ミカはね、ヒロくんのお嫁さんになるの。幼いミカはその日を迎えることなく、短い命を終えた。
ひまわりのブローチに導かれたーー遠い日の約束
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JR恵比寿駅にほど近いカラオケボックスを出ると、雨に濡れたアスファルトが街の灯りを反射していた。
そういえば、今朝の星占いで『しし座の人は、思わぬアクシデントに見舞われる』といっていたのを思い出した。この雨のことかと納得しかけたが、すぐに思い直した。雨はしし座の人だけに降っているわけではない。
「ふん」と、苦笑いとも溜め息ともつかぬ言葉を漏らし、渡瀬幸宏はビルの隙間の夜空から落ちてくる雨粒を見上げた。
幸宏は今日七月三十一日で三十二歳になる。婚約者の山村三佳とその友人の藤原琴美の三人で、幸宏の誕生日祝いに恵比寿駅の近くで食事をした後、お決まりのコースとも言えるカラオケボックスで、ひとしきり盛り上がって来たのだった。
幸宏は酒を飲むのは好きな方なのだが、すぐに眠くなるという特技の持ち主で、今日も十八番の一曲だけ唄った後はひたすら飲む方に専念し、三佳と琴美が交代で二時間を唄いきったときには、椅子にもたれて眠っていたのだった。
幸宏と三佳は九月の始めに結婚する。二人の休みの都合で結婚式と新婚旅行の順序が逆になるのだが、お盆の休みと有給休暇を組み合わせて、結婚式前に約二週間の新婚旅行に出る。行く先はフランスとイタリアだ。旅行会社の格安ツアーで、日本でも雑誌で頻繁に名前の登場する有名なホテルに宿泊し、あとは各人フリーで市内観光をするものだ。
旅行代理店に勤める幸宏自身の企画で、勿論費用は超破格値である。本来は海外旅行の繁忙期になるこの時期に休みをとるなど決して許されないのだが、一生のうち一度きりであろう本人のハネムーンに、部長が許可をくれたのだった。
三佳は二十七歳。中堅デザイン事務所のアシスタントを勤めて約七年、最近では三佳に任される仕事も増えてきている。三佳は花をモチーフにしたデザインが得意で、特にひまわりを使ったものには定評があり、クライアントから指名で依頼が来るものも数多い。
デザインという下克上の激しいカタカナ商売の業界にいる三佳は、嫌というほど先例を見てきた。だから、仕事にしがみつくのだけは止そうと心に決めていた。
若さという魔法が解けた時、人は絶望する。──こんな筈ではなかった、と。
もし自分に才能があるのなら、それは愛する夫と子供のために役立てよう。三佳にはそれで十分だった。
しかし、三佳は結婚後も当分の間はそのまま仕事を続けて行くことになっている。これは幸宏が提案したものだった。せっかく開花し始めた才能を摘んでしまうのはもったいない、というのが幸宏とデザイン事務所の共通した見解だ。
新婚旅行にフランスとイタリアを選んだのも幸宏だった。三佳の才能をのばすためにもデザインの本場である現地で、テキスタルデザイン等さまざまなものを直に体感して、今後の三佳のデザインに活かして欲しいと願っている。
幸宏と三佳が出口のところで空を見上げ立ち止まっていると、会計係の琴美が支払いを終えて階段を降りてきた。ちょっと外の様子をみると、肩にかけたバッグから傘をだした。
「さすが琴美!」
三佳が感嘆の声をあげると、自慢げに琴美は破顔した。
抜かりのない琴美は、いつも折り畳みの小さな傘を持っていた。どんなに天気のいい日でも、必ず持ち歩いている。幸宏は関心するのと同時に、邪魔にならないのかと思ったが、陽射しの強い時には日傘としても重宝するのだそうだ。紫外線対策などといっているが、つい最近まで海水浴に出かけては、真っ赤に腫れ上がるほど日焼けしていたのはこの二人じゃなかったか、と幸宏は心の中で呟いた。
駅までの道すがら、三佳と琴美はその傘に入っていたのでほとんど濡れなかったのだが、幸宏はひとりだけ雨に打たれるはめになってしまった。駅ビルのコンコースまで辿り着くと、蒸し暑い空気と雨に濡れたYシャツが、肌にまとわり付いて気持ち悪い。
「ほんとうに、大丈夫なの?」
三佳は山の手線の改札の前で、二人を見送ろうとしている幸宏に聞いた。
これから三佳は、目黒駅から歩いて五分ほどのところにある琴美のマンションへ泊まりに行く。きっと明け方近くまで、女どうしで語り明かすのだろう。明日土曜日はふたりとも会社が休みなので、昼頃まで寝ていても問題はない。そのあと、ランチも兼ねて表参道あたりにでも買い物に行くのであろう。
雨に濡れているせいか、それとも酒に酔っているせいなのか、まだまだ若い部類に入る幸宏の風貌は、まるで疲れ果てた中年サラリーマンのようになっていた。
「大丈夫だよ。心配するなって」
幸宏は酔っていないふりをして明るく答えたつもりだったが、やはり少しろれつがまわらない。
「居眠りして、終点まで行かないでよ」
「大丈夫だって」
「今日は迎えになんか行ってあげないからね」
「はい、はい」
琴美が三佳の隣りでクスクス笑って聞いている。
幸宏は酒を飲んで電車に乗ると、ほほ百パーセントの確率で居眠りをしてしまう。酔いと電車の揺れが相乗効果となり、何とも気持ちよくなって眠ってしまう。
三佳は以前にも何度か、終電に乗ったまま居眠りをして終点の駅で降ろされた幸宏を車で迎えに行ったことがある。琴美もその話しは何度か聞いて知っていた。
「じゃあね。ほんとに眠らないでよ」
「はいよ」
最後の念を押すと、三佳と琴美はホームへの階段を上がっていった。幸宏は二人の後ろ姿を見送った。
──今日のおとめ座の運勢は何だったかな?
おとめ座の三佳の運勢を思い出そうとしたのだが、どうしても出てこなかった。確か悪くはなかった筈だ。
幸宏の住むマンションは自由が丘にある。恵比寿からだと地下鉄に乗り、次の中目黒で乗り換えればいい。運が良ければ直通電車で乗り換えなしで自由が丘まで行くことも出来る。
幸宏は地下鉄への階段を降りて、中目黒方面行きのホームに立った。湿気を含んだ生暖かい空気がムッとする。電車が来るまでの間、幸宏はベンチに座って三佳たちのことを考えていた。
ほどなくホームに電車が滑り込んで来た。中目黒駅止りの電車だった。
幸宏は心の中で軽く舌打ちすると、冷房の効いた電車に乗り込んだ。恵比寿駅から中目黒駅までは一駅しかないので、次の中目黒駅ですぐに乗り換えなくてはならない。酔った身体には非常に億劫な作業だ。濡れたYシャツが車内の冷房で冷やされて、酔いのために火照った身体に心地良かったが、すぐに中目黒駅に着き、その快楽も二分ほどで終わってしまった。
中目黒の駅で電車を降りた幸宏は、またホームのベンチに座った。ここで渋谷駅発の東横線に乗り換えなければならない。
三佳からプレゼントされたばかりの真新しい腕時計を見ると、もう少しで午前0時になるところだった。
会社の忘年会の景品でもらった、オモチャのようなデジタル表示の腕時計をしていた幸宏を見兼ねて、三佳が誕生日プレゼントにくれたものだ。黒の革ベルトで、時計本体はステンレスらしいが、濃紺の文字盤に書かれている数字が、少しレトロな雰囲気のする落ち着いたものだ。
一緒にいた琴美の話しによると、かなり高価なスイス製のものらしい。時計に関する知識を持たない幸宏にはさっぱり分からないのだが、まったく違和感なく、幸宏の持つ全体的な雰囲気の中に見事に溶け込んでいた。
三佳の目利きには、いつも関心させられる。これ見よがしの選択は決してしない。
週末の終電といえば、景気の良かった頃には朝のラッシュ並に混んでいたものだが、ここ数年来は景気の後退が著しいためか、皆帰りが早いので空いているようになった。
雨か──
山手通りの上を跨ぐような格好になっている中目黒駅のベンチで、だらしなく両足を投げ出した格好で座っていた幸宏は、雨の中を行き交う車の流れを見下ろしながら呟いた。
雨に濡れたシャツは、幸宏の体温でだいぶ乾いてきていた。
そう言えば、あの日も雨だったな──
目を閉じると瞼の裏側に、幼かったあの日の苦い想い出が蘇ってきた。
窓の外に奔る稲光と、落雷の音。
萎れたひまわりの花。
病院のベッドに横たわる幼い女の子。
断片的な画像が、幸宏の瞼の裏側を流れては消えて行く。
ふと我に還り、目を覚した。どうやら眠ってしまったらしい。
『……最終電車です。お乗り遅れのないように』
ホームでは発車のアナウンスが流れていた。
「おっと、危ない」
終電まではだいぶ時間があった筈なので、思った以上に長い間ホームのベンチで居眠りをしていたらしい。
慌てて電車に乗り込んだ幸宏は、安堵のため息を洩しながら腕時計を見た。やはり時計の針は、0時ちょうどを指していた。
「あれ?」
酔っているせいで見間違えたのかと、もう一度確認してみたが、やはり幸宏の腕時計の針は0時を指している。終電ならもう少し遅い時間の筈だ。
新品のくせに電池でも切れているのかと思ったが、すぐに思い直した。三佳が渡してくれる時にこれは自動巻だといっていた。きっと、ゼンマイの巻き方が甘かったのだろう。
周りを見渡してみると、この車両には幸宏ひとりしか乗っていなかった。雨の湿気で窓ガラスが曇っているので、他の車両までは確認することが出来なかった。
「すいてるな」
何故か子供のようにはしゃいだ気分になった。まるで自分ひとりで貸し切っているみたいだ。出来れば途中の駅で、誰も乗ってきて欲しくない。
雨に打たれている曇った窓ガラスの向こうに、大きなゴルフ練習場の照明が見えてきた。白く塗られた鉄柱と緑色のネットが明るい水銀灯に照らし出され、窓ガラス越しにそこだけ浮き上がったような幻想的な風景を創りだしていた。敷きつめられた人工芝に、ひまわり畑の風景が重なってみえた。
また急に睡魔が襲ってきた。
自然と瞼が落ちてくる。
──いけない、三佳と約束したのに。
夏の盛りの暑い日だった。
「ミカはね、ヒロくんのお嫁さんになるの」
美香はいつもそういっていた。『ヒロくん』とは幸宏のことである。
篠田美香、五歳。ひかり幼稚園のはと二組。
北海道の地理的中心地の富良野市。人体でいうところの『へそ』にあたる、まさに北海道観光には欠かせない場所の一つだ。
短い北海道の夏に、ラベンダーをはじめとする幾種類もの花が一斉に咲乱れ、まるで色鮮やかなパッチワークのような美瑛の丘。
図腹というお腹に顔を描いて踊るユニークな『へそ』祭り。
高山植物の生育する大雪山系の大自然を満喫できるキャンプ場や温泉。また冬には、良質のパウダースノーを求めてやって来る本州からのスキー客などで、旅館やホテルはいつも満室の状態だ。特にこの富良野は映画やテレビのロケ地になることも多く、そのロケ地巡りのツアーも見逃せない。まさに『観光のへそ』たる地である。
幸宏がこの富良野に引っ越して来たのは二歳の時だった。もちろん幸宏本人にその記憶は全くない。
父親の和幸の勤め先が大手ホテルチェーンで、三年前にこの富良野に東京から転勤してきたのだった。ホテルは空知川を挟んで富良野の中心部を望める高台にあり、その向こうには大雪山系南端の富良野岳を眺めることが出来る。都会の人工的な夜景も綺麗だが、やはり大自然の美しさには適わないと、幸宏の両親は口を揃えていっていたが、幼い幸宏にはよく分からなかった。
「そろそろお家に帰るから、オモチャを片付けてね」
母親の智子は、美香と仲良く遊んでいる幸宏にいった。
「はぁーい」
元気のいい返事と共に、幸宏と美香は散らかったオモチャを片付け始めた。
美香の家もちょうど同じ時期に、富良野に転勤して来た。こちらは大阪からの転勤だった。美香の父も和幸と同じホテルに勤めていて、子供の幼稚園が一緒だったため、見知らぬ土地へやって来た母親どうしが息統合するのに、さほど時間はかからなかった。
夏休みに入った七月の下旬、幸宏は智子に連れられて、徒歩で十五分ほどの美香の家へ遊びに来ていた。そうしてお互いの家を行き来しながら、子供たちを遊ばせるのと同時に、母親たちもお茶を飲みながら情報交換をするのだ。
都会で生まれ育った若い母親たちと、幼稚園の大多数を占める地元の母親たちとは、日々の話題にも温度差が生じてしまう。年齢としては大差ないのだが、やはり環境や習慣の相違からか、どこか話しの噛み合わないことが多い。意識するまでもなく、自然と都会育ちの母親たちのグループのようなものが出来てゆく。
智子たちのグループは、以前は五人ほどいたのだが、現在は智子と美香の母親の香織の二人だけである。抜けてしまった三人は何れも『脱サラ組』で、北海道での生活を夢見て移住して来たのだが、三年足らずで皆東京へ帰って行った。観光には最適でも、やはり極寒の地の生活は厳しい。ましてや、日々決まった時間を働いて、毎週一定の休みを保証されてきたサラリーマンが、一年中朝晩の境もないような酪農の道など歩める筈もないのだが、毎年のように都会からの移住者が訪れ、夢敗れては帰って行く。現在この二つの家族が残っているのも、夢を追いかけて来たわけではないからだ。仕事の都合上の転勤だから、何年か我慢していれば、何れは帰ることが出来るという事情を踏まえている。夫はホテル勤めなので昼夜の交代制勤務だが、それは東京にいたところで同じことだし、酪農家の仕事などに比べれば遥かに安定していて楽な仕事だ。
智子と香織は、富良野にいる数年を出来るだけ有意義に過ごそうと、夫の休みの日にはあちこちへ出かけるようにしていた。
都会へ戻ってしまえば、なかなか来ることもないので有名な観光地は元より、地元の人でもあまり知らないような温泉まで、広大な北海道の隅々まで出かけた。
またふたりは、どちらが先に故郷の東京や大阪に帰れるかを競ってもいた。無論、夫の仕事の都合によるものなので、自分たちの努力のようなものは影響しないのは百も承知だ。どちらにしても、あと僅かであるという暗示が二人の気持ちを弾ませていた。
散らかっていたオモチャを、幸宏と美香はすっかり綺麗に片付けた。
「できたよ!」
テーブルで香織とお喋りをしていた智子のところに、自慢気な顔をした幸宏が言いに来た。
「はい、よくできました。二人とも本当に夫婦みたいね」
智子は幸宏のすぐ後ろにいる、美香にむかっていった。
「だって、ミカはヒロくんのお嫁さんになるんだもん!」
心なしか胸をはって、照れもせず美香はいった。それは八月の蒸した空気の中で、さらりとした爽やかな風が抜けて行くような響きを感じさせた。
「きっといいお嫁さんになるわね」
智子と香織は、ほぼ同時に同じ言葉を口にしたのだった。
「それじゃ、お家に帰ろうか」
幸宏の頭をなぜながら、智子は椅子から立ち上がった。
外に出ると眩しい真夏の陽射しが、露出した腕や首の後ろあたりに痛いほど照りつける。いくら夏とは云え、北海道はたいがいの場合、夕刻になると昼間の暑さが嘘のようにひいて過し易くなる。夜になると半袖では寒いくらいだ。
ところが今年は、例年にない太平洋高気圧の張り出しで、日本列島はここのところ記録的な暑さを毎日のように更新し続けている。新聞やテレビでも、毎日この記録的な猛暑によって引き起される、様々なニュースが報道されていた。
都心の水瓶では雨量不足の為、ダムの貯水量が基準値を遥かに下回っており、乾燥してひび割れた湖底を覘かしているダムもあった。行政側の節水の呼び掛けも空しく、断水状態になっている地域も多くなっている。本来なら子供たちのはしゃぎ声で賑やかな筈の市民プールなども、断水のおかげで営業停止を余儀なくされていた。
交通機関にも深刻な影響が出ている。暑さによる熱膨張で線路が歪み、ポイント故障が頻繁に起こる為、ダイヤは崩れ送電線のトラブルも茶飯事だ。しかも、朝の通勤ラッシュ時にこれが起きると悲惨な状態になるのはいうまでもない。ただでさえ人がごった返して暑苦しい駅のホームで、何十分も待たされた挙げ句に狭い電車に詰め込まれ、汗みどろになりながらようやく会社に辿り着くと、今度は電力供給が悪いおかげでエアコンが効かない。まさに日本中がうだっていた中で、北海道だけは辛うじて水源の貯水量や電力供給が安定していた。
まだ強い陽射しを避けようと、智子は幸宏の手を引きながら、出来るだけ日陰を選んで歩いていた。五分ほど歩くと、この辺りでは一番大きいスーパーが見えてきた。夕食の買い物と涼を求めてそのスーパーに入った。日々の食料品や日用の雑多な品物はいつもこのスーパーに買いに来るが、衣料品などは和幸が休みの日に旭川や札幌まで買いに出ることが多い。特に和幸が仕事のために求める書籍の類いは、札幌の大きな本屋まで行かないと置いていないので、それに便乗するような格好で百貨店に連れて行ってもらう。
冷房の効いたスーパーに入ると、幸宏はまっ先にお菓子の並んでいる棚へと直行した。幸宏が一人であれこれとお菓子を選んでいる間に、智子は夕食の材料をカゴに入れて行き、そして最後に幸宏が時間をかけて選び抜いたお菓子と共にレジで清算をするのがいつもの手順だった。今日も幸宏は散々悩んだ末、お菓子の棚から選りすぐりを幾つか抱えて智子が来るのを待っていたが、なかなか来ないので自分から智子を探しに行くことにした。
地方のスーパーとしては比較的広い店内を、幸宏は両手にお菓子を抱えたまま母親の姿を探し歩いた。そして精肉売場のところで、熱心に立ち話しをしているおばさんと智子の姿を発見した。あまりに話しに熱中していたせいか、智子は幸宏が側に来たのを気付かずにいた。
初めに幸宏に気が付いたのは智子と話しをしているおばさんの方だった。
「あら、ヒロくん。こんにちは」と、それまで眉間に皺を寄せながら智子と立ち話しをしていた時の表情から一変して、満面の笑顔で幸宏に挨拶をした。そのおばさんは、幸宏と同じ幼稚園で一つ下のうさぎ組にいる男の子の母親で笹岡という名だった。何時の時代でもどこにでも必ずいる、噂話しの発信源たる中心人物的存在だった。
「こんにちは」
幸宏もお菓子を両手に抱えたまま、幼稚園児らしく元気一杯の挨拶を返した。
「ヒロくんはいつも元気でいいわね。病気をしないように気をつけましょうね」
「はぁい」
口元に少々意味ありげな言い廻しだったが、まだ幼稚園児の幸宏にそこまで言葉の字間や行間が読み取れる筈もなく、ただ無邪気に返事をしたのだった。それじゃまたねと言いながらそのおばさんは行ってしまった。智子は何か考えごとをしているのか、そのまま佇んでいた。幸宏が二度ほど「ママ」と読んでみたが、聞こえていないのか反応がなかった。三度目に少し大きな声で智子のスカートの裾を引っぱりながら幸宏が呼ぶと、そこでやっと我に還ったように我が子の方を見た。
「ああ、ごめんね。お母さんちょっと考えごとをしていたから……」
幸宏が両手に抱えたお菓子をカゴの中に入れ、レジで清算をしたあとスーパーを出た。
智子は釣銭を受取る時も少しぼんやりとしていて、釣銭の硬貨を幾つか落としてしまい慌てて拾っていた。
外の気温はまだ高かったのでスーパーを出た幸宏は、背中から一気に汗が吹き出て来るのを感じながら、母親の智子と手を繋いで家路についた。還り路でもやはり智子はぼんやりとしたままでほとんど話しをしなかった為、木々のあちこちで鳴いている蝉の声がやけに大きく感じた。
家に着くと、そこはまるでサウナのような暑さだった。昼食の後、三佳の家に行って遊んでいたせいで、閉め切ったまま四時間強を経過した家の中の空気は暑く淀んでいた。智子は買い物袋をテーブルの上に置くと、全ての部屋の窓を開け放った。夕方のこの時刻になると、カーテンを揺らす風が心地いい。しばらくすると、部屋の空気も軽くなってくる。
先ほどスーパーで買ってきた野菜や飲み物を冷蔵庫に入れると、あまり収容力のない冷蔵庫の中はいっぱいになった。この冷蔵庫は結婚当初に買った物で、当時の予算の都合上あまり大きいものは買えなかった。今はもっと大型の使い勝手の良い冷蔵庫が販売されていて、テレビでも頻繁にコマーシャルが流れている。
幸宏の成長につれて食料品はもとより、飲料の消費が激しくなってきている。大きくなってきているとはいえ、まだまだ小さな身体のどこに入るのだろうと思うくらい、よく食べ、そしてよく飲む。最近では夜中にモーターの音がやけに気になるようになってきていたし、幸い夏のボーナスの残りが幾らかあるので、それを頭金に分割でモーター音の静かな大型の冷蔵庫を買おうか、などと思っているところだった。
