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今朝も妻の美和が僕に問いかける。
「あなたは…誰?」
浩二は少しだけ笑った。
「僕? 僕はね、君の事が大好きな人だよ」
そう言って、浩二は美和の隣にしゃがんで答えた。
美和は少し不思議そうな顔をしながら浩二を見つめている。
「私はあなたの事を知っているの?」
「うん でも君は忘れている」
「そう… ごめんなさいね」
浩二は、少し気まずそうな顔をした美和の手をそっと握った。
「ううん 初めて会った君の事を思い出して、また好きになれるから平気だよ」
美和はにこっと微笑み、二人の間に静かな笑い声がこぼれた。リビングにあるテレビからは、桜の開花宣言が発表されている。
これで何度目だろうか。今日もまた浩二の恋が始まった。
二人が出会ったのは30年以上も前の事。新入社員で入って来た美和を、3年先輩の浩二が教育係に就いたのが初めての出会い。浩二は女性と話すのが苦手で言葉数も少なく、真面目にコツコツするタイプ。一方美和は、明るくはっきりとした性格で、裏がないタイプ。二人は陰と陽の感じだった。
それから何事もなく数年が経った頃、美和のミスを浩二がフォローした事があった。
「私の詰めがあまくて、すみません」
「いいや、これぐらいのミスは全然大丈夫だよ」
そのさりげない言葉に美和は浩二を意識するようになり、自然と浩二を目で追うようになっていた。それは自分自身も驚きだった。これまでは活発な男性しか好きになった事がなかったのに、今好きになろうとしている男性は、まるで逆。
(本当に私が彼を?)自問自答するも、自分ではもうどうする事も出来ない。
ある日、美和がコーヒーを入れているところに、浩二がやってきた。
「お疲れさま」
「あ、お疲れ様です」
沈黙のまま二人はコーヒーを入れている。先に浩二が席に戻ろうとした時、
「あの、今日の夜って空いてませんか?」
美和が思い切って誘ってみた。
「ん? 何か相談?」
浩二は少し戸惑っている。
「いや、あの… 行きたいお店があって、一人で行けなくて…」
「それ僕でいいの?」
「予定がなければ、お願いします」
そこで話した事はほとんど記憶にない。ただ美和が話すことに浩二は「うんうん」と聞いていた。
それから少しして、二人は付き合う事になった。後から分かった事だが、浩二は教育係に就いた頃から、美和が好きだったらしい。
「えーなんでその時に好きって言ってくれなかったの?」
「その時言ってたら、確実に振られてたよね」
「そうだね」
二人は喧嘩もすることなく、陰と陽が上手く重なり本当に仲がよかった。よく外食に行ったり、温泉に行ったり、時には海外旅行にも行ったりした。それから浩二は、二人でよく散歩していた浜辺でプロポーズし、二人は結婚した。
やがて子供が生まれ、そのタイミングで美和は仕事を辞めた。
子供中心の生活スタイルに変わり、二人で過ごす時間がほとんどなくなって行った。
美和は家に居る事が多くなり、浩二は管理職になったのもあり、帰りが遅い日が続いた。
「ただいま」
返事がない。そっと子供部屋をのぞくと、子供を寝かしつけていた美和も、一緒に寝てしまっていた。
「毎日大変だよね ありがとう」
小声でそっと呟きながら、美和に布団をかけ、静かに扉を閉めた。
付き合いたての頃は、綺麗な服を着て、元気に話す美和が好きだった。でも今は違う。
髪が少し乱れていても、疲れた顔をしていても、化粧だってしなくていい。
ただただ、この人が好きだった。
でも1度だけ大きな喧嘩をしたことがった。
子供はもう高校生になり、親の手が離れた頃だった。
「なんで私の言う事がわからないの?」
「わかってないのはそっちだろ」
「もういい!」
美和は泣いていた。お互いが部屋にこもり、朝まで顔は合わさなかった。
翌朝、浩二が会社へ行こうとすると、玄関のいつものところにお弁当が置いてあった。
「ふふっ… 敵わないな…」
どんなにしんどくても、どんなに腹が立っても、美和はこの20年間、1度もお弁当を作らなかった日はない。
たとえ離れたいと思う事があっても、結局気になるし、一緒にいる。それが夫婦なのかもしれない。
子供が独立して二人っきりになって数年が経った頃、美和に少し異変が生じ始めた。
「ねぇ 今日何曜日だっけ?」
「水曜日だよ。 それ昨日も聞いてたよ」
「そうだっけ?」
二人で笑っていた。最初はこんな軽い感じで、誰にでもある事だと思っていた。
でもそれは少しずつ増えていき、そして1日に何度も同じ話をするようになっていた。
「今日ね、そこのスーパーで、、」
「それさっきも聞いたよ?」
「え? ほんとに?」
美和は恥ずかしそうに笑っていた。
「最近すごく忘れっぽくて… もう歳だね」
「そうだね」
また二人で笑っていた。けれど浩二はこの時すでに、美和が若年性認知症を発症しているかもしれないと感じていた。
