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mituko宝の百年+2

だいこんママ作

だいこん出版



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99才になった母への プレゼント

母は元気に、神戸の実家で兄の家族と暮らし、
2009年に99歳の誕生日を迎えました。
何かしてあげたくて、100枚のカードを創り贈りました。
昔を懐かしんで、来訪者との話のきっかけになり、
楽しいひとときが過ごせるように願って…。
その後、カードは102才まで贈ることができました。

人は1分でも1秒でも長生きすることが尊いということを、
私自身も含めて、
すべての人と共有したくて、本にしました。

大阪の道頓堀に生まれる。

明治43年頃の、道頓堀は、こんなだったかしら。
家は酒屋をしていたというから、
にぎやかな商店街だったかな。


どんな赤ちゃんだったのかしら。
店が忙しくて、
あまり遊んでもらえなかったかもしませんね。

弟が生まれる。

18才の兄との三人兄弟になりました。
男兄弟の中で、女ひとりだったら、おてんばだったかもしれません。

こんなにおとなしかったかどうか分かりませんが
たぶん、元気な子で、
お店の中を走り回ってたかもしれません。

お兄さんが結婚する。

日本が第一次世界大戦に参戦した年なので、
どんな結婚式だったか分かりませんが……。

10才ぐらいまでは
日本舞踊や三味線を習っていたそうです。

道頓堀は夜遅くまでにぎやかで
帰るのを忘れて遊んでいて
お母さんに、閉め出されたそうです。
近所のおばさんが
「開けてあげて、みっちゃんあやまってはるのに」
といってくれて、
やっと家に入れてもらったそうです。

一段飛びという遊びです。
ふたりで紐の端を持ち、その紐を飛び越えます。
もっと高い、背の高さ以上の紐も、
くるりと飛び越えたそうです。

お父さんが亡くなる。

おじゃみ(お手玉)遊びです。

学校の体操時間は、
はかまの裾を紐でしばってしたそうです。

お母さんが亡くなる。

お兄さんの子どもをおんぶして、子守りをしながら
家の用事をしたので、あまり遊べなかったそうです。
友達のように、長いお袖の着物も着たかったし
お芝居も観に行きたかったそうですが、
辛抱し、平気な顔をしていたらしいです。

両親の死後、兄夫婦が酒屋を継ぎ、
朝は先に起きて米をとぎ、かまどの支度をし、
お弁当はいつも、冷やご飯に、
とろろこんぶと梅干しだったそうです。
でも、ちゃっかりと
店のお金(五銭)を失敬して
学校のむかいのパン屋で、お菓子を買って食べたそうです。