夏休みなどの子供たちが長期の休みになる頃は、夕方から夜にかけての時間に人気のアニメ番組の再放送が多くなる。テレビ局の聴視率を稼ぐのも大きな理由のひとつだろうが、いつまでも外で遊んでいる子供たちを早く家に帰すのに有効な手段でもあり、子供がテレビに釘付けになることで、夕食の支度で忙しい母親の手を煩わせるのを防ぐ効果もある。
幸宏はテレビをつけ、ちょうど始まったアニメの番組を観ていた。途中、コマーシャルの時にトイレに行き、冷蔵庫の中からオレンジジュースを出す時、智子がテーブルのところでぼんやりと外を眺めているので、どうしたのかと智子の視線を追ってみた。
窓の外には、夕暮れの夏の陽射しの中で誇らしげに咲く、ひまわりの花があった。それは、短い北の大地の夏を精一杯に生き、夏の終わりと共に哀れなほど短い一生を終える。
──美香の大好きな、ひまわりの花。
あのひまわりがどうかしたのかと思っていると、テレビではコマーシャルが終わり、アニメの続きが始まったので、幸宏は慌ててまたテレビの前に戻った。いつもならテレビに近すぎるからもっと離れて観なさいと叱られるのだが、今日は一言もいわれなかったので、一番いい場所でじっくりと観ることが出来た。
夕食の支度をしている時も、智子は心なしか元気がないようだった。ほとんどテレビに釘付け状態になっていた幸宏ではあったが、番組の替わり目やコマーシャルの時にふと見える母親の後ろ姿に、ひとしきりの陰が落ちているのは子供心にも判った。
食事の時も、智子はほとんど話しをしなかった。
今夜は和幸が泊まりの勤務なので、幸宏と智子の二人きりで食事をし、入浴を済ませて早めの時間に床についた。昼間あれだけ暑かったのに、さすがにこの時間には網戸を抜けて入って来る風は涼しくなっていた。
寝る前にはいつも智子が絵本を読んで聞かせてくれる。幸宏のお気に入りは、雄の子ねずみが、遠いところへ行ってしまった雌の子ねずみに会いに行くというストーリーで、路の途中では意地悪な猫に虐められたり、電車に乗ったり、川に落ちたりしながら無事目的地へと着く。見知らぬ土地での冒険を通して、子ねずみの勇気と成長が描かれている絵本だ。
今日もその絵本を、幸宏のとなりで読んでくれた。もう幾度も聞いている話しなので、幸宏も完全にストーリーを覚えてしまっているが、毎晩それを聞きながら寝るのが習慣になっている。智子の声が沈んでいるせいか、いつもの楽しい絵本の話しも何故か今日は悲しい物語のように聞こえた。
──どうしたんだろう。
幸宏が何か悪戯をした憶えもないし、母親の智子も別段怒っているようなそぶりでは無かった。美香の家からの帰り路に寄ったスーパーで、あのおばさんと会ってからおかしくなったのは幸宏にも分かった。幼い幸宏には、きっとあのおばさんに虐められたんだろう、ということくらいしか思い浮かばなかったが、そんな思いも夜空の星のように翌朝にはすっかりと消えていた。
翌日も、まるで夏の見本のような良く晴れた暑い一日だった。同じ幼稚園で近所に住む男の子を誘って、午後から市民プールに行って遊んだ。ここでも母親たちは、眉間に皺を寄せながらしきりと何か話し込んでいた。
夕刻になって、幸宏がまたテレビの前にかじり付いていると、泊まりの勤務だった和幸が帰って来た。「おかえり」といったきり、幸宏はまたテレビのアニメに夢中になっていたが、所々両親の話声が耳に入って来る。やはり智子は眉間に皺を寄せ、幸宏に聞こえないような小さな声で話しているのだが、さほど広くもない居間ではあまり効果がなかった。
幸宏の耳に聞こえて来た話しの断片を繋ぎ合わせてみると、どうも美香が病気でまた入院するらしいということのようだった。これまでも美香は何度か入退院を繰り返していた。美香本人も病状のことは聞かされていないようだし、幸宏が聞いても大人たちははっきりとは答えてくれなかった。たとえ病状を聞いたところで、幼稚園児の幸宏に理解できる筈もない。
幸宏もその時は、さほど気にはしなかった。今までにも美香が入院することは何度かあったし、暫くすると元気に退院してきて、いつも通り幸宏と遊んでいた。今度も同じだろうと思っていた。
「ミカ、入院するの?」
幸宏はその日の夜、いつものように絵本を読んでくれている智子に聞いてみた。智子の顔が一瞬曇ったが、すぐに笑顔に戻った。
「うん、札幌の病院なんだって」
「ふうん」
札幌には両親に連れられて何度か行っているので、きっとエレベーターのある大きな病院なんだろうと想像は出来た。このあたりには、そのような大きな病院はない。ただ幼稚園児の頭では、自分の家と札幌の位置関係や距離感が分からなかった。
「いつ帰ってくるの?」
「きっとすぐに帰って来るわよ。そしたらまた遊びに行こうね」
「うん!」
幸宏は美香が入院する寂しさよりも、元気に退院してくる美香と遊ぶ光景が瞼に浮かんで、むしろ楽しくなるくらいだった。しかしこの夏を最後に、その日が永遠に訪れないことを幸宏は知る由もなかった。
翌日から立て続けに、日本列島を二つの台風が縦断して行ったため、幸宏は家から出られなかった。台風も北海道に上陸する頃には温帯低気圧に変わっているのだが、それでも雨や風が強いので幼い幸宏には外出は無理だった。
この二つの台風は水による災害を日本全国にもたらした。
勢力が弱まり比較的被害の少なかった北海道でも、土砂崩れや川の増水による行方不明者が数人出ていた。
台風で洗われた空気と抜けるような青空に恵まれた週末、幸宏は智子と一緒に美香の家へ遊びに行くことにした。幸宏は久しぶりの外出にはしゃいで、まだあちこちに残る水溜まりにわざと入っては智子に叱られた。
今日は幸宏と美香を遊ばせるのもあったが、智子の目的は美香の入院についての正確な情報を訊くためだった。
上空の鮮やかさとは対照的に、富良野市を流れる空知川は水嵩が増し、濁った水が河川敷のゴルフ場の芝を埋め尽くしている。智子の気持ちも、この川のように不安の濁流が水嵩が増していた。
やがて美香の家が見えて来た。が、智子は近付くにつれ、少しずつ歩みが遅くなっていった。
台風も通り過ぎ、今日はこんなにいい天気だというのに窓は閉められており、いつもなら幾つかの洗濯物が干してある筈なのに、それも見当たらない。
「ミカ、いないのかな?」
幸宏も、静まりかえった美香の家の様子に気がついた。
智子は幸宏と手を繋いだまま玄関の前に立ち、チャイムを鳴らしてみたが、やはり返事はなかった。裏庭の方にも廻ってみたが、レースのカーテンが掛った窓から家の中を覗いてみても、やはり人影は見当たらない。
「お買い物にでも行ったのかな?」
傍らでつまらなそうにしている幸宏に向かってそういってみたが、智子の頭の中では違うことを考えていた。
「なぁんだ」
──やっと天気が良くなって、遊びに来たのに。
幸宏の顔には、はっきりとそう書いてあった。
「ちょっと、そこの公園で遊んでようか。そのうち帰って来るかもしれないしね」
「うん」
美香の家からほんの少し歩いたところに、小さな児童公園がある。幸宏と美香が二人でよく遊びに来る公園だ。象の形をした滑り台で遊んでいる幸宏を眺めながら、智子の脳裏にはある言葉が木霊していた。
──本当なのだろうか?
一時間近くその公園で遊んだ後、もう一度美香の家に寄ってみたが、やはり誰もいないのは同じだった。仕方なく幸宏と智子はいつものスーパーに行き、買い物をして帰った。今日は、あのおばさんには逢わなかった。
夕食の後、智子は電話をかけてみたが、やはり美香の家には誰もいないようだった。この時間に居ないとなると、どこかに泊まり掛けで出かけているのだろうか。すぐに帰るようであれば、洗濯物くらいは干してあってもいい筈だ。それとも……。
翌日の午後、幸宏が美香の家へ遊びに行きたいと言い出したが、智子は少し暗い表情で幸宏にいった。
「あのね、ミカちゃん入院してるんだって。だから昨日もお家にいなかったの」
「ふうん」
智子が午前中にどこかに電話して病院の話しをしているのを聞いていたので、幸宏はさほど驚きもしなかった。幸宏は、やっぱりと思った。
「いつお家に帰って来るの?」
これまでも美香は何度か入院しては、暫くすると帰ってくるので、今回もそうだろうと幸宏は思っていた。しかし、その意に反して智子の返事はどことなく湿り気を帯びた重たいものだった。
「それがね、今度はちょっと長いみたいなの」
「どのくらい?」
「ううん、私にも分からないの。今度、ミカちゃんのお母さんに聞いてみようね」
「うん。あと何回寝たら、ミカ帰ってくるかな」
幼稚園児の幸宏には、まだ時間や日にちの感覚はほとんど無いに等しい。せいぜい『あと何回寝たら』という程度のことしか分からないし、もちろん十以上は『いっぱい』である。
美香がいないまま寂しい数日が過ぎたある日の朝早く、イルカと一緒に海を泳いでいる夢を見ていた幸宏は智子に起こされた。
「今日は、ミカちゃんのところへ行くんでしょ。早く起きなさい」
智子に身体を揺すられて渋々と眠たい目を擦りながら起きた幸宏は、自分のパジャマを見ながら辺りをきょろきょろと何かを探している。
「あれ?」
「どうかしたの?」
「イルカさんは?」
「ああ、イルカさんの夢を見てたのね」
まだ夢と現実の境がはっきりしないまま、朝食のテーブルについた。牛乳を少し飲むと、やっと夢から覚めてきた。
そうだった。今日は、札幌の大きな病院に入院している美香のお見舞いに行くことになっていた。
昨日の夜、寝る前に読んでもらったイルカの絵本が面白かったせいか、気持ちよくイルカと大海原を泳いでいる最中に起こされたのは残念だった。
朝食が済むと、智子の運転する車で札幌へ向かった。夏休みの最中で、書き入れ時の忙しいホテルに勤める父親の和幸は、さすがに休みが取れなかった。仕方なく智子と幸宏の二人で、美香の入院する札幌の病院に見舞いに行くこととなった。
富良野から札幌までは車で約二時間の道ほどだ。東京ではめったにハンドルを握らない智子であったが、本州の細く曲がりくねって慢性的な渋滞をした道路とは違い、広くてどこまでも見通しが良く、対向車さえも疎らなまっすぐな道路なので、智子も北海道では車の運転が苦にはならなかった。しかし、それは雪のない夏場だけに限定される。東京育ちの智子には、雪道での運転は司法試験に合格するのと同義語と言えるほど困難を究めた。
途中で幸宏のトイレと、ジュースを買うのにいちど停まっただけで、ほぼ予定通りの時間で車は札幌に入った。流石に札幌の街中では車の交通量が多く、東京あたりとさほど変わらない印象だが、碁盤の目に整備されている札幌の道路は比較的走り易い。
病院へは午後から行くことにしてあったので、智子は大通り公園近くの駐車場に車を預け、和幸から頼まれた本を買いに本屋へと入った。
いくら湿度が低くて過ごし易い北海道でも、真夏の札幌はやはり暑い。ほどよく効いた店内の冷房に、額の汗が退いていくのが心地よい。
目的のものを見つけると、次ぎは幸宏の新しい絵本を選ぶ。これには幸宏の意見が全面的に尊重されるのはいうまでもない。幸宏が選んだのは絵本というよりは、むしろ写真集の部類に入るようなものだった。見開きのページ一杯に、動物や文具をはじめとするようなミニチュアがびっしりと並んだ写真がある。その中からコインを三枚見つけなさいとか、緑の蛙を五匹見つけなさい、といったような簡単な問題のようなものが書かれている。ある種の間違い探しのような本である。
幸宏はすっかりその本が気に入ったようで、自分のと一緒に美香の分も買ってくれと智子にせがみ、同じ本を二冊買った。
その後、すぐ隣にある百貨店に寄り、和幸や幸宏の服などを買い、最上階にあるお好み食堂で幸宏はお子さまランチを食べた。
食事を終えると、百貨店の紙袋を提げて駐車場へと向かった。冷房の効いた店内で退いていた汗が一気に吹き出てきたのを感じる。ノースリーブの智子の肩や腕に、真夏の日射しが容赦なく照りつける。絵本を抱えて歩く、幸宏の鼻の頭にも汗が浮き出ていた。
大通り公園に差し掛かったところで、幸宏がアイスクリームの屋台を見つけた。
「アイス食べたい」
智子も同じことを考えていたので、思わず笑みが浮かんだ。
「そうね。そうしようか」
「うん!」
幸宏は嬉しくて、飛び跳ねるようにして歩き出した。たぶん本人はスキップをしているつもりなのだろうが、智子は今にも転びそうな我が子と繋いだ手を放さぬように気をつけねばならなかった。
夏休み中ということもあり、大通り公園には親子連れも多く、美香と同じくらいの元気な女の子を連れた家族の姿が目についた。
──幸宏に何と説明すればいいのだろう。
ベンチに座り、無心にアイスクリームを食べている我が子の姿を見つめながら、智子は考えていた。
先日スーパーで会った同じ幼稚園の笹岡は、実の兄が美香の入院している病院の医師をしている。スーパーでの立ち話しの内容も、美香の病状のことであった。その母親が兄に聞いた話しによると、直接の担当医ではないので断定は出来ないが、どうも染色体疾患の一つで『エドワード症候群』という病名であるらしいという。
人間の染色体は、通常は男女共通する二十二対の常染色体と、一対の性染色体からなっている。この性染色体がXYは男性、そしてXXの場合は女性となる。染色体疾患で、対になっている筈の染色体の数が一つ少ないのを『モノソミー』、そして一つ多いのが『トリソミー』という。
美香の場合は、この二十三対からなる染色体の十八番目の染色体に異常のある『18トリソミー』、別名「エドワード症候群」である。五千から八千人に一人の割りで出生し、三対一の比率で女児が圧倒的に多く短命であるのが特徴である。
何よりも智子を驚かせたのは、美香の命があとひと月余りで終焉を迎えるかもしれないということだった。つい先日まで幸宏と元気に遊んでいた美香が、間もなく天に召されようとしているとは、どうしても納得のいかない話しだった。
今になって思い返してみると、その徴候が無かったとも言えなかった。健康な子供でも幼児期には、ちょっとしたことで入院するような場合があるのは確かだが、美香は遥かに他の子供達よりもその頻度が多く、また入院している期間も長かった。
母親の香織がいうには「風邪を拗らせたので、大事をとって」といっていたりしたが、実はこの病気の治療のための入院だったようだ。もちろん美香本人にはそのことは知らされていない。
智子が美香を抱き上げたりすることもしばしばあったが、その時の体重の軽さは男児と女児の違いによるものだろうとしか思っていなかったし、また体躯が小さいためだと思っていた。しかし、それも総てエドワード症候群による発育の遅延であった。
公園を行き交う親子連れを眺めながら、ぼんやりと考えごとをしている智子を、口の周りをアイスでベタベタにした幸宏が呼んだ。智子はバッグからハンカチを出すと、幸宏の口を綺麗に拭き立ち上がった。
「さあ、行こうか」
「うん」
「アイスおいしかったね」
「ミカにも買っていく?」
優しい幸宏の心使いに、智子は涙がこぼれそうになったが、何とかそれを堪えると優しくいった。
「持っていく間に、溶けちゃうといけないでしょ」
「そっか」
病院に着くまでにアイスが溶けてしまうのは、幸宏でも理解が出来たようだ。この暑い最中に、ドライアイスもなしにアイスクリームを持ち歩いたら、数分で溶けてしまう。
「途中でお花でも買っていこうか」
「うん。ひまわりがいい!」
ひまわりは美香の大好きな花だ。その影響なのか、いつしか幸宏もひまわりの花が好きになっていた。殺風景な病室で、黄色いひまわりの花はきっと美香の気持ちを和らげてくれることだろう。
さきほど百貨店で買った荷物を車に積むと、駐車場を出て美香の入院している病院へと向かった。
屋外の駐車場に停めてあった車は、夏の強い日射しで車内はむせ返るほど熱くなっていた。ハンドルが火傷しそうなくらい熱せられていて、あまり握っていると本当に火傷するのではないかと思えるほどだった。
駐車場を出て暫くのあいだは、車内に籠った熱気を吐き出すために、窓を全開にしたままで走り、途中の花屋で、鑑賞用の背丈の低い小振りなひまわりの花を買った。
美香の入院している病院までは、車で十五分ほどだった。
日進月歩の医療機関は、常に新しい設備と技術が要求される。患者側も口コミで、どこそこの病院に新しい設備が入ったとか、あそこの医師は技術が優れているという情報が流れてくるので、それによって病院を選択している。自分自身の命に関わる事項であるが故、病気と言えないような些細な症状であっても、これらの情報を元に、わざわざ遠くの病院まで行ったりすることもある。病院側もこれを怠ると、覿面に患者数が激減する。
この大学付属病院でも、入院棟の増築と、レントゲンやCT設備の入替えや、手術室や集中治療室の設備工事の最中のため、駐車場スペースの半分近くを工事用のフェンスで仕切られている。元々はかなり広い駐車場で、停める場所を探すのに苦労するような所ではなかったのだが、今は狭くなった駐車場に車が溢れている。
一番奥から二ブロック目に空いている場所を見つけ、智子は車を停めた。病院の入り口からはかなり離れた場所である為、炎天下の中を歩いて行くのは少々おっくうだった。
幸宏は智子に手を引かれながら、ひまわりの花束を抱えて、アスファルトの照り返しが厳しい駐車場を歩き、病棟へと入った。
鑑賞用の小振りなものとは云え、ひまわりの花束となればかなりの大きさになる。幸宏は花の隙間から、前方を必死に覗きながら歩いているのだが、傍から見ると幸宏の姿は花束に隠れてしまっていて、智子が一人で花束を持って歩いているように見える。
建物に入って左に折れ、小さな売店を過ぎたところにエレベーターホールがあった。少し古めかしいエレベーターが、左右に二基づつ並んでいた。
「ヒロが押す!」と言いながら、幸宏は昇降ボタンの前に小走りで近付いた。子供の頃は、誰しもがエレベーターやエスカレーターが好きなものである。幸宏が小さかった頃はまださほど多くは無かったが、百貨店や大きな病院などの建物には必ずエレベーターがあり、決まってボタンを押したがった。
休日の百貨店などに買い物に行くと、他の子供と競って、エレベーターの操作パネルを奪い合うのもしばしばだ。
「上のボタンを押してね」
「うん」
点滴のチューブを揺らしながら、エレベーターホールに入って来たおばあちゃんが、満足気にボタンを押した幸宏の顔を見て、微笑んでいた。幸宏は、そのあばあちゃんの腕に繋がっている黄色い液体を、不思議そうに眺めていた。
美香のいる四階の小児病棟でエレベーターを降りると、左右に長い廊下が延びており、そのほぼ中央に位置する場所にナースセンターがあった。
智子は美香に面会に来た由を告げると、小太りで気の良さそうなナースが、部屋番号を教えてくれた。廊下を歩く幸宏の靴のゴム底が、リノリウムの床でキュッ、キュッと独特の高い音をたてる。
美香の部屋は、左側に延びる廊下の一番奥にある二人部屋だった。病室の入り口にある、名前の書かれたプレートを確認すると、今現在この部屋には、他に入院患者はいないらしく、美香の名前だけがあった。
「こんにちは」と言いながら、二人が病室に入って行くと、窓際のベッドのところに美香と母親の香織の姿があった。もう一つの廊下側のベッドは、綺麗に整頓されていて、やはりこちらには誰もいないらしい。
「あ、ヒロくん」
美香の顔が、ぱっとが明るくなった。何日かぶりで見る美香は、やはり少しやつれたように思える。
「これ」
少し照れるような仕種で、幸宏はひまわりの花束を美香の前に差し出した。
「うああ、ひまわりだ。きれい!」
感嘆の声をあげながら、美香は花束を受け取った。幸宏も美香が喜んでくれているので、嬉しそうにしている。
「わざわざすみません」
そういうと、香織は美香の手からひまわりの花束を受け取り、近くにあった花瓶を手にして給湯室へと向かった。
「元気そうね」
少しやつれた感じは否めないが、特に顔色も悪くないようなので、智子は労いの意味も込めて美香にそういった。
「うん、早くお家に帰りたい」
「お医者さんは、いつごろ退院出来るっていってるの?」
「ううん。わかんない」
心なしか不安な様子で、美香は首を横に振った。
「そう。じゃあ、おばちゃんが後で聞いておいてあげるね」
「うん」
智子の言葉に安心したのか、美香は満面の笑顔で頷いた。が、智子の心の中で、何かがざわめいた。
──香織は何も話していないのだろうか?