それから数カ月が経ち、この日は浩二の誕生日だった。いくつになっても誕生日ケーキを用意してくれていて、ささやかなお祝いをしてくれていた。
「ただいま」
「おかえり ご飯温めるね」
「うん」
いつもと何も変わらない。
「今日さ、なんの日かわかる?」
「今日? んー… なんかあった?」
このまま何もなく終わってもよかった。
「俺の誕生日だよ」
「え? うそ? ごめん…」
美和は驚きと動揺を隠せないでいた。
「いや、それはいいんだ。 ねぇ美和、来週にでも病院に行かない?」
「病院? なんで?」
「この半年、いやもう少し前から感じていたんだけど、忘れる事が多くなっているから、一度見てもらおうよ?」
「えー大丈夫だよ?」
「今日は俺の誕生日でしょ 俺のお願い聞いてよ」
浩二は作り笑いで美和をみた。
病院での検査結果は数週間かかった。
美和はやはり若年性認知症を発症していた。
「嘘でしょ… ねぇ嘘だよね?」
美和は病院の待合室で泣いていた。浩二は何も言えず、ただ側に居る事しか出来なかった。浩二の脳裏には、新入社員で入ってきた頃のはきはきとして、明るく元気だった美和が蘇る。
「私、全部忘れてしまうの? あと何年かで全部…」
「たとえ忘れてしまっても、俺が覚えていればそれで良くない?」
「・・・」
「がんばろうよ」
浩二もまた泣いた。
それから二人は病気の事を調べた。症状や進行スピード。調べれば調べるほど恐怖に押し潰されそうになっていた。それでも二人は必死に前を向いていた。
大事な事はすぐにメモを取るようにした。今日の予定、明日の予定、浩二や子供の携帯番号。自分の家の住所も。それから買い物に行く時も、何を買うのかメモをしてから買い物に行く。それでも進行するスピードは抑えられない。メモをした事すら忘れてしまい、買い物に出かけて、何も買わずに家に帰って来る事もあった。
「ただいま」
「早かったね あれ? 買い物は?」
「ごめん 何買うのかわからなくなっちゃって」
「じゃ、一緒に行こうか」
笑いながら二人でまたスーパーへ向かった。
そんな生活が5年ぐらい続いた。発症当時に比べると、今は記憶障害や、言語障害も出てくるようになっていた。
ある朝、いつものように浩二は朝食の準備をしていた。美和が寝室から起きて来たのがわかった。
「おはよう もうすぐ出来るから」
「・・・」
背中越しにダイニングに座っている美和の気配を感じていたその時、
「あなたは誰ですか?」
それは突然だった。浩二の手が止まる。必死に笑顔を作って振り返る。
「僕? 僕はね…」
そう言ってリビングに置いてあるノートを取りに行き、美和に手渡した。キッチンからは目玉焼きの焼ける音がしている。
「ここのページ読んで見て」
美和はその時が来た時のために、浩二との馴れ初めをノートに書いていた。
「私達は夫婦?」
「そうだよ」
美和は何とも不思議そうな顔をしている。
思っていたよりも、それは早くやってきていた。つまりレベルが更に上がった事を意味する。
この日が来る事はもう何年も前からわかっていたし、覚悟もしていた。でもいざ現実になると、やはり寂しかった。浩二は美和に見られない様に、朝食の準備をしながら泣いた。
それからまた数年が経ち、美和は昨日の事はおろか、数時間前の事まで忘れるようになっていた。そして自分で歩く事も出来なくなっていた。
「あなたは誰?」
から始まる日もあれば、浩二をヘルパーの人と思い込んでいる日もあった。
それでも浩二は病気が発覚したあの日から、何一つ変わる事無く美和に接した。
そんなある日、いつもの様に美和を連れ、近くの浜辺へ散歩に来ていた。
この浜辺に来るのはもう何度目だろうか。いつの間にかここが〝二人の場所〟になっていた。車椅子をゆっくり押しながら浩二は美和にそっと語り掛けた。
「ここでプロポーズしたんだよ」
「そうだったよね」
「え 覚えているの?」
「覚えているよ? え? どうして?」
「あ、いや…」
浩二は驚いたが、表情には出さない様にした。美和は当然でしょ? とでも言わんばかりの顔で浩二を見ている。でも目の前にいる人が浩二だと認識は出来ていない。それでも浩二は嬉しかった。確かに美和の中に浩二は居る。そう思うと涙が止まらなかった。
「あなたは優しいね」
「そう? 何でそう思うの?」
「だっていつも私のそばにいてくれてるでしょ」
「好きだからね」
「・・・」
「また…あなたに会えますか?」
浩二は一瞬言葉を失ったが、美和の手を握り、笑いながら答えた。
「もちろん 何度でも」
翌朝、窓を開けると春の優しい風が部屋に入ってきた。
「起きた? おはよう」
「あなたは…誰?」
浩二は少しだけ笑った。
「僕? 僕はね、君の事が大好きな人だよ」
そう言って、浩二はいつものように美和の隣にしゃがんで答えた。
2026年10月15日 発行 初版
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