学校の成績は良かったそうです。
女学校へ行きたかったけれど、行けないので。
進学の勉強をしている子が、うらやましかったそうです。

関東大震災の被災者に、
いろんなものを送ったそうです。

尋常高等小学校を卒業して
裁縫教室にかよったそうです。

お兄さんの子供と、おつかいに行ったりしたのかな。

お父さんの知り合いの家へ、女中奉公に行き
行儀なども教えてもらったそうです。

昭和天皇が即位されたおまつりで
お稚児さんのお供をして歩き、
その時、お伯父さんに出会ったことがきっかけで、
私の父になる人との、縁談の話が出たそうです。

当時の写真から描きました。
お見合い用に、写真館で撮ったのかしら。

結婚する。

大阪で式を挙げ、花嫁姿のままで
まだ新しい国道2号線をドライブして
神戸に着いたそうです。

新婚時代は、
食後海辺へふたりで行き、父がハーモニカを吹き
母が歌っていたそうです。

長男が生まれる。

始めての子供で、可愛がられたでしょうね。

この頃の写真は何枚か残っています。
父が写真を撮り、
現像も、押し入れを暗くして自分でしていたそうです。

次男が生まれる。

お父さんとどこかにお出かけかしら。

京都のあたご山にスキーに行ったそうです。
沢山の雪に感激したけれど、
変な格好なので犬に吠えられて困ったそうです。

長女が生まれる。

始めての女の子で、きれいになるようにと
卵で顔を洗って、じんましんになったそうです。

次男が三輪車であそんでいるスナップ写真です。

おじいさんおばあさんと子供たちで記念撮影です。

金属製品の供出がはじまり
炊事、洗濯など日常生活でも
「節約」が呼びかけられたようです。

衣服もモンペが一般的になりました。

次女が生まれる。

野菜などを作って、食料不足をおぎなってたかな。

食料の配給制度がはじまりました。

我が家から出征した人はいませんでしたが。
町内で出征兵の見送りがあったころです。

学徒動員で勉強より農作業をすることが多かったようです。
長男もこうしてしたのかしら。

空襲警報がでると、大事なものを乳母車に積んで、
次女の手を引いて防空壕に逃げたそうです。

長女は学童疎開しました。
母は少しの食べ物を差し入れに行き、
木の陰で、そっと渡したそうです。8月15日に終戦。
我家は窓ガラスが割れたぐらいで、家は無事でした。

戦後は、食べる物もろくになく
厳しい食卓だったようです。

配給といっても、
お米の代わりにタクアンの時もあったそうです。
母の記憶では、タクアンなんですが、
長女がいうには、他のものだといいます。

ミシンで毎晩夜の2時ぐらいまで仕事をしたそうです。
洋裁は我流だけれど評判が良かったので、
忙しかったようです。

三女が生まれる。

いよいよ、私が登場しました。
母乳が出なくなり、おもゆで育てたので、
「死んでるんとちゃう」と言われるぐらい
痩せてたそうです。

中学校の運動会で長女に抱かれる三女の私。

パン屋で雑用の仕事をして働いていた。
夕方になると、
母がいろんなパン(こわれた形のもの)を
持ってかえってくれました。

姉たちが学校に行ってる間は
おじいさんが私の子守りをしていたそうです。
おじいさんとおばあさんが
手作りのおもちゃを作ってくれたのを覚えています。

お姑さんが亡くなる。

この頃は、家の周りにも空き地が多くあり、
道も舗装はされてないので、
地面に字や絵を描いて遊べました。

お舅さんが亡くなる。

子供の頃はほとんど母の手作りの服でした。

両親と姉と一緒に、記念撮影しました。
「あっ!」私は何をしているのかしら?

父が小さい養鶏場をしていたので
エサをやったり、卵の配達も手伝っていた。

我が家にテレビが来たのは遅かったので、
銭湯に行くときは、
見たいテレビ番組にあわせて行き、
テレビを見てからお風呂に入りました。

夫が亡くなる。

この年の暮れに父が亡くなりました。夏には、部分日食があり、
(当時は)ガラスにロウソクのススをつけて太陽を見て、
昼間なのに真っ暗になって、驚いたのを覚えています。

皇太子(平成の天皇)ご成婚パレードのテレビ中継を、
近所の家で友達と見ました。

長女が結婚する。

新居は近くだったので、よく遊びに行きました。

次男が結婚する。

母は近くの家で家政婦の仕事をしていました。

長男が結婚する。
初孫、2人目の孫が生まれる。

中高生の頃は、姪(長女の子供)とよく遊んでいました。

国道43号線が開通しました。

私が小学生の頃は、まだ国道はなく。
予定地にある家の立ち退きの様子を見ながら通学してたのが
完成したのです。
社会人になってからは、通勤路になりました。

そして、あの阪神淡路大震災のとき、
信じられないことが起こることになります。

東京オリンピックが開催されました。

3人目の孫が生まれる。

神戸のみなと祭で走る花電車です。

次女が結婚する。
4人目の孫が生まれる。

ビートルズが来日しました。

神戸開港百年祭、
こうべカーニバルで踊るサンバチームです。

5人目の孫が生まれる。

始めての内孫で、大喜びです。

6人目の孫が生まれる。

アポロ11号が月面着陸しました。
小さい頃、夜空を見上げたとき
月ではウサギがお餅をついていると思っていたのに、
この時から月は、人間が実際に行くことのできる
天体の一つになってしまいました。