ふと、窓のカーテンが揺れているのが目に入った。そういえば、外はあれほど暑かったのに、病室の中ではそれを感じさせなかった。四階の窓から抜けて行く風は、湿気がなく爽やかな空気を運んで来る。これが東京であれば、車の排気ガスや建築工事の騒音と共に、太陽の強い日射しとアスファルトの照り返しで熱せられた、湿度の高い温風が吹き込んで来る。さすがに北海道の空気は違う、と智子は感じた。
窓辺に立ち、そんなことを思いながら四階からの札幌の街並みを眺めていると、まもなく香織がひまわりの花を活けた花瓶を持って帰って来た。
「ほら綺麗でしょう」
香織は、花瓶をかかげるようにして美香に見せた。ブルーのガラスの花瓶と、黄色いひまわりの花のコントラストが鮮やかだった。
「うん、きれい」
美香も満足しているようだ。
「テレビつけていい?」
美香は遠慮がちに香織に聞いた。どうやら、見たい番組があるらしい。幸宏と智子のてまえ、言い出し難いような様子だったので、智子の方から「いいよ」と、いってあげた。
普段のこの時間は、時代劇かドラマの再放送をやっているのだが、夏休み期間は子供向けのアニメ番組に代わる。美香がテレビのスイッチを入れると、ちょうど動物もののアニメの主題歌が始まったところだった。人間の罠に掛って連れ去られた母親を、子供のアライグマが必死に探し求めて冒険の旅に出るというストーリーで、『母を訪ねて三千里』のいわば動物版といったところだろうか。
幸宏も美香もテレビの画面を食い入るようにして観ていて、微動駄にしない。暫く智子も、子供たちと一緒に画面を見つめていたが、ちょうどいい頃合だと思い、香織に声をかけた。
「ちょっといいかしら」そういって、智子は椅子から腰を浮かせた。
「美香もヒロくんも、いい子にしてテレビ観ててね」
香織はテレビに夢中になっている子供たちにそういうと、智子と廊下に出た。
エレベーターホールの隣りにちょっとした休息場所があり、飲み物の自動販売機があったので、ふたりともオレンジジュースを買った。紙コップに飲み物が注がれるタイプのものだ。ここなら美香の病室とも離れているし、子供たちに話し声が聞こえることもないだろう。香織は努めて明るく振舞うようにしているようだが、智子にはそれが反って痛々しく感じられる。
二人で紙コップを手に、近くの長椅子に座った。
窓の外から入って来る風が、二人の頬を撫でていった。気がつくと、微かに蝉の泣き声も聞こえる。智子は紙コップのオレンジジュースを一口飲むと、香織の方に向き直り、心の中の疑問を率直にぶつけてみた。
「幼稚園でも噂になっているんだけど、美香ちゃん具合はあまり良くないの?」
妙に喉が貼付く感じがして、香織の顔を覗き込むようにしながら、もうひと口ジュースを飲んだ。冷たい喉越しが気持ちよかった。
「エドワード症候群、っていう病気だと聞いたけど……」
香織は両手で持った紙コップに、目を落としたまま暫く俯いていたが、やがて意を決したのか顔を上げ智子の方を向いた。
「そうなの……」
気のせいか、微かに声が震えているように聞こえた。心の動揺から手が震えているのか、香織の持っている紙コップのオレンジジュースが小さく波立っている。
「退院の目処は立たないの?」
もしかするとこの質問は、美香たち親子には残酷な質問になるかもしれないと思いつつ、聞くだけは聞いておきたかった。
「もう……」
そこで香織の言葉は途切れ、また俯いてしまった。
智子には、その後に続く言葉を聞かなくても、十分に理解することが出来た。もうこのまま美香は病院のベッドで、あまりにも短かすぎる一生を終えることになるのだ。まだまだこれから成長し、大空に向かって羽ばたいて行こうとする幼い命が。
──その時、幸宏はどう感じるのだろうか?
──人の命というものが、五才の幼児に理解が出来るのだろうか?
香織の唇は力無く震え、よく見ると頬を涙が伝っていた。そのあと少しだけ、美香の病状についての話しを聞いたのだが、智子はただ頷くだけしか出来なかった。気がつくと、智子も泣いていた。
智子自身、目の前が真っ白になってしまっていて、虚ろな思考の中では何を聞いたのかさえ、後から思い出すことが出来ないような状態だった。うまく慰めの言葉も見つからないまま、絶望という名の重い荷物を背負った、香織の震える肩をただ見つめていた。
ふと廊下に目をやると、幸宏が病室を出てこちらに歩いて来るのが見えた。幸宏に気付かれぬように、そっと目頭に浮かんだ涙を拭いた。
「テレビは終わったの?」
「うん。本、出していい?」
「いいわよ」
智子と香織が話しをしている間に、三十分のアニメ番組は終わったようだった。智子に了解を貰った幸宏は、嬉しそうに笑いながら病室へと早足で戻って行った。
少し気持ちの落ち着いて来るのを待って、智子と香織は病室へと戻った。病室では幸宏と美香が、札幌で買ってきた絵本を広げて楽しそうに笑っていた。子供たちに不安な気持ちを抱かせないように、智子も香織も努めて明るく振舞った。
夕方の四時を少し過ぎたあたりで「そろそろ、お暇しようか」と、智子がいった。
「オイトマ、って何?」
絵本から顔を上げた幸宏が聞いた。
「お家に帰りましょうか、ってことよ」
「ふうん」
言葉の意味を呑込めないのか、まだ遊び足りないのか、幸宏は気のない返事をした。
「また来てね」
聞き分けのいい美香は、絵本を閉じながら幸宏に向かって笑顔をつくっていたが、にこやかな瞳の奥には、不安の色が見え隠れしている。
「うん、またね」そういって、幸宏は元気に手を振ると、智子と病室を出た。廊下に出たところで、もう一度美香の方を振り返って手を振った。窓を背に座っている香織の姿は、どこかひと回り小さくなったように感じられた。
病院の外に出ると、来た時ほどではなかったものの、強い日射しが容赦なく降り注いでいた。白夜のような極端なことはないが、緯度の高い北海道では夏時期の日照時間が長く、冬はその逆に短い。そろそろ夕方の四時半になろうとしていたが、まだまだ陽の位置は高く夏の青い空は明るかった。
幸宏は暑さと遊び疲れのためか、富良野までの帰りの車内ではすぐに寝入ってしまった。子供はよく寝汗をかく。智子は幸宏と添い寝をすると、その体温の高さと寝汗の湿気、それと何より育ち盛りの子供の寝相の悪さで、熟睡することが出来ない。
幸宏は布団の上だけには留まらず、床の上までも一晩中動き廻って寝るのである。そのたびに、智子は幸宏をちゃんと布団に寝かせるのだが、数分も経たないうちにまた転げ廻る。睡眠不足になる親としてはたまったものではないが、それも親の勤めであり、無邪気な子供の寝顔を見るのも、それはそれで幸せを感じる瞬間でもある。
今も少し暑いのか、幸宏の鼻の頭とおでこには汗が浮いていた。不謹慎ではあるかもしれないが、幸宏の寝顔を見ながら健常な息子に恵まれたことを、誰にともなく感謝する気持ちでいっぱいになった。
富良野には、まだ陽があるうちに着くことが出来た。途中、いつものスーパーに寄って夕食の買い物をする時も、幸宏は起きずに車の中で眠ったままだった。車内が暑くなるといけないと思い、智子は車の窓ガラスを数センチづつ開けて行くようにした。これなら夕方の涼しい風が抜けて車内の温度を上げずに済むし、もし幸宏が起きてしまっても、自分を呼ぶ声が外まで聞こえる。
ただ一つの心配は、買い物の途中で先日ここで逢った笹岡に捕まってしまうことだった。札幌にお見舞いに行ったのが知れれば、根掘り葉掘り聞かれるに違いない。それを噂話しの中で面白可笑しく言いふらされては、美香や香織だけではなく、智子も幸宏もたまったものではない。園児の中で話しが広まれば、幸宏の心中は穏やかである筈もないのは明らかである。また、子供は罪の意識というのが薄い。残酷なことも平気で口にする。聞いている大人の方が、冷や冷やさせられるのもしばしばだ。
運のいいことに、今日はスーパーに笹岡の姿はなかった。スーパーでの客の顔ぶれはいつも決まっている。智子もそうだが、主婦の買い物は夕刻のだいたい同じ時間帯に行くのが毎日の習慣である。必然、店内では馴染みの顔ばかりを見ることになる。
早足でレジに向かい清算を済ませた智子は、駐車場で笹岡にばったり出逢ってしまった。
「あら、渡瀬さん」
「こんにちは」と、智子はやや顔を引きつらせながら挨拶をした。
今日、美香のお見舞いに行くことは誰にも話していなかったし、幼稚園も夏休みで、幸宏が誰かに喋ったとも考え難い。だが、札幌の病院で医師をしている笹岡の兄から聞いている可能性もある。直接の担当医ではなくても、同じ病院内で見かけられたり、話しを聞いているかもしれない。
「あら、お買い物?」
「ええ、まあ」
まったくの愚問である。一家の主婦が、夕刻のこの時間にスーパーから袋を提げて出て来れば、買い物以外に何があるというのだ—という気持ちを悟られないよう、精一杯の作り笑いで応戦しながら、一刻も早くこの場から立ち去るにはどうしたものかと、智子の脳はフル回転していた。
「あら、幸宏くんは?」
これは絶好のチャンスである。
「ええ、車で待っているものですから──」
「あら、そうなの」
笹岡の口癖で、やたらと『あら』という枕詞が付く。本人は気にならないのだろうが、これを長い時間きいていると不快感が溜ってくる。
「すみません、ではこれで──」
「あら……」
これ以上この場に居ると、立ち話しが始まって逃げ出すことが出来なくなる。まだ何か言いたげな笹岡を、半ば無視するような格好で智子は足早に車へと戻った。だいぶ西の空が赤みを帯びて来ていた。
車の窓越しに中を覗くと、幸宏はまだ眠っていた。
ドアを開けて、運転席に乗り込んだ智子は幸宏を起こした。窓ガラスを少し開けておいたお陰で、車内の空気はさほど暑くはなっていなかったが、それでも幸宏は着ているTシャツの色が変わるほど、首のまわりや背中にびっしょりと汗をかいていた。
家に着く頃には辺りはだいぶ薄暗くなってきて、富良野の空に広がる雲は、鮮やかな紅に染まっていた。蝉の声が日暮れを惜しむように、少し遠くから聞こえていた。
いつもより遅めの夕食の支度が出来たころ、ちょうど和幸が帰ってきた。
「パパ、帰ってきた」
玄関から聞こえる物音で、父親の帰宅に気付いた幸宏は、玄関先へとさほど広くもない家の中を走った。
「ただいま」
迎えに出た幸宏を抱きかかえながら、和幸は居間へと入った。幸宏もそろそろだっこするには重たくなってきている。
「お帰りなさい」
「どうだった、病院の方は?」
「ええ……」
美香の病状についての詳細を知らない和幸は、智子の曖昧な返事を聞いて、それ以上はこの場で話すのを止めた。幸宏のいる前では話し辛いのだろう。美香の病状がよくないらしいことは前から聞いていた。今の智子の反応は、それを裏付けるものであった。それでも幸宏が心配するといけないと思い、抱いたままの幸宏に向かって笑顔を作って「ミカちゃんは元気だったか?」と聞いてみた。
「うん。絵本で遊んできた」
「そうか。早く帰ってこられるといいな」
「あした、帰ってくるかな?」
「どうかな。お医者さんに聞いてみないとな」
「ふうん」
いまひとつ得心のいかない幸宏を降ろして、和幸は着替えることにした。幸宏を抱いていたので、少し腕が痛くなっていた。
重たくなったな──。
着替えながら我が子の成長に喜びを覚え、腕を揉みながら食卓についた。
その後は和幸も智子も、美香の話題には触れないようにした。幸宏が聞いているところで、どう話していいか智子には分からなかったし、和幸もそれを察してあえて聞かないでいた。幸宏もその話題を持ち出すことはなかった。テレビの夏休みアニメ特集や、特撮で有名なヒーローものに夢中で、幸宏の見たいテレビ番組が終わるとすぐに和幸と風呂に入り、風呂から出てパジャマに着替えるとすぐに寝てしまった。
テーブルに座って風呂上がりのビールを飲みながら、夕刊を読んでいた和幸のところに、台所の片付けを終えた智子が来て、向いの椅子に腰掛けた。
「美香ちゃんのことなんだけど……」
「悪いのか?」
ビールを一口飲んで、夕刊をたたみながら和幸がいった。
「そうなの。あまり長くないみたいなの」
智子は和幸の肩ごしに見える寝室で、何の不安も抱かずに眠っている幸宏の寝顔を遠目に眺めながら寂し気にいった。
「長くないって、そんなに悪いのか?」
少し長めの入院だろうと思っていた和幸は、意外な言葉に戸惑いを隠せない。まさかそんなことになっているとは、文字通り、夢にも思わなかった。
「私もショックだったけど、幸宏の方が……」
「幸宏にもいったのか?」
「いいえ。幸宏も美香ちゃん本人も知らないわ」
「そうか──」
幸宏の年令では、人の生死についてまだピンと来ないかもしれない。それでも、あれだけ仲のいい娘が死ぬようなことがあれば、幼い心に深く刻まれるであろう傷の大きさは量り知れないものがある。
「どういう病気なんだ?」
「それがね、香織さんに聞いたんだけど、何だか難しいのよ。人間の染色体ってあるでしょう」
「あの、XとかYとかあるヤツか」
染色体の授業を受けたのは、中学生くらいだったか──。和幸は遠い日の授業風景を脳裏に思い浮かべていた。
「そうそう、それ。それが普通は二十三対あるんですって」
「うん。父親と母親から半分づつ貰って、対になるんだろう」
さすがに解りのいい和幸に、智子は少しほっとしながら話しを続けた。
「その二十三のうちの一一何番目だっけ。あ、そうそう、十八番目の染色体が一つ多いんですって」
「つまり二つで対になっていなくて、三つあるということか?」
「そうらしいの。他にも二十一番とか十三番の異常なんかも多いんですって。それで、美香ちゃんの十八番目の染色体異常は、別名『エドワード症候群』って名前らしいの」
「エドワード──。きっと発見した医師の名前をつけたんだろうな。で、全く治る見込みはないのか?」
智子も病院でまったく同じことを聞いたのだった。難しい病名や染色体の数よりも、治るのかどうかをまっ先に知りたいのが人情であるし、それによっては、色々な心構えも必要になってくる。
「もう長くないらしいわ。秋までもつかどうか分からないって……。それでも美香ちゃんは長生きの方なんですって。生まれて数年もしないうちに死亡する確立が圧倒的に高いらしいの。何とか生きて、治ってほしいわ」
智子は途中から涙声になっていた。
「そうなのか……」と、智子の頬を伝う涙の雫を見つめながら、和幸は溜め息まじりにいった。
和幸は寝室の方を振り返り、すやすやと寝息を発てている幸宏の顔を暫く眺めていた。気がつくと、智子も涙を浮かべた瞳で、同じように幸宏の寝顔を見つめていた。
日本国民の習慣である御盆休み中は、和幸の勤めるような観光地のホテルは書き入れ時にあたる為、世間とは反対に休みを採ることが出来ない。八月の十日から十六日までの一週間、智子は幸宏を連れて東京の実家に帰っていた。
今でこそ飛行機を使えばほんの一時間半ほどで着くが、まだこの時代は航空運賃は高く、庶民なはなかなか乗ることが出来なかった。通常の交通手段としては、丸一日かけての夜行列車の旅となる。また、日本国中の人間がこの時期一斉に帰省する為、どこも人や車でいっぱいである。わざとピーク時を避けた日を選んでの移動だったが、それでも列車は満席状態で、通路や連結部付近で寝ている人も見かけられた。
一週間ぶりに富良野の駅に降り立った智子は、長旅で少し痛くなった背筋を伸ばしながら深呼吸をした。
「やっぱり、北海道の空気はいいわねえ」
すぐ隣りにいる幸宏に向ってそういったのだが、駅に着くまで眠っていたのを無理矢理起こされたので、まだ半分寝ぼけ眼で智子の言葉が耳に入らなかったらしい。
札幌で乗り換えた時には感じなかったが、ここ富良野駅のホームを流れる午後の風は、雑然とビルの建ち並ぶ東京のそれと比べて、明らかに爽やかで澄んでいる。日射しはまだ強いが、暑いほどではない。盆を過ぎると、北海道は急速に秋の気配が強くなる。日陰に入ると、半袖では肌寒いくらいだ。
いちど家に帰って、片付けと洗濯をしてから、智子は幸宏を連れて買い物に出ることにした。和幸が綺麗好きなお陰で、一週間ぶりの我が家も台所や洗濯物が溜っていたり、散らかっていることもなかった。むしろ散らかす張本人の幸宏がいないことで、普段よりすっきりと片付いていたが、冷蔵庫を開けてみると、ほとんど空の状態だった。さすがの和幸も、仕事帰りに食料品の買い物はしていなかったらしい。まだこの時代の富良野には、二十四時間営業のコンビニエンス・ストアは存在しなかった。食事などは、たぶんホテルの従業員食堂で済ませていたのだろう。
いつものスーパーに向うと、まずは野菜類から先にカゴに入れ始めた。キャベツや玉葱などは思いのほか重量があるため、すぐにカゴはずっしりと重くなった。醤油がそろそろ無くなるのを思い出して、野菜の次ぎは調味料の棚へと移動した。いつも買っている醸造メーカーの物がちょうど安売りをしていて、通常価格より五十円引きのポップが出ていた。新聞に入ってくるチラシを見ていなかったので、タイミングの良さに智子はほくそ笑んで二本買うことにした。──今日はツイてるな。と、棚に並んだ醤油を取ろうとした時、聞き覚えのある声がした。
「あら、渡瀬さん」
わざわざ顔を見なくてもその声の主は分かる。智子は悟られないように心の中で舌打ちをした。さっきのツキはこれで御破算になった。いや、マイナスといった方がいいかも知れない。
「どうも、こんにちは」
智子は愛想笑いを浮かべながら、その声の主の方に向き直った。やはり笹岡だった。先日は何とか誤魔化したが、今日の場合はそうは行かないかもしれない。幸宏はお菓子の棚へ行ったきりで、まだ戻って来ない。美香のことを聞かれるに間違いない。あれから病院には行っていないので、美香の病状がどうなっているのかは分からない。
「暫くお見かけしませんでしたね」
「ええ、東京の実家へ行っていたものですから」
「あら、そうでしたの。今日は幸宏くんは?」
「向こうの棚のところで、お菓子を選んでます」
早く幸宏が戻って来ないと、逃げるに逃げられない。それとも幸宏がいるお菓子の棚へ移動するか──。そう思い始めたところにちょうど、大きなポテトチップスの袋を抱えた幸宏が現れた。幸宏も笹岡が苦手なのか、こちらに近付いてこようとしない。
「そう言えば、美香ちゃんの容態は良くないらしいわね」
「そ、そうなんですか?」
「先週あたりも、危なかったらしいわよ」
ちょうど智子と幸宏が、東京の実家に行っていた頃だ。ついこのあいだお見舞いに行った時は元気な様子だったのに、美香の容態は予想以上に悪いのかもしれない。心雑音がすることは前から聞いていたので、心臓の機能不全か何かなのかもしれない。明日にでも様子を確認しに行かなければ──。
「今月がヤマらしいわよ」
さすがに笹岡も少し声を潜めていった。
「今月……」
笹岡の言葉を反芻しながら、智子の脳裏では美香と幸宏が仲睦まじく遊ぶ姿がフラッシュバックしていた。
ポテトチップスの袋を抱えて所在なげにしていた幸宏を呼び寄せ、笹岡への挨拶もそこそこに智子はスーパーを後にした。あっけなく智子に逃げられてしまった笹岡は、辺りを見回して次ぎなる獲物を物色し始めたのだった。
先日、札幌の病院に見舞いに行った時点では、頭では理解出来ても、なかなか実感が湧かなかったのだが、もはや美香の死は動かしがたいものとなっている。札幌の兄から詳細を聞いているであろう笹岡の言葉は、まず間違いのないところであろう。智子の頭の中で笹岡の言葉が木霊のように響き渡っていた。
今月いっぱいの命──。
いつになく静かな夕食を終え、幸宏を寝かし就けた後、智子は夫の和幸に今日スーパーで笹岡がいっていたことや美香の病状についての話しをした。終始黙って頷きながら智子の話しを聞いていた和幸は、一通りの状況を聞き終えてからようや口を開いた。
「そうか、そんなに悪いのか……。明日ちょうど臨時で休みがとれたから、皆でお見舞いに行ってみるか。──最後になるかもしれないしな」
「ええ、幸宏も喜ぶと思うわ。でも、最後って……」
智子は声を詰まらせながら、涙を浮かべていた。
富良野に転勤して来てから、何かと家族ぐるみでの交流を深めていただけに、美香のことは、笹岡のように他人ごとで済ませられるような心境にはなれない。
和幸が『最後──』といったのは、美香の病状の他にも理由があった。
「転勤することになったんだ」
「え?」
「もうすぐ品川に新館が建つのは知ってるだろう?」
「ええ。でもあそこには行かないって……」
「それが、今日になって急に事情が変わったんだ。今回の新館の配属はおまえも知っての通りで、今年の春先に決まっていたから、俺は来年建つ新宿の方の新館へ行くことになっていたそうだ」
「そうだったの?」
「俺も今日の午後、初めて聞いた」
「でもどうして、そんな急に……」
「それが、品川の新館に着任したチーフが、入院しちまったらしいんだ。どうも胃癌らしい」
「──癌」
偶然とはいえ、自分達のまわりの人間が、次々と病魔に襲われていくような感覚にさいなまれ、智子は沈んだ声になった。
「今年の春の健康診断で引っ掛かったらしくて、七月に精密検査をしたら発見されたみたいだ。まだ初期の段階で発見されたから、今すぐ命に別状があるわけじゃないらしいんだが、何しろこれから入院して手術だろ。で、術後の経過やらなんやらで、数カ月は仕事に復帰することが出来そうもないから、俺のところに話しが廻ってきたんだ」
