした。
焼け跡の中で4人が抱き合って、無事を確認できたのです。 思わず今までの恐怖・心配事、堪えてきたものが涙となって溢れてきました。それを見て両親や下の兄も黙って泣いていました。
一家全員が助かったのは私の家族だけでした。
第二次大戦末期|1945年3月9日から10日にかけて行われたB29による爆撃の中、錦糸町駅近くの自宅から300m以内(徒歩5~6分)範囲で実際に起きた出来事。
東京大空襲でも一番多くの犠牲者がでたといわれている菊花橋を中心に焼夷弾の猛火から逃げずに、家族全員が大きなけがをしないで生き残った実話です。
|参照資料|国立国会図書館貯蔵
大東京區分圖三十五區之内本所詳細圖 / 植野録夫 著
東京市本所實業家便覧地圖 / 坂本昇 編
復興土地住宅協会 地図 本所 / 復興土地住宅協会 編
東京區分圖三十五區之内本所 地図
中島世期が校閲した、実父の手記の一部抜粋
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多くの慰霊に心から哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りします。
友達にけがをさせてしまったり、近所から勝手にものを持ち出したり、力と行動力に満ち溢れ聞く耳なんぞ持っていなかったわが子を持て余ます日々、さらに追い打ちをかけるように「泥棒を育てているのか!」「母親が悪いから、口答えする。」と一緒に暮らす、舅、姑、父親からしつけが悪いと毎日責められ、子育てに悩んでいた若いお母さんに
「女の子はもっと早いけど、男の子は昔から10歳前後で急に大人になって頼もしくなる。それまで、社会との距離感をいろいろと試しているんだから、子供なんて、そんなもんだから、一挙手一投足を気にせずに、待っていなさい。そんなに神経質になると子供は愛されていることがわからなくなっちゃうよ。」 と『子育ての本質』を教えた匠。
若いお母さんは、半信半疑ではあったものの、その言葉で随分と気持ちが楽になったし、実際にそうだったそうだ。
尋常小学校の最後の卒業生だったこの物語の主人公が、入学前後頃から、昭和24年、戦争からの復興をしている最中に、母が病気で死ぬまでの約15年間を細かく記した手記をもとに制作された物語なのですが、実はここの家庭はとても複雑な事情を抱えていました。
「とうちゃん。」は蕎麦屋へ養子入り、遅れて、血のつながりも複雑な子供たち3男1女を連れて「かあちゃん。」は入籍するのですが、子供に戸籍を作るためだったような状態でした。
別宅を持ち、近くにある実家に帰りたがる「とうちゃん。」と、体が弱く働きづめの「かあちゃん。」 そして、その「かあちゃん。」が愛してやまない娘は早くに病気で亡くなります。
子供たちが、親の苦悩や醜聞、自分たちの生い立ちをはじめて知るのは、家庭を持って独り立ちしてから…。
この両親の子育ては、親の複雑な都合をすべて飲み込み、自分たちの個を大切にするとともに、子供たちの個も尊重していたのです。子供たちには夫婦・親の愚痴一つも聞かさず、不穏な気配をなにひとつ見せずにいたので、子供たちは、両親や自分たちのことを何も知らずに成長していき、あちこちに連れて歩いてくれる頼もしい「とうちゃん。」と苦しいとき、つらいときに必ず待っていてくれる「かあちゃん。」によって、自由にのびのびと育ちます。
本文を読まれて気がついたと思いますが、この両親は自分の考えをきちんと伝えたあとに、子供たちが思考を働かせ、自分の意志が出てくるまで、愚痴や甘えに対して叱ったり、説得をせずに、なにも言わず根気よく黙って待っています。
子供の世界に大人が指導も介入もせず、子供たちは、激動に進む時代の中で、勉強を始める時期も進路もすべて自分で決めて親に相談するのですが、それが死への道だとしても、結局、両親は泣きながら子供たちが決めたことに、黙って従います。 教育論や子育て論は知らない両親ですが、子供たちにとって最後の砦や受け皿として存在していたため、どんな言葉で怒られても、どんなことが起きても、子供が自分は愛されていると安心できる『子育ての本質』のひとつを持ち備えていたのです。
それは、自然界で多くの哺乳動物が持ち備えている本能ではないでしょうか?
取材を終えたとき、時代が変われば、環境も違ってくる。種まきの仕方も違うだろうし、見守り方も違ってくるのだろうけど…『子育ての本質』は変わらないような気がしました。
戦後、歓声を上げながら町を遊び走り回る子供たちがいなくなりました。戦争がもたらした後遺症は、今の子育てをしている人たちに、暗い影を落としているような気がしてなりません。 今は多くの情報に振り回され、意見の違う人を認められず、攻撃するようなルール違反が横行する大変な時代になり、ビジネス、インターネット、メディアなど、安易で無責任な外部環境から自分の身を守ることから教えなければならない現状に心が痛むばかり。
向き不向きはあるし、様々な考え方がある中、本質を抑えつつ、家族の個を尊重しながら新しい環境での子育てを模索し続ける若い親御さんたちの苦労を、大人たちが理解できる分離しない社会構造になることが望まれているのではないでしょうか?
2026年10月6日 発行 第3版
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著者コンセプト:化粧品、健康食品、下着、食品、医療系出版物の編集など、様々なジャンルで商品開発や事業立ち上げに携わってきた情報と取材を通し、すべての著作物に「その時、愛するひとたちや自分を守るには、どうするべきか」ピンチを乗り越えるヒントを伝えて続けています。