7人目の孫が生まれる。

内孫は二人になりました。大阪では万国博覧会が開催されました。

第一回 神戸まつりが開催されました。

母は折り紙でいろんなものを作り、
多くの人に差し上げていました。

8人目の孫が生まれる。

オイルショックで
トイレットペーパーや洗剤の売り切れが相次ぎました。

実家を立て替えました。
当時、神戸は地震がないとだれもが思っていた頃だけれど
長男は地震に強い家にしました。
この兄の堅実な選択は、後の阪神淡路大震災で
家族の命を救うことになります。

三女(私)は、仕事が忙しくなり帰宅が遅くなりました。
母は起きて待ってくれて、夜遅く鍵を開けてくれました。
母は、心配で眠れない夜が続いたといってます。
ごめんなさい。

孫に、折り紙でいろんなものを作ってあげてました。。

NHKのテレビドラマ「風見鶏」で
神戸北野町の異人館ブームがはじまりました。

私も、異人館や港は好きで、よくスケッチにも行ってましたが、
このブームで北野町の街並が一変し、
多くの観光客でにぎわうようになりました。

孫は長男に似て植物や小動物などが好きで
熱帯魚の難しい名前なども教えてくれたそうです。

長男はいろんな野菜をつくっていたので、
珍しい野菜が食卓にのることもよくありました。

そして、母は時々草取りをしていたようです。

この頃、三女(私)は毎年個展をしていたので、
母も見に来てくれました。

神戸のポートアイランドで
「ポートピア’81」が開催されました。

新聞の折り込みチラシを利用して
鶴や亀、箱などを作っていました。

三女が結婚する。

末っ子の私もやっと結婚しました。
このとき母が73才だったことをおもうと
大変だっただろうな。と、今になって頭が下がります。

9人目の孫が生まれる。

母の年を考えると、
「抱くだけなら出来るけれど、
抱いたまま立ち上がることは出来ないよ。」
と言ったのが納得出来ます。

初めてのひ孫が生まれる。
10人目の孫が生まれる。

阪神タイガースが初の日本一になりました。

食事の後片付けをするときは、
手製の肘あてをして、流しに肘をつけてしていました。
「腰が曲がっても、こないしたら、なんぼでもできる」
といいながら平気にこなしていました。