僅かに鼻を啜りながら智子は聞いた。今日、明日ということではないだろう。
「こっちも夏休み中は忙しくて抜けられないから、夏休みが終わった九月の上旬だな」
「え、そんなに早く?」──あと二週間。
「向こうも新館の立ち上げと新人の教育で忙しいところにチーフが抜けてしまったから、てんてこ舞いらしい。品川の方からは直ぐに移動して欲しいって言われたけど、こっちも夏休み中はどうしても抜けられないからな」
新館のオープンまでに、研修を終えて配属になったばかりの新人たちと、他のホテルから移動して来たスタッフの教育を受け持っているチーフが入院してしまっては、運営に支障をきたす。ところが、小樽と並んで北海道観光の要となる富良野も、夏休中のホテルや旅館は常時満室状態で、こちらも人手を欠くことが出来ない。九月に入ってからの移動がぎりぎりの選択だろう。
「そうねえ……」
窓の外ではひまわりの花が月明りに照らされ、ひっそりと佇んでいた。
翌日も北の大地には、朝から抜けるような青空が広がっていた。今朝のテレビのニュースでは、室戸岬の沖に接近中の台風の影響で、東海から九州にかけては雨と風による被害が出始めていたようだが、北海道まで北上して来る頃には温帯低気圧になるだろう。ここ数日は天気が続きそうだ。
和幸が仕事の用件で、札幌のホテル事務所に寄るというので、幸宏と智子は四丁目の百貨店の前で車を降りた。二週間後に東京への引っ越しが決まっているので、今日は日用品の類いは買わないが、幸宏の服だけは季節ごとに買わなければ、すぐ小さくなってしまう。子供の成長は早い。箪笥にしまっておいた去年の服など、こんなに小さかったかと驚くことも少なくない。
幸宏の秋冬用の服と智子の化粧品等を買ってから、和幸と待ち合わせをする百貨店最上階のレストラン街へ上がった。三人はここでお昼を食べてから美香の見舞いに行くことにしていた。
流石に夏休み中とあって、そろそろお昼の時間になろうとしているレストラン街は、平日にもかかわらず人でいっぱいだ。エスカレーター脇のベンチに座り和幸の到着を待っている間、幸宏は買ったばかりの玩具を出して遊んでいる。アニメに出て来るロボットの玩具だ。目の前を通り過ぎる子供連れの親子の姿を見送りながら、智子は美香のことを思っていた。いや、正確には美香ではなく、美香を失うことになる幸宏の気持ちと、一生深く刻まれるであろう心の傷を慮っていた。
ほどなく、また何か資料になる書籍を購入してきたのか、書店の袋を抱えた和幸が現れた。智子は熱くなりかけていた目頭を、ハンカチで押さえ乍ら立ち上がった。
「どうかしたのか?」
智子の様子を訝しんだ和幸は、辺りを見回しながら囁くような声で聞いた。
「ううん、何でもないの」
「美香ちゃんのことか?」
「ちょっと考えてたら、何だか……」そう言いながら、智子の目頭は更に熱くなり、ついに涙の雫が頬を伝った。それを見ていた幸宏は「どうしたの?」と怪訝な面持ちで両親を見上げている。
「何でもないよ。目にゴミが入ったんだって」
幸宏を不安にさせないよう、和幸は笑顔で答えた。
「ごめんね。もうゴミ取れたから大丈夫よ」
智子も必死に笑顔を作ったが、瞼が腫れていて少し不自然な顔になった。
昼食の後、幸宏たち三人は美香の入院している病院へと向かった。
午後の札幌の空には、早くも秋の気配を感じさせるうろこ雲が広がっていた。毎日のように、今年は記録的な猛暑が続いていると報道されているが、車の窓から入る風は涼しく乾いていた。
病院に着き四階でエレベーターを降りると、幸宏は小走りで美香の病室に向った。
「危ないから、走っちゃだめよ」という智子の言葉は、幸宏の耳にはまったく入っていないらしい。久しぶりに美香と会えるので嬉しいのだろう。
少し遅れて和幸と智子が病室に入って行くと、窓際で幸宏がぼんやりと立っていた。
「どうしたの?」
智子が声をかけると「ミカ、いないよ」と、幸宏は不安げな顔をしながら、美香が寝ていたベッドの方を向いた。
そこには美香ではない、見知らぬ男の子が寝ていた。他のベッドを見渡してみても美香の姿は無かった。
「あら、部屋を間違えたかしら」
そういって、智子は一旦廊下へ出て部屋番号と場所を確認したが、間違いなくこの部屋だった。しかし、病室の入り口にある患者の名前が書かれたプレートに、美香の名前は無かった。
智子が慌ててナースセンターに確認しに行ったところ、他の病室に移ったとのことだった。
智子は一応の安堵をしたのだが、移った先が個室だということに、また不安を覚えながら先ほどの部屋の前で待っている和幸と幸宏のところへ戻った。
「他のお部屋に移ったんだって」
「ふうん」
本能的に智子の心配を感じ取ったのか、幸宏の返事はやや上の空だった。
「個室か?」という和幸の問いに、智子は小さく頷いた。
さほど貧乏しているわけではないにしろ、個室で入院するにはそれなりの費用が嵩む。個室に移動したのは、篠田家の意向ではないのは明らかである。病院側の意向で、個室へ移動する理由は一つしか考えられない。
美香のいる個室へと向う廊下を歩きながら、和幸と智子は急激に自分の体温が奪われていく感覚に襲われていた。部屋の扉を開ける時には、すっかり指先が冷たくなっていた。後ろをついて歩いていた幸宏にも、両親の気持ちの異変を感じ取ることが出来るほど、その足取りは鈍重で背中に宿る陰は長く尾を引いていた。
「こんにちは」
窓際の椅子に座って文庫本を読んでいた香織に、智子はできるだけ明るく声をかけ、和幸、幸宏の順で病室へと入った。
香織は本を閉じ、椅子から腰を浮かして和幸たちに頭を下げて挨拶を返した。長い間の看病の疲れと絶望感からか、香織はすっかりやつれ果て、化粧気のない顔に隈が痛々しい。
美香は眠っていたが、以前とはかなり様子が違っていた。美香のベッドの周りには幾つかの機材が並んでおり、そこから延びたケーブルやチューブ類が美香の身体に繋がっている。そしてその機材に守られた小さな命は、戻ることの出来ない一方通行の路を、確実に終息へと向って歩み続けている。見るに忍びなく、堪え難い姿で美香は横たわり、小さな寝息をたてていた。
「一昨日から眠ったままで……」
何も言えずに立ち尽くしている智子たちに、香織が力のない声でいった。憔悴した香織の声は、聞き取るのがやっとだった。
「そうですか……」
声を発することすら出来ないでいる智子の代わりに、和幸がそう応えた。幸宏も黙ったまま智子の後ろから、ベッドに横たわる美香の姿を見つめていた。
香織はサイドボードの引き出しから何か取り出すと、幸宏のところまで歩いてきて、幸宏と同じ目線の高さにしゃがむと「これね、ミカがヒロくんに持っていて欲しいって」と、いってブローチを手渡した。
それは美香がいつも大事にしていたひまわりの花のブローチだった。美香の一番のお気に入りだ。美香は出かける時には服やカバンなど、必ずどこかにこのブローチを付けていて、幼稚園でも園児服の胸に必ずブローチがあった。
きっと美香は幼いなりに、自分の寿命を悟ったのであろう。そして一番大切にしていたブローチを、自分だと思って大切に持っていて欲しいと願ったのだ。幸宏が持っていてくれれば、そのブローチに自分の魂が宿り、いつも幸宏と一緒にいることができる。現世で果たすことのできなかった想いを込めたひまわりの花──。
幸宏にはその意味が呑込めたのか、「うん」といってそのひまわりのブローチを受け取った。
そのあと、いくつか美香の病状についての話しをした。香織がいうには、やはり今月いっぱい持つかどうかということだった。香織は力のない小さな声ではあったが、取り乱すこともなく、終始冷静な態度を保っていた。和幸の転勤の話しもしたが、残念そうに頷いただけだった。
ふと、遠くから微かに響いて来る雷鳴に気付き窓の外を見ると、先ほどまで晴れ渡っていた空には、何時の間にか重い黒雲が押し寄せて来ていた。台風の影響から気流が不安定になっているのかもしれない。しばらくすると、窓がラスに大きめの雨粒があたり始め、湿気を含んだ埃っぽい雨の匂いが流れ込んで来た。それをきっかけに、智子たちは別れを告げ病室を後にした。
ずっと黙ったまま美香の姿を見つめていた幸宏は、病室を出る間際、扉のところでもう一度振り返り、横たわる美香の姿を見つめ、心の中で叫んだ。
──ミカ。ずっといっしょだよ。
その想いが伝わったのか、幸宏には美香が一瞬微笑んだように見えた。
智子に手を引かれ、幸宏はブローチを強く握りしめて、雨の振り注ぐ駐車場へと出た。
訃報を聞いたのは、幸宏たちが東京に引っ越して間もない九月三日の夜だった。二日の深夜から容態が悪化し、三日の明け方、朝日が昇る前に息をひきとった。
その晩、幸宏は美香から貰ったひまわりのブローチを握りしめ、布団の中で長い間泣いていた。
──ひまわりだ。
先ほどから頭の隅に引っ掛かっていたものが、何なのかようやく分かった。危なく大声を出しそうになったが、何とか堪えることが出来た。こんな満員電車の中で、突然叫んだら変人扱いされるに決まっている。
幸宏は二十九歳になっていた。美香が死んでから、二十四年の歳月が流れていた。
両親はまた転勤で大阪に住んでいるが、大手の旅行代理店に就職した幸宏はそのまま東京に残り、目黒区でワンルームのマンションに独りで住んでいた。
就職して七年、今では総勢八名ほどの企画営業部の主任をしている。ツアーの企画、提携先との交渉からパンフレットの製作、営業活動まで幅広くこなさなければならない。早出、残業は日常的で休日出勤も多い。何しろ世間様が休みになると、忙しくなる業種だから仕方がない。父親の職業もそうだったが、だいぶ出世をした和幸は、近頃では潤沢に休みがとれるようになったらしい。
十一月の初め。東京でもそろそろコートを着込んだ『着膨れ』現象で、朝の通勤電車が更に辛くなる季節を迎えていた。
幸宏は中目黒で日比谷線に乗り換え、地下鉄の窓に反射して見える車内の風景をぼんやりと眺めていた。
六本木の駅を過ぎたあたりで、視界に映る何かが幸宏の記憶を刺激し始めた。とても懐かしいような、それでいて心を突き刺す痛みを伴い、そして柔らかく全身を包み込むような感覚。
──何だろう?
満員電車の中で身動きするのが難しいが、それでも幸宏は首を捻って、その記憶中枢の奥深くに静かに横たわっているものを刺激する正体が何であるかを探した。
狭い車内でカサカサと音を発てながら、スポーツ新聞を捲る少し頭の薄くなった中年サラリーマン。寝不足なのか口元をハンカチで被い、あくびを連発している二十代後半と思しき女性。いつもの、朝の通勤電車の風景だ。何も変わったものなどない。
幸宏の視線は網棚の上を舐め、雑誌の中吊り広告に移動した。政治家の汚職、タレントのスキャンダル、ダイエットの成功法、有名ブランドの新作記事、流行の髪型、最後の秘湯、どれも十年も前から代わり映えのしない同じ見出しだ。旅行代理店に勤める立場上、温泉旅行の記事は少々気になるが、それにしても日本には最後の秘湯と言われるところがいったい幾つあるのかと首を傾げる。
後で立ち読みでもしようと、他の中吊り広告へと視線を走らせたが、どれも特に幸宏が刺激を受けるような内容のものは無かった。
なかば諦めかけて目の前の窓ガラスに視線を戻した時、一瞬だけキラリと光るものが幸宏の視界に入った。ただほんの一瞬の出来ごとだったので、それが何であるかは分からない。カメラのストロボのような強い光ではなかったし、何しろ修学旅行の新幹線の車内でもあるまいに、朝の満員電車の中で写真を取る人もいないだろう。
車内の灯りに腕時計か何かのアクセサリーが反射しただけなのかもしれないが、幸宏の意識はその光りの元の正体を探すことに集中した。そして幸宏の右斜め後ろの扉付近に、やっとそれを見つけた。
それは、ひまわりの花のブローチだった。扉の側で立っている女性が、肩からやや大きめのキャンバス地のバッグを提げている。ブローチはそのバッグに付けられていた。
女性は二十代の中頃だろうか、幸宏からは後ろ姿しか見えないが、雰囲気から察するにたぶんそのあたりの年令だろうと思った。
遠い夏の日、美香から貰ったあのブローチは四半世紀を経た今も、机の引き出しに大事にしまってある。しかもここからでは正確に判別することが出来ないが、それは幸宏の持っている物とまったく同じように見える。今も同じブローチが販売されている可能性は、極めてゼロに近いはずだ。これほどまでに、幸宏の心を掻き乱す理由は他に見つからない。
地下鉄はやがて日比谷の駅に着き、扉が開くと一気に乗客を掃き出した。こんなに大勢がどこに乗っていたのかと思うくらいの人がホームに溢れかえる。へたをすると他の乗客たちと一緒にこの駅で降ろされてしまいかねない。幸宏は次ぎの銀座の駅で降りるため、人の流れに押し流されないように体制を整え直した。
発車の合図がホームに流れ、新しい乗客を乗せた電車は、モーターの音を響かせながら走り出した。気がつくとさっきの女性は扉の付近にはいなかった。きっと日比谷の駅で降りたのだろう。
幸宏は窓越しにホームに目を走らせ、彼女を探した。電車がホームを離れる直前、改札へ向う階段を上り始める彼女の後ろ姿と、キャンバス地のバッグがちらっと見えた。
それにしても──。
つり革につかまりながら、幸宏はさっき見たひまわりのブローチを思い出していた。ただの偶然か、それとも良く似た物だったのか。答えは否だ。今までもひまわりの良く似たブローチを見たことは何度もあったが、こんなに激しい衝撃を受けたのは始めてだった。車内の灯りにほんの一瞬反射した光りが、まるで幸宏の全身を突き抜けて行ったような感覚がまだ身体に残っている。
だった。車内の灯りにほんの一瞬反射した光りが、まるで幸宏の全身を突き抜けて行ったような感覚がまだ身体に残っている。
気がつくと発車を知らせるベルがホームに鳴り響いていた。電車はとうに銀座駅に着き、間もなく発車するところだった。幸宏は慌てて電車を降りた。もう少しで締る扉に鞄を挟まれるところだった。
「ひぇえ、危なかった」
溜め息と一緒に出た独り言に、ホームを歩いていた出勤途中のOLと思われる女性二人が、笑いを堪えながら足早に去って行った。
気を取り直すと、幸宏は改札への階段を上がって行った。
午前中に昨日行なった来夏のプレゼンの報告と、年末年始の企画の打ち合わせを二本こなした後、幸宏はエレベーター脇の喫煙場所で自動販売機のコーヒーを飲みながら煙草を吸っていた。幸宏の会社では、役員用の会議室を除いて禁煙である。各フロアともエレベーター脇に喫煙スペースがあり、飲料の自動販売機が置かれている。喫煙は必ずここでしなければならない。
すぐ側の窓ガラスに映った自分の姿に、今朝の地下鉄での光景が思い出された。
──ひまわりの花。同じものだろうか。
「主任、お昼行きませんか?」
その言葉に、幸宏の思考は現実へと引き戻された。
振り返ると、一昨年入社した千佳と由佳が、財布を持ってエレベーターを待っていた。どこかのファッション誌をそのままコピーしたように、二人とも同じような色の、これまた同じような髪型をし、化粧やルージュの色も似た感じだ。おまけに名前まで一文字違いで、これで制服でも着ていたらまるで双児の姉妹だな、と幸宏は思った。
彼女たちもアシスタントとして外に出ることが多いので、経理部や総務部のような事務用の制服は着ていない。そして二人とも申し合わせたように、有名ブランドの黄色い財布を持っていた。風水では黄色い財布を持つと金運が良くなるのだそうだが、幸宏はまったく信じていなかった。金回りのいい人間ばかりいても、経済は混乱するだけだ。
「美味しいパスタのお店を見つけたんですけど、主任も一緒にどうですか?」
小首を傾げながら由佳がいった。非常に好意的な言い方をすれば可愛い仕種なのだが、由佳のこの仕種には魂胆があることを幸宏は知っていた。
「パスタか。ま、一緒に行くか」
「ランチにはちょっと値段が高いんですけど……」
幸宏の様子を伺うように、今度は千佳が上目がちにいってきた。
「いいよ、少しくらいなら出してあげるから」
双児のようなふたりは、見事な連携で作戦を成功させた。
始めから分かってはいたものの、幸宏はまんまと二人の筋書き通りにはまってしまっている自分が可笑しかった。
その後、通勤電車の中でひまわりのブローチを見かけることもないまま、十一月もそろそろ終わろうとしていた。近頃ではめっきり寒くなり、木枯らしの抜けるビルの谷間では、コートの襟を立てて肩をすぼめながら、やや俯き加減に歩く人の姿が目につくようになった。
今日は午後から皆、仕事のペースが早い。忘年会の時間に間に合うように、時間をやりくりしている。まるで目の前にぶら下がった人参を食べようと、必死に走っている馬のようだった。いつもこのくらい働いてくれたらと思うのは、管理者側に共通する思いだろう。
師走に入ってしまうと、スキーツアーや年末年始の旅行が増えて忙しくなるので、幸宏の率いるチームは十一月最後の週の水曜日に忘年会を行うことにしていた。
他のところは部単位で行うところが多いのだが、企画営業部は大所帯になるため、各チームごとに日程を決めていた。
年忘れには些か早い時期だが、十二月に入ってしまうとチーム全員が揃うのはほぼ不可能に近い状態になるし、週末も現場に同行するスタッフがいる為、週のまん中あたりが一番都合がいい。
ただ物事には、必ずプラスとマイナスの局面がある。プラスの面は、時期が早いため他の忘年会と重ならないので、場所の確保が容易であることだ。週の半ばというのもいい要素の一つである。しかし、マイナス面としては翌日も仕事が控えている為に、深夜までバカ騒ぎしているわけにいかない。二日酔いの躯では会議はおろか、営業活動もままならない。
場所の確保は、あの双児のような千佳と由佳が担当した。雑誌に出ていた店に片っ端から電話をかけまくり、交渉の結果、破格の料金で麻布十番のレストランを押さえたのだった。いつもは観光地の旅館やレジャー施設ばかりだが、仕事上この手の交渉ごとには慣れている。手際のいい仕事ぶりに、幸宏も妙に感心してしまった。
ちょうど手が空いたので、幸宏は少し早い時間に会社を出た。打ち合わせが一件あるからと、由佳にはいっておいた。それでも時間には遅れないようにと、しっかり釘を刺された。
幸宏は晴海通りを日比谷方向へ向って歩いた。もちろん打ち合わせなどない。そろそろクリスマスの飾り付けを始めている店先を眺めたりしながら、ぼんやりと街の風景を見るともなく歩いていた。夕方の四時を過ぎすっかり暗くなった銀座の街に、色とりどりの電飾が鮮やかだった。
教徒でもないのに、この年末のお祭りに浮かれている日本人が不思議でたまらない。出産から七五三、受験の願掛けと初詣は神社。結婚式は教会。そして死んだ後は寺か霊園。クリスマスとバレンタイン。夏には盆踊りと花火大会。和洋取り混ぜてやたらと無節操にイベントが多いのはたぶん日本だけだろう。だが、それに便乗して企画を立てているのは自分ではないか、と少々苦笑いをした。
あの日から朝夕の通勤電車で、また彼女に逢うのを期待していた。通勤という行為は毎日同じ時間に起き、同じ駅から同じ電車に乗るものだ。そしてほぼ毎日、同じ車両のほとんど同じ場所に乗る。帰りの場合はその日の都合で時間帯がずれることはしばしばだが、朝の通勤に関しては、ほぼ誤差がない。
幸宏自身がここ何年もその行動をとっているし、車内の顔ぶれを見て見知ったものが多いのもそれを裏付ける。ただそれぞれが見知った顔であっても、お互いにどこの誰であるかはまったく知らないという不思議な空間を共有しながら、それぞれの目的地へ向うのである。
大きな新陳代謝があるのは基本的に年に一度、四月からの新年度の始まる時だ。そこでは新しい顔が増え、見知った誰かが消えてゆく。
毎日退屈で息苦しいだけだった電車が、彼女を探すという目的を持っただけで、幸宏には楽しい空間へと変わっていた。あの日は、六本木の駅を過ぎたあたりでそれに気がついたので、彼女は六本木の駅か、それより前の駅で乗って来る筈である。そして日比谷で降りる。時には少し早めの電車に乗り、日比谷のホームで何本か電車から降りて来る彼女を探してみたりもしたが、彼女と逢うことは今だに出来ないでいる。
ゆっくりとした歩調で、山手線のガードを潜り日比谷の交差点に着いた。道路を流れる車の喧噪とは対照的に、右前方には皇居のお堀、左は日比谷公園が静かに広がっている。
腕時計を見ると、まだ時間に余裕がある。幸宏は左に折れ、そのまま当ても無く内幸町方向へと歩いたが、やはり彼女に会える筈もなかった。気がつくと指先や耳たぶが冷たくなっていた。ここから地下鉄だと乗り換えが面倒なので、幸宏はタクシーを拾い麻布十番の忘年会会場へと向うことにした。
午後七時の開始時刻には全員が店に集まった。外勤に出ていた者も、タクシーをとばして時間ぎりぎりにやって来た。
全員での乾杯から始まり、酒を呑み料理を食べながら今年一年の疲れを癒す。ある者は楽しく笑い、またある者は愚痴をこぼす。どこにでもある、日本人なら見慣れた風景だ。
幸宏は途中トイレに立ち席へ戻る途中、思いもよらずそれに遭遇した。
忘年会は七時から九時までの二時間の貸しきりで行われていた。入り口にも貸しきりのプレートが掲げられているので、通常他の客は入ってこない。
ところが入り口の扉を開け、二人の女性客が入ってきた。店長と思しき人が慌てて応対に出ていた。時計の針は八時半を過ぎたところだった。貸しきりでも運がよければ入れるかもしれないと思ったのだろう。場所を押さえた千佳の話しによると、雑誌に紹介されるほど今若い女性には人気のレストランということなので、さもありなんと納得したのだった。
店長と話しをしていた二人は、納得したのか他の店を探すようだった。扉を出て行く時に、どこにしようかという声が微かに聞こえた。
それを見送って、席に戻ろうとした幸宏の視界にあのひまわりのブローチが飛び込んで来た。それは、今出て行った女性客のひとりが提げているバッグに付けられていた。
──まちがいない、あれだ。
宴も闌の席に一旦戻ると、疑似双子の片割れのに由佳に「ごめん、急用が出来たから」と言い残し、コートを掴むと急いで後を追った。由佳が何か叫んでいたようだが、幸宏の耳には届かなかった。
間もなく師走に入ろうとしている夜の空気は、予想外に冷たかった。放射冷却の影響で、殊更ひやされた乾いた風が幸宏の頬を刺す。幸宏は掴んでいたコートを羽織ると、先ほどの二人を探した。彼女たちが店を出てからさほど時間が経っているわけではないので、すぐ近くにいる筈だ。
店を出て、右に二十メートルほど行ったところに十字路が見えた。左へ行けばすぐ大きな通りに出る。幸宏はその十字路へと走った。
左右を見渡すと、先ほどのバッグが見えた。大きめの黒いショルダーバッグのようなものだった。
幸宏のいる十字路を右に曲って、十数メートル先にある無国籍料理の店に入ろうとしているところだった。
「すいません!」
幸宏は大声を張り上げながら、彼女たちのところへと走った。
突然、大きな声を出しながら近付いてくる不審者に、二人は怪訝な表情を作って身構えた。
「あの、すいません!」
彼女たちの傍らに立った幸宏は、今度は普通の大きさの声でいったのだが、ほんの数十メートル走っただけで息が切れている。吐く息は白く、興奮しているせいか心臓の鼓動が全身に伝わってくる。
「何か?」
バッグを持っている方の女性が応えた。心地のいい澄みきった綺麗な声だった。
「はい。あの、それなんですけど……」
まだ呼吸の整わない幸宏は肩で息をしながら、バッグに着いているひまわりのブローチを指さした。
「はあ?」
夜の街中で突然、息を切らせて走り寄って来る不審な男に警戒しない女性はまずいないだろう。二人の女性はバッグをぎゅっと握り締めた。
「あの、そのひまわり──」と、言いかけた幸宏の表情が固まった。
──ミカ。
自分でも無意識のうちに、その名前を口にしていた。
美香の面影が……。
否、いま幸宏の目の前にいる女性は、まさに成人した美香だった。
言葉が出ずにただ口をぱくぱくさせている幸宏を、二人の女性は驚いたように顔を見合わせていた。
訝しむ二人に、怪しい者ではないというのを証明する為、幸宏は運転免許証や社員証、それにクレジットカードと現金二万五千円入りの財布を差し出した。
「とにかく話しを聞いてもらえませんか。あ、このお店に入るんでしょう、僕が御馳走しますから。その財布預けますから。お願いします」
一通り財布の中身を確認した二人は、やっと同意した。幸宏たち三人はその無国籍料理店に入った。
店は思ったよりも広かった。一階の入口から階段を降りて地下に入ると、人いきれと独特の香草の匂いでむっとする。席に着くと幸宏はビールだけをたのみ、彼女たちは幾つかの聞いたこともない名前の料理と飲み物をたのんだ。
「で、何の話しかしら。ナンパと宗教の勧誘ならお断りよ」
ぴしゃりと、連れの女性がいった。
「あ、いえ違います。そのひまわりのブローチのことで──」
幸宏はひまわりのブローチを指さした。
「その前に自己紹介をしておきます。先ほど免許証と社員証を御覧になったとは思いますが。名前は渡瀬幸宏、銀座の旅行代理店に勤めています。歳は三十路を迎えました」
彼女たちは幸宏の自己紹介を聞きながら、先ほど預かった財布から運転免許証を取り出して眺めていた。そして何が可笑しいのか、二人で顔を見合わせて笑っていた。
「あの、何か変ですか?」
幸宏は二人の顔を交互に見た。すると二人とも『ぷっ』と吹出したかと思うと、今度は声をだして笑いだした。
「こんな〝馬鹿〟が付くほど正直に自己紹介するんだから、ナンパでも勧誘でもないみたいね。ね、ミカ」
「うん」
「あ、私は藤原琴美。こっちは山村三佳」
──ミカ。
今、確かにミカと聞こえた。
「あなたさっき、三佳の名前呼んだわよね。知ってるの?」
琴美は疑いの眼差しで、幸宏と三佳を見た。
「ミカ。三佳さん、って名前なんですね」
それには答えず、幸宏は三佳をまっすぐに見据えて聞いた。あまりの興奮に幸宏の指先は冷たくなり、脇の下を汗が伝っていった。心臓の鼓動が止まってしまったかのようだった。
「ええ、そうですけど……」
三佳もどうしていいのか判らず、幸宏の真意を計り予ていた。
山村三佳、おとめ座の二十五歳。血液型はA型。
「ミカ……」
幸宏の頬を一筋の涙が伝い落ちた。
「あの、どうかしましたか?」
突然現れては、名前を聞いた途端に涙を流し始めた見知らぬ男に、二人は戸惑うばかりだった──。
「すみません、つい……」
手の甲で涙を拭い、三佳に笑顔を向けた。幸宏の涙は悲しさからくるものではなく、むしろ歓喜の涙であった。
幸宏は着ていた上着の内ポケットから何かを取り出した。いや正確には、ポケットの中から何かを取り出すのではなく、ポケットに付いた何かを外したのだった。
「これを見てください」
幸宏のひらいた手の平には、美香から貰ったひまわりのブローチがあった。
「これは……」
三佳は息を呑んだまま、言葉を失った。四半世紀の時の流れに傷付き、色褪せ、ひまわりの黄色い色が禿げ落ちてはいるものの、それは紛れもなく三佳が持っている物と同じだった。
「どうしてこれを……」
そういった後、三佳は幸宏を見つめたまま長い沈黙が続いた。店の中の喧騒もどこかに消えてしまったかのように、幸宏と三佳のあいだには、漆黒の海底のような静寂が流れていた。だがその沈黙は温かな懐かしさを纏い、まっすぐに幸宏を見つめた三佳の澄んだ瞳は、夏の日射しを受け真っ青な空に向って咲く、大輪のひまわりのような心地よさをもっていた。
「それを僕が聞きたかったんです。どうしてあなたがそのブローチを持っているのか? と──」
ふと三佳の隣りに黙ったまま座っている琴美の姿が目に入った。固唾を呑んで話しの行方を見守っているのかと思えば、運ばれてきた料理を独りで黙々と食べていたのだった。
「すみません、こっちだけで話していて。つまらないですよね」
「ううん、いいのよ。私は食べながら聞いているから。何か曰くのありそうな話じゃない」
琴美のいう通り、彼女は食べながらもしっかりと二人の話しを聞いていたのだった。
「ごめんね、琴美」
「いいから、いいから。さ、続けて。私は美味しくいただいていますから」
いかにも美味しそうに料理を頬張る琴美に、幸宏も三佳も小さく吹出した。
幸宏は幼い頃に富良野で過ごしたこと、そして美香との出来ごとを語った。三佳は時々小さく頷きながら黙って幸宏の話しを聞き、琴美は相変わらず料理の舌鼓を打っていた。
「──そうなの。何だか不思議なお話しね。で、あなたはそれを肌身離さずに持っているわけね」
「はい。きっと寂しがっているんじゃないかと──。これを持っていれば、美香と一緒にいてあげられるような気がして……」
いい歳をした男が何をセンチメンタルに浸っているのか、と幸宏は馬鹿にされるのを覚悟していったのだった。何も格好をつけようとか、同情をひこうなどと考えて出た言葉ではなく、紛れもない本心から発した言葉である。
しかし、三佳は何も言わなかった。いや、言えなかった。
幸宏を見つめる三佳の瞳には涙が浮かび、店の照明に反射して透明な光りを放っていた。幸宏は三佳のその水晶のような涙を見てはっとした。それは遠い昔、札幌の病院で見た幼い美香の涙と同じだった。
美香は自分が間もなく天国に召されることを知っていた。
医師や看護師、そして幸宏の両親や自分の親たちが、「早く元気になって退院しようね」と異口同音の励ましの言葉を聞けば聞くほど、自分の寿命が残り少なくなって行くのを痛いほど感じ取っていた。身体は痩せ細り、歩くことすらままならなくなっていた。
「ミカは、ヒロくんのお嫁さんになれないね」
美香は力のない細い声で、枕元に座っている母親の香織にいった。
「え?」
香織は美香の言葉に、思わず顔を除き込む。
「だって……、わたし、もうすぐ天国に……」
美香の瞳から、水晶のような澄んだ涙が落ちた。
「これ、ヒロくんに、ミカだと思って……、大事にして……」
痩せ細った小枝のような手で、美香はいつも肌身離さず大事にしていたひまわりのブローチを香織に手渡した。それから美香は静かな眠りについたまま、二度と起きることはなかった。
幸宏は香織からそのブローチを手渡されたとき、ただ黙ってそれを見つめていた。
北海道の短い夏の終わりを告げるような雷鳴が、美香の入院する病室の窓の外で轟いあの日、幸宏にはそれが美香との別れを告げる雷鳴に聞こえた。
病室をあとにする 幸宏が見たのは、眠ったままの美香の頬をつたうひと筋の涙だった。
今でも雷が鳴る度、美香がどこかで泣いているように思える。
隣りの琴美はといえば、ハンカチで目頭を押さえながらも、相変わらず料理を頬張っていた。時おり鼻を啜る小さな音が混じる。
「あ、あの、ごめんなさい。変なこと言っちゃいましたかね。まったくいい歳したヤツが可笑しいですよね」
自分のせいで沈んでしまった場を和ませようと、幸宏はわざと戯けてみせた。
「いえ、とてもいいお話しだと思います。美香さんをとても大事にされていたんですね。そして、今も──」
三佳は穏やかに微笑んでいた。
「実は地下鉄で、一度だけ見かけたことがあるんです」
「私を?」
「はい。いや、正確にはそのブローチを、ですけど」
幸宏は三佳のバッグを指さしながらいった。
「ほんとうに? 世の中には、似たような物がいっぱいあると思うけど」
「他の物ならそうかもしれないけど、僕がこのブローチを見間違えることはないです」
幸宏の言葉は自信に溢れていた。地下鉄の中で見かけた時の日付や時間、駅名まのを詳細を三佳に聞かせた。
「ああ、それならたぶん私よ。お客さんのところへ、見積もりと打ち合わせに行っていたから」
三佳はバッグの中から手帳を取り出し、幸宏のいった日付けのページを確認しながらいった。
「やはりそうでしたか。でも、それっきり見かけなくなってしまったので……」
「あの後は──」
三佳は手帳を捲りながら、その後の行動を確認していった。
「あったわ。次の週の火曜日、三時に行ってるわね」
「そうですか。てっきりあの近くにお勤めだと思っていました」
「恵比寿よ、仕事は」
「それで、日比谷線だったんですね」
幸宏はあの日、六本木駅を過ぎたあたりでひまわりに気がついたわけが分かった。日比谷へ行くため、恵比寿駅で三佳が乗り込んで来たのだが、その時には角度が悪くひまわりに気がつかなかった。六本木駅で乗客の入れ替えがあった際、三佳の立つ位置や方向が変わったため幸宏の網膜をひまわりが刺激るようになったのだった。そしてその後、いくら注意していても見つからないのも当然だった。
「三佳のデザインは定評あるのよ。特にひまわりはね」
それまで料理に没頭していた琴美がいった。
「デザイナーをされているんですか?」
幸宏の問いに三佳が小さく頷いた。
三佳も幸宏もほとんど料理を口にしていなかったが、テーブルの上には空の皿が幾つも載っている。幸宏たちが話しをしている間に、琴美が独りでほとんど食べてしまったようだった。
「お二人ともデザイナー、なんですか?」
「三佳はね。私はインストラクター」
「インストラクターって、ジムか何かですか?」
「アタリ! 三佳と違ってこっちは肉体労働者ですからね。食べないと身体がもたないわけよ、これが」
琴美は言いながら、次ぎの皿へと手をのばしている。
「なるほど」
琴美の先ほどからの食べっぷりを、幸宏は大いに納得したのだった。だが幸宏の興味は琴美の胃袋ではなく、三佳とブローチにある。自分もひとくち料理をつまむと、三佳に向き直った。
「どんなものをデザインするんですか?」
「そうね、いろんなもの。生地とか小物類とか、アクセサリーなんかも」
三佳も小皿に取り分けたものを少しつまみながらいった。琴美は三杯目の飲み物のお代りをたのんでいた。食欲もさることながら、どうやら酒にもめっぽう強いようだ。
「じゃあ、ブローチとかペンダントなんかも?」
「ええ、もちろんやります。でもここまで綺麗なものは、まだまだ……」
三佳は自分のバッグに付いている、所々色の剥げ落ちたひまわりブローチを撫でながらいった。
「そうでもないじゃない。これでも三佳のデザインは、あちこちで結構認められてるのよ」
鶏肉のようなものを手掴みで食べていた琴美が、両手に付いた油をペーパーナプキンで拭きながら、まだ口の中に肉が入っているせいかややくぐもった声で口を挟んできた。
「それじゃあ、その業界では結構有名なんですか?」
「そうそう。新進気鋭の女性デザイナーってとこかな」
「へえ」
幸宏は正直に感心した。琴美も少し満足気な笑みを返してきたが、それが親友たる三佳の自慢なのか、料理の美味しさなのかは幸宏には判断が難しかった。
「そういえば、肝心なことを聞くのを忘れてました。そのブローチは、いつから持っているんですか?」
「ああ、これはね……」
三佳は天井を見上げるように、しばらく考えて「それが、よく覚えていないの。子供の頃からなんだけど、物心がついた頃にはもう持っていたわ」と、少し申しわけなさそうにいった。
「そうなんですか。それで、所々色が禿げていたりするんですね」
実用のアクセサリーとして使っていないが、どちらも経年変化による色褪せや剥げ落ちと傷があるのは同じだった。
その当時は一般的に市販されていた物なのであろうが、二十五年の歳月を経ても尚それを大事に持ち続けている二人が出逢う偶然に、幸宏は運命的なものを感じるのであった。
幸宏は全身を奔る鳥肌に、四半世紀前の出来ごとが蘇った。二十五年という長い歳月を経て、幸宏の前に現れた奇跡。人はそれを運命というのか、それとも宿命というべきなのか──。
しかも漢字こそ違うが、同じ『ミカ』という名前の女性であることに、運命や宿命といった言葉以上の何かに導かれ、突き動かされているようにも思える。それは幼くして逝ってしまった、美香の魂の仕業なのかもしれない。
三佳が幼い頃に、たぶん母親に与えられたのであろう経緯なども詳しく知りたかった。
「できればその頃の事情なんかも、詳しく聞かせてもらえないでしょうか?」
幸宏には予感めいたものがあった。きっとこの二つのブローチは、どこかで美香に繋がっているような気がしてならなかった。
「ううん、それがねえ。私は全然記憶にないし……」
「ご両親なら分かりますよね。お母さんなら」
「ええ、たぶん。でも……」
曖昧に言い澱んでいる三佳を見兼ねてか、横から琴美が助け船を出してきた。
「三佳のところは両親とも亡くなってしまったから、今からは訊けないのよ」
「え、そうなんですか。それは知らないこととはいえ、すみませんでした……」
慌てて幸宏は三佳に謝った。気にしないでと微笑んでくれたが、三佳の気持ちを傷付けてしまったかもしれない。
何気なくいったつもりだったが、まさか三佳の歳で両親とも亡くなっていたとは露も思わなかった。何時頃のことなのか、事故か何かだろうか。きっと辛い思いをしてきたであろうことは想像に容易い。そのあたりの事情は聞かない方がいい。こちらの都合で辛い過去を思い出させるのは、あまりにも偲びない。
「交通事故でね。高速道路の玉突き事故で何人も亡くなったのよ」
幸宏の表情を読んだのか、琴美が短い説明を入れた。
「そうだったんですか──」
「そうなの。でももう昔のことだから……」
三佳は少し上を向きながら、遠くを見つめるようにしていった。その頃の辛かった思い出が浮かんでくるのか、悲しげな表情をうかべている。
「ごめんんさい。辛いことを思い出させてしまって」
幸宏は素直に頭を下げた。
「お盆休みにね、家族で大阪にいる父方の祖母のところに行く予定だったの。私はまだ小学生で、前の日から熱を出していてね。それで東京に残ったわけ。両親と姉二人は車で大阪に向ったんだけど……。母の実家が近かったから、とりあえずそこで様子をみて、私は熱が下がったら新幹線で行くことになっていたの。それで、あの事故があって私だけ生き残った」
「そうだったんですか──」
「私は運が良かったのかも知れないわね。もう亡くなったんだけど、その時どうしても行くと聞かなかった私を、大阪の祖母が止めてくれたの。おばあちゃん子だった私は、泣きながらも言い付けに従ったの。それで今、こうして生きていられるの。あの時、いうことを聞かなかったら……。だから大阪の祖母には感謝しているわ。もちろん、こっちの祖母にもね」
幸宏は思った。その事故に三佳が巻き込まれなかったのは果たして偶然だったのか。小学生くらいの子供が待ちに待った家族旅行や、遠足等の何か大きなイベント時に、熱を出してしまったりするのはありがちなことではある。
幸宏自身も小学三年生の遠足の時に前日の夜から熱を出し、遠足に参加出来なかった苦い想い出がある。近所の友達数人とスーパーに行き、学校で決められた限度額いっぱいに買い込んだおやつは、独り寂しくテレビを観ながら食べたのだった。中学の修学旅行でも、風邪を拗らせたあげく肺炎で入院してしまい、楽しみにしていた軽井沢に行くことが出来なかった仲の良い友人がいた。剣道部に所属していたその友人に、幸宏はお決まりの木刀をお土産として買ってきたのだった。
同じひまわりのブローチを持った二人が、今こうして出逢うことに、幸宏は偶然や運命以上のものを感じていた。幼い三佳が熱を出し、祖母に言い包められて車に乗らなかったのも、単なる偶然ではなく、そこに“美香の想い”が働いたのではないだろうか──と。
いつのまにか固く握りしめていた手のなかにあるブローチ。
二十五年の歳月を経て、こうして出逢うために──。
翌週末の土曜日の昼すぎ、交代勤務で会社に出ていた幸宏のパソコンに、三佳からのメールが届いた。
あの日、幸宏は三佳に会社の名刺と自宅の住所と電話番号、そして携帯電話の番号とアドレスも教えておいた。パソコンのメールアドレスは名刺に記載されている。
三佳も幸宏を信用して、自分の連絡先を教えておいてくれた。そして吉祥寺にいる叔母に、自分の子供の頃のことやブローチのことについて、聞いておいてくれると約束してくれていたのだった。
三佳からのメールは簡潔ではあったが、突然現れては妙なことをいう男の話しを、ちゃんと気に留めていてくれたのだった。しかも、たぶん唯一であろう三佳の子供の頃のことを知っている叔母に、わざわざ聞いてくれたのだという。
幸宏の胸は躍った。何かしらの収穫があるかもしれない。幸宏は早速三佳に、出来れば早い方がいい。時間と場所は三佳の都合に合わせるという返信のメールを打った。
土曜日で自宅にいるのか、三佳は何分も経たないうちに返信して来た。
三佳は新宿でちょっとした仕事の打ち合わせと、自分の買い物があるのでその後なら都合がつくとのことだったので、明日の午後二時、場所は新宿ということで話しは決まった。
翌日の日曜日、幸宏ははやる気持ちを押さえきれずに、午前中から新宿に出かけた。幸宏の家から待ち合わせ場所までは一時間もかからないので、一時頃に家を出ればじゅう分に間に合うのだが、とてもそれまで間がもてなかった。
師走の十二月に入った新宿の街は活気に溢れ、赤や緑を基調としたクリスマスの飾り付けや、角を曲る度に聞こえてくるクリスマスソングで、視覚にも聴覚にも心地良い騒がしさをもたらす。せわしなく歩く人々たちの顔も、この時期はどことなく華やいで見える。
特に買い物をするわけでもなく、幸宏は師走の新宿の街を散策して歩いた。
待ち合わせの時間にはまだ早かったので、百貨店内にある本屋で時間を潰すことにした。ちょうど三佳と待ち合わせをしたコーヒーショップが目の前なので、雑誌を立ち読みしながらの時間調整には都合がいい。
仕事がら店頭に平積みされた旅行雑誌に目をやると、クリスマスから年末年始にかけての特集記事でいっぱいだった。国内旅行よりもむしろ近場の海外ツアーの方が開放感や割安感があり、近年は景気の動向からか、この手のツアーに人気が集中している。
東京から北海道や沖縄に行くよりも、ハワイの方が安い金額で行けるツアーがあるのも事実だ。そのため日本の大型連休中のカラカウア通りは日本人観光客で溢れ、有名ブランド店等に入ると、そこがハワイなのか銀座なのか分からなくなるほどだ。
雑誌のコーナーを離れ文藝書の棚へと移動した。思えばここ暫く仕事に忙殺され、じっくりと本を読んだ記憶がない。幸宏は平台に積まれた小説の中から、贔屓の作家の新作ミステリー二冊と、最近話題になっている恋愛ものを一冊選んだ。先日、直木賞をとったばかりのその本は、会社の女の子たちの話題にもなっていて、ある種のバイブル的な一冊のようだった。
かなり時間に余裕があるつもりだったのだが、ふと腕時計をみると待ち合わせの時間の五分前だった。幸宏は急いで会計を済ませ、向いにあるコーヒーショップに入った。
カウンターでラージサイズのカプチーノを受け取り席を探そうと振り返った幸宏は、通路際のガラスパーテションの側に座っている三佳の姿を発見した。三佳は幸宏に向って微笑みながら、胸の前で小さく手を振っていた。濃いめのブルージーンズに芥子色のニットのセーターがよく似合っていた。