2人目のひ孫が生まれる。

毎年、お正月には、
嫁いだ娘たちが、孫を連れて集まるようになりました。

神戸グリーンスタジアムが完成しました。

3人目のひ孫が生まれる。

ベルリンの壁が崩壊し、
東西ドイツは一つのドイツになりました。

母は、超ミニ折り鶴に挑戦していました。

小さい折り鶴を次々に作り始めて
孫と小ささを競い合い
ついに、一辺が1㎝角のおりがみで作りました。

三女(私)の嫁ぎ先のお姑さんと
趣味が合って、折り紙の情報交換に夢中になっていました。
地下鉄、市バスなどを乗り継ぎ、訪ねて来ました。

神戸ハーバーランドモザイクが完成しました。
JR神戸駅周辺は見違えるように新しくなり、
どんどん変わっていく神戸に世代交代を感じました。

6人目のひ孫が生まれる。

お正月などは、孫たちに囲まれて、にぎやかです。

三女が家族で北海道に移住。

私だけが、遠く離れた北海道に行きました。
母にしてみれば、
北の最果てへ行くように感じたかもしれません。

7人目のひ孫が生まれる。

1月17日に阪神淡路大震災が起こりました。
実家は阪神高速が倒れた所から徒歩で10分ほどの所ですが
住宅の被害はなかったそうです。

私たちは前年に北海道に移住していたので、
テレビのニュースを見て、ただ心配していました。

8人目のひ孫が生まれる。

内ひ孫なので、にぎやかになります。

母が普段着る服は、
家族の不要になった衣類などを利用して、
腰の曲がった体型に合うように、
そして脱ぎ着がし易いように工夫して作り直し、
愛用していました。

9人目、10人目の
ひ孫が生まれる。

米寿のお祝いを有馬温泉でしました。
娘、息子、孫、ひ孫が集まりました。
母も疲れを見せないで夜遅くまで、元気に楽しみました。

高齢者用手押し車で、近くの公園に行き、
お年寄りたちのおしゃべりで、ひとときを過ごします。
母はその中で最高齢だそうです。

携帯電話に初挑戦しました!

次女が携帯電話をプレゼントし、
手書きの使用説明書も作ってあげました。

初めは、ひらがなばかりのメールでしたが、
そのうちに、漢字も句読点も使ったメールが届くようになりました。
2、3年間は使いこなしていました。

9・11 アメリカ同時多発テロが起こりました。

え? こんな事が現実に!
唖然としました。
これほどまで憎しみ合わなければならないなんて、
絶対に善くないことです。

胆石で入院しました。

今までは風邪薬一つ飲んだことがないのに
病気になったことが、ちょっと悔しかったようです。

「いってらっしゃい!」
幼稚園へ行くひ孫を見送ります。

この年母は、胆のうが化膿して入院しました。

白内障で入院しました。

11人目のひ孫が生まれる。

右足大腿骨骨折で入院しました。

玄関で座るように転んだそうですが、
骨折していたそうです。

長男が亡くなる。

自宅で薬と食事療法をしながら、
入退院を繰り返していましたが、秋に亡くなりました。

週に2回のデイサービスは、
帽子をかぶってちょっとおしゃれしてお出かけです。

骨折以来、歩行器や車いすを使うようになり、
お風呂もデイサービスで入れてもらうそうです。

12人目のひ孫が生まれる。

夜は兄嫁が母の横で寝るようにしてくれてます。

お姉さんも足の具合が悪く、
急に何かあっても飛んで来れないからだと思います。
ありがとうございます。感謝しています。

今年の春、ひ孫が小学校の卒業式の日、
スーツ姿であいさつに来たそうです。

母は、成長したひ孫を見て、
みんな達者であるようにといってます。

元気に100才をむかえました。

関西に住む兄や姉たちは、誕生日の日に実家にあつまって
孫の作った手作りケーキでお祝いしたそうです。

13人目のひ孫が生まれる。

年の差100才のひ孫の誕生です。
母から、お祝いのメッセージが動画メールで届き、
100才から0才への記念すべきつながりになりました。

3月11日の東日本大震災について、
「地球も年いってるから悪くなるやろ」といったそうです。
一世紀以上生きた母の実感のようです。

4月に、孫の家族が帰省し、
年の差100才のひ孫と会うことが出来ました。

去年は、ひ孫がつたい歩きをすることを訊き、
「私と一緒やね」と言っていましたが、
ひ孫は歩くようになり、母は車椅子が多くなり逆転です。

亡くなる13日前に孫が訪ねた時、
自分の手で瞼を開けて、ピースサインをし、
撮影に応えてくれたそうです。


お母さん、長く生きてくれてありがとう。
ゆっくり休んでください。
あなたの、いつも前向きな姿勢は、私の励みになりました。
本当にありがとう。

あとがき

 母に何かしてあげたいと思ったのは、2005年・母95才のときです。
 元気だけれどすることがないと言う母のために、北海道に住んでいてもできることを考え、孫とともだちになる・家族新聞「孫TOMO通信」を創ろうと思いました。
 ところが私は、母から送られてきた挿絵付きの原稿をそのままにして、他のことに夢中になっていました。
 見かねた夫が長女に手伝わせて完成させ創刊号はできたものの、その後は続きませんでした。