「こんにちは」
それほどの大きさではなかったのだが、背筋をきちんと伸ばした三佳の声は意外と良く通り、一瞬周りの客の注目を浴びてしまった。
「あ、どうも。早かったですね」
幸宏は気まずさを隠しきれず、耳が赤くなっていた。まだ注目されていないだろうかと辺りを見回したがもう誰一人として幸宏と三佳に注目している客はいなかった。
「私も読みましたよ、その本」
「ああ、これですか」
幸宏の手元には確かに書店名の入った紙袋が置いてあるが、袋の中の本が何なのかは見えない。三佳はあたかも中身を知っているかのようだ。
「──え、でも何で中身がわかるんですか?」
「私、透視能力があるんです」ふふっ、と三佳は悪戯っぽく笑った。
「え、本当に?」
口をあけたまま、目を丸くしている幸宏の顔がよほど可笑しかったのか、三佳は吹出してしまった。
「嘘、嘘。ここからちょうどレジが見えるの」といって、三佳は通路を隔てた向いの本屋のレジカウンターを指差した。
三佳のいうように、ここからは本屋のレジが見渡せる。幸宏がレジにいる時、三佳はこの席から見ていたのだろう。
「なあんだ、てっきり信用しちゃったな」
「でもそれって、若い女の子が好む恋愛ものなんだけど」
三佳は紙袋を指しながらいった。
「そうだろうね。いや、このあいだうちの女の子達に『知らないの?』って、馬鹿にされちゃったからさあ。何とか賞もとったらしくてね──」
幸宏は少々照れながらも、三佳に正直なところを話した。
「そうなのよ。賞をとったっていうんで私も読んでみたんだけど、ちょっとねえ。これぞ『恋愛バイブル』的な書評が多いのもどうかと思うな。世の中の女がみんなその小説の主人公と同じだと思われるのは、ちょっと勘弁して欲しいわね」
「へえ、何か恋愛まっしぐらって感じなのかな?」
「そう、そう。彼のことだけで頭がいっぱいになっちゃって、っていうか私に言わせればそれは彼のことじゃなくて自分のことよね。彼とか周りの人にどう見られたいとか、こういう風に思われたいとか、結局は自分のことだけしか見てないのよ」
「ふうん」
熱の入ってきた三佳の言葉に、幸宏は相槌をうっていた。
「あ、ごめんなさい。何も小説の主人公に、むきになってもしょうがないのに──」
「いや、予備知識としていいことを教えてもらったと思う。性別や年代によってその受け取り方は様々だろうし。僕が読むと、また違う感想があるかもしれない」
「そうかもね」
恐縮ぎみの三佳に、幸宏の言葉は救いになったようだ。
「それで、ひまわりの件は?」
「そうそう。あれから吉祥寺の叔母に電話で聞いてみたんだけど、もしかすると物凄い偶然なのかもしれないの」
そこまでいうと三佳は手元のコーヒーをひと口飲んだ。三佳の飲んでいるのは、たぶん最近女の子のあいだで流行りのキャラメル・マキアートのようだ。幸宏も一度飲んだことがあるが、喉が痛くなるような甘さで閉口した覚えがある。
「電話だったから細かいところまでは判らないけど、母には姉がいたんですって」
「お姉さんが?」
「そう。過去形なのはそのお姉さんも、交通事故で亡くなっているの」
「それで、そのお姉さんとの関わりは?」
「まずは母の家系を説明しておかないと、繋がりが解らないわね」
母の姉とひまわりとの関連性にいまひとつピンと来ない幸宏の表情を見て、三佳はまず母姉妹の話しをしなければならなかった。
「母が次女で、吉祥寺の叔母が三女。そして交通事故で亡くなった姉が長女で、三人姉妹だったの。事故で亡くなったのは私がまだよちよち歩きの頃だったらしいから、私はお姉さんの顔は覚えていないの」
「ふむ、ふむ」
三佳の説明に、幸宏は芝居かかった口ぶりで頷いた。
「それで、そのお姉さんは当時大阪に住んでいて、道頓堀のあたりで事故に遇ったらしいんだけどね。ほらテレビによく出て来る、グリコの看板があるところ」
「ああ」
旅行会社に勤めているわりに、あまり地方へ行ったことのない幸宏は三佳の分かりやすい説明に納得した。
「夜、御主人を車で迎えに行って家に帰る途中で、居眠りのトラックと正面衝突したらしいの。ほぼ即死だったって」
「それはまた……」
「まだ物心がつく前のことだから私も全然覚えていないし、今までも気にしたことがなかったから大丈夫よ」
「それは、そうなのかも知れないけど……」
「それでね。──あ、冷たい女だと思っているでしょう?」
「いや、そんなことはないけど……」
幸宏は咄嗟に否定したが、三佳に痛いところをつかれた。たぶん顔に出ていたのだろう。
「ま、いいか。それで、その叔母夫婦が大阪に来る前、どこにいたと思う?」
悪戯っぽい目を輝かせて、三佳は幸宏の顔を覗き込んだ。
「どこって、その人は大阪に住んでいたんじゃないの?」
「それがね、事故は冬の寒い時だったらしいけど、その年の秋に転勤先から大阪に戻ったばかりだったんですって」
「へえ。それでその転勤先っていうのは?」
「どこだと思う?」
三佳は含み笑いをしながら、幸宏の顔を覗き込むようにして目を輝かせている。
「さあ──」
三佳の表情にどぎまぎして、幸宏の思考は立ち往生している。
「北海道よ、北海道!」
「へ?」
幸宏の第二の故郷であり、美香との想い出の土地の名前が出たことで、間抜けな驚きの声をあげてしまった。幸宏は、また周りから妙な目でみられてはいまいかと心配になったが、こちらを訝しげに見ている客はいなかった。
「北海道のどこ?」
単に北海道といっても、関東平野よりも遥かに広いのである。土地感のない本州の人は札幌と旭川が、あたかも渋谷と新宿くらいの距離のように思っているらしいが、有に百キロは離れているのである。ましてや道東の釧路や網走などは、札幌から三百から四百キロは離れており、車で六時間から八時間は走らないと辿り着かない。冬の雪道になれば、更にその二割増しで考えておかないとならない。東京や大阪からは飛行機で一飛びかもしれないが、道内を移動するには途方もない時間がかかる。
「そこまでは聞かなかったわ。単純に北海道かぁ、って納得しちゃったから」
「そりゃ、そうだよね」
一般的な認識では、三佳の言い分が正しいと思う。同じく本州から海を渡るにしても、九州や四国の場合は幾つかの県に別れているので『何県』かと尋ねることもあるが、北海道はそれ自体が一つの単位になっているためか、あまり気にかける人は少ない。
「私もスキーで一度だけ北海道に行ったことがあるんだけど、地理的にはよく分らないし──」
「学生の時? スキーだったら、ニセコか富良野あたりかな?」
「そうそう、ニセコ。富士山そっくりの山があってびっくりしちゃった」
「羊蹄山っていうんだ。蝦夷富士ともいうね」
「へえ。何とか富士って日本中にあるけど、あれは本当にミニチュアの富士山みたいで綺麗だったなあ」
三佳に羊蹄山を誉められて、幸宏も何故か誇らしげな気持ちになった。
ただ、三佳の叔母夫婦が北海道に居たことは事実らしいが、それがひまわりのブローチに繋がるのかどうか。まったく違った場所より『北海道』という地名がその繋がりを示唆しているようでもあり、ただの偶然とも言えなくもない。
「このブローチは、その叔母さんが私にくれたんですって」
「それじゃあ、事故に遇う前に──」
「そうなるわね」と、視線を落とした三佳の膝元には、小振りのバッグに付いたひまわりのブローチがあった。
「お土産か何かだったのかな?」
「そうじゃないみたい。まだ私が伝い歩きをし始めた頃だったらしいけど、叔母が付けていたこのブローチを握って離れなかったんだって」
「何か、想像が付くなあ」と、幸宏は微笑んだ。
「小さい女の子はみんな好きなのよね、こういう光り物みたいなのが」
「そうそう、大人になると値段がどんどん高くなるけどね」
その通り、と二人とも顔を見合わせて笑った。
「叔母も大事にしていた物らしいんだけど、あんまり私が握ったまま離さないものだから根負けしたらしいわ」
「かなり頑固な性格だったんだね。今も?」
「そうね、それは今もそうかしら。でも強情じゃないわよ」
「それは判断が難しいな」
二人とも顔を合わせるのが今日で二度目だというにも関わらず、旧知の仲のように打解けていた。
「話しを元に戻して、で、それからずっと肌身離さずに持っているってわけなの」
「そんなに気に入ってもらえたら、叔母さんもブローチも本望だな」
「そうね、何だかこのブローチに守られているような気がするの」
「お守りみたいなもの?」
「ううん。もっとこう何ていうか……、分身っていうか、魂が宿っているとでもいうのか……」
幸宏のブローチにも美香の魂が宿っている。他人に話しても理解してもらえないだろうが、美香そのものといっても過言ではない。
いま幸宏の目の前にいる三佳も、同じく魂の存在を感じるという。やはりこのひまわりのブローチには、何かしらの『意志』があるとしか思えない。そして二十五年の歳月を経て、二つのブローチが引合った。
──否、二人を引き逢わせたのである。
話しの所々を脱線しながらも、二人は楽しく長い時間を過ごしていた。幸宏はふと腕時計に目をやった。昨年の忘年会の時、ビンゴゲームの商品で貰った安物のデジタル時計だ。
気がつくと、もうかなりの時間が経っている。
「あ、もうこんな時間だ」
「あら、本当に」
三佳は腕時計をしていなかったので、幸宏のそれを覗き込んだ。近頃は携帯電話の時計を腕時計代りにしている人が多いので、三佳もたぶんその類だろうと幸宏は思った。
幸宏はまだ三佳と話しをしていたかった。それは単にブローチの件だけではなく、三佳といる時間が、幸宏の心に安らぎにも似た心地よさをもたらしているからだった。明確にではないが、幸宏の頭の片隅でぼんやりとそれを感じていた。
三佳はどう感じているのだろうか。やはり幸宏と同じように感じていてくれればいいのだが──。
「時間は大丈夫ですか?」
「ええ、特に用事はないですから」
「夕飯にはまだ早いし……」
「かといって、此処にあまり長くいるのもね」
どうやら三佳は、幸宏といることに不快感は持っていないようだ。
「とにかく出ませんか?」
「ええ」
「少し外の空気でも吸いながら──って、ちょっと寒いかな」
いくら東京でも、十二月の夕暮れ時にもなればさすがに冷える。馬鹿な提案だったかと、半ば後悔していたところに三佳がいった。
「そうね。暖房でちょっと身体も火照ってきたし、少し散歩しながらでもお話ししましょうよ。動くとお腹も減るしね」
「そうだね」
夕食の約束が成立し、幸宏は安堵したのだった。
外に出ると、街の喧騒と冷たく乾いた十二月の空気に襲われた。高層ビルに切り取られた群青の空は、西の方だけ僅かに紅を残していた。
幸宏と三佳は、新宿東口方面へと歩みを進めていた。これからの時間、日本中で最も賑わう場所だ。
これから夜の街へ出勤するのか、髪を染めたミニスカートの女性が足早に幸宏たちを追い越して行く。歩道や車道の区別なく街には人が溢れ、時節柄なのか通り過ぎるどの店にも若いカップルが圧倒的に多い。
軽い世間話しをしたり、お互いの仕事についての話しをしながら新宿通りまで出た。一階に海外の有名ジュエリーのショップが入った百貨店に目をやると、店の中は文字通り人で溢れかえっていた。クリスマスまでにはお目当ての商品が売り切れてしまう可能性が高いため、早い時期から彼女へのプレゼントを買っておくようだ。
「ああゆうのもデザインするの?」
「有名なところはちゃんとデザイナーさんがいるから。私の場合は町工場で造るような安いヤツとかお土産屋さんとか──」
「ふうん。でも将来は有名ブランドなんかもやりたいんじゃないの?」
「でも、その気はないの。もっと庶民の身近なところで、触れ合えるものがいいのよ」
「例えば?」
「そうねえ、子供服とか枕カバーとか、かな。それとこのひまわりみたいな、高価じゃないんだけど手放せなくなるようなアクセサリーね」
三佳の言葉には、その庶民的な人柄がよく表れていた。確かに子供の頃は、母親にいくら言われても毎日お気に入りの服ばかりを着ていたり、道端で拾った青や白の石を宝物のようにして持っていたものだ。
子供に限らず誰にでも〝お気に入り〟というのは存在する。それが三佳のいったように服やアクセサリーのような物であったり、建物や場所、はたまた匂いだったり、人間の五感に関わる多種に及ぶ。
高価な一品ではなく、日々の生活の中で触れあうものを大事にしたい、という三佳の思いに幸宏は共感を覚えた。それは長年にわたり、ひまわりのブローチを大事に持ち続けている二人だからこそ解り合える想いなのかもしれない。
「ここのお店、美味しいらしいわよ。琴美がいってた」
三佳が歩道に出ている焼鳥屋の看板を指さしていった。それは雑居ビルの地下に入っているようだった。琴美のような大食漢がいうくらいだから、ひと皿がかなりのおボリュームであろうことは予測に優しい。
「へえ」
「まだちょっと早いけど、ここで夕飯にしない?」
「うん、いいけど──」
「じゃあ決まり!」
走るようにして階段を降りて行く三佳の後ろ姿に、ふと幼い日の美香の姿が重なった。
──ミカ。
思わず名前を呼んでしまいハッとしたが、幸宏の声は街の喧騒にかき消され、階段を降りきってしまっている三佳のところまでは届かなかったようだ。
苦笑いを噛み締めて、幸宏は三佳の後に続いて階段を降りて行った。
大型の寒波が日本列島をすっぽりと被っている。北海道や東北の日本海側では大雪に見舞われ、除雪が追い付かない状態が続いていた。また例年にない寒波の到来で、九州や四国の一部でも積雪による被害が報告されている。
テレビのニュースでは、連日のようにこの大雪に関する映像が流れていて、何十年ぶりかに雪を被ったという坂本竜馬の像が大映しになっていた。この雪の中では、竜馬もさぞかし寒いだろう。
あれから幾度目になるのか、幸宏と三佳の逢う頻度が増していくのに時間はかからなかった。
クリスマスを目前に控えた木曜の夜、銀座並木通りの地下にあるイタリアンレストランから食事を終えて出て来た幸宏と三佳は、全身に突き刺さるような寒気にコートの襟を立てて歩いていた。
中層のビルに切り取られた細長い銀座の空も、厚い雲に被われ今にも降り出しそうだった。銀座四丁目にある電光掲示板によると、気温は摂氏二度。明け方ならまだしも、まだ街には人出が多いこの時間の気温としては異例の低さだ。
行き交う人の息が白く煙る。降り出せば、確実に雪になるだろう。
特に風があるわけでもないのだが、信号待ちをしていると足下から冷気が這い上がってくる。幸宏は両手をコートのポケットに入れて、やや背中を丸めるようにしていた。手袋をして来なかったのを、僅かに悔やんでいた。
「クリスマスも仕事なの?」
「残念ながら、うちの仕事は世間が休みの時が一番の稼ぎ時だからね」
今年は土曜日がイブに当るため、様々な経済効果が期待されている。幸宏の業界でも、このクリスマスから年始にかけて、国内外を問わずパックツアーの売れ行きが好調だ。
クリスマスを大事な家族や恋人と過ごそうと、観光地やスキー場をはじめ都心のホテルやレストランは予約でいっぱいだ。
幸宏も学生時代は友人達と出かけたものだが、今の職場に就職してからはそれも全くなかった。
「そうなの──」
「でも、残業するほどではないと思うけど」と幸宏がいうなり、三佳の顔がぱっと明るくなった。もうクリスマスまで何日もない。
「それじゃあ、琴美と三人で食事なんかどう?」
「三人で?」
幸宏は不満があったわけではないのだが、琴美の名前に何故か戸惑いを覚えていた。
「琴美が一緒だとダメ?」
「いや、そういうわけしゃなくて……。彼氏はいないの?」と、幸宏は急場の言いわけをしたのだが、三佳は訝しんでいるようだった。
「健康優良児だからねえ、彼女は。クリスマスに男とホテルに行くのは、不健康この上ないってことみたいよ、昔から」
三佳は笑いながらいったが、寒さのためか呂律が少しおかしく鼻の頭が心なしか赤くなっている。刹那、幸宏の脳裏には『赤鼻のトナカイ』の歌が流れ出し、バックにはトナカイの鈴の音が〝シャンシャンシャン〟と鳴り響いている。
「それじゃあ、三人でホテルっていうのはどう?」
「ばか」
三佳のまつ毛に白いものが落ちてきた。ふと見上げると、街の灯りを反射した灰色の銀座の空に雪が舞っていた。
クリスマス・イブの夜、幸宏は三佳たちと待ち合わせた表参道のレストランに足早に向かっていた。
待ち合わせは七時だったが、会社を出る寸前にスキーツアーのトラブルで手間取り、地下鉄の駅を出た頃には八時を過ぎていた。
街路樹や店先に飾られたイルミネーションや、木曜の夜から金曜の夕刻まで降った雪が、植木や歩道の隅に積り恋人たちを優しく包んでる。
そのレストランは青山通りから少し坂を下った、この夏に新しく建ったばかりのビルの三階にあった。フレンチのレストランではあるが堅苦しさはなく、若者層に気軽に利用してもらおうと、メニューも安価なものを中心にしている。
銀座や丸の内のビジネスマンやOLとは、客層が明らかに違うのである。メインターゲットは、原宿に訪れる十代後半から二十代前半の女性だ。雑誌にも何回か取り上げられ、人気の店となっている。
幸宏はエレベーターを三階で降りると、店のドアを入った。
すぐにレジにいた女性から「いらっしゃいませ」と声がかかった。
「待ち合わせなんですけど」
幸宏はそういうと、店の中を見渡し三佳たちの姿を探した。流石にクリスマス・イブの夜だけあって、店は満席だった。ほとんどが二十歳前後と思われる若いカップルである。
「こっち、こっち」
イルミネーションの街路樹を見下ろす窓際の席から、三佳と琴美が手を振っていた。
「ごめん、すっかり遅くなっちゃって」
遅れる旨は事前に三佳の携帯電話にメールを送っておいたのだが、一時間の遅刻ではさすがに謝らずにはいられない。
「ま、いいから。早く食べないと時間がないわよ」
グラスの赤ワインを飲みながら、琴美がいった。
「時間って?」
幸宏の質問には三佳が応えた。
「ここね、九時までなの。次ぎの予約が詰まっているんですって」
「そうなのか」
「琴美がここの店長さんに無理いって開けてもらったのよ、この席」
「店長と知り合いなの?」
子牛の肉を頬張っていた琴美が、くぐもった声で「うちのお客さんなのよ。プールの無料券で話しつけちゃった」と、茶目っ気たっぷりにいった。
色気ではなく物量作戦でいくところが、いかにも琴美らしかった。
「なるほどね」
「感心している場合じゃないって。早くしないと全部食べちゃうよ」
まるで早食い競争のような勢いで、幸宏と琴美はテーブルに並んだ料理を食べていった。瞬く間に消えてゆく料理と、早さを争うように食べている二人を微笑ましく眺めながら、三佳もフォークを持つ手を休めないようにした。
琴美と幸宏の奮闘の甲斐もあって、食後のエスプレッソはゆっくりと味わうことが出来た。
「ああ、良く食べました」
「まったく。勢いが良すぎて、味がしなかったんじゃない?」
「そう言われると、そうかも知れない」
洋梨のシャーベットを口に入れながら笑っている二人を、黙って見ている幸宏に三佳はいった。
「どうかした?」
「うん、面白いなあ、と思ってさ」
「何が?」
三佳と琴美は顔を見合わせている。
「ほら、女の子ってさ、口に物を入れる瞬間に目線というか、視線がが泳ぐんだよね」
幸宏は身ぶりで、その瞬間の様子を再現して見せた。
「うっそー。そんな仕草しないわよ」
「うちの会社の女の子達もそうだし、君たち二人もそうだよ。試しにそのシャーベットを食べてごらんよ」
三佳と琴美は交互にシャーベットを口に入れた。
「あ、ほんとだ。三佳、目線が挙動不審!」
「琴美だって」
果たして幸宏のいった通り、口に入る瞬間に目線が泳ぐのは二人とも同じだった。箸が転んでも可笑しい年頃はとっくに過ぎているが、二人ともけらけらと笑い転げた。
幸宏と琴美の活躍によって時間内に無事食事を終えた三人は、クリスマスのイルミネーションが瞬く通りへ出た。
「それじゃあね」
「あれ琴美、帰っちゃうの?」
「おう。ジムの連中と二次会があるのよ。義理は欠かせなくってね。まあ、あとはお二人でどうぞ」
そういうと琴美はさっさと青山通りの方向へと歩いて行ってしまった。三佳たちに気を使ったのかとも思ったが、琴美のマンションは恵比寿だからここからだと原宿の駅からJRで二つ目だ。駅と反対方向へ歩いて行ったということは、二次会というのは事実だろう。
二人は、琴美の姿が人ごみに紛れて見えなくなるまでその場で見送った。
「さてと」
幸宏はその後の言葉が思い浮かばず、中途半端なところで黙ってしまった。三佳の反応を待ってみたが、黙って幸宏を見たままでいる。幸宏の言葉を待っているのであろう。
「どうしようか?」
「ううん──」
友達以上、恋人未満といったところの二人は、お互いに気を使ってしまってなかなかその先の言葉が出て来ない。世界中の恋人たちが頬を寄せ合うこの日、幸宏と三佳のあいだにはまだその絆がなかった。
「とりあえずは歩こうか?」
「ええ」
店の前に立ったままでは仕方がないので、ふたりはイルミネーションの表参道を並んで歩いた。
「二次会って、どこ行ったのかな?」
黙ったままでは何なので、幸宏は話しのきっかけを作った。外の空気は凍りつくような冷たさだったが、幸宏の耳は熱くなり頬も火照っていた。緊張のあまり心臓の鼓動が全身に伝わってくる。