 その4年後・2009年に、私は生まれて初めて手術を経験しました。
 病気をきっかけにして、生きることや細胞のことなどを真剣に考え、人の役に立つ絵が描きたいと思うようになりました。
 無事退院し、普段の生活に戻ってから、以前とはまったく違うモチベーションで、母のために何かしてあげたい。毎日を無駄に過ごしたくないとの思いがつのり、母の誕生日までに100枚のカードを創ることを決めました。

 まずは資料集めですが、99才の母に再度原稿を頼めるかしら?と迷いながら訊いたところ、しっかりした字で書いてくれました。
 関西に住む姉たちにも協力してもらい、電話で何度もやりとりして楽しい作業になりました。
 母の生きた一世紀の歴史を調べながら、年に一つの絵を決めていき、100枚のカードを仕上げました。

 その後は毎年一枚、そして102才までカードを贈ることができました。

 そして、このmituko「宝の百年」を作ることが出来た大きな要因は、実家で介護してくださった義姉と家族のお陰だと思っています。
 私も義母と同居していましたので、当事者にはこんな余裕がないのがよく分かります。だから介護者のためにもなにか役立てないかしらとの思いで、母を励まし感謝を伝えることが大事だと思いました。この場を借りて、実家の皆さんにお礼申しあげます。

 年に一つのエピソードというのは、多くの出来事があった年や情報が全く無い年などいろいろで、どの程度母の意にそえたか分かりませんが、冠婚葬祭を手がかりに思い出が広がったのではと想像します。
 これは普通の庶民の貧しい生活ですが、母のコツコツ生きてきた姿が私を勇気づけてくれます。102才になってからも、ショートステイで計算ドリルなどをしていたようです。最後まで努力していたのが嬉しくて、母の折った折り鶴で飾って大事にしています。

mituko「宝の百年」展

 2009年に、大阪の「ティールーム&アートギャラリー・エムズ」で、mituko「宝の百年」展を開催しました。
 この展覧会には、たくさんの方が見に来られて、多くのコメントを残してくださいました。その一部をご紹介します。

 ・すばらしい宝の人生ありがとうございました。
 ・心がほっとしました。ありがとうございました。
 ・私もあやかりたいです。94才
 ・大変素敵な記録&作品ですね!感動。
 ・亡き母を思い出します。とてもすてきでした。ありがとう。
 ・お母さんの元気を少し分けてもらって、これからも元気で…
  90才で携帯挑戦はすごいネ!

孫とともだちになる
家族新聞「孫TOMO通信」

 子どもより孫が可愛いと言うのは当たっていると思い、孫とのつながりが密になるように、母が主役の「孫TOMO通信」を考え、10人の孫たちに郵送しました。これをきっかけに感想などが母に届き、楽しみが増えるといいなと思ったからです。

「孫TOMO通信」創刊号

 当時九十五才の母は、長文の原稿を書き送ってくれたので、母の文章だけで仕上がりました。といっても、私は何もせず夫と長女が完成させたのですが。

「孫TOMO通信」第2号  九十九才おめでとう特集

 昔の写真をもらったので、母や父の若い頃の写真を載せました。日本髪姿に一世紀の隔たりを感じます。
 そして、製作過程の裏話なども載せました。


「孫TOMO通信」第3号  百才おめでとう特集

 実家で同居している姪が母の写真を撮って送ってくれたので、特大号になりました。原稿は母も少し書いてくれましたが、同居して世話をしてくださっている義姉がほとんど書いてくれました。
 100才のお祝いは、母へのおめでとうの気持ちより、義姉への感謝の気持ちが大きく、家族の思いやりの大切さを感じました。そして参考になるように介護に関する記事も引用して載せました。

mituko宝の百年+2

2011年6月9日 発行 converted from former BCCKS

著  者:だいこんママ
発  行:だいこん出版

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だいこんママ

1994年に家族で神戸から北海道に移住し、大自然の中でイラストなどをを発信しています。

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