「ジムの方へ行ったみたいだから、あの近くの呑み屋さんあたりじゃないのかな」
「やっぱり皆、強いのかな、酒」
「たぶん」
お互いに意識をし過ぎる為か、会話がぎこちなかった。
会計の時、三佳が黄色い財布を持っていたのが気になっていた。
「そう言えば、黄色い財布を持っていたね?」
「ええ。でも何で?」
「うちの会社の女の子たちも、黄色い財布を持っているんだけどね。やっぱり風水とか信じるの?」
別段年齢を問わずとも、女性が占いやその類いの事柄に執着するのは、世間一般的なことではある。三佳の財布も同じなのであろうと思っていた。いくら黄色い財布がいいからといって、ビジネススーツを着た男性が黄色い財布を持つのは妙であるが、女性の場合は同じくビジネススーツを着ていても違和感が無いのは不思議なものだ。
「私の場合はちょっと違うの。これはひまわりの色だから」
「え?」
幸宏の背筋に衝撃が奔った。
幼い頃、黄色い小物を沢山持っていた美香も同じことをいっていた。
──これは、ひまわりの色。
「そうか──」
「どうかした?」
「いや、いいんだ」
幼くして旅立った美香と、いま幸宏の目の前にいる三佳。偶然にしては合致し過ぎる二人の共通点が、幸宏の気持ちを掻き乱してゆく。
明治通りの交差点で信号待ちをしている時、隣に女子高校生らしき数人の集団がやけにハイテンションで騒いでいた。語尾を伸ばしたこの年代特有の喋り方で、うっそー、やっだー、えー、まっじー、などの単語が交差点に響いている。自分達を中心に世界が廻っているとでも思っているのか、周りの迷惑などどこ吹く風だ。
信号が変わる少し前、何かに躓いたのかその女子高生の一人が幸宏の背中にぶつかった。その女子高生は、存外礼儀正しく頭を下げて謝り、横断歩道を渡り始めた仲間のところへ走って行った。
幸宏は押されたはずみで、三佳を抱くような格好になっていた。三佳は腕の中でじっとしたまま幸宏の顔を見上げている。その瞳は幼い日、『ヒロくんのお嫁さんになるの』といっていた美香のものだった。
──ミカ。
幸宏は表参道の交差点にいることすら忘れて、三佳に口づけをした。ほんの短い一秒足らずのことだったが、その中に二十五年の歳月と美香への思いが凝縮されていた。
さっきの女子高生達がこちらを振り返り、ひやかすように何か大声で喋っていたが、さっきまで聞こえていた人の話声や街の喧騒は、幸宏の耳には入らなかった。街中で喧しいほど流れているのジングルベルさえも──。
幸宏と三佳はまるでそこだけ切り取られ、別の次元へ運ばれてしまったような奇妙な感覚の中にいた。五感の全てが取り払われ、無垢な魂だけがそこにいた。
『ヒロくんのお嫁さんになるの』
──美香の声がした。
ひまわり畑の中で、かくれんぼをしていた。焼け付くような真夏の太陽の下、どこから聞こえて来るのか蝉時雨が耳に纏わりつく。
鬼の役は幸宏だった。大人の背丈ほどあるひまわり畑の中は、幼稚園児にはちょっとしたジャングルのようだ。このまま永遠に外に出られないような感覚に陥いりながらも、どこかに隠れている美香を探していた。
幸宏の視界の片隅に、何か光る物が映った。美香がいつも付けているひまわりのブローチに太陽の光りが反射したのだった。幸宏は光りの方向へとひまわりの葉をかき分けて進んだ。
畑の中を奔る通路の突き当たりに、美香の後ろ姿を見つけた。
──みっけ。
大きな声で叫ぶと、美香の動きはぴたりと止まった。幸宏は美香のいるところまで大急ぎで走っていった。
あと二メートル、一メートル……。
その刹那、ぴたりと止まっていた美香がスーローモーションのようなゆっくりとした動きで、幸宏の方を振り返った。胸のあたりにつけたひまわりのブローチが、日射しを反射して光っている。
真夏の日射しをいっぱいに受けたその笑顔は──二十五歳の三佳のものだった。
「ミカ!」
幸宏は自分の声で目が覚めた。
どうやら夢をみていたらしい。耳を澄ますとエアコンのモーターが唸る音と、微かに窓の外から入って来る蝉の音がした。夢の中で聞こえていた蝉の声は、これだったのかもしれない。
カーテンの隙間から細く射し込む日射しは、部屋の絨毯を焦がしてしまうのではないかと思えるほど白く力強かった。
「起きた?」
大判のタオルケットを身体に巻き着けた、三佳の笑顔がのぞいた。
半ば夢の中を彷徨っていた幸宏の思考は、急激に現実世界へと引き戻された。映画のスクリーンを観るように、脳裏には夕べのことが思い興された。
ベッドの上で半身を起こし、反芻していた幸宏のところに、珈琲の香りを伴った三佳が入ってきた。三佳は手に持っていたマグカップを幸宏に渡した。
「うん、旨い」
幸宏の言葉に、三佳は満足気に微笑んだ。
「最初に逢った日ね……」
「うん」
三佳は幸宏の腕をとり、肩に寄り掛かるように頭を載せた。
「あの日、思い出したことがあるの」
「ひまわりのこと?」
「そう」
「どんな?」
何か大事な要件なのだろうか。今まで何度も逢っているのに、何故すぐにいってくれなかったのか。それをわざわざ隠したところで、三佳に不利益はない筈なのに──。
「あのブローチを叔母さんから貰った時ね、私、いわれたの。同じひまわりのブローチを持った人と結婚するって。たぶんその時は、ふうんって聞いてたんだと思う。それでそのまま忘れていたのよ、あなたと逢うまで。あなたの持っているブローチを見た瞬間に、突然思い出したの」
三佳の話しを聞いて、幸宏は全身に鳥肌が立つのを感じた。そして、そこには美香の魂を感じていた。いや、執念といっていいのかも知れない。ただし、一般的に忌み嫌われる『念』という言葉も、美香の魂というフィルターで濾過されて、むしろ清々しさを感じる。太陽に向ってまっすぐ咲く、ひまわりの花のように。
日本国中が年末の休みに入ろうとする年の瀬──仕事納めの二十九日。
有楽町のファッションビルにあるレストランで、幸宏と三佳は夕食をともにした後、三佳の部屋に二人はいた。
三佳は年明けの七日まで休みなのだが、幸宏はこの休み中に交代で2日ほど出勤しなければならなかった。旅行中の様々なトラブルに対応するため、代理店では休みの日でも交代で出勤をしている。
衝撃的なクリスマス・イブの出来ごとから五日が経つ。年末年始の休みは二人の部屋を交互に泊まり合うことにした。都内の中野と目黒というそさほど遠くはない距離ではあっても、普段の行動範囲から離れた場所での行動はちょっとした旅行気分が味わえる。
JR中野駅で降り、コンサート等で有名な中野サンプラザの白い建物を背に商店街を抜け、二ブロックほど入ったところに三佳の住むマンションはある。白いタイル貼りの瀟洒な外観は、若い女性が好みそうな感じに仕上がっている。
1DKの間取りは決して広いとは言い難いが、一人暮らしには最適な空間である。
「昨日ね、吉祥寺の叔母さんのところに行って来たの」
三佳はコーヒーの入ったカップを両手で包み込むように持ち、香り立つ湯気の向こうにいる幸宏にいった。
「僕も一度、行ってみたいな。叔母さんのところ」
「あ、そうね。年明けに一度連絡してみるわ」
「そうだね」
三佳のブローチの経緯を知っている唯一の人である。出来れば直に話しを聞いてみたかった。
「それでね、その叔母がいってたんだけど、もうびっくりなのよ。運命ってあるのよねえ──」
「何が?」
三佳は吉祥寺の叔母さんから何かを聞いて驚いたのだろうが、幸宏には何のことなのかさっぱり分らない。ところが驚いているといった本人には、驚愕というよりも、むしろ歓喜の表情が窺える。
幸宏の頭上には「?」のマークが幾つも浮かんでいた。
「前に話したでしょ、大阪で亡くなった叔母夫婦のこと」
「うん」
三佳がまだ幼い頃、大阪の道頓堀で交通事故に遭い、亡くなったという叔母夫婦のことである。その叔母が大事にしていたひまわりのブローチこそ、幸宏と三佳を引き逢わせた品である。
「その叔母夫婦のことを詳しく訊いて来たの。それがね、大変なのよ」
「うん、それで?」
やや興奮ぎみに話す三佳とは反対に、幸宏には何が大変なのか未だに分らない。
「ほら、大阪に戻る前は北海道に居たっていったでしょ。どこだと思う──富良野だって」
「そうなのか」
もう想像はついていたが、やはり運命に導かれているとしか思えない。
幸宏が幼い美香と過ごした、想い出の懐かしい地名である。ある予感のようなものが芽生えて来るのと同時に、幸宏は遠い昔の富良野の空を思い浮かべた。
遠くに雪を頂いた大雪山系の山並を望む、どこまでも抜けるような青い空。
川の流れは清く、パッチワークのような色とりどりの花畑。
ひまわりの咲く、短い夏の日。
収穫を終えた、じゃがいもの畑。
白銀の世界に、深々と静かに降り積る雪。
春夏秋冬のそれぞれに音があり、匂いがある。そこには大都会では忘れ去られた、時の流れがある。
「その当時、お父さんはホテルにお勤めだったでしょう」
「うん」
幸宏の父、渡瀬和幸はホテルを定年退職の後、契約社員として警備会社の営業課に席をおいている。長年サービス業で培った物腰の柔らかさや、顧客に安心感を与える話術のおかげで、和幸の営業成績は所内でも常にトップクラスにいる。
「大阪の伯父も、同じホテルに勤めていたんですって」
「そうなのか」
「ちょうどあなたが富良野に居た時、伯父も同じく富良野に居たんですって」
偶然にしては出来過ぎた話しに、幸宏の鼓動は速度を増して行く。
遠い記憶の断片が脳裏を過る。
まだ残暑の厳しい九月の東京。夕暮れの空は真っ赤燃え上がり、全てをセピアカラーに染めていた。遠くで烏の鳴く声がやけに耳についた。
幼稚園から帰った母子を待ち受けていたかのように、居間の電話が鳴った。
それは、夕方から始まるアニメ番組を観ようと、幸宏がテレビのスイッチを入れた刹那の出来ごとだった。電話が鳴ることなど日常の出来ごとであり、珍しくも何ともない。
しかしこの時だけは、電話のベルの音が美香の悲鳴のように聞こえた。
──幸宏を呼ぶ美香の悲痛な叫び。
叫び続ける電話器をじっと見つめたまま、幸宏は身じろぎ出来ずにいた。何度目かのコールの後、台所にいた幸宏の母、智子が受話器をとった。
受話器を手に何かを話しをしている母の姿が、幸宏の視界の中で歪んで行く。話しの内容もその相手も分らなかったが、幸宏の無垢な魂は、遠く離れた北海道の病院で横たわる美香の元へと奔った。
──ミカが。
受話器を置いた母の背に、絶望と悲しみが纏わり付いていた。沈黙した電話器に視線を落としたまま、智子は暫く動かなかった。いや、動けなかった。
無意識のうちに涙が浮かんでは、幸宏の頬を伝っていた。テレビから流れるアニメの主題歌は、思考を停止した二人の耳にはもはや入らなかった。
「幸宏……」と、悲しげに振り向いた母の瞳にも、夕日を受けてセピアに染まった涙が溢れていた。
遠距離の為、美香の葬儀には行くことが出来なかった。その後暫くして、美香の両親は大阪に戻ったと、母から聞かされた。
もしかすると、その大阪で亡くなった三佳の叔母夫婦というのは、美香の両親なのかもしれない。そんな符合が幸宏を支配していった。
「その叔母さんの名前は、何て……」
幸宏の言葉は震えていた。
三佳の母親は三姉妹である。それぞれに嫁いだ先の名字に変わっている。幸宏は三佳の口から発せられるであろう名前を頭にえがいた。
「篠田香織」
まるで、頭の中で大きな鐘を鳴らしたかのような衝撃が、幸宏の全身を奔った。
「知ってるの?」
三佳の言葉は幸宏の頭蓋を通り抜けていた。
「ねえ、大丈夫?」
「あ、ああ」
幸宏は溜め息とも返事ともつかない、曖昧な言葉を発するのがやっとだった。三佳は心配して何かを話しかけているのだが、幸宏にはただの無声映画の映像のようにしか見えなかった。
幸宏と時期を同じくして富良野に生活をし、その後大阪に戻った三佳の叔母夫婦。美香と同じ篠田姓。そして、美香の母親は香織という名前だった──。
「ねえ、聞いてる?」
「ああ……、ごめん。もう一度、いってくれないか」
「もう。ちゃんと聞いててよ」
幸宏は姿勢を正し、両目を瞑って三佳の話しを聞いた。瞼の裏には、幼い頃の美香との記憶が蘇る。
「その叔母さんのところには、女の子が一人いたんですって。でも、その子がまだ幼稚園の頃、何か難しい名前の病気で亡くなったんだって。私の従姉妹になるのかな。名前はミカ。美しい香りって書いて、美香。その美香ちゃんが大事にしていたのが、いま私の持っているひまわりのブローチなのよ。あなたと始めて逢った時に、聞いた話しとぴったり合うのよ。その美香ちゃんが亡くなった日に、私が生まれたんですって。私はきっとその美香ちゃんの生まれ変わりだって、叔母さんもいってた。字は違うけど、だから三女の私には三佳という名前を付けたんだって。その話しを聞きながらね、吉祥寺の叔母も私も、気がついたら二人で泣いてたわ」
「エドワード症候群」
「え?」
「その病気の名前だよ」
「エド……、何?」
「エドワード症候群。染色体の異常で、長生き出来ない病気なんだ」
「そう……」
「現代医学をもってしても、どうしようもないらしい……」
深い谷間に落ちて行くような沈黙。こみ上げてくる悲しみに、微かに啜り泣く三佳の嗚咽だけが静寂な部屋に響く。
幸宏は立ち上がり、窓際へと歩いた。街灯りでうっすらと白んだような東京の空に、冬の星座の中でもひときわ明るいオリオン座が瞬くのが見えた。
幸宏の脳裏に、富良野の雪景色が蘇った。
──そうだ、富良野に行こう。
三佳を連れて富良野に行くことで、何か気持ちの整理が出来そうに思えた。三佳にも、幸宏が幼い頃を過ごした場所を見て欲しいし、あの広大な土地の息吹きを一緒に感じたかった。そして美香と幸宏の軌跡を辿ってみたい。
自分の思いつきに、ふと違和感を覚えた。三佳と富良野に行きたいと、たった今思いついた筈なのに、それはまるで遠い昔に交わした約束を、今まで忘れていたかのような錯覚に苛まれた。三佳とそんな約束をした覚えはない。だが、行かなければならないという使命感が重くのしかかってくるようだ。
遠い昔、美香とそんな約束をしたのだろうか?
窓ガラスに反射して映っている三佳の姿に、幼い日の美香がだぶって見えた。
「富良野に行こう」
「え?」
三佳も窓際に立っている幸宏の肩に、そっと寄り添うように身を寄せてきた。
「三佳に見てもらいたいんだ、僕と美香の想い出の場所。二十五年を経て僕ときみとがこうして巡り会った、この奇跡の物語が始まった場所を──」
「うん、いつかそういってくれると思ってた」
頷いた三佳の瞳は、美香の瞳だった。
幸宏にとっては懐かしい富良野と札幌の地を、三佳とふたりで旅行をするには、どうしても四日間は欲しかった。往復の飛行機での移動日の他に、富良野と札幌で一日ずつ。
しかし学生時代なら、何ら問題もなく明日からでも行けただろうが、お互いに責任のある仕事を抱えているだけに、四日間というまとまった休みをとれるスケジュールの都合がなかなかつかなかった。
スキーの出来るシーズンには幸宏が、春先の年度末、年度始めには三佳が、それぞれ仕事を離れることが出来なかった。それを過ぎるとまた、幸宏は五月の大型連休の対応で忙しかった。
やっと二人の仕事が一段落した頃は、すでに梅雨の入り口に差し掛かっていた。肌寒い霧雨の降る夜、三佳の手料理に舌鼓を打った後、二人は食後のコーヒーを飲んでいた。
七月には、何とか二人のスケジュールの調整がつきそうだと話をしていた。
「へそ祭りって、どんなお祭り?」
三佳はコンビニで買ってきたばかりの、北海道特集が載っている旅行雑誌を捲っていた。
国内屈指の観光地である北海道は、冬のシーズンはもとより、春、夏、秋、それぞれに温泉やグルメの特集が組まれ、年間を通じて観光客が絶えない。近年は国内だけに留まらず、近隣のアジア諸国から渡航してくる観光客も多く、パックツアーに対応しているホテルの中では、広東語等もよく耳にするようになった。
北国では春の訪れが遅く、冬の到来が早い。そしてその短い夏のあいだに、花々は一斉に咲き乱れる。五月の桜から始まり、ピンクの絨毯を敷き詰めたような芝桜、菖蒲、はまなす、ポピー、しゃくやく、そして初夏には北海道の代名詞的なジャガイモ、富良野の丘陵地を紫色に染めるラベンダー。盛夏の頃にはひまわり。秋の訪れを告げる秋桜。
北の大地を彩った花々が終宴を迎えると、雪虫が冬将軍の到来を告げるように舞い始める。この雪虫が舞うと、数日のうちに街は真っ白な雪に被われる。東京では銀杏並木の葉が色着く頃、北海道は本格的な冬へと突入する。冬の初め、歩道に植えられた赤いななかまどの実に積る雪の映像を、三佳も何度かニュースで観た記憶がある。
「へそ祭りか、懐かしいな」
「7月の後半みたいだけど」
「そう言えば、そうだったかな。でも夏休みに入ってしまうと、なあ──」
幸宏は、幼い頃に母親に連れられて行った、富良野のへそ祭りを思い出していた。勿論、いつも美香が一緒だった。
このへそ祭りの前後、ちょうど夏休みに入った7月後半の富良野の街は人で溢れかえる。祭り見物の観光客や、この日に合わせて早めの里帰りをする地元民で、普段の人口の数倍に膨れ上がる。
カメラを抱えた取材人も多く、若者達はテレビカメラを見つけると、自分の姿が映り込むように手を振ったり、ピースサインをしている。番組の収録で有名タレントが来ていたりすると、祭りはそっちのけで黒山の人だかりが出来上がる。
幸宏や美香の父親たちが勤めるホテルは、冬のスキーシーズンと、このへそ祭り前後の時期が書き入れ時となる為、泊まり込みが多くなる。必然的に祭り見物は、母親と行くことになるのだった。
祭りの期間中は、警察も人員を総動員しての交通整理や警備にあたっているが、警察や主催者側の運営委員がいつも頭を悩ませるのは迷子だった。小学生くらいならまだ何とかなるのだが、幼稚園児以下の子供の場合は、自分の名前さえはっきりと言えない子もいる。服や持ち物にでも名前が書いてあればまだいいのだが、なかなかそうもいかないのが悩みの種だ。
母親の方にしても我が子を見失ったパニック状態で、対する側も困ることが多かったりする。自分の監督不行が原因であるのに、祭りの主催者や警察のせいにする人も少なくない。
大概はすぐに見つかって、涙ながらの母子の再会となるのだが、この時母親の口から出る言葉は、我が子を叱るものばかりだ。いや、叱るというのは教え諭すことをいう。彼女たちは心細かったであろう我が子に対して怒っているのだ。決してごめんねという優しい言葉は、怒り狂った母親の口からは出て来ない。
幸宏も一度、へそ祭りで迷子になったことがあった。その時も美香と一緒だった。
祭り見物の人ごみの中、母たちの後を着いて美香と幸宏は手を繋いで、買ってもらった綿あめを食べていた。焼そばや玩具、着色料と人口甘味料のかたまりとも言える色彩々のジュースやお菓子類。幼稚園児の二人には刺激的な世界だった。見る物全てに興味を惹かれる。
所々、そんな店先で立ち止まっては商品の吟味をしているうちに、世間話しなどをしながら先を行く母親の後ろ姿が遠ざかって行った。
──お母さん達に追い付かないと。
幸宏がそう思い始めていると、美香がある屋台の前で立ち止まった。人ごみに消えて行く母親の後ろ姿を横目で捕らえ、幸宏は焦躁感に駆られていた。
「ミカ、お母さんたち行っちゃうよ」
祭りの喧騒で幸宏の声が聞こえていないのか、美香は店先で突っ立ったまま動こうとしない。幸宏は美香の腕を引っ張るようにして、廻りの音に負けないような大声を出した。
「ミカってば!」
やっと振り向いた美香の手には、屋台の裸電球の光りを反射してキラキラと輝く黄色いひまわりのブローチがあった。
「きれい」
美香の発した言葉と重なるように、幸宏の頭の中でも同じ言葉が浮かんでいた。
「ねえヒロくん、お金もってる?」
「えーと」と、言いながら幸宏はポケットの中を探った。今朝、祭りに一緒に行けない父親の和幸から、綿あめでも買いなさいと小遣いを貰っていた。さっき美香と一緒に綿あめを買ったが、双方の母親が買ってくれたので、そのままそっくり小遣いは残っていた。幸宏はポケットから出した小遣いを、そのままそっくり美香に渡した。
──それよりも、お母さんたちを見つけないと迷子になっちゃうよ。
幸宏はそちらの方に神経を集中していた。観光客ではないから、今いる場所から家に帰る路は幸宏でも分る。もし最悪の場合はそのまま家に帰ってしまえばいいのだが、この人ごみの中で母親と離れてしまったことが、幼稚園児の心にはなによりも心細い。
母親の姿を探して辺りをきょろきょろ見回していると、「ヒロくん」と耳もとで美香の声がした。それと同時に「幸宏!」と叫ぶ、智子の声が重なった。
幸宏は一瞬だけ美香の方を振り返ったが、その瞳はすぐに母親の姿を探して、祭りで賑わう人ごみの中を彷徨った。
「幸宏!」という智子の声と一緒に、「美香!」と叫ぶ香織の声が二重奏となって聞こえて来る。姿の見えなくなった我が子を必死に探す母親は、祭りの喧騒に負けぬ様に声を張上げている。
「幸宏!」
その声と共に、智子の姿が人波の中を逆らうようにして現れた。
「美香!」
智子のすぐ後ろに、香織の姿も見える。母親の姿を見失い、迷子になりかけていた幸宏たちは、短い時間のうちに何ごともなく無事保護されたのだった。
迷子になりかけた不安と、無事に母親の元に戻った安堵で、半べそをかきながら智子の腕に抱かれた幸宏は知らなかった。
美香が二人分の小遣いで、ひまわりのブローチを二つ買ったことを──。
智子たちが現れる刹那、その一つを幸宏に渡そうとしていたことを──。
幸宏に渡し損ねたブローチが、美香の小さな手の中で握られていたことを──。
七月上旬。何とかお互いに仕事の都合をつけた幸宏と三佳は、まるで妖精たちが飛交うような初夏の爽やかな風の中、富良野駅のホームに降り立った。どこまでも青い空と遠くに見える山の稜線。
幸宏は二十五年ぶりに降り立った第二の故郷を懐かしく想い、三佳は始めての富良野に感動していた。
優しい風は三佳の頬を撫で、髪を軽く靡かせる。富良野の大自然に安居する妖精たちに、歓迎されているかのようだった。
「わあ、気持ちいい!」
両手を高く上げ背伸びをするように深呼吸する三佳は、キラキラとした光りに包まれていた。──幸宏の目には確かに映っていた。キラキラと輝く光りの粒子が優しく三佳を包み込んだかと思うと、その粒子が幼い美香の姿を形作り、幸宏に微笑みかけていた。そして三佳の躯の中に溶け込んで消えて行った。それはほんの数秒、いや、一瞬の出来ごとだった。
「どうしたの?」
驚きのあまり、膠着したまま三佳を見つめている幸宏の顔の前で、三佳が手を振っていた。
「え?」
「どうかした?」
やっと我にかえった幸宏を、三佳は心配そうに見つめる。
「あ、いや、その……。懐かしいなあ、と思って──」
「そうよね。何年ぶりになるの?」
「幼稚園の時に引っ越ししてからだから、二十五年……、になるのかな」
三佳の質問に応えながらも、幸宏の頭の中は先ほどの出来ごとに空転したままである。
「そうかあ、懐かしいよね」
三佳は無邪気な微笑みを返す。
「まずはホテルにチェックインして、荷物を置いてこよう」
「そうね」
三佳はぐるりを見渡すと、幸宏の後を付いて改札を出た。
幸宏たちの泊まるホテルは、駅前からタクシーで五分ほどの距離にある。いうまでもなく幸宏の父、和幸がかつて勤めていたホテルだ。そして同じく、不慮の交通事故のため大阪で亡くなった美香の父親も、そのホテルに勤めていた。
タクシー乗り場を探そうと駅舎から出た幸宏は、その懐かしさとは裏腹に込み上げて来る違和感に困惑し立ち止まった。幸宏の目の前には、間違いようもない富良野駅前の風景がある。店の看板や建物が新しくなってはいるものの、それは遠い記憶にあるものと同じであった。しかし、絶対的な距離感や駅前の空間体積が、幸宏の記憶とは異なるのだ。
幸宏の薄れかけた記憶の細胞から蘇る駅前の風景とは、もっと圧倒的に広い空間だった。
「どうしたの?」
タクシー乗り場の手前で立ち止まっている幸宏の背中に三佳がいった。
「ここは、もっと広かった記憶があるんだけど……。こんなもんだったのかな、と思ってさ」
「ああ、子供の頃って結構広く思えるのよね。身体も小さいし、目線が低いでしょう。だから大人に成ってからだと、その感覚にズレが生じるのよ」
「そんなもんかな……」
合点がいかないまま、幸宏は三佳と共にタクシーに乗り宿泊先のホテルへと向った。駅からの五分ほどの道程でも、始めての富良野にはしゃいでいる三佳とは対照的に、幸宏は空知川の川幅や街の空間体積の記憶を修正しなければならなかった。
ホテルの部屋で三佳が荷物の整理をしているあいだ、幸宏は煙草を吸いながら窓の外を眺めていた。富良野駅から空知川を渡った高台にあるこのホテルからは、富良野の街が一望できた。そしてその向こうには、一斉に咲き乱れる彩とりどりの花畑。遠くには大雪山系の山なみ。何もかもが懐かしかった。二十五年前、美香と過ごした想い出の街──。
「何、観てるの?」
片付けを終えた三佳が窓際にやって来た。
「どう? 昔とだいぶ変わった?」
「うん。変わってないんだ、たぶん。自分の記憶が少し違うみたいだ」
「そう」
「昔はもっと木造の建物が多かったなあ」
「そういう時代だったでしょ」
「うん。でも木造から鉄骨になっただけで、店なんかはそのままだったりするんだ」
「世代交代とかね」
「そう。昔、幼稚園で一緒だったやつが家業を継いで、経営者になってたりするんだろうな。ま、いま顔を見てもお互いに分らないだろうけどね」
「そうね、ずっとこの街に住んでいる人も多いでしょうから」
幸宏は長くなった煙草の灰を、ぽんと灰皿に落とした。
「行ってみようか」
「私たちの故郷へ?」と、優しく三佳が微笑んだ。
ホテルからは歩いて行くことにした。タクシー代がもったいないわけではなく、自分の足と肌でこの街の空気を感じてみたい──と三佳がいったからだった。幸宏も久しぶりの故郷の空気を感じてみたかった。
タクシーでホテルに向った時にも感じていたことだが、幸宏がこの土地にいた頃とくらべ、ペンション等の宿泊施設が多くなっていた。これも時代の流れだな──と呟くと、三佳は逆にテレビや雑誌等で見知っている風景に、そうなんだ──といっただけだった。
やがて空知川を渡った。三佳は北海道の河川はすべて川底の見える清流と思い込んでいたらしく、濁って川底の見えない水に少なからず落胆したようだった。
降り注ぐ蝉時雨の中、幸宏は街並を確認するようにして歩いた。並んで歩いている三佳は、始めて見る故郷に感慨深い思いを抱いているといったところのようだ。
路すがら、昔のまま残っている幾つかの家屋や、取り壊されて鉄筋の瀟酒な建物に変貌した街並に、安堵と驚きの想いが交差する。
幸宏は立ち止まり、辺りの景色を見回しながら自分の記憶と比較した。
「ここだよ」
「え?」
幸宏が立ち止まったのは、四階建ての大きなマンションの前だった。
「このマンション……、じゃないわよね?」
「そう、この場所にあったんだよ」
大きな鉄筋のマンションを見上げる幸宏の瞳は、遠く過ぎ去った昔を見つめていた。
「僕らが住んでいた頃はね、あの辺りにひまわりの花が咲いていたんだ」
幸宏は、今は駐車場となっている一角を指差していった。三佳は指し示された辺りを目を細めて見ている。きっと、昔そこに咲いていたであろうひまわりの花を想像しているのだろう。
ぐるりとマンションを一周した幸宏は、何かを自分に納得させるように黙って青い空を見上げた。
「さて、行こうか」
「もう帰るの?」
「いいや、次はミカの住んでいた家に行ってみよう」
三佳は黙って頷き、幸宏の後について歩きだした。ふと誰かの声が聴こえたような気がして後ろを振り返ると、先ほど彼が指差した駐車場のあたりに、陽炎のようなぼんやりとしたものが見えた。
「あれ……」
三佳は首を廻らせたまま、無意識のうちに立ち止まった。
「どうした?」
彼女の声に幸宏も振り返った。
「あそこに何か……」
いったん幸宏の方に向き直り、三佳は陽炎のあった駐車場のあたりを指差した。しかし、もうそこには陽炎はなく、無機質なアスファルトの駐車場があるだけだった。
「何かあるの?」
幸宏は三佳の隣に立っていった。
「あの駐車場のところに陽炎みたいなものがあったんだけど……、もう見えなくなっちゃった」
「アスファルトから立ちのぼる陽炎だろう?」
「そうなのかなぁ。何か違うように見えたんだけど──」
三佳には、その陽炎が微笑んでいる幼い女の子の姿に見えたのだった。はっきりと姿かたちが見えたわけでもなく、ただぼんやりとした空気の歪みのなかに温かく慈愛に満ちた魂を感じたのだった。いわゆる幽霊の類いとはまったく違うということは自覚できた。
それは、視覚や脳という身体の機能を超越した「心」で感じとったものであり、違う表現を用いるのであれば〝魂が共鳴した〟といえるかもしれない。
三佳は彼と歩きながら何度も振り返ったが、同じ陽炎が見えることはなかった。
十分ほど歩いたところに大きなスーパーがあった。彼はここでも一旦立ち止まり、昔の面影を探すように建物を眺めた。
「ここは?」
「このスーパーに母とよく買い物にきたんだよ。すっかり建て替えてしまって、あの頃の面影はなくなっちゃたけどね」
小さい頃、母に手をひかれてよくきた店──。
凍てつく吹雪のなか──。
焼けつく日射しの夕暮れ時──。
母親たちに呵られながら駆け回り、美香とかくれんぼをした店内──。
幸宏の脳裏に、さまざまな懐かしい場面が浮かぶ。
そしてあの夏の日、美香の家へ遊びに行った帰りに立ち寄ったこのスーパーでの母親とおばさんの顔が脳裏に浮かぶ。
「うちの母親と近所のおばさんが話しているのをここで聞いたんだよ、美香が入院するって話し。
美香は身体が弱くてさ、しょっちゅう入退院を繰り返していたから、あの時もあまり気にしなかったんだ。母親たちもそんなふうに、俺にいっていたから。
あれは幼かった俺にショックを与えないようにしていたんだろうな、きっと」
まるで本当の夫婦みたいね──といわれていたあの頃、夫婦とか愛とかの意味すらわからなったが、大人になってもずっと美香と一緒だと思っていた。否、美香は幸宏の心のなかでずっと一緒に生きてきたのだ。美香の想いが込められた、ひまわりのブローチと一緒に。
「あれっ? 幸宏じゃないの?」
ふいに駐車場の方から声がした。
「そうだろう? 渡瀬幸宏だよな?」
小さな男の子を連れた、幸宏と同年代くらいの男がこちらに向かって歩いてくる。
誰なのかわからいが、幸宏はとりあえず頷いた。
「やっぱりそうだ。俺だよ、俺。幼稚園のとき、ハト二組で一緒だった中野俊介だよ!」
予期していなかったできごとだったので、幸宏はすぐに彼のことを思い出せないでいた。
角の酒屋だよ──という彼の言葉で、幸宏の記憶は目覚めた。
「酒屋の俊ちゃん?」
「今はコンビニだけどな。それよりお前、何やってんだこんなところで?」
はからずも急な出来ごとに、幸宏はどう答えようかと躊躇した。
「それに彼女は……」
そういって三佳の顔を見つめたまま、彼は一瞬言葉をなくした。
「まさか……、そんなわけないよな。でも、似てるなあ」
「はじめまして、山村三佳です」
不思議そうに首をかしげている彼に、三佳は笑顔で応えた。
「ミカって……、おまえ。だってミカは……」
彼は目をまん丸にして幸宏に問いかける。かなり動揺している様子が、はた目からでもはっきりと見てとれる。
「そう、篠田美香は二十五年前の夏に死んだ。その魂が従姉妹の山村三佳となって僕の前に現れたんだ。約束を守るためにね」
「従姉妹? 約束?」
──ヒロくんのお嫁さんになる。
そのために。
幸宏はこれまでの経緯をかいつまんで話をした。あの夏の日、幼い美香が入院していた病院で渡されたひまわりのブローチ。それと同じものを持っていた従姉妹の山村三佳との出会い。幼い美香と幸宏の想い出を辿る旅行。
単なる偶然にしては出来過ぎている話に、彼は信じられないというような顔で黙って聴いて
いた。
「彼女の魂……か」
深く思いを巡らせている彼の傍らで、連れていた子供がぐずりだしたのをきっかけに、二人はお互いの連絡先を教え合い、そこで別れた。
「彼もよく知っているの? 亡くなった美香ちゃんのこと」
それまで黙って幸宏たちの会話を聞いていた三佳は、彼が子供を連れてスーパーに入ってゆく後ろ姿を見送りながら訪ねた。
「酒屋だったから、美香と二人でよくジュースを飲ませてもらった。今考えると売り物だったんだよな。あの頃はそんなこと考えもしなかったよ。あいつの家に行くとジュースが飲める、くらいの認識しかなかったんだ」
いけない子でちゅねぇ、と三佳は幼児言葉で幸宏を呵るまねをした。
「ほんとだ」
二人の笑い声が、澄んだ青空に向かって伸びやかに拡散していった。
道すがら幸宏の記憶に残っているエピソードを幾つか話しているうちに、二人は美香の住んでいた家のすぐ近くにある公園に着いた。滑り台とブランコ、それに小さな砂場があるだけの、住宅地のすき間にひっそりと挟まっているような小さな児童公園だった。少子化の影響か、それともたまたま時間帯の問題なのか、公園で遊ぶ子供の姿はなかった。
「この公園でよく美香と遊んだんだ。子供の頃はけっこう広く見えたんだけど、こんなに小さな公園だったのか」
「子供のときって何でも大きく見えるのよね。私にもあるわよ、あれっ? こんなところだったかな、っていうのが」
「そうだよな、何十年も前の話だから余計にそう思うし。でも滑り台とブランコは替わったみたいだ。さすがに古くなったんだろう」
「でもあんな感じだったの?」
「そうだね。物は替わっても雰囲気はそのまんま──かな」
幸宏と三佳は並んでブランコに乗った。
「それにしても子供の姿がないな」
「そうね、やっぱり少子化の影響かしら。今の子供たちは公園よりテレビゲームだしね。何だかもったいないわね、こんないいお天気なのに」
三佳もやはり同じことを感じていたらしい。核家族化から少子化へと続く時代の変化とともに、子供の数や遊び方も変わってきているのは頭ではわかっていても、今まで実感として湧かなかった。しかし、子供の声が聴こえない閑散とした公園にいると、それを嫌でも感じさせられる。
「どうかしたか?」
三佳が、誰もいない砂場のあたりを注視している。
先ほど幸宏の住んでいたところで見た、陽炎のような気配を三佳は砂場に発見していた。声にだしてしまうとまた消えてしまいそうな気がしたので、三佳は黙って見つめていたのだった。
マンションのところで見たときと同じように、最初はぼんやりとした陽炎のようなものが砂場に現れ、しだいにそれは砂場で遊ぶ少女の姿へと輪郭を明らかにしていった。黄色い花柄──三佳にはそれがひまわりに見えた──のワンピースに、少し長めのおかっぱ髪。
三佳は瞬間的にその陽炎の正体が美香であると確信していた。世間でいうところの霊視体験になるのだろうが、小さなスコップを手にして無邪気に砂場で遊ぶ姿から邪念は感じられない。むしろ幸宏や三佳を温かく迎えてくれているようであるため、驚きはあったもののまったく恐怖感は抱かない。まるで自分が子供の頃のビデオでも見せられているような、懐かしさすら感じさせる。
「どうしたんだ?」
幸宏の声に反応したのか、その少女はこちらに顔をあげてにっこりと微笑んだ。三佳が微笑みをかえすと、何かを納得したようにこくりと頷き、小走りで公園の外へと消えていった。
「美香ちゃんがいるような気がしたの──そこに」
訝しげに顔を覗き込んでくる幸宏に向き直り、三佳は今しがた見た砂場の光景を話した。先ほどの駐車場に続いて、この場所でも三佳は同じものを見たという。しかも今回は、はっきりと少女の姿をして三佳に微笑んだ。しかしはっきりと姿をみたとはいえず、いるような気がしたと曖昧にこたえたのは、まだ目の前で起こったできごとに戸惑っているからだ。小さいころから幽霊は怖いものだと信じきっていたのに、美香の姿をみたときには日だまりのような温かな優しさを感じていた。
「美香が?」
驚いて砂場の辺りに視線を巡らす幸宏の横顔をみつめながら三佳は頷いた。もう砂場には静けさだけが横たわっていた。
幸宏は意を決したように三佳の手をとってブランコから立ち上がり、美香の家へと向かって足早に歩いた。
二十五年の歳月を経たその家は、屋根はたわみ全体的に傾いてはいたものの、当時の面影を残したままひっそりと佇んでいた。もう何年も住む人がいないのであろう建物は、痛みが激しく、花々が咲き乱れていた庭にも雑草が生い茂っている。
移りゆく時代の流れのなかでこの場所だけが取り残され、敷地全体に漂う空気は色彩を失っていた。古いアルバムの隅に忘れられた、セピア色に染まった写真を眺めているような感覚が、幸宏の胸をちくりと刺した。
幼かったころの美香との想い出が、スライドショーのように次々と目の前を流れては消えてゆく。あんな病気に身体を蝕まれていても、幸宏といる美香はいつも楽しそうに笑っていた。
今でも美香の笑い声が耳朶から離れないでいる。
いつまでも変わることなく永遠に続くものだと……。
溢れそうになった涙を三佳に気付かれないように、無人の玄関先で幸宏はわざと大きな声で「こんにちは」と声をかけたが、少し涙声になっていた。
気を取り直して咳払いをひとつすると、無人であるのは承知のうえで、幸宏は玄関先に立って背筋を伸ばしもういちど声をあげた。すぐ隣では三佳が成り行きを身守っている。
誰も返事をする人はいない筈なのに、幸宏には『はぁーい』という微かな声が聴こえたような気がした。その声は、遠い霧の向こうから伝わってくるような感じのものであった。しかもそれは耳朶から入って鼓膜を振動させる音声ではなく、心のなかに直接響いてきたといった方が正しいのかもしれない。
「えっ?」と声にでてしまったが、そんな筈はないと自分にいいきかせた。三佳はきょとんとした顔で幸宏を見つめている。
幸宏は引戸になっている玄関の扉に手をかけたが、鍵が掛かっていたためあけることはできなかった。いくら無人の家とはいえ、壊してまで入ると犯罪になってしまう。
幸宏は仕方なく雑草が生い茂る庭へとまわってみた。三佳も黙ってその後をついて歩く。
手入れが行き届き季節の花々が咲き乱れていた庭は、あの頃の生彩は見る影もなく荒れていた。誰が捨てたのか、空き缶やペットボトルがあちこちに散らばっている。幸宏はその光景に胸を引き裂かれるような痛みを覚えた。まるで美香との想い出を土足で踏みにじられたようにさえ感じる。
「ずいぶん長いこと、人が住んでいないみたいね」
三佳も荒れた庭に顔を顰めながら呟く。
幸宏は庭に面した小さな縁側にあるガラス戸越しに、薄暗い部屋のなかを覗いてみた。そこは幸宏と美香がよく遊んでいた居間だった。
カーテンも家具類もない部屋のなかは、荒れた庭に比べると想像以上にすっきりとしていた。外側や庭の痛み具合とは違い、内装に関しては少し掃除をすればすぐにでも住めそうである。
短い生涯とも知らず無邪気に遊んでいた美香の笑い声や母親たちの姿が、ガラス越しにぼんやりと浮かび上がってくる。
──ヒロくんのお嫁さんになる。
幸宏は先ほどと同じように、心の中に直接語りかけてくるような美香の声を聴いた。振り向くと、三佳も少し驚いたような顔をしている。
「美香ちゃんの声が聴こえた──」
「俺も聴こえたよ。二人とも聴こえたってことは、どうやら幻聴ではないみたいだな」
そういって二人の視線が居間に戻ったとき、それは現れた。
居間の中央あたりに陽炎のようなものがゆっくりと立ち昇り、幸宏たちの前を流れるようにガラスの戸を素通りして庭へと降り立った。
荒れ放題だった庭は俄に生彩を取り戻し、雑草が生い茂っていたはずの場所は、夏の日射しを受けて凛と咲くひまわりの花によって黄金色に輝きだした。
人知を超えたできごとに言葉を失ったふたりは、ただ呆然とその風景に見入っていた。
「見て──あれ」
三佳がそういって庭の中央あたりを指さす。
ゆらゆらと揺れていた陽炎がしだいにひとりの少女の姿へと変わっていった。長めのおかっぱ髪に小さなひまわりの花がプリントされたワンピース。それは三佳が公園の砂場で目撃した少女──美香だった。
「ミカ!」
幸宏は辛うじて美香の名前を呼んだが、すぐにひまわりの花と美香の姿は陽炎のように消えていった──。
これは夢のなかだ──という自覚はあった。
あの嵐のあった、遠い夏の日の病室に幸宏はいた。外は日射しを遮る暗雲が立ちこめているため室内は薄暗く、大量の湿気を含んだ空気が、開け放たれている窓から流れ込んでくる。
個室というには不釣り合いなほど大きな部屋であるにも関わらず、何故かベッドは一つしかない。それが美香の寝ているベッドであることは、最初から何故か承知していた。
幸宏はゆっくりとした足どりで、美香の寝ているベッドに向かって歩く。しかしベッドの上に美香の姿はなく、白い枕とシーツだけが空虚な部屋のなかでぼんやりと浮かび上がって見えていた。
全ての物が色彩を失いモノトーンの世界であるにも関わらず、窓辺の花瓶には小さなひまわりが黄色い花を咲かせていた。
幸宏がひまわりの花に触れると、一枚の花びらがその手のなかに落ちてきた。しばらくその花びらを眺めていた幸宏は、誰もいないベッドを振り返った。
ふいに涙が溢れ出し、幸宏は手のなかの花びらをかたく握りしめた。
──何かが聞こえる。
ゆっくりと覚醒し始めた意識のなかで、それが駅のホームに流れるアナウンスの声だと認識するまでにかなりの時間を要した。
幸宏は、早朝の中目黒駅のベンチで目覚めた。昨晩の雨はすっかり止み、広がった真夏の青空から強い日射しが照りつけていた。
始発電車がゆっくりとホームに滑り込んで来るのが見えた。
幸宏はベンチから立ち上がり、両手をあげて背筋を伸ばした。そのとき、手のなかに何かを握っていることに気がついた。
握った右手の拳をしばし見つめ、ある確信とともに手のひらをゆっくりと開いてみる。そこには夢のなかでみた、一枚のひまわりの花びらがあった。
──ミカ。
二十五年という長い歳月を飛び越え、『ヒロくんのお嫁さんになる』約束をはたしに、美香
は幸宏の夢のなかに現れた。
幸宏はひまわりの花びらをかたく握りしめ空を見上げた。涙で濡れた瞳のなかに真夏の白い雲がぽっかりと浮かんでいた。
今日も暑くなりそうだ。
(了)
2012年8月14日 発行 converted from former BCCKS
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1962年東京生まれ、神奈川在住。
暇つぶしのための読書から、いつのまにか執筆活動に入り、10年の歳月が流れる。
他に「光の巫女」(文芸社刊)がある。
注:表紙の写眞はSkyseekerさんのHPより借用しております。
http://www.skyseeker